2009. 08. 08  
2002年 7月 ペヨーテ

  神の内なる自我の戯れ  愛の中に死ぬことにためらいはないと思った
  愛に動かされている ハイヤーセルフのハイヤーセルフ

  2002年 8月  F*O*X*Y

  神  銀河の中の『目』  限りない闇  亀裂 死 狂気 かなたへの恐怖 マインドの狂気 サタン 

  憧れと恐怖

  どちらも神様からの贈り物

  答えを最初に見た

  乗り越えるものをその次に見た 

  ふたつをひとつに

  陰と陽をひとつに

いつか死にゆくこの身だからこそ
  神へとかえるこの意識であるからこそ

  すべてを神に委ねられるように

  

     eclipse.jpg
   

2007. 03. 13  
 花が咲いている
 あなたが花となって、花を経験している

 子供がいる
 あなたが子供となって、サッカーを経験している

 鳩が電線に止まっている
 それは鳩に変身したと思っている天使に化けたあなただった

 花となり 草となり 樹となり
 あなたはすべてを感じている
 老人となり男となり女となり
 あなたはすべてを語っている

 誰かが誰かより特別なはずはないじゃないか。
 だって僕らを経験しているのはどちらも同じ神なんだから。
 僕の目に映るすべては
 すべてとなってあなたが自分を経験している姿

 すべての中に宿るは、あなただった
 あなたはどこにでもいる
 だってすべてがあなただから

 すべてがあなたの経験だから
 僕はすべてのあなたへ敬意を捧げたい
 
 もしも敬意を払えなかったら
 あなたあなたに敬意を払えない経験をしたかったって
 思ってもいいですか?

 僕はあなたが望むなら草を避けて歩きます
 だってその草はあなたが身をやつした姿だから
 僕はあなたが望むなら草を踏んで歩きます
 だってそんなこと気にしてられないから

 


2007. 01. 15  
「アヤワスカ」の有効成分はDMT(ジメチルトリプトアミン)である。
 通常DMTは、経口で摂取しても不活性となるために、単体で摂取する場合にはパイプを用い、気化させたものを吸入する。
 DMTの意識変性効果は、短時間ながらLSDやシロシビン(マジック・マッシュルームの有効成分)をしのぐ。
 DMTはどうも自我の側からのコントロールがききにくいらしく、それを体験した人は「死の世界への旅」「原子爆弾の大砲から打ち上げられたようだ」というような表現を使う。
 吸引した場合、その効果は2~5分程しか続かないが、その間に体験される世界は強烈で、時には恐ろしいものとなる。

 『時間から遊離し超越する感覚、ものがその形態を失い奔放に揺れ動くリズムの中に溶解する感覚。この作用はまるで別の宇宙に一瞬にしてトランスポートし永遠に逗留しているかのような体験となる』

 『5-MEO-DMTのように最短の時間で最強の効果が現れることは、普通の人間にとって許容範囲を越えている。これに匹敵する経験は死ぐらいではないかと思う』

 『あえて思考実験的な表現をすると、生涯で最も強烈な恐怖と、最も強烈な歓喜を同時に体験したとしたら、それが近いのかもしれない。』

 このような体験の性質もあり、DMTを単なる娯楽目的で常用するような人はおそらくほとんどいない。
 それはマリファナやマジックマッシュルームのトリップとは全くレベルが違うような何かである。
 吸引した場合、身体感覚にも影響し、立っていることが出来なくなる。完全に物理的現実から乖離させられて、サイケデリックスペースのみの存在となってしまう。

 「アヤワスカ」はDMTを含有する天然の植物を混合して煮出してつくる褐色の液体だ。普通だと経口摂取では吸収されないDMTだが、他の植物の成分(MAO阻害剤)を加えることで体内に取り込むことが出来る。
 効果は吸引するより幾分マイルドになるだろうが、それでも最強のサイケデリクスのひとつなので取り扱う際には十分な注意を要する。
 まず覚えておかなければならないことは、厳格な食事制限だ。
 これはMAO阻害剤を摂取することに関係している。
 アルコール飲料、豆腐、納豆、味噌、チーズなど、(チラミン)を含む食物を食べると重大な副作用をもたらすことがあり、最悪の場合死に至る。ので、こうした危険を避けるためには断食をすることが望ましいだろう。

