2017.
12.
01
創造者とつながるとされる音を昔からいろいろある。
OMと比べるとあまり知られていない、HUチャント。
エッカンカーという団体で使われていたらしいけど、もっと古い起源があるのかな。
ヒューっていうと 有声化される前にHの風切り音が入るけど、それがちょっと気持ちいい。
2015.
01.
19
明け渡す、という言葉からは次のような言葉を連想します。
委ねる 手放す 降参する 放棄する
など
明け渡せ、と言われると不安になるのはなぜでしょうか?
それは明け渡すということは、すべてを、大切なもの、執着しているものを奪われるという可能性とつながっているからでしょう。
誰か同じ人間に「私に明け渡せ(降参しろ、委ねろ)」といわれたら、抵抗するのは当然ですが、僕らは普通は神や宇宙と呼ばれるものに対してすら明け渡すことに恐怖を感じます。
例えば、心の中に自分のお気に入りの部屋があるとします。
その中にあるたくさんのおもちゃで僕らは遊んでいます。
その中でもとりわけ気に入ってるものは、きつく握り締めています。
その部屋の扉を開くと、宇宙空間があって、神様がのぞいています。
明け渡すということは、この扉を開き、そしておもちゃを握り締めている手を緩めるということかもしれません。
扉を開くとすべてのおもちゃは部屋を漂い始めるかもしれません。
あるものは扉から浮遊して出て行ってしまうでしょう。
でもすべてが吸い出されてしまうわけではありません。
人間関係でも お金でも 仕事でも 趣味でも 考え方でも 僕らに必要なものは部屋の中に残ります。
ただすべてはふわふわ浮かんでいますが。
以前よりもイリュージョンのように消えたり 現れたり 点滅しています。
宇宙は明け渡すことを通して すべてを取り上げるということを意図しているわけではないような気がします。
ただ、部屋の扉を自分から開けてくれることを求めているのかもしれません。
ところが僕らは 扉を開けると怖いお母さんが入ってきて 全部台無しにしてしまうと どこかで思っています
その宇宙への防衛状態が苦しみであるということにお母さんは気付いています。
おもちゃを握り締めている手に力がはいりすぎて、余計なエネルギーを使い、手を傷つけていることをこそ気にかけているのかもしれません。
お父さんが、あのおもちゃはもうああの子には必要ないと判断し、取り去ろうとするとき、強く握り締めていればそれだけ、手を傷つけてしまうでしょう。
だからお母さんは 部屋の外で 声をかけ続けています
「信頼して部屋をあけてちょうだい 何も あなたに必要なものすべてを 取り上げるつもりはないから
いらなくなったものはきれいにして もっと素敵なプレゼントをあげるつもありだから」 と
ただそれでも僕らは怖い 何を取り上げられ 何が残るかわからないから。。。
あのすみに転がってる飽きかけたおもちゃならいいけど。。この手に握ってるやつだったら・・・・
「開けなさい あなたを愛してるのよ 焼きたてのケーキを持ってきたわ」
とお母さんが言います
扉の向こうからいい匂いがする・・・・
あまりにいい匂いだから
ごとん、と手に持っていたおもちゃを落としてしまった
おなかが グーッとなる
おもちゃは食べられない お母さんの作った料理しか 僕らは食べられない
どうしよう?
雷親父が来る前に
開けようか?
やめとこうか?
宇宙の子ども部屋で 僕らはドアノブを握って考え続けます。
でも、きっと
おいしそうな匂いと優しい声に負けて
僕らはドアを開けるでしょう。
2012.
04.
17
寝てる時やってきた想い
それがどんな人生であろうと
生きていることだけで
大いなる祝福を受け取るに十二分に価する
他にはどんな資格もない
なぜなら・・・なぜならなんだっけ?
生きているということは
神がこの世界を体験している
その姿であるから
だったかな・・・
BLESSは全方向に広がり満ちわたるエネルギーである
2010.
06.
21
http://www.youtube.com/watch?v=G60c-4668U8&feature=related
確か、ラムダスが脳血管障害をわずらい、それを『ヘビーな恩寵』と呼んだことは記憶している。
この映像はその後のものだろうか?
ともにニームカロリ・ババのもとにいたクリシュナダスのチャンティングの中で涙する彼。
神をたたえる歌声の中で何を感じていたのだろうか。
「ビーヒアナウ」などを読み、ラムダスの人生に触れている人にとっては、ひときわ感慨深い映像ではないかと思う。
2010.
05.
28

スワミ・シヴァーナンダと、若き日のサティア・サイババ。
リシケシで修行していたI先生の師匠がサッチャナンダ・サラスバティ師だと聴いているけど、シヴァーナンダ師はサッチャナンダ師の師にあたるので、I先生のグルのグルになるのかな??
シヴァーナンダとまだ若きサイババが1950年代に出会っていたと言う話しがあるようだ。
サイババがシヴァーナンダのアシュラムに滞在したと言う。
1957年にサイババは、ヒマラヤに旅をした際に、リシケシュのスワミ・シヴァーナンダのアーシュラムに滞在しました。サイババはシヴァーナンダ・アーシュラムを『霊的静寂を得るためにふさわしい場所』と祝福しました。インドで数多くあるYogaのアーシュラムの中で、サイババがこれほど祝福したのは、Sivananda アーシュラムだけでした。
スワミ・シヴァーナンダはサイババのことを「バガワン(尊神)」と呼んでいました。スワミ・シヴァーナンダは毎晩、英知に満ちた霊的会話をサイババと交わし、サイババのメッセージを一同に伝えました。そして、スワミ・シヴァーナンダは、ナマスマラナム(神の御名を唱えながら、御姿を想い浮かべる)の大切さを何度も伝えました。スワミ・シヴァーナンダの『自分を傷つける人をも愛しなさい』という教えは、サイババの教えとまったく同じものだということで驚いたことを、今でもおぼえています。スワミ・シヴァーナンダはある日、暴漢男に襲われたとき、警察に突き出したりせずに、ジャパ(神の御名を唱える)の大切さを教え、帰りの交通費まで与え許しました。スワミ・シヴァーナンダは教えを説くだけでなく、みずから実践していました。まさに『思い・言葉・行動』が常に一致していたので、聖者として歴史にその名を刻みました。
サイババがシヴァーナンダ・アーシュラムに訪れた当時、スワミ・シヴァーナンダは体調があまりよくありませんでした。そんな状況でも、スワミ・シヴァーナンダはサイババのために、庵(いおり)を案内したりアーシュラム内を案内し続けました。その様子を見てサイババはスワミ・シヴァーナンダのために、もっと健康になるようにと毎晩、ヴィブーティー(神聖灰。肉体・精神・霊的病の薬。求道者に、「すべては儚く神だけが真実」であることを悟らせるための象徴。身体につけたり、飲んだりする)と果物を物質化して与えました。さらにサイババは目の前でガンジスの水を手に取り、その水をアムリタ(甘い蜜)に変えて、スワミ・シヴァーナンダに薬として与えました。そのおかげで、スワミ・シヴァーナンダの健康状態は日ごとによくなったそうです。
こちらのブログ記事より 無断転載ごめんなさい。
2010.
