以下、100パーセント夢の話しである。
以前世間を騒がせた宗教団体Oのメンバーの写真が自分の携帯のデータフォルダに大量に保存されていることに気付く。それを見ることによっていくつかのシーンが展開していく。
出家した信者たちが集まって、その中の一人が『昨夜は○○の体験をした』という風に、自分の新境地への到達を興奮しながら話している。彼らはそれが教祖のAの恩寵によるものであると考えているのは間違いないようだった。その空間で修行が進むことはすべてAの霊的な影響力によるものなのだ。
僕はなんとなく、この人たち危ないなと思いながらも、親近感とか仲間意識のようなものも同時に感じていた。
何かのイベントで教祖のAが舞台に上がり、ダンスのようなユーモラスな動きをしている。それを見ながら信者たちが笑っている。その姿は悪人のようには見えない。
Oの組織内部にいたことのない僕にとって、O教団やAという教祖はマスコミから受けとったイメージそのままの醜悪なものだ。カルト、マインドコントロール、薬物、テロ組織、拉致、監禁、誘拐、まだまだ書ける。それが僕に最初から与えられた「物語」だった。
しかし、O教団やA教祖が最初は希望として、光として登場していた人たちの「物語」もある。
彼らにとっては、その物語は、仲間との連帯意識や共同生活の喜び、真理とともにあるというような安心感なども含んだものであったと想像できる。
彼らの物語はその後闇へと転落するというクライマックスを迎えた。
ある人はAに完全に裏切られたと思った。
ある人はAがそんなことをするわけがない、何かの間違いだ、陰謀だ、と思った。
ある人は、いつかこんなことをやらかすと思ってたんだ、と思った。
ある人は、今でもAのことを信じている。
彼らの多くは今でも釈然としない、混乱した物語のなかにいるだろう。
そして自分の中でのOにおける体験(仲間との思い出、ヨガの高揚感、神秘体験など)と、世間の見方、いったいなにが真実であったかということを統合させていくプロセスを経験せねばならなかった。
しかし、僕は最初からOはAは悪であるという、完成したシナリオを与えられた。
僕は最初からAやO教団に黒いベタを塗りつけておけばそれでよかったのである。
シナリオは最初から完成されていたし、それをいじくる必要もないのだ。
今朝の夢は、そのシナリオは単純すぎるぞ、そのベタは黒すぎるぞ、ということを言ってるような気がした。「無意識による補填」という言葉が浮かぶ。
別に僕は教祖のAを擁護してるわけではない。
非難されるに値することも多く行ってきたと思うのだが、O教団の背後には別の国際的巨大組織がからんでいたことは間違いないようなので、そこらへんの動きをカモフラージュするためにAは必要以上に「悪」とされてるのかもしれない。
なんでいまさら、こんな夢を見たのかな。
とりあえず一橋文哉の「オウム帝国の正体」(書評)でも読んでみることにする。
以前世間を騒がせた宗教団体Oのメンバーの写真が自分の携帯のデータフォルダに大量に保存されていることに気付く。それを見ることによっていくつかのシーンが展開していく。
出家した信者たちが集まって、その中の一人が『昨夜は○○の体験をした』という風に、自分の新境地への到達を興奮しながら話している。彼らはそれが教祖のAの恩寵によるものであると考えているのは間違いないようだった。その空間で修行が進むことはすべてAの霊的な影響力によるものなのだ。
僕はなんとなく、この人たち危ないなと思いながらも、親近感とか仲間意識のようなものも同時に感じていた。
何かのイベントで教祖のAが舞台に上がり、ダンスのようなユーモラスな動きをしている。それを見ながら信者たちが笑っている。その姿は悪人のようには見えない。
Oの組織内部にいたことのない僕にとって、O教団やAという教祖はマスコミから受けとったイメージそのままの醜悪なものだ。カルト、マインドコントロール、薬物、テロ組織、拉致、監禁、誘拐、まだまだ書ける。それが僕に最初から与えられた「物語」だった。
しかし、O教団やA教祖が最初は希望として、光として登場していた人たちの「物語」もある。
彼らにとっては、その物語は、仲間との連帯意識や共同生活の喜び、真理とともにあるというような安心感なども含んだものであったと想像できる。
彼らの物語はその後闇へと転落するというクライマックスを迎えた。
ある人はAに完全に裏切られたと思った。
ある人はAがそんなことをするわけがない、何かの間違いだ、陰謀だ、と思った。
ある人は、いつかこんなことをやらかすと思ってたんだ、と思った。
ある人は、今でもAのことを信じている。
彼らの多くは今でも釈然としない、混乱した物語のなかにいるだろう。
そして自分の中でのOにおける体験(仲間との思い出、ヨガの高揚感、神秘体験など)と、世間の見方、いったいなにが真実であったかということを統合させていくプロセスを経験せねばならなかった。
しかし、僕は最初からOはAは悪であるという、完成したシナリオを与えられた。
僕は最初からAやO教団に黒いベタを塗りつけておけばそれでよかったのである。
シナリオは最初から完成されていたし、それをいじくる必要もないのだ。
今朝の夢は、そのシナリオは単純すぎるぞ、そのベタは黒すぎるぞ、ということを言ってるような気がした。「無意識による補填」という言葉が浮かぶ。
別に僕は教祖のAを擁護してるわけではない。
非難されるに値することも多く行ってきたと思うのだが、O教団の背後には別の国際的巨大組織がからんでいたことは間違いないようなので、そこらへんの動きをカモフラージュするためにAは必要以上に「悪」とされてるのかもしれない。
なんでいまさら、こんな夢を見たのかな。
とりあえず一橋文哉の「オウム帝国の正体」(書評)でも読んでみることにする。
消えゆくボーダーライン
5月23日
また中野サンプラザで浅川さんの話を聴きに行く。
最近本屋によく出ている、『私はアセンションした惑星から来た』の話しが出ていた。
これはクリスティーナという女性が、自分が実はオムネク・オネクという金星の人間?で、メッセンジャーの役割を持って地球にやってきたということを語っている本である。(僕は未読)
浅川さんの話によると、
※地球はまもなくアセンション(次元上昇)しようとしている。
※次元上昇した世界は、悲しみや苦痛などが存在しない世界である。
※金星は過去にすでにアセンションを遂げた惑星である。
※しかし、苦痛がない世界ではカルマを解消できないので、オムネクはわざわざ地球にやって来て、過酷な人生を経験した。
ということを言っていた。
他の惑星に意識体が存在している、ということはアダムスキーなどのコンタクトが始まる前、神智学などの伝統の中でも語られている。
しかし、それはいいのだが、話しを聴いてるうちに、普通に死んだら多分アストラルな世界に行くわけだから、別にアセンションしなくてもいいような気がしてきた。
肉体死を通過せずに、アストラル世界に行けるのがアセンション?
ちょっとおいしいとこ取りな気がしなくもないが・・・。
しかし、『私はアセンションした惑星から来た』のような内容の本は、10年位前ならちょっとトンデモ過ぎて売れなかったんじゃないだろうか。高次元の宇宙存在からのメッセージみたいなのは流行ってたと思うけど。
「わたしは実はウチュウジンデシタ」ともろに言うのは・・・・・あったかなそんなの?
