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忘れることなく 悲しみを持て

『もしもあなたを見ることもなく おお主よ
 生きながらえているならば 
 あなたを手に入れてないことが 心に残れ
 忘れることなく悲しみを持て 
 眠っていても
 夢見ていても

 この世の市場に多くの日々を過ごし
 多くの富が手に積まれても
 なにも手に入れてないことが 心に残れ
 忘れることなく悲しみを持て
 眠っていても
 夢見ていても

 歩き疲れ道の上に座り込み
 埃の中に骨を埋め 心拡げるならば 
 道のりが遠く残ってることが
 心に残れ
 忘れることなく悲しみを持て
 眠っていても
 夢見ていても

 笑いに溢れ 家には笛が鳴り響き
 どんなに家を装い どんなに家を整えても
 あなたを連れてきてないことが
 心に残れ
 忘れることなく悲しみを持て
 眠っていても
 夢見ていても             』

 Varna Ghita おお主よhttp://www.geocities.jp/varna992005/

 パラマハンサ・ヨガナンダの本を読んでいる時に、上の歌詞を思い出した。
 『悲しみ』とは、宇宙の中心への呼び声だ。  
 決して、ありふれた不幸のことではない。

 

 



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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2005/09/25 22:29

約束された場所で

 村上春樹の「約束された場所で」が文庫で出ていたので、以前ハードカバーの方で読んでいたんだけど、又買って読み直してしまった。

 これは文藝春秋に連載されていた時は、「Post‐Underground」というタイトルでオウムの元(現)信者へのインタビューをまとめたものだ。

 前にも感じたことだが、僕はどちらかというとインタビューを受けている信者に心情的には共感するところが多い。多くの人が、現世の自分は世俗の価値観と相容れないという思いを若い頃から感じており、オウムが提出した解答に飛びついてしまった。

 もううんざりするほど言い尽くされていることではあるだろうが、オウムのカルト的・破壊的要素を除去した設備のようなものが必要だということだろうか。
 しかし、それはすごく難しいことのように思える。

 現実問題として、一体、誰が、どのような価値基準をもとに、どのような設備をつくるかということを考えるといくつもの問題点がある。
 まず第一に、もしも「悟り」ということを範疇にいれて考えるなら、それは常に管理されざるものとしてどこからかやってきて、どこかへ去っていく。
 そして、普通の人には、誰が悟っていて、誰が偽者かと言う区別をすることは結構難しい。
 いかにも聖人君子のような顔をして、とんでもない俗物という場合もあろうし、逆に支離滅裂で気が狂ったように見えて「わかっている」ということもある。(ゲオルグ・フォイアスティン「聖なる狂気」にこうした例が数多く記されている)
 
 だから、別に、「悟り」を目指して修行する施設なんかでなくてもいいのである。もっと穏やかで、自然の中にあって、自分のリズムを取り戻させてくれるようなもの。大地や宇宙との調和を実感できるようなもの。
 そのようなものでも充分なのではないかと思う。
 必ずしも「僧院」が必要というわけでもないだろう。
 極端に物質的な文明は、人間の尊厳を奪う。
 「生きて、宇宙とともにある」という根本的な幸福感や、生きている実感というものをこの文明で生きている人間は最初から奪われているように思えてならない。
 そのようにして生じる分離感、孤独感というものは悟りを求める原動力にもなるだろうが、彼らは結局「世界」がいやだったのではなく「世間=この社会」がイヤだったのではないだろうかと思える。
 
