2005年をそろそろ振り返っておく。

 仕事の上では、前年からのコールセンターの仕事を引き継いで1月が始まった。この仕事は3月で辞めようと思っていたのだが、結局センターの閉鎖が決まる6月末まで(だらだらと)継続した。
 同じ会社で契約社員として、某銀行同士の合併に伴う問い合わせ窓口の仕事を紹介してもらったが、その仕事の研修中に突然イヤになり飛び出して、翌日から行くのを辞めた。あーすっきり・・・したのもつかの間
 その後一ヶ月ほどは突然襲ってた猛暑に、クーラーの無い部屋で苦悶し、あまりの暑さに睡眠薬を飲んで意識のスイッチを切ったりした(自殺未遂とかではない)。
 研修を放棄してから3週間後くらいに、求人情報誌で渋谷で時給1400円交通費込みの仕事を見つけて、ここはしっかり働いて金をがっつり貯めるかと思い立ち面接を受けると、通った。
 週5日働かなければならないけど、12月いっぱいまでという期間限定なのでなんとかやれるかと思ったのだ。
 派遣されたのは、あの世界53カ国に支社のある、リッチーとジェイが設立したネットワークビジネスの本家老舗企業だった。ダイアモンドとかエメラルドとかサファイアとか、偉くなると宝石の名前が付いたステータスが手に入る、アレである。
 当初は相当うさんくさい印象であったが、働き始めると、それほど怪しい会社ではないように思えてきた。
 それどころか、やはり本社のビル内に受付窓口があるので、システムが以前の職場とは比べ物にならないほどしっかりしており、やりやすかった。
 電話の数は前の職場では一日30本前後だったのに比べて、こちらは50~60と倍近く増えたし、覚えなければならないことも倍近くあったが逆に言えば働き甲斐はあった。
 人間関係に関しては、僕の内面でのプレッシャーが勝手にたかまり、トイレの個室にこもり、頭を抱えて煩悶したことも二三回あったが、みなさん同僚はいい人たちだったので徐々に慣れてきた。
 もう通算でいうと、電話の仕事は一年半近くしている。
 僕にとっては、修行以外の何ものでもない。もともと、こういう系の仕事をする人はコミュニケーションに長けていたり、人と接することが好きな人が多いし、向いているのは言うまでもない。
 でも、いいコールをした時にはやはり充実感があり、喜んでもらえたり、ありがとうといわれると、単純にうれしい。
  
 本は、インド系のものをよく読んだ気がする。
 本山博のヨガの本を買って、小周天とかをちょっとやってた時期もあったけど、これはすぐにやめた。
 ヴィヴェーカーナンダの「ラージャヨーガ」「バクティヨーガ」、エリアーデの「世界宗教史」のインドの思想の項を読んで、インドの精神界の奥深さと豊穣さに改めて驚く。
 I先生の修道会でもインドはなぜあれほど多くの聖人を輩出しているのかという話になり、インドは実は失われたムーだかアトランティスだかで神聖な山、須弥山があった場所であり土地自体の霊的なエネルギーが非常に強いからだというような説があることをきいた。
 あと、インド系のといえば、ユクテスワ師の「聖なる科学」、そのお弟子さんのヨガナンダの「人間の永遠の探求」、あ、「バガヴァッド・ギータ」も読んだ・・・。

 今年は精神世界系のこととしては、セラヴィ・オーラ療法に二回ほど行って、Rebirtというところで遠隔リーディングを体験したくらい。
 二ヶ月に一回ほどの割合で、I先生の修道会に通った。
 あとは、ひとりで瞑想。

 神へ向かう↑軸と、横へ広がり→他者とつながり癒し癒される軸との間のバランスが必要であることを学んだ。
 男性性と女性性。
 この統合としての十。よくそのことを考えていた。

 なぜなら、横へ広がるエネルギーが阻まれブロックされている時に、神へ向かう↑とそれは横軸のブロックをさらに強化するように思うから。
 防衛として↑に向かうと、横への流れの抵抗を強めてしまう。
 そのような時には素直に横軸に→こちらからエネルギーを流した方がまし。
 僕の中ではそれは、縁ある存在を光で包むことだった。








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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2005/12/28 22:11

ヌミノーゼ

 ルドルフ・オットー「聖なるもの」と取り組み中。

 よくヌミノーゼという言葉を使うが、語源はこの本にある。
 
 聖なる存在に直面したときに感じる、畏怖や畏敬の念のこと。
 伝統的な宗教や、神秘主義の中では比較的この種の感情に言及されることが多いが、商業的ニューエイジ系ではあまり言われないと思う。

 リルケの詩では「恐怖は美の始まり」という一文で要約されている。

 測り知れないもの、想像を絶するもの、巨怪なもの。




 「人々は把握できず、全く考えられない最高の存在が、もはや単にそのようなものでないかのように、神の名を気ままに用いる。そうでなければ「主なる神」「善き神」とは言わないだろう。神の偉大を真に感じたなら、彼らは黙し、尊崇のあまり、神の御名を呼ばないだろう。」

  