05.
20
クリシュナダス。
名前は聴いたことがあったけど、You tubeで今回初めて聴いて見るとよかった。
シヴァのマントラなのに、動画の絵がなんかネイティブワールドというのが一種の謎だが、意外と違和感がなく美しい。wikiの英語のページを見てみると、インドのキルタンを歌うボーカリストとして有名だそうだけど、ラムダスと一緒にニームカロリババのところに居たらしい!
wikiにマハラジとの思い出を語るクリシュナダスの言葉が載っているので、ちょっと訳してみた。
神様に向かう時、どうやって向かうのがいいかなーと考えていた。
今まで割りと沈思黙考だったけど、これだとどうも変なトリップが内面で始まるので、声に出して何か唱えるか・・もうむしろなんか歌っちゃった方がいいのかなと思っていた直後だったのでちょっとツボ。ラムダスもそうだけど、マハラジのところに居た人ってなんかいいなあ。
マハラジの肉体を持った最後のダルシャンにおいて、私はアメリカへ戻ることの恐怖に凍り付いていた。
多くの年月のあと、私はジーンズや靴をこんなにも長い間使っていなかったので、それがどんなものか想像することもできなかった。アメリカで何をするべきか、マハラジに尋ねたくはなかった。しかし苦悶の中で突然私は口走った。
『マハラジ!私はアメリカでどうやってあなたに奉仕すればいいのですか!』
すると彼は あたかもうんざりしたような様子で私を見て、こう言った。
『なんだそれは?お前がどのように私に奉仕するべきか尋ねるなら、もはやそれは奉仕とは言えないな。お前のやりたいことを、やりなさい。』
私は自分の耳を疑った。私のしたいことがどのように彼への奉仕となるのか?私はそのような種の信念は持っていなかった。私は唖然としてそこにただ座っていた。数分後彼はまた私を見て、甘く微笑み、そして尋ねた。
『それで、どうやって私に奉仕してくれるのかね?』
私の心は空白だった。
もうデリーからアメリカへ発つ飛行機を捕まえなければならない時間だった。
彼は私を見て、笑っていた。私が最後にかがんで、彼の御足に触れて、彼を見上げた時、彼は私に晴れやかに微笑んだ。
『それで、お前はアメリカでどうやって私に仕えてくれるんだい?』
私はまるで夢の中で動いているように感じていた。中庭を横切り、彼に向かって遠くからもう一度お辞儀をした。その時、私に答えがやってきた。
『私はアメリカで、あなたの為に歌います!』
そのすぐあと、9月の満月の時期に、彼は肉体を離れた。今、彼はこの中にいる。チャンティングや、瞑想や、プージャそしてマハラジとともに過ごしたすばらしい時は、彼自身が私のハートに植えつけた種であった。その種は彼の恩寵によって成長を続け、花開くだろう。
Krishna Das (born Jeffrey Kagel May 31, 1947 in Long Island, New York
http://www.youtube.com/watch?v=rq-1bxJc7F0&feature=related
そっかーインドの恩寵をアメリカへ持ち帰ったクリシュナダス。
アメリカの元の霊性ネイティブワールド。
つまり霊性の融合ってことかな?
名前は聴いたことがあったけど、You tubeで今回初めて聴いて見るとよかった。
シヴァのマントラなのに、動画の絵がなんかネイティブワールドというのが一種の謎だが、意外と違和感がなく美しい。wikiの英語のページを見てみると、インドのキルタンを歌うボーカリストとして有名だそうだけど、ラムダスと一緒にニームカロリババのところに居たらしい!
wikiにマハラジとの思い出を語るクリシュナダスの言葉が載っているので、ちょっと訳してみた。
神様に向かう時、どうやって向かうのがいいかなーと考えていた。
今まで割りと沈思黙考だったけど、これだとどうも変なトリップが内面で始まるので、声に出して何か唱えるか・・もうむしろなんか歌っちゃった方がいいのかなと思っていた直後だったのでちょっとツボ。ラムダスもそうだけど、マハラジのところに居た人ってなんかいいなあ。
マハラジの肉体を持った最後のダルシャンにおいて、私はアメリカへ戻ることの恐怖に凍り付いていた。
多くの年月のあと、私はジーンズや靴をこんなにも長い間使っていなかったので、それがどんなものか想像することもできなかった。アメリカで何をするべきか、マハラジに尋ねたくはなかった。しかし苦悶の中で突然私は口走った。
『マハラジ!私はアメリカでどうやってあなたに奉仕すればいいのですか!』
すると彼は あたかもうんざりしたような様子で私を見て、こう言った。
『なんだそれは?お前がどのように私に奉仕するべきか尋ねるなら、もはやそれは奉仕とは言えないな。お前のやりたいことを、やりなさい。』
私は自分の耳を疑った。私のしたいことがどのように彼への奉仕となるのか?私はそのような種の信念は持っていなかった。私は唖然としてそこにただ座っていた。数分後彼はまた私を見て、甘く微笑み、そして尋ねた。
『それで、どうやって私に奉仕してくれるのかね?』
私の心は空白だった。
もうデリーからアメリカへ発つ飛行機を捕まえなければならない時間だった。
彼は私を見て、笑っていた。私が最後にかがんで、彼の御足に触れて、彼を見上げた時、彼は私に晴れやかに微笑んだ。
『それで、お前はアメリカでどうやって私に仕えてくれるんだい?』
私はまるで夢の中で動いているように感じていた。中庭を横切り、彼に向かって遠くからもう一度お辞儀をした。その時、私に答えがやってきた。
『私はアメリカで、あなたの為に歌います!』
そのすぐあと、9月の満月の時期に、彼は肉体を離れた。今、彼はこの中にいる。チャンティングや、瞑想や、プージャそしてマハラジとともに過ごしたすばらしい時は、彼自身が私のハートに植えつけた種であった。その種は彼の恩寵によって成長を続け、花開くだろう。
Krishna Das (born Jeffrey Kagel May 31, 1947 in Long Island, New York
http://www.youtube.com/watch?v=rq-1bxJc7F0&feature=related
そっかーインドの恩寵をアメリカへ持ち帰ったクリシュナダス。
アメリカの元の霊性ネイティブワールド。
つまり霊性の融合ってことかな?
