精神的な指導者が、社会的・道徳的に見て、許しがたい行為を行うという場合そこには何パターンかの理由があるように思われる。

 まずひとつめ、

 ①彼が完全な詐欺師であった、という場合。

 つまり彼は、占いの技法や聖典などをある程度研究し、そのような世界に関する知識を持っていた。加えて、人をコントロールし、欺くすべに長けていた。彼は宗教はやりようによっては非常に金になる、と思いいわば「事業」として教えを説いていた。
 この場合、彼はいかなる形での内面的体験、覚醒体験もしていない。彼は物質を越えたものを信じてはいない。
 しかし、このようなケースは比較的少ない。
 そして、あまり大きな社会的問題にはならない。
 問題になるのは、②以降である。
 
 ②彼は完全に本物の導師であった。ただ「狂気の師」であったために現代の社会がそれを容認できなかった。

 人が描く、聖者のイメージと言うのはステレオタイプである。彼は温厚で優しく、自我から解放されている。いつも静かに微笑んでいる。彼は正直で、謙虚で、ストイックだ。このようなイメージは、あまりにもステレオタイプでありすぎるために、リアリティーに欠ける。
 人々は「聖者は~をしない」というルールを自分の頭の中で勝手にいくつもつくりあげる。聖者は嘘をつかない、聖者は汚い言葉を使わない、聖者はセックスをしない、聖者は贅沢をしない、聖者はミニスカをはいて、鼻ピアスをしたりしていない(そうではなくなんかだらーんとした長い服をきている)・・・その他無数。
 もちろん、そのようなイメージに限りなく近い聖者というのも存在する。しかしそれが聖者の表の顔だとすれば、裏の顔をもつ導師と言うのも存在すると僕は思っている。
 彼らは、一見すると、めちゃくちゃな振る舞いをする。突然怒鳴りつけたり、非合理な事でしかりつける。いきなりベンツを何十台もコレクションし始める。女弟子や信者に手を出して、はらませる。
 しかし、彼らは本当は真理を悟っており、そのような行動は「愛ゆえに」されているのだ。和尚は確か、講話でこんなたとえを用いていた。
 
 『せまい部屋に鳥が迷い込んできた。窓は開いているが、鳥はそれに気付いていない。そこで、私は強く手を叩いた。すると、驚いた鳥は舞い上がり、開いていた窓をすり抜けて大空へ帰っていった。
 さて、手を叩いた時に鳥は、どう思っただろうね?
 ひどく驚き、いくらかは屈辱的に感じたのではないだろうか?』
 
 このように手を叩く、という行為、つまり人を解放へと導く行為が場合によっては人間の自我をひどく脅かせるものであることもありうる。弟子には、それが全く理解できないが・・・。なぜなら弟子は、短期的な視点しか持ち合わせていないからだ。
 導師は弟子にどう思われようが頓着しない。そういう次元には生きていないからだ。言葉のわからない鳥に愛情を持って「あそこに窓があるよ」と話しかけるよりも、ぱん!と手を勢いよく打ったほうが早いからだ。そうすれば、鳥は機械的に飛び上がり、自動的に窓から出て行くということを導師は予測できるのだ。少しくらい驚かせても、それが鳥のためだ。

 ではこの行為はどこまで、通常のモラルを越えるのだろう?
 
 嘘をついて弟子を導くことはあるか?→YES、僕はあると思う。
 意味もないことで叱ったり、暴力を振るうことはありうるか?
 →YES、僕はあると思う。 
 では弟子のために、弟子を殺すことはあるか?→・・・・・。

 結局、これがオウムのヴァジラヤーナ、金剛乗の問題である。
 自我を脅かす、解放のための手の一打ち、これを論理的にいくとこまで飛躍させていくと必ず、

 社会的極悪=超越的最善

 という価値の大反転にまで行き着きはしまいか??
 可能性としては、僕はそれもあると思う。
 なぜなら、神は、そのようなことをいつもするではないか・・・。
 しかし、これは麻原や、凡人である僕たちが考える事ではない。

 狂気の師という存在に社会が無理解なのには、もうひとつ理由がある。
 多くの場合、

 浄化→進化→浄化→進化→浄化→進化→悟り

 と、ステップバイステップで真理に至ると考えられている。
 これだと、真理を悟った人は、浄化されつくしている訳だから全くピュアな神様みたいな存在になっていても不思議ではない。

