エリクサーを巡る断片

 2017-02-14
 

 ■ヴォイトレ続けていますが、ちょっと記事の統一性確保のために、いったん最近の歌関係は非公開に設定いたしました■






 さて、今回の記事タイトル「エリクサー」とは、一種の伝説的な万能薬で、これを服すれば不老長寿になる、いかなる病も治癒するというものです。ゲームのファイナルファンタジーシリーズでも、HPを回復するアイテムとして登場したと記憶していますが、その語源はイスラム錬金術にあるようです。詳しくは→wiki 

 では、実際にエリクサーは存在するのか?

 という問いを人類は長いことしてきたと思います。

 秦の始皇帝が幻の仙薬を求めて徐福をつかわせたことは有名ですが、数多くの権力者や大富豪、あるいは魔術師、神秘主義者、近代になっては医師、治療家がごく真剣にそのような魔法の霊薬を求めてきたと思います。

 僕には、そのような薬剤がケミカルに開発され得るかということに対しては、正直わかりませんが、『それ』はおそらくすでに実在していると思います。

 時々読ませていただいている、in deep というオカさんという方のブログで、ブルース・リプトン著「思考のすごい力」(the biology of belief)という本を知り、購入してだいたい読み切りました。





 著者のリプトン博士はスタンフォードやウィスコンシンで教鞭をとる細胞生物学者のようです。
 生物学者の観点から、思考やスピリチュアルな力が、細胞レベルに及ぼす影響などについて書かれています。

 その中の一章に「心は薬よりも力がある」という章があります。

 このタイトルは、医学で言われるプラシーボ効果について言及したものです。

 現代医学で使用されてる薬は、ケミカルなもので、それが体内で反応することによりいろんな病気の症状が抑えられます。
  しかし、薬には「治る薬を飲んだ」という認識が、実際に症状を好転させてしまうというプラシーボ効果が必ず存在します。 

 2002年、なんと抗鬱剤の効用は80パーセント以上がプラシーボであるというデータを載せた論文が発表されました。
 これによると、主要な6つの抗鬱剤の臨床試験においてその効果はシュガーピル(つまりプラシーボ)を用いたものとほとんど変わらなかったそうです。
 このような例は、抗鬱剤に限らず、すべての医療行為の周辺に存在するのではないかと思います。

 なんだか頼りになるお医者さんの顔を見たら、風邪のしんどさが軽快したとかいうことだとか、お母さんに痛いの痛いのとんでけーしてもらったら、痛くなくなっただといか、というようなことを含め

 著者はこのプラシーボ効果は、心(信念)自体が病を軽快させる力があることにより起こると考えています。

 僕が思うにプラシーボ効果には「儀式」が必要です。
 ある意味、その儀式内容はなんでもかまいません。

 お遍路をする、加持祈祷を受ける、リフレクソロジーを受ける、気功治療を受ける、パワースポットに詣でる、

 なんでも、それを「信じてさえ」いれば、プラシーボ効果をつまり自己治癒力を発現させるきっかけになると思います。 
 現代の医学では、その「儀式」が薬剤や手術だということになります。
 なんだか人間は、時代を越えて、神殿や病院や聖地の周りをまわりながら、外側のパワーという幻影によって自己治癒力を発現させてきたんだなと思うと不思議な気分になります。

 「儀式」そのものにまったく力がないというわけではありませんが、もしかすると、「儀式の効用」:「プラシーボによる自己治癒力の発現」を比較した場合、その比率は普通に考えられてる以上に、自己治癒力の比率が高いのかもしれません。

 普通は儀式10:自己治癒0と考えますが、この比が6:4とか、もしかすると5:5・・・それ以上という可能性もあるのでしょうか。

 ところで、「心は薬よりも力がある」という言葉、じっとこれを考えてると、「それは確かに、そうだよなー」とつぶやいていました。

 この著者は主に、信念が体に及ぼす作用はすごい、という文脈でこの言葉を使っていますが、

 このブログで何度も書いている、アニタ・ムアジャー二さんのケース。



 臨死体験後、数日で末期の末期だった全身に転移していた癌が、「完全」に「ひとりでに」消えてしまったというケースがあります。
 アニータさんは悪性のホジキンリンパ腫のステージⅣBでした。
 レモン大の腫瘍が全身にあり、肺にたまった水で呼吸ができず、腫瘍による血流障害のため顔全体が風船のようにはれあがった状態だったのです。
 それが、愛とエクスタシーにみたされた臨死体験を経て、意識を取り戻したあと、数日でまったく消えてしまいました。
 このケースはあまりにも奇蹟的であったため、コー医師という人によって徹底的に調査され、世界中のがん研究所に報告されていますが、同じような事例はひとつもないそうです。