2010.
05.
11
これ、ある意味貴重な映像かもしれん。
サイババのダルシャンのあと、かなりハイになってるギボ愛子さん。
大槻ケンジの「サイババの後ろに霊は見えましたか?」という質問に
「サイババは、サイババでした!」と。
http://www.youtube.com/watch?v=IHmjjt72eP4&feature=related
やさしさ、笑み、「引き付ける力」 シンプルに サイババから感じ取ったものを表現されているのがいい。
おまけ
電話越しにユリゲラーの着てる服を当てて、自分も驚くギボさん。
あらためて見ると確かにお茶目でかわいらしい方ですね。
http://www.youtube.com/watch?v=260ExjTbVC0&feature=related
サイババのダルシャンのあと、かなりハイになってるギボ愛子さん。
大槻ケンジの「サイババの後ろに霊は見えましたか?」という質問に
「サイババは、サイババでした!」と。
http://www.youtube.com/watch?v=IHmjjt72eP4&feature=related
やさしさ、笑み、「引き付ける力」 シンプルに サイババから感じ取ったものを表現されているのがいい。
おまけ
電話越しにユリゲラーの着てる服を当てて、自分も驚くギボさん。
あらためて見ると確かにお茶目でかわいらしい方ですね。
http://www.youtube.com/watch?v=260ExjTbVC0&feature=related
2010.
03.
27
なんでもインドのヒンズーの神様はすべてトラウマ系の神様で、それぞれ対応しているトラウマがあるそうだ。
なかでもクリシュナは、傷ついた女性性の癒しに対応しているという。(I先生の話し)
それは女性のみに限らず、男性でも傷つくのは自らの女性性なのだという。
クリシュナは、牧女のラーダという恋人がいた。
クリシュナは絶対者の化身であったわけなので、ラーダは神に愛された女性と言うことになる。
それは例えば、イエスに対する、マグダラのマリア
クリシュナと同じくヴィシュヌ神の化身であるラーマ王には、シータ王妃がいた。
聖なる結婚が、元型的なレベルでおこれば、女性性は癒される。
神話とは元型の表現であるので、クリシュナとラーダ、イエスとマリア、ラーマとシータの結婚は各自の内側で起こりうる可能性の雛形なのだ。
ちなみに、自らの「子」を完全に癒すのはやはりコズミックマザーなのだそうだ。
「子」が傷つくのは、親に絶対者を見ているから。
ヒンズーのマントラでは一番好きなのはクリシュナのマントラなのだが、こういう背景を知る前からクリシュナのマントラを唱えると、ある甘さとハートに来るのが感じられた。その響きが好きなのでずっと唱えている数少ないマントラのひとつだった。
クリシュナは10000人恋人がいたそうだ(笑)
普通複数恋人がいる場合でも、2,3人とかであろうし、実際的に人間の限界として多くても10人以上欲しいなんていう人はまあいないだろう。というかそんなにいても付き合えないから意味がないし楽しくないし、10000人も名前は覚えられない。
この10000人という数字は、それが普通の欲望の延長線上の恋人ではなく、なんというか救済活動というか、そういうレベルの話しではないかと思わせる桁数をあえて設定しているようにすら思える。
クリシュナは、マスターというよりもアバターだ。
絶対者がそのまま、人の形として現れたような存在だ。
ジェームズ・キャメロンの「アバター」は異星人の肉体に地球人の意識を転送したものだけど、本来のアバターは人間の肉体に絶対者の意識が直接転送されたものだと思う。
遥かな昔、そのような時代が、存在したのかもしれない。
ハレクリシュナマントラ
http://www.youtube.com/watch?v=zkm_LRSsyus
この感じもまったりしてて良い インドでチャイをすすりながら聴きたいなあ。
http://www.youtube.com/watch?v=nl4iHtrgg9o
これは声が迫力がある。この背景はトリップ用か!?(笑
http://www.youtube.com/watch?v=kLLAUPS2C1A
至高のクリシュナに帰依しますというマントラ
いろいろな年齢のクリシュナが見れる。
赤ん坊として、いたずら好きの子供として、血の気の多い若者として、戦士として、恋人として、ハーレムの主として、万物を夢見る宇宙神として、最後には人を迷いの海から救済するヨーガの王として・・・
http://www.youtube.com/watch?v=GKjJPSbBZys
「私は多くの生を経てきた。あなたもそうだ、アルジュナよ。
私はそれらすべてを知っている。だがあなたは知らない。
私は不生であり、その本性は不変、万物の主であるが、自己のプラクリティに依存して、自己のマーヤにより出現する。」
バガバッド・ギータにおけるクリシュナの言葉
こころ洗われる声 Deva premalの om namo bhagavate vasudevaya
http://www.youtube.com/watch?v=hC-li4e7XJQ
「私は万物に対して平等である。
私には憎むものも好きなものもない。
しかし、信愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。
アルジュナよ、確信せよ、私のバクタ(信者)は滅びることがない。」
なかでもクリシュナは、傷ついた女性性の癒しに対応しているという。(I先生の話し)
それは女性のみに限らず、男性でも傷つくのは自らの女性性なのだという。
クリシュナは、牧女のラーダという恋人がいた。
クリシュナは絶対者の化身であったわけなので、ラーダは神に愛された女性と言うことになる。
それは例えば、イエスに対する、マグダラのマリア
クリシュナと同じくヴィシュヌ神の化身であるラーマ王には、シータ王妃がいた。
聖なる結婚が、元型的なレベルでおこれば、女性性は癒される。
神話とは元型の表現であるので、クリシュナとラーダ、イエスとマリア、ラーマとシータの結婚は各自の内側で起こりうる可能性の雛形なのだ。
ちなみに、自らの「子」を完全に癒すのはやはりコズミックマザーなのだそうだ。
「子」が傷つくのは、親に絶対者を見ているから。
ヒンズーのマントラでは一番好きなのはクリシュナのマントラなのだが、こういう背景を知る前からクリシュナのマントラを唱えると、ある甘さとハートに来るのが感じられた。その響きが好きなのでずっと唱えている数少ないマントラのひとつだった。
クリシュナは10000人恋人がいたそうだ(笑)
普通複数恋人がいる場合でも、2,3人とかであろうし、実際的に人間の限界として多くても10人以上欲しいなんていう人はまあいないだろう。というかそんなにいても付き合えないから意味がないし楽しくないし、10000人も名前は覚えられない。
この10000人という数字は、それが普通の欲望の延長線上の恋人ではなく、なんというか救済活動というか、そういうレベルの話しではないかと思わせる桁数をあえて設定しているようにすら思える。
