闇は溶けると優しくなる

 2012-05-06

  3年前、2009年の日食のあと頃急に不安神経症的な状態が強くなった。

 夜になると不安が強くなり、蛍光灯の下にいるときついので間接照明に変えたり、電気をまったく落としたりいろいろ工夫した。グルのアドバイスに従い、部屋にバラやサボテン観葉植物をたくさん置いたりもした。

 夜はネットやテレビを見ず静かに座り、「なにをわからなくちゃいけないか」考えるよう言われ、その通りにした。その頃は週1、2日くらいしか働いてなく、貯金を切り崩していた。社会との接点が少なすぎるのも原因かと思い介護の仕事を増やすことにすると、ちょうどうちから10分くらいのところのお宅で仕事が出来るようになった。

 そしてその翌年は、I先生の瞑想会のお手伝いもしてたので、その関係でいろんな人と会うことも多かった。適度に働いて、適度に人と関わるという毎日の中でだんだんと夜中に不安で飛び起きてしまうことも減っていった。今でもたまにハッと目が覚めて強い不安を感じることはあるが、飛び起きてパニックのまま部屋の外に出てから我に返ってた頃から比べるとずいぶん安定しているようだ。

 しかし夕方くらいからテンションが下降する傾向はある。
 最近気づいたが(遅いか・・・)、どうも僕は朝型らしい。夜よりも、朝や午前中に瞑想するほうが全然きもちがよい。夜は11時過ぎたらだいたい布団に入るし、日付がかわるまで起きてることはあまりないという幼児体質だ。夜にバイオリズムが低下して、不快感を感じやすくなるので意識的に早く寝てる部分もある。まあ、これも夜の一時とかを過ぎたらナチュラルハイになってきて、気持ち悪いとかなんとかどうでもよくなってくるのだが。

 一日ずっと余計なことをせずに部屋でおとなしくしていると、天気とか、太陽エネルギーとか、時間帯によるエネルギーの変化に敏感になる。その過程で、はっきりと朝の方がハイだと気がついた。

 3年前、夜に対するバイオリズム低下がよりはっきりと出てるようだったので、その時の対処は間接照明を買う前はほぼ完全に部屋を真っ暗にしていたことを思い出した。一見、おかしいことだけど、夜の不快感は電灯の下でテレビを見てる時とかの方が強まり、完全に光を消して闇に包まれると逆にこころが落ち着いたのだった。ろうそくの火だけを灯すのも、精神を安定させる効果があった。

 そこでそれを思い出して、ちょっとまたやってみようと間接照明の明かりも落とすと、特有の夜の感覚が消えて、急にこころが安らいだ。そうだった思い出した。そうして暗闇の中で、庭の草木の匂いや、遠くからの土の匂いを感じていると気持ちがいい。

 確か日常の活動に必要なセロトニンは太陽光の下で活動することによって分泌される。
 一方メラトニンという睡眠と関係する脳内物質は、暗闇の中で分泌されると聞いたことがあるが、もしかして人体はある一定の時間、あるレベル以上の闇の中で夜を過ごしたほうが調子がよくなるのだろうか?

 例えば午前一時まで起きてるとして、その間ずっと煌々と照りつけるあかりの下にいると、夜間休むべき脳の部分を過覚醒にしているということはないだろうか。そして同時に夜に働くべき箇所の機能を低下させているという可能性はある気がする。
 もし寝れなかったり、夜になると調子がよくないという人は、寝る前1〜2時間を暗闇かろうそくの光の中で、ホットミルクでも飲みながら過ごしたら寝つきがよくなるかもしれないと思う。静かな音楽でも流しながら。

 もともとこの文明は闇を毛嫌いして成長してきたものだけど、このタイミングで『節電』とか騒がれてるのは、それが情報操作だろうとなんだろうと、暗闇を取り戻す絶好のチャンスだ。
 闇は距離を置くと不安になるが、その中にすっぽり包まれると、その奥に木々の息吹や花の匂いが感じられるような存外優しいものに思われる。

 人は闇を、薄暗さを毛嫌いする中で薄明かりの中でしか見えないようなイマジカルな領域、日常的左脳意識と、眠りの狭間にあるドリームリアリティとの接触を失ってるような気がする。たとえば、水木しげるの描く妖怪がいっぱいいそうな空間、シャーマニックな意識が誘発されそうな空間ですね。昔は、蔵、とか屋根裏、とか、外の便所、とか井戸の中とかそういう空間が多かったのだろう。今でも山奥に一人で入るとそういう雰囲気は残っている。一人で山を歩いているとなんかトランスしそうになりませんか??

