昨日、あるテレビ番組で松井守男というコルシカ島に住む画家が紹介されていた。
12年間、ひきこもるように暮らしていたらしいので興味を持った。ピカソに認められるほどの天才肌だったのだが、向こうの画商に目の仇にされ、作品を発表する場がなく絶望していたようだ。
発表する当てが無いまま作品を描き続ける時間が、10年ほど続いたあと、もう人生を終わらせるつもりである作品を描きはじめた。
不遇な境遇に生まれた怒り、自分を不当に扱う人間達への怒りをキャンバスにぶちまけるように描き続けた。
一日10時間以上キャンバスに向かう生活が、二年近くも続いたという。
ある時、松井氏は自分が筆で、「人」という書き続けているのに気づいた。
強烈に渦巻いていた怒りが浄化され、消滅していることにも。
そのようにして出来上がったのが「遺言」という作品らしい。
画家の内面でどのようなプロセスが展開されていたのか、凡人である僕には知る術はないが、想像してみる。
結局すべての怒りも、悲しみも、また喜びも、「人」によって、もたらされるということが悟られた時に、個々の人間を越えた、人類の集合体としての巨大な「人」が神々しい姿で迫ってきたのではないだろうか。。。
「人、人、人、人、すべて、人のことであったのだと。」
というのが僕の想像だ。そう考えて、勝手に癒されていた。
ちょっとイってる感じがする、おもろいおじさんだった。
「遺言」拡大↓
http://www.tcp-ip.or.jp/%7Eradishfm/sonota/yamaue.html
12年間、ひきこもるように暮らしていたらしいので興味を持った。ピカソに認められるほどの天才肌だったのだが、向こうの画商に目の仇にされ、作品を発表する場がなく絶望していたようだ。
発表する当てが無いまま作品を描き続ける時間が、10年ほど続いたあと、もう人生を終わらせるつもりである作品を描きはじめた。
不遇な境遇に生まれた怒り、自分を不当に扱う人間達への怒りをキャンバスにぶちまけるように描き続けた。
一日10時間以上キャンバスに向かう生活が、二年近くも続いたという。
ある時、松井氏は自分が筆で、「人」という書き続けているのに気づいた。
強烈に渦巻いていた怒りが浄化され、消滅していることにも。
そのようにして出来上がったのが「遺言」という作品らしい。
画家の内面でどのようなプロセスが展開されていたのか、凡人である僕には知る術はないが、想像してみる。
結局すべての怒りも、悲しみも、また喜びも、「人」によって、もたらされるということが悟られた時に、個々の人間を越えた、人類の集合体としての巨大な「人」が神々しい姿で迫ってきたのではないだろうか。。。
「人、人、人、人、すべて、人のことであったのだと。」
というのが僕の想像だ。そう考えて、勝手に癒されていた。
ちょっとイってる感じがする、おもろいおじさんだった。
「遺言」拡大↓
http://www.tcp-ip.or.jp/%7Eradishfm/sonota/yamaue.html
朝、瞑想(妄想)をしているとバーナデット・ロバーツの「自己喪失の体験」のコピーを読み直したくなった。
この手記が他の神秘体験を扱った文献とかなり違う匂いをさせているのは、やはり虚無との遭遇を扱っている章ではないだろうか。
ロバーツによると、人間の「自己=自我」とは虚無と直面するのを防ぐための防護膜のようなものであるらしい。
その『虚無』とはこのようなものであった。
「私は突然まわりのすべての生命が完全に停止してしまったのに気が付きました。どこを見ても恐ろしい虚無がすべてのものに侵入して生命を奪ってゆくのです。皆忍びよる虚無に息を詰まらせ、断末魔のうめき声を発するほかないのです。生命が急に抜け落ち、そのあとには死と崩壊しかありません。これは恐ろしい光景で、こんなものを見てはもう誰も生きていられないと思いました。」
この虚無に直面して、彼女は以下のことに気づく。
「自己と呼ばれるものは、絶対の無を見ること、生命の欠如した世界を見ることから人間を防いでいることが分かりました。自己が無ければ、この虚無に直面するのを避けるすべはなく、直面してはとても生きていられないのです。」
そして次の結論に達する。
