2011.
03.
29
二年前に書いた記事だけど、昨今の状況とかぶってる気がするのでまたあげておく
2011年 3月29日
2009年1月21日
先の投稿で、世界内世界に存在しているという事実が苦を宿していると書いた。
それはマトリクス内存在にとって、いつパールバティ(正のマザー)がカーリ(負のマザー)に変身するのかまったく予期できないからだ。
しかし、しばしば僕らはある種のマトリクスには盲目的にされており、それがカーリ化した時に初めてそのなかに生きていたことに気付くという事態になる。
例えば、そのひとつが「経済システムマトリクス」だ。
金融恐慌が進行するにつれて、メディアも今までの市場原理主義がいけないとか、米英中心のシステムや、実態のない金融カジノで金を増幅させてきたつけが回ってきたのだとかいろいろ言い始めたが、それまではその構造などメディアで真剣に取り上げられたこともあまりないし、僕らも素人が理解するには複雑すぎるのでその構造には盲目にされていた。
だがひとたびそれがカーリ化すると、そのシステムの矛盾をすべて一般人がかぶることになるわけである。矛盾は最初からあった。不運が重なったのではない。根本的に生き方がおかしかったのだと思う。その巨大なる矛盾の上に、僕らの生活は成り立っていたわけだ。
もうひとつ例を挙げれば、例えば日本人は諸外国に比べて、国家マトリクス内存在だという認識が希薄であると思う。また「日本民族」であるという自覚も薄い。逆に「日本民族としての誇りを持て!」なんてことを誰かが言うとちょっとヤバイ人に見える。
これに比べて独裁国家である北朝鮮や、民族的に大きな困難を背負わされてきたパレスチナの人々などはいやが上でも国家・民族的意識は強固にならざるを得ない。
そんな民族・国家意識などというものは争いの火種であるので、ない方がいいという意見もあるだろう。しかしその認識がないのが果たして本当にいいことなのか、僕にはわからない。
もし『国家』というものが存在しなければそれでいいだろう。
だが実際には現在、『日本』は国境線によって他と隔てられた、マトリクス(世界内世界)だ。
ということは常に、この世界内世界の状況によって、また他と分断されてることによって苦を背負う可能性を秘めているということでもある。それがはっきりするのは、困難な時代が訪れた時であるだろう。
この、「日本国家」のように潜在的に僕らを飲み込んでいるカーリに対してあまりにも無自覚であるのは、自分が肉体を持っていることに無自覚なくらい危険なことかもしれない。現在の日本はパールバティというより、透明化したカーリと言った方がいい不気味さがある。この透明存在の顔を目を凝らして見る必要がある。
『国家』は潜在的に危険なものだ。
それは原初の形態化、ビナーに苦の種が存在しているのと同じだ。
現代人の多くの人は、国家のみならず、組織というものへの不信感を強くしている。
『組織』とはミクロでは人間がふたり集まった友人や恋人関係であるだろうし、マクロでは多国籍企業や国家だ。その中でも『宗教組織』のイメージは悪い。
1995年、あの組織が起こした事件以来、人々は宗教組織(カルト)への警戒を強くした。
カルト組織への警戒感は、カーリ化したマトリクス内にとらわれる恐怖に基づいている。(誰もこんな言葉で考えないと思うけど)ネガティブマザーは、わが子をその腹の中に飲み込み、幽閉した後、破壊する。
実際あの教団の施設内では、小部屋への幽閉や、暴力、薬物によるマインドコントロールなどが行われていたとされる。
これは極端な例だが、人はある組織に入る時、自分の何かを・・心理的自由や金銭やその多いろいろ・・・を奪われる可能性を感じやすい。
この現代には、人間が構成する組織全般への根源的な不信感が広がっているように思えてならない。
組織にとっての理想は、ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンの精神だろう。相互扶助の精神だけが、組織をカーリではなく、パールバティ、正のマザーにする。そして、その組織は外側に開かれたもので、全体に対してもワン・フォー・オールとなる必要がある。
逆に、組織の一部が大勢の構成員を、心理的・物質的に搾取するシステム、または組織内部はまとまっていようとそれが全体に対して害を及ぼすような(詐欺集団のような)システムは負のマザーに支配されている。いくら組織が繁栄しても、それが全体の犠牲の上に成り立っているなら、構成員は自分自身をネガティブなエネルギーの中に閉じ込め、究極的には自己を損なっているからだ。(閉じ込め、破壊する)他を損なうことが、自己を損なうことになるのは、それは全体(他者)とは、最終的には自分自身であるからに他ならない。
カルト宗教、悪質企業、学級崩壊や家族崩壊。
このような現象は人から共同体への信頼を徐々に奪っていく。
引きこもりやニートという現象も、あらゆる共同体への不信感の拡大と無関係とは思えない。
彼らには大口を開けて、すべてを飲み込むカーリの「幻影」が見えているのだろう。
もし社会に出て働くということが、自分の感性もなにもかもすり減らして、病気になるほど労働するということであるとすれば、社会や、彼らがそこで働く「企業」というのは、「閉じ込め破壊する」カーリ以外の何物でもない。(もちろんこれは極端な見方ではあるが)
その「閉じ込め破壊される」事態を避けるために、自室というもうひとつの「子宮」にこもらねばならなくなる。だがTVやゲーム、好きな本やアニメに囲まれた部屋もそれが長期化すればやはり人を損なう母体となってしまう。彼はやはりカーリの悪夢にうなされて夜中に目を覚ますことになるだろう。
彼らが求めているのは、自己を受け入れ、育ててくれる、「何か」、「誰か」、言い換えれば女性性であり女神(ポジティブマザー)の力なのである。
自室という「子宮」はこの、人を成長・変容させる女性性の代用品なのだが、代用品とは言え、人が困った時に必ず女性性にすがるのは非常に興味深い。それにカーリも彼らに何かを必ず教えるのだ。
カーリは単に破壊者ではなく、厳しい教師の顔をも持っている。
僕は引きこもり状態の時、実際よくカーリ(ネガティブマザー)の化身が登場するような夢を見た。
大きな無人の屋敷をさまよっていて、薄暗い部屋にたどり着くと、そこには一人の女が描かれた絵がかかっているのだが、その顔は下半分だけがライトアップされ口元しか見えなかった。その口元は笑っていた。その絵は屋敷の女主人の顔だと思うのだが、僕は彼女が非常に恐ろしく感じたのを覚えている。床にはいまだ生まれざる胎児の写真が無数に敷き詰められていたからだ。
この他に、カーリ化する可能性のある、又はすでにしているマトリクスは以下のようなものが考えられるだろう。
①エネルギー供給システムマトリクス→例えば中東で戦争が起こると、石油は一気に高騰する。
②食糧供給システムマトリクス→日本に輸入が途絶えると、手に入る食料は激減する。
③ガイアマトリクス(地球内世界そのもの)→異常気象や天変地異の増加によりカーリ化する
①と②に関しては現在のマトリクスの仕組を変容させることで、カーリ化する危険性を減少できる。
例えばロシアから石油を直接輸入する、代替エネルギーの開発を急ぐ、食糧自給体制を確立するなど。
その為には、まずそのマトリクス内にいるという認識が必要になる。
なお前回、今回とマザーの否定的側面をカーリ、肯定的側面をパールバティと便宜的に書いたが本来このように分割できるものではないと思う。世界内存在として形態化することによって生まれる影響として、「閉じ込められ壊される」と「愛され育まれる」の元型的なふたつのパターンが存在し、それらは『世界内世界を形成する』という原初の女神の活動によって発生しているということを言いたかったに過ぎない。本来は、このふたつが融合したひとつの母性しか存在していないし、一見ネガティブなものにもポジティブな側面が必ずある。形を経験することが、形を超越する学習なのだ。だから形を持つことによって発生するネガティビティを知ることも当然重要となる。
そして形を越えた世界を垣間見させるのは、形の創出者であるところの原初の女神、至高のアニマ・マザー、「永遠の女性性」である。僕らは彼女の娘・息子たちだ。
最後にスタニスラフ・グロフのBPMの概念を書いて終りにしたい。
グロフはLSDセラピーや、過呼吸を利用して変性意識に人を導くホロトロピックセラピーを指導していく過程で多くの人が出産時の記憶に拘束されていることを発見し、これはBPM(Basic Perinatal Matrix)基本的分娩前後のマトリックスと名づけた。
BPM1は子宮の羊水に穏やかに浸っている状態で、その状態が心地よいものであれば胎児は「大洋的感覚」、二元性のないすべてと一体であるという感覚を感じている。平和、静寂、平穏、歓喜が体験される。しかし逆に状態があまりよくなければ、その体験は汚染された自然のイメージや、強制収容所のガス室で死んでいく囚人と自分を一体化させる。ここですでに、世界内にいることで発生する苦が始まっているのである。
続いてBPM2は子宮口が開く前に、子宮が収縮を始める段階だ。
この段階では平和な世界は終りを告げ、胎児は肉体を締め付けられる。マザーのカーリ的側面が顕著になってきたのだ。出口(子宮口)はいまだ開いていないのに、世界が自分を押し付けるように周囲から迫ってくる「出口なし」の状況だ。この体験は「敵意に満ちた世界に閉じ込められる」イメージとしてセラピーなどで浮上してくるという。
BPM3は子宮を追い出され、狭苦しい産道を進みながら誕生に向かって苦心する段階。
そしてBPM4で世界へと誕生する。
グロフは現代をBPM3の時代と呼んでいたと言う。
『BPM3とは、出生プロセスのもっともきつい局面であり、胎児が自らの死に相当する出産を前にして、著しい葛藤にさらされる状態を表している。このような状態では、超越(出産)への希求が高まると同時に、鬱積したエネルギーの劇的な消費を促すエロス的欲求や攻撃性が高まるとグロフは言うのである。こうしたグロフの見解は単なる推測によって産み出されたものではなく、サイケデリックな物質を使った臨床的な観察によって産み出されたものであることに注意してもらいたい。
我々は現在、エロスと暴力が社会に蔓延しているのを目撃している。こうした現象はある意味憂慮すべきものであり、世紀末的な現象として慨嘆する向きも多い。しかし、グロフの考察に従うなら、エロス的欲求や暴力衝動の高まりは、超越的欲求の高まりを示す一つの兆候とみなすことも可能なのである』
菅靖彦 著 『変性意識の舞台』より
もしや現在多くのものがカーリ化しているという事実も、エロス的アニマの増殖も、未知への誕生の生みの苦しみなのだろうか。そもそも誕生とは胎児にとっては古き世界の死である。自らは望むべくもない。しかしプロセスは「勝手に」進行する。多少体を締め付けられようとも、母なる宇宙への信頼が問われている。
西洋文明終末期の
最終的な崩壊と成熟の
人間性のプロセスは次のようになる。
1、マニピュラチャクラの否定。
すなわちエゴ・トリップの頽廃。
2、ムラダーラ・チャクラへの退行。
すなわち、セクシャルな事柄や麻薬の流行と、その反動としての超管理社会。
3、死もしくは狂気についての狂気的関心。あるいは、その反動としての社会的平和や宗教への熱狂。あるいは戦争と暴力。
ここまでで、ムラダーラチャクラへの退行の試みは、終息する。
つまり西洋文明の実質的崩壊である。
4、だが一部分では、
この崩壊を乗り越えて、真の成熟過程が進行する。
5、死についての非抑圧的な正常な関心。
6、そして
メンタル体、アナハタチャクラの爆発。すなわち超越的な慈愛と、純粋な瞑想行為の発現。
ダンテス・ダイジ 『アメジスト・タブレット・プロローグ』
2011年 3月29日
2009年1月21日
先の投稿で、世界内世界に存在しているという事実が苦を宿していると書いた。
それはマトリクス内存在にとって、いつパールバティ(正のマザー)がカーリ(負のマザー)に変身するのかまったく予期できないからだ。
しかし、しばしば僕らはある種のマトリクスには盲目的にされており、それがカーリ化した時に初めてそのなかに生きていたことに気付くという事態になる。
例えば、そのひとつが「経済システムマトリクス」だ。
金融恐慌が進行するにつれて、メディアも今までの市場原理主義がいけないとか、米英中心のシステムや、実態のない金融カジノで金を増幅させてきたつけが回ってきたのだとかいろいろ言い始めたが、それまではその構造などメディアで真剣に取り上げられたこともあまりないし、僕らも素人が理解するには複雑すぎるのでその構造には盲目にされていた。
だがひとたびそれがカーリ化すると、そのシステムの矛盾をすべて一般人がかぶることになるわけである。矛盾は最初からあった。不運が重なったのではない。根本的に生き方がおかしかったのだと思う。その巨大なる矛盾の上に、僕らの生活は成り立っていたわけだ。
もうひとつ例を挙げれば、例えば日本人は諸外国に比べて、国家マトリクス内存在だという認識が希薄であると思う。また「日本民族」であるという自覚も薄い。逆に「日本民族としての誇りを持て!」なんてことを誰かが言うとちょっとヤバイ人に見える。
これに比べて独裁国家である北朝鮮や、民族的に大きな困難を背負わされてきたパレスチナの人々などはいやが上でも国家・民族的意識は強固にならざるを得ない。
そんな民族・国家意識などというものは争いの火種であるので、ない方がいいという意見もあるだろう。しかしその認識がないのが果たして本当にいいことなのか、僕にはわからない。
もし『国家』というものが存在しなければそれでいいだろう。
だが実際には現在、『日本』は国境線によって他と隔てられた、マトリクス(世界内世界)だ。
ということは常に、この世界内世界の状況によって、また他と分断されてることによって苦を背負う可能性を秘めているということでもある。それがはっきりするのは、困難な時代が訪れた時であるだろう。
この、「日本国家」のように潜在的に僕らを飲み込んでいるカーリに対してあまりにも無自覚であるのは、自分が肉体を持っていることに無自覚なくらい危険なことかもしれない。現在の日本はパールバティというより、透明化したカーリと言った方がいい不気味さがある。この透明存在の顔を目を凝らして見る必要がある。
『国家』は潜在的に危険なものだ。
それは原初の形態化、ビナーに苦の種が存在しているのと同じだ。
現代人の多くの人は、国家のみならず、組織というものへの不信感を強くしている。
『組織』とはミクロでは人間がふたり集まった友人や恋人関係であるだろうし、マクロでは多国籍企業や国家だ。その中でも『宗教組織』のイメージは悪い。
1995年、あの組織が起こした事件以来、人々は宗教組織(カルト)への警戒を強くした。
カルト組織への警戒感は、カーリ化したマトリクス内にとらわれる恐怖に基づいている。(誰もこんな言葉で考えないと思うけど)ネガティブマザーは、わが子をその腹の中に飲み込み、幽閉した後、破壊する。
実際あの教団の施設内では、小部屋への幽閉や、暴力、薬物によるマインドコントロールなどが行われていたとされる。
これは極端な例だが、人はある組織に入る時、自分の何かを・・心理的自由や金銭やその多いろいろ・・・を奪われる可能性を感じやすい。
この現代には、人間が構成する組織全般への根源的な不信感が広がっているように思えてならない。
組織にとっての理想は、ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンの精神だろう。相互扶助の精神だけが、組織をカーリではなく、パールバティ、正のマザーにする。そして、その組織は外側に開かれたもので、全体に対してもワン・フォー・オールとなる必要がある。
逆に、組織の一部が大勢の構成員を、心理的・物質的に搾取するシステム、または組織内部はまとまっていようとそれが全体に対して害を及ぼすような(詐欺集団のような)システムは負のマザーに支配されている。いくら組織が繁栄しても、それが全体の犠牲の上に成り立っているなら、構成員は自分自身をネガティブなエネルギーの中に閉じ込め、究極的には自己を損なっているからだ。(閉じ込め、破壊する)他を損なうことが、自己を損なうことになるのは、それは全体(他者)とは、最終的には自分自身であるからに他ならない。
カルト宗教、悪質企業、学級崩壊や家族崩壊。
このような現象は人から共同体への信頼を徐々に奪っていく。
引きこもりやニートという現象も、あらゆる共同体への不信感の拡大と無関係とは思えない。
彼らには大口を開けて、すべてを飲み込むカーリの「幻影」が見えているのだろう。
もし社会に出て働くということが、自分の感性もなにもかもすり減らして、病気になるほど労働するということであるとすれば、社会や、彼らがそこで働く「企業」というのは、「閉じ込め破壊する」カーリ以外の何物でもない。(もちろんこれは極端な見方ではあるが)
その「閉じ込め破壊される」事態を避けるために、自室というもうひとつの「子宮」にこもらねばならなくなる。だがTVやゲーム、好きな本やアニメに囲まれた部屋もそれが長期化すればやはり人を損なう母体となってしまう。彼はやはりカーリの悪夢にうなされて夜中に目を覚ますことになるだろう。
彼らが求めているのは、自己を受け入れ、育ててくれる、「何か」、「誰か」、言い換えれば女性性であり女神(ポジティブマザー)の力なのである。
自室という「子宮」はこの、人を成長・変容させる女性性の代用品なのだが、代用品とは言え、人が困った時に必ず女性性にすがるのは非常に興味深い。それにカーリも彼らに何かを必ず教えるのだ。
カーリは単に破壊者ではなく、厳しい教師の顔をも持っている。
僕は引きこもり状態の時、実際よくカーリ(ネガティブマザー)の化身が登場するような夢を見た。
大きな無人の屋敷をさまよっていて、薄暗い部屋にたどり着くと、そこには一人の女が描かれた絵がかかっているのだが、その顔は下半分だけがライトアップされ口元しか見えなかった。その口元は笑っていた。その絵は屋敷の女主人の顔だと思うのだが、僕は彼女が非常に恐ろしく感じたのを覚えている。床にはいまだ生まれざる胎児の写真が無数に敷き詰められていたからだ。
この他に、カーリ化する可能性のある、又はすでにしているマトリクスは以下のようなものが考えられるだろう。
①エネルギー供給システムマトリクス→例えば中東で戦争が起こると、石油は一気に高騰する。
②食糧供給システムマトリクス→日本に輸入が途絶えると、手に入る食料は激減する。
③ガイアマトリクス(地球内世界そのもの)→異常気象や天変地異の増加によりカーリ化する
①と②に関しては現在のマトリクスの仕組を変容させることで、カーリ化する危険性を減少できる。
例えばロシアから石油を直接輸入する、代替エネルギーの開発を急ぐ、食糧自給体制を確立するなど。
その為には、まずそのマトリクス内にいるという認識が必要になる。
なお前回、今回とマザーの否定的側面をカーリ、肯定的側面をパールバティと便宜的に書いたが本来このように分割できるものではないと思う。世界内存在として形態化することによって生まれる影響として、「閉じ込められ壊される」と「愛され育まれる」の元型的なふたつのパターンが存在し、それらは『世界内世界を形成する』という原初の女神の活動によって発生しているということを言いたかったに過ぎない。本来は、このふたつが融合したひとつの母性しか存在していないし、一見ネガティブなものにもポジティブな側面が必ずある。形を経験することが、形を超越する学習なのだ。だから形を持つことによって発生するネガティビティを知ることも当然重要となる。
そして形を越えた世界を垣間見させるのは、形の創出者であるところの原初の女神、至高のアニマ・マザー、「永遠の女性性」である。僕らは彼女の娘・息子たちだ。
最後にスタニスラフ・グロフのBPMの概念を書いて終りにしたい。
グロフはLSDセラピーや、過呼吸を利用して変性意識に人を導くホロトロピックセラピーを指導していく過程で多くの人が出産時の記憶に拘束されていることを発見し、これはBPM(Basic Perinatal Matrix)基本的分娩前後のマトリックスと名づけた。
BPM1は子宮の羊水に穏やかに浸っている状態で、その状態が心地よいものであれば胎児は「大洋的感覚」、二元性のないすべてと一体であるという感覚を感じている。平和、静寂、平穏、歓喜が体験される。しかし逆に状態があまりよくなければ、その体験は汚染された自然のイメージや、強制収容所のガス室で死んでいく囚人と自分を一体化させる。ここですでに、世界内にいることで発生する苦が始まっているのである。
続いてBPM2は子宮口が開く前に、子宮が収縮を始める段階だ。
この段階では平和な世界は終りを告げ、胎児は肉体を締め付けられる。マザーのカーリ的側面が顕著になってきたのだ。出口(子宮口)はいまだ開いていないのに、世界が自分を押し付けるように周囲から迫ってくる「出口なし」の状況だ。この体験は「敵意に満ちた世界に閉じ込められる」イメージとしてセラピーなどで浮上してくるという。
BPM3は子宮を追い出され、狭苦しい産道を進みながら誕生に向かって苦心する段階。
そしてBPM4で世界へと誕生する。
グロフは現代をBPM3の時代と呼んでいたと言う。
『BPM3とは、出生プロセスのもっともきつい局面であり、胎児が自らの死に相当する出産を前にして、著しい葛藤にさらされる状態を表している。このような状態では、超越(出産)への希求が高まると同時に、鬱積したエネルギーの劇的な消費を促すエロス的欲求や攻撃性が高まるとグロフは言うのである。こうしたグロフの見解は単なる推測によって産み出されたものではなく、サイケデリックな物質を使った臨床的な観察によって産み出されたものであることに注意してもらいたい。
我々は現在、エロスと暴力が社会に蔓延しているのを目撃している。こうした現象はある意味憂慮すべきものであり、世紀末的な現象として慨嘆する向きも多い。しかし、グロフの考察に従うなら、エロス的欲求や暴力衝動の高まりは、超越的欲求の高まりを示す一つの兆候とみなすことも可能なのである』
菅靖彦 著 『変性意識の舞台』より
もしや現在多くのものがカーリ化しているという事実も、エロス的アニマの増殖も、未知への誕生の生みの苦しみなのだろうか。そもそも誕生とは胎児にとっては古き世界の死である。自らは望むべくもない。しかしプロセスは「勝手に」進行する。多少体を締め付けられようとも、母なる宇宙への信頼が問われている。
西洋文明終末期の
最終的な崩壊と成熟の
人間性のプロセスは次のようになる。
1、マニピュラチャクラの否定。
すなわちエゴ・トリップの頽廃。
2、ムラダーラ・チャクラへの退行。
すなわち、セクシャルな事柄や麻薬の流行と、その反動としての超管理社会。
3、死もしくは狂気についての狂気的関心。あるいは、その反動としての社会的平和や宗教への熱狂。あるいは戦争と暴力。
ここまでで、ムラダーラチャクラへの退行の試みは、終息する。
つまり西洋文明の実質的崩壊である。
4、だが一部分では、
この崩壊を乗り越えて、真の成熟過程が進行する。
5、死についての非抑圧的な正常な関心。
6、そして
メンタル体、アナハタチャクラの爆発。すなわち超越的な慈愛と、純粋な瞑想行為の発現。
ダンテス・ダイジ 『アメジスト・タブレット・プロローグ』
2009.
02.
14
2/17 18:00 一部追加変更
水、女性性、愛ゆえの裏方
原△は、陰陽の極性が現れる「場」であり、その中に△(火)と▼(水)が現れる。
これを考えていて面白く思えたのは、女性性が裏方▼として顕現しているように思える点だ。
火の性質は大気へと上昇していくことだが、水の性質は引力に『従って』どこまでも低きに流れていくことである。そして、地上においても、水中においても、また得体の知れない生き物がうごめくような地中においても水は命を育む母体となる。人体と地球の七割は水によって満たされている。
原初の母は、自らの創造した世界を、まず彼女自身の性質によって覆い、すべてを発生させる基盤となるのだ。その流れは、前回引用した松村氏の著作の一文のように、「神から無限まで」続いている。彼女は自らの世界を、彼女自身で満たす。
女性性の特質のひとつは、水が引力に従うように、他に『従う』ことにある。
これは通俗的なフェミニズムや男女同権論で批判されるべきことではない。
男性性と女性性はどちらも、生物的男女双方のうちにそれぞれの個人に特有のバランスで存在しているからだ。とは言ってもやはり男性は男性性が表に強く現れており、女性も女性性が表面的には強く現れる(文化や教育もそれを促進する)。その配分は個性なので、女性的な男性、男性的な女性、などいろいろなパターンがあって当然だ。
逆に男性的過ぎる男性は、内的な女性性を見まいとして無意識にねじ伏せている可能性があり、その場合彼女に「感情」で逆襲されやすい。論理的に見えて、実は感情に操られて喋っている男性などは彼女に手綱を握られている。一昔前の男は泣いてはいけない、という教えは、感情に支配される男性を作ってしまう可能性がある。
大切なのは個人のうちで、「彼女」と「彼」を本人にとってちょうどいい感じでバランスすることだろう。
男性にとっても、組織でのナンバーツー的な位置や、トップの補佐的な立場で発揮されるのは、トップを支える、あるいは理解すると言う女性性であるだろう。
『従う』ことは屈辱的な服従であるとは限らない。
現代人が受ける教育はフランス革命や、その他色々の自由と平等へのムーブメントの、その「良い点」ばかりをクローズアップして教えている。つまり現代の資本主義社会を、民主主義や自由平等という美徳のゴールとして教えるわけだ。しかしどう考えてもこれはゴールではなく、精一杯好意的に言って、どこかそうあるべき文明へのプロセスでしかない。
自由や、個人の意志の価値のみを過度に持ち上げると言うことは『従う』ということの重要性を覆い隠してしまう。
『従う』ということは不本意な服従ではない。そうではなく自ら自然と頭を垂れることであり、より高きものへの降伏だ。この降伏はより高きものからの恩や、愛に対する自然なリアクションで、決してパワーに対する媚びへつらいではない。ここのところが現在見えなくなっている部分ではないかと思う。
確かに依存性や、執着を基にしたネガティブな服従というのも存在し、だからこそ多くの人は「自立」と「自分の自由意志」こそが大事だと説く。そうかもしれない。しかし依存性から自由な「自立」と、本当の「従う」ことは本来矛盾することではないのだ。
依存性は、本当の意味で相手への愛や信頼、感謝はない。それは恨みや怒り、猜疑心と紙一重である。しかし「従う」ということは、相手からの見返りを期待せず、自分を投げ出すことなのである。大きな愛に触れないと、なかなか出来ることではないと思う。
また逆説的に語るならば、「従う」ということ、常に「裏方」となることは「主」となるものの支配でもある。キリスト教系神秘主義者のマイスター・エックハルトは、『真に神に降伏するなら、神はあなたのところにやってこざるを得ない』と言う趣旨のことを言っている。とてもトリッキーな言い方だがこれは真実ではないだろうか。
日常生活に目を向けてみると、例えば恐ろしく古風な亭主関白で、日常の雑事はすべて妻に任せていると言う男性がいたとする。家の中のことは何もせず、何がどこにあるのかも全く把握していないとする。彼は常日頃威張って妻にあれこれ指示を与えるかもしれないが、ある日突然妻がいなくなれば途方にくれてしまうだろう。古典的亭主関白に従う、古典的「夫に従う妻」というのは裏を返せば生活面で、「主」である夫の「従」となることにより夫の生活を支配するものである。
これに限らず、一見「従」的な存在というのは下位のヒエラルキーに属しているかのようにも見えるがそれは錯覚であり、「主」となるものの存在を根底で支えているのである。「従」的存在が、自分より下位、あるいはしもべ、自分の奴隷であるなどなどと言う概念は、「主」となるものの錯誤のうちにしかない。
「従」となるすべての存在は愛ゆえに、裏方に徹している。
「従」にとってはある場合自分を奴隷とみなすこともいとわない。
それは低きに流れる水の性質と同じだ。
水は天から降り注ぎ、あらゆる生命マトリクスの母体となる。ほとんど常日頃はその恩を忘れられるほど、本質的に生命を支える要素になることによってあらゆるものを生かす。このような存在を「母」と言う。
水は、火に暖められることによって再び天へと帰り、また雨となって降り注ぎ、天地を巡り続ける。
上昇下降による極性の転換、ピラミッドの頂上には何があるのか?、ゼロポイントと、高次元について
先に書いた記事で、△(火)と結びついている観念群の中に「富士」を入れた。
この「富士」を実際の富士山としてのみ捉える時、富士にあらわれるのは必ずしも上昇原理だけではないのではないかという問題にぶつかる。
地中からマグマが吹き上げる噴火、あるいは地殻の運動力によって上へ向かって成長するものとして山をとらえると確かに「富士」を含む山々は△(火)の存在に思える。
それは天へ向かって伸びる力であり、地中のエネルギーを宇宙へと吹き上げる力だ。
だが、こういったピラミッド状の形態に働いているのは上昇力だけではない。不可視の領域では宇宙から、もしくは高次の世界から下降してくるエネルギーの流れも存在するはずだ。
例えば、一説によると富士は「アセンション」エネルギーのポータルだと言われる。
またピラミッドを見ても、あのかたちなら上部から下部へのエネルギーの流れも存在すると考えるのが自然だろうと思う。
△もしくはピラミッドは、しばしばこの世的な組織の構造を象徴化するために用いられる。
フリーメーソン・イルミナティのシンボルであるとされる『ピラミッドアイ』はピラミッドの頂点に万物を見通す目が据えられている。しかし僕はこのピラミッドアイは本来、邪な象徴ではなかったのではないかと思う。この象徴が悪の秘密結社のシンボルとして語られるのを聴く時、何かが故意に捻じ曲げられているように思えるのだ。
米国の紙幣に描かれたピラミッドアイ
確かに、上層部を少人数が支配して、下層に向かうほど多数の庶民がその構造を支えていると言うのは、中世の封建主義国家や教会組織などを連想させるものだ。
しかし、△もしくはピラミッドに秘められた意味は本来そのようなものではないと思う。
これはもともとは、あらゆる現象は一者(三角形の頂点)から流出していること、そしてその一者はこの△の形態内存在ではなく、頂点の・(ゼロポイント)であるということを示唆しているものだと僕は考える。
僕らがこの図に地上的なヒエラルキーしか読み取れなくなってるとすれば、それはメタファー解析能力が著しく萎縮しているからだと思う。そして、メタファー解析能力が萎縮すると、このシンボルはこういう意味、だと刷り込まれればそのままに解釈する。しかし象徴的言語と言うのは、刷り込まれるものではなく内的に解き明かすものなのである。こういった象徴言語は例えば信号の色(青→進めなど)のように、社会的に共有する単一の意味を持っているわけではない。
だからピラミッドと言う形態が、ファラオが多数の奴隷を用いて建造したというイメージなどと共に、この世的な威信や、封建主義的構造の象徴とされるのは腑に落ちないものを感じる。それは一面的な意味でしかないと思うのだが。
△は、上部に行くほどその幅が狭くなっており、頂点では幅がゼロ=・(点)になる。
・はゼロポイントで、あり形の限界点だ。
ゼロポイントはひとつの世界の開始点であり、またゼロポイントではひとつの世界が終息する。ひとつの「かたち」が終わる
ケテル・ブラフマンは、世の終わりに、彼が産み出したすべてのマーヤ(相対的現象世界)を自らのうちに引き込み滅するとされる。この「世の終り」と言うのは、時間的彼方にあるというよりも今この瞬間に、すべての多次元世界が終わるポイントである△と▼の結び目にあるのではないだろうか??(推測ですが)
3次元的に見ると、物質としてのピラミッドは頂点の・(点)で終わっており、その向こうには何もない。富士山の登頂に登っても、雲海は見えるかもしれないがその「上」には何も見当たらない。少なくとも可視的には。
しかし、その向こうに(3次元空間の向こうに)何かがあるからこそ、エネルギーはピラミッドを通して流入してくる。そのエネルギーの来る場所・・は第四次元の▼(下向きピラミッド)だと考えられる。これは僕らの目には見えない。目に見えるピラミッドの上部には、見えないピラミッドが連なっている。
ゼロポイントは虚空(void)である。ここはチャクラで言えばサハスララで『ワンネス』が実現するポイントだ。サハスララは人体と言うピラミッドの頂点に位置する。ドランヴァロ・メルキゼデク流に言えば、次元オクターブと次元オクターブの間に存在する虚空だと思う。彼は「あなたがオクターブ間の虚空にいる時、神と一つになっている」と言っている。
興味深いことは、このゼロポイントは、どのオクターブにおいても同じではないかと思える点である。
3次元世界の背後には、4次元、5次元・・・・と以下無数の高次元世界が存在しているのかもしれない。しかしすべてのつなぎ目に同じような『虚空』があるとするならば、『虚空』に関する認識はどの次元でも等しいと言うことになる。
『悟り』というのは、高次元の認識というよりも、この虚空への目覚めではないかと思う。どの世界でも△と▼の二極性をもとにして世界が展開しているのであれば、それらふたつが中和されるポイント、ゼロポイントが必ず存在することになる。だから覚醒に至った人は、高次元世界の存在や、神々、宇宙人の存在と言うものを断定的に否定したりはしない。しかし同時に、すべての高次元を含む相対世界とゼロポイントと言うのは、相対世界内の次元の差とは別の意味で、次元が違うのではないか。それは幼児の落書きよりも、巨匠が描いた絵画のほうが見ごたえはするかもしれないが、どちらも同じ「紙(神)」の上に描かれる事に似ている。絵のレベルが「相対世界内の次元の差」で、紙がゼロポイントだ。『悟り』は高次元世界の認識ではなく、よりラディカルな、全てを存在させるベース(神・紙)の認識と言える。
フィリス・アトウォーターの目撃した、回転するふたつのサイクロンの「結合部」をそのような次元間の虚空と考えることは可能だろうか?
私は、今まで「いのち」と呼んでいたものに何の興味も持てなくなり、放射される力の光線に
ただただ魅了されていた。サイクロンの噴出孔の真ん中からたえず発散されている、この刺すような光線は私に触れてもいいはずなのだが、まったく触れてはこないのだ。その空間、その場所は、私にとって神へと至る入り口であるかのように思えたので、私はその中心に向かって行こうと決心した。
私はかつてそこからやってきた。だからそこへ、神の世界へ戻るのだ。それが私の願いだった。
アトウォータ著『未来の記憶』 より
カミという音にはいくつかの漢字が当てられる。
神、紙、上、髪、噛み(む)、火水などだ。
大きく分けて、三種類の意味合いがある。
髪、上は『上方にあるもの』を指している。
そして噛み(上の歯と下の歯の結合)と火水は『二つのものの融合』を指し、
紙、は『存在のベースとなるもの』を指す。
アトウォーターにとってはもはや神は、上方にある「髪、上」ではなく、自らが真っ直ぐに向かっている存在のベース、『紙』であった。臨死体験中の彼女はもはや空間的上下が問題となる通常の3次元的時空間にはいなかったからだ。そしてその神の世界への入り口は、二つの世界が結合する(噛み合う、火水の接合点)そこにあったのだ。
しかし、このたて・よこ・高さの3次元に生きる僕らにとっては、神とはやはり「上」である。祈る時には無意識に上部を向いてしまう。神のエネルギーはこの世界ではやはり上向きに作用するからだろうか。僕らは3次元空間に生きる生き物のさがとして、無意識に魂を昇りゆかせようとし、また下降してくる神の力を受け取ろうとする。
エネルギーの下降経路となる時、△は、上位の▼に対してマイナスの極性となる。
『男の魂は女であり、女の魂は男』と言われるが、エネルギーの下降局面では、富士の魂(女)(=コノハナサクヤヒメという事になるのか?)がエネルギーを受容し流すことになる。
前回引用した松村潔氏の著作にもあることだが、プラスとマイナスは相対的なもので、ある局面ではエネルギーの放出体となる存在が、別の局面ではエネルギーの受容体となりうる。
あるいは上昇経路と下降経路(昇り竜と降り竜)はひとつの存在の中で、DNA二重螺旋のようにからみあって存在しているのかもしれない。
水、女性性、愛ゆえの裏方
原△は、陰陽の極性が現れる「場」であり、その中に△(火)と▼(水)が現れる。
これを考えていて面白く思えたのは、女性性が裏方▼として顕現しているように思える点だ。
火の性質は大気へと上昇していくことだが、水の性質は引力に『従って』どこまでも低きに流れていくことである。そして、地上においても、水中においても、また得体の知れない生き物がうごめくような地中においても水は命を育む母体となる。人体と地球の七割は水によって満たされている。
原初の母は、自らの創造した世界を、まず彼女自身の性質によって覆い、すべてを発生させる基盤となるのだ。その流れは、前回引用した松村氏の著作の一文のように、「神から無限まで」続いている。彼女は自らの世界を、彼女自身で満たす。
女性性の特質のひとつは、水が引力に従うように、他に『従う』ことにある。
これは通俗的なフェミニズムや男女同権論で批判されるべきことではない。
男性性と女性性はどちらも、生物的男女双方のうちにそれぞれの個人に特有のバランスで存在しているからだ。とは言ってもやはり男性は男性性が表に強く現れており、女性も女性性が表面的には強く現れる(文化や教育もそれを促進する)。その配分は個性なので、女性的な男性、男性的な女性、などいろいろなパターンがあって当然だ。
逆に男性的過ぎる男性は、内的な女性性を見まいとして無意識にねじ伏せている可能性があり、その場合彼女に「感情」で逆襲されやすい。論理的に見えて、実は感情に操られて喋っている男性などは彼女に手綱を握られている。一昔前の男は泣いてはいけない、という教えは、感情に支配される男性を作ってしまう可能性がある。
大切なのは個人のうちで、「彼女」と「彼」を本人にとってちょうどいい感じでバランスすることだろう。
男性にとっても、組織でのナンバーツー的な位置や、トップの補佐的な立場で発揮されるのは、トップを支える、あるいは理解すると言う女性性であるだろう。
『従う』ことは屈辱的な服従であるとは限らない。
現代人が受ける教育はフランス革命や、その他色々の自由と平等へのムーブメントの、その「良い点」ばかりをクローズアップして教えている。つまり現代の資本主義社会を、民主主義や自由平等という美徳のゴールとして教えるわけだ。しかしどう考えてもこれはゴールではなく、精一杯好意的に言って、どこかそうあるべき文明へのプロセスでしかない。
自由や、個人の意志の価値のみを過度に持ち上げると言うことは『従う』ということの重要性を覆い隠してしまう。
『従う』ということは不本意な服従ではない。そうではなく自ら自然と頭を垂れることであり、より高きものへの降伏だ。この降伏はより高きものからの恩や、愛に対する自然なリアクションで、決してパワーに対する媚びへつらいではない。ここのところが現在見えなくなっている部分ではないかと思う。
確かに依存性や、執着を基にしたネガティブな服従というのも存在し、だからこそ多くの人は「自立」と「自分の自由意志」こそが大事だと説く。そうかもしれない。しかし依存性から自由な「自立」と、本当の「従う」ことは本来矛盾することではないのだ。
依存性は、本当の意味で相手への愛や信頼、感謝はない。それは恨みや怒り、猜疑心と紙一重である。しかし「従う」ということは、相手からの見返りを期待せず、自分を投げ出すことなのである。大きな愛に触れないと、なかなか出来ることではないと思う。
また逆説的に語るならば、「従う」ということ、常に「裏方」となることは「主」となるものの支配でもある。キリスト教系神秘主義者のマイスター・エックハルトは、『真に神に降伏するなら、神はあなたのところにやってこざるを得ない』と言う趣旨のことを言っている。とてもトリッキーな言い方だがこれは真実ではないだろうか。
日常生活に目を向けてみると、例えば恐ろしく古風な亭主関白で、日常の雑事はすべて妻に任せていると言う男性がいたとする。家の中のことは何もせず、何がどこにあるのかも全く把握していないとする。彼は常日頃威張って妻にあれこれ指示を与えるかもしれないが、ある日突然妻がいなくなれば途方にくれてしまうだろう。古典的亭主関白に従う、古典的「夫に従う妻」というのは裏を返せば生活面で、「主」である夫の「従」となることにより夫の生活を支配するものである。
これに限らず、一見「従」的な存在というのは下位のヒエラルキーに属しているかのようにも見えるがそれは錯覚であり、「主」となるものの存在を根底で支えているのである。「従」的存在が、自分より下位、あるいはしもべ、自分の奴隷であるなどなどと言う概念は、「主」となるものの錯誤のうちにしかない。
「従」となるすべての存在は愛ゆえに、裏方に徹している。
「従」にとってはある場合自分を奴隷とみなすこともいとわない。
それは低きに流れる水の性質と同じだ。
水は天から降り注ぎ、あらゆる生命マトリクスの母体となる。ほとんど常日頃はその恩を忘れられるほど、本質的に生命を支える要素になることによってあらゆるものを生かす。このような存在を「母」と言う。
水は、火に暖められることによって再び天へと帰り、また雨となって降り注ぎ、天地を巡り続ける。
上昇下降による極性の転換、ピラミッドの頂上には何があるのか?、ゼロポイントと、高次元について
先に書いた記事で、△(火)と結びついている観念群の中に「富士」を入れた。
この「富士」を実際の富士山としてのみ捉える時、富士にあらわれるのは必ずしも上昇原理だけではないのではないかという問題にぶつかる。
地中からマグマが吹き上げる噴火、あるいは地殻の運動力によって上へ向かって成長するものとして山をとらえると確かに「富士」を含む山々は△(火)の存在に思える。
それは天へ向かって伸びる力であり、地中のエネルギーを宇宙へと吹き上げる力だ。
だが、こういったピラミッド状の形態に働いているのは上昇力だけではない。不可視の領域では宇宙から、もしくは高次の世界から下降してくるエネルギーの流れも存在するはずだ。
例えば、一説によると富士は「アセンション」エネルギーのポータルだと言われる。
またピラミッドを見ても、あのかたちなら上部から下部へのエネルギーの流れも存在すると考えるのが自然だろうと思う。
△もしくはピラミッドは、しばしばこの世的な組織の構造を象徴化するために用いられる。
フリーメーソン・イルミナティのシンボルであるとされる『ピラミッドアイ』はピラミッドの頂点に万物を見通す目が据えられている。しかし僕はこのピラミッドアイは本来、邪な象徴ではなかったのではないかと思う。この象徴が悪の秘密結社のシンボルとして語られるのを聴く時、何かが故意に捻じ曲げられているように思えるのだ。

