2016.
02.
15
昨日、ヨガナンダの映画のことを書きました。
でもヨガナンダて誰やねん?という方もいると思うのでその簡単なプロフィールなども書き記し、映画公開を前にしてWEB上のデータを増やしておこうかと思います。勝手にステルスマーケティングですね。
【パラマハンサ・ヨガナンダの生涯】

ヨガナンダの生誕は19世紀末、1893年、1月5日でした。
出身はゴラクプールという場所で、あまり聞き慣れない地名ですが、インドの北東部にあります。
聖なる河ガンガーの街ヴァラナシより北200キロほどに位置する、かなりネパールよりの場所ですね。
幼少期の名前は、ムクンダ・ラル・ゴーシュ。
家庭は裕福で、両親は二人とも熱心な神の信仰者でもありました。
彼の両親はヴァラナシの大聖者ラヒリ・マハサヤ師(このマスターについてはあとでまた)に帰依してもいました。
ヨガナンダは幼い頃から神への情熱と信愛に満ち溢れ、生涯を神に捧げたいという願いを持っていました。
17歳で生涯の師となるスワミ・スリ・ユクテスワ・ギリ師と出会います。
スリ・ユクテスワは非常に高度な存在で、ラヒリ・マハサヤの弟子でもあります。
ユクテスワの著作は、「聖なる科学」という本が唯一日本で出版されています。
ユクテスワは愛情に満ちていると同時に、とても厳しい先生でもありました。愛情と、普通の人間ならすぐに逃げ出してしまいそうな叱責でヨガナンダを指導します。師匠のもとで10年にわたり教えを受け、ヨガナンダの意識はより一層目覚め、サマーディーを経験するほどに高まりました。
1917年、彼はインドの少年のために霊的理想やヨガのプラクティスも組み込んだ学校を設立します。この学校にはマハトマガンジーも訪れ、非常に感銘を受けました。ごくごく普通の10才にも満たない少年がヨガの姿勢で、微動だにせず長時間瞑想している姿がみられるような場所だったようです。
その後、ヨガナンダの世界への奉仕は西洋へのヨーガの普及活動という形をとるようになります。
1920年、ボストンで開催された宗教指導者国際会議にインド代表として出席、「宗教の科学」という講演を行い、熱烈な反響を得ました。
そして米国にてセルフリアリゼーションフェローシップという団体を設立します。
その後10年以上にわたって、全米で講演活動等を行います。
当時のロサンゼルスタイムズには、「フィルハーモニック ホールでは数千人の人々による前例のない光景を見ることができます….. 告知された講演の開始時間の一時間前に3000人を収容できるホールは既に満員の状態です。」と書かれたそうで、相当な盛況がうかがえます。
もしかすると、ヨガナンダの持ってきた東洋の叡智は、ずっと西洋の人々が自らの全体性を完成するために待ちわびていたものだったのかもしれません。 乾いた土壌が恵みの雨を吸収するように、人々はヨガナンダの教えに耳を傾けました。
ヨガナンダの教えは、多くの著名人をも魅了しました。彼の弟子となった人物の中には、園芸家のルーサー ・バーバンク、ソプラノ歌手のアメリタ・ガリー クルーチ、コダックカメラの発明者のジョージ・イーストマン、詩人のエドウィン・マークハム、指揮者のレオポルド・ストコウスキー等がいたそうです。
1935年、一年間ヨガナンダはインドに帰国します。
その期間に、当時有名だった女性グルアナンダモイ・マーや、ラマナ・マハリシと会っています。
グルのユクテスワと感動的な再会を果たして、ユクテスワより最高の霊的呼称である「パラマハンサ」を与えられました。パラマハンサは至高の白鳥を意味し、神の喜びに絶えず浸り続けるものに与えられます。
その師、ユクテスワが肉体を離れるとき、ヨガナンダは大きな悲しみに突き落とされます。ユクテスワとヨガナンダの間にあった師弟の絆は、普通の想像を絶するほど強く信愛と尊敬に満ちたものでした。まさにヨガナンダにとってユクテスワは肉体をまとった神そのものであったのではないかと想像させます。
悲しみに包まれるヨガナンダの前に、光の体をまとい復活したユクテスワが晴れ晴れとした笑顔で出現します。
「もうお前を𠮟ることはない」というユクテスワに、「いえ、ずっと𠮟ってください」と懇願するヨガナンダ。
ユクテスワは弟子を強く抱きしめた後、自分が今いる「ヒラニャローカ」という別の宇宙次元について彼に語り聞かせました。父なる神のもとで永遠にひとつであることを確認しあい、ユクテスワは彼の眼前から消えていきました。
その後もヨガナンダは執筆活動、布教活動に生涯を捧げました。
ヨガナンダ自身の死は、ヨーギの理想とするものでした。
時が来たことを自ら悟り、自らの意志で肉体を離れる「マハー・サマディー」に入ったのです。
彼の遺体には聖者特有の現象が起こりました。彼の遺体を保管する埋葬所の所長は「20日間にわたってまったく腐敗の兆候が見えなかった」ことを報告しています。下の写真はマハーサマディーに入る直前のヨガナンダです。

長くなりましたが、「あるヨギの自叙伝」を読んだ記憶と、WEB情報からおおまかながらヨガナンダの生涯を記してみました。ヨガナンダの生涯を見ると、彼は特定のはっきりした使命を持って生まれてきた偉大なスピリット、「マハトマ」であったことがよくわかります。
「あるヨギ」の中で僕が特にこころ打たれたのは、ヨガナンダとユクテスワの非常に強い愛と信頼の絆でした。
そしてそれが、僕自身のこの本への、ヨガナンダへの信頼となっているようです。
確かに常識を超えた超常現象もすごくいっぱい出てくるんですが、人を感動させるのはやはり究極的には愛情なんですよね。それも、単に「人と人との」ではなくそこに「神」が加わっているからこその、愛情と言うんでしょうか。
その強烈さを感じます。
【ヨガナンダの霊的系譜】
インドにはグルから弟子へ脈々と受け継がれていくという伝統があるわけですが、お互いへの愛が、教えを純粋に伝えていくための媒体となっているような気がしました。
ヨガナンダの師匠は、スリ・ユクテスワ。
そして、ユクテスワの師匠はヴァラナシのラヒリ・マハサヤ師です。
ヨガナンダも僕らの普通の基準で言えば相当すごいんですが、簡単に言うとその師のユクテスワが頭をたれるほどラヒリ・マハサヤはすごいことになります。なんか、銀河系で一番でかい恒星は太陽の何十倍で、しかし、それよりも何十倍でかい恒星が宇宙にはある、みたいなそういう感じで、どれくらいすごいのかよくわからなくなってきます。東京ドーム5個分はわかるけど、1000個分は比ゆとしての意味をなさないみたいなそういうとこでしょうか。あるいはべジータがびびるフリーザが強いのはわかるけど、魔人ブーがどれくらい強いかは、もはや意味不明みたいな(ごめんなさい)
このカリン様のような神秘的な表情の人物がラヒリ・マハサヤです。
普通にいろんな場所に出現したり、消えたりするようなマスターでした。