「実際、この世のすべての人にまず第一に望みたいのは自己を持つことです。自己を持ちさえすれば、私が見たもの、それを見てはもう生きられないものを見ないですむのです。」
これはなにか究極的な魔境といったにおいを漂わせているように思う。
言い換えれば、「究極」に達する前に課せられた試練のようなものを。
「普通の意味での絶望とか憂慮とかいうものは、この不可知の重圧にくらべれば、自己防衛の玩具のようなものに過ぎません。この重圧の方は防ぐ手立てもなく、第一防ごうとするものさえいないのです。自己があるということは、どんな状況においても何よりも大きな補償となるもので、自己とは不可知の状態に対する人間の補償に他ならないというのが、今の私の確信です。」
自我、というのは『未知』を『既知』に翻訳し続ける機能を持っているのだろうか。
こういうことはダイジの本にも何箇所か書かれていたと思うので、このことをテーマにちょっと長めの文章を書いてみたい。と思った。
しかし、『未知』≒ヌミノーゼ(神的恐怖)≒究極的『美』
がエゴを超えた結果出現する、というのは理解できる(頭で)のだが、『虚無』というのがどこでどう出現するのかよく分からない。
・・・・多分、わからなくていいんだろうな。
石井登さんという人が書いた「臨死体験研究読本」を読んでいる。
石井さんは以下のHPの管理人さんである。
http://www.geocities.jp/noboish/
この本にも「自我」の定義とか、性質に割かれた章があって、臨死体験とか覚醒体験において、現象的に自我にどのようなことが起こるのかということが考察されている。
個人的には、自我、というのは脳の比較的新しい部分で構築されているのではないかと思う。確かそうだった。大脳新皮質とかそういうの。
しかし、それとは別に「ただある意識」みたいなのを担当している脳の部位があるんじゃないだろうか。辺縁系とかそういうの。
この「ただある意識」は「ただある」だけで結構充足しているのだが、表層部分の「自我意識」担当部署が活性化すると時間性とか個別性とか、社会的ステータスとか自分のみかけとかそういうのにひっぱられてしまって「ただある」というのを忘れ果ててしまうのじゃなかろうか。
あくまでいいかげんなイメージですが(^^
これだけだと、世界との一体感とか、そういうのがなんででてくるのかわかんないしな。
この手記が他の神秘体験を扱った文献とかなり違う匂いをさせているのは、やはり虚無との遭遇を扱っている章ではないだろうか。
ロバーツによると、人間の「自己=自我」とは虚無と直面するのを防ぐための防護膜のようなものであるらしい。
その『虚無』とはこのようなものであった。
「私は突然まわりのすべての生命が完全に停止してしまったのに気が付きました。どこを見ても恐ろしい虚無がすべてのものに侵入して生命を奪ってゆくのです。皆忍びよる虚無に息を詰まらせ、断末魔のうめき声を発するほかないのです。生命が急に抜け落ち、そのあとには死と崩壊しかありません。これは恐ろしい光景で、こんなものを見てはもう誰も生きていられないと思いました。」
この虚無に直面して、彼女は以下のことに気づく。
「自己と呼ばれるものは、絶対の無を見ること、生命の欠如した世界を見ることから人間を防いでいることが分かりました。自己が無ければ、この虚無に直面するのを避けるすべはなく、直面してはとても生きていられないのです。」
そして次の結論に達する。
「実際、この世のすべての人にまず第一に望みたいのは自己を持つことです。自己を持ちさえすれば、私が見たもの、それを見てはもう生きられないものを見ないですむのです。」
これはなにか究極的な魔境といったにおいを漂わせているように思う。
言い換えれば、「究極」に達する前に課せられた試練のようなものを。
「普通の意味での絶望とか憂慮とかいうものは、この不可知の重圧にくらべれば、自己防衛の玩具のようなものに過ぎません。この重圧の方は防ぐ手立てもなく、第一防ごうとするものさえいないのです。自己があるということは、どんな状況においても何よりも大きな補償となるもので、自己とは不可知の状態に対する人間の補償に他ならないというのが、今の私の確信です。」
自我、というのは『未知』を『既知』に翻訳し続ける機能を持っているのだろうか。