米国の紙幣に描かれたピラミッドアイ
確かに、上層部を少人数が支配して、下層に向かうほど多数の庶民がその構造を支えていると言うのは、中世の封建主義国家や教会組織などを連想させるものだ。
しかし、△もしくはピラミッドに秘められた意味は本来そのようなものではないと思う。
これはもともとは、あらゆる現象は一者(三角形の頂点)から流出していること、そしてその一者はこの△の形態内存在ではなく、頂点の・(ゼロポイント)であるということを示唆しているものだと僕は考える。
僕らがこの図に地上的なヒエラルキーしか読み取れなくなってるとすれば、それはメタファー解析能力が著しく萎縮しているからだと思う。そして、メタファー解析能力が萎縮すると、このシンボルはこういう意味、だと刷り込まれればそのままに解釈する。しかし象徴的言語と言うのは、刷り込まれるものではなく内的に解き明かすものなのである。こういった象徴言語は例えば信号の色(青→進めなど)のように、社会的に共有する単一の意味を持っているわけではない。
だからピラミッドと言う形態が、ファラオが多数の奴隷を用いて建造したというイメージなどと共に、この世的な威信や、封建主義的構造の象徴とされるのは腑に落ちないものを感じる。それは一面的な意味でしかないと思うのだが。
△は、上部に行くほどその幅が狭くなっており、頂点では幅がゼロ=・(点)になる。
・はゼロポイントで、あり形の限界点だ。
ゼロポイントはひとつの世界の開始点であり、またゼロポイントではひとつの世界が終息する。ひとつの「かたち」が終わる
ケテル・ブラフマンは、世の終わりに、彼が産み出したすべてのマーヤ(相対的現象世界)を自らのうちに引き込み滅するとされる。この「世の終り」と言うのは、時間的彼方にあるというよりも今この瞬間に、すべての多次元世界が終わるポイントである△と▼の結び目にあるのではないだろうか??(推測ですが)
3次元的に見ると、物質としてのピラミッドは頂点の・(点)で終わっており、その向こうには何もない。富士山の登頂に登っても、雲海は見えるかもしれないがその「上」には何も見当たらない。少なくとも可視的には。
しかし、その向こうに(3次元空間の向こうに)何かがあるからこそ、エネルギーはピラミッドを通して流入してくる。そのエネルギーの来る場所・・は第四次元の▼(下向きピラミッド)だと考えられる。これは僕らの目には見えない。目に見えるピラミッドの上部には、見えないピラミッドが連なっている。
ゼロポイントは虚空(void)である。ここはチャクラで言えばサハスララで『ワンネス』が実現するポイントだ。サハスララは人体と言うピラミッドの頂点に位置する。ドランヴァロ・メルキゼデク流に言えば、次元オクターブと次元オクターブの間に存在する虚空だと思う。彼は「あなたがオクターブ間の虚空にいる時、神と一つになっている」と言っている。
興味深いことは、このゼロポイントは、どのオクターブにおいても同じではないかと思える点である。
3次元世界の背後には、4次元、5次元・・・・と以下無数の高次元世界が存在しているのかもしれない。しかしすべてのつなぎ目に同じような『虚空』があるとするならば、『虚空』に関する認識はどの次元でも等しいと言うことになる。
『悟り』というのは、高次元の認識というよりも、この虚空への目覚めではないかと思う。どの世界でも△と▼の二極性をもとにして世界が展開しているのであれば、それらふたつが中和されるポイント、ゼロポイントが必ず存在することになる。だから覚醒に至った人は、高次元世界の存在や、神々、宇宙人の存在と言うものを断定的に否定したりはしない。しかし同時に、すべての高次元を含む相対世界とゼロポイントと言うのは、相対世界内の次元の差とは別の意味で、次元が違うのではないか。それは幼児の落書きよりも、巨匠が描いた絵画のほうが見ごたえはするかもしれないが、どちらも同じ「紙(神)」の上に描かれる事に似ている。絵のレベルが「相対世界内の次元の差」で、紙がゼロポイントだ。『悟り』は高次元世界の認識ではなく、よりラディカルな、全てを存在させるベース(神・紙)の認識と言える。
フィリス・アトウォーターの目撃した、回転するふたつのサイクロンの「結合部」をそのような次元間の虚空と考えることは可能だろうか?
私は、今まで「いのち」と呼んでいたものに何の興味も持てなくなり、放射される力の光線に
ただただ魅了されていた。サイクロンの噴出孔の真ん中からたえず発散されている、この刺すような光線は私に触れてもいいはずなのだが、まったく触れてはこないのだ。その空間、その場所は、私にとって神へと至る入り口であるかのように思えたので、私はその中心に向かって行こうと決心した。
私はかつてそこからやってきた。だからそこへ、神の世界へ戻るのだ。それが私の願いだった。
アトウォータ著『未来の記憶』 より
カミという音にはいくつかの漢字が当てられる。
神、紙、上、髪、噛み(む)、火水などだ。
大きく分けて、三種類の意味合いがある。
髪、上は『上方にあるもの』を指している。
そして噛み(上の歯と下の歯の結合)と火水は『二つのものの融合』を指し、
紙、は『存在のベースとなるもの』を指す。
アトウォーターにとってはもはや神は、上方にある「髪、上」ではなく、自らが真っ直ぐに向かっている存在のベース、『紙』であった。臨死体験中の彼女はもはや空間的上下が問題となる通常の3次元的時空間にはいなかったからだ。そしてその神の世界への入り口は、二つの世界が結合する(噛み合う、火水の接合点)そこにあったのだ。
しかし、このたて・よこ・高さの3次元に生きる僕らにとっては、神とはやはり「上」である。祈る時には無意識に上部を向いてしまう。神のエネルギーはこの世界ではやはり上向きに作用するからだろうか。僕らは3次元空間に生きる生き物のさがとして、無意識に魂を昇りゆかせようとし、また下降してくる神の力を受け取ろうとする。
エネルギーの下降経路となる時、△は、上位の▼に対してマイナスの極性となる。
『男の魂は女であり、女の魂は男』と言われるが、エネルギーの下降局面では、富士の魂(女)(=コノハナサクヤヒメという事になるのか?)がエネルギーを受容し流すことになる。
前回引用した松村潔氏の著作にもあることだが、プラスとマイナスは相対的なもので、ある局面ではエネルギーの放出体となる存在が、別の局面ではエネルギーの受容体となりうる。
あるいは上昇経路と下降経路(昇り竜と降り竜)はひとつの存在の中で、DNA二重螺旋のようにからみあって存在しているのかもしれない。
2009.
02.
12
竜神と申しているが竜神にも二通りあるぞ。地からの竜神は進化して行くのであるぞ。進化を嘘ざと思ふは神様迷信ぞ。一方、天からの竜神は退化していくのであるぞ。このふたつの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。
日月神示 白銀の巻 第二帖
△と▼、融合/フュージョン、二匹の龍、無の陣営と無限の陣営
このシリーズは原初の女神の性質や、その影響がユングのアニマ・グレートマザーという元型やグロフのBPMの概念の中ではっきり現れているということ、また『女神』という存在は人を眠らせるものであると同時に目覚めさせるという相反する二面性を持っていると言うこと、それは女神の愛に基づいているということを主に書こうと思っていた。
その二面性は、スワミスリ・ユクテスワの『聖なる科学』の中でアーナンダ(マーヤの無限創造力)と、チット(全知の愛・神への牽引力)として語られている。神への反力と、引力である。
しかし、ここに前に考えていた△の事がいつのまにか混ざってきたのだが、結局△は二次元において最小の点で構成される最初の図形であるので、母のシンボルとみなしてもそれ程間違ってはいないのではないかと思った。
ひとつの・はケテル(絶対者)。
ふたつの・と・を結ぶ線はコクマー、垂直的な原初の男性エネルギーだが、まだ形を持っていない。 みっつの・を結ぶことで初めて空間を三角で切り取り、世界内世界(ビナー)が出来る。
これを仮に△とする。
この三角にはまだ極性がない。しかし形を持っていると言う意味では陰性だ。
もっとも根本的な陰性とは、陽性と陰性が現れるために提供された場のことなのだ。
これが△でシンボライズされる。
混乱しそうなのでこれを原△としておく。
この原△が陽性を帯びたものが △(火の三角形)
陰性を帯びたものが ▼(水の三角形)だ。
僕の頭の中で△(火の三角)と▼(水の三角)に結びついている観念群を以下に記す。
△ 火(日)天 霊(ヒ) 男性原理 富士 ピラミッド 富士の仕組 上昇 ・
▼ 水(月)地 身(ミ) 女性原理 鳴門の仕組 (見えない)ピラミッド 下降 ○
竜宮の乙姫様=音秘(オトヒメ)
そして△と▼の融合に結びついている観念群は次のようになる。
△+▼
ヘキサゴン かごめ紋様 マカバフィールド 黄金太陽 ◎(丸にチョン 日月のマーク)
日月の神(みろく) 身(ミ)+霊(ヒ)=半霊半物質 ミロクの世 六角形(ヘキサゴンの頂点を結ぶ)
これを見て感じるのは今さかんに言われている「アセンション」というのは上昇だが、どうも言葉のニュアンス的に今起こっているのは「融合」/fusion/フュージョンと呼んだ方が良いような気がしてくる。
なにかもっとも根本的な世界が二つに合体しようとしているような、そんなイメージなのだが。。。
アセンション(上昇)しよう、よりも、フュージョン(融合)しよう!の方がよくありません?(笑)
アセンションはある意味、肉体の放棄と言う印象もあり、また全て現在の生命は滅び、霊的にのみ上昇するのだと言う風に極端に語る人も居るわけだが、フュージョンは身と霊が今とは違う形で融合した世界を示している。それは霊肉の二元論が真の意味で終息した世界だ。(なにが正しいかは知りませんが)だから、アセンションではなく、フュージョンが起こるなら、そこには現在の意味での生と死はなくなる。
霊的な上昇気流というのは、現在ではなくても昔からあった。
しかし、もし現代がクンダリニーが上がりやすくなっているとしたら、確かにアセンション方向の上昇力と言うか、牽引力は今までになく強くなっているはずだ。
冒頭に引用した、進化していく地からの竜神はこの上昇力に当たる。△(火の三角)だ。
そして退化していく天からの竜神は▼(水の三角)だ。
このふたつが結ばれて人間となる。これはDNAの二重螺旋なども連想させるが、進化力と退化力のふたつの力が人間の中で働いているということにもなる。
占星術師の松村潔氏は著書『日本人はなぜ狐を信仰するのか』のなかで、この昇り竜と降り竜(?)のことを、「無の陣営と、無限の陣営」と呼んでいる。というか進化力と退化力というものを僕はこの本で初めて読んだのだが、同じことが「日月神示」の中にもあったので少し驚いた次第だ。
以下「日本人はなぜ狐を信仰するかのか」より。
「ところで、神、大天使、小天使、人、哺乳動物、無脊椎動物、植物、鉱物という序列のそれぞれの端にあるものは何だろうか。例えばグルジェフは神の上には無があり、鉱物のしたには、無限があると説明する。無は全ての根元にある唯一的な原理がやってきたところ。無限は分裂の果てに、いかなるものも物質としての結晶化が不可能となった暗黒の領域である。
上層の無や神の領域へ一体化するというのが、古来からの宗教の求める理想である。こうした意味ある行為を打ち砕くのが、対極にある無限の概念だ。
ピュタゴラス派たちの「自然数にはロゴスが宿る」という牧歌的な哲学も、彼ら自身が無理数を発見することで、無限の数字の連鎖という概念が存在することに気がつくようになり、この段階で、数字が無味乾燥なものになってゆく果てしない徒労感を感じることになった。神聖な数の魂は、ただの通し番号に化けていくのである。数字には何の意義もない。ひとつひとつが大切な宝物だったのに、その宝物が世界中に果てしなく無限にあるとわかると、愛着は失われ気持ちはすさんでいく。それはレアなものでもなんでもなく、どこのコンビにでも売っていますよと言われると、買いたくなくなる。
つまり無に対する無限という位置づけは、愛情に対する無関心さ、有意義に対する無意味さ、運命と感じるものはただの偶然にすぎなくなり、人間的な感情に脱力感、喪失感などをもたらす働きでもある。
有意義のきわみにある無と、無意味のきわみに在る無限の間に、縄梯子のように張られた生命圏のつらなり、神、大天使、小天使、人、哺乳動物、無脊椎動物、植物、鉱物というつながりのなかで、わたしたち人は自分たちに割り当てられているところに住んでいるのであるが、人の上にあるものは人の目には見えないので、精神を通じて理解し、人の下にあるものは見えるので、物質とみなすことができる。
宗教と唯物論のような古典的な対立は、無に向かう陣営と、無限に向かう陣営の見解の違いだ。生まれ変わりがあり、人には生きている必然的な理由があるとする考えに対して、人は肉体組織の集積に過ぎず、死んでしまえば何も残らないのはわかりきっているのにと主張する考えも、どちらが真実かという問題ではなく、その人の考え方が、無と無限のどちらにより関心が向かってるかということなのだ。
無から無限へ、無限から無へ。この両方の流れは常に働いている。無あるいは神の領域から、地上に力は降り注ぐ。これは分化のプロセスで、しばしば創造の光線の下降という言葉で識別する。
となると、反対の流れは、物質的に縛られたものが、ばらばらに分断された存在状態から、統合化され、意識として強い高揚感を伴いつつ、神と一体化するような喜びの体験を得るという方向性で、これは進化の、あるいは上昇の意識と名づけることが出来る。
どの場所でも、この相反する流れが同時に働き、つまりは神から鉱物への序列の中で、自分に割り当てられたことろを担当して、両方向から来る力の通路となっているということになる」
僕はいつも究極的な存在は「神」として考えているので、「無」と言われると若干違和感があるが、それはこの際どちらでもいい。(自分なら多分「神への陣営と、虚無への陣営」とでも呼んだらフィット感がある。)
注意すべき点は、おそらく神への陣営が「善」で、虚無への陣営が「悪」だなんてことはいえない点だ。この二つの流れは必要があって存在しているものだろう。
「虚無への陣営」は物質を細分化するので、科学の発展や、テクノロジーの向上に益することも多いだろう。また現代物質的に支配力を発揮するのはこちらの陣営である場合が多い。世界中の富を今集めているのはおそらくこちら側に強い親和性を持つ霊統の人々ではないだろうか。
彼らは物質と貨幣をコントロールすることで、この世界の破壊と再生の役割りを担っているように思う。(彼らが意識的にやってるか、無意識に動かされているかは知らないが)これが日月神示の「イシヤ」だ。
しかし、人は必要に応じて、上昇方向もしくは下降方向のどちらかの流れに乗ってその時々に必要な経験をしているのではないだろうか。
例えば、人間が肉体に受肉するプロセスも、「下降潮流」に乗っているだろうし、なにか精神から物質的形態を産み出すことも「下降潮流」に乗っている。
一方人が肉体を離れる時は普通「上昇潮流」に乗ることになるだろう。「上昇する竜」の背に乗るのだ。
この世界では下降潮流と上昇潮流がないと何事も成り立たないのではないだろうか。そして個々人がどちらの陣営に属しているかということは刻一刻変わっていくので簡単に言えるものでもない。
火、男性性
個人的な感想で、妄想に近くなるかもしれないが僕は、去年の終わりごろから「火」の要素が活発になってきているように感じる。コルマンインデックスで新たなサイクルDAY6が始まった直後、渋谷で花火倉庫になっていた建物の一部が爆発炎上するという事故があった。
おそらく同じ時期だが、自室のコンセントが漏電しプラグ部分のプラスチックが熱で溶け、部屋中にいやな匂いが充満した。すぐに気付いたからよかったけど放置していたらやばかったかもしれない。
年末から年始にかけて雨が2週間近く降ることはなく、全国的に火災が相次いだ。
「乾燥」というのは火のエレメントを強化する要素だ。
世界的に見ると、11月後半のムンバイーテロ、年末からのイスラエルによるガザ空爆などで炎や黒煙の映像を見ることが多かった。
2月2日、節分前には、浅間山と桜島が同じ日に噴火して、この時期に富士噴火、あるいは爆発炎上などの「夢」を見る人が多かった。歴史的に見ると大規模な浅間の噴火の後には、富士の噴火が連動して起こっているようなのでこれは故なきことではない。ただし今回の噴火はそこまで規模は大きくなかったようだが。
2月4日以降、中国北京で旧正月の打ち上げ花火を行っているときに、中国中央テレビの高層ビルに引火し、ビルが真っ黒に全焼した。また中国では三ヶ月間ほとんど雨が降らないと言う極度の旱魃がまた起こっている。
オーストラリアでも記録的な旱魃と熱波で気温は観測史上最高の46度を記録した。これらの要因によって起こったと思われる大規模な森林火災では、東京都の二倍に匹敵する面積が燃えた。
このように見ると「火」とは恐ろしいものだが、「火」の性質をメタフィジカルに考えてみると、「火」とは形態を変化させ、それを上昇させるものでもある。なべに氷を入れて、それに火をつけると、氷は水になる、さらに時間がたつと、水の分子が激しく運動をはじめ沸騰する。沸騰した水はやがて蒸気となり空気中に上昇していく。
この時に起こることは、水分子の「振動数」の増加である。固体の氷であった時には密接に結びついてあまり動かなかった分子が、熱を加えられることによってばらけて、活発に動き出す。 あたためられ蒸気となった水は空気中を上昇するが、これは気体となった水分子が周りの大気よりも軽くなるためだ。
この火の上昇性というのは男性性の特質のひとつでもある。
男性性は自らを、世界からある意味分断して屹立させる。
もはやエゴトリップは徐々に流行らなくなってきているようであるが、名声、権威、そして賞、勲章といったものものは男性性が自らたどり着いた「高み」の証として彼らを満足させる。
それは霊的に見ればむしろ下降(虚無への流れ)であるかもしれないが、とにかく彼らにとっては「高み」であることは間違いない。
そこに「山があるから」自分は山に登るのだ、という登山家のマロリーの言葉も男性性にとって典型的なものだろう。女性性にとってはこの手の冒険志向は「かっこいい」対象としてもなり得るものであるが、「馬鹿げた」ものにも見え得る。「なんで山があるからって登らなきゃいけないの?」という事だ。
本質的に女性性とは現実志向的なのである。 現実的には見えない「夢見る女性」の夢見るものが「白馬に乗った王子様」であるとするなら、実は彼女の夢はこの上もなく現実的なものである。
これに比して男性性の描く夢は、その飛翔性を特徴としているが、これも女性性から見れば往々にして「馬鹿げたもの、子供っぽいもの、現実離れした(時には不気味な)妄想」ともなり得る。
男性の生物的安全弁は女性よりも簡単に外れてしまう。
常識のあっち側に「イッてしまいやすい」のだ。だから犯罪者であろうと、ジャンキーだろうと、性倒錯者であろうと男のほうが行き着くところまで暴走してしまう傾向があるように思う。
男の子(時には大人になっても)は怪獣やモンスターが好きだ。
どこかグロくて、なおかつどこかカッコいいものへの嗜好も男性性に特徴的なものだろう。
これには怪獣の持つ破壊的側面に自らの男性性の攻撃性を投影しているということもあるかもしれないが、なにか異様なものや、通常の「かたち」をあざ笑うかのような異様な存在に、都市(日常)が破壊されていくという物語性が、かたちを変質させ、上昇させるという「火」の性質を引き付けるのではないかと思う。
また怪獣の一典型はやはり「ドラゴン」である。怪獣の典型が爬虫類系であるということは、男性性のもうひとつの特徴である、「破壊による原始への回帰」も関係してくるかもしれない。
一方ベッドの横にゴジラやエレキングが(例えが若干古いっすね)いっぱいいる女の子の部屋と言うのは想像しにくい。
また霊的な世界観においても、男性性と女性性の反応は違う。
誤解を招く言い方かもしれないが、女性性は安心と守護を霊的世界に求める。
男性性は、冒険と、脅威と、驚異を霊的世界に求めるのである。
なにか自らの存在を脅かすようなもの、価値観をぶっ壊すようなものを霊的世界に投影すると言うのは男性に特徴的なものであるだろうし、実際その側面に接触しやすいだろう。
それが如実に現れているのは、ラブクラフトのクトゥルー神話体系だ。
ラブクラフトの神々は「いにしえのもの(Old ones)」と呼ばれているが、彼らは人間の創造者であるが非常にまがまがしい姿をしており、その姿を目撃したものは正気を失うほどである。
ラブクラフトの認識は、宇宙の真実とは人間の正気が許容できるものではないと言うことだったのだろうと思う。しかし、ラブクラフトの小説の中にどこか歪んだものであったとしても「高みへの愛」や「超越志向」を感じるのは彼の中の火のちからのせいだと思う。
火のエレメントが強くなると言うことは、物質レベルでの火の発生(もしくは感情の爆発、暴発等)が増加することにもなるかもしれないが同じように霊的な上昇力も強化されていくような気がしなくもない。