クリシュナは、マスターというよりもアバターだ。
絶対者がそのまま、人の形として現れたような存在だ。
ジェームズ・キャメロンの「アバター」は異星人の肉体に地球人の意識を転送したものだけど、本来のアバターは人間の肉体に絶対者の意識が直接転送されたものだと思う。
遥かな昔、そのような時代が、存在したのかもしれない。
ハレクリシュナマントラ
http://www.youtube.com/watch?v=zkm_LRSsyus
この感じもまったりしてて良い インドでチャイをすすりながら聴きたいなあ。
http://www.youtube.com/watch?v=nl4iHtrgg9o
これは声が迫力がある。この背景はトリップ用か!?(笑
http://www.youtube.com/watch?v=kLLAUPS2C1A
至高のクリシュナに帰依しますというマントラ
いろいろな年齢のクリシュナが見れる。
赤ん坊として、いたずら好きの子供として、血の気の多い若者として、戦士として、恋人として、ハーレムの主として、万物を夢見る宇宙神として、最後には人を迷いの海から救済するヨーガの王として・・・
http://www.youtube.com/watch?v=GKjJPSbBZys
「私は多くの生を経てきた。あなたもそうだ、アルジュナよ。
私はそれらすべてを知っている。だがあなたは知らない。
私は不生であり、その本性は不変、万物の主であるが、自己のプラクリティに依存して、自己のマーヤにより出現する。」
バガバッド・ギータにおけるクリシュナの言葉
こころ洗われる声 Deva premalの om namo bhagavate vasudevaya
http://www.youtube.com/watch?v=hC-li4e7XJQ
「私は万物に対して平等である。
私には憎むものも好きなものもない。
しかし、信愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。
アルジュナよ、確信せよ、私のバクタ(信者)は滅びることがない。」
2009.
07.
29
女神の働きは今まで常に、裏側へ、裏側へ回って来たと言う。
その足跡は時に男性的な一神教の侵略によって、蹂躙され、変質化された形で教義の中に取り込まれることもあった。
というのは理性的なドグマに基づいた一神教は女神の持つ、ものごとを変化させる生命力を恐れたからであった。それゆえに女神は本能的な衝動すべての暗黒面を背負わされて、「リリス」となった。
中世期の暗黒時代に、魔女狩りで狩られた魔女たちの一部は、自然発生的な大地の女神の信仰者だった。一神教は、絶対的な自らの正当性を信じることをパワーとして、それ以外のあらゆる信仰を破壊するために世界各地に広がった。
そこには変化はなかった、ただ厳密に定められた神の予定表があり、自ら信じる信仰の勝利が約束されているだけだった。それにそむくすべてのものは敵であり、悪魔に他ならなかった。
女性は愚かであり、感情に振り回される生き物であると考える男性は、『理性』と『意志』を至上の価値として様々な戦いに明け暮れた。
しかしその男性たちも母の子宮から生まれ、彼女たちの愛情によって育まれるという現実があった。
戦いに疲れた男性も、自らより下位にある女性に甘えた。
『甘える』ということはつまり、敬意を伴わない崇拝の形だった。
自らが「養う」という社会的アドバンテージを維持した上で、自分が、彼女を支配しているのだ、可愛がっているのだという「ふり」をして彼らは彼女らに「甘えた」。
しかし女性の愛に気づいた男性は、女神に敬意を伴った崇拝を行った。
生む はぐくむ 理解する 愛する
それらすべての尊さに気づいた男性は、女神の隠れていた時代にも、彼女たちの真の姿を垣間見た。
女神は激しく自己を主張することなく、理解する用意のある人間だけにその姿を垣間見せてきた。
だから必然的にそれらの一部は「秘教」となった。
一神教の暴風雨が吹き荒れる時代でも、それはひそかに生き続けた。
なぜ女神はひそやかであったのか。
それは生命とつながっているのは自分であると、知っていたからではないだろうか。
声高く、叫ばずとも、すべては生命の中にあることを知り、それを見守ってきたからではないだろうか。
理性の特徴は言葉だが
女神の特徴は沈黙のうちにすべてを包むことにある
それは静かに流す涙であり
言葉の伴わない微笑だった
その沈黙が、彼女の性質を示している。
今男性は(女性自身も)、その「彼女」への敬意をはっきりさせることを、自らのうちの「彼女」をはっきりと知ることを、求められているように思う。
今も多くの女神がそのために動いていると言う。
その足跡は時に男性的な一神教の侵略によって、蹂躙され、変質化された形で教義の中に取り込まれることもあった。
というのは理性的なドグマに基づいた一神教は女神の持つ、ものごとを変化させる生命力を恐れたからであった。それゆえに女神は本能的な衝動すべての暗黒面を背負わされて、「リリス」となった。
中世期の暗黒時代に、魔女狩りで狩られた魔女たちの一部は、自然発生的な大地の女神の信仰者だった。一神教は、絶対的な自らの正当性を信じることをパワーとして、それ以外のあらゆる信仰を破壊するために世界各地に広がった。
そこには変化はなかった、ただ厳密に定められた神の予定表があり、自ら信じる信仰の勝利が約束されているだけだった。それにそむくすべてのものは敵であり、悪魔に他ならなかった。
女性は愚かであり、感情に振り回される生き物であると考える男性は、『理性』と『意志』を至上の価値として様々な戦いに明け暮れた。
しかしその男性たちも母の子宮から生まれ、彼女たちの愛情によって育まれるという現実があった。
戦いに疲れた男性も、自らより下位にある女性に甘えた。
『甘える』ということはつまり、敬意を伴わない崇拝の形だった。
自らが「養う」という社会的アドバンテージを維持した上で、自分が、彼女を支配しているのだ、可愛がっているのだという「ふり」をして彼らは彼女らに「甘えた」。
しかし女性の愛に気づいた男性は、女神に敬意を伴った崇拝を行った。
生む はぐくむ 理解する 愛する
それらすべての尊さに気づいた男性は、女神の隠れていた時代にも、彼女たちの真の姿を垣間見た。
女神は激しく自己を主張することなく、理解する用意のある人間だけにその姿を垣間見せてきた。
だから必然的にそれらの一部は「秘教」となった。
一神教の暴風雨が吹き荒れる時代でも、それはひそかに生き続けた。
なぜ女神はひそやかであったのか。
それは生命とつながっているのは自分であると、知っていたからではないだろうか。
声高く、叫ばずとも、すべては生命の中にあることを知り、それを見守ってきたからではないだろうか。
理性の特徴は言葉だが
女神の特徴は沈黙のうちにすべてを包むことにある
それは静かに流す涙であり
言葉の伴わない微笑だった
その沈黙が、彼女の性質を示している。
今男性は(女性自身も)、その「彼女」への敬意をはっきりさせることを、自らのうちの「彼女」をはっきりと知ることを、求められているように思う。
今も多くの女神がそのために動いていると言う。
2009.