 DMTは2,3年前まではWEBで販売しているのをよく見かけたが、現在日本では麻薬として取り締まられている。
 アヤワスカの原料となる、シリアンルーやカーピは多分どっかでまだ売っている(植物自体の所持はまだ違法ではないと思う)だろうとは思うが、どちらにしろ、この強力なパワーを秘めた植物をサイケデリクスの初心者が一人で使用することはやめたほうがよいだろう。

 日本にいるアヤワスカの熟達者を探すか(僕は違います笑)、ペルーやブラジルに行って現地の人にガイドしてもらったほうがよいと思う。
 ちなみにブラジルにはセント・ダイミというアヤワスカを儀式に用いる教団があり、政府からも宗教儀式ということでアヤワスカの使用を認められている。

 ところでこのDMTという物質、人間の体内でも生産されているようだ。
 多くの謎を秘めた松果体と言う器官(昔は魂の座とも言われていたらしいが)から生み出されている。
 松果体はヨガでは第三の目、アジナーチャクラと関連している。
 もしすると、ある種の神秘体験にはDMTが大きな役割を果たしている可能性が高いかもしれない。




引用:サイケデリック・ドラッグ 工作社
   オルタード・ディメンション誌 9号






2007. 01. 13  
 「シャーマンへの道」の著者マイケル・ハーナーのアヤワスカ体験より。
 アヤワスカを摂取すると、光のビジョンと、滝の音のようなごうごうと轟く音が聞こえてきた。気がつくと周囲で悪魔たちがカーニバルをしていた。その中心には巨大なワニの頭があり、その顎から水がどっと流れ出していた。水はどんどんたまって海となり、ガレー船が彼に近づいてきた。そして・・・





 「私は今まで聞いたことがないような美しい歌声が流れてくるのにも気づいていた。この世のものとも思われぬそのかん高い歌声は、ガレー船上の無数の人々が歌っているのだった。
 デッキに目を凝らすと、アオカケスの頭に人間の胴体をもつ人々が大勢見えた。彼らは古代エジプトの墳墓の壁画に描かれた、鳥頭の神を思わせた。同時に、私の胸からある種のエネルギーのエッセンスが流れ出し、船に向かって漂い始めた。
 神というものを信じてはいなかったが、自分が死ぬであろうこと、また鳥の頭をもつ人々が来たのは、私の魂を船へと持ち去るためであることを完全に確信していた。胸から魂が流れ出ていく一方で、手足が徐々に麻痺していった。」
 
 その後地球での生物の進化を暗示するようなビジョンが展開し始める。太古の地球に、翼竜のような翼と鯨のような胴体をもつ黒い生き物が飛来し、それはハーナーに「われわれは宇宙の何かから逃れてきたのだ」と語りかけた。
 その「古のもの」によると、この地球上の生命は彼らが敵から身を隠すために創造したという・・・

 「その生き物たちは、多種多様な形態をとって敵の目をあざむくため、いかにしてさまざまな生命をつくり出したかを見せてくれた。壮麗な動植物の創造と種形成・・・何億年もかかる行為であるが・・・のさまが、形容しがたい規模と鮮明さをもって繰り広げられた。
 私は、その竜めいた生き物がこのような経緯で、人間を含むすべての生命形態のうちに潜むことを知った。自分たちこそが人類および地球の支配者だ、と彼らは言うのだ。われわれ人間はこうした生き物の容器であり、しもべにすぎなかった。だからこそ、彼らは私自身の内側から語りかけることができたのである。」


 

 ハーナーが遭遇した竜のような生き物は、もろにラブクラフトの小説に出てくるような外宇宙からの知性体、邪神である「古のもの」を連想させる。
 この体験は1956年のことであり、ハーナー氏はこの時点ではDNAコードの存在を知らなかった。のちに「古のもの」の性質がDNAと似ていることに気づいて驚くことになる。