 オウムの事件は多角的な視点がないと、読み解くことができないし、その本当の意義(というか学ばねばならないこと)というのも理解されないまま忘れ去られていってしまうだろう。
 村上春樹は、自分は「シンプルで無教養な小説家」に過ぎず、宗教的な知識も乏しいと言っているが、オウム信者の人たちをオウムに導いていったのはやはり、普通の社会で得られなかった何かがオウムでのヨーガや瞑想で得られたということ、健康になり、幸福感を感じたという事実なのである。
 それは人によってはクンダリニー(尾てい骨に眠るエネルギー)の覚醒であったり、アトピーが治ったということであったり、もっと神秘的な悟りに似た体験をしてしまったということであったりする。
 そういう彼らが語る事実と対話するためには、やはりそれらを相対化するためにも霊的な類の知識というのはとても重要になってくる。
 だからどうしても、議論がある問題に来るとそれ以上発展せずに停滞するというような印象は受ける。
 例えば何人かの信者が、麻原と面談した時に(シークレット・ヨーガと呼ばれていた)自分の問題点や現在の状況をしゃべってないのに的確に指摘されたということを村上春樹に語っている。
 そういう時に村上春樹は「事前にあなたのデータをあつめたのかもしれないですよね」という風に返す。
 あくまでも、一般常識の土俵の中から出ないようにして対話を行うのだが、別に悟っていなくても霊的な能力でリーディングをする人は結構いる(ほんとにすごい人はあんましいないけど)。
 そういった魔的な霊的パワーに直面した時に、どうやってそれを見抜き、対処するかということが重要だったのだ。
 オウムについての問題は麻原がインチキだったからではなく、そういう霊的なパワーを確かに持っていたからだと思う。

 僕は誰かに、「オウムに入りそう」とか言われたことがあったけど、確かにリアルタイムでオウムという存在があったら少しは心をひかれていたかもしれないと思った。ある部分で共鳴するようなものがあるのだろう。
 しかしそれは、身体に悪いと分かっているのにジャンクフードにひきつけられるようなそんな感じ。
 本物ではないとなんとなくわかるのだが、近くに本物がなければ口当たりの良さそうに見える偽者でも貪り食いたくもなる・・・というような。

 んーどうかなー。めんどくさがりやだから、チラシ折りの奉仕活動なんかできないかも。出家して共同生活なんてウザいしなー。




















未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2005/09/21 22:00

カルマ・ヨーガ?

 20050915212158.jpg


 私の行為と無行為、存在を神に捧げる。

 私は宇宙の一因子として、存在している。

 私がなしていると思っている行為も、本当は分離不可能なエネルギーの循環の一部かもしれない。

 それならば、「我」の為に行為し、存在するのをやめて、宇宙に(神に)この存在と行為のひとつひとつを捧げてみればどうか。

 自分の目的の為に行為するのをやめて、神に捧げることを目的とするのだ(少なくともこの瞬間は)。

 私は宇宙の細胞の一部である。
 それは極小の一部ではあるが、交換可能な部品という訳ではない。存在するという栄光を始原の時から与えられており、私がいないと宇宙もまたない。

 私は、道路に降り積もる塵と同じように、ベンチにこびりついたガムのように、存在の栄光に浴しながらある。
 雑草のように、またウジ虫のように、私はこの身を宇宙に捧げつくしている。

 にも関わらず、私にはそのことが理解できないから、宇宙にこの行為を捧げようとするなどという小細工が必要になる。
 私はこの塵や雑草とどれくらい違うというのだろうか。
 私は、なぜそれらと、どれくらい違うかということを思い煩うのだろうか。

 ウジ虫にはカルマ・ヨーガは必要ない。
 ウジ虫は生まれながらのカルマ・ヨーギだ。
 ウジ虫の生命は、生命の悦びだ。
 
 挫折を信じた大学生が
 自分のウジ虫のような人生を嘆いてた
 
 海中のヘドロの中の細菌達は
 ウジ虫のような生活に憧れた

 ウジ虫は何とも思わずに
 ウジ虫の生命を生きている


 ダンテス・ダイジ「愛について」より












未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2005/09/15 21:23

これは、『魔境』

 最近どこかの掲示板で、対人関係に過敏なことも「魔境」の一種というのを読んで少し楽になった気がした。
 
 「魔境」というのは瞑想をすすめていった人が、遭遇する恐ろしい体験、あるいはそこにずっととどまりたいと思う程執着してしまう恍惚とした境地を言う。禅的な世界ではキリストにあったとか、ブッダにあったとか、そういう類のものは全て「魔境」として切り捨てられる。