日月神示 白銀の巻 第二帖
△と▼、融合/フュージョン、二匹の龍、無の陣営と無限の陣営
このシリーズは原初の女神の性質や、その影響がユングのアニマ・グレートマザーという元型やグロフのBPMの概念の中ではっきり現れているということ、また『女神』という存在は人を眠らせるものであると同時に目覚めさせるという相反する二面性を持っていると言うこと、それは女神の愛に基づいているということを主に書こうと思っていた。
その二面性は、スワミスリ・ユクテスワの『聖なる科学』の中でアーナンダ(マーヤの無限創造力)と、チット(全知の愛・神への牽引力)として語られている。神への反力と、引力である。
しかし、ここに前に考えていた△の事がいつのまにか混ざってきたのだが、結局△は二次元において最小の点で構成される最初の図形であるので、母のシンボルとみなしてもそれ程間違ってはいないのではないかと思った。
ひとつの・はケテル(絶対者)。
ふたつの・と・を結ぶ線はコクマー、垂直的な原初の男性エネルギーだが、まだ形を持っていない。 みっつの・を結ぶことで初めて空間を三角で切り取り、世界内世界(ビナー)が出来る。
これを仮に△とする。
この三角にはまだ極性がない。しかし形を持っていると言う意味では陰性だ。
もっとも根本的な陰性とは、陽性と陰性が現れるために提供された場のことなのだ。
これが△でシンボライズされる。
混乱しそうなのでこれを原△としておく。
この原△が陽性を帯びたものが △(火の三角形)
陰性を帯びたものが ▼(水の三角形)だ。
僕の頭の中で△(火の三角)と▼(水の三角)に結びついている観念群を以下に記す。
△ 火(日)天 霊(ヒ) 男性原理 富士 ピラミッド 富士の仕組 上昇 ・
▼ 水(月)地 身(ミ) 女性原理 鳴門の仕組 (見えない)ピラミッド 下降 ○
竜宮の乙姫様=音秘(オトヒメ)
そして△と▼の融合に結びついている観念群は次のようになる。
△+▼
ヘキサゴン かごめ紋様 マカバフィールド 黄金太陽 ◎(丸にチョン 日月のマーク)
日月の神(みろく) 身(ミ)+霊(ヒ)=半霊半物質 ミロクの世 六角形(ヘキサゴンの頂点を結ぶ)
これを見て感じるのは今さかんに言われている「アセンション」というのは上昇だが、どうも言葉のニュアンス的に今起こっているのは「融合」/fusion/フュージョンと呼んだ方が良いような気がしてくる。
なにかもっとも根本的な世界が二つに合体しようとしているような、そんなイメージなのだが。。。
アセンション(上昇)しよう、よりも、フュージョン(融合)しよう!の方がよくありません?(笑)
アセンションはある意味、肉体の放棄と言う印象もあり、また全て現在の生命は滅び、霊的にのみ上昇するのだと言う風に極端に語る人も居るわけだが、フュージョンは身と霊が今とは違う形で融合した世界を示している。それは霊肉の二元論が真の意味で終息した世界だ。(なにが正しいかは知りませんが)だから、アセンションではなく、フュージョンが起こるなら、そこには現在の意味での生と死はなくなる。
霊的な上昇気流というのは、現在ではなくても昔からあった。
しかし、もし現代がクンダリニーが上がりやすくなっているとしたら、確かにアセンション方向の上昇力と言うか、牽引力は今までになく強くなっているはずだ。
冒頭に引用した、進化していく地からの竜神はこの上昇力に当たる。△(火の三角)だ。
そして退化していく天からの竜神は▼(水の三角)だ。
このふたつが結ばれて人間となる。これはDNAの二重螺旋なども連想させるが、進化力と退化力のふたつの力が人間の中で働いているということにもなる。
占星術師の松村潔氏は著書『日本人はなぜ狐を信仰するのか』のなかで、この昇り竜と降り竜(?)のことを、「無の陣営と、無限の陣営」と呼んでいる。というか進化力と退化力というものを僕はこの本で初めて読んだのだが、同じことが「日月神示」の中にもあったので少し驚いた次第だ。
以下「日本人はなぜ狐を信仰するかのか」より。
「ところで、神、大天使、小天使、人、哺乳動物、無脊椎動物、植物、鉱物という序列のそれぞれの端にあるものは何だろうか。例えばグルジェフは神の上には無があり、鉱物のしたには、無限があると説明する。無は全ての根元にある唯一的な原理がやってきたところ。無限は分裂の果てに、いかなるものも物質としての結晶化が不可能となった暗黒の領域である。
上層の無や神の領域へ一体化するというのが、古来からの宗教の求める理想である。こうした意味ある行為を打ち砕くのが、対極にある無限の概念だ。
ピュタゴラス派たちの「自然数にはロゴスが宿る」という牧歌的な哲学も、彼ら自身が無理数を発見することで、無限の数字の連鎖という概念が存在することに気がつくようになり、この段階で、数字が無味乾燥なものになってゆく果てしない徒労感を感じることになった。神聖な数の魂は、ただの通し番号に化けていくのである。数字には何の意義もない。ひとつひとつが大切な宝物だったのに、その宝物が世界中に果てしなく無限にあるとわかると、愛着は失われ気持ちはすさんでいく。それはレアなものでもなんでもなく、どこのコンビにでも売っていますよと言われると、買いたくなくなる。
つまり無に対する無限という位置づけは、愛情に対する無関心さ、有意義に対する無意味さ、運命と感じるものはただの偶然にすぎなくなり、人間的な感情に脱力感、喪失感などをもたらす働きでもある。
有意義のきわみにある無と、無意味のきわみに在る無限の間に、縄梯子のように張られた生命圏のつらなり、神、大天使、小天使、人、哺乳動物、無脊椎動物、植物、鉱物というつながりのなかで、わたしたち人は自分たちに割り当てられているところに住んでいるのであるが、人の上にあるものは人の目には見えないので、精神を通じて理解し、人の下にあるものは見えるので、物質とみなすことができる。
宗教と唯物論のような古典的な対立は、無に向かう陣営と、無限に向かう陣営の見解の違いだ。生まれ変わりがあり、人には生きている必然的な理由があるとする考えに対して、人は肉体組織の集積に過ぎず、死んでしまえば何も残らないのはわかりきっているのにと主張する考えも、どちらが真実かという問題ではなく、その人の考え方が、無と無限のどちらにより関心が向かってるかということなのだ。
無から無限へ、無限から無へ。この両方の流れは常に働いている。無あるいは神の領域から、地上に力は降り注ぐ。これは分化のプロセスで、しばしば創造の光線の下降という言葉で識別する。
となると、反対の流れは、物質的に縛られたものが、ばらばらに分断された存在状態から、統合化され、意識として強い高揚感を伴いつつ、神と一体化するような喜びの体験を得るという方向性で、これは進化の、あるいは上昇の意識と名づけることが出来る。
どの場所でも、この相反する流れが同時に働き、つまりは神から鉱物への序列の中で、自分に割り当てられたことろを担当して、両方向から来る力の通路となっているということになる」
僕はいつも究極的な存在は「神」として考えているので、「無」と言われると若干違和感があるが、それはこの際どちらでもいい。(自分なら多分「神への陣営と、虚無への陣営」とでも呼んだらフィット感がある。)
注意すべき点は、おそらく神への陣営が「善」で、虚無への陣営が「悪」だなんてことはいえない点だ。この二つの流れは必要があって存在しているものだろう。
「虚無への陣営」は物質を細分化するので、科学の発展や、テクノロジーの向上に益することも多いだろう。また現代物質的に支配力を発揮するのはこちらの陣営である場合が多い。世界中の富を今集めているのはおそらくこちら側に強い親和性を持つ霊統の人々ではないだろうか。
彼らは物質と貨幣をコントロールすることで、この世界の破壊と再生の役割りを担っているように思う。(彼らが意識的にやってるか、無意識に動かされているかは知らないが)これが日月神示の「イシヤ」だ。
しかし、人は必要に応じて、上昇方向もしくは下降方向のどちらかの流れに乗ってその時々に必要な経験をしているのではないだろうか。
例えば、人間が肉体に受肉するプロセスも、「下降潮流」に乗っているだろうし、なにか精神から物質的形態を産み出すことも「下降潮流」に乗っている。
一方人が肉体を離れる時は普通「上昇潮流」に乗ることになるだろう。「上昇する竜」の背に乗るのだ。
この世界では下降潮流と上昇潮流がないと何事も成り立たないのではないだろうか。そして個々人がどちらの陣営に属しているかということは刻一刻変わっていくので簡単に言えるものでもない。
火、男性性
個人的な感想で、妄想に近くなるかもしれないが僕は、去年の終わりごろから「火」の要素が活発になってきているように感じる。コルマンインデックスで新たなサイクルDAY6が始まった直後、渋谷で花火倉庫になっていた建物の一部が爆発炎上するという事故があった。
おそらく同じ時期だが、自室のコンセントが漏電しプラグ部分のプラスチックが熱で溶け、部屋中にいやな匂いが充満した。すぐに気付いたからよかったけど放置していたらやばかったかもしれない。
年末から年始にかけて雨が2週間近く降ることはなく、全国的に火災が相次いだ。
「乾燥」というのは火のエレメントを強化する要素だ。
世界的に見ると、11月後半のムンバイーテロ、年末からのイスラエルによるガザ空爆などで炎や黒煙の映像を見ることが多かった。
2月2日、節分前には、浅間山と桜島が同じ日に噴火して、この時期に富士噴火、あるいは爆発炎上などの「夢」を見る人が多かった。歴史的に見ると大規模な浅間の噴火の後には、富士の噴火が連動して起こっているようなのでこれは故なきことではない。ただし今回の噴火はそこまで規模は大きくなかったようだが。
2月4日以降、中国北京で旧正月の打ち上げ花火を行っているときに、中国中央テレビの高層ビルに引火し、ビルが真っ黒に全焼した。また中国では三ヶ月間ほとんど雨が降らないと言う極度の旱魃がまた起こっている。
オーストラリアでも記録的な旱魃と熱波で気温は観測史上最高の46度を記録した。これらの要因によって起こったと思われる大規模な森林火災では、東京都の二倍に匹敵する面積が燃えた。
このように見ると「火」とは恐ろしいものだが、「火」の性質をメタフィジカルに考えてみると、「火」とは形態を変化させ、それを上昇させるものでもある。なべに氷を入れて、それに火をつけると、氷は水になる、さらに時間がたつと、水の分子が激しく運動をはじめ沸騰する。沸騰した水はやがて蒸気となり空気中に上昇していく。
この時に起こることは、水分子の「振動数」の増加である。固体の氷であった時には密接に結びついてあまり動かなかった分子が、熱を加えられることによってばらけて、活発に動き出す。 あたためられ蒸気となった水は空気中を上昇するが、これは気体となった水分子が周りの大気よりも軽くなるためだ。
この火の上昇性というのは男性性の特質のひとつでもある。
男性性は自らを、世界からある意味分断して屹立させる。
もはやエゴトリップは徐々に流行らなくなってきているようであるが、名声、権威、そして賞、勲章といったものものは男性性が自らたどり着いた「高み」の証として彼らを満足させる。
それは霊的に見ればむしろ下降(虚無への流れ)であるかもしれないが、とにかく彼らにとっては「高み」であることは間違いない。
そこに「山があるから」自分は山に登るのだ、という登山家のマロリーの言葉も男性性にとって典型的なものだろう。女性性にとってはこの手の冒険志向は「かっこいい」対象としてもなり得るものであるが、「馬鹿げた」ものにも見え得る。「なんで山があるからって登らなきゃいけないの?」という事だ。
本質的に女性性とは現実志向的なのである。 現実的には見えない「夢見る女性」の夢見るものが「白馬に乗った王子様」であるとするなら、実は彼女の夢はこの上もなく現実的なものである。
これに比して男性性の描く夢は、その飛翔性を特徴としているが、これも女性性から見れば往々にして「馬鹿げたもの、子供っぽいもの、現実離れした(時には不気味な)妄想」ともなり得る。
男性の生物的安全弁は女性よりも簡単に外れてしまう。
常識のあっち側に「イッてしまいやすい」のだ。だから犯罪者であろうと、ジャンキーだろうと、性倒錯者であろうと男のほうが行き着くところまで暴走してしまう傾向があるように思う。
男の子(時には大人になっても)は怪獣やモンスターが好きだ。
どこかグロくて、なおかつどこかカッコいいものへの嗜好も男性性に特徴的なものだろう。
これには怪獣の持つ破壊的側面に自らの男性性の攻撃性を投影しているということもあるかもしれないが、なにか異様なものや、通常の「かたち」をあざ笑うかのような異様な存在に、都市(日常)が破壊されていくという物語性が、かたちを変質させ、上昇させるという「火」の性質を引き付けるのではないかと思う。
また怪獣の一典型はやはり「ドラゴン」である。怪獣の典型が爬虫類系であるということは、男性性のもうひとつの特徴である、「破壊による原始への回帰」も関係してくるかもしれない。
一方ベッドの横にゴジラやエレキングが(例えが若干古いっすね)いっぱいいる女の子の部屋と言うのは想像しにくい。
また霊的な世界観においても、男性性と女性性の反応は違う。
誤解を招く言い方かもしれないが、女性性は安心と守護を霊的世界に求める。
男性性は、冒険と、脅威と、驚異を霊的世界に求めるのである。
なにか自らの存在を脅かすようなもの、価値観をぶっ壊すようなものを霊的世界に投影すると言うのは男性に特徴的なものであるだろうし、実際その側面に接触しやすいだろう。
それが如実に現れているのは、ラブクラフトのクトゥルー神話体系だ。
ラブクラフトの神々は「いにしえのもの(Old ones)」と呼ばれているが、彼らは人間の創造者であるが非常にまがまがしい姿をしており、その姿を目撃したものは正気を失うほどである。
ラブクラフトの認識は、宇宙の真実とは人間の正気が許容できるものではないと言うことだったのだろうと思う。しかし、ラブクラフトの小説の中にどこか歪んだものであったとしても「高みへの愛」や「超越志向」を感じるのは彼の中の火のちからのせいだと思う。
火のエレメントが強くなると言うことは、物質レベルでの火の発生(もしくは感情の爆発、暴発等)が増加することにもなるかもしれないが同じように霊的な上昇力も強化されていくような気がしなくもない。

