2023. 07. 14  


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 またご無沙汰してしまいました。

 まだこの時空に生きていますが、暑さと夏風邪(今回はおそらくコロナではない)とで、10日ほどやる気ゼロ状態でした。

 今回は、ハワード・ウィリスさんの祈りの記事になります。

 僕自身は10年くらい前に、この本で知りました。


 


 最近は長らく、お気に入り書籍用の段ボール箱に入っていましたが、急に唱えたくなったので取り出しました。

 この祈りは許しと謝罪と愛がベースになっており、それらによる心身のクレンジングを通して、<生命の源>と再度つながることを意図したものと思われます。

 すべての癒しは、究極的には <生命の源>から来ます。
 癒しだけでなく、人生の本質的な喜びもそうです。
 個人的に、イエスの癒しの奇蹟は 彼が 生命の源(父なる神とも言えます)と一体化していたので起こったのだと思います。

 ウィリス氏はもう何十年も癒しの仕事をされてる方で、末期的な難病を祈りによって多く治療されているようです。

 そして、久しぶりに本を開いて、著者紹介を読んで気づいたんですが、『エノクの鍵』のハータック氏とも親しく、ともに講演活動をしてるというようなことが書いてありました。

 僕は、『エノクの鍵』はまだ読んでませんが、エレナ・ダナーンさんが遭遇し、マイケルサラ博士の著書で書かれている プラズマ意識体である「ザ・ナイン」のセッションにハータック氏も参加していたようです。(スタートレックのジーン・ロッデンベリーも参加)

 多分、ウィリスさんはそれらの「ナイン」イベントには直接関係ないのかもしれませんが、ちょっとなんかつながりを感じました。

 『生命の贈り物』を全部読むと、ちりちりチクチクするようなエネルギー感を感じることがあります。

 ただ、これちゃんと読むと、2,30分くらいはかかると思います。

 忙しい時には、厳しいかもしれませんね~。

 そこで、ウィリスさんのサイトに立ち寄ってみると、この祈りのショートバージョンが載っててPDFでダウンロードできるので 早速プリントアウトしてみました。(うちにプリンターないのでコンビニのネットワークプリントで)

 こちらのページからすぐにダウンロードできます。

 程よい長さで ぱっと見すぐ気に入りました。

 冒頭の画像はPDFの1ページ目になります。

 今回はこの祈りの中から、左側の3つの原文と 自分なりに訳したものを紹介します。

 最初に推奨される使い方として、

 「朝や夜に 3回から5回、それぞれの祈りを声に出すか黙読します」と書いてあります。

 原文では God という言葉が頻繁に出てきますが、この言葉ではなくても 無限者を意味するようなもので、適切なものならなんでもokということです。

 例: 無限の光  聖なる光  主 など。

 祈りの中でアーメン(英語の発音的にはエイメーン)とよく出てくるので、キリスト教の祈りぽい雰囲気はありますが、あまりドグマ性はありません。

 宗教以前の愛や許しにフォーカスしたものです。

 僕は翻訳では一応、「神」と まんまで訳しているのですが 違和感ある場合は別の言葉に置き換えてください。

 まあ、簡単な英語なので、自分に合った訳で 自分だけの祈りを作るのも面白いですよ。

 あと、英語の方がなんとなくですが もともとの波動を宿しているような気がしなくもないので、原文で唱えるのもお勧めです。
 グーグル翻訳などに原文をコピペして 読み上げ機能に読ませてみてください。

 なぜ急にまたこの祈りが唱えたくなったか?

 どうも、パンデミックの3年間で自分的には相当世の中や、人間に対する信頼みたいなものが損なわれてるところがあるので、もうそろそろそれらをリリースしたいのかもしれないです。

 許す、というのは なんでもかんでも受け入れることではないですし、注射するよと言われたらすぐに腕を出すことでもありません。
 でも、コロナ脳とか反ワクとか そういう二元化した世界から意識を解放したいというか、、、、少なくともトータルな癒しには そういう地球を俯瞰するような 越えていく気持ちが必要だと感じます。


 以下、最初に原文を表示し、次に日本語訳を並べています。





 Personal Cleansing Prayer

God,Please Help Me Forgive All People
All People Forgive Me
Help Us All Forgive Ourselves
Please God,Thank You God, Amen
Thank You God,Amen



個人の浄化の祈り

神よ、すべての人々を許せますように 力をお貸しください
すべての人々が私を許してくださまいますように 力をお貸しください
私たちが自分自身を許せますように 力をお貸しください
神よ、どうぞお願いします、ありがとうございます。アーメン
神よ ありがとうございます、アーメン



Cleansing Prayer For All Humanity


God,Please Help All Humanity
throughout All Time,Past,Present And Future
All Forgive Each Other
Forgive Ourselves
Be At Peace With Each Other
Be At Peace With Ourselves
Love Each Other And Love Ourselves
Now And Forever
Please God,Thank You God,Amen
Thank You God,Amen


全人類の為の浄化の祈り

神よ
過去、現在、未来のすべての時を通して
私たちが互いに許し合えますように
私たち自身を許せますように
すべての人類に力をお貸しください
お互いに対して平和でいられますように
私たち自身と平和でいられますように
お互いに愛し合えますように
私たち自身を愛せますように
力をお貸しください
今から 未来永劫 とこしえに
神よどうぞお願いします、ありがとうございます、アーメン
神よありがとうございます、アーメン



Prayer For Universal Healing


God, For Me, My Family,Our Entire Lineage
And All Humanity
Throughout All Time,Past,Present And Future
Please Help Us All Forgive Each Other
Forgive Ourselves
Be At Peace With Each Other
Be At Peace With Ourselves
Love Each Other And Love Ourselves
Now And Forever
Please God,Thank You God, Amen
Thank You God, Amen
We Love You God, Thank You For Loving Us
We Love You God, Thank You For Loving Us
We Love You God, Thank You For Loving Us
Thank You God, Amen


世界の癒しの為の祈り


神よ 私の為に 私の家族の為に 私たちの全ての親族のために
そして すべての人類の為に 祈ります

過去、現在、未来の全ての時を通して
私たちが互いに許し合えますように
私たち自身を許せますように
力をお貸しください
互いに対して平和でいられますように
私たち自身と平和でいられますように
互いに愛し合えますように
私たち自身を愛せますように
力をお貸しください
今から 未来永劫 とこしえに
神よ、どうぞお願いします、神よありがとございます、アーメン
神よありがとうございます、アーメン
神よ、愛しています 私たちを愛してくださってありがとうございます
神よ、愛しています 私たちを愛してくださってありがとうございます
神よ、愛しています 私たちを愛してくださってありがとうございます
ありがとうございます 神よ、アーメン


祈り:ハワード・ウィリス
訳:はいたか



2022. 12. 21  
haitakadori

RT @Trilliana_z: 昨夜収録された長尾和宏医師主催の第一回ワクチン後遺症を語る会〜メディアでは報道されない真実〜が凄すぎます。何と一晩で13万人視聴!国内スペース史上新記録。全国民が報らなくてはならない驚愕の現実。まだまだ拡散をお願いします!#ワクチン後遺症…
12-20 19:09

2022. 12. 20  
haitakadori

RT @dangomushi_spr: 嘘みたいなホントの話なんだけど、真冬の本州の5℃よりも北海道の0℃の方が暖かく感じる。これは両方に住んだことある人にしかわからないと思う。北海道に住んで実際の気温と体感は違うことを知った。この現象あまり知られてないのかな。共感してくれる…
12-19 13:26

2022. 12. 08  
haitakadori

師走感ゼロ、12月のバンコク。騒音と活気渦巻いています🌀道を渡るタイミングがわからん。信号青でもひかれそうに https://t.co/p3WA1YhCyf
12-07 22:03

2022. 12. 04  
haitakadori

#スリン諸島  ジャンルに囲まれた蓮の咲く沼。 https://t.co/5Az674qUTd
12-03 21:50

2022. 12. 03  
haitakadori

#スリン諸島 タイ スリン諸島3 https://t.co/PMzvVZ0MA0
12-02 21:39

#スリン諸島 タイ スリン諸島2 https://t.co/Iq6r6etIDU
12-02 21:35

#スリン諸島  タイ スリン諸島1 https://t.co/cxjPI3rafY
12-02 21:32

2022. 12. 01  
2022. 11. 30  
haitakadori

#人と人の触れ合い https://t.co/N4jMFe3suV
11-29 16:27

#マレーシアエアライン https://t.co/8AnAfs00P0
11-29 16:23

#羽田第3ターミナル https://t.co/hq6mNrzEoW
11-29 16:20

2022. 11. 28  
haitakadori

RT @fseiichizb4: 令和4年11月25日京都大学の福島雅典教授厚労省、国会議員、行政の関係者はワクチンの接種率を提示せよこのワクチンは最初からミスコンセプションだ。ワクチンの被害が全世界的に問題になっている数十億人の命が危険にさらされる危険性がある。…
11-27 19:42

2022. 10. 17  





 今、よくわかんないとこはgoogle翻訳使いながら エレナ・ダナーンさんの一作目の著書を読んでいます。

 「A gift from stars :Extraterrestrial Contacts and Guide of Alien Races

 著者のETコンタクトの体験と 110種類以上のET種族の説明が記されてる本。

 以下は、冒頭の文章のGoogle翻訳ですけど まあまあ意味のわかる翻訳で理解できます。だいぶ精度はあがってますよね。

 

私が話す時が来ました。
これ以上これを独り占めすることはできません。
これを世界と共有する必要があります。これは私の物語であり、真実で恐ろしいものですが、息をのむほど美しいものでもあります。
これは私たちの時代、時代の変化、人類の転換点の物語です。
光の中に足を踏み入れる最後のチャンスです。私がこれらの言葉をタイプしている間、歴史は作られています。
未来は、この特定の瞬間に、私たち全員によって作られています。
この本は主に、エイリアンに誘拐されるという試練を経験したすべての人々に捧げられており、影で活動しているこれらすべての神秘的な存在の動機と意図を理解しようとしています.