カメラを向けても写真が写らないことが多かったようで、これは「あるヨギ」に載っている数少ない写真のひとつです。そして、このラヒリマハサヤの師匠が、あのマハーアヴァター・ババジということらしいです。
ババジは2000年近く前に生きていたマスターで、多くの人は今でも肉体を持ち生きていると考えています。
日本人の考えではなかなか信じられないことですが、ヨガナンダもユクテスワも物質化したババジに何度か会っているようです。
そして、このババジの師匠は、アガスティアの葉で有名な聖者アガスティアです。
ヨガナンダの系譜をまとめると次のようになります。
アガスティア↓(神話時代)

↓
ババジ↓(西暦203年~現在)

↓ここから実在の確定的な19世紀以降の人
ラヒリ・マハサヤ↓(1828~1895)

↓
スリ・ユクテスワ↓(1855~1936)

↓
ヨガナンダ(1893~1952)

さかのぼると神話的な世界に来てしまい、それでもその存在たちが実際に今もいるということを多くの人が信じ、受け継がれてきたものを信じているということ。マスターの系譜を調べれ調べるほど、インドの奥の深さが垣間見えます。肉体の血脈だけではなく、霊的な血脈がはっきりあるということを教えてくれます。
【おまけ】ヨガナンダ、そのマスターたちに関する参考文献
2016.
02.
14
明日からの一週間にブルーになってる方に朗報です。
なんとヨガナンダの人生が映画化されるらしい!
え?もう知ってる?僕はたった今知りました。だれも教えてくれないんだもん・・
いやー 超楽しみ!!現代も捨てたもんじゃないですね~
東京都は4月30日土曜 ~渋谷ユーロスペースにて
スティーブジョブズのipadに唯一入っていたのが、「あるヨギの自叙伝」だとか。ほ~~知らんかった。
「あるヨギの自叙伝」は、スティーブ・ジョブズ氏のiPadに唯一ダウンロードされていた本として知られており、ジョブズ氏の追悼式では800冊分が参列に訪れた重要人物らに配布されました。
この本はまた、東洋神秘主義への入り口としてジョージ・ハリスンやラッセル・シモンズほか、多くのヨガ修練者たちの教典となりました。ヨガナンダ自身の悟りへの探求を個人的な体験として著し、修行の道程における苦闘を分かち合ったことで、太古からの教えは現代の読者にも開かれたものとして伝えられたのです
こちらのブログより→ヨガナンダの映画が日本でも公開されるぞ!しかも全国各地で。タイトルは「永遠のヨギー」
永遠のヨギー公式サイト(←上映劇場など)