真偽の程はひとまず置いて、リアリティーに関する人間の意識がかなり変化している気がしないでもない。
つまり、ありえることと、あり得ないことのボーダーラインがいつの間にかすーっと移動しているような感覚を最近覚える。堅固であったはずのリアリティーの共通認識が溶解していくようなそんな感じ。
僕の脳が溶解してるだけかもしれないけど^^
もちろん、これは本屋の精神世界コーナーの一角でのことだが、それも世間のひとつであることは確かだろう。
二三日前「12モンキーズ」という映画を見た。
疫病で人類の大半が滅亡した未来からその原因を探るために過去にやってきた男が、たびたびリアリティーを変更してる間になにが現実だったのかわからなくなり、精神科医に自分がタイムトラベラーだという妄想を治療してくれと懇願するようになったりする。
見てると船酔いしてる気分になってきて、大変心地悪く、心地よい映画だ。
ブラッド・ピットが演じるイカレタ男がイカスぜ。
僕は去年の夏頃、テレンス・マッケナのタイムウェーブ・ゼロ理論(時間と現象がどんどん加速し、2012年にピークに達するというアレ)を検索したことがきっかけで、終末感と変容への期待が交錯するような、雰囲気に飲み込まれてしまったのだが、映画を見終わったあと、『あ、アセンションとかなんとかかんとかって、伝染性のカサンドラ異常心理じゃないの?』と、ふと思ったりした。
浅川氏の講演会で、中国でまたとんでもないことが起こるとか、鳥インフルエンザがいつ人にパンデミック(大量感染)を起こしても不思議ではないとかいう話しを聴きながら、半信半疑ながらも「あ〜そういうこともあるかもしれないな。こういう時代だから」と思ってる自分を感じるとき、何か、足元にぽっかり穴が開いてるような、底のない空間の上に立っているような錯覚を覚える。
それを既知の事実として、やはり半信半疑ながらも受け入れてる人が、大量にいる空間に自分も今いるということが、やっぱり「12モンキーズ」のような現実感覚のゆらぎと、ボーダーラインが消えつつあるというような感覚を感じさせられた。
いい意味でも悪い意味でも、どんな領域においても、あらゆるボーダーラインは、今後どんどん溶解していくように思える。
また中野サンプラザで浅川さんの話を聴きに行く。
最近本屋によく出ている、『私はアセンションした惑星から来た』の話しが出ていた。
これはクリスティーナという女性が、自分が実はオムネク・オネクという金星の人間?で、メッセンジャーの役割を持って地球にやってきたということを語っている本である。(僕は未読)
浅川さんの話によると、
※地球はまもなくアセンション(次元上昇)しようとしている。
※次元上昇した世界は、悲しみや苦痛などが存在しない世界である。
※金星は過去にすでにアセンションを遂げた惑星である。
※しかし、苦痛がない世界ではカルマを解消できないので、オムネクはわざわざ地球にやって来て、過酷な人生を経験した。
ということを言っていた。
他の惑星に意識体が存在している、ということはアダムスキーなどのコンタクトが始まる前、神智学などの伝統の中でも語られている。
しかし、それはいいのだが、話しを聴いてるうちに、普通に死んだら多分アストラルな世界に行くわけだから、別にアセンションしなくてもいいような気がしてきた。
肉体死を通過せずに、アストラル世界に行けるのがアセンション?
ちょっとおいしいとこ取りな気がしなくもないが・・・。
しかし、『私はアセンションした惑星から来た』のような内容の本は、10年位前ならちょっとトンデモ過ぎて売れなかったんじゃないだろうか。高次元の宇宙存在からのメッセージみたいなのは流行ってたと思うけど。
「わたしは実はウチュウジンデシタ」ともろに言うのは・・・・・あったかなそんなの?
真偽の程はひとまず置いて、リアリティーに関する人間の意識がかなり変化している気がしないでもない。
つまり、ありえることと、あり得ないことのボーダーラインがいつの間にかすーっと移動しているような感覚を最近覚える。堅固であったはずのリアリティーの共通認識が溶解していくようなそんな感じ。
僕の脳が溶解してるだけかもしれないけど^^
もちろん、これは本屋の精神世界コーナーの一角でのことだが、それも世間のひとつであることは確かだろう。
二三日前「12モンキーズ」という映画を見た。
疫病で人類の大半が滅亡した未来からその原因を探るために過去にやってきた男が、たびたびリアリティーを変更してる間になにが現実だったのかわからなくなり、精神科医に自分がタイムトラベラーだという妄想を治療してくれと懇願するようになったりする。
見てると船酔いしてる気分になってきて、大変心地悪く、心地よい映画だ。
ブラッド・ピットが演じるイカレタ男がイカスぜ。
僕は去年の夏頃、テレンス・マッケナのタイムウェーブ・ゼロ理論(時間と現象がどんどん加速し、2012年にピークに達するというアレ)を検索したことがきっかけで、終末感と変容への期待が交錯するような、雰囲気に飲み込まれてしまったのだが、映画を見終わったあと、『あ、アセンションとかなんとかかんとかって、伝染性のカサンドラ異常心理じゃないの?』と、ふと思ったりした。
浅川氏の講演会で、中国でまたとんでもないことが起こるとか、鳥インフルエンザがいつ人にパンデミック(大量感染)を起こしても不思議ではないとかいう話しを聴きながら、半信半疑ながらも「あ〜そういうこともあるかもしれないな。こういう時代だから」と思ってる自分を感じるとき、何か、足元にぽっかり穴が開いてるような、底のない空間の上に立っているような錯覚を覚える。
それを既知の事実として、やはり半信半疑ながらも受け入れてる人が、大量にいる空間に自分も今いるということが、やっぱり「12モンキーズ」のような現実感覚のゆらぎと、ボーダーラインが消えつつあるというような感覚を感じさせられた。
いい意味でも悪い意味でも、どんな領域においても、あらゆるボーダーラインは、今後どんどん溶解していくように思える。
時のリアリティ
先日参加した浅川氏の講演会では、沖縄のノロ以外の話題にも触れられたが、その中で「時間の流れが速くなっている」というものもあった。
「最近年をとったから時間の流れが速くなってきたなと思う方がいらしゃるかもしれませんが、お年のせいじゃありません。アセンションに向かって実際に時間の流れが早くなっているんです。」
というようなことを話されていた。実際に体感として時間の経過が早く感じられると同時に、物事が現象化する速度がこれまでの何倍にもなっているそうだ。
時間の加速化のことを言っているのは浅川氏だけではなく、田村珠芳さんも言っていたし、エハン・デラヴィ氏というアセンション論者も言っている。
『時間の加速化』は誰が言い出したのか不明だが(あるいはみな漠然と感じている共通認識なのか)、おそらくマヤ暦で2012年12月22日が「時間が終わる日」とされていることなどと関係があるだろう。
時間が加速する、というのはどういうことなのだろうか。
人が時間を遅く感じたり、早く感じたりということのメカニズムはどうなっているのだろう?
