マップ・オブ・ヘブン




  最近、かなり更新頻度が落ちていますが、実はまた引っ越しでバタバタしていました。

  去年の一月に引っ越したばかりですが、ちょっと諸事情あり。。。一年ほどでまた大移動。

  考えてみると2012年以降で、もう3回目になりました。

  ある意味変化が多いというか、路頭に迷ってるというかそんな感じもなきにしもあらずですが。

  3年半ほど暮らした都立小金井公園近辺にまた舞い戻ってきました。

  今、窓から見える東の方向には西東京スカイタワーが水色に光っています。明日は雨なのでしょうか。(これ天気によって色が変わるらしい)

  まだ一週間ほどですけど、やっぱりこの辺の環境が落ち着くな・・と。

  どうも近くに広い空間やグリーンが多くないとダメみたい。   

  そんなんで、引っ越しにともないネットもしばらく使用停止して、昔買った本を何冊か読み直したりしています。

  今はエベン・アレクザンダー氏の「マップオブヘブン」。




  臨死体験記として有名になった「プルーフオブヘブン」の続編です。
  前作に比べて体験記的な色合いは薄く、どちらかというと臨死体験や古今東西の神秘体験の意味するところの考察という感じです。

 それと、前作を読んでエベン氏のもとに寄せられた読者からの手紙が多数掲載されています。
 その多くは、自分もおなじような体験をしたという内容なのですが、これが結構興味深く、かつ心打たれるものが多い。  

 今回そのひとつを引用、紹介したいと思います。

 本文第6章 喜びの贈り物 より 読者からの手紙

 アレグザンダー先生

 娘のヘザーは1969年に、重度の脳性小児まひを患って生まれてきました。身体を起こすことも、話すこともできませんでしたが、周りのことすべてに興味を示し、笑い声もあげていました。本当によく笑っていたものです。長く生きられても12歳くらいまでだろうと言われていたのですが、娘は20歳まで生きて1989年に亡くなりました。息を引き取った次の日、娘の死を頭から追い払いたくて庭で芝刈りをしていると、どこからともなくやってきたオオカバマダラの群れが私を取り囲むように舞い飛んでいました。あれは霊的になにか意味のある出来事だったのでしょうか。私にはわかりません。

 話を先へ進めて、1995年に飛びますが、ベッドに入っても目がさえたまま、「神さま、どうしてあなたは私にこんな不幸な仕打ちをなさるのですか」と胸のうちで問いかけた時のことでした。そう考えると同時に、寝室の左手の隅に真っ白に光っている人影が現れたのです。それは娘に違いありませんでした。娘は私を指さしながら「パパ 違うわ。そんなことはないのよ、あれを見て!」と言い、右手を指し示しました。そちらを見ると、まぶしい白い光が渦を巻いているのが目に入り、光はたちまちにして部屋中を埋め尽くしました。ことばによる説明はなかったものの、その瞬間にいくつかのことがはっきりと腑に落ちたのがわかりました。その時に味わった至福の境地は、とてもことばになりません。

 娘は神様の天使となって幸せにしていることがわかったのです。残された私たちも、死後の心配などしなくてもいいこともわかりました。造物主の偉大さに比べれば、人間が理解していることは笑ってしまうほどちっぽけなものでしかないことも。あれは確かに本当に起きたことだと思っています。ですから、「神を信じていますか?」を聞く人があれば、こう答えています。

 「信じてるだけじゃありません。いささかも疑わずに神は存在することを知っているんですから」と。




 ■私は神を信じているのではありません。神を知っているのです

                       --カール・ユング 神を信じるかと問われた時の晩年の答え。

 またイラク戦争で重傷を負い、臨死を体験したナタリー・サドマンの言葉も大変興味深いです。
 同じく本文第六章より

 「肉体的な苦痛からは逃れられなくても、精神的な苦痛は避けることができる。仏教ではそのように教えられてきた。人生で経験していることの一部始終が自ら計画したことであって、臨死を体験し、人生には意味もあれば価値もあったことがわかると苦しむことなどできなくなる。

 黒こげになったトラックの血だまりの中で意識を取り戻し、激痛に耐えて胎児のように病院のベッドで丸くなり、麻酔の後遺症で内臓が出てしまうかと思うほど吐いたりしても(あれほどつらいことはなかった)、50年にわたってものが二重に見えてきたと言っても、臨死体験をしたときの喜びの感覚がやきついて離れない。  

 それは幸福感とは別の感覚だ。幸福感は、その時々の状況や環境によって生じているだけで、不変の内的な状態ではないように思える。気分がめいる、不安になる、恐れをいだく、イライラする、腹を立てる・・・私も状況や環境次第で不幸せになるが、同時にその状況や環境に興味をそそられ、場合によれば面白がりさえし、そのような場面をつくりだしたことや自分の言動、感情を眺めることができる。

 この世界に生きていることを四六時中幸せに感じているわけではないし、自分の置かれた状況を特別にうれしいとも思っていないが、意識をもって創造性を発揮しながら経験を探求すること、それ自体に伴う愉快さ、こうしていることの根底に流れる喜びは、どんなときにも忘れることがない
。」


 すべてがハッピーになるとかいうのではなく、どんな状況でも変わらない喜びがあるというこの意識は、より本質的な体験より生ずるものではないかと思います。









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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/03/13 20:33

Spirituality と、その他の欲求(必要性)③

  (続き) そのことでちょっと思うのは、ミドルからトップ部分の欲求を充足させるマニュアル、あるいは処方箋というのはたくさん出回っているということです。

 心身の健康で言えば、ヨガやピラティス、気功、その他の運動、各種食事法、各種セラピー、ヒーリング、薬剤、

 愛情欲求であれば、どうすればモテモテになるかというようなものから、対人関係の築き方、運命の人と出会う方法、

 自己実現‐自己超越であるならば 各種成功哲学、各種組織宗教、人生論、など様々です    

 個人的には、霊性、心身の健康、愛情・人間関係、豊かさ、ライフワーク、楽しみ・趣味 などの部分にトータルに意識的であることがバランスよく生きるために必要ではないかと思うのです。
 よく言われることですがどこかの部分が他よりも整っていないと、そのより低い部分のレベルに応じてしか人は生きることはできないという・・・これは事実ではないでしょうか。
 
 非常に有能な人でも、インナーチャイルドが常に泣いていると、私生活で人間関係を築くのが難しくなります。からだのエネルギーが低すぎると、天才的アイデアがあっても思うように動けません。
 霊性があまりに閉じていると、肉体と物だけがすべてで、互いにバラバラに意味なく存在しているということになり、限界ある物質的次元でしか物事を考えることができません。
 そのようなことですが。

 ですので、仮に人生学校のようなものをつくるとすれば、ホリスティック(全体論的な)なアプローチが必ず必要になってくるはずです。現代の学校教育で教えられるものは、かなり局所的な人生の断片なので、いろいろな弊害が生まれてるところがあります。

 でも、こんな風に情報自体はたくさん出回っているので、自分にあったもの(足りないもの)を取捨選択する能力があれば、バランスをとりもどして全人的なありかたを目標に生きていくこともできるはずです。

 ただ、これらはすべて現在の経済システムのボックス内でうまくまわることができる「商材」でもあり、そのため流通に乗りやすい性質があるものかと思います。それ以外のものは盲点に入って見えにくくなるのですが、それがピラミッドのボトム部分、呼吸であるとか、食、そして安全などです。

 まだまだこの国では、どうすれば食べ物を得られるかということよりも、どうすればお金持ちになれるか、どうすれば人気者になれるかという類の情報の方が魅力的に映ります。

 というのは、とりあえずはスーパーにでもいけばなんらかの食べ物は低価格で売ってるからですね。
 同じようにシリアとか、最近テロがあいつぐトルコ、ヨーロッパなどに比べると安全感もまだまだあります。

 だからどうすれば、食べ物を得られるか、どうすれば平和でいられるかということにはまだそこまで欲求がたかまりません。

 でも、ここんところ庭で野菜つくったりしてる人は増えてるみたいですね~ 
 僕も前の家ではじゃがいも植えたりしてましたけど、
 自分の部屋の真ん前の地面で食べ物が成長してるっていう感覚は、結構わくわく感がありました。
 庭がなくてもベランダでプチトマト作ったりとか、っていう方も多いみたいで、楽しそうです。

 師匠みたいに、コミュニティファームを作るというビジョンを持ってる人も多いでしょうし、水面下では単に売ってるものを消費して食べる生活から、自分たちで栽培したものを食べる生活に移行したいという<必要性>が動き出しているのかもしれません。

 僕は食べ物のように、「平和(安全)」も自給できる時代に入っていくことが必要だと思います。 
 どうすれば「安全・平和でいられるか」を説いた処方箋はほとんどないと思います。
 というのは、一般的認識として、平和というのはたまたま与えられているという感じだからなのでしょう。
 そして実際問題として、多くの人にとっては、戦後60年以上にわたる平和は「たまたま」なのだと思います。
 そうでなければ、安全保障とかそういうことではなしに、「外敵から身を守ることによる自国の平和」という、そういうレベルだけではなく、本当の「平和」とは何かという積み上げられてきた思索が一般に浸透しているのではないでしょうか。

 二発の原爆を体験した国として、僕らは本当はそれくらいの哲学は持っていてもよいかと思います。

 そして3・11を境に「安全感」が徐々に劣化しているような気がします。
 それは本当に少しづつ進行しているので、気づかずにいることもできるかもしれないのですが、「安全」が「とりあえず安全」とか、「ただちに危険はない」とか「ひとまず平和」に変わってきてます。

 だとすれば、日本人全体の欲求ピラミッドの土台部分がかなり不安定になっていることを意味します。

 どうも僕にはたびたび起こる嫌な事件や、社会になんとなくただよう「おかしさ」の原因のひとつはそれではないかと思えます。やっぱり立ってる土台が揺れてると、行動も考えも若干変になると思うんですよね。
 「安全感」を前よりも感じられなくなってきている、そこからいろいろなことが発生してはいないだろうかと。
  ヨーロッパ、そして日本でもみられる右傾化傾向は、失われた安全感への代償欲求なのかもしれません。
  この代償欲求が、お金や、他への攻撃や、支配や、従属やら、性やらにむかうと全体的に意識レベルが低下します。

  不安だからみんなでより集まり、意志を同じくして、一丸となり、外敵と戦うぜ! ということは一時的な解決にはなりますが、結局どの国もそうなると最終的にバラバラ、そして戦争になることは避けられません。  

 こういう時代に合って、首都直下地震の可能性もある関東に生きつつ、いつのまにか失われつつある2011年以前の日常感、安全感を充足させるにはどうすればいいのか。
 
 うーん、これは人によって答えも違い、簡単にこれという解答は思いつかない難問です。
 どう考えようと3・11以前の日々は失われたというのが、僕のからだが感じている感覚です。
 日々瞑想してこころの平和を!とかそういうことだけでは答えにならない部分がやっぱりある問題ですね。
 まーした方がいいとは思いますけど。
 人によっては瞑想中に西日本のほうへ移住しようと思うかもしれないし・・・・・いろんな選択肢があります。
 
 ただ戦争なき安全ということで言えば、結局答えは「霊性」にしかないような気はします。
 逆に言えば、僕らが霊性に目覚めない限りは、戦争はあるでしょうし、その他大小さまざまな争いは地球上で継続され、それによって不幸になる人がいるという現実はかわらないでしょう。

 欲求のピラミッドのボトム部分にある、安全感を担保するために、上層部にあるであろう「霊性」が必要というのはちょっとパラドキシカルです。
 衣食足りて礼節を知る、しかし、衣食足りるには礼節が必要なり、みたいな・・・そういうとこもありますが。

 霊性は安全必要→安全は霊性必要
 本当にそうだとすると、大昔から人類は動物状態のままであったと思います。
 成長の土台となるある程度の平和さを保つために、 きっと大昔から、現在に至るまで大いなる存在が平和を維持してくれていた部分もあると思います。僕らより進化した存在が土台部分を支えてくれていたと考えれば説明つきます。

 でも、「食」と同じように「安全」も自給できるような責任性が、今後は必要なのかなと思いました。

 
知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/01/09 21:02

Spirituality と、その他の欲求(必要性)②

  (続き)

  さてこれなんですが

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  米国の心理学者アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって成長する生き物である」という仮定のもとにつくりあげた、モデルの図として大変よく知られています。   

 見ただけでだいたい意味がわかるので、詳細な解説などははぶかせていただきます。というか、僕もマズローの原典を読んだわけではないのでパーフェクトに理解してません。 

 まー下から上に向かってだんだん欲求が進化していく感じ?(雑すぎる解説ね)

 これ見ると、安全欲求が満たされていないと、社会的欲求は出てこないのか?とも思いますが、マズローによると、というかウィキペディアによると、ある程度の充足があれば次の段階の欲求へと進んでいくらしいです。

 僕はこの階層モデルが正しいのか、ちょっと疑問点も多々あるのですが、人が求めるものを図示したものとしてとてもわかりやすいと思います。

 昨年に読んだヨガナンダの成功哲学の本に、こんなことが書かれていました。






 「成功を求めるなら、人は単に欲しいものではなく、真に必要とするものに集中しなければなりません

 (中略)

 あたなたのなければ困るという真に必要とするものは何か。

 身体、心、魂のための食物、家、繁栄、健康、集中力、記憶力、思いやりの心、友人、智恵、至福などは、人にとってなくてはならぬものです・・

 他者を霊的に幸せにするために、質素な生活、高邁な理想、内側の本当の喜びを育むこともまた真に必要なものです。 

 
・」

 このヨガナンダの言葉は、欲求のピラミッドのかなり広範囲、ボトム部分からトップ部分にまで及んでいます。

 人にとって欲は異なります。

 たとえば僕は車やバイクににほとんど興味がないので、金あったらフェラーリにのりてーなちくしょーとかは思わないんですが、お金があれば小型飛行機の免許とかはとってみたいと思うかもしれないです。

 山に登るのが好きな人もいれば、海の深みに潜ってみたい人もいます。建築設計に情熱を傾けられる人もいれば、どうすればオリジナルラーメンの味を高められるかで徹夜できる人もいるでしょう。こんな風に、違いを見れば人間ってバラバラなんですが、根源的欲求や必要性という点から見るとまったく違いはないとこの頃気づきました。

 すべての人が求めるもの それは自分や家族友人の

 ■心身の健康 

 ■ある程度の豊かさ

 ■愛し愛されること 

 ■自分の能力により世界に貢献できること

 この辺に凝縮されると言ってもよいのではないでしょうか。
 心あるラーメン屋さんは、お客さんにラーメンを食べて元気になってほしいでしょうし、心ある設計士さんは自分が設計した家に住む人がハッピーであってほしいはずです。

 自分は「病弱で、貧乏で、一人ぼっちで、役立たずなのが好きなんです」と心からいう人は皆無だと思います。 

 もしあるとすれば、うーん何か特殊な主義信条に従っているのか、超絶的M気質であるか?

