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大雪と玄米クリーム

 2月14日からのバレンタイン大雪で、山梨とかでは集落が孤立してしまい大変らしいですが、うちのあたりでもかなりの積雪がありました。
 戦後最高とか、近年にない積もり方らしいですが、確かに東京来て10年以上こんな光景は初めてで驚き。

 アパートの庭。

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だいたい20~25センチくらいのスコップがずっぽし埋まる。

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 近所では総出で雪かき。

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 実家の京都の方では東京よりもたまに雪は積もることがあったけど、ここまでのはあんまり記憶にないような気がする。

 旧正月あけたとたんに、いろいろと、、そんなこんなで今年も自然の変化は大きそうだ。


 プチ断食と、玄米クリーム☆


 プライベートでは最近、食べないことにややハマってます☆
 大雪の週末、一人リトリート+断食してました。

 ローフードやマクロビ、菜食にはある程度興味があったのですが、よいものを食べるということを飛び越えて「食べない」というのはとてもいろいろなことに気づかせてくれるし、また気持ちがいい。

 僕がよく思うのは、すべてにおいて「なにも取り込まない」白紙のゼロポイント状態を経験してみるというのがとても大事だということで、それは人間関係とか情報だけでなくやっぱり食べものにも当てはまるんですね。

 ゼロの状態を経験する意味は、そこにとどまり頭や感情、そして肉体に一種の「飢え」の状態を経験させるとその「飢え」がなにが必要で、必要ではないかということを教えてくれることです。

 通常は、このゼロが多くのもので色づけされて、感覚がブレまくっています。「飢え」を感じる前に、読み、テレビを見、ネットを見、何かお菓子とかをつまみ続けるっていう感じだと、心身のセンサーが混乱する。

 そこをいったんシャットアウトすると、センサーの本来の機能が回復するんですね。イスラム教のラマダーンやその他の宗教にも断食の習慣があったり、また多くの伝統で山奥や自然の中で一定期間こもる(ネイティブのビジョンクエストなど)というのも、マインドや感情体や肉体が食料として「取り込むもの」を減らすことで、センサーの機能をリセットするためだと思います。

 パソコンが重くなってきたら、不要なファイルやプログラムを捨てて、それでもダメなら初期化するというあれとたぶん一緒。でも僕らは往々にして、重さを減らす為に、さらに別のプログラムをダウンロードしてしまう。

 すると最終的に重くてメモ帳すらひらけなくなります。^^
 っていうのは基本的には、新たなプログラム(健康食品や新情報)はビジネスになるけど、「断つ」ということからはなんの利潤も発生しないからでしょう。だから「断つ」ってことはいくら心身魂によくてもなかなかメジャーにはならない。

 でも最近弟とスカイプで話したとき聞いた話によると、欧米のセレブの間では情報機器などを「OFFにする贅沢」ということが流行っているという(笑)ことなので、断つこともこれから流行るのかもしれません。

 確かに本当のセレブなら、「情報奴隷」でいることはよしとしないはずです。
 
 断食っていっても一日なら水分のみで過ごして大丈夫かと思いますが、それ以上となるとなにか流動食のようなものを食べることが多いです。 

 僕は2、3日の断食をやるためにマクロビの本に乗ってた玄米クリームというのをつくってみました。

 圧力鍋がいるけど、つくりかたはとっても簡単!

 まず玄米1カップをこんがりきつね色になるまで15分間なべで炒ります。

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 このときとてもいい匂いがしてくるので驚きました。15分くらい炒るとぽりぽり食べられる状態に。

 そこに水を8カップと自然塩おおさじ二分の一を投入。あとはふたをつけて火にかけ重りが回りだしてから弱火に落として、30分間炊きます。火を止めて15分間放置。

 するとこういう、水分たっぷりのおかゆ状の玄米ができあがります。
 
 このまま梅干でも乗せて食べても、やわらかくて十分おいしいですが・・・
 
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 これをジューサーにかけて完成。

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 断食の時は、これを一日2食と他に水、野菜ジュース、具なし味噌汁などをとっていれば一日、二日は余裕で大丈夫だと思います。このレシピでだいたい8食分ほど出来ます。2、3日以上の本格的断食になると専門家の指導を仰いだほうがいいかもしれません。

 断食を一日二日でもすると、感覚がクリアになって楽しいですね。
 副交感神経優位状態になり、マインドが静かになります。
 からだはややふらふらしますが、気分は結構ハイ。

 さらに断食+情報断食など組み合わせれば、あなたも憧れの僧院ライフ!(笑)

 ジューサーにかける前のおかゆがあまりにおいしいので、クリームと混ぜて食べたりもしてみました(ごま塩少々)。
 玄米は深いですね~~

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 ボディを浄化し、プラーナを取り入れ、大寒波でも負けない体へ!

 あとやってみる時は常識ですが複食にはご注意ください。僕のように、断食明け翌日から天屋のテイクアウトでビール飲んだりすると相当豪快におなか壊します。(←アホな見本)

 構造体と超構造体



 この宇宙は構造体だけど、その宇宙を越えた超構造体が存在する。
 
 それは永遠かつ無限で、至福と愛でありこの宇宙の法則により制限されてはいないと言われる。

 かつてそれを求める人はこの世界の諸々のことや自分自身の人生への関心を捨て、それに意識をとどめることを目指した。

 その指向性は、この肉体や感覚へのフォーカスを捨てるということでもあった。世捨て人、隠者、サドゥー、

 しかし一方で、この世界や、肉体、環境、生命形態へのアウェアネスを高め、それらを愛し、ケアし、改善してゆくという方向性も存在していた。

 ネイティブアメリカン、ヒッピー、肉体や食事、自然環境へのアウェアネスを高める人たち。

 これらは最終的にはガイアという集合的な生命場を、守る、あるいは調和発展させていくという意志に集約される。なぜなら肉体とガイアはどちらも母なる宇宙のあらわれであり、連動しあっているからだ。それらは別のものではない。

 僕らが日常的に地水火風や生命や、肉体への意識を高めると言うことはその集合的ムーブメントへの参加なのだろう。

 これはこの宇宙を、ガイアを愛し、よい方向に育んでいこうとする意志、母性的な聖母の意志でもある。

 現代は、この構造体を意識し愛し、調和発展させていく母なる意志と、そして宇宙という構造体さえも越えた永遠の実在に帰依するという方向性が融合していくという希な時代なのかもしれない。

 構造体を守り、癒し、そして育んで進化させていく力。
 その先にはおそらく新たなガイアの姿が、そして人類、社会、肉体の姿が、生まれ変わり新たにされた僕らの姿があるに違いない。

 肉体という宇宙=構造体への愛は、この惑星への愛に等しいのだ。
 それはおおまかにくくると生命自体へのアウェアネスの集合的高まりを示している。

 僕らは担当分野はそれぞれ異なろうとも、この生命復権へのムーブメントに参加している。

 いま自然災害は猛威をふるい、国家も社会も不安定で人はこれまでとは異なった確かなものを求めようとしている。

 一見、これは危機に見えるが、僕らはこれを乗り越えていくだろうと思う。

 なぜなら僕らは大宇宙という構造体に育まれる、肉体という構造体だが、その内側に超構造体を宿しているからだ。

 僕らはそれぞれに神を宿した卵、

 神という超構造体を宿した構造体を、「生命」あるいは「人」という。


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アセンション考 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/02/17 21:38

ネイティブアメリカンの知恵⑦


 2009年にブログにアップしていた、ネイティブアメリカンの知恵シリーズの続きを書いてみようと思います。

 いろいろな書籍などからネイティブアメリカンの言葉などを集めたこのシリーズをはじめたきっかけは、当時陥っていたピンチ状態にありました。

 7月に部分日食があり、8月に箱根に旅行に行った頃から精神状態が不安定になり、鎮静剤のお世話にならないと厳しい日が連日続いた。夜になると得体の知れない不安感が湧き上がってきて、ひどい時はほとんど食欲もなくどうすればいいのかわからなかった。

 師匠のI先生に相談に行くと、蛍光灯をやめたり、怪しいソースの本を処分することなどの環境の改善を勧められたのだけど、その中に部屋に生命あるもの、観葉植物や、浄化力の強いバラの花を生けるというアドバイスもあった。

 「我々が力をもらってるのは、この世界の精霊(スピリット)からだからね」と先生は言った。

 その後の更なる展開で、不必要な情報を生活からカットすることや、行き詰った時は引きこもって神様と向かい合い答えを導きだすというスタイルも取り入れられ、それがその後のテレビなし生活や時折行う一人リトリートの始まりとなった。

 この型を実践することにより、いつのまにか状態はよくなり、加えて、2009年末から2010年にかけて生活全体のある種の転換が起こった。それはI先生のアドバイスにすべて従ったからというよりは、自分で方向性を決定したからだったけど、ある意味I先生はそのための方法を、僕が自分の頭と心で答えを導き出す術を教えてくれたのだと思っている。 

 この頃ネイティブアメリカンの知恵シリーズを始めたのは、生命力や、生きとしいけるものとのつながりが、そのピンチ状態を癒してくれるのを感じたからだった。ネイティブアメリカンの知恵は、根本的にすべての生命体への尊敬と、愛と理解に基づいている。

 その後、僕の興味はアイソレーションタンクを使ったヒーリングや、ドルフィンスイム、自分の生活を物質的に豊かにする方法などにも移り3・11のあとしばらくは新たな地殻変動や原発事故の情報、言葉を失うほどに破壊された被災地の映像に心を占領された。

 でも今年の夏ごろから、ネイティブアメリカンの知恵はさらなる情報密度と、確かさをましてまた僕の中に戻ってきた。
 
 今まで僕はそれほど現代日本の社会の価値観に溶け込めるほうでもなかったし、その中の一部は溶け込めないと言うよりはもっと激しい拒絶感を伴って、受け入れられないという質のものだった。だからスピリチュアルな現実にフォーカスする過程でいくつかのものを自分の生活からカットしていくということはそれほど苦痛も伴わずむしろせいせいするという感覚もあったんだけど、近頃になってようやくそれらをカットすることは自然へ回帰したいと言う衝動と表裏一体だったことがやっと自分の中でつながったのだ。  

 それは不必要なものを切り捨てて、空相のような現実に至りたいというよりもむしろそれは、箱の中の世界の外側で確実に鼓動している母なる自然のリズムに戻りたいという衝動に感じられた。現代の社会が与えてくれるものをすべて消去しても、母なる大地や空、その生命は残るのである。その気づきががネイティブアメリカンの知恵に対する理解をより深いものにしてくれているような気がする。

 人生で自分にとって本当に大事なことは、何度もらせん状にループしながら、必ず自分のもとに戻ってくる。そして戻ってくるたびにそのテーマに対する興味や理解は深みを増してゆくのだ。
 どうもこの始まりをたどると、2001年にある人に前世療法を僕が行ったときに、ネイティブアメリカンの過去世が出てきたというそのあたりから始まっているような気がする。

 ネイティブアメリカンの過去世が出てくるということは、前世療法でたまにあると思うけど、往々にしてそこでは平和な生活が侵略によって破壊されるという物語が語られる。僕がおこなった人の場合も、外部からの侵略者によって村が破壊され親族とはぐれてしまうというストーリーだった。
 
 ネイティブアメリカンの歴史は、まさに侵略と搾取にさらされる歴史だったと言ってもいい。
 1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見した当時は全米が彼らの居留地だった。ところが2、300年のちには白人はリザベーションというネイティブアメリカンの限定居留地を設け彼らをそこへ押し込んだ。居留地は1820年にはアメリカ大陸の西半分に制限された。
 それから100年と少したった1977年になると僅かな面積のリザベーションが全米に点在するだけとなり、彼らの居留地は広大なアメリカ大陸のその僅かな部分だけになったのである。
 あとからやってきた者たちが文明の力を武器に彼らの生活を破壊し、大地から切り離し、土地を収奪するというこの構図は世界のあちらこちらでみられる。
 明治維新から、第二次大戦敗戦後にかけて日本でもそれは行われたし、最近でも欧米や中国の資本による日本の国土の買占めは存在する。
 「彼ら」は土地を奪い、伝統的な習慣やスピリチュアリティを破壊し、人々と大地との接続を切り離し、貨幣経済というルールの中に世界各地のネイティブたちを組み込んでいくがその貨幣経済はもとより「彼ら」の思考パターンより生じたもので、彼らが総元締めだった。そのためネイティブ的ライフスタイルから貨幣経済に移行させられることは全面的に、彼らの軍門にくだることでもあった。

 西洋文明化というのは、脱ネイティブ化を前提としている。
 先住民族の生き方を壊し、否定したその上に築かれたのがこの文明なのである。
 僕らもまた土地とルーツを見失った、さまよえるネイティブジャパニーズであるかもしれない。

 僕はこれらの、人を自然から切り離し、大地や海を汚染していくこの力が本質的にどういうものか、どこから来ているのか知りたいと思った。

 よく言われるように、それは人間の欲望の力だというのも正しいかもしれない。
 しかし、アメリカ大陸にアングロサクソン系の人種がやってこなければおそらくネイティブの人たちは今でも同じような伝統的生活をしていた可能性が高い。だから人間の欲望という原因で一元化するよりも、ここには二種類以上の諸力の葛藤が存在するように思うのだ。ふたつのDNA的因子といってもいい。
 ひとつの力は、大地や生命と人を結びつける力で、もうひとつは生命を荒廃させ人を大地から切り離す力だ。
 
 大地を汚し、生命の尊厳を破壊する、これらの力を魔的なものと考えるのは簡単かもしれないが、それが正しいかどうかはわからない。
 性質の異なるふたつの力、あるいは思考パターンと言ったほうがいいかもしれない。

 この力を考えていたとき、僕の頭には次々と村を焼き払い、領土を拡大していく騎馬民族のようなイメージが浮かぶ。
 彼らは自らの土地を持たず破壊と略奪の中で生きているのだ。 
 
 アイルランド詩人のW・B・イェイツの墓には次のような詩が刻まれているという。

 Cast a cold eye
on life,on death
Horseman pass by!


<冷ややかなる目をむけよ 生に 死に 騎馬の男たちは通り過ぎる・・・>

 この詩では世界の荒々しい力の象徴として「騎馬の男」たちが登場しているように思えるけれど、自らの土地を持たず、他民族の土地の侵略と略奪で生きてきたような騎馬民族的DNAというのは、ある種ネイティブ根絶の力の正体と親和性があるように思う。
 アイルランド人もまた度重なる大英帝国からの搾取と抑圧を受けてきた。

 もうひとつは生命が少ない環境で誕生した、砂漠の宗教や、砂漠のロジックだ。 
 人間の思考パターンを環境派生的なものと考えるとき、中東のような環境で発生した宗教や学問は現象的なものを飛び越えて唯一の絶対者、宇宙の絶対真理を追求しやすいという話を聴いたことがある。

 ユダヤ人には優秀な科学者が多いというけど、アインシュタインの物理公式が、ヒロシマの悲劇を産んだように砂漠のロジックにより生み出される純粋思考の世界は、人類の文明を飛躍的に推し進めると同時にこの現象世界の生命をあっという間に灰塵に帰すような破壊力をも持っているのだ。

 これらを仮に「砂漠の勢力」とでも呼んでおこう。  

 「砂漠の勢力」は、貨幣と言う抽象を用いて、生命を搾取、コントロールすることができた。
 それが彼らの生存戦略だったのだ。
 彼らは特定の土地を持たず、大地への愛着が少ない。
 しかし「砂漠の勢力」も、肥沃な大地や海の恵みなしには生きられない。そのため、他民族の住む土地で資源を得ることが必要だった。
 彼らが支配権を握るためには、食べ物や大自然などのリアルなものより貨幣と言う抽象が価値的に上である必要があった。
 そうであればこそ、貨幣で土地や食料を買い占めるということが可能になったのだ。
 このような理由で

 砂漠の勢力 ←← →→ ネイティブカルチャー

 はもともと相反する。

 彼らはおそらく肥沃な土地のない人たち、土地を奪われた人たち、
 そして、大自然なしにどのようにすれば生きていけるかを極限まで思考した人たちなのかもしれない。
 しかし究極的には「砂漠の勢力」が悪というわけではない。彼らは、そうした役回りだった。
 今、求められているのは、おそらく『砂漠の勢力』と、『ネイティブカルチャー』の融合なのだ。
 それはテクノロジーと、自然との調和でもあるし、男性性と女性性の調和、貨幣と言う抽象と、生命と言うリアルとの調和でもあるのだろう。

 ネイティブカルチャーは、何もネイティブアメリカンだけに特有のものではない。
 おそらく生命への尊敬と愛を基礎にした伝統は、超古代文明の大量破壊を免れて地球全土に拡散し、大地と共にいき始めた人には等しく共有されていた意識だったのではないだろうか。例えば日本の縄文や、アイルランドのケルト文化、アフリカや南米などにもそうした自然と密接に結びついた霊性があったと思われる。ネイティブアメリカンの教えはそうした潮流のひとつなのだ。

 だから、僕らにとって重要なのは特定の文化や教えに回帰・同化するのではなく、それらのエッセンスが指し示す共通の価値を体得した「ネイティブガイア人」とでも呼べるような意識になるということではなないかと思う。

 僕らは今、岐路に立たされている。
 それは抽象を選ぶか、生命を選ぶか。
 ○○という名前を持って、しかるべき学歴や職歴をもった一市民というアイデンティティを選ぶか、グレイトスピリットやガイアと結びついた「大地の子」「神の子」となるかという選択だ。
 それは箱の中(文明・社会)の中だけで生きるか、箱の外(大自然・宇宙)とつながるかの選択でもある。

 真の自然とは天の王国である、絶対者そのものだと思う。
 だから本当は街の中にいても田舎で畑を耕していても、それを感じることはできる。
 ではなぜ、自然を意識し、それと調和して生きる必要があるかというと、おそらく自然と人とは本来一体であり、分割できない生命の織物という統一体だからだろう。

 だからガイアが病めば、人も病み 
 人が病めば、ガイアも病む 

 人はこのガイアという母なしには生きられない。

 だからこそ、癒しとは人と大地との調和なくしてはあり得ないし、人が文明のリズムだけに耳を澄ますことによることで「狂い」が生じる。人が健やかであるためにはどうしても、箱の外との接触が必要なのである。

 あるミュージシャンの言葉だが、「人間など自然が癒されれば、おのずから何もせずとも癒されてゆく」ものかもしれない。

 生命か 抽象か 箱の中だけで生きるか、箱の外とつながるか、

 その選択が、如実に現象化される日は、ホピ族の予言で「浄化の日」と呼ばれている。
 病にかかった地球がその自浄作用を最大限にするとき、この惑星は何十万年も前の原初の美を取り戻すのかもしれない。
 そのとき僕らは、どのような経験をするだろう。
 僕らの選択、それが
 その自浄作用(もう現象化している)がどれほどの規模となるか、その「浄化の日」に僕らがどうなるかという未来に反映されるのだ。

 最後にネイティブアメリカンのメディスンマンだったローリングサンダーの言葉をいくつか紹介したいと思います。

 1970年代初頭に語られたもののようですが、非常に先見の明と、知恵にあふれた言葉です。 
 
 
たいようが のぼってくる ひがしへ
 さむさの やってくる きたへ
 ひかりの やってくる みなみへ
 たいようが しずんでいく にしへ
 ちちなる たいようの ために 
 ははなる ちきゅうの ために

                     
                               ローリング・サンダー



 「どこかひとつの場所が汚染されれば、それは全部に拡がる。リュウマチや癌が体の中に拡がって行くように、それは拡がる。

 この地球は今病んでいる。

 なぜなら、地球は誤った扱われ方をしてきたからだ。

 これにともなっていくつかの問題が起こるだろう。

 近い将来にひどい自然の災害が起こるかもしれない。

 しかし、こうしたことは自らの病気を治すための地球の自然な回復作用なのだ。

 今この大地の上には、もともとここにはなかったものがたくさんある。

 よその国から来たもので、例えて言えば、ヴィールス、細菌のようなものだ

 。今のところはいつそれが本当に起こるかがわからないだけのことなのかもしれないが、これからは実にいろいろなことが将来にかけて起こるだろう。

 こうしたことは、地球がその病を吹き飛ばそうとするそれなりの試みなのだ。人間が病気になると、熱を出したり吐き気をもよおしたりする。西洋医学が身体的調整と呼ぶもの、それが起ころうとしているのだ。」

「この地球はひとつの生きているオーガニズム、有機生命体であり、より高次な個に与えられた肉体で、それは意志を持ち、健やかでありたいと自ら願っており、精神的にも肉体的にも、ある時は好調であり、時には不調だったりもする。

 人は自らの肉体を尊敬をもって扱わなくてはならないように、この地球であろうとそれは同じなのだ。

 地球を傷つけることが私たちを傷つけることであるということを、知らない人たちがあまりにも多すぎる」

「そういったことを理解するのはそう簡単なことではないかもしれない。なぜなら理解とは書物や教師が話しているような種類のことを知るのとはわけが違うからだ。

 いいかな、理解というのは、愛と尊敬にはじまるものだ。偉大なる精霊への尊敬の中に理解ははじまる。

 偉大なる精霊グレイトスピリットは、すべての生命の中に、ありとあらゆる生き物、植物、そして岩や鉱物のなかにまでも、それは宿る。

 すべてのものというのは、本当にすべてのもののことを言っているのだが、すべてのものは、自分の意志を持ち、自分のやり方を持ち、自分の目的というものを持っている。尊敬を払わなくてはならないのは、まさにこの点にあるのだ」

 
「われわれインディアンの子供たちは、十二歳から十三歳くらいになると高い山に登り、その山の麓で付き添いの長老が待つ間、ある神聖な場所で祈りをあげる。

 そこで彼らは三日間ほど祈るのだが、毛布一枚持たされるだけで、この間子供たちは裸でいなければならず、水も食料もとることは許されない。もし眠りに落ちそうになってもまた起きて祈らなくてはならないのだ。

 するとある時、彼らにビジョンがもたらされる。

 これからの生涯でなにをしなければならないのかということが、そこには映し出される。

 しかしほとんどの場合、子供たちにはその意味がわからない。

 だからありうることとすれば、子供たちは山をおりて、麓のところで、長老に自分の見たものの話をする。

 それから2人は一緒にメディスンマンのところへ行き、そこでももう一度ビジョンのことを語るのだ。

 メディスンマンはそこで、そのヴィジョンを覗き込む。そうしたら次に名前を与える儀式が執り行われることになる。夢の意味が確定され、それがわかりやすい言葉で子供たちに伝えられるのだ。子供たちはそのとき、自分が大人になったことを感じ、新しい名前をもらい、人生における自分の目的を知ることになる」

「政府や、法律、君たちがシステムと呼んでいるもの全体に、自発性というものへの配慮が決定的に欠けている。

 この世界においては、人間は誰でも自らのアイデンティティを持ち、自らの目的を持っているのだ。

 そして、すべての人が、その人のアイデンティティをみつけ、その目的を遂行する道を持っている。

 何人であれその道を妨げてはならないのだ」

「他人の住んでいるところに行って、そこで暮らしていた人々をことごとく大地から切り離して、蹴散らし、行く当てのないままそこから追放したばかりか、その過程において多くのものを殺戮までしておいて、はい、それでは残った皆さんは私どものクラブに入ってもらいますからね、などとよくもまあ言えたものではないか。