 アニータさんは著書の中で臨死体験で経験した、「無条件の愛」の気づきが病を癒したと語っています。

 「心は薬よりも力がある

 この言葉を(信念だけではなく)広く解釈して、心、つまり精神的(spiritualな)なものは、薬よりも効果があるとするなら本当にまったくその通りだと思うのです。こんな風に奇蹟的な治癒を可能にする薬剤は存在しません。
 
 人間が求め続ける、霊薬「エリクサー」。

 それは一言で言うと、宇宙や神の属性である、「無条件の愛」だということになります。


 愛のない生涯は価値がない
 愛は生命にとっての水
 全身全霊を傾けて飲み干しなさい

                              ルーミー


                            




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Spirituality と、その他の欲求(必要性)③

 2017-01-09
  (続き) そのことでちょっと思うのは、ミドルからトップ部分の欲求を充足させるマニュアル、あるいは処方箋というのはたくさん出回っているということです。

 心身の健康で言えば、ヨガやピラティス、気功、その他の運動、各種食事法、各種セラピー、ヒーリング、薬剤、

 愛情欲求であれば、どうすればモテモテになるかというようなものから、対人関係の築き方、運命の人と出会う方法、

 自己実現‐自己超越であるならば 各種成功哲学、各種組織宗教、人生論、など様々です    

 個人的には、霊性、心身の健康、愛情・人間関係、豊かさ、ライフワーク、楽しみ・趣味 などの部分にトータルに意識的であることがバランスよく生きるために必要ではないかと思うのです。
 よく言われることですがどこかの部分が他よりも整っていないと、そのより低い部分のレベルに応じてしか人は生きることはできないという・・・これは事実ではないでしょうか。
 
 非常に有能な人でも、インナーチャイルドが常に泣いていると、私生活で人間関係を築くのが難しくなります。からだのエネルギーが低すぎると、天才的アイデアがあっても思うように動けません。
 霊性があまりに閉じていると、肉体と物だけがすべてで、互いにバラバラに意味なく存在しているということになり、限界ある物質的次元でしか物事を考えることができません。
 そのようなことですが。

 ですので、仮に人生学校のようなものをつくるとすれば、ホリスティック(全体論的な)なアプローチが必ず必要になってくるはずです。現代の学校教育で教えられるものは、かなり局所的な人生の断片なので、いろいろな弊害が生まれてるところがあります。

 でも、こんな風に情報自体はたくさん出回っているので、自分にあったもの(足りないもの)を取捨選択する能力があれば、バランスをとりもどして全人的なありかたを目標に生きていくこともできるはずです。

 ただ、これらはすべて現在の経済システムのボックス内でうまくまわることができる「商材」でもあり、そのため流通に乗りやすい性質があるものかと思います。それ以外のものは盲点に入って見えにくくなるのですが、それがピラミッドのボトム部分、呼吸であるとか、食、そして安全などです。

 まだまだこの国では、どうすれば食べ物を得られるかということよりも、どうすればお金持ちになれるか、どうすれば人気者になれるかという類の情報の方が魅力的に映ります。

 というのは、とりあえずはスーパーにでもいけばなんらかの食べ物は低価格で売ってるからですね。
 同じようにシリアとか、最近テロがあいつぐトルコ、ヨーロッパなどに比べると安全感もまだまだあります。

 だからどうすれば、食べ物を得られるか、どうすれば平和でいられるかということにはまだそこまで欲求がたかまりません。

 でも、ここんところ庭で野菜つくったりしてる人は増えてるみたいですね~ 
 僕も前の家ではじゃがいも植えたりしてましたけど、
 自分の部屋の真ん前の地面で食べ物が成長してるっていう感覚は、結構わくわく感がありました。
 庭がなくてもベランダでプチトマト作ったりとか、っていう方も多いみたいで、楽しそうです。

 師匠みたいに、コミュニティファームを作るというビジョンを持ってる人も多いでしょうし、水面下では単に売ってるものを消費して食べる生活から、自分たちで栽培したものを食べる生活に移行したいという<必要性>が動き出しているのかもしれません。

 僕は食べ物のように、「平和(安全)」も自給できる時代に入っていくことが必要だと思います。 
 どうすれば「安全・平和でいられるか」を説いた処方箋はほとんどないと思います。
 というのは、一般的認識として、平和というのはたまたま与えられているという感じだからなのでしょう。
 そして実際問題として、多くの人にとっては、戦後60年以上にわたる平和は「たまたま」なのだと思います。
 そうでなければ、安全保障とかそういうことではなしに、「外敵から身を守ることによる自国の平和」という、そういうレベルだけではなく、本当の「平和」とは何かという積み上げられてきた思索が一般に浸透しているのではないでしょうか。