Time has come for me to speak. I cannot keep this to myself any more, I need to share this with the world. This is my story, true and terrifying, but also breath-takingly beautiful. This is a story of our times, these changing times, switching point for Humanity. It is the last chance to step into the light. History is in the making as I am typing these words; the future is being created in this particular moment, by all of us. This book is dedicated primarily to all those who went through the ordeal of being abducted by aliens, and seek to understand the motivations and agendas of all these mysterious beings operating in the shadows.

danaan, elena. "A Gift From The Stars" Kindle edition (p.4). Kindle 版.より





 もっと全体を一度に翻訳して読む方法もあるのかもしれませんが、原文と往復しながら読みたいので、ちまちまコピペして読み進めるのを楽しんでいます。

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 エレナさんは 現在アイルランド在住の、考古学者でかつETコンタクティー。
 幼少期からグレイからのアブダクションと 彼女を見守るプレアデス系(+α)のヒューマノイドとのコンタクトを体験してきたという。
 まだ5分の1程しか読んでませんが、エレナさんの物語は 根源的な星々への憧れみたいなものを強く揺さぶる純粋さがあるように思えます。

 特に感動的なのは、彼女が 長らく途絶えていたコンタクトのあと 宇宙の兄弟であるソーハンと再会するシーンです。



 物語は、私が当時住んでいたアイルランドの西海岸 にて  2018 年にさかのぼります。ある夜、きらめく光の閃光が私の寝室に降り注ぎ、私は彼らの宇宙船の中で大きな青い光の閃光に包まれていました。
 彼らは戻ってきた!!!

 私はソーハンの腕の中で涙を流し、顔を彼の髪に隠しました。彼の青い制服の生地のざらざらした感触を指の下で感じることができました。キラキラした側面は、鎧のように機能し、光を反射する金属の小さな保護粒子によるものであることがわかりました.
彼は私を強く抱きしめて、嬉しそうに笑っていました。

 神様!
 彼は強い腕を持っていました。彼の首の皮膚にはバニラに似た奇妙な香りがしており、彼の体は暖かかったです。
 彼の髪の柔らかく絹のような手触りを顔に感じることができました。
 この瞬間、頭に浮かんだのは「ここは家だ」ということだけでした。
 ソーハンは私にとって兄弟のような存在でした。
 私の本当の家族。
 「会いたかった」と彼は私の首元で囁きました。彼の温かい息に鳥肌が立ち、私も同じように答えました。

 私たちはお互いを手放したくなかったのですが、別の誰かがハグを待っていました:
  魅惑的な緑色の目をした金髪の女性です。
 彼女はこれまで私にこれほど温かい愛情を示したことはありませんでしたが、その夜、 彼女は私を短く、しかし強く腕に抱きしめました。彼女の顔に笑顔を見たのは初めてでした。
 彼女の体はスリムで引き締まり、髪はシルクのように柔らかかった。
 ヴァルネックもそこにいて、喜びに輝いていました。他の 2 人のヒューマノイド乗組員も同様でした。



 エレナさんによると、このソーハンという人は 幼いころから彼女を見守り、危機から救ってきた存在です。
 緑色の魅惑的な瞳の女性は かつて彼女がアブダクションされたときに ケアをしてくれたETで マイラという名前であることがのちに明かされます。

 僕はエレナさんの語るお話しが100パーセント真実であるか確かめるすべはないんですが、この箇所を読んでて 再会の喜びに沸き立つ気持ちが強く伝わってきました。

 この2018年の再会の時に時、ソーハンは彼らが戻ってきたのには理由があるとエレナさんに伝えます。
 


Now they’re back because something very important is going to happen for planet Earth.
Thoran says in two years time something very frightening will occur and it will be a switching point for Humanity,
but they will always protect me and I will be fine.

 惑星地球に何かとても重要なことが起こるので、彼らは戻ってきました。
 ソーハンは言います、「2年後に何か非常に恐ろしいことが起こり、それが人類の転換点になるだろう
 しかし彼らはいつも私を守っているから 大丈夫だと。


danaan, elena. "A Gift From The Stars" Kindle edition (pp.36-37). Kindle 版



 この再会イベントは2018年なので、その2年後は2020年になります。
 2020年に起きた出来事が 人類の転換点になる・・・・つまりそういうことです。

 この再会の直後、2018年の11月8日から9日にかけての夜。湾の上空をオレンジの宇宙船が飛行してるのをエレナさんは目撃します。彼らがとても近くにいる・・そう感じてうれしくなったそうです。

 この同じ日(9日の早朝)に、ヒースロー空港に向かうブリティッシュエアウェイの操縦士がアイルランド沖で謎の飛行物体を目撃して、BBCでも報道されました。

 アイルランド沖にUFO出現か 航空当局が調査
(BBC)


 で、この本を読んでて エレナさんの魂の家族たちが戻ってきたタイミングの2018年という年を改めて振り返りたくなりました。

 なんかあったけ?(゚∀゚)

 と思い返してみて、符合するのは 僕がニューロフィードバックのセッションを受け始めたのって、2018年なんですね。

 ブレインスパさんというところで、今年も3回くらいセッション受けてますけど、、、

 このニューロフィードバック機器はカナダのヴァルデン・ブラウンという方が開発したものです。

 ブレインスパの杉原哲也さんが最近出版された『ニューロフィードバックの冒険』という本にこう書かれています。


 

エイリアンインタビュー

 それは多分、ニューロフィードバック・ソフトの完成を境に始まったようです
 ネガティブニューロフィードバックの本部、ブレインスパにある全てのマシンは2018年に最終的なアップデートを終えました。
 これまでにも数回の大幅なバージョンアップと、細部の変更を繰り返してきましたが、ついにその最終的な形に到達したのです。
 このシステムの開発者ドクターブラウンが、約50年かけて作り上げた「完成形」が出来上がりました。
 その頃から、どこか「空気が変わった」とでもいうような不思議な出来事が次々に起こるようになりました。
 何年もブレインスパに来ていなかった以前のクライアントが、アップデートのことなど知るわけもないのに相次いで訪れ、驚いたものです。
 何かを感じ取っているような訪問が続きました。



 一連の不思議な出来事が、2018年4月のアップデートを期に起こり始めたということですけど、僕が初めてセッションを受けたのもアップデート後の2018年8月でした。
 と言っても その当時僕は 不思議な出来事が起こってるとか そういうことは全く知らなくて ただ 先端的ブレインテクノロジーを体験してみたいという好奇心に突き動かされて、行ってみた感じです。

 さらにこう続きます。


 ネガティブニューロフィードバックの開発者ドクターブラウンは、約50年かけて作り上げた「完成形」の発表に際し、「26000年の宇宙の運行リズムに合わせている」と発言しています。

 26000年というのは、天球で見た太陽の通り道「黄道」に対して、地球の軸、つまり赤道面がやや傾斜しているため、そのブレがコマの軸が回転するように一周する時間のことを指しています。

 これを地球の歳差運動と呼び、月や惑星が地球に与える影響と力学的な運動の視点から重要視されているのです。

 ドクターブラウンが、自身の集大成であるネガティブNFBを、歳差運動の26000年に合わせ、「今がその始まりの時」として語った真意はわかりませんが、これと正確に一致する見解があるため、次にそれを紹介させていただきます。

(このあと半田広宣氏のヌーソロジーの話しとなります)





 この本は一般の流通に乗ってないのですが、とても濃い内容のマニアにはたまらないかもしれない(なんのマニアだ・・)本なので 興味のある方はブレスパさん経由でご購入されてみてください。 

 なんで、ETコンタクティーの話しの次に ニューロフィードバックの話し??
 
 と思われる方もいるかもしれませんけど、僕の中では これはつながっていて ETが僕の中でリアリティを持ち始めたのはブレスパさんに行ってからなんです。

 また杉原さんは上の著書の中で ニューロフィードバックは 人類にかけられた洗脳を解除する装置かも・・・!?という持論を展開されています。
 
 なので

 エレナさんの魂の家族ソーハンが帰ってきた2018年
 NFBマシンが最終的なアップデートを終えた 2018年
 その開発者ブラウン博士によると26000年の大周期が始まった2018年
 
 というのは 何かありそうな気がして仕方ありません。

 しかも平成最後の年でもありました。

 2018年は 宇宙へのゲートが開いた年で 2020年への備えも本格的に始まった年だったのでしょうか?
  


 そして それからもうすぐ4年
 ソーハンがエレナさんに告げた人類の転換は まだまだ始まったばかりです。



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2022. 09. 24  


  今週、この本図書館でみつけて、ワクワクしながら時々めくっていました。


  


 今、地上に生息する巨大生物と、かつて存在したが今は絶滅した巨大生物が多彩な写真・イラストとともに紹介されている本です。

 すごいいい本だと思いますが
 コメントが若干皮肉ぽかったり、アメリカンジョークが時折入ってるので どっちかというと大人が楽しめる本かな?