 この体験のコアにあるのは、グノーシス的な世界観である。
 グノーシス的な世界観は、被造物と絶対神の間に、造物主であるいわゆる「デミウルゴス」をたてる。
 このデミウルゴスは絶対神から流出した存在ではるが、自らを絶対的な神であると錯覚しており、人間や動植物を創造する。
 この種の世界観は、人間はルーシュを生産するために「誰か」によってつくられたと考えるロバート・モンローの創造論や、人間は金を採掘するための奴隷として生産されたというゼカリア・シッチンの説にも窺える。
 
 ハーナーはこの体験のことを後日、「地球の支配者を名乗る龍と会った」と現地のシャーマンに話すと、彼は微笑んでこう答えたと言う。
 
 「ああ、彼らはいつもそういうのだ。だが彼らは(外なる暗黒の支配者)にすぎぬ」と。

 これはいったい何を意味しているのだろうか?



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2007. 01. 12  
 ジェレミー・ナーバイという人類学者が語る「アヤワスカ」体験。
 以下「アトランティスの暗号」コリン・ウィルソン著より




 ナーバイによれば、それは刺激のあるグレープフルーツジュースのような味がした。ナーバイは嘔吐したが、さらに飲めと言われた。

 「突如、周囲に長さ50フィートはありそうな巨大ボアが二匹もいた。私は震えあがった・・・このぼんやりした思考の中で、蛇は言葉によらず、私に話しはじめた。私が単なる人間にすぎない、と彼らは言った。
 私は自分の精神が裂けるのを感じ、その裂け目の中に、自分の固定観念が底知れぬ傲慢にほかならないということを見た。私が単なる人間にすぎないというのは実に深遠なる真実だった。
 普段私はすべてを理解していると思い込んでいるが、ここで私は、自分自身がより強力なリアリティの中にいるのを見いだした。
 それはまったく理解できないリアリティ、私の傲慢の中で、その存在を想像すらしたことのないリアリティだった。」

 「・・・・言語自体が不十分だった。私は自分の見ているものを名づけようとしたが、言葉はイメージに固定しそうになかった。私は困惑した、『リアリティ』との最後の絆が断ち切られたかのように。リアリティそれ自体が、遠くて薄っぺらな記憶にしか見えなかった。




 この中に、僕も経験した(アヤワスカではないが)感覚がたくさんあったので引用した。
 この体験の全体的なトーンは、畏怖の念である。
 宗教的な体験というと、至福や光というものがどうしても目立って語られる傾向があるが、畏怖を感じさせられる体験というのも確実に存在する。
 それはもしかすると道の途上において起こる、不完全な体験であるかもしれないが通常のリアリティに亀裂が入り、その裂け目から何か尋常ではないもの、人智を超えたものの存在が垣間見えた時の衝撃と言うのはかなり大きい。

 とりあえず宗教的体験、というのではなくサイケデリクス体験ということで限定して話を進めるが、サイケデリクス体験にも「至福・愛」の状態と「亀裂・闇」の状態がある。
 僕が体験した限り、「至福・愛」の状態においては、聖人や神的存在を身近に感じたり、愛を実感する時、それはとても高いもの、清らかなものであると同時に自分自身に近しいものである。
 しかし「亀裂・闇」の体験において神的な存在が登場すると、それはまったく言語を絶するもの、畏怖を覚えさせるもの、にもかかわらず圧倒的にリアルなものとなる。 その体験は、僕自身の無知と傲慢さを思い知らせる。
 
 もしかして「亀裂・闇」の体験というのは突如自分の知覚がズームアウトして、人間性の限界や、人生のはなかさに直面させられる瞬間かもしれない。しかし、それはあくまでも通常の人間にとっての「限界・虚無」という意味合いである。ラム・ダスに大量のLSDを盛られたインドの聖者が、けろっとしていたのは有名な話しだ。

