2009. 10. 12  
  I先生の勉強会に出席された方からメッセージいただきました。

  ブログでその様子を紹介されていますが、思わず読んでて引き込まれ、おお、すげー行ってみて~と思ってしまいました(笑)さらにちょっと文体が似てるような気がして親近感を覚え、リンクさせていただきました。

 kojiさんのブログ 「リアルワールド

 その他の記事もとても興味深いものが多かったので、ご一読アレ☆

 サティア・サイババは数多くのスキャンダルにも関わらず、僕はホンモノではないかと思っているのですが(I先生がサイババは現在肉体を持て生きている神の一人と言っていたというのもありますが)、その点も「サイババの真実?」という記事とシンクロしていて面白かったです。

 マー(お母さん)つながりでいらっしゃったようです。 

 マザーはあらゆる場所で働いているんだなと改めて思いました。


2009. 07. 11  
  I先生の音声サンプル集、<き>『既成概念』と、<く>『苦』が視聴できるようになりました。

  各20秒ほどですが、よかったらお聞きくださいませ~。

  こちらから

  岩城和平 通信講座サンプル集

  え~今更ですがこちらはまったく当ブログとは関係ございません
2009. 02. 09  
  当ブログでもよく登場するI先生の新しいページが出来ています。
              

     岩城和平 通信講座サンプル集

  通信講座は、50音表あ~わまでI先生がひとつの単語を選んでそれに基づいて講義するものと、バガヴァッドギータ、ウパニシャッドなどの聖典解説、そして有名な聖者の言葉(シーク教の言葉、スーフィーの言葉など)の解説などがあります。

 各、20秒ほどの音声サンプルが聴けるようになっています。
 現在五十音「あ」→愛と献身
        「い」→命
        「う」→宇宙意識
        「え」→エコロジー
        「お」→オーム
        「か」→神の覚醒と過去世のカルマ
 
 バガバッドギータ VOl1~5まで視聴可能となっております。

 僕は音声編集作業をお手伝いさせてもらってます。
 興味のある方は是非聴いてみてくださいね♪

 例えば2006年度のお話しCDのラインナップは以下のような内容になってるようです。

[商品番号1]2006.1.29:シリーズ1 vol.1聖典解説:バガヴァット・ギータ序章
英智の響き:命とは与えられているもの

[商品番号2]2006.1.15:シリーズ2 vol.1聖典解説:ヴェーダンタ思想の神の概念とその背景
英智の響き:愛と献身

[商品番号3]2006.2.26:シリーズ1 vol.2聖典解説:第二章、不滅の彼、滅びるのは肉体だけ
英智の響き:エコロジー、今私達に出来る事

[商品番号4]2006.2.12:シリーズ2 vol.2聖典解説:神を知る事による救済
英智の響き:宇宙意識

[商品番号5]2006.3.26:シリーズ1 vol.3聖典解説:サンキャ理論における知性
英智の響き:神と覚醒と過去のカルマ

[商品番号6]2006.3.12:シリーズ2 vol.3聖典解説:神を見る、私達の中にそれは在る
英智の響き:オーム

《商品番号7》2006.3.12:質疑応答*なぜ英語圏の人間はOh My God!!のように感嘆文にGod(神)が入るのか?*なぜインドに覚醒者が多いのか?・道徳は宗教である/ムー大陸

《商品番号8》2006.3.26:質疑応答*微細身とは?*人間として生まれ変わることは何故、難しいと言われるのですか?*本尊のヨーガを行う場合、どの本尊を選択するべきでしょうか?

[商品番号9]2006.4.9:シリーズ2 vol.4聖典解説:内在する神
英智の響き:既成概念、既成概念を取り除く

《商品番号10》2006.4.9:質疑応答*瞑想で自分の中に深く降りていくとはどういうことでしょうか?*神は、なぜこの世界を作ったのでしょうか?*神の概念の無い人にはどのように神のことを伝えれば良いのでしょうか?

[商品番号11]2006.4.30:シリーズ1 vol.4聖典解説:グナ(物質界を創造維持する三要素)
英智の響き:苦しみとは、苦しみからの脱却

《商品番号12》2006.4.30:質疑応答*シャンバラとは何ですか?*如来とは何ですか?