 2020年以降、僕の中で生命やまっとうな世界を求める気持ちがより一層強くなり、、、なんかこう言った 動植物とか、地球科学・宇宙とか そういう系のものを読むととても癒されます。

 社会というフィールドがグローバルにぼんやりした狂気に長期間染まっているように見える中で、その外側にある 生命・宇宙・神・・・というまっとうな領域にどうしても意識を向けたくなります。

 まあ、そういったこと抜きにしても、大きな生き物たちというのは 生命に対する畏敬の念を強くかきたてる。だから子供でも大人でも本能的に興味を惹かれるのかもしれません。
 僕らの日常生活の周りには、大きな動物はいません。アジアに行けば、生活圏の近くに象がいることもあると思うけど、日本の都市部ではもちろん皆無です。

 でも、人類の歴史で言うと、数万年前くらいまでは 巨大な動物は割と身近にいたのではないかと思うのです。

 体長数メートルもしくは、それ以上、見上げざるを得ないようなスケールの生き物が動き回っていた。




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↑はメガテリウムという ナマケモノの一種ですけど、体長が最大で6メートル、体高が4メートルほどあったようです。

 二階の部屋の窓から 外見ると、目が合う感じの巨大さです。 

人と比較すると、こんな感じ。。。

 一見完全なる化け物みたいですけど、ナマケモノの類なので草食で温和だったのではないでしょうか。




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 こういう動物を日常的に見ていた記憶がもしかすると、DNAに眠っているのかも。。。

 こんなモンスターハンターに出てきそうな動物なんて 超昔に絶滅したんじゃないかと思うかもしれませんが、メガテリウムが絶滅したのってたかだか1万年前なんですよね。

 同じくこの頃ってマンモスなど巨大哺乳類が多数いなくなった時期でもあり、、、

 ヤンガードリアス期(氷期が終わって温暖化が進む中突然原因不明の寒冷化が起こった)、の再寒冷化の時期とも近い。
ヤンガードリアス期の再寒冷化は、北米一帯を中心に無数の隕石が衝突したのが原因という説があります。

 まあ ファンタジーに近い話しになりますけど、超古代文明が消滅したと言われる時期でもある。

 もし、伝説の超古代文明があったとすれば、人類はメガテリウムのような巨大哺乳類と共存していて、その経験ってある種黄金時代の記憶でもあり・・・だから巨大生物は胸をときめかせるのかもしれないと思ったりもします。

 メガテリウムの他に、気に入ったのが、ステラーカイギュウです。



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 ↑こういう形態の、マナティの近縁みたいな感じですけど デカさが・・・こんなんで↓



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 体長最大で9メートルほど。
 メガテリウムよりデカい。
 メガテリウムがメガテリウムを肩車したくらいのデカさ。
 体重は象と同じくらいの10トンクラス。
 電柱の高さがおよそ10メートルと考えると、その巨大さが想像しやすいかもしれません。  
 ベーリング海に生息していた。 

 この動物も『つい最近』まで生きていました。

 発見されたのが1741年。

 しかし、その僅か27年後の1768年に絶滅。

 原因は ステラーカイギュウの肉や脂肪、ミルクが航海者にとって貴重な資源であり、しかも簡単に捕獲できるので乱獲されてしまったのが原因のようです。

 またステラーカイギュウは『仲間が殺されると、それを助けようとするように集まってくる習性があった。』らしく、その習性もハンターに利用されたとか。
 大きくて、優しい生き物だったんですね。


 



 240年程前まで、こういう生き物が生きていたというのが個人的に結構衝撃でした。

 絶滅動物を調べていくと、つい近年まで生きていた種が多数います。

 日本で言うと、ニホンオオカミ(最後の目撃1905年)、ニホンカワウソ(最後の目撃1979年)あたりは有名ですけど・・・

 調べてて、二ホンアシカというのもいたということを知りました。

 20世紀初頭には、日本全国の個体数は3万~5万島。

 北海道から本州、四国、九州の沿岸部などに幅広く生息していたようです。

 東京湾にも横須賀の東海上にアシカ島という無人島があり、かつての繁殖地だったと考えられてるようです。

 しかし、1909年の記録によると、東京湾沿岸からもその頃には姿を消し、次第にその生息地は主に竹島に限られるようになりました。そしてやがて竹島からもいなくなってしまいます。

 100年とちょっと前には 「東京湾にアシカがいた」 これもかなりの衝撃でした。

 ってことはですね・・・

 江戸時代の沿岸部に生きる人々にとっては アシカはその辺にいるもんだったってことですよね。。

 『アシカ島』っていう地名は、東京湾だけではなく 日本各地にあります。


 asikatou-m.jpg


 「トド」という名称もありますがトドの生息は北海道以北なので、アシカの別呼称の可能性が高く、これらすべてかつては二ホンアシカの生息地だったのかもしれません。

 さて

 ここから自分事ですけど、僕が幼いころ育った京都の小さい町では、山の近くだったこともありカブトムシやクワガタ虫が捕れた記憶があります。
 また、アオダイショウが自宅の塀をずるずる這っていたり、屋外の洗濯機の下に潜り込んだりしてましたし、布団を畳むとその下からデカいムカデが出てきたなんてこともありました。

 京都市の北の方に国際会館という、京都議定書が採択されたりした会議場があって、その近辺に宝ヶ池という池を中心にした公園があります。ここも、子供の頃に遊んだり、初デートした場所だったり思い出が多いので、この前帰省した時にふらっと寄ってみました。
 すると、公園の中心から離れたあたりで 鹿の群れが何頭かいて じっとこっちを見てたんですよね。
 周りは確かに山は多いんですけど、さすがに鹿をこんな場所で観ることは記憶になかったので ちょっと驚きました。

 そういう割と自然の多いところで育ったので自然には免疫はあります。
 蜂にもよく刺されたし、
 家に多少クモがいたり ゴキブリがいても動じませんw

 ・・・んですが、学生の時高知県に住むようになって、かなりビビる生き物を目にしたんですよね。

 それは 手のひらくらいある黒い蜘蛛・・・ いきなりそいつが部屋の壁に現れたんです。
 目にした瞬間 体中ぞわぞわする感じで 

 うわーーーーっ(o゚□゚)o≪≪≪ワアァァァァァァッ!!

 ってなりました。

 で、でかい癖に これがものすごく素早い速度で動き回る。
 その速度がまた鳥肌。

 いやいや 無理無理無理・・・・小蜘蛛が部屋の中にいるくらい いいけど、こんなバケモンおる部屋で絶対に寝れん・・・となって。

 時々 うちにあげていた野良猫ちゃんをけしかけて 狩らせようとしたりしてましたw(失敗)。

 この蜘蛛 どうやらアシダカグモという種類のようで・・・(苦手なので画像は貼りません)

 もともと、インド原産の外来種で、本州・四国・九州などに分布するらしいが・・・

 京都に住んでる時は こんな不気味な奴一度たりと見なかったし・・・18とかになって初めて目撃したからこそ 「なんだ この生き物は!」という衝撃が大きかったんです。一度も見たことない生き物が、野外ならまだしも生活空間に現れるって言うのはかなり驚きます。

 このアシダカグモは巣を張らない徘徊性で、ゴキブリなどを待ち伏せして食べてくれる益虫らしい。・・いや、そんなこと言われてもさ。この段階でゴキブリ食べるとか言われると 好感度さらに下がるんだが。

 結局、アシダカグモにどう対処したのか、もう忘れちゃいましたけど、たかだか 京都から四国に移動しただけでも 見知らぬ生き物との関りが生まれたりするんですよね。それまで 全く知らなかったモノに出会う。

 そう言えばちょっと前に沖縄に行ったときには、キジムナーに・・・

 は会ってないですけど、夕暮れに海岸沿いでボーっとしてまして、、、ふと下を見ると 無数のカニがびっしり密集してたんですよね。

 ちょっとこっちでは見たことのない光景で驚きました。

 ずいぶん前に行ったインドではラクダの馬車(?)が走ってましたし、街中の街路樹や駅のホームにリスがたくさんいました。
 そして、ホームからおしっこしてる人がたくさんいて、これも驚きました(それは別の話し) 

 冒頭に紹介した本に書いてあったことで言うと、


 ミズオオトカゲっていう 体長がでかいものだと1.8メートル、人間の大人よりデカい場合もあるというトカゲがいます。


 tokage.jpg


 こんなもん、日本の街中にいたら いや、街中じゃなくてその辺の河原にいても間違いなく大騒ぎになると思います。

 ところが、タイのルンピニ公園ていう場所ではこれが数百頭いるらしい。
 ルンピニ公園はジャングルに近い場所とかではなく、バンコク市内、首都です。

 公園を歩く現地の人たちは、見慣れているのでこういうのが這いまわっていてもまったく気にしてない。
 ミズオオトカゲ自体も コモドドラゴンなどと異なり 温和な性格のようです。

 ルンピニ公園、ちょっと行ってみたいなあ・・・

 ちなみに、僕はトカゲや蛇って嫌いではないんですよね。
 飼うほど好きではないけど、
 なんか神秘的というか、あのフォルムはクールだと思います。

 インドの神話に出てくるナーガとか、山川惣治さんの絵物語『少年ケニヤ』に出てくる巨大蛇ダーナはものすごいカッコいい。
 最近あんまり見てないけど一時期、夢の中でもよく大蛇が出てきました。
 道で歩いててトカゲに出くわすと、からだが虹色に光ってたりするので ちょっと見とれてしまいます。
 