 だが、癒し、浄化、進化と言う軸の延長線上に

 悟り・覚醒というポイントが必ず待っているわけではない。このふたつは全く無関係ではないにしても、常にずれており簡単には理解できない。
 だから目覚めた人が、人格的に完全(それってどういう意味だろう??)だとは限らないのである。
 ダンテスダイジは、「悟りと人格的成熟はまったく無関係だ」と言い切っているが。。。 
 ②の狂気の師が、社会に波風を立てた場合、それは必要な波乱、「みこころ」であったということになる。

 ③彼はいくらかは真理を知っていたが、それは不完全な真理であったと言う場合。

 これがやばいパターンではないか。
 だいたい、ドラッグもやっていないのに、ばーっと光のかたまりが見えたり、美しい声が話しかけてきたり、見えるはずの無いものが見え始めたりした時に、自我が増長せずにいられる人間がどれだけいるのか?

 グルジェフは「人が覚醒すると、眠り込ませる力が何倍もの勢いでやってくる」と言っていた。
 この眠りこませる力、というのをサタン(外的な諸力)と考えることもできるが、あるいは「我の揺り戻し現象」ともいえるかもしれない。
 潮が引いた海辺のように一時的に解消した自我が、今度は津波のような勢いで押し寄せてくるのだ。
 そして、経験した「至高の至福」を自我と合体させることによって最強のモンスターが生まれる。
 
 自我+至高の至福=私は神に選ばれた存在だから、あのような経験をした。


 もう、彼は人間ではなくなってしまうのである。
 そして、ある意味悲劇的な存在と化す。
 覚醒と堕落の落差があまりにも大きかった場合、社会は彼を①の詐欺師として裁き、抹殺するしかなくなってしまうのだから。

 「何者でもないこと」の至福を知った後で、今度は彼は自己をあの世的なイメージと同一化し始める。
 僕らは、神々に近づくのではなく、「何者でもないもの」にならなければならないのではないか。





 











 
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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/29 12:11

酔っ払いシリーズ(2)

   (1)

いいことを教えてあげよう

あなたの亡くなった親しかった人はどこにいるか

彼らはあなたの心の中にいる
ありきたりの答えに聞こえるかもしれない
でもちょっと意味が違う

あなたの記憶の中に生きていると言うわけではないんだ
心の中にいるというよりも
彼らはあなたの心の奥の世界で生きて活動している

あなたが彼らを呼ぶと彼らは天から降りてくるのではない
あなたが呼ぶと あなたの心の奥の世界から
あなたに向かって浮かび上がってくるんだ

だから死者は僕らを心の内から知っている
死者はまさに、生者より僕たちに近しい
まるで僕たちの血肉のように
あなたは彼らが生きているときに彼らに向かって
心で語りかけることができただろうか?
でも今はそれが簡単に出来る

あなたの心からつながる、心の奥の世界
死者が、そして、天使と悪魔が語りかける
そこであなたは全てとつながっている

感じられなくても、あなたの中に全てがある
あなたは天国と地獄への門

僕もいつか、死の時には僕自身の心の奥へ帰っていくのだ
だから何も怖れる必要はないのかもしれない
そこはいつも僕を見守っていたあの大きな愛のいる場所だから

全てとつながっている
僕らは
心に吹く風だ

(2)

ご先祖様ありがとうございます
日本の神様ありがとうございます
全ての魂よ、ありがとう

樹よ 草よ 日よ 水よ
ありがとう

何かひとつだけなくなっても
この世界は成り立たない
だから存在している全てのものへ
僕らが存在する事の感謝を込めて

ありがとう

動物達よ 植物よ

君たちがいるから僕がいて
僕がいるから君たちがいる

空よ 風よ 太陽よ
電柱よ アンテナよ 屋根瓦よ
車よ 畳よ ボロアパートよ

ありがとう














未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/27 18:49

 「永遠の伴侶~スワミ・ブラマーナンダの生涯とその教え~」
 日本ヴェーダーンダ協会出版

 ラーマクリシュナの直弟子といえば、僕はヴィヴェーカーナンダしか知らなかったが、この本はもう一人のブラマーナンダ師の伝記や教えをまとめたものになっている。

 『永遠の伴侶』というタイトルは、ラーマクリシュナがこのブラマーナンダ師がクリシュナ神と蓮華の上で遊び戯れているというビジョンを見、この少年はクリシュナの永遠の伴侶であると悟ったというエピソードから来ているようだ。