 望まずそのような状況に陥って、「あー私はこの状況を受け入れ愛します!」と想うことはあると思います。でも誰も最初からそれを目指す人はいない、ですね。すくなくとも意識的には。

 無意識の信念、カルマ、成長のプログラムなどの部分で考えればまた違うのでしょうが。

 健康、愛、豊かさ、貢献、などこれらは欲求のピラミッドでは、ボトムの上~ミドル部分に対応すると思います。

 もしかしたらチャクラなどとも対応可能かもしれませんね。
 
 えーとそれで僕個人もボトム~ミドル部分をもう少し改善したいと思っております。

 さて、先日師匠が夜の集いで、「人間にとって一番大事なのは食うことっ!」と力説していたのを聴いたのですが、「食べる」はピラミッドの最ボトム部分。

 睡眠、性、などと並ぶ人間の3大生理的欲求のひとつです。他にも呼吸、排せつなど
 ここがないとそもそも生きていけないので、土台として一番大事といういい方は確かにできるかと思います。

 師匠の話しを昔から聞いていて、「食べ物は自分たちでつくるもの、この社会の立て直し方はそこからやるべきだと思う」という考えを知ってるのでそんなに違和感はありませんでした。

 それが結局、師匠のコミュニティファームづくりビジョンなどとも関係しているのだと思います。

 そのことでちょっと思うのは、(ここからこの記事の本題ですが)・・・

 ここでいったん終わりっ!w



知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/01/07 19:23

フィールド<場>のマジック ④


  個人的背景


  前回、<場>はどのようなもので構成されるか、それぞれの<場>にはそこで使われる特徴的な言語があることを書いてみました。

 ここで私的なことを書きますと・・・

 <場>の思想のようなことを考え始めたのは、生活が大きく変わり、また一人暮らしに戻ったことと関係があると思います。
 
 
 その変化の中で、正直結構自分を見失ってたというか、路頭に迷ってた感があり、その辺いまだ渦中にいるって感じもあるんですけど

 そのプロセスの中で様々な<場>に入っていきたいという衝動が強くなり、実際いくつかの<場>を新たに経験しました。

 
 それはボイトレ先生のスタジオの雰囲気であったり、コーギーが気持ちよさげに横たわりアロマのいい匂いがたちこめるカウンセリングルームの雰囲気であったり、
 五月の空の下パンティーが空を舞うレインボーフェスの猥雑でなんでもありな雰囲気であったり、なぜか仕事で何度も行くことになった女子大のにぎやかな雰囲気であったりしました。

 ヨガや瞑想、内省でマイフィールドを確立しつつ、いろんな<場>に出入りして、そこに依存しすぎたりからめとられずに必要なものを吸収できる柔軟性のようなものを
 追求していたのかもしれません。  
 
 去年とかはやたらと山歩きしたり、自然のフィールドに触れたい感が強かったんですが、その辺今年はほぼゼロになってしまいました。
 雲取山に登るつもりがいまだ未登攀でございます。

 さびしさもあるのか、一人で山奥に入って行ったりする気がまったくせず、むしろ都心部の新しい美容室を開拓したりといった衝動の方が強くなってしまった。

 あとカラオケボックスに頻繁に出入りしてマイクを使わないことが多いので、生声の音を吸収してしまう部屋と、適度に反響する部屋があることにも気づいたりしました。
 防音のためでしょうか?音、吸収する部屋で生声で歌うのって、すげー変な感覚になるんですよね。
 あんまり反響しすぎるお風呂みたいな空間もちょっと練習には適さないと思いますが。
  

 いやー人間てわからないですよね。
 自分のことでもなかなか。
 去年くらい、山登り、自給自足、などワイルド系に興味があったのに。

 でも雲取も行きたいな~誰か一緒に登ってください(〃▽〃)
 
 またこの先志向性は変わるかもしれませんが、どっちかというと現在は都市型パターンにはなってる気がしますね。
 いいのかな~、
 まあ今がこうなので仕方ありません。 

 という事情がバックに存在する一連の考察でございます。



 解離について


 今回は「解離」というSEのタームから入ろうと思います。

 SEだけではなく、精神医学的なタームと言った方がよいでしょうか。

 解離性障害という言葉があります。

 解離性障害とは

 自分が自分であるという感覚が失われている状態といえるでしょう。
 たとえば、ある出来事の記憶がすっぽり抜け落ちていたり、まるでカプセルの中にいるような感覚がして現実感がない、いつの間にか自分の知らない場所にいるなど、様々な症状があります。
 こうした中で、自分の中にいくつもの人格が現れるものを多重人格障害(解離性同一性障害)といいます。
 ある人格が現れているときには、別の人格のときの記憶がないことが多く、生活面での様々な支障が出てきます。
 これらの症状は、つらい体験を自分から切り離そうとするために起こる一種の防衛反応と考えられています。
 治療では、安心できる環境にすること、家族や周囲の人が病気について理解することがとても大切です。

 症状

 解離性健忘:ある心的ストレスをきっかけに出来事の記憶をなくすものです。多くは数日のうちに記憶がよみがえりますが、ときには長期に及ぶ場合もあります。

 解離性とん走:自分が誰かという感覚(アイデンティティ)が失われ、失踪して新たな生活を始めるなどの症状を示します。学校や職場において極度のストレスにさらされ、しかもそれを誰にも打ち明けることができない状態で突然始まり、それまでの自分についての記憶を失うことが多くみられます。

 カタレプシー:体が硬く動かなくなること。

 解離性昏迷:体を動かしたり言葉を交わしたりできなくなること。

 離人症:自分が自分であるという感覚が障害され、あたかも自分を外から眺めているように感じられます。

 解離性てんかん:心理的な要因で、昏睡状態になる、体が思うように動かせなくなる、感覚が失われるなどの症状


 以上厚労省 HPより

部分的に記憶や、見当識(今がいつでどこにいるのか)が失われる、現実感がなくなるというような症状ですが、ひどくなると多重人格障害のようなかたちになることが知られています。
 「24人のビリーミリガン」で有名になりました。以後ドラマやアニメ、映画の素材としても多く使われています。




 というとなにやら特殊なことのようですが、SEの開拓者リヴァイン博士によると、「解離」は誰もが頻繁に経験する状態だそうです。
 一時的に上の空になったり、ひどい忘れっぽさは解離と関係があることが多いようです。
 簡単にいうとぼけーっと「お留守になった状態」。
 もう少し強度になると、車に跳ね飛ばされてる自分を、他人事のように恐怖もなく客観的にみつめてるような状態です。

 博士は解離を、「フェルトセンスの継続の一時的崩壊」と定義しています。

 フェルトセンスとは体感覚ですね。より詳しい定義は以下のようなものです。


 身体や体験(の一部)と人との間の根本的な断絶です。考えられる断絶は以下の通りです。


 1意識と身体

 2頭や手足など身体の一部と、残りの身体

 3自己と感情、思考、または感覚

 4自己と出来事の一部または全体の記憶


 解離は激しい恐怖や激憤(SEでいうところの過覚醒)から人間を守る働きがあります。

 つまりある程度以上ストレスの域値を超えると、意識を失うか、感情や肉体との接続をOFFとすることで麻酔状態に移行するのです。
 虎に食べられる草食獣はこのようなメカニズムが働き、苦痛を感じることはないそうです。


 僕はこの解離症状がちょっと標準よりも多く出ることがあり、特に疲れてる時などは自分でも考えられない間違いをよくやったりします。
 眼鏡をかけつつ、眼鏡探してるみたいなそういうレベルの勘違いといいますか・・・
 
 天然キャラだと思われ、ちょっと場がなごんだりするのはいいんですけどね・・・

 しかし自分でもひどいと思ったのは だいぶ前ですが、友人が二人ほど泊りに来まして、2,3日行動を共にすることになりました。
 それが結構しんどくて、だんだん疲れて、ぼーっとしてきてしまうんですね。
 この疲れは僕的には非常に気持ちの悪い疲れです。
 からだの芯から疲れていくような、しおれていくような。たくさんの人と長時間一緒にいるとそういう感覚によくなります。
 で、ドライブがてらコンビニに寄ったんですが、そこで商品をみてるうちに、一瞬、あれ?と思って

 ほんの数秒のことですが、自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのかということがわかんなくなっちゃってたんですよね。
 すぐにもとに戻ったので、パニックにはならなかったですが、誰にもいうことはなく
  
 ぶぶーっとまた車が走り出した後、バックシートで

 「いやいや、これヤバくね?」とやや自分が心配になったのは覚えています。

  
 あとまあ、例えばあとでビール飲もうと思っててなんだかんだ雑用をやってて、全部終わってふーっと自室に戻るとテーブルにビールが置いてあったりだとか

 冷蔵庫あけてとった記憶、まったくないのにですよ。まるで、誰かが用意してくれたみたいな感じです。

 いや、ホント、誰が置いてくれたの?って感じなんです。


 こわっっと思いますよね。

 こういうエピソードは、 

 4 自己と出来事の一部または全体の記憶の断絶 これにあたるのでしょうか



 まあ、このレベルのことは年に一回、あるかないかで、生活に支障がでるということはほぼありません。

 そして何が効いてるのかわかりませんが、ひどい解離症状は最近少なくなってきてる気はします。  
ヨガとかウォーキングとか社会参加がいいのかな。 

 だいたいニュアンス的には<解離>の感覚おわかりいただけたかと思います。

 リヴァイン氏の著作に、一時的に解離状態を体験するエクササイズも載ってるので、引用したいと思います。



 幼少期に繰り返しトラウマを受けた人は、この世に存在しやすくするための方法としてしばしば解離を身につけます。
 彼らは常にたやすく解離し、しかもそれに気づいていません。
 習慣的に解離しない人でも、覚醒したり、不快なトラウマのイメージや感覚を持ちそうになると解離します。
 どちらの場合でも、解離は、未解放の覚醒エネルギーを私たちが完全に体験せずにすむという点で貴重な役割を果たしています。
 同時に解離は、フェルトセンスの継続性を妨害し、そのことによって、トラウマを受けた人がトラウマ症状の効果的な解決に取り組むのを妨げてしまっています。
 ここで大事なのは解離を取り除くことではありません。
 解離に対する気づきを高めることが大切なのです。


 
 エクササイズ


 これは、解離がどんなものかを感じていただくためのエクササイズです。

 椅子に楽に座って、

 自分が湖に浮かぶボートに寝そべっていると想像してみましょう。

 自分が浮かんでいるのを感じ、それからゆっくりと自分の意識を身体の外にだしてみましょう。

 ゆっくりと上昇する風船のように、自分を空まで浮かび上がらせて、下に座る自分を観察してください。

 それはどんな体験でしょうか?

 体を感じようとすると何が起こりますか?

 解離の感覚をつかむために、身体と、浮いてる感覚の間をさらに行ったり来たりしてみてください


 このエクササイズは、簡単にできると思う人もいれば、非常に難しいと感じる人もいます。
 すでに述べたように、トラウマ症状は狭窄や解離を中心として体系づけられています。
 当然なことながら、解離症状を好む人は、狭窄を好む人よりも解離のエクササイズを簡単だと感じます。


 リヴァイン博士がわざわざ解離のプチ体験の方法を書いてるように、解離が必ずしも有害ではなく、要はそれに気づくこと、明晰な意識を保ったままでいること
 のようです。


 スピ系の本にも出てきそうなエクササイズですよね。 

 僕は楽しいことをイメージする、とかよりも、こういう脱け出す系のイメージをした方が落ち着いて眠りやすくなります。

 肉体がないというイメージは、やはりすっきり気持ちいいと感じます。



 <場>からの解離と、離脱の効用、その副作用


 スピリチュアル系のタームに詳しい方は、解離って「体外離脱」みたい?って思われるかもしれません。

 その辺のことを少し。

 結論からいうと、関係なくはないみたいですね。

 SEはあくまで科学的、生理学的なパラダイムの中での理論なので博士の本の中にはスピリチュアルな意味での体外離脱ということは書かれていません。

 しかし、どうも幼児期に過酷な体験をした人たち、被虐待児の経験がある人、などに霊能力や、体外離脱能力、あるいはUFOによるアブダクションケース(ホント)が頻発するというような
 統計があると聞いたことがあります。

 これをどのように解釈するかですが、人によっては、そのような幼児期の体験が脳に妄想や幻覚を起こさせると考えるでしょう。
 
 トラウマケアルームのHさんはスピ系畑の方なので、小さいころ、おなかにいるころから解離状態で、あちら側に戻る習慣がついているため・・・と解説されてた気がします。

 僕もそちらの考えで、この世界での生きづらさが、このフィールド<場>からあちら側の<場>へと抜ける癖、離脱する癖、お留守にするクセをつけるという考えに賛同します。

 つまり<解離>というのは、心身医学を越えた、心身魂医学が発達して初めてその全貌が明らかになるのでは・・と思うのです。

アルコール依存症の両親に育てられたというような場合。

 父、あるいは母はいつもは優しく、面白いのですが、いつ酒を飲んで人が変わったようになるかわかりません。

 泥酔すると、ものを壊したり、激しく子供を罵倒したり、暴力をふるいます。

 そのような環境で子供は安心することができません。

 言い換えれば、親との間に安定した愛着関係を築くことができないのです。

 それはつまり、家庭という原初のフィールド<場>に接続できないことを意味します。

 子供は親の顔色を必死に読んで、専守防衛に心がけるか、あるいは、意識をその場から抜いてしまいます。


<場>から意識を抜くということは、多くの場合、自分自身の肉体・感情・思考・記憶などとの接続も切ってしまうということです。

 つまり、問題のある家庭で育つということは、自分自身との接続不良を生むのです。

 それはあとから述べます自分自身の磁場、<マイフィールド>に欠損を生じさせるということです。

 一方で解離による逃避先が、霊的世界であれ、文学であれ、学問であれ、発明であれ、音楽であれ、アニメであれ・・・・(このような、個でも充足できる領域が避難場所となります)
 
 生きづらさにより、<解離>をよく体験してると、多かれ少なかれ、二重意識がつよくなりシャーマニックになる可能性があります。

 ていうことはそのような過酷な環境に生まれるのを選んだ子供たちは、あちら側と、こちら側を行き来することにより、ふたつの世界の橋渡しをするという使命のために

 そのような生きづらさという通過儀礼を選択したのかもしれません。

 
 
 有名な作家にも愛着不安を抱えた人たちが多いそうです。
 そして、どうも、家庭や、社会という<場>との結合不全感自体が、創作の原動力になっているような気が僕にはするのですが・・・。
 しかし、そういうタイプの作家は常に孤独との戦いであろうと思います。
 人間はどうしても愛情なしにはやっていけません。
 というかそもそも哺乳類は、十分な肉体的・感情的接触なしでは発育ができないのです。
 生理学的なレベルで、ふれあいの中などで放出されるオキシトシンなどのホルモンがないと、人の心身はうまく機能しません。
 そのため孤独を創作の原動力として名をはせても、からだが感じる孤独の感覚のリアルさに押しつぶされ自殺する、
 薬物に溺れるというようなことになりやすいのではないでしょうか。


  このように原初の<場>である親子関係、家庭との接続不良は何かある能力を先鋭化させる可能性はあるけど、同時に心身に大きな負担をかけるもろ刃の剣パターンといえる
 かもしれません。
  肉体をもってバランスのとれた人生を生きたいなら、原初の<場>との接続不良によって欠損している部分を癒していく必要があります。 


 一方比較的安定した愛着関係の中で育った場合、(欧米の統計では愛着が安定している人は約60パーセント、残りは程度こそ異なれ不安定型らしいです) 子供は両親のフィールドに安心して包まれつつ、家庭という原初の<場>に根をおろします。

 安全感、安心感、愛され感、ひとりではない感覚が、ありのままの自分を受け入れさせ、肉体・感情・思考のバランスのとれた統合体とする。

 その原初の<場>での安心感は、学校や友人関係など、他の<場>でも再現されやすく、また苦難に陥ったときでも安定した<場>でリラックスしていた記憶が、 困難を乗り越える際の燃料となってくれるのです。
 

 おまけ はいたか流解離?方法


 リラックスしている自分の体が、光に包まれ徐々に振動数(エネルギー)を高めていくとイメージします

 体中の細胞たちが光の中で覚醒していきます

 十分に振動数が高まると、肉体は光の中で消えてしまいます

 あなたは部屋の中にいますが、あなたの肉体は消えてしまいました 

 肉体がなくなるのはどんな感じでしょうか?