 コモドドラゴンもね~~噛みつかれたり 傷跡に毒を注入しさえしなければ・・・ハグしてもいいんだけど(笑)


 何が言いたかったかというと・・・

 僕らが当たり前だと思っている 自然との関係性 生き物との関係性って

 時空をほんの少しずれただけで、全く変わるんだなと思うのです。

 240年過去にずれると、北の海には体長9メートル近くのステラーカイギュウがいるし、100年とちょっとずれれば東京湾でアシカが見られる。現代のタイに行けば、公園でオオトカゲが歩き回っている。

 またファンタジーな話しをすると、もしかすると、地球の内部では遥か昔に絶滅したと思われている、ジャイアントモアとか、メガテリウムが今も生きているかもしれない。

 確か地底に迷いこんだことになっているリチャード・バード少将は、地上ではもう絶滅した巨大な生き物を目撃したのではなかったでしょうか。彼らがまだどこかで・・・もしかすると足元の遥か下で生きてると思うと、少し救われた気分になるのはなぜでしょう。

 日本列島では多くの人々が ペット以外ほとんどどんな動物の痕跡も見えないような都会で生きていますが、これは実はとても特殊な状況ではないのだろうか。  

 多くの絶滅動物たち、また現存の動物たちのことを考えてるとそんな風に想えてきます。

 人間が見上げて畏怖を抱けるような彼らが地上から消えたのは寂しいことですが、なぜその姿を想うとワクワクしたり元気になったりするのだろうか。

 彼らのイメージは時間を越えて、今を生きる僕らに生命の驚異的な多様性と 人が彼等と共に生きていたかもしれない時の記憶を 伝えてくれているからなのかもしれません。 








2022. 03. 30  



  2019-12-23 22:41:28



  去年の今頃も 僕はこの大きなケヤキの根っこに裸足で座っていた。

  今年も靴を脱いで この根っこの上に座る。

  12月の公園は人影が少ない。落葉樹の葉はほとんど落ちている。



  地面は昨日の雨の湿気が残ってて少し冷たい。



  でも樹の肌は、太陽の温もりを吸い込んでかほんのり温かい。

  そのぬくもりが素足に伝わってくる。

  大きな根っこは座椅子みたいに、その根の股にすっぽりと座って 幹に背中をあずけることができる。

  そうして目を閉じていると すぐにじわじわ~っと気持ちがよくなってきた。

  朝から頭が重くて痛かったけど あまり気にならなくなり 意識がクリアになってきた。



  象の背に揺られたり クジラの背中で昼寝をしたりするのは、こんな気分に近いんじゃないだろうか。



  大きな生き物に 自分をゆだねて 安らいでる感覚。

  樹は生きている。

  だから こんなに気持ちよいのに違いない。

  樹は地下に根を伸ばして 地球とつながっている。


  このケヤキ君に座っていると そのほかの樹や 動物や 虫たちとも つながる。
  ケヤキ君はこの地球に生きる、多くの命の声と僕をつなぐアンテナだ。

  だから 気持ちがいいんだろうか。



  どこからか飛んできたてんとう虫が手に止まり、少し手の上を歩くと また羽根を開いて飛んで行った。

  ひとつの命とつながることは 他のすべての命とつながることだ、という想いが浮かんだ。



  都会の中で生きていると ある誰か一人との接点は その人との接点でしかないように思えるけど 本当はそうでなないだろう。
  ある誰か一人とのつながりは その誰かとつながる幾人もの人々との つながりでもある。

  命はもともと、ひとつなのだ。


 

   生命との一体感を感じることは 僕にとって 一番心地よいことのような気がする。

  それを感じさせてくれたケヤキ君に 

  「乗せてくれてありがとう」とお礼を言って 僕はまた靴をはいた。


  冬至も終わった。


  はっぱを落としたケヤキ君は クリスマスツリーのようなきらびやかさはないけど、そんなこと関係なしに 寡黙にそこに生えていた。


  寒い夜にも そこにどっしり根を張っているケヤキ君は スゴい。
  きっと すべてとつながってるから、出来るんだ。


  次はもっと早く 遊びに来るね^^  






  

2022. 03. 29  




  2019-12-12 21:01:36


  昼間 あたたかかったけど、家に帰る頃には風も冷たく とっても寒くなっていた。

  この頃都心の方にたまに通勤してるので、どかどかどかと 靴音だけが大きく響く 渋谷駅の通路を歩いて 長い長いエスカレーターを上り、ぎゅう詰めの電車に乗る。

  満員電車で仕事に行ったりするのは 何年かぶりなので ちょっと慣れてきたとは言え なかなかしんどい。

  人にぶつからないように歩こうとするだけでストレスだし、すごい速さでこっちに歩いてくる人が 若干怖い。

  うまく言えないけど 全員が 全員をただの雑踏として ある意味障害物として見ている空間というのは 殺伐として感じる。

  自分のことを知らない無数の人の間を歩いている という感覚。


  それは20代で東京に来たばかりの頃感じた感覚。

  慣れたようでいて 今でもやはりどこかで奇異に感じて たまに思う。 

  「あー この人ら全員僕を知らないし 僕はこの人らを誰も知らない」と。

  なぜか ちょっと呆然とした感覚になる。

  まあ 全員僕のこと知ってても それはそれでストレスだろう。
  変装して歩かなきゃならない。

 そんな風に雑踏に対して いつまでも意識的であるのは やっぱり比較的静かな町で育ったからなんだろうか。

 寒い中 家路を足早に歩いている人たちは なんだかいつも以上に互いに無関心に見える。


  そろそろ街路樹の葉もほとんど落ちかけてるし  日が沈むのも早い。   

  毎年今頃になると 落ち込みやすいので 冬至まであと何日・・・と指折り数えてしまう。

  人恋しくなり やめてたお酒も飲みたくなる。



  冬至を過ぎれば ちょっとづつだけど日が長くなる。

  本格的に季節が冬に向かうのはそれからだけど 僕にとっては 冬至は春の始まりに思える。


  寒い街中を歩きながら 『火』がみたいな と思った。

  どうして、このきらびやかな都市には 生きている炎がないのだろう。

   至る所をネオンやLED照明の鋭角的な光が照らし出しているというのに、火は燃えていない。
  自宅に帰ったとしても、あるのはガスコンロの青白い炎だ。
  あたたかい色合いの火が見たければ キャンドルでもともすしかない。


  以前インドに行ったとき ブッダガヤ近くでホーリーの火祭りを見た。
  最初電車の車窓から 漆黒の闇の中に小さく鬼火のような炎がちろちろと踊っていた。
 やがて、駅に着き、オートリクシャで村に入ると。 村のあちらこちらで 天高く炎が燃えていた。
 
  何メーターもある見上げるような炎だ。

  あの小さな鬼火が こんなにも巨大に燃え上がり夜空を焦がしている光景に圧倒された。

  あんな風に 激しく ぱちぱちと音を立てて夜空を焦がして燃えている 大きな炎を見たら元気が出そうな気がした。

  冬至前の闇と寒さには、あんな炎が必要だ。

 大きな炎の周りで 人々が 暖をとって 「あったかいね」と笑いあい あたたかい食べ物を椀に入れてふるまったりしてる・・・

 そんな光景が見たい。 

 ここにはないけど きっと世界のどこかでは今もあんな火が燃えて その周りに人が集っているはずだ。    


 うちに帰ったら 野菜がたくさん入った あたたかいお味噌汁でも 自分のために作ることにしよう。

  きっと今よりも 気持ちがあたたかくなるはずだから。







2022. 03. 29  

  

  2019-10-13 18:11:58



  子供の頃、視力が両目とも2.0だった。

  それが特にすごいという自覚はなく、当たり前だとしか思わなかった。

  ところが 12歳くらいになると、本の読みすぎか ゲームのし過ぎか、ゼロコンマ台に落ち込んだ。

  視力検査の時、自分だけとても視力が悪かったから恥ずかしかった。

  大人になってからは0.3前後のあたりをうろうろしている。

  眼鏡は持っているけど、かけたりかけなかったりする。

  映画の字幕を読むにはあった方がいいし、スーパーや書店で買い物をするとき、ブログを書くときなどもないとちょっと不便だ。

  自然の細かい美しさを見たい時も ほしい。



  でも、あまり情報が目からたくさん飛び込んでほしくないときははずしている。その方が落ち着く時が結構ある。 

  電車の中や 広告など多い街中、会話中に相手の表情を細かく読みたくないとき、裸眼の方がいい。
  ぼやーっとした視覚で相手をとらえながら、話しに耳を傾ける方が集中できるのだ。

