抽象的生活。
『部分を、いくつも調和せしめても、
全体性の調和は、決して起こり得ない。
全体性の調和は、全体性の調和以外からは決して起こり得ない。
セラピーとしての瞑想メソッドと、
純粋瞑想の決定的な違いが、
ここにある。 』
それを悟ることが起こるのは、それが人を悟らせる時だけ。
あー仕事忙しい。
日に40〜60本くらい電話を取るので、前にいたコールセンターの二倍分くらい働いている気がする。
しかし、二倍疲れるかというとそうでもなく、いい感じにいけてる時もある。
保留時間とか後処理時間のデータを取られ、管理されているのがうっとおしいけど。
ずっと喋っていると、どうも滑舌が異様に悪くなってきて、かみまくる。
なんでだろう?と思っていたが、どうやら口をあまり開けずに喋っているためらしい。試しに、あくびするくらいに口を開いてから話し出すとうまくいった。やっぱり、口を開いた方が声量、質ともにいい声がでるようだ。
当初、八月から4ヶ月の契約で、意志力だけでなんとか12月まで働いてあとは失業保険で暮らしてやろうと情けない(いやいや保険料は払っているのだからよいのだ)ことを考えていた。
そして意志力を支えるモチベーションは、「暇と金」である。
なのだが、金銭は抽象的なものなので、その活動それ自体においてどのようなものを得て、何を表現しているかということも重要だ。
抽象的なものというのは、「時間」と同じように抽象の中でのみ力を持つ、快楽を先送りするものだから。
活動それ自体に幸福感を見出せている人なら、たとえその活動によって得られた「抽象」がパーになったとしても、その絶望感は「抽象」自体の為に活動を行っている人よりも少ないだろう。
僕は、表面的な意識では貯金と失業保険という、もろに「抽象」のために今の仕事を選んだ。
しかしこういうエゴのプログラムは常に、自我には計算不可能な、the other-プログラムによって補完されている。
というか、ホントはthe other-プログラムもエゴのプログラムもなく、only one-プログラムがあるだけなのかもしれないけど。
全体性の調和は、決して起こり得ない。
全体性の調和は、全体性の調和以外からは決して起こり得ない。
セラピーとしての瞑想メソッドと、
純粋瞑想の決定的な違いが、
ここにある。 』
それを悟ることが起こるのは、それが人を悟らせる時だけ。
あー仕事忙しい。
日に40〜60本くらい電話を取るので、前にいたコールセンターの二倍分くらい働いている気がする。
しかし、二倍疲れるかというとそうでもなく、いい感じにいけてる時もある。
保留時間とか後処理時間のデータを取られ、管理されているのがうっとおしいけど。
ずっと喋っていると、どうも滑舌が異様に悪くなってきて、かみまくる。
なんでだろう?と思っていたが、どうやら口をあまり開けずに喋っているためらしい。試しに、あくびするくらいに口を開いてから話し出すとうまくいった。やっぱり、口を開いた方が声量、質ともにいい声がでるようだ。
当初、八月から4ヶ月の契約で、意志力だけでなんとか12月まで働いてあとは失業保険で暮らしてやろうと情けない(いやいや保険料は払っているのだからよいのだ)ことを考えていた。
そして意志力を支えるモチベーションは、「暇と金」である。
なのだが、金銭は抽象的なものなので、その活動それ自体においてどのようなものを得て、何を表現しているかということも重要だ。
抽象的なものというのは、「時間」と同じように抽象の中でのみ力を持つ、快楽を先送りするものだから。
活動それ自体に幸福感を見出せている人なら、たとえその活動によって得られた「抽象」がパーになったとしても、その絶望感は「抽象」自体の為に活動を行っている人よりも少ないだろう。
僕は、表面的な意識では貯金と失業保険という、もろに「抽象」のために今の仕事を選んだ。
しかしこういうエゴのプログラムは常に、自我には計算不可能な、the other-プログラムによって補完されている。
というか、ホントはthe other-プログラムもエゴのプログラムもなく、only one-プログラムがあるだけなのかもしれないけど。
アイデンティティーの流動化
フェアリーのエッセンスを吸い込むと、
アイデンティティーが流れる。
自分が白髪の長い老人のように、筋骨たくましい古代の男のように思える。
なじみのある、思考パターンや、自己のイメージが遠のく。
そして、アイデンティティーが消える。
その代わりに、ここにある、これだけが残る。
それは誰か?