こういうことはダイジの本にも何箇所か書かれていたと思うので、このことをテーマにちょっと長めの文章を書いてみたい。と思った。
しかし、『未知』≒ヌミノーゼ(神的恐怖)≒究極的『美』
がエゴを超えた結果出現する、というのは理解できる(頭で)のだが、『虚無』というのがどこでどう出現するのかよく分からない。
・・・・多分、わからなくていいんだろうな。
石井登さんという人が書いた「臨死体験研究読本」を読んでいる。
石井さんは以下のHPの管理人さんである。
http://www.geocities.jp/noboish/
この本にも「自我」の定義とか、性質に割かれた章があって、臨死体験とか覚醒体験において、現象的に自我にどのようなことが起こるのかということが考察されている。
個人的には、自我、というのは脳の比較的新しい部分で構築されているのではないかと思う。確かそうだった。大脳新皮質とかそういうの。
しかし、それとは別に「ただある意識」みたいなのを担当している脳の部位があるんじゃないだろうか。辺縁系とかそういうの。
この「ただある意識」は「ただある」だけで結構充足しているのだが、表層部分の「自我意識」担当部署が活性化すると時間性とか個別性とか、社会的ステータスとか自分のみかけとかそういうのにひっぱられてしまって「ただある」というのを忘れ果ててしまうのじゃなかろうか。
あくまでいいかげんなイメージですが(^^
これだけだと、世界との一体感とか、そういうのがなんででてくるのかわかんないしな。
光の語る言葉
それは、なぜ愛すのだろうか?
という問いが、僕の中にずっとある。
それは僕たちのすべてを、わけ隔てなく愛していると言われるが、なぜだろう?
その理由を、子に対する親の愛で説明する場合もある。
つまり僕たちすべては、神から生まれた神の子であるから、親が子供を自然に愛するように、僕たちをいつも愛しているのだと。
「鉄を火の中に投じるのは、鋼にするためである。」
なぜあなたは、このような苦しみに満ちた世界に人を送るのですか?という神へのヨガナンダの問いかけに対して、そのような答えが返ってきたらしい。
しかし、梯子段を上るように、生み出した魂を低次から高次に進化させるというようなことをもし、神が行っているとしたらそれは普通の愛とは相当にかけ離れた愛であると言える。
なぜ、神は、自己を分割するのか?
一から多が発生するのはなぜなのか?
なぜ全てはあるのか?
なぜ全ては停止しておらず、全ては動いているのか?
というような疑問が、次から次へと発生する。
しかし確かに、宇宙には意志が存在する。
宇宙が始まり、数十億年後に銀河系のはしっこで超高温のガスが濃縮し太陽が出来、地球が誕生したのはひとつの意志の働きである。
生命が育まれるように絶妙にバランスされたこの環境。
これはひとつの巨大な愛なのだろうか。
それとも巨大なエネルギーの遊びなのだろうか。
太陽から降り注ぐ光を浴びて、私たちは生きている。
光がなければ、生命は生まれることはない。
神は光あれ!と言った
そして、光は、命よあれ!と言ったのだ。
なにか大きなものを、この光の下で生きている僕たちは与えられているが、それをうまく把握することが出来ていないようだ。
ひとつの稀な機会、というようなものを。
太陽の光が伝える愛の言葉を、感じられますように。
という問いが、僕の中にずっとある。
それは僕たちのすべてを、わけ隔てなく愛していると言われるが、なぜだろう?
その理由を、子に対する親の愛で説明する場合もある。
つまり僕たちすべては、神から生まれた神の子であるから、親が子供を自然に愛するように、僕たちをいつも愛しているのだと。
「鉄を火の中に投じるのは、鋼にするためである。」
なぜあなたは、このような苦しみに満ちた世界に人を送るのですか?という神へのヨガナンダの問いかけに対して、そのような答えが返ってきたらしい。
しかし、梯子段を上るように、生み出した魂を低次から高次に進化させるというようなことをもし、神が行っているとしたらそれは普通の愛とは相当にかけ離れた愛であると言える。
なぜ、神は、自己を分割するのか?
一から多が発生するのはなぜなのか?
なぜ全てはあるのか?
なぜ全ては停止しておらず、全ては動いているのか?