06.
28
ファウストを訪れるメフィストフェレスは、『あっしは、すべてを否定する霊』と名乗る。
ではすべてを肯定する霊とは何だろう?
それは人の本性ではないだろうか。
和すること
世界と
和すること
自分自身と
否定性に何がしかの救いがあると思う間は
和すること
メフィストと
2009.
06.
24
神の恩寵は、それを知る者と共にある。
神を信じられることはもちろん、神を想えること、好きでいられること
それ自体が神の祝福。
身をゆだねたときには、言葉はいらなくなる。
愛する人に抱かれたときに言葉はいらないように。
自分の意志というものも愛の中では意味をなさなくなる。
自分の意志を越えた、全体の意志のみが実在する時
それは「ワンネス」と呼ばれる

神を信じられることはもちろん、神を想えること、好きでいられること
それ自体が神の祝福。
身をゆだねたときには、言葉はいらなくなる。
愛する人に抱かれたときに言葉はいらないように。
自分の意志というものも愛の中では意味をなさなくなる。
自分の意志を越えた、全体の意志のみが実在する時
それは「ワンネス」と呼ばれる

2009.
06.
11
もしかの聖なる霊が
帳をあけて立ち現れれば、
人の子の理知も、すべて
粗雑な形骸と見えるであろうに。
『ルーミー語録』23
このような人の自我は 神の中に消融している。
その境地は神以外の何者も入れる余地がない。
別のものなど考えるだけでもったいない。
別のものが入り込んでくる場所がどこにあろう。
自我が完全に消融してなんにもないからこそ
神がその場所を占めたもうのであってみれば。
「神ならで住む人もいないこの家に」というわけだ。
『ルーミー語録』23
一般に、すべて願望とか嗜好とか愛情とか同情とかいうものは、その対象が父母であれ、友人であれ、天地自然であれ、庭園、邸宅であれ、学問であれ、食べ物、飲み物であれ、いずれも同様である。すべて人は究極的には神への欲望を抱いているものであって、今列挙したようなものはどれも神をかくす幕張となる。
『ルーミー語録』8
そうだ。神を思い続けることによって、そなたの内面は少しづつ、少しづつ
光に照らし出されていく。そして、それにつれて、少しづつ、
この世への執着から離れていく。
たとえば、鳥が大空に飛び上がろうとする。
たとえ本当に大空までは到達できないにしても、とにかく
一瞬、また一瞬と地上から遠くなり、他の鳥どもより高く昇る。
『ルーミー語録』45
<<ジャラール・ディン・ムハンマド・ルーミー>>
イラン ホラーサン地方バルフの都、当時のイスラーム文化の中心地に生まれる。シリア留学中師と出会い、神の愛の完全な像を見出す。後にトルコのアナトリヤ地方の町コンヤでスーフィーの長老(シャイフ)となる。ルシャッド・フィールドの名作「ラストバリア」は、このルーミーを巡る愛の物語でもある。
帳をあけて立ち現れれば、
人の子の理知も、すべて
粗雑な形骸と見えるであろうに。
『ルーミー語録』23
このような人の自我は 神の中に消融している。
その境地は神以外の何者も入れる余地がない。
別のものなど考えるだけでもったいない。
別のものが入り込んでくる場所がどこにあろう。
自我が完全に消融してなんにもないからこそ
神がその場所を占めたもうのであってみれば。
「神ならで住む人もいないこの家に」というわけだ。
『ルーミー語録』23
一般に、すべて願望とか嗜好とか愛情とか同情とかいうものは、その対象が父母であれ、友人であれ、天地自然であれ、庭園、邸宅であれ、学問であれ、食べ物、飲み物であれ、いずれも同様である。すべて人は究極的には神への欲望を抱いているものであって、今列挙したようなものはどれも神をかくす幕張となる。
『ルーミー語録』8
そうだ。神を思い続けることによって、そなたの内面は少しづつ、少しづつ
光に照らし出されていく。そして、それにつれて、少しづつ、
この世への執着から離れていく。
たとえば、鳥が大空に飛び上がろうとする。
たとえ本当に大空までは到達できないにしても、とにかく
一瞬、また一瞬と地上から遠くなり、他の鳥どもより高く昇る。
『ルーミー語録』45
<<ジャラール・ディン・ムハンマド・ルーミー>>
イラン ホラーサン地方バルフの都、当時のイスラーム文化の中心地に生まれる。シリア留学中師と出会い、神の愛の完全な像を見出す。後にトルコのアナトリヤ地方の町コンヤでスーフィーの長老(シャイフ)となる。ルシャッド・フィールドの名作「ラストバリア」は、このルーミーを巡る愛の物語でもある。
2009.
06.
01

傾きかけた太陽の光が葉を透かしている。生まれたばかりのアジサイ。

太陽が下草を光らせる、この時間の景色が好き


世界は完璧・・・・言うだけ言っておく。

太陽の光が教えてくれる 宇宙の愛
こんな光の塊が無数にあって ミクロの世界では原子の周りを電子が回ってて 神様ってすごいなあ という 僕の想念も そういう完璧な螺旋の中にあるのか 主の家には多くの部屋がある
生命 自然 神 だけが価値を越えた価値として
新たな時代に残ることになる
花や木を見てると、なんだかそれがわかりそうな気がする。
太陽を見ていると
でも 最初から本当はそれしかなかった
耳を澄ませば、新しいときはもう始まっている
と朦朧とした頭で家路に突く
2009.
05.