[商品番号13]2006.5.13.:シリーズ2 vol.5聖典解説:内在する神、唯一なる神
英智の響き:敬虔であることの大切さ、敬虔さとエゴ、経験さを得ていく段階

《商品番号14》2006.5.13.:質疑応答*神への接し方*エゴと覚醒

[商品番号15]2006.5.28.:シリーズ1 vol.5聖典解説:煩悩のメカニズム、煩悩の解除法英智の響き:個我、真我、自我、個我の存在理由、カルマの浄化

《商品番号16》2006.5.28.:質疑応答*個我は自分が選んでいるのでしょうか?*覚醒について

[商品番号17]2006.6.11:シリーズ2 vol.6聖典解説:宇宙に内在する神英智の響き:悟りとは/悟りの方法

《商品番号18》2006.6.11:質疑応答*聖書について/ナフスとは何か?/悟りは更新するのか? 

 2006年だけでもこれ以上ありますが、07年、08年と続いているのでかなり膨大な量になります。その他ラインナップなど詳細はこちら


2008. 04. 14  
  I先生が21歳のときのインタビュー。
 「学歴なんかぶっとばせ~高校中退の若者たち~」
 第三章 インドのお坊さんになった青年 より
 インタビュアーは著者の門野晴子氏。




 文化学院の同級生にS子さんがいた。S子さんと和平くんはお母さん同士が以前から知りあいだったところから親しくなり、最初のデートで映画を観た後S子さんの家に送っていくと、お父さんがあがれあがれと言って食事をご馳走してくれたという、ウソのような恵まれた話。ふつつは(わが家も含めて)、娘のボーイフレンドに対しては父親はうさんくさい顔をするものだが、S子さんのお父さんは和平くんを「この顔は絶対大物になる顔だ」と言い、可愛がってくれたと言う。

 それだけではなかった。S子さんの家族ひとりひとりが魅力に富み、多感な高校生を虜にしたのである。事業家のお父さんに加えて、お母さんは宗教哲学に造詣の深い人で、和平くんはこのお母さんからヨーガを知ることとなる。S子さん、お兄さん、お姉さんの三人ともに明星学園を出て、お姉さんはフランスに渡って有機農法をやり、同業で医学博士でもあるフランス人と結婚して後に帰国し、現在千葉で有機農業をいとなむ。
 お兄さんは当時インドに行っていたが、和平さんがS子さんの家に遊びに行くようになってから一ヵ月後に帰国し、彼からナマナマしいインドの情報に接した和平くんは大きく揺さぶられた。それぞれの家族にすばらしい影響を与えられつつ、気がついたら自然にS子さんの家族に仲間入りしていたという、うらやましいような”十代の同棲”ではある。

 「男と女の関係ではふつう誰もが経験する恋愛と一緒だったと思いますよ。ただぼくにとっては、彼女のお母さんやお兄さんにぶち当たったことが一番デカイ意味をもったということです。今考えれば、ですが・・・

 ご紹介が遅れたが、和平くんのご両親は「東演」というチエホフを研究するための劇団を主宰し、もちろんご夫婦ともに俳優である。ユニークな子どもの個性を育む双方のリベラルな家庭環境に、指をくわえる思いの私。
 インテリの家庭にはインテリであるがゆえの堅苦しいオキテや学歴志向のあるのが一般的だが、S子さんの家族の”それぞれの道”と同じく、和平くんのお父さんは完全なマルキシストで無宗教、お母さんは宗教にやや興味あり、弟さんは中学生で宗教とは無関係という、それぞれに独立した個として存在し認めあう家族関係がすばらしい。
 その近代的人間観が基底にあってこそ、世間一般ではとんでもないことである十代の同棲も、息子の出家も、その人自身のセクシュアリティの自己決定として承認できる親たちであったのだろう。まことの教養人とは自他ともの個の尊重であり、まことの親とは子の選択を真に支援できる存在をいうのだろう。思春期に自己を求めて歩き出した高校生がひとりの少女と出会い、「自然にそこの家族になっていた」とはなんと恵まれた話だろう。その上彼は、己の歩く道をその家族によって示唆されるのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 しかし、私は彼の恋愛にこだわった。若者のメインテーマが恋愛ではなく神であることが、俗人の私には信じられなかった。ナマグサ坊主の愛欲図だって水上文学だけでなく、現実に数かぎりなく見聞きもする。
 彼女の家で家族の一員になってしまったラッキーな若者というが、彼の心の動きはどういう軌跡をたどって神と乗りかえたのだろう。