 その感覚を感じたあとに、意識を少しづつ上昇させます

 あなたは時間と空間を俯瞰できるスペースへとたどり着きました

 ここはとても安全な場所です

 あなたを守り笑いかける意識体が周囲には大勢いるのがわかります

 それはあなたにとても近しい存在たちのグループです

 ここからあなたは時空の任意の点へと、どこでもアクセスすることができます

 意識体のまま、行くこともできますし、物理次元で好きな形の肉体を物質化することもできます

 りりしい男性にも美しい女性にも 子供にも若者にも老人にもなれます
 
 その姿で 

 大昔の地球の海辺に立つことも、現代のニューヨークやパリに行くことも自在にできます

 未知の星の世界に行くことも 無条件の愛が満ち渡るスペースにとどまることもできるのです

 好きな場所でしばらくこころを遊ばせ、有意義な経験をしましょう

 そして十分楽しい経験をしたあとに、あなたの部屋に戻ってきて、ふたたび自分の肉体をこの次元で物質化させてください

 ゆっくりと深呼吸して、からだの感覚に耳をすませましょう



知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/10/17 17:16

フィールド<場>のマジック③


  フィールド<場>についての考察記事、続きです。

  今僕が考えている<場>という概念は、次のようなものでできています。

  ■空間 (その場が物理的に存在する場所)
  ■構成員 (その<場>にメンバーとして含まれる人)
  ■構成員同士のエネルギー相互作用 (コミュニケーション、愛着行動のパターン、あるいは支配・被支配形態)
  ■信念体系 (その<場>の構成員が共有する考え・信念・あるいは感情のパターン)
  ■ターム・専門用語(その<場>において頻繁に使用される、特徴的な言葉)

 そして<場>は、情報として世界中に広がってるようなもの<情報場>と、生きた人間同士の肉体・感情・思考の相互作用が含まれる<エネルギー場>があると思いますが、↑の定義づけは主にエネルギー場があるものを述べています。

 巨大な情報場というのは、たとえば「聖書」です。

 そして、この中に含まれる様々なアーキタイプと概念群、創造の時、選ばれた民の系譜、救世主、癒しの奇蹟、罪と許し、さばき、世の終わりと、新世界の到来、善と悪の決戦、など、これらは世界中のクリスチャン、キリスト教国家に深く浸透しています。 

 それは日常の生活、思考パターン、政治的プロパガンダ、にまで、影響している巨大な思考の場であると言えるでしょう。
 日本にいても、その思想に深く入り込み、研究者の本やサイトを読めば、その情報場とシンクロすることができます。

 そしてこれに加えて、例えば聖書研究会を立ち上げることにでもなり、メンバーとして牧師のAさんと、学生のB君と、主婦のE子さんとが集まる・・・ということになれば、信念体系を含む<情報場>と、メンバー各人の肉体・感情・思考同士の相互作用が起こる<エネルギー場>がそろって、僕が上で述べている<場>フィールドが完成します。

 というと、なんかえらく小難しく聞こえるかもしれませんが、要はどこにでもあるグループですとか、会社組織ですとか、サークルとかの性質を言葉を変えて語りなおしているだけです。 

 ひとつの業界を<場>としてとらえることもできます。

 <場>にはターム・専門用語があります。 

 僕が働いています福祉系の分野ですと、「ヘルパー」「利用者」「時間数」「介助」「ケア」「見守り」「移乗」「声掛け」「事業所」「中途障害」「自立生活」「自薦(ヘルパー)」などがよく使われる言葉です。もちろん、一般的に意味が通じるものも多いです。

 スピリチュアル系の<場>ですと、次のようなタームがよくみられます。

 「癒し」「魂」「覚醒」「愛」「許し」「瞑想」「創造」「宇宙」「次元」「多次元」「次元上昇」「シフト」「わくわく」「過去世」「オーラ」「体外離脱」「引き寄せ」「リーディング」「ヒーリング」「(フラワー)エッセンス」「アセンデッドマスター」「クラリオン星人」 

 はい、なんかふわっと楽しくなってきましたね(笑)

 もうだいぶ忘れてしまいましたが、演劇などでは

 「カミ・シモ」「エチュード」「客電」「ゲネプロ」「バミリ(る)」「押しと巻き」 など

 この辺になるとどうなんだろ、みなさんいくつわかりますでしょうか?
 演劇だけじゃなくステージ系全般で使うと思いますが。

 さらに社会全体を覆う場として、ほとんどの人がその使われ方やニュアンスを理解しているこの国のタームとしては

 「領土問題」「戦後」「バブル」「震災」「絆」「ただちに影響はない」「派遣」「格差」「爆買い」「拉致被害者」「オタク」「引きこもり」「草食系」「KY」「アラフォー、アラサ―」 などが思い浮かびます。

 はい、なんとなく重たい気分になってまいりました。

 さらにエッセンスだけを抽出すると、全人類的なタームを想定することもできるかと思います。
 これは言葉を超えて、人類的なテーマというか、誰の心にもひっかかる概念群と言いますか、そのようなものになります。

 「神」
 「救済」
 「宗教」
 「国家」
 「家族」
 「貨幣」
 「天国と地獄」
 「世界の始まりと終わり」
 「男と女」
 「親と子」
 「誕生と死」
 「老いと若さ」
 「病と健康」
 「大人と子供」
 「豊かさと貧困」
 「美と醜」
 「成功と失敗」
 「勇気と臆病」
 「享楽と勤勉」
 「強さと弱さ(強者と弱者)」
 「平等と差別」
 「愛と孤独」
 「名誉と不名誉」
 「人気と不人気」
 「常識と非常識」
 「モラルとアモラル」
 「自然と文明」
 「戦争と平和」
 「善(人)と悪(人)」
 「嘘と真実」
 「現実と空想」
 「被害と復讐」
 「罪と罰」
 「生きる意味(生きがい)」
 「支配者と民」

 はい、なんか図書館の海外文学全集の前に立った時の気分とにていますね。(笑)

 「領土問題」「戦後」「バブル」「震災」「絆」「ただちに影響はない」「派遣」「格差」「爆買い」「拉致被害者」「オタク」「引きこもり」・・・などという我が国のタームは、人類的なタームの中のどれかに吸収されるものでしかありません。あるいは、どれかとどれかの組み合わせです。

 これらはほとんどの人類が理解できるか、もしくは、そのテーマに沿って生きたり、社会を改革しようとしたりしているものだと思います。逆に言えば、僕を含めほとんどの人類が<場>の力によってこれらのテーマにからめとられているともいえるかもしれません。

 そして、これらはもしかすると、今後の人類の進化によってはもはやだれも使わなくなるという可能性もあります。
 「永遠のテーマ」という言葉もありますが、「永遠に続くものはない」という言葉もありますからね~

 「戦争と平和」なんかがこの先もずっと永遠のテーマじゃ困るわけです。

 実際、覚醒意識という観点では、これらはすべて「幻影・マーヤー」と認識されるものかもしれません。

 あとで書こうと思いますが、僕の考えでは覚醒意識に至った存在は、これらのすべての<場>を超えて、ゼロ<場>のようなフィールドと一体化しているからです。 

 ちょっと話が大きくなりすぎたので、次はもう少し日常レベルに落とし込める話を書こうと思います。



知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/10/14 17:06

神は細部に宿る




  ここのところ、微細な、あるいは「少し」のエネルギーが実は一番大事なのではないかと思わされることが多い。

  きっかけはこの本に「神は細部に宿る」という言葉が出てきたことだった。





  本文中のエピソードで、音楽家の女性がバイオリン(だったかな?)でとても美しい曲を奏でているのを耳にして著者がなんて美しい曲なの!と言うと、「私はただ音階を弾いていただけよ」という返事が返ってくる。そして「世界一美しい曲だと思うわ」という言葉も。

 この会話にあるように、本当に自分が好きなことであれば、それの「少し」「細部を」愛をこめて楽しくおこなうことができるという話だった。だから少量から始めたり、それを愛することが大事なのだと。

 それは結構なるほど~と思わせる話しで。

 たとえば400字の物語を一週間に一枚書いても、作家になるには程遠いかもしれないけれど、「あなた自身は確実によくなっている」という著者の考えも述べられていた。

 僕らはとかく、結果を気にしてしまいがちで、こんなことやってもどうにもなるもんじゃないと思ってしまうこともあるけど、小さな行為の中にちょこんとひそんでいる愛や喜びを大事にすることのほうがいいのかもしれない。

 もちろん、目標ってのも、大事ではあると思うけど。
 ただどでかい目標を立てるほど、結果志向にはなりやすいですね~
 ちゃいますかね。
 そうすると、その目標に向かってトンネルの中を進むような生き方にもなりやすい。
 確かに先に明かりは見えます、でもその間視野が狭まるかもしれません。
 足元にきれいな花が咲いてるかもしれないのに。

 しかし、まず小さいことから始めてみると、気が付けば数時間没頭していたということもあるので、、、これはなんというか、小さい振動が徐々に増幅して大きいことを成し遂げるエネルギーを発生させたということですね。

  だからとりあえず、「少し」を楽しんでやってみるというのは可能性につながる場合もある。
 自然な感じです。だから、「少しだけ」することが勧められてるんだと思います。
  結果志向ではなく、そこに宿る喜び重視。


 ここでは話題はやや変わりますが

 かすかな、ひそやかな振動、ということで言えばトマティスの発声法CAVのワークを受けていると、「とにかく小さく自分に優しい声」を最初出すように教えられる。

 これは自分とのコミュニケーション。

 ほとんど聞こえないようなハミングで、背骨をなでていくような感じ。
 微細な音には自分の心拍の振動も混ざり、それが自然と共鳴するような音をも作り出すという。

 講師の方とほかの参加者の前で、机に座ってハミングするんだけど、自分的には「こんなんで聞こえてるのかな?」というくらいの音でも意外と届いているようだった。
 
 まあ、ボイトレ先生にも「でかい声と響く声は違う(=゚ω゚)ノ」と何度も言われてることで、カラオケなんかでついつい馬鹿でかい声で怒鳴るように歌いそうになると、「あ、これ違うな」と思う。

 2回ワークショップに出ただけなのでちょっとまだCAVのエッセンスは体感しているとは言い難いけど、微細な振動が重要という考えは忘れずにやってきたいと思っている。

  また少し話題が変わりますが

 意識の振動ということになると、脳波では、ガンマ波→ベータ波→アルファ波→シータ波→デルタ波 の順で振動が遅くなっていることが知られれている。興奮状態や外部に注意が向いてる状態から、リラックス、より内的で、眠りや夢見、熟睡の方にいくと振動が遅くなる。

 瞑想の目的のひとつはおそらく、普通なら眠っている振幅の小さな意識状態を目覚めて体感し、みつめる、ということにあるのだろう。そこではとても平和できれいなイメージが浮かんでくることもある。

 それはシータ波やアルファ波と同調して出現するイメージだ。
 さっきまでイライラしてたあとに瞑想すると、そのイメージに触れた時に「あ、この感覚忘れてた」と思うことがある。
 草原や海の風景など、あるいは光のイメージ

 本当はそんな平和な気持ちで日常を生きられればいいんだろうけど、なかなかそこまでの境地には至っていない。
 
 微細な意識ではないととらえられない安らぎの感覚があるという意味でも、「神は細部に宿る」という言葉を解釈することもできるかもしれない。

 古来から聖者が静かな生活を勧め、粗大な刺激を避けるのは、おそらくシータ波、アルファ波の意識世界と同調して生きるためだと思われる。そこは葛藤のない平和な世界だからだ。たぶんそんな難しいことじゃなく、みんな眠りの時に体験している。

 まあおそらく万人が、そういうのを求めてるわけではなく、大きな苦悩、快楽、騒音などからくる興奮、狂乱状態を潜在的、意識的に追及している場合もある。

 大音響のハリウッド映画を見て、フリーフォールで絶叫して、ゾンビを打ち殺すゲームをして、セクシャルな刺激に興奮して、焼肉屋でビールで乾杯して大声で友達とはしゃいで、ぐっすり眠るのが大好きだということもあるだろう。
 というか、それこそが生きることだというポリシーもあるかもしれない。

 大多数の人は完全な僧侶タイプでもない限り、大きな振幅とゆるやかな振幅とどちらも求めている。

 まあどっちにしろ、最終的には寝るわけです(笑)そこで意識の死を経験することが、人間にとってエネルギーを充てんするのにかかせないのかもしれない。

 たまに覚醒者に寝ない人がいるのは、あえて眠ってデルタ場に行かずとも、常に平和の中で生きているからでしょう。

 どのような刺激を求めても、人に迷惑をかけてなければ個人の自由かもしれないけど、自分が何を求めているのか?を問う必要はあるように思う。平和か、葛藤と興奮か。

 平和が好きならば、粗雑な刺激の中でそれを忘れ去ってしまわないようにしなければならない。

 僕の場合は、アップテンポの歌を聴いたり歌ったりするのも好きだけど、瞑想の中で触れるような平和の感覚も好きなので、静かな時間も大事にしたいと思っている。

 そのうちグレゴリアン聖歌しか聴かんようになるんかな。いや、それもどうなんっていう・・葛藤が(笑)

 神は細部に宿るっていうのは多分、ホント。

 そしてそこにはきっと穏やかな喜びと平和がある。


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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/10/04 18:45

フィールド<場>のマジック②

  エイリアンとロボット イン ハリケーン


  よく体験することですが、、、、

  ひとつの空間にたくさん人がいて、誰が一人が咳払いをすると、続いて「えへん、えへん、えへん」とあちこちで同じような音が連鎖的に発生する場合があります。

 自分もこれちょっと気になるので、僕はそれが「自分発」なのか「他者発」なのかたまに観察しています。

 人の動きに触発されてなんとなく行動しているのか、あるいは内的な衝動からきたものなのか。

 ちょっと天邪鬼なところがありまして、同調圧力で自分が行動を凍結していたりするとイライラしてきて、それを破りたくなることがあります。

 一方、集団の群れの中で同じような行動をしてると安心したりする部分もやはりあり、人間ってたぶんこのふたつの衝動を持っているのでしょう。

 同調圧力を跳ね返して『個』でありたいという衝動と、集団の中で調和して安心していたいという衝動

 ただこの『個』でありたい衝動は、生物学的には10パーセント程度に強くでるというような話し聞いたこともあります。

 そういう人はアウトサイダー気質がやや強く、同時にリーダータイプですが、長く同じような場にとどまってなんとなくなあなあでやって行くことを嫌う傾向にあるような気がします。

 リーダーであり、旅人であり、放浪者であり、既存の<場>の不適応者でもあり、新たな<場>の構築者であり、変化の触媒になるタイプです。いい意味でも悪い意味でも個性や<我>が強い。他との境界線も大事にします。

 数年前の海外ドラマ「HEROES」に「あなたはロボット?それともエイリアン?」というセリフがあるそうです。



 ロボットというのは言葉はちょっと悪いですが、既存の社会という大きな<場>の中でなんとなく自然に自分の役割を見つけて、それに従って生きていけるタイプであり、エイリアンというのは自分で自分の道を模索し深めて行くしかないタイプと言えるかもしれません。