 二発の原爆を体験した国として、僕らは本当はそれくらいの哲学は持っていてもよいかと思います。

 そして3・11を境に「安全感」が徐々に劣化しているような気がします。
 それは本当に少しづつ進行しているので、気づかずにいることもできるかもしれないのですが、「安全」が「とりあえず安全」とか、「ただちに危険はない」とか「ひとまず平和」に変わってきてます。

 だとすれば、日本人全体の欲求ピラミッドの土台部分がかなり不安定になっていることを意味します。

 どうも僕にはたびたび起こる嫌な事件や、社会になんとなくただよう「おかしさ」の原因のひとつはそれではないかと思えます。やっぱり立ってる土台が揺れてると、行動も考えも若干変になると思うんですよね。
 「安全感」を前よりも感じられなくなってきている、そこからいろいろなことが発生してはいないだろうかと。
  ヨーロッパ、そして日本でもみられる右傾化傾向は、失われた安全感への代償欲求なのかもしれません。
  この代償欲求が、お金や、他への攻撃や、支配や、従属やら、性やらにむかうと全体的に意識レベルが低下します。

  不安だからみんなでより集まり、意志を同じくして、一丸となり、外敵と戦うぜ! ということは一時的な解決にはなりますが、結局どの国もそうなると最終的にバラバラ、そして戦争になることは避けられません。  

 こういう時代に合って、首都直下地震の可能性もある関東に生きつつ、いつのまにか失われつつある2011年以前の日常感、安全感を充足させるにはどうすればいいのか。
 
 うーん、これは人によって答えも違い、簡単にこれという解答は思いつかない難問です。
 どう考えようと3・11以前の日々は失われたというのが、僕のからだが感じている感覚です。
 日々瞑想してこころの平和を!とかそういうことだけでは答えにならない部分がやっぱりある問題ですね。
 まーした方がいいとは思いますけど。
 人によっては瞑想中に西日本のほうへ移住しようと思うかもしれないし・・・・・いろんな選択肢があります。
 
 ただ戦争なき安全ということで言えば、結局答えは「霊性」にしかないような気はします。
 逆に言えば、僕らが霊性に目覚めない限りは、戦争はあるでしょうし、その他大小さまざまな争いは地球上で継続され、それによって不幸になる人がいるという現実はかわらないでしょう。

 欲求のピラミッドのボトム部分にある、安全感を担保するために、上層部にあるであろう「霊性」が必要というのはちょっとパラドキシカルです。
 衣食足りて礼節を知る、しかし、衣食足りるには礼節が必要なり、みたいな・・・そういうとこもありますが。

 霊性は安全必要→安全は霊性必要
 本当にそうだとすると、大昔から人類は動物状態のままであったと思います。
 成長の土台となるある程度の平和さを保つために、 きっと大昔から、現在に至るまで大いなる存在が平和を維持してくれていた部分もあると思います。僕らより進化した存在が土台部分を支えてくれていたと考えれば説明つきます。

 でも、「食」と同じように「安全」も自給できるような責任性が、今後は必要なのかなと思いました。

 
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Spirituality と、その他の欲求(必要性)②

 2017-01-07
  (続き)

  さてこれなんですが

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  米国の心理学者アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって成長する生き物である」という仮定のもとにつくりあげた、モデルの図として大変よく知られています。   

 見ただけでだいたい意味がわかるので、詳細な解説などははぶかせていただきます。というか、僕もマズローの原典を読んだわけではないのでパーフェクトに理解してません。 

 まー下から上に向かってだんだん欲求が進化していく感じ?(雑すぎる解説ね)

 これ見ると、安全欲求が満たされていないと、社会的欲求は出てこないのか?とも思いますが、マズローによると、というかウィキペディアによると、ある程度の充足があれば次の段階の欲求へと進んでいくらしいです。

 僕はこの階層モデルが正しいのか、ちょっと疑問点も多々あるのですが、人が求めるものを図示したものとしてとてもわかりやすいと思います。

 昨年に読んだヨガナンダの成功哲学の本に、こんなことが書かれていました。






 「成功を求めるなら、人は単に欲しいものではなく、真に必要とするものに集中しなければなりません

 (中略)

 あたなたのなければ困るという真に必要とするものは何か。

 身体、心、魂のための食物、家、繁栄、健康、集中力、記憶力、思いやりの心、友人、智恵、至福などは、人にとってなくてはならぬものです・・

 他者を霊的に幸せにするために、質素な生活、高邁な理想、内側の本当の喜びを育むこともまた真に必要なものです。 

 
・」

 このヨガナンダの言葉は、欲求のピラミッドのかなり広範囲、ボトム部分からトップ部分にまで及んでいます。

 人にとって欲は異なります。

 たとえば僕は車やバイクににほとんど興味がないので、金あったらフェラーリにのりてーなちくしょーとかは思わないんですが、お金があれば小型飛行機の免許とかはとってみたいと思うかもしれないです。