というような疑問が、次から次へと発生する。
しかし確かに、宇宙には意志が存在する。
宇宙が始まり、数十億年後に銀河系のはしっこで超高温のガスが濃縮し太陽が出来、地球が誕生したのはひとつの意志の働きである。
生命が育まれるように絶妙にバランスされたこの環境。
これはひとつの巨大な愛なのだろうか。
それとも巨大なエネルギーの遊びなのだろうか。
太陽から降り注ぐ光を浴びて、私たちは生きている。
光がなければ、生命は生まれることはない。
神は光あれ!と言った
そして、光は、命よあれ!と言ったのだ。
なにか大きなものを、この光の下で生きている僕たちは与えられているが、それをうまく把握することが出来ていないようだ。
ひとつの稀な機会、というようなものを。
太陽の光が伝える愛の言葉を、感じられますように。
夢
不安な夢を見て、夜中に目が覚める。
ひとつの英文だけが頭に残っている。
bone in the coffin.
棺の中の骨?
棺の中の骨、とはなんだろう?
普通、棺の中に入っているのは、遺体だしな。
骨。
本質的な部分。変らない部分。死によって世界にさらされるまで肉に埋もれているもの。
なんかの漫画だったかな?
骸骨を怖がる人に誰かが、
「いつも持ち歩いてる癖に、なんで君は骸骨をそんなに怖がるんだい?」
というシーンがあった。
骸骨のレプリカが欲しいなー。どこかでいいの売ってないだろうか。
仕事は、あまり疲れなくなってきた。
昨夜は瞑想中に、サイババのイメージが出てきたので、ややその像に集中してみた。
サイババ・・・一時叩かれ、今はもうかなり忘れられているが、僕はあまり悪い印象は持てない。
I先生は、サイババは肉体を持って生きている神だと言っていた。
EOは、サイババはせいぜい十牛図の7・5あたりだとか言ってたっけ・・。
神の恩寵によって目覚めた人を聖者というらしいが、ラーマクリシュナとか、サイババはその範疇に入るらしい。
確か蛇にかまれて、死線をさまよったあとに、自分はシルディ・サイババの生まれ変わりだと言い出したんだったっけ。
形として現われた様々な聖者の向こうには、形としてはとらえられないパーフェクトマスターがいる。
ひとつの英文だけが頭に残っている。
bone in the coffin.
棺の中の骨?
棺の中の骨、とはなんだろう?
普通、棺の中に入っているのは、遺体だしな。
骨。
本質的な部分。変らない部分。死によって世界にさらされるまで肉に埋もれているもの。
なんかの漫画だったかな?
骸骨を怖がる人に誰かが、
「いつも持ち歩いてる癖に、なんで君は骸骨をそんなに怖がるんだい?」
というシーンがあった。
骸骨のレプリカが欲しいなー。どこかでいいの売ってないだろうか。
仕事は、あまり疲れなくなってきた。
昨夜は瞑想中に、サイババのイメージが出てきたので、ややその像に集中してみた。
サイババ・・・一時叩かれ、今はもうかなり忘れられているが、僕はあまり悪い印象は持てない。
I先生は、サイババは肉体を持って生きている神だと言っていた。
EOは、サイババはせいぜい十牛図の7・5あたりだとか言ってたっけ・・。
神の恩寵によって目覚めた人を聖者というらしいが、ラーマクリシュナとか、サイババはその範疇に入るらしい。
確か蛇にかまれて、死線をさまよったあとに、自分はシルディ・サイババの生まれ変わりだと言い出したんだったっけ。
形として現われた様々な聖者の向こうには、形としてはとらえられないパーフェクトマスターがいる。
『発端への旅』雑感。
コリン・ウィルソンの主題は「アウトサイダー」から始まって、「オカルト」や「フランケンシュタインの城」、「右脳の冒険」を経て比較的最近の「エイリアンの夜明け」、「アトランティスの遺産」に至るまでほぼ一貫していると言っても良い。
それは人がどうやって「意識の狭隘さ」から逃れることができるかということの探求だ。
宇宙は広大で、美しく、多くの意味に満ち溢れているというのに、なぜ我々はこれほど個人的な習慣や、感覚に奴隷のように囚われているのか?とウィルソンは問う。
生に対する終局的な解答が意識の領域にある、という点でウィルソンは正しい。しかし、ウィルソンは常人離れしたエネルギーと、知性を持っているのは確かだが、いわゆる「賢者」ではない。
ウィルソンが理解していることは、あくまでも、人間の心理学的な領域のことであると思われる(著作から判断する限り)。
