卵の中の黄身

我もなく うつし世もなくなにもかも  神の中なる 神のあらわれ  BYダンテス・ダイジ

光/愛


 例えば、心霊学者等は言うわけよ。そもそも何とか霊界から出て来てね、そして死んだ後には、またそこに戻るというようなことをね。

 でもそれはね、本当の部分じゃないんだよ。人間の表面的な性格を形作っているある部分が、霊界へ行ったり現象界へ来たりするだけなんだ。
 いい?

 本当の俺達っていうのは光なんだ。だからどこから来てどこへ行くっていうことの答えは、光っていうことなんだ。
 それは来もしなければ、行くこともないんだ。
 いつでもいっぱなしなんだ。

 いい?

 そしてそれはさ、光と言う言葉より、もっと正確な形で言えば、光っていうのはシンボリックな言い方だからね。
 それはそのものずばりで言えば「愛」なんだ。

 人間は愛の中から来て、また愛の中へまた帰ってゆくんだ。
 しかも、愛の中から出て来ながら、その、一緒に愛といるんだ。

 愛が愛の中から出て来る。
 いい?
 君という愛の中から愛という子供が生まれるんだ。



 雨宮第慈 十三番目の瞑想



ダンテス・ダイジ 超宗派的瞑想 序文

 瞑想の窮極において、一切の現象は終息する。時間、空間物質は仮象であり、その本来の無に帰し去る。
 瞑想には自己と世界とのあらゆる対立抗争は存在せず、それゆえいかなる人間的争いも苦悩もない。
 瞑想そのものは、どのような制約限定をも越えた愛と歓喜の広がりであり、そこに、私達は久遠の自由を生き、またあらゆる愛を生きている。
 様々な瞑想行によって私達が純粋に瞑想自体を体得してゆくに従い、私達は、絶対の愛や安心や自由が何であるかを知る。
 瞑想には何ものも存在せず、何もないと認識する自己も存在していない。しかも、瞑想は瞑想自体で久遠の光明を自覚している。
 私達は瞑想においてあらゆる自由を生き、不安と不満とによってエゴイズム的に成り立っている現代物質文明の暴走を否定超克する。
 不安と不満はいかなる物質的繁栄によっても解消することはない。不安と不満との原因である個的自我という妄想から私達は解放されねばならない。その時、私達は無我の限りなきさわやかさを生きる。

 西洋的都市文明の物質的暴走は、不安による逃避的あがきをくり返し、今その終末を向かえている。
 物質は本来私たちの肉体生命を維持するのに必要なだけあればよいのであって、物質が私達に本当の幸福をもたらすことはない。
 農業こそが、もっとも非エゴイズム的な文明形態であり、この現代商工業都市文明が、その物質的暴走ゆえに崩壊したあとに、農業重視の新しい精神文明が起るであろう。農業は、私たちの肉体生命の基礎であり、商工業都市文明には存在しない。
 個的自我という妄想から自由である私達は、欲望と不安とから解放され、もっともあたり前に農業を尊重する。

 私達はあらゆる経験の中で、現実そのものに何の恐れもなく直面し、自我意識という妄想の非存在を確認する。
 坐禅も祈りも、感謝報恩も、現実の絶対性の前に無心になることもすべて、愛と自由の瞑想そのものの自己開示なのである。
 私達は、夢も理想もエセ・ヒューマニズムも、理屈思想もいらない。あるがままの無想無我なる私達は何ものに制約されることもない。
 自己も世界もない世界には平和運動などという欲求不満のヒステリー的暴力も存在せず、ただありのままの平和を私達は生きている。


崩壊と成熟

 メンタル・レベルの
 マニピュラ・チャクラから
 アナハタ・チャクラへの上昇が、
 この西洋商工業都市文明の
 成熟テーマであるとともに
 ラスト・チャンスでもある。


 西洋文明終末期の
 最終的な崩壊と成熟の
 人間性のプロセスは次のようになる。

 1、マニピュラチャクラの否定。  
   すなわちエゴ・トリップの頽廃。

 2、ムラダーラ・チャクラへの退行。
   すなわち、セクシャルな事柄や麻薬の流行と、その反動としての超管理社会。

 3、死もしくは狂気についての狂気的関心。あるいは、その反動としての社会的平和や宗教への熱狂。あるいは戦争と暴力。

 ここまでで、ムラダーラチャクラへの退行の試みは、終息する。
 つまり西洋文明の実質的崩壊である。

 4、だが一部分では、
   この崩壊を乗り越えて、真の成熟過程が進行する。

 5、死についての非抑圧的な正常な関心。

 6、そして
   メンタル体、アナハタチャクラの爆発。すなわち超越的な慈愛と、純粋な瞑想行為の発現。


 
 ダンテス・ダイジ 『アメジスト・タブレット・プロローグ』

愛は愛を

 月並みな言葉だが、ねえ、あんた、愛は愛を愛している。


 BY DJ

愛と自由

 例えばさ、愛、安心、感謝、それから喜び・・・これらっていうのは修道院のなかで本当に清らかな生活っていうのを送って、キリスト様でもなんでもこうやって祈ってただひたすらに信じるっていうことを続けて行けば、必ずわかってくる。