 別に赤なめ、とか狂骨、とか、ぬらりひょん、とかそんなのいなくてもいいわいという人もいるだろうけど、

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その領域は人が直観とかインスピレーションとつながる場所でもあったのではないかと思う。ラムサの本に次のような不思議な一文がある。

 セロトニンは「起きて行動する」神経伝達物質である。それは眠ってる人の鍵を開け、その人を起こす役目をしている。逆に光が減少すると、スイッチが働き、メラトニンが生成される。これはあなたに倦怠感を感じさせ、無気力にして眠りに誘う。しかしながら、松果体はこれらのとても重要な神経伝達物質を製造する小さな工場だが、実は他にも尋常でない機能を持っている。このメラトニンからピノリンと呼ばれる幻覚性物質が生成される。

 さて松果体は頭の中のシャーマンなのだ。真夜中をすぎ、午前一時から三時くらいまでの間、あなたは眠りの最も深い状態、すなわち明晰夢(ルシッド・ドリーミング)のレベルに入っていく。明晰夢のほとんどはこの時に起こる。明晰夢は松果体が十分な時間をかけてメラトニンを生成し、それをピノリンに変えた時に初めて可能になる現象なのだ。

 ではなぜピノリンなのか?ピノリンは幻覚性物質で、脳がより深い領域と交信するのを可能にするために潜在意識が利用するものなのだ。わかっただろうか?さて、夜更けまで起きている人は、ピノリンを生成できないので、この明晰夢という形での他の次元からの交信を逃すことになる。つまり、このピノリンは大脳皮質が眠ってる間に、ニューロンに逆発火(リバース・ファイアリング)を発生させ、この存在(反射意識)がこの存在(ゼロポイント)に話しかけるのを可能にする。


 ピノリンという物質は検索しても出てこないので、実際に発見されてる物質なのかどうかわからないがなんとなく信憑性を感じさせる話である。もしこの話しに一抹の事実が含まれてるなら、ピノリンのもととなるメラトニンを十分作られていることが眠りの中で直観を受け取るために必要であることになる。とすると、寝る前は薄暗い場所(真っ暗かろうそく)でぼーっと一定の時間(1,2時間)、本読んだりネットしたりせず音楽聴くとか瞑想するとかして過ごし、一時から三時までの次元の扉が開く時間帯には熟睡してるというのが理想的かもしれない。

 僕は、このライフスタイルを追求しようと近所のニトリにキャンドルホルダーを買いに行ったのだが、同じコーナーに「カンテラ」があったのを見て、思わずカンテラ萌えーになってて購入してしまった。どうすんだ・・・ぶらさげるところなんかないのだが。せっかくなのでうち中の電気を消し、真っ暗な中これ持ってトイレ行ったりしてますw妖怪を見つけたらまたレポートします。 

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Fire birds

 2012-05-04
 
 昨日、夢を見ている間もずっと意識の中である情報を覚えておこうと、ずっと努力していた。

 で目が覚めた時にノートに書いてみるとこうなった。

 『生命は完全であり 永遠であり 無限である それ以外の見方は全て錯覚や人間的価値判断に基づいている

 うーん。

 なぜか生命というキーワードで情報が浸透してくる。

 『想い』が少しづつ、しみいってくる。最初はかすかに、段々意識的に自覚できる領域に。

 『宇宙は完全だ』という想い。眠りの合間に時々訪れて、顕在意識に定着しようとする。

 『この宇宙の中には 何一つ不完全なものは存在しない というのは 宇宙という完全さの中からすべて現れいでているからだ 不完全さ 不足という観念は 全宇宙 全自然 全生命を絶対肯定する強さと知恵を忘れ去った人間性特有のものである

 居眠り瞑想中ある時に

 『今・ここにある生命が永遠であることをどうかわかってください』という「情報」

 「どうか」てなにかある意味切迫しているような。

 『善も悪も、批判すべき社会システムや価値観も
  すべて僕の心に存在するに過ぎない
  今・この神の中でそんなものはどこにもない
  ただ全ては そうであるだけであり 
  良い 悪いと 判断するにはあまりにも両義的かつ不定形、
一度きりの
  あるがままに過ぎない


 『生命が、そして人の生が〜〜の為にある、といった瞬間それは固い思想となる。

  結婚し子供を育てるためにある、金を稼ぐためにある、魂を成長させるためにある、善行を成すためにある

  悟りに至るためにある

  本当にそうなのか?