 山に登るのが好きな人もいれば、海の深みに潜ってみたい人もいます。建築設計に情熱を傾けられる人もいれば、どうすればオリジナルラーメンの味を高められるかで徹夜できる人もいるでしょう。こんな風に、違いを見れば人間ってバラバラなんですが、根源的欲求や必要性という点から見るとまったく違いはないとこの頃気づきました。

 すべての人が求めるもの それは自分や家族友人の

 ■心身の健康 

 ■ある程度の豊かさ

 ■愛し愛されること 

 ■自分の能力により世界に貢献できること

 この辺に凝縮されると言ってもよいのではないでしょうか。
 心あるラーメン屋さんは、お客さんにラーメンを食べて元気になってほしいでしょうし、心ある設計士さんは自分が設計した家に住む人がハッピーであってほしいはずです。

 自分は「病弱で、貧乏で、一人ぼっちで、役立たずなのが好きなんです」と心からいう人は皆無だと思います。 

 もしあるとすれば、うーん何か特殊な主義信条に従っているのか、超絶的M気質であるか?

 望まずそのような状況に陥って、「あー私はこの状況を受け入れ愛します!」と想うことはあると思います。でも誰も最初からそれを目指す人はいない、ですね。すくなくとも意識的には。

 無意識の信念、カルマ、成長のプログラムなどの部分で考えればまた違うのでしょうが。

 健康、愛、豊かさ、貢献、などこれらは欲求のピラミッドでは、ボトムの上~ミドル部分に対応すると思います。

 もしかしたらチャクラなどとも対応可能かもしれませんね。
 
 えーとそれで僕個人もボトム~ミドル部分をもう少し改善したいと思っております。

 さて、先日師匠が夜の集いで、「人間にとって一番大事なのは食うことっ!」と力説していたのを聴いたのですが、「食べる」はピラミッドの最ボトム部分。

 睡眠、性、などと並ぶ人間の3大生理的欲求のひとつです。他にも呼吸、排せつなど
 ここがないとそもそも生きていけないので、土台として一番大事といういい方は確かにできるかと思います。

 師匠の話しを昔から聞いていて、「食べ物は自分たちでつくるもの、この社会の立て直し方はそこからやるべきだと思う」という考えを知ってるのでそんなに違和感はありませんでした。

 それが結局、師匠のコミュニティファームづくりビジョンなどとも関係しているのだと思います。

 そのことでちょっと思うのは、(ここからこの記事の本題ですが)・・・

 ここでいったん終わりっ!w



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Spirituality と、その他の欲求(必要性)

 2017-01-06


  今年最初はまじめな文体で行こうと思います^^

本日は、自分にとってスピリチュアリティとは何かということを改めて考えていました。

  それで心の糧となった本を何冊か積み上げて、その共通点とか色合いというのを観察しました。

  悟りと言えば、インド‐ヒマラヤ系の書籍というのが多いかと思います。

  サイババ、ニーム・カロリ・ババ、ラマナ・マハリシ、ラーマクリシュナ、ヨガナンダ、ババジ、ヒマラヤ聖者、などなど

  そのあたりは自分も何冊かかじっていますが、この分野以外では

  臨死体験系 と ネイティブアメリカン系の数冊が近くの本棚に置いておきたいリストの中に入ってます。

  臨死系 『プルーフオブヘブン』 エベン・アレグザンダー『喜びから人生を生きる!』アニータ・ムアジャー二



  ネイティブ系 『グランドファーザー』 トム・ブラウン・ジュニア『ローリングサンダー』ダグ・ボイド 『太陽とともに生きる』ラモン&アリシア などです。



 さて、スピリチュアリティというのは何かということで、「オーラが見える」「霊感がある」「夢をコントロールできる」「欲しいものを引き寄せられる」「スプーンをぐにゃんぐにゃんにできる」ということを、スピリチュアリティではない!という気は別にないのですが、個
人的に考えるそのエッセンスとは次のようなものかと思います。    

 ■私の本質は意識体である(肉体ではない)という理解  

 ■すべての現象は根源の実在より、仮にあらわれているという理解

 ■「私(自我)」と「世界」を含むこの物理的世界は 宇宙的な錯覚、マーヤ(幻影)、バーチャルリアリティであるという理解

  ■私の本質はその、根源とひとつであるという理解 我即宇宙 or 宇宙を越えたもの

 ■恐れの超越、結果として恐れより行動しないこと 恐怖から愛へのシフト

 ■その<根源>を直接体験する以前には それを信じること 信仰

 ■智慧 愛 よろこび パワー 感謝 平和 笑い(超越的ユーモア)