 しかしそれは間違っている。

 われわれは彼らのクラブを好まないし、そんなものに入りたいとも思わない。

 本当にそれが良いクラブであるとすれば決して入会を強制したりはしないものだし、われわれのクラブのことだってそのままに放っておいてくれるはずだ。

 いわんや他の国に住んでいる人たちのやり方にいちいち口や手を挟んだりはしないだろう。

 誰にでも自分のクラブというものがある。そしてそれがかりに悪いクラブだとしても、やりたい奴にはとりあえずやらせておくしかない。

 人間はそうやって自分の生きる道を学ぶものだからだ。しかし、言っておくが、良いシステムが自らを拡大しようと試みることなどありえない。なるほど人々の力になることは、悪いことではないが、システムを拡げようとすることは間違っている。」


「現代人は利用することしか話さない。自然を征服し、自然を自分たちの奴隷のようにこき使うことばかり考えている。

このことからまずわかるのは、現代人が自然のことを、その実際の姿を含めて、その「いろは」すらまったく知らないということだ。

 今日の環境それ自体が、その事実をよく証明している。今では誰もが恐れているではないか。

 大気の汚染を恐れ、放射能を恐れ、毒の入った水を恐れている。

 大地は汚染され、資源は消えていくか、再利用が不可能なものに姿を変えていく。

 そして人々は今さらながら、まだ間に合うのだろうかと頭を抱えている。

 ところが、いかなる法律やシステムをたちあげたところで、それによって自然をコントロールすることもできないし、人間の内的な自然であるところの、その人の意識や、おのずとみについている自然な振る舞い、そしてその人の考え方や感じ方までもを、コントロールすることはできないのだ

 もともとそうしたものはコントロールできるようなものでもない。

 当然いかなる個人であれグループであれ、そうしたものが、ある個人の性格やその目的とするものにおいて、その人物がいくら自分と性が合わないからといって、その人の生きる道までをも強引に阻んだり、むりやり変えさせたりすることがあってはならない。

 それにそんなことができるわけもない。なるほどしばらくの間はうまくいくかもしれん。しかし最後には必ずうまくいかなくなる。それは、ひいては、すべての人々を危険に導き、恐怖へと誘うだけのものなのだ」


「だから、ヒーリングのときも、われわれはまずそのことを考慮に入れる。

 本物のヒーラーなら、なにはともあれ患者のカルマと運命のことを考えるものだ。彼は、そのとき自らの道に従う。

 その人独自の内的な進歩やその表れにあたるものを、彼は自分なりのやり方で覗き込み、理解する。

 どこまでもこの道に従うことで、物事ははるかに現実的なものとなり、誰もがトラブルから解放される。

 自然が至上者であり、それだけがわれわれの上に君臨する。

 だからこそわれわれは、われわれの中の自然、つまり人間らしさにも従う。自然は尊敬されなくてはならない。

 一切の生命は、それがどんなものであれ、ただ生きているということだけでも、尊敬されなくてはならない。

 それが、ただひとつの答えなのだ」

<ローリング・サンダーの目にはこう見えていた。次々と作り出されつつある複雑かつ抑圧的な無数の法律には、人間から人間らしさを奪う働きがあって、そのために自己決断と自己制御とが妨げれれてしまい、その結果多くの人たちが心と自然の法則にまったく関心を払わなくなってしまっていると。この悪循環によって、人間の作る法律が自然の法律をわからなくさせているばかりか、それがさらなる無知を作り出し、その結果さらなる混沌が生み出されてくる。そしてしまいにはその混沌を制御するために、さらなる圧制が必要となるのだ。> 「ローリングサンダー」の著者 ダグ・ボイド


(ヒーリングを望む若者に)「なぜ君は今の状態から解放されたいと望むのかね?

               いったいそれでなにをしようというのだ。」

 「なににだって正しいときと場所というものがある。わしらはそう言う。

 われわれはそれを、つまり、なににであれ正しい時が存在するという真実を理解して、それと調和をとって生きる。

 そしてそうやって生きているからこそ、いつごろ、どこに行けば自分の薬草が摘めるのかもわかるのだ。

 本当に必要とするなら、それは手に入れることができるというのは、そういうことだ」

「本当にそれが必要なら、つまり、もし冬の間でも、ある種の薬草が本当に必要になってそれを自分が持っていないときには、やはり同じようにわしは探しにいき、それを見つけてくることだろう。

 わしならこのあたりでさえ、歩き回ることで、冬の真っ盛りに雪の中から夏の花を摘むこともできる。

 つまり、もし自分が真から必要とするのなら、それはそこにあるのだ。すべてわれわれのすることにはきちんとした理由がある。」

 「雑草などと言うものは存在しない」


あの雷の音を聴いてごらん、あれこそが雷の轟き、ローリングサンダーというものだ。雷が空を転げまわっているじゃないか
 「!」



  
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アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/28 15:00

天地‐人のニューヴィレッジ④

 ちょっと外に出て、動物や鳥や木や雲に感謝し、本気で風を感じて、本気で雨に触れ、この地球上で人間として生きるとはどういうことなのかを本気で思い出したら、ここが私たちのもてる唯一の惑星だということに気づくかもしれない。 

 ジョン・ヤング  「グッドニュース」デヴィッドスズキ著 より


                 131031_1347~01



 『箱』の中の脳


 一応、このシリーズのまとめとして今回の記事を書いておこうと思うんだけど、このシリーズを書いてるうちに考えていたことのひとつは持続可能な社会とは、あるひとつの文化形態であると同時に、その背後にある形態の意識が、もっと即物的にいうとあるパターンの脳活動が存在していなければならず、それはどのようなものかということだった。

 思い至ったのは、持続可能な社会とは、意識が本当に自然とコネクトした「接続型文明」でなければならないということだったけど、このことを別の側面から補完しさらなるインスピレーションを与えてくれるような文章に読んでいた本の中で出会ったので紹介してみたい。

 その一連の文章はデヴィッド・スズキ著「グッドニュース」の最終章にあった。

 そこでは、アメリカニュージャージー州で原生自然理解学校という、子供たちに自然の中のサインを見つけたりその中で生きる方法を教える学校を運営しているジョン・ヤングという人物の言葉が紹介されていた。以下その場所の引用。

 ヤングは、四十代前半の男性で、小柄で痩せ型だが、エネルギッシュで活気に満ちている。彼はこう話してくれた。
 
子供たちがコンピュータに向かっているときの脳波を調べてみると、脳の中のごく一部が局在的に使われるだけだということがわかります。一方で子供が庭に出て、ボールで遊んだり、カエルを捕まえたり、木に登ったりしているときは、脳全体に電気信号が送られています

 今や、人々が人工的で制限された対象ばかりを重視することなどから、私たちの文化は、地球が物理的にどのように機能しているかと言う現実と、危険なほど調和を欠くようになった。そして、このような乖離をおしすすめた理論に基づいて、学校の目的も設定されているのだ。

 「私たちは、脳全体を等しく使うのではなく、脳の特定の一部だけをとても激しく使っているのです。どうりで私たちの文化では、バランスも崩れているし、実際の三次元からなる現実に気づいていないし、さらには、自分たち自身の食べ物や空気を汚染することが、いかにとてつもなく馬鹿げているかが理解されないわけです


 これを大人にもあてはめると、先進国で生活する多くの人は、宇宙から切り離された『箱』の内部のような社会で生きることを続けるうちに知らぬ間に脳のごく一部だけを極度に興奮させたような意識常態で生活しているということになる。
 それはまるで無限世界から自らを切り離した『箱』型文明にいるという状態が脳の働きにそのまま対応しているかのようだ。

 
 ジョン・ヤングの師匠はトム・ブラウンといって、アパッチ族のストーキング・ウルフという名を持つ長老から自然のことを学んだ人物だ。ストーキングウルフと言う名は彼が、狼に気づかれることなく忍び寄りその背に触れることが出来たという逸話から来ている。
 
 このトム・ブラウンという名前はどこかで聞いたことがあると思っていたけど、何年か前に彼の著作である「ヴィジョン」という本を読んだことを思い出した。

 徳間5次元文庫から出ているのだが、あまり5次元文庫らしくなく空想的なアセンションストーリーではなく、ものすごく地に足の着いた、そしてある意味とても厳しいスピリチュアリティが語られていてとても勉強になる印象深い本だったことを覚えている。

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 トム・ブラウンはジョン・ヤングにストーキング・ウルフから教わったことをすべて伝授したということらしいので、ジョン・ヤングはネイティブアメリカンのスピリッツを継承しているようなそういう人なのだろう。
 トム・ブラウンは17歳で、師匠と別れてからその後10年をひとり原野で放浪生活をしたというから気合の入り方が、普通のスピリチュアリストとは一味違う。
 現在、アメリカでトラッカースクールを運営して自然の中でのサバイバルやそれに伴う必要のある哲学を教えているという。


 トムブラウンジュニア 伝説のトラッカー(トムブラウンや、トラッカースクールについて)

 漫画家のさくらももこさんがストーキングウルフの教えを絵本にした、この本も有名だ。(さくらももこさんはトラッカースクールを以前受講している)

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 現代文明は、とても高度に発達してあらゆる情報が昼も夜も電波や光回線を通じてかけめぐってい情報化社会だけど実は、脳を局部的にしか使用していない「偏脳文明」とも呼べるものかもしれない。子供を全脳的に育てる方法などは一般化されていないために、義務教育ですでに偏脳化は始まる。
 そして、成長してからも、偏脳的な労働環境で一日を送り、偏脳的な娯楽で一日を終えるということがこの偏脳型社会において広く行われている。

 そのことが、この文明形態が大自然や、宇宙と直結していない「非‐接続型文明」である原因のひとつでもある。
 今後僕らは、エコビレッジや小規模なローカルコミュニティが中心となった「接続型文明」を目標にすべきだが、それは言い換えると「全脳型文明」を志向するということでもある。  

 よく言われる「半農半X」の生活のように、それぞれが自分の得意分野となる仕事をすると同時に、農業や食料調達、必要なものづくりなどに携わるようになればより全脳的なライフスタイルが生まれる可能性がある。


 縄文型と弥生型

 さて、僕は人が貨幣や非接続型文明の社会システムに依存しすぎずに生きていくには、自然界から生きる糧を直接得られることが重要で、そのためには農業をする、その農を中心とした小規模コミュニティが必ず必要だと思っていたが、トム・ブラウンの「ヴィジョン」を読み返してみて必ずしもそうとは言えないな、と思い直した。

 農業をして生きる糧を得る生き方が「弥生スタイル」だとすれば、狩猟や採集をして生きる「縄文スタイル」の生き方も存在する。「ヴィジョン」で描かれているのはこの「縄文スタイル」の生き方だ。

 「ヴィジョン」には、トム・ブラウンや師匠のストーキングウルフが、原野で放浪生活をする様子が描かれているけど彼らは地面を耕して作物を育てて生きてるわけじゃない。大自然のスピリットを敬い、自然とひとつになりつつ原始的な狩猟や採集の技術で命をつないでいるのだ。彼らは原野で生き延びるその技術を「サバイバル」と呼んでいる。

 サバイバルの技術を完璧に学んでこそ、人間社会と距離を置くことが出来る。サバイバルへの挑戦こそが、もっとも基本である体で体験する創造の世界との「ワンネス」について教えてくれるのだ。

 ・・・サバイバルの重要性は、ライフラインが断たれたときに原野で生き残るための方法を知っているという単純なものではない。「保険証券」で片付くものではないのだ。
 サバイバルの技術を学ぶと、人は大地に安らぎを感じ、その鼓動を知り、すべてのものとバランスをはかり調和することができるようになる。サバイバルとはひとつの生きる道であり、無味乾燥な社会から脱出し、地球とその日暮らしを楽しむということなのである。
 
 そうすれば本当に必要なのは、見えないへその緒と呼ぶことも出来る大地とのつながりだけだということに気づくはずだ。大地とは母そのものであり、彼女の存在なしには生きていくことなどできないという、古代の人々が理解していた当たり前のことを私たちも知る。・・・・

                               トム・ブラウン著 「ヴィジョン」より

 もっとも究極的には、本来「村」もいらない。
 そして人との絆以前に、ただ大地との絆があれば生きていけるという事実をこの本は教えている。
 もし「村」があるとするなら、それは大地との絆をしっかり結んだ個人の集合体でなければならない。
 なぜなら大地との絆があってこそ、人は不合理な集団の圧力から逃れ、正しいと思う生き方を守ることができるからだ。

 ただこのような生き方はかなりの技術と、忍耐、そしてなによりも豊富な自然資源や生物多様性がある場所でのみ可能だ。日本で言うと北海道とか、中央アルプスの奥地とかなんかそういうとこでないと成立しないと思う。

 まあ、実際多分都会で放浪生活と採集をして生きる、つまり現代の基準で言うと「ホームレス」の方が簡単だろう。山の中でひとり生きるより暖もとりやすいし、食べ物だって手に入りやすい。でも、「ホームレス」っていうのは確かに縛られるものはないかもしれないが、自然からの糧ではなくこの非接続型文明社会のおこぼれで生活しているということになるのでなかなか誇り高くは生きにくい。自然と直結してないからだ。

 直結してないことで言えば、非接続型文明の構成員も、ホームレスも同じなんですけどね。

 「ホームレス」や「引きこもり」が社会以下という意識に陥りやすいのは、このことによる。非接続型文明の内側で「引きこもって」しまうから問題なのであって、そのシステムを越えた意識に生きれば葛藤は少なくなる。

 広大な原野がほとんど残されておらず、食料になる大型の草食動物も少ない日本ではやはり「村」、農業をメインにした「弥生スタイル」の方が現実的ではあるのだろう。 

 ただ僕はなんとなく「縄文スタイル」の方が、自然界の意識、宇宙とはシンクロしやすいのではないかと思う。農業をすることにより原初の自然破壊が始まり、将来への備蓄、持たざると持たざるもの、地主と小作人などがうまれたことを思うと農業・弥生スタイルというのは接続型文明と非接続型文明との分水嶺であっただろうからだ。縄文スタイル、原初的サバイバルでは「地球とのその日暮らし」を楽しめるが、弥生スタイルが進行するほど人は局所的時間と空間に縛られはじめる。

 UFO(多次元生命体)は縄文人との方が相性がよさそうだ(笑)


 まとめ

 僕はこのシリーズの中で便宜的に、僕らが生きている文明形態を「非接続型文明」、あるいは「箱の中」と呼んできたけど正確に言うと僕らは非接続型文明という箱の中にいるのではない。

 個々人がある意識の信念体系や、周波数帯を生きているのであり、空間的には都市内部の「箱の中」にいても僕らの意識は別の領域にシンクロできる。

 だからこの「箱の中」にもこの非接続型文明をどっぷり生きている人もいるし、自分は金星人だというリアリティを生きている人もいるし、時空を越えた絶対者の意識とともに生きることだって不可能ではないのだろう。ただ空間的に「箱の中」に生きて、その生活の糧を非接続型文明から得ていると、その意識に染まりきってしまいやすいということに過ぎない。

 でもよく考えてみると、この「箱」の狭苦しさと狂気に文句を言う前に、「箱の外」大自然や宇宙、絶対者の領域とシンクロするという選択や努力を行うことだってできる。

 簡単な話し、毎晩夜更かしして酒を飲みながら深夜テレビやゲームをしたりしてる人の生きる現実と、毎朝日の出とともに起きて太陽に手を合わせているような人の意識というのは同じ「箱の中」にいても異なっている。
 前者は箱の中しか見てないし、後者は箱の外にひろがる無限の生命世界を見つめ、そことシンクロしようとしているのだ。

 「箱」から自由になるには自分の意識と生活スタイルを自覚的に変化させていく必要がある。

 「箱」の内部にあるものを整理してみよう。


 ●脳のごく小部分を偏って使用している状態
 ●善・悪、正・邪、優・劣、真・偽などの二元性
 ●マスメディアを始めとする人為的ソースから流れる膨大な情報
 ●時計時間
 ●数値化された現実
 ●ステータス、社会的合意によって得られる虚構の自我
 ●意図的な流行
 ●貨幣をもとにした労働システム
 ●自然界から逸脱した音とリズム
 ●言語化、定義化された現実


 「箱の外」には無限の生命世界、波動世界、大宇宙が存在する。
 そこと共鳴する土台はやはり、弥生型あるいは縄文型のサバイバルであるのが望ましいと思うけど、「箱の中」にいても出来る方法がある。

 ■太陽のサイクルを意識すること

 昔から魔術の修練などでは日の出、南中、日の入り時などに太陽を意識し祈りを捧げたりすることが推奨されてきた。それは箱の外側にある大宇宙の巡りに自分の意識を合わせるためだと思う。

 ■東西南北(磁力線の流れ)を意識する

 東西南北というのは人間がネーミングしたものなので「箱の中」の概念とも言えるが、その概念は南北の磁力線の流れに基づいている。稀にこの磁力線に対する感覚だけで、どちらが北であるかを地図や太陽の位置を見ずにわかる人も存在する。動物たちはみなこの磁力線への感受性をもとに長距離を移動したりしているのだ。通常神社は、社殿が南を向いており、参拝者が北を向いて参れるように設計されている。またメディテーションは北を向いてするのがよいという説もある。

 太陽が真南に位置する時は、もっとも高度が高い。
 太陽の南中時、地上の影は真北を指す。太陽のサイクルに、方位の概念をプラスするとそのようなことがはっきりしてくる。これらがおそらく原始的な日時計などのルーツになっているのだろう。

 ■自然観察 

 自然のすばらしいところは、ミクロにも、マクロにひいても同じような構造や形が相似形であらわれることだ。またすべてに無駄がなく、要らない部分もなく調和しきっているということは森の中の地面などを観察していてもよくわかる。それはまったく曼陀羅よりも完璧な曼陀羅だ。
 人工的な「箱の中」の情報のように、あるひとつの点だけにフォーカスしているのではなく、土にフォーカスすれば土の宇宙が、落ち葉にフォーカスすれば落ち葉の宇宙が開示されるような多面的な情報システムとなっている。そして、それらがすべて調和しているのだ。このような観察を行うときに別の時間に移動するような感覚はあながち錯覚ではないかもしれない。


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 ■肉体の声

 人のマインドがどれほど「箱の中」のパターンに染められていても、僕らの肉体は常に生命宇宙に属している。それはある意味ではもっとも身近な大自然だ。だから常に、肉体を感じたり、動かすことは僕らが生命であることを思い起こさせてくれる可能性を持っている。

 ■意識の修練

 瞑想などを通じて、「無」や「ゼロ」を擬似的に体感することは「箱の中意識」から一時的に僕らを解放してくれる。また瞑想中やヘミシンク音を聴いたときの脳は、より全脳的になるということも知られている。「意識」という要素は実はこの世界の根源であり、世界の事象すべてとひとつである。このことが「箱の中」にいても、自由でありうることの根本的理由だ。




 他にもたくさんあると思うけど、これらのことを自分の暮らしの中で実行することにより、僕らは「箱の中」にいても無限の生命世界とつながった形で生きていける可能性がある。

 すべての物事は最初は人間の心のうちで生まれると言う。
 
 そのような意味では、僕らは今ここで天地と調和した新たな文明を、ニューヴィレッジを築くことができるのだ。



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アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/01 14:50

天地‐人のニューヴィレッジ③

 ■ 持続可能性と接続性

 社会や環境を論じるときによく持続可能性(サステナビリティ)という言葉が使われる。

 「持続可能性」とはあるシステムが、環境との相互作用の中で環境を破壊しすぎることなく、そのシステムも破綻することなく継続してゆけるということを意味する。

 この言葉は持続可能なエネルギー政策、とか、持続可能な介護政策、とか持続可能な結婚生活(?)とか、いろいろな個別分野でも使えるけど、すべてまとめて持続可能な社会あるいは文明ということが結局は大きな論点となる。

 言い換えると、先進国のシステムはほとんどすべて持続可能ではない、ということで北欧の数少ない国などが持続可能な社会のモデルとして研究されているのが現状だと思う。

 しかし僕がちょっと思ったのは、すごい極論なんだけど、例えば映画マトリクスの人間がバーチャルリアリティにつながれてその人間の生体エネルギーがコンピューターに供給されている状態っていうあれだって持続可能だよなーということだ。

 「マトリクス」の持続可能性の何が問題かというと、人間が意識を完全に眠らされていて、現実に「接続されていない」、そして自分自身の意志をもたずその実存をマシンに「利用されている」ということだ。

 ということは、映画の話ではなく現実においても持続可能性以上に、リアリティに接続されているということ、そして主体性を与えられているということが重要なのだ。


 街が巨大な災害で一瞬にして破壊されるのはハリウッドSFだが

 街はつつがなく続いていた、しかし市民たちはすべて眠っていた、、、というのもかなりホラーである。


 僕の考えでは、リアリティに接続されているということは天地とつながっているということであり、個々の主体性というのは実はそれを土台にしてこそ培われるのではないかと思う。

  持続性とは、外面的結果であり、接続性は内面的現実、精神性(あるいはスピリチュアリティ)だ。


 ■ 自己疎外の文明




 海や山、自然の中に入ったときに感じる「あ~気持ちいいー」というさわやかな感覚と、一体感。

 ささいな心配事ならすぐに心から拭い去られてしまうような感覚。

 それって、社会的存在だと思い込まされていた人間が、自然の存在、もっと大げさにいうと宇宙的存在だということを思い出す小さな瞬間なのではないかと思う。

 高山に登る登山家や、深い海にもぐるダイバーが体験するようなpeak experience(至高体験)それは近所の公園や川原で味わう感覚の拡張版に過ぎないのかもしれない。

 森を歩いていて気がつくことは、そこが生命に満ち満ちていること。
 足元の土の中には虫や微生物がいて、頭上を巨木の枝が覆う。
 一体感はこれら無数の生命意識に包まれているということとも関係あるのだろうか。

 生命により包まれていると、一時的に、非接続文明の中で構成された虚構の自我は働かなくなり、宇宙的人間が顔を覗かせる。

 なんの仕事をしても続かなかったりしたとき、僕はこの無言の自然や、生命にかなり慰められたと思う。

 太陽は、どんな状態の僕らでも無言であたためてくれるし、お金を払わなくても夕日は空をすばらしくきれいに色づけてくれる。それはとてもありがたいことだ。

 この非接続文明の中では僕らはアスファルトの上を歩き、コンクリートの建物に住んだりしている。

 どうして土を塗り固めてしまったのか。

 人が自らつくりあげた街の中で疎外を感じ、非接続文明内での虚構の自我と、価値と、他者の承認を絶望的に求めることになったけど、

 それはただ、生命意識の欠如した世界に生きていると言う、ただそれだけが大きな要因だったのかもしれないと思う。

 結局その中では、「自分自身」と接続すること、生命としての自分自身さえ忘れてしまいがちなのだ。

 なぜなら生命とは広がりであり、小さな部屋に閉じこもって暮らしているのはその一部に過ぎないからだろう。

 以下、 デヴィッド・スズキ著「グッドニュース 持続可能な社会はもう始まっている」 まえがきより

 デヴィッドにとってのもうひとつの転機となったのは、カナダの先住民族であるインディアンとの出会いです。デヴィッドが特に好んで語るのは、ハイダ族のリーダーであり、文化伝承者であるグジャウとのエピソードです。ハイダ族の住む島々での原生林伐採を体を張って阻止しようとしていたグジャウを、テレビのキャスターとしてインタビューしたデヴィッドはこう尋ねました。「あなたはなぜ命を危険にさらしてまで伐採を止めようとするのか」。グジャウはこう答えました。