 まあ、誰の中にもロボットとエイリアンがいて、どちらが今のところ強く出ているかという風に考えることもできるでしょう。 

 エイリアンは「反逆者」とは少し違います。

 「反逆者」は「ロボット」のアンチテーゼであり、社会に恨みを持っています。なので、それに復讐したり、ルールを破ったり、モラルを破壊することに生きがいを感じるわけです。

 「反逆者」は目線が社会ありきなのですが、エイリアンはまず「個」ありきなのです。

 エイリアンが常識から少しはずれた行動をするとき、それは社会に逆らいたいからではなく、「個」としての自分がそれを求めるからです。反逆しているわけではなく、おのずから「ずれていってしまう」のです。

 基本的には文明の発展は「個」を重視する方向に動き、人間の自我意識は強くなってきているようです。

 そうすると、分離感も強くなるので、何か大きな<場>に包まれたいという衝動もやはり強くなるでしょう。
  
 しかし、それは自我の強さに比例するようなより大きなもの、本質的なものでなければなりません。

 国家や組織のために死にたいなんて、もはや誰も思ってはいませんし、思うべきでもない気がします。

 強力な場で自我の昂進したを人間を包めるのは、ガイアという惑星的な生命の<場>なのですが、この場は前回の密室劇ではありませんが気候変動という「テーマ」を通してある種の「緊急事態場」で全人類をくくろうとしており、僕らはその中で協力し合うことを学ばざるを得なくなっているのかもしれません。

 エイリアンはもう逃げ道がないことに気づく必要があるし、ロボットはもはや自分の従うプログラムが有効ではないことに気づく必要があるのでしょう。

 そして、このドラマのシナリオライターは、エイリアンにもロボットにも等しく重要な役割を与えているはずです。



知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/16 10:51

フィールド<場>のマジック




今年に入り、一人暮らしを始めるようになり、やや路頭に迷っていた感もあった時、池にいくつかの石を投入しました。

 ひとつはインナーチャイルド、早期トラウマ、愛着障害などに関すること→あるカウンセリングルームを一度訪ね、そっち系の本を結構読みました。


 ひとつは、なんとか自分の技能で収入を得る道はないかという模索→WEBライティング、ライター全般に関して学びました。


 ひとつは、セクシャリティに関して→LGBTのイベント、講座に出席したりしました。


 ひとつは、歌、ヴォーカルトレーニング、聴覚セラピー(トマティス)に関して勉強し始めました。


 いくつかの石は投げこむと同時に、ほとんど手ごたえもなく水面下に沈み、いくつかの石はより大きな、たくさんの波紋を生み出しさらにその波紋が相乗効果でさらに大きな波紋となり、現在も振動し続けているというような感じです。

 投げ込んだ石はどれも自分にとっても長い間のテーマや、興味の対象であったものですが、それぞれ「行動」にうつすとまったく異なった「池側からの」リアクションや出会いの連鎖のようなものが起こります。

 それらを観察しつつ、どの種類の石をどれくらい投げ込むべきかを見極めつつ、実験してきたような印象があります。

 ひとつ思うのはやはり、「場」があるものとないものでは、まったく手ごたえが違うということです。

 「場」というのはある特定のテーマに関しての人の集まり、グループ、同好の会、最小単位としてはセラピストとクライアント、先生と生徒という二点間で成立する、生身の人間同士が相互作用して生み出している磁場と言いますか・・・

 その「場」との相性により、さらにそのテーマを突っ込んでいくかが決まってしまうような部分があるように思います。

 幼い時から~学生くらいまでの友人関係という「場」は特に特定のテーマを持っているというよりも、お互いになんとなく気が合うかとか、パワーバランス、生育環境が似ている、生理的気質による相性のようなものに基づいていると思いますが、大人になってからはある「テーマ」「社会的役割(仕事)」「趣味」「思想」などによって「場」が形成され、そこに複数の人が出たり入ったりするというような感じになりやすいと思います。
 
 僕は緊急事態などによって、まったく異質の経歴を持ってるもの同士が、密室的な状況下で協力せざるを得ないというようなドラマが好きなんですが 「ロスト」とかね、古い映画ですが「ポセイドンアドベンチャー」とか



 僕は 「ロスト」は震災を間に挟んでみてましたいので、特に印象深いドラマとなっています。
 ディープすぎて途中で挫折しそうになりますが、、、これはまちがいなく21世紀人が見ておくべきストーリー

 




 まあたとえば、医師 ギャンブラー、画家、村長さん、水泳の選手、土木工事技師、飲んだくれ、幼い霊感のある少女、引きこもりの青年、みたいな普通は混ぜないぐちゃぐちゃな組み合わせですよね。

 ハイジャックされた飛行機内とか、異次元空間に閉じ込められるとか、朝起きたらホテルをゾンビに包囲されてるとか(笑)まーなんでもいいんですけどね。

 そういう人々が、緊急事態という「場」で強制的にくくられ、そこで生まれてくるドラマというものに魅力を感じます。

 そんなドラマで、最初おたがいにぎくしゃくしてたり、差別意識に満ち足りしてるんですが、

 いつしか

 最初やっかいものだった飲んだくれがものすごい機転を利かせたり、プライドだけが高くいやな奴だった医者がとても自己犠牲的な行動をしたりすると、ゾクゾクしますよね。

 どうもこういうのって、特定のテーマを持たない、強制結合された「場」という意味では幼いころ~学生くらいの人間関係と似てるのかなってちょっと思います。
 敷いて言えば場のテーマは「生きるか死ぬか」になってしまうので、子供の友達関係なんちゅーぬるいものではないんですが、それでもより生理的かつ根源的なところでくくられているという点では共通するかと。

 さっきも書きましたけど、幼いころは、生育環境、パワーバランス、なんとなく好きか嫌いか、土地、などの要因によって「場」が形成されます。これはある種運命的というかカルマ的というか、自己意識で選択できるものではないので、その中に閉じ込められてるともいえるわけです。
 そういう意味で、「緊急事態場」とちょっと似ています。

 子供たちはその土地から、学校という「場」から自力で離れることはできない。
 それはすなわち、運命共同体であるということです。
 サバイバルゲームでもあります。

 最近幼なじみにあって思いましたが、彼とは「趣味」とか「テーマ」「仕事」などのくくりに関してはもうずいぶんかけ離れているんですが、てことは好きなサークルでばったりであったりすることは多分ないわけです。
 それにもかかわらず割と強いつながりか感じるというのは、僕と彼の関係イコール、僕とその土地の関係、その土地で過ごして共有する記憶との関係、という付加要素が強いのでしょう。

 
 
 えーとずいぶん脱線して自分でわけがわからなくなってきた感がありますが・・・・

 書きたかったこと、それは大人になってから参加する「場」というのはいろんなテーマや思想があるということですね。
 そして「場」をまとめあげ、統括しているリーダーが大きな力を持っていることもあります。

 いろんな「場」に参加するということは、それらの思想的内容をシェアすることであり、そうするように促す同調圧力も不可避的に発生します(意識的ではなくても)。

 たとえばカウンセリングルームにいくと、セラピーを受けてトラウマを解放すれば人生が変わっていくという考えを提示されて、セッションを受けることを勧められます。
 LGBTの講座を聴講すると、セクマイとしての自意識が高くなります。
 アセンション系の講演に参加すると、まもなく大災害が起こることは間違いないので、とりあえず水と食料の備蓄が大事に思えてきます。

 このような様々な「場」の影響力は、僕らを混乱させることもあります。

 特にそれらの構成メンバーが、幼児期の家庭や学校でのサバイバルゲームの影響を無意識に引きずっているという場合、そこで起こることは「テーマ」に沿ったお互いの向上ではなく、インナーチャイルド同士のパワーゲームや支配・被支配の関係であり、「テーマ」は消え去ってしまいます。かつてのカルト的団体などでよく起こったことではないでしょうか。

 と言って「場」≒人間関係をすべて避けていては、僕らは成長も、癒されることも、ないというのも事実です。

 不必要な場の同調圧力に影響されることなく、自分に本当に必要なものを取捨選択できる能力が必要なのでしょう。
 「場」に洗脳されない強さ。
 様々な「場」を必要に応じて出たり、入ったり、また「場」を構成する力というのでしょうか。

 しかしそれ自体が愛のある場、エネルギーフィールド、関係性によって育まれないと芽生えてこない力なので、なかなか難しいものがありますが。

 人間関係が難しければ、海や草原、山などの大自然の<場>が僕らを自分自身にしてくれることもあるかもしれませんね。

 時に応じて良好な<場>に参加しつつ、

 同時に自分自身との間に、愛のある<場>を確立していこうという方向性は重要なコンパスになってくれるような気がします。


知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/13 12:52

BLUE WINGS


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「解離」という心の働き

 なにか衝撃的な出来事が起こったときに、あたかもからだから飛び出して逃げようとするような、そんなこころの働きを精神医学では「解離」と呼んでいるようです。
 たとえば、病院で突然命に関わるような難病にかかっていると宣告されたとき、横断歩道を渡ろうとしたらすごいはやさで突っ込んできた車にはね飛ばされたようなとき、あるいは3・11のような大災害に遭遇したとき、「空中に引き上げられるような」感覚を体験する場合があります。そしてもう少しひどくなると、第三者的に自分を見下ろしていた、ということになるかもしれません。
 スピリチュアル的に言うならば「魂が抜けた」「体外離脱」したということになるかもしれませんが、通常の精神医学はスピリチュアルなパラダイムではないため、「解離反応」というように呼ばれるわけですね。
 
 これは動物が生命の危機に直面したとき、身を守る方法を人間が受け継いでいるとも言えます。

 基本的に生命の危機に関して、自然界ではFight or Flight(戦うか逃げるか)という反応が普通です。

 しかし、それらが出来ないときに、もうひとつ「仮死状態になる」という方法があります。

 まあ、簡単にいうと「死んだふり」なんですが・・・まったく動かないとか気絶することにより、捕食者の興味を失わせる、あるいは動いているものしか視覚で確認できない動物もいるので、動かないことにより不可視化を図ることを狙った方法です。

 解離反応も、現実から遠ざかり「仮死状態」になるという動物の本能を受け継いだものかもしれません。


 解離的イマジネーション


 自己実現系の本にはよく、自分の成功した様子をありありとビジュアライズしてください、なんていうプラクティスがよく登場します。

 僕はあれ、苦手です。

 想像力がないのかとも思っていましたが、実人生とは関係ないイメージを想像するのは楽しいし、割と得意だと思います。
 たとえば、ここらへん500年くらい前だったら、草ぼうぼうで夜中には狼の声とか聴こえたのかな、どういう風景が見えてどんな匂いがしたかな、なんていうことを気がついたら一時間くらい考えてることが稀にあります。(暇やねw)
 
 あと昔から好きな映画や漫画はSF系か、ファンタジー系か、ちょいコワ系が多かったし、今でもDVDをレンタルするときは足が勝手にそちらの方向へと向かいます。

 そんなことで気づいたのですが、人には現実的イマジネーションが得意な人と、非現実的イマジネーションが得意な人がいるのではないかと思うんですよね。

 想像力を背中に生える翼のようなものだとすると、現実的イマジネーションが得意なのは暖色系翼族、非現実的イマジネーションが得意なのは寒色系翼族とでも言えるでしょうか。

 例えばこういう映像とか感性が割とど真ん中になる





↑このアニメのタイトル「僕だけがいない町」自体に解離的感性をひきつけるものがあります。

  
 どうして翼が青いのか?


 では、どうして寒色系翼族は、現実的イマジネーションが苦手なのか、と。

 いろいろな理由があると思いますが、基本的に僕らは「世界が嫌い(苦手)」なのではないかと思うんですよね。

 ちょっと語弊がありますが、もっと正確に言うと「概念としての世界」は嫌いではないが、体感的世界は嫌い、というんでしょうか。

 熱いとか、寒いとか、体がゆるんでるとかこわばってるとか、ざわざわする、すっきりするとかいろんな体感があります。最近僕は、結局人間の幸福度とは「体感の良さ」じゃないかと思ってる部分があります。

 人と話してるとドキドキするし、いやな気分になることが多かったり、外を歩いていてもうるさくていやな感覚になることが多いとか、そういう場合は人は「交流」や「体感」の世界から遠ざかります。

 その代わりにどこに行くかというと、概念の世界、空想の世界、言葉の世界、ゲームの世界などです。

 ひどいトラウマを持って、人間を信じられないという人でも、物語の世界は楽しむことができます。

 なぜかっていうと物語は「確定的」だからです。
 それを読む人は「傍観者」です。

 誰が敵で、誰が味方か、どいつがいい奴で、どいつが悪い奴か、手に取るようにわかります。また登場人物の考えも作者が説明してくれたりします。あの人なに考えてるかわからない・・・怖い!とはなりません。そういうキャラクターがいたとしても、それはその物語中でそういうキャラであるだけで、それを読んでる自分には危害を及ぼせません。

 一方現実は「不確定的」です。
 にも関わらず「参加者・体験者」です。

 人の考えは基本わかりません。誰が敵か味方か、いい奴か悪い奴かなんて、そんなにはっきりしてません。
 にもかかわらず僕らはその不確定さの中に、飛び込む参加者であり体験者となります。
 トラウマを持つ人にとってはその「体験者」としての「不確定さ」が耐えられません。
 かつての何かの体験により「体感」や「交流」の世界は予測不能で危険なものでしかなくなっているのです。

 そのようなタイプの人、ここちよい現実体験のリソースが少ない人は、やはり自分の実人生に近いポジティブなイマジネーションを行うことは難しいのではないでしょうか。 

 ただし僕は、寒色系翼族がその傾向をあらためるべきだとは思いません。

 だって、自分自身現実離れしたイマジネーションの方が楽しいし、と思う部分もありますし、世界的な作家なども意外とこのタイプが多いのではないかと思うのです。

 彼らは体感的世界が苦手であったからこそ、完結した物語宇宙を創造しようと思ったのかもしれないからです。
 
 今日だいたい読み終えた「愛着障害」という本には、日本や海外の著名な作家の多くが幼い頃両親と生き別れたり、死別したり、養子に出されたりという経験をしていたことが書かれていました。

 例をあげると、

 川端康成→二才までに両親と死別、15歳までに祖父母も失う

 ジャン・ジャック・ルソー→誕生直後に母を亡くす

 夏目漱石→一才で養子に出される

 「愛着障害」とは両親や養育者とうまく愛着関係を築けなかった子供に残る情緒的なパターンで、最近「発達障害」と並んで結構、注目されている概念です。 

 そのパターンは主に回避型と、不安型のふたつで、回避型は人との接触を避けて孤独を求め、不安型は依存対象となる人を求め、人からの承認に飢え、人からどのように見られるかが異常に気になります。

 そしてこの混合型というのもあり、それは

 「対人関係を避けてひきこもろうとする人間嫌いの面と、人の反応に敏感で、見捨てられ不安が強い面の両方を抱えているため、対人関係はより錯綜し、不安定になりやすい。

 一人でいることは不安で、人と仲良くしたいと思うが、親密になることで強いストレスを感じたり傷ついてしまうという矛盾を抱えている。それは人を信じたいが信じられないというジレンマでもある


 という非常に面倒くさい感じですが、なんか自分はこれタイプかもと思いました。というか俺まんまやん・・(^^;っていう
 いやーきついんですよ、思春期から結構。

 ま、それはちょっとおいといて

 著者によると世界的な作家でむしろ愛着障害を抱えていない方が少数だということでした。

 愛着障害による苦しみが、創造の源にもなっているのではないかという見解でした。まあ、これはさっきの「想像」の話しともかぶるのですが、この世界が心地よければ、孤独に内面を表現し続けるような活動を続ける原動力はなかなか湧いてこないのではないかというのです。

 この世界でイケイケなら、想像の世界、アートの世界などに行くモチベーションがない、とまで言うと言い過ぎでしょうが、「ここ嫌、別の世界見たい」という想いが大きなモチベーションになることは確かでしょう。

 ちょっと驚いたのは「果てしない物語」「モモ」で有名な、僕の敬愛するミヒャエル・エンデ氏も家庭環境がなかなか複雑で愛着障害を持っていたのでは・・・と書かれていたことでした。
 うーん、エンデって僕の中ではすごい健康的なイメージだったんですけどね。やはり物書きはどこか内面にダークサイドがある方が力が宿るのかもしれません。
 その自分のなかの「闇」に完全に飲まれてしまうと、自滅的なタイプの作家になりますが、エンデなんかは割りと創造活動の中でそういう内面の光と影のバランスを見出しているのかも。





  バランス~虹の翼~ 


 ざっくりわけるとこういう感じになるんでしょうか?


