自家発電☆SUMMER TIME☆


 先週土曜日(7/5)。
 I先生との個人セッションで、今年は霊的な力の供給が絶たれているか、薄くなっているのでは・・・?という話になった。

 2,3年前サイババやI先生の師匠、他のインド聖者らがバタバタ他界したあたりからその気はあったらしいけど、今年に入ってからは特にMAYA度が急激に高いらしい。

 それはスピリチュアルなものがあまり盛り上がっていないことにも見られるという。


 「10年位前はさ~江原さんがいたりとか、ほかにもいろいろそういう番組があったでしょ。今そういうのがなくなってるってことは需要がなくなってる、人がそっちに意識を向けなくなってるってことだと思うんだよね」とI先生。


 僕としては、ひとりひとりにインタビューしたわけじゃないけど、2012年が特に外的な大きな出来事もなく、かといって飛躍的に意識の高まりが起こるというような現象もみえないままスルーされ、それまでの幻想みたいなのが崩壊しみんなかなりイヤんなっちゃったり、しらーっとしてる、その結果物理的現実の力が強くなってるんじゃないかと思った。


 2011年の東日本大震災。
 あの直後は多くの人が亡くなり、被害も甚大だった一方、高円寺で大規模な反原発デモがすぐに起こったり、移住をする人がいたり、スピリチュアル系に興味がある人は何かが始まったという意識で行動を始めただろうし、そうでない人たちも止むに止まれぬ変化への衝動から思い切った決断をしたことも多かったと思う。

 ところが3年たち、相変わらず福島第一からは汚染水が漏れ続けて、多くの人がふるさとにもどれないでいるにもかかわらず、原発政策は旧路線に戻り、何かどうしょうもない苦々しさがくすぶるなか2020年に東京オリンピックの開催が決まったりして、なんだかキャンバス上の致命的なあやまちを無理やりに原色の絵の具で塗りつぶそうとしているような印象を受ける。

 
 個人的には世の中に夢がなくなっていく一方、自分自身も物理的なリアリティがいやに重く感じられることがあったけど、それはフォトンベルトだかなんだかわからないけど、宇宙エネルギー的なものの周期が今弱くなっているのでは?というのがI先生がセッション中にふと思いついたことだった。 
 
 僕は2011年くらいから、それまで自分を守っていた力の一部が解除されちゃったような、そんな感覚も抱いてきた。
 それは長期的には、そろそろ保護なしで意識を自立させていきなさい、なんてことなのかとも思っていたのだが・・・

 宇宙エネルギー(I先生いわく天から降ってくるスピリチュアルな粉)が一時的にOFFになってるという発想はなかった。
 次元のシフトのようなものが完了するまで年々増加していくものだとばかり思っていたが・・・
 感覚的にはやはり今年が去年よりも何かスゴイとも思えない。

 どっちかというと節分明けくらいから、今年はちょっと変だ。

 大物作曲家S氏ゴーストライター事件や、大物ミュージシャンAさん薬物事件などもかなり人をがくっと幻滅させる類のものもあった。
 幻滅が大きいとき、それを受け止める何かがないとやっぱり現実の苦々しい側面だけがリアルになることになる。

 見方を変えると、スピリチュアルなエネルギーの影響があるからこそ真実が暴露されやすくなってるともいえるんだけど
 

 人の闇の側面だけが暴かれるというのは必要なことかもしれないけど、やっぱり何か夢がない。

 闇の力が元気に活動してる気がする。





 
 「だから~自分でとにかくエネルギーを発電しないとダメだからー、自分でエネルギーを発電するにはどうするかっていうと『行』するしかないんだよ。

 瞑想するとか 御岳山行って滝行するとかーw  (はいたか2007年に経験済み) それもひとつだけど 自分を練り上げていかないと。

 全部みこころなんだけど ただみこころにゆだねていればいいやってんじゃなくて、自分の中にタイトにエネルギーを凝縮していくっていうか それを意図してやらないとちょっと乗り切るのが大変かもしれない
。」