 「木が刈られても私は死にはしないだろう。しかし、その時私はもう私ではなくなってしまう

 森なしに、川なしに、海なしに自分は自分ではありえないというこの先住民族の世界観は、デヴイッドの中にいまだ根を張っていた西洋近代の科学的合理主義に痛烈な一撃を与えました。



 ■ 世界のエコビレッジ


 前回までの記事で、今後現れてくるであろう自給自足を中心としたコミュニティをニュービレッジと呼んだけど、僕がわざわざ命名するまでもなくそのような共同体は世界にたくさん存在して主に「エコビレッジ」と呼ばれているようだ。

 構成員が10名程度から大きいものになると1000名以上の規模まで世界には15000を越えるエコビレッジはすでに存在するとも言う。


 世界的に有名なのは ダマヌールとフィンドホーン。

 ダマヌールはオベルト・アイラウディ(通称ファルコと呼ばれる。2013年6月死去)という天才肌の人物がイタリアトリノ近郊につくりあげたコミュニティだ。
 新たなヒーリング技術のセミナーを各地で開催したり、エソテリックな思想に基づいた「人類の神殿」などが有名だ。人類の神殿のデザインはあまりにすばらしいので、ネットでも一見の価値がある。

 



 

 フィンドホーンはアイリーン・キャディら3人の創設者が「神の導き」と彼らが呼ぶ啓示をもとにして創造したたコミュニティとして有名だ。ドロシー・マクリーンという創設者の一人は主に自然のエネルギーとつながり、そのエネルギーは彼女に、「生命の霊、人間、そして自然が力を合わせればどれだけ可能かを示すために、ぴったり七年間畑からは驚くほど大量の収穫が得られることを約束した」*という。約束どおり、畑は百花繚乱となり野菜は驚くべき大きさに育った。畑は有名になり、世界中からその噂を聞きつけた人が訪れるほどになり、その畑を核にしてのちに共同体が形成される。

 *キャロライン・メイス著「七つのチャクラ」より

 印象としては、ダマヌールは建築物やその秘教思想などが特徴で、フィンドホーンはよりピュアなナチュラリズムに特色があるように思える。 



 エコビレッジ間のネットワーク構想もある程度存在しているようで、僕が思っていたよりもこの分野はたくさんの人が活動し前進しているようにも思えた。


 ■ ニュービレッジと、オールドソサエティの狭間で


 自給自足コミュニティなどで検索していて、伯宮幸明(たかみや さちあき)さんといういう方のサイトにたどり着きこのページの情報がとても参考になった。
 エコビレッジについても、この記事のシリーズで僕が考えてみたことととても考え方が近い部分があるようだった。









 ちょうど伯宮さんのブログにがスピリチュアルテレビというネットテレビに出演するという情報が載っていたので視聴してみた。その回のタイトルは、「旧勢力の暴走からどう私たちを守るか」というものだった。

 伯宮さんという方は、震災前栃木で自然農法に基づいた自給自足生活をおくっていたけど、原発事故によって滋賀に避難して今はそこで農的な暮らしを実践されているということのようだ。

 結局、次の時代に向けた地に足の着いた農的な暮らしを実践していたところをほとんど人災と呼べるようなあの事故により安心して生活できる土地を奪われたということ、それから2年たち各地の原発を再稼動する動きがあることなどがこの番組の中で伯宮さんが訴えたいことの核にある。

 それはいくら個人やグループが新たな村・文明・文化を形成しようと努力しても、現段階ではそれは日本国家や自治体と言う枠組みの中でアクションするほかなく、それはそのままこれらのシステムの法や、政策によってその存続を大いに左右されるということを意味する。

 わかりやすい話し、このようなエコビレッジムーブメントが拡大しても、それと平行して旧システムの枠組みでは原発が次々に再稼動し、またどこかで巨大地震が起こり原発が再び破壊されるとあたらしい村づくり、地に足の着いた生活が破壊される、新たな文明の足場がなくなる、ということになる。

 もともとニュービレッジと、オールドソサエティは要所要所でバッティングすることはその性質上避けられないのかもしれない。

 伯宮さんは、食料、水、エネルギーのほかに、医療、教育などの分野でもそれらを新しく「自給」していくことの大切さを話しているけど、オールドソサエティの「法」では文部省により認可された義務教育を意図的に受けさせないことは親の義務の放棄になるし、医師免許を持たずに医療行為を行うことはもちろん罪になる。
 つまり完全に新たな文明を勝手に創造する、ということは犯罪行為になってしまうのだ。

 今は犯罪ではないことも、新たな法律などをつくられると、自主的な動きが封じられてしまう可能性がある。

 だから完全にオールドソサエティから目をそむけるのではなく、新たな希望の芽をつんでしまう様な政治の動きなどには声を上げることの必要性も動画の中で話されている。


 ■ 人間関係のエコ学


 都会で生きるということは、貨幣によって生きるということでもあり、少しは孤立していたりしても仕事さえしてれば生きていけるという面はある。
 しかし、もしかするとそれは僕らが人間関係のエネルギー学に無自覚でも生きていけてしまう、という負の側面をもっているのかもしれない。
 付き合う相手に必要以上にエネルギー的負荷をかけたり、不快な思いをさせるパターンを自分が持っていたとしても都会の距離感の中ではそれが修正される機会もないまま暮らしていけてしまう部分がある。

 それは持続可能ではない対人関係だ。

 持続可能ではない社会では、持続可能ではない対人関係が幅を利かせるのかもしれない。

 しかし、共同体の密な関係で生きるなら、それぞれの構成員が自分の対人関係のエネルギー学に精通していなければ多くのトラブルが起こるだろう。

 そこでやはり「持続可能な」エネルギー的関係を築く必要性を、個々人が認識している必要がある。

 「持続可能」ということは、やはり特定の人に負荷がかかってないことだと思う。

 自分も相手もウィン(win)・ウィンの関係を築くことを理想とするアサーションテクニックでは、自己主張のかたを3つに分類する。

 ひとつはアグレッシブ。
 これは自分ウィン・相手ルーズあるいは自分‐善(正)・相手‐悪(誤)という意識に基づいたもので、一方的に怒鳴ったり、好かしたりして、自分の意志だけを主張、対話する意図を欠いた態度だ。

 もうひとつは、ノンアサーティブ。
 これは相手の態度や関係性に違和感を感じても、それを表現せず、抑圧する、あるいは見てみぬ振りをする。我慢する。しかしこれは自分・ルーズ、相手・ウィンという認識になりがちで抑圧された怒りなどを蓄積し、爆発するということにもつながりやすい。

 アグレッシブと、ノンアサーティブは紙一重だ。

 これらはどちらも、長く続くと、持続可能ではないエネルギー的関係だと言える。
 日本の社会は基本的にノンアサーティブというアンバランスを基礎にして回っている。


 ■ 持続可能な介護て・・・(余談)


 持続可能性という言葉をもてあそんでいると、やはりそれを今やってる仕事にもあてはめて、「持続可能な介護」ってどういうのだろうと考えてみたくなる。


 僕の仕事は病気や事故などで障害を持つ人が対象の、在宅介護ヘルパーなので、朝に利用者の自宅に行って、9時間~13時間生活のサポートをするということがミッションなわけだけど、基本的にこのヘルパーと言う仕事はノンアサーティブになりがちで、むしろそうあるべきだというポリシーを持っている人もたくさんいるだろう。

 相手は肉体的ハンディキャップを持っていて、精神的にも健常者に対するおそれを持っているという場合が非常に多い。その恐れが、ヘルパーに対して支配的な態度をとらせたり、攻撃的にさせたり、逆に極度に依存的、卑屈な姿勢になってしまうという場合もあると思う。

 だからヘルパーと言う立場にあるなら、多少理不尽なことを言われたり、されたりしても「はい、はい」と寛容な気持ちでサービスを提供しているべきだというのだ。

 このことに関しては、僕もある程度はそれも仕方ないのかなと思うし、いちいち「その言い方はおかしい」とか「失礼なことを言わないでください」と反抗していたら仕事自体がなりたたないというところがあるのは確かだ。というのは障害を持っている人は、健常者の常識とはかなり異なった意識で生きている人が多いからだ。(もちろんすべての人がそうではない)これは差別でもなんでもなく、人間環境が異なれば、違う常識を持つようになるということに過ぎない。むしろその『違う』ということ、何が僕と異なるのか、それをはっきりみつめる意識がどうしても必要になる。

 どのようなプロセスの果てに、その人が僕らと異なる「常識」を持ち、その結果時には人を不快にするような言動をしてしまうのかということの理解がその人の気持ちや、人間性に寄り添うことになるからだ。

 でもおかしいことに対しては、やはり言わないと、逆差別というか逆虐待(?)みたいなことが常態となり結果ヘルパーが燃え尽きてしまうということも起こる。

 在宅介護は密室の人間関係で、肉体的に利用者は弱者なので、ヘルパーから障害者への虐待が起こると同時に、利用者側からノンアサーティブになりがちなヘルパーという役割への情緒的な虐待も起こりうる。ただそれはたいてい肉体的な被害ではないし、仕事柄仕方ないという認識からあまり公にされないだけだと思う。

 そのようなトラブルは、一日10時間とかをかなりの至近距離で密着して過ごす(障害の程度にもよるけど)という普通親子とか、彼氏、彼女じゃないとないような密着度により距離感が計りづらいということとも関係してる気がする。

 詳しい詳細は書けないけど、僕が最近聴いたケースではちょっとしたことが原因で利用者がヘルパーを頭ごなしに叱り、それに対してヘルパーが反抗したことにより何年も続いた関係が壊れてしまい、そのヘルパーさんはその職場を去るということがあった。とても頑張って仕事をしているヘルパーさんだと知っていたので、それを聴いてとても悲しい気持ちになった。

 こういうことはどちらに問題があると簡単に言える事じゃないけど、ただ思うのはそれは持続可能な介護じゃなかったんだろうなということである。
 どこかに歪みの蓄積があり、ノンアサーティブの歪があり、禍根があり、激しいストレスがあり、それがふとしたことで自分でも制御できないうちに破裂したのではないかと想像する。

 もしそうなる前に、誰かに相談できたら、そうはならなかったかもしれない。

 このことをきっかけにヘルパー同士の意見の交換のミーティングのようなことが、前より頻繁になったみたいだけど、そういう場で感情や困ってることをシェアするというのはすごくやはり大事なんだと思う。

 たとえば、いつも不機嫌そうな顔をしてる利用者さんだったとしても、それが自分に対してだけではないということがわかるだけで気持ち的にはかなり楽になるからだ。

 介護というのは1対1では、かなりのプレッシャーで押しつぶされる可能性があるものだと思う。
 自分の背後にサポートしてくれる集団がいると知ってると知らないとでは、感じられる心強さがかなり違ってくる。

 そのようなミーティングと同時に、もしもその利用者が平均的な知性と、自己意思をもっている状態ならヘルパーに対する研修と同時に、利用者に対しても簡単な研修を行うほうがよいのではないかと僕は思う。

 そのような研修を双方が行うことで、お互いが陥りやすいアンバランスな関係や、トラブルを事前に予防できるのではないかと思う。

 それは利用者に対する負担ともなるかもしれないけど、ある意味人間と言うそれぞれ個性を持った複雑なものを派遣して、「さあ、好きなように使ってください」と言うほうが不親切で、簡単な「取り説」くらいは事前に渡したほうがよいと思うのだ。




 かなり余談になったけど、人が生きていて、病気になったりする限り、エコビレッジでも介護と言う課題はあるだろうし、その介護も多分今までとは異なった新たな枠組みを創造しないと成り立たないと思う。介護も人間理解に基づいた研修を利用者‐ヘルパー双方に事前に行えば、ずいぶんクオリティが向上するはずだと思う。



アセンション考 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/09/30 20:56

天地‐人のニューヴィレッジ②

 ■ ニュービレッジ・ムーヴメントの役割と可能性

 確かに数十年以上前から、自給自足のコミュニティをつくったり、その中で持続可能な文明のモデルを模索してる人はたくさんいたと思うけど、今事態は少し切迫の度合いを増しているように僕には思われる。

 東京から200キロほど離れた場所では原発から汚染水が地下水に流れ続け、4号機倒壊の可能性もいまだ消えず、首都直下型地震や南海トラフ地震の可能性、気象庁が運用を始めた「特別警報」に該当するような自然災害の可能性が一段と高まってきているというような状況がそう思わせるのかもしれない。

 TPPというただでさえ弱い日本の農業、食料自給率を根こそぎにする協定に国が参加を始めているということもあるかもしれない。

 このような状況の中で、ニュービレッジはおおよそふたつの役割を持つ可能性がある。
 
 ひとつは「サバイバル村」。

 自然災害や、経済的破綻、それらに伴う食糧危機時などにおいて食料・水を始めとするライフラインのバックアップとして自然の資源や、ローカルなネットワークを活用するコミュニティとなること。

 もうひとつは「新たな文明の雛型」。

 農を基本としつつも、新たなエネルギー技術、心身総合医療、スピリチュアルな知恵、通信手段、メディアなど多くの分野の知恵を結集したコミュニティ、持続可能な文明の雛型を個人や小規模なグループのレベルで創造して、その価値観を世に問うていくことだ。

 占星術家マドモアゼル愛さんの著作に『森と平野に文化定住する時代』という本があるけど、ニュービレッジは、この本の中で<森に住む人たち>に該当する。

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<森に住む人々>は<平野に住む人々>、大企業に関連する人々、金融に関連する人々、国や自治体などの公的機関とも共同できることが理想的だ。

 スピリチュアルな思想でよくある「二極化」という言葉で、平野的な生き方、都市生活やテクノロジーを断罪して切り捨てるべきではないだろう。

 大きな災害が起これば自衛隊のような訓練された組織や、重機などが必ず必要になってくる。

 よく心身総合医療などで言われることだけど、メンタルな部分をケアしたりすることが重要であると同時に緊急的な外科的措置というのは絶対に必要であるし、それを軽視するべきではない。
 この場合自衛隊のような組織は、緊急時の外科的措置に該当する。 

 外科的措置や、薬の投与、MRIやCTなどの技術を、エーテル的レベル(鍼灸、気功、整体)感情体レベルの治療(イメージ療法など)と統合・調和することが求められているのと同じく、山の生き方と平野の生き方を統合することによってこそ新たな可能性が生まれると思う。

 ただ今はあまりにも「山の生き方」の実践度が低いので、自給自足や農に意識を向けることがマクロレベルで求められているのだ。 

 今後仮に、このまま自然災害の脅威や、経済の破綻、食糧危機などが未知のレベルにまで進行した場合、その対策を担うのは主に国や自治体レベルとなってしまう。もしそうなった場合、そのレベルの組織のありようが人の生殺与奪を担うことになる。そして、外科処置的な、対症療法的な措置(瓦礫の撤去だとか、災害の予測技術、食糧の配給など)のみが重要視され、新たな世界へのキーワードとなる「山の生き方」、大地とのリコネクションが忘れられてしまう可能性がある。

 それは、マズイと思う。


 ■情報のグローバリゼーションと、ローカリゼーション


 20世紀は情報のグローバリゼーションの時代だった。

 1906年に初のラジオ放送(それは外洋を航行する船舶へ向けたクリスマスの挨拶だったそうだけど)をして以来、100年と経たない内に映像受像機(テレビ)の一般普及から、80年代、90年代からパソコンによる個人レベルでの情報の受送信が可能になった。
 今では一人一人が携帯型のコンピュータ(スマホやタブレット)で、WEBと常時連結しているということが普通になりつつある。

 これら一世紀に満たない間に起こった、幾度にもわたる情報・メディア革命により僕らは世界の裏側で発生した事件を、ほぼリアルタイムで知ることが出来るようになった。世界の裏側どころではなく、アポロの月着陸の際には、遥かはなれた宇宙空間で行われたパフォーマンスを世界中が見つめた。 

 しかし、これは大きなストレスにもなることだった。僕らは同時に世界のいたるところから送られてくる、
ネガティビティにもさらされることになったからだ。最初の衛星放送で日本人が目撃することになった、ケネディ大統領の暗殺、発展途上の国でやせ細り目を見開いた子供たちの映像、あの2001年9月11日に崩れ落ちたWTCの映像などその数は枚挙に暇がない。   

 これほどメディアが発達する以前は、僕らはきわめてローカルな情報しか知らなかったはずである。
 本当に自分の村の周りで起こる限られたことを、見聞する。メディアと言えば、「瓦版」みたいなものが出回って、遥か遠い「江戸」で起こってることを伝える。そんな時代だって確かにあった。

 人がただ江戸時代に小さな村で生きるだけであれば、地球の裏側で起こったことなどまったく知る必要はない。
 しかしWTCのテロ映像を見て、みなが衝撃を受けるのは、様々なグローバリゼーションの結果として地球が小さくなったからだ。
 それはよくも悪くも、まったく他人事ではなくなってしまった。

 恐怖も善意も一瞬で世界を駆け巡る、いつのまにかそのような時代になったのだ。

 このような時代にあって、あえて今一度の情報のローカリゼーションが必要なのではないかと僕は思う。

 それはあえて情報回路を一番原始的レベルにまで退行させること、つまり自分の目と耳、そして感覚、直観で得られる情報のみにフォーカスすること、一切のメディアを一時的に放棄することだ。

 そうするとどうなるかというと、僕らは目の前にある現実、目の前にある人々との関わりにエネルギーを多く傾けるようになる。

 そして、無数に発生している世界の悲劇や醜聞にエネルギーや注意力を注がなくなる。
 
 大地と結びつき、自分の目と耳で見聞した情報を広げていく、ローカルに得た食物、情報、をグローバルに流していくということが大事なのではないだろうか。
 
 でないと、ローカリゼーションのない情報グローバリゼーションというのは単なる個人の意志や大地の生命を喪失した、冷たい情報ファシズムに意識を明け渡しているに過ぎないのではないかと思う。

 2001年に9・11が起こりその直後、欧米、日本の主要メディアはイスラム原理主義のテログループの犯行だと報道し、それに続くアフガニスタン、イラク侵攻への道を整えた。

 それから数年たってネットメディアでは、実は9・11は周到に巨大な勢力によって演出された陰謀で、その目的はもともと軍事的な侵略にあり、そのためにおこなった自作自演だったという説が広がった。

 これらの情報はまったく内容は異なるが、そのどちらに飲み込まれても、僕らは自分自身や自分の肉体感覚との結びつきというローカリゼーションを失ってしまう。「隠された真実」のグローバリゼーションにも大きな罠がある。その『真実』が、自分自身の知恵や命、大地と僕らを切り離してしまう限りにおいて・・・。

 そうならないように、どのようなプロパガンダにも乗せられすぎないように。グローバルな情報網に載る情報を、ローカルな大地・肉体・感覚・直観に基づいたものにしていくことで真の生命ある情報ネットワークが構築される気がする。

 ニュービレッジ間で構築されるメディアはそのようなものであって欲しい。


 ■潮流


 最後に、1970年代から自給自足の暮らしを実践しているパーマカルチャー安曇野の臼井健二さんのお話し



 からだの使い方や、ヴェーダンタ思想のレクチャーもあったりして面白い。

 『農』と、豊かなカルチャーやスピリチュアルな考え方が結合したら、絶対にすごいものが生まれるはず。



 「365日働かなくて、365日遊んでても生きていけるんだって」

 いいなーそれ^^ 
 
 

 
 







アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/09/16 20:40

天地‐人のニューヴィレッジ

 ■天地の巡りの中生きているらしい


 寝起きに、ある気づきというか「考え」のようなものが心の中を漂っていることがたまにあるけど8月の半ばくらいに「天地の巡りの中生きている」という言葉とそれにまつわるいくつもの「考え」がずっと回転している朝があった。
 
 それによると今を生きる僕らの、本質的な悩みの大本は、その天地の恵みによって生きているという実感がまるでないことからきているようなのだった。今回はその寝ボケた頭に回っていた「考え」を整理して書いてみたいと思います。

 

 ■「何によって生きていると思っているのか?」


 では、天地の恵みによって生きていると言う実感がまるでないとすれば、都市文明に生きる僕らは何によって生きていると実感しているのか?

 それは多分、食料品を手にいいれる店舗(スーパー、コンビニ、小売商店etc)であり、水道(水道施設)であり、電気(電力会社)であり、ガス会社であり、情報を提供するメディア(TV、ネット含む)だ。

 そしてつまるところは、それらからサービスを得たり、物を得るための対価として支払う貨幣だ。

 その貨幣を得るために働ける労働環境(工場、企業、公的機関、自分が経営する店舗)によって生きているという認識が大半の人に共通のものとなっている。

 僕ら都市型文明人は、天地の巡りによって生きているとはほぼ実感していない。

 貨幣と、仕事によって生きていると実感しているのだ。
 

 ■人は、生かされてるものに従順になる


 人は自らを生かすものに従順になり、無意識的に忠誠を誓うように出来ており、都市型文明人の場合、それは「天地」ではなくこれら現代日本のシステムと、「貨幣」(実質的には絵と数字が印刷された紙や金属)である。

  大地や、海、自然の恵みによって生かされているという認識は自らの手で魚や海藻を獲ったり、大地に種をまき農作物を収穫したり、井戸水を掘ったり、水源地から水を汲んできたりという経験からしか生まれようがない。 
  無農薬や自然栽培の野菜さえお金を出せば、遠い場所からいくらでも宅配されるという環境の今、それらは汚染されていない豊かな土地と水なしには成立しないということさえ、僕らは忘れずにいられるだろうか? 



 ■なぜ天地の巡りの中で生きていると考える必要があるのか?


 しかしどうしていけないのか?

 種をまいたり、水を汲んだり、薪を割ったり、火を起こしたりせずとも、このシステムの中では生きていける。
 極端な話し、お金さえあれば、家の中でじっとして一日に十数メートルしか歩かなくても、生きてゆけるのだ。
 足元の大地を命を支えるものとして敬い、空から落ちてくる雨を讃えなくても、確かに僕らは生きていける。

 それのどこがいけないというのか?