  本当にそう言い切れるのか。

  そう語った瞬間、人のマインドは無限の生命を、無限小の固まりへ限定するのではないか。

  しかし 生命は 在る これはまったく確かなことだ。

  生命、人生は、在る。

  なんのため?にではなく 在るのだ
  在ることからすべてが生まれていく 
  僕の頭の描くあれやこれやの為ではなく 言うなれば きっとすべての為に 在る のだ


 生命は肉体を越えてある。
 たったひとつの命の源がある
 人はその無限の生命の源から生命を得て、生きている

 そう、だから今、ここにある命が 永遠であり 無限なのかもしれない

 それは時間を超え 空間を超えている 

 時空を超えて旅をする「火の鳥」から常に命を受け取っている

 命ははかない、と人は言う
 命ははかなくはない それは無限の証だ
 無限界から、現象界へ 溢れ出し 流れ出し 生命を開拓している巨大な力
 それが真の命であり あらゆる個的生命体の実体である

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モウナ効果

 2012-04-21
 数日前の朝、また太陽気功をしてる時、『今日一日言葉を使うのやめよう』と思いついた。

 ネットをしすぎたり、テレビを見すぎたり、なにか生活のことにとらわれていたり、他者がマーヤとしてあると二元性の意識が強くなる。かわって自然の中でまわりと一体化していると、それらが弱くなるということは気づいていた。なぜ街中でそれが容易ではないかというと、どうしても『個』がたくさん自分と相対しているという意識になってしまうからだ。この相対しているという感覚がどうしても意識を分裂させる。ただ、人によってはそうならないということももちろん可能だと思う。

 しかし普通、ごちゃごちゃした場所だとその空気にある程度飲まれるのが当然なので、より静寂、かつ自由、かつ無制限、ジャッジのない存在・環境に身を置いたり意識を向けることが大事になる。僕の感覚に過ぎないが、木々や太陽に意識を向けてるとそのようなノージャッジの存在意識を強く感じることがある。

 そして太陽光が脳になんらかの影響を及ぼすのか、あるいは太陽の意識の流れみたいなものがあってそれを受信しているのかわからないが、太陽と交流していると気づきのヒントとなることを思いつくことが多い。

 言葉を使うのをやめることで、なにか二元的意識を超えるヒントが見えそうな気がした。

 ヨガなどでモウナという修行法がある。
 沈黙のプラクティスだ。ある一定の期間喋らずに沈黙を守ることを言う。
 だが、正式なやり方とかはまったく知らないので、とりあえず口に出して独り言をいうのはやめること、そして本を読んだり、ネットを見たり、文章を書いたりしないこと、考える時もなるべく言語化しない(自然に浮かぶのはしょうがないのでOK)というルールで夜の仕事前までやってみることにした。やっていいのは絵を描くことと、音楽を聴くことと、踊ること。
 
 一人暮らしは長いので、結構独り言をいう癖はある。
 一人ツッコミだとか、一人で面白いことを言って笑うというのは日常茶飯事だ。
 まあ一人ごとといっても大体ぼそっとつぶやく程度だが、興奮したりテンションがあがってくるとセリフが多くなってくることには以前から気がついていた。

 モウナを一日やってみて気がついたのだが、一人ごとというのは完全に自分が思考と同一化している時により出やすいということに気がついた。だから嫌なことや、うれしいことがあって興奮していると自然に言葉を口走ったりしやすいのだろう。その時は観察者であることを完全に忘れ去っていることが多いと思う。
 頭の言語脳のあっちやこっちのニューロンが次々に発火し、それに完全に同化しているとそうなる。

 また言語を使わないでいるときのメリットは、自他に対する『審判(ジャッジ)』がちょっとムズかしくなるということだと思った。独り言禁止、かつ言語思考を抑制していても確かに「価値判断」というものは感覚として存在する。しかしそれをいちいち「いい」とか「悪い」とか「ダメだ」とか「許せない」とか言語化をしないことによって、ジャッジがある一定のレベルを越えて意識を分断することを防止してくれるように感じるのだ。
つまり、言語を使用しないと、それは「ソフトジャッジ」にとどまる。
 道を歩いていて、あそこになにか気持ちの悪い人がいるなーという「感覚」を越えて、さらに「キモい( ´;゚;ё;゚;)」と言語化するとそれは「ハードジャッジ」になるのだ。

 モウナをしていると、言語的アイデンティティと自分との同化がゆるくなる。
 言葉をしゃべっているのが自分、喋ってる言葉が自分という感覚がゆるくなる。
 さらにそれと反比例して、沈黙の中で観察している観察者との同化が起こっていくように思える。

 さらに言葉の奥の、実際に感じている部分、感覚がよくわかるようになった。
 例えば花を見ても、ひまわりはひまわりの、桜は桜の独特の印象がある。
 それをひとくくりに「きれい」と表現することで、失われている「何か」により敏感になるという感じだろうか。沈黙の中でその「何か」をただ感じてみる。それは内的な感情でも同じだ「怒り」あるいは「悲しみ」あるいは「うれしい」と表現する以前のその本質に意識が向くようになるのだ。