一般的に速く流れる時間というのは、心地よい時と結びついているようである。
その逆に遅く流れる時間は、退屈な時、苦痛な時と結びつけ語られることが多い。
しかし、いつもそうとは限らない。
速く流れ去る時間、というのがある種の不毛な感覚と結びついている場合もある。
例えば『毎日同じルーチンをこなす仕事に従事していて、気がつけば一週間、一月、一年と
あっという間に過ぎ去っています』というような場合がそうだ。
この場合は暗に、自分の手のひらを「時間」がこぼれ落ちていくような虚無感がほのめかされている。
そして、そう語っていた人が長期の海外旅行に出た時、『時間』はまったく新たな色合いと密度を持ってその人の前に現われるだろう。見知らぬ風景や、予期しない出来事の連続が、その人の注意力を呼び覚ます。
例えば日本からインドにでも行って、最初の二三日は勝手もわからず様々な出来事に圧倒されホテルにたどり着いてひと心地つくと、とても2、3日前に日本を経ったとは思えないのではないだろうか。その場合、今までの日常よりも注意力が拡大されている為に、経過した時間は相対的に長く感じられるのだ。
さらに、突然の事故や、臨死体験時に体験される時間の拡大がある。
よく車に撥ね飛ばされた人が、すべてがスローモーションのように動き出した・・・というようなことを言うが、これも注意力の異常な覚醒と関係があるのだろう。
通常一秒間に僕らが拾う情報量が10か20だとすると、そのような非常時には覚醒した注意力が100も200も情報を拾う。と、するならば時間は遅く感じざるを得なくなる。
この種の『時間の拡大』は、一流のスポーツ選手が最高に集中して競技しているときにも起こりうる。
さて、このように見ていくと時間の主観的な感じ方には幾通りかのパターンがあることがわかる。
速い時間 (事を楽しんでいたり、集中していて気がつけば時間が過ぎていたと言う場合。
注意力が眠り込む事によって、新しい情報を拾うことが出来ず、結果として時間が速く感じる。これは「子供の一日」と「大人の一日」の時間の長さの違いでもある。現実社会は電車のダイヤからオフィスの休憩時間まで、すべてシステマティックに動いているが、システマティックなものは注意力を眠らせる傾向がある。これに対し「こどもの時間」はどちらかと言うとカオスの中にある。
遅い時間(事が苦痛な場合。嫌でたまらないことをしている場合、時間は進まない。これは、注意力が時計を見ているからである。物事を拒絶して時間の経過のみに意識を集中すると、逆に時計は進まなくなる。注意力が「進まない時」をつくりあげる。時間を速く進めるには、時間を忘れる必要がある。
注意力の覚醒により、瞬間が引き伸ばされる場合。この場合現象のあらゆる繊細な側面が知覚されるため、それに応じて時間も引き伸ばされて感じられる。
時のない、時^媼韻凌燭粒仞辰了には、時間は存在しないと感得されると言われる。そのポイントは「永遠の今」、あるいは「時間が空間になる」と表現される。真に存在するのはこの「永遠の今」のみであり、過去・現在・未来という観念を含む時の流れは、意識が作り出す幻影である。
このように見ていくと、時間の流れの感覚とは、人の意識と無関係ではあり得ない。
もし、時間が「速くなって」いるとするならば、それは私たちの意識が変質しているということではないだろうか??
速くなっている時間⇒集合的に、意識の覚醒度が上昇しているため、瞬間の密度が高くなっている。そのためあらゆる現象のスピードが高速化し、ある意味過激になっている。激しいカルマの噴出と、癒し・覚醒が同時に進行する。心理学で言うフローの状態になりやすい。過ぎ去る感覚は速いが、振り返ると一年の密度の濃さに驚く。
激しい変化の時。
しかし、「時間が終わる時」私達がたどり着くのは、「変化などなかった」という認識かもしれない。
「我々は普通、感覚が生じるのは我々の外部で起こった何らかの変化に気づく瞬間である、という。しかしその「変化」とは何か?ひょっとしたら実際には変化など起こっていないのかもしれない。もしかしたら、我々には運動や変化に見えるものは、実際には我々の外部に存在する何らかの物の静止した側面や角度であって、それについて我々は何も知らないのかもしれない。」p130 ターシャムオルガヌム
もしこのような時間のパラドックスを身を持って体験できるとすれば、本当にすごい時代だと言える。
「最近年をとったから時間の流れが速くなってきたなと思う方がいらしゃるかもしれませんが、お年のせいじゃありません。アセンションに向かって実際に時間の流れが早くなっているんです。」
というようなことを話されていた。実際に体感として時間の経過が早く感じられると同時に、物事が現象化する速度がこれまでの何倍にもなっているそうだ。
時間の加速化のことを言っているのは浅川氏だけではなく、田村珠芳さんも言っていたし、エハン・デラヴィ氏というアセンション論者も言っている。
『時間の加速化』は誰が言い出したのか不明だが(あるいはみな漠然と感じている共通認識なのか)、おそらくマヤ暦で2012年12月22日が「時間が終わる日」とされていることなどと関係があるだろう。
時間が加速する、というのはどういうことなのだろうか。
人が時間を遅く感じたり、早く感じたりということのメカニズムはどうなっているのだろう?
一般的に速く流れる時間というのは、心地よい時と結びついているようである。
その逆に遅く流れる時間は、退屈な時、苦痛な時と結びつけ語られることが多い。
しかし、いつもそうとは限らない。
速く流れ去る時間、というのがある種の不毛な感覚と結びついている場合もある。
例えば『毎日同じルーチンをこなす仕事に従事していて、気がつけば一週間、一月、一年と
あっという間に過ぎ去っています』というような場合がそうだ。
この場合は暗に、自分の手のひらを「時間」がこぼれ落ちていくような虚無感がほのめかされている。
そして、そう語っていた人が長期の海外旅行に出た時、『時間』はまったく新たな色合いと密度を持ってその人の前に現われるだろう。見知らぬ風景や、予期しない出来事の連続が、その人の注意力を呼び覚ます。
例えば日本からインドにでも行って、最初の二三日は勝手もわからず様々な出来事に圧倒されホテルにたどり着いてひと心地つくと、とても2、3日前に日本を経ったとは思えないのではないだろうか。その場合、今までの日常よりも注意力が拡大されている為に、経過した時間は相対的に長く感じられるのだ。
さらに、突然の事故や、臨死体験時に体験される時間の拡大がある。
よく車に撥ね飛ばされた人が、すべてがスローモーションのように動き出した・・・というようなことを言うが、これも注意力の異常な覚醒と関係があるのだろう。
通常一秒間に僕らが拾う情報量が10か20だとすると、そのような非常時には覚醒した注意力が100も200も情報を拾う。と、するならば時間は遅く感じざるを得なくなる。
この種の『時間の拡大』は、一流のスポーツ選手が最高に集中して競技しているときにも起こりうる。
さて、このように見ていくと時間の主観的な感じ方には幾通りかのパターンがあることがわかる。
速い時間 (事を楽しんでいたり、集中していて気がつけば時間が過ぎていたと言う場合。
注意力が眠り込む事によって、新しい情報を拾うことが出来ず、結果として時間が速く感じる。これは「子供の一日」と「大人の一日」の時間の長さの違いでもある。現実社会は電車のダイヤからオフィスの休憩時間まで、すべてシステマティックに動いているが、システマティックなものは注意力を眠らせる傾向がある。これに対し「こどもの時間」はどちらかと言うとカオスの中にある。
遅い時間(事が苦痛な場合。嫌でたまらないことをしている場合、時間は進まない。これは、注意力が時計を見ているからである。物事を拒絶して時間の経過のみに意識を集中すると、逆に時計は進まなくなる。注意力が「進まない時」をつくりあげる。時間を速く進めるには、時間を忘れる必要がある。
注意力の覚醒により、瞬間が引き伸ばされる場合。この場合現象のあらゆる繊細な側面が知覚されるため、それに応じて時間も引き伸ばされて感じられる。
時のない、時^媼韻凌燭粒仞辰了には、時間は存在しないと感得されると言われる。そのポイントは「永遠の今」、あるいは「時間が空間になる」と表現される。真に存在するのはこの「永遠の今」のみであり、過去・現在・未来という観念を含む時の流れは、意識が作り出す幻影である。
このように見ていくと、時間の流れの感覚とは、人の意識と無関係ではあり得ない。
もし、時間が「速くなって」いるとするならば、それは私たちの意識が変質しているということではないだろうか??