 おそらくそれは、人が自然のエネルギー循環とあまりにも切り離された場合、このシステム内部において価値があり、見栄えがいい虚構の自我を探さずにはいられないからだ。

 自然のエネルギー循環の中で生かされているという認識がはっきりしたものであるならば、「天地の巡りの中、生かされている自己」というものだけで本来人の自我は安心するものではないかと思う。

 しかし、それが出来ない場合、人はこのシステム内部で機能する、価値のある自分を模索する。

 それは自ら、自分の頭や足を切り離した人間が、何か出来合いのガラクタの中からその代用となるものを探して無理やりかけがえのない自分の頭や足のあった箇所にすげ替え、くっつけようとしているかのようなグロテスクさと滑稽さがあるように思える。

 僕らは、このゲームの最初から迷い続けるように定められていた。

 ある意味、この時に生れ落ちたときから、そうなのだろう。
 
 天地の中の自己を見出さない限り答えはない。
 本来その中では、生はシンプルで、自明のことだったのではないだろうか。


 ■天地‐人


 天地と言う概念について考えてみる。

 天は、見えない「大いなる意識」、摂理、知性、あらゆる英知を含んだサムシング・グレート、今、僕らの心臓を動かせているその「意志」生命力の本体、可視的宇宙の『種』である。

 地は、惑星と恒星、大自然、海、大地、山河、動植物、そこから得られる海の幸、山の幸、農作物などで天の意志が人を介さずより直接的に顕現したものだ。
 天が『種』とすれば、地は『樹』である。天は父であり、地は母だ。

 その間に『人』がいる。

 それが僕らの本性だと思う。

 都市文明に生きる僕らはなぜか、自らが「人」により生かされているという認識も希薄になりつつあったようだ。

 都市文明は本質的に、消費者としての個(虚構の自我)を尊重し、他者よりも自分を一ランク上に置こうとする衝動によって購買意欲を促進するという側面をも持っているからかもしれない。
 
 あるいは10代から始まる、競争原理に基づいた選別のプロセスにも原因があるかもしれない。

 あるいは、他人の醜聞や、人を小ばかにすることがエンターテイメント化していたり、大企業による人を道具化した使い捨て、自己責任社会という名の国家的責任放棄社会にも原因があるのかもしれない。

 2011年の、3・11をきっかけとして『絆』や『ひとつになろう日本』という言葉がメディアに広がった。

 それらは巨大な災害に直面した結果として出るべくして出てきたキーワードだと思うが、どういうわけか日本人の場合助け合いの精神は容易に、「一緒に見てみぬ振りをする絆」や、「ひとつになって口をつぐむ日本」にも転化するような危険性を持っているように僕は感じてきた。

 それが極端になったのがみんな一緒に放射能が含まれた農作物を食べて、被災地を応援しましょう!という「食べて応援」運動だった。

 この項の始め、天地人ではなく、天地と人をハイフンで結んだのはこのようなことと関係がある。

 確かに人は、他の人や、社会自体に生かされているのであるが人の集団同調性というのはあっというまに全体をおかしな方向へと押し流していく。

 天と地に間違いは存在し得ないが、人は誤る。
 とすれば人との「絆」(それも集団同調的な類)を至上のものとするのは、明らかに誤りだ。 


 ネイティブアメリカンのある部族では、成人になるイニシエーションとして大自然の中にただひとりで赴きそこで一人サバイブし、ビジョンを得たりすることで一人前とみなされる。

 ここで面白いのは、このイニシエーションは、「社会へのイニシエーションではない」と言う点だ。

 社会(人)以前にある、天と地へのイニシエーションであり、自然の中でエネルギーを得て一人生きられる、ということが大人になるということだったわけだ。

 そして社会(部族)とは、個々天地のイニシエーションを通過したものたちが構成する、二次的なものだったのだろう。
 ところが日本社会の場合伝統的に元服、成人になるということは社会的な責任を負う、ということと等しくみなされている。
 働く、であるとか、礼儀であるとか、モラルであるとか雑多なものがたくさん「大人」という概念を構成しており、そのために一人前になるとはどういうことかよくわからなくなっている。

 しかしそこにはやはり、自分で生きるだけのエネルギーを調達できる、周りに頼らずともこのシステムの内部でエネルギー(貨幣)を自分で調達して生存していける、ということが「大人」という概念には通底している。

 都市文明型の先進国の場合、天地の中で生きられずとも、社会の中で生きられれば「大人」になれるということだろう。


 ■近くて遠い、命の水


 伝統的なネイティブアメリカンの基準で言えば、現代の日本はそのほとんどがイニシエーションを通過していない未熟な子供によって構成された部族ということになるかもしれない。 
 
 生きていくうえで一番大切となる飲み水さえも、水道や、市販のミネラルウォーターを買うと言う手段をとらなければ、どこで手に入るのかほとんどわからないという事実に少し愕然としたことがある。

 基本的に水を得るには、


 ①雨水を集める

 ②井戸を掘る

 ③湧き水、川、湖などの水源地を知っている

 
 の3つくらいしかないと思うけど、僕の住んでる場所ではこのどれも簡単に出来そうもないのだ。
 現状では僕もやはり天地の中で生きるというイニシエーションに合格するとは思えない。

 福島第一原発から放出された放射性物質は、雨となって東北から関東にいたる広大な土地をチェルノブイリの放射線管理区域レベルにまで汚染した。事故直後には東京でも飲料に不適当なほどの放射性物質が検出され、今でも微量が各地で検出されている。

 このことが教えるのはシンプルな事実だ。
 天地の巡りを汚染すると、人為的なシステム内部にも必ず影響が及ぶ。

 あまりにも当たり前のことだけど、僕らはこの事実を見てみぬふりをしてきた。
 案外このような負の影響によってこそ、もしかすると天地の巡りの中で生きているという実感をようやく僕らは学びつつあるのかもしれない。
 通過儀礼を未経験の日本部族というある意味こどもの集団にとっては、それこそが天地のイニシエーションなのだろうか。 

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 高尾山蛇滝口付近にある、水汲み場。

 都市部にもこういう地下水などの供給場所が必要だ。なぜ井戸を埋めてしまったのだろうか。。。



 ■実感を得るためには


 整理してみると、天地の巡りの中で生きているという認識を持つことによる利点はふたつある。

 ひとつは、そうすることで初めて真の意味で、環境保護や自然と調和したエコロジカルな生活というものに本気になれる可能性があるということ。

 ふたつめは、そうすることで初めて、システム内部でのみ価値をもつ虚構の自我認識から、天地の狭間で生きると言う本来の自己意識にシフトできるということ。

 ひとつめは外面的な利点、ふたつめは内的な利点だ。

 実はどんな状況下においても、人が天の意志において生きているという事実は変わらない。

 今、僕らがこの自分の日常と言う人生の一コマをまるで当たり前のように眺めていられるのは、大本の『種』の生命力と「生きよ」という意志があるからこそだ。
 今、僕らがここにいるのは大いなる意識、父の意志があるからだと僕は信じている。
 <種>とのつながりがあるからこそ、僕らはこのように生きて、この世界・<樹>をこの目に映している。
 それがどんな世界であったとしても、だ。
 
 より微細なエネルギーほど、人の管理を超えていたるところに遍満している。
 第一に<種>の意志、そして、太陽光や、呼吸に必要な酸素もそうだ。
 それらを意識することで、都市に生きていてもわずかながらは天地の恵みで生きているという感覚を得られるだろう。 

 天はいつでもある。
 問題は、地との絆だ。
 僕らは文字通り、大地により生かされてるという認識がないがために、「地に足がついていない」。
 さまよえるユダヤ人のような心持ちで漂泊の日々を生きている。
 
 もっとも実質的な答えは、大地を耕したり、井戸を掘ったり、採集をしたりして自給自足的な生活を送ることだと思うけど、誰にとってもすぐに実行できる答えではない。

 僕にとっては、今いる場所でできることといえば前にも書いたけど、いろいろな分野での自家発電レベルをあげていくということだ。
 
 情報・思想の分野ではなるべく定期的にTVやネットから離れる時間を設け、直観的に感じることや、ひとりでに心に入ってくる情報への感度を研ぎ澄ませること。誰の語ることでも、一歩引いてその情報を吟味すること。

 肉体やエーテル体のレベルで、自分の体を活性化できるようなエクササイズをみつけて、行うこと。

 あとは手造りのレベルをシフトさせていくことだ。

 いつも毎食外食や、スーパーのお惣菜を買っているのなら、一食くらいは自炊してみる。
 
 何回かお酒を造ってみたことで、酵母の働きなどが少しわかってとても勉強になった。
 僕らの生活を成り立たせている各要素の根源に向かって意識を遡行させていくと、とても多くのことが学べるのだなと思った。
 それは机上の知識ではなく、実生活の基盤を成り立たせる生きた知識だ。 
 そういう領域に少しづつでも触れていくということが今後、必要なのではないだろうか。
 手造りのレベルを少しづつ、根源に遡行させていくことによって少しづつでも大地に近づけるように思うのだ。

 しかし究極的には、マクロのレベルで大地と結びつく機運が盛り上がらない限り、この国は相当ヤバイことになってしまう気がしてならない。

 TPPに参加したり、衆議院選で現与党が圧勝したりしている様子を見ても、この件に関しては政治にはほとんど期待が出来ない。個人的には政治や、オリンピックのようなイベントに期待する時代はもう終わったと思っている。

 そうすると自然的に有志のグループ、あるいは個人が大地と結びついた暮らしを実践するしかないわけで、結局話しは村づくり、コミュニティつくりが必要だということになっていく。

 村と言うと前時代的な感じがするけど、それはかつての生活形態に退行するのではなく、大地との絆が重要だと気づいた人が前向きに今あるテクノロジーも取り入れつつつくりあげるようなものになる。

 古く見えて、実は新しい村、ニューヴィレッジ、その出現が必要とされている。

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アセンション考 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/09/14 19:51

なんとなくからのPrepper


 Prepper(プレッパー prepareを名詞形にした造語)という言葉を時々目にする。

 ちょっと前にCSのナショジオかなんかでもこれを取り上げた番組が放送されてるのをちらっと見たので、結構メジャーな概念になってるのかもしれない。

 Prepperとは主に欧米で、自然災害や、経済恐慌、いろいろな人災などが起こって社会が機能しなくなった時にサバイブできるように今から準備をしている人たちのことを言う。その準備というのは食料の確保やシェルターの建設とか、ガスマスクの用意とか、金の購入とかその人の考えに基づいていろんなレベルで行われているんじゃないかと思う。

 一説ではその数は全米で300万人と言われる。

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 一昔前に日本で堂々とプレッパーをやってると、かなり変人扱いになったと思うけど、今ではある程度のプレッパーであることは一般認識としてむしろ推奨されているように思える。

 それは東北で発生する懸念のあるアウターライズ地震や、首都直下、東海、南海トラフなどのへ個人レベルでの備えとしてもあるだろうし、先月山口、島根で発生したような常識はずれの局地的豪雨(300ミリ
以上という平年の7月の降水量に匹敵する量が一日で降った)などへの警戒としても行われてると思う。

 でももっと日常のふとしたこと、、、例えばこれだけゲリラ豪雨が増加している中で、スマホにゲリラ豪雨を警告するアプリを入れたりするといった小さな「備え」でも、それが日常化しているのを見るともうすでに僕らはプレッパー達の仲間入りをしているともいえるかもしれない。

 他に、家庭菜園のブームみたいなものもある意味プレッパー現象じゃないかと思う。

 それは多分危機感に基づいたものじゃなくて(基づいてる場合もあると思うけど)、純粋に自分の手で野菜を育てるのが楽しいし、自分で育てたものはおいしいという「喜び」に基づいている。こういう本来の、深いところからの喜びに基づいた行動が、結果的には危機への備えとしても成立するというようになっているのではないだろうか。

 危機感によるのでもなく、禁欲的になるのでもなく、ただそっちの方が楽しいからという理由で結果的に来るべきものへのプレッパーになってるという人がたくさんいるような気がする。

 僕のここのところのテーマはずっと「自家発電」で、テレビやネットを控えたり、呼吸法をやったり、なるべく自炊したり、と意識的になってる行動は全部自家発電感を研ぎ澄ませるためのものだったようだ。

 でもそれほど禁欲的になってるという自覚はなく、数年前にテレビを捨てちゃった時も、ストイックな理由でそうしたのではなく、「テレビない生活って考えただけでわくわくするなー」というある種わくわく感が原因だった。その感覚は、間違ってなくて、捨てた直後は、「う・うわー今日も、明日もテレビがねえ!すげー興奮する!」という感じでした。

 だから3・11の時も、ワンセグもみたけど、原発の状況などに関しては主にネットで情報収集し、その中で拾ったものを自分の感覚のふるいにかけて全体像を推察するという感じことをしていた。その全体像は、テレビだけで情報を拾うよりも実像に近かった。

 家にテレビないのはもう日常化したのでなんとも思わないし、興奮もしないが、今まで頭の中にあった日曜から土曜までの各局の番組表が数ヶ月で完全に消えてしまった。今では覚えてるのは、木曜日の夜10時にダウンタウンDXがやってることくらい(松ちゃんが好きなので)。まあ金曜の夜9時からの金曜ロードショーもやってるんだろうけど。
 これは多分、ないほうが楽しいし調子がいいから、日常化したんだと思っている。

 意外と世間においていかれないんすよね。
 なんでかわからないけど、スギちゃんていう芸人が「ワイルドだろー」というネタでブレイクしてるらしいとかいう情報は知識としてどこからともなく入ってくる。でも、これだけじゃナニが面白いのか、まったくわかんないけど。でも、そのことがまた面白いんですよー。

 刺激に飢えてるそこのあなた!テレビを捨ててみましょう!興奮しますよ、最初は(笑)


 ネットでもいろんな動画をチョイスして見れますし。 


 『地球少女アルジュナ』をバンダイチャンネルで4話まで見たけど、すごく面白かった。

 最初のほうはロボットとか出てくる、スーパーヒロインもの萌え系アニメみたいに見えるけど、3話~4話くらいで趣が変わる。

 第4話に、自然農法で作物を育てて暮らしている仙人みたいなおじいさんが出てきて、主人公の樹奈に自然の摂理について教える。このおじいさんがやってるのが有機農法でも無農薬でもなく、自然農法というのがホントにマニアックというか、思い切ったアニメだと思いました。

 自然農法というのは、耕さない、農薬、肥料を使わない、虫や雑草となるべく共存するという農法で、アニメの中では一見草ぼうぼうの中にきゅうりやかぼちゃ、アスパラが無造作に生えているというシーンに表現されている。

 「草刈りなんでサボるんですか?」と質問するヒロイン樹奈に、おじいさんは答える。


 「なんで草をとる必要があるんだね?

 草刈しないと、花や野菜が雑草に負ける、か・・しかしうちの野菜が草に負けているかね?

 ちゃんと育っていないかね。ちゃんと現実が、目の前の現実が見えているのかね
。」
 

 バンダイチャンネル 地球少女アルジュナ 第1話 「時のしずく」


 このじいさんを見てて、すぐに頭の中に福岡正信という人のことが思い浮かんだ。

 「わら一本の革命」などの著作で有名な、自然農法の実践家だ。(2008年 95歳で没)

 真っ白いひげの風貌と言い、明らかにこの人がモデルのように思えた。
 6分40秒くらいにでてくる福岡さんの農園は、ほとんどアニメの農園と同じ。

 


 この人のお話は、とても本質的なレベルで心に訴えてくる。

 人間には草木一本作れない、というのはそのとおりだ。だからなるべく何もせず、自然にまかせて作物を育てる。その自然への全託の様はイエスの、「あなた方は髪の毛一本白くも黒くもできない」という言葉を思い出させる。自然農法家には、深いレベルで自然へサレンダーしてる人がいるのかもしれない。この方のお話も良かった↓

 


 こういう方たちの精神性に大きく感動すると同時に、「自家発電」的ライフスタイルの究極はやっぱり大地から糧を得ると言うことなしにはありえないな、と思った。 


 大地に根付いて、
 自分たちで作物をつくる。
 自分たちで加工する。
 自分たちで調理する。

 なんか、多くの社会・心理学的問題は、この大地から糧を得るというサイクルが断たれているために起こっているようにさえ思える。
 本来なら不必要な薬品や、添加物はシンプルなこれらのスタイルでは発生しない。


 このことを考えて、歯磨き粉や、シャンプーの成分表示を読むと疑問が湧いてくる。


 堆肥や、農薬さえ、必要ないのなら、このカタカナで意味のわからない化学物質のたくさん入った薬品で歯を磨いたり、頭を洗ったりするのって本当にあるべき姿なのかと思う。もっともっとシンプルで体にもいいものが多分あるんだろう。


 来るべきものへのプレッパーとして、生活のすべての領域において、


 これは本当に買うしかないのか?

 これは自分ではつくれないのか(どうやってつくっているのか)?

 これらを本当に自分は食べたり、飲んだり、着たり、肌に塗ったりしたいのか?

 そもそもこれらは本当に必要なのか?


 といったことを考えて見るのも楽しい。

 例えば僕はジーンズをよくはくけど、本当にジーンズはきたいのかな?ジーンズ好きなのかな?と考えてみるとよくわからない。多分、みんなが履いてるから真似してるだけなんだ。

 なにが着たいのか考えてみると、本当はもっとゆったりしててストレッチや、呼吸法をするときにおなかの部分を締め付けないようなものがいい。涼しい生地でインドのクルターパジャマみたいなああいうのがいい。でも、外出がそれだとちょっと気恥ずかしいから無意識に妥協しているだけなんだろう。


 確かに、自分で作物を作って、それを食べて生活するのって大事だし、いつかやりたいと思うけど、場所も時間もない・・・そういう場合、ってか僕もほぼそうですが、

 楽しそうでかつプレッパーとしても役立ちそうなのは、身近なものをなるべく自分でつくってみるということだ。昨日ぶらーーっとしてるとこういうページ発見しハマッってしまった。


 自家製ビールキット アウベルクラフト

 今ものすごいビール作りたいモードになってる。燻製とか、豆腐、チーズも面白そう。

 やりたい!
 
 すぐにでもビールキットを買いそうな勢いだけど、まずは、台所にあるものですぐできそうな「どぶろく」を作ろうかと思う。

 どぶろくレシピ


 なんか「酔うもの」をつくるって超ドキドキしますね。
 僕はどうも意識状態を変化させる物質を製造するのが好きなのです(おいおい)


 こういうお酒類とか、食べ物をつくったり、野菜を栽培したり、やらなきゃいけないじゃなくて、なんとなく充実することをしていて結果的にPrepperになってるのが一番いいような気がします。

 


アセンション考 | コメント(5) | トラックバック(0) | 2013/08/05 18:21

地球少女アルジュナ

 ある夏の暑い日、私は死んだ。そして見た。死にかけた地球の未来を・・・

 

 

 2001年製作。

 こんなアニメがあったとは知らなかった。

 第一話がいきなり原発のアクシデントから始まるので驚いてしまう。

 12年も前。アルジュナはインドの聖典「バガヴァッド・ギータ」に登場する英雄の名前。





 あまりにも時代を先取りしたアニメ「地球少女アルジュナ」




 久しぶりに見たヘンリーオーツさんの講演会動画でこのアニメの話が出てて、気になって調べてみた。


 



 ちょっとエバンゲリオン的雰囲気を感じるけど、そこはご愛嬌か。

 全部見たいな~~アマゾンで買はないとダメかな。

 バンダイチャンネルで、一話だけ無料放送中。

 

http://www.b-ch.com/ttl/index.php?ttl_c=370







 
アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/08/02 21:11

未来を知る子供たち


2008年に、臨死体験研究家フィリス・アトウォータの文章を翻訳したもの。

 そこには臨死体験をした子供たちが語る、未来のビジョンが語られている。

 彼らはその時に惑星の変容を手助けするために生まれてきたということだった。

 なんかこの頃この記事をよく思い出すので再掲。(前もしたかな?)

 フィリス・アトウォータの語る『Change』 2008/ 11/ 18




 マヤンカレンダーの終りが示しているのは、世界の終りではなく、大周期の終りである。
 それは私たちが慣れ親しんできた、生活スタイルや価値観の終りだ。 
 古い考え方や、生き方は終焉する。しかしそれは一夜のうちに起こるのではなく、数年をかけて拡がっていくものかもしれない。

 私たちは、マヤンカレンダーで、最後の第五の夜の入り口にいる。
 これは今年の11月の第三週頃から始まり、2010年か2011年まで続くと思われる。
 第5の夜は古い物事の行い方がひっくり返され、新たな秩序の為の行い方が作られる、破壊の時と考えられている。前回の第五の夜では次のようなことが起こった。大恐慌、ナチズム、スターリニズム、ユダヤ人ホロコースト、第二次大戦、朝鮮戦争、原爆と水爆の使用。
 今回の第5の夜で私たちは、世界的な金融システムの崩壊と、左脳的価値観の終りを目撃することになるかもしれない。第5の夜に続いて、、第五の昼と統一意識の開花する時代へと入っていく。

 私は、黄金時代がすぐにでも始まると言う主張に対しては少し注意深くなっている。
 それは臨死体験をした子供たちから、私が教えてもらったことによる。
 彼らはなぜ彼らがここにいるのかということに対してしっかりとした信念を持っていて、それを尋ねると、『僕は「変化」のためにここにいるんだ(I"m here for the Changes)』と答えるだろう。
 その変化はあまりにも大きいために、この惑星は得られるすべての助けを必要とするだろうと彼らは言うのだ。私がそれらの変化が起こる時、彼ら自身はどうなっているのかと尋ねると、彼らは大人で、大きい子供がいるか、もしくは祖父母になっていて、孫がいると言う。私は計算機を取り出して、彼らがそうなっている頃を計算してみた。結果、彼らがもっとも巨大なアースチェンジが起こるだろうと言うのは、2013年から2029年までの期間だった。

 巨大な変化はもうすでに起こっている。
 それは更に広がり、加速していくだろう。それは驚くべきことで、すばらしきことであり、またトラブルを伴うだろう。そして、これらの騒ぎが一端落ち着いたように見えた時、本当に巨大なことが起こる。
 それは2013年から、2029年までの、古代の暦が終わったあとの期間ではないかと私は思う


 フィリス・アトウォータ ブログより適当翻訳
 



 


アセンション考 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/04/23 15:01

魚の日

「あわの歌」はかつて国が乱れ、言葉が乱れた時に歌われ、その状態を整えたと言われているらしい。

 「言葉が乱れた時」というのは、まさしく現代もそうだと思うけど、これは「正しく美しい日本語が使われていない」とか以前に、「言葉」の聖性が剥奪されている状態を意味しているのではないかと思った。

 言葉の聖性というのは、言葉を光と捉えるような見方であり、宇宙の根源的なプログラムであると捉える見方だ。現代の言葉は、ただの記号、コミュニケーションの手段としてのみの側面がクローズアップされている。これは、言葉の「物質化」とでも呼べるような状態だ。
 言葉が垂直次元とのつながりを喪失し、平面的な意味しか持たなくなっている。

 それが「言葉の乱れ」の根本にあるのではないかと思う。
 言葉などというものは、いつも新しく「若者言葉」が日常化して、どんどん変遷していくものだから「言葉の乱れ」などと嘆くこと自体が頭が固いというような意見もあるが、「言葉の乱れ」の根本は、その言葉への意識、言葉を聖なる光と見る観点の喪失だろう。

 もし、創造の原理としての言葉(垂直方向の存在)と、コミュニケーションの言葉(日常言語)が同じ実体の二つの側面であるという意識が浸透していれば、軽々しく人を罵倒したり、ネガティブな事を口走ったりはなかなかやりにくくなる。そのような神の言語を僕らは話しているという認識をもつことによって、初めて「言葉の乱れ」はおさまるのではないかと思う。

 意味的垂直次元の喪失は、あらゆることに及んでおり、僕は最近、ごく当たり前の事物や行動についての認識を実はとんでもなくあやまっているのではないかと思うことがよくある。
 
 これは半田広宣さんの「シリウス革命」の一部を読んで思ったこと。

 科学的思考の発展の上で、コペルニクス的転回、いわゆる天動説から地動説への展開は、理性の目覚めとして語られることが多い。それはもちろん、科学者であればそう考えるだろう。しかし人間の霊性を考える人たちも、このコペルニクス的転回を魂の目覚めとして歓迎することが多い気がする。