これは何か?
こっちの方が本当で、いつも演じているあれは虚構に思える。
自己イメージを機能させるどこかがお休みしちゃっているのだろうか?
鏡を見ると、いつもの自分がいる。
しかし、それは自己ではない。
僕がそれを通して生きている、一人の人間。
なんだかんだ30年近くも、この生を生きてきた。
その生き物に
いつもありがとう、と言う。
ご苦労様。
ねぎらってやるとその生き物は少し、喜ぶ。
アイデンティティーが流れる。
自分が白髪の長い老人のように、筋骨たくましい古代の男のように思える。
なじみのある、思考パターンや、自己のイメージが遠のく。
そして、アイデンティティーが消える。
その代わりに、ここにある、これだけが残る。
それは誰か?
これは何か?
こっちの方が本当で、いつも演じているあれは虚構に思える。
自己イメージを機能させるどこかがお休みしちゃっているのだろうか?
鏡を見ると、いつもの自分がいる。
しかし、それは自己ではない。
僕がそれを通して生きている、一人の人間。
なんだかんだ30年近くも、この生を生きてきた。
その生き物に
いつもありがとう、と言う。
ご苦労様。
ねぎらってやるとその生き物は少し、喜ぶ。
『それ』を愛することができるまで
あらゆる空間に、『それ』はある。
時を越えて、『それ』はただあり続ける。
『それ』が全ての時空の戯れを、編み出している。
『それ』が欲しければ、それは手に入る。
しかし、『それ』を求め続けることは難しい。
死を思い出し、生を思い出し、本当に私たちを安らがせてくれるものが何であるのかということに思い至った時にだけ、『それ』を心から求められるだろう。
そのことに気づくまでには、『それ』以外のあらゆる興味深い戯れが私たちの友となる。
『それ』はどこにあるのか?
天にましますが、それだけではない。
胸の内に宿るが、それだけでもない。
私を内に含み、果てしなくひろがるこれ自体。
この存在性自体。
この当たり前の神秘。
私をここから立ち去らせないでください
答えの無い回答に、満ち足りていられますように。
時を越えて、『それ』はただあり続ける。
『それ』が全ての時空の戯れを、編み出している。
『それ』が欲しければ、それは手に入る。
しかし、『それ』を求め続けることは難しい。
死を思い出し、生を思い出し、本当に私たちを安らがせてくれるものが何であるのかということに思い至った時にだけ、『それ』を心から求められるだろう。
そのことに気づくまでには、『それ』以外のあらゆる興味深い戯れが私たちの友となる。
『それ』はどこにあるのか?
