インナーチャイルドとの旅
http://www2.ocn.ne.jp/~hypno/index.htm
「宇宙の大地」
↑ここでヒプノセラピーを受ける。
テーマは「被害妄想的思考、人になんか変に思われてるという感覚」について。この夏はなぜかインナーチャイルドが呼んでいた。インナーチャイルドが傷ついている人に相談を受けることがあった。が、それはもしかすると僕自身のインナーチャイルドに注意を向けるためでもあったのかもしれない。
大きなリクライニングチェアーに座って、誘導を受けた。
そして、過去に遡り、なにか人から白い目で見られているような感覚の原因となるところに行った。
僕は頭では、トラウマ=幼児期という思い込みのためになんとなく4、5歳にかえらなければならないという風に決め込んでいたが、浮かんできたシーンはもっと成長した時のものだった。
そこは修学旅行で行った、岡山のある公園だった。
雨が降っている中に、僕は傘を差さずに立っていた。
クラスメートの一人が傘をさしかけてくれた。
なぜ雨の中で傘もささず立っていたかというと、その少し前にあるクラスメートの一人が僕の陰口を言っているのを聞いてしまったからだった。
僕は彼と仲がよいというわけではないし、特に好きでもなかったが、表向きは普通に遊んでいた。
しかしその言葉を聴いた瞬間、なにかが裂けた。
もしかするとそれは、人間に表と、裏があるという事実を知り、世界が表と裏に裂けた瞬間だったのかもしれない。
12歳くらいの自分にとって、誰も聞いていないところで悪口を言うということが本当に醜悪なことに思えた。しかも言われていたのは、僕だった。
そして、放心状態になって、雨の中に突っ立っていたのだった。
すると一人のクラスメートが僕に傘をさしかけてくれた。
彼はどちらかというと変わり者で、クラスでもそんなに人気のある方ではなかった。だから僕はどこかで救われたような気持ちを感じながらも、「なぜ僕のそばにいるのはこいつなんだろう」という気持ちも抱いていたような気がする。僕にも裏表はすでにあった・・・。
「では昔のあなたと話してみて、その子が何を考えているのか聴いてあげてください」という誘導。
「成長していくことが怖い、環境が変わっていくことが怖いみたいです。」
「では大人になったあなたが、その子にしてあげたいと思う事をしてあげましょう。」
この子に何が必要か考えると、もっと広い世界を見せてあげることが必要のように思えた。家や、学校以外に、もっと広い世界があることを教えてあげたかった。裸足で大地を歩く事、異国の街並み、遺跡、そして色んな人が色んな生き方で生きている世界を一緒に旅してあげたかった。
雨に濡れた修学旅行ではなく、本当に楽しい旅だ。
彼は異国の風景に息をのみ、はしゃいだ。
遺跡が描く光と影に畏怖の念を覚えた。
南国の島で、優しい瞳がいくつも彼を見つめていた。
旅をすると、その子供は少し生き生きとして、たくましくなったように思えた。
「今、その子供はどうしていますか?」
「前より生き生きとして・・・旅で得た思い出をノートに書き付けています。」
「彼がお礼にあなたにプレゼントしたいものがあるようです。それを受け取ってあげてください・・・」
僕がもらったのは、旅の思い出を書き付けたノートだった。
まだぼわーっとしている僕にヒプノセラピストの鈴木さんは言った。
「今日からやっていただきたいことがあります。もし今後、また人に変に思われてると感じた時は、インナーチャイルドからのメッセージだと思ってください。そして目をつぶってあの子を呼び出し、大丈夫だよって抱きしめてあげてください。3週間は、それを続けてみてください。」
僕としてはあの記憶が出てきた事がなにか意外だったが、見ない振りをして感情を封印している記憶だからこそ、潜在意識がサーチをかける時にひっかかるのだろう。そして、その時に、こころの一部の時が止まる。成長しない子供が生まれる。それをインナーチャイルドと呼ぶようである。
なので、何才になろうともインナーチャイルドは誰の中にも存在するのである。
僕は以前はよく色んなヒーリングを受けていたが、最近はある程度楽になったということもあり、そういうのからは遠ざかり、修道・・・というか自己を越えるということのみに意識を集中させるべきであると考えていた。
それ以外のすべてはマーヤになると・・・どこかでそう思っていた。
これは以前からのジレンマなのであるが、
自己を越えようとすることと、自己を癒そうとする事、このふたつをどう両立させるか、そもそも両立するものであるのかということをまた考えた。