  しかし、そんな風にかけたりはずしたりしてるもんだから、道で落としたり なくしてしまったマイグラスは数知れない。


  眼鏡を持ち歩く煩わしさに、レーシックしちゃいたいなーと思うこともあるが、そうすると、ぼやーっとした視覚は失うことになる。

  いつもクリアな視界か、TPOに合わせて眼鏡で調節するか・・・果たしてどっちがいいのだろうか。



  視覚を閉ざすと、世界の感じ方が変わる。

  時々アイマスクなどをつけて、数十分~一時間 ぼーっとしていることがある。

  最近 つけると目があったかーくなってアロマの匂いが漂うアイマスクにはまっていた。

 
  寝転んでいる時もあるが、飽きると、そのまま目隠し状態で部屋の中を歩いてみる。

  記憶を頼りに 時々 けつまずいたりしながら 手探りで歩くと、見知らぬ世界にいるようだ。


  触覚には距離がないので、いつも 今・ここを感じていられる。

  きょろきょろと視線を動かし、現象を追うのをやめると、心が安らぐ。



  自分だけの暗闇という<場>にうつる。

 やがて いろいろなことが心に浮かぶ。

  今日、あんなことをしたな 昨日はあの人にあったな ・・・・ そんな風にして物事の流れをとりとめなく辿ったり

  そうしていると、考えるもの 感じるもの 存在するものとしての自分が よりはっきりしてくる。 


  時間の流れまでもが いつもと違ったものに感じられる。

  きっと子供の時に 布団の中で目を閉じた時の 暗闇も 今 大人になって目を閉じた時に見える暗闇も 

  何も変わらないのかもしれない。

  いつの時も 変わらず <自分>がいて <考え>があり <感情>もある。

  目に映る世界や 鏡に映る自分は 常に変わっていく。

  でも、目を閉じた世界は変わらない。


  そして、目を閉じても聞えてくる 親しい人の <声> がある。

  人の声は 年をとってもあまり変化しないことが多い。

  <声>は波動だ。
   その人自身の刻印をずっと保っている。

  <声>は外見よりも、永遠の魂により近いのかもしれない。

  目に見える世界に疲れたら ・・・・ 

  目を閉じて、暗闇と言う場に移り 目に見えない世界を見てみる。

  でも、そこは本当は暗闇なんかじゃない。

  自分の意識 命 声 触れ合う手 抱きしめられる感覚 思い出 夢・・・・・愛がある。

  そんな空間を単に 暗闇とは呼べない。

  すべてを含んだ豊穣な闇。


  目を閉じても そこに残るものだけが  きっと真実だと思う。






2022. 03. 26  



 2019-06-22


 高校生の頃、期末試験とかで学校が早く終ると、家に帰って『笑っていいとも』を見るのが楽しみだった🙆 もちろん『ごきげんよう』のサイコロトークも続けてみていた😁

 学校では、クラスメートとぎゃーぎゃー騒ぐタイプでもなく 不登校 留年すれすれの暗めなやつだったけど 僕は昔から一貫してお笑いが好きだ。

 関西はひどい風土で クラスメートにいきなりホウキを手渡されて これでなんかやれと急にふられたりする。

 ぼくはむちゃくちゃテンパり (;´゚д゚)ゞ あわわわとなって よくわからないことをやると

 当然ド滑りして

 なんやねん、、それ、😑
 と白い目で見られ非常に傷ついた記憶がある。

 なんでだ、、いきなりホウキ渡されて 自分なりに頑張ったのに なぜこんな屈辱を味わうのだ😫
 
 とそういう経験があると お笑いが嫌いになってもよさそうだがそうはならなかった。

 面白い人は無条件でリスペクトしてしまうところが僕にはある。

 最近は 兵藤大樹さんの 『最悪な5日関』という2時間近くの 1人トークを聴いた 完全に匠の話術だった。(YouTubeで視聴可⭐)笑えるとか越えて 感動した。

 鬱っとした気分で み始めたけど 見終わる頃にはいっぱい笑い、意識が若干クリアになってた。

 100分も色々なシーンを脳裏に想像させるわけで、、、

 語りの上手い人の話術を長時間聴くのはかなりの脳トレになるんじゃないだろうか。

 コントより どっちかというと トークの笑いが僕は好きだ。
 ネタネタしいものより アドリブ度が高い笑いにぞくぞくする。

 それは多分 僕がいきなりホウキを渡されてもなにもできない人であるからであろう😃人間 自分にないものに憧れる。

 深刻になりやすい僕は その反動として笑いを必須の栄養素として育った🌳

 愛は人を救う

 でも 笑いも人を救うと思う。

 そして このふたつは つながっている。

 大笑い出来ない時は、口角をほんの数ミリ、、一センチあげてみるだけでも世界が変わる。

 それは きっと心がゆるみ 今まで経験した楽しいこと、面白いこと ふわっとしたことの記憶がしまわれた箱が開くためだろう。

 その中には 忘れかけていた キラキラしたものがたくさん入っている。
 少し 口元をゆるめるだけで そんなキラキラが見える。

 笑いというのは 本当に魔法のようなものだと思う🔯✨


 アドリブのきかない僕も ほうきを持たされた自分を想いだし 微笑むことは出来るのだ😉





2022. 03. 26  


 
 2019-05-25



 歌いながら気持ちよく歩いていても、前から人が来るとつい声を潜めてしまう。

 見知らぬ人に歌声を聴かれるのはやっぱりちょっと恥ずかしい。どうしてだろうか?

 歌はとてもプライベートなもの、言わば家用のもの 部屋用のインナーとか お風呂とか 散らかったキッチンとか そういったものと同じ世界に属するもの。そう感じる人も多い。

 自分の歌はちっともうまくないし 恥ずかしい みっともないと。

 しかし 僕は歌いながら歩いてる人を見て 悪い気がしたことはない気がする。

 これは上手い 下手 関係なくだ。

 正直 カラオケでは 乃木坂を裏声で歌う男の友人の歌に疲れることもある。これは仕方ない。
 罪悪感は持たない。

 でも、道ですれ違う 歌声にそれはない。

 確かに一瞬だからというのもある。

 その一瞬聴こえる 歌声とか ハミングが自分を元気付けてくれることは前から気付いていた。

 その理由も最近わかった気がする。

 歌は昔から求愛や 宗教的な儀礼 コミュニケーションの手段として使われてきた。

 それは基本的に つなぐもの なのだ。

 歌いながら戦うこと、破壊することは容易ではない。

 そりゃ歌には 深い悲しみや怒り 恨みを歌ったものすらある。
 クイーンのボヘミアンラプソディーの歌詞を読んでると 心臓を鋭いものでつかれてる感じがする。

 でも それらは歌として表現された時点で、破壊性を越えたものにシフトしている。

 だから歌ってる人を 見ると 無意識が安全性を感じる。
 この人は 今 つなぐ状態 開いた状態にいるんだと思う。

 すれ違う歌声が 僕を安心させてくれるわけはこれだと思う。

 歌うことは 害意がないという かなり明白なサインになるんじゃないだろうか。

 そのことに気付いてから僕は 見知らぬ人に歌声を聴かれるのは 恥ずかしいけど いいことかもしれないな と思うようになった。

 無数にすれ違う見知らぬ人の 一部からかすかな歌声が響いてくる。そうしたら ぎすぎすして周りは敵ばかりに思える心がやわらぐこともあるかもしれない。

 だから 歌いながら歩いている時、前から見知らぬ人が歩いてきても なるべくボリュームを落とさず 誰かの耳に届ける勇気をもっていいとおもう。

 きっとあなたの歌声を聴いて 少しだけ元気になったり 微笑みが戻る人がいるはずだから。



 僕も そんな時 声を潜めない練習をしている。







2022. 03. 26  

 以前書いたエッセイブログより。




 2019-05-20


  「君たち人間には想像もできないようなものを 私は見てきた

 オリオンの側で炎に包まれていた宇宙船。

 タンホイザーゲートの 闇の中で輝いていたオーロラ。

 あの、めくるめく瞬間も いつかは消える。

 時が来れば・・・

 涙のように、 雨のように・・・その時が来た
」 ロイ・バッティ





 さっき雨が降り始めた。

 僕は雨が好きだ。
 さすがに1週間も降り続いたり、災害級の雨は困るけど、2、3日なら全然いい。

 土が濡れて夜の中に立ち上る匂いが 本当に心地よい。木々がみずみずしくなって 世界がよみがっていくような感じがする。

 一人の夜は淋しい時もあるけど、雨が降っていて 雨音を聴いてると、いつも落ち着いている。

 なぜだろうと 時々想う。

 雨は 道路を濡らし 木々を濡らし 誰もいない公園の遊具や 車も濡らし 信号灯も濡らす。
 雨の音によって 僕は世界とつながっている。

 だからだろうか?
 


 最近思ったのは もしかすると 母の胎内にいた記憶を思い出すからだろうかということ。

 胎児はちゃんと聴覚が発達していて、心臓の鼓動や 体液の流れ 母親の声などを聴いているという。

 中でも母の声は 高周波部分のみがフィルターされて胎児に届くという。高周波音は 天の音でもある。

 この世界に宿る魂のために 胎内はスピリットの世界を思わせる環境になっているんだろうか。

 部屋を包む雨音は そんな遠い記憶を思い出させるのかも。



 雨は言い訳にもなる。

 特に予定のない休みの日、どこへ行こうかとあれこれ考える。

 でも朝から雨が降り続いてるそんな日は

 家でゆっくりしていよう

 そう堂々と思える。
 
 とりとめなく いろんなこと想いながら 雨音に耳を傾ける。

 その音は 安全に守られてるから 包まれてるから ここにいてもいいよって言ってくれる。


 だから僕は 雨の日には どこにもいかなくていい。


 一人でも淋しくない。






2021. 11. 28  

 

 ◆ それでもヤンキーには逆らえない


 中学生の僕にしてみると ヤンキーは是か非かではない。



 それは、ただそこに存在しているものだった。



 インドで牛がそこら辺をうろうろして、電車を止めたりしているけど、かの地ではそれが当たり前の光景だ。  



 それとちょっと似ている。



 あのガラの悪い集団は 入学した時から学校にいたのだ。

 逆に言うと 僕には ヤンキーのいない中学生活はどんなものかということがうまく想像できない。

 街路に牛や 物乞いの人のいないインドをうまく想像できないのと同じだ。



 彼らが最初からずっとそこにいる以上 



 嫌だけど、・・・・まあ、世の中 こういうもんちゃうんかな・・・  てな感じだった。

 