速くなっている時間⇒集合的に、意識の覚醒度が上昇しているため、瞬間の密度が高くなっている。そのためあらゆる現象のスピードが高速化し、ある意味過激になっている。激しいカルマの噴出と、癒し・覚醒が同時に進行する。心理学で言うフローの状態になりやすい。過ぎ去る感覚は速いが、振り返ると一年の密度の濃さに驚く。
激しい変化の時。
しかし、「時間が終わる時」私達がたどり着くのは、「変化などなかった」という認識かもしれない。
「我々は普通、感覚が生じるのは我々の外部で起こった何らかの変化に気づく瞬間である、という。しかしその「変化」とは何か?ひょっとしたら実際には変化など起こっていないのかもしれない。もしかしたら、我々には運動や変化に見えるものは、実際には我々の外部に存在する何らかの物の静止した側面や角度であって、それについて我々は何も知らないのかもしれない。」p130 ターシャムオルガヌム
もしこのような時間のパラドックスを身を持って体験できるとすれば、本当にすごい時代だと言える。
疑と信
疑うこと、物事を鵜呑みにしないことは、知性の条件であると同時に、ある種の病的状態の原因でもある。
いわゆる「陰謀論」は病気っぽい人を引き付ける牽引力を持っている。と、同時に精神的な病が進行すると、自然発生的に「陰謀論的世界」が出現する。
なぜなら、基本的に(潜在的に)人は、自分を害する悪なる世界に取り囲まれているという認識を持っているからだ。これは可能性として誰の中にも存在する。が、健康な状態ではこの世界は表面化しない。だから全く気づかない人もいる。
その根本原因は、自分以外の存在を「異質なもの」として認識する人間の認識の仕方にある。
「自我」が「自分」と「それ以外のもの」を分割する。
この「それ以外のもの」は自我にとって認識不可能、コントロール不可であるために(潜在的に)いつも危険をはらんでいるように認識される。100パーセント安全なものはない、というのが自我の言い分だ。
病的な状態においては、「非自我」がすべて自分を脅かす存在と化す。彼らは潜在的な危険性が、フルに現実化している世界に生きる。
健康にとっては「信」が重要だ。それも、より大きなもの、自分の人生そのもの、その人生の源そのもの、宇宙そのものへの「信」が鍵となる。
それは「非自我」の根源を、「善」とするからである。
目に見える現象がどのようなものであろうと、その現象を支える根本をよきもの、愛自体とするのだ。
これがあるがゆえに、「自我」は「非自我」に溶け込みたいと思う。「信」がなければ溶け込むという方向性は決して出てこない。
「自我」は「自我」のまま、「非自我」は危険をはらんだ「非自我」のまま僕らを脅かす存在としてあり続ける。
どうも僕らは、個々の現実に対しては批判と疑いを、究極に対しては『信』を持って生きざるを得ないような時代にいるようだ。
これが話しをややこしくしている。
多くの嘘で塗り固められた現実があるために、それに目を奪われると、究極に対する『信』も忘れてしまう。いくら抜け目なくそして享楽的に生きても、究極への「信」なしには人生は寒々しく、救われない。
しかし、すべての情報やマスコミが流す価値観を鵜呑みにして生きていたら、ボロボロになってしまう。そして嘘で固められた向こう側に何があるのか知りたいと思うのは自然な欲求であると思う。その為にはやはり、常に問いかけるということ、自主的に思考することが必要になってくる。




















「コクーン」という80年代に作られた映画がある。
この映画、結構素朴で好きなのだけど・・・・簡単に言うと、UFOで地球にやってきた宇宙人が老人ホームのお年寄りたちを(希望者だけ)病気も死もない自分たちの故郷に連れて行ってくれるというものだ。
昔、ある人から「もしあなたならコクーンのUFOに乗っていきますか?」と聞かれたことがあって、その時「そりゃ行きますね」と答えたら、「わかってないな〜、どこにいてもね〜神様の世界なんだよ」とかそんなことを言われて煙に巻かれたような気がしたことがある。(I先生ではない)
が、コクーンのUFOにお年寄りたちが乗るのは、その前に宇宙人たちとの心温まる交流があったからだ。いや〜な感じの宇宙人だったらいくらいいとこに連れて行ってやるといっても信じられないだろうし、ついていきたいなんて思わない。
結局信じるというのは、そのようなところからしか生まれて来ないんだと思う。
いわゆる「陰謀論」は病気っぽい人を引き付ける牽引力を持っている。と、同時に精神的な病が進行すると、自然発生的に「陰謀論的世界」が出現する。
なぜなら、基本的に(潜在的に)人は、自分を害する悪なる世界に取り囲まれているという認識を持っているからだ。これは可能性として誰の中にも存在する。が、健康な状態ではこの世界は表面化しない。だから全く気づかない人もいる。
その根本原因は、自分以外の存在を「異質なもの」として認識する人間の認識の仕方にある。
「自我」が「自分」と「それ以外のもの」を分割する。
この「それ以外のもの」は自我にとって認識不可能、コントロール不可であるために(潜在的に)いつも危険をはらんでいるように認識される。100パーセント安全なものはない、というのが自我の言い分だ。
病的な状態においては、「非自我」がすべて自分を脅かす存在と化す。彼らは潜在的な危険性が、フルに現実化している世界に生きる。
健康にとっては「信」が重要だ。それも、より大きなもの、自分の人生そのもの、その人生の源そのもの、宇宙そのものへの「信」が鍵となる。
それは「非自我」の根源を、「善」とするからである。
目に見える現象がどのようなものであろうと、その現象を支える根本をよきもの、愛自体とするのだ。
これがあるがゆえに、「自我」は「非自我」に溶け込みたいと思う。「信」がなければ溶け込むという方向性は決して出てこない。
「自我」は「自我」のまま、「非自我」は危険をはらんだ「非自我」のまま僕らを脅かす存在としてあり続ける。
どうも僕らは、個々の現実に対しては批判と疑いを、究極に対しては『信』を持って生きざるを得ないような時代にいるようだ。
これが話しをややこしくしている。
多くの嘘で塗り固められた現実があるために、それに目を奪われると、究極に対する『信』も忘れてしまう。いくら抜け目なくそして享楽的に生きても、究極への「信」なしには人生は寒々しく、救われない。
しかし、すべての情報やマスコミが流す価値観を鵜呑みにして生きていたら、ボロボロになってしまう。そして嘘で固められた向こう側に何があるのか知りたいと思うのは自然な欲求であると思う。その為にはやはり、常に問いかけるということ、自主的に思考することが必要になってくる。




















「コクーン」という80年代に作られた映画がある。
この映画、結構素朴で好きなのだけど・・・・簡単に言うと、UFOで地球にやってきた宇宙人が老人ホームのお年寄りたちを(希望者だけ)病気も死もない自分たちの故郷に連れて行ってくれるというものだ。