まーそう固いことを言わなくても、いいんだろうか。
鈴木さんは前世はチベットとかネパールにいたらしく、チベット密教に詳しいらしい。I先生にも一度だけ会ったことがあるということだった。
「宇宙の大地」
↑ここでヒプノセラピーを受ける。
テーマは「被害妄想的思考、人になんか変に思われてるという感覚」について。この夏はなぜかインナーチャイルドが呼んでいた。インナーチャイルドが傷ついている人に相談を受けることがあった。が、それはもしかすると僕自身のインナーチャイルドに注意を向けるためでもあったのかもしれない。
大きなリクライニングチェアーに座って、誘導を受けた。
そして、過去に遡り、なにか人から白い目で見られているような感覚の原因となるところに行った。
僕は頭では、トラウマ=幼児期という思い込みのためになんとなく4、5歳にかえらなければならないという風に決め込んでいたが、浮かんできたシーンはもっと成長した時のものだった。
そこは修学旅行で行った、岡山のある公園だった。
雨が降っている中に、僕は傘を差さずに立っていた。
クラスメートの一人が傘をさしかけてくれた。
なぜ雨の中で傘もささず立っていたかというと、その少し前にあるクラスメートの一人が僕の陰口を言っているのを聞いてしまったからだった。
僕は彼と仲がよいというわけではないし、特に好きでもなかったが、表向きは普通に遊んでいた。
しかしその言葉を聴いた瞬間、なにかが裂けた。
もしかするとそれは、人間に表と、裏があるという事実を知り、世界が表と裏に裂けた瞬間だったのかもしれない。
12歳くらいの自分にとって、誰も聞いていないところで悪口を言うということが本当に醜悪なことに思えた。しかも言われていたのは、僕だった。
そして、放心状態になって、雨の中に突っ立っていたのだった。
すると一人のクラスメートが僕に傘をさしかけてくれた。
彼はどちらかというと変わり者で、クラスでもそんなに人気のある方ではなかった。だから僕はどこかで救われたような気持ちを感じながらも、「なぜ僕のそばにいるのはこいつなんだろう」という気持ちも抱いていたような気がする。僕にも裏表はすでにあった・・・。
「では昔のあなたと話してみて、その子が何を考えているのか聴いてあげてください」という誘導。
「成長していくことが怖い、環境が変わっていくことが怖いみたいです。」
「では大人になったあなたが、その子にしてあげたいと思う事をしてあげましょう。」
この子に何が必要か考えると、もっと広い世界を見せてあげることが必要のように思えた。家や、学校以外に、もっと広い世界があることを教えてあげたかった。裸足で大地を歩く事、異国の街並み、遺跡、そして色んな人が色んな生き方で生きている世界を一緒に旅してあげたかった。
雨に濡れた修学旅行ではなく、本当に楽しい旅だ。
彼は異国の風景に息をのみ、はしゃいだ。
遺跡が描く光と影に畏怖の念を覚えた。
南国の島で、優しい瞳がいくつも彼を見つめていた。
旅をすると、その子供は少し生き生きとして、たくましくなったように思えた。
「今、その子供はどうしていますか?」
「前より生き生きとして・・・旅で得た思い出をノートに書き付けています。」
「彼がお礼にあなたにプレゼントしたいものがあるようです。それを受け取ってあげてください・・・」
僕がもらったのは、旅の思い出を書き付けたノートだった。
まだぼわーっとしている僕にヒプノセラピストの鈴木さんは言った。
「今日からやっていただきたいことがあります。もし今後、また人に変に思われてると感じた時は、インナーチャイルドからのメッセージだと思ってください。そして目をつぶってあの子を呼び出し、大丈夫だよって抱きしめてあげてください。3週間は、それを続けてみてください。」
僕としてはあの記憶が出てきた事がなにか意外だったが、見ない振りをして感情を封印している記憶だからこそ、潜在意識がサーチをかける時にひっかかるのだろう。そして、その時に、こころの一部の時が止まる。成長しない子供が生まれる。それをインナーチャイルドと呼ぶようである。
なので、何才になろうともインナーチャイルドは誰の中にも存在するのである。
僕は以前はよく色んなヒーリングを受けていたが、最近はある程度楽になったということもあり、そういうのからは遠ざかり、修道・・・というか自己を越えるということのみに意識を集中させるべきであると考えていた。
それ以外のすべてはマーヤになると・・・どこかでそう思っていた。
これは以前からのジレンマなのであるが、
自己を越えようとすることと、自己を癒そうとする事、このふたつをどう両立させるか、そもそも両立するものであるのかということをまた考えた。