 
 「去年の12月にひとりリトをやってたんですけど、二泊三日くらいで何もネットもテレビも見ないで、食事も雑炊のみで あのノリでやったほうがいいんですかねー」
 


 「そう、たまにそういうことやってみたりね。ただ、それってある意味自分の中の雑味とか余計なものを落としていく作業なんだよ。
 
 それをやっていくとピュアになっていくんだ、どんどん。

 で、それとまた別の方向性のものって言うのがあるわけ。 修行って二種類なんだよ。

 自分についたちり・あくたを落としていくっていう作業と、パワーをどんどん刈っていくっていう作業と、その二種類の方向性があるわけ。

 で、今みたいな時期って言うのはこっち(浄化)じゃないと思うんだよ。

 パワーを得ることのほうが効果あるんじゃないかと思うんだよ。世の中マーヤなわけだから、そんな中で自分をしぼってもあんまり意味がないわけ。それよりも負けないパワーを得て、ぐわーってなったほうが、「荒くれ者」になったほうがいいわけだよ(笑)


 
 荒くれ者・・・

hudou.jpg

 こんな感じか

 あるいはこういう人になれば敵なしか 誰も寄ってはこなくなるだろうけど

heruka.jpg



 「じゃあ体鍛えるとかもいいわけですか?」



 「うん、体鍛えるものいいと思うよ。そして瞑想なんかして自分の中に「気」を蓄えていくっていう、そういうのがいいと思うんだ。プラナヤーマ(ヨガの呼吸法)やったりとか。



 「自家発電的な?」



 「そう自家発電。で、自分の中にパワーをためていくことによって外の世界にもある程度対処できるし、やられなくなるしっていうのがいいんじゃないかと思うんだよね。

 もしスピリチュアルなエネルギーの供給が立たれてるんだたら、その場で現地調達するしかないわけ。

 足元掘ってみたら、長いもが出てきたとか、たろいもが出てきたとか、この木の実は食えるかな、とかそうやって現地調達するしかない。今いるとろこで。



 「・・・今庭にじゃがいも植えてます。」


 「 笑  それだぁ! そういう風にエネルギーも座って自分で現地調達するんだよ


140706_1017~01

↑*庭じゃが収穫済み*↑
  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 「俺もねずっとおかしいからね、マーヤときで解決しようとずーっとやってたんだけど、やってもやっても終わんないんだよね、結局。でね、最終的に瞑想始めようと思って、それから復活してきたから明らかに今回は瞑想やれって方向性で動かされてたとしか思えないからね。

 「珍しいですよね。先生は今まではマーヤときやってればOKって感じだったんですよね」

 「そう、そんくらいなんか外からの援助があんまりないって言う感じ? 」

 「粉が降ってきてないんですね。いつ降ってくるんでしょうね~」

 「いつだろうねー来年来るのか、今年来るのか

 「なんかマヤ歴でいうと7月のおわりくらいからまた周期が変わるらしいですね」

 「あ、そう?

 「260日周期なんですけど。7月18日からまた新しい260日が始まるみたいで。」

 「半月後か、それちょっと期待したいところだねw

 「期待したいですねw」


 ということで、自家発電をすることのアドバイスと、早く粉が降ってくることを願いつつセッションが終わった。

 過去記事によく書いてるけど、エネルギーを自家発電することっていうのがここ2,3年の僕の興味のひとつであった。

 自家発電というかローカルエネルギーというんだろうか・・・

 地球上のどこにいても、誰にも依存することなく、誰もが手に入るような宇宙エネルギー。

 そのひとつは明らかに太陽なので、リトリートの際には、一番エネルギーの強い日の出の太陽を浴びにいった。
 そうすると何か太陽とつながる感覚がある。

 太陽のほかにもローカルエネルギーを取り入れる方法は、大地や木々、呼吸、からだのエクササイズなどいろいろあると思う。
 簡単にできるのは足の筋肉を動かすことで、『気』を発生させる散歩とかランニング、山歩きだ。
 スピリチュアルな方法ではやはり瞑想や、祝詞をあげる、お経を読む、などがある。