 ところがこういう人が巷に現れたとするよ・・するとそこでさ・・なんでもいいや、男同士が抱き合ってる姿を見るとかさ、マリファナかなんかぷかぷかふかしながらロックビートかなんかにのって、こんななってるところ見るとかさ、酒をがぶがぶ飲んでる姿を見るとかって言うときにさ、彼女、あるいは彼修道士としてものすごく清らかな人はさ、入っていけないわけ、その世界に。

 それは彼、あるいは彼女が、その世界はいい!としたものなんだ。彼または彼女はその修道生活に生きてる限りはその喜びを味わって生き続けることができるんだ。だけどそれは、神の半面に過ぎないわけ。そこには恐ろしさがないわけ。その世界の中では死でさえ恐ろしいものではなくてさ、帰っていくものに過ぎないわけ。だから死体は一番清らかに安置されればすむものなんだ。そこでは死体が腐ってくるということが決して起こらないわけ。死体は腐って、実際は腐敗した匂いを漂わせることがある。それから腐って骸骨になって、得体の知れぬ塊になってしまう。そういうものっていうのは見る必要はない、愛の世界では。

 それは「高さ」なんだ。人間の「高さ」なんだ。「高さ」に必要なものはね、ただものすごい「純真さ」だけなの。
 ところが「深さ」っていうものがある。「深さ」の一番の根源は「自由」なんだ。「自由」っていうのはまさに出入自在なんだ。何が来てもさ、こなせるものなんだ。どんな悪人を見てもさ、平気で奴をさ、乗せることができるんだ。

 例えばこういうことがあった。僕が仏教学をやってたときに多少出来た教師がいたんだけどさ、その学校に通ってる生徒の父親が大酒のみでさ、ひどいんだ。で、彼は仏教僧だったわけ。仏教僧でものすごく清らかな人でさ、本当に澄み渡ってるていう感じの人だった。でその人が一度彼を説得しようと思って尋ねていった。そして彼はそこへ尋ねて行ってさ、お互いに感謝っていうものを持って、お互いに拝みあって暮らせばこんなことも起こらなくてすむんですよっていう意味のことを言ったわけ。で、それはまさに彼の真実から出てるんだけど、その大酒のみはかんかんに怒ってたたき出しちゃったわけ、その僧侶を。

 で、俺はもう一人知ってる人がいたわけ。奴は授業をやりながら禅を教えてたんだけど、その人にさあの仏教の教師が追い出されちゃったから、あなた行けば絶対いいって言ったら、彼言ったの。
 そしたらそのあと非常に円満になっちゃってさ。奴のやり口っていうのはどういうのかっていうと、まず一升瓶ぶらさげて行くわけ(笑)。そして二人で酒盛り始めてね、延々と飲み続けてさ、そのうち奴の持っているどうしょうもない汚い世界・・・裏切りがありさ、嫉妬がありさ、そして空虚でありさ、虚しい、醜悪な現実の人生を彼と共有することによってさ、この世の一切の醜悪なものを、醜悪なものとして話せたときさ、それを越えてるものがあるってことを確認させることが出来たわけ。それも確認させるなんていう意識を全く持たないで。

 だから、あとから行った奴のほうには自由があるわけ。そう、もしかしたら愛とか、感謝とか清らかさにおいてはとても前に行った仏教僧にはかなわないかもしれない。だけど彼には泥沼をも入っていくような自由って言うか力があったわけ。

 で、宗教団体でもね、純粋な霊的な修行の場所でもね、愛のほうから迫っていくのとね、自由のほうから迫っていくのとタイプがあるわけ。そしてデバインライトなんかだと非常に愛のほうから迫っていく。だから出られなくなっちゃうんだシェルターから。外へ出ると、怖くてしょうがなくなってしまう。中に入ってると清らかでいられるから、ほのぼのとしていられるから。でも一歩外に出ると予期せぬことが無数に起こってくる。

 そしてまた禅宗なんかの場合だと、「自由」一本やりで行くからね。もう最初からぶっとばすは、なんかっていうひどいことがあるわけ(笑)でもそういう人はね自由に飛びすぎて、えらくしみじみとしたものを忘れがちなところがある。

 でも断っておくけど、「愛」が本当に行くところまで行けば、それは「自由」だよ。それは、つながってきてしまう。ただ人間はどうしても部分的にしか受け入れることが出来ないからね、だからそういう風にふたつにわけて説明したんだ。



ダンテス・ダイジ Meditation in KOREMASAより


有想三昧と無想三昧

 俺たちが絶対そのものになったら、絶対って言葉はもう必要なくなっちまう。だけど実在のひとつ手前がね「菩薩」って言って一番大切な場所なの。なぜならそれは人間と神とをつなぐものだから。神の子たちの世界だから。