2010.
10.
11
系統
ラマナ・マハリシ→パパジ→ガンガジ
http://www.youtube.com/watch?v=_kZ7tYwy9jE&feature=related
以下ガンガジ著書「ポケットの中のダイヤモンド」抜粋
とうとう私は、助けが必要であることを認めました。私は師を必要としていたのです。真実の師、本物の、決定的な師が現れるように祈りました。本物の師、本物の教えとはどういうものか、その結果がどういうものになるのか、私にはまったくわかりませんでした。ただ、もがき苦しむことから解放されたい、ということだけはわかっていました。私は私の真実の存在を実感したかったけれど、どうしたらそれができるのかわかりませんでした。私は、自分の知る限りの手を尽くしたことを認め、そしてついに降参したのです。
真実の師が見つかることを祈ってからわずか六ヶ月のうちに、奇跡的な状況が重なり、私はインドでH・W・プーンジャ(パパジ)と向かい合っていました。パパジは私を普通以上の歓迎のしかたで迎えてくれました。目をキラキラさせながら私を迎え入れ、彼が私に与えられるものは何であれ持っていきなさい、と言ったのです。私の資格をチェックすることも、私のカルマをチェックすることも、長所を数え上げることもパパジはしませんでした。私が彼に会えて興奮していることを彼は私の目に見て取り、そしてこう言ったのです。「何が欲しいのか言ってごらん」
私は答えました。「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください。」
パパジはまず「正しい場所に来たね」と言い、それから「何もしないでいなさい。あなたの問題のすべては、あなたが行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。信じることも、探し求めることも、言い訳することも。すでに、そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい」と言いました。
私はそのときじっと座っていたので、いったいパパジが何を行っているのかわかりませんでした。それから、彼は肉体的行為のことを言っているのではない、ということに気づきました。そうではなくて、パパジは私に、すべての精神的な行為を止めるように指示していたのです。
頭の中で疑問や恐れが聞こえました。もし考えるのを止めたら、肉体を気遣うこともなく、朝ベッドから起きることも、車を運転することも、仕事に行くこともできない――私は恐怖でいっぱいになりました。探し求めるのを止めたら、ここまでの探求の中で手に入れたと思っていた地盤を失ってしまうような気がしました。自分が手にいれたように感じていたものの一部をなくしてしまうかもしれない、と。
けれどもパパジの存在感は偉大で、その、彼の目を見つめた瞬間、私はそこに、力、明晰さ、そして広大さを認め、それが私の足を止めたのです。師が与えられることを求めたのは私でした。そしてその瞬間、幸運にも私には、自分が求めた師の言うことに注意を払うだけの分別があったのです。その瞬間私は、何ごともいとわずに、恐怖の底にある思考を追うことも信じることも止め、初めはどうしようもない絶望の深淵のように思われたところに落ちていきました。すると、私が追い求めていた充足感と平和はここにあること、それはこれまでもずっとここにあったということ、そしてそれがなくなる可能性はない、ということが明らかになったのです。
何より驚いたことに、そのことを私はずっと知っていた、ということに私は気づいたのです!その瞬間私は、これまで私が欲しがってきたもののすべては、すでにここに、純粋で永遠なる存在の地盤として存在しているということに気づきました。私が「私」「私のもの」と呼んでいた苦しみのすべては、この輝く純粋な存在の中で起こっていたことでした! そして、何よりも重要なこと、つまり、私の本当の姿とはすなわちこの存在である、ということがわかたったのです。そしてこの存在は、あらゆるところに、見えるもの、見えないものすべての中に在るのです。
このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう! それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありまあしたが、これはまったくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚状態であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない! ということに気づいたのです。
ラマナ・マハリシ→パパジ→ガンガジ
http://www.youtube.com/watch?v=_kZ7tYwy9jE&feature=related
以下ガンガジ著書「ポケットの中のダイヤモンド」抜粋
とうとう私は、助けが必要であることを認めました。私は師を必要としていたのです。真実の師、本物の、決定的な師が現れるように祈りました。本物の師、本物の教えとはどういうものか、その結果がどういうものになるのか、私にはまったくわかりませんでした。ただ、もがき苦しむことから解放されたい、ということだけはわかっていました。私は私の真実の存在を実感したかったけれど、どうしたらそれができるのかわかりませんでした。私は、自分の知る限りの手を尽くしたことを認め、そしてついに降参したのです。
真実の師が見つかることを祈ってからわずか六ヶ月のうちに、奇跡的な状況が重なり、私はインドでH・W・プーンジャ(パパジ)と向かい合っていました。パパジは私を普通以上の歓迎のしかたで迎えてくれました。目をキラキラさせながら私を迎え入れ、彼が私に与えられるものは何であれ持っていきなさい、と言ったのです。私の資格をチェックすることも、私のカルマをチェックすることも、長所を数え上げることもパパジはしませんでした。私が彼に会えて興奮していることを彼は私の目に見て取り、そしてこう言ったのです。「何が欲しいのか言ってごらん」
私は答えました。「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください。」
パパジはまず「正しい場所に来たね」と言い、それから「何もしないでいなさい。あなたの問題のすべては、あなたが行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。信じることも、探し求めることも、言い訳することも。すでに、そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい」と言いました。
私はそのときじっと座っていたので、いったいパパジが何を行っているのかわかりませんでした。それから、彼は肉体的行為のことを言っているのではない、ということに気づきました。そうではなくて、パパジは私に、すべての精神的な行為を止めるように指示していたのです。
頭の中で疑問や恐れが聞こえました。もし考えるのを止めたら、肉体を気遣うこともなく、朝ベッドから起きることも、車を運転することも、仕事に行くこともできない――私は恐怖でいっぱいになりました。探し求めるのを止めたら、ここまでの探求の中で手に入れたと思っていた地盤を失ってしまうような気がしました。自分が手にいれたように感じていたものの一部をなくしてしまうかもしれない、と。
けれどもパパジの存在感は偉大で、その、彼の目を見つめた瞬間、私はそこに、力、明晰さ、そして広大さを認め、それが私の足を止めたのです。師が与えられることを求めたのは私でした。そしてその瞬間、幸運にも私には、自分が求めた師の言うことに注意を払うだけの分別があったのです。その瞬間私は、何ごともいとわずに、恐怖の底にある思考を追うことも信じることも止め、初めはどうしようもない絶望の深淵のように思われたところに落ちていきました。すると、私が追い求めていた充足感と平和はここにあること、それはこれまでもずっとここにあったということ、そしてそれがなくなる可能性はない、ということが明らかになったのです。