2009.
02.
04
クンダリーニ女神
ヨーガの体系では、尾てい骨(ムラダーラチャクラ)に眠るクンダリニーというエネルギーを頭頂のサハスララチャクラまで上昇させることで、解脱、悟りに至るとする。
インド哲学ではこの世界は、プルシャ(霊・神我)とプラクリティ(根本原質)よりなる。プラクリティは創造の母体となる原初のマトリクスと考えてもいいかと思う。このプラクリティの創造力が人体内に結晶化したのがクンダリニーと言えるかもしれない。
ダンテス・ダイジが面白いことを言っている。
『尾骨神経節は、神が人体を通じて表現した最終到達点である。
物質界の立場から見れば、脳髄は根であり、脊髄は茎であり、各神経叢は枝であり、各内分泌器官は葉であり、尾骨神経節はなんと花なのである。
花が散って果実ができるように、この尾骨神経節の内部には、肉体クンダリニー、すなわち個生命体の根源的生命欲が宿っているのである。』
創造のエネルギーが、人体の内部で最後に到達したのがクンダリニーであるということだ。
またそこは、人間以下の領域との接点とも言えるかもしれない。
クンダリーニを上昇させ、プルシャと合一させることで悟りに達するとする、これがクンダリーニヨーガだ。このヨーガは有名だが、また悪名も高い。なぜ悪名も高いかというとクンダリーニは魔的な力も秘めているからである。それを解き放つことでとてつもない混乱に見舞われる場合があるようだ。
鸚鵡真理教でクンダリーニヨガが実習されていたのは有名な話だが、クンダリーニヨガのプロセスでは、様々な幻覚妄想や肉体的異常が発生する「狂気」の状態を通過する可能性があると言う。鸚鵡の教祖がどの程度のクンダリーニヨギであったかは知らないが、クンダリニーの魔力が彼に影響を及ぼした可能性も否定できない。だから、このヨガの実習にあたっては、真の理解に達したグルが必ず必要であると言われる。
クンダリーニの力をコントロールすることは、余程の経験がある人間でないと無理である。
しかし厄介なことにこのエネルギーは、何も修行をしなくても自然発生的に目覚め、上昇を始めることもある。スタニスラフ・グロフは自然発生的に起こる霊的危機(スピリチュアルエマージェンシー)の中に「クンダリニーの上昇」も含めている。
この概念は現在の精神医学・医学ではまだ広く認められていないのでもしクンダリーニが上がって異常を感じ、病院に行っても医師は何もしてくれない可能性が高い。か、まったく見当違いの治療をされるだろう。
だからもしこのプロセスが始まってしまったら、信頼できるヨガ経験者に相談するか、あるいは自分の直観でなんとか対処するしかない。現代はクンダリーニが自然に上がりやすい時代であるようだ。
またクンダリーニの目覚めは「サタン的力」との遭遇をもたらすことも多いようだ。
僕は以前魔術などを研究してる人から、「サタン」はすべてクンダリーニにルーツを持っているというような話しを聴いたことがある。この真偽はわからないが、問題なく日常生活を送りたければ、クンダリーニヨーガには手を出さないほうが無難ではあるだろう。またクンダリーニに必要以上に執着し、超能力などを強調するグルは、ほぼ間違いなく真の理解にはいないので師事しないほうがよいかと思う。
とは言え、クンダリーニを悪者にばかりすることもどうやら出来ないようだ。
I先生はクンダリーニヨーガで覚醒したわけではないが、その時やはりクンダリーニは動いてはいたと言う話しを聴いたことがある。
ということは、クンダリーニ・ヨガを実習するしないに関わらず、人が実在へと目覚める時には必ず、エネルギーが上昇し、プルシャとプラクリティの合一が起こるのだろうか?
また禅などの伝統で起こる「悟り」にもこういうエネルギーの上昇はやはり同じように起こるのだろうかという疑問もある。
僕自身、神様エネルギーの中にいる時、またはその後に、頭痛や吐き気、またはそのあと目がぎんぎんで眠れないというようなことを経験したことがあるけど、ヨガのサイトなどでは頭痛などはクンダリーニ上昇の症状として記されていることもある。I先生によると、吐き気はエネルギーが逆流(つまり上昇)することと関係があるようだ。
昇る三角と、降り下る三角、カゴメ唄の謎
女神の性質③で、三角形の記事を書いている時、読者の方からメッセージをいただいた。(仮にAさんとする)
この方は自然発生的なクンダリニー上昇体験をされている(今も継続中?)ということだが、その時にいくつものきらめくビジョンが現われたという。そのビジョンの中には「フラワーオブライフ」も含まれたというが、他にいくつもの下向きの三角形が横たわっているAさんの上にいくつも降り注ぐというものがあったらしい。(その前には上向きの三角形が上方に昇っていったという)
あと、以下のような体験を教えていただいた。
夜明け前に目を瞑るとはっきりと自分の周囲にその時によりその色の変わる等間隔に並ぶグリッドラインが見えるのですが、よくよく観察するとグリッドラインが左巻きと右巻きにそれぞれ回転しているのがわかります。 私が特殊なのではなくて人は周囲にはみなこれがあるのだろうなと思っていたのをサイクロンの画像を見て思い出しました。
これは「フラワーオブライフ」のマカバフィールドに似ている。
またAさんがグリッドの中に閉じ込められた籠の鳥のようだと、言われたことから僕は「カゴメ唄」を連想し、そのことを伝えると、Aさんもやはりカゴメ唄がずっと頭の中でリフレインしていたと言うシンクロもあった。
かごめ かごめ
かごの中の鳥は
いついつ 出やる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
後ろの正面だあれ?
この唄は単なる童謡なのだろうか?
かごめというのがもしも「かごめ紋」をも意味するのだとすれば面白いことになる。
カゴメ紋はヘキサゴン(六ぼう星)だ。

このマークはなんかユダヤチックだが(笑)伊勢神宮の石灯籠なんかにもこのマークが刻み込まれたりしていて、実は日本にも馴染み深い紋だ。日本とユダヤの文化はダブっている風習がかなり多い。みこしや、正月のもち、また日本語とヘブライ語の単語の類似性。例えばワッショイというのは「敵を打ち倒せ」と言う意味らしい」(日ユ同祖まで行くのはどうか微妙だけど)
そして、ドランヴァロメルキゼデクが、人体の周りで回転していると言うマカバフィールドの形はこれだ。

プラトン立体である正四面体の上下二重構造だ。二次元的にシンボライズするとカゴメ紋になる。
もしかすると、「かごの中の鳥」とはマカバフィールドに囲まれている人間自身なのだろうか?
メルキゼデク氏によると、マカバフィールドは次元と次元をつなぐ「乗り物」の役割りもするということだ。回転したマカバフィールドは僕にはものすごくUFO的に見える。
コンタクティーのマウリツィオ・カヴァロ氏のUFOは次元と次元の扉を抜けて、この3次元に物質化する(と言う)。もし人体の周りにマカバフィールドが次元と次元を越える「乗り物」だとすれば、UFOに助けてもらわなくてもこれを回せばいいのだ。「宇宙船が天空に満ちるビジョン」ってもしかして、マカバUFO(人間自身)だったりして。(あくまでも思考実験的に言ってますのでお遊びとして聴いてね)あ・・・段々5次元文庫的になってきたので話題を変えます。Aさんありがとうございました。
アジナーとサハスララ、父の座と母の座?
伝統的には、ムダラーラに眠るシャクティが頭頂を抜け、サハスララに達した時に意識の覚醒が起こるとされる。僕が『概念として』理解しているところによると、サハスララの覚醒とは、何かが見える、何かが聴こえる、光が見えると言った霊的な現象ではないし、ただ至福や恍惚感といったものでもない。また宇宙との一体「感」といった感覚的なものとも違うようだ。
それは「主体・見るもの」と「客体・見られるもの」が合一し、「あなた」と「わたし」がひとつになり、二元性が超克され、ワンネスが実現した状態だ。(が、ワンネスは既に実現してもいる)
カバラで言えばケテル(絶対存在)が与える霊的体験、すなわち「神との合一」となる。
これは形のない照明と言われる。悟りにはいかなる形もない。
それはなんらかの霊的なものを含む現象の「知覚」ではなく、認識の根本的変容だ。
「知覚」と「認識」は似ているようで違う。「知覚」には必ず対象物がある。
「認識」は知覚以前の領域にある。
様々なものを知覚する「私」は誰か?ということだ。
「私」がなにを知覚しようがそれは問題ではない。
その現象を知覚している「私」は何かということだ?
鏡に映った「私」を見ている「私」はいったい何か?ということだ。
私は愚かだ、私は賢い、私は美しい、私は醜い、私は霊的に高い・低い、私は前世で○○だった、私は実はシリウスから来た、私はちょっと太りすぎだ、私は髭が濃い、私は学歴が高い・低い、金持ちだ、貧乏だ、明るい、暗い、若く見える、老けて見える、好色だ、ストイックだ、純粋だ、汚れている、面白い奴だ、つまらないやつだ・・・・・・と言う「私」を見ている「私」はなにかと言うことだ。
「認識」の変容とは、その知覚世界をも含むリアリティの根本的変容だ。
でもこれは僕の悟りの『概念』に過ぎない。
悟りは『悟りの概念』ではない。神は『神の概念』や『イメージ』ではない。
と言っても真のワンネスとそれ以外の違いをはっきりさせることもまた重要ではないかと思ったりする。「神様が見えた」、「声が聴こえた」、「体外離脱した」、「ものすごい光に包まれた」などなどはそれだけでは悟りとは言えない。「誰が」見ているのか?「誰が」聴いているのか?それでちょっと得意になって後から話したりしてるのは「誰」なのか?という問題が残る。
「私(認識主体)が誰か?」ということを理解しないと宇宙のカラクリはわからないらしい。
僕はそこまで声を荒げて、悟ったとか言ってるニューエイジャーは全部嘘っぱちだ!というつもりもないが(僕も悟ってないわけで)、ティーチャーに「はい!あなたはこのコースを終了したので覚醒しました。おめでとう!」と言われ生徒が「そうなんですか~やった~!ぱちぱち」と手を叩くような状況はちょっと、なんだかなーで勘弁してほしいと思っている。
自分が「わかってる」ことが重要なのだから、いくらい偉い人に「君はもう悟っている」と言われてその気になってもそんな気分は一週間続けばいい方だろう。逆に誰にも承認されなくても、自分が「わかって」いれば何もかも問題はなくなる(問題が問題でなくなる)のだから。そしてもちろん「悟らなくてもいいよ」ということも自分で導き出した答えならアリだと思う。
話しをサハスララに戻すと、この頭の上にあるとされるチャクラは、ワンネスが実現されるポイントだ。
そして額の辺りにあるアジナーチャクラ(第三の目)は二元性が始まるポイントとされる。アジナーに基づく智慧や知識は主客対立をもとにした二元性に立脚している。
師匠が以前『サハスララでは父なる神の覚醒が起こり、アジナーでは母なる神の覚醒が起こる」と以前言っていたのを覚えている。アジナーで起こる母なる神の覚醒とはどのようなものか突っ込んで質問したことはない。
だからこれは僕の推測でしかないのだが、もしかすると客体が一元化することではないかと思う。アジナーでは主客対立が起こるのだから「わたし」と「あなた」「自己」と「他」は分かたれているはずだ。
通常僕らが見ている世界は「自己」と、そのほか「無数の他」に分割されている。「私」はひとりだが「私以外」はうじゃうじゃいる。宇宙の99.99999999999(無限に続く)パーセント「私」意外だ。
しかし、アジナーの覚醒によりこの無数の客体がすべて一元化する。すべて母なる神の現われとなる。すべては太母の現われだ、ここには母しかいない。
この無数の客体がすべて原初の形の母のあらわれであるとするならば、残るのは「自己」と「母」だけとなる。もしかするとラーマクリシュナの言う『人格神の悟り』とはこのことなのだろうか?
その後この「母」がさらに「父なる神の覚醒」を与えてくれるかどうかはわからないが、このことによって「自己」と「母(神)」というシンプルな二元性が生まれるのではないかと思った。
「フラワーオブライフ」にはアジナーには全ての森羅万象の形のもととなる神聖幾何学のプログラムが秘められていると書いてあったが。ドランヴァロメルキゼデクも、この神聖幾何学を紹介するのは、すべてに神の形が表現されてることを左脳で理解してもらうためだと言っている。 これも客体のワンネス化の試みではないだろうか。
アジナーは二元性と「かたち」の出発点だ。
もしそうであれば、母なる神への目覚めがアジナーで起こるのはとても納得できる。
二元性は苦しみの原因であるかもしれないが、喜びの原因でもある。
ラーマクリシュナが「私は砂糖をなめるのは好きだが、砂糖にはなりたくない」と言ったのは、アジナーの地点で母なる神をたたえ続けていたいという意味だったのかもしれない。
ヨーガの体系では、尾てい骨(ムラダーラチャクラ)に眠るクンダリニーというエネルギーを頭頂のサハスララチャクラまで上昇させることで、解脱、悟りに至るとする。
インド哲学ではこの世界は、プルシャ(霊・神我)とプラクリティ(根本原質)よりなる。プラクリティは創造の母体となる原初のマトリクスと考えてもいいかと思う。このプラクリティの創造力が人体内に結晶化したのがクンダリニーと言えるかもしれない。
ダンテス・ダイジが面白いことを言っている。
『尾骨神経節は、神が人体を通じて表現した最終到達点である。
物質界の立場から見れば、脳髄は根であり、脊髄は茎であり、各神経叢は枝であり、各内分泌器官は葉であり、尾骨神経節はなんと花なのである。
花が散って果実ができるように、この尾骨神経節の内部には、肉体クンダリニー、すなわち個生命体の根源的生命欲が宿っているのである。』
創造のエネルギーが、人体の内部で最後に到達したのがクンダリニーであるということだ。
またそこは、人間以下の領域との接点とも言えるかもしれない。
クンダリーニを上昇させ、プルシャと合一させることで悟りに達するとする、これがクンダリーニヨーガだ。このヨーガは有名だが、また悪名も高い。なぜ悪名も高いかというとクンダリーニは魔的な力も秘めているからである。それを解き放つことでとてつもない混乱に見舞われる場合があるようだ。
鸚鵡真理教でクンダリーニヨガが実習されていたのは有名な話だが、クンダリーニヨガのプロセスでは、様々な幻覚妄想や肉体的異常が発生する「狂気」の状態を通過する可能性があると言う。鸚鵡の教祖がどの程度のクンダリーニヨギであったかは知らないが、クンダリニーの魔力が彼に影響を及ぼした可能性も否定できない。だから、このヨガの実習にあたっては、真の理解に達したグルが必ず必要であると言われる。
クンダリーニの力をコントロールすることは、余程の経験がある人間でないと無理である。
しかし厄介なことにこのエネルギーは、何も修行をしなくても自然発生的に目覚め、上昇を始めることもある。スタニスラフ・グロフは自然発生的に起こる霊的危機(スピリチュアルエマージェンシー)の中に「クンダリニーの上昇」も含めている。
この概念は現在の精神医学・医学ではまだ広く認められていないのでもしクンダリーニが上がって異常を感じ、病院に行っても医師は何もしてくれない可能性が高い。か、まったく見当違いの治療をされるだろう。
だからもしこのプロセスが始まってしまったら、信頼できるヨガ経験者に相談するか、あるいは自分の直観でなんとか対処するしかない。現代はクンダリーニが自然に上がりやすい時代であるようだ。
またクンダリーニの目覚めは「サタン的力」との遭遇をもたらすことも多いようだ。
僕は以前魔術などを研究してる人から、「サタン」はすべてクンダリーニにルーツを持っているというような話しを聴いたことがある。この真偽はわからないが、問題なく日常生活を送りたければ、クンダリーニヨーガには手を出さないほうが無難ではあるだろう。またクンダリーニに必要以上に執着し、超能力などを強調するグルは、ほぼ間違いなく真の理解にはいないので師事しないほうがよいかと思う。
とは言え、クンダリーニを悪者にばかりすることもどうやら出来ないようだ。
I先生はクンダリーニヨーガで覚醒したわけではないが、その時やはりクンダリーニは動いてはいたと言う話しを聴いたことがある。
ということは、クンダリーニ・ヨガを実習するしないに関わらず、人が実在へと目覚める時には必ず、エネルギーが上昇し、プルシャとプラクリティの合一が起こるのだろうか?
また禅などの伝統で起こる「悟り」にもこういうエネルギーの上昇はやはり同じように起こるのだろうかという疑問もある。
僕自身、神様エネルギーの中にいる時、またはその後に、頭痛や吐き気、またはそのあと目がぎんぎんで眠れないというようなことを経験したことがあるけど、ヨガのサイトなどでは頭痛などはクンダリーニ上昇の症状として記されていることもある。I先生によると、吐き気はエネルギーが逆流(つまり上昇)することと関係があるようだ。
昇る三角と、降り下る三角、カゴメ唄の謎
女神の性質③で、三角形の記事を書いている時、読者の方からメッセージをいただいた。(仮にAさんとする)
この方は自然発生的なクンダリニー上昇体験をされている(今も継続中?)ということだが、その時にいくつものきらめくビジョンが現われたという。そのビジョンの中には「フラワーオブライフ」も含まれたというが、他にいくつもの下向きの三角形が横たわっているAさんの上にいくつも降り注ぐというものがあったらしい。(その前には上向きの三角形が上方に昇っていったという)
あと、以下のような体験を教えていただいた。
夜明け前に目を瞑るとはっきりと自分の周囲にその時によりその色の変わる等間隔に並ぶグリッドラインが見えるのですが、よくよく観察するとグリッドラインが左巻きと右巻きにそれぞれ回転しているのがわかります。 私が特殊なのではなくて人は周囲にはみなこれがあるのだろうなと思っていたのをサイクロンの画像を見て思い出しました。
これは「フラワーオブライフ」のマカバフィールドに似ている。
またAさんがグリッドの中に閉じ込められた籠の鳥のようだと、言われたことから僕は「カゴメ唄」を連想し、そのことを伝えると、Aさんもやはりカゴメ唄がずっと頭の中でリフレインしていたと言うシンクロもあった。
かごめ かごめ
かごの中の鳥は
いついつ 出やる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
後ろの正面だあれ?
この唄は単なる童謡なのだろうか?
かごめというのがもしも「かごめ紋」をも意味するのだとすれば面白いことになる。
カゴメ紋はヘキサゴン(六ぼう星)だ。

このマークはなんかユダヤチックだが(笑)伊勢神宮の石灯籠なんかにもこのマークが刻み込まれたりしていて、実は日本にも馴染み深い紋だ。日本とユダヤの文化はダブっている風習がかなり多い。みこしや、正月のもち、また日本語とヘブライ語の単語の類似性。例えばワッショイというのは「敵を打ち倒せ」と言う意味らしい」(日ユ同祖まで行くのはどうか微妙だけど)
そして、ドランヴァロメルキゼデクが、人体の周りで回転していると言うマカバフィールドの形はこれだ。