 閉じた天蓋が開かれ、その外側に無限の太陽と、無限の地上世界がある可能性に人は目覚めた、という訳だ。

 そこでスターウォーズや、スタートレック的想像力の端緒が開かれた。
 確かに星の海と、その永遠の歴史、そこに存在するであろう知性や不思議な現象の数々はロマンを掻き立てるものではある。
 しかし、僕はそれと引き換えに失われていった世界観があったような気が以前からしていた。

 それはこの地上の意味の喪失である。
 ここは神のつくりたもうた唯一の世界ではなく、宇宙に浮かぶ無数のつちくれの一片と化してしまったのだ。
 「天」がある上方は宇宙空間では、上でも下でもなくなり、南米にとっての天国は、日本人にとっての地獄の方角にあるに過ぎない。
 コペルニクス的転回と、宇宙空間の認識により、「上下」という概念に含まれていた超越的意味はその多くを失った。

 宇宙空間に絶対的な上下があるわけではなくなり、ただ惑星という球の中心に向かい重力のベクトルが働く方向を僕らは「下」と呼んでいるにすぎないのだ。
 この方向の相対化というものはやはり、現代のあらゆる価値の相対化と、垂直次元の喪失と関係しているように思う。

 だから僕は、学生の頃、バイブル原理主義的世界観に生きる人の意識は、現代科学的世界観に生きる人の意識に比べて本当に無知だと言い切れるのかとよく考えていた。そりゃ確かに、神が七日で世界を創造したとか、エデンの園や、ノアの洪水、黙示録の預言をそのまま信じることはできない。
 だが、神の創造した世界に人は生き、その摂理の中でものごとは動いているというはっきりとした感覚、この目に見える生命現象のすべてが絶対なる知恵や実体に基づいているという感覚、それらを彼らがバイブルという触媒をもとに持っているのなら、不安と不確実さに怯える現代人よりもある意味で、勝っているのではないかとそう思った。

 僕らは孤児ではない。
 常に、どこにいても宇宙の父母とともに生きている。
 そしてすべてはその絶対なる無限のあらわれである。言葉も、生命、動物も、植物も、人も、昆虫も、水も、風も、火も、大地も、太陽も、月も・・・そのように、あらゆる現象がその垂直的次元を取り戻す時、僕らはエデンの喜びを、この世界に生きながらも体験することができるはずなのだ。

 「シリウス革命」の中で、それは神の臨在であるパルーシアと呼ばれていた。


 僕は断言していい。
 イエスキリストの意識は、いや無意識の海に沈んでいたプレアデスからオリオンへと至る人類の創造の記憶は、もうまもなく、そのすべてが甦る。世界六十億の人間たちの覚醒として、そして、また歴史の中に息づく数え切れない死者たちの魂の復活として。

 その時、人間は、自らが火であり、大地であり、風であり、水であり、太陽であり、月であり、星であり、銀河であり、歴史であり、言葉であり、死者であり、他者であり、時間であり、空間であり、・・・永遠であることを知るだろう。そして、この覚知こそが世界の完成、神の臨在たるパルーシアなのである。その時、天上と化した地上は、光り輝く黄金の十字架で埋め尽くされる。聖なる大地、聖なる地平、そして聖なる眼差し・・・その眼差しに照明された日こそが、あの伝説の「魚の日」なのだ。



 1999年 半田広宣著 「シリウス革命」より


アセンション考 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/07/20 22:00

無限の住人

 アセンション、あるいは人間の意識進化を誘導している存在がいて、それぞれにメッセージを送ってくると考えられている。

 それは進化した宇宙人であったり、神々を名乗ったりしている。
 それらは単に個人的意識の、意識的、無意識的妄想・虚言であったり、人間の集合的意識の擬人化であったり、あるフィールドに形成された情報場の受信であったりする可能性もあるかもしれないけど

 どうもそれらはある存在性をもっているようだ。
 というのは実際にその「誰か」「何か」と物理的にコンタクトした記録があるからだ。
 それらのすべてが嘘だとは僕は思わないし、個人の無意識の実体化だとも思わない。
 
 あるこの次元を越えた「存在たち」がいる。それも無数に。
 彼らは宇宙人とか神々というよりも、「無限の住人」とでも呼ぶほうがしっくり来るように思われる。
 その彼らが、人間的な物の見方に合わせて、「宇宙人」あるいは「神々」というアイデンティティをまとっていると考えるほうがすっきりする。「無限の住人」言い換えれば「多次元存在」だ。

 彼らが送り込んでくる情報の質は、人間の意識にとってかなり異質なため、人間の意識により歪曲されることが多い。あるいは彼らの姿形も、人間の認識システムによって自動的になじみの超越的イメージに再構成されたりもするだろう。
 またそれ以外にも彼らの送る情報は、彼らが意図的に真実をすべて語らないためにとても矛盾しているようにも見える。しかし、その一見矛盾する内容と「全てを知らさない」という態度によってこそ人にふさわしい刺激を与え、変化を促進しているのかもしれない。

 彼らの情報も、あらゆる預言書や、伝説、聖者たちの言葉のように、僕らの生命には値しない。

 だから僕らは常に自分自身の存在へともどり続ける。
 
 あらゆる情報と、身の回りのできごと、災害や事件のニュースを観察しつつも、自らの存在性の内へともどり続けるのだ。
 すべてを消し去っても、すべてが嘘であったとしても残る命。
 自分の呼吸と、鼓動。
 太陽と、土、水、草花と蟻たちの存在に無限の意味を見出すまで、僕らはあらゆるエキセントリックかつ魅力的な情報の束を超えて、そこにもどり続ける。

 あちら側とこちら側の垣根が消え
 有限と無限界が結ばれ

 僕らが『無限の住人』であることを知り尽くす、その日まで。

 どうか幼子のように、この生命と共にあれますように

アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/07/14 20:21

意識の変転状態


 以下、トム・ケニオンというサウンドヒーラーによる「ハトホル」のチャネリングメッセージ。
 4月に書いた、『エネルギー転換』という記事で考えたことと似ており気になった。

 
 メッセージは2011年、4月のもの

 http://tomkenyon.com/japanese-6 

 意識の変転状態トム・ケニオンを通したハトホルのプラネタリー・メッセージ

 定義

 混沌の中心点(カオティック・ノード)とは、混沌とした出来事の集まりです。ハトホルたちによると、地球は混沌の中心点に入っており、その結果として、混乱状態のレベルがこれからも高まることが予測されます。そのなかには地震、火山活動、異常気象、生態系の危機、そして経済的、社会的、政治的混乱などが含まれますが、これらに限られたことではありません。

 ハトホルたちの言う「意識の変転状態」とは、多大な喪失が起きたときに、私たちが過ぎ去った古い現実と、まだ完全に形になっていない新しい現実との狭間で、一時的に陥る中間地点のことです。

「知覚の指標」とは、私たちが五感を使って世界を理解し、自分の人生を歩んでいくということを表現するために、ハトホルたちが使っている言葉です。

 メッセージ

 混沌の中心点はその本来の性質上、意識の変転状態を生み出す傾向があります。意識の変転状態は、知覚の指標が消えた時に現れます。そしてこれが起こる時、あなたがたはこれまでの現実がもはや存在しないか根本的に変わってしまったのに対して、新しい現実がまだ誕生していないという、無価値地帯に入ります。

 あなたがたが混沌の中心点のさらに強烈な段階へと入ったために、私たちは変転状態について私たちの見解をお伝えしたいと思います。あなたがたが、この知識をご自分の利益のために活用されることを願っています。

 転状態は主に1.個人的変転状態、2.集合的変転状態、3.肉体的な死、の3種類に分けることができます。

 個人的変転状態

 はじめに、個人的変転状態に注目していきましょう。あなたがたが認識する現実は、あなたがたの個人的な知覚を中心軸として展開しているからです。

 あなたがたの現実の認識というのは、全く個人的な創造物です。文化、時間、場所、そして状況などの共通認識による影響は受けますが、根本的に何が現実で何が現実でないかというあなたがたの認識は、あなたがた自身の創作です。

 あなたがたの現実の認識は、ほとんどの人の場合、知覚の習慣によって決まります。あなたがたは人生のなかで決まった現実を経験するのに慣れていて、それらがたとえばあなたが今どこにいるのかを教えてくれます。朝目覚めて時計を見ると、時間の共通認識が即座にあなたの目の前に現れます。このような幻想に携わるか否かは、あなたがた個人の選択の問題です。実際には、霊的に熟達していることのひとつのしるしとして、文化的幻想の性質を明確に理解しつつ、そのなかを首尾よく進むという能力があります。

 あなたがたの個人的な生活が劇的に変化するとき、知覚の指標が消え失せるか、あるいは再編成される傾向があります。

 ここで、ひとつの起こりうる筋書を紹介しましょう。あなたがたが長年同じ仕事についていて、この立場で必要とされることに基づいて人生を築いてきたとしましょう。昼食は決まった時間に食べます。家に帰るのも決まった時間です。仕事で要求されることに合わせた特定の方法で、他者と交流します。

 もしもその仕事が不意に、突然になくなったとしたら、これまでの知覚の指標が消えてしまいます。決まった時間に起きることも、決まった時間に昼食をとることも、決まった時間に家に帰る必要もなくなり、起きている時間の大半をともに過ごしていた人々とも会えなくなります。

 このような状況では、ほとんどの人が本質的に困惑します。ここでも知覚の指標が消えてしまったのです。

 あなたがたの個人的生活に劇的な変化が起こるとき、この筋書と似たようなことが起こります。もしあなたがたにとって重要な人間関係が突然終わりを迎えたとしたら、その人間関係の知覚の指標が失われ、あなたがたは意識の変転状態に入ります。

 もし、あなたがたが健康状態の危機に直面し、生活に根本的な影響が及んだ場合、知覚の指標は消え去り、非常に困惑するでしょう。あなたがたは意識の変転状態に入ったのです。

 混沌の中心点が強烈さを増すにつれて、これまでの現実が目の前で粉々に崩壊する衝撃を、より多くの人々が経験することになるでしょう。それまでの人生のなかで確かだったものが、不確かになります。しっかりと堅い地面だったものが、そうではなくなります。これは、比喩的な意味と文字通りの意味の両方で言っています。

 この混沌の中心点から発生している変転状態には、もうひとつ別の波があります。それはすでに多くの人々に影響を及ぼしていますが、その影響は、まるで津波のように意識のなかに広がっていくでしょう。

 この特定の変転状態は、あなたがたの文化の集合的偽りの崩壊に関係しています。より多くの人々が、影絵芝居の背後にあるものを見るでしょう。あなたがたは陰で操る者の存在を感じとり、その正体はとらえにくいとしても、あなたがたの文化がさまざまな面において操作され、限定されたものであり、多くの場合真っ赤な嘘であるということを、より現実的に理解するでしょう。

 ここで私たちが言っている偽りとは、経済の偽りでも、戦争の偽りでも、自由を制約する宗教の偽りのことでもありません。これはあなたがたの自己認識に関する偽り、あなたがたを拘束し続ける偽りのことです。この偽りとは、あなたがたが肉体をもった人間という存在であるのに過ぎず、地球上での経験以外には、どのような領域にも存在しないとする信念と文化的主張のことです。

 この偽りを認識することが個人の自由の先駆となりますが、初期の段階ではかなり混乱することになるでしょう。なぜなら多次元的な経験というのは、地球上でのあなたがたの日常的経験とはあまりにも違っているからです。もしあなたがたが地球的な生活と多次元的な生活との間で孤立しているとしたら、それはあなたがたが意識の変転状態に入ったことを意味します。

 私たちがこの情報を提供する目的は、意識の変転状態にある間の実用的な手順をあなたがたに提案することです。

 強烈な変転状態に入るとき、ほとんどの人は圧倒された状態に陥り続けるかもしれません。それまで本物だと思っていた現実とともに、知覚の指標が消えてしまったことに気づいたときの衝撃は、多くの人々をひどく不安にします。

 時間が加速しているために(これはより多くの出来事が短い時間で起こるという意味です)、ショック状態あるいは圧倒された状態にとどまり続けるという精神的な猶予は、あなたがたにはありません。ここで私たちが伝えたい極めて重要な点は、変転状態の性質に関係なく(その変転状態があなたがたの個人的生活の変化に伴う個人的性質のものであっても、文化的なごまかしに気づくなどのような集合的なものであっても)、あなたがた一人ひとりが、あなたがた自身の現実の創造者であるということです。

 なぜ突然自分の人生が奪われてしまったのかについて、あなたがたにはそれぞれの物語があるかもしれませんが、それらは単なる物語に過ぎません。自分の抱える問題について、あなたがたは他の人々、状況、あるいは社会制度を非難するかもしれませんが、これは責任転嫁です。あなたがたの物語は真実かもしれませんし、責めを負うべき人、状況、社会制度が存在するのかもしれません。しかし、意識の変転状態に入ったとき、あなたがたは強力な創造過程の渦の中心にいます。「覆水盆に返らず」という言葉があるように、取り返しのつかないことを嘆く理由も必要もないのです。失われたものは失われたのです。過ぎ去ったものは過ぎ去りました。

 そこで重要になるのは、「あなたはこれからどうしますか?」という問題です。

 あなたがたはショックを受け圧倒されたままで、怒りと悲しみの茫然自失状態にとどまり続けますか? それとも自分自身を人生の創造者として自己認識し始めますか?

 低い意識状態にとどまり続けることを選択するみなさんへ、私たちはこれ以上あなたがたにお話しすることはありません。

 私たちの意見は、勇気と大胆さをもって自分自身を創造者として自己認識しようとする人たちのためのものです。もしあなたがたがそのひとりであるなら、私たちは次のように提案します。

 すべてが消え失せるとき、つまりかつての現実の知覚の指標を失ったとき、あなたがたは虚空点(ボイド・ポイント)に入ったことを理解してください。

 虚空点とは、古い現実と新しい現実との間の極めて重要な変転期です。かつてあったものが終わりを迎えました。失ったものを惜しむ代わりに、あなたがたは何もないことを受け入れます。これは多くの人々にとって、引き受けるのが難しいことです。なぜなら虚空点においては、できることが何ひとつないからです。あなたがたはただその状況の目撃者となり、あなた自身の目撃者にならなければなりません。この中間領域には、知覚の指標が存在しないからです。

 新たにどのような指標を取り入れるかに注意してください。それらの考えや信念は、あなたがたの心のなかの新しい空に輝く星となり、自分自身の意識の天空に配置したそれらの星々(考えや信念)を使って、あなたがたはこれからの新しい時代のなかで自分の道を進んでいくようになるのですから。私たちとともに神秘を航海する仲間たちよ、新しい星を生み出そうとするときに、賢明であってください。

 意識の集合的変転状態

 私たちの見方からすると、人類という集合体は現在、まるで脱皮をしている非常に大きな宇宙のヘビのようで、身をよじったりひねったりしながら、古くなった邪魔ものをこすり落とそうとしています。そのなかには経済的混乱の形をとるものもあります。政治的な性質のものもあります。文化的な制度の崩壊や改革もあります。そして、身をよじったりひねったりしていることには、地震や火山活動、異常気象などが関係している場合もあります。

 天災や人災が増えるにしたがって、より多くの人々が意識の変転状態に入ります。地震、火山の噴火、破壊的な気象状況を直接経験した人たちが、意識の変転状態に最も入りやすいというのは当然のことですが、人に共感できる性質をもっている人たちは、天災や人災を、まるで実際にそこにいたかのように経験することがあります。

 実際には、人類の互いの意識を隔てるベールが薄れて行くにしたがって、より多くの人々が世界中で起こる変化を、心の底からのレベルで経験するようになるでしょう。

 ではここから、地震、火山の噴火、破壊的な気象状況などのような天災や人災の余波に巻き込まれた場合の、新たな創造の問題について述べたいと思います。

 もし破壊的な力が十分強い場合には、あなたがたのそれまでの現実を知覚する指標はもはや存在しなくなります。あなたがたの家、あるいは仕事場がなくなっているかもしれません。水や食料不足に直面するかもしれませんし、ショックを受けて圧倒された状態をつくりだす数多くの変化が同時に起こるかもしれません。

 これから言うことを、私たちは非常に明確にしたいと思います。災害に直面して衝撃を受け、圧倒されるというのは、ほ乳類にとって当然の反応です。もしあなたがたがその瞬間を超越し、変えようとするならば、あなたがたは高次元に存在する自分自身、あなたがた自身の本質、時間と空間を超えた意識の領域とつながらなければなりません。

 自分自身の存在の超越した側面を、自分が生き延びるための方程式の一部に組み入れることができれば、あなたがたはショックや困惑を和らげることができるでしょう。

 混乱状態のただ中にあるとき、それがどのような混乱状態であったとしても、確認する必要がある重要な点が「好機のポータル(入り口)」です。

 生き延びるため、あるいは新しい人生のための好機は、あなたがたが予想もしなかった方法で現れるでしょう。これはあなたがたの知覚の指標が消えてしまい、好機が訪れたときにあなたがたの意識がそれに気づかないためです。

 人間には、新しい現実を古い現実と一致させようとする根深い習慣、あるいは傾向があります。このような状況下において、これは不利な習慣です。

 混沌とした状況下での選択にかかわる、次元を超越した現実について、私たちにはお話ししたいことがたくさんあるものの、本題にはいって最も実用的なことをお伝えしたいと思います。おそらくまた別の機会に、あなたがたの無限の本質や、あなたがたの内側に備わっている無限の可能性ついて、私たちの達観した思いをお伝えすることができるでしょう。しかしながら今は少し単純化して、目の前に新たな人生や新たな運命が現れたときに、あなたがたがその好機に気づき、創造するための処方をお伝えしましょう。

 あなたがたが意識の変転状態に入ったと仮定して、虚空点を味方に付けて、自分の置かれたひどく不確かな状況にほぼ寛げるようになったとしたら、次のようにしてください。

 好奇心を強くもって、奇跡を予期してください。

 好奇心の強い状態に入ることで、あなたがたは期待によって縛られない心の一面を使います。まるで子供のような心となって、その無邪気さで(幼稚さとは違います)あなたがたは大きな利益を得られる意識の振動状態に入ることができます。

 奇跡を予期することによって、あなたがたは自分自身の内なる創造の力を解き放ちます。これを成し遂げている限り、あなたがたはセレンディピティー(幸運な発見)や、思いがけない利益や富との偶然の出会いなどの出来事が、物質的、精神的、感情的などの性質を問わず、どんどん増えることに気づくでしょう。

 次に何が起こるだろうという好奇心をもつことと、奇跡を予期することの組み合わせが、周囲で何が起きていようとも、あなたがたを虚空点から新たな人生、新たな創造へとすばやく移動させるでしょう。

 意識の集合的変転状態の間には、それぞれの人がその人自身の現実の創造者であるということ、そして混乱状態のただ中で人々はそれぞれの選択をし、それぞれに異なる個人的現実を歩むのだということを覚えておいてください。

 低い振動領域に入る人々によって揺さぶられないでください。それは彼ら自身の選択であって、あなたがたが彼らを救うことはできません。好奇心を強くもち、奇跡を予期して、上を向いてより高い方へ向かって生きてください。そうすればどんなに深刻な状況にあっても、あなたがたに奇跡は起こり得ますし、起こるでしょう。

 肉体的な死

 肉体をもつ存在にとって最も困難なことのひとつが、あなたがたが死と呼ぶ意識の変転状態です。五感を含むすべての知覚の指標が消えてしまうからです。もしある人が自分を物質的な存在としてのみ認識している場合、この変転状態は最も苦しいものになるでしょう。なぜならその人が認識していたものが、何も存在しなくなるからです。

 物質界は存在し続けていますが、五感を通して意識に入力されるものが何もなくなります。それはまるで、肉体とともに世界が消滅したかのようです。意識の変転状態で中心的役割を担う大いなる自己(I Am)は、もはや肉体からも五感からも外界からも情報を受け取ることがありません。これによって、自分自身という存在の別の領域を直接経験したことがない人々は、ひどく不安になり、混乱するでしょう。

 たとえて言うと、あなたがたは巨大な木、生命の木のようなものであり、数多くの枝を持ち、数多くの葉や花をつけています。そしてあなたがたの現在の肉体的存在は、それらの葉っぱ一枚、花の一輪にすぎません。

 あなたがたが死と呼ぶ意識の変転状態を通過するとき、そこにはいくつかの選択肢があります。もしあなたがたが何らかの霊的伝統の道にあって、その中心人物がグル、神の化身(アバター)、または救済者である場合、あなたがたはこの人物の道に従って、この人物の意識の振動領域に入ることができます。いくつかの宗教において、これは天国として知られています。

 もしもグル、神の化身、または救済者の道に従うのだとしたら、あなたがたはその人物の天国、その人物の達した振動領域に入ることになり、必然的にその人物の意識の限界の中にも入ることになるのだということを理解してください。

 私たちの視点からすると、宇宙とは本質的に無限です。このように言うとき、私たちは外的宇宙空間のことを言っているのではなく、あなたがたの銀河宇宙の次元間の現実のことを言っているのであり、私たちの経験からすると、そこにあるすべてを理解し、すべてを悟っている人物は、誰ひとり存在しません。

 しかしながら、もしあなたがたが死の領域で自分のグル、神の化身、救済者と合流したいと願うならば、私たちはそのためにいくつか提案をしておきましょう。まず、心の中でその人物の名前を呼んでください。これは名前を意味するレン(Ren)というエジプトの言葉に代表される古代の知恵です。あなたがたが霊的存在の名前を呼ぶとき、その存在の一面はあなたがたのもとへやって来ざるを得ないのです。

 グル、神の化身、救済者に出会った瞬間、もしその人物があなたがたをふさわしいと見なした場合、あなたがたはその人物によって、その人物の天国の領域に連れて行かれるでしょう。

 東洋の霊的伝統には、特定の神々につながるマントラがあります。死ぬとき、あるいは死の領域に入ったときに、これらのマントラを唱えることにも、同じ効果があります。

 グル、神の化身、救済者に従う霊的伝統の道を歩んでいない人たちにとって、死と呼ばれる意識の変転状態には別の可能性があります。

 他の2つの意識の変転状態と同様、死の領域にも虚空点があり、その主な特徴は静寂(静けさ)と暗闇です。すべての可能性は虚空のなかに存在しますが、現存するものは何もありません。それはオークの木のドングリのようなものです。巨大なオークの木そのものは、ドングリのなかに潜在的にありますが、まだ存在してはいません。

 ですから、もし自分が虚空のなかにいることに気づいたら(完全な静寂と暗闇のなかにひとりきりでいることでそれとわかります)、あなたがたは自分の創造の力が結合する中心部にいるのだということを理解してください。

 次に何を創造するかによってあなたがたの運命の進路が決まり、あなたがたの住む世界、存在する領域が決まります。これはきわめて重大な時点です。

 暗闇を恐れる多くの人々が、早まって光のほうへ移動します。このような人々が理解してないのは、切望することによって彼ら自身が光をつくり出しているということです。目の前にトンネルのような入り口が開かれ、彼らはこの光のトンネルの中に入り、以前から知っている人々に出会い、それによって結果を十分に理解することなしに、肉体をもった状態、あるいは存在の別の振動領域に戻って行きます。これは、確実にあなたがたに開