 トイレは煙でもくもくしてるものだし、気を抜いて歩いてると すれ違いざま蹴られたりする。

 運悪くつかまると 餃子の王将にぱしらされたりする。



 そういうものなのだ。きっと世界が始まった時から・・・

 

 だからヤンキーなんていなくなればいいのに、、、という発想にはならなかった。

 環境というのは恐ろしいもんだな、と思う。

 慣れるとそれが当たり前になってしまう。 



 彼らが暴力的なことをするのは、人一倍目立ってしまっていたりする生徒に対してだったので、直接的な危険は僕にはなかった。


 それに、彼らは弱いものを陰湿にいじめたり、自殺するほど追い詰めたりすることはなかったようなので、ある意味わかりやすい存在ではあった。



 何しろ 髪がまっきっきだったり ダボダボのズボンをはいてたりして 見た目で危険だとすぐわかる。

 全身で 俺たち かなり やべーぞ! とアピールしてくれている。



 彼らは誰かが気に入らなかったら リンチするだけ(しちゃだめだけど)なので 陰でこそこそ悪口を言ったり 無視したり ということはする必要がない。



 まっきっきの集団が廊下の向こうから歩いてきたら 回れ右をすればいい話だ。非常にシンプルでかつわかりやすい。



 しかし そうはいかない場合もある。 



 ヤンキー集団の中には



 幼稚園の時に 僕をいじめていた ケンタがいた。



 ムラサキ組とミズイロ組の2年間にわたり 意地悪をされていた僕は 卒園式の日に 思いっきり彼の足を踏んでやった。

 二年間いじめられてようやく仕返しができたのは、明日からもう会わないからだ。

 いわゆるイタチのなんとかというやつだが、その時初めて僕は やな奴に「逆らう」ことができた。

 もう明日からは ケンタに会わない・・・・・

 確かに 僕のその時の判断は間違ってはいなかった。

 明日からは もう会わない

 しかし そこには「当分は」という単語が抜けていた。


 それから11年の時を経て僕らは 再び このガラパゴス中学で相まみえることとなったのだ。 

 

 彼は僕を見るなり 校舎の窓から大声で 叫んだ。



 「お前 幼稚園の時 〇◎●(自主規制) 漏らしたやろーーーっ」



 「漏らしてへんわーーーーーーっ!!ォ━━(#゚Д゚#)━━!!」 と僕は反射的に 上の方に向かって 言い返した。



 ったく・・・・なんだ再会するするやいなやの この低レベルの応酬は。



 確かにシャイすぎてトイレに行きたいとも言えず、教室で粗相したのはホントだ。

 ああ、ホントだとも、何が悪い!

 でも、なぜそれを校舎の二階の窓から 叫ばれなければならないのか

 なぜ11年も前のことで このような辱めを受けねばならないのか。十分にトラウマになっているというのに。

 しかし ケンタ 

 意地悪そうなのは幼稚園の時からまったく変わってないじゃないか。

 むしろパワーアップしてるぞ。

 染めた髪がまったく違和感がない。
 こいつはきっとヤンキーになるために生まれてきたのであろう。
 思い返すと 幼稚園の時から茶髪だった気さえしてくるではないか。


 やっかいなやつと再会しちゃったな。。。。

 第二ラウンドのゴングが鳴った。 

 ケンタは時々 僕にちょっかいを出してくるようになった。



 ケンタがまったく理由もなく 僕の股間を蹴り上げてくる。

 そして逃げていく。

 僕は追いかける。「ひゃーひゃっ ひゃっ」と笑いながらケンタは逃げていく。

 逃げていくから 僕は追いかける・・・・どこまでも

 

 ケンタには追い付けず 休み時間が終わるチャイムが鳴る。


 だいたい 僕が はあはあと乱れる呼吸と 大事な場所がズキズキしたまま休み時間が終わる。



 こういうことを時々繰り返していた。



 何も面白くない。



 しかしこの不毛なチェイスによって 僕が ヤンキーの集団から狙われることはなかった。
 
 他のヤンキーから「おい、おめえ 何ケンタを追いかけてんだよ」とかは言われなかったし、他の仲間を引き連れて ケンタが僕にからんでくることもない。 


 多分ケンタが 個人的な意地悪心からやっていただけで、ヤンキーの集団は 特にそれに対して興味がなかったのだろう。



 僕も 一応ヤンキーぽい身なりのケンタを追いかけたりできたのは 彼はただのヤンキーではなく、幼稚園の時から知ってる「宿敵」という認識があったのかもしれない。



 つまり、11年たっても 舞台を変えて 二人とも 園児と同じようなことをしてたという話しだ。

 こういうのをカルマと言うのだろうか。。。

 

 しかし ヤンキーの中には 嫌いじゃないヤンキーもいた。

 

 最初はすべて恐ろしく ヤンキーという集団はオールブラックにも見えた。



 でも彼らがそこにいるのが当たり前になってくると、その黒の中にも 微妙なグラデーションが見えてくる。



 左近君 というヤンキーはなぜか 「クーには そんなことするなよ」 と 他のヤンキーから 僕をかばってくれたことがあった。もちろん、蹴ったり 殴ったりされたこともない。



 なぜかばってくれるのかわからなかったが、そういうことがあると 好感度は急上昇し、左近君は 黒の中の白に見えてくるものだ。

 

 他に 龍村というヤンキーが同じクラスにいた。



 僕は目が悪くよく目を細めていたからか、「お前目つきわるいんじゃあっ!(o゚□゚)o≪≪≪ワアァァァァァァッ!!」 と龍村に大声で恫喝されたことがあった。

 いったい何が悲しくて ヤンキーに目つきが悪いとか言って怒鳴られなきゃいかんのだ。



 龍村は背が低く、髪をつんつんに立てていて、多分普通にしてたら可愛い感じの、星の王子様がグレたような風情をしていた。

 明らかに何か家庭に事情がありそうな気配を漂わせていた。

 

 目つき悪いとか恫喝されたけど、僕はあまり龍村を嫌いにはなれなかった。

 

 ある時、他のヤンキーが 2,3人 教室になだれ込んできて 何かわめきながら席についている龍村を連れて行こうとした。

 龍村の何かが彼らの気に障って リンチしようとしてたのかもしれない。



 龍村は 逃げるでも 弁解するでもなく ポケットを両手に突っ込んだ ふてぶてしい態勢のまま前方を睨んでいた。

 やるならやれよ お前らが俺に何しようが 俺に関係あるか

 そう言ってるみたいに。

 そして特に抵抗するでも弁解するでもなく 引き立てられていった。



 何があったのかはよくわからない。

 しかし 彼のその様子が 僕にはなにかとても男らしいものに見えた。 



 左近君や龍村は ヤンキーという「黒」に属してはいるが 黒の中の黒ではない。何か白いところを持っている黒だ。

 中学生の僕はそんな風に認識していたかもしれない。



 そんな風に僕の中学の3年間は すぐ近くにヤンキーがいるのが当たり前の日々だった。



 中三のころ授業中に、社会科の教師とヤンキーが教室の床の上で 上になり下になりの乱闘を始めたこともあった。

 ヤンキーが黒板に板書してる先生にうしろからものを投げたのが原因だった。
 
 これに先生が逆上して「おらーーっ!ε=ε=(怒゚Д゚)ノ」と ヤンキーに向かっていった。
 

 授業そっちのけで くんずほぐれつの取っ組み合いに

 さすがに ここどこだっけ?と一瞬判らなくなったが 3年間荒れた学校を見てきたあとでは それほど驚きもしなかった。



 あんなひどい中学に通っていた人はそうそういないと思う。



 でも ヤンキーもタバコの煙もない中学生活を送っていたら、きっとよかったんだろうけど、、、ちょっと物足りない気もする。



 あのどろどろした世界の記憶が ホメオパシーのように 僕の心の免疫を多少は強化してくれた気もするからである。



 しかし 僕が 週刊ジャンプの「ろくでなしブルース」やマガジンの「カメレオン」が あまり好きでなかったのは きっとヤンキーガラパゴス中学に通っていたせいだろう。


 ヤンキーにはリアルで 十分おなかいっぱいになったので 漫画であらためて読みたいとはとても思えなかった。
 

 ヤンキーガラパゴス中学は 現在では ごく普通にクリーンな 公立中学校になっているという。


 かつてイグアナたちが気炎を上げて闊歩していた形跡は もうどこにも見当たらないだろう。



2021. 06. 28  


  前回の記事では、もしも火星の強制労働コロニーで働かされる人類として生まれていたら、どんなリアリティを持つだろうかということを想像してみた。このイマジネーションは、コーリーグッドの証言をもとにしているけど、僕はコーリーグッドの話しが真実かどうかは保証できない。

 ただ、彼のストーリーは面白いことは確かなので、その火星の労働に関する証言の一部を紹介したい。

 以下はマイケル・E・サラ氏の著作「Insiders Reveal Secret Space Programs & Extraterrestrial Alliances」 
 日本語翻訳版より (邦タイトルは超怪しいんだが いたってまじめに書かれてる書籍です)

 


 この施設の住民は何代にもわたってここに住んでおり、地球は大洪水のためにもはや住むことが不可能になっていると数十年間信じ続けている、とも言いました。

 私たちがそれが事実ではないと言ったり、そもそも自分たちは地球の表面からやってきたと明かしたりすれば社会に混乱が起きる。そういう事態は起こさないでほしいと彼は言いました。

 中に入ると基地のトップは私たちに次のような説明をしました。人々は地球が今も繫栄しているとは知らないし、そのこととSSP
同盟が宣伝している奴隷論の間には関係がなく、これは複雑な「社会的実験」なのだ、と言いました。

 基地のトップが強調したのは、人類に貢献する社会的実験にマイナスの影響を与えないよう注意してもらいたい、ということでした。



 ここで興味深いのは、「社会的実験」という言葉だ。

 おそらくそれは、人為的に偽りの情報のもとに人々を統制して社会を構築すれば いったいどのようになるのか という意味合いでの実験なのだろうと思われる。

 面白いのは、グッドがこの証言をした2015年6月 と同月に、イギリス惑星間協会(実在する組織)が「火星の独裁制を打破するにはどうすればよいのか?」というテーマで2日間もミーティングを持っていることだ。

 これは一種の思考実験のミーティングだったようだ。
 このことは英国BBCで報道され、以下BBCの過去記事にまだ残っている。

 How to overthrow a Martian dictatorship

 2015年の6月22日に、このことがBBCで放送され、同じ22日にグッドの火星強制労働に関する証言が出たらしい。

 これはちょっと偶然とは思えない符合だ。何を意味してるんだろうか?
 