 どうも僕らは言語脳が無駄に空回りしている気がする。
 これは現代に生きる人の特性だと思う。
 というか僕はこういう文章を書くことが多いので、なんか言葉を使いすぎて、言葉に縛られている気がすることがままあるのだ。 

 その昔非言語的コミュニケーションが存在した、あるいはバベルの塔が崩れる前は人類はひとつの言葉を話していたという伝説。これは明らかに、テレパシーのことだ。
 人と人は言葉以前の感覚や、「絵(イメージ)」で交流することができたのだ。
 だからそこには「嘘」はありえなかった。
 テレパシーが消滅した(?)ことによって、相対する人が何を考えているかわからないという状態が生じ、その恐怖精神的分離感を埋めるために「とにかくなんでもいいから話してつながらなくては」という強迫観念が生まれたのに違いない。
 言葉という不完全な架け橋が個と個をつなぐ唯一のものになってしまったのだ。
 しかし、おそらく今でもテレパシーは消滅してはいない。
 それは親しい人同士の間で同じような想念が飛び交ったり、空間的に離れた人間同士の間でも、なにかのエネルギーが、情報が行き来するという現象が確かにあるからだ。
 そして「音学」や「絵」などの右脳的表現も言葉以前のリアリティを共有して、ひとを結びつける作用を確かに持っている。

 言語は、人と人をつなぐと同時に、言語脳の暴走は人と人をエネルギー的に切り離しているような気がしないでもない。例えば僕は仕事では常に誰かが近くにいることが多いのだが、自分自身の言語的思考活動に没頭している時は、なんか他と自分を分断している感じがするのだ。それは「神様、神様」という言葉でも同じだ。それによって前にいる人と自分との間に何かの分離が生まれている。まあ別に常につながっていなくてはならないこともないだろうが、この微妙な分離感が気になることがある。 
 
 もしかすると人と人が何もしなくてもつながっている場所、というのが静寂な観察者のいるところだからかもしれない。ただ同じ空間に 「在る」 ということ。そのポイントが本来のつながりの場所であり、言葉と言葉で僕らはつながるわけではないのだ、、、おそらく。言語と同化しすぎるとそのポイントからはずれてしまう。だから朝まで生テレビみたいにあんなみんな自分の言葉を押してしゃべりまくったら、怒鳴り合いになるのは当たり前だ。あれ、最後には田原総一郎と全員ハグしあってキスして終わった方がいいと思うぞ(-^〇^-)うーん・・気持ち悪いか(笑)
 あと言葉で考えなくても、「絵」で考えられるということがわかると、こっちのほうが実は早いかもしれないな。時々モウナを継続し、そこらへんも探ってみたい。

 下のなんか海外ドラマ『LOST』のサイードみたいな人は、メヘル・ババという覚醒者で覚醒後何十年も、沈黙を続けたという。何十年も喋らないってどんな心境だったのかな。


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 メヘル・バーバー (Meher Baba مهر بابا महर बाबा 、1894年2月25日 - 1969年1月31日)は、インドのパールシーの出身で、悟りを得ているとされる。1930年代にヨーロッパを訪れ、悟りを得ることを人々に勧めた。インドのマハラシュトラ州プネー市(旧称プーナ)で生まれ、マハーラーシュトラ州のアフマドナガル(Ahmednagar)で肉体を離れた。

「私は知識を伝えるために来たのではない。あなたたちの目を覚ますために来た」

 19歳の時にプネーの市場で、肉体を離れる直前のイスラム教の聖人ハズラト・バーバージャーン(Hazrat Babajan)から額にキスを受け、強烈な体験から気を失ったことからいろいろな事が始まった。教えはスーフィー(イスラム教神秘主義)やヴェーダの宗教の影響を受けている。イスラム教出身の聖者であり悟りを得ていたとされるシルディ・サイ・ババの元にいたこともある。

 悟りを得た後に声を出して話すことはなく、会話はアルファベットのボードと指さすことで行われた。

 アフマドナガルにサマーディ(墓標)があり遺灰が安置されている。肉体を離れたあと50年間はサマーディを訪れることで私に会うことが出来ると言い残している。

 乾期と雨期を過ごしたほこらが、マハラシュトラ州の避暑地パーンチガーニーにある。

 メヘル・バーバーのエネルギーはハート・チャクラのエネルギーの回復を助けてくれ、覚醒や情熱のエネルギーを助けてくれるとも言われる。



  こっちはイラク兵士のサイードw

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