 この蛇というのはどういう存在だろうか?
 これが日本で単独にアヤワスカ・トリップをしてバッドになった男の体験談なら、単なる幻覚で片付けてしまってもよい。
 しかし、ナーバイ氏は熟達したインディオのシャーマンのもとでアヤワスカを飲んでおり、その共同体においてはこの蛇は客観的存在だ。
 おそらくは森の精霊として物理的な影響力さえ持っている、「エネルギー体」だ。
 

 蛇と言う動物は様々な連想を呼び起こす。
 薄気味悪いと同時に、魅力的な動物だ。
 ヘルメスの杖にからみつく二匹の蛇は、二重螺旋、DNAコードを連想させる。
 世界各国に宇宙を誕生させた、蛇神の神話が存在している。
 例えばオーストラリアのアボリジニの間では「宇宙は虹色の蛇が水晶の力を借りて創造した」という伝承があるようだ。
 さらに思い出すのは、クンダリニーとプラクリティである。
 プラクリティはプルシャと対を成す宇宙生成の原理だ。
 プルシャは「純粋精神・真我」であり、プラクリティはマーヤの元となる「根本原質」と訳される。
 プラクリティは宇宙を創造したあと、個々の人間の尾てい骨で休眠状態にある。これがクンダリニーで、とぐろをまいた蛇の姿で象徴される。クンダリニーがプラクリティにほかならないとすれば、宇宙創造神が蛇として象徴されても不思議はない。
 アボリジニの神話は、「水晶=プルシャ=真我」「虹色の蛇=プラクリティ」としても読み解けるかもしれない。

 蛇は人間にとって、何かしら根源的かつ宇宙的な存在なのだ。
 そしてそのエネルギーは実際に根源的なものとして、今・この瞬間も働いているのかもしれない。
 ちょうど、人間の中にある爬虫類脳が今も機能しているように。
 そのエネルギーと接触したときに、人間の集合的無意識(知覚の枠組み)はそれを蛇として翻訳するのかもしれない。
 
 
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2006. 09. 14  
 アワヤスカシャーマン・パブロ・アマリンゴの絵

 http://www.alteredim.com/pabroamaringo/index.html

 超綺麗だ・・・。キレイというか、これはあるレベルでは実在する世界なのだろう。やはり一度、アヤワスカを・・・・しかし、怖い。いいシャーマンはどこかにおらんかの。
2006. 06. 06  
 京都の実家に帰省した折に、鞍馬山に行ってきた。
 
 鞍馬山と言えば、以前から少し気になっていたことがあった。
 それは、「サナート・クマラ」伝承についてだ。
 なんでも、「サナート・クマラ」という存在が人類救済のために金星から650万年前に天下り、鞍馬山から霊波を送り続けているというものである。
 日本の歴史ある山なのに、なぜ近代オカルティズムの匂いがするお話しになっているのだろう?なんで、「サナート・クマラ」て片仮名なんや?

 ネットで軽く調べてみると、神智学の母ブラバッキー夫人がそういう情報をチャネルしたという説があった。確かに、神智学的な伝承ではある。
 鞍馬山のパンフレットではサナート・クマラは「魔王尊」として紹介されている。

 『鞍馬山の信仰の歴史は魔王尊の降臨からはじまる。650万年前の昔、宇宙の大元霊である尊天の指令によって金星から派遣された大魔王尊が、人類救済の使命を帯び地球の霊王として鞍馬山上に降臨した。
  魔王尊の姿は分からない。降臨した時のまま16歳の若さをもって霊王として活動し、さまざまなお姿を現すという。永遠に16歳の若さを保ち、人類が遠い未来において水星に移住する時、人類を誘導してくれるという。魔王尊の姿を描きたいと思った「狩野法眼元信」は、奥の院で大祈願のすえ霊示があり、杉の大樹から垂れ下がった蜘蛛の引く糸をたどって描きあげたお姿がある。60年に1度、丙寅年に限り開扉される。』

 鞍馬寺の本尊は「尊天」というが、これは森羅万象をあらしめる根源的な力そのものだ。宇宙生命、大活動体。尊天の化身とされているのが、毘沙門天、千手観音、そして魔王尊であり、それぞれ太陽、月、大地の力をあらわしている。
 しかし、なぜ、「魔王」なんだろうか?これもわからん。