 ■自他への優しさと理解、助け合い

 ■生命を敬う ガイア(自然界)との調和、共生

 ■「我神なり」の理解の付随物としての 超感覚的知覚 物質化 治癒 肉体の超次元化(イエスのアセンション)などの奇蹟 
 
 ■瞑想 祈り 静かな生活 マスターに会うなど、そこに至る方法論 

 大雑把にいって、このようなことが僕が重要だと思うスピリチュアリティのエッセンスです。

 臨死体験というのは、厳密にいうと、その体験にむらがあり全員が<我それなり>になるわけではないです。
 タイムトラベルしちゃったりとか、手術台に横たわる自分を天井くらいから見下ろしてたり、三途の川で死んだ親族にあうだけのこともあるでしょう。

 そうなんですけど、僕が昔から臨死体験ものを継続的に読んでいるのは、少なくとも「私は肉体ではない」「意識体、魂である」「そして死はただのブラックアウトではない」という体験があるからです。それが管つながれた自分を天井から見てるだけであっても、、、

 多くの人が語るそのストーリーが僕の中にある、死への恐怖や虚無感を治療的に癒す効用があるようで、20才くらいから、興味を持って読んでいます。少なくとも、付き合いだけで言えばヒマラヤ‐インド系聖者ものよりずいぶん長いです。

 まあ、「神」が気にならなくても「死」が気にならない人はいないので、信仰うすく知的な現代人にとっては入りやすいスピリチュアリティの入り口なのでしょう。

 こんな風にその個人とか時代感のニーズによって、どういう系に惹かれるかというのはかわってくるんですね。 

 袈裟みたいなのを着てアシュラムに鎮座するグルの話しはいかにもうさんくさく思えても、昨日まで普通の仕事をしていたお医者さんとか主婦とかが突然命の危機に瀕し、おどろくべき体験をした!という方がやはり現代では多くの人に訴えかけると思います。

 臨死系が死を恐れる心と共鳴し、癒すとすれば、それと同じようにネイティブアメリカン系というのは、自然を愛する心であるとか、都市型資本主義文明に適応出来ないとか、そういう部分と共鳴しつつ、とても深い命と大地の物語を垣間見せてくれます。 

 だから特に、スピリチュアリティに興味があっても特にネイティブアメリカンライフには興味がないというタイプはたくさんいると思います。そしてスピリチュアリティのエッセンスは<我神なり>であるので、頭に羽根を付けて火の回りで踊ったりしても、しなくても、袈裟みたいな服を着ても着なくてもどうでもいいのです。

 ただ、万物にスピリットを見ていたネイティブ系の思想・体験は、<神なし・分離した肉体のみ>の恐れによって狂乱している都市型資本主義文明のアンチテーゼとしての立ち位置、役割があるということではないでしょうか。そして僕らが生命ある生活へと回帰する道筋も暗示しているように思います。

 僕にはそのようなもの、死を越えたもの、自然に宿る神秘への欲求が内在しているようです。
 そのニーズが引き付けられるスピリチュアリティの色合いを決めています。

 ・・・・という風に自分が惹かれるスピリチュアリティに関して考えていた時に、昨年末のI師匠夜の集いで、I師匠が『人間にとって一番重要なことは、食うことだっっ!」と力説していたことなどを思い出しました。

 そして、よくいろいろなところでみかける心理学者マズローの欲求の階層構造が浮かんだのですが・・・・


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 ちょっと長くなりそうなので二回にわけたいと思います。

To be continued・・・・・




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謹賀新年

 2017-01-02


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Radio update 12/31 <場>の多重構造について アトランティスファンタジー

 2016-12-31

  今年最後に、一年の体験などをふまえて、喋ってみました。



  
  ■いろいろな<場>を観察する機会が多かった2016年
  ■ボイトレ先生のコラム 人間にひつような3つの場所 「帰る場所」「逃げ込む場所」「挑む場所」
  ■場の原型 家族 
  ■超個的な<場>
  ■意味的に共鳴する超個的な<場>と原初の<場>
  

  
  ↓こちらは秋ごろにアトランティスについて喋っています。かなり適当に喋りすぎて、人類の起源など若干不正確な部分がありますが、ニュアンスをくみ取っていただければ幸いです。

 




 ■アトランティス伝説の大枠
 ■どうしてアトランティスファンタジーは魅力的なのか
 ■歴史の虚構、未知の惑星
 ■宮崎アニメと失われた文明アーキタイプ
 ■タイタニックとアトランティスって・・?
 ■アトランティスのおもむきを残すと言われるアゾレス諸島
 ■ホピの予言 水により滅びた3つ目の世界
 ■久高島はかつて高地であった
 


                 ☆皆様 よいお年を~☆



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君の弱さ 渡辺美里

 2016-12-26
  

クレイジージャーニー、不思議発見ミステリーハンター竹内さんの会を見てると、突然そのころテーマで使われていたこの曲の歌詞を思い出し、驚いた。
 サビ歌詞「TIME 幾千年も君がいるから歩いて行ける」でググると渡辺美里の曲(1988年シングル)であることが判明。
 すごく、歌って残ってるんだなー