 「ふつうは、まず相手を好きになって、それから、相手に向けてエネルギーを働かせていくのでしょうが、ぼくはそれはなかったんですね。気がついたら一緒にいたみたいな・・・・・

 _______うん、とてもきれいなんだけどね、私としては、男と女の感情を聞きたいのよ。

 「いやあ、それはあんまり絡んでなかったと思いますけどね」

 _______でも、セックスしたんでしょう?

 「ええ

 _______ふたりの部屋があって。

 「そうです

 ___じゃあ立派な同棲じゃないかよ(笑)

 「そうなんだけど、だからさっきも言ったように、男と女の関係では普通の恋愛だったと思うけど、彼女の家族に与えられたもののほうがより大きかった

 ____あなたの内面により深く働きかけたのが、彼女のお兄さんやお母さんだったわけね。

 「ええ、ぼくが興味あるものをその人たちがもっていたから

 一種の”超能力坊や”が魅かれ続けてきた宗教への憧憬に、水先案内人としてその道を指し示したのが、宗教人ではない、宗教哲学に明るいお母さんと旅行者のお兄さんだった。恋人によってそういう家族に出会えたのも、和平くんの定まった因縁だったのだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「インドへ一年半ほど行ってきましたのでね、彼女とは距離ができましたが、彼女の家族とは距離があまりないんです。やっぱりぼくが出家したということが、彼女にとって決定的だったんでしょうね

 ___そりゃあ女の子にしたら、恋人が出家するというのはショックでしょう。

 「すべてを捨ててぼくは坊主になる、と言ってインドへ行きましたからね。

 高校も恋人もすべてを捨てて彼はインドへと旅立った。



2008. 03. 16  
門野晴子著
「学歴なんかぶっとばせ」より

インドのお坊さんになった青年 続き





 二月の末日、それは彼がインドに再出発する一週間前であった。
 井の頭線・西永福の駅に出迎えてくれた和平君は、先に18歳でたったひとりヒンディー教の修行に旅立った青年とはとても思えない、ごくふつうの青年のたたずまいだ。
 めくるめく強烈な陽光の下を黙々と托鉢に歩く青年の姿を、いま目前にいる彼に重ね合わせようとしたが、度の合わない眼鏡のように私にはぼんやりとしていた。
 商店街をぬけて静かな住宅地に入るとまもなく、とある古い日本家屋に案内される。けたたましく吠え出した犬も和平くんのひと声でおとなしくなると、線香のふくいくたる香りが漂う玄関は深い静寂に包まれて、そこはもう別世界だった。インドの神秘性を伝える置物などに彩られた和室のこたつに坐ると、確かに和平くんはコーヒーを入れてくれたのだが、ほとんどもの音が立たない不思議さ。静かに瞑想の日々を送る人の青春の軌跡が語られ出したとき、私はひとときとは言え、まったく未知の神の世界へ誘われることになる。

 和平くんのユニークな個性に形を与えたのは、小学校の教師たちだった。杉並の効率の小学校ではいろいろな教師がいる中で、彼の担任には個性の強い教師ばかりが当たった。「ぼくはずうっと担任には恵まれてきました」という、うらやましいようなふつうの学校でのフリー教育。

 一年生のときの男教師は音楽が得意で、よくアコーディオンやハーモニカを使って皆で歌った。
 その一年間で和平くんの音楽性が引き出され、彼の豊かな才能のひとつとなっていま、彼は後述する仲間と民俗音楽のバンドを組む。

 二年生から四年生までの担任の女教師は社会科が専門で、和平くんの眼を世界に開かせてくれた。この先生はまた和平くんのお母さんと同郷の北海道・小樽の人で、夏休みなど先生の小樽の家に遊びに行ったという恵まれた偶然性も手伝って、深い影響を受けたのだろう。

 五、六年の男教師は国語の先生だったが、教科書を使っての授業はやらずに宮沢賢治を中心にした国語教育で、算数の時間などは自由時間にして外へ遊びに行ったり、教育ママゴンなら目をむきそうなユニークな授業は、和平くんの詩作や文章能力を引き出した。

 フランスのフレネ教育のような授業が日本の公立小学校で実践されているとは驚きだった。管理と強制を教育と心得る学校・教師ばかりを転々としてきたわが子を思い、よだれを流さんばかりにして聴いていた私は、学歴社会に背を向けて彼をインドへ旅立たせた最初の疑念はなんだったんだろう、と「現実」に還る。