 『金星から、鞍馬寺奥の院に天下った魔王尊は、地下空洞の支配者であり、その規模は北欧・ヒマラヤ・南米と日本の鞍馬、四ヶ所のみに出入り口をもつ大都会であるという。』地下空洞?シャ・シャンバラっすか(笑)

 魔王様については謎が多いが、今回は鞍馬山でソーマ・ヨーガを行う、という目的で入山した。
 実家の最寄り駅から叡山電鉄にのって、約30分ほど、終点の鞍馬で下車。
 由岐神社、本殿を過ぎて、護法魔王尊が祀られる奥の院へと続く山道で、適当な場所を見つけ、ソーマを使った。
 その直後、少し前から雲行きは怪しかったが、とうとう雨が降り出した。
 少々の雨なら生い茂っている木が防いでくれるけど、雨脚は強くなるばかりなので一時上り口の小さな山門まで撤退した。
 山門には雨宿りをしている人が数人いたが、雨が止む気配が一向にないのでみな頃合を見計らって雨の中へ出て行き、一人残された。
 僕は山門に腰を降ろして、そこで瞑想してみることにした。

 次のようなイメージが展開した。

 三叉のほこを持った、裸の男神。大きな魚にまたがって、輝く海洋で戯れている。屹立し、反り返った、巨大な男根。背後には宮殿のようなたてもの。

 なにか見てはいけないものを見てしまったような感じがするが、それは神聖な趣きを持っていた。その存在が何も隠し立てをしていなかったからだ。すべてをさらけ出しながらも、高貴だった。
  
 その後イメージは天高くそびえたつ、白熱した男根へと変化した。白く輝くペニス・・・。

 そのイメージのインパクトは強烈で、一種の元型的世界をのぞいてしまったような感覚があった。その元型的世界では人間が作り上げた太古の男根崇拝的エッセンスがもっとも原始的な畏怖すべきイメージとして保管されている。
 そのような精神状態においては、「ペニス」は、猥雑なもの、こっけいなものであることをやめ、神々の世界を象徴的に表現するもの、コクマー的な力の権化と化す。
 
 その世界はヘビーに過ぎた。
 タブーを垣間見てしまった、という観念が拡大し、罰せられる、もしくは死と引き換えに真実を知るという世界にひっぱられがちになってしまった。
 山のエネルギーにあてられたのかもしれない。
 その得体の知れない力を、ブラバッキー夫人の回路はサナート・クマラの神話として表出したんだろうか・・・。

 しかし、いくつかの洞察・・・というか直観を得た。
 シヴァ・リンガというのがある。
 インド各地の寺院に祀られている円柱状の石で、シヴァ神のシンボルなのだが、これは男根である。(インド人はリンガは「シンボル」ではなく、シヴァ神そのものだと言うらしいけど)
 極度に象徴的な形態として礼拝されているが、当初ヨギがそれを幻視した時にはもっと生々しく生命力に脈打っているようなものではなかったかと感じた。
 シヴァ神自体が全裸の神として覚知されたという可能性もある。
 
 なぜ男性器と、神聖な存在がリンクするのか?
 例えば、ユングが幼少期に見た夢の中においてはリンガは「地下の神」として不気味な様相でそびえていた。

 「・・・確かではないのだが、多分赤いクッションが座の上にあった。すばらしい玉座でおとぎばなしの本当の王様の玉座だった。
 何かがその上に立っていて、はじめ、私は4~5メートルの高さで、約50~60センチメートルの太さの木の幹かと思った。とてつもなく大きくて、天井に届かんばかりだった。けれども奇妙な構造をしていた。それは、皮と裸の肉でできていて、てっぺんには顔も髪もないまんまるの頭に似たなにかがあり、頭のてっぺんには目がひとつあって、じっと動かずにまっすぐ上を見つめていた。・・・・・・

