卵の中の黄身

我もなく うつし世もなくなにもかも  神の中なる 神のあらわれ  BYダンテス・ダイジ

覚醒欲

 今日、個人セッションで久しぶりにI先生に会った。

 リトリートで新しく参加した方が何人か、すごい体験をされたという話しを聴いた。

 以前だと、多分置いてきぼりにされたような気分を感じたと思うが最近あまりそうはならない。

 もちろん、最終的には大きな体験をしたいし(最後の手段、死の瞬間というのもある)、最後の納得はそこにしかないと思う。そういう意味では「覚醒欲」は衰えていない。

 春のリトリートで3日間あの空気の中にいたあとは、帰宅してからも自然に胸が熱くなり、理由のないよろこびと感動で涙がにじんでくるような瞬間が多くあった。

 僕のシナリオでは遠からず何かが、ぱーんと弾けるはずであった。しかし、シナリオを書いているのは僕ではないので、いつもシナリオ通りになるとは限らない。

 やがてそういう瞬間の頻度や濃度が薄れていくに連れ、その瞬間にしがみつき、それを「覚醒」にまで高めようと努力していることに気付いた。

 だが求めれば、求めるほど、それは何か最初のものとは違った人工的なものになっていくみたいだった。
 それと同時に、自分の目覚めを求めることが、本当にそれ程重要なことなのかわからなくなってきた。

 語弊があるかもしれないが、僕の目に、自分の行為がただ快感のみを求める運動のように思えてきた。つまりなんというのだろうか・・・「神様、私を気持ちよくさせてください」とそんな風に神様に向かってねだり続けているような気がしてきたのだ。

 ちょうどリトリートから帰って数日後、うちのアパートから10メートルも離れていない交差点で事故があり、人が亡くなった。その事故現場の花束を見た時に、エネルギーがばっと変わった。

 この、ここで突然死んでしまった人の現実と、自分の今の現実を付き合わせたときに、自分が求めている神様ってなんなんだろう??そう思った。

 でも、その後も求め続けることは続いたのだけど、その衝動が一段落した時、横の広がりが見えてきた。

 それは恐ろしくも、愚かしいようなこの世界の現実や、自分自身のリアルな姿や、家族や身近な人への愛情だった。それは自分自身の何かが消えると同時にそこに現れたような気がした。

 そしてそれらすべてを産み出し、演出している神がやはりそこに存在していた。

 「悟りたいと思っている限り、悟れない」というI先生の言葉の意味が最近ようやく少しわかったような気がする。(という悟ったふりをしているわけではありません笑)

個人セッション-2

 リトリート以後、喜びの核が胸の中にあるような感じがする。
 もちろん生きて生活して行く中でマーヤになることは多々あるけど、一人静かに座ると、その核が鼻歌を歌い始める。
 気付くと、とても幸せになっている。
 その幸せがマーヤに変わっても、まあいいか・・・今はマーヤなんですね・・・と、満更でもない。
 今は、ただ単に、マーヤなだけだから。




 I先生にそのことを報告すると、にこにこしながら喜んでくれた。

 他に参加者の中でクンダリニーがあがって、何をみても涙が出てしまうような状態になった方もいらっしゃるということだった。

 今回のリトリートの開始直後、僕は人へのパラノイアや疎外感が内側で爆発し、家に帰ってしまいたくなった。 
 先生によると、自分の想念で自爆する傾向があるのに加え、人からのエネルギーあたりをしやすいタイプであるということだった。
 でも、その場に流れている愛や、他の方の心遣いで随分違和感なく過ごすことが出来るようになった。
 それは自分の意志ではなく、なにか大きな力が、僕をそのなかへ取り込んでいくようなそんな感覚だった。
 すべて与えられたものだった。

 今日はその延長で、自分の中の人に対するとげとげしい感情について話してみた。

 「一人、部屋の中にいていい感じになっていても、外に出てたくさん人が歩いてるのを見るとそれだけでいらいらしてきてしまうことがあるんですよね・・・。その愛を感じられないということが、なんか嫌で・・」

 「それは人を見ると、その人間の毒の部分とつながってしまうから。そういう時は赤ん坊だとか子供を探すといいよ。
 俺はいろんな人に笑いかけたいけど、危ない人だと思われるから我慢している時があるんだ。そういう時には、子供を探すの。子供にだったら思い切りにこにこしても、ああ子供好きな人なんだって周りは思うだけだからね〜。」

 「見るだけで、エネルギー的につながってしまうということはあるんですか?」

 「ある、ある!この話しは前に言ったっけ?電車に乗ってる時にさ、隣の女の人からものすごい『悲しみ』が伝わってきたの。失恋したて、みたいな。それに耐えれず別のほうを見ると酔っ払ったオヤジがいて、体中がボロボロだっていうことがわかっちゃった。どっちむいてもそんな感じなわけ、その時女の子のポケットからぬいぐるみの熊の顔が出てるのを見つけて、あ、これだ!と思ってずっとそれを見つめてたんだよ(笑)」