 暖色系翼→実人生、お金、愛情、仕事、健康、ヒューマンドラマ、ラブロマンス、動物、自然、地上、受肉


 寒色系翼→非現実、ファンタジー、別世界、仮想の動物、惑星、国、遥かな過去、未来、宇宙、脱魂


 まあ、これは仮説なんですが、


 現実キライ、世界怖い・不快、疲れる、痛い、うるさい、人間イヤ
 
 という良い体験の不足が、青い翼を発達させる可能性はあると思います。
 つまり魂が体をぬけだすような、解離したイメージを好むということです。

 このこと自体は悪いことではなく、実際におそらく僕らの故郷はここではありませんし、何がなんでも受肉やグラウディングをせねばならないというものでもないだろうなと思います。
 しかし、ここでの活動レベルをあげようと思うのなら、「体感」や「交流」の世界により多く飛び込んだり、暖色系イメージにより多く触れるというのも必要ではないでしょうか。

 僕はこの自分の想像力の性質に気づいてから、あえて、ヒューマンドラマをレンタルしてみたりしましたけど、結構面白かったです。↓この黒人の家政婦さんが主役の映画はシリアスな内容だけど、超笑えるシーンもあり、面白かったです。↓



1960年代のアメリカ南部。大学から故郷に戻った作家志望のスキーター(エマ・ストーン)は、“ヘルプ"と呼ばれる黒人メイドを差別する白人上流社会に疑問を抱き、メイドのエイビリーン(ヴィオラ・デイヴィス)に取材を申し込む。初めは頑なに断るが、親友のメイド、ミニー(オクタヴィア・スペンサー)を巡るある事件をきっかけに、重い口を開きはじめるエイビリーン。社会からの報復を恐れながらもスキーターの執筆に協力する彼女たちの“心の声"は、やがて一冊の本となり世の中に驚くべき変革をもたらすことに―。
NYタイムズ紙書籍ランキングNo.1のベストセラー小説を、実力派女優たちが見事なアンサンブルで織り成し、アカデミー賞(R)助演女優賞をはじめ、全米の映画賞を席捲した感動の物語







 そしてなぜか、「大草原の小さな家」DVDセットを去年の年末に購入してしまいました。



 なんでや??と自分でも思いますが、小さい頃TVで見てあんまりストーリーを思い出せなかったのでもう一度見たいとポチッとしてしまいました。
 
 ローラたちがパパやママに抱きしめられてうれしそうに笑う映像を見てると、自分にも暖色系翼があることがわかります。今から見ると素朴な作品です。でも、ぶっ飛び系の作品とはまた違った脳の部分が刺激されてよいです。

 そして愛情とか、ハグというのが飛んで行こうとする魂をひきとめ、僕らを肉体に根付かせる受肉化の必須要素かもしれないなと思いました。

 いろいろなイマジネーションに心を開いて、翼を虹色にしたいなとか思う今日この頃です。

 あとこれは昨日見た養護施設のドキュメントですが、高校生の女の子が絵を描いてるときは何もかも忘れられる、と言っていたのが印象的でした。過酷な現実に生きる人が、イマジネーションの世界に出かけて、そこを開拓し、その果実をこの世界に持ち帰るという循環は普遍的なものかもしれません。


 

知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/03/15 20:33

一匹の魚と、早朝のドトール

  量子の次元では空間的に離れた素粒子がまるでコミュニケーションをしてるかのように、同調した動きをすることが知られています。仮にコミュニケーションをしてるとすれば、この情報伝達の速度は光速を超えることとなり、光速以上の現象が存在しないと考えられる物理学の世界では大きな謎とされてきました。
  
  このような量子次元での素粒子の共鳴現象をたとえるモデルとして、一匹の魚の話しがあります。

  これを僕がはじめて読んだのは、マイケル・タルボット著「ホログラフィック・ユニバース」でした。

  

  すごく腑に落ちると言うか、なるほどーと目からうろこで、何度も咀嚼しました。

  昨日図書館で借りたディーパック・チョプラ著の「迷ったときは運命を信じなさい」にも同じたとえが登場して「おっ、魚また出た」と思いましたが、何度読んでもこの話しはずごくはっとさせられます。「迷ったときは・・・」からその部分を引用したいと思います。

  すべては同時に発生している

 「出来事が、ふたつの別々の場所に存在しているように見えるのは、錯覚かもしれない」と聞かされたなら、もっと度肝を抜かれてしまうでしょう。しかし、ふたつの異なる場所で起こる出来事は、実際にはたったひとつの出来事かもしれないのです。

 水槽を泳いでいる一匹の魚を頭に思い描いてください。

 この魚の動きを二台のビデオカメラで記録します。二台のカメラは互いに直角になるように配置され、別室のふたつのスクリーンにそれぞれの映像が映されます。何も知らずに別室でふたつのスクリーンを眺め、一匹の魚がある方向に動くと、もう一匹の魚のほうもそれに連動して泳ぐのを見た人は、驚いてしまうでしょう。

 いろいろな角度に多数のカメラを設置し、その魚の映像をそれぞれ違うスクリーンに映したなら、たくさんの魚がいっせいに連動しながら泳いでいるのだと思ってしまうはずです。しかし、舞台裏を覗けば、魚はたった一匹しかいないことがわかります。

 神秘的伝統を受け継いだすぐれた予言者たちは、人が日々経験しているのは、出来事や事物が時間と空間のなかで別々にしか「見えない」、投影された現実だと指摘しています。もっと深い現実のレベルでは、人間はすべて同じ身体の一部であり、その身体の一部にでも変化が起これば、ほかのすべての部分に即座に影響が及ぶというのです。・・・・・

                                
                                          「迷ったときは運命を信じなさい」 P41より

 


 いかがでしょうか?

 駅前のドトール、夜勤明けの眠い頭で読書していました。

 店内にはまばらながら複数の人たちがいます。ノートPCに向かい何か作業している20代くらいの若者、スーツ姿のサラリーマン風男性、40代くらいの女性・・・この魚モデルでいうと、個々のまったく外見も境遇も違うであろう人々は、スクリーンにあたります。

 絶対世界に泳ぐ一匹の魚を違う角度から映して、この現象世界に投影したものです。

 僕がページから目を上げる、若者が手を止めてタバコに火をつける、サラリーマン風男性が新聞を広げる、これらの一連の動きは、一匹の魚のひとつの動きを、別々の角度から見たものに過ぎないということになります。

 トイレに入り、鏡に映った自分を見ます。この僕の像は、僕がまったく独自の存在で、他から空間的に切り離されているような印象を与えます。

 「うーん、これが魚の一側面にすぎないって思うのは難しい。」

 自我という認識は、自分を他から切り離された特殊なものと考えさせます。この認識がマーヤ(無知)の根源に常にあります。

 その魚への理解は頭脳ではなく、「結びつき」を司るハートのセンターにより与えられるのではないかと思いました。

 すべての物事は同時に起こる・・・・・その理由は、動いてるものは実際一匹だけだからです。

 僕も、コーヒーカップも、灰皿も、フロアの片隅の観葉植物も、スプーンの金属原子も、この魚の断面だと考えるととてもスリリングな宇宙につかの間心を遊ばせることができました。

 そしてこの魚が真の「私」であるとするなら、僕も、コーヒーカップも、灰皿も、フロアの片隅の観葉植物も、スプーンの金属原子も、僕自身であるということになります。

 僕と、他の人々の、世界の、宇宙の変化は同調して起こる。なぜならすべてはひとつであり、マクロ的事象ももミクロ的事象も一匹の魚の身じろぎとして同時に起こるからです。

 これを知ることが「悟り」であり、このことを知らされることが「福音」ではないかと僕は思っています。

 華厳宗の教祖は、このことをこう表現しているそうです。

 時の女帝、則天武后から、そのイメージが何を言わんとしているのかよくわからない、もっとわかりやすく説明するようにと言われた法蔵は、部屋にたくさんの鏡を入れて、その中心にろうそくを置いた。

 これが一の多に対する関係をあらわしています、と法蔵は則天武后に言った。

 そしてつぎに、よく磨いた水晶を部屋の中心において、周りにあるものすべてを映し出すようにし、

 これが多の一に対する関係を示しています、と言ったのだった。


 この例では、ろうそくが「魚」です。

 他にもインドの聖典ウパニシャッドでは

人は自然が、マーヤーであり、ブラフマンがこの幻の作り手であることを知るべきである。この世界のすべてには、ブラフマンの存在が広く浸透しているのだ

 あるいはユダヤ教神秘主義カバラーの研究家は 

 「創造のすべては、神の超越的側面が幻影として投影されたものである

 (以上ホログラフィックユニバース本文より)


 量子的次元の比ゆが、スピリチュアルな次元の比ゆと一層似通ってくるに従い、この「福音」は科学と言うフィルターを通して、宗教とシンクロし、さらにそれらをも越えて日常の次元へと広く降ろされていくかもしれません。


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知覚、リアリティetc | コメント(1) | トラックバック(0) | 2016/03/05 20:48

輝くニート



 ネットのニュースで、いわゆるニート(働いておらず、学校にも通っていない人)は現在20~59歳で162万人、35歳以上は79万人と過半数を占め高年齢化していることが書かれていた。

 ニートや引きこもりに関しては、僕もまったく他人事という感じがしなく、社会の枠にかろうじて片足だけひっかけているという感覚はずいぶん前からあった。だから、ニートが非難されてると自分が非難されてる気さえする。

 よくニュース番組のワンコーナーでもとりあげられたりする「社会問題」だけど、僕が思うのは、彼らが働いてるかそうではないかという点に焦点を当てすぎているのではないかということだ。

 例えば35歳で実家で暮らし、働いてないし、通学したり、ハローワークにも通ってない2人の男性がいるとする。

 一人は昼夜逆転した生活をしている。
 だいたいお昼の一時くらいに起きて、一日の大半をPCの前でオンラインゲームなどをして過ごす。アルコールやドラッグ、向精神薬が習慣的になっている。時々感情を爆発させ家族に暴力をふるうことがある。部屋の壁はボコボコ。

 もう一人は、一応ニートであることを気に病んではいるが、家の家事や家庭菜園を手伝ったり、年をとった両親の介護をしている。毎日ジョギングをしたり、図書館から本を借りてきてよく読んでいる。

 この2人は、「ニート」かあるいは「非ニート」かでいえば2人ともニートに分類される。

 でも、そのメンタルやボディの健康度やQOL(Quality of life)は大きく異なる。

 どうもニートを扱うときの問題は、自活しているか否かのみを基準として、1かあるいはゼロ方式で、自活していない一群をニートとして社会問題視するというやり方ではないかと思う。

 (戦前・戦後まもなくであれば結婚前の女性が仕事をせず実家にいることはまったく普通であったと思うけど、今は、それもニートにカウントされるのだろうか?家事手伝いというのは最近の統計では仕事をしてることに含まれないということみたいだけど)

 そしてそこからの出口は、とにかく何であれ、仕事をさせて100パーセント自立生活をさせることだけにあると考える。

 しかしそれよりも重要なのはどのようにして「ニート」群を数値的に減少させるのではなく、どのようにしてその群のQOLをあげるか、人間的成長の機会や、癒しの機会を提供できるかということではないかと思うのだ。

 仮に数値的には同じでも、数値化できないQOLが向上すれば確実に世の中はよくなっているに違いない。

 親に暴力をふるっていたA君の暴力がなくなるだけで、両親のストレスは減り、その安堵はさらに別の人、別の家族にも波及していくものなのだ。

 自活だけを求めるのは現実的ではない。
 それどころかその風潮は彼らをさらに追い詰めるに過ぎない。
 追い詰められたものは自滅するか牙をむく。
 そのどちらにしても、それは社会に帰ってくる。

 経済的負担だけに着目し、ニートという現象を社会問題化するという見方からすると、そんな甘いことを言っても、このまま彼らが年を取り経済的よりどころを失えば生活保護費などがかさんでくる。というが、彼らのQOLや健康度が今よりも低下して精神障害、あるいは自傷などによる身体障害となれば医療費などもさらにふくらむ。

 一体世論を形成する人々は、彼らを負け犬やお荷物として扱いたいのか、あるいは自分とまったく同じ可能性を秘めた人間として尊重したいのかが見えてこないと思うことがある。

 単なるガス抜き的な趣旨で (ほらこんなにダメ人間がいるんですよ。あなたはよくやってますよ。つらくても決してそこに転落しちゃダメですよ)ニート問題を扱うことはニート問題を強化する。

 報道特集を組むならば、むしろ「ニート」を働かない困った人と一くくりにするのではなく、例えば働いてなくても実家で穏やかに暮らしている、そんな人をこそ取り上げるべきではないかと僕は思う部分がある。

 そして彼らのQOLを向上させるのではなく、働けとしかプレッシャーをかけられないことが、現代の社会通念の限界であるように思われて仕方がない。

 例えばこんな「ニート」はいないだろうか。

 毎朝6時半には起きて、家族の朝食の支度をして、ジョギングに行く。
 帰ってくると、父親の車を借りて釣りにでかける。釣ってきた魚は、自分でさばいて、また夕食の食卓にのる。
 近所の市民農園を借りて、野菜を無農薬で作ったりしている。
 映画や本にも詳しくて、月に1度か2度は高校の時のクラスメートが遊びにやってきて、彼がオススメするDVDを借りてゆき、映画やアニメの話で盛り上がる。
 毎日日記をつけて、今日気付いたことや、作物の育ち具合なんかを書き付けている。


 こんなニート生活はどうですか?