まーそう固いことを言わなくても、いいんだろうか。
鈴木さんは前世はチベットとかネパールにいたらしく、チベット密教に詳しいらしい。I先生にも一度だけ会ったことがあるということだった。
自己受容と許し
ダイジのテープのなかに初めて聞く言葉が出てきていた。
「垂直の悟り」と「水平の悟り」だ。
どうやらこれは「アメジストタブレットプロローグ」で解説されている、クンダリニーヨーガ的な悟りと、禅的な悟りのことらしい。
垂直に上昇し、霊界の中心太陽に還るのが「クンダリニー」、この世に生きつつすべてを受容するのが「禅」と、すごく簡単に言えばそういう感じになる。
「もし人類が滅びなければ、禅が最後の宗教になり、人類が滅びるとすれば、その直前にクンダリニーが栄えるだろう」という言葉も入っていた。
「水平の悟り」については、臨済録講義において語られている。
禅というものについては、僕はもちろん参禅なんてしたことはないし、頭の知識も乏しいのだが、自己受容ということに関しては自分の問題としても考える事が多かった。
ダイジのテープが来る前、自己受容ということに関して考え直させられることがあったのだが、この臨済録講義を聴いて、理解がひとつにまとまった。
以下の文章は主にふたつの書籍(エックハルト・トール「悟りを開けば人生はシンプルで楽になる」、タデウス・ゴラス「なまけもののさとり方」)と、実体験、それにダイジのテープに触発された考えです。
愛するということ、受け入れると言うこと、許すと言うこと、そして理解するということ、これらはすべてつながっている。
愛さなければ、理解する事なんて出来ない。
愛のない、理解のみによる理解などない。
愛がなければ理解もない。真の理解には常に愛がある。
人は自分が憎む相手を理解することは出来ない。
なぜなら、憎しみがその人物をありのままに見る事を妨げるからだ。
憎む相手について僕が知る事は、僕自身の憎しみだけだ。
それ以外の相手の素晴らしさは見えなくなってしまう。
もちろん、「憎しみにとっては」相手が素晴らしいと困る訳だが。
特定の人物への憎しみに囚われるということは、相手の嫌なところしか映さない眼鏡をかけるようなものである。
そしてこれは自分の内面についても言える。
多くの人は自己自身の中に許せない部分を持っている。
それは外面的な特徴の場合もあるし、内的な何かである場合もある。
どちらにしろ、何かが気に入らない、不全感と共にある人が多い。
これは言い換えれば、どうしても全体として自分を愛することができない、という状態だ。
自分を許すことが出来ない時、人は自己欺瞞に陥りやすい。
嫌いなものを好きだと思い込もうとしたり、自分が本来のあるがままの自分より立派だと思い込んだりするのは、自分自身が嫌いだからだ。
その嫌いな自分から目をそむけると、その自分は(愛の不在により)見えなくなる。しかし、何かから目をそむけているから不安は残る。
そして目を背けているという事実すら忘れてしまった時に、自己欺瞞は完全なものとなる。
そもそもなぜ、自分で自分が嫌いになるかというと、多くの場合それは他者の視点を内面化しているからだ。
僕らが外側の承認によって、自我の安定を得ようとする限り、この不安に終りはない。
でもよくよく考えてみれば、そのままのありのままの姿で、存在として受け入れられている事、世界の一部としてあることを思えば、自分で自分をごまかす必要などない。
逆に言えば、自分を十分なだけ許せていない限り、自分で自分をごまかし、自分はあるがまま「以上」のものであると思い込み続けるしかないのだ。
自分のあるがままを受け入れているとき、エネルギーと安らぎがあるだろう。しかし、あるがまま以外のものになっていると、不安がある。
皮肉な事に、あるがままを認める不安からあるがまま「以上」のものになったと思い込んでいるというのに、そこにはやはり不安があるのだ。不安を解消するには、自己の何もかもをいとおしみ、抱きしめる以外にない。
このことが経験的に事実だと思うのは、僕が以前、性的な問題で自分が完全にど変態ではないかと異様に思い悩んでいた時期があったからだ。
まず自分の内部にある衝動が生まれるとする。
その衝動が大きくなると、僕の意識がそれを感知する。
その状態であれば、良いも悪いもいかなる分裂も、不安もない。
しかし、外側から刷り込まれた価値観によって、その衝動を「許されているもの」か「許されていないもの」かに振り分ける時に問題が生じる。
仮にそれが僕の意識にとって、「許されていないもの」であったとする。
するとどうするか?