 そして・・・いいよ、実在そのものになったやつなんて、全部向こうに任しとけよ。あんな奴ら、なんの役にも立たないから。オレもなりかねないけど・・・とにかくなんの役にも立たない。とにかく充足して宇宙の一切と、同時に存在しているだけだ。

 で、一番素敵なのはね、生きていて、生きるって言う意味とさ、生きるものを越えてるっていう意味を同時に持ってるのは、その中間に位置している存在なの。
 
 その人にとって「絶対」があるわけ。絶対の愛の喜びっていうのがある。絶対の自由の触れ合いっていうのがある。で、それを有想三昧っていうんだ。無想三昧と有想三昧と分けると。

 ラーマクリシュナがまさに嫌ったところっていうのはさ、実在そのものになってしまうことなの。弟子のヴィヴェーカーナンダに言ってるでしょ?「お前、絶対ニルヴァーナは経験するな・・・」って。ニルヴァーナ、無想三昧なんかに入ったってなんの役にも立たない。

 だって、それは死ぬことなんだよ。すべてが終わってしまうことなんだ。完全な死って言ってもいいね。肉体の死でさえない、完全な死だ。

 例えばシャカがね、無想三昧っていうのを知ったとき、説くのを止めてもう死のうと思ったっていう伝説が残ってるでしょ?

 つまり全く、それくらい人と関係ないんだ。多くの人と。おそらく、人間の99パーセントと無関係の話しだよ。いい?だって人間の99パーセントは何を求める?
 深いふれいあいでありさ・・・触れ合いじゃないか?何より。
 で、それは物語なんだよ、ひとつの、美しい。触れ合いの世界っていうのは。

 そしてシャカの行き着いた世界、つまりニルヴァーナの世界っていうのはね、触れ合いが全くない世界。それは触れ合わないって意味じゃないよ。触れ合うことも、触れ合わないこともない世界だ。
 始まりも終わりもない世界だ。

 でもたいていその世界を知ったとしたら、(そこへ)入る人はほとんどいないだろう。なぜならその時突然こみ上げてくるから。愛が、慈悲心が。

 だってねこの世に物語がなかったら、神はこのマーヤの世界を作る必要はないもん。いろんなものがあったり、いろんな出会いがあったりさ、合わさったり、離れたり無数の物語があって・・どうしてそんなことやってる?神は戯れるのが好きなんだ。



ダンテスダイジ Meditation in KOREMASA(1978)より

 いつでも家の中にいるよ、今君たちは。

 だから君たちが疲れたらいくらでも安らげる。それからね、君たちが死ぬっていうことは君たちがパーフェクトな理由なの。

 おかしな言い方かもしれない。それはね、君たちの命が君たちの自分勝手な方向で出てきたんじゃないっていうこと。既に君たちは、与えられて出てきてるんだってこと。

 人間が死ぬっていうことは、人間の悩みの原因なんだよ。

 例えば死そのものが目の前に現れた時にどうするかってことさ。

 その時ね、自分っていうものの観念を持っててさ、自分て言うものを保っておこうと思っていたらね、死はあり続けるよ。

 なぜなら死って言うのはね、自分と宇宙との摩擦の間に起こる幻だから。その時宇宙そのもののパーフェクトって言うものを認めれば、死は消えるよ。もともとひとつながりの命であってね、それが君たちになっていることがわかる。

 自分勝手なものは通用しないんだってことを教えようとしたわけ、宇宙は。つまり何をそんな頑張ってんのって言うのさ。
 


DJ講話「世界はいつもパーフェクト、人は、」より








 『まことに、まことに汝らに告げる

 汝らを産みしものなる神に その愛のすべてを捧げよ。

 次にすべての隣人たちにその愛を捧げよ。

 君たちはよく思う。神に愛を捧げたら他のものが台無しになるんじゃないかと。そして他のもの全部を台無しにしている。

 神って何?すべてだ。

 君たちがすべてに愛を捧げたら、君たちの当たり前の人生が台無しになるんじゃないかといつも怯えている。

 が、そうじゃない。

 君たちを産んだものが、まず第一にある。

 君たちの心臓を動かし、君たちの頭に様々な妄想を感じさせ、君たちの感覚を働かせている、そのものがまず第一にある。

 それはいいといっても悪いと言っても始まらない。

 あるんだ!

 そして、その愛がすべてになれば、他の事は全部整っていく。

 夫婦関係だろうと、セックスだろうと、必要なだけの金だろうと、必要なだけの地位だろうと、必要なだけの安心だろうと・・・。

 ところが君たちは、まず最初に外側のごちゃごちゃしたものを一生懸命つかもうとする。そんなことしていたら永遠の時間があったって、そこに行き着くことなんか決してないよ
。』

ダンテス・ダイジ 1980年 青梅での講話より














人のからくり

 ダンテス・ダイジ「老子狂言詩集」より

 人のからくり

 肉体→エーテル体
 エクトプラズムは、エーテル体の流出のことであり、
 肉体とエーテル体は、死とともに崩壊する。
 エーテル体は、漢方医学の無数の経らくに相当する
 