 こんな人なら僕も知り合いたいと思うし、知っていることを教えてもらいたいと思う。  
 そして例えば僕が何かを(魚の調理の仕方や、いい映画やら)教えてもらい、僕の生活がさらに豊かになれば、かれは立派に世界に貢献していることになる。誰もそれは否定できないだろう。

 こんな人は多分、いるんじゃないかと思う。

 そしてそういう人をこそ紹介したりすることが、QOLの低いニートの人たちにも、問題は働くこと以前に自分が幸福で、健康であることなんだという道筋を提示することになる。

 30歳、40歳、あるいは50歳になり 
 「今さら健康になっても仕方ない、努力してもしょうがない」というのはあたらない。
 一人一人のQOLの高さこそが、日本全体ひいては世界全体のQOLに影響するのだ。
 ニートの人が早起きをしたり、一時間の散歩をしたり、瞑想をしたり、健康な食生活をすることは、立派な社会貢献である。
 そして、状態がよくなって働きたければ、働けばいい。

 ニートの人は怠け者というよりも、発達障害と呼ばれる特性や、トラウマ、先天的体質によって働けなくなっているというケースも多々あると思う。
 そして現在日本では、発達障害やメンタルな病の枠内に入る人が増えている。つまり日本人全体の健康度が低下していることが「ニート」というカテゴリーにいれられてる人が増加していることと関わりがあるような気がするのだ。

 そこで思うのは本当に「非ニート」はニートを揶揄できるほどに健康であるかというということだ。
 「非ニート」のボディ、メンタルの健康度が高ければ、おそらく少なくともニート叩きのような状態にはならないと思う。
 自分と同じ人間に対して、「働いていない」というだけでそのようにふるまえるということがあるとすれば、それは「非ニート」の問題点や価値観の歪を示しているに過ぎないのではないだろうか。
 ニートの病理は、非ニートの病理なのである。

 例えば発達障害なら発達障害、トラウマならトラウマの現実を知らないこちらがわのかかえる「無理解」という問題だ。

 ハローワークだけがニート生活からの脱出口だと思えば、僕だってイヤになるだろう。
 むしろニート問題に本腰で取り組むならば、彼らの存在を受け入れそのメンタル面、ボディ面の健康を気遣うような場所をこそいくつも創設する必要があるような気がする。そしてそのゴールを決して「就職すること」にはしないことだ。

 言葉というのは面白くて往々にしてそのもっとも基本的な語源を調べると、見過ごしていたヒントを教えてくれることがある。

 ニートの語源はNot Employment,Education or Training だという。

 しかし英語には「きちんとした」「こざっぱりした」をあらわす「neat」という言葉もあり、これはラテン語で「輝くような」という意味があるようだ。


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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/08 11:37

太陽と月の呼吸


  少し前に思ったことですが、月のめぐりというのは季節の巡り、つまり太陽の巡りのミニチュアバージョンではないでしょうか。

 一年の季節には言わずもがな4つの重要な節目があります。

 ひとつは冬至、夜がもっとも長いこの時を境に次第に昼の長さが伸びていきます。

 太陽はもっとも低い道を辿り、南よりの東よりのぼり、南よりの西に沈みます。

 ふたつめは春分。この日を境に昼の長さが夜よりも長くなり始めます。

 太陽は真東より昇り、真西に沈みます。この日の日没時に出来る影はまっすぐに翌日太陽が昇る方向を指し示します。

 三つ目は夏至。一年でもっとも昼が長い日。光が極まるときです。ちなみに今年は6月22日。日の出は4:26、日の入りは19:00ちょうどです(東京)。

 最後は秋分。この日より夜が昼間よりも長くなり始め、そして冬至において闇が極まります。

 これらの節目は古代では多くの地域で祭りとして祝われたのではないでしょうか。

 冬至は闇が極まる日ですが、裏を返せば光がまた強くなる最初の日でもあり、毎年この日の近くがクリスマス、キリストの誕生日だというのは何か意味がありそうです。イエス自体が人類の周期において、もしかするとカリユガ(無知がもっともきわまる時期)の極みに生まれたとも言えます。

 イギリス、ニューグレンジの遺跡は、冬至の前後の期間だけ、太陽光がその内部にまで差しこむように設計されています。

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 春分の次の満月の近辺ではイースターが祝われます。これは復活祭であり、貼り付けにされたイエスが三日目によみがえったことを祝うものですが、その原型は春の女神の祭典としてアングロサクソンの間で祝われていたといいます。

 日の短いヨーロッパでは夏至祭が盛大に行われるようです。
 またドルイドの伝統で行われるストーンヘンジの儀式もあります。

 以上、大急ぎで検索しました^^

 秋分の日に関しては世界にどのような祭礼があるのか、よくわからないのですが、日本ではお彼岸の時期、先祖供養の時期にあたります。あの世と通じやすくなる。西方浄土は日の沈む方角です。また、古代秋分直後に太陽の力の強化を願い人身御供の儀式がおこなわれることがあったとか・・

 秋分の日以降闇がつよくなり、10月の終わりにはハローウィンでお化けがいっぱいでてくるわけですね(笑)

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 ↑昔のハロウィンの仮装 ガチで怖いわこれ・・こんなん訪ねてきたら。
  とび蹴りしてまうわー

 SF作家レイ・ブラッドベリの短編集で「10月はたそがれの国」なんて素敵なタイトルの本もありました。

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 ブラッドベリの小説はどれも生き生きとした叙情的イメージに富んでいます。春夏秋冬のみずみずしいイメージが溢れていますが、古代の人たちはそのような季節の移り変わり、太陽のめぐりがとても重要だということを察していたのではないでしょうか。

 さて現在は春分から二週間以上過ぎ、かなり光が強くなってきました。
 このところ曇りや雨が多いですが、そんなこととは関係なく日は毎日長くなっています。
 僕の感覚では、実は気温はあまり関係ありません。
 1月の終わりとか、二月は一年でもっとも寒い時期ですが、梅が咲いたりしてかなり春の気がもう動いています。
 それは気温ではなく、太陽の力に植物が反応しているからだと思うのです。

 天気予報はわかりやすいように天気しか言いませんが、気候はもっといろいろな要素がからみあっています。
 日の出、日没、そして月の周期、太陽活動などが実はかなり重要な要素なのだと思います。

 だから同じ気温でも、冬至前の5度と、今頃の5度はまったく体感が違います。
 多くの植物の葉が落ちた5度と、サクラが咲いてる日の5度。これは気のせいではなくあきらかに違います。
 「冬に逆戻り」という表現がありますが、そんなことは実は起こったためしがないですね~!
 地球は空調管理された個室ではないので、温度だけでは現在の状態をあらわすのにかなり片手落ちな表現となります。

 さて春分がすぎ夏至に向う過程で、どんどん日が長くなり、温かくなってくるとどんなことが起こるでしょうか?

 花が咲き、緑が芽吹き、昆虫や小動物が増え、人は活発に動き回り始めます。新しいことを始める人も多くいます。
 春になっておかしくなる、という人もいます。
 
 温かくなると体内のエネルギーも膨張して、トラウマなどの行動化が起こりやすくなるということもあるでしょう。
 すべての季節にはある意味、一長一短があります。
 それでも基本的には温かくなって、にぎやかになるこの季節を多くの人が愛します。

 僕も今頃から夏にかけてが一番好きな季節です。

 すべての物体は基本的にあたたかくなると膨張し、寒くなると収縮します。

 そしてどちらかというと、やや膨張してるほうが、肉体は元気で活動的になると思います。

 このことを考えていて、あーそういえば、「月」も同じだなと思ったのでした。

 満月時にはエネルギーは膨張し、新月では収縮します。

 満月の時は、下手するとギンギンになり眠りにくくなることもありますが、新月はテンションが割りと低めになります。

 月のサイクルを農業に利用するという考え方は昔からあるようで、ものに本によると、満月時は害虫の産卵が多く、病気の発生は少なく、定植は不良だそうです。一方、新月時は害虫産卵は少なく、病気は多く、定植は良好だといいます。

 そういえば新月に種をまくというのはどこかで聞いたような覚えがありますね。

 光がどんどん強くなる5月。このときの満月がウエサクと呼ばれもっともパワーがあるとされるのは、この太陽と月の相乗効果によるものではないかとふと思いました。


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 京都鞍馬寺 ウエサク祭
 2015年は5月3日に行われるようです。

 春や夏、昼間(光)、そして満月を 陽 そして、秋や冬 夜(闇)、そして新月を陰としてシンクロさせると、

 五月頃の満月は陽の陽となります。仮に新月が冬至ならば、それは陰の陰となるのではないでしょうか。
 夏の中にも陰があり、冬の中にも陽があるわけです。

 この考え方がどれくらい妥当かわかりませんが、個人的には「あっ、なるほろー」と思ったのでした。

 すべてにアップダウンがある。直線的に上昇するようなグラフは生命活動では在り得ない。バイオリズムはすべて波型、ミクロレベルでそしてマクロレベルで、陰陽のダンスをしている。

 それぞれの陰陽にはふさわしい活動があります。

 夜には夜の 冬には冬の 昼には昼の 夏には夏の行動があります。

 満月はエネルギーがもっとも高まり、新月に向かって吐く息のようにそれが放出される。

 そう考えると、断食など浄化的なことをするのは新月周辺がよいのではないかと思いました。
 部屋もきれいに掃除して、心機一転新しいサイクルに望むっていうのはどうでしょうか?

 人間はマシンではないので、絶対に一律なリズムを刻み続けることはできません。
 すべての感情や思考、肉体のエネルギーは これら陰陽の様々なレベルと結びついていると思います。

 太陽と月の呼吸に和して、サーフィンのようにそれらを乗りこなしていくことが、結構大事なことではないでしょうか。

 それらのエネルギーとどう和していくかということは人それぞれであっていいとおもいます。
 重要なのは冬と夏では違う宇宙にいるという気付きです。

 そしてそれが古代人が知っていて、先進諸国に住む現代人が忘れてしまった、宇宙とつながるひとつの術なのではないかと思います。 

 さて~夏至に向かって高まるエネルギーは僕らをどこへ連れて行くでしょうか?

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 フィンランドの夏至祭
 
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 ストーンヘンジ 夏至の日の出

知覚、リアリティetc | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/04/09 20:56

レオナルド・ダビンチの多次元性について


 面白かった~




 ダビンチの洞窟
 「すべてはすべてとつながっている」
 松果体とDMT、バチカンについて
 ダビンチの描く宇宙船?
 最後の晩餐 イエス=バフォメット説
 受胎告知のアングル
 見る視点を変える重要性について 

 など 

 マインドマップの考案者トニー・ブザン氏の本にダビンチの全脳思考のことがよく出てくる。

 そこからつながりで気になり、見てみたら面白かった。 

 「ダビンチコード」で最後の晩餐にマグダラのマリアが描かれ、愛人がいたということはイエスに子孫が・・・なんとかかんとかというのは知っていたけど、これ見るとダビンチは現代人が見失ってしまった思考法、叡智とつながっていた古代人がしてたかもしれない思考をしていたのかもしれないと思わせられます。


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 洗礼者ヨハネ


知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/04/03 23:31

死をコントロールする意味 秋山眞人



 


 最近、エハンさんとともに注目し動画をよく見ている秋山さんのお話し。

 「自殺」というテーマからスタート。

 秋山さんは時々テレビで見かける超能力者というくらいの意識しかありませんでしたが、いろいろお話を聴いてるととても考え抜かれてる方だな、というのはとても感じます。そんなわけでたまにお話しを拝聴しています。全部面白いですね。

 スピリチュアルな世界にありがちな感性至上主義ではなく、知性の面でも考え抜いて自分の言葉で話されてるというか、そういう方を僕はとてもリスペクトします。ポジティブなことしか言わないというのは簡単なんですね。

 そしてそれはどこかうそ臭いものでもあるのですが・・・あえてダークな側面のトピックを選んだとき、その人の本当の知性、感性があらわになる。そんな気がします。

 「死」への体験を、人の言葉ではなく自分の経験で語りなおせること。これはすごくポイントですね。

 死など存在しません。魂は永遠、学びによって高められていく。そんな風に言うのって簡単なんですが、要はどこまでが自分の実感かということですよね。僕はまだそんな風には語れませんし、そんな風に語ってしまうとすごくバカバカしい気がします。

 自分の実感からいつも語りたいと思います。

 以下秋山さんのお話。

 「今だから申し上げますが、一度若いと時に死のうと思ったことがあります。

 どうやって死のうと思ったかといいますとね、大量にお酒を飲んで 道路に大の字に寝て、朝までには車が轢いてくれるだろうと考えました・・・死のうとした僕の記憶に残ってるのは満天の星空でした。


 「一ミリでも、一歩でも、あなたが面白いと思うものを見つけてみる。この観点が、あなたを救います。いや、救うどころか、さらに高みへと導くのです。

 最近、「人からどう見られてるかではなく、自分が人を、世界を、そして自分をどう見ているかが重要なのだ」。そう思う瞬間があったのですが、そのようなこともお話の中にありました。

 昨日かな?ちょっと驚いたのは、その秋山さんとエハンさんの対談本が出版されるとのこと。

 お~これは期待してしまう

 


 たまにこういうことあるんですよね。

 先に注目してた二人がリンクするとか。

 割と先見の明が僕にもあるのでしょうか(笑)

知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/03/20 22:05

愛とストイック



前回の記事をやや補足する内容です。

  マインドや体に取り入れるものを純化する、限りなくゼロにするという方向性は生命力を賦活する方法のひとつだと思うけど、それは宗教的なストイシズム(禁欲主義的な考え方)にもダブってくる。

  宗教的なストイシズムは戒律に基づいている。

  ~してはならない ~食べてはいけない ~のことは考えてはいけない 
  ~しなさい     ~を食べなさい    ~と考えなさい

  このような、すべからずとすべきことの一覧で、ヨーガではヤマ・ニヤマなどと呼ばれている。
  バイブル、コーランにもこのような形のメッセージが多くある。

  ヨーガだけではなく古今東西世界中の宗教的・精神的体系の中でそれは見出される。
  伝統的宗教ではなく、カルト的なグループにおいても「~すべからず」というのはたくさんあり、それらの規則がメンバーを恐れに基づき連帯させる機能を持っている。

 これらは、特に伝統的な宗教においては、迷信というよりは、ここをはずさなければそう間違った道にはいかないはずだという道しるべ的なものであり、ストッパーであったのではないかと思う。

 だが20世紀からの飽食的・享楽的ムードは、これらをばかばかしいもの、古臭いもののように見せる作用を持っていた。
 確かに20世紀に生まれた先進国の多くの人は、自ら戒律なんてものに縛られたいとは思わない。
 それよりも、なるべく自由に楽しく、自分らしく、そしてある程度は飽食的・享楽的に生きたいと思う。
 数十年はそれでいけたが、気候変動や大気海洋汚染、人の心の荒廃などが問題視されるようになった。
 その反動として、エコロジーやマクロビオティックが世界中に流行ったり、最近では不食が話題になったりストイックな方向へのゆり戻し現象というのも確かに起こっている。

 これは振り子の両極なんだけど、この平面的な二元にメンタルな価値、「愛」という価値を考えると、この二元を越えた立体的ビジョンを得ることが出来る。立体というのは、ひとつ空間的に越えた点を設定することで、平面上の価値観を俯瞰して見、それらを超えることのできる意識の象徴だ。

 例えば、享楽主義と禁欲主義を平面上の二点に置き、それより高い位置に「愛」というポイントを置く。
 別に下でもかまわない。
 要は、それは別次元にあるということなのだ。

 享楽主義を南 禁欲主義を北
 科学を西 宗教を東 とすると
 「愛」というポイントは宇宙空間にあたるでしょう


 愛って何?って聴かれると困るけど

 くつろぐ感じ
 帰ってきた感じ
 ゆるむ感じ
 目の前が明るくなる感じ
 うん、うん、Ok、いいんだよという感じ
 広い感じ
 開けた感じ
 胸が熱くなる 切なくなる感じ
 大きくて泣きそうな感じ
 いつもは草の間を舞うわからないくらい小さな妖精に見えて 
 実はこの世界をすべて覆うような存在 女神 
 午後3時のお菓子に見えて 実はそれがないと生きていけない
 メインディッシュ