昔、ある人から「もしあなたならコクーンのUFOに乗っていきますか?」と聞かれたことがあって、その時「そりゃ行きますね」と答えたら、「わかってないな〜、どこにいてもね〜神様の世界なんだよ」とかそんなことを言われて煙に巻かれたような気がしたことがある。(I先生ではない)
が、コクーンのUFOにお年寄りたちが乗るのは、その前に宇宙人たちとの心温まる交流があったからだ。いや〜な感じの宇宙人だったらいくらいいとこに連れて行ってやるといっても信じられないだろうし、ついていきたいなんて思わない。
結局信じるというのは、そのようなところからしか生まれて来ないんだと思う。
蛇と女神の系譜
ケルト文化についての知識が増すにつれて、この文化とわが国の古神道の源である縄文時代の文化との間に様々な類似点がある事がわかってきた。中でもケルト神話と日本の古代神話の間には似たような話しがいくつもある。ケルト神話の中には「天の岩戸」神話とそっくりの話しがあるし、登場する神々の性格もよく似ている。全ての自然現象は宇宙的な大霊の現れであると信じ、特に樹・岩・水・火などはその霊を宿した聖なるものとして崇められていた。
(中略)
特に私が興味を持ったのは、ケルトの人々に最も崇拝されていたと言われる大地の女神ブリギッドだった。アイルランド各地には「聖ブリジットの泉」と呼ばれる泉が数多くある。5世紀にはカソリックがアイルランドに入って以来、そこはカソリックの聖女ブリジッドの聖地だと思われているが、実はカソリックの入る遥か以前から続いているケルトの女神ブリギッドの聖地だったのだ。
人々は今もそこでケルト時代からの風習を表面はカソリックの風習のような体裁を取りながら守り続けている。
普通新しく渡来した宗教や文化に制圧された先住民の文化は根絶やしにされてしまうものだ。事実ヨーロッパ大陸ではキリスト教の普及以後、ケルト文化の影は消えてしまった。しかしヨーロッパの西の果ての島国であるアイルランドだけは事情が違った。
表面はカソリックの仮面を被りながら、深層のところでケルトの生命観・宇宙観が生き続けてきた。その典型が女神ブリギッドなのだ。ブリギッドのシンボルは水の動きを示す渦巻、ブリジッドの泉に建てられている十字架の中央には、今もその渦巻が彫り込まれている。ブリギッドは、その泉の水で人々の病を癒すと共に、詩や音楽の女神でもあった。
ケルトの女神ブリギッドについての、このような知識を持った時、わたしはもうひとつ奇妙な符号に気付いた。私が『地球交響曲』の中で、明確な意味もわからないままに撮り始めた天河神社の主神は弁才天である。弁才天は女神であり、詩・音楽・舞踊などの文化を司る神だと言われている。しかもそれは大和朝廷成立以後に定着した姿であって、そのもともとの姿は龍(水の循環のシンボル)、すなわちインドの水の女神サラスバティであった、という。現に人々が今も意味を意識せずに唱えている弁才天のための真言(マントラ)「オンソラソバテイエイソワカ」は「オーム・サラスバティ・ソワカ」というサンスクリット語のマントラがなまったものなのだ。そして天河神社のシンボル五十鈴(いすず)は三つの渦巻が組み合わせられた形をしている。すなわちケルトの女神ブリギッドと天河神社の弁財天は非常によく似ているのだ。
『ガイア・シンフォニー間奏曲』 龍村仁 より
阿部さんのブログに、天河の巻物に弁才天と白蛇経なるものが一緒に書かれているシーンがあったので、こりゃどういう訳なのだろうと思った。
以前から、女神と蛇というふたつがどこかで結びついているという予感があったのだがそれがなにかわからなかった。
中国の創造神話では、創造者は女禍と呼ばれる蛇なので、完全にこのふたつが同化している。
おそらくヒントは渦巻にあるのだろう。
渦巻(らせん)は水の動きを示すのみにとどまらず、「創造」の発出点と、それが展開(回帰)していく様を象徴している。
それを簡略化すると、卍(まんじ)になる。
ダンテス・ダイジはこう言う。
「神は左回りに絶対無へ帰っていく、
そして、
右回りに、あらゆる万象を流出する。
それがこの現象界の卍のヴィジョンの意味だ。」
また十牛図のように「絶対」はしばしば円○で象徴されるが、これは、自分の尻尾をかんだ蛇、ウロボロスと形態的には同じだ。
絶対が、現象化を始めた時の原初の姿が、渦巻(らせん)だと考えられる。
蛇のとぐろを巻いている姿などがこの原初のビジョンを想起させるために、蛇は神格化され、「創造」と同一視されてきたのではないか。
このビジョンは根本的なものなので、文化を越えて地球上のあちこちに現れていると思われる。
(中略)
特に私が興味を持ったのは、ケルトの人々に最も崇拝されていたと言われる大地の女神ブリギッドだった。アイルランド各地には「聖ブリジットの泉」と呼ばれる泉が数多くある。5世紀にはカソリックがアイルランドに入って以来、そこはカソリックの聖女ブリジッドの聖地だと思われているが、実はカソリックの入る遥か以前から続いているケルトの女神ブリギッドの聖地だったのだ。
人々は今もそこでケルト時代からの風習を表面はカソリックの風習のような体裁を取りながら守り続けている。
普通新しく渡来した宗教や文化に制圧された先住民の文化は根絶やしにされてしまうものだ。事実ヨーロッパ大陸ではキリスト教の普及以後、ケルト文化の影は消えてしまった。しかしヨーロッパの西の果ての島国であるアイルランドだけは事情が違った。
表面はカソリックの仮面を被りながら、深層のところでケルトの生命観・宇宙観が生き続けてきた。その典型が女神ブリギッドなのだ。ブリギッドのシンボルは水の動きを示す渦巻、ブリジッドの泉に建てられている十字架の中央には、今もその渦巻が彫り込まれている。ブリギッドは、その泉の水で人々の病を癒すと共に、詩や音楽の女神でもあった。
ケルトの女神ブリギッドについての、このような知識を持った時、わたしはもうひとつ奇妙な符号に気付いた。私が『地球交響曲』の中で、明確な意味もわからないままに撮り始めた天河神社の主神は弁才天である。弁才天は女神であり、詩・音楽・舞踊などの文化を司る神だと言われている。しかもそれは大和朝廷成立以後に定着した姿であって、そのもともとの姿は龍(水の循環のシンボル)、すなわちインドの水の女神サラスバティであった、という。現に人々が今も意味を意識せずに唱えている弁才天のための真言(マントラ)「オンソラソバテイエイソワカ」は「オーム・サラスバティ・ソワカ」というサンスクリット語のマントラがなまったものなのだ。そして天河神社のシンボル五十鈴(いすず)は三つの渦巻が組み合わせられた形をしている。すなわちケルトの女神ブリギッドと天河神社の弁財天は非常によく似ているのだ。
『ガイア・シンフォニー間奏曲』 龍村仁 より
阿部さんのブログに、天河の巻物に弁才天と白蛇経なるものが一緒に書かれているシーンがあったので、こりゃどういう訳なのだろうと思った。
以前から、女神と蛇というふたつがどこかで結びついているという予感があったのだがそれがなにかわからなかった。
中国の創造神話では、創造者は女禍と呼ばれる蛇なので、完全にこのふたつが同化している。
おそらくヒントは渦巻にあるのだろう。