 それは中学の受験教育だった。のびやかに個性を育まれた小学校教育だったからこそ、よけいに中学校の機械的な勉強は彼にはなじまなかったのだろう。中一から受験教育に反発した彼は勉強を放棄し、教師たちは「こいつはバカなんだ」と思い出した。

 度外視された子供にもそれぞれ自己の叫びがある。ツッパリも登校拒否も自己主張であり、自殺さえも命をかけた存在証明である。多様な子供の成長欲に対してただひとつの道を強要する受験教育。それに拒絶反応を示す子どもたちを容赦なくひとつの道に追いこむための管理指導。だが、管理と強制を拒んだ子どもだからといって、成長欲(学習権)を放棄したわけではない。さまざまな自己主張での存在証明こそ「人間権」の叫びであろう。

 和平くんは班ノートに10頁もの童話を書いて自己の存在を主張した。象と蟻の寓話で人間社会を風刺したそれに教師は驚いたが、一三歳の少年がなぜそれを書いたのかには思いはいかず、こんなに書けるのにちゃんと勉強しなければダメじゃないか、とムチを一本増やしただけだった。

 寒々しい思いを噛みしめる和平くんには、しかし避難場所があった。美術室であり、美術の教師である。もうひとつ、読書が好きな少年は中一で図書委員の副委員長、中二から委員長になり、書評座談会の司会などで活躍する。この図書の顧問教師が家庭科のM先生だった。

 家庭科の男女共修は中三だけだったが、M先生は生活全般におよぶ理論に力を入れた。つまり、食生活における添加物などの問題や、性教育である。M先生の性教育は「性と生の権利」を肯定していた、という和平くんの話に、私は目を見張った。一般的には性科学は教えても、性病の映画を見せて「こうなるからヤルなよ」と脅す性教育が相場。A中学校では性病については保健体育の時間にやったというから、なるほど脅していないことは確かである。

 和平くんは家庭科の男女共修を基礎にはしていないが、その後の彼の生きかたに当てはまる部分が多かった、と言う。このふたりの教師との出会いによって受験教育に押しつぶされることなく、絵画の好きな少年は文化学院高等部の美術科んび進むことになる。
 しかし、彼はその高校を中退した。学校から締め出されたわけではないが、彼をつなぎとめるものがもはや学校教育にはなかったのだろう。彼をとりこにする魅力あるものが青年を襲った。




2008. 03. 12  
 I先生が21歳のときのインタビュー。
 「学歴なんかぶっとばせ~高校中退の若者たち~」
 第三章 インドのお坊さんになった青年 より
 インタビュアーは著者の門野晴子氏。





 「ぼくは生後三ヶ月に一回死んでいるんですよ。死の経験をしまして、そのことがいまだに記憶に残っているんですね。自分の魂がからだから離れていって霊界に入っていくプロセスを記憶していて、いまでも月に一回はその死んだときのことを夢に見るんです。その死んだときに、俗に言われる「神様」にぼくは会ったという自覚みたいなものがあるんですね。その死からよみがえってからですよ、ぼくがおかしくなったのは、多分ね

 ___じゃあ、生後四ヶ月からおかしくなった?

 「そう、そうだと思いますよ。それまでは普通だったと思うんですけど

 ワハハハ、と笑いあう。いいなぁ、こういう話、たまらなく好きだ。猜疑心の強い「花の中年」が、若者の土俵に完全に引きずりこまれてしまった。

 「母が言うには、ぼくは生まれてくるときも手を開いて蓮華の花のような形をつくって、目をパッチリ開けて、笑いながら出てきたそうで、なんだ、この子は、とお医者さんがびっくりしたそうですよ

 八歳から仏像の絵を描き出した少年は、寺巡りが大好きだったと言うから、気持ちが悪い。絵の指導をしてくれる先生はいたが仏画ではなく、少年は自分で仏像ばかりを画いた。

 「中学になったら、なぜだか知らないけど急にキリストに興味をもちましてね、授業をさぼっては、美術室でキリストの油絵を画き続けました

 ___キリストに浮気したのは、なぜ?

 「なにかの転換期だったと思いますよ。それから中学を出て一年くらいしたら、またひとつ浮気したんです」
 ___なに?それ。

 「ヒンディー教。それでタントラという密教的なヨーガをやりはじめて、ヨーガをやることによって、それまでの仏教やキリスト教がすべてそこでひとつになって実を結んだのです