 ブラマーナンダ師の教え、導き方というのはかなりI先生のやりかたに似ている。バクティ、神を思うということを強調し、ジャパ(神の名を唱える事)を勧める。先生はこの本を種本にしているのではないかと思ってしまうほど似ている。
 しかし、それだけに、僕が今いる方向性に適したアドバイスがたくさんこの本の中に発見されたように思えた。

 『誰でも、自分の一番好きな仕事をしたいと思うのだが、それは働きの秘訣ではない。どんな仕事をする場合にも、それが好きであろうとなかろうと、それは主の御仕事である、ということを知り、それにふさわしい態度をとれ』

 『ある時ある人がラーマクリシュナに、自分は一向に神を瞑想したいという気持ちにならない、と打ち明けた。師はかれに、誰を、もしくは何をもっとも愛しているかとお尋ねになった。かれは、自分はペットの子羊を一匹飼っていて、それを非常に深く愛している、と申し上げた。

 「よし、よし!」と師はおっしゃった。

 「たいそう良いことだよ!その子羊に餌をやる時には必ず、かれを愛撫したり何かをしてやったりする時には必ず、自分はいま主に奉仕しているのだ、と考えよ。もしお前が真心こめてこれをすることができるなら、それで最高者に到達することができるぞ!」と。』

 『常に神を思え。ものを食べている時に、すわってる時に、寝ているときにかれを思え。何をしていても神を思え。このような実践の反復によって、瞑想の時にらくに神を思い、かれに没入することができるようになる』

 『シュリ・ラーマクリシュナは常におっしゃった、「決してこころのエネルギーを浪費してはならぬ」と。これは、絶え間なく神を思っていよ、という意味である。世俗的な人は、自分の金を浪費しないように非常によく気をつけるが、自分の心を浪費していることにはほとんど注意を払わない。心に絶えず神を思う、ということほど偉大なことはないし、やさしいこともない。このような実践こそがクンダリニーをめざめさせるのだ。マーヤーのヴェイルが一枚また一枚とはがされて新しい視野がひらけるのである。』

 『神を買う事はできない。見神の経験は、ひとえに神のお慈悲によって与えられるものだ。それでは人は修行しなくてもよい、ということになるのか。絶対に、しなければならない。そうでなければ、欲情が人をめちゃくちゃにしてしまうだろう。 金持ちは門番を雇う。門番の務めは、泥棒も牛も羊もその他の侵入者も邸内に入ってこないよう見張る事である。人の心はかれの門番である。それだから心は強くなるほど良い。心はまた御しがたい馬にもたとえられて来た。そんな馬は乗り手を間違った方向につれて行くかもしれない。手綱をしっかりと握ってその馬を制御することのできる者だけが、正しい道を歩く事ができるのだ』

↑こころが門番なら、神様はさしづめ「お客様」か。いつくるか分からない客。「お客様は神様です」お~至言!(爆)

 『もし神の御名という甘露を味わったなら、それをとなえるのをやめることなどが、できようか。かれの御名の力たるや、人がそれを感情をこめて繰り返しても機械的にくり返しても、どちらでも効果が現われる、というほどのものである。師はよくおっしゃった。

 「ある人がガンジスの堤の上を歩いているとせよ。かれは自らすすんで沐浴することもできる。間違えて河に落ちるかもしれない。あるいは、誰かに水中に推しいれられることもあろう。その何れにせよ、彼はガンジスで沐浴はするのである」と』

 やはりインドと言う特殊な特殊な国の、しかも今から100年ほど前の教えなので部分的にはついていけないところはある。
 過度に禁欲的な部分などであるが・・・・。
 バシャールが『あなたがワクワクすることをしなさい』と言ってからかどうかは知らないが、ニューエイジ系の教えには無節操なまでに自分に楽しく、忠実ならばOKという考えが広がっているように思える。
 だが、その楽しさが表面的なものか、あるいは本当の魂の声なのかということを判断するという責任は放棄しているように感じられもするのだ。ダンテス・ダイジ導師の『君はどうかい?』という言葉の無限の多層性が示しているような深みがない。(バシャールへの批判ではない。そういう浮ついた傾向のこと)
 古典的な教えは、やはりその根本において「自我との戦い・戦争」(超努力)なのである。これと「流れに身を任せる」(いわば無努力)という教えはどのように結びつくのだろう。