かれた選択肢のうちのひとつであり、頻繁に選ばれるものです。

 しかしながらもうひとつの選択肢は、虚空点にとどまり、虚空そのものの中に存在して、あなたがたのセルフ(Self)をあらゆる事象を超越する純粋意識として認識するというものです。

 何かを創造しようとすることなく、この認識の状態に十分長く存在すれば、あなたがたは自分自身が大いなる自己であるとわかるでしょう。そしてこれを認識した時点で、あなたがたはどのような状況に具現化するかを選ぶことができます。あなたがたは自分が住む世界、または存在する意識の領域を選ぶことができるのです。

 この後者の方法は、あなたがたにそれは素晴らしい好機を与えますが、ほとんどの人々にとって最も困難な方法です。これが困難である理由は、人類の大半が肉体をもたないことを不快に思うためです。肉体と物質界での経験を切望することによって、多くの場合、人々は虚空から出るのが早まります。

 総括すると、混沌の中心点が激しさを増している段階のために、あなたがたの多くが意識の変転状態に入るでしょう。どのようなレベルに携わっているか、それが個人的生活に関するものか集合的経験か、あるいは死と呼ばれる変転状態であるかに関係なく、あなたがたはあなたがた自身の現実の創造者であることを理解してください。

2011年4月20日

ハトホルたち



 エネルギー転換 2012年 4月7日


 今までの意図と思考を越えてゆけ。

 意図=日常の意識のフォーカスポイント、こだわり

 フォーカスポイントをずらす、変容させる、崩壊させる

 日常の環境、住環境、職環境、が変わること、旅行、いつもと違う生活パターンをせざるを得なくなること、人間関係の変化

 などが起こると、それまでのフォーカスを維持できなくなり、古いパターンが崩壊することがある

 長期の隔離、断食、死と再生のイニシエーションなどは、より根本的にパターンを崩壊させ、一人の人間であった自己の概念パターンを破壊するほどに追い詰めることでシャーマンを誕生させるためにある。

 「意識」は、ある創造の力を使用して、僕らの目の前に展開する日常の風景を創造し続けている。
 一見、いつもの当たり前の風景に見えても、そこには膨大な量の創造の力が使われている。
 それを投影しているのが、意識の底に存在する「ドリームメイカー」である。
 「ドリームメーカー」は起きている時の夢と、眠っている時の夢を編み続け、その「創造の力」を空性と一体となることで補給し、また再起動する。 

 ゼロの中のドリームメーカー、それは本来の『私』でもある。

 自我意識は、いつも自分の現実を創造している力が神聖な源より来ていることを理解しない。
 りんごがりんごに見え、コーヒーカップがコーヒーカップと認識されるという奇跡が、理解されない。
 その概念的・言語的認識にも膨大な量の心的エネルギーが使われており、それ自体がひとつの束縛であると同時に創造行為なのだ。

 この創造行為に使われていたエネルギーがみな解けると、そこには神しか認識されないという。

 よく酒、タバコ、甘いものなどを断って願掛けするという風習があるが、これは飲酒や喫煙をするというパターンの創造に使われていた創造エネルギーを回収することで、それを新たな現実の創造に使おうとするものかもしれない。実際、あるパターンを崩壊させると、そのパターン形成に使われていたエネルギーは自分に戻り、また新たなパターンを形成することに使えるようになる。

 つまり「断つ」「捨てる」ということは意識的にパターンを崩壊させるということだ。

 古いフォーカスを崩壊させる用意ができてないと、新たな現実は生まれない。
 
 すべてのフォーカスを、神への意識へと転換させるということが、神に捧げるということだ。

 ものを神に捧げるのは それ自体が神だということを思い出すために過ぎない

 すべてのこだわり、すべての不安、すべての執着も、すべて神という創造エネルギーの大元がなければ存在しない。すべての現実認識は、それがどんな不幸なものも、どんな幸福なものも神という原初の創造エネルギーの変質形なのだ。だから、それを神へと返し続ける、還元し続ける努力が意味を持つ。

 すべての行為を すべての想いを すべての願いを すべての恐怖さえも 
 すべてを神として見ることが、創造エネルギーの還元だ。

 マーヤとは、創造力だ
 神がなければ、マーヤもない
 マーヤが生まれると神は見えなくなるというが
 その結果そこにはマーヤという創造物があり それは神の変装であり存在証明なのだ。
 マーヤとは神の別名であり、神自体でもある




アセンション考 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2012/07/03 15:13

アセンションした近代人

 肉体を光の体に変えて、昇天するいわゆるアセンションをした存在としてはイエス・キリストやインドのババジが有名だ。これは言い換えると、肉体を死なない体に変容させたということになる。

 これはある意味究極の超能力だと思うけど、こっち系の世界に深入りしてる人以外では、ほとんどまともには考えられていない現象だと思う。その理由のひとつには、イエスやババジは大昔に生きていた伝説上の人物に過ぎずその伝説内のエピソードをとても現実とは思えないということもあるだろう。

 しかし、比較的近代、19世紀半ばにもアセンションしたと思われる聖者が存在する。

 その名はラーマリンガと言い、1823年10月5日に南インドの村で生まれた。
 幼いころから神童ぶりを発揮し、父母に踊るシヴァ神ナタラージャを祀る寺院にお清めに連れて行かれたとき、ナタラージャ像の前で突然大声で笑い出し、あたりには神のエネルギーがみなぎった。

 寺院の僧は駆け寄ってラーマリンガを抱きしめると、その子が神の子であることを宣言した。
 ラーマリンガは5歳の時に次のような詩を書いたという。

 「おお神よ、なんという不思議か。あなたはすべての知恵を私にさずけ、あなたへの熱烈な愛を教えてくれた。あなたはまた、この世のすべてが蜃気楼に過ぎないことを確信させてくれた。おお慈悲深い方よ、あなたは私の内にあり、その恩寵を惜しみなく与えてくれる。あなたは自らを降下させて私の霊的な師となり、この取るに足らない私を祝福し、物乞いをする道に追いやることなく、必要以上のものを与えてくれた
                                       恩寵の聖歌より

 この「恩寵の聖歌」にはラーマリンガが神と合一し、金色に輝く「愛の体」を得た時の恍惚も記されている。

 「風、土、空、火、水、太陽、月、死、病、殺人兵器、惑星、邪な行為による害悪、あるいは他のあらゆる事柄の影響をも永遠に受けない光り輝く体を私は望んだ。神は私の祈りを聞き入れてくれ、私はその体を得た。これを普通の授かりものと考えてはならない。ああ人々よ、生身の肉体さえ不滅のからだに変える、至福の輝きの主にして我が父なる神に庇護を求めよ

 このライトボディは普通の肉体の周波数と異なる速度で振動しているようで、彼を写真に撮ろうとすると8回試みても彼の衣服が映るだけで、体のどの部分も映らなかったという。また彼には影ができず、その光り輝く頭部と体を白布で覆っていた。

 彼のアセンションは1874年1月に起こった。
 50才のラーマリンガは帰依者に声明を発表した。

 「親愛なるみなさん、私はしばしの間みなさんの前から姿を消さねばならない。案じることはない。ランプの光を永遠に灯し続けてください。神がそこにおられることを思い描いて光を崇めなさい。あなた方は十分に報われるであろう。私は今この肉体の中にあるが、ほどなくして神のすべての被造物の中に入るであろう。私の部屋の扉を閉めて外から鍵をかけなさい。指示されて扉を開けた時には、室内は空であろう

 その夜帰依者たちがラーマリンガの部屋の前で「至高の恩寵の光よ 至高の恩寵の光よ 我らの上に降りたまえ 至高の恩寵の光よ」と唱え続けていると、突然紫色の閃光が部屋から輝いた。扉が開けられると室内は彼の予言通り空で、そのままラーマリンガは忽然と姿を消した。

 数日後インド植民省の英国役人たちが、警察からの報告を受けて調査にやって来た。
 村人たちはみな悲嘆にくれていた。役人たちはラーマリンガの小屋を詳細に調査したのち、「ラーマリンガは実際に偉大な人物で、空中に姿をけしたのだ」という結論をくだした。

 1878年に発行された南アルコット地区の便覧の中で、徴税官のJ・H・ガースティンはラーマリンガの蒸発について次のように述べている。「1874年、ラーマリンガ・スワミはメットゥクッパムの自室に入り、外から鍵をかけるように彼の帰依者に指示した。以後、彼はまったく外出しなかった。弟子たちは彼が神と融合したと信じている」

 ラーマリンガはどうすれば肉体がこのような変容を遂げるのかについて、次のような指針を残している。

 この原則にはふたつの重要な側面がある。それは「すべての生命を敬うこと」と「献身的な黙想をすること」である。このうちラーマリンガは前者を重視し、もしこれを修得すれば神の恩寵はたやすく得られるだろうとしている。神はあらゆる生き物のうちにあり、あらゆる生き物は神のうちにある。人は万物への慈悲心を培うことで普遍的な霊と交感して、その愛を得ることができる。恩寵とは神の慈悲である。そして思いやりの心とは、人の魂の慈悲のあらわれである。

 ラーマリンガは光の原則のもうひとつの側面である、「献身的な黙想」すなわち、神への熱き献身が深まることの必要性を説いている。この場合、神を絶えず想い続けたり、神の恩寵を求めて熱心に祈ることが鍵となる。


 何か特殊な瞑想法とかではないのだ。一見よくある指針に思えるが、この「よくある感じ」とアセンションというありえない現象のギャップはあとからまた考察したい。

 僕はラーマリンガに以前から関心がある。彼の生命を敬うという教えと、そしてすべての被造物の中に行く、という言葉にとても深い存在への愛を感じるからだ。
 そしてアセンション、肉体の変容は伝説ではなく、実際にある!・・・かも?と思い始めたのは、このラーマリンガの記録を読んでからだった。
 
 そしてこれを読んで「ひふみ神示」の「半霊半物質の世となる」「水爆にも負けんからだにならんといかん」といった肉体の変容を暗示している文がリアリティを持ってきたのだ。今までに、ラーマリンガのような例が記録に残ってないだけである程度の件数あるのかもしれない。ラーマリンガはたまたまグル的立場であったが、人知れず山奥で生きていたり、見た目まったく普通に振舞っていたら、アセンションしてしまっても誰もわからないということはあり得る。

 さてここでアセンションという現象に関して、もうひとつパズルのピースを持ってくる。
 昨日まで再読していたラムサの「I AM Ramusa(邦題 ラムサ 真・聖なる預言)」だ。 
 JZナイトという女性によってチャネリングされたラムサは自分を、遠い昔に肉体を光の体に変えて、昇華(アセンション)した存在と語る。

 ラムサは、アセンションが脳が100%機能した時に起こる現象だと語る
彼によるとそれは次のような仕組みで起こる。
 ラムサによるとすべては思考による。だが、この思考というのはよく悪もの扱いされる「マインド」だけではなく、言語化が難しい微細で高波動の「印象」も含んでいるように思う。
 これを読むと、なぜ多くのマスターが神を想うことを推奨するのか、そしてなぜその延長上に肉体の変容といったことまで起こりうるのかとういうことへの一応の説明はつく。それは脳内に、あるいは身体全体に高い振動を供給するためなのだ。


 自分を本当に愛し、自分は神をそのまま受け入れるに値するのだと感じられるとき、そして自分が父とひとつであることを知りたいと望む時、あなたは一輪の素晴らし花として咲き始める。それが、脳の能力を解放し、神の心にあるすべての思考の価値観を受け取る道なのだ。知りたいと願うこと、その「知っている状態」で感じるすべての感情を感じたいと望むことによってである。

 どんな望みでもそれをかなえる一番の方法はなんだろうか。あなたの存在の主=神からそれを語ることだ。あなたの存在の主とは魂のことだが、それは感情体系を用いて体を司っている。ホルモンの流れを分泌するよう脳下垂体に指示が出るのは魂からなのだ。あなたの存在のうちの神とは、あなたであるすべてを内包し、すべての想念が存在のうちに入ることを許す光だ。あなたの存在とは、物質の現実を身体という形を通して体験している自我のことだ。それが価値判断をもたらし、想念の純粋性、あるいは「在るということ」を変容させる。「変性自我」という言葉は、ここから来ている。したがって、自分の存在の主=神から何かを語るとき、あなたは自分の総体のバランスをもたらしているのであり、これこそが、自分の好きなものを具現化し、創造していく偉大なる力をあなたに与えるのである。

 限りない思考を受け取りたいと、自分の存在の主=神のレベルから望むとき、その望みが満たされるという想念は、魂のうちで感じられ、身体に投影されて表出し、脳下垂体を刺激するため、それが開き始める。脳下垂体が開くと、松果体を通るホルモンの流れが増え、眠っている心を目覚めさせるのだ。脳の別の部分を開放し、レベルの高い、より高度な思考の波動を全身で体験することを可能にするのである。

 レベルの高い波動の想念が入ってくると、それは脳の目覚めている部分を通るように導かれる。後頭部にある松果体が、この高い波動を受け取り、肥大し始める。このため、頭痛を起こしたり、少しめまいがしたり、なんとなく頭が軽くなったような感じを与えることがある。この波動は、次に強力な電流へと変換され、中枢神経を通って、あなたの身体の一つ一つの細胞へと送られる。これが体中しびれるような感じや、ぴりぴりしたり、持ち上げられるような感じを起こす。その波動は細胞ひとつひとつを刺激し、その振動する速度を高める。限界のない想念を受け取るほど、身体はさらに大きく振動し、あなたはだんだん光を発するようになってくる。それはあなたが身体を個体の密度から光へと逆行させ始めたからなのだ。

 限界のない思考がもたらす感じをあなたはどう説明するだろうか。それは無理なことだ。ある限りない想念を知っている状態をうまく現す言葉はない。それは新しい思考の体験であり、新しい感情、そして深遠ながらも静かな形で自分を動かす、計り知れないほどのフィーリングを体験することなのである。知っている状態というものは、ある純粋なフィーリング、なんの前触れもなく、それとわからぬような形で、名前さえない感情としてあなたのもとにやってくる。

 覚醒を目指す人のほとんどはそれが言葉という形でやってくると思っている。だが、もしもいま感じていることを言葉で表現できるなら、それはもうすでに過去に感じたことがあるものだ。それができないなら、ただ感じているだけなら、それこそが神髄であり、輝きであり、限りない思考だ。これまであなたが理解したいと思ってきたことは、どれも言葉を持たない。感情とヴィジョンがあるのみだ。そして知識が自分のもとにやってくる時、あなたは感情溢れて言葉を失ってしまうことだろう。

 思考を限定する技は、それに言葉をつけてやることにある。本当の師は何も説明しない。ただ知っているだけだ。説明するということは、自分を限定しなければならないことを意味している。大事な点にくればあなたはただ単に知っているのであり、知っている状態を正当化したり、説明したりする必要はないのだ。そうすれば、あなたはまさに自分の世界の主となる。絶対的な「知っている状態」にあるのだ。

 脳下垂体が開花し始めるにつれて、これまではとても可能だとは思えなかったような形で、人生が変わってくる。考えることはすべて、深い感情とともに感じられるようになる。自分の内面にある「知っている状態」が創造的な形態へと変容するにつれて、想念がどんどん早く具象化するのを目にするようになってくる。愛、理解、そして慈しみの心が強くなる。そして、ある人々は自分の人生から消えていく。それはあなたが違うレベルの叡智に到達したからだ。だが、そのかわりに似かよった考え方の人たちが自分のもとに引き寄せられるようになる。

 限りなくあることを望めば望むほど、そしてそこからやってくる想念を抱き、感じれば感じるほど、脳下垂体はさらに多くのホルモンを分泌し、その口状部は広がっていく。自分をそのまま愛したい、そして「知っている状態」で生きたいと望むほどに、あなたの存在を包む神によって脳がどんどん開かれていくのである。さらに大きく開いていくのだ。するとあなたは自分の身体以上の存在となる。自分をひとつにしているもの、そのものになるのである。

 脳がすべて活動すると、現実の中に占めるあなたの位置が定かでなくなってくる。そのため、この場所にいても、同時に第七のレベルにいることもできるようになる。第七のレベルにいながら、プレアデス星にいることもできる。プレアデス星にいながらも、友の側にいることもできるのだ。

 脳下垂体が満開となると、あなたはもはや死ぬことはない。老いることもない。身体はあなたが命じるとおりのことをするようになる。身体に振動の速度を上げるように命じれば、それは別の次元に上がっていく。ことほどさように、あなたの脳は強力なのだ。身体を死んだ状態からよみがえらせることさえできる。そこまでの力を持ったとき、あなたは神の神聖なる王冠を身につけているのと同じだ。純粋な神となる時、それは純粋な生命ということだが、あなたは永遠の存在となる。これこそもっとも壮大な天国である。

 偉大なる第七のチャクラは王冠をいただき、あなたの精神のすべては目覚め、完璧な「知っている状態」が、あなたのすばらしいレシーバーを通し、大挙して内面にはいってこれるようになる。多くを知るほどに、そして身体がその波動を体験するほどに、身体は速く振動し、どんどん軽くなっていく。そしてある日、あなたが愛し、心に抱いてきた全ての生、それに自分の魂が、ここでの体験を終える時、その「知っている状態」、その振動が、波動をさらに100万倍も加速し、身体は見えない状態へとはいって、この次元から離れていく。あなたは生から生へという繰り返しの輪を抜け出したのだ。



 さて、かなり長い引用になってしまったけど、要点はシンプルだ。
 より限りない思考・印象・感情を抱くほど、それが脳のいわゆる「ナイトヘッド」、眠っている部分を覚醒させ、身体の細胞にも高いエネルギーを送り、振動を高速化していくということである。

 低い波動というのは限界ある想念、二元性にとらわれた意識であり、足りないという想念、愛や豊かさや能力がないという想念、わかたれているという想念、人や自分を裁く審判の意識などがある。これらの振動は逆に、肉体の振動数を低下させるという。

 極端に言えば一方の極みには 覚醒と 愛と知恵 よろこび と不死が

 そしてもう一方の極みには 眠りと無知 恐怖と、衰弱と死がある
   
 ここで神を想うということの謎がひとつ解ける。

 それは完全、限りない、という想念なのである。
 神というのはただの言葉だが それをさらに詳しく見ると
 
 無限 不滅 ただ在るもの 絶対の愛 知恵 すべて 生命 存在するすべての存在

 といったようなとにかくスケールの大きい、限界のないものとなる。
 その完全さをこころに抱き、受け入れることが、自分自身が神なるものへと近づくことになるからだ。

 もしも神を拒否し、二元的な意識にだけ捕らわれれば、そこに進化はないのは明らかだ。
 これは神を受け入れねば裁かれるとかそういったことではない、『無限』を、『最高のよろこび』という想念を拒否すれば、そこにはなかなか至れないという当たり前の事実に過ぎない。

 二元性に基づいた有限と分断の思考も 無限の思考もそのどちらも神の内面にあり、経験のためにある。
 古来聖者が教えていることとは、幸せになりたいなら、よろこびに向かったほうがいいですよ、無限を受け入れたほうが得ですよということに過ぎ無いのではないかと思う。神へと至る脳は誰にでも平等に、その暗闇の中に眠っているだろうからだ。

 それはシバという言葉を使う必要もないし、観音様や、アマテラスや、アッラーや、イエスや、その他いろいろのマスターの名前を呼ぶ必要も本来はないのではないかと僕は思う。要はぼくらのいだく想念がどれくらい限りなく、どれくらい自由で、どれくらい愛なのかというそのことだけではないだろか。
 マスターや神の名は、僕らの『無限』を触発するために助けになることがあるが、エッセンスではない。
 エッセンスとは「限りなさ」、「永遠」、「なんでもあり」、「全部OK」、「ただある事」なのではないかと思う。いつか今ある宗教は消えていく。そして宗教的な形態というのも消滅していく。
 そしてそのエッセンスだけが残るはずだ。

 ラーマリンガは19世紀にアセンションした存在だった。
 しかし記録に残っていないだけで、この100年の間にもいくらかいたのかもしれない。
 それがキリスト圏なら聖人、仏教圏なら生き仏様、ヒンドゥー圏ならシバやヴィシュヌの化身となってしまうが、もしかするとそれらの宗教圏に属さないどこかの片田舎や都市の一室で、十字架も仏壇も神棚もない部屋で淡々とアセンションした存在がいなかったとも言い切れない。
 彼がまったく無宗教だった可能性もあるだろう。しかし、その意識は非常に抽象的で「無限」であるとか「光」であるとかいった巨大な想念を受けいれていた可能性は高い。
 彼にインタビューすると

 「うーん、そうですね。すべての存在の源である無限の光に意識を向けると、いろいろな想念が入ってきますから、そのなかから一番素晴らしいものをもらってると、なんかこうなってしまったんですよねー 結局有限の認識形態から無限の認識形態にシフトしてとどまればいい話なんです

 とかしか言わないかもしれない。

 もしかするとそれが宗教を持たないけどアセンションする「現代人」に今後あり得ることなんじゃないかと思う。



アセンション考 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/04/10 13:50

ガイアシンフォニーと、呼吸法について

 12月4日、埼玉の浦和で行われた『ガイアシンフォニー 第一番』の上映会に行く。

 ガイアシンフォニーの内容を紹介した書籍は読んだことがあるけど、映画は初めてで、やっと見れたか~(o^―^o)という感じだった。20年前の作品だが、そのメッセージ性はいまだ色あせず、むしろ緊急性を増しているようにも思われる。昨年には第七番が公開された。






 第一番はエンヤや、宇宙飛行士のラッセルシュワイカートなどすごい人物が登場するが、印象深かったのはラインホルト・メスナーという登山家のインタビューだった。実は本でもメスナーの話しが一番気になった。
 メスナーは世界各地の8000メートル級の山に無酸素、単独での登攀に数多く成功している登山家だ。
 もじゃもじゃの髪とひげ面の見るからにワイルドな容貌をしている。

 彼の言葉で印象深かったのは、
 
 『人間は英語で言うスピリット(霊)、マインド(知性)、ボディ(肉体)の三つの要素から成り立っていると私は思います。この三つの要素の調和がとれているのが人間の理想的な姿だと思います。しかし、もし肉体をおろそかにすると、スピリットやマインドがいかに高くても、人間はその肉体の弱さにとらわれてしまう。人間は自分が持っている一番弱い要素を基準に生きざるを得ないんです。』

 これはとても示唆深い言葉で、例えば、スピリットは高いがマインドは子供みたいな聖者(教える能力のない、子供みたいなタイプ)とか、マインドは成熟しているが病弱な文学者とか、またスピリットを欠いた哲学者であるとか、いろいろな例が思い浮かび面白い。

 もっとも肉体が、極限まで追い詰められても最後まで残るのはスピリットなのですべて同格ではないと思うが実際に生きてる時間には肉体や、脳機能の性質によって人生のクオリティはかなり変わってきてしまう。さらにそこに特定の価値観や信念体系、トラウマなど(マインドの)の要素が加わり複合的なバイオコンピュータを構成しているということになるのだろう。

 つまりどこが弱いのか、というポイントを見つけることが重要で例えばいくらピュアな食生活をしていてもマインドの内容を吟味して働きかけることが必要な場合に、それをしなければバランスは回復されないと思う。
 僕もずっと意識だけに働きかけていればよいと考えて、他の要素をかなりおざなりにしていたような気がするがバランスが重要だということがようやくわかってきた。