そもそもその衝動を最初からなかったことにするか、それともそれは許されたものであるように偽装するか、自分は許されない衝動を持ったと認識するかどれかしかない。
このどれを選んだとしても、こころに負担がかかってくる。
ひとつめとふたつめなら、自己欺瞞による不安。
みっつめなら自己嫌悪である。
結局こういうことの積み重ねが、「なんだかよくわからないけど、自分嫌い」という状態を招くのではないか。
自我が破綻をきたさない為には、そもそもの最初にある善悪二元の価値によって、自己を裁かないことが必要となる。
ド変態でもいいのである。
少々パラノイアでもいいのである。
一体誰がいけないと言うのか?
いけないと言う人はいるだろう。否定する人はいるだろう。気持ち悪いという人はいるだろう。否定的な人には事欠かないのがこの世界だ。
しかし、世界中の誰にも、僕のことは否定できない。
僕を否定するのは、僕自身でしかあり得ない。
そして、許すということも。
「垂直の悟り」と「水平の悟り」だ。
どうやらこれは「アメジストタブレットプロローグ」で解説されている、クンダリニーヨーガ的な悟りと、禅的な悟りのことらしい。
垂直に上昇し、霊界の中心太陽に還るのが「クンダリニー」、この世に生きつつすべてを受容するのが「禅」と、すごく簡単に言えばそういう感じになる。
「もし人類が滅びなければ、禅が最後の宗教になり、人類が滅びるとすれば、その直前にクンダリニーが栄えるだろう」という言葉も入っていた。
「水平の悟り」については、臨済録講義において語られている。
禅というものについては、僕はもちろん参禅なんてしたことはないし、頭の知識も乏しいのだが、自己受容ということに関しては自分の問題としても考える事が多かった。
ダイジのテープが来る前、自己受容ということに関して考え直させられることがあったのだが、この臨済録講義を聴いて、理解がひとつにまとまった。
以下の文章は主にふたつの書籍(エックハルト・トール「悟りを開けば人生はシンプルで楽になる」、タデウス・ゴラス「なまけもののさとり方」)と、実体験、それにダイジのテープに触発された考えです。
愛するということ、受け入れると言うこと、許すと言うこと、そして理解するということ、これらはすべてつながっている。
愛さなければ、理解する事なんて出来ない。
愛のない、理解のみによる理解などない。
愛がなければ理解もない。真の理解には常に愛がある。
人は自分が憎む相手を理解することは出来ない。
なぜなら、憎しみがその人物をありのままに見る事を妨げるからだ。
憎む相手について僕が知る事は、僕自身の憎しみだけだ。
それ以外の相手の素晴らしさは見えなくなってしまう。
もちろん、「憎しみにとっては」相手が素晴らしいと困る訳だが。
特定の人物への憎しみに囚われるということは、相手の嫌なところしか映さない眼鏡をかけるようなものである。
そしてこれは自分の内面についても言える。
多くの人は自己自身の中に許せない部分を持っている。
それは外面的な特徴の場合もあるし、内的な何かである場合もある。
どちらにしろ、何かが気に入らない、不全感と共にある人が多い。
これは言い換えれば、どうしても全体として自分を愛することができない、という状態だ。
自分を許すことが出来ない時、人は自己欺瞞に陥りやすい。
嫌いなものを好きだと思い込もうとしたり、自分が本来のあるがままの自分より立派だと思い込んだりするのは、自分自身が嫌いだからだ。
その嫌いな自分から目をそむけると、その自分は(愛の不在により)見えなくなる。しかし、何かから目をそむけているから不安は残る。
そして目を背けているという事実すら忘れてしまった時に、自己欺瞞は完全なものとなる。
そもそもなぜ、自分で自分が嫌いになるかというと、多くの場合それは他者の視点を内面化しているからだ。
僕らが外側の承認によって、自我の安定を得ようとする限り、この不安に終りはない。
でもよくよく考えてみれば、そのままのありのままの姿で、存在として受け入れられている事、世界の一部としてあることを思えば、自分で自分をごまかす必要などない。
逆に言えば、自分を十分なだけ許せていない限り、自分で自分をごまかし、自分はあるがまま「以上」のものであると思い込み続けるしかないのだ。
自分のあるがままを受け入れているとき、エネルギーと安らぎがあるだろう。しかし、あるがまま以外のものになっていると、不安がある。
皮肉な事に、あるがままを認める不安からあるがまま「以上」のものになったと思い込んでいるというのに、そこにはやはり不安があるのだ。不安を解消するには、自己の何もかもをいとおしみ、抱きしめる以外にない。
このことが経験的に事実だと思うのは、僕が以前、性的な問題で自分が完全にど変態ではないかと異様に思い悩んでいた時期があったからだ。
まず自分の内部にある衝動が生まれるとする。
その衝動が大きくなると、僕の意識がそれを感知する。
その状態であれば、良いも悪いもいかなる分裂も、不安もない。
しかし、外側から刷り込まれた価値観によって、その衝動を「許されているもの」か「許されていないもの」かに振り分ける時に問題が生じる。
仮にそれが僕の意識にとって、「許されていないもの」であったとする。
するとどうするか?