 ___う~ん、神サマのことはぜんぜんわからなけいけど、いろいろやってきたことがあるときスッとひとつになることってあるわね。

 「多分、ぼくがキリスト教だけやっていたらキリスト教信者になっていただろうし、仏教だけをやっていたら仏教信者になったろうし、下手をすれば創価学会みたいになっていたかもしれないし(笑)、でもぼくは満遍なくいろんな宗教を見てくることによって、片寄りなくいろんな宗教を評価できる気持ちをもてるようになった。だから、ぼくにとっての神というのは、ぼくを導いてくれる自分自身の中にいる心の神なんですよね

 ___心の中に宿る神?

 「ええ、すべての人や物の中に宿る神です

 その神とは、キリストを導いたものでもあるし、ブッダを導いたものでもある宇宙の存在のエネルギーのようなものだという。キリストが神よ、神よ、と求めた神も、仏教で言う「梵天」だそうだ。梵天を辞書で引くと「この世間を超越した清浄の天、そのぬしである神」とある。

 神サマとのつきあいのない私は「天にましますわれらが神よ」と祈ることはないが、ヤバイ時に思わず「ああ、神サマ」と思う勝手な神であろうか。あるいは、森羅万象(宇宙に存在するいっさいのもの)の神というべきものか。

 神サマの話をする人をいつも茶化したくなる私が若者のそれを聞いていられるのは、彼の狂信的でない公平な神の見方によるせいもあったろう。とかく信仰家というのは、自分の信じる神を絶対的存在とするあまり、よその神サマを口汚くののしる排他性を有するものだ。やわらかい長髪をときどきかきあげながらにこやかに話す青年の姿は、まるでデキの悪い生徒を静かに諭しているような図ですらある。

 「ですから、そこに関して見るかぎり、どの宗教にもまったく相違がないと僕は思うんですね。キリストもブッダも神の子であったわけですから

 和平君が言うには、キリスト教の聖書は後世の翻訳家たちが誤解してとらえているため、キリスト教独特のクサミを感じてしまうけれど、それをインドのヨギたちに解釈させるとおもしろいのは、ヒンディー教のヨーガの聖典とまったく同じことを言っているという。

 瞳をキラキラ輝かせながらその例を次々と語る彼に、悪いけれどその問答にはあまり興味のない私は、むしろ二一歳の若者がこれほど心をとらわれたそのとらわれぶりに心をそそられる。修行がとりわけ厳しいといわれるヒンディー教とは彼にとってなんなのだろう?世をはかなんで宗教の道に入ったというのではなく、彼の心の楽しさがあふれんばかりに伝わってくる様は、私がこれまで幾人か接することがあった宗教家の、もったいぶった真面目さやこけおどしとはおよそ異なるものであった。

 「ぼくは宗教を娯楽としてとらえています。宗教ほどの娯楽はないと思いますよ

 ___ゴラク!?

 「ええ、苦行することも楽しさのひとつだし、なおかつそれで真理を悟ることができるなんて、これは最高の娯楽ですよ

 やっぱり「異星人」だ!



2006. 11. 22  
 最初の瞑想会については↓

 http://homepage3.nifty.com/egghouse/meisoukai.htm
 で以前概略は書いた。

 今日は、新たに思い出したことを書いてみる。
 少しづつディープになると思うが・・・。

 覚醒した人二人が部屋を出て行った。

 部屋に戻ってきた時、一人が

 「ずっと目を見詰め合って涙を流してました。」と言った

 お二方は恋人同士と言うわけではない(多分)。


 目覚めた人同士は、お互いに通じ合う何かがあるようである。
 I先生には、「わかった」人が、わかる。
 これは確かな感覚のようだ。

 瞑想会参加者の女性が、ふすまを開けて会場に入ってきた瞬間、「あ、わかったんだ?」とI先生の方から声をかけた時もあった。
 その女性は「はい、お礼を言いにいかなきゃと思って・・・」と言った。