 以下書籍、ガイアシンフォニー間奏曲 より

 メスナーは今、北イタリアの小さな山村ユバールの古城に住んでいる。1986年、世界の8000メートル級の山をすべて登り終えた年、ここに移り住んだ。荒れ果てていた城の内部を、彼はチベットの僧院風に改造した。8000メートル級の山での体験を通して、彼は次第にチベット仏教の宇宙観に共鳴するようになったのだ。

 「もうひとつ別の現実が存在する、とわたしが確信するようになったのは、1970年のナンガ・パルバートの体験からでした。下山の途中、私はおよそ800メートルの崖を墜落したのです。その時私は落ちていく自分を、上から静かに見つめているもうひとりの自分がいることに気づいたのです。
 人間は実は2つの次元に生きている。その一方は、普段見えない。この体験がわたしの人生の最も重要な体験になったのです」

 
 映画に出てきたメスナーの住居は確かにチベット仏教風の仏像や、壁掛けがたくさんあって超かっこよかった。

 動物保護活動家のダフニー・シェルドリックのインタビューでは、動物と人間が作ることが可能な絆の強さが見てる人を感動させる。また自然界は弱肉強食というだけではなく、相互扶助的なものであることを生態系の維持者としての象のたちの姿が教えてくれる。
 エンヤのチャプターで取り上げられる、ケルトの螺旋文様はとてもこころの深い部分に訴えるものをもっている。冬至の朝に太陽の光が差し込む遺跡の壁に刻まれた3つのらせん、それは奈良県天河神社のシンボルである「五十鈴」とほとんど同じ形態であると言ってもいい。
 宇宙飛行士のラッセル・シュワイカートが泳いだ宇宙空間から見える地球は本当に美しい。しかし彼の語る、第二次大戦の任務中、原子爆弾の上で星空を眺めて寝るのが習慣だったというエピソードも同じくらい興味深いものだ。
 
 入場の時に受付でもらったチラシの裏側にちょっとした広告が入っていて、それは呼吸法の講座のお知らせだった。呼吸法の実践を少しするようになってから色々気づくことが多い。そのひとつが呼吸を変えると、リアリティ自体が変わるということだ。人は怒りや不安を感じると無意識に呼吸を押し殺す傾向があり、特に都市部ではそのストレスフルな環境に対処するために多くの人が胸で呼吸するようになっているらしい。だがこの呼吸法がいろいろな健康的、精神的問題を生んでしまう。
 イライラした時でもその感情を受け入れつつ、呼吸の中心をおなかの深い場所にもってきた呼吸をすると、とても面白い状態になる。その感情と距離が生まれ、その感情が解消され、エネルギーが戻ってくる。
 呼吸法は「内的な力」あるいは「偏在する力」という概念を体験するのにかなり効果的な方法だと思う。 呼吸法の本が、タバコを止めた直後にやってきたというのもナイスタイミングだった。
 
この本が内容とっても充実していた。結構即効性があると思う。

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 ホリスティックな癒しの本としては、これが素晴らしかった

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 息ってすごいな、と思ってるときだったのでそのチラシの広告にも興味を持ったのだが、それは塩谷信男という人が考案した正心調息法という呼吸法だった。この呼吸法が有効であることを実証するために100才まで生きると宣言し、それを達成その後、106才とマイナス10日で亡くなったかたらしい。

 家に帰って詳しく調べてみて、ちょっと驚いたことには塩谷博士はどうもアセンション論者であったことだった。塩谷博士によると、21世紀に入ってから必ずカタストロフィーが訪れ、これは地軸の移動とか都市の水没などを伴う世界規模のものだがこのイベント事態は避けることができない。それは人が本来の曇りない心に帰るために必要な出来事なのだという。そのイベントの最後に日本の天皇と、ユダヤの女性が中国のある場所で会合し、その後長く続く平和な世が訪れると言う。 

 そして、この会合の仲人をするのがあの中○薫さんらしい・・・w
 で、まあ塩谷博士も中○さんにそのことはもう伝えてあるとか、なんとか、まあ中○さんとかを受け付けない人には眉毛が唾でぐしゃぐしゃになりそうな話かもしれず、僕もこの話を鵜呑みにしてるわけではないがなんかこの塩谷さんの話を読んでるとある意味恐ろしいことを書いてるのに、あまり暗い気持ちにならないというか、からっとしたものを感じるのでその辺りがちょっと気に入った。

 と同時に、禁煙したり、からだを浄化したり、食事を変えたり、思考を変えたりすることが今のこの時には単なる健康法とか以上の意味を持っており、だからこそその必要に応じて自分もこういったことに興味を持っているのではないかという予感を持った。

 正心調息法の講座も、基本一回受けるだけであとは独習してくださいと向こうから言ってるのが非常に珍しい。普通こういうのは人を集める、一度来たお客さんは逃がさないという感じで来させ続けようとすることが多いのに。塩谷先生のカタストロフィーの話しはホントかどうかわかりません、と主催者の人が言ってるのも好印象、かつまた面白かった。まあ信じなくていいけど、先生がこう言ってたことも事実ですから載せますよという感じでしょうか。

  Dr塩谷のなるほどね~な言葉 こちらより転載
 
 まず、自分が幸せになったり、健康になることが大切なんですね

 60億の人間がいるとすると、60億分の1が幸せになったんだから。その幸せを人にわけてあげればいいの。そうすればどんどんと広まっていくでしょう。たった一人でもいいの。己一人でも、とにかく向上すれば、全体が上がっていくんだから。己だけが大切で、他に貢献しない人もいるけれど、それでもいいの。とにかく60億分の1は向上したんだから。それにその人の器は、自分だけ満足すればいいという程度だったの。
 持って生まれた天分や性もあるからね。どうしても人のためになりたい人もあるし、自分のことしか考えない人もいる。自分本位の人も、次第に器が広がればいいが、そうならない場合もあるの。一生「俺が俺が」で通す人が大部分なの。けれど、とにかく一人一人が向上すればいいの。それだけ全体のレベルが上がったことになるんだから。

 細胞が生きていくために一番必要なのは酸素。それなのに細胞は、酸素が不足しているの。特に脳細胞は酸素が足りないんだよ。エサを少ししか食べていない馬は、ちゃんと走れないし、風が吹いてきたらフラフラする。一方ちゃんとエサを食べている馬はしっかり走るし、そよ風が吹いてきたといい気持ちなの。こんなふうに外部の刺激に対しても、全然ちがう反応をするの。
 酸素不足で、細胞は本来の働きができるかっていうことなの。普通の人は、一つ一つの細胞が本来の働きをしていないの。だから、君も本来の力を発揮していないの。これは理屈でなくて事実。十分な食事をしなかったらどうなる?それで働けるかい?体だけでなく、頭も働かないでしょう(笑)。これが根本的な問題なの。人間が生きていく上で大切なのは酸素。まず細胞が酸素を十分に取って、元気でなければ話にならないの。
 ところが普通の人は、酸素が不十分な状態をアベレージだと思っている。そうじゃないの。十分に酸素を取れば、細胞がイキイキとしてその人が元気になる。その状態が本当のアベレージなの。


 細胞が生きていく上で、一番大切なのは酸素なの。栄養分や水分がちょっと足りなくてもいいの。でも酸素がなければだめなのよ。ことに脳細胞はそうなの。食事は1~2週間とらなくても生きていけるし、水を飲まなくても3日は生きていけるでしょう。一番大切な酸素は、瞬間でもなくてはならないの。


 空気はあるのが当たり前だから、大切だと気づきせん。でも呼吸が止まったらすぐに死んでしまいますものね。:

 みんなは、空気がたくさんあり過ぎるから大切だと気づかないの。たくさんあるということは、大事だということなの。無駄にあるのでなくて、必要だからこそたくさんあるの。食べ物や水は、そんなに必要でないから、なくてもすぐに死なない。酸素は一番大切だから、呼吸を止めたらすぐに死んでしまうでしょう。普通の人は、このことをわかっていないの。一番大切なことが無視されているから、酸素不足で細胞は十分に働かない。酸素不足の細胞が考えたことは、酸素が十分にある細胞が考えたことよりも低いレベルなの。


 こんなありがたいことはないよ。一瞬でも欠かせない空気を、無限に与えてくれているんだから。最近、水のことに関心が向いているでしょう。天然水を飲むのは結構。でもなにより、空気を十分に吸いなさいと言いたいの。
普通の呼吸では、肺の上部にしか空気が入らない。でも正心調息法をすると、肺の下部まで空気が入るから、酸素が体に行き渡るの。お腹をすかせているところに、酸素が来るんだから、体の細胞は喜ぶの。のどが乾いているところに水が来るようなものだがな。普通の人は呼吸が十分でないから、酸素不足が当たり前になっているの。だから頭も十分に働かなくて、考えることの質も悪いの。だから善悪の境目があいまいになっているでしょう。
呼吸をすることがいかに大切なことか、みんな知らないの。あまり大事過ぎるからね(笑)。


  空気はタダですからね。:

 一番大事なものはタダなの。





アセンション考 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/12/05 16:07

コルマンインデックス第5の夜破壊と、見向きもされないものたち

 コルマンインデックスのサイクルの精度には以前から少し注目している。

 コルマンインデックスとは、マヤ暦の一種の読み取り方だと認識している。
 それを見ていると確かにインデックスとシンクロしてイベントが起こっているように思える場合もある。
 
 例えば今年の3月9日から最終サイクル第9サイクル(の第一の昼)に入った。
 その少し前から太陽活動が極度に活発化して、最大クラスのX級フレアを二回放出、二日後には千年に一度クラスの東日本大震災が発生した。これはつまり「サイクルの終わり」の「始まり」だ。 

 日本でもっとも大規模な異変が起こったのはおそらく、日本がLostの「島」のような特殊地帯であるからである。日本にはLostの「光源」(クラウンチャクラ)に相当するものがあるかもしれない。変化の波を真っ先に受容するような性質を持っているのではないか。そしてこの「島」で起こったことは、型となって世界中に転移していく。

 インデックス第9サイクルは六つの夜と、七つの昼によりなっておりそれがすべて終了する2011年10月28日に意識進化の波は最高潮に達するとしている。現在は8月18日から9月4日までの、第5の夜「破壊」の期間にあたる。

 僕はこのコルマンインデックスが何かの宇宙サイクルと合致しているというのは認めざるを得ないけど、多分10月28日と言うのは新たな始まりに過ぎないのだろうと思う。そしてその先を予測することが出来ないインデックスの代わりにまた無数のカレンダーや予言などが登場するだろう。それはテレンスマッケナがアマゾンの奥深いジャングルの中で受けたインスピレーションを基にして構築した「タイムウエーブゼロ理論」が暗示する「時間自体の終わり」まで続くのだろうか。それとも時間の終わりなど、絵空事に過ぎないのだろうか。

 第5の夜には、米ドルを中心とする世界経済システムの崩壊が予測されてきた。
 確かに8月最初にはアメリカ国債が格下げされて、金価格は史上最高値を更新した。
 そしてNYダウは数百ドル上げたり、下げたりという末期の病人のバイタルのような動きを繰り返した。
 それにあおりを食って日本では戦後最高値まで円高が進んだ。 

 それぞれの昼と夜にはミッドポイントというエネルギーがもっとも強まる期間があるが、この第5の夜は現在、つまり8月26日~28日ころである。

 ちょうどそれと時を同じくして巨大ハリケーン「アイリーン」がアメリカに向かい、ニューヨークでは史上初の30万人への避難勧告をおこなっているようだ。避難命令は全米で230万人。7つの州で非常事態宣言が出ている。このハリケーンは27~28日ごろNY、ワシントンに向かうという。
 アメリカ中枢部へのこのハリケーンの接近はやはりこの第五の夜の何かの作用の一環だろうか。

 さらにあまり知られていないが、8月23日にはワシントン周辺をM5.8の地震が襲い人々が短時間パニックに陥った。というのはこの地域ではこの程度の規模の地震でも滅多になく、地面が揺れるという現象を人々が体験していないからだ。さらに近隣の原発も地震で一時運転を停止した。




 メチャ日本語上手いおもろい外人さんがレポート(アリエナーイ!)



  http://www.youtube.com/watch?v=E8RqCPgarz0



 このような現象を見るとまさに「破壊」のサイクルと言えそうだが、忘れてはならないのはインデックスが示しているのは本質的に「意識の変容」ではないのかということだ。

 摩天楼が大音響と共に崩れ落ち、大津波が街を飲む、ウォール街では大暴落に多くの投資家が頭を抱えてうずくまる、そんな時巨大な彗星が地球をかすめ、さらなる大地殻変動を引き起こし、ノアの洪水さながらの豪雨が街を洗い、超巨大太陽フレアが大都市を火の洗礼で焼き尽くす・・・そこへポールシフトが・・(あー書いてて疲れたw)

 こういった↑ハリウッド映画の超大作のようなイメージを「破壊」という言葉は連想させもするが、この期間もしかして意識の内部で、僕ら自身の「西洋商工業都市文明」への興味が失せているのではないかと、そのような気がする。外に現象化してつくられたこの都市文明を破壊しようとするなら、まさに上のようなことになるがもしかして音もなく、多くの人たちの内部で自らが構築した「文明・世界・価値」が音もなく消滅しているとすればどうだろうか?もしそうなればそれはより本質的な現代文明の破壊と変容となるであろうし、それだけが大規模な外的現実のカタストロフによる強制的変容、というプログラムの過酷さを軽減してくれるはずなのだ。

 僕は今日、ヴォイトレで外出した。
 今課題曲にしてるのは結構アップテンポのJロックだ。
 
 近所で「ちんどん屋」さんと遭遇した。
 たまに近所を通るのだが僕はこの年まで「ちんどん屋」なんて見たことはなかった。
 年配の人たちは足を止めて懐かしそうに見ている人もいる。
 特有のメロディと変な格好で通りを練り歩く集団は、シュールだった。

 さらに走っていると、おじいさんがチャリをこぎながらでっかい声で民謡を歌いながら走り過ぎて行った。
 なかなかいい声でまったく人目を気にせずでかい声で歌ってる歌を聴くと、なんかそのあと微妙に自分の中から力が抜けているのを発見した。

 よくわからないがどうも「ちんどん屋」と「民謡じいさん」が僕の中で意味的につながっていた。
 
 僕はどうも自分のマインドが、高いこと、よきこと、きれいなこと、かっこいいこ、正しいこと、賢いこと、のみを求めてそこに固着しているという感覚を覚えた。

 それが僕が作り上げたこころの摩天楼だ。

 それ以外のものは自分ではないと思い込みたいのだ。限りなく愚かで、限りなくぶさいくで、ダサいこと、地味できたなくて、ありふれているものは自分ではないと思いたい。

 足元を見下ろせば道端にコケが生えている。タバコの吸殻が道路に張り付いている。

 これは、僕ではないのだろうか?本当に、僕ではないのだろうか?

 どこかのたてものから溢れてくる排水は、これは僕とは何の関係もないんだろうか?

 現代人のマインドからは、見向きもされないものたち。世界の99パーセントはこの見向きもされないものたちで満ちている。水も、空気も、石ころもそう。でも、その見向きもされないものたちが、僕らを生かしている。それは神だ。人間の頭によって理想化された至高存在ではなく、すべてに満ちわたり、あらゆるものに形を変えて現れるエネルギーだ。

 人間は世界の1パーセントを理想化し、そこに自分の欲望やエネルギーをすべて集めた。
 特殊な才能や、特殊な美貌や、特殊な生活。
 興奮させてくれるもの、華美なもの、セクシーなもの、笑わせてくれるもの。 

  つまり結局のところ、この文明とは世界の1パーセントを勝手に切り取り、これだけが価値があり、これだけが全てであると頑張っていた空虚な価値世界だったということではないのか?

 見向きもされないすべての命が、僕らを生かしている。
 そして僕らはそれらと、同じものだ。
 僕らは名前なき、満ち渡る命だ。

 このような認識に僕らが至る時、僕らのこころの中の魔界都市「バビロン」はきらめく砂へと、命へと帰るのではないだろうか。

 僕らが嫌ってきた残り99パーセントの宇宙が僕らを呼んでいる。

アセンション考 | コメント(10) | トラックバック(0) | 2011/08/27 17:02

3/11よりこちら側(6)

 ずっとウソだったんだぜ


 4月10日高円寺、一万人規模のデモ。 



http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=eKntEqQvWek#at=56


 2011.4.10 高円寺 原発やめろデモ!!!@新高円寺



http://www.youtube.com/watch?v=xoeX0GOb3Ig&feature=related

 このデモを見てると、ちょっと日本が好きになれる。

 タレントが頑張ろう日本!と言ってるのを聞くよりも

 アーミーのように非常時においてもおとなしい日本人を称賛されるよりは・・・


 カナダでも、ずっとウソだったんだぜ



http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=wSh0iSIk6bY#at=66

 京都大学小出先生の話し 
 4月12日

 ★最悪のレベル7への引き上げの意味




http://www.youtube.com/watch?v=ruTVbPCGAxw


今日見た動画




番組を降ろされた話しなど。
やっぱ、非常時には現在のメディアは大本営になるのだなー。
ネットで情報を集められる世代はいいけど、テレビの言ってることが本当だと信じて
いる人はやっぱり当初の『漏れてない』が『ちょっと漏れてる』になり、『かなり漏れてる』
になりレベル7まで引き上げられるのを見てると腹立って仕方ないと思う。


■ECCO九州へ、東京で腹くくる


3.11以前またアイソレーションタンクに浮かびたいなーと思っていたのだが、今日
サイトを見てみるとECCOが東京から消えていた。。。ガ━━━( ゚д゚ ;)━━━ン

阿蘇で活動を始めるらしいけど、、、やっぱ水の汚染が心配なのか、なんなのか。


昨日は修道会参加者の方から、居住エリアが近いからもしもの時のために水や食料とかいろいろ助け合えるように
メルアドを交換しておきましょう、というメッセージをもらった。
やっぱりこういうとき、お上に依存しないネットワークはとても大切になってくるし、必要に
なるだろうなーと思い、心強かった。

しかし昨日と一昨日は、かなり有事感が強かったな。
大きい揺れが来るとやっぱり・・。

僕も東京から離れた、九州や沖縄、海外にいっそ行ってしまいたいと思うことがあるけど多分、ここでこれからどうなるにしてもそれを経験することがI先生流に言えば「みこころ」
なのかな~と思う。壊滅的な被害を受けた被災地でもないし、関西でもない、このなんかじわじわと
した不安と終わりなき余震に揺すられ、原発の容態が逐一気になるというこの立ち位置が、今の自分が
経験すべきポイントなのだろう。自分のいるべき場所は、まだここ、という感じだ。
安全だけを考えれば、原発300キロ圏内は可能ならすべて今のうちに退避したほうがいいに決まってる。
政府の発表は、あんまあてにならない。
デマに惑わされないようにとか言ってるけど『レベル4』ていうのがデマだったわけだしね。
東京は別に安全じゃない。明日は我が身的な場所だ。
多分僕もこっちでのいろんな出会いがなければとっとと東京脱出していたかもしれない。

今しばらくはこの場所で、今を経験することになると思うけど
しかし、いつか遠からずうちに出エジプトの時は来るような予感もする。

アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/04/13 16:17

3/11よりこちら側(5)

 地震にはさまれたリト

 4月8日から10日まで、富士山中湖で春のリトリート。

 前日の夜早めに寝る仕度をして、布団に入ってると携帯が びよっ びよっ びよっと心臓に悪い音で鳴った。
 緊急地震速報。
 ほとんど当たらないから、最近こいつは狼少年速報とみなしている。びっくりさせんなよ~と思い布団にもどると、ぐらぐらぐらっとかなりの揺れが来た。ただ震源宮城ってことで余震だろうからそんなでかいのは起こらないと思ったが、結構すごかった。

 瀕死の原発が逝ってしまってないか、とても心配だったがワンセグテレビで見ると、一応異常なしとのこと。あんまり信用できないが とりあえず爆発はしてないようだ。テレビを消して布団に入った。

 翌日新宿発の高速バスで山中湖まで。
 いつもどおり2泊3日の濃い時間を過ごした。 

 今日はとてもバキバキ感強く、いい時間を過ごした。

 しかし・・・夕方!17時過ぎ今度は福島内陸を震源としたM7の地震。

 大き目の揺れだとからだが勝手にボロアパートから脱出しようとする。

 この感じは・・・3・11よりもちろん小さいけど、かなりのものを感じ、まっさきに気になるのは原発君の容態だ。

 ワンセグつける。
 原発には異常なしとのこと。
 
 しかし徐々に、作業員は退避?? 注水作業は中断??と事態がどんどん深刻になるのが報じられる。

 これは、最悪の展開か、と見守る中6時を過ぎてようやく注水が再開されたというニュース。

 一応ほっとするが、福島は震度6だ。なんらかの影響があってもおかしくない。

 気が付くと、バキバキ感忘れツイッターで情報集めてるし・・・
 4・11という日付もそうだが、このタイミングで揺れるとは・・・なにかがマジな感じだ。

 とりあえず爆発はしなかった。

 仮に今のような放射能拡散ではなく、大規模な爆発が起こると200キロ~300キロ圏内は高濃度の放射能に汚染されるようだ。ただチェルノブイリでもそうだったが、汚染は何キロ圏内に均等におきるわけではない。その時の風向きなどにより比較的近隣でも汚染度が低い場合もあるし、遠方でも高濃度になる場合がある。雨などによって集中的に放射能が降り注ぐと、数百キロ彼方でもホットスポットと呼ばれる高汚染地帯が出現することがある。
 微妙なエリアに住んでいる場合、もしもの事態には、逃げるか、屋内にとどまるか、こころの準備くらいはしておいた方がいいのかもしれない。
 首都圏が風下だった場合、だいたい半日くらいの時間猶予はあるようだ。
 そして、その時でも急性放射線障害を起こしてしまうといったレベルになるということはない。
 ただ晩発性の癌などになる可能性がかなり高くなるということだと思う。

 とりあえず現在の原発周辺の様子は下のような感じらしい。
 果敢にも数キロ圏内にガイガーカウンターを持って突撃取材したVTRだ。
 浜辺で朽ち果てたトラックや、野生化した牛の映像はなにかとても現実とは思えないものがある。

 かなり線量が低い場所もあるが、数キロに近づくと線量は100マイクロシーベルトを越え、これは10時間いただけで一年分の許容放射線1ミリシーベルトを浴びるというレベルになっている。やはりここまでくるととても人は住めない。

 

  神保哲生報告/ゴーストタウンと化した避難区域で見たもの videonewscom




http://www.youtube.com/watch?v=KxntDJEMavw


 I先生が言ってたこと、原発の事故など含め今回のことは「みこころ」というより「こころみ」と考えた方がいいと。これらのことを受けて、僕らの意識がどう変わっていくかが問われているということなのかもしれない。

 そして、どうもこのタイミングで起こったことは、今後ともいろんな意味で大きな変動は続いていく。そのことを前提で絶対的なものとの関係性が試されているというか・・・・そんな感じを受けてしまった。的外れであればいいと思うけれど。

 山中湖ペンションで見た虹。

      110409_0805~01


 さて、PCを落として神様に戻れるかこころみてみようと・・・・




アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/04/11 20:32

3/11よりこちら側(4)  

 震災ののち、原発事故による放射能や東海、東南海の地震、富士山の動きなど新たな変動の情報を気にしたりしてまた混沌としてきたので、3・11以前の流れはどうであったか日記で確認してみた。すると、余計なものは見ないで、神様おまかせモードにしようと努力していたことがわかった。
 あとあまりにもフレアが多いのでそれをメモ帳にコピペしていたものを貼り付けてみる。

 
 ■日記



 3月1日

 もんすげーマーヤ
 太陽いまだ昨日Mクラスフレアとか起きてるし活動大
 昨夜R電車でばったり倒れれると、tel
その後眠れず 何回も起きる
 雨続きもあるが・・・強烈
 

 3月5日(土)

 水曜の夜から一切ネットつないでいない。
 これいいかも。アセンション系だけでなく、Yahoo!のニュースなどもマーヤ大と認識
 そのせいか昨日の瞑想会エナジーの持ちがいいような
 PCはDVD見たりするのに立ち上げるが、LANケーブル引っこ抜いてる
 ネット当分止めようかな
 朝食抜きと同じく『空』をつくるのが大事なのだろう
 頭もスカスカの部分を。
 頭もおながが減ると本当に必要な情報がわかる。まさに「知るべきことを知る」(前日の瞑想会のI先生の言葉)のが大事。アンインストール!