 コーリーグッドによると、こういうような「社会的実験」が行われているという火星のコロニー。

 そこは偽りに基づいた世界と言えるけど、では、このグローバル地球文明は火星に比べてそれほど自由で解放された世界かと言えば、そうだとも言えない。

 グローバル地球文明のシステムを支配している、いくつかの利権構造(エネルギーや金融界)に不都合な現実は封印されて、ある意味で20世紀とそうは変わらないリアリティの中に押しとどめられているという部分は 間違いなくあると思う。

 そして今、COVID-MATRIXと言えるような世界観の中、大規模な社会的・生物学的実験が行われているようにも見える。

 僕はパンデミック以降 感染症対策(ニューノーマル)という名のもとに単一化していく世界観の息苦しさから、様々なパラレルな現実に興味が向かっていった。

 波動世界、周波数の世界、アートの世界、

 無限の星空をイメージすると、そこには限りない世界があるのは確かなように思える。

 また、地球の中にさえ、いくつかの現実の層があることが予想される。

 ひとつは貨幣や法などの制約のもとに生きている、一般的な地球人がいる。

 またハイクラスエリートの集団がいる。

 彼らは、地上の富や封印されたテクノロジーを独占しており、通常の法的拘束、経済的拘束は受けない。
 封印されたテクノロジーを独占しているため 彼らが遊び半分で、UFOで世界中旅をしてても 別に不思議ではない。
 彼等にとって、国境線はない。
 彼らはエリート意識を持つが、必ずしも「悪」と言えるかどうかわからない。彼らの論理で、地球環境保護のため、人口削減を計画している可能性もある。そして、彼らの世界に生まれてくる子供たちには何の罪もない。 

 また ヒマラヤなどに古来からあると伝えられる、スピリチュアルマスターのコミュニティという集団もある。
 
 彼らは、アナログな生命体としての人間の可能性を極限まで開発した集団で、常識を超えた能力や寿命を持つ。そのため、彼等にはテクノロジーは必要ない。からだを覆う布切れ一枚あれば、食事をせずとも、ずっと生き続けられるような人々だ。人類の霊性を高めるために働いていると言われる。 彼等もまた、ハイクラスエリートとは違う意味で、貨幣や、法、納税、などの社会構造から離脱している。

 そして、今でも地上には 完全に狩猟と採集でその日の糧を得て、ほとんど文明の恩恵を受けずとも生きて行ける、ネイティブ自然人とでも呼べる人々が存在する。 彼等もまた、国家組織により強制的に文明化されなければ、貨幣や法 などの社会構造から離脱している。

 3つほどあげてみたが、彼らはみなグローバル地球文明に生きる大半の人々とは異なった現実に住んでいる。

 「権利」や、「義務」という言葉は 彼等にはないだろう。
 それらは、近代的国家システムの体をなす国に生きる人々にとってのみ使用されるような言語だ。
 
 それらが明文化される以前に生命の法則のようなものがある。

 マスター集団 ネイティブ自然人は、その生命の法則のようなものに基づいて生き・行動するためそのような概念を必要とはしない。ハイクラスエリートたちは、一般的な「権利」や「義務」というフェンスを無視して、その斜め上を飛び回り 彼ら独自の論理によって行動する。


 このように考えると 僕らの生きるグローバル地球文明というものは 存在しうる現実の ごく限られた部分でしかないという可能性が出てくる。ちょうど、火星の独裁政権下に生きる 労働者が、自分たちの生きる現実が全てだと教育されることとそれは似ている。

 火星のコロニーの住民、ハイクラスエリートの集団、スピリチュアルマスター集団、ネイティブ自然人、一般的な地球人。

 これらは同じ人類種なんだけど、互いに断絶した現実のなかにいる。

 もっともっと昔に枝分かれした種族たちもどこかにいるかもしれない。

 そして、その断絶の度合いが大きいと 一方から見て他方は まるでエイリアンのごときに見えるのではないだろうか。

 ちょうど、「進化した科学は魔術と見分けがつかない」というA・C・クラークの言葉とそれは似ているかもしれない。

 枝分かれし 進化あるいは退化した人類は 僕らにとって完全に 異邦人(エイリアン) であるだろう。

 彼らはまったく別の倫理を持っているし、歴史を持っているだろう。

 このように考えると、『人類』の持つ現実は、無数にある。

 COVIDと戦うというようなストーリーを強要されている このリアリティは一つの樹の、ある枝でだけ起こっている。

 僕らが知っている『現実』が比較的こぶりの枝だとすると、その全体はおそろしく巨大な樹のようなものではないだろうか。

 人類全体の意識の総体、それをアダムカドモンと呼んだりするが、アダムカドモンはこぶりの枝ではなくて 樹全体だ。
 この樹は想像を絶するほど大きい。

 人間のあり方、潜在能力、その神性、経験の幅は 通常想像されるよりも、ずっとずっと大きい。

 アダムカドモンの目は 全てを見つめてきた瞳だ。
 
 ハイクラスエリートの現実、ネイティブ自然人の現実、マスターたちの現実、枝分かれして歴史から消えた過去の文明の人々

 そしてもしかすると存在するかもしれない、火星から地球を見つめる瞳

 このようなすべての人類の現実がひとつになり、それぞれの間の壁が取り払われて、知識を共有することが出来たら、いったいその時 僕らはどんな現実を生むことが出来るだろうか。

 そして、この流れがひとつになる時は意外と近いのかもしれない。

 去年に読んだ本、『ベロボディアの輪」に それを示唆する一文があるので、最後に紹介したい。

 2020年9月の記事 蝶になる時 90年代ロシア精神科医の著作『ベロボディアの輪』 より引用


 以下は主人公の精神科医オルガが ロシアのアカデミーで開発されたある特殊な装置の中に入って、別世界の住人とコンタクトしたシーンからの抜粋です。謎の男性が彼女に、いくつもの世界が同時存在していることを語ります。


 





 「その通り。君がここにいることは君自身のためだけではなく、他の人たちにとっても重要なのだ。君が自分自身の住んでいる世界の多くの異なった側面についてほとんど知らないというのもあたっている。

 君と時代を共にする人間たちは人類の一部が経験せざるをえなかったひとつの特定の進化が歩んだ道の結果なのだ。

 君と同類の人間たちは大半が知的思考に結びついた特殊な人間性の性質を育んだ。

 この進化の軌跡は、客観的現実とその法則が非常にきっちり固まっているという厳密な神話を生み出すことを要求した。

 こうした認識の拘束は君たちが与えられた仕事をやり終えることを可能にしたが、他の点では君たちを限界づけたのだ


 「あなたが、私と同類の人々を人間という時、それはあなたが人間ではないことを意味するんですか?

 「いや。

 私は人間だが、異なった進化の枝に属しているのだ。

 君と同類の人間たちだけが人類の唯一の代表ではない。人類の内部には多様な流れが存在している。

 その一つ一つが特定の任務を持っているのだ。

 それぞれの流れは人間の潜在的可能性の異なった次元の探求を目指している。

 みんな知覚が別々であるために、それぞれの流れは他の流れについて何も知らないんだ。

 もちろん、相互的なつながりはあった。時々、文明全体が進化の方向性を変え、その結果、他の文明を発見し、結合した。

 そのことが、君と同類の人間の歴史に、振り返ってもわからない不可解なギャップを残したのだ。


  「君がここにいるのは、君の文明が信奉する現実と他の文明との間に相互作用がうまれている兆候だよ。

 われわれの時間は互いに接近しつつあり、すべての異なった流れの最終的な融合がまもなく起ころうとしている。


 人類全体がさなぎの段階を終えようとしているのだ。



 毛虫が内部に形成されている蝶の身体に気づかず、将来の羽根についての知識をもっていないのと同じように、そこのことはまだ気づかれていない。羽根自体でさえ、飛行を始めるまではその意味を理解していない。君が信じるリアリティの流れに属する人々は確固とした新しい有機体を着実に形作ってきた。今、それが全容をあらわし、他の人類の流れと融合する成熟の時期を迎えつつあるのだ。