 わかることにはいくつかパターンがある。

 ひとつは、I先生が「誰か」わかること。
 ふたつめは、自分が「誰か」わかること。
 みっつめは、神が何かわかること。

 だったと思う。

 そのためには神に身を委ねることが何よりも大切なことだと先生は言う。

 まず神を信じること、そして好きになること、愛すること、そして初めて委ねるということが可能になると言う。

 I先生は覚醒すると、「(器質的に)脳が変化する」と言った。

 「俺は宗教やってる人とはケンカになるけど、脳の研究者とかとは逆に話しがあうんだ」

 I先生が僕に「その頭で覚醒したら面白いことになるよ」と言った。

 その言葉は僕に自分がいくらかオウムチックなニュータイプになるようなイメージをもたらした。また自分の知性が認められたようで心地よかった。

 しかし、今思えばこれらは僕のエゴを引っ張るための撒きエサだったのではないかと勘繰っている。なぜなら、しばらくはその「突然覚醒することへの期待」が会場へ足を運ばせる原動力になったからである。





2006. 11. 18  
 今月の修道会に出た時に、一緒に参加していたYさんは最近「分かった」ようであった。Yさんの奥さんは旦那さんから後光も何も出ずに、見た感じ普通なのが少し不満のようだった。

 僕が職場が合わない感じで困ってる話しをした時、I先生はYさんに「Yさんは仕事どう?」と聞いた。
 「仕事は楽しいことばかりですよ。問題ばかりだけど」と答えていた。

 I先生のところで、この「分かった」というのは小悟の状態なのだろうか?
 
 僕はまた、あー先を越された、と思った。

 「俺に言わせれば、ここへ来ている限り、分かるのは時間の問題でしかない。なぜなら、俺はそれを教えるのが仕事なんだから」

 「あのね、悟り(神)がないって思うのは、自分の体に、例えば胆のうがないって思ってるみたいなもんだ。
 胆のうのことばかり考えていたら、胆のうノイローゼになって、医者に相談するかもしれない。
 先生、私、胆のうがないみたいなんです・・・って。
 医者は、え、君胆のうがないの?(爆)」 

 Yさんが体を床に伏せるみたいにして、笑っている・・・。

 I先生がチベットから帰国後、墓石屋さんで働いていた時の話しをきいた。

 ある日、I先生が顧客である有名な霊能者を乗せて走っている時に、その霊能者がI先生の方をじーっと見て

 「あなた、お坊さんでしょ?なんでこんなことやってるの?」

 と言ったらしい。

 「観音菩薩様が泣いてらっしゃるわよ。」と。

 それから霊能者は、I先生を見ながらテレパシーを送るみたいにうんうんとうなづいてきた。I先生もその内容がわかるような気がしたので、うんうんとうなづき返した。
 するとそこに同席していた社長は面くらい、
 「ちょっと、一体ふたりで何をやってるんですか!?」(笑)
 



 前回の続き。

 個人セッションを受けた僕は、瞑想会にも参加したいと思ってたのだがなかなかきっかけがつかめなかった。

 個人セッションのことをHPに書き込んだら、世話人のNさんという人から瞑想会にお誘いのメールが来た。
 「また新たに覚醒した人がいる、ホンモノの覚醒者に会えるのはすごいことだと思いませんか?」と書かれていた。
 僕は強引な誘いにちょっと引き気味だった。

 が、ここまで来たら行ってみるしかないと思い、2004年の4月に初めて瞑想会に出てみた。それはかなりぶっ飛んだ異次元空間だった・・・。

2006. 11. 10  
 この初回の個人セッションの時には、僕自身のセクシャリティについても話した。
 というのは、I先生を紹介してもらったRさんは基本的にゲイの人対象のセラピストであり、Rさん経由で来たということは僕もゲイであると考えられてまあ当然だろう。
 だが、僕は(基本)ゲイではなく、恋愛対象は女性だ。
 Rさんの所へ行ったのは、自分が本当はゲイなのではないかと煩悶していた時期で、ゲイの人向けのセラピストならそういう悩みも包み隠さず打ち明けられると思ったからだった。
 だが少し、人と比べるとちょっと変っているところがあるとすれば、僕は別に同性とセックスすることがそれほど異常なこととは思えないということ。
 自分を女性化したいという願望が結構強くあるということだろう。「らんま1/2」みたいに日替わりで男になったり女になったり出来たら楽しいと思う。
 しかし、自分を女性化したいということと、男が好きということとは必ずしもイコールってわけではない。
 
 そういうことをI先生にも話した記憶がある(これは本題ではなかったけどRさんの話題から自然にそうなった)。
 「彼女とセックスする時にも、そういう自分の女性的な部分を出せるといいね」とI先生は言った。
 僕は自分の中に住んでいる『女の子』をもっと認めてあげてもいいんだと思うようになった。