 アストラル体

 7つ、あるいは10個の光りかがやくチャクラからなりたつ
 死後にも一定期間存続する 本人と相似している光明体である。

 霊体(メンタル体)
 
 人間の最初にして最後の個性であり、永遠不滅の
 実相身である。
 各人各様の形象をとっていて、一定の型を持っていない。
 原型イデアである。
 キリスト・ブッダ・クリシュナなどの霊体は、絶対無・絶対光・変幻自在である。善人においては、そのイデア相応の最高の美的形象をとった人間的な形を持っている。悪人においても、その裏返しとしての最高の形を持っている。
 サタン・ルシファー・悪魔などの霊体は絶対無・それ自身で完結している絶対の暗黒・そして変幻自在の形象をとり得る。
 そのイデアは、鉱物に近いといってよいだろう。

 神の化身としてのアヴァタラと、悪魔の化身としてのサタンの実相身は、
そのイデアの面から見れば、他のあらゆる人々の霊体と同様に絶対的な原型であることに違いはないが、 
 神の化身は、悪魔をも包むことができるが、悪魔の化身は、神以外のすべてに変容することができても、神・絶対全体にだけは成ることができない。
 もっとも、神も凡人も悪魔も、たいした差のありようはずもない。

 神・すべてのすべて
 そういうわけで、
 神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである。




『超宗派的瞑想』

 ◎象徴的観法

 密教における観法や谷口雅春師の神想観などは、この象徴的観法としての側面を持っている。
 前述の潜在意識のコントロールとしての観法は、あくまでも、個人の部分的日常的運命の改善ということにとどまっている。それはあくまでも部分的自己実現としての観想法であって、人間自我の超越による自在性という面は少ない。
 これに対して絶対者を象徴的にイメージ体験するこの象徴的観想法は、その人の全生活的な改新を自然的にしかも全体的に実現していく。その人の人格霊格のレヴェル自体が深まり高まるのである。

 さて象徴的観法には、個的神霊を観想するものと絶対神の属性を象徴的に観想するものとに、今仮に別けることにする。
 個的神霊を観想するというのは、釈尊でもキリストでもクリシュナでも日蓮でも達磨でも、その他、特にその人にとって強く心底から感じられる守護神霊を念想し、観想するのである。極端に言えば、尊敬する現存の人物でも恋人でもよいとも言える。
 例えば、釈尊を、観想念想することにより、始めは、空想程度にすぎないものが、やがては、はっきりと目前に実在するかのように感じられるまでになる。さらには、自分が釈尊そのものであるという状態にまで到る。
 この時、冥想者は冥想が深まれば深まる程、その全日常生活と全人格の中に釈尊的徳性と光明とを全般的に具現化していくこととなる。
 あなたは、キリストでも釈尊でもを、観じていきつつある時、ついに、キリストのあるいは釈尊の臨在を直下に感じるまでになるであろう。その時、あなたは随喜の涙を止めることあたわずという心境になる。あなたの高次元意識が開かれたのである。

 絶対神の象徴的観想というのは、例えば、光明とか無限力とか知慧とか大安心とか歓喜とかをこの宇宙いっぱいに限りなく広がっているかのように心眼で、冥視するのである。
 その絶対神のイメージの観想を続けて行くことによって、あなたは、ついに自分の個的自我や肉体が、例えば神の無限の愛の中に溶けていくように感じられるようになる。
 このような神の象徴的属性とのゆう溶合体験は、あなたの全人格に強烈な刻印を押すことになり、冥想からでた後も、あなたの心と行為とを、常により高い方へと自然的に誘導することとなるのである。
 そして、ついには、あなたが、最初に絶対神の単なる象徴的観念的属性にすぎないと考えていた、愛・安心・智慧・力・自由といったものが、超概念的な実存であることを覚知するであろう。
 しかも、絶対神の象徴的属性として観想していた、例えば無限愛という想念が、結局は宇宙意識そのものであり、そして、無限愛の中に自己忘越した冥想者は、そのまま本来の自己自身が、無限愛そのもの、すなわち宇宙意識自体の自己観照であることを悟ることになるのである。
 この絶対神=宇宙意識の自己観照の冥想は、そのまま無想三昧、ニルヴァーナの極地へと帰入していく。
 潜在意識的冥想体験=トランスは、それが深まれば、結局、宇宙意識的冥想=大三昧の発得となるのである。
 密教における大日如来への観法も、その窮極は、絶対無の独存である。


 (5)無想法

 無想冥想法は、万物万象の全面的絶対否定から始まる。
 道元の只管打座・・・すなわち非思量底の坐禅がこの無想法である。
 無想法に入るには、まず日常生活は捨離されねばならない。日常生活即仏法というのは、絶対無から帰還した後の言葉であって断じて、大死一番をせぬ前に主張されてはならない。