 君と同類の人々は大きな個人的変容を経るだろう。

 それは世界の終末のように思えるかもしれない。多くの点でそう見えるに違いない。なぜなら、古い世界の大半が実際に新しい存在によって置き換えられるからだ。

 これまでの古い現実像や世界観が通用しなくなるため、それぞれの人間の心理学的な構造も変容するだろう。

 君たちはこれまで知らなかった存在の側面を体験し、理解することを学ぶことになる。

 あるものたちにとって、それはたやすく、ほぼ瞬間的に起こるだろう。他のものはストレスと苦痛を通して努力する必要があるだろう。古い世界観の枠組みにあまりにもどっぷりつかっているために、何も全然気づかぬものもいるに違いない
。」



 「われわれめいめいは個的な人格として独自な方向へと成長する側面を持っている。

 けれどもわれわれの慈愛の自己について想いだしてもらいたい。

 人生のひとつひとつの意味を意味の全体性へと統合する自己だよ。


 同じことが人類全体にも等しくあてはまる。

 人類をひとつの存在とみなせば、一つでありながらもそれは多くの顔を持っている。

 しかし、あらゆる方向性を認識し、統合する純粋な慈愛の自己ももっている。

 われわれが座っているこの場所がそこなのだ。




 興奮の波が私の全身を貫いた。「この場所がベロボディアと呼ばれるの?」


 「それはさまざまな次元にまたがって存在し、いろいろな名称で呼ばれている






2021. 06. 01  


  この世には様々な蔑称めいたものがあります。

  年をとった男性を おっさんや じじいという、 女性をばばあという。子供をガキという。

  バブルの頃は、おとなしいと根暗と呼ばれ 袋に漫画を入れ持ち歩いてると オタクと呼ばれる。

  こういった蔑称めいたものは 呼ばれた対象を分類してわかったつもりになってるようで、結局 その呼称を使用するものの精神性をあらわしているのに過ぎないのかもしれないと思います。

  一種のヘイトですね。でも ヘイトしてるという実感があまりなくて、無意識に自分を上位に置いている。

  まあ、人間なので誰でもそういう部分は多少あるのですけど。

もちろん  愛とかユーモアがあればいいんですよね。

  「おい、オタク」 「うるせえな 変態!」

  とか そういう掛け合いを楽しくやれるならいいし。
  言葉でプロレスできる仲なら 毒舌は楽しいわけですよね。
  「アホか」って割と関西では普通に言いますが、これはほとんど誉め言葉。 

  僕も関西人なので、割と、言葉でプロレスするみたいな感じというのが 本性に根付いていて、ちょっときついこととか いじる系のことを言われるとなんかうれしい部分あります。やっぱり、心理的にソーシャルディスタンスを保つ標準語に比べて関西圏のコミュニケーションっていうのは こっちの間合いに入ってきてくすぐってくるみたいなとこが どっかあるんですよね。

 でもまあ 世にあふれてる呼称の中には どうやっても冗談になりにくいものとか、どういう気持ちでこの言葉使ってるの?と問い詰めたくなるものがある。

  一時期しょっちゅう「死ねばいいのに」という言葉を 往来で聴いてた時期がありました。

  これは冗談でも 僕は使いたくありませんでした。

  まあ 「負け組」とかもそうですね。 これってどうやっても言葉でするプロレスに使えない気がする。

  人に対して冗談で言うにしても、自嘲的に自分をそう呼ぶにしても、あるいはメス争いに負けた雄の動物をユーモアで負け組って呼ぶにしても

  なんか、いや~な気分になるというか。

  「変態」とか「バカ」とかは使えても 「勝ち組 負け組」はなんか使えない。
  使うと 自分の感性が汚される感じがする。

  そういう呼称ってあるんですよね。


  今日は その一例の話しなのですが・・・


  時々 ブログに書いてますけど、僕は細く長ーく一般に「障害者介護」と呼ばれる業界(?)に関わっています。

  で、最初からちょっと違和感があったのが、この「障害者」という呼称でした。

  いやいや、介護者とか福祉関係者が「障害者」って普通に言っていいのか? っていうところがちょっとあったんです。


  今でも「障害者介護の方で働いてまして・・・・」と自分で使う場合、消えない微妙な違和感を感じます。

  ある利用者さんは、「障」を「笑」に変えて、 「笑害者」と名乗っていました。

  笑うと害がある者 なんだろうか 笑うのに障害がある者なんだろうか 

  わかりませんが、いろいろ意味深。

  これはなんか面白くてよいですけど。



  「障害者」への違和感というのは、おそらく自分が重度の心身の病やけがを負ったとき、「障害者」なんて絶対に呼ばれたくない。

  「障害者手帳」 なんていう名前のものを持たされたくない。

  でも、自分は今 介護する側として その言葉を日常的に使用している・・・というところからもきています。

  

  最近ちょっといろいろあり、

  いや 考えれば考えるほど これひどい呼称じゃねえか なんだよ 障害者って??

  と 結構ムカムカしてきたのです。
 

  これってさ、よくわかりませんが 為政者的な上から視点から分類したものですよね。

  「はい、君たち健常者 こっちは障害者だよー」 みたいに。

  なんかそういうような愛のなさを 非常に感じるのですが。

  この国ってのは、根幹のとこが50年、60年ほとんど変わってないんじゃないかと。
  変える気もないんじゃないかと。

  
  もっとましな呼び方はないのか、他の国ではどう呼んでるんだろう。

  それで ちょっと調べてみると 英語では 障害のある人を Handicapped , Disabled と呼んでいて これはニュアンス的には日本の障害者にやや近いですが、しかし 日本語の障害者という冷たく変な語感は独特のもので 意味的には近くても響き的にちょっと違う気もする。

 障害者という語感は、完全に障害と その当人を一体化してしまっているんですよね。障害人間ってことですよ、早く言うと。

 英語圏のHandicapped のほうがまだましじゃないか。

 そして、20年ほど前からは米国で Challenged(チャレンジド) という言葉が生まれ、今ではスゥエーデンでも使われてるそうです。

 これは「 The challenged(挑戦という使命や課題、挑戦するチャンスや資格を与えられた人)」を語源とするらしいです。

 チャレンジドか・・・

 ちょっと持って回った感じはするけど、「障害者」より全然いい!! と個人的には思いました、

 障害があるということにフォーカスするよりも、その心身の状態で人生を生き切るという挑戦をしている 挑戦者とみなした方が 人をエンパワーする力が全然違う。

 なんでも

 そもそも米国でこの言葉が生まれ、世界的に広まったのは「人権の国アメリカと言いながら、自分たちが、“Handicapped” や “Disabledperson” というネガティブな呼び方をするのは、おかしいのではないか?」という声が約20年前に市民からあがり、様々な呼称が提唱されるという経緯を経て、“the Challenged” が使用されるようになったのだ、と聞きました。

 という経緯があったようです。こちらのサイトから転載させていただきました。

 
 僕は、「障害者」と同じように「(社会的)弱者」という言葉もあまり好きではありません。

 その人が 「強い」か「弱い」かなんて どうしてわかるというんだろうか。

 まったく動けないような体でも その人が生きているのは とてつもない精神力を持っているからかもしれないのに。

 その「強さ」を無視して 見た目や 社会的状況だけで 「弱者」と呼んでしまっていいのか と思います。


 たかが言葉と言えども、そこには名付けた人の愛や意図が表現されていて  

 どう呼ばれるかによって、人は元気を与えられもするし 気力をそがれもする。 


 だから 結構 大事なことで、社会的な成熟度のバロメーターでもあるのではないでしょうか。


 「おからだの不自由な方」とかいうような ちょっとおからだがむずむずするような丁寧な表現にするのではなく、「挑戦者」というレベルにまで意味的に飛躍させるのは 欧米っぽい勢いがあり好きですね。

 腫れ物にさわるように呼ぶのではなく その人のスピリットへのリスペクトが先行してるというか。

 
 スピ系の考え方として、チャレンジドな人々は、学習の進んだ魂で、あえて困難な環境、肉体を選んで生まれてくるのだとも言います。

 まあ 確かに そういう人もいるかもしれないですが 

 学習の進んだ魂か・・・

 うーん・・・そうね(いろいろ想起中)

 いや~~ ま いろいろじゃね?(笑)(゚∀゚)


 僕の経験では 利用者の人の言動に すごい尊いものを感じる時もありますし 「おいおい」と思ったり ムカッとすることもあります。

 いろんな人が居るし 一人の中にいろんな面がある

 そういう意味で、発展途上の 僕らとイコールでいいんじゃないかと思いますけどね。

 あえて上に置く必要もない。

 でも、すごい経験してるな~~と そういう意味でのリスペクトはあるんですね。



 僕らは誰でも ある程度 チャレンジドだと思うんです。

 みなこの時代の制限や制約 個々の環境の中で 生き抜くという挑戦をしていると。


 悪いことがおこっても それは単に悪いことではなく 与えられた課題であり チャレンジでもある。

 心身にハンディのある人を チャレンジドと呼べる感性は 僕ら自分自身が人生にチャレンジしているスピリットであるという 自尊心をも高めてくれるのではないでしょうか。


 他に対して使う呼称は 結局のところ 自分自身について語ってるものでもあるのですから。



プロフィール

はいたか鳥

  • Author:はいたか鳥
  •  Only in silence the word,
     only in dark the light,
     only in dying life :
     bright the hawk's flight on the empty sky


     ことばは沈黙に
    光は闇に
    生は死の中にこそあるものなれ
    飛翔せるタカの
    虚空にこそ輝けるごとくに

    ゲド戦記 エアの創造より


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