渦巻(らせん)は水の動きを示すのみにとどまらず、「創造」の発出点と、それが展開(回帰)していく様を象徴している。
それを簡略化すると、卍(まんじ)になる。
ダンテス・ダイジはこう言う。
「神は左回りに絶対無へ帰っていく、
そして、
右回りに、あらゆる万象を流出する。
それがこの現象界の卍のヴィジョンの意味だ。」
また十牛図のように「絶対」はしばしば円○で象徴されるが、これは、自分の尻尾をかんだ蛇、ウロボロスと形態的には同じだ。
絶対が、現象化を始めた時の原初の姿が、渦巻(らせん)だと考えられる。
蛇のとぐろを巻いている姿などがこの原初のビジョンを想起させるために、蛇は神格化され、「創造」と同一視されてきたのではないか。
このビジョンは根本的なものなので、文化を越えて地球上のあちこちに現れていると思われる。
ターシャム・オルガヌム
今日は、グルジェフの弟子だったウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」を読んでいた。
この本では多くの章を次元の考察に費やしている。
一般的に、我々が認識しているのはたて×よこ×高さで成り立っている3次元空間である。
2次元はたて×よこのみの世界。つまり平面世界だ。
そして1次元は一本の直線だけの世界であると考えられている。
そして、この3次元よりも高次の次元とは一体なんであるかということが思考されてきた。通常、第四次元の世界は、「時間」であると考えられている。
正確に言うならば、僕らが認識するところの時間が空間化された世界である。
僕らはぼんやりと時間というものを認識しているが、それは物体の運動や変化を通してである。
昼間が夜になり、また朝になる。
夏が、秋になり、冬になる。
こういった現象の変化を僕らは認識し、この変化を時間の流れであると考える。だが、過ぎ去ってしまった現象というものが、一体どこへ行ってしまったのか知らない。
人間が認識する3次元空間においては、時間というのはこのように捉えがたい現象なのである。
しかし、時間が空間化された4次元においては、認識者は時の流れの全体を把握することができる。
時間が空間になるということは、過去も未来も、今・この場所に現前しているということに他ならないのだ。
とても乱暴に表現するとすれば
右を見れば今年の夏がまだここにあり、そして左を見れば来年の春が、もうここにある。そのような認識を、第四次元という。
ウスペンスキーは、動物達の生きる(認識する)世界を二次元世界であると考え、動物達にはこの世界がどのように見えているのか推測している。
面白いのは、動物にとっては、僕らにとっての静止した物体が「運動」、つまり時間の流れとして認識されるのではないかという考えだ。
例えばひとつの立方体があるとする。
その周りを一周する動物の目からは、それはどんどん形を変えていく。
「概念」を持たない動物にとっては、自分の目で見たものを事実として認識する以外になく、それゆえに自分が目にしているものが静止した物体を様々な角度から見ているだけであるということがわからない。
人間ですら、世界を見るときはそれを平面的に見ているのだが、それを常に修正している(想像により補っている)。
この仮説によって四次元を類推してみると、少し怖い結論に行き着く。
「馬、犬、猫などの動物が、三次元の静止した角度や曲線を運動、時間として知覚するに違いないことは確認した。
ここで生じる疑問とは次のようなものである。我々もまた、四次元の角度や曲線を運動や時間として知覚しているのではないか?
我々は普通、感覚が生じるのは我々の外部で起こった何らかの変化に気づく瞬間である、という。しかしその「変化」とは何か?ひょっとしたら実際には変化など起こっていないのかもしれない。もしかしたら、我々には運動や変化に見えるものは、実際には我々の外部に存在する何らかの物の静止した側面や角度であって、それについて我々は何も知らないのかもしれない。」p130
この辺を読んでいて、人に苦痛をもたらすものの根本は「時」なんだなと感じた。というか、時への不完全な認識、3次元的認識が苦そのものなのだろう。第四次元においては、僕の未来は完全に決し、僕は完全に死んでいる。と同時に、生まれている。そしておそらく、生まれも死にもしない何かとして僕の誕生と死とを同時に見ている。
ダイジの救世主入門の言葉が浮かぶ。
「君の幸福と不幸は
君が死ぬことから来ている
君は間違いなく死ぬ
君の人間としての生涯は
君がすでに死んでいることを学ぶためにある」
僕の幸福と不幸は、時間が存在することから来ている
僕の人間としての生涯は、
時間が存在しないことを学ぶためにある。
この本では多くの章を次元の考察に費やしている。
一般的に、我々が認識しているのはたて×よこ×高さで成り立っている3次元空間である。
2次元はたて×よこのみの世界。つまり平面世界だ。
そして1次元は一本の直線だけの世界であると考えられている。
そして、この3次元よりも高次の次元とは一体なんであるかということが思考されてきた。通常、第四次元の世界は、「時間」であると考えられている。
正確に言うならば、僕らが認識するところの時間が空間化された世界である。
僕らはぼんやりと時間というものを認識しているが、それは物体の運動や変化を通してである。
昼間が夜になり、また朝になる。
夏が、秋になり、冬になる。
こういった現象の変化を僕らは認識し、この変化を時間の流れであると考える。だが、過ぎ去ってしまった現象というものが、一体どこへ行ってしまったのか知らない。
人間が認識する3次元空間においては、時間というのはこのように捉えがたい現象なのである。
しかし、時間が空間化された4次元においては、認識者は時の流れの全体を把握することができる。
時間が空間になるということは、過去も未来も、今・この場所に現前しているということに他ならないのだ。
とても乱暴に表現するとすれば
右を見れば今年の夏がまだここにあり、そして左を見れば来年の春が、もうここにある。そのような認識を、第四次元という。
ウスペンスキーは、動物達の生きる(認識する)世界を二次元世界であると考え、動物達にはこの世界がどのように見えているのか推測している。
面白いのは、動物にとっては、僕らにとっての静止した物体が「運動」、つまり時間の流れとして認識されるのではないかという考えだ。
例えばひとつの立方体があるとする。
その周りを一周する動物の目からは、それはどんどん形を変えていく。
「概念」を持たない動物にとっては、自分の目で見たものを事実として認識する以外になく、それゆえに自分が目にしているものが静止した物体を様々な角度から見ているだけであるということがわからない。
人間ですら、世界を見るときはそれを平面的に見ているのだが、それを常に修正している(想像により補っている)。
この仮説によって四次元を類推してみると、少し怖い結論に行き着く。
「馬、犬、猫などの動物が、三次元の静止した角度や曲線を運動、時間として知覚するに違いないことは確認した。
ここで生じる疑問とは次のようなものである。我々もまた、四次元の角度や曲線を運動や時間として知覚しているのではないか?