 そしてエネルギーの通りをよくするために補助的に、浄化系の断食や情報断食とかをするのがいいのかもしれない。

 スピリチュアルなエネルギーが少ないというのは本当ならさびしい。
 でも天上からばーっと大量に光が降りてくるのもいいが、闇に包まれた地上にぽつぽつとひとつずつ明かりがついて、光あふれていくという光景も美しい。
 多くの人が、スピリチュアルなレベルだけではなく、いろんな意味でエネルギーを自家発電する、できるようになればそういう光景が現れるにちがいない。
 そのためには、ある意味「闇」は必要なのかもしれない。

 ということで、柄じゃないが少し「荒くれ者」を目指してみます。

 前も書いたけど、今後のキーワードはspiritual & wildではないかと個人的には思っている。





 

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師匠との対話 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2014/07/12 21:32

一枚の葉の内面

 今年の4月I先生に再会した時の会話。

 その頃かなり情報シャットアウトモードだったけど、その状態からどこへ向かえばいいのか模索していたときのこと。







 I先生:「M君にはこれが向いてるんじゃないかと思うけど、神を見るのも私の意識、現実を見るのも私の意識、結局私の意識を通してしか見てないんだよね、物事っていうのは。で、神を見れば神になるし、現実を見れば現実になるんだよ。それが我々の意識なんだよね。

 じゃあ我々の意識は現実的なものなのか、神様的なものなのかって言ったら、それは神様に向かうって言ったら神様に反応してることだし現実に向かうってのは現実にむかって反応してるだけなんだ。

 問題は、「私の意識」なんだよ。

 私の意識が磨かれてれば、どうなるかっていうと「これ」がすべてなの。

 「これ」がすべてになるとどうなるかって言うと、世界はどうでも良くなる。



 灰:うーむ


 I先生:「これ」が私だから。

 世界はどうでもよくなる。極端な話しで言うと神もどうでもいいんだよ、「これ(意識)」が完璧だったら。

 でも「これ」がちょっとよわっちいから、やっぱ神に少し頼った方が「これ」もキープしやすくなるって言うことなんだ。

 現実見ればマーヤになるから、これは却下していいわけだ。でも神を見ていれば、その神とのつながりの中でちょっと安心できる。起こることもみこころだとか、そういうおまけがついてくるからね。そうするとちょっと安心していられるってところもある。

 でも本質的には純度100パーセントの覚醒状態にあるときは、自分の意識しか存在しないんだよ。

 言ったらさ、キノコとか食ったことあるじゃない?



 灰:はい


 I先生:キノコ食ってるときって、これが世界だ、になるじゃない?ここだけが世界だって。

 灰:うんうん、そうですね。

 I先生:もうさ、外の世界で起こってることとか、日々の人間関係とか思い出したら、笑っちゃう・・・みたいな。起こってねえよなあ、みたいな、感じってあるでしょ。で、あれってウソじゃないんだよ、ホントの話しなんだよ(笑)

 もし我々がメキシコとかの、山奥の掘っ立て小屋に一人で住んでたら、で、そこで毎日キノコ食って生活してて人々と関わらなければどうなのかっていうと、それって全然ありな話しじゃん。間違ってないじゃん。

 それで自分が生きられるだけ生きて、そこで死んでいくって言うさ・・。

 てことは、それが都会に移っただけの話で、なんでお前らと協調しなければいけないんだ、っていう、そんなルール誰が決めたんだよっていう話しなんだよ、言ったら。

 キノコ食ってると、ああこれが世界なんだよな・・・てなるわけだよ。

 それは何を見てるかって言うと、今の自分の意識しか見てない、今の意識の状態だけ見てるってことなの。



 普段、なんでM君がマーヤになっちゃうかって言うと、他人のこと考えるからなんだよ。
 外のこと考えるからなんだよ。

 それ考えないで、自分の意識の中にいたら・・・・(くすっ)・・・ハッピーなはずだよ。

 ね? 言ったら、M君にとって、今回りにおこってる現実が、現実なんだよ。

 ね?健康保険払ってないくせに、現実なの。



 灰:あははははは(汗)