プラトン立体である正四面体の上下二重構造だ。二次元的にシンボライズするとカゴメ紋になる。
もしかすると、「かごの中の鳥」とはマカバフィールドに囲まれている人間自身なのだろうか?
メルキゼデク氏によると、マカバフィールドは次元と次元をつなぐ「乗り物」の役割りもするということだ。回転したマカバフィールドは僕にはものすごくUFO的に見える。
コンタクティーのマウリツィオ・カヴァロ氏のUFOは次元と次元の扉を抜けて、この3次元に物質化する(と言う)。もし人体の周りにマカバフィールドが次元と次元を越える「乗り物」だとすれば、UFOに助けてもらわなくてもこれを回せばいいのだ。「宇宙船が天空に満ちるビジョン」ってもしかして、マカバUFO(人間自身)だったりして。(あくまでも思考実験的に言ってますのでお遊びとして聴いてね)あ・・・段々5次元文庫的になってきたので話題を変えます。Aさんありがとうございました。
アジナーとサハスララ、父の座と母の座?
伝統的には、ムダラーラに眠るシャクティが頭頂を抜け、サハスララに達した時に意識の覚醒が起こるとされる。僕が『概念として』理解しているところによると、サハスララの覚醒とは、何かが見える、何かが聴こえる、光が見えると言った霊的な現象ではないし、ただ至福や恍惚感といったものでもない。また宇宙との一体「感」といった感覚的なものとも違うようだ。
それは「主体・見るもの」と「客体・見られるもの」が合一し、「あなた」と「わたし」がひとつになり、二元性が超克され、ワンネスが実現した状態だ。(が、ワンネスは既に実現してもいる)
カバラで言えばケテル(絶対存在)が与える霊的体験、すなわち「神との合一」となる。
これは形のない照明と言われる。悟りにはいかなる形もない。
それはなんらかの霊的なものを含む現象の「知覚」ではなく、認識の根本的変容だ。
「知覚」と「認識」は似ているようで違う。「知覚」には必ず対象物がある。
「認識」は知覚以前の領域にある。
様々なものを知覚する「私」は誰か?ということだ。
「私」がなにを知覚しようがそれは問題ではない。
その現象を知覚している「私」は何かということだ?
鏡に映った「私」を見ている「私」はいったい何か?ということだ。
私は愚かだ、私は賢い、私は美しい、私は醜い、私は霊的に高い・低い、私は前世で○○だった、私は実はシリウスから来た、私はちょっと太りすぎだ、私は髭が濃い、私は学歴が高い・低い、金持ちだ、貧乏だ、明るい、暗い、若く見える、老けて見える、好色だ、ストイックだ、純粋だ、汚れている、面白い奴だ、つまらないやつだ・・・・・・と言う「私」を見ている「私」はなにかと言うことだ。
「認識」の変容とは、その知覚世界をも含むリアリティの根本的変容だ。
でもこれは僕の悟りの『概念』に過ぎない。
悟りは『悟りの概念』ではない。神は『神の概念』や『イメージ』ではない。
と言っても真のワンネスとそれ以外の違いをはっきりさせることもまた重要ではないかと思ったりする。「神様が見えた」、「声が聴こえた」、「体外離脱した」、「ものすごい光に包まれた」などなどはそれだけでは悟りとは言えない。「誰が」見ているのか?「誰が」聴いているのか?それでちょっと得意になって後から話したりしてるのは「誰」なのか?という問題が残る。
「私(認識主体)が誰か?」ということを理解しないと宇宙のカラクリはわからないらしい。
僕はそこまで声を荒げて、悟ったとか言ってるニューエイジャーは全部嘘っぱちだ!というつもりもないが(僕も悟ってないわけで)、ティーチャーに「はい!あなたはこのコースを終了したので覚醒しました。おめでとう!」と言われ生徒が「そうなんですか~やった~!ぱちぱち」と手を叩くような状況はちょっと、なんだかなーで勘弁してほしいと思っている。
自分が「わかってる」ことが重要なのだから、いくらい偉い人に「君はもう悟っている」と言われてその気になってもそんな気分は一週間続けばいい方だろう。逆に誰にも承認されなくても、自分が「わかって」いれば何もかも問題はなくなる(問題が問題でなくなる)のだから。そしてもちろん「悟らなくてもいいよ」ということも自分で導き出した答えならアリだと思う。
話しをサハスララに戻すと、この頭の上にあるとされるチャクラは、ワンネスが実現されるポイントだ。
そして額の辺りにあるアジナーチャクラ(第三の目)は二元性が始まるポイントとされる。アジナーに基づく智慧や知識は主客対立をもとにした二元性に立脚している。
師匠が以前『サハスララでは父なる神の覚醒が起こり、アジナーでは母なる神の覚醒が起こる」と以前言っていたのを覚えている。アジナーで起こる母なる神の覚醒とはどのようなものか突っ込んで質問したことはない。
だからこれは僕の推測でしかないのだが、もしかすると客体が一元化することではないかと思う。アジナーでは主客対立が起こるのだから「わたし」と「あなた」「自己」と「他」は分かたれているはずだ。
通常僕らが見ている世界は「自己」と、そのほか「無数の他」に分割されている。「私」はひとりだが「私以外」はうじゃうじゃいる。宇宙の99.99999999999(無限に続く)パーセント「私」意外だ。
しかし、アジナーの覚醒によりこの無数の客体がすべて一元化する。すべて母なる神の現われとなる。すべては太母の現われだ、ここには母しかいない。
この無数の客体がすべて原初の形の母のあらわれであるとするならば、残るのは「自己」と「母」だけとなる。もしかするとラーマクリシュナの言う『人格神の悟り』とはこのことなのだろうか?
その後この「母」がさらに「父なる神の覚醒」を与えてくれるかどうかはわからないが、このことによって「自己」と「母(神)」というシンプルな二元性が生まれるのではないかと思った。
「フラワーオブライフ」にはアジナーには全ての森羅万象の形のもととなる神聖幾何学のプログラムが秘められていると書いてあったが。ドランヴァロメルキゼデクも、この神聖幾何学を紹介するのは、すべてに神の形が表現されてることを左脳で理解してもらうためだと言っている。 これも客体のワンネス化の試みではないだろうか。
アジナーは二元性と「かたち」の出発点だ。
もしそうであれば、母なる神への目覚めがアジナーで起こるのはとても納得できる。
二元性は苦しみの原因であるかもしれないが、喜びの原因でもある。
ラーマクリシュナが「私は砂糖をなめるのは好きだが、砂糖にはなりたくない」と言ったのは、アジナーの地点で母なる神をたたえ続けていたいという意味だったのかもしれない。
2009.
01.
27
又、これです(笑)
このタイトルでこんなにシリーズ化するつもりはなかったのだけど、なんか書くことがなかなか尽きないのでもうちょい続けようかと思います・・・。
それもやはり「かたち」の母のことをテーマに書いているので、『世界内存在』というところからいろんな方向にいくらでもでも話しを展開して行けるからかも知れない。
スタニスラフ・グロフのBPMについて自分の理解が浅かったように思うので、もう一度これについて書いてみる。
BPMの諸相にリンクする元型イメージ
BPM(Basic Perinatal Matrix・基本的分娩前後のマトリックス)についてもう一度おさらい。
東欧の精神医学者、スタニスラフ・グロフはLSDセラピーや、ホロトロピックセラピーを患者に施していく中で出産時や子宮内での記憶が、患者の無意識の信念体系に深く影響しているのを発見し、この記憶領域をBPM(Basic Perinatal Matrix・基本的分娩前後のマトリックス)と名づけた。
BPMは4段階ある。
①BPM1は、胎児が子宮の羊水に穏やかに浸っている状態。
②BPM2は、子宮口が開く前に、子宮が収縮を始め胎児を締め付ける段階。
③BPM3は、産道に出た胎児が誕生に向かい苦戦する段階。
④BPM4で、新しい世界に誕生し母親から離れる。
そして、それぞれ問題のあった領域での記憶を想起・解放することによって様々な精神的症状が軽減・治癒していくのを目撃した。
ここだけを読むと、トラウマを全て胎児期に還元するような単純化をグロフは犯しているように見えなくもないがそういうことではないようだ。
グロフの論で重要な部分は、それぞれのBPMは特有の元型イメージと結びついているということではないかと思う。
『深い分娩前後の記憶は、ユングが集合的無意識と呼んだ領域への入り口を準備してくれる場合もある。産道を通り抜ける苦しい試練を再体験するとき、他の時代や文化の人々が体験したのと同じ出来事を体験したり、動物や神話的人物が体験した出生プロセスを身をもって体験したりすることもある。他の方法で、虐待されたり、投獄されたり、拷問を受けたり、犠牲になったりした人々との深いつながりを感じることもある。それはまるで、生まれ出るために奮闘している胎児の普遍的な体験とのつながりが、現在、あるいはかつて同じような状況にいたことのあるすべての存在との、親密で、神秘的ともいえる結びつきを喚起するかのようである。』
スタニスラフ・グロフ著 深層からの回帰 より
それは俗に言われる、『前世の記憶』なども含まれる。
それぞれのBPMはそれぞれの性質に特有のイメージ・記憶へとアクセスするための、扉の役割りもする。BPMのそれぞれの段階が、元型イメージを発生させるまさに「母体」となる。それは例えば次のようなものだ。これはBPM1(羊水的宇宙)にアクセスした若き医師の体験である。
『ひとつのレベルでは、依然として、彼は良き子宮の満ち足りた完璧さと至福を体験する胎児であった。あるいは、自分の命を養い、育んでくれる乳房とひとつに溶け合った新生児だった。
もうひとつのレベルでは、全宇宙であった。彼は無数の脈動する銀河が輝く大宇宙の光景を目撃していた。時おり、それらのものを外から眺める観客となり、別の時には、それら自体になった。
この光り輝く息を呑む大宇宙の眺めは、同様に奇跡的な小宇宙の体験・・・最初は、原子や分子のダンス、それから生化学的な世界の出現、そして生命の始まりと個々の細胞の進化・・・と絡み合っていた。彼は生まれてはじめて、本当の宇宙・・・はかりしれない神秘とエネルギーの聖なる戯れからなる宇宙・・・を体験しているのだという実感にひたされた。
この豊穣で複合的な体験は永遠につづくように思われた。つらい病んだ胎児の状態と、この上なく幸福で穏やかな子宮内の存在状態との間を彼は揺れ動いていた。時たま(母から流れ込む)毒物の影響が童話の世界に登場する元型的な悪魔や悪意に満ちた生き物の形をとることもあった。子供たちが神話的な物語やその登場人物に心をひかれる理由について、溢れんばかりの洞察がひらめきはじめた。その洞察のいくつかはかなり幅広い関連性を持っていた。
安全な子宮や神秘的な恍惚の中で経験できるような完全な充足状態への渇望が、あらゆる人間を動機付ける究極的な力であるように思われた。この渇望のテーマがハッピーエンドに向かって話の筋が展開する童話の中に表現されていることに気付いた。ユートピア的未来という革命家が抱く夢の中にも、また、認められ賞賛されたいという芸術家の衝動の内部にも、そして財産や地位や名声を求める欲望の内にも、同じテーマが見えた。
人類がかかえるもっとも基本的な葛藤に対する解答がここにあることが非常に明確になった。この衝動の背後にある渇望と欲求は、外的世界においてどんなに素晴らしい偉業を達成したとしても決して満たされることはない。この渇望を満たすことが出来る唯一の方法は、自分自身の無意識の中にあるこの場所ともう一度つながることであった。有効に働く唯一の革命は、人間ひとりひとりの内的変容である、という多くの霊的な教師のメッセージを突然理解した。
胎児期の肯定的な記憶を追体験している間、彼は全宇宙との一体感を味わった。ここには、タオ(道)、内なる超越、ウパニシャッドのタト・ツヴァム・アシ(汝はそれである)があった。個体性の感覚はなかった。彼の自我は溶け去り、全存在とひとつになった。時に、この体験は内容がなく、つかみどころがなかった。またある時は、たくさんのうつくしいビジョン・・・元型的な楽園のイメージ、最高の豊穣、黄金時代、人の手に汚されていない自然・・・を伴った。彼は、水晶のように澄んだ水中を泳ぎまわる魚、山間の牧草地を軽やかに飛び回る蝶、舞い降りて、海面をかすめて飛ぶかもめになった。また、海、動物、植物、雲になった。ある時はそのうちのひとつに、ある時は別のものに、又ある時は同時にそのすべてのものになった。』
以上は前掲書からの引用で、非常に目くるめく体験だが、これは、彼が実際に胎児期に感じていた記憶とはまったく別物かもしれない。しかしそんなことはある意味どうでもいいことで、興味深いのはBPM1にアクセスすることがこの種の、宇宙的合一や完全に満たされた宇宙に存在しているという体験への扉を開くと言うことだ。
僕はグロフのBPMという概念が普通の前世療法やなんかより面白いと思うのは、ここではBPMというあらゆる体験の型を包括したような元型から無数のイメージ・記憶が想起されるためだ。
なぜBPMがそのような性質を持っているかというと、胎児が子宮内にいる状態と言うのはおそらくもっとも、世界内存在であるという認識が強い時期であり、グレートマザーの力もまたもっとも強大であるからではないかと思う。
あらゆる僕らの体験は、僕らが世界内存在であるという絶対無比の認識に基盤を置いているのだ。これがBPMより深いところにある絶対的な元型であり、そして僕らが世界内存在であるということによって生まれる、世界の僕らへのはたらきかけ、そして僕らの世界への反応(愛憎半ばする)がまたいくつもの元型世界を産み出していると言える。
BPMにおいて胎児に恐怖と、歓喜を与えるのは、明るく豊穣なる母アイマ(パールヴァティ)と、暗く不毛なる母アマ(カーリ)のお馴染みの二元型だ。
BPMには、その世界内存在であることによって発生する体験領域のすべてが可能性として含まれているのではないだろうか。
胎児は、受精から、誕生までの間にひとつの 『生』 を母胎内で生きるのではないだろうか。
ひとつの生であればこそ、そこには誕生後の人生で経験する出来事の雛形となる体験が、型としてすべて存在しているのだと思う。
村上龍『コインロッカーベイビーズ』と、孤児たちのママへの復讐、異化された男性性は破壊を渇望する、BPM1としての音療法
僕は村上龍の『コインロッカーベイビーズ』という小説が好きで、以前よく読んでいた。
この物語は、ハシとキクというコインロッカーに捨てられた二人の孤児の、世界への愛憎の物語である。
たまたま同じ日にコインロッカーから発見された二人は、キリスト教系の孤児院で幼児期を過ごした後、離島に住む夫婦の家へ養子として送られる。
キクは肉体的な感性の強い、陸上選手に、そしてハシはあるひとつの「音」を探し続けることによって音楽的な感性を開花させていく。(この「音」というのは二人は表面意識では忘れているが、実は二人が幼児期に精神療法を受けた時に、聞かされた母胎内の心臓の音である)
見知らぬ男に性的ないたずらをされた後、ハシは、書置きを残して東京へ行ってしまう。
どうやらハシは自分の実の母親の情報を偶然知ってしまい、それでいてもたってもいられなくなったようだ。残されたキクと育ての母親は、彼を追って上京する。
都会はキクに重苦しい閉塞感を与える。ここで彼は初めて世界を破壊したいという願望を感じる。
旅先のホテルの一室で、一緒に来た育ての母がちょっとした頭部への怪我が原因で、キクが朝目を覚ますと死亡し、冷たくなっている。その時、彼は思う
『陽はカーテンの隙間から差し込み部屋の温度はどんどん上がった。部屋はコンクリートとガラスで密封されている。キクは全身に汗をかいている。窓の外のビル解体現場から電源車の唸りが聞こえ始めた。窓ガラスを震わせる。クレーンが鉄の玉を振り回す、その最初の一撃がビルの壁に減り込んだ時キクは叫び声をあげて不安な夢から覚めた。
どこにいるのかしばらくわからなかった。部屋を見回した。白いものが隣に転がっている。シーツは死体が吐いた血で赤黒く滲んでいた。キクは和代の顔と首と胸にぴったり張り付いたシーツを見た。人間の上半身に赤いペンキを塗ったようだった。キクは恐怖で震えだした。次から次に汗が吹き出て左手からは和代の化粧のにおいがした。和代の匂いはまだ生きていた。
赤く濡れたシーツでかたどられた和代は硬いただの人形だ。キクの中で隠れていたものが少しだけ姿を現した。鉄の玉がビルを打ち崩す音が休みなく聴こえる。新しい汗が吹き出るたびに恐怖が怒りに変わった。この不快な暑さは我慢できないと思った。閉じ込められている、そう気付いた。ガラスとコンクリートに遮断されたこの部屋、閉じ込められたままだ、いつからか?生まれてからずっとだ、柔らかいものに俺は密封されている、いつまでか?赤いシーツをかぶった硬い人形になるまでだ。
コンクリートが砕ける音がする、窓の外の街は熱暑で歪んでいる、ビルの群れがあえいでいる、白く濁り溶けようとしている街が呼びかける気がする、廃鉱の島にひろがる無人の町並みが頭に浮かんでくる、窓の向こうで暑さに喘ぐ午前中の東京に重なる、東京がキクに呼びかけている、キクはその声を聞いた、壊してくれ、全てを破壊してくれ
・・・キクの中で古い皮膚が剥がれ殻が割れて埋もれていた記憶が少しずつ姿を現した。夏の記憶だ。十七年前、コインロッカーの暑さと息苦しさに抗して爆発的に泣き出した赤ん坊の自分、その自分を支えていたもの、その時の自分に呼びかけていたものが徐々に姿を現し始めた。どんな声に支えられて蘇生したのか、思い出した。殺せ、破壊せよ、その声はそう言っていた。その声は眼下に広がるコンクリートの街と点になった人間と車の喘ぎに重なって響く。壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ』
村上龍著 「コインロッカーベイビーズ」 より
ここでキクに現れているのはBPM2的な、「出口なし」の閉塞感であり、彼を包み込んでいる、「やわらかいもの」そして熱暑の都会は、彼にとって「暗く不毛なる母・アマ」である。それは彼が捨てられたコインロッカーのイメージでもある。彼にとってこの世界(都会)は、彼が死に至るまで彼を閉じ込めるカーリとなった。
彼に訪れた破壊衝動は、このネガティブマトリクス(あくまでもキクにとってということだが、まあ身に覚えのある人も多いだろう)からの脱出願望であり、自由への夢だ。
キクの『街を廃墟に戻せ』という言葉からもうかがえるが、破壊というのはそれ以前への秩序、あるいはカオスへの回帰願望でもある。
そしてこの後、自分を『鰐の王国からの使者』だと冗談めかして語るアネモネという少女との出会いによって、彼の願望は街を『ジャングルに戻す』というイメージに変わっていく。
『あたしって鰐みたいな女よ、ねえキクびっくりすること教えてあげようか、あたしは鰐の国の使者なのよ。
ディズニーランドに四つのくにがあるように、脳には三つの国があってね、運動の国、欲望の国、考える国、欲望の国の王様は鰐なの。運動の国の王様はヤツメウナギで考える国の王様は死人よ。
あたしは鰐の国に住んでるわけ。あたしは顔も可愛いし太ってないし、貧乏人の娘じゃないし、健康で先天性梅毒じゃないし、どうでもいい人たちから好かれなくても苦しくないし、便秘もないし、両方とも視力は2.0で足も速いの。鰐の神様がどうでもいいことを考えなくてもいいようにしてくださったのよ、わかる?
あたしは使者なの。この町を鰐の王国にするためにあたしは選ばれて、ある男の手助けを命じられているのよ、あなたよ、キクをずっと待ってたの。あなたはこの街をメチャクチャに食いちぎるために生まれてきたのよ、あたしと巡り合ったのが何よりの証拠だわ」
「鰐の王国ってどこにあるんだよ」
「あたしの口の中、暗くて柔らかなべろの下」
ただ単に、「廃墟に戻す」というだけではなく、原初の自然の理想郷(これはどちらかと言うとアイマ・明るく豊穣なる母)への回帰イメージと変化していく。 ネガティブマザーへの反抗は即、ポジティブマザーへの思慕となってしまうという構造がここには見える。アネモネは魔的でエロチックでどっちかというとヤバいアニマだが、キクに何らかの生命を与えている。「廃墟」を夢想していた孤独な男性に、プリミティブな歓楽に満ちた『鰐の国』からの招待状が届いたからだ。
このように男性にとって、アニマ・女性性とはそれがどんな種類のものであろうと、なんらかの生命の付与者だ。
男性性のある面の特徴は、世界からの孤立であり、世界内で異化された存在であるという認識ではないかと思う。世界内で異化された存在である人間には、世界を破壊・あるいは暴力的に支配したいという願望が生まれる。
男性性がネガティブに働くと、対象を破壊したり、相手を力や論理でねじ伏せたいと言う欲求が強くなる。 これが、独裁者や、テロリスト、凶悪な犯罪者、マッドサイエンティストwというような存在に共通して働いている原理だ。彼らは言ってみれば、ネガティブマザー(彼らには世界がそう見える)への反抗者なのだ。このネガティブマザーへの反抗と言う破壊作用は、女性よりもより男性において激しく、また外向的に表現される。
ちなみに今僕が書いているような文章もどちらかというと男性エネルギーが強い文章ではないかと思う。なるべく暴力的にならないようにはしているつもりだがw
男性性のポジティブな元型はユングの「オールド・ワイズ・マン(老賢人)」や慈悲深き支配者、あるいは「王」である。これらの元型の中では、男性の暴力性はなりを潜め、超克されている。
キクが世界への破壊願望に突き動かされていくのに対して、ハシは幼い時に聴いた絶対的なある「音」を探し続けることで、音楽に向かいやがてカリスマ的な歌手としてデビューする。
特徴的なことはキクのテンションがすべて外向的であるのに対して、ハシは内向的であるということだ。しかしやはりハシも破壊願望に取り付かれてもおり、その破壊作用は主に自分の精神や肉体に対して向けられている。
キクがハシに再開した時、ハシは女のように化粧をして客をとる男娼のようなことをしている。やがて歌手になったあとは声を変えるために自分の舌先を自分で切断する。
ハシが探し求めていた「音」は、母胎内の心臓の音をアレンジして精神療法用に作られたものだった。それはBPM1の特質を持っていて、彼らの破壊的エネルギーを一時的に抑制する効果を持っていた。担当の精神科医は孤児院のシスターに、その「音」についてこう語る。
『・・・この治療法はアメリカで幻覚剤による急性分裂病に用いられて開発されたものですが、患者を、もう一度胎内に戻すのです。絶対的な平静と秩序を与えるわけです。
電気操作した人間の心臓音、胎児が母親の胎内で聞く母親の心臓音ですね、人間の心臓は胎内では非常な音量で響いているんです。空気ではなく体液の振動で伝わるからです。それは単なる音ではなく様々な器官や血液、リンパ液を震わせて胎児に伝わるために、複雑な音階さえ感じられます。この音階と音色が昨年アメリカの精神医学会で発表された時に、マイケル・ゴールドスミスというマサチューセッツ工科大学教授で神経化学を研究している人が面白い意見を述べました。
この人は余技に空想科学小説を書くんですが、その心臓音は、航空宇宙局が飛ばしている人工衛星が発する異生物交信音と非常によく似ているというのです、偶然でしょうがね。
私はその心臓音を実験的に聞きましたがそれはすごいものですよ、半覚醒状態で聞くと圧倒的な平安と至福を覚えます。宗教家のみなさんにこんなことを言ったら失礼だろうが、その昔キリストが与えた至福感とはああいうものだったのかと思いますね』
しかし失礼なことはない。先の若き医学者の回帰体験で見られたように、宇宙的な恍惚感とBPM1はどこかとても深いところで連動しているからだ。
と言っても宗教的恍惚感が、BPMの記憶に根ざしてるとかそんな意味ではなく、人間の魂の非常に深いところで、意味的に連動しているということ。
ここでは「音」が母体の代わりをするのだが、それはより精妙な世界では「波動」(目には見えない振動パターン)がマトリクスを構成しているからであると思う。
目に見えるマトリクスを支えているのは、不可視のマトリクスだ。
このタイトルでこんなにシリーズ化するつもりはなかったのだけど、なんか書くことがなかなか尽きないのでもうちょい続けようかと思います・・・。
それもやはり「かたち」の母のことをテーマに書いているので、『世界内存在』というところからいろんな方向にいくらでもでも話しを展開して行けるからかも知れない。
スタニスラフ・グロフのBPMについて自分の理解が浅かったように思うので、もう一度これについて書いてみる。
BPMの諸相にリンクする元型イメージ
BPM(Basic Perinatal Matrix・基本的分娩前後のマトリックス)についてもう一度おさらい。
東欧の精神医学者、スタニスラフ・グロフはLSDセラピーや、ホロトロピックセラピーを患者に施していく中で出産時や子宮内での記憶が、患者の無意識の信念体系に深く影響しているのを発見し、この記憶領域をBPM(Basic Perinatal Matrix・基本的分娩前後のマトリックス)と名づけた。
BPMは4段階ある。
①BPM1は、胎児が子宮の羊水に穏やかに浸っている状態。
②BPM2は、子宮口が開く前に、子宮が収縮を始め胎児を締め付ける段階。
③BPM3は、産道に出た胎児が誕生に向かい苦戦する段階。
④BPM4で、新しい世界に誕生し母親から離れる。
そして、それぞれ問題のあった領域での記憶を想起・解放することによって様々な精神的症状が軽減・治癒していくのを目撃した。
ここだけを読むと、トラウマを全て胎児期に還元するような単純化をグロフは犯しているように見えなくもないがそういうことではないようだ。
グロフの論で重要な部分は、それぞれのBPMは特有の元型イメージと結びついているということではないかと思う。
『深い分娩前後の記憶は、ユングが集合的無意識と呼んだ領域への入り口を準備してくれる場合もある。産道を通り抜ける苦しい試練を再体験するとき、他の時代や文化の人々が体験したのと同じ出来事を体験したり、動物や神話的人物が体験した出生プロセスを身をもって体験したりすることもある。他の方法で、虐待されたり、投獄されたり、拷問を受けたり、犠牲になったりした人々との深いつながりを感じることもある。それはまるで、生まれ出るために奮闘している胎児の普遍的な体験とのつながりが、現在、あるいはかつて同じような状況にいたことのあるすべての存在との、親密で、神秘的ともいえる結びつきを喚起するかのようである。』
スタニスラフ・グロフ著 深層からの回帰 より
それは俗に言われる、『前世の記憶』なども含まれる。
それぞれのBPMはそれぞれの性質に特有のイメージ・記憶へとアクセスするための、扉の役割りもする。BPMのそれぞれの段階が、元型イメージを発生させるまさに「母体」となる。それは例えば次のようなものだ。これはBPM1(羊水的宇宙)にアクセスした若き医師の体験である。
『ひとつのレベルでは、依然として、彼は良き子宮の満ち足りた完璧さと至福を体験する胎児であった。あるいは、自分の命を養い、育んでくれる乳房とひとつに溶け合った新生児だった。
もうひとつのレベルでは、全宇宙であった。彼は無数の脈動する銀河が輝く大宇宙の光景を目撃していた。時おり、それらのものを外から眺める観客となり、別の時には、それら自体になった。
この光り輝く息を呑む大宇宙の眺めは、同様に奇跡的な小宇宙の体験・・・最初は、原子や分子のダンス、それから生化学的な世界の出現、そして生命の始まりと個々の細胞の進化・・・と絡み合っていた。彼は生まれてはじめて、本当の宇宙・・・はかりしれない神秘とエネルギーの聖なる戯れからなる宇宙・・・を体験しているのだという実感にひたされた。
この豊穣で複合的な体験は永遠につづくように思われた。つらい病んだ胎児の状態と、この上なく幸福で穏やかな子宮内の存在状態との間を彼は揺れ動いていた。時たま(母から流れ込む)毒物の影響が童話の世界に登場する元型的な悪魔や悪意に満ちた生き物の形をとることもあった。子供たちが神話的な物語やその登場人物に心をひかれる理由について、溢れんばかりの洞察がひらめきはじめた。その洞察のいくつかはかなり幅広い関連性を持っていた。
安全な子宮や神秘的な恍惚の中で経験できるような完全な充足状態への渇望が、あらゆる人間を動機付ける究極的な力であるように思われた。この渇望のテーマがハッピーエンドに向かって話の筋が展開する童話の中に表現されていることに気付いた。ユートピア的未来という革命家が抱く夢の中にも、また、認められ賞賛されたいという芸術家の衝動の内部にも、そして財産や地位や名声を求める欲望の内にも、同じテーマが見えた。
人類がかかえるもっとも基本的な葛藤に対する解答がここにあることが非常に明確になった。この衝動の背後にある渇望と欲求は、外的世界においてどんなに素晴らしい偉業を達成したとしても決して満たされることはない。この渇望を満たすことが出来る唯一の方法は、自分自身の無意識の中にあるこの場所ともう一度つながることであった。有効に働く唯一の革命は、人間ひとりひとりの内的変容である、という多くの霊的な教師のメッセージを突然理解した。
胎児期の肯定的な記憶を追体験している間、彼は全宇宙との一体感を味わった。ここには、タオ(道)、内なる超越、ウパニシャッドのタト・ツヴァム・アシ(汝はそれである)があった。個体性の感覚はなかった。彼の自我は溶け去り、全存在とひとつになった。時に、この体験は内容がなく、つかみどころがなかった。またある時は、たくさんのうつくしいビジョン・・・元型的な楽園のイメージ、最高の豊穣、黄金時代、人の手に汚されていない自然・・・を伴った。彼は、水晶のように澄んだ水中を泳ぎまわる魚、山間の牧草地を軽やかに飛び回る蝶、舞い降りて、海面をかすめて飛ぶかもめになった。また、海、動物、植物、雲になった。ある時はそのうちのひとつに、ある時は別のものに、又ある時は同時にそのすべてのものになった。』
以上は前掲書からの引用で、非常に目くるめく体験だが、これは、彼が実際に胎児期に感じていた記憶とはまったく別物かもしれない。しかしそんなことはある意味どうでもいいことで、興味深いのはBPM1にアクセスすることがこの種の、宇宙的合一や完全に満たされた宇宙に存在しているという体験への扉を開くと言うことだ。
僕はグロフのBPMという概念が普通の前世療法やなんかより面白いと思うのは、ここではBPMというあらゆる体験の型を包括したような元型から無数のイメージ・記憶が想起されるためだ。
なぜBPMがそのような性質を持っているかというと、胎児が子宮内にいる状態と言うのはおそらくもっとも、世界内存在であるという認識が強い時期であり、グレートマザーの力もまたもっとも強大であるからではないかと思う。
あらゆる僕らの体験は、僕らが世界内存在であるという絶対無比の認識に基盤を置いているのだ。これがBPMより深いところにある絶対的な元型であり、そして僕らが世界内存在であるということによって生まれる、世界の僕らへのはたらきかけ、そして僕らの世界への反応(愛憎半ばする)がまたいくつもの元型世界を産み出していると言える。
BPMにおいて胎児に恐怖と、歓喜を与えるのは、明るく豊穣なる母アイマ(パールヴァティ)と、暗く不毛なる母アマ(カーリ)のお馴染みの二元型だ。
BPMには、その世界内存在であることによって発生する体験領域のすべてが可能性として含まれているのではないだろうか。
胎児は、受精から、誕生までの間にひとつの 『生』 を母胎内で生きるのではないだろうか。
ひとつの生であればこそ、そこには誕生後の人生で経験する出来事の雛形となる体験が、型としてすべて存在しているのだと思う。
村上龍『コインロッカーベイビーズ』と、孤児たちのママへの復讐、異化された男性性は破壊を渇望する、BPM1としての音療法
僕は村上龍の『コインロッカーベイビーズ』という小説が好きで、以前よく読んでいた。
この物語は、ハシとキクというコインロッカーに捨てられた二人の孤児の、世界への愛憎の物語である。
たまたま同じ日にコインロッカーから発見された二人は、キリスト教系の孤児院で幼児期を過ごした後、離島に住む夫婦の家へ養子として送られる。
キクは肉体的な感性の強い、陸上選手に、そしてハシはあるひとつの「音」を探し続けることによって音楽的な感性を開花させていく。(この「音」というのは二人は表面意識では忘れているが、実は二人が幼児期に精神療法を受けた時に、聞かされた母胎内の心臓の音である)
見知らぬ男に性的ないたずらをされた後、ハシは、書置きを残して東京へ行ってしまう。
どうやらハシは自分の実の母親の情報を偶然知ってしまい、それでいてもたってもいられなくなったようだ。残されたキクと育ての母親は、彼を追って上京する。
都会はキクに重苦しい閉塞感を与える。ここで彼は初めて世界を破壊したいという願望を感じる。
旅先のホテルの一室で、一緒に来た育ての母がちょっとした頭部への怪我が原因で、キクが朝目を覚ますと死亡し、冷たくなっている。その時、彼は思う
『陽はカーテンの隙間から差し込み部屋の温度はどんどん上がった。部屋はコンクリートとガラスで密封されている。キクは全身に汗をかいている。窓の外のビル解体現場から電源車の唸りが聞こえ始めた。窓ガラスを震わせる。クレーンが鉄の玉を振り回す、その最初の一撃がビルの壁に減り込んだ時キクは叫び声をあげて不安な夢から覚めた。
どこにいるのかしばらくわからなかった。部屋を見回した。白いものが隣に転がっている。シーツは死体が吐いた血で赤黒く滲んでいた。キクは和代の顔と首と胸にぴったり張り付いたシーツを見た。人間の上半身に赤いペンキを塗ったようだった。キクは恐怖で震えだした。次から次に汗が吹き出て左手からは和代の化粧のにおいがした。和代の匂いはまだ生きていた。
赤く濡れたシーツでかたどられた和代は硬いただの人形だ。キクの中で隠れていたものが少しだけ姿を現した。鉄の玉がビルを打ち崩す音が休みなく聴こえる。新しい汗が吹き出るたびに恐怖が怒りに変わった。この不快な暑さは我慢できないと思った。閉じ込められている、そう気付いた。ガラスとコンクリートに遮断されたこの部屋、閉じ込められたままだ、いつからか?生まれてからずっとだ、柔らかいものに俺は密封されている、いつまでか?赤いシーツをかぶった硬い人形になるまでだ。
コンクリートが砕ける音がする、窓の外の街は熱暑で歪んでいる、ビルの群れがあえいでいる、白く濁り溶けようとしている街が呼びかける気がする、廃鉱の島にひろがる無人の町並みが頭に浮かんでくる、窓の向こうで暑さに喘ぐ午前中の東京に重なる、東京がキクに呼びかけている、キクはその声を聞いた、壊してくれ、全てを破壊してくれ
・・・キクの中で古い皮膚が剥がれ殻が割れて埋もれていた記憶が少しずつ姿を現した。夏の記憶だ。十七年前、コインロッカーの暑さと息苦しさに抗して爆発的に泣き出した赤ん坊の自分、その自分を支えていたもの、その時の自分に呼びかけていたものが徐々に姿を現し始めた。どんな声に支えられて蘇生したのか、思い出した。殺せ、破壊せよ、その声はそう言っていた。その声は眼下に広がるコンクリートの街と点になった人間と車の喘ぎに重なって響く。壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ』
村上龍著 「コインロッカーベイビーズ」 より
ここでキクに現れているのはBPM2的な、「出口なし」の閉塞感であり、彼を包み込んでいる、「やわらかいもの」そして熱暑の都会は、彼にとって「暗く不毛なる母・アマ」である。それは彼が捨てられたコインロッカーのイメージでもある。彼にとってこの世界(都会)は、彼が死に至るまで彼を閉じ込めるカーリとなった。
彼に訪れた破壊衝動は、このネガティブマトリクス(あくまでもキクにとってということだが、まあ身に覚えのある人も多いだろう)からの脱出願望であり、自由への夢だ。
キクの『街を廃墟に戻せ』という言葉からもうかがえるが、破壊というのはそれ以前への秩序、あるいはカオスへの回帰願望でもある。
そしてこの後、自分を『鰐の王国からの使者』だと冗談めかして語るアネモネという少女との出会いによって、彼の願望は街を『ジャングルに戻す』というイメージに変わっていく。
『あたしって鰐みたいな女よ、ねえキクびっくりすること教えてあげようか、あたしは鰐の国の使者なのよ。
ディズニーランドに四つのくにがあるように、脳には三つの国があってね、運動の国、欲望の国、考える国、欲望の国の王様は鰐なの。運動の国の王様はヤツメウナギで考える国の王様は死人よ。
あたしは鰐の国に住んでるわけ。あたしは顔も可愛いし太ってないし、貧乏人の娘じゃないし、健康で先天性梅毒じゃないし、どうでもいい人たちから好かれなくても苦しくないし、便秘もないし、両方とも視力は2.0で足も速いの。鰐の神様がどうでもいいことを考えなくてもいいようにしてくださったのよ、わかる?
あたしは使者なの。この町を鰐の王国にするためにあたしは選ばれて、ある男の手助けを命じられているのよ、あなたよ、キクをずっと待ってたの。あなたはこの街をメチャクチャに食いちぎるために生まれてきたのよ、あたしと巡り合ったのが何よりの証拠だわ」
「鰐の王国ってどこにあるんだよ」
「あたしの口の中、暗くて柔らかなべろの下」
ただ単に、「廃墟に戻す」というだけではなく、原初の自然の理想郷(これはどちらかと言うとアイマ・明るく豊穣なる母)への回帰イメージと変化していく。 ネガティブマザーへの反抗は即、ポジティブマザーへの思慕となってしまうという構造がここには見える。アネモネは魔的でエロチックでどっちかというとヤバいアニマだが、キクに何らかの生命を与えている。「廃墟」を夢想していた孤独な男性に、プリミティブな歓楽に満ちた『鰐の国』からの招待状が届いたからだ。
このように男性にとって、アニマ・女性性とはそれがどんな種類のものであろうと、なんらかの生命の付与者だ。
男性性のある面の特徴は、世界からの孤立であり、世界内で異化された存在であるという認識ではないかと思う。世界内で異化された存在である人間には、世界を破壊・あるいは暴力的に支配したいという願望が生まれる。
男性性がネガティブに働くと、対象を破壊したり、相手を力や論理でねじ伏せたいと言う欲求が強くなる。 これが、独裁者や、テロリスト、凶悪な犯罪者、マッドサイエンティストwというような存在に共通して働いている原理だ。彼らは言ってみれば、ネガティブマザー(彼らには世界がそう見える)への反抗者なのだ。このネガティブマザーへの反抗と言う破壊作用は、女性よりもより男性において激しく、また外向的に表現される。
ちなみに今僕が書いているような文章もどちらかというと男性エネルギーが強い文章ではないかと思う。なるべく暴力的にならないようにはしているつもりだがw
男性性のポジティブな元型はユングの「オールド・ワイズ・マン(老賢人)」や慈悲深き支配者、あるいは「王」である。これらの元型の中では、男性の暴力性はなりを潜め、超克されている。
キクが世界への破壊願望に突き動かされていくのに対して、ハシは幼い時に聴いた絶対的なある「音」を探し続けることで、音楽に向かいやがてカリスマ的な歌手としてデビューする。
特徴的なことはキクのテンションがすべて外向的であるのに対して、ハシは内向的であるということだ。しかしやはりハシも破壊願望に取り付かれてもおり、その破壊作用は主に自分の精神や肉体に対して向けられている。
キクがハシに再開した時、ハシは女のように化粧をして客をとる男娼のようなことをしている。やがて歌手になったあとは声を変えるために自分の舌先を自分で切断する。
ハシが探し求めていた「音」は、母胎内の心臓の音をアレンジして精神療法用に作られたものだった。それはBPM1の特質を持っていて、彼らの破壊的エネルギーを一時的に抑制する効果を持っていた。担当の精神科医は孤児院のシスターに、その「音」についてこう語る。
『・・・この治療法はアメリカで幻覚剤による急性分裂病に用いられて開発されたものですが、患者を、もう一度胎内に戻すのです。絶対的な平静と秩序を与えるわけです。
電気操作した人間の心臓音、胎児が母親の胎内で聞く母親の心臓音ですね、人間の心臓は胎内では非常な音量で響いているんです。空気ではなく体液の振動で伝わるからです。それは単なる音ではなく様々な器官や血液、リンパ液を震わせて胎児に伝わるために、複雑な音階さえ感じられます。この音階と音色が昨年アメリカの精神医学会で発表された時に、マイケル・ゴールドスミスというマサチューセッツ工科大学教授で神経化学を研究している人が面白い意見を述べました。
この人は余技に空想科学小説を書くんですが、その心臓音は、航空宇宙局が飛ばしている人工衛星が発する異生物交信音と非常によく似ているというのです、偶然でしょうがね。
私はその心臓音を実験的に聞きましたがそれはすごいものですよ、半覚醒状態で聞くと圧倒的な平安と至福を覚えます。宗教家のみなさんにこんなことを言ったら失礼だろうが、その昔キリストが与えた至福感とはああいうものだったのかと思いますね』
しかし失礼なことはない。先の若き医学者の回帰体験で見られたように、宇宙的な恍惚感とBPM1はどこかとても深いところで連動しているからだ。
と言っても宗教的恍惚感が、BPMの記憶に根ざしてるとかそんな意味ではなく、人間の魂の非常に深いところで、意味的に連動しているということ。
ここでは「音」が母体の代わりをするのだが、それはより精妙な世界では「波動」(目には見えない振動パターン)がマトリクスを構成しているからであると思う。
目に見えるマトリクスを支えているのは、不可視のマトリクスだ。
2009.
01.
25
女神の性質とは、その包容性だ。
タントラなどの伝統的な考え方に従えば、この現象世界に存在するものはすべて女神の手の内にあるということになる。
最高に女性的な女性もそうだし、ほとんど極端なほど男性的な男性もそうだ。
それはこの肉体という鋳型が、そもそも女性性の顕現だからだ。
男性も胎児期の始めは女性なのだが、遺伝子の働きによって徐々に男性化されていく。
ペニスは、発達したクリトリスだ。
性同一障害などで悩む男性はあきらかに脳の構造が通常の男性と違う(女性脳である)と言われるがこれは胎児期になんらかの理由で十分な脳の男性化が進まなかった為だと聴く。
この生物学的な性の発現過程は、アダムの肋骨からイブが創られたという創世記の神話とは真逆である。
波動と「かたち」
前回までかたちの根源は女性性であると書いたが、「かたち」は目に見える物質的なものだけであるとは限らない。それどころか目に見える形態はおそらく「かたち」の世界のごく一部でしかないだろう。
例えば神秘主義や、ニューエイジャーの語るところによれば、宇宙は「波動」によって成り立っており、この物質世界はもっとも波動の振動数が遅い世界であると言う。振動数が遅いと言うのは同時間内につくられる波形がより短くゆったりしており、振動数が速くなると同時間内により多くの波形が作られる。一例↓