 そのような感じ

 を個人的には持っています。(僕がリアリティとして感じる限りの表現です。)

 この愛というメンタルなものが実はもっとも生命力を賦活するもののようです。
 言い換えれば、すべての問題は愛の欠如によるとも言える。

 愛のこもった行為があり 愛のない行為がある。
 心をこめてする行為と 自動的・習慣的 恐れに基づいた行為がある。
 だいたいが特に大人になると、習慣的に動いてしまうことが多くなる。
 習慣的にタバコを吸い、酒を飲む。
 それを好きなの?と言われると 多分多くの人はこう答える

 「別にそんなに好きじゃないよ。ただねーなんかないともの足りないっていうか、気持ち悪いっていうか、落ち着かないんだよねーストレスもあるし」

 そこにはあまり愛はない。愛のない行為。タバコやアルコール、砂糖などが体に悪い、もちろんそれもあるだろうけど、そのように何かにせかされてする行為自体が体に悪いとも言える。

 師匠にいつか言われたことだけど、タバコにもスピリットが宿っている。そもそもタバコはネイティブアメリカンの聖なる草だ。煙を吸いながらパイプを回してメンタルな契りを結ぶ。儀式のときに吸う。もともとは喫煙室の灰皿にたくさんねじ込まれたものとは似て非なるものだ。そこに宿るスピリットを無視した使い方が人を傷つけるという。
 おそらく化学物質だらけのコンビニで売ってるタバコでも、そこに宿る何かに感謝して吸う一本は特別な一服になるだろう。お酒にも、それの材料となる農作物の、酵母の意識が関係する。古来から人類を酔わせてきたアルコールというスピリットに感謝して飲む一杯は特別な一杯となるだろう。
 そういう一服や、一杯は きっと「むさぼる」ということはできないからだ。

 だから「愛」というポイントを設定すると、タバコを吸う・吸わないではなく、愛のある愛煙家もいるし、愛のない嫌煙家もいるということがわかる。それはタバコだけに限らず、肉類や、お酒や、テレビや、インターネットや、セックスや、ほぼあらゆることについて言えるのだ。

 自分が不純だと思うものをすべて切り捨てる、ストイシズム。
 それが間違ってるわけではないけど、そこに愛がないと自身が枯渇していく。
 あるいは、どういう意識でそれを行っているのか、片意地を張りすぎてないか、頑張りすぎてないかという自問が重要になる気がする。

 ひとつの基準は無理して、あるいは片意地を張りながらこの種のことをすると、かならず自分がやってないことを楽しんでしてる人に対してジャッジしたり、「おばかさんだなー」と上から目線になりやすいことだ。
 愛のある禁欲者なら他人の習慣に対して、ジャッジはしないだろう。
 おそらくラーマクリシュナが弟子に「そろそろタバコ吸ってきたら?」と言ったというような、そういう感じになる。
 あるいは「お前、タバコなんか吸ってんのか。やめろバカ、それ、も・う・ど・く、だぞ」となる可能性もある。

 ただどちらになったとしてもそれは彼らは自分の主義主張に基づいて、人に喋っているわけではないのだ。
 愛である自己に、喋らされてる、ってことなんだろう。
 基本的に、彼らにとっては習慣はどちらでもいいことだ。

 テレビも肉もスイーツもインターネットもセックスもゲームもタバコもアルコールも、それらすべてが大好きでも、あるいはそれらすべてを切り捨てていても、「愛」にとってはおそらくイコールなのだ。
 僕らの頭だけが、「差」を生もうとする。

 それよりも彼らは、本人が自分らしく無理をしていないこと(無理は大概恐れに基づいてますからね)、愛に生きているかを観る。そして彼らの主義主張ではなく、聞き手の「必要性」に応じてアドバイスする。

 僕にとっては5年ほど前にテレビを捨てたりしたのは、ある種自然な流れのように感じられ、あまり観たいという欲求もないけどもしかするとこの先CSが見たくて買う可能性もゼロではない。同じように夏が来たら、おいしいラーメン屋を食べ歩いたり自作ビールで飲んだくれてるかも(笑)情報から距離を置くという数年前の師匠のアドバイスは主義主張ではなく、僕の必要性に応じて与えられた気がする。それはひとりでに進化発展し、オリジナルの情報やメディアとの付き合い方が形成されつつある。

 「テレビを見てはならん」とか「肉を食ってはならん」というのは「愛」を知るものにとっては教義とするに価しない。
 むしろそれらへのこだわりが、不純物への恐れが、純化への渇愛が、愛を見えなくさせていることを知っている。
 
 愛に生きる存在は、不純物の中でも、彼らの認識によりある意味守られているのである。
 そして、それは
 不純物の中であっても、全く変わらずピュアであるというのは僕らの真の姿でもあるのだ。




 
知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/17 11:18

集中力の低下とスマホ・PCとの関係


 




 これは結構ガチですね~。

 YOUTUBEで動画再生中に次は何を見ようかと無意識に探してたり。

 意識が外側にだけ向かって内省的思考がなくなる。

 情報断食するとよくわかるような気がします。

 人としての尊厳を守るため、たまには情報機器すべてOFF!

 新たなタイプの情報端末もどんどん登場する

こういうのもあるんかー

 オキュラスリフトという3Dバーチャル体験装置でのMATRIX

 



 面白そうだけど、マジでマトリクスの世界が来そうでやや怖し

 つけてる人をよこで見るのも楽しそうだ。これ、マスターの立ち位置?(笑



知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/08 20:47

アニータ・ムアジャーニさんの臨死体験 無条件の愛

 


 
 上の動画は、臨死体験を経験したアニタ・ムジャーニさんのインタビュー。

 これを観て、感じるところがあり
 なにかもっと詳しく知ったほうがいい気がして本も買ってみましたが、アニタさんの臨死体験には注目すべき点がいくつかあります。
 まずひとつは物理的レベルで起きた奇蹟的現象で、臨死体験から戻って「二、三日後」に末期的なステージにあった癌がすべて「消えてしまった」ということです。書籍には彼女の体験に興味を持った医師が、アニタさんが入院していた病院にいってカルテを確認し彼女の体験が真実であることを証明した記録がついています。

 アニタさんの病気は悪性リンパ腫で、臨死体験前には顔全体、首、左腕が風船のようにふくらみ目ははれて閉じたままだったといいます。担当の医師たちは彼女は助からないということで意見が一致していました。その彼女が臨死体験後あっという間に回復したことについてこの件を調べたコー医師という方は次のように書いています。

 「彼女の回復ぶりは間違いなく注目に値するものである。私自身の経験と数人の同僚の意見に基づけば、彼女の劇的な回復は抗がん剤治療によるものだとは考えられない。私達の知る癌細胞の性質からすれば、非物質的な何かが癌細胞の遺伝子が現れるスイッチを切ったか、あるいは癌細胞の死が起こるような信号を送ったと推測する。正確なメカニズムは私達には未知のままであるが、抗がん剤による結果とは思えない。
 アニータとの出会いによって、私は、この現象、そして私達人類の本質についてさらに学ぶきっかけを与えられたと考えている。


 コー医師はこの一見の経過をまとめた資料を世界中の癌研究所に送ったが、この驚異的な回復の謎を解いた研究所はなく、またかつてこのような回復が起こった記録もないという。

 アニータさん自身は、臨死体験中生き返る選択をしたとき、肉体に戻ると癌は治癒するということが「わかっていた」そうです。

 もうひとつ注目すべき点は、アニータさんの体験の抽象度の高さです。
 臨死体験というと光との出会いや、トンネル体験、お花畑や川の出現、亡くなった人との再会などが注目されますが、これら具象的な現象で計るのではなく、意識体験はどれくらい抽象性が高いかがポイントだと僕は思っています。
 その抽象度が高いほどいわゆる覚醒や悟り体験に近づき、具象度が高いほど、神秘体験→霊的体験→心理体験→物理的体験となっていくように思います。

 アニータさんの場合は、自分が全体であることに気づく、過去、現在、未来は同時に存在し、時間は直線的に流れていないことに気付く、そのため輪廻転生も本当は同時に起こっているのではないかと気付く(確かアジャシャンティ氏もそんなことを書いてたような)、というような要素がほとんど覚醒状態と同じような抽象性の高さを感じさせます。

 抽象性の高い体験には、強烈な謎が解けちゃった感が伴い、それは体験者のリアリティを根源的に変化させてしまいます。一方具象的な体験、例えば、「UFOの母船が目の前に着陸するのをみた」とか「○○の神が近未来の大予言を聞かせてくれた」あるいは単に「急にからだからぬけちゃった」だけというようなタイプは誰もを恐ろしく興奮状態にするでしょうが結局「なんだかわからないし、逆に混乱する」という性質を持っています。

 アニータさんの体験には、根源的わかっちゃった感の気配が随所に見られます。
 つまりそれは自分が本当は誰だかわかる、ということなのですが、それが人間の体験ではやはり究極のものなのでしょう。その答えが人によって微妙に異なっていても、この通常の僕らを越えた、「大いなる私」を認識することに関しては共通しています。

 以下アニータさんの体験のごく一部。

 「向こう側の世界に深く入っていき、拡大しながらすべてのものや人とひとつになるにつれて、愛する人たちや周囲の状況への愛着がゆっくりと消えていきました。その間、すばらしい「無条件の愛」としか表現できないものが私を取り囲み、しっかりと包んでくれたのです。でもその感覚は「無条件の愛」という言葉では十分に表せるものではありません。それはあまりにも乱用されすぎて、言葉の持つ強烈さが失われているからです。ともあれ、長い身体的戦いからやっと解放された私は、この自由というすばらしい体験を楽しんでいました。

 それは身体的にどこか別の場所へ行ったというよりも、むしろ目覚めたような感覚でした。おそらく悪夢からやっと目覚めたのかもしれません。私の魂はその真のすばらしさをやっと悟ったのです。それは次第に、私の身体や物質世界を超えて遠くへと広がっていき、この世の存在だけでなく、時間や空間を越えた領域までも広がり、同時にその一部になりました。

 愛、喜び、恍惚感、畏敬の念が私に注がれ、私の中を流れ、私を飲み込みました。そしてこれまで存在していることさえ知らなかった大きな愛に包まれました。これほど大きな自由や生きてるという実感を味わったのは初めてでした。すでにお話ししましたが、私のベッドから遠く離れた場所で話している医師と家族の会話が、突然わかるようになったのです。これは物理的には不可能なことでした。

 このような強烈な感覚は、この世のものとは違い、それを正確に言い表すための言葉はみつかりません。これほど完全で、純粋な、無条件の愛は、私がこれまでまったく知らなかったものでした。何の資格も要求されず、何の判断もされず・・・、まったく差別もありませんでした。その愛を得るために何もする必要がなく、何の証明もしなくてよかったのです。


 「私は、これまでのすべての年月において自分に必要だったのは、ただありのままの自分でいることだったと悟りました。自分を非難したり、欠点があると思ったりせずにです。同時に私達の本質は純粋な愛だとわかりました。誰もが純粋な愛なのです。完全なものからやってきて、それに戻るのであれば、そうでないはずはありません。このことを理解したら、自分であることをもう恐れることはないでしょう。愛であることと本当の自分であることはひとつであり、同じことなのです。

 もっと大きな真事実は雷光のとどろきのごとくやってきました。単に自分の本当の姿である愛でいれば、自分も他人も癒せるとわかったのです。これまで理解できませんでしたが、それは明白なことに思えました。もし私達がみんなひとつで、無条件の愛という全体の様々な側面であるなら、私達はみんな愛の存在だということです。私は、それが人生の唯一の目的だと知りました。つまり、本当の自分でいて、自分の真実を生き、愛であることです


 
 これほどの生きてる実感を初めて味わった、という部分が興味深いです。

 アニータさんの肉体はベッドで瀕死の状態だったので、これまでになく死んでる状態だったのに。

 生きてる実感、リアリティの強度はエネルギーレベルの強さでもあるので、 

 アニータさんは肉体とは別の場所で、肉体にいたときとはかけ離れたものすごいエネルギーレベルで存在していたことになります。

 その恐れから自由な、限りなく解放されたエネルギーがおそらく癌を癒したのではないでしょうか。


 オレンジ字 アニータ・ムアジャーニ著 「DYING TO BE ME」より 邦題「喜びから人生を生きる!」ナチュラルスピリット





知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/21 21:39

ハイクオリティなホラー



 上質なホラーを時々観たくなる。

 でも、レンタルDVDの棚を見渡しても上質のホラーは少ない。

 なにが上質かは主観になるので、もちろん僕の好みということになるけど、僕が時々観たくなるものは光と闇が均衡していてやや光が勝ってるようなものだ。

 ホラーと言ってもぐちゃどろのものとかスプラッターものは好きくない。
 意外と和製ホラーは海外に負けず劣らずぐちゃどろ+日本特有のじめじめした祟り、因縁、呪詛の雰囲気が混入し棚に近寄るのも嫌な場合がある。僕好みの上質のホラーは海外ものしかあまり知らない。(あるのかもしれないけど)

 基本的にいやーな雰囲気で終わるものは、闇の要素が作品の中で勝っている。
 ホラーってそういうものだろと言われれば、そうですねと言うしかないけど、基本的に後味の悪いものはあまり観たくない。化け物との戦いに敗れ全員死んじゃうとか、たくさんの犠牲を出し倒したと思ってても、墓の下から手がぐにゅーっと伸びてきてやっぱり生きてましたーという感じで終わるとか、結局すべて無駄でした的な結末は闇側にリアリティの軍配があがる。

 でも相当残酷なイベントがたくさん起こっても、闇的要素と光的要素がバランスし、それぞれの役割が生きてくるようなもの、ホラー的なものを描いていてもある一定の深みが見え隠れするものが、僕にとってのハイクオリティなホラーの定義だ。
 そういう視点で見ると、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」とか、ナイトシャマランの「ビレッジ」、サムライミの「ギフト」、「コンスタンティン」、スティーブンキング原作の「IT」などが自分的にはポイント高い。同じくキング原作の「ミスト」は、ずっとキモい映像が続くし、最後は最後でいやんなっちゃう結末だが、割と絶望の恐ろしさとかそういうものが間接的に描かれていてちょっと「おおっ」と思った作品だ。

 あとなんとなく手にとって借り始めた海外ドラマシリーズ「ウォーキングデッド」も、ゾンビ映画でぐちゃどろなシーンもあるけど、これは人間ドラマ的に目が離せない展開が多くて結構ハマッた。なぜこれを借りたかというと前から「ゾンビ」という概念自体に結構魅了される部分があるからだ。いつかゾンビから必死で逃げてショッピングセンターに立てこもるのが夢(笑)なんつって。ハイクオリティのゾンビ映画ってのもなかなかないので、ゾンビ映画をここまで見るに耐えるものにしたというその点で「ウォーキングデッド」の功績は大きいような気がする。


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 「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」は時を越えて生きる吸血鬼ものだが、基本的に吸血鬼もののルーツはブラム・ストーカーの「ドラキュラ」なわけで、ドラキュラは一応貴族だからかどうか知らないけど、吸血鬼ものは品格?があって割りと深いものになってることが多いように思う。というのは多分、人の生き血を吸ってれば永久に生きられるとか、太陽に当たると灰になるとかバラを枯れさせるとか、もともと吸血鬼という概念自体に相当人の想像力を深い世界に向かって開く何かがあるからだと思う。その存在自体が一種の哀れさとか人の不死へのあこがれとか恐れを同時に掻き立てるのだ。