何より驚いたことに、そのことを私はずっと知っていた、ということに私は気づいたのです!その瞬間私は、これまで私が欲しがってきたもののすべては、すでにここに、純粋で永遠なる存在の地盤として存在しているということに気づきました。私が「私」「私のもの」と呼んでいた苦しみのすべては、この輝く純粋な存在の中で起こっていたことでした! そして、何よりも重要なこと、つまり、私の本当の姿とはすなわちこの存在である、ということがわかたったのです。そしてこの存在は、あらゆるところに、見えるもの、見えないものすべての中に在るのです。
このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう! それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありまあしたが、これはまったくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚状態であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない! ということに気づいたのです。
2008.
04.
10
ゲオルグ・フォイアスティン著 『聖なる狂気』に紹介されている覚者、ダー・ラブ・アーナンダについて。ダー・ラブ・アーナンダはあまり聴いたことがないアングロサクソン系の覚者である。
1939年生まれ。インド系のグルに指導され修行をするうちに1970年、覚醒。現在も弟子の指導を続けている模様。
『聖なる狂気』はトリックスター的な振る舞いをするグルについてのさまざまなケーススタディと、考察によってなっている。
彼らは言わばディオニュソス的な聖者だ。弟子の習慣的な思考パターンや、自己同一化を破壊するために時には暴力や、ドラッグや、性的乱痴気騒ぎも行う。「必要とあれば、なんでもおこなう」というのが彼らのスタンスである。当然、このような立場は社会的な秩序と衝突し、激しくバッシングされる場合もある。そして、弟子にさえ回復困難なトラウマを与える場合がある。
『聖なる狂気』ではこのような「狂気の智慧」を行使するグルの存在の、その危険性と意義について深く考察している。
そして一時期著者の直接の師匠でもあったダー・ラブ・アーナンダについても、疑問点と肯定すべき点の双方から考察を加えている。彼も「狂気の智慧」を用いるマスターの一人だったのだ。
ダーラブ・アーナンダの生涯(以下彼のウェブサイトより超意訳)
①アバターとしての誕生
アバター・アディ・サマラジは1939年11月3日ニューヨークのロングアイランドに生まれた。彼の生誕時の名前は「フランクリン・アルバート・ジョーンズ」である。
誕生から彼の幼児期を通して、サマラジは彼が「光輝」と呼ぶ独特の状態を楽しんだ。
それは心からの喜びの拡大した領域だ。そして私は光り輝く形態をとり、エネルギーの源泉であり、愛の歓喜だった。エネルギーの只中の光、愛の歓喜と、光だった。
二歳のときサマラジは「光輝」を手放す自発的な選択をする。明白に分割された人間になり、他者とも分離することを。彼は彼が「痛みによる愛」と呼んだものによりこの選択をする。人類の苦難への共感によって。
サマラジは彼の誕生の背後にある大きな衝動に応える・・・それは、すべての人々に「光輝」をしらしめるという目的だった。
この目的を達する唯一の方法は、普通の人間の視点から人生を経験する為に、意図的に「光輝」を忘却すること、そしてその限界付けられた状態から、「光輝」を回復する道を見つけることだった。
私のアバターとしての生誕は意識的、意図的な聖なる自己放棄の行為だった。それによって私の自己存在と、存在の光輝の状態は、この世界での限界付けられた肉体と精神の状態を通して自ら明らかにされる。
②少年時代
サマラジは創造的な子供で、シンプルな楽しみやユーモアを周りの人々にもたらした。操り人形師として、絵描きとして、腹話術師として、そのほかの多くの活動を通して。
彼はまたアウトドアも大好きだった。泳いだり、釣りをしたり、森の中で遊んだ。
サマラジは彼の家族のルター派のキリスト教会に完全に帰依し、ちょっとした「宗教的恍惚状態」も体験した。(普通の生活への自己放棄の一部として)、因習的な宗教の基本的教義をもまた受け入れたのだ。分割された自己と、世界の創造者としての神の概念をも。
幸福がサマラジの幼年期の傑出したサインであった間、人生の暗い側面、死すべき運命と苦痛もまた、彼の気づきの一部だった。
死と恐怖は彼の「光輝」の感覚と反対のもので、万人がそれを超越できる道をみつけるために、それらを経験していった。
ティーンネイジャーになると共に、サマラジの「光輝」の確かさは減じていった。それを回復したいという彼の衝動のみが残った。
③ 「サーダナ」の開始
サーダナはサンスクリット語で霊的修練を意味する。
サマラジのサーダナは、彼の幼年時代より消え去った「光輝」を回復しようとする衝動に従おうという決断と共に始まった。
高校卒業後、1957年秋に、彼はニューヨークのコロンビア大学に入学した。
コロンビア入学後、彼は「意識とは何か?」という疑問に取り憑かれた。サマラジは学習と、意図的にすべての経験の形を試すことを通じて、答えを激しく追い求めた。
大学の3回生のとき、真実の追究こそ苦しみの原因であると彼が認識することが起こった。
しかし、彼はこの理解をずっともち続けることは出来なかった。
コロンビアを卒業後、サマラジはカリフォルニアに移動し、スタンフォード大学でクリエイティブライティングのクラスをはじめた。
太平洋を臨むビーチに住み、彼は意識と存在の仕組みを執筆活動を通じて探求した。これを通して、「自己収縮活動」の隠されたパターンを発見した。
1964年、彼は彼のサーダナを助けてくれる、人間の教師を見つけねばならないという直感を持った。
④血統
1964年、サマラジはニューヨークに移動しそこで初めての人間の教師を見つける。ルディ、スワミ・ルドラナンダだ。彼は修行の厳しい試練に服従し、ルディの教えに身をゆだねた。
ルディのもとで彼が従事した修行は、彼の肉体を浄化し、後の霊的修練のための基礎を築いた。
1968年までにサマラジはルディが属する偉大なグルの血統に近づきたいという逆らいがたい衝動を持った。そして彼はルディのグル、スワミ・ムクターナンダに会う許しを、ルディに申し出、許された。
サマラジはスワミ・ムクターナンダを訪ねるため3度インドへと旅をした。1969年の彼の二度目の訪問の折、ムクターナンダはサマラジのヨーガによる解放の達成を認め、彼に他のものを教える権利を与えた。
彼らの関係の当初より、ムクターナンダは彼自身のグル、スワミ・ニティヤーナンダの埋葬されている場所を訪れるように指示した。
そして、彼はその血統の最高のグルとしてのニティヤーナンダに自らを明け渡した。
サマラジの3度目のインド訪問の時、ニティヤーナンダの埋葬されている廟を訪ねている間、彼はグルとしての他のすべてのものを手放して、グルとしての神聖なる女神に直接明け渡すように指示された。このようにしてニティヤーナンダは、サマラジを女神に引き渡したのだ。
ニティヤーナンダ、ムクターナンダ、ルディを含む血統の源のグルである、聖なる女神へ。
⑤再覚醒
聖なる女神はサマラジをロサンジェルスに戻るよう導いた。そして彼は女神の存在を特に強く感じるハリウッドの小さな寺院で、毎日瞑想を始めた。
1970年の9月、ヴェーダンタ協会に属するこの寺院で瞑想している間、サマラジは「光輝」へと永久に再び目覚めた。そして、自然に彼の存在の真の神聖な本質と、彼の誕生の聖なる目的を理解した。
翌日、私は寺院に再び坐った。私は最愛のシャクティがおのずから彼女自身を明らかにしてくれるのを待った。私の神聖な相棒として。しかし、時は流れ、変化はなかった、まったくなんの動きもなかった。そこには内面の深まりさえなかった・・・内面性が一切なかった。
そこに瞑想はなかった。瞑想の必要もなかった。
そこには私の状態を完全にするために加えることが出来る、ただひとつの要素も変化もなかった。
私は目を見開いて坐った。いかなる経験もしてはいなかった。
そして、突然、わたしはもっとも完全に理解した。私は私が悟っていることを悟った。
「光輝」についてのことが明白になった。
私は完全だ。私は完全な存在だ。
その瞬間に、私は理解し、悟った。
私が何で、誰なのか。
それは沈黙の理解だった。
意識の中の直接的な知識だ。
それはいかなる「他の」源からのコミュニケーションのない、意識それ自体だ。
そこには「他の」ものなどなかった。