27
昨日の記憶にも
今日の予定にもこころが煩わされない
新しい朝がある
いつもどおりで いつもどおりでない
神様の世界に包まれたような朝がある
気づかずに通り過ぎてきたいくつもの朝もすべて
こんな光でいっぱいだったのかもしれない
夜の間に見た夢の気配を 昨日からあった力が押し流して
目を今に注がせる
壁に貼ったシバ神のポスター
その周りの白い壁に映える光が美しい
それしかないということが 幸せ
オムナム シバヤー
今日の予定にもこころが煩わされない
新しい朝がある
いつもどおりで いつもどおりでない
神様の世界に包まれたような朝がある
気づかずに通り過ぎてきたいくつもの朝もすべて
こんな光でいっぱいだったのかもしれない
夜の間に見た夢の気配を 昨日からあった力が押し流して
目を今に注がせる
壁に貼ったシバ神のポスター
その周りの白い壁に映える光が美しい
それしかないということが 幸せ
オムナム シバヤー

2009.
05.
04
『グル』と、自己(=真我)と、神は同じものだと言われる
『グル』は自己のうちにも存在している
神に形がないように 『グル』にも形はない
『グル』の人間である部分は 『グル』の本質ではない
『グル』の人間的部分は 人と接するための方便でしかない
肉体をまとった『グル』は 形なき『グル』の現われで
肉体をまとった『グル』に会わせるのは 形なき『グル』の導きである
『グル』の正体は あらゆる場所で 人を教え導く 実在 エネルギーだ
つまり『グル』とは神である
『グル』は僕の中にいる
ホンモノのグル探しは意味がない
それが実在となるのは、僕のうちをおいて他はない
誰がホンモノで 誰がニセモノか
誰がすごくて 誰がすごくないか
何もかもどうでもいい
そんなことは 僕自身とは何の関係もない
そんなことより 内なる真実を見つけたい
『グル』は、今・ここにいる
あらゆる聖者の名前を忘れている
沈黙がそれを思い出させる
『グル』は自己のうちにも存在している
神に形がないように 『グル』にも形はない
『グル』の人間である部分は 『グル』の本質ではない
『グル』の人間的部分は 人と接するための方便でしかない
肉体をまとった『グル』は 形なき『グル』の現われで
肉体をまとった『グル』に会わせるのは 形なき『グル』の導きである
『グル』の正体は あらゆる場所で 人を教え導く 実在 エネルギーだ
つまり『グル』とは神である
『グル』は僕の中にいる
ホンモノのグル探しは意味がない
それが実在となるのは、僕のうちをおいて他はない
誰がホンモノで 誰がニセモノか
誰がすごくて 誰がすごくないか
何もかもどうでもいい
そんなことは 僕自身とは何の関係もない
そんなことより 内なる真実を見つけたい
『グル』は、今・ここにいる
あらゆる聖者の名前を忘れている
沈黙がそれを思い出させる
2009.
04.
14
●かつて、私は、アメリカで不思議な死に方をした青年の写真を持っていました。
1968年、その青年はニューハンプシャーに会いに来て、私のヨーガの最初の生徒の一人になりました。彼は毎週やってきては、私がインドで学んだことを、即座に吸収していきました。私はさらに修行をさせるために、ハリ・ダスのところに行かせたいと思いましたが、彼はサーダナを続けるためにアリゾナの洞窟で暮らす方を望みました。私にはできることはすでに伝授してありましたが、1968年から69年の冬にかけて、彼は二三ヶ月に一度は、私に手紙を書いて報告してきました。
しばらくすると連絡が途絶え、あとで彼が洞窟の中で死んでいたことがわかりました。
青年の母親は、死ぬ直前の日記を私に見せてくれましたが、それはかなり奇妙なものでした。
この日記はおもにLSDの影響下で書かれたものではないか、と私は推測しました。聞いたところでは彼は鼻から血を流した状態で死んでいるところを発見され、壁にも血痕が残っていました。おそらく、プラーナーヤーマ(ヨーギの呼吸法)をやっていて、血管を破裂させたのかもしれません。日記の内容はつぎのようなものでした。
ラマナ・マハリシとぼくのグルが二人とも、マハーサマディーを導いている・・・・心配ない・・・・・・ぼくは限りない至福のなかにある・・・・・そして内側からあなたを導くだろう・・・・
ラム・ダスに手紙を書いて、いい知らせを伝えてくれ ぼくはもはやサーダナをする必要がなくなったと・・・・ぼくはあそこにいる。
・・・・・愛、愛・・・・ぼくには何が起こっているか、わかっている それにグルが内側にいる・・・・ぼくは肉体を離れて、キリストと完全に一体化した・・・・キリストハボクトトモニイル カレハ ボクノココロノナカニイル・・・・グルトトモニ。
つぎにマハラジに会ったら、聞いてみる、と私は母親に約束しました。そして、タイミングを見計らって、彼の高校卒業時の写真をもっていき、マハラジに手渡しました。マハラジは近くからじっと写真を見ていました。
「彼は肉体にはいない」
「そうです、マハラジ」
「薬を飲んで、死んだ」
「そうだと思います」(私はマハラジの言葉を聞いて、実際には彼が本当のサマーディにはなく、おそらくLSDを飲んでいるあいだに、プラーナーヤーマをしたのだろうと推測しました)。
しかし、マハラジは私の疑いを察知してか、こう言ったのです。
「いや、これでいいのだ。彼はふたたび生まれてくることはない。仕事を終えたのだ。いまは、キリストといっしょだ。お前をとても愛していた。お前の事を思って、涙を流した」
マハラジはしばらく沈黙すると、さらにこう付け加えました。
「母親に心配しないように伝えてやりなさい。彼はキリストとともにいる。彼女のことを見守っている。彼は仕事を終えたのだ」(マハラジは日記の言葉を正確に引用しました。そしてある種の状況において、LSDは神へと帰還するための触媒となりうることを示しました)
マハラジは目を閉じて静かに座っていました。
あたりには、大いなる力が満ちあふれました。


1968年、その青年はニューハンプシャーに会いに来て、私のヨーガの最初の生徒の一人になりました。彼は毎週やってきては、私がインドで学んだことを、即座に吸収していきました。私はさらに修行をさせるために、ハリ・ダスのところに行かせたいと思いましたが、彼はサーダナを続けるためにアリゾナの洞窟で暮らす方を望みました。私にはできることはすでに伝授してありましたが、1968年から69年の冬にかけて、彼は二三ヶ月に一度は、私に手紙を書いて報告してきました。
しばらくすると連絡が途絶え、あとで彼が洞窟の中で死んでいたことがわかりました。
青年の母親は、死ぬ直前の日記を私に見せてくれましたが、それはかなり奇妙なものでした。