振動数が速いというと、普通は騒がしい・あわただしいという印象を受けたりするが、ここで言う「振動数が速い世界」というのはより精妙であるということだ。
例えば、植物は鉱物よりも振動数が速く、動物は植物より振動数が速いというのはまあ伝統的な考え方と言っていいだろうと思う。そして人間の意識内の現象のほうがより振動数が早い。
しかし「より精妙である」ということは、通常認識されないということでもある。目に見えるものだけを実在と考えるパラダイムにおいては振動数が高い領域はすべて、非実在として切り捨てられる。これでは僕らは振動数の低い領域にのみ住むことになってしまう。
例えば「気」(エーテル)の世界は、通常の肉体よりも振動数が速い。だがら認識できない人も居る。しかし多分2,3時間(いやそんないらないか・・・)気功的な修練を遊び感覚でやれば大半の人はその世界を肉体感覚で実感できるのではないかと思う。そんな大それたことではないと思うのだが、このレベルの世界をあるとかないとか言って超常現象番組では大騒ぎしていたりもするので面白い。(ただし気をコントロールするとか、動物を眠らせるとかいうことは練習しないと出来ない。もちろん僕は出来ないw)
同じように、オーラ(感情体アストラルの次元)とか霊界とかいうのも振動数が違うだけで、この世界に幾重にも重なって存在しているだろう。
さて、この目に見えないが存在している、かたち・波動の世界!というのは実は誰もが認識できるものとして存在してもいる。それは音楽だ。様々なジャンルの音楽は、すべて目には見えないがクラシックならクラシック、ロックならロック、演歌なら演歌としてそれぞれの「かたち」を備えている。これを否定する人は、まあいないだろう。
音楽とは、還元するなら楽器によって生み出される、空気の振動、つまり「波動」の無限の組み合わせパターンだ。それを人は耳から聴く事によってそれ特有のパターン・かたちの美を認識している。音楽は誰もが認識できる「見えないかたち」だと言える。
精妙な音楽は、やはり精妙な振動領域の世界と僕らをつなぐ。
そして粗雑な音は粗雑な振動を発生させ、こころに同じような影響を与える。
波動とはその振動を伝える媒体上に描かれたパターン(かたち)だ。音楽であればその媒体は大気だし、波なら、海の水だ。
昔、物理学では「光」も波動であると考えられ、その波動の伝導媒体として真空中に「エーテル」と呼ばれるものが充満していると考えられた。波動は伝導媒体なしでは伝わらないからだ。
しかし現在では、光は粒子と波動、双方の性質を持つパラドキシカルなものとして認識されているようである。
それはさて置き、この『波動』というものが、空気や水のないところでも存在し、宇宙を構成しているというのが神秘主義的な考え方と言ってもいい。神秘主義的見方をする人にとっては、この物質世界も波動宇宙の一側面として理解される
ではこの波動、「見えないかたち」の根源とはなんであろうかと考えると、頭に「ロゴス」と言う言葉が浮かぶ。というか「ロゴス」は言葉と言う意味合いだ。
聖書曰く、「はじめに言葉ありき」の言葉である。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
すべてのものはこれによって出来た。
出来たものうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
言葉は肉となり、わたしたちの内に宿った」
ヨハネの福音書
ヒンズーの概念で言うなら、これに該当するのは3つの聖音AUMだろう。
普通はこの三音は創造者ブラフマン、破壊者シバ、保持者ビシュヌと考えられるが、
一説によると、Aは天を Mは地を Uはそのつなぎをあらわしてるとも言う。
スワミ・スリ・ユクテスワの『聖なる科学』によればこのオームが、時空間を発生させる母体となるがこれは全能のシャクティ(宇宙の創造力)の現われだ。
幾何学的宇宙原理において△や○がすべての形態を創造するのと同じだ。
一方はそれを音、又は言葉として表し、一方はそれを図形としてあらわしているが、僕はこれらは同一のことを言っているのではないかと思う。
というのは、波動も、言葉もまた図形も、すべて「かたち」であるし、音のほうがより精妙な形態だとは言えるが、音は即形態であり、形態は即音ではないだろうか??
AUM(ロゴス)も幾何学も、より精妙な創造の原理を指し示しているのだろう。
だからピタゴラスのように「宇宙は数字で出来ている」というのも、「宇宙は偉大な音楽である」と言うのも共に正しいではないかともう。
サラスバティーは、芸術の女神であり、また音楽と弁舌の女神であるとも言われるが、これは矛盾したことではないのだ。形態や色彩の美を表現する絵画も、空気を振動させる波動パターンを通じて自己を表現することも、また言葉を駆使することも、すべて「かたちの母」にソースを持っているからである。
人はおそらくもっとも原初の創造原理を、かたちの秘密を模索してきたのだろう。
それは女神の正体でもある。
神聖幾何学や、AUMと言えどもそれは創造されたものだ。つまり現象世界に属するもので、ケテル、空、ブラフマン、神自体ではない。
女神はこの、絶対者の世界と、マーヤ(現象世界)の境界線上にいて謎めいた笑みを浮かべている。彼女は人が超越へと至る門である。