 そういう意味で吸血鬼が僕らの目の前に立つと、いろんなことを感じさせてくれる。
 ジェイソンや貞子じゃ、こうはいかない。(「リング」は原作はなかなかすばらしいですが)

 「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」にもそういった吸血鬼の二面性が十分に描かれている。
 これは一般庶民が貴族的な存在に対して抱く、嫌悪や憧れ、などのアンビヴァレントな感情とも通ずるものがあるかもしれない。この映画の最後は、トムクルーズ演ずる吸血鬼レスタトの復活で終わるが、この場合は映画が終わる頃こちらも相当吸血鬼に肩入れしたい気分になってるのである種痛快でさえある。

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 吸血鬼もので僕が幼い頃衝撃を受けたのは、藤子不二夫の漫画『流血鬼』だった。
 この話は、吸血鬼になるウィルスが少しづつ世界に蔓延して、日常を侵食していく話だが、ラストにおいて根本的なひっくり返しが起こる。是非多くの人に読んでもらいたい名作短編だが、このひっくり返しがものすごいのは

 「なぜ、吸血鬼になってはいけないのか。吸血鬼は本当に悪なのか、それはすべて古い人類の思い込みなのだ、実は、吸血鬼になることは・・・」


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 というような形で善‐悪の概念がまったく転換してしまうからである。
 少年漫画でこれだけ見事にそういう価値の転換を表現したのがすごいと思った。

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 キアヌ・リーブスがひねくれたエクソシストを演じる「コンスタンティン」に関しては、あれだけぐちゃどろなシーンがあるにも関わらず、ラストは爽やかを通り越して崇高な気分にさえさせてくれる。やはりキアヌはハワイ語で「神の名に絶えず集中するもの」なんて意味の名前を持つだけのことはある。
 この映画の中では秘密の地下クラブのマスター「ミッドナイト」が均衡がすべてだ!と言う様に、「光」と「闇」はそれぞれの場所を与えられている。と、同時に光と思われる存在(ガブリエル)にも悪が宿り、闇と思われる存在(ルシファー)も、神によって動かされているという世界観が見事に描かれている。
 よくあるジャンクB級ホラーの雰囲気と、こういう深い哲学がいったいとなって描かれてるのが「コンスタンティン」の魅力だ。


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 スティーブン・キングはホラー作家だと認識されることも多いだけあって、「IT」では恐怖を存分に描ききっている。一応映画化もされてるけど、いかんせんあの短さと内容だと原作のすばらしさの10分の一程度しか感じることはできない。まあ原作は分厚い単行本4,5冊くらいあったので気軽に読める代物じゃないかもしれないけど、一度はまれば最後までそれほど苦痛なく読める。僕は二、三回通読した。

 キングは「ショーシャンクの空」の原作「刑務所のリタ・ヘイワース」や、「スタンドバイミー」の原作を描いているところから観てもホラー作家という枠ではくくれない。オールジャンルの物語作家で、日本で言うと栗本薫とかに近いのかもしれないと思う。

 ここまで書いてきてやや自分でもわかってきたが、「闇」をどう位置づけるかによって、後味がいいホラー映画かどうかが決まるようだ。「闇」だけが描かれ、希望や、明るさ、愛、人間の強さが描かれないものはもちろん後味は良くない。これはホラーだけに限らず幅広いジャンルで言える。

 僕が見たいのはどうやら超自然的な「闇(悪)」が登場しつつ、それが「光」とバランスしたり、克服したりされるような映画らしい。うーん、これはすでにホラーとは言えないのだろうか・・・。「じゅおん」みたいなのがホラー作品の代表とするならば。
 「IT」において、ペニーワイズという化け物ピエロと対決する子供たちはみなどこかに問題を抱えている。ある種こころに闇を抱えているのだ。ペニーワイズは、そのそれぞれにとってもっとも恐ろしい姿となり、彼らの恐怖を増幅させて、闇の中に飲み込もうとする。

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 それに対して彼らが武器とできるのは、一言で言うと愛や喜び、友達やガールフレンドへの愛や、そして彼ら自身が夢中になっているもの、好きなもの、新しい自転車で坂を走り降りるときの興奮、そういったものなのだ。

 ということはそれはすでに物理次元の戦いであると同時に、精神次元での葛藤、愛と恐れとの相互作用なのだ。
 「IT」のストーリーを思い出すと、なんかSEのトラウマの渦とリソースの渦の相互作用みたいだなと思った。
 現実的な脅威に、そういったものは短期的には役に立たないかもしれないけど、精神次元での恐れに対しては、「愛」は必ずそれを中和する。キングはそれを「It」で感動的に描いているように思う。 

 ということで、どうも僕は自分の中の「闇」がうまくバランスされるような映画を、癒しを求めて無意識に探してたのかもしれない。

  これから暑くじめじめしてきますが、怖いものが観たくなった時は、ぜひ上質なホラーを!

  癒されるホラーがあれば教えてください(笑)

知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/29 22:02

台風の目



 現象世界はみな回転し、変化し、構造体を形成し、二極対立することにより、生成化育・進化発展し、創造され破壊される。
 すべてはらせん状に上昇しつつ、永劫に回帰する。

 すべての構造体は、また回転体であり、振動体である。

 原子・分子・細胞・微生物・鉱物・植物・動物・人類・惑星・恒星・銀河はすべて回転体だ。

 現象世界のものはすべてある一定のサイクルに応じて、発生し、消滅し、繰り返される。繰り返される回転運動はすべてらせん状であるため、そのたびに新しい側面を持つ。

 人の心身という構造体においては、すべての体験、その個人にとってのよろこびと悲しみ、愛と恐れのパターンは周期的に繰り返され、かつらせん状に進化・変容する。

 それらすべての回転体、構造体は台風のようなものである。

 その回転は不動の軸により支えられている。動かない中心だけが、この回転を支え、発生させることができる。

 動に対しての静が無ければすべてはありえない。

 すべての変化の支点はそれ自体は変化しない。

 そしてすべての回転体・構造体はこの不動の支点を中心に、かりに現象化されている。

 回転体の内部にいるときはその中心にのみ静寂があるように思えるが、回転体の外部においては静寂しか存在しない。

 そこは父なるものの住処だ。

 この不動の中心と一体化し、無為を生き、衣もまとわず生きるもの、座すものは賢者・聖者と呼ばれた。  

 一方、回転体の渦に自ら飛び込み、父と我を忘れ、あらゆる衣をまとい、歌を歌い、愛を交わし、創造と破壊、生成化育の遊戯に関わるものは愚者と呼ばれた。

 またこの回転体の中で自ら変化と遊戯、進化を生きつつ、あらゆる衣を身にまとい、歌を歌い、子を産みながらも不動の中心と共にいる「踊るものたち」はバクタ、あるいはタントリストと呼ばれた。 

 彼らは愚者たちと同じように自らがただ回っていることは知っていたが、どこを中心に回っているかも知っていた。

 彼らは自らの踊り相手が誰であるかを知っていた。  

 動かぬものがあるからこそ、われらが回り、変化し、踊っていることを知っていた。

 それがゆえに、彼らの回転する生は、祝福と喜びに満ちたものとなった。


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知覚、リアリティetc | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/05/28 23:15

情報断食実践篇②


 情報断食の続き・・・テーマがばらけて長くなったのでふたつにわけました。


 ■ ニュースエフェクト


 これは実践する前からなんとなく感じていたことだけど、情報の中でもメディアを介したニュース的情報というものが、結構意識をブレさせる要素が強いということだった。それは、どういう種類のニュースであるかは関係ない。とにかくニュース的なもの。
 事件、事故、政治、経済、国際情勢、はては天気予報にまでいたるまで僕にとっては同じような性質を持っている。
 その特徴のひとつは、あたかも「あんさんががなにしてようが無関係に、世界ではこんなことが起こってまっせ~。これはしっとかへんとあきまへんで~~!えらいことなりまっせー」(大阪弁に偏見はありませんが)というように一方的に誰かさんがその重要度を選択したニュースをこちらに押し付けてくるということだ。
 
 確かにテレビなんか見てて、「緊急ニュース速報です」とか「たった今入ったばかりのニュースです」とかいわれると、「お?なんだなんだ~?」と心理的に前のめりになってしまう部分はある。
 しかし、本当に知っておかなければならない情報がどれくらいあるのか、かなり疑問である。そのほとんどは、知っていても知らなくてもほとんど実際の生活に影響しないと僕には思える。加えて、時には故意に誤った情報を流したり、ミスリーディングしようという操作さえないとはいえないからそうなるともう不正確な情報を現実と思うよりは、「見ないほうがまし」ということになる。

 本質的にすべてのニュースには、それと相対している自分の人生や、直接的リアリティを弱い立場に置き意識を眠らせるような作用を伴ってる気がしてならない。

 ST●P細胞の発見者がうそをついてるかどうかんて、全国民が考える必要がないことだ。
 当事者や医学の発展にとっては重要かもしれないけど、何も、今この瞬間、全員がこのテーマを考えなくてもいいでしょう。
 ところがニュースという場は、そういった個々のイベントは誰もが、それについて一家言持ってないと、時流に乗り遅れてるような雰囲気を醸し出す。全員で、これについて「さあ一緒に考えよう!」ゲームをさせられるのだ。そのへんの雰囲気が僕にとっては結構不気味だ。インタビューでマイクを向けられるとみんな結構良識的なことを答えている。ああーこういう感じになんなきゃ駄目なのねと思わされそうになるけど、ただ「興味ないです」「どうでもいいです」と答えた人たちは放送してもらえないというだけなのだろう。だが、興味ないです派を無視すると、まるで世界中があたかもその情報で大騒ぎしてるような印象を与える。これがニュース的リアリティのウソなのだ。無風地帯にいる人たちを無視していること。
 ニュースは、いつの世でもリアリティではなく、ニュース的リアリティを放送する。

 
 これは、メジャーソースのニュースだけではなく「ネットだけの情報」というやつも同じだ。メジャーソースでは流されない、こんな驚くべきことが世界では起こってる!系の情報もそれは同じで、今・ここ・自分を置き去りにしてしまうような作用を持っている。
 ということでアセンション系、アースチェンジ系の情報ももちろんカットし、なるべく世界は「ここ」だけという感覚を強めることにした。

 ニュース系だけは、結構意識的に全部ハジく。電車のドアの上のニュースをぼーっと見たりもしない。

 情報断食も半ばを過ぎた頃、仕事で外出中、たまたま薬局に置かれたテレビから「チリでM8,2の地震発生 日本にも津波の可能性」とかいうニュースが流れててげげっと思った。なんだか、こういう情報断食中に限り、引きが強いニュースが起こってたりしやすい。通常なら僕の中のアースチェンジ小僧が騒ぎ出すところだが、一緒にいる人に「うわーM8ってでかいですねー」というだけに留め、その後の情報も追跡しないことにした。 

 夜から雨が降り始めたが、天気予報も見てなかったので、傘も持ってきてなかった。
 うーん、どうすれば天気予報はみないけど、雨に濡れることを防ぐことができるのか。
 約0.001秒ほどですばらしい答えが閃いた。そうだ!折り畳み傘をリュックに入れておけばいいのだ!(笑) 
 雨が降ること前提で準備しておけばいい。
 天気予報で傘を持ってくかどうか決めなければいい。
 また夏に近づくとゲリラみたいな雨も降るだろうから、雨合羽も入れておけば完璧だ。

 明日寒いか暑いかは、明日の朝に自分の肌で感じればいい。
 
 地震もこれと同じで来ること前提で準備をしておけばいいんだろうと思う。
 予想とか、予言とかなんとかがあるから無駄に振り回される。
 正直、いよいよ来るぞ、来るぞー祭りには疲れてきた。
 地震もほかの天災も、来てからが勝負、来るまではなるべく考えないようにしよう。
 でも来ること前提で準備はしよう。
 いつ降るかわからないけど、必ず降る雨と同じように。

 そんな風に思った。

 うちに帰って漫画読みながら、ビール飲んだ。 


 ■3・11のない世界


 ふと思いついたことだけど、3・11が起こったことを知らないという人も日本には計算上数パーセントは必ずいる。

 幼すぎて理解できない赤ん坊や子供、知的障害や精神障害の人、同じように理解力を失ったお年寄り、山の中にこもっていたり、テレビもパソコンも家にはないし、人付き合いもないという極端な生活スタイルの人などである。数パーセントと言えども数百万人である。百万人は確実にいる。(日本の新生児人口約100万人、0歳~5歳までの合計が600万人。これに障害者お年寄り、極端な人などを加えると一千万人近くなるかも。10人にひとりのレベルだ)その人たちの意識内では3・11は存在しないのだ。
 僕らがこれだけ頭を悩ませ、悲しみ、政府や電力会社のシステムに怒り、怯えてもいた出来事が百万人の人々にとっては存在していない。
 僕らのリアリティは一般的な知性と常識を持つ、成人を対象としたものでしかない。

 3・11の日、ボロアパートの倒壊を危ぶみ、公園に避難した僕の目にはグランドで元気に遊ぶ子供たちの姿が見えた。
 彼らの目にはこの出来事の巨大さが映っていない。
 何かそのことにある種の救いのようなものを感じてる自分がいた。
 きっとたくさんの人たちが、それを知らない存在の、明るさに助けられただろうと思う。
 
 震災の直後宮城の方から、地震直後は停電などでテレビも何も見られなかったけど、情報が入っていろいろなことがわかるようにったときよりも心が落ち着いていたとコメントをもらったことがあった。

 3・11の災害史上例を見ない悲惨さは多く報道され知らされるけど、3・11を知らない存在がその期間どのような平和を生きていたかはもちろん知らされない。情報の無風地帯にいる人たちはその間どんな現実を生きてきたかを。でもそのパラレルリアリティをちょっと想像して、体験してみたい。そこにはどんな風が吹き、どんな考えが踊っていたのだろう。

 僕はもしかすると、体験してきたことと、単に情報として知ってることをもっとはっきり区別したほうがいいのかもしれない。

 3・11も知らない
 中国も北朝鮮も
 靖国参拝も
 冷戦も知らない
 原爆の投下や
 奴隷制度も知らない
 
 そんな存在の瞳が醜いとは僕はどうしても思えない。
 それは僕らがあこがれる瞳で、愛と共に、神とともにある瞳だと思えてならない。
 「知らない瞳」は安らぎを知ってる瞳だ。
 何も知らないのに知性を感じるのはそのためだ。

 このことにより少なくとも、「知ってること」と「知らないこと」は等価であるとは言えるだろう。 

 ましてや「知らないこと」を罪としてはならない。これは「知るべきだ」とある認識構造、リアリティを人に強要することはできない。知らない存在のかわりに、知ってる僕たちが世界について考える必要があるとしても。

 知らない存在たちは、やがて成長し、悲劇を知るようになるとしても。

 知らない存在たちの愛は、様々な形で、むしろ知らないことによってこそ世界に貢献できるのかもしれないから。

 知らない存在たちがいたからこそ、人類全体の心の平和が保たれてるのかもしれないから。

 一定数の知らない存在たちがきっと僕らには必要なのだ。

 「知」と「無知」のバランスはもうとられている。

 一度知ったことを忘れるのは容易ではないが、少なくともそれらを幻影として退ける自由が僕にはある。

 少なくとも、この瞬間は。

 この瞬間に平和を感じなければ、平和は永遠に訪れない




知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/04/11 21:27
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