例えば「発端への旅」でも紹介されている、「二重意識」という概念。
ウィルソンはあらゆる絶頂体験(peak-experimence)は二重意識の経験であると言う。
ひとり、狭い部屋に座って退屈しきっている時に、外では雨が降り出す。
その瞬間、戸外での雨音を聞いたことにより、部屋の外に別の現実があることを突然思い起こさせる。部屋の外にはこの雨が降りかかっている木々や、畑や、家々のあることを。
これが二重意識。
それは意識が拡大し、より多くの別の現実と、今この場所(自己)とを連結させるような瞬間だ。
これは確かに一種の詩的な、意識の高揚だとはいえるが、全ての絶頂体験(この語はマズロー心理学の用語だが)がこのようなメカニズムを持っているとは限らないのではないか。
さらに、いわゆる悟り系の神秘体験においては全く当てはまらない。
僕は、そんなこととは縁がないので、まるっきり違うとは言い切れないが、「悟り体験」で起こるのは『絶対』の、直接的把握と言えるものであって、決してウィルソンが言うような、宇宙全体に広がる、意味の蜘蛛の巣を認識するということではない気がする。
ウィルソンが言うように、通常、あるひとつの事物は、他との意味的関連においてのみ理解することができる。
単独で存在するものは、意味をなさなくなる。
これが、「あの世」が生きる方便として必要な理由である。
「あの世」という外側(あるいは意味的に人生を包み込むもの)を設定することによってのみ、この人生はなんらかの意味を付与されるのである。
それと同様、来世や過去世といわれるものも、この人生を意味的に補完するものであるとも言える。
そこには無限に複雑なパノラマが表われることだろう。
しかし、あの世とこの世を貫いて、存在すべてを一つこととして考えた場合、そこにはもう新たな意味というものは出現しなくなる。
全てがひとつであるならば、そのすべてを外側から意味的に補うものはもう出現しなくなる。
これは何か?と問われた時に答える術がなくなる。
その答える術が無い謎を、理性でではなく、直観として理解すること、が『悟り』なのだろう。
だから、『悟り』は通常の意味的宇宙の話しではない。
・・・・と個人的には思う。
ということで、意識の問題に関する限り、ウィルソンを越えてる人は、ヨガの世界にも禅とかの世界にも、ニューエイジ系の世界にも結構いるだろう。
グルジェフを「オカルト」や「アウトサイダー」でとりあげているが、グルジェフの本質は、多分ウィルソンの想像を絶しているはずである。
だが、意識の問題を道徳とか、愛、とか「波動の高さ」とかとからめないニュートラルな姿勢は好きだったし、だからこそまだ精神世界に拒否反応のあった頃の自分が意識の世界に興味をもつきっかけになったということは確かだと思う。
なので、基本的に今でも、この人の本は好き。
金太郎飴だけど。
「発端への旅」を読んだので、「アウトサイダーを超えて」と「コリン・ウィルソンの来世体験」(丹波哲郎の本みたいなタイトルだな)も図書館で借りた。いつも同じことを書いているのに、なんだかあのウィルソン節には中毒性があるのだ。
偶然にも新刊コーナーにウィルソンの自伝が並んでいた。
自伝多いな〜マジで。
主な著作↓
http://members14.tsukaeru.net/thinkzink/cult/cw.html
またもや出た!コリン・ウィルソンの自伝↓(笑)
http://www.excite.co.jp/book/news/00021130733542.html
コリン・ウィルソンの主題は「アウトサイダー」から始まって、「オカルト」や「フランケンシュタインの城」、「右脳の冒険」を経て比較的最近の「エイリアンの夜明け」、「アトランティスの遺産」に至るまでほぼ一貫していると言っても良い。
それは人がどうやって「意識の狭隘さ」から逃れることができるかということの探求だ。
宇宙は広大で、美しく、多くの意味に満ち溢れているというのに、なぜ我々はこれほど個人的な習慣や、感覚に奴隷のように囚われているのか?とウィルソンは問う。
生に対する終局的な解答が意識の領域にある、という点でウィルソンは正しい。しかし、ウィルソンは常人離れしたエネルギーと、知性を持っているのは確かだが、いわゆる「賢者」ではない。