フランクリン・アルバート・ジョーンズ

ダー・ラブ・アーナンダ
http://www.adidam.org/museum/home.htm
http://www.adidam.org/
1939年生まれ。インド系のグルに指導され修行をするうちに1970年、覚醒。現在も弟子の指導を続けている模様。
『聖なる狂気』はトリックスター的な振る舞いをするグルについてのさまざまなケーススタディと、考察によってなっている。
彼らは言わばディオニュソス的な聖者だ。弟子の習慣的な思考パターンや、自己同一化を破壊するために時には暴力や、ドラッグや、性的乱痴気騒ぎも行う。「必要とあれば、なんでもおこなう」というのが彼らのスタンスである。当然、このような立場は社会的な秩序と衝突し、激しくバッシングされる場合もある。そして、弟子にさえ回復困難なトラウマを与える場合がある。
『聖なる狂気』ではこのような「狂気の智慧」を行使するグルの存在の、その危険性と意義について深く考察している。
そして一時期著者の直接の師匠でもあったダー・ラブ・アーナンダについても、疑問点と肯定すべき点の双方から考察を加えている。彼も「狂気の智慧」を用いるマスターの一人だったのだ。
ダーラブ・アーナンダの生涯(以下彼のウェブサイトより超意訳)
①アバターとしての誕生
アバター・アディ・サマラジは1939年11月3日ニューヨークのロングアイランドに生まれた。彼の生誕時の名前は「フランクリン・アルバート・ジョーンズ」である。
誕生から彼の幼児期を通して、サマラジは彼が「光輝」と呼ぶ独特の状態を楽しんだ。
それは心からの喜びの拡大した領域だ。そして私は光り輝く形態をとり、エネルギーの源泉であり、愛の歓喜だった。エネルギーの只中の光、愛の歓喜と、光だった。
二歳のときサマラジは「光輝」を手放す自発的な選択をする。明白に分割された人間になり、他者とも分離することを。彼は彼が「痛みによる愛」と呼んだものによりこの選択をする。人類の苦難への共感によって。
サマラジは彼の誕生の背後にある大きな衝動に応える・・・それは、すべての人々に「光輝」をしらしめるという目的だった。
この目的を達する唯一の方法は、普通の人間の視点から人生を経験する為に、意図的に「光輝」を忘却すること、そしてその限界付けられた状態から、「光輝」を回復する道を見つけることだった。
私のアバターとしての生誕は意識的、意図的な聖なる自己放棄の行為だった。それによって私の自己存在と、存在の光輝の状態は、この世界での限界付けられた肉体と精神の状態を通して自ら明らかにされる。
②少年時代
サマラジは創造的な子供で、シンプルな楽しみやユーモアを周りの人々にもたらした。操り人形師として、絵描きとして、腹話術師として、そのほかの多くの活動を通して。
彼はまたアウトドアも大好きだった。泳いだり、釣りをしたり、森の中で遊んだ。
サマラジは彼の家族のルター派のキリスト教会に完全に帰依し、ちょっとした「宗教的恍惚状態」も体験した。(普通の生活への自己放棄の一部として)、因習的な宗教の基本的教義をもまた受け入れたのだ。分割された自己と、世界の創造者としての神の概念をも。
幸福がサマラジの幼年期の傑出したサインであった間、人生の暗い側面、死すべき運命と苦痛もまた、彼の気づきの一部だった。
死と恐怖は彼の「光輝」の感覚と反対のもので、万人がそれを超越できる道をみつけるために、それらを経験していった。
ティーンネイジャーになると共に、サマラジの「光輝」の確かさは減じていった。それを回復したいという彼の衝動のみが残った。
③ 「サーダナ」の開始
サーダナはサンスクリット語で霊的修練を意味する。
サマラジのサーダナは、彼の幼年時代より消え去った「光輝」を回復しようとする衝動に従おうという決断と共に始まった。
高校卒業後、1957年秋に、彼はニューヨークのコロンビア大学に入学した。
コロンビア入学後、彼は「意識とは何か?」という疑問に取り憑かれた。サマラジは学習と、意図的にすべての経験の形を試すことを通じて、答えを激しく追い求めた。
大学の3回生のとき、真実の追究こそ苦しみの原因であると彼が認識することが起こった。
しかし、彼はこの理解をずっともち続けることは出来なかった。
コロンビアを卒業後、サマラジはカリフォルニアに移動し、スタンフォード大学でクリエイティブライティングのクラスをはじめた。
太平洋を臨むビーチに住み、彼は意識と存在の仕組みを執筆活動を通じて探求した。これを通して、「自己収縮活動」の隠されたパターンを発見した。
1964年、彼は彼のサーダナを助けてくれる、人間の教師を見つけねばならないという直感を持った。
④血統
1964年、サマラジはニューヨークに移動しそこで初めての人間の教師を見つける。ルディ、スワミ・ルドラナンダだ。彼は修行の厳しい試練に服従し、ルディの教えに身をゆだねた。
ルディのもとで彼が従事した修行は、彼の肉体を浄化し、後の霊的修練のための基礎を築いた。
1968年までにサマラジはルディが属する偉大なグルの血統に近づきたいという逆らいがたい衝動を持った。そして彼はルディのグル、スワミ・ムクターナンダに会う許しを、ルディに申し出、許された。
サマラジはスワミ・ムクターナンダを訪ねるため3度インドへと旅をした。1969年の彼の二度目の訪問の折、ムクターナンダはサマラジのヨーガによる解放の達成を認め、彼に他のものを教える権利を与えた。
彼らの関係の当初より、ムクターナンダは彼自身のグル、スワミ・ニティヤーナンダの埋葬されている場所を訪れるように指示した。
そして、彼はその血統の最高のグルとしてのニティヤーナンダに自らを明け渡した。
サマラジの3度目のインド訪問の時、ニティヤーナンダの埋葬されている廟を訪ねている間、彼はグルとしての他のすべてのものを手放して、グルとしての神聖なる女神に直接明け渡すように指示された。このようにしてニティヤーナンダは、サマラジを女神に引き渡したのだ。
ニティヤーナンダ、ムクターナンダ、ルディを含む血統の源のグルである、聖なる女神へ。
⑤再覚醒
聖なる女神はサマラジをロサンジェルスに戻るよう導いた。そして彼は女神の存在を特に強く感じるハリウッドの小さな寺院で、毎日瞑想を始めた。
1970年の9月、ヴェーダンタ協会に属するこの寺院で瞑想している間、サマラジは「光輝」へと永久に再び目覚めた。そして、自然に彼の存在の真の神聖な本質と、彼の誕生の聖なる目的を理解した。
翌日、私は寺院に再び坐った。私は最愛のシャクティがおのずから彼女自身を明らかにしてくれるのを待った。私の神聖な相棒として。しかし、時は流れ、変化はなかった、まったくなんの動きもなかった。そこには内面の深まりさえなかった・・・内面性が一切なかった。
そこに瞑想はなかった。瞑想の必要もなかった。
そこには私の状態を完全にするために加えることが出来る、ただひとつの要素も変化もなかった。
私は目を見開いて坐った。いかなる経験もしてはいなかった。
そして、突然、わたしはもっとも完全に理解した。私は私が悟っていることを悟った。
「光輝」についてのことが明白になった。
私は完全だ。私は完全な存在だ。
その瞬間に、私は理解し、悟った。
私が何で、誰なのか。
それは沈黙の理解だった。
意識の中の直接的な知識だ。
それはいかなる「他の」源からのコミュニケーションのない、意識それ自体だ。
そこには「他の」ものなどなかった。

フランクリン・アルバート・ジョーンズ

ダー・ラブ・アーナンダ
http://www.adidam.org/museum/home.htm
http://www.adidam.org/
2008.
03.
03
「ラスト・バリア」の著者であるルシャッド・フィールドは、現在はイングランドに帰っているようだ。
Yahoo!UKで調べてみると、ルシャッドとハミッドの写真を発見した。
ルシャッドはなんかインディージョーンズみたいだ。
ハミッドは・・・ちょい怪しげだ。
本名はBulent Rauf (1900–1987)←誰か読み方教えてくらさい。