 ・・その時、外から私の上に母の声がきこえた。母は「そう、よく見てごらん、あれが人喰いですよ」と叫んだ。それが私の怖れをさらにいちだんと強めた。・・・

 ・・・ずっと後になってやっと、私があの時みたのはファルロスだったことがわかった。そしてあれが儀式のファルロスだったとわかるまでに十年を要した。私は母が言ったのが「あれこそ、人喰いなのだ」ということなのか、「人喰いはあれなのだ」ということなのかはっきり区別できなかった。第一の場合なら、主イエスやジェスイットは子供達を食べるものではなく、ファルロスこそが人喰いであることを意味していたのだろうし、第二の場合なら、人喰い一般がファルロスで象徴され、従って、暗い主イエスもジェスイットもファルロスも同一物であるということになる。・・・・

・・・いずれにしても、この夢のファルロスは名付けられるべきでない地下の神のように思われ、若い間じゅう存在し、誰かが主イエスについてあまり強調して話す時にはいつでも繰り返しあらわれたのである。主イエスは私には決して全く現実的なものとはなりきらず、すっかり受け入れることも、愛しつくすこともできなかった。幾度となく私は彼の地下の片割れのこと、もとめずして与えられた、ぎょっとするような突拍子もない啓示のことを考えてみるのだった・・・・」 ユング自伝1 29p~30

 自伝を読んでみると、ユングには形骸化したキリスト教をもっと無意識の生生しい力で補填しようという衝動があったようで、その途上において「聖なるもの」と「俗なるもの」が同一であること、「聖なるもの」はもっとも俗であると考えられているものによって象徴化されるということを無意識(魂)から教えられていたように思える。
 しかし、聖なるものとしてリンガを見るのは恐ろしい経験ではないか?
 神々がそのように赤裸々であること、本当にホリスティックであることが畏怖をかきたてるのだ。
 そういえばユングは、神の大量の排泄物が天から落ちてきて、大聖堂をばらばらにするというビジョンも見ていた。
 これは冒涜ではなく、自己自身の、そして神の全体性への尊い受容であると僕には思える。

 とにかく、「聖と性」「神々のエロス」というテーマについてはこれからも考えていきたい。

 (後から気付いた事

 ソーマのビジョンでは、三叉のほこを持って海で戯れているので、ギリシャのポセイドンみたいな神に思えたが、シヴァも三叉のほこを持っていたことに気付いた。
 加えて奥の院一帯の地層はもともと海底にあったもので、ウミユリやサンゴの化石を含んでいるということ。だから海で戯れていたのだろうか?
 もしかすると、鞍馬山は海神のリンガなのかもしれない。。。と夢想した。
 
 天高くのびて、山となる、海底の意志。







 


 






2005. 10. 26  
 フェアリーのエッセンスを吸い込むと、

 アイデンティティーが流れる。

 自分が白髪の長い老人のように、筋骨たくましい古代の男のように思える。
  
 なじみのある、思考パターンや、自己のイメージが遠のく。

 

 そして、アイデンティティーが消える。

 その代わりに、ここにある、これだけが残る。

 それは誰か?

 これは何か?
 
 こっちの方が本当で、いつも演じているあれは虚構に思える。

 自己イメージを機能させるどこかがお休みしちゃっているのだろうか?


 
 鏡を見ると、いつもの自分がいる。

 しかし、それは自己ではない。

 僕がそれを通して生きている、一人の人間。

 なんだかんだ30年近くも、この生を生きてきた。 

 その生き物に

 いつもありがとう、と言う。

 ご苦労様。

 ねぎらってやるとその生き物は少し、喜ぶ。




2005. 08. 28  
 最近眼にした文章のなかで、印象に残ってるものがある。出典はかなりマニアックで、サイケデリクスの探求者といわれるD.M.ターナーが書いた「サイケデリックス 幻覚ドラッグ必携ガイド」から。