 
 I先生:俺は健康保険も払ってるし、いろんな税金とかも払ってるけど、でも現実じゃないのこれが。でも確定申告の時期とかがくると3月はマーヤぽくなったりするわけ(笑)

 M君は、自分に正直なんだけど、その社会の流れに沿えてないところっていうのに、多少後ろめたさを感じてるんだよね。

 
 灰:うん、多少ありますね。

 I先生:ね?そこがマーヤになってる。その社会って言うのがM君にとって現実だからなんだよ。これをもっと起こってないことにしなきゃいけないの。

 灰:もっと却下する?

 I先生:うん、もっと却下する。だから、「それは起こってない。自分にとって在るのは、この俺の意識だけだ・・」

 灰:っていう方向性が僕には向いてると。それは神様に向かうのともまた違うんですかね。

 I先生:で、それを神様に向けたときに、それがマーヤにならなければOK!でもそれはね、正直にいうとその日のコンディションなんだよ。

 なんでかっていうと、意識状態って言うのは純度が高くなればなるほどマーヤはなくなるから、もうこの意識だけでOKっていう状態になるんだけど、マーヤがちょっとでも入ってくると純度が落ちてくるから、そうするとちょっと純度が落ちると神様がでてくるわけ。もうちょっと純度が落ちると、マザーがでてくるわけ。みこころがでてくるわけ。もうちょっと純度が落ちると神々がでてくるわけ。もうちょっと純度が落ちると、段々・・先祖とかが出てきて、、、



 灰:笑

 I先生:それでついに純度が完全に失われると、現実が現実になっちゃう・・・っていう。

 なんでちょっとでも純度が落ちると神かって言うと、神があるってことは私と神との間がわかれてるんだよね。分離してる状態だから、それはホントに純度にちょっと混じりっけが、1パーセントくらい混じりけがあると神が出てくるの。で、10パーセントくらい混じりけがあるとマザーとかが出てくるわけだ。

 それはその日のコンディションによるから、「あ、今日神様だな」と思えば、神様って行けばいいし、「今日マザーだな」って思えば、マザーに行けばいいし、「今日は、なんか俺だな」って思ったら俺でいいと思うんだよ。

 でもいえてるのはM君にとって問題なのは、やっぱり現実だと思うから、いかに現実を却下していくかということだね。



 灰:じゃあ、今のいろいろなものを見ないっていうのはそういう感じでいいんでしょうか。


 I先生:そうそう、でそれをやっていてM君の「個」ていうものを確立させていくということ、で、いいんじゃないかと思うよ、俺は。


 あのね、二種類の社会制度があって、いや3種類あってひとつはイスラムの社会制度ね。今日はこれはのけておくとして、あとふたつは日本とか先進国の社会制度、もうひとつはインドの社会制度。
 先進国の社会制度は、働ける人が働いて、とにかく国にお金を納めて年取ったら国に面倒を見てもらうっていう考え方。で、もうひとつの社会制度は、ある一定の年になったら、世捨て人になりなさいっていうインド的な社会制度だ(笑)

 で、これ実はすごくいいわけ。

 世捨て人になった人って言うのは、ダラムサラとかに泊まれるし、お寺言ったらフリーフードにありつけるし、医療も受けられるし、サドゥーになったってちゃんとご飯食べられて、寝るところもあって、病気になったら診てもらえるんだよ。サドゥー、って言ってもね。聖地に行けばそういう施設って整ってるわけ。

 だから俺は、それすごいと思うんだよね。年取ったらホントにすべてから自由になりなさいっていうことが社会制度のひとつの形になってるてことはね。だからインド人ってあんなに気楽にいられるんだと思うよ。


 灰:どうせ世捨て人になるから・・?(笑)