Bulent Rauf氏(ハミッド)

こちら、ルシャッド・フィールド。
http://www.chalice.ch/c_rtf_e.htm より
ラスト・バリアを読んでいると、ハミッドの思想に妙に「グルジェフ臭」を感じる部分が多々あるのだが、ルシャッド氏はもともとグルジェフ・ウスペンスキー系統の思想や、アリスベイリーの神智学を研究していたようだ。
あのハミッドの厳しさや、理解に苦しむ振る舞いの数々も僕には弟子を、奇行により死ぬまで翻弄し続けたグルジェフを連想せずにはいられない。
スーフィーズムの宇宙が、グルジェフのシステムの中にはかなり入っているんだろうか。
ルシャッド・フィールドについて(上記サイトより、かなり適当に訳)
生涯の旅
ルシャッドの旅は、生まれ故郷のイギリスから遠く、インドやアメリカ、ヨーロッパに達した。その他では彼はポップスターや、株式仲買人、骨董品のディーラーだったこともある。彼の人生は、より美しい真実の次元の絶え間ない探求だった。G・I・グルジェフと、P・D・ウスペンスキーやチベット仏教の教えに心を動かされ、またチベットのラマや、ネイティブアメリカン、シャーマン、スーフィーの道のマスターらとの出会いを経て、ついに彼の真の教師とめぐり合う。
歌手、著述家、教師
1934年に誕生したルシャッド・フィールドは、典型的なイギリス式教育を受けて大学を出たのち、その頃存在していた兵役のため二年間海軍に入隊した。軍隊を出たあと、彼はロンドンへ行った。そこでは短い期間、株式取引所で働いたり、広告業に携わった。この期間彼は、最初のギターを買い、すぐに夜のレストランで歌っていた。これが1963年の最良のボーカルグループとして賞され、大変有名になった「スプリングフィールズ」結成へと導く。グループが解散した時、ティムは(この時その名で知られていた)骨董品のビジネスを始める。その後間もなく、彼の人生を完全に変えてしまう出来事が起こるのだった。
スーフィズムの真髄
ある朝、ルシャッドがある骨董品店に入ったとき、彼はBulent Rauf と出会う。彼はそのご数年間ルシャッドのスピリチュアルな教師となる。ルシャッドは最初の2冊の著作「ラストバリア」と「見えない道」で彼にハミッドという名前を与えている。ハミッドを通してルシャッドは、その当時トルコ、コンヤのダルウィーシュの教主であったデデ(1904–1985) と会うこととなる。
そこでルシャッドは、700年以上にもさかのぼる彼らの内なる教えの中で、訓練を受けた。彼の名前がルシャッドに変わったのもまたこの時だった。それは彼のもともとのファーストネーム、リチャードにとても近い。ルシャッド・フィールドの最初の本は世界中でよく知られるようになった。その他の多くの本や、講演、ミュージックテープ、授業やセミナー開催などの広範囲にわたる活動を行った数年間が、その後に続いた。ルシャッドは彼がスイスへ行くまでの16年間アメリカに住んだ。2004年、彼はイギリスへ戻ってきた。
生の内なる意味の探求
これまで見てきたように、ルシャッドの人生は、真実と、生の内なる意味への探求のための世界をまたにかけた冒険と旅である。ルシャッドの著作を読むとき、地上での私たちの存在のいしずえを形成する、ひとつの本質的真理がそこにあることに私たちは気づく。そして私たちは、すべての真の探求者
のハートから立ち上がるいくつかの疑問を彼と分かち合うように招かれている。私たちは日々の生活の中で経験することが出来る、真の自由の風味を与えられるのだ。真実の生はここに、この世界の中にあり、スピリチュアルな夢の国の幻想の中にあるわけではないことを、私たちは発見する。

デデとルシャッド。1970年代、カリフォルニア。
デデ、イメージ通り。すばらしくいい感じの写真だな~と思った。
Yahoo!UKで調べてみると、ルシャッドとハミッドの写真を発見した。
ルシャッドはなんかインディージョーンズみたいだ。
ハミッドは・・・ちょい怪しげだ。
本名はBulent Rauf (1900–1987)←誰か読み方教えてくらさい。

Bulent Rauf氏(ハミッド)

こちら、ルシャッド・フィールド。
http://www.chalice.ch/c_rtf_e.htm より
ラスト・バリアを読んでいると、ハミッドの思想に妙に「グルジェフ臭」を感じる部分が多々あるのだが、ルシャッド氏はもともとグルジェフ・ウスペンスキー系統の思想や、アリスベイリーの神智学を研究していたようだ。
あのハミッドの厳しさや、理解に苦しむ振る舞いの数々も僕には弟子を、奇行により死ぬまで翻弄し続けたグルジェフを連想せずにはいられない。
スーフィーズムの宇宙が、グルジェフのシステムの中にはかなり入っているんだろうか。
ルシャッド・フィールドについて(上記サイトより、かなり適当に訳)
生涯の旅
ルシャッドの旅は、生まれ故郷のイギリスから遠く、インドやアメリカ、ヨーロッパに達した。その他では彼はポップスターや、株式仲買人、骨董品のディーラーだったこともある。彼の人生は、より美しい真実の次元の絶え間ない探求だった。G・I・グルジェフと、P・D・ウスペンスキーやチベット仏教の教えに心を動かされ、またチベットのラマや、ネイティブアメリカン、シャーマン、スーフィーの道のマスターらとの出会いを経て、ついに彼の真の教師とめぐり合う。
歌手、著述家、教師
1934年に誕生したルシャッド・フィールドは、典型的なイギリス式教育を受けて大学を出たのち、その頃存在していた兵役のため二年間海軍に入隊した。軍隊を出たあと、彼はロンドンへ行った。そこでは短い期間、株式取引所で働いたり、広告業に携わった。この期間彼は、最初のギターを買い、すぐに夜のレストランで歌っていた。これが1963年の最良のボーカルグループとして賞され、大変有名になった「スプリングフィールズ」結成へと導く。グループが解散した時、ティムは(この時その名で知られていた)骨董品のビジネスを始める。その後間もなく、彼の人生を完全に変えてしまう出来事が起こるのだった。
スーフィズムの真髄
ある朝、ルシャッドがある骨董品店に入ったとき、彼はBulent Rauf と出会う。彼はそのご数年間ルシャッドのスピリチュアルな教師となる。ルシャッドは最初の2冊の著作「ラストバリア」と「見えない道」で彼にハミッドという名前を与えている。ハミッドを通してルシャッドは、その当時トルコ、コンヤのダルウィーシュの教主であったデデ(1904–1985) と会うこととなる。
そこでルシャッドは、700年以上にもさかのぼる彼らの内なる教えの中で、訓練を受けた。彼の名前がルシャッドに変わったのもまたこの時だった。それは彼のもともとのファーストネーム、リチャードにとても近い。ルシャッド・フィールドの最初の本は世界中でよく知られるようになった。その他の多くの本や、講演、ミュージックテープ、授業やセミナー開催などの広範囲にわたる活動を行った数年間が、その後に続いた。ルシャッドは彼がスイスへ行くまでの16年間アメリカに住んだ。2004年、彼はイギリスへ戻ってきた。
生の内なる意味の探求
これまで見てきたように、ルシャッドの人生は、真実と、生の内なる意味への探求のための世界をまたにかけた冒険と旅である。ルシャッドの著作を読むとき、地上での私たちの存在のいしずえを形成する、ひとつの本質的真理がそこにあることに私たちは気づく。そして私たちは、すべての真の探求者
のハートから立ち上がるいくつかの疑問を彼と分かち合うように招かれている。私たちは日々の生活の中で経験することが出来る、真の自由の風味を与えられるのだ。真実の生はここに、この世界の中にあり、スピリチュアルな夢の国の幻想の中にあるわけではないことを、私たちは発見する。