 この『女の子』は一時期、僕がある種の意識状態になると、繰り返し出現するようになった。あまりにもその頻度が多いのでこのパーソナリティにのっとられてしまうのではないかと思うくらいだった。しかし、『彼女』がやりたかったのは僕にとって代わることではなく、ただ自分の存在を認めて欲しいだけのようであった。『彼女』と会話をして、優しく接することによってそれは僕の一部として統合されていったように思う。
 『彼女』は「変態」なのではなく、僕の感性や直観を司っている重要な部分なのである。それを無視したり、冷たくすると、彼女は様々ないたずらによって自分の存在をわからせようとしてくる。
 僕は自分のアイデンティティーを固定し、男らしくなろうとするのをやめた。それはつまり、「彼女」に対してドアを閉ざすことだからだ。
 このドアはいつも開けっ放しにして、「彼女」が戻ってきたらいつでも入れてあげようと思う。

 「女の子の部分を大切にね
 それが君の官能の源だから
 女の子の部分が
 全部いたずらしてるんだよ
 君が彼女を認めないから
 彼女を君だと認めないから」←ノートの走り書き


 I先生のところにはRさんからの紹介で、ゲイの人たちもたくさん来ている。おととしに連鎖的に13人くらいが覚醒(色々なレベルがある)した時もその中の3人くらいはゲイの人たちだったと記憶している。
 I先生によると、頭(思考)が邪魔をするので普通の男が一番難しいらしい。

 「ちょっと女々しいくらいでちょうどいいんだよ。」といつかの瞑想会で先生は言っていた。
 



2006. 11. 09  
 その日の個人セッションの時に、I先生がこんなことを言っていた。

 「僕の瞑想会で覚醒しちゃった人がいて、一月ほど一緒に暮らしてたんだ。」

 それが、I先生にホンモノの匂いを感じた時だったかもしれない。

 意識の覚醒(=悟り)はそれが深いレベルのものであればあるほど、その変容の期間中は色々な面で不安定になることが多いと思う。
 恐ろしい精神状態、魔境を経験することもあるだろう。
 インドのヨーギの伝統的な世界では弟子は師匠と寝起きを共にして、常にサポートを受けている。
 意識の根本的な変容を導く人間は、ひとたび生徒が変化しはじめたらそれくらい全心身での関わりと責任を要求されるものであると思う。
 (と、以上は僕の推論で、実際にはその一緒に暮らしていたことについて詳しい事情を僕のほうから突っ込んで質問した訳ではない)

 I先生は、1999年から2000年の5月に渡って複数回覚醒するという経験があり、そのことによって「神」を悟ったということであった。
 現在HP上にその悟りの時の様子はアップされていないが、僕の記憶によれば以下のような内容だった。

 ある夜、部屋の中に圧倒的なエネルギーが降りてきた。
 I先生はそのエネルギーに向かってあらゆる神々の名前を呼びかけてみたが返事はなかった。そして最後に「母よ!」と呼んだ時、そのエネルギーが反応し、それが宇宙万物の創造の母、マハー・マーヤであることを知った。


 これは「母なる神」の悟りであるとI先生は言う。
 この現象の、森羅万象の創造主である「母なる神」は「最初のマーヤ」とも呼ばれている。
 この母なる神と同時に、永遠に変化せず、いたるところに偏在する、久遠の智であるところの「父なる神」が存在する。
 悟りとは、この「父なる神」を知ることであると言う。
 そして「父なる神」を知らしめるのが、シャクティ(クンダリニー)を引き上げる「母なる神」の力だそうだ。

 これらのことはその後の瞑想会で、徐々に聞いた話である。
 最初の個人セッションの日は、ただとても貴重な人に出会えたという喜びとともに家路に着いた。



wahei1.jpg

2006. 11. 08  
 「東京に来ちゃった方がいいよ。こっちの方で呼んでるから。」

 Rさんのそのアドバイスと、自分の直観により、年が明けて翌年の春、東京に出てきた。その後一年ほどは、I先生のHPを時々見ることはあっても直接会いに行こうと思うことはなかった。

 I先生のところに行かなかった理由、それはもし会いに行ったとしても自分の苦痛が癒されることはないし、特にすごいことが起こる訳でもない。悟った人に会ったからと言って、自分も悟れるわけではないと思っていたからだった。