ウィルソンが理解していることは、あくまでも、人間の心理学的な領域のことであると思われる(著作から判断する限り)。
例えば「発端への旅」でも紹介されている、「二重意識」という概念。
ウィルソンはあらゆる絶頂体験(peak-experimence)は二重意識の経験であると言う。
ひとり、狭い部屋に座って退屈しきっている時に、外では雨が降り出す。
その瞬間、戸外での雨音を聞いたことにより、部屋の外に別の現実があることを突然思い起こさせる。部屋の外にはこの雨が降りかかっている木々や、畑や、家々のあることを。
これが二重意識。
それは意識が拡大し、より多くの別の現実と、今この場所(自己)とを連結させるような瞬間だ。
これは確かに一種の詩的な、意識の高揚だとはいえるが、全ての絶頂体験(この語はマズロー心理学の用語だが)がこのようなメカニズムを持っているとは限らないのではないか。
さらに、いわゆる悟り系の神秘体験においては全く当てはまらない。
僕は、そんなこととは縁がないので、まるっきり違うとは言い切れないが、「悟り体験」で起こるのは『絶対』の、直接的把握と言えるものであって、決してウィルソンが言うような、宇宙全体に広がる、意味の蜘蛛の巣を認識するということではない気がする。
ウィルソンが言うように、通常、あるひとつの事物は、他との意味的関連においてのみ理解することができる。
単独で存在するものは、意味をなさなくなる。
これが、「あの世」が生きる方便として必要な理由である。
「あの世」という外側(あるいは意味的に人生を包み込むもの)を設定することによってのみ、この人生はなんらかの意味を付与されるのである。
それと同様、来世や過去世といわれるものも、この人生を意味的に補完するものであるとも言える。
そこには無限に複雑なパノラマが表われることだろう。
しかし、あの世とこの世を貫いて、存在すべてを一つこととして考えた場合、そこにはもう新たな意味というものは出現しなくなる。
全てがひとつであるならば、そのすべてを外側から意味的に補うものはもう出現しなくなる。
これは何か?と問われた時に答える術がなくなる。
その答える術が無い謎を、理性でではなく、直観として理解すること、が『悟り』なのだろう。
だから、『悟り』は通常の意味的宇宙の話しではない。
・・・・と個人的には思う。
ということで、意識の問題に関する限り、ウィルソンを越えてる人は、ヨガの世界にも禅とかの世界にも、ニューエイジ系の世界にも結構いるだろう。
グルジェフを「オカルト」や「アウトサイダー」でとりあげているが、グルジェフの本質は、多分ウィルソンの想像を絶しているはずである。
だが、意識の問題を道徳とか、愛、とか「波動の高さ」とかとからめないニュートラルな姿勢は好きだったし、だからこそまだ精神世界に拒否反応のあった頃の自分が意識の世界に興味をもつきっかけになったということは確かだと思う。
なので、基本的に今でも、この人の本は好き。
金太郎飴だけど。
「発端への旅」を読んだので、「アウトサイダーを超えて」と「コリン・ウィルソンの来世体験」(丹波哲郎の本みたいなタイトルだな)も図書館で借りた。いつも同じことを書いているのに、なんだかあのウィルソン節には中毒性があるのだ。
偶然にも新刊コーナーにウィルソンの自伝が並んでいた。
自伝多いな〜マジで。
主な著作↓
http://members14.tsukaeru.net/thinkzink/cult/cw.html
またもや出た!コリン・ウィルソンの自伝↓(笑)
http://www.excite.co.jp/book/news/00021130733542.html
職場で席替えをした。
僕は、環境の変化に弱い(と思う)。
調子が出ない。
ふと気づくと、毎日使い慣れているログインパスワードが出てこなくなっていた。あれ〜〜〜??なんやったけ。
記憶の(再生)機能というのも、周囲の環境に結構依存しているのかもしれない。毎日同じ環境でメモリーを再生していたから、周囲の環境というのは記憶再生装置の一部になっているのだ。
だから環境が変ると、メモリー自体に損傷はなくても、再生時にエラーが起きる・・・。はぁ。
意識の働きは、水面下で多くのことが起こっているので、なぜ、今、その現象が起こっているのかということを知ることはそれなりに自己観察の訓練がいる。