 「生きながら死人となり果てて
  思いのままにするわざそよき」至道無難

 生きながら死を直下に体験するのが無想法の要点である。

 時間、空間、物質、現象、宇宙・・・これらは、すべて人間の観念が仮作した仮象にすぎず、マーヤー(根本無明)である。

 「本来もなきいにしえの我なれば
  死にゆく方も何もかもなし」一休

 何も存在していないという観念ではなく、何もかもないそのもの自体が、そのもの自体を自己覚知するのが、無想法の要領である。

 この世は生死の世界であり、その生死の相対性こそが、あらゆる苦悩の根本原因であるゆえに、冥想者は、自己もこの世も、ともに捨ててしまうのである。生きたり死んだりするものは実在ではない。

 「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」三法印

 何もかもないそのものの絶対的充足が涅槃そのものであり、そこから、時間、空間、あらゆる現象が、仮に生滅滅起している。

 「色即是空・空即是色、色是色、空是空」

 ◎無の観想法

 これは、冥想者に生ずる、あらゆる意識現象とあらゆる現象存在とを、全面的に無化してゆく。ヨーガでは、「ネイティ・ネイティ(これでもない)」という無についての観想である。あらゆる現象を、「何もかも無し」と切り捨ててゆくのである。
 三法印あるいは、色即是空についての冥想をしてもよい。
 いずれにせよ時節熟せば、自己の思念自体が、絶対無の中に解消しているのを悟るであろう。それは、超時空的絶対充実である。


 ◎一念無想法

 臨済の公案における「無」三昧への冥想、あるいはヨーガの「ブラフマン」マントラの読呪三昧などが、この一念無想法である。一念集中とは、思索活動の停止であり、全心全霊をもって「無」なり「ブラフマン」なりになり切るのである。
 「無」についての念想ではない、ただ「ムーッ」と無そのものを念ずるのみである。
 これは、「ナムミョウホウレンゲキョウ」であろうと「ナムアミダ」であろうと「オーム」であろうと同じことである。

 「唱うれば吾れも仏もなかりけり
 ナムアミダブツ ナムアミダブツ」一遍

 すべてが一念になり、やがて、一念は一念それ自体のみとなり、やがて一念もないそれ自体の無限光明となる。


 ◎非想

 道元の言う非思量底の坐禅である。すべてを、ほっぽり出してただ冥想に居るのである。
 あらゆる意識作用、現象作用が、生滅しているが、それらを相手にすることなくただ冥想しているのである。
 じきに、その放下のまねをしていた坐禅が放下そのものの坐禅となる。
 意識は流れるにまかせる。現象は起こるがままにまかせる。そのまま、そこに冥想しているのである。




「超宗派的冥想」
P14〜16


『超宗派的瞑想』

   (2)無想法と観想法

 人間の志向性を仮に二つに別けてみよう。一つはこの世の一切に対する決定的絶望の実感によって起こる、自己と欲望からの解脱への願いであり、今一つは、この世の中にある様々なものに対する愛情、すなわち、それぞれの人の最深の欲望の実現への志向である。
 この世の一切のものに対する失望は、死や無常、不条理に対する徹底的な直視から生ずる。そして、この世のすべてに対する徹底的絶望は、人間を絶対無そのものの中へ、ただちに回帰させるのである。これが、無想法と名付けることのできる瞑想であって、そこにはいかなる人間性も、差別相とか無差別相とかいう差別も、もう存在していない。無想はニルヴァーナであり、鳥飛んで鳥の如しの世界である。

 これに対して、観想法と名付けることの出来る瞑想には、欲望、願望が存在し、希望の実現や理想が存在する。観想は、人間が、人間として、この世の中をいかに充実して生きるかということにもっぱら、その焦点があるのである。それは、意識のコントロールや、宿命の転換ということに係ってくる。観想という瞑想の一つの方法は、運命を改善するとか、願望を実現するとかいう、深層心理的な法則の統御なのである。
 仏教唯識説で言えば、観想法は、アーラヤ識を統御する極めて具体的な方法である。アーラヤ識は、この現象世界のあらゆる出来事を規定している。私達は、瞑想によって意識をアーラヤ識のレヴェルまで深めることによって、現象世界に現実化する様々な事柄を前もって操作し得るのである。そして、それぞれの人々が、自己の願望の形を実現化したいと思う、その原型的な願望こそが、それぞれの人に与えられた個別的使命とか、あるいは根源的業因縁とかいうものだと言える。
 人は、そのもっとも本質的な欲望を生き切ることによっても、ニルヴァーナすなわち、無想そのものなる純粋瞑想に回帰するのである。カルマヨーガやバクティヨーガは、このような、各人の本質的性向に結びついて成立している。



 (4)観想法

 身体を柔軟にし、深呼吸をして心を落ち着け、最も安楽な姿勢を取って瞑想に入っていく。慣れてくると結跏、又は半跏の坐禅的姿勢が、最も安楽に感じられてくるが、個人差も大きい。
 瞑想の姿勢をとったら、決して力んではならない。
 禅宗などのように、身体を堅く固定するような形で坐禅瞑想をする方法もあるが、それは、禅宗的修道法全体の中で有意義なのであって一般的ではない。
 今、ここでは、あくまでも安楽で、リラックスした、しかも決してだらけていない姿勢を取ることを瞑想姿勢としておく。
 また、瞑想中に、身体が自然に動揺することがあるが、それは気にする必要はない。姿勢は、不動でなければならないとする必要はない。そんな不動の姿勢は、旧日本軍にまかしておけばよく、私達は、とにかく自然さを大切にしなければならない。
 