 世界中を、時空をかけめぐるこの番組にぴったりで子供心に夢をかきたてられた。
 渡部美里さんの声が力強く、今聞いてもいい曲。 

 29年間ミステリーハンターをされてるということで、時をかける少女?の印象ですが
 今では内戦で廃墟と化してしまったシリアのアレッポの平和な時代も取材されてるんですね。
 なんだか竹内さんの顔を見てると、突然、普段思い出すこともなかった渡辺美里の歌の歌詞が浮かんできたので、多分その頃もミステリーハンターだったのでしょう。

 しかし竹内さんすごいですね・・・50才には思えない。

 好きな食べ物はトマト(笑)





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Radio update 12/18 時の文化人類学について

 2016-12-18





今回の動画は去年の7月頃に収録しました。

 僕は旅をするのが好きですが、その理由のひとつは今いる場所を見つめる新たな視点を得ることができるからです。

 それほど遠くへ出かけなくても、奥多摩近辺の1000メートル程の山に登って下の世界を見下ろすだけでもずいぶん気分が変わります。あーあのかすみのかかったごちゃごちゃしたあたりでいつも健気に(?)生きてるんだなと思います。

 そしてもちろん、沖縄や北海道、海外に出かければもっと気分の変化は大きいでしょう。
 インドやネパールなどに行って帰ってくると、日本がとても清潔で静かに見えるかもしれません。
 しかし一方で、便利ではあるがとても管理化、商業化されていて窮屈に思える可能性もあります。

 どこからであれ、旅から戻ってくると自分の住まいが、部屋が以前と少し違って見えるのではないでしょうか。
 どこも違ってはいないはずなのに。
 それはきっと<新たな視点>を旅で仕入れることに成功した自分自身が変わっているからなのでしょう。
 <新たな視点>を得ると、ものごとが新鮮になり、またここで頑張ってゆこうという気持ちも生まれます。

 こういう意味で旅とは、どこか遠くへの移動であると同時に、新たな今この場所への旅ではないかとも思うのです。
 今いるここをもっと好きになるために、あるいは好きにまではならなくても違った目で見つめられるようになるために・・・僕らは旅に出るのかもしれません。

 旅とは空間軸を移動するものですが、時間軸についてはどうでしょうか?

 人は常に世代交代をして、過去のことは忘れ去られていきます。

 たとえば1941年12月8日の真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争は、1945年の8月15日に終わりました。

 1945年という歴史のポイントは、それを直接経験していない僕にとっても明瞭な輪郭をもって心の中に浮かび上がっている年です。しかし、この年を多感な10代の頃に経験した世代は、もう80代を越えており、今後どんどん少なくなり、やがて誰もその時代のことを「経験」として記憶している人はいなくなります。 

 仮にもし1945年という年が空間軸にあれば、パスポートをとって飛行機に乗ればすぐに行けるような「別の国」であれば、毎年おそらく何万もの人がそこを訪れ、『戦争の記憶を忘れてはならない!』と叫ばれる必要もないでしょう。

 しかし、もちろん実際のところ1945年は空間軸ではなく、時間軸にあり、一見「もう存在していない」かのように見えます。だから僕らは当時の記録を読んだり、忘却という普遍的現象と戦うことを求められるのです。

 でも、本当にそうなのでしょうか。1945年は、あるいは1960年は、80年は、本当にもうどこにもないのでしょうか?
 僕にはそれがまだどこかにある、あるいはそれらの記憶が完全な形で残っている次元というものがやはりあると思います。

 「歴史から学ぶ」のは思いのほか大変です。
 往々にして、歴史からの学びVS忘却は忘却が勝利します。
 そして、そのことにより歴史は円環的に繰り返します。

 どうして「歴史から学ぶ」は大変なのか。
 一言で言ってそれは、僕らの経験ではないからでしょう。
 歴史の資料には、その当時の生活実感が、色が、音が、風の匂いがありません。
 それらを再現するには思考力と想像力が必要で、もし再現できたとしてもそのイメージにはこんなキャプションがついてしまいます。

  「これは再現VTRであり、実際の映像ではありません」

 やはり人為的に作られた1945年は、21世紀版の1945年となることは避けがたいと言えるでしょう。

 たかだか70年前ですらそうなのですから、100年前、200年前、1000年前という「異国、異文化」に想像力でアクセスするのは大変難しいことに思えます。

 しかし、もし僕らがそんな「異国」を旅できる時の人類学者となり、その時代の物音を、色を、風の匂いを、体験できるならば。
 そしてその記憶を「今」へと持ち帰ることができるならば、僕らの「今」はどのように変容するのか。
 「今」の自分の生活への、社会への、周りの人たちへの思いはどう変わるのか、、、