 ケタミンという有名な化学物質がある。これは麻酔薬として開発された物質であるが麻酔の効果が切れる際に、患者さんが奇妙な体験をすることが多く次第に使用されなくなったらしい。
 生理学的に言うと、ケタミンは大脳新皮質を抑制する代わりに原始的な脳である辺縁系を賦活すると言われている。
 辺縁系は宗教的な体験と関係があるのではないかと考えられている脳だ。
 イルカ研究で有名なJ・C・リリーはこの物質を使用して、アイソレーションタンクに入り彼岸のリアリティーを探求した。
 さらにケタミンは、ロシアの精神科医クングルチョフ博士によってアルコール依存症の治療にも使われていたという前歴があるようだ。
 このロシア人の博士は研究記事の中で次のように書いている。

 「パーソナリティーのタイプとケタミンによる体験のタイプとの間に相関関係がある。自由になることが困難な人や、人間関係に問題のある非常に管理された人は、ケタミンにおいてネガティブな体験をすることが多い。そういった人たちにとって個人が解体してしまうということは恐ろしいことである。
 リラックスして身を任せることができる人たち、深い愛の力量を備えている患者たちにとっては、たいていの体験は至福に満ち、恍惚でさえある。」


 僕の場合ケタミンを経験していないので、すべて聞きかじった情報に過ぎないが(日本では入手は難しい)、この物質は麻酔薬というだけあり筋肉注射したり、鼻から吸い込んだりするとまず動くことが困難になる。
 そして体外離脱や、光のビジョンなど臨死体験を思わせるような体験が誘発されることが多い。
 あのティモシー・リアリーはケタミンによるトリップは「自発的な死の実験である」と言い、ホロトロピックセラピーの創始者スタニスラフ・グロフは「ケタミンの完璧なトリップを体験したら、あなたは『死』が存在しないことがわかるだろう」と言っている。
 どうやらケタミンという物質は、肉体は生きたままで人間の意識を死の境界線の向こう側へと誘うことができるようだ。
 別の言い方をすれば、ケタミンは人間をして、「死を越える世界と遭遇したと認識させる」ような作用を持つのだろう。

 しかし、ケタミンを服用すれば誰でも自動的に、生死を超越するような素晴らしい経験をする訳ではない。
 そのような生と死の境に放り出された時にどのような体験をするかは本人の潜在意識もしくは、魂の姿勢といったものと密接に関係しているということを先に引用したクングルチョフ博士の言葉は教えている。
 そして、そこで重要なのは愛であり、受容性(抵抗しないこと)だと言っているのである。

 もともと人間存在とは、「抵抗そのもの」であるという言い方もできるかと思う。私たちは常に死から逃走しており、生と死の狭間のその緊張状態が「生命現象」と呼ばれる何かなのではないだろうか。
 「抵抗」と言う現象は実に多次元的に、様々なレベルで現われている。
 まず肉体のレベルでは、肉体を維持し生き残ろうとする根本的な生命衝動として。 そして精神のレベルでは、形而上的に構築された虚構の自我を守ろうとする力として現われている。
 まず確かなことは、全てのレベルにおける抵抗の極度の亢進は苦痛以外の何ものでもないということだ。
 全てのレベルにおいて、抵抗が亢進するということは、全てのレベルにおいて、決して死ぬことができないということである。
 もともと魂は、部分的な死と再生を繰り返すことによって成長・進化するのではないかと僕は思う。
 抵抗とは、このプロセスの拒絶に他ならない。
 しかも困ったことに(喜ばしいことに)、どれほど抵抗しようと、このプロセスは決してとまらないのである。
 苦痛の叫び声を上げながら引きずられていくか、あるいは流れに身を委ねるかという選択ができるだけだ。
 
 抵抗すると、人は抵抗したそのものに対して無自覚になる。
 何かに抵抗しつつ、そのものをじっと見つめることはできない。
 その結果人は抵抗したそのものに対して、無理解となる。
 心理学的に言えば、人が抵抗した観念は抑圧され無意識の内に封印される。
 そしてその封印された無意識が、人をコントロールし始める。眼をふさいだもの、受け入れなかったものに支配されてしまうのである。 秘教的な教えでは、人は十分に目覚めていない限り死の際に無意識になってしまうと教えている。
 これもやはり死に対して、身を委ねるということができないために起こるのではないだろうか。