天にましますが、それだけではない。
胸の内に宿るが、それだけでもない。
私を内に含み、果てしなくひろがるこれ自体。
この存在性自体。
この当たり前の神秘。
私をここから立ち去らせないでください
答えの無い回答に、満ち足りていられますように。
灯台と岬
30分、4000円でまたリーディング系のセッションを受けた。
どこに行ってもとりあえず、今生に関係の深い前世については質問しているので、今回も一番初めにきいてみた。
場所はイギリス、アイルランド。時代はわりと近代。灯台が見える海辺の岬にひとりで住んで、詩を書いて暮らしていたそうな。少しさびしげな様子らしいが、それはどうも世の中に対する考えを詩とか物語の形で発表しようと、共に創作していた仲間が外国に行ってしまったかららしい。で、そういつが帰ってくるのを待っているということだった。
以前も別のところで、その辺にいたといわれたことがある。もっともそれは2000年くらい前ということだったけど。
その時は、あちら側の世界とつながっていろいろ見える人間だったが、見えるものを全部いいふらしたものだから村八分にされて、孤独死したということだった。
もしかすると、その辺に何回も生まれているのかもしれない。
今回は、何ひとつこちらの情報を与えていないので、なかなか感度がいいのではないかと思った。
詩は、大学生の頃かなり書いていた時期がある。いろんな詩人の詩集を図書館でコピーして集めていた時もあった。ブレイクとかイェイツの詩ですごく好きなのが何篇かある。
精神世界系のことを書くときは、どちらかというとシンボリックに表現する方が好きだけど、それはその頃の影響なのか?とか思う。
子供のときは、なぜかイギリスが好きだった。
良くわからず、響きだけで好きなのが、『グラストンベリー』。小さな修道院(だっけ?)がある丘陵。
昔、共に創作をしていた仲間は今生ではまだ会っていない。
だが、彼と会うことによって、なにかに駆り立てられるように、表現しようという衝動が湧き起こってくるだろう、といわれた。
はぁーそんなことあるんかいな。
興味のある方は一度、どうぞ
http://rebirth.cc/index.html
どこに行ってもとりあえず、今生に関係の深い前世については質問しているので、今回も一番初めにきいてみた。
場所はイギリス、アイルランド。時代はわりと近代。灯台が見える海辺の岬にひとりで住んで、詩を書いて暮らしていたそうな。少しさびしげな様子らしいが、それはどうも世の中に対する考えを詩とか物語の形で発表しようと、共に創作していた仲間が外国に行ってしまったかららしい。で、そういつが帰ってくるのを待っているということだった。
以前も別のところで、その辺にいたといわれたことがある。もっともそれは2000年くらい前ということだったけど。
その時は、あちら側の世界とつながっていろいろ見える人間だったが、見えるものを全部いいふらしたものだから村八分にされて、孤独死したということだった。
もしかすると、その辺に何回も生まれているのかもしれない。
今回は、何ひとつこちらの情報を与えていないので、なかなか感度がいいのではないかと思った。
詩は、大学生の頃かなり書いていた時期がある。いろんな詩人の詩集を図書館でコピーして集めていた時もあった。ブレイクとかイェイツの詩ですごく好きなのが何篇かある。
精神世界系のことを書くときは、どちらかというとシンボリックに表現する方が好きだけど、それはその頃の影響なのか?とか思う。
子供のときは、なぜかイギリスが好きだった。
良くわからず、響きだけで好きなのが、『グラストンベリー』。小さな修道院(だっけ?)がある丘陵。
昔、共に創作をしていた仲間は今生ではまだ会っていない。
だが、彼と会うことによって、なにかに駆り立てられるように、表現しようという衝動が湧き起こってくるだろう、といわれた。
はぁーそんなことあるんかいな。
興味のある方は一度、どうぞ
http://rebirth.cc/index.html
主従
「五羽の雀が二アサリオンで売られている。
だが、その一羽さえ、神がお忘れになることはない」
ルカによる福音書
<主>よ、という呼びかけ
それは私は<従>であるということ
こんなにも小さなわたしという存在が
こんなにも大きくわたしの意識を占めないように
私たちは<主>よ、と呼びかける
時空の全てに向かって
時空の根に向かって
私を生じせしめる