 I先生:笑 そうどうせ世捨て人になるんだからってこと。言ったらこの社会ってものをはなから重要視してないんだよね。それに頼って生きていこうって人がいないんだよ、だから。

 日本人とか先進国の人間の失敗って言うのは、なんとかしてこの国に頼らないと生きていけないって思うから、国の奴隷になっちゃうんだよ。それが、マーヤ。

 だからそういうものの捉え方って言うのを、M君の場合は「起こってない」っていう感覚をもっと徹底させたほうがいいのかもしれない。

 なんか、こう一人前にならなきゃとかさ、なんかそういうことじゃなくて・・・ね。

 だから、最初の会話があれなんじゃん。

 「天職はなんですか? 無職です!」っていうね。

 最初の俺たちの会話が、今に伝わる名言集に残ってるわけだ。

 それがねホント、M君をあらわしてると思うんだよ。



 灰:え・ええ~~~っ(;;)

 
 I先生:だから社会的な地位を得ようとかって考えるよりも、逆にどうそれを却下できる意識を作れるかってことだと思うんだよ。これから先社会からお金をもらって生きていくにしてもね


                                   2013年 4月某日






 「天職は何ですか? 無職です」と言うのは

 もう9年くらいは前になると思うけど、東京に着たばかりの頃、僕はやはり保険も年金もちゃんと自分で払える週5日間の仕事につかなきゃという思いも強く残業がバリバリある出版社で働き、三鷹から御茶ノ水まで毎朝早く中央線に乗って通っていた。でも次第に死にたい気持ちが強くなり、耐え切れず辞めた。

 その直後にいったI先生の瞑想会で「いったい天職はなんなのでしょうか」と質問した。

 僕としてはどういう仕事なら向いてるか、続けられるかを知りたく、「静かな環境で働ける仕事がいいね」とか、「クリエイティブな仕事が向いてるよ」とか、「君は人を癒す使命がある!ヒーラーになりたまえ」とかなんとかいう答えを期待していた僕は、先生に

 「今は何してるの?なに、無職か。それなら今の天職は無職だ!

 というのを聴いてかなり腰砕け状態になったのだった。
 
 これが向いてるというようなことは一切教えてもらえなかった。

 でもそうためらいなく言い放たれると、ある種爽快感と、ちょっとした安心感があったのも事実だ。

 それからいろいろな仕事をしてみたし、ほぼ働いていない期間もずいぶんあった。
 今の仕事は3年以上続いてて、一応自活できている。
 でもなかなか社会保障とかのほうまでちゃんと払えなくて、なんとなく半人前のような意識とか、先行きが不透明で不安だと言う気持ちもあり、長い間会ってなくてもi先生はその辺がマーヤになってることはすぐにわかるようだった。

 あと、人のことを必要以上に考えるとマーヤになるというのもここ数ヶ月でずいぶん理解が深まった気がする。

 結局あの人にああ思われてるんじゃないかとか、あの言葉が気に障ったんじゃないかとかずっと思ってると、自分の内面性というか意識性に深く入ることが出来なくなる。
 
 外側のことを考えすぎると、そこからエネルギーが流出して、意識の覚醒感がまったくなくなってしまうのだった。
 その疲弊感を紛らわすためにアルコールに頼ったりしていたことが、介護の仕事を始めてから増えた。それがマーヤであるということが、i先生に久しぶりに会ってはっきりした部分もあった。

 基本的には外面性に捉われるほどにやっぱり、先生の言う意識の純度は低下していくように感じる。

 外面性というのは、人間関係とか、社会の常識・非常識とか、不安を感じるようなニュース、とか。

 内面性は、夢やイメージ、平安や喜びのフィーリング、愛、などがその浅い層に存在しており、その本質はやっぱり神(意識)なのだろう。


 ラーマクリシュナとかが、「常に神のことを考えていると言うことが意識のエネルギーを保持することだ」というようなことを言ってるのは、真の内面性にフォーカスし続けることが、外面性というこの世界の幻にエネルギーを垂れ流さないことにつながるからだと思う。