 「人を愛そうとする必要はないよ。それはあふれてくるものだから。俺はM君を愛そうとしてるんじゃなくて、こうやっていると愛が上から降りてくるんだ。(胸を指して)ここから・・出てくる訳じゃなくてね。」

 「瞑想というものも、瞑想しようとしている限り、それは瞑想ではない。その人が瞑想そのものになるとすべてが瞑想になる。でもそこに至るまでには色々な練習としての瞑想が必要な場合もある。
 サイババの本なんかには人を愛し、奉仕しなさいってよく書いてあるけど・・・ちょうどそれは方便としての瞑想と似ている。」

 「M君にとっては、そういう対人的なことが神へ向かうきっかけになっている。ひとりでこもる性質があるというのは探求の絶対必要条件だよ。社会に目を向けていると、それは欠点に思えてしまうけどね。その辛さは神に向かうことへの代償みたいなものだよ。」 




 一般的な常識から言うと、僕、部屋で神様のことを考えているのがとてもHAPPY!というとかなり危ない部類に属するのかもしれないが、現在の一般的な常識は真理から転倒している。
 そしてセラピストも多くその常識に染まっているので、そういう人は僕を治したがる(笑)
 I先生が、いろんな人に笑いかけたいのに我慢しなければならないというのも、よく考えればかなりおかしな社会だと言えるだろう。
 それと同じように、特に人を愛そうとしなくても、神様のことだけ考えてればいいというアドバイスは一見カルトチックに聞こえるかもしれないが、実はこの世界の隠れた常識なのかもしれない。 
 というのも、経験上、神様がいつも心にある時のほうが、他者に意識過剰にならず自然と振舞えている気がしてならないからだ。


個人セッション

 I先生の個人セッションに行ってきた。

 近々インドに旅行する予定なので、おすすめのスポットなども尋ねた。

 ヒッピーの聖地と言われたゴアのことが話題に出て、それをきっかけに話しはドラッグの方へ。一度は質問してみたいテーマであった。

 まず、ガンジャについては、「アルコールやガンジャは神の認識をくもらせる」ということであった。

 どちらかと言えば、LSDやキノコ、サボテンなど摂取すると眠れなくなる系のものの方が悟りの体験と近いところにいく。キノコやサボテンにはある種の精霊が宿っており、それが人が気付きを得るのを助けてくれるのを感じるということ。カスタネダの世界。

 しかし、I先生はLSDによる変成意識と悟りの経験を双方持っている訳だがそれを比較するとやはり違うという。
 原則としてドラッグによって悟りは起こらない。
 悟りとはヴェールが取り去られることだが、ドラッグによってはそれは起こらない。その状態を体験している「私」というものが残る。そして、なにか超越的な経験をしたとしても薬効が薄れるに連れて体験も消えていく。これは結局、ドラッグでは「私の正体を見破る」ということは出来ないということだろうか。

 「瞑想による飛び方がこれくらいだとすると、ドラッグを使うとそれは確かにもっともっと意識は変る。でも意識が変ることが重要ではなくて、問題はわかることだ」と先生は言った。

 かといって、ドラッグなどによる変成意識が無駄ということではない。
 それは、「自分を壊していく」のに役に立つ。
 サイケデリクスを使用すると、日常の自我が一時的に解体したり不安定になって、自分がいなくなったように思えたり、別の人格と入れ替わったような状態を経験することがある。
 そのような経験を数回繰り返していると、この通常の意識は仮に構築されたものであるということが実感としてわかる。
 またLSDなどを使用したセラピーも現在は法的な問題で封印されているが、大きな可能性を秘めているはずである。
 つまり、サイケデリクスはうまく使用すれば、「自分を壊す」≒人格の変容ということについては大変効果的なものであると思う。

 若い頃に、きついLでトリップして24時間もとに戻らず大変だった話しとかを聞いて親近感を感じる(笑)

 続いて瞑想について。
 眠い時は、瞑想するチャンスだと思ったほうがいいと言われた。

 「普通人間は考えが止まると眠ってしまうけれど、その時に眠らないと瞑想が起こるんだ。」

 僕は最近、瞑想する時にあまりにも眠い時は座るとすぐに、妄想と夢の中間のような無意味なイメージが展開しはじめるので、眠い時は、瞑想しないですぐに寝ることにしていたのだが・・・

 それを言うと、無意味なイメージの世界を自覚できるということは瞑想できているということなので、それでよいんだという答えだった。
 通常、意識は眠りに落ちると自覚を失う。だが、夢が始まったのを自覚できるということは、意識がより微細な領域(アストラル)でも活動できるようになってるからだということ。それを続けていくことが大事だと言われた。

 「覚醒っていうのは、むしろ眠りに近いんですか?」

 「覚醒っていうのにね。いやほんとは(目覚めでも眠りでも)どっちでもないんだよ。」

 ちなみに、まるで実際に見ているようにクリアに浮かぶビジョンはエーテル界の(俗に言う「気」の世界)もので、アストラルのものはもう少しぼんやりしているらしい。



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  • Author:はいたか鳥
  •  鳥が卵から無理に出ようとする
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     生まれようとするものはひとつの世界を破壊せねばならない
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     その神は名をアプラクサスという




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