 僕がとりとめなく考える、そんなもしもについて、喋ってみました。





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MISERY hide Toshi著『洗脳』より

 2016-12-11
  






  ハードなロックですが、優しく聞こえるメロディと声が印象的です。

XJAPANのhideさん、お名前はもちろん知ってましたが、曲をちゃんと聴いたことはありませんでした。

  Toshiさんの『洗脳』を遅まきながら読みまして、そこに描かれたhideさんのキャラクターに魅力を感じ、これまたかなり遅まきながら曲を聴いてみた次第です。






 『洗脳』はToshiさんがホームオブハートという団体の幹部メンバー、そして自身の妻から10年以上にも及ぶ肉体的、精神的虐待、金銭の搾取を受けることになった経緯と、そこからの脱却、復活の軌跡をつづったものです。

 奥さん自体が、もともとこの団体のメンバーで、どうやら指導者の愛人でもありToshiさんを引き込むため結婚した可能性もあるような感じで・・・
 入会後は奥さんからも日夜罵倒と暴力を受けることになるという

それが10年以上。よく生きてこられたと思います。

 ここまでひどいケースはあまりないとは思いますが、スピリチュアルなことに関心がある者としてまったく他人事ではないというか。こんな風に自分の人生を、そして心を捻じ曲げられるというのがどれほどつらいことか。

 どうして世間的な価値観に疑問を持ち、癒しを求め、自然な生活をしたい、シンプルに生きたいという願いがこんな形になってしまうのか。

 本文の最初の頃のエピソードを読んでて思うのは、著者は十分に、この団体はおかしい、セミナーには参加しない方がいいかもしれないということを直感的に感知していたのではないかということです。実際、最初のセミナーに参加する当日に熱が38度も出てしまうというのはこれは明らかに、からだか、本能か、何かがストップをかけているような感じを受けます。

 ところが、そんな状態のtoshiさんに、幹部メンバーから次のような叱責が飛びます

 「これがあなたの本質に出会う最後のチャンスです。ほんとうにもったいないことです。」

 「そうやってせっかくのチャンスを無駄にするのがあなたのいつものパターンではありませんか、本質に触れるのを怖がっているのではないですか、申し込んだ時点でもうセミナーは始まってるんです」

 
 このような精神世界独特の言い回しを駆使して、健全な拒否反応は、高次元のものに振れることへの恐怖や、今までの悪い癖に置き換えられてしまいます。

 そして横では妻の守屋氏も言います。

 「二人でいかなきゃ意味がない!」

 通常ならば、それでも自分の違和感を信じることもできるのですが、やはりtoshiさんがその時何かに非常にすがりたい心境であったということと、何よりも一番信頼してるはずの奥さんがすでに相手側のコマとして動いていて、強烈にプッシュしてきたとうのが大きいと思います。
 このような孤立無援の環境では、誰でもこのトラップから逃れるのは容易ではありません。
 奥さんを疑うというのは、自分の心理的足場がさらに崩れることになります。

 そこでいやいやながら参加したセミナーでは親兄弟への怒りをかきたてて、マットをなぐらせ、おもちゃのナイフで突き刺させる、(周りをすべて敵に変換する)、うつぶせにされて罵倒されながら背中をたたかれるなどという行為が数時間にわたって続きます。そして頭が真っ白になったところへ、絶対的な存在としてのリーダーのMASAYAへの隷従が刷り込まれるのです。


 男性四人に囲まれ、かわるがわる背中をたたかれ、泣き叫びながら怒鳴られる。そこで泣かないと

 「もう泣けないほど、今も俺たちのいってることが聞こえないほど、もう凝り固まったエゴの化け物になったんだよ!」

 とさらに背中をバンバンと強くたたかれる。

 するとMASAYAの曲「大空を飛ぶ鳥のように」が大音量で流れる。

 「自分は最悪なエゴ人間に成り下がってしまったと、泣いていいんだよ!」

 あまりの恐怖と怒号と痛さで「ワーッ」と泣き出してしまうと、

 「それでいい、自分が最悪な人間だともっともっと認めていいんだよ!」
 「もっと泣け、もっと喚け!もっと嘆け!お前は本当に悲惨な人間なんだよ!」


 このような人間の心を、自尊心をもっとも乱暴な方法でぶち壊していく方法は、マインドコントロール、そして一部の自己啓発セミナーで使用されてきた方法のひとつです。

 本当に読んでいてかなりつらくなる、この世のものならぬひどい話しですが、しかし同時にXJAPANのHIDEさん、YOSHIKIさんら他のメンバーとの友情や、ホームオブハートを着の身着のままで逃げだしたToshiさんを長い間家に宿泊させてくれる老紳士との出会い(この方は奇しくも昔としという名の自身の子を亡くされていたという)、などが暗闇の中に差し込んだ光のように、一層まぶしいものに感じられます。