 抵抗しないこと・受容性とは、愛そのものでもある。
 世界に対する理解そのもの、知恵そのものでもある。
 
 いつか必ず来る、死というトリップを最高のものにするために、セット&セッティングを整えていきたいものだ。
 






2005. 08. 15  
 一週間ほど前、サンペドロというサボテンを食べた。

 ということを書こうと思っていたのだが、面倒くさくて書けなかった。

 なんで、こんな風に、見知らぬ人とは言え、人様の見ている前で自分の私生活を披露する必要があるのかよくわからなくなり、活字のオナニーショーの願望も徐々に減退してきたのでよそで書いていた日記もやめた。
 とは言え、まったく自己表現の場をなくすほどにもふっきれず、かろうじてホームページとこのブログだけは残しているという次第です。
 
 ということで、本題はサボテンなのだが、今回同じメスカリン含有サボテンでも、サンペドロとペヨーテは効果が全く違うということがはっきりした。
 
 前半は比較的楽しいトリップで、後半はまた心の闇と直面した。 

 バグワンの講話ビデオを再生し、その眼をじっと見つめ続けた。
 このビデオの撮り方自体が、和尚の目を中心に撮っているように思う。
 和尚の目を見ていると、和尚が話している内容はまったくどうでもいい余興というかこぼれかすのように思えてきた。
 和尚自体は、巨大な海のような存在としてあり続け、口からこぼれてくる言葉はその海の表面で跳ね上がっている小魚のような・・・そんな感じ。

 そんな風に思っていると、これは自分が今本当に感じていることなのか、それともマインドの情報を再生しているだけなのかわからなくなってきた。
 
 結局、ぼくは和尚の目を見ては居らず、和尚の目についての自分の概念を再生しているに過ぎない???

 ああ、まただ。閉じこめられている。
 自分の考えから脱け出せない。

 ヴェールの向こう側には、本当に誰かいるのか?
 僕の向こう側には本当に、神はいるのか?
 死の向こう側には本当に、光があるのか?

 この肉体と思考が越えられない。
 
 なにか見てしまうと、気が狂うほどとてつもなく恐ろしい事実が存在する。
 それは僕のアイデンティティーと関係があるように思う。
 僕は合成物にすぎないのか。様々な幽霊の複合体か。
 僕はいないのか。
 それが怖いのか。

 あれほど確かだったものが、ばらばらに分解する。
 よく見てみると・・・・。偽者!
 機械、テープレコーダー、モノマネ師。

 私はあなたになりたくないんだ!
 他人の部品が忍び込む・・・・。

 たくさんの亡霊たちが穴から顔を出して、いっせいにこちらを向く。

 一切皆空!
 お前達なんか存在しない!

 トイレにたってふと思う。

 俺達は、ほんとうは、ひとりじゃ、しょんべんもできないんだ。
 小さい子供がひとりで、用をたせるようになって、少しづついろんなことを自分でコントロールできるようになっていくけど。 
 車を運転したり、仕事をして金を稼いで、自分は大人になったなんて思うけど。
 ほんとうは、ひとりじゃしょんべんもできないんだ。

 神様、僕はなにが正しいかもわかりません。
 誰を信じればいいのかもわかりません。
 
 でもあなたが、僕を導いてくれていることを信じます。
 
 あなたが様々な戯れとして、僕をいろいろな人と出会わせてくれた。

 あなたが導いてくれているから、
 なにが正しいのかわからなくてもいいということを、僕は信じようと努力します。

 あなたはあなたを信じていない僕を、今日まで導いてくれたはずだから。
 














プロフィール

はいたか鳥

  • Author:はいたか鳥
  •  Only in silence the word,
     only in dark the light,
     only in dying life :
     bright the hawk's flight on the empty sky


     ことばは沈黙に
    光は闇に
    生は死の中にこそあるものなれ
    飛翔せるタカの
    虚空にこそ輝けるごとくに

    ゲド戦記 エアの創造より


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