そもそもその衝動を最初からなかったことにするか、それともそれは許されたものであるように偽装するか、自分は許されない衝動を持ったと認識するかどれかしかない。
このどれを選んだとしても、こころに負担がかかってくる。
ひとつめとふたつめなら、自己欺瞞による不安。
みっつめなら自己嫌悪である。
結局こういうことの積み重ねが、「なんだかよくわからないけど、自分嫌い」という状態を招くのではないか。
自我が破綻をきたさない為には、そもそもの最初にある善悪二元の価値によって、自己を裁かないことが必要となる。
ド変態でもいいのである。
少々パラノイアでもいいのである。
一体誰がいけないと言うのか?
いけないと言う人はいるだろう。否定する人はいるだろう。気持ち悪いという人はいるだろう。否定的な人には事欠かないのがこの世界だ。
しかし、世界中の誰にも、僕のことは否定できない。
僕を否定するのは、僕自身でしかあり得ない。
そして、許すということも。
ディクシャの科学的説明
ディクシャという手法を開始した、カルキ・バガヴァンによると、「悟り」というのは神経生理学的な変容であるということだ。
脳のどのような部分が変化すれば、いわゆる覚醒した意識状態が生まれるのかということはドラッグによる変成意識や、臨死体験などとの絡みで個人的にはずっと興味のある問題だった。
バガヴァンによれば、頭頂葉と前頭葉の活動が意識の変容に大きく関わっているという事らしい。
まず頭頂葉は、「一部の神経科学者たちが見当識連合野(orientation association area)あるいはOAAと呼ぶものを司っている。OAAの機能は空間における方向定位を我々に提供することである。」
空間の中で自己と他者、あるいは他の事物がどのように配置されているのかということを認識する部位ということになるのだろうか。
現代人のこの部位は慢性的に過活動の状態にある。するとどういうことが起こるかというと、自己と他者、自己と世界がまったく分離しているという感覚を常に生み出し続けるらしいのだ。
しかし、ディクシャという手法によってその部分にあるエネルギーを流すと
「頭頂葉に変容のプロセスをもたらし、その機能が永久的に変化し、定着するように見受けられる。それによって、物理的境界は認識されるが不自然な活動過多は停止する。そして小脳扁桃―海馬はもはや分離した自己の存在という感覚を生み出す必要がなくなるのである。」
前頭葉の方は、「神の実現」に関係している。
「前頭葉は個人的意思と関連している。多くの神秘的伝統では、個人的意思が神の意志へと溶け込むことが、神実現への入り口であり、結果であると述べている。しかしこれは、もし前頭葉が活性化していなければ起こりえない」
もし前頭葉が十分に活性化されていない場合には、「主観的体験レベルでは、これは脆弱な自己意思と鈍感さを意味する。退屈感は前頭葉が不活発な時にのみ感じるものである。前頭葉が活性化するために欠かせない神経伝達物質であるドーパミンは、生きていることに魅惑されている感覚、至福感にとって必要である。神との神秘的結合にはこのような感覚、至福感が伴うとしばしば報告されている。」
そう言えば、ディクシャを受ける時は、頭のてっぺんと額に手をあてられたのを思い出した。
「神の認識」というのは、やはり文化的な伝統が生み出したものではない。もともと脳には「絶対者を知る」という体験を司る部位が存在するのだろう。宗教のバリエーションというのは、その「絶対的体験」が文化的なフィルターを通されて様々に変質していったものではないだろうか。
ディクシャによって、本当に悟りへと導かれるのかということは、今の段階ではなんともわからない。この運動自体が本物であれば、時間が結果を出してくれるだろうけど。
個人的にはディクシャを受けてから、いくつか面白い事はあったけど。。。
ディクシャの科学的説明はここから拝借↓
http://www.din.or.jp/~holos/deeksha/opitz.htm
「ディクシャと脳のスキャン 」
「悟りと脳」
「魂の暗夜と脳科学」
脳のどのような部分が変化すれば、いわゆる覚醒した意識状態が生まれるのかということはドラッグによる変成意識や、臨死体験などとの絡みで個人的にはずっと興味のある問題だった。
バガヴァンによれば、頭頂葉と前頭葉の活動が意識の変容に大きく関わっているという事らしい。
まず頭頂葉は、「一部の神経科学者たちが見当識連合野(orientation association area)あるいはOAAと呼ぶものを司っている。OAAの機能は空間における方向定位を我々に提供することである。」