 観想法とは、人間運命のコントロールと、人間の潜在能力の開発の面に重点が置かれた瞑想法である。これは、個人的潜在意識と集合的潜在意識との自由自在なコントロールをその要点としている。

 ◎運命のコントロール

 「心の最深部に定着した想念は、すべて現象世界の中に実現する。」
 これが運命を創造改善してゆくための瞑想の基本原則である。
 私達が瞑想の訓練を続けていると、意識の独特な深まった感じを経験する。これが、トランスさらには三昧の意識状態であり、それを感情的に表現すると、静けさ、安らかさ、明るさ、透明感、澄み渡った感じ、自己没入感などと言い得るであろう。
 このトランスあるいは、さらに深い三昧状態の中で、潜在意識は開かれた状態になり、この開かれた潜在意識状態の中で、明確に、観じられた想念イメージは、潜在意識の内容を変革し、新たに定着された想念イメージは、必ず現実の運命となって具体化する。
 このイメージを潜在意識=霊界の中に定着させる秘訣はそのイメージを具体的に全心身の感覚感動を持って観じ体験することであり、そのイメージの確実性を決して疑わないことである。
 観想にあなたが習熟すれば、あなたは、時空の隔たりを越えて、思いのままの世界を賞味し、そしてそれを現象的運命の中へ実現して行く。

 あなたが今、海辺に居る想念を観じたとすれば、あなたは、明瞭に、波打つ海を見、潮風の香りをかぎ、輝く陽光を肌に感じるまでになる。そして、その海辺の想念の潜在意識への定着は、あなたに現実的に、そのような素晴らしい海へ遊ぶ機会を与えるか、あるいは、あなたの態度と雰囲気の中に、海辺の潮風のようなさわやかさを常にもたらすことになる。
 その現象的実現化は具体的形式も、やはり、あなたの想念の中に込められている志向性によって決定されていくのである。
 あなたの本当に欲するものを、すべての束縛的条件を帳消しにして観想せよ、そして、それがすでに実現している姿を楽しめ。
 この現象世界は、どのようにも変えることのできる世界なのである。現象は永遠に無常であり続ける、その無常の世界の中に、様々な自己実現を創り出すのは、潜在意識をコントロールした瞑想者としてのあなたなのである。




ダンティス・ダイジ著 「超宗派的瞑想」
P7〜8 P13〜14



また新たにダイジの資料が・・・

 MIXIのダイジコミュのバトンで、また新しい資料が届いた。

 今回は、「メディテーション・トラベルガイド」
     「超宗派的瞑想」
     「老子狂言詩集」の3つだ。

 いずれも書店などではおそらく入手不可のもの。

 「老子狂言詩集」はダイジ氏の肉筆原稿のコピー。
 正直言って、字はきれいとは言いがたい。
 しかし、得体の知れないエネルギーに満ちている。
 というか、多分、何も聞かずに読んだら、壊れてしまった人の殴り書きと思い兼ねないくらいのところが酔い。まあ、最高にすがすがしく、ハッピーにぶっ壊れてることに間違いはない。

 
 「超宗派的瞑想」は「アメジストタブレット」などとかぶっているところもあるが、「観想法による運命転換」とかあまりダイジが語りそうにない内容が興味深かった。時期的には、沖縄の万松院で木村虎山師のもと、見性したあとというのはわかるのだが(出版も沖縄の印刷所になっている)、インドで「最終解脱」する前かもしれない。

 そして、メディテーション・トラベルガイド!
 
 この中の、「ダンティスの悪影響」という章を少し抜粋してご紹介させていただきます。ダンティスというのはアトランティス時代のダイジの名前だそうですが、ここではダンティスの霊的系統に属する者達が与えた「悪影響」について書かれています。




 『ダンティスの悪影響』


 中国の臨済禅宗の開祖・臨済将軍は、ダンティスの霊系に属する分身の一人だったが、こうしたダンティス・ケンタウロスの系流が、その逆説的な表現ゆえに、多くの誇大妄想狂や、デカダンスやニヒリズムや野狐禅者を産み出してしまう結果になったのは、各時代に現われたダンティスの分霊分身たちの言動の悪影響としての社会的事実である。

 これは、ダンティスの教示が、ステップや方便を越えて単刀直入に「現実」に言動せしめることからくる誤解であるが、ダンティスの系流はもちろん誤解や悪影響など知ったことではない。

 ダンティスは方便を好まない。ダンティスは聖者を好まない。ダンティスは人間的人格性と人間的努力を認めない。何故なら、こうしたものは、常に人を「あるがまま」ということの真意から遠ざけることになりやすいからである。