未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2005/12/27 21:40

 瞑想の質は、やはり変化しているみたいだ。

 修道会の翌日のような、らりらりな感じはないけど。
 ああもわかりやすく身体に来ると、なにかの影響を信じないわけにはいかない。即物的な自分にもわかりやすいような形であらわれてくれているのか・・とか思う。

 隣の席にガンギマリな感じの人が座っていて、仕事がすごく大変でも揺るがなくなってきたというような話しをしていた。逆に死ぬほど疲れて帰ってきたときのほうがよく「トベる」こともあるらしい。

 それはわからなくもない。
 疲れてるほうが余計な雑念が湧いてこない時があるから。
 家にこもっている時は、確かに外側から迷いの種が入り込んでくるということはないが、なんともいえない閉塞感や、内側からのマーヤが徐々に滲み出してきたりするのだ。

 I先生は、霊障を受けるようなスポットに行ってきたあとの方が瞑想に入れることがあるというような話しをした。
 そういう時は座って目を閉じたとたんに、お化けがビジョンとしてばーっと襲いかかってくるから集中しやすいんだそうだ。それって・・・(^^;わからん。

 神に意識を向けると、神があり、マーヤに意識を向けると、マーヤはどんどんふくらんでいく。
 仕事できついおばちゃんからの電話を取ると、そのおばちゃんとのやりとりを思い返したり、そのおばちゃんのいやらしさを(内面で)言語化しようとしたりするのだが、そういう内的行為がマーヤをどんどんマーヤにしていくのだなと感じる。泥で遊べば、自分の手も汚れざるを得ない。
 現象(マーヤ)以前に、戻れば、そこには煩わされるものはない。

 ダイジの「アメジスト・タブレット」を少し読み直す。
 0か1だなーと思う。ダイジのもとにはぎりぎりの人しか集えなかったのではないだろうか。初期の講話録はある程度守備範囲が広いと思うけど。
 でも「アメジスト」は自我に対して、かなり露骨に敵対的な部分が多いので普通読んでるとイヤになったり、きつくなったりしやすいと思う。
 この自我への攻撃をもっとも徹底的に、分析的におこなったのが、グルジェフではないだろうか。
 人の自我を攻撃するのは、その人の真我を愛しているからだと思う。

 しかし、「我」というのはやはり卵の殻的な側面ももっており、割れば必ず中から新しい命が出てくるわけではない。時期が早いのに叩き潰したら、可能性を潰してしまうだけだろう。








未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2005/12/14 22:13

驚くべき恩寵

Amazing grace how seet that sound
(アメイジング・グレイス、その美しい響き 

That save a wretch like me
(私のように堕落した者も救ってくれる

I am was lost ,but now I`m found
(かつて私は道を見失ったが、今神に見出された 

Was blind but now I see.
(見えなかった目は、今は見えるようになった。 

 今年最後の修道会に参加してきた。
  
 こういう言葉が印象に残った。

 「私の手の一本も喜んで差し上げますくらいの思いが必要だ。自分の命さえも。これは難しいことだから、最初からそうなれとは言わないよ。
 でも君がそう思えるようになったら、神は本当に命をとりあげるかといったらそうじゃない。君から、君の(自我)意識をとりあげるんだ。 (そうしたら、神がわかる)」

 あと、常に神を思い続けるバクティ的な行為と、常に自己を想起することを説くグルジェフの自己想起とは矛盾しないのかと質問した。

 I先生の言うところによると、自己を想起することも、神を想うということもあちこちにふらふらとさ迷う意識を、ひとつに凝縮しようとすることに目的がある。
 もしも「神をわかる」ということが目的であるならば、神を想っていないとときは無意識に陥っているときだという。

 最近は、光をイメージすることや、神を思い続けることが不自然に頭を酷使してるように思え、頭頂に留意することを続けていた。そういうのもありですか?と質問した。

 「いろいろな方法があってもいい。インドではいろいろタイプの人に向けてそれぞれ違うヨーガが発達してきた。
 行為することによって神を感じ、行為の結果を神に捧げるカルマヨーガ。
 バクティヨーガは神様が大好きで、祭壇の前に座って一日泣いている様な人には向いている。
 自分は誰かということを問い続ける、ジュニャーナヨーガはラマナ・マハリシが教えていたやり方だ。

 でもラマナは、相手によって違う内容の話が出来る人だった。なんだっけ最近出たラマナの本は?ラーマクリシュナの話しは首尾一貫している。彼はいつも神への愛を説き続ける。でもあのラマナの本はめちゃくちゃだよ。それは相手に応じて必要な話しができる人だったからなんだ。」

 「グルジェフは完全に悟っていた。でも彼の正体は、ベルゼバブなんだ。マトリックスのメロビンジアン。そして自分の役どころを完全に理解していた。」

 今回は久しぶりに身体に来た。
 夏に参加した時と同じように、頭が痛く、翌日はくらくら。

 中島啓江さんという歌手が出ていたオーラの泉のビデオを見た。
 アメイジング・グレイスに感涙した。

 





修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2005/12/11 17:02
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