この日記はおもにLSDの影響下で書かれたものではないか、と私は推測しました。聞いたところでは彼は鼻から血を流した状態で死んでいるところを発見され、壁にも血痕が残っていました。おそらく、プラーナーヤーマ(ヨーギの呼吸法)をやっていて、血管を破裂させたのかもしれません。日記の内容はつぎのようなものでした。
ラマナ・マハリシとぼくのグルが二人とも、マハーサマディーを導いている・・・・心配ない・・・・・・ぼくは限りない至福のなかにある・・・・・そして内側からあなたを導くだろう・・・・
ラム・ダスに手紙を書いて、いい知らせを伝えてくれ ぼくはもはやサーダナをする必要がなくなったと・・・・ぼくはあそこにいる。
・・・・・愛、愛・・・・ぼくには何が起こっているか、わかっている それにグルが内側にいる・・・・ぼくは肉体を離れて、キリストと完全に一体化した・・・・キリストハボクトトモニイル カレハ ボクノココロノナカニイル・・・・グルトトモニ。
つぎにマハラジに会ったら、聞いてみる、と私は母親に約束しました。そして、タイミングを見計らって、彼の高校卒業時の写真をもっていき、マハラジに手渡しました。マハラジは近くからじっと写真を見ていました。
「彼は肉体にはいない」
「そうです、マハラジ」
「薬を飲んで、死んだ」
「そうだと思います」(私はマハラジの言葉を聞いて、実際には彼が本当のサマーディにはなく、おそらくLSDを飲んでいるあいだに、プラーナーヤーマをしたのだろうと推測しました)。
しかし、マハラジは私の疑いを察知してか、こう言ったのです。
「いや、これでいいのだ。彼はふたたび生まれてくることはない。仕事を終えたのだ。いまは、キリストといっしょだ。お前をとても愛していた。お前の事を思って、涙を流した」
マハラジはしばらく沈黙すると、さらにこう付け加えました。
「母親に心配しないように伝えてやりなさい。彼はキリストとともにいる。彼女のことを見守っている。彼は仕事を終えたのだ」(マハラジは日記の言葉を正確に引用しました。そしてある種の状況において、LSDは神へと帰還するための触媒となりうることを示しました)
マハラジは目を閉じて静かに座っていました。
あたりには、大いなる力が満ちあふれました。


2009.
04.
14
●キリストに対するマハラジの愛は、この世の次元を超えていました。「キリストはどういう人ですか?」とたずねられて、マハラジは次のように答えました。
キリストはあらゆる存在とひとつになり、
この世のすべてに大いなる愛をもっていた
キリストは神とひとつだった
キリストの教えを受け入れて、したがいなさい
キリストは幼子のようになりないさいと言った
人を傷つけるどんなことも、考えたり、言ったりしてはならない
誰もキリストを信じてはいないが、私は信じている
キリストは、自分の霊(スピリット)が世界中に広がるために十字架にかけられた。
ダルマのために自分の肉体を犠牲にしたのだ。
キリストは死なない 決して死なない
キリストはアートマン(魂)で、すべての心の中に生きている
●あるとき、ひとりの少年がやってきて「マハラジ、キリストは本当に怒ったことがありましたか?」とたずねました。「キリスト」という言葉を聞くと、マハラジの目にはすぐに涙があふれました。少年が質問をしているあいだに、マハラジは居ずまいをただしました。彼は片方の肘でからだを支えて身を乗り出すと、涙を流しながら自分の胸を三回叩きました。
一瞬、完全な静寂が訪れました。マハラジはキリストのリアリティを、みんなの意識に導きいれてから、こう言ったのです。「キリストは怒ったことはない。十字架にかけられたとき、キリストは愛だけを感じていた。キリストは何ものにも執着しなかった。自分の肉体さえ捧げたのだ」
その瞬間誰もが泣いていました。・・・私達はキリストの受難を完全に経験していたのです。突然、マハラジは座りなおすと、こう付け加えました。
「まばたきをするあいだに、心(マインド)は何百万マイルも旅することができる・・・・仏陀はそう言った」
「なぜキリストは、あんなに悪口をいわれたのですか?」とマハラジにたずねた人がいました。
「聖者はみんなそうだ。しかし、彼らはあらゆる人の中に愛だけを見る。悪口を言ったり、聞いたり、見たりしてはいけない。どんなところでも、すべての人の中に愛をみなさい。あらゆるもののなかに、よいところを見なさい」
ある時、キリストはどのように冥想したのですか、と帰依者がマハラジにたずねました。
マハラジは居ずまいをただし、しばらく目を閉じていました。黙って座っていると、彼の目から涙があふれてきました。そして、こう言ったのです。
「キリストは愛の海の中で我を忘れていたのだ」
キリストはあらゆる存在とひとつになり、
この世のすべてに大いなる愛をもっていた
キリストは神とひとつだった
キリストの教えを受け入れて、したがいなさい
キリストは幼子のようになりないさいと言った
人を傷つけるどんなことも、考えたり、言ったりしてはならない
誰もキリストを信じてはいないが、私は信じている
キリストは、自分の霊(スピリット)が世界中に広がるために十字架にかけられた。
ダルマのために自分の肉体を犠牲にしたのだ。
キリストは死なない 決して死なない
キリストはアートマン(魂)で、すべての心の中に生きている
●あるとき、ひとりの少年がやってきて「マハラジ、キリストは本当に怒ったことがありましたか?」とたずねました。「キリスト」という言葉を聞くと、マハラジの目にはすぐに涙があふれました。少年が質問をしているあいだに、マハラジは居ずまいをただしました。彼は片方の肘でからだを支えて身を乗り出すと、涙を流しながら自分の胸を三回叩きました。
一瞬、完全な静寂が訪れました。マハラジはキリストのリアリティを、みんなの意識に導きいれてから、こう言ったのです。「キリストは怒ったことはない。十字架にかけられたとき、キリストは愛だけを感じていた。キリストは何ものにも執着しなかった。自分の肉体さえ捧げたのだ」
その瞬間誰もが泣いていました。・・・私達はキリストの受難を完全に経験していたのです。突然、マハラジは座りなおすと、こう付け加えました。
「まばたきをするあいだに、心(マインド)は何百万マイルも旅することができる・・・・仏陀はそう言った」
「なぜキリストは、あんなに悪口をいわれたのですか?」とマハラジにたずねた人がいました。
「聖者はみんなそうだ。しかし、彼らはあらゆる人の中に愛だけを見る。悪口を言ったり、聞いたり、見たりしてはいけない。どんなところでも、すべての人の中に愛をみなさい。あらゆるもののなかに、よいところを見なさい」
ある時、キリストはどのように冥想したのですか、と帰依者がマハラジにたずねました。
マハラジは居ずまいをただし、しばらく目を閉じていました。黙って座っていると、彼の目から涙があふれてきました。そして、こう言ったのです。
「キリストは愛の海の中で我を忘れていたのだ」
2009.