 それ故、無数の時代の無数のダンティス達は、常に戯れるものとして生きた。ダンティス・ケンタウロス、クリシュナ、臨済・・・。彼らは、本質的に己の真実を生きただけであって、宗教などという神聖極まりない何かすら余計なものであったと言うべきである。

 ダンティス臨済は、座禅や聖なるものや悟り解脱を見ることがない。本来、健康な人間に、病気からの回復の喜びなどというチンケなものはないのだ。

 ・・・・・・・

 こうして臨済録の中で臨済が、まるで座禅瞑想など無意味なもののように言ってしまうから、当時の中国の求道者の中から、好き勝手なことを人間的気分からするのが、究極の悟りだなどという考えが起こったり、馬鹿げた一喝を叫ぶ事が禅だなどと思い上がったり、このままこの肉体が仏だなどと叫んだりする者が出ることとなった。これが、ダンティスの悪影響の一つである。

・・・・・・・
 
 ダンティス臨済は言う。「そのお前の肉体が絶対の真実だ。」なぞと。
 ダンティス・マイケル・スミスは言う。「汝は神なり」と。
 ダンティス・クリシュナは言う。「アルジュナよ。君は決して生まれる事も死ぬ事もない」と。
 ダンティス・ケンタウロス・アメンティーは言う。「君達はもともと救世主である」なぞと。

 まったく、ダンティスの系流は、イージーすぎて、情熱豊かでない人達には、迷惑千万な話しであり、危険な事この上もない。
 事実、アトランティス文明末期に、十三番目の超人を廃業したダンティスが出版した「救世主入門」という小冊子は、多くの遊戯三昧者を覚醒させたと同時に、多くのデカダンスとニヒリズムを加速させる結果となった。

 臨済などはまだいい。彼は一つの禅堂の中で、その逆説めいた、その実、まったく逆説ではない教えを述べたからである。そこには時・所・位の中での一つながりに行道としての師弟関係があった。つまり、弟子は師の姿全体を見ることができたのである。

 しかし、アトランティスのダンティスは、時・所・位にお構いなく、あるがままの真実を、その場の人々に大安売りした。

 アトランティス密教の正統派トオスやエジプトのヘルメス、またはイエス・キリストや釈迦のやり方に比べると、ダンティスの系統が、ある意味でどんなに無責任であるかが知れようというものである。だが、ダンティスのこの「無責任さ」はどこから来ているのか。ここで、ダンティスがウルの都で出会った、アトランティスのチャールズ・マンソンみたいなラ・イグという名の青年に語った言葉を記すことにする。

 「一つの教えは、その時のその人に応じてしかありえない。

 どのような神秘不可思議な教えも、結局、愛と自由との確認につきるんだ。

 君が秘密結社のようなものを作って、支配欲という不安にかられた時は思い出してほしい。君が一番身近な愛をどんなにか忘れてしまったかを。

 君はもともと愛の救世主としてこの世に生きている。他のすべてのものも同様だ。

 そして、愛と自由は、君の思い込んでいる人間性の中にはない。

 君が救世主であるということは、君の永遠の自己訓練としてのみあり得る。

 あるがままのすべては救世主だが、あるがままである自己訓練ほど、君にとって恐ろしいものはない。それは、君のすべてを必要とするからだ。

 君は君のすべてを解放することによってのみ永遠の自己訓練つまり久遠の戯れを戯れることができる。

 死ぬことは、最も恐ろしいことだ。でも君、死になさい。


 そして、もう一度思い出そう。「救世主入門」の一番最後の章句を。
 これは君だけに語りかけている。「完全」は君以外の誰に代わってもらうこともできないのだから。

 「この本に書かれていることほど

  無責任なことはない

  この本に書かれていることを

  信じない方がいい

  書かれていることはすべて

  逆の意味かもしれないから




アメジスト・タブレット・プロローグのプロローグ

 
 奇妙なことに、
 いわゆるアトランテス文明滅亡以来、
 この約一万二千年間に
 人類は、文明という名に値する、
 文明を産み出したことは、
 一度もなかった。
 機械技術や科学が、
 どれほど発達しようと、
それだけでは、文明とは言えない。

 必然的に人類に平和と幸福を招来するであろう基本的前提が、この文明には、欠けている。
 基本的前提とは、
 生と死、自己と存在、欲望と幸福などの、
 非分析的な解明、非知性的な解答、
 非価値的な価値、
 すなわち、
 決して前提として把握することのできない完全なる基本的前提である。
 それは、真に生きることによってのみ実現されているといったものだ。
 あるいは、
 その実現が、真に生きること、真に死ぬことであるような何かだ。
 それが、見失われている文明は、
 決して文明の名に値しない。

アトランティス文明の頂点においては、
 神が生きていた。
 したがって人類も文明も、
 生きていたのである。
 その神が見失われた時、
 アトランティス文明は、
 巨大科学技術の自滅的な虚構集合物となって崩壊したのである。