我々は普通、感覚が生じるのは我々の外部で起こった何らかの変化に気づく瞬間である、という。しかしその「変化」とは何か?ひょっとしたら実際には変化など起こっていないのかもしれない。もしかしたら、我々には運動や変化に見えるものは、実際には我々の外部に存在する何らかの物の静止した側面や角度であって、それについて我々は何も知らないのかもしれない。」p130
この辺を読んでいて、人に苦痛をもたらすものの根本は「時」なんだなと感じた。というか、時への不完全な認識、3次元的認識が苦そのものなのだろう。第四次元においては、僕の未来は完全に決し、僕は完全に死んでいる。と同時に、生まれている。そしておそらく、生まれも死にもしない何かとして僕の誕生と死とを同時に見ている。
ダイジの救世主入門の言葉が浮かぶ。
「君の幸福と不幸は
君が死ぬことから来ている
君は間違いなく死ぬ
君の人間としての生涯は
君がすでに死んでいることを学ぶためにある」
僕の幸福と不幸は、時間が存在することから来ている
僕の人間としての生涯は、
時間が存在しないことを学ぶためにある。
自我という現実、自我にとっての現実
僕にとっての自我≒現実とは、
僕にとって許容できるまで自我≒現実を変質化させたものである
自我とは、自我による、自我自体に対する無理解である
非現実とは現実自体の無理解であるように
僕自身の自分勝手さを悟る度合いに応じて
自我は自我を理解し始める
ありのままを受け入れるのは、実は一番おそろしい
自我という構造体が存在しているのは
どうやら僕が自我すら見ていないかららしい
(光のあるところ闇は存在できない)
まさにこのことが自我の何たるかをあらわしている
真理から目を背けるエネルギーが、この世を動かしているから
仕方ないか
自我は部分だ 部分は非実在だ
自我は夢の中の夢だ
自我という現実は
なぞめいた過程を経て
『自我にとっての現実』に絶えずすりかえられている
僕にとって許容できるまで自我≒現実を変質化させたものである
自我とは、自我による、自我自体に対する無理解である
非現実とは現実自体の無理解であるように
僕自身の自分勝手さを悟る度合いに応じて
自我は自我を理解し始める
ありのままを受け入れるのは、実は一番おそろしい
自我という構造体が存在しているのは
どうやら僕が自我すら見ていないかららしい
(光のあるところ闇は存在できない)
まさにこのことが自我の何たるかをあらわしている
真理から目を背けるエネルギーが、この世を動かしているから
仕方ないか
自我は部分だ 部分は非実在だ
自我は夢の中の夢だ
自我という現実は
なぞめいた過程を経て
『自我にとっての現実』に絶えずすりかえられている
不可解の閾
「自覚ある精神分裂病とは、病気ではない。
その鋭敏な感受性が、エゴの未知性を知覚し、エゴによって仮構された世界が崩壊している強烈な緊張状態なのことであり、真実在への回帰の始まりであり、クンダリニー・ヨーガの出発点である。」
アメジスト・タブレット・プロローグ ダンテス・ダイジ
大学生の頃、高校のクラスメートのタイヘー君が電話である「体験」を話してくれた。
彼は高校の頃は多方面に優秀なタイプだった。成績も良かったし、陸上部に入っていて運動神経もいい。工芸の時間に作った、木工のジグソーパズルは市の展示会か何かに出品された。リーダーシップをとるタイプではなかったが、言う事も面白いので、誰からも好かれていた。
僕はどちらかというと、劣等感も強かったし、人見知りも激しいので学校では息をひそめて、日陰でおとなしくしていた。 彼は自閉症ではないのか?と冗談交じりに噂されるくらいだった。
でも、僕はタイヘー君のことが好きであったし、彼もよく声をかけてくれた。どこか通ずるものがあったんだろう。
高校を卒業して2、3年くらいは一年に一回か二回くらい電話で話すことがあった。彼がその体験を話してくれたのは、ある夏の夜だった。
それが起こったのはごく普通の、夕暮れのことだったという。
見慣れたいつもの道を歩いていると、突然それは起こった。
その時突然、彼にとって自分が知覚しているという事実、自分の意識というものが異様なものへと変貌した。
自分がここに存在して、世界を知覚しているということの奇妙さが彼を圧倒したと言う。見慣れた自己は消えてしまった。
彼は危機感を感じて、「自分の名前は○○○」「親父は○○で、母親は○○」とくり返して、必死に自分を取り戻そうとしたという。
それが功を奏したのか、その感覚はだんだんなくなっていき、普通の状態に戻った。でもそれがあってから、彼は世界を今までと同じようには見る事ができなくなったそうである。
その話しを聞いた時、僕も意識や宗教的なことに興味を持ち始めており、彼とそのような話しが出来ることがうれしかった。
彼と同じような体験はなかったが、なんとなく感覚的には、彼の言っていることが理解できるように思えた。
その話しは何か重要なことを語っているのだと直観した。
存在しているということは至福であると聖者達は言うが、それは同時に気味が悪いほど不条理なことにも違いないのだ。正確に言うと、通常の習慣的な知覚がなんらかの原因によって部分的に崩壊した時、その「気味の悪さ」が顔をのぞかせる。
それはあのサルトルの「嘔吐」という小説で、主人公のロカンタンがマロニエの根っこを見たときに、あらゆる人間的意味をはぎとられたときに現われる事物のありのままの姿に嘔吐を感じたという・・・あれと似ていると思う。
僕は見当識と共に生きている。
見当識は自分は誰で、ここはどこで、今はいつで、おおよそ身の回りではどのような出来事が起こっているのかという認識だ。
そのような認識、あるいは思い込みの絶え間ない連続が、僕自身の仮想現実的宇宙=自我を構築している。
しかし、本当はそれはすべてフィクションに過ぎない。
名前も、性別も、自己イメージも、過去も、未来も、意識が現在の意識としてのみある時には、存在しない。というか、リアリティーが極度に薄れてしまう。ぼやけてしまう。
それらは自分の意識が作り上げていた、防護壁だということに気付いてしまう。
なんのための防護壁か?