空間の中で自己と他者、あるいは他の事物がどのように配置されているのかということを認識する部位ということになるのだろうか。
現代人のこの部位は慢性的に過活動の状態にある。するとどういうことが起こるかというと、自己と他者、自己と世界がまったく分離しているという感覚を常に生み出し続けるらしいのだ。
しかし、ディクシャという手法によってその部分にあるエネルギーを流すと
「頭頂葉に変容のプロセスをもたらし、その機能が永久的に変化し、定着するように見受けられる。それによって、物理的境界は認識されるが不自然な活動過多は停止する。そして小脳扁桃―海馬はもはや分離した自己の存在という感覚を生み出す必要がなくなるのである。」
前頭葉の方は、「神の実現」に関係している。
「前頭葉は個人的意思と関連している。多くの神秘的伝統では、個人的意思が神の意志へと溶け込むことが、神実現への入り口であり、結果であると述べている。しかしこれは、もし前頭葉が活性化していなければ起こりえない」
もし前頭葉が十分に活性化されていない場合には、「主観的体験レベルでは、これは脆弱な自己意思と鈍感さを意味する。退屈感は前頭葉が不活発な時にのみ感じるものである。前頭葉が活性化するために欠かせない神経伝達物質であるドーパミンは、生きていることに魅惑されている感覚、至福感にとって必要である。神との神秘的結合にはこのような感覚、至福感が伴うとしばしば報告されている。」
そう言えば、ディクシャを受ける時は、頭のてっぺんと額に手をあてられたのを思い出した。
「神の認識」というのは、やはり文化的な伝統が生み出したものではない。もともと脳には「絶対者を知る」という体験を司る部位が存在するのだろう。宗教のバリエーションというのは、その「絶対的体験」が文化的なフィルターを通されて様々に変質していったものではないだろうか。
ディクシャによって、本当に悟りへと導かれるのかということは、今の段階ではなんともわからない。この運動自体が本物であれば、時間が結果を出してくれるだろうけど。
個人的にはディクシャを受けてから、いくつか面白い事はあったけど。。。
ディクシャの科学的説明はここから拝借↓
http://www.din.or.jp/~holos/deeksha/opitz.htm
「ディクシャと脳のスキャン 」
「悟りと脳」
「魂の暗夜と脳科学」
最近、以前一度個人セッションを受けたことのあるヒーラーがディクシャを始めたので、今週受けに行く予定。
ディクシャというのは、
「ディクシャとはインド古代より伝わるエネルギー伝授の手法で、南インドに住むカルキ・バガヴァン(アバター・悟りのマスター)が幼少のころから暖めつづけてきたスピリチュアルなエネルギーを、ディクシャ講師を通して頭頂へ伝授する事です。
このディクシャを受ける事で物理的に脳が電気的な刺激を受け状態が変わり、努力することなく意識状態が変容します。脳のある部分が不活性化し、ある部分が活性化します。そしてディクシャを受けた一人一人に合うように、脳の状態・身体の状態を変えていきます。
それによって苦しみからの大きな解放感を得たり、深い安らぎや平和を感じるようになっていきます。また継続的にディクシャを受けることにより、ストレスに強くなり、心身共により好ましい状況、状態になっていきます。
人によっては心理的、肉体的に浄化が始まり好転反応の出る方もいますが、全く変化を感じない人もいます。しかし脳と深いレベルでは確実に変化が起こっています。その結果「苦しみからの解放」へとプロセスが進み、「悟りへのプロセス」がスタートしていきます。」
と、いうものらしい(そのヒーラーの方のHPより丸ごと転載)。
インドのグルマイや、ライフスペースとかで有名になった、「シャクティパット」とはどう違うんだろうと思う。
でもディクシャというのは今、急速にひろがっているようで、今後この業界でかなりメジャーなものになるかもしれない。
バガヴァンという人物のことは、スターピープル誌の記事で初めて知った。
でも、この人がどういうレベルで悟っているのかは知らない。
面白かったら、またここに結果を書こうと思う。
クリスマスプレゼントに、ドリーン・バーチューの女神のカードをもらった。ラクシュミや、カーリーや、観音菩薩や、聖母マリアや、グノーシスの女神や、いろんな伝統の女性の神がごちゃまぜにワンセットのカードになっていて、それぞれが固有のメッセージを持っている。
絵が綺麗。時々、オラクルをもらうために一枚ひいてみる。
Q:今後どのようなことを学び、また始めればいいのか?