 便利さ快適さは、
 決して幸福を産まない。
 能力や技術は、
 決して真実を明らかにしない。
 真実に到達するための、
 いかなる方法も修行も、
 あり得ない。
 だが、
 真実の中には、
 方法も修行も、能力や技術も、幸福も便利さ快適さも含まれている。

 純粋瞑想とは、
 真実が訪れるための
 非方法的な方法である。
 この純粋瞑想は、
 アトランティス文明の頂点において、
 一つの完成を持ち、文明化された。
 それゆえ、
 アトランティス文明であり、
 エデンの楽園であった。
 エデンの楽園と、その喪失とは、
 人間進化のプロセスとしても、
 読み取ることはできるが、
 それは、超古代史的な、
 史実でもあった。

 神を実現する方法の一つの完成体系を、
 アトランティス文明では、
 アメンティー・タントリズムと呼んでいた。
 いわゆる、エメラルド・タブレットとは、単に、アトランティス文明の黄金時代を指し示す粘土板のことではない。
 アトランティス文明の終末を予知した、
 アメンティー・タントリズムの覚者達の、後世人類へのタイム・カプセルの総称のことでもある。

 この現代の全地球上に広がっている西洋物質科学文明は、今や崩壊の危機の瀬戸際にある。
 一度も、神という実在の花を開かなかった文明らしきもの。
 まるでオルガズムのないセックスのようだ。
 科学の性質は別だが、その完成度においては、アトランテス文明の頂点と変わりない。だが、生きた神が一度も現われなかった不毛の文明らしきもの、人間が何であるかが、一度も実現されなかった文明でない現代文明。愛のないセックス。
 神なきゆえに、内的にも外的にも滅亡しようとしている現代西洋商工業都市文明。

 アトランテス文明は、少数の生き残った覚者達の手によって、
 神を実現する方法、
 アメンティー・タントリズムを、
 エメラルド・タブレットとして遺産とした。

 だが、この現代文明には、
 遺産とすべき果実がない。
 神を実現した人々は、
 余りに少数であり
 それは、
 今だ一度も、文明化されなかった。

 私達は、
 熱核戦争の下で、
 少数の後世の人類のために、
 アメジスト・タブレットを、
 残さねばならなくなるのだろうか。

 ちなみに
 アメジストとは、
 西暦二千年前後から本格的に影響を発揮し始める、アクエーリアスの時代精神のシンボルである。

 いずれにせよ、
 この書は、プロローグである。
 あなたが、神に目覚めるための、
 ほんのちっぽけな道標である。

 この文明らしきものの終末後、
 神に目覚めた、
 水晶の魂を持って、
 あなたは、
 まったく新しい文明を、
 産み出し得るだろうか?

 


 ダンテス・ダイジ著 「アメジスト・タブレット・プロローグ」より

amanogawa1.jpg




















 
















亡霊

 ダンテス・ダイジが南無阿弥陀仏を唱えていると

 竹富島の便所で首を吊った友人の亡霊があらわれた。

 非業の死をとげた友人の亡霊に

 一緒に死んでくれとすがりつかれた彼は

 「君と一緒に首を吊って死んでもいい」と応えた。

 彼は決して念仏で友人の亡霊を成仏させようとはしなかった

 私が君と一緒に死んでもどうなるものでもないと

 諭したりはしなかった。

 彼には彼の孤独が痛いほど、理解できたから

 友人と首を吊って死ぬ事は

 それは間違った選択かもしれないが、一番素直で優しげな

 人間が犯す間違いなのかもしれない。

 それは、融通無碍なあまりにも自由な優しさに見える。

 ダンテス・ダイジは確かに一度、竹富島の真夜中の便所で

 友人と首を吊って、死んだのだ。

 それくらいに彼は自由な、当たり前の人間だったのだ。





真心とともに

 真心とともに
 神とともに生きる事の悦びを
 忘れてはならない
 それだけが生きる事をリアルにするから
 真なる心なしには
 あまりに生は虚しい

 あの時 あの場所
 夢の中で・・・
 神を愛する熱い集いが
 あった
 皆が神のいとし子であることの
 意味を知っていた

 真心とともに
 生きたいと思った
 ただただ、真心とともに
 ありたいだけだった
 そのために僕は、生まれてきたから

 いろいろなオモチャやガラクタ
 を捨ててしまえたらいい
 真心を失ってまで
 手に入れるものなんてなにもない
 
 新しい一日に

 神よ、在れ
 こころよ、在れ
 愛よ、在れ




 夢の中で、ダイジを囲む集まりの中にいた。

 僕はあまり感じないような高揚感を感じていた。

 それは、本当に最高のものがそこにある時に、自ずから沸き起こる感情のように思えた。

 いつも神といい、魂といい、そういう言葉で語っても抜け落ちている「聖なるもの」への想いがその時にはあった。

 夢の中のダイジはこんなことを言った。

 「君達は、俺の心の中にいる。

 君たちはみんなで『父の意識』を構成している。」と。



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  • Author:はいたか鳥
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