『聖なる科学』中の図象 サット(真の実在)より以下はマーヤの世界が始まる。根源的女神は、その下のチット(全知の愛・神への牽引力)、アーナンダ(無限のマーヤ創造力、神から遠ざかる力)の合一したものであると思われる。女神の力は神への引力であり、反力でもある。これがすごいところ??かも。
プラクリティ(神の性質)
現象世界を構成する全能の創造力(シャクティ・無限の姿形をとって万物を構成しているエネルギーの本源。その本質は喜びで、永遠の至福アーナンダとも呼ばれる)と、その世界をあまねく意識している全知の知性(チット・あらゆる知識・感情など心理機能の本源。これはまた愛であり、普遍の愛、全知の愛とも呼ばれる)とは父なる神のプラクリティ(創造活動・・・自己表現活動・・を演出する潜在的実態)を構成する。
『聖なる科学』本文より
タントラなどの伝統的な考え方に従えば、この現象世界に存在するものはすべて女神の手の内にあるということになる。
最高に女性的な女性もそうだし、ほとんど極端なほど男性的な男性もそうだ。
それはこの肉体という鋳型が、そもそも女性性の顕現だからだ。
男性も胎児期の始めは女性なのだが、遺伝子の働きによって徐々に男性化されていく。
ペニスは、発達したクリトリスだ。
性同一障害などで悩む男性はあきらかに脳の構造が通常の男性と違う(女性脳である)と言われるがこれは胎児期になんらかの理由で十分な脳の男性化が進まなかった為だと聴く。
この生物学的な性の発現過程は、アダムの肋骨からイブが創られたという創世記の神話とは真逆である。
波動と「かたち」
前回までかたちの根源は女性性であると書いたが、「かたち」は目に見える物質的なものだけであるとは限らない。それどころか目に見える形態はおそらく「かたち」の世界のごく一部でしかないだろう。
例えば神秘主義や、ニューエイジャーの語るところによれば、宇宙は「波動」によって成り立っており、この物質世界はもっとも波動の振動数が遅い世界であると言う。振動数が遅いと言うのは同時間内につくられる波形がより短くゆったりしており、振動数が速くなると同時間内により多くの波形が作られる。一例↓

振動数が速いというと、普通は騒がしい・あわただしいという印象を受けたりするが、ここで言う「振動数が速い世界」というのはより精妙であるということだ。
例えば、植物は鉱物よりも振動数が速く、動物は植物より振動数が速いというのはまあ伝統的な考え方と言っていいだろうと思う。そして人間の意識内の現象のほうがより振動数が早い。
しかし「より精妙である」ということは、通常認識されないということでもある。目に見えるものだけを実在と考えるパラダイムにおいては振動数が高い領域はすべて、非実在として切り捨てられる。これでは僕らは振動数の低い領域にのみ住むことになってしまう。
例えば「気」(エーテル)の世界は、通常の肉体よりも振動数が速い。だがら認識できない人も居る。しかし多分2,3時間(いやそんないらないか・・・)気功的な修練を遊び感覚でやれば大半の人はその世界を肉体感覚で実感できるのではないかと思う。そんな大それたことではないと思うのだが、このレベルの世界をあるとかないとか言って超常現象番組では大騒ぎしていたりもするので面白い。(ただし気をコントロールするとか、動物を眠らせるとかいうことは練習しないと出来ない。もちろん僕は出来ないw)
同じように、オーラ(感情体アストラルの次元)とか霊界とかいうのも振動数が違うだけで、この世界に幾重にも重なって存在しているだろう。
さて、この目に見えないが存在している、かたち・波動の世界!というのは実は誰もが認識できるものとして存在してもいる。それは音楽だ。様々なジャンルの音楽は、すべて目には見えないがクラシックならクラシック、ロックならロック、演歌なら演歌としてそれぞれの「かたち」を備えている。これを否定する人は、まあいないだろう。
音楽とは、還元するなら楽器によって生み出される、空気の振動、つまり「波動」の無限の組み合わせパターンだ。それを人は耳から聴く事によってそれ特有のパターン・かたちの美を認識している。音楽は誰もが認識できる「見えないかたち」だと言える。
精妙な音楽は、やはり精妙な振動領域の世界と僕らをつなぐ。
そして粗雑な音は粗雑な振動を発生させ、こころに同じような影響を与える。
波動とはその振動を伝える媒体上に描かれたパターン(かたち)だ。音楽であればその媒体は大気だし、波なら、海の水だ。
昔、物理学では「光」も波動であると考えられ、その波動の伝導媒体として真空中に「エーテル」と呼ばれるものが充満していると考えられた。波動は伝導媒体なしでは伝わらないからだ。
しかし現在では、光は粒子と波動、双方の性質を持つパラドキシカルなものとして認識されているようである。
それはさて置き、この『波動』というものが、空気や水のないところでも存在し、宇宙を構成しているというのが神秘主義的な考え方と言ってもいい。神秘主義的見方をする人にとっては、この物質世界も波動宇宙の一側面として理解される
ではこの波動、「見えないかたち」の根源とはなんであろうかと考えると、頭に「ロゴス」と言う言葉が浮かぶ。というか「ロゴス」は言葉と言う意味合いだ。
聖書曰く、「はじめに言葉ありき」の言葉である。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
すべてのものはこれによって出来た。
出来たものうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
言葉は肉となり、わたしたちの内に宿った」
ヨハネの福音書
ヒンズーの概念で言うなら、これに該当するのは3つの聖音AUMだろう。
普通はこの三音は創造者ブラフマン、破壊者シバ、保持者ビシュヌと考えられるが、
一説によると、Aは天を Mは地を Uはそのつなぎをあらわしてるとも言う。
スワミ・スリ・ユクテスワの『聖なる科学』によればこのオームが、時空間を発生させる母体となるがこれは全能のシャクティ(宇宙の創造力)の現われだ。
幾何学的宇宙原理において△や○がすべての形態を創造するのと同じだ。
一方はそれを音、又は言葉として表し、一方はそれを図形としてあらわしているが、僕はこれらは同一のことを言っているのではないかと思う。
というのは、波動も、言葉もまた図形も、すべて「かたち」であるし、音のほうがより精妙な形態だとは言えるが、音は即形態であり、形態は即音ではないだろうか??
AUM(ロゴス)も幾何学も、より精妙な創造の原理を指し示しているのだろう。
だからピタゴラスのように「宇宙は数字で出来ている」というのも、「宇宙は偉大な音楽である」と言うのも共に正しいではないかともう。
サラスバティーは、芸術の女神であり、また音楽と弁舌の女神であるとも言われるが、これは矛盾したことではないのだ。形態や色彩の美を表現する絵画も、空気を振動させる波動パターンを通じて自己を表現することも、また言葉を駆使することも、すべて「かたちの母」にソースを持っているからである。
人はおそらくもっとも原初の創造原理を、かたちの秘密を模索してきたのだろう。
それは女神の正体でもある。
神聖幾何学や、AUMと言えどもそれは創造されたものだ。つまり現象世界に属するもので、ケテル、空、ブラフマン、神自体ではない。
女神はこの、絶対者の世界と、マーヤ(現象世界)の境界線上にいて謎めいた笑みを浮かべている。彼女は人が超越へと至る門である。


『聖なる科学』中の図象 サット(真の実在)より以下はマーヤの世界が始まる。根源的女神は、その下のチット(全知の愛・神への牽引力)、アーナンダ(無限のマーヤ創造力、神から遠ざかる力)の合一したものであると思われる。女神の力は神への引力であり、反力でもある。これがすごいところ??かも。
プラクリティ(神の性質)
現象世界を構成する全能の創造力(シャクティ・無限の姿形をとって万物を構成しているエネルギーの本源。その本質は喜びで、永遠の至福アーナンダとも呼ばれる)と、その世界をあまねく意識している全知の知性(チット・あらゆる知識・感情など心理機能の本源。これはまた愛であり、普遍の愛、全知の愛とも呼ばれる)とは父なる神のプラクリティ(創造活動・・・自己表現活動・・を演出する潜在的実態)を構成する。
『聖なる科学』本文より
2009.
01.
23
女神と、三角形、カバラ、多重ピラミッドの世界

上は去年の11月の記事で書いた、全国の弁財天で見られる紋だ。
中央には下向きの三角形が配置されている。
三角形と女神は根本的なところで結びついているように思えてならない。

上は有名なカバラの生命の樹と呼ばれる図象で、一者から流出した力がどのような経路を辿って現象世界を成立させているかを示したものだと言われている。
ここでは、樹の上部の三つの円形(セフィラー)が形成する三角形に注目する。
これはカバラでは「至高の三角形」と言われ、一番上のケテル、その右下のコクマー、左下のビナーによって構成されている。
ケテルは神、空、ブラフマン、太極であり、ケテルが現象世界を創造するために相対化してできたのが、コクマー(原初の男性原理・陽)とビナー(原初の女性原理・陰)だ。
「至高の三角形」はケテルから、コクマーとビナーが流出し、最初の力の均衡がとられた状態を示している。女性原理であるビナーが現れたことで、最初の三角形が現れるのだ。
僕はなんとなく、一番根本的な「かたち」というのは○ではないかと思っていたが、実は△が○のベースに存在しているのかもしれない。
「ケテル」は ・ (点)だ。それは形を持ってはいない。そこにもうひとつの ・ であるコクマーが出現すると ・ と ・ は結びついて _ (線)になる。これが「シバリンガ」かもしれない。それはいまだ形には拘束されていないケテルからの純粋なエネルギーでもある。
そして、さらにもうひとつの ・ であるビナーが現れたときに初めて、三点を結ぶことで図形が、つまり世界内世界が誕生する。一個でも二個でもない、点が三個あって初めて最初の世界が描かれるのだ。このような意味で、三角形は一番原初の「かたち」を象徴しているのだろうか。
○はこの△の回転作用によって生まれる。それは、卍でもある。
女性性の特徴であるところの○や、螺旋は、「運動体」なのだ。
何かが高速で運動することによって、別の形態を産み出している。
これには最初のマーヤ、現象世界のイリュージョン性が垣間見える。
回転運動をするにはその「軸」が必要だが、それが△ではないのだろうか。
このことはメルキゼデクの「フラワーオブライフ」にも書かれている。
ただし、「フラワーオブライフ」では、ピラミッドがふたつくっついた正八面体(黄金太陽)が回転して球体が出来たことになっている・・が、ここでは△と○として単純化して平面的に解釈してみた。
なお二次元的図形に必要なのは、3つの点だが、3次元的立体では最低4つの点が必要となり、ここで出来上がるのは、正四面体だ。これはプラトンの神聖幾何学では「火」のエレメントをあらわすものである。
△が立体化した黄金太陽には、回転軸はふたつ存在する。
最初のかたち△は、また陰陽両極に分割するからだ。
かたち自体が陰性のあらわれなのだが、その中でまた極性が生まれる。
陽性を帯びた+極△と、
陰性を帯びた-極▼だ。
黄金太陽の上部は火であり、下部は水で、それぞれ逆方向に回転しているとされている。

下向きの三角形は、ちょうど「水」をあらわしているなら、これはぴったり弁財天の象徴と一致する。
ここまでは、まあそれほどトチ狂ったことは言っていないと自分で思う
さて三角形の組み合わせてメジャーなのは、

この六ぼう星だろう。しかし、なぜか僕は去年から、この下向き三角と上向き三角がいまだ合体せず、つのつき合わせているような位置関係の図が気になって仕方なく、一体それが何を意味するのか時々暇に任せて考えていた。それは、フィリス・アトウォータが臨死体験中に見たような以下のような砂時計型形状をしている。

これはふたつのサイクロンで、それぞれが逆回りに回転しており、その結合部分からは莫大なエネルギーが放出されていたということだった。回転していたということで、これは「運動体」であることがわかる。では果たしてその「軸」はなんであったのか?
彼女はかなり根本的な元型世界を目撃したと思うのだが、それではここでは回転しているのは「黄金太陽」なのだろうか?しかし彼女が目撃しているのは、黄金太陽の下部と上部であり、この位置関係だとふたつの黄金太陽が存在することになってしまう。黄金太陽とは複数連結しているものなのか?そのつなぎ目にあるのがこの世界なのだろうか??
このことを考えている時、たまたま本屋(中野の古書大予言w)で手に取った本にこのことのヒントとなるような文章が書かれていた。それは「発光するアトランティス」という本だったが、以下その箇所を引用する。これはピラミッドの形状に関するものだ。
『 ・・・以上のことを整理すると、カフラー王のピラミッドには実は目に見えない力線が隠されているのである。まず地下には残り半分の逆ピラミッドが想定される。形は常に完成に向かっているものであることは鉱物の結晶を見ても判るであろう。ピラミッドの場合は正八面体として(黄金太陽だ はいたか注)完成しようとする力が働いている。それが地下に隠されている。
・・・いずれにしてもこの目に見えない天空への四本の稜線は、実はピラミッド自体の稜線をそのまま天空に延長したものと同じなのである。ということは、ピラミッドの頂上に逆立ちしたもうひとつのピラミッドが乗っていることになる。即ちピラミッドの頂上に水面があるとしたら、水に映った目に見えないピラミッドの映像が現実のピラミッドということになる。これは無限に繰り返して天空に上昇しているのがいわゆるピラミッドパワーなのであろう。勿論地下に対しても無限に同様のことが繰り返され、地球の中心に向かっていく。
天上と地下に向かって無限に上昇下降していく目に見えないピラミッドの正・倒立像即ち八面体の連なりは、不思議な宇宙的エネルギーとして古来から宗教家によって感得されてきたのも、「形は完成に向かって運動する」という結晶原理を示しているに違いない。従ってピラミッドパワーとはピラミッドが正八面体として完成しようとする結晶化エネルギーであると言っていいのではないか。』
渡辺豊和 『発光するアトランティス』 より
僕はこれを読んで、天空と地下への正八面体の無数の連なりというビジョンを、同じように想像した人がいたので驚いた。
フィリス・アトウォータのビジョンについてはこのことと関係があるのかは、わからない。
だが僕にとっては、このふたつの三角形の位置関係の意味が少しはっきりしたような気がしたので、それでひとまず落ち着いた。
「かたちは完成に向かう」
原初の女神の中には恐るべき美のプログラムが秘められている。
この森羅万象全ては最初の△にその形態の可能性を全て秘めていたのだろう。
おそらく、△とはもっとも原初的マトリクスの象徴なのだ。
だから女神のシンボルとなり得る。
そしてその△を雛形として無数の世界が構成されるなら、これはものすごい。
そう言えば~今日は1月23日
奇しくも、1・2・3 三角形が完成した日(火)である。なんつって。

上は去年の11月の記事で書いた、全国の弁財天で見られる紋だ。
中央には下向きの三角形が配置されている。
三角形と女神は根本的なところで結びついているように思えてならない。

上は有名なカバラの生命の樹と呼ばれる図象で、一者から流出した力がどのような経路を辿って現象世界を成立させているかを示したものだと言われている。
ここでは、樹の上部の三つの円形(セフィラー)が形成する三角形に注目する。
これはカバラでは「至高の三角形」と言われ、一番上のケテル、その右下のコクマー、左下のビナーによって構成されている。
ケテルは神、空、ブラフマン、太極であり、ケテルが現象世界を創造するために相対化してできたのが、コクマー(原初の男性原理・陽)とビナー(原初の女性原理・陰)だ。
「至高の三角形」はケテルから、コクマーとビナーが流出し、最初の力の均衡がとられた状態を示している。女性原理であるビナーが現れたことで、最初の三角形が現れるのだ。
僕はなんとなく、一番根本的な「かたち」というのは○ではないかと思っていたが、実は△が○のベースに存在しているのかもしれない。
「ケテル」は ・ (点)だ。それは形を持ってはいない。そこにもうひとつの ・ であるコクマーが出現すると ・ と ・ は結びついて _ (線)になる。これが「シバリンガ」かもしれない。それはいまだ形には拘束されていないケテルからの純粋なエネルギーでもある。
そして、さらにもうひとつの ・ であるビナーが現れたときに初めて、三点を結ぶことで図形が、つまり世界内世界が誕生する。一個でも二個でもない、点が三個あって初めて最初の世界が描かれるのだ。このような意味で、三角形は一番原初の「かたち」を象徴しているのだろうか。
○はこの△の回転作用によって生まれる。それは、卍でもある。
女性性の特徴であるところの○や、螺旋は、「運動体」なのだ。
何かが高速で運動することによって、別の形態を産み出している。
これには最初のマーヤ、現象世界のイリュージョン性が垣間見える。
回転運動をするにはその「軸」が必要だが、それが△ではないのだろうか。
このことはメルキゼデクの「フラワーオブライフ」にも書かれている。
ただし、「フラワーオブライフ」では、ピラミッドがふたつくっついた正八面体(黄金太陽)が回転して球体が出来たことになっている・・が、ここでは△と○として単純化して平面的に解釈してみた。
なお二次元的図形に必要なのは、3つの点だが、3次元的立体では最低4つの点が必要となり、ここで出来上がるのは、正四面体だ。これはプラトンの神聖幾何学では「火」のエレメントをあらわすものである。
△が立体化した黄金太陽には、回転軸はふたつ存在する。
最初のかたち△は、また陰陽両極に分割するからだ。
かたち自体が陰性のあらわれなのだが、その中でまた極性が生まれる。
陽性を帯びた+極△と、
陰性を帯びた-極▼だ。
黄金太陽の上部は火であり、下部は水で、それぞれ逆方向に回転しているとされている。

下向きの三角形は、ちょうど「水」をあらわしているなら、これはぴったり弁財天の象徴と一致する。
ここまでは、まあそれほどトチ狂ったことは言っていないと自分で思う

さて三角形の組み合わせてメジャーなのは、

この六ぼう星だろう。しかし、なぜか僕は去年から、この下向き三角と上向き三角がいまだ合体せず、つのつき合わせているような位置関係の図が気になって仕方なく、一体それが何を意味するのか時々暇に任せて考えていた。それは、フィリス・アトウォータが臨死体験中に見たような以下のような砂時計型形状をしている。