 僕は、食欲も、テレビも、ビデオも性欲も、とくに捨て去るつもりはいまのところないのだが、「放棄」ということについて考えさせられた。
 「世俗」を放棄して、神のみに身を捧げるということの意味。
 自我の思い描く未来を退け、神に身を委ねるということについて。

 充実した仕事、金銭、旅、パートナーなど多くの人が思い描く「ハッピー」はすべて俗であることは現代でも変わりはない。
 それらを全て退けると言うわけではなく、もっとも本質の「神」をなによりも愛し、求めるという方向性が必要なのかもしれない。
 この世の全てを経験して、うんざりしてから神を求めるのではなく、まずあらゆる至福の源泉を愛するということ。そこからはじめるという事。









未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/26 12:00

突如降り注ぐ自我への言葉

積み上げすぎると崩れてしまう
    でも積み上げずにはいられなくて
    私たちは毎日積み上げる
    積み上げすぎるとバランスが悪くなり
    それが不安でまた積み上げる
    どうやら降ろすという選択肢は無いみたい
    そして又積み上げすぎると崩れてしまう
    崩れ落ちたらまた積み上げる 
    崩れ落ちたのがくやしくて

    積み上げ小僧は言っている
    だって僕が誰かわからなくて怖いんだ
    何者でもないかもしれないって思って
    怖いんだ
    仕方ないじゃないか
    怖いんだ
    愛されないかって思って怖いんだ
    醜くくならないかって怖いんだ
    悪い子じゃないかって怖いんだ
    年老いていくのが怖いんだ

    だから愛と若さと美と賢さを
    ブロックとして積み上げるんだ

    でも聞くがいい、真実を
    君は善人でも、悪人でもない
    愚かでも、賢明でもない
    醜くも、美しくもないし
    愛されても憎まれてもいない
    そして
    霊的でも俗物でもない
 
 君はやはり君が怖れるその通りに
 何者でもないんだ
 より正確には
 君は存在さえしていないんだ

 この恐ろしさと、その後の美しさを理解してごらん
 そして全ての二元を越えてゆけ
 神の瞳の中へ
 君がいないことの至福に祝福を



| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/22 21:28

 今、僕は重大な病に冒されている。

 このまま行ったら、大変なことになるだろう。

 それは、大量のポストを見ると、脳内麻薬がドバドバと出ると言う大変恐ろしい病気だ。

 インドから帰ってきてから、人の家のポストに見境いなくチラシを投入すると言う仕事をしており、その職業病なのである。「ポスティング」というやつで、だいたい一日に2000から2200枚くらいばらまく。ちなみにエロいやつではない。スポーツクラブの一応健全なビラだ。
 まあ、しかし2000枚まいてもその殆どはゴミ箱に直行となる訳なので、目下のところ僕の仕事は人の家のポストにゴミを投げ込む事であるとも言える。
 そして特に都市部のポストには、チラシの投函が多すぎて住民が処理しなくなり、完全にゴミ箱化しているポストがたくさんある。
 そこにチラシを入れるということは、ゴミ箱にゴミを入れているということで、至極まっとうな行為だ。

 しかし、配るのが全て一戸建ての家ばかりだったら、一日に2000枚とかは難しい。枚数を稼げるのはマンションや公団である。しかし、大きくて小奇麗なライオンズマンションとかあーいう系統だと、チラシの投函を禁止していることが多い。だが、まれに大量のぴかぴかきれいなポストが4~50も並んで、さあどうぞと待っていてくれるときがある。ゲームで言う、ボーナスステージ、パチンコならフィーバーだ(やりませんが)。
 このように、大量のポスト=楽できる、と回路がつながってしまったので、仕事をしていない時でもポストを見るとぴくっと反応するようになってしまった。
 あぁ・・・哀しい。

 しかし、なぜそのような恐ろしいポストフェチ病に冒されながらもこの仕事をしているかというと、これもまたインド行きからの流れで、結局体とつながりたいからだと思う。
 加えて、頭の中で発生するストレスに煩わされず働きたいということか。
 ひたすら、適度に身体を使って、黙々とやりたいのだ。
 よくはわからないのだが、8時間くらい歩き続けると、一日が終わった時に余剰のエネルギーに煩わされるということがあまりない。
 疲れているのだが、精神的には結構クリアで、これくらいの長さの文章を書く気力もある。
 かつてなかったほど、飯がうめえ。
 働く→腹が減る→食べる→働く・・・という基本的なプロセスがすんなりいっている。

 大地にしっかりと、グラウンディングしたいのだろうか。
 そういう方向に向かってる感じがするのだが。

 次は何が出るかな??
 