という問いをたてると、
CORDELIA、というケルトの妖精の女神のカードがでた。
「室内にこもりすぎています。外へ出て新鮮な空気を吸いましょう」
だってよ・・・・。他にも
「自然のなかで時を過ごす、もっと自然とつながりのある仕事に変る、環境問題に関わる」というのがカードの意味らしい。
昔、ある人に「アニミズム的な感性が強く、自然の中にあなたの生活の糧になるものがある」といわれたことを思い出した。
と同時に、一日中活字と向き合う以前のような編集の仕事とかはもう戻りたくないと感じていたことに気づいた。
うーん・・・実務的な英語やPCのスキルを時間給アップのために身につけようかと思っていたのだが。まーそれはそれでやればいいのかもしれないけど。内なるビジョン、というのはやはり必要なわけで、それが生かせるかどうかはまた別問題だ。しかし、まずはビジョンを自覚することには大きな意味がある。
こういうカードとかタロットは、内なるビジョンをはっきりさせてくれる。
ライブドアのニュースをやってると、ついつい見てしまう。
手のひらを返したようなマスコミのリアクションが非常に気持ち悪い。
堀江さんが悪いことをしたから、捕まった・・・。とかいう単純なことではなくいろんな利害がからんだ気持ち悪い空気。
電車の中で、地検が動いたちゅうことは裏でヤクザがからんどるなーとでかい声で喋っていた人がいた。部下の自殺、も本当に自殺かどうか・・・。
まあ、どうみても裏にはなんかあるよね。変だもん。
ディクシャというのは、
「ディクシャとはインド古代より伝わるエネルギー伝授の手法で、南インドに住むカルキ・バガヴァン(アバター・悟りのマスター)が幼少のころから暖めつづけてきたスピリチュアルなエネルギーを、ディクシャ講師を通して頭頂へ伝授する事です。
このディクシャを受ける事で物理的に脳が電気的な刺激を受け状態が変わり、努力することなく意識状態が変容します。脳のある部分が不活性化し、ある部分が活性化します。そしてディクシャを受けた一人一人に合うように、脳の状態・身体の状態を変えていきます。
それによって苦しみからの大きな解放感を得たり、深い安らぎや平和を感じるようになっていきます。また継続的にディクシャを受けることにより、ストレスに強くなり、心身共により好ましい状況、状態になっていきます。
人によっては心理的、肉体的に浄化が始まり好転反応の出る方もいますが、全く変化を感じない人もいます。しかし脳と深いレベルでは確実に変化が起こっています。その結果「苦しみからの解放」へとプロセスが進み、「悟りへのプロセス」がスタートしていきます。」
と、いうものらしい(そのヒーラーの方のHPより丸ごと転載)。
インドのグルマイや、ライフスペースとかで有名になった、「シャクティパット」とはどう違うんだろうと思う。
でもディクシャというのは今、急速にひろがっているようで、今後この業界でかなりメジャーなものになるかもしれない。
バガヴァンという人物のことは、スターピープル誌の記事で初めて知った。
でも、この人がどういうレベルで悟っているのかは知らない。
面白かったら、またここに結果を書こうと思う。
クリスマスプレゼントに、ドリーン・バーチューの女神のカードをもらった。ラクシュミや、カーリーや、観音菩薩や、聖母マリアや、グノーシスの女神や、いろんな伝統の女性の神がごちゃまぜにワンセットのカードになっていて、それぞれが固有のメッセージを持っている。
絵が綺麗。時々、オラクルをもらうために一枚ひいてみる。
Q:今後どのようなことを学び、また始めればいいのか?