 しかし、こちらに来てから一年半ほど経った2003年の年末、実家でトラブル起こり一時帰省しなければならないことになった。
 家に帰り、その状態を見た時、僕はI先生に会いに行く事を決めた。

 2004年の1月のある日、保谷のマンションの一室で僕はI先生の個人セッションを受けた。
 保谷の駅から携帯に電話をかけると、まっすぐ道を歩いていって、○○医院の前まで来たらもう一度電話を下さいとI先生は言った。

 その○○医院の前でまた携帯にかけると、「じゃ、その場所で振り返ってみてください」と言われた。後ろを見ると、畑をはさんで向かい側のマンションの廊下の所で一人の男性が手を振っているのが見えた。
 「あ、どうも」とその小さなシルエットに頭を下げつつ僕は言った。

 まず最初に言っておくと、I先生はスピリチュアルカウンセラーの江原氏のような人物ではない。つまり霊視能力を使って問題点を探っていくというタイプではない。
 なんらかのそういう能力がI先生にもあるのかもしれないが、僕が見てきた限りでは積極的にそういう側面を出すことはない。
 それよりも、何気ない会話の中で、自然とその場やその人に適した言葉がひとりでに出てくるようである。

 実家でのトラブル・・・それは心の病に関することだったが・・を相談して出た結論は、どうも原因は前に住んでいた土地に関係があるのではないかということだった。その場所は近くに精神病院があり、また歴史的に見ても、昔こころの病を癒す水が湧き出ているという噂があり全国から巡礼のようにこころの病を持つ人々が集まってきた場所であった。

 I先生は僕が持参した家族の写真に手をかざして、しばらくの間無言で祈りを捧げてくれた。











2006. 11. 07  
 何回かに分けて、このブログでよく書いているI先生こと、岩城和平氏について出会ったきっかけ、そのお話しなどについて書いてみようと思う。




 I先生のことを知ったのは、セラピストのRさんを介してであった。

 2001年の夏。

 僕は大学在学中に住んでいた高知県から、はるばる東京までRさんの前世療法を受けに来た。
 その時に、RさんはI先生を「日本の精神世界で最大の人」と紹介し、すっかり心酔しているように見えた。
 僕が実家での様々なトラブルについて話すとRさんは、I先生はそういう家族問題にも詳しいので紹介してあげると言ってくれた。
 それだけではなく、その場でI先生のオフィス?に電話をかけてセッションの空きがあるかどうか尋ねてくれたが、生憎いっぱいのようだった。

 なんだか今こうやって書いて読み返すと、バックに変な宗教がついているヒーラーにひっかかったみたいだが『精神世界の住人』に免疫力がなかった僕はほとんど疑いを持つことはなかった。
 Rさんの人柄が直感的に信頼できそうに思えたというのもあるだろう。

 そして前世療法を受けて、高知県に帰った僕は早速I先生にメールを出して、実家の事などを相談してみた。
 その返事は、弟さん(長い間心の病気だった)が直にセッションを受けないと改善は難しいだろうというものだった。
 でもその返事のメールには、あたたかい雰囲気が感じられた。

 それ以後時々僕はI先生のHPを見るようになった。
 I先生は永遠や、神について語っていた。
 その語り口調、内容はどこかなつかしいものだった。 

 僕は精神世界の本を読み漁り、前世やチャクラやオーラとかそういう情報についてはなんとなく信じていたが、「神」については一体なんのことだがよくわからなかった。(というか今もわかってませんが)
 しかし、にも関わらず、何かが心に響いてくるようだった。

 9月のある日、I先生のHPの掲示板を読んでいると、「ニューヨークで恐ろしい事が起こっているようですね・・・」という書き込みがあった。

 一体何のことかとテレビをつけてみると、煙をあげているビル街と、そして恐ろしい情報が次から次へと矢継ぎ早に伝えられた。
 その日は9・11。
 僕は世界の崩壊を予感しながら、朝までテレビにかじりついていた。

 






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はいたか鳥

  • Author:はいたか鳥
  •  Only in silence the word,
     only in dark the light,
     only in dying life :
     bright the hawk's flight on the empty sky


     ことばは沈黙に
    光は闇に
    生は死の中にこそあるものなれ
    飛翔せるタカの
    虚空にこそ輝けるごとくに

    ゲド戦記 エアの創造より


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