 対人恐怖とかその他もろもろの他人がからんだマーヤというのは、ある状況に置かれるとそれと対応した過去からのエネルギーがあがってくることによって起こる。
 人生とは、生を瞑想することであるが、対人的な神経過敏というのもその終りなき瞑想の中の魔境の部分・・・という風に考えて見ることにした。

 もしくは、それは、バッドトリップ。血液と脳内麻薬によってラリラリになった、人生というトリップの中に織り込まれているきつーいネガティブ体験。 
 その中において、何をするべきかというと、全てを見据えるということしかない。
 このトリップと正面から向かい合い、どこにも逃げない。  
 そして逆らわない。
 そして、共演してもらっている人たちを憎まないということ。
 小さいことでも、してもらったことに感謝すること(これは内観療法からの影響かな)。
 自分にとってはそれが課題と勝手に決めて、なんとかやっている。

 実際、人間って、知らない間に無意識に人の役にたったりしてる。
 誰かある人にALLを求めると、それは必ず裏切られるだろう。
 どんなにすごい預言者、占い師、覚者であろうと、その人物に、自分のALLを求めることはできない。

 なぜなら、彼は、私ではないから。
 
 だからALLを求めていると、全ての人に裏切られたという思いを背負いながら一生さ迷うことになる。
 しかし、逆に全ての人に少しづつ助けられているとするならば、全ての人に感謝できるかもしれない。
 
 

 










未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2005/09/09 21:33

沈黙の聖者

MeharBaba.jpg


 電脳空間をさまよってる時に見つけた、メヘル・ババのスマイル。

 言葉で語ることが無意味であると感じ、40年以上にわたって沈黙を続けたという。
 僕は、メヘル・ババとはまったく違う意味で、あまりしゃべれなくなってきた。自分は、何も知らないということがますます自明のことになっていくに連れて・・・。

 ダンテス・ダイジとの出会いを綴った文章を見つけた。
 以下のページのメルマガvol.9~14あたりに連載されている。
 
 http://www.sun-inet.or.jp/~yuto/whatnew.htm 

 
 あんまりこっち系の世界に詳しくない人が読むと、単なる基地外さんにしか思えないかもしれないな・・・。
 僕は会ったこともないのに、勝手にダイジを敬愛していたが、「和尚とはアトランティスで酒飲んだ」にはさすがに引いたかな。
 しかし、普通ではない凄味は充分伝わってくるので、読めてよかった。
 ダイジがババジとどうやって出会ったかということや、「スケ番」のクンダリニーをあげて三分間殺したエピソードなどが面白い。
 渡辺郁夫さんの講話録のイメージとは大分違う、狂気を感じさせるグルの姿がある。なんでも、夜中に弟子の家にやってきて、眠っている弟子をいきなりぽこぽこ殴りつけ続けたとか・・・・。いやー
 
 すごい。

 貴重な資料なので、ワードにコピペしておいた。
 このホームページは、掲示板がすごいことになっているのでいつ消えてもおかしくはないだろう・・・。まるで死肉にむらがるハイエナのように、出会い系の書き込みが殺到しておるので。

 「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」の瞑想法を久しぶりに少しやってみて、チャクラ全開瞑想は、上下の軸と左右の軸を無限大に拡大するんだなーと思った。上に上げすぎたら気持ちいいけど、もしや戻って来れないのではという感じも。
 瞑想における空間の使い方・・・・というか、そういうの気になる。
 I先生はこの前、「手のひらの上に地球と太陽系が収まるくらいにまで意識を宇宙に飛ばすのも良い」というようなことを言っていた。
 自我意識が振り回されている日常の出来事も、意識を引き上げれば、ちっぽけな米粒のような世界の中で起こっているに過ぎないということ。
 「空間的に」意識を拡大すればするほど、結局は転変する現象の舞台は視界から消えて、不変の空間が多くなってくる。悟りはすごくスペーシーな感じらしい。
 
 今日は瞑想していたら、また身体と意識の位置が軽くずれている感じがした。眼を閉じて、「神のみこころののままに」と想うとまた回りだした。
 
 くるくるくるくる



未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2005/09/04 21:03
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