私以外の全てに向かって
<主>よ
私は<従>です
と呼びかける
私に全てを与えている、謎よ
命の湧き出る宇宙の深い穴
だが、その一羽さえ、神がお忘れになることはない」
ルカによる福音書
<主>よ、という呼びかけ
それは私は<従>であるということ
こんなにも小さなわたしという存在が
こんなにも大きくわたしの意識を占めないように
私たちは<主>よ、と呼びかける
時空の全てに向かって
時空の根に向かって
私を生じせしめる
私以外の全てに向かって
<主>よ
私は<従>です
と呼びかける
私に全てを与えている、謎よ
命の湧き出る宇宙の深い穴
「人間の永遠の探求」ヨガナンダ
「アウローラ」ヤコブ・ベーメ
パラマハンサ・ヨガナンダは「あるヨギの自叙伝」の筆者として有名。
「人間の・・・」は20世紀初めにアメリカで行われた講話集。
ラーマクリシュナには100年前のマーヤが、ブッダの教えには二千年前のマーヤがあると僕が教えてもらっている先生は言っていたけど、そういうのが気になるのをのぞけば大変よろしかった。
麻原彰晃の「マハーヤーナ・大乗ヨーガ経典」も書庫にあったので借りたけど、あまり面白くはなかった。やっぱり、スカスカ感がある。と、いうことは同時にジャンクフード的な味わいはあるということだけど。
気にかかったのは、やはり、オウムで言う「解脱」というのは麻原が認可するかしないかにかかっているようで、信者にはあんましその確信がなくても麻原が「解脱したな」と言うと「あーそうなのか」とその気にさせられているみたいな感じがある。これは上祐氏とかの体験談が本の後半部分に掲載されているのでそれを読んで思ったこと。
本人が「わかっている」という実感がないのに、グルの権限で解脱者になってしまうわけだ。まあ、信者の人たちが「わかったふり」をしていないというのは好意的にみれば無防備で正直だといえないこともないが、それは結局危険なグルが絶対的に君臨するための下地になってしまった。
「アウローラ」は17世紀ドイツの神秘主義者として有名なベーメの著作。前から惹かれていたので借りてみたが、ちょっと無理かな。想像以上に神話的・神学的・占星術的。
草+瞑想。
自我のイメージが、仮に構築されたものであることが論理的に正しく、それ以前には純粋に「ある」という状態しかない。
ということがわかったような状態に入る。(という妄想に入る)
また回りだした。「ある」を中心に「僕」が回転している。
あーなんだ、てことはまだ自我があるってこったな(笑)
和尚!ダイジ! LOVE!
「アウローラ」ヤコブ・ベーメ
パラマハンサ・ヨガナンダは「あるヨギの自叙伝」の筆者として有名。
「人間の・・・」は20世紀初めにアメリカで行われた講話集。
ラーマクリシュナには100年前のマーヤが、ブッダの教えには二千年前のマーヤがあると僕が教えてもらっている先生は言っていたけど、そういうのが気になるのをのぞけば大変よろしかった。
麻原彰晃の「マハーヤーナ・大乗ヨーガ経典」も書庫にあったので借りたけど、あまり面白くはなかった。やっぱり、スカスカ感がある。と、いうことは同時にジャンクフード的な味わいはあるということだけど。
気にかかったのは、やはり、オウムで言う「解脱」というのは麻原が認可するかしないかにかかっているようで、信者にはあんましその確信がなくても麻原が「解脱したな」と言うと「あーそうなのか」とその気にさせられているみたいな感じがある。これは上祐氏とかの体験談が本の後半部分に掲載されているのでそれを読んで思ったこと。
本人が「わかっている」という実感がないのに、グルの権限で解脱者になってしまうわけだ。まあ、信者の人たちが「わかったふり」をしていないというのは好意的にみれば無防備で正直だといえないこともないが、それは結局危険なグルが絶対的に君臨するための下地になってしまった。
「アウローラ」は17世紀ドイツの神秘主義者として有名なベーメの著作。前から惹かれていたので借りてみたが、ちょっと無理かな。想像以上に神話的・神学的・占星術的。
草+瞑想。
自我のイメージが、仮に構築されたものであることが論理的に正しく、それ以前には純粋に「ある」という状態しかない。
ということがわかったような状態に入る。(という妄想に入る)
また回りだした。「ある」を中心に「僕」が回転している。
あーなんだ、てことはまだ自我があるってこったな(笑)
和尚!ダイジ! LOVE!