おそらくは、この「気味の悪さ」から逃れるためのものだろうけど・・。
それらの防護壁が消えた時に現われる、自己、意識、世界知覚は不条理極まりない場合がある。
僕も、タイヘー君の話しを聞いてから数年後似たような体験をした。
現実が理解不能になりそうになった。
というか、理解不能になることへの不安があった。
気が狂いそうになった。
正確には、気が狂うことへの不安があった。
コンビニへ食べ物を買いに行った。
お菓子のコーナーでうろうろしていると、視点が一点に固定したまま(ポテトチップスの上だ)動かなくなった。
そして、色んなものが消えた。
時間も、場所も。
コンビニで買物をしているという事実も。
自分が知覚しているという事実だけが残る。
しかし、自己イメージも、外部イメージもすべて希薄になった状態では、いったい誰が、何を知覚していると言うのか??
僕は誰なのか?
いや、これは何か??
これ(知覚主体)はどこにあるのか??
ハッと我に返り、一点を凝視していることの怪しさにようやく思い至る。
他者の存在によって、見当識が強まった。
店員の方をちらっと見た。
でも実際はそれほど長い時間固まっていたのではないのかもしれない。
それは不快な感覚だった。
にも関わらず、それはリアルに感じられた。
なぜなら、論理的にどう考えても、僕自身に対する僕の認識というのはすべて虚構であるとしか思えないからだ。
すべては、社会的に機能するために生み出された錯覚に過ぎない。
例えば僕が山田太郎という名前だとすると、僕は本当に24時間、365日山田太郎だと言えるだろうか。
誰かに名前を聞かれると、仕方なく「はい、わたしは山田太郎です」と答えるだろう。しかし、僕が深く眠り込んでいる時にも、僕は山田太郎なのだろうか?そして、僕が山田太郎でないとき、僕は何なんだろう?
そして、僕が何かであるということは、どういうことだろう?
なぜ僕は何かであらねばならないのか?
高校生の時にそういう体験をしたと言っていたタイヘー君が、今どうしているかとても気になる。大丈夫かな(笑)
その鋭敏な感受性が、エゴの未知性を知覚し、エゴによって仮構された世界が崩壊している強烈な緊張状態なのことであり、真実在への回帰の始まりであり、クンダリニー・ヨーガの出発点である。」
アメジスト・タブレット・プロローグ ダンテス・ダイジ
大学生の頃、高校のクラスメートのタイヘー君が電話である「体験」を話してくれた。
彼は高校の頃は多方面に優秀なタイプだった。成績も良かったし、陸上部に入っていて運動神経もいい。工芸の時間に作った、木工のジグソーパズルは市の展示会か何かに出品された。リーダーシップをとるタイプではなかったが、言う事も面白いので、誰からも好かれていた。
僕はどちらかというと、劣等感も強かったし、人見知りも激しいので学校では息をひそめて、日陰でおとなしくしていた。 彼は自閉症ではないのか?と冗談交じりに噂されるくらいだった。
でも、僕はタイヘー君のことが好きであったし、彼もよく声をかけてくれた。どこか通ずるものがあったんだろう。
高校を卒業して2、3年くらいは一年に一回か二回くらい電話で話すことがあった。彼がその体験を話してくれたのは、ある夏の夜だった。
それが起こったのはごく普通の、夕暮れのことだったという。
見慣れたいつもの道を歩いていると、突然それは起こった。
その時突然、彼にとって自分が知覚しているという事実、自分の意識というものが異様なものへと変貌した。
自分がここに存在して、世界を知覚しているということの奇妙さが彼を圧倒したと言う。見慣れた自己は消えてしまった。
彼は危機感を感じて、「自分の名前は○○○」「親父は○○で、母親は○○」とくり返して、必死に自分を取り戻そうとしたという。
それが功を奏したのか、その感覚はだんだんなくなっていき、普通の状態に戻った。でもそれがあってから、彼は世界を今までと同じようには見る事ができなくなったそうである。
その話しを聞いた時、僕も意識や宗教的なことに興味を持ち始めており、彼とそのような話しが出来ることがうれしかった。
彼と同じような体験はなかったが、なんとなく感覚的には、彼の言っていることが理解できるように思えた。
その話しは何か重要なことを語っているのだと直観した。
存在しているということは至福であると聖者達は言うが、それは同時に気味が悪いほど不条理なことにも違いないのだ。正確に言うと、通常の習慣的な知覚がなんらかの原因によって部分的に崩壊した時、その「気味の悪さ」が顔をのぞかせる。
それはあのサルトルの「嘔吐」という小説で、主人公のロカンタンがマロニエの根っこを見たときに、あらゆる人間的意味をはぎとられたときに現われる事物のありのままの姿に嘔吐を感じたという・・・あれと似ていると思う。
僕は見当識と共に生きている。
見当識は自分は誰で、ここはどこで、今はいつで、おおよそ身の回りではどのような出来事が起こっているのかという認識だ。
そのような認識、あるいは思い込みの絶え間ない連続が、僕自身の仮想現実的宇宙=自我を構築している。
しかし、本当はそれはすべてフィクションに過ぎない。
名前も、性別も、自己イメージも、過去も、未来も、意識が現在の意識としてのみある時には、存在しない。というか、リアリティーが極度に薄れてしまう。ぼやけてしまう。
それらは自分の意識が作り上げていた、防護壁だということに気付いてしまう。
なんのための防護壁か?
おそらくは、この「気味の悪さ」から逃れるためのものだろうけど・・。
それらの防護壁が消えた時に現われる、自己、意識、世界知覚は不条理極まりない場合がある。
僕も、タイヘー君の話しを聞いてから数年後似たような体験をした。
現実が理解不能になりそうになった。
というか、理解不能になることへの不安があった。
気が狂いそうになった。
正確には、気が狂うことへの不安があった。
コンビニへ食べ物を買いに行った。
お菓子のコーナーでうろうろしていると、視点が一点に固定したまま(ポテトチップスの上だ)動かなくなった。
そして、色んなものが消えた。
時間も、場所も。
コンビニで買物をしているという事実も。
自分が知覚しているという事実だけが残る。
しかし、自己イメージも、外部イメージもすべて希薄になった状態では、いったい誰が、何を知覚していると言うのか??
僕は誰なのか?
いや、これは何か??
これ(知覚主体)はどこにあるのか??
ハッと我に返り、一点を凝視していることの怪しさにようやく思い至る。
他者の存在によって、見当識が強まった。
店員の方をちらっと見た。
でも実際はそれほど長い時間固まっていたのではないのかもしれない。
それは不快な感覚だった。
にも関わらず、それはリアルに感じられた。
なぜなら、論理的にどう考えても、僕自身に対する僕の認識というのはすべて虚構であるとしか思えないからだ。
すべては、社会的に機能するために生み出された錯覚に過ぎない。
例えば僕が山田太郎という名前だとすると、僕は本当に24時間、365日山田太郎だと言えるだろうか。
誰かに名前を聞かれると、仕方なく「はい、わたしは山田太郎です」と答えるだろう。しかし、僕が深く眠り込んでいる時にも、僕は山田太郎なのだろうか?そして、僕が山田太郎でないとき、僕は何なんだろう?
そして、僕が何かであるということは、どういうことだろう?
なぜ僕は何かであらねばならないのか?
高校生の時にそういう体験をしたと言っていたタイヘー君が、今どうしているかとても気になる。大丈夫かな(笑)