未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/21 22:04

 宇宙は我々を生かし
    我々を愛す

 こんなにも精一杯

 あなたを生かしているから
 あなたがこんなにも愛しい 

 あなたがこんなにも愛しいから
 私はあなたを生かしている
 
 己が 生かすものを 愛さずにいられるものか
 己が 愛すものを 生かさずにいられるものか

 私はあなたを愛するゆえに、この身を捨て、あなたになった
 私はあなたとなって、あなたを生かす  

 いつかあなたに見出されるまで
 その時
 わたしたちはまたひとつになる

 あなたを愛するがゆえに 私はあなたを溶かしさる
 私が愛であるがゆえに・・・・・ 
 愛には私もあなたもないがゆえに・・・
 私とあなたが ひとつであるがゆえに・・・・

 さあもう、今は一つに戻ろう


 


| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/19 22:55

 ~お稲荷さん追記~

 日曜日に深大寺へ遊びに行った。
『鬼太郎茶屋』という鬼太郎グッズを取り揃えている店があった。

 http://www.youkai.co.jp/chaya.html

 そこに水木しげるが書いた、「神秘家列伝」という漫画が売ってたので買った。出口王仁三郎の生涯が描かれているようなので読みたくなったのだ。
 出口王仁三郎は言わずと知れた大本教の教祖であるが、もう一人の教祖出口なおと出会う事によって組織としての大本教が発展していった。
 が、なおと王仁三郎が出会ったとき、王仁三郎は静岡の稲荷講社に属していた。なおは稲荷講社は狐を祀るものだと思っていたので、お稲荷様では自分にかかっている神をみわけられないと、一度は王仁三郎を退けたということだった。
 稲荷=狐の等式は思いのほか歴史が深いようだ・・・・。

 王仁三郎の書いたものは読んだ事ないけど、ダイジが講和録の中で紹介している王仁三郎の歌はとてもよかったので覚えている。

 「われもなく うつしよもなく ただひとり かみのみまえに ひれふし おろがむ」

 「あめつちを わがものとして たのしめば こころのにわに とわのはなさく」

 








未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/17 22:01

四月の修道会(2)

 肉体はお母さん

 I先生の説く宇宙発生論は次のようなものだ。

 まず、原初において、常に時間・空間を越えて存在し続けるところの「父なる神」が存在した。
 この「父なる神」の世界においては、いかなる変化もない。絶対が、絶対としてただあり続けているような世界だ。
 スリ・ユクテスワの「聖なる科学」からの言葉を引くと次のようになる。

 「パラムブラフマ(神、至上霊)は、初めもなく終りもない不生不滅の存在であり、完全無欠である。それは一体にして不可分のものである。」

 この世界はまたサティヤ・ローカ(第七次元の世界)とも呼ばれる。

 「この世界は、いかなるやみの被造物も、また、光の被造物も、これを説明することができず、名前の付けようがない。それゆえ、ここをアナーマ(名前のない世界)という。」

 この唯一の父なる神から、母なる神が誕生する。
 ヒンズーの神話で言うなら、創造主ブラフマがある日相棒が欲しくなり、サラスヴァティーという女神を作り上げた。
 自分の肉体のへこんでるところを出っ張らせて、出っ張っているところをへこませて、原初の女性性であるところの女神が生まれた。
 ブラフマは女神に惚れ、まぐわいたいと思った。
 ブラフマの種子(宇宙のあらゆるプログラム・法則)が女神の胎に放たれた時、この宇宙が生まれ展開するようになった。
 だから、この宇宙自体は本質的に女性なる性質を持っているのだ。
 ブラフマによって創造されたこの女神はまた、最初のマーヤ(幻影)である。なぜなら、普遍・不変(無極)であったブラフマの世界とは異なり、女神の世界では全てが二極対立(陰・陽)を元にした相対的原理によって動き、万物は休みなく生々流転しているからだ。
 しかし、ブラフマ自体は、母なる女神の世界にも遍満している。この遍満している「一なるもの」の存在に目覚めることが「覚醒」であるという。
 母なる女神は、divine-motherなどとも呼ばれ、世界中で様々な形で信仰されている。