デデとルシャッド。1970年代、カリフォルニア。
デデ、イメージ通り。すばらしくいい感じの写真だな~と思った。
2007.
10.
22
知人が貸してくれた本、「気楽に行こうね!~人生は夢のようなもの・・・~」より
大笑い
最初に腹の底から身をよじって大笑いしたのは30歳のとき。
「この世には自分しか存在していなくて、
すべては自分だったんだ」ってわかった。
それまで深刻になってなんとか生き残ろうとあくせくしていた自分が
可笑しくてしかたなかった。
気に入られたくて良い人を演じている自分、
恐れ入った人をおだてている自分、格好つけて思ってもいないことを
口にしている自分、明日からのことを心配している自分、
あれもこれも自分がやってきた全てに腹の底から大笑いした。
だって無意味なことをしていたのだから。
自分は人生の脚本家であり、監督であり、主演俳優だ。
そこまではいいが
こともあろうに観客までもが自分だったということは、
あまりにも可笑しい。
全ては自分だった、ということは自分自身を欺いていたことになる。
何も信頼できず、誰も信用できず、ひとりで一生懸命頑張って生きていたのだ。
深刻さとは大いなるものへの「信頼」の欠如。自分の人生は完璧で、
必要なときに必要なことが起きているということが信じきれない。
「こうなるべきだ」「こうなったらどうしよう」これらは未来のこと。「なぜあんなことが起きたのか」「あの時こうしていれば・・・」これらは過去のこと。
深刻さはそのような場所から生まれてくる。
それは過去と未来が創り出す幻想の世界に縛られている状態だ。
笑っちゃうのが一番だけどね。ウソでもいいから笑っちゃう。
人生という馬鹿げたドラマを笑っちゃう。何でもいいから笑っちゃう。ウヒヒ・・・ウヒヒ・・・ムヒョヒョ・・ガハハ・・・
全部、自分だったってことは、全部神だったっていうことでしょうか。
神様にいいカッコは出来ないと思っていても、いつも忘れてしまいます。
著者 阿部敏郎さん
芸能界大手プロダクションに所属し
幅広いジャンルで活躍する。
30歳の時、突然の霊的体験を契機に現役を引退。
精神世界を学び始め、後に静岡県の禅寺にて
禅僧とのコンビで心の学校「いまここ塾」を始める。
2001年、沖縄でライブ活動を再開。
翌年、家族と共に沖縄に移住する。
現在は、講演活動、ライブ活動、執筆活動、
ラジオ番組のパーソナリティーを務めている。
ブログ「阿部敏郎の今・ここから・・・」
http://abetoshiro.ti-da.net/
大笑い
最初に腹の底から身をよじって大笑いしたのは30歳のとき。
「この世には自分しか存在していなくて、
すべては自分だったんだ」ってわかった。
それまで深刻になってなんとか生き残ろうとあくせくしていた自分が
可笑しくてしかたなかった。
気に入られたくて良い人を演じている自分、
恐れ入った人をおだてている自分、格好つけて思ってもいないことを
口にしている自分、明日からのことを心配している自分、
あれもこれも自分がやってきた全てに腹の底から大笑いした。
だって無意味なことをしていたのだから。
自分は人生の脚本家であり、監督であり、主演俳優だ。
そこまではいいが
こともあろうに観客までもが自分だったということは、
あまりにも可笑しい。
全ては自分だった、ということは自分自身を欺いていたことになる。
何も信頼できず、誰も信用できず、ひとりで一生懸命頑張って生きていたのだ。
深刻さとは大いなるものへの「信頼」の欠如。自分の人生は完璧で、
必要なときに必要なことが起きているということが信じきれない。
「こうなるべきだ」「こうなったらどうしよう」これらは未来のこと。「なぜあんなことが起きたのか」「あの時こうしていれば・・・」これらは過去のこと。
深刻さはそのような場所から生まれてくる。
それは過去と未来が創り出す幻想の世界に縛られている状態だ。
笑っちゃうのが一番だけどね。ウソでもいいから笑っちゃう。
人生という馬鹿げたドラマを笑っちゃう。何でもいいから笑っちゃう。ウヒヒ・・・ウヒヒ・・・ムヒョヒョ・・ガハハ・・・
全部、自分だったってことは、全部神だったっていうことでしょうか。
神様にいいカッコは出来ないと思っていても、いつも忘れてしまいます。
著者 阿部敏郎さん
芸能界大手プロダクションに所属し
幅広いジャンルで活躍する。
30歳の時、突然の霊的体験を契機に現役を引退。
精神世界を学び始め、後に静岡県の禅寺にて
禅僧とのコンビで心の学校「いまここ塾」を始める。
2001年、沖縄でライブ活動を再開。
翌年、家族と共に沖縄に移住する。
現在は、講演活動、ライブ活動、執筆活動、
ラジオ番組のパーソナリティーを務めている。
ブログ「阿部敏郎の今・ここから・・・」
http://abetoshiro.ti-da.net/
2007.
09.
10
およそ天地の間に万物生生するその元は皆天照大御神なり
是万物の親神にて その御陽気天地に遍満り
一切万物ひかりあたたまりの中に生生養育せられてやむ時なし
実に有り難き事なり おのおの体中にあたたまりの有るは
日神より受けて具えたる心なり 心はこごるという義にて
日神の御陽気が凝結りて心と成るなり
人欲を去り 正直に明らかなれば 日神と同じ心なり
心は主人なり 形は家来なり 悟れば心が身を使い
迷えば身が心を使う 形の事を忘れ
日神の日日の御心に任せ 見るも聞くも一々味わい
昼夜有り難いと嬉しいとに心をよせ
御陽気をいただきて下腹に納め 天地と共に気を養い
面白く楽しく 心にたるみ無きように
一心が活きると人も活きるなり
生きるが大御神の道 面白きが大御神の御心なり
教えは天より起こり 道は自然と天より顕わるるなり
誠を取り外すな 天に任せよ 我を離れよ 陽気になれ