04.
13
『愛という奇蹟』より
◎マハラジは純粋なスピリットに敬意を払いました。伝統や家柄は関係ありませんでした。マハラジは「サブ・エーク(すべてはひとつ)!」という言葉を幾度となく繰り返しながら、私達が個々の違いに囚われず、かたちを越えていけるように導いていました。
あらゆる宗教は同じだ
すべては神へと至る道だ
神はあらゆる人の中にいる
同じ血が私たちすべてを流れ
腕や足や心臓もすべて同じだ
ちがいを見てはならない
あらゆるものに同一性をみなさい
愛を通してシヴァ神を敬う必要がある
ラーマとシヴァは同じだ
ラーマはシヴァを崇拝していた
シヴァはラーマを崇拝していた
ただひとつのものがあるだけなのだ
個人のちがいやカルマによって教えるのは偽りだ
あらゆるものに同一性を見なさい
ちがいを見る限り、神を知ることはできない
自己の内側に愛を見出す事を学びなさい
最高の形式とは、あらゆるかたちで神を崇拝する事だ
どんな人をも受け入れ
彼らの中に神を見なさい
ほかに聖者は必要ない
私の顔は あらゆる人の中に 映っている・・・。
◎マハラジは純粋なスピリットに敬意を払いました。伝統や家柄は関係ありませんでした。マハラジは「サブ・エーク(すべてはひとつ)!」という言葉を幾度となく繰り返しながら、私達が個々の違いに囚われず、かたちを越えていけるように導いていました。
あらゆる宗教は同じだ
すべては神へと至る道だ
神はあらゆる人の中にいる
同じ血が私たちすべてを流れ
腕や足や心臓もすべて同じだ
ちがいを見てはならない
あらゆるものに同一性をみなさい
愛を通してシヴァ神を敬う必要がある
ラーマとシヴァは同じだ
ラーマはシヴァを崇拝していた
シヴァはラーマを崇拝していた
ただひとつのものがあるだけなのだ
個人のちがいやカルマによって教えるのは偽りだ
あらゆるものに同一性を見なさい
ちがいを見る限り、神を知ることはできない
自己の内側に愛を見出す事を学びなさい
最高の形式とは、あらゆるかたちで神を崇拝する事だ
どんな人をも受け入れ
彼らの中に神を見なさい
ほかに聖者は必要ない
私の顔は あらゆる人の中に 映っている・・・。
2009.
04.
12
すべてがイリュージョンだから
一見愛でないように見える
すべての中にも愛を見ることが出来る
現象を越えた愛を信じるから
イリュージョンを愛す事が出来る
すべてがイリュージョンだから
お互いに分かり合えない人とも
愛の中で
分かちがたくつながっていることがわかる
愛の中で
僕らのハートの中で

一見愛でないように見える
すべての中にも愛を見ることが出来る
現象を越えた愛を信じるから
イリュージョンを愛す事が出来る
すべてがイリュージョンだから
お互いに分かり合えない人とも
愛の中で
分かちがたくつながっていることがわかる
愛の中で
僕らのハートの中で

2009.
04.
12
現象世界はマーヤの世界
イリュージョン
その中で完璧なものを見つけようとしても見つからない
この現象世界の夢から覚める旅をする場合でも
いろんな教えが存在し、いろんな教師が存在する
その中で、教師たちの言うことが食い違っていたり、教師同士が喧嘩を初めても驚くにはあたらない
たくさんの事例がある
だってここはマーヤの世界
マーヤを探せば、簡単に見つかる
そして、不条理があるからこそ、マーヤだと理解出来る
現実にはあり得ない現象が、これは夢だと気付かせることがあるように
グルAとグルBが言い争うという、この現象がマーヤの世界の特質を現してもいる
教師たちはその神とマーヤとの微妙なバランス上に現れている
善悪のバランスを守れ!と叫ぶ、映画『コンスタンティン』の酒場のマスター・ミッドナイトのように
神とマーヤのバランスが存在する
教師たちは、そのバランスの中で神の教えを説く
世界に満ちるマーヤと戦う事がマーヤであると知っている
教師たちは
決して無理は、強引なことはしない
時には自らマーヤとなって弟子を煙に巻くかもしれない
しかし、彼らの意識は 壊されることのない 神としてある
教師たちは僕らが頭に思い描く、理想概念を満たす為に存在してるのではなく
そうではなく、その理想概念を壊し、超越し、その向こう側の真実に目覚めさせる為に神によって、遣わされている
もちろん、その教師が害を及ぼすと感じたら離れるべきである
しかし問われているのが信頼である場合もある
概念を信じるか、リアルを信じるかと言う問いだ
その信頼が、イリュージョンを越えさせる
見かけと、概念を越えた、リアルへ
イリュージョン
その中で完璧なものを見つけようとしても見つからない
この現象世界の夢から覚める旅をする場合でも
いろんな教えが存在し、いろんな教師が存在する
その中で、教師たちの言うことが食い違っていたり、教師同士が喧嘩を初めても驚くにはあたらない
たくさんの事例がある
だってここはマーヤの世界
マーヤを探せば、簡単に見つかる
そして、不条理があるからこそ、マーヤだと理解出来る
現実にはあり得ない現象が、これは夢だと気付かせることがあるように
グルAとグルBが言い争うという、この現象がマーヤの世界の特質を現してもいる
教師たちはその神とマーヤとの微妙なバランス上に現れている
善悪のバランスを守れ!と叫ぶ、映画『コンスタンティン』の酒場のマスター・ミッドナイトのように
神とマーヤのバランスが存在する
教師たちは、そのバランスの中で神の教えを説く
世界に満ちるマーヤと戦う事がマーヤであると知っている
教師たちは
決して無理は、強引なことはしない
時には自らマーヤとなって弟子を煙に巻くかもしれない
しかし、彼らの意識は 壊されることのない 神としてある
教師たちは僕らが頭に思い描く、理想概念を満たす為に存在してるのではなく
そうではなく、その理想概念を壊し、超越し、その向こう側の真実に目覚めさせる為に神によって、遣わされている
もちろん、その教師が害を及ぼすと感じたら離れるべきである
しかし問われているのが信頼である場合もある
概念を信じるか、リアルを信じるかと言う問いだ
その信頼が、イリュージョンを越えさせる
見かけと、概念を越えた、リアルへ