 これを読んで、XJAPANの曲、そしてhideさんの曲を聴いてみたくなりました。
 hideさんがいきなりXJAPANを脱退したToshiさんに憤りをぶつけるシーンも描かれていますが、それでもhideさんは自分自身やXJAPANのことのみではなく、仲間としてToshiさんの状態を案じているのがうかがえます。
 
 本文P90
 
 数日後、僕の所属事務所は「トシはまったく知らされていなかった解散劇」という僕を擁護するような記事をある週刊誌にしかけて出した。その記事を見たHIDEが怒って僕に電話してきたのだ。

 「なんだよ、あの週刊誌の記事は?」

 実際、記事の中身については事前に知らされていなかった僕は、HIDEから聞いたその内容に驚いた。そしてなによりもHIDEが僕に初めて激怒したことにももっと驚いてしまった。

 「ヒデちゃん、僕はその内容は知らなかった。だけど自分の事務所がやってしまったことだ。本当に申し訳ない。ごめんなさい」と謝った。
 
 そして、ちょうどセミナーを受けたばかりだった僕は、セミナーで気づかされたことをHIDEに話していた。幼少時の痛み、劣等感からロックスターにまでなったが、空しかったこと、実際自分の周りはトラブルばかりだったことなど、自分の幼少時からの痛みや心の傷や劣等感をさらけ出し人に伝える、セミナーで言ういわゆる「シェアー」を初めて外部の人にしたのは実はHIDEだったのだ。

 実際僕がXJAPAN時代、トラブルだtらけだったことを知っていたHIDEは、その話を「うん、うん」と聞いてくれていた。
 最初は怒りの様相だったHIDEの電話も、最後はHIDEから

 「トシくん、今度一緒にゆっくり飲みに行こうよ。またその話し聞かせてよ」
 「うん、わかったよ。電話してくれてありがとう、またね、ヒデちゃん・・・・」

 その20分ほどの電話がHIDEとの最後の会話だった。



 hideさんは、1998年に亡くなっています。諸説あるようですが一応公式には自殺ということになっています。 
 その前年1997年、大みそかXJAPANの解散コンサートがおこなわれた時、Toshiさんは洗脳真っ只中の状態で幻聴と闘いながら東京ドームの巨大なステージに立っていました。
 なんとこの日も地下室で三時間にわたり罵倒と暴力を受けてから、4時間にわたるラストステージに向かったというのですから、驚きます。
 この最後のライブでもtoshiさんは、hideさんの存在に救われたようでした。
 動画に残っていますが、HIDEさんに何か声をかけられたToshiさんがとてもいい顔になるのが印象的です。

 大切なものっていうのは、いつも本当に意外と近くにあるのかもしれませんよね。

 本文 p87 

 HIDEからの最後のプレゼント

 一曲目の演奏が終わり、何をしゃべったらいいのか、言葉を失った

 「XJAPANのラストライブを迎えました・・・」

 やっとの思いでそこまで言うと、また言葉を失う

 するとまたMASAYAと守谷の声が聞こえてくる

 「ハイエナのようなファンにちやほやされて鼻の下を伸ばしてるうじ虫男!」

 瞬間、YOSHIKIが激しくドラムを打ち鳴らした。

 そして思わず叫んだ。

 「気合入れていけ~!」

 数曲ののちまたトークの機会があった。そこでも何を語ったらいいのか、言葉に詰まっていた。

 するとまたあの声がとりついたように聞こえてくる。

 「お前のような宇宙的犯罪者は地獄のような人生を送る」

 突然、僕のそばにギタリストのHIDEが近寄ってきていた。

 赤い髪の毛にエナメルに光った赤い衣装。赤いハートのマークの入ったポップなデザインのギターを持ったHIDEが僕に何か叫んでいる。そして、大きく手を広げてジェスチャーをしていた。声は歓声にかき消されていたが、HIDEの声がかすかに聞こえた。

 「トシ君、パーッと、パーッと!」

 その顔には、派手なメイクを施していたが、口をちょっととがらして横に曲げた彼特有のはにかんだ笑顔だった。

 四月に脱退を申し入れてから八か月間、メンバーの誰とも話していない。コンサート直前のリハーサルでも、誰とも目を合わせなかった。そしてステージ上では熱狂するファンとも目を合わせられないでいた。孤立感、罪悪感。これでよかったんだろうかと思う心。様々な思いが交錯していた。そして頭の中で響くMASAYAと守谷の罵倒の幻聴。

 そのすべてを、HIDEが振り払ってくれた瞬間だった。

 そして僕は思いっきり東京ドームいっぱいのファンに向けて、そしてメンバーに向けて、そして自分自身にむけて叫んだ。

 「悔いのない有終の美を飾ろうぜ!」

 「やるときゃやれ~!!」





















 





 

 


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Clown Emeli Sandé

 2016-12-05




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