いきものをつかまえよ 古の心も形なし 今の心も形になし
心のみにして形を忘るる時は 今も神代 神代今日 今日神代
世の中の事は心程ずつの事なり
心が神になれば即ち神なり
「太陽の神人 黒住宗忠」より
黒住宗忠(1780~1850):
現岡山県岡山市の今村宮の神官の子として生まれる。
35才のときに肺結核を患い、臨死状態となるが、冬至の朝、
日の神=天照大神との神秘的合一を体験し蘇生。
この「天命直授」により、以後、陽気(太陽の気による息)を
吹きかける病気治癒の能力を獲得し、一方で天照大神の神徳を説き
絶大な支持を集める。
教派神道十三派の中でも老舗というべき黒住教の教祖。
是万物の親神にて その御陽気天地に遍満り
一切万物ひかりあたたまりの中に生生養育せられてやむ時なし
実に有り難き事なり おのおの体中にあたたまりの有るは
日神より受けて具えたる心なり 心はこごるという義にて
日神の御陽気が凝結りて心と成るなり
人欲を去り 正直に明らかなれば 日神と同じ心なり
心は主人なり 形は家来なり 悟れば心が身を使い
迷えば身が心を使う 形の事を忘れ
日神の日日の御心に任せ 見るも聞くも一々味わい
昼夜有り難いと嬉しいとに心をよせ
御陽気をいただきて下腹に納め 天地と共に気を養い
面白く楽しく 心にたるみ無きように
一心が活きると人も活きるなり
生きるが大御神の道 面白きが大御神の御心なり
教えは天より起こり 道は自然と天より顕わるるなり
誠を取り外すな 天に任せよ 我を離れよ 陽気になれ
いきものをつかまえよ 古の心も形なし 今の心も形になし
心のみにして形を忘るる時は 今も神代 神代今日 今日神代
世の中の事は心程ずつの事なり
心が神になれば即ち神なり
「太陽の神人 黒住宗忠」より
黒住宗忠(1780~1850):
現岡山県岡山市の今村宮の神官の子として生まれる。
35才のときに肺結核を患い、臨死状態となるが、冬至の朝、
日の神=天照大神との神秘的合一を体験し蘇生。
この「天命直授」により、以後、陽気(太陽の気による息)を
吹きかける病気治癒の能力を獲得し、一方で天照大神の神徳を説き
絶大な支持を集める。
教派神道十三派の中でも老舗というべき黒住教の教祖。
2007.
05.
18
神が使い手、私は道具。・・・これを覚らぬあいだは何度も何度も戻ってこなくてはならない。つまり、生まれかわらなくてはならないのだ。
「あの御方だけが行為者である」ことを覚ったならば、もう再生はしない。
「私」と「私のもの」が真実(実在)をおおいかくしているのだ。
※
ヴェーダーンタに一つ、いい説明がある。鍋で、まぜご飯をつくる。じゃがいもや茄子も米にまぜてある。火が通ってくると、いも、茄子、米は鍋のなかではね上がる。すると、そいつらはウヌボレて、「私は動いている!私はとび上がっている!」と思う。
小さい子供はそれを見て、いもや茄子は生きているからあんなふうにとび上がっているんだ、と思う。いくらか成長して知恵がついてくると、いもや茄子は生きているんじゃない、自分でとび上がっているんじゃない、鍋の下に火が燃えているから、あんなふうに動くのだ、燃えている薪をとってしまえばもう動かないのだ、ということがわかってくる。
人間の「私が行動者だ」というウヌボレは、無智から生ずる。神様の御力で、あらゆるものに力があるのだ。もえている薪をとり去ってしまえば、何もかも黙る。
あやつり人形は、人形師の手にあやつられてみごとに踊っているが、手から放れると、もう動きも進みもしない!
神様に会わぬうちは、あの智恵の宝玉にさわらぬうちは、自分が行動者だと錯覚して、オレが私がといって、うろつきまわっているんだよ。そして、「私は善いことをしている」、「私は悪いことをしている」というような、差別の感じがするのだ。
この差別の感じが、つまり、あの御方のマーヤ(創造現象)で、マーヤの世界で暮らすために、あの御方から与えられたものなんだ。
※
「大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉」より
「あの御方だけが行為者である」ことを覚ったならば、もう再生はしない。
「私」と「私のもの」が真実(実在)をおおいかくしているのだ。
※
ヴェーダーンタに一つ、いい説明がある。鍋で、まぜご飯をつくる。じゃがいもや茄子も米にまぜてある。火が通ってくると、いも、茄子、米は鍋のなかではね上がる。すると、そいつらはウヌボレて、「私は動いている!私はとび上がっている!」と思う。
小さい子供はそれを見て、いもや茄子は生きているからあんなふうにとび上がっているんだ、と思う。いくらか成長して知恵がついてくると、いもや茄子は生きているんじゃない、自分でとび上がっているんじゃない、鍋の下に火が燃えているから、あんなふうに動くのだ、燃えている薪をとってしまえばもう動かないのだ、ということがわかってくる。
人間の「私が行動者だ」というウヌボレは、無智から生ずる。神様の御力で、あらゆるものに力があるのだ。もえている薪をとり去ってしまえば、何もかも黙る。
あやつり人形は、人形師の手にあやつられてみごとに踊っているが、手から放れると、もう動きも進みもしない!
神様に会わぬうちは、あの智恵の宝玉にさわらぬうちは、自分が行動者だと錯覚して、オレが私がといって、うろつきまわっているんだよ。そして、「私は善いことをしている」、「私は悪いことをしている」というような、差別の感じがするのだ。
この差別の感じが、つまり、あの御方のマーヤ(創造現象)で、マーヤの世界で暮らすために、あの御方から与えられたものなんだ。
※
「大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉」より