これはふたつのサイクロンで、それぞれが逆回りに回転しており、その結合部分からは莫大なエネルギーが放出されていたということだった。回転していたということで、これは「運動体」であることがわかる。では果たしてその「軸」はなんであったのか?
彼女はかなり根本的な元型世界を目撃したと思うのだが、それではここでは回転しているのは「黄金太陽」なのだろうか?しかし彼女が目撃しているのは、黄金太陽の下部と上部であり、この位置関係だとふたつの黄金太陽が存在することになってしまう。黄金太陽とは複数連結しているものなのか?そのつなぎ目にあるのがこの世界なのだろうか??
このことを考えている時、たまたま本屋(中野の古書大予言w)で手に取った本にこのことのヒントとなるような文章が書かれていた。それは「発光するアトランティス」という本だったが、以下その箇所を引用する。これはピラミッドの形状に関するものだ。
『 ・・・以上のことを整理すると、カフラー王のピラミッドには実は目に見えない力線が隠されているのである。まず地下には残り半分の逆ピラミッドが想定される。形は常に完成に向かっているものであることは鉱物の結晶を見ても判るであろう。ピラミッドの場合は正八面体として(黄金太陽だ はいたか注)完成しようとする力が働いている。それが地下に隠されている。
・・・いずれにしてもこの目に見えない天空への四本の稜線は、実はピラミッド自体の稜線をそのまま天空に延長したものと同じなのである。ということは、ピラミッドの頂上に逆立ちしたもうひとつのピラミッドが乗っていることになる。即ちピラミッドの頂上に水面があるとしたら、水に映った目に見えないピラミッドの映像が現実のピラミッドということになる。これは無限に繰り返して天空に上昇しているのがいわゆるピラミッドパワーなのであろう。勿論地下に対しても無限に同様のことが繰り返され、地球の中心に向かっていく。
天上と地下に向かって無限に上昇下降していく目に見えないピラミッドの正・倒立像即ち八面体の連なりは、不思議な宇宙的エネルギーとして古来から宗教家によって感得されてきたのも、「形は完成に向かって運動する」という結晶原理を示しているに違いない。従ってピラミッドパワーとはピラミッドが正八面体として完成しようとする結晶化エネルギーであると言っていいのではないか。』
渡辺豊和 『発光するアトランティス』 より
僕はこれを読んで、天空と地下への正八面体の無数の連なりというビジョンを、同じように想像した人がいたので驚いた。
フィリス・アトウォータのビジョンについてはこのことと関係があるのかは、わからない。
だが僕にとっては、このふたつの三角形の位置関係の意味が少しはっきりしたような気がしたので、それでひとまず落ち着いた。
「かたちは完成に向かう」
原初の女神の中には恐るべき美のプログラムが秘められている。
この森羅万象全ては最初の△にその形態の可能性を全て秘めていたのだろう。
おそらく、△とはもっとも原初的マトリクスの象徴なのだ。
だから女神のシンボルとなり得る。
そしてその△を雛形として無数の世界が構成されるなら、これはものすごい。
そう言えば~今日は1月23日
奇しくも、1・2・3 三角形が完成した日(火)である。なんつって。
2009.
01.
19
ユング心理学で言うところのアニマ(男性の中の女性元型、永遠の恋人)と、グレートマザー(太母)はお互いにそのイメージを共有しあっている。
つまり、アニマの中にもマザーのイメージが在り、マザーの中にもアニマのイメージが在る。
ヘッセの「デミアン」の中に登場するエヴァ婦人は、主人公の憧れの女性だが、恋人のようでいてまた母のような面影を宿しており、その雰囲気はすべての人類の「母」のようである。
エヴァ夫人はアニマとマザーを融合させたような、永遠の女性、女性性の純粋な具現化のような存在だ。
原初のアニマにおいては女性性とは、ただどこか魔的なエロスに過ぎない。
豊満な肉体や、性的に貪欲かつ無節操な女性イメージとして現れることもある。
男性的な直線的性欲がそれを射止めるための「射的」でしかない。肉体的に魅力的であればそれだけ、弓はつよく引かれ、それを射止めるための集中力が凝縮される。週刊誌のグラビアやアダルトビデオに登場する女性などは、アニマのこの側面のみを主に強調したものだ。女性の性的な魅力のみを強調するのは、真の女性性への冒涜である。それは女性性の原初的な一側面に過ぎない。(ただし性的な魅力を表現することは必ずしも悪いとは思わない。問題はそれが女性性の一部分にしか過ぎないのにそれが全てであるかのように考えることにある)
この領域では、女性は使い捨てにされる性の道具であり、男性性と女性性のコミュニオンは起こらない。女性性は傷つけられ、また男性性も暴力的な存在にただとどまらざるを得ない。
しかし次の段階において、アニマはやや精神的なものになる。
つまり「優しい女性、包容力のある女性イメージ」の登場だ。
肉体的なイメージもある程度はこのレベルの精神的なイメージとリンクはしている。
このレベルにおいて、いくらかアニマはマザーの性質を帯び始める。
グレートマザーは、人を生み、そして愛し、育む母の元型だ。
アニマの中に自分を受け止めてくれる受容性や、男性として成長させてくれる教育性(?)を見る時、アニマとマザーは融合し始める。
性的なアニマの持ち味は、その牽引力だ。
牽引力は女性性の主要な特性のひとつだ。
彼女は男性性を自らの中に牽引し、エネルギーを放出させる。
しかしその関係性は刹那的である。
男性の個性を受容し、理解するという性質がまだ現れていないからだ。
男性の視点からしても、そのアニマの存在理由はただ自らの欲望の放出でしかない。
しかし、アニマに他の女性性の特質・・・人格的な受容性や優しさ、理解力、智慧など・・・が現れてくるにつれて、アニマとの関係性は刹那的なものではなく、全人格的なコミュニケーションや精神的な意味に裏打ちされた長期的なものとなる可能性がある。牽引された男性性は、それのみで終わらずに、存在を抱擁されるのだ。「週刊誌のグラビア」は「ロマンチックラブ」の領域へと進む。この領域に至ってはじめて男性性は女性性によって変容し始めることが出来る。
つまりどのような内的異性を持っているかということは、どれくらい男性として成熟しているかという目安でもある。アニマは、自分自身なのだ。アニマが変容すれば、自己も変容し、自己が変容すればアニマも変容するのである。「女はヤルものだ。」と言う男性は彼自身の男性性のレベルについて告白していることになる。女性性の全体ではなく断片しか把握していない場合、やはり男性性も断片的となる。
同じように、女性自身が自分の女性性を肉体的な美や、性的な魅力にのみ限るなら彼女は自分自身のトータルな女性性と接触することは出来ない。そのことによって様々な問題が発生する。
彼女が自分をエロス的アニマと同一化すればそれだけ、幼稚で暴力的な未発達なアニムス(女性内男性イメージ)を同時に形成し、外的にもそのような異性と接触しやすいからだ。
現在の消費主義商業文化の中では、女性の肉体イメージは大きなマーケットになっているので、そのアニマの側面は男性にとっても女性にとっても必要以上に異様に大きなウェイトを占めている。
テレビをつけると化粧品や様々なCMが、あなたはもっときれいになれるはずだと訴えかける。
女性も「過度に」スタイルを気にし、雑誌のモデルのような体型になろうとしてダイエットに励む。そうしないと女性として価値がないと半ば思い込まされている。
彼女は、女性性の恵みである自己の肉体を半ば敵視し、思い通りに支配、改造しようという「男性的な」願望にとらわれる。
女性が美しくなるのは男性にとってもうれしいことだ。
しかしこの現象は、真の女性性をヴェールで隠し、アニマ・アニムスを未発達な段階に留める役割りもしているので、男性女性双方にとって不利益も大きい。
問題は女性性が商売の道具として、乱暴に扱われているということにある。
ある意味これはレイプだ。
女性性とは、単に人間的な特質を越えて拡がっているものだ。
『女神』とは女性や母性の神格化ではない。
そうではなく、人間の女性性や母性こそが『女神』の現われなのだ。
『女神』の性質は、生命を生かすもの、育てるものとして、自然界の森羅万象に浸透している。
例えば命のゆりかごである海洋として、ガイアとして、アマテラス・太陽として。
科学はそれらを女性的とはみなさないだろう。
しかし僕らのハートはそれらを女性だと感じている。
そのポイントを押さえなければ、僕らは女性性の全体像に達することは出来ないだろう。
つまりアニマは断片的であり続けることとなる。
アニマとは人間的心理学の枠を越えて存在する、宇宙的存在なのだ。
さらに発展したアニマは、もう女神のようなイメージになっている。
これが女性性の全体性だ。それはもうほとんど人とは呼べない。
先の段階では受容性というのは、いくらか消極的な女性的性質と混同されるようなところもあったが、このレベルではもはやアニマの放つ愛や、包容性は積極的な力として、人を霊的に目覚めさせはじめる。この女神的アニマの発揮するする牽引力は、生物的本能に従って男性のエネルギーを自らの個人的エゴや肉体に牽引するものではもうない。ここで現れる牽引力は、愛や存在の根源へと人を連れ戻す牽引力だ。女神はやはりエロス的アニマや、普通の女性のように人を自分へと引き付けるが、彼女はもう純粋な愛それ自体になっているのだ。女神的アニマの牽引力は神の『愛』の牽引力である。
性的な魅力や、心理学的なレベルの受容性はもはや二次的、三次的な価値になっている。
しかし、その内部にはそれらもすべて秘めている。
ここでは人を産み出した「マザー」と、そして人を成長、変容させる「アニマ」とが融合している。
それは母のようであり、また恋人のようである。
デミアンの「エヴァ夫人」の誕生だ。
ラーマクリシュナはすべての女性に、この至高のアニマ(マー)を投影して、彼女らに仕えよと説いた。
映画「マトリクス」でネオにメッセージを伝えるオラクル(預言者)もこのイメージに近い。
彼女の吸うタバコはまるで原初的魔的アニマの名残のようだ。
この智慧の女神の前では、男性性は子供になる。
和尚・ラジニーシは男性性は最後には子供になると言っていたと思うが、
それはただの無知な幼児ではない。
存在性にサレンダーした覚者の姿といってもいい。
女性性とはそのもっとも純粋な形においては、積極的な力なのだ。
女性性とはまた「世界内世界」、「形」の創出者でもある。
ロシアの名物人形マトリョーシカのように、この宇宙は、原初の女性性(エロス的アニマのことではない。女神の方)の内部に、いくつもの「マトリクス」を多重的に発生させていると言われる。
それは例えばこのようになっている。
僕らは母の子宮(これも世界内世界だ)に10ヶ月いた後に、この地球(これも宇宙の中の世界内世界、ガイア女神)に生まれるが、それ以前に『肉体』という世界内世界にも霊的に受肉している。
この肉体を通して魂は世界を経験し、この目で見、この耳で聴き、生存欲、性欲、食欲、自我欲などの衝動に支配されながらもこの人生が展開していくのだ。
このような意味で、『肉体』とは形態の中の形態、世界内世界、マトリクスの中のマトリクスである。
この肉体は、魂の教育者、意識の保育者であり、キリスト意識を宿しているという意味で「聖母マリア」であるとも言われる。それはまた原初の女性性(女神的アニマ)の現われだ。
このように僕らは、肉体、地球、太陽系、銀河、宇宙・・・というようにいくつもの世界内世界、宇宙内宇宙。マトリクスの中のマトリクスに生きている。より広く解釈するなら、国家や組織、会社、家庭、などというのも女性性の顕現であるところのマトリクスであり、小さな宇宙だ。
しかし世界、マトリクスに生きるということはある「苦痛」や、「幽閉の感覚」を可能性として潜在させている。それは、ある閉ざされた宇宙にいる時、その宇宙が恐ろしい場所、望まない場所、苦痛に満ちた場所になるという可能性が常にあるからだ。
健康な人なら、病気になる可能性(肉体マトリクス内存在の苦・不安)、平和な国なら戦争になる可能性(国家マトリクス内存在の苦・不安)、居心地のいい会社ならそれが感じの悪い雰囲気になる可能性(会社マトリクス内存在の苦・不安)などがある。
つまりひとつの世界内世界に生きるということは、そこからいつでも脱出できるという保証がない限り、潜在的に恐怖を宿しているということになるのだ。これが女性性に潜在する「苦」だ。スタニスラフ・グロフはホロトロピックセラピーで、このような幽閉感覚を出産時の残存記憶BPMとしているが、おそらくもっと根源的なものではなかろうか。
ポジティブなグレートマザーは、その内部の生命を生成化育させるが、ネガティブなグレートマザーは生命をその腹の中に飲み込み、幽閉し、破壊する。
これが「形」がもつ潜在的なふたつの可能性だ。
アニマのレベルとはまた別の話で、原初の女神という元型が持つふたつの性質だ。
正のマザーは、慈愛溢れるマリア、パールバティであるが、負のマザーは血にまみれ、干し首の首飾りをして踊り狂うカーリである。
ポジティブな女性性はわが子を愛し、優しく、時には厳しく育む母(または家庭)である。ネガティブな女性性は、わが子をスポイルし、大きなトラウマを与える母(または家庭)である。
ポジティブな女性性は、国民が安心して、自由に暮らせる国家や共同体である。ネガティブな女性性は国民を粛清する自由の全くない独裁国家である。
部屋で言うなら
ポジティブな女性性は、こころやすらげる自分の部屋だ。
ネガティブな女性性は、出て行きたくても出て行けない、寒くて不潔な監獄だ。
関係性で言うなら
ポジティブな女性性は思いやりに溢れて、自由を尊重し、お互いを気遣い受け入れあう関係だ。
ネガティブな女性性は、支配服従の関係や、過度に束縛しあう関係、お互いのためにならないとわかっていても離れたくても離れられないDV、共依存カップルなどだ。(もっとも関係性は多くの場合どちらの側面ももっている)
ユダヤ神秘主義のカバラでも、ビナーというセフィロトは形態の母なのであるが、アマ(暗く不毛なる母)と、アイマ(明るく豊穣なる母)という異なった二つの別名も持っている。それは「大いなる海」とも呼ばれる。また興味深いことに、ビナーが与える霊的体験は「悲嘆の霊視」と言われる。
これは「悲しみ」というものが、形態や、世界内世界存在となることに潜在していると考えるなら、とても理にかなっている。形態があるからこそ、破壊という苦がある。
しかし同時に破壊というのは実は、秩序のカオス化を意味し、より根源的な母体への回帰でもある。
エネルギーが、かたちから解放されるには、破壊と変容の二通りの道がある。
それは「自殺」と、「死ぬ気になって生きる」の違いのようなものかもしれない。
『 「ビナー」、「大いなる母」が時として、「マラー」、「大いなる海」とも呼ばれる。もちろんそれは「あらゆる生き物の母」である。彼女は生命が顕現世界に至る時にくぐりぬける元型的子宮である。生命にある器を与えるために形を付与するものは、すべて彼女に属する。
しかし覚えておかなければならないのは、形の中に閉じ込められた生命は、それによって組織化され発展することは出来るけれども、それ自身の次元にあって、無制約(同時に未組織)であった時よりも、ずっと自由を失うということである。形の中に閉じ込められることは、それゆえ死の始まりである。形は制約し、限定する。拘束し抑制する形は、生命を阻止し妨害する。だが生命を有機的に働かせることができる。自由に動く力の観点から見れば、形の中に監禁されることは消滅である。形は力に無慈悲なる教訓を与えるのである。』
ダイアン・フォーチュン著 「神秘のカバラー」より
またインドのタントリックな考え方では、この現象世界は太母(マハー・マーヤ)やによって産み出された幻影(マーヤ)だが、その中で生きる人間が真理(プルシャ・真我)に気付くことなく、迷妄にとらわれているのは、母なる神が人をマーヤにかけているためだと言う。
女性性は幾重にも世界内世界に僕らを閉じ込め、またその中で生かす。
しかし、ゲーテのライフワーク『ファウスト』の最後の言葉はなんだっただろうか?
それは「永遠の女性がわれわれを上昇させる」というものだ。
永遠の女性とは、霊化されたアニマ、マザーとアニマの結合したエヴァ夫人、あるいは女神である。
この永遠の女性は、僕らをあらゆる束縛から解放させる力なのだ。
神の愛の牽引力であり、
自由を与える力だ。
しかし、自由とは何か?
自由とはマトリクスからの、いくつもの世界内世界、あるいは信念内信念からの自由である。
ということは永遠の女性、至高の女神、純粋な女性性、神の愛の牽引力とは、
???僕らを女性性から開放するのである???
???しかしマトリクスとは女性性から生まれたのだ???
???自分で閉じ込めて、また解放するのか???
おそらくこれが女神の持つ最大の二面性であり、謎であり、その神秘的な微笑の魅力ではないだろうか。女神の手のひらの上で、僕らは愛の音楽によって踊らされているのである。ここに至っては、暗い母と明るい母、パールバティとカーリ、「愛し育むもの」と、「閉じ込め壊す」ものはひとつになり、ただひとつの女性性しかなくなっているだろう。
愛とはまったく正反対のものをも包み込む。それほどまでに女神の僕らへの愛は、深いようだ。
ルドン作 ベアトリーチェ
ウィリアム・ブレイク作 三匹の獣から逃げるダンテ
恐ろしい獣に追われていると、天上からいとしい恋人が救いの女神として・・・
しかし、実はベアトリーチェと獣がつるんでるんだからたまらない・・・。ダンテもお手上げ
つまり、アニマの中にもマザーのイメージが在り、マザーの中にもアニマのイメージが在る。
ヘッセの「デミアン」の中に登場するエヴァ婦人は、主人公の憧れの女性だが、恋人のようでいてまた母のような面影を宿しており、その雰囲気はすべての人類の「母」のようである。
エヴァ夫人はアニマとマザーを融合させたような、永遠の女性、女性性の純粋な具現化のような存在だ。
原初のアニマにおいては女性性とは、ただどこか魔的なエロスに過ぎない。
豊満な肉体や、性的に貪欲かつ無節操な女性イメージとして現れることもある。
男性的な直線的性欲がそれを射止めるための「射的」でしかない。肉体的に魅力的であればそれだけ、弓はつよく引かれ、それを射止めるための集中力が凝縮される。週刊誌のグラビアやアダルトビデオに登場する女性などは、アニマのこの側面のみを主に強調したものだ。女性の性的な魅力のみを強調するのは、真の女性性への冒涜である。それは女性性の原初的な一側面に過ぎない。(ただし性的な魅力を表現することは必ずしも悪いとは思わない。問題はそれが女性性の一部分にしか過ぎないのにそれが全てであるかのように考えることにある)
この領域では、女性は使い捨てにされる性の道具であり、男性性と女性性のコミュニオンは起こらない。女性性は傷つけられ、また男性性も暴力的な存在にただとどまらざるを得ない。
しかし次の段階において、アニマはやや精神的なものになる。
つまり「優しい女性、包容力のある女性イメージ」の登場だ。
肉体的なイメージもある程度はこのレベルの精神的なイメージとリンクはしている。
このレベルにおいて、いくらかアニマはマザーの性質を帯び始める。
グレートマザーは、人を生み、そして愛し、育む母の元型だ。
アニマの中に自分を受け止めてくれる受容性や、男性として成長させてくれる教育性(?)を見る時、アニマとマザーは融合し始める。
性的なアニマの持ち味は、その牽引力だ。
牽引力は女性性の主要な特性のひとつだ。
彼女は男性性を自らの中に牽引し、エネルギーを放出させる。
しかしその関係性は刹那的である。
男性の個性を受容し、理解するという性質がまだ現れていないからだ。
男性の視点からしても、そのアニマの存在理由はただ自らの欲望の放出でしかない。
しかし、アニマに他の女性性の特質・・・人格的な受容性や優しさ、理解力、智慧など・・・が現れてくるにつれて、アニマとの関係性は刹那的なものではなく、全人格的なコミュニケーションや精神的な意味に裏打ちされた長期的なものとなる可能性がある。牽引された男性性は、それのみで終わらずに、存在を抱擁されるのだ。「週刊誌のグラビア」は「ロマンチックラブ」の領域へと進む。この領域に至ってはじめて男性性は女性性によって変容し始めることが出来る。
つまりどのような内的異性を持っているかということは、どれくらい男性として成熟しているかという目安でもある。アニマは、自分自身なのだ。アニマが変容すれば、自己も変容し、自己が変容すればアニマも変容するのである。「女はヤルものだ。」と言う男性は彼自身の男性性のレベルについて告白していることになる。女性性の全体ではなく断片しか把握していない場合、やはり男性性も断片的となる。
同じように、女性自身が自分の女性性を肉体的な美や、性的な魅力にのみ限るなら彼女は自分自身のトータルな女性性と接触することは出来ない。そのことによって様々な問題が発生する。
彼女が自分をエロス的アニマと同一化すればそれだけ、幼稚で暴力的な未発達なアニムス(女性内男性イメージ)を同時に形成し、外的にもそのような異性と接触しやすいからだ。
現在の消費主義商業文化の中では、女性の肉体イメージは大きなマーケットになっているので、そのアニマの側面は男性にとっても女性にとっても必要以上に異様に大きなウェイトを占めている。
テレビをつけると化粧品や様々なCMが、あなたはもっときれいになれるはずだと訴えかける。
女性も「過度に」スタイルを気にし、雑誌のモデルのような体型になろうとしてダイエットに励む。そうしないと女性として価値がないと半ば思い込まされている。
彼女は、女性性の恵みである自己の肉体を半ば敵視し、思い通りに支配、改造しようという「男性的な」願望にとらわれる。
女性が美しくなるのは男性にとってもうれしいことだ。
しかしこの現象は、真の女性性をヴェールで隠し、アニマ・アニムスを未発達な段階に留める役割りもしているので、男性女性双方にとって不利益も大きい。
問題は女性性が商売の道具として、乱暴に扱われているということにある。
ある意味これはレイプだ。
女性性とは、単に人間的な特質を越えて拡がっているものだ。
『女神』とは女性や母性の神格化ではない。
そうではなく、人間の女性性や母性こそが『女神』の現われなのだ。
『女神』の性質は、生命を生かすもの、育てるものとして、自然界の森羅万象に浸透している。
例えば命のゆりかごである海洋として、ガイアとして、アマテラス・太陽として。
科学はそれらを女性的とはみなさないだろう。
しかし僕らのハートはそれらを女性だと感じている。
そのポイントを押さえなければ、僕らは女性性の全体像に達することは出来ないだろう。
つまりアニマは断片的であり続けることとなる。
アニマとは人間的心理学の枠を越えて存在する、宇宙的存在なのだ。
さらに発展したアニマは、もう女神のようなイメージになっている。
これが女性性の全体性だ。それはもうほとんど人とは呼べない。
先の段階では受容性というのは、いくらか消極的な女性的性質と混同されるようなところもあったが、このレベルではもはやアニマの放つ愛や、包容性は積極的な力として、人を霊的に目覚めさせはじめる。この女神的アニマの発揮するする牽引力は、生物的本能に従って男性のエネルギーを自らの個人的エゴや肉体に牽引するものではもうない。ここで現れる牽引力は、愛や存在の根源へと人を連れ戻す牽引力だ。女神はやはりエロス的アニマや、普通の女性のように人を自分へと引き付けるが、彼女はもう純粋な愛それ自体になっているのだ。女神的アニマの牽引力は神の『愛』の牽引力である。
性的な魅力や、心理学的なレベルの受容性はもはや二次的、三次的な価値になっている。
しかし、その内部にはそれらもすべて秘めている。
ここでは人を産み出した「マザー」と、そして人を成長、変容させる「アニマ」とが融合している。
それは母のようであり、また恋人のようである。
デミアンの「エヴァ夫人」の誕生だ。
ラーマクリシュナはすべての女性に、この至高のアニマ(マー)を投影して、彼女らに仕えよと説いた。
映画「マトリクス」でネオにメッセージを伝えるオラクル(預言者)もこのイメージに近い。
彼女の吸うタバコはまるで原初的魔的アニマの名残のようだ。
この智慧の女神の前では、男性性は子供になる。
和尚・ラジニーシは男性性は最後には子供になると言っていたと思うが、
それはただの無知な幼児ではない。
存在性にサレンダーした覚者の姿といってもいい。
女性性とはそのもっとも純粋な形においては、積極的な力なのだ。
女性性とはまた「世界内世界」、「形」の創出者でもある。
ロシアの名物人形マトリョーシカのように、この宇宙は、原初の女性性(エロス的アニマのことではない。女神の方)の内部に、いくつもの「マトリクス」を多重的に発生させていると言われる。
それは例えばこのようになっている。
僕らは母の子宮(これも世界内世界だ)に10ヶ月いた後に、この地球(これも宇宙の中の世界内世界、ガイア女神)に生まれるが、それ以前に『肉体』という世界内世界にも霊的に受肉している。
この肉体を通して魂は世界を経験し、この目で見、この耳で聴き、生存欲、性欲、食欲、自我欲などの衝動に支配されながらもこの人生が展開していくのだ。
このような意味で、『肉体』とは形態の中の形態、世界内世界、マトリクスの中のマトリクスである。
この肉体は、魂の教育者、意識の保育者であり、キリスト意識を宿しているという意味で「聖母マリア」であるとも言われる。それはまた原初の女性性(女神的アニマ)の現われだ。
このように僕らは、肉体、地球、太陽系、銀河、宇宙・・・というようにいくつもの世界内世界、宇宙内宇宙。マトリクスの中のマトリクスに生きている。より広く解釈するなら、国家や組織、会社、家庭、などというのも女性性の顕現であるところのマトリクスであり、小さな宇宙だ。
しかし世界、マトリクスに生きるということはある「苦痛」や、「幽閉の感覚」を可能性として潜在させている。それは、ある閉ざされた宇宙にいる時、その宇宙が恐ろしい場所、望まない場所、苦痛に満ちた場所になるという可能性が常にあるからだ。
健康な人なら、病気になる可能性(肉体マトリクス内存在の苦・不安)、平和な国なら戦争になる可能性(国家マトリクス内存在の苦・不安)、居心地のいい会社ならそれが感じの悪い雰囲気になる可能性(会社マトリクス内存在の苦・不安)などがある。
つまりひとつの世界内世界に生きるということは、そこからいつでも脱出できるという保証がない限り、潜在的に恐怖を宿しているということになるのだ。これが女性性に潜在する「苦」だ。スタニスラフ・グロフはホロトロピックセラピーで、このような幽閉感覚を出産時の残存記憶BPMとしているが、おそらくもっと根源的なものではなかろうか。
ポジティブなグレートマザーは、その内部の生命を生成化育させるが、ネガティブなグレートマザーは生命をその腹の中に飲み込み、幽閉し、破壊する。
これが「形」がもつ潜在的なふたつの可能性だ。
アニマのレベルとはまた別の話で、原初の女神という元型が持つふたつの性質だ。
正のマザーは、慈愛溢れるマリア、パールバティであるが、負のマザーは血にまみれ、干し首の首飾りをして踊り狂うカーリである。
ポジティブな女性性はわが子を愛し、優しく、時には厳しく育む母(または家庭)である。ネガティブな女性性は、わが子をスポイルし、大きなトラウマを与える母(または家庭)である。
ポジティブな女性性は、国民が安心して、自由に暮らせる国家や共同体である。ネガティブな女性性は国民を粛清する自由の全くない独裁国家である。
部屋で言うなら
ポジティブな女性性は、こころやすらげる自分の部屋だ。
ネガティブな女性性は、出て行きたくても出て行けない、寒くて不潔な監獄だ。
関係性で言うなら
ポジティブな女性性は思いやりに溢れて、自由を尊重し、お互いを気遣い受け入れあう関係だ。
ネガティブな女性性は、支配服従の関係や、過度に束縛しあう関係、お互いのためにならないとわかっていても離れたくても離れられないDV、共依存カップルなどだ。(もっとも関係性は多くの場合どちらの側面ももっている)
ユダヤ神秘主義のカバラでも、ビナーというセフィロトは形態の母なのであるが、アマ(暗く不毛なる母)と、アイマ(明るく豊穣なる母)という異なった二つの別名も持っている。それは「大いなる海」とも呼ばれる。また興味深いことに、ビナーが与える霊的体験は「悲嘆の霊視」と言われる。
これは「悲しみ」というものが、形態や、世界内世界存在となることに潜在していると考えるなら、とても理にかなっている。形態があるからこそ、破壊という苦がある。
しかし同時に破壊というのは実は、秩序のカオス化を意味し、より根源的な母体への回帰でもある。
エネルギーが、かたちから解放されるには、破壊と変容の二通りの道がある。
それは「自殺」と、「死ぬ気になって生きる」の違いのようなものかもしれない。
『 「ビナー」、「大いなる母」が時として、「マラー」、「大いなる海」とも呼ばれる。もちろんそれは「あらゆる生き物の母」である。彼女は生命が顕現世界に至る時にくぐりぬける元型的子宮である。生命にある器を与えるために形を付与するものは、すべて彼女に属する。
しかし覚えておかなければならないのは、形の中に閉じ込められた生命は、それによって組織化され発展することは出来るけれども、それ自身の次元にあって、無制約(同時に未組織)であった時よりも、ずっと自由を失うということである。形の中に閉じ込められることは、それゆえ死の始まりである。形は制約し、限定する。拘束し抑制する形は、生命を阻止し妨害する。だが生命を有機的に働かせることができる。自由に動く力の観点から見れば、形の中に監禁されることは消滅である。形は力に無慈悲なる教訓を与えるのである。』
ダイアン・フォーチュン著 「神秘のカバラー」より
またインドのタントリックな考え方では、この現象世界は太母(マハー・マーヤ)やによって産み出された幻影(マーヤ)だが、その中で生きる人間が真理(プルシャ・真我)に気付くことなく、迷妄にとらわれているのは、母なる神が人をマーヤにかけているためだと言う。
女性性は幾重にも世界内世界に僕らを閉じ込め、またその中で生かす。
しかし、ゲーテのライフワーク『ファウスト』の最後の言葉はなんだっただろうか?
それは「永遠の女性がわれわれを上昇させる」というものだ。
永遠の女性とは、霊化されたアニマ、マザーとアニマの結合したエヴァ夫人、あるいは女神である。
この永遠の女性は、僕らをあらゆる束縛から解放させる力なのだ。
神の愛の牽引力であり、
自由を与える力だ。
しかし、自由とは何か?
自由とはマトリクスからの、いくつもの世界内世界、あるいは信念内信念からの自由である。
ということは永遠の女性、至高の女神、純粋な女性性、神の愛の牽引力とは、
???僕らを女性性から開放するのである???
???しかしマトリクスとは女性性から生まれたのだ???
???自分で閉じ込めて、また解放するのか???
おそらくこれが女神の持つ最大の二面性であり、謎であり、その神秘的な微笑の魅力ではないだろうか。女神の手のひらの上で、僕らは愛の音楽によって踊らされているのである。ここに至っては、暗い母と明るい母、パールバティとカーリ、「愛し育むもの」と、「閉じ込め壊す」ものはひとつになり、ただひとつの女性性しかなくなっているだろう。
愛とはまったく正反対のものをも包み込む。それほどまでに女神の僕らへの愛は、深いようだ。

ルドン作 ベアトリーチェ

ウィリアム・ブレイク作 三匹の獣から逃げるダンテ
恐ろしい獣に追われていると、天上からいとしい恋人が救いの女神として・・・
しかし、実はベアトリーチェと獣がつるんでるんだからたまらない・・・。ダンテもお手上げ