例えば、突然、ひとつの歌の歌詞が頭の中に流れたとする。
意識的には、なぜそのメモリーが浮上してきたのかわからない。
しかし、多くの場合それは無意識の連想作用に基づいて起こる。
多分、その歌詞が浮上する直前に、それと象徴的に関連のあるなにかの情報を刺激として受けとったのだろう。
下意識はある刺激を受けると、それと意味的に連関したものを表層意識に投げ返し、行動化させる。
しかし、表層意識にはなぜ自分がそれを行っているか(例えば、なぜ、まさにこの歌を、なぜ今口ずさんでいるか)ということが理解できない。
こういう原理を応用したのが、催眠とかの世界なのだろう。
例えば、催眠の世界では「私が手を叩いたら、あなたは立ち上がって窓を開けます」という暗示をかける。
それは下意識に対して、手を叩くというインプットと、立ち上がって窓を開けるというアウトプットを人工的に連結させるという作業だ。
しかし、なにも操作がされていない場合は、個々人の象徴体系=下意識が働き十人十色のリアクションが起こる。
こういうのを突き詰めて考えると、人は常に無意識的連想作用に支配された人生を送っているということになりそうで、怖い。
というか、まあ実際殆どはそうなんやろうけどね。
と、同時に高次意識というのも僅かながら流れ込んではきている。
これは、機械性と単なる連想作用を越えたものだ。
多分。あはは
コリン・ウィルソンの「発端への旅」を読んでおる。
自伝。自伝好きやなーウィルソンは。
なぜ、一時期コリン・ウィルソンにすごく惹かれたのかがわかったような気がした。
コリン・ウィルソンの否定性、というか日常性とか、くだらないことに夢中になっている人間、文化への嫌悪とか、そういうのが自分の中の何かと同調していたんじゃないだろか。
しかし、まあそれだけじゃないけど。ね。
僕は、環境の変化に弱い(と思う)。
調子が出ない。
ふと気づくと、毎日使い慣れているログインパスワードが出てこなくなっていた。あれ〜〜〜??なんやったけ。
記憶の(再生)機能というのも、周囲の環境に結構依存しているのかもしれない。毎日同じ環境でメモリーを再生していたから、周囲の環境というのは記憶再生装置の一部になっているのだ。
だから環境が変ると、メモリー自体に損傷はなくても、再生時にエラーが起きる・・・。はぁ。
意識の働きは、水面下で多くのことが起こっているので、なぜ、今、その現象が起こっているのかということを知ることはそれなりに自己観察の訓練がいる。
例えば、突然、ひとつの歌の歌詞が頭の中に流れたとする。
意識的には、なぜそのメモリーが浮上してきたのかわからない。
しかし、多くの場合それは無意識の連想作用に基づいて起こる。
多分、その歌詞が浮上する直前に、それと象徴的に関連のあるなにかの情報を刺激として受けとったのだろう。
下意識はある刺激を受けると、それと意味的に連関したものを表層意識に投げ返し、行動化させる。
しかし、表層意識にはなぜ自分がそれを行っているか(例えば、なぜ、まさにこの歌を、なぜ今口ずさんでいるか)ということが理解できない。
こういう原理を応用したのが、催眠とかの世界なのだろう。
例えば、催眠の世界では「私が手を叩いたら、あなたは立ち上がって窓を開けます」という暗示をかける。
それは下意識に対して、手を叩くというインプットと、立ち上がって窓を開けるというアウトプットを人工的に連結させるという作業だ。
しかし、なにも操作がされていない場合は、個々人の象徴体系=下意識が働き十人十色のリアクションが起こる。
こういうのを突き詰めて考えると、人は常に無意識的連想作用に支配された人生を送っているということになりそうで、怖い。
というか、まあ実際殆どはそうなんやろうけどね。
と、同時に高次意識というのも僅かながら流れ込んではきている。
これは、機械性と単なる連想作用を越えたものだ。
多分。あはは
コリン・ウィルソンの「発端への旅」を読んでおる。
自伝。自伝好きやなーウィルソンは。
なぜ、一時期コリン・ウィルソンにすごく惹かれたのかがわかったような気がした。
コリン・ウィルソンの否定性、というか日常性とか、くだらないことに夢中になっている人間、文化への嫌悪とか、そういうのが自分の中の何かと同調していたんじゃないだろか。
しかし、まあそれだけじゃないけど。ね。