 「だから、我々の生命を遡っていけば最初の創造の瞬間にたどり着く。生命が途切れることなく続いてきたからこそ、みんなここにいるんだ。」とI先生は言った。

 「そして、創造の瞬間は今・ここにある。それは・・・」と言って腕をぱんぱんと叩いた。「この体、肉体だよ。」
 その時、僕には一瞬、測り知れない原初のエネルギーと自分が直接つながっているという途方もない事実が僅かに直観されたように思えた。
 それは遥かな時間を隔てていると同時に、まさに今・この瞬間に起こっていることなのではないか。
 僕たちには宇宙が何から始まったのか知る事はできない。ビッグ・バンというのも単なる言葉、不完全な概念に過ぎない。
 しかし、確かに僕たちは、この宇宙の根源から生まれ出ている。名付けようのない「はじまり」から。そして、はじまりとは、時間的過去に位置する「はじまり」ではなく、「今・ここ」のことなのではないだろうか。

 「ラスト・バリアのなかに、あなたの肉体は聖母マリアである。っていう文章がありましたね。」と僕は言った。
 「そう、それが今言ってる意味だよ。そしてそこからキリストが生まれる。」と先生は言った。

 僕はアダムとイブの神話を想う。
 僕たちが目覚める時、それは僕らがアダムとイブに他ならない事を思いだすときではないだろうか。
 創造の朝に目覚めたアダムとは、神に目覚めた人間に他ならないのではないか・・・。
 
 慢心と自己否定、罪悪感

 「自己否定や罪悪感というのは、ある意味では慢心よりたちが悪いよ。慢心してうおーっとやってると元気がでるでしょう?あんまりやりすぎるとガチャンと手錠をかけられるけど(笑)自己否定や罪悪感に苦しんでいると、父と母(なる神)のエッセンスを殺してしまうことになる。

 俺も、こんな自分が悟れるわけがないと思った事があったよ。
 でも、その時俺は開き直ったの。もう、好き勝手に生きてやろうと思った。毎日酒を飲んで楽しくやっていた。そうすると少しづつまた軌道修正をさせられて、カウンセリングをしたりするようになった。
 いろんな人にあって、話しを聞いているうちに、この人が本当に幸せになって欲しいと祈ったり、また瞑想するようになった。
 そうしているうちに、バカッと来たわけ。

 全てのものごとはただ起こってるに過ぎないんだよ。
 人を目覚めさせるために。
 覚醒した瞬間に、俺にはそれがわかった。全ての出来事が、この瞬間につながっているということが。そして、それは俺だけじゃなくて、全ての人にとってもそうだということがわかったんだ。」

 真我=神我?

 真我、とは本当の自分と書く。

 では本当の自分とは、一体なんだろう?

 それは、個別性の発見だろうか?
 天命や魂を知ることだろうか?

 本当の自分とは、魂ですらない。
 普通、真我というと、「個我」の意味で使われる。
 だがこれはもともとの意味ではない。

 もちろん、本質的個性というものは存在し、ダンテス・ダイジも言ったように本質的個性を見つけるために人は生きていく、とも言える。
 ある人はパン屋さんで、ある人はエンジニア、ある人は学者で、ある人はアーティスト、ある人はホームレス・・・そういう世界である。
 母なる世界での、相対的真実・・・。
 
 しかし、究極の自己、真我とは、無自己=神のことであるという。

 「M君の真我と、Yさんの真我は違うものではない。Kさんの真我と、Eさんの真我も違うものではない。
 では、真我はどこにあるのか・・・例えばこうしてね、手のひらを出して、ここに真我があると思えばそこにあるわけだ。
 それは偏在していて、どこにでも存在する。どこにでもあるから、それに気付く事ができないんだよ。
 例えば、M君の実家にだってあるし、Yさんが今留守にしている自宅にだってある。戦争に明け暮れている国にだってある。」

 真我がどこにでもあるとするならば、それは道端に生えている雑草であってもいいわけだ。人によっては、ふと目をとめた雑草に、「本当の自分」が限りなく輝いているということもあるのだろう。
 それはつまり、雑草と自己の区別が消え去っている状態であろう。
 草木成仏。