 3月7日(月)

 目覚めると雪。
 太陽黒点110以上
 Cクラスフレアも頻発
 3月9日よりコルマンインデックス(マヤ暦の分析法)で新サイクルに入る。
 しかし超寒いなあ・・・

 朝起きて一時間は何もしないで意識を観察し、またお祈りなどをしていると頭が
 働き出してくる。この自家発電感が大事かも。ネットあけても頭は働くが他からの情報
 というものに頼っているので妙な方向性がついている。


 3月8日(火)

 昨日Mクラスフレア三回も発生
 黒点118とかかなり多 
 そのためかコーヒーのみすぎか、昨夜寝付き悪く何度も目覚める

 本日も4,5回Mクラスの爆発 
 さすがにこんだけ続くとエフェクトする感じ
 太陽の騒がしさに押され、タブーのネットもいろいろ見てしまうが、明日からはやめよう
 このサイクル24の太陽活動も、コルマンインデックスとシンクロしてる気がせんでもない。

 エフェクト感のためか部屋にいるのも落ち着かず、公園ではだし歩きをした。


 3月9日(水)

 すべてはあなたの愛のうちにあり
 すべてはあなたご自身のあらわれである
 主よ
 この神聖な流れに身を委ねることができますように
 すべてであるあなたの中へ溶けいるように

 我もなく
 うつしよもなく ただ一人
 神の御前にひれふしおろがむ

 コルマンインデックス、サイクル9スタートらしいす
 今日も相変わらずMクラスフレア×3発生
 どうもフレアの症状として記憶が飛ぶというのがあるような
 あとテンパる、重いなどのエフェクト感の他に
 眠い、だるいってのもあるかも
 昨夜安定剤飲んで寝たのに なんかぐっすり寝れないんだよなー

 9:30~21:30まで仕事
 Aさんと(利用者の人)近くの診療所へ
 トイレの中で「地震、揺れてる」とAさん
 あまりわからなかったがあとから携帯で見ると宮城でM7.1の地震があったとのこと
 マイミクのFさん(ダイジのもとお弟子さん)が「岩戸開く」と日記に
 


 3月10日(木)

 今朝も5時半にパッチリと目が覚める
 前日よく働いたからぐっすりかと思いきや・・・
 なんかのエネルギーがあるんだろうなーと眠れなくなしてるエネルギーにフォーカスする
 思考ではなく、その奥の・・・
 すると弱い地震 ドアチャイムがちりんちりんと少し鳴る
 その音聴いてると少し眠気が・・ん~地震かなあ
 あとで携帯でニュース見ると昨日地震あった三陸沖でまた地震
 そして午前6時頃パプアニューギニアでもM6くらいのがあったと
 あんだけフレアあれば不思議じゃないけど、ん~
 第9サイクルの開始と関係あるのか

 もう一度寝ると濃い夢いっぱい
 
 そして祖母が生前唱えていた『法華経』を読みたいと思ったり
 いろんなものが噴出して意識がすぐそれらにフォーカスするので
 なんかちょっとわけわからん感じの朝方
 祖母はやはり家の霊的ダイナモであったのか
 法華経という形を通して祈りの波動を供給してくれていた気がする


 ■宇宙天気情報センターフレア記録より(抜けてるとこあり)



3/ 5 18:02 C2.3
   11:39 C1.7   
   10:06 C2.2

3/ 6 19:25 C7.5
   18:55 C3.1
  17:48 C2.7
  15:58 C2.8
  14:24 C4.6
  12:37 C3.7
  11:03 C2.2
  05:59 C2.3

3/ 7 16:11 C3.6
  16:48 M1.6   
   14:00 M1.3
   13:16 C5.1
   11:01 C3.0
  04:32 C2.3
   01:14 C7.0
  00:51 C4.3
  00:09 C4.0

太陽の活動度がもう一段高まり、Mクラスの中規模フレアが7回も発生しています。
7日14時(世界時7日5時)に、1164黒点群でM1.2、
7日17時(世界時7日8時)に、1165黒点群でM1.5、
7日17時(世界時7日8時)に、1164黒点群でM1.4、
7日18時(世界時7日9時)に、1164黒点群でM1.8、
7日23時(世界時7日14時)に、1166黒点群でM1.9、
8日5時(世界時7日20時)に、1164黒点群でM3.7、
8日7時(世界時7日22時)に、M1.5、
と、1164黒点群を中心に、1165群、1166群でも発生しています。
規模としては、今日早朝のM3.7が最大です。(担当者コメント)

3/ 8

   19:33 M5.4
  18:30 C4.7
  14:03 C5.5
  12:33 M1.5
   11:24 C7.7
  09:15 C4.7
  06:45 M1.6
  04:42 M3.7
  03:09 C7.6
  00:54 C5.1


3/ 9

22:52 M1.7
 22:15 C7.6
20:00 M1.8
19:34 C7.4
17:23 C9.5
16:26 C6.6
13:58 C7.7
12:16 C5.1
11:18 C6.5
10:52 C5.6
10:22 C3.7
08:33 C8.9
08:09 C7.8
04:52 M1.5
03:07 M4.5


3/10 12:49 C3.0
   07:46 X1.6  
   07:02 C9.5
  06:03 C5.1
  00:41 C2.7



活発だった1165黒点群が沈むとともに、
今度は太陽中央の1166黒点群が活動を強め、
今朝、X1.5の大規模フレアを起こしました。

1166群は、昨日の夕方からフレアを活発に起こし始めました。
C9.4に始まって、M1.7、M1.7、C9.4と続き、
10日8時(世界時9日23時)に、X1.5の大規模フレアを起こしたのです(担当者コメ)

 
 フレアについて少し補足するとフレアは

 Cクラス
 Mクラス
 Xクラスの順に巨大になる。クラスのあとの数字が大きいほど規模もでかい。
 これだけ見るとしょっちゅう爆発してるみたいだがそんなことはない。
 Cクラスの爆発がない日だっていっぱいある。

 太陽は今までずっと静かで、2008年には無黒点状態、つまりフレアは黒点部で発生するのでそれもほとんど起こらない状態が数ヶ月にわたって続き100年ぶりに静かな状態になっていた。
 本来2011~2013年ごろまでの太陽極大期サイクル24に向けて活動は活発にならねばならないのに、異常に静かだった。だからMクラスが起こるだけで2009年や、2010年には大きなイベントだったのだ。

 しかし、この3月上旬の記録を見ると、そのMクラスが一日に多い時で数回、そしてそのMクラスよりも数倍でかいXクラスという最大規模のフレアが3月10日震災前日に起こっている。Xクラスは2月中旬にも起こっているがこれは2006年以来4年ぶりのことだった。その一週間後にはNZで地震がおこっている。

 フレアが直接地震の原因になるわけではないが、これらを見る限りなんらかのトリガーになっている可能性は否定できないように感じる。そして太陽活動はまだ、サイクル24の最盛期ではない。今後活動は必ずもっと激しくなる。どうもこのところ極小期である2005年にX級フレアが起こったりものすごくランダムな予測不可能な状態になっているようだ。

■すべてが変わるぞ、なにもかもだ

 地震で中断していた海外ドラマ「Lost」の続きを見る。
 はじまりのシーンで、ハリーという登場人物が見る夢のなかで
 韓国人のジンがハリーに「すべてがかわるぞ、何もかもだ」という。

 またすぐそのあとに「チェルノブイリの石棺」という言葉が出てくる。
 これを震災前に見れば、チェルノブイリ 石棺なんていう言葉はまったく意に介さずに
 スルーしたに違いない。

 ちょうどシーズン2のエピソード3をみたあと十数分後に、地震が起こったから、
 エピソード4を見るのが今となり、それらの言葉がまったく違う意味を帯びるようになった。

 多くの人が福島は、事故の深刻さと規模的にはチェルノブイリと
 スリーマイルの間に挟まれる位置にあると 考えている。(いまだ流動的、今後の展開次第)

 


 ■もとには戻せない

 僕はこれを単体の災害とは見れない(とくに特に福島原発)。次にこうなるとかそういう予想を述べる気分にはなれないが、これは大きな変化の「はじまり」だろう。しかしこれが本当に最初だったわけではない。卵が割れる時、みしみしと小さなひびが入り始める。そのひびはもう20年も前から入ってきていた。バブル崩壊もそうだった。9・11もそうだった。リーマンショックもそうだった。ゲリラ豪雨や、酷暑もそうだった。今回、一気に大きく亀裂が入ったから「ひとつのおおきな出来事」と認識された。でもそうではなく、卵が割れる、古い世界が維持できなくなる、という単一のイベントの中の一部であると思う。

 もとに戻す、ということはできない。この過程では変容するということしかできないのではないか。しかもそれは中途半端なものではなく根本から、矛盾を訂正し、腐敗と虚偽を表に出し生き方を変えるということが必要ではないか。もしもこの噴出した矛盾をまた封じ込め、利権と癒着にまみれたシステムで国民を洗脳しようという意図があるならば、それを「復興」と呼ぶならば、新たなる崩壊はどこかですぐに起こる。

 つまりなぜACは今ワタシタチニできることのなかに「原子力の是非についてもっと考える」を入れないのかということが、僕のいいたいことのすべてだ。それこそが積極的な希望ではないのか。牧場の羊をなだめる角笛のようなメッセージばかり流すのはやめてほしい。それができないのが利権と癒着の構造だ。偽りの復興と頑張ろうでは、もうもたない。



http://www.youtube.com/watch?v=92fP58sMYus&feature=related

隠された被爆労働〜日本の原発労働者1



http://www.youtube.com/watch?v=pJeiwVtRaQ8&feature=related

隠された被爆労働〜日本の原発労働者2


 悲惨な話しだが使ってる電気がこのような歪みの上に供給されていたことは知ってよかった。

■止まったエスカレーターを駆け上がる子供

 3・11以前はいつも動いていた駅近くのビルのエスカレーターが止まっている。
 そこを歩いておりながら、『地球が静止する日』というSFを思い出す。
 確か宇宙人たちが核兵器や戦争をおこなう人類への警告として、地球上の電気を
 いっせいに止めるという話だった。
 なにか僕には節電で、これだけの規模で機械、照明をとめているという現状が
 なんだか現実感が薄いというか、バーチャルな世界に迷い込んだようなそんな印象すら受ける。
 子供たちがとまったエスカレーターを笑いながら駆け上がる。

 今まではまったく無駄なほどエネルギーが使われ、それを当然だと考えて
 いたということをつきつけられる。

 それも原子力発電という一度破綻すると、まったく手に負えなくなるモンスターを使用した
 電力供給だった。放射性物質を無害にコントロールする能力など最初から今のテクノロジー
 にはなかったのだ。
 何千年も何万年も放射能を出し続ける、使用済み燃料という奴の処理を、ずっと先の未来の
 子孫にまで 持ち越すという時点で、このシステムは最初から破綻していたように思えてならない。
 それはあたかも、サブプライムローンが破綻した時、よくテレビで放映された、カードローンで
 多額の借金をしてでも高価なものを買い、旅行を楽しむという一部のアメリカ人の生き方のようだ。
 負債を未来に送り続けるというような生き方は天に唾するようなもので、いつかは自分自身に
 落ちてこざるを得ない。それは天罰のためではなく「引力」という法則に逆らっているという
 単純な理由による。

 
 そんなものを、プレートが合流する地震列島である日本全国に55機も作ったということが、
 とても正気の沙汰とは思えない。現在も50機以上のそのモンスターが起動し、全国に電力を
 供給しているのだ。しかもその電気の多くがまったく必要もない照明や、機械の作動に使用
 されているということ。まったくそれらに疑問を持たず、生きてきたこと。
 今回の事故はこういった闇に隠れていた本当に大きな、愕然とするような構図を浮き上がらせた。
 少なくとも、僕にとってはそうだった。

 【大切な人に伝えてください】小出裕章さん『隠される原子力』



http://www.youtube.com/watch?v=4gFxKiOGSDk

福島第一原発事故:再臨界?:小出裕章 2011.4.5



http://www.youtube.com/watch?v=OrJrKU3UBMc


 ■裸足

110308_1531~01


 3月8日、「向こう側」で撮った最後の写真。
 裸足で土や木の根の感覚を感じて歩いた。

 あらゆる矛盾があらわになるにつれて、

 僕ら自身も裸にならねばならなくなるだろう。
 目をそむけていたものと直面したり
 自分自身の嘘や、ごまかしとも向かい合わねばならなくなるかもしれない。
 でも裸の自分自身にほこりを持って、どんなに格好悪く思えても、とりつくろうより美しいことを肝に銘じて生きたいと思う。
 
 人からどう見られても自分の本性を隠さずにいれば、新鮮な空気とともにいられる
 もし裸足で歩けば、少々とげがささろうと、大地がじかに包みこみ支えてくれるように

 裸足で生きる勇気を僕らに・・・・! 




アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/04/07 22:33

3/11よりこちら側(3)


  エハン・デラヴィさん、東日本巡礼&東京公演

 いわき市議 佐藤和良氏 福島原発震災 いわきからの報告追加 4/5

 <3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0の巨大地震が、日本の太平洋沖で発生しました。
さらに地震によって引き起こされた10~20メートルもの津波が三陸沿岸から関東地方の沿岸を襲い、史上最悪の被害が出ています。地震と津波によって福島第1原発では、外部電源が全て失われ、原子炉、使用済み燃料プールの冷却が困難になり、燃料溶融、水素爆発などによって大量の放射能が放出されています。
地震による被災地の様子、さらに原発震災による放射能の恐怖におびえる現地の状況を、いわき市議の佐藤和良さんからお話していただきます。> 原子力資料情報室



 4月1日、吉祥寺瞑想会。
 前回は3月1日、そして修道会は節電などの影響で出来なくなってしまったのでI先生に会うのは3・11よりこちら側では初めてとなった。
 
 始まる前に喫煙所で、I先生、他の参加者の人たちと世間話。
 まあ話題は自然と地震、原発のことに。

 I先生は震災、一週間ほど前からマザーの祝福が続いていて、「うわーなんかすっげーいいことが起こるんじゃないか」と思ってると、地震が・・・と言ってた。 
 
 震災の日の朝はとてもいい感じだったと言ってる方もいた。
 僕は一週間前からテンパっていたが、その朝は確かにすっきり感があったのを覚えている。
 また他のご夫婦は、奥さんが前日二人でベランダにいるときあまりにも「静か過ぎる」と感じ、翌日ご主人が出勤することをとめたと言うような話しも間接的にきいた。

 I先生は個人セッション中に揺れが始まり、セッションを受けてる人があわてて逃げる用意をしながら右往左往してるのに、座って笑ってるから「なんで笑ってんですか!!Σ(; ゚Д゚)」と驚かれたらしい。

 そのあとなぜか「俺は地震よりも犬が怖い」という話になり、インドで野犬に追いかけられかまれた話しとか、テロリストに銃口を突きつけられた話しとかきいた。やはり銃身を突きつけられると全身がさーっと冷たくなるという。犬の怖い顔を真似して話す、先生を見てると、ああ・・・何が起こってもこの人は変わらないのだろうと思った。かなりウケて笑ってしまった。

 I先生の意見では原発の事故は、世界の原子力政策への警告的意味合いもあるのではないかと言っていた。二度も核兵器を落とされた日本だからこそ、また放射能の脅威にさらされているという事件が世界にインパクトを与え得るという。

 僕の思い付きではホピ族の聖地より採掘されたウランにより核兵器が作られ、そして汚染に苦しむ、彼らと似たような宿命と使命を日本は持っているのかもしれないと思う。それは世界の矛盾を、それが破綻した姿を示すことにより身をもって表現するというそのような役割だ。アルファベット表記されたFUKUSHIMAという文字は今後世界の人の記憶に残り続けるに違いない。
 
 ちょっと気になったこと。
 喫煙所で話してる時、僕が取り出したクリアファイルを目にとめてI先生が、「なにそれは?」と言った。
 そのクリアファイルは一年以上前に三鷹で牧島如鳩という画家の展示会がおこなわれた時に、会場で買ったものだった。タイトルは魚藍観音像という。中央に胸をはだけた観音様が蓮の上に鎮座し、周囲を天使たちが囲む。雲の下には夜の海と、灯台や漁港が小さく見えるというものだ。

gyorann.jpg

 これは牧島如鳩が大漁を祈願し、漁業共同組合のために政策したものだという。
 このクリアファイルは、瞑想会の会場の予約などをする時の受付票をいれるために持ち歩いていたものだ。
 だが、家に帰ってからI先生に「なにそれ?」といわれたことがどうも気になり、あらためてクリアファイルを見直してみるとそれは福島県いわき市小名浜漁業協同組合におさめられた絵だということがわかった。原発からもそうは離れていない場所だ。


    魚藍観音像 1952年 12月 小名浜漁業協同組合蔵

 観音の足元には小名浜の風景が細かく忠実に描きこまれており、海上保安部や小名浜橋などが同定できる。遠く塩屋崎灯台や夫婦岩も望まれ、いわき七浜が見下ろされる。正確な風景描写により、天なるものがまさに降ってきた臨場感は強められる。海上には大量旗を掲げた漁船が描かれており、大漁が予況される。口伝によればこの絵の完成を祝って人々は幌なしのトラックに作品を載せ町を練り歩いたという。その思いが天に通じたのか大漁が続いたとのこと。<魚藍観音像>は現在も小名浜漁業共同組合の組合長室の壁に海に向かってかけられ、ゆきかう船を見守っている。
       
                (クリアファイル裏面の説明より)

 今回の地震で漁業への影響はどうだったのだろうか?
 海の汚染も心配されるところだ。
 2009年の8月地元の駅であった展示会でこれを買い、被災地に近いところにおさめられた絵のこのクリアファイルを一年以上近く使ってきたことが、そして昨日それに気づいたことがなんだか奇妙なめぐり合わせに思われた。たまに経験するが、I先生の何気ない一言は結構意味があったりする。


shaka.jpg


                   誕生釈迦像




20110403 佐藤和良氏 福島原発震災 いわきからの報告

アセンション考 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2011/04/05 19:09

エハン・デラヴィさん、東日本巡礼&講演


 以下のメッセージいただきました。
 エハンさんの本は大変お世話になったので、ここでご紹介させていただきたいと思います。

 エハンさんは天文学や、古代からの予言やあらゆる側面から『イベント・ホライゾン』というかつてなかった大変化が進行中であることを語っている人物です。その該博な知識と、客観性、アヤワスカ体験などを積極的におこなうフットワークの軽さ、探究心など注目すべき人物だと僕は思っています。

 ルーミーの詩の朗読もあるということです。
 僕は生憎参加できませんが、よいイベントになるのではないかと思います。 




はいたか鳥さま。 この度は、突然のメールで失礼いたします。
 私は、PPP.プロジェクトの山本と申します。この度、私どもで被災地支援の活動のために急遽日本に駆けつけてくださったJCガブリエルさん(旧エハン・デラヴィさん)の東京講演を開催する運びとなりましたのでご案内させてください。 貴方様のサイトを通して皆さんにお伝えいただければたいへん嬉しく思います。
《「これからだよ 日本は!」JCガブリエル(旧エハン・デラヴィ)東京講演のご案内》  JCガブリエルさん(旧エハン・デラヴィさん)はご存知の方も多いかと存じますが、意識研究家として2012年をテーマに多くの出版物(「地球巡礼者」「地球意識から宇宙へ」「人類が変容する日」など)や『たけしのTVタックル』などの番組にも出演されご活躍されてきました。流暢に関西弁を操る情熱的でユーモアたっぷりの人柄に誰もがファンになってしまいます。 JCガブリエルさんは、昨年、日本での最後の講演を終え、カナダで執筆や研究に専念されていましたが、日本での大災害のニュースを知り「大好きな日本に今こそ恩返しがしたい」と、居ても立ってもいられない気持ちで今、日本に駆けつけています。 お住まいのネルソンという町が女川と不思議なご縁で結ばれていることを知り、『希望の書』という大きな白紙の本に、人々に被災地の方々に向けてのメッセージを書いてもらい、その思いを届けることを考えました。JCガブリエルさんはこれから、ネルソン市長からはじまるこの寄せ書きを持って、バイクで日本を巡礼しながら(柳川→大阪→金沢→東京)女川に向かいます。 私たちは、JCガブリエルさんのこの計画を知り、ぜひとも活動を応援させていただきたい、また、多くの方々に彼のメッセージを聞いてもらいたいと思い東京講演の主催に手を挙げさせていただきました。JCガブリエルさんの心をつなぐ巡礼ロードが今の我々にとっても大きなエールとなることでしょう。講演会の参加費は、JCガブリエルさんの活動費や被災地の方々の支援金に当てられます。 どうぞ皆さん、『希望の書』に被災地の皆さんへのメッセージと再生日本にかける意気込みを綴りにきてください。「『希望の本』を参加者とともに創造したい」というJCガブリエルさんと一緒に愛と希望の輪をどんどんパワーアップしてまいりましょう。お待ちしています。

《JCガブリエル(旧エハン・デラヴィ)東京講演のご案内》

■講演テーマ:「これからだよ 日本は!」
■日時:2011年4月8日(金)18:30〜20:30(18:00開場) 定員:50名 (10名程の空きがございます)
会場:すみだリバーサイドホール
■日時:2011年4月9日(土)13:00〜15:00(12:30開場) 定員:100名会場:墨田区社会福祉会館
■参加費:3,150円(税込) JCガブリエルさんの活動資金となります。
 会場では被災地の皆さんへの募金も受け付けます。 ※申込締め切り:2011年4月6日(木)(定員になり次第締め切らせていただきます)
 ■特別出演:人気声優の大本眞基子さんが霊的詩人ルーミーの詩を朗読してくださいます。

  ★メディアの皆さまへ:ぜひ東京講演にいらしてください。ご招待させていただきます。JCガブリエルさんの活動を日本の皆さんに広く知らせていただければとても嬉しいです。 講演会の詳細・申し込み http://hopebook.jp/ PPPプロジェクトblog:http://ameblo.jp/hopebook-jp お問合せ:info@hopebook.jp 048-993-4246(山本)※出られないことがありますのでご容赦ください。主催:PPP.プロジェクト担当:山本

アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/04/04 11:53
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