 人間関係の外面性という側面において、多少ぎくしゃくいしていても、実はその内面性においてはすでにつながっている。意識というもっとも内奥の場においてすべては一体だというからだ。
 
 それは一本の大木のようだ。

 枝先のほうで葉っぱ同士が風になぶられて互いにぶつかり合い、罵り合っているように見えたとしても、視線をズームアウトするとそこには実は葉も、枝も、幹も、根も一体となった一本の樹しかない。

 僕らの意識は常に小さな一枚の葉としての自分に同化しているので、その認識からすると場合によっては樹全体が敵に見えるし、自分にぶつかってくる他の葉っぱはわずらわしい。

 樹としての全体に、自分の意識をシフトさせることが、神を想う事、神を知ることなのだろう。

 一枚の葉っぱの外面性は取るに足らないものかもしれない。

 他の葉がぶつかり、虫たちにたかり食い荒らされ、風雨にさらされる。

 あの葉が散ったとか、あの葉がむかつくとか、あの葉は才能があるとかそんなゴシップ話で樹はもちきりだ。


 でもその内面性は常に変わらぬ不死の巨木であり、すべての葉っぱたちであり、すべてを生かす命そのものだ。


 それを知るには、葉っぱたちは外側に映る物質世界の幻(マーヤ)をやさしく退けて、内面性に向かわねばならない。




師匠との対話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/09/02 14:52

恐れの克服

 やっぱし、シリアスに過ぎ、UPしないほうがいい雰囲気なので期間限定にしました(笑)

 まーどっちでもいいのかもしれないけど、最近は基本軽いのりで比較的どうでもいいことを書いていたほうが自分が気楽というのもあります。濃い記事はI先生のことも含め、書きつくした感があるので今はゆるーい感じで行きたいです。

  しかしながらこの記事にコメントいただいた皆様方には、どうもありがとう~(*≧∀≦) ございましたです!

  
                  100410_1318_01.jpg


師匠との対話 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2010/04/11 10:03

覚醒欲

 今日、個人セッションで久しぶりにI先生に会った。

 リトリートで新しく参加した方が何人か、すごい体験をされたという話しを聴いた。

 以前だと、多分置いてきぼりにされたような気分を感じたと思うが最近あまりそうはならない。

 もちろん、最終的には大きな体験をしたいし(最後の手段、死の瞬間というのもある)、最後の納得はそこにしかないと思う。そういう意味では「覚醒欲」は衰えていない。

 春のリトリートで3日間あの空気の中にいたあとは、帰宅してからも自然に胸が熱くなり、理由のないよろこびと感動で涙がにじんでくるような瞬間が多くあった。

 僕のシナリオでは遠からず何かが、ぱーんと弾けるはずであった。しかし、シナリオを書いているのは僕ではないので、いつもシナリオ通りになるとは限らない。

 やがてそういう瞬間の頻度や濃度が薄れていくに連れ、その瞬間にしがみつき、それを「覚醒」にまで高めようと努力していることに気付いた。

 だが求めれば、求めるほど、それは何か最初のものとは違った人工的なものになっていくみたいだった。
 それと同時に、自分の目覚めを求めることが、本当にそれ程重要なことなのかわからなくなってきた。

 語弊があるかもしれないが、僕の目に、自分の行為がただ快感のみを求める運動のように思えてきた。つまりなんというのだろうか・・・「神様、私を気持ちよくさせてください」とそんな風に神様に向かってねだり続けているような気がしてきたのだ。

 ちょうどリトリートから帰って数日後、うちのアパートから10メートルも離れていない交差点で事故があり、人が亡くなった。その事故現場の花束を見た時に、エネルギーがばっと変わった。

 この、ここで突然死んでしまった人の現実と、自分の今の現実を付き合わせたときに、自分が求めている神様ってなんなんだろう??そう思った。

 でも、その後も求め続けることは続いたのだけど、その衝動が一段落した時、横の広がりが見えてきた。

 それは恐ろしくも、愚かしいようなこの世界の現実や、自分自身のリアルな姿や、家族や身近な人への愛情だった。それは自分自身の何かが消えると同時にそこに現れたような気がした。