という問いをたてると、
CORDELIA、というケルトの妖精の女神のカードがでた。
「室内にこもりすぎています。外へ出て新鮮な空気を吸いましょう」
だってよ・・・・。他にも
「自然のなかで時を過ごす、もっと自然とつながりのある仕事に変る、環境問題に関わる」というのがカードの意味らしい。
昔、ある人に「アニミズム的な感性が強く、自然の中にあなたの生活の糧になるものがある」といわれたことを思い出した。
と同時に、一日中活字と向き合う以前のような編集の仕事とかはもう戻りたくないと感じていたことに気づいた。
うーん・・・実務的な英語やPCのスキルを時間給アップのために身につけようかと思っていたのだが。まーそれはそれでやればいいのかもしれないけど。内なるビジョン、というのはやはり必要なわけで、それが生かせるかどうかはまた別問題だ。しかし、まずはビジョンを自覚することには大きな意味がある。
こういうカードとかタロットは、内なるビジョンをはっきりさせてくれる。
ライブドアのニュースをやってると、ついつい見てしまう。
手のひらを返したようなマスコミのリアクションが非常に気持ち悪い。
堀江さんが悪いことをしたから、捕まった・・・。とかいう単純なことではなくいろんな利害がからんだ気持ち悪い空気。
電車の中で、地検が動いたちゅうことは裏でヤクザがからんどるなーとでかい声で喋っていた人がいた。部下の自殺、も本当に自殺かどうか・・・。
まあ、どうみても裏にはなんかあるよね。変だもん。
灯台と岬
30分、4000円でまたリーディング系のセッションを受けた。
どこに行ってもとりあえず、今生に関係の深い前世については質問しているので、今回も一番初めにきいてみた。
場所はイギリス、アイルランド。時代はわりと近代。灯台が見える海辺の岬にひとりで住んで、詩を書いて暮らしていたそうな。少しさびしげな様子らしいが、それはどうも世の中に対する考えを詩とか物語の形で発表しようと、共に創作していた仲間が外国に行ってしまったかららしい。で、そういつが帰ってくるのを待っているということだった。
以前も別のところで、その辺にいたといわれたことがある。もっともそれは2000年くらい前ということだったけど。
その時は、あちら側の世界とつながっていろいろ見える人間だったが、見えるものを全部いいふらしたものだから村八分にされて、孤独死したということだった。
もしかすると、その辺に何回も生まれているのかもしれない。
今回は、何ひとつこちらの情報を与えていないので、なかなか感度がいいのではないかと思った。
詩は、大学生の頃かなり書いていた時期がある。いろんな詩人の詩集を図書館でコピーして集めていた時もあった。ブレイクとかイェイツの詩ですごく好きなのが何篇かある。
精神世界系のことを書くときは、どちらかというとシンボリックに表現する方が好きだけど、それはその頃の影響なのか?とか思う。
子供のときは、なぜかイギリスが好きだった。
良くわからず、響きだけで好きなのが、『グラストンベリー』。小さな修道院(だっけ?)がある丘陵。
昔、共に創作をしていた仲間は今生ではまだ会っていない。
だが、彼と会うことによって、なにかに駆り立てられるように、表現しようという衝動が湧き起こってくるだろう、といわれた。
はぁーそんなことあるんかいな。
興味のある方は一度、どうぞ
http://rebirth.cc/index.html
どこに行ってもとりあえず、今生に関係の深い前世については質問しているので、今回も一番初めにきいてみた。
場所はイギリス、アイルランド。時代はわりと近代。灯台が見える海辺の岬にひとりで住んで、詩を書いて暮らしていたそうな。少しさびしげな様子らしいが、それはどうも世の中に対する考えを詩とか物語の形で発表しようと、共に創作していた仲間が外国に行ってしまったかららしい。で、そういつが帰ってくるのを待っているということだった。
以前も別のところで、その辺にいたといわれたことがある。もっともそれは2000年くらい前ということだったけど。
その時は、あちら側の世界とつながっていろいろ見える人間だったが、見えるものを全部いいふらしたものだから村八分にされて、孤独死したということだった。
もしかすると、その辺に何回も生まれているのかもしれない。
今回は、何ひとつこちらの情報を与えていないので、なかなか感度がいいのではないかと思った。
詩は、大学生の頃かなり書いていた時期がある。いろんな詩人の詩集を図書館でコピーして集めていた時もあった。ブレイクとかイェイツの詩ですごく好きなのが何篇かある。
精神世界系のことを書くときは、どちらかというとシンボリックに表現する方が好きだけど、それはその頃の影響なのか?とか思う。
子供のときは、なぜかイギリスが好きだった。
良くわからず、響きだけで好きなのが、『グラストンベリー』。小さな修道院(だっけ?)がある丘陵。
昔、共に創作をしていた仲間は今生ではまだ会っていない。
だが、彼と会うことによって、なにかに駆り立てられるように、表現しようという衝動が湧き起こってくるだろう、といわれた。
はぁーそんなことあるんかいな。
興味のある方は一度、どうぞ
http://rebirth.cc/index.html