 そしてそれらすべてを産み出し、演出している神がやはりそこに存在していた。

 「悟りたいと思っている限り、悟れない」というI先生の言葉の意味が最近ようやく少しわかったような気がする。(という悟ったふりをしているわけではありません笑)

師匠との対話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/11/17 20:54

個人セッション-2

 リトリート以後、喜びの核が胸の中にあるような感じがする。
 もちろん生きて生活して行く中でマーヤになることは多々あるけど、一人静かに座ると、その核が鼻歌を歌い始める。
 気付くと、とても幸せになっている。
 その幸せがマーヤに変わっても、まあいいか・・・今はマーヤなんですね・・・と、満更でもない。
 今は、ただ単に、マーヤなだけだから。




 I先生にそのことを報告すると、にこにこしながら喜んでくれた。

 他に参加者の中でクンダリニーがあがって、何をみても涙が出てしまうような状態になった方もいらっしゃるということだった。

 今回のリトリートの開始直後、僕は人へのパラノイアや疎外感が内側で爆発し、家に帰ってしまいたくなった。 
 先生によると、自分の想念で自爆する傾向があるのに加え、人からのエネルギーあたりをしやすいタイプであるということだった。
 でも、その場に流れている愛や、他の方の心遣いで随分違和感なく過ごすことが出来るようになった。
 それは自分の意志ではなく、なにか大きな力が、僕をそのなかへ取り込んでいくようなそんな感覚だった。
 すべて与えられたものだった。

 今日はその延長で、自分の中の人に対するとげとげしい感情について話してみた。

 「一人、部屋の中にいていい感じになっていても、外に出てたくさん人が歩いてるのを見るとそれだけでいらいらしてきてしまうことがあるんですよね・・・。その愛を感じられないということが、なんか嫌で・・」

 「それは人を見ると、その人間の毒の部分とつながってしまうから。そういう時は赤ん坊だとか子供を探すといいよ。
 俺はいろんな人に笑いかけたいけど、危ない人だと思われるから我慢している時があるんだ。そういう時には、子供を探すの。子供にだったら思い切りにこにこしても、ああ子供好きな人なんだって周りは思うだけだからね~。」

 「見るだけで、エネルギー的につながってしまうということはあるんですか?」

 「ある、ある!この話しは前に言ったっけ?電車に乗ってる時にさ、隣の女の人からものすごい『悲しみ』が伝わってきたの。失恋したて、みたいな。それに耐えれず別のほうを見ると酔っ払ったオヤジがいて、体中がボロボロだっていうことがわかっちゃった。どっちむいてもそんな感じなわけ、その時女の子のポケットからぬいぐるみの熊の顔が出てるのを見つけて、あ、これだ!と思ってずっとそれを見つめてたんだよ(笑)」

 「人を愛そうとする必要はないよ。それはあふれてくるものだから。俺はM君を愛そうとしてるんじゃなくて、こうやっていると愛が上から降りてくるんだ。(胸を指して)ここから・・出てくる訳じゃなくてね。」

 「瞑想というものも、瞑想しようとしている限り、それは瞑想ではない。その人が瞑想そのものになるとすべてが瞑想になる。でもそこに至るまでには色々な練習としての瞑想が必要な場合もある。
 サイババの本なんかには人を愛し、奉仕しなさいってよく書いてあるけど・・・ちょうどそれは方便としての瞑想と似ている。」

 「M君にとっては、そういう対人的なことが神へ向かうきっかけになっている。ひとりでこもる性質があるというのは探求の絶対必要条件だよ。社会に目を向けていると、それは欠点に思えてしまうけどね。その辛さは神に向かうことへの代償みたいなものだよ。」 




 一般的な常識から言うと、僕、部屋で神様のことを考えているのがとてもHAPPY!というとかなり危ない部類に属するのかもしれないが、現在の一般的な常識は真理から転倒している。
 そしてセラピストも多くその常識に染まっているので、そういう人は僕を治したがる(笑)
 I先生が、いろんな人に笑いかけたいのに我慢しなければならないというのも、よく考えればかなりおかしな社会だと言えるだろう。
 それと同じように、特に人を愛そうとしなくても、神様のことだけ考えてればいいというアドバイスは一見カルトチックに聞こえるかもしれないが、実はこの世界の隠れた常識なのかもしれない。 
 というのも、経験上、神様がいつも心にある時のほうが、他者に意識過剰にならず自然と振舞えている気がしてならないからだ。


師匠との対話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/05/06 17:37

個人セッション

 I先生の個人セッションに行ってきた。

 近々インドに旅行する予定なので、おすすめのスポットなども尋ねた。

 ヒッピーの聖地と言われたゴアのことが話題に出て、それをきっかけに話しはドラッグの方へ。一度は質問してみたいテーマであった。

 まず、ガンジャについては、「アルコールやガンジャは神の認識をくもらせる」ということであった。

 どちらかと言えば、LSDやキノコ、サボテンなど摂取すると眠れなくなる系のものの方が悟りの体験と近いところにいく。キノコやサボテンにはある種の精霊が宿っており、それが人が気付きを得るのを助けてくれるのを感じるということ。カスタネダの世界。

 しかし、I先生はLSDによる変成意識と悟りの経験を双方持っている訳だがそれを比較するとやはり違うという。
 原則としてドラッグによって悟りは起こらない。
 悟りとはヴェールが取り去られることだが、ドラッグによってはそれは起こらない。その状態を体験している「私」というものが残る。そして、なにか超越的な経験をしたとしても薬効が薄れるに連れて体験も消えていく。これは結局、ドラッグでは「私の正体を見破る」ということは出来ないということだろうか。

 「瞑想による飛び方がこれくらいだとすると、ドラッグを使うとそれは確かにもっともっと意識は変る。でも意識が変ることが重要ではなくて、問題はわかることだ」と先生は言った。

 かといって、ドラッグなどによる変成意識が無駄ということではない。
 それは、「自分を壊していく」のに役に立つ。
 サイケデリクスを使用すると、日常の自我が一時的に解体したり不安定になって、自分がいなくなったように思えたり、別の人格と入れ替わったような状態を経験することがある。
 そのような経験を数回繰り返していると、この通常の意識は仮に構築されたものであるということが実感としてわかる。
 またLSDなどを使用したセラピーも現在は法的な問題で封印されているが、大きな可能性を秘めているはずである。
 つまり、サイケデリクスはうまく使用すれば、「自分を壊す」≒人格の変容ということについては大変効果的なものであると思う。

 若い頃に、きついLでトリップして24時間もとに戻らず大変だった話しとかを聞いて親近感を感じる(笑)

 続いて瞑想について。
 眠い時は、瞑想するチャンスだと思ったほうがいいと言われた。

 「普通人間は考えが止まると眠ってしまうけれど、その時に眠らないと瞑想が起こるんだ。」

 僕は最近、瞑想する時にあまりにも眠い時は座るとすぐに、妄想と夢の中間のような無意味なイメージが展開しはじめるので、眠い時は、瞑想しないですぐに寝ることにしていたのだが・・・

 それを言うと、無意味なイメージの世界を自覚できるということは瞑想できているということなので、それでよいんだという答えだった。
 通常、意識は眠りに落ちると自覚を失う。だが、夢が始まったのを自覚できるということは、意識がより微細な領域(アストラル)でも活動できるようになってるからだということ。それを続けていくことが大事だと言われた。

 「覚醒っていうのは、むしろ眠りに近いんですか?」

 「覚醒っていうのにね。いやほんとは(目覚めでも眠りでも)どっちでもないんだよ。」

 ちなみに、まるで実際に見ているようにクリアに浮かぶビジョンはエーテル界の(俗に言う「気」の世界)もので、アストラルのものはもう少しぼんやりしているらしい。



師匠との対話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/02/27 23:07
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