修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/16 12:08

お稲荷さんについて

 少し妙な夢を見たのがきっかけで、「稲荷」について調べてみた。

 僕は案内人と一緒に稲荷の世界を旅していた。
 案内人はI先生だった。
 I先生と稲荷のことについて話していたのだが、僕がよくわからないでいると、先生が稲荷に向かって、「ちょっと降りてやって」と言った。
 すると、青や赤の炎で縁取られた狐たちが飛びかう姿が見え始めた。

 真っ黒な泥水に覆われた、田んぼがあった。
 水は足首のところくらいしかないのだが、ところどころ急激に深くなっており、そこに踏み込んでしまうと頭まですっぽりと水に呑み込まれてしまう。
 田の下は別の世界に通じているようだ。
 泥に覆われた田を抜け出すと、稲荷の世界の出口には、地獄の番犬ケルベロスのように、首輪につながれた巨大化した二匹の狐がいた。
 口は裂け、まるで狼のように獰猛になっている。
 その間をすり抜けて、この世界に帰って来ると、やがて全身どろだらけになった先生が歩いてくる。
 先生は、「泥(田んぼ)の下の世界に連れて行かれて、そこが現実だと思い込まされそうになった」・・・と言う。

 この夢を見て目が覚めた後、「あーそうか、稲荷と言うのは穀物神ではないか」と思った。
 恐ろしげな狐の姿ではなく、「田んぼ」というのが稲荷の本質だと思った。
 で、ネットで調べてみると、やはり稲を実らせる力を神格化したものが『稲荷神』だったようだ。
 
 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
 佐田彦大神(さたひこのおおかみ)
 大宮能売大神(おおみやのみのおおかみ)
 田中大神(たなかのおおかみ)
 四大神(しのおおかみ)

 これら5柱の神を総じて稲荷大神と呼ぶようである。
 狐はあくまで稲荷大神の眷属であり、稲荷そのものではない。
 ではなぜ、狐が稲荷大神と結びつき眷属化したかということについては、諸説あるようだが、ここでは触れない。物好きな人は調べてみてください。すぐに出ます。
 おそらくこの夢を見たのは、以前どこかで読んだ情報が残っていたのか、前日の修道会で次のような話を聞いたからだろうと思う。

 「この宇宙をひとつの会社だとすると・・・・社長は神だ。いや、そうだな社長はやりての女社長(母=マハー・マーヤ)で、神は会長かもしれないね。そして、部長は大日如来、課長は人間を助けるために帰ってきたような存在(アバター)だ。でね、神々というのはその会社を維持するために必要なシステムみたいなものだよ。例えば水道は、弁財天、稲荷は食堂だな。我々は、頑張って出世すれば課長や社長にはなれる。でも、水道や電気には絶対なれない。
 覚醒するって言うはね・・・たまたま廊下で社長と擦れ違うみたいなもんだ(笑)。気をつけてないといけないよ、会長は変装してどこにでもいるからね。」

 この「稲荷は食堂」というのを聞いて、ん?と思ったが話題が移るのに注意していて深く突っ込まなかった。その情報と、以前どこかで読んだ情報が眠っているときに統合してああいう夢を見たんだろうと思う。

 しかし、人間の生命を維持するもっとも根本的な力と、狐と言うトリックスター的な動物が結びついているのは興味深い。
 しかし、その影響で稲荷神の姿が後ろに隠れてしまっているような印象も否めない。

 僕は最近、食事をとる前に少し黙想し、食物に感謝の祈りを捧げていたのだが、そういったこととも関係しているような気がする。
 「天皇」というのも元は穀物神なんだよなー確か。
 三島由紀夫の本に書いてあった。





 







未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/10 23:17

4月の修道会(1)

 今年初めて、I先生の修道会に参加する。
 ちなみに修道会とは参加者5人ほどの瞑想会&お話し会のようなものだ。
 霊障的な外部のエネルギーの影響をとても受けやすい人が参加しており、それに対してI先生は、

 「今まであまりにも瞑想の方法などを指導しなかったけど、今後はエネルギーに対処する方法も教えて行こうと思う。」と言った。

 「瞑想をすることによって、自分のいるところをエネルギー場にする事が出来る。そうすれば外からの影響は受けにくくなる。
 マーヤを受けるということは、我々がいろんなフックを出しているからなんだ。例えば、不安と言うフック、罪悪感と言うフック、自己否定というフック、傲慢というフック、そのフックに対応したものが引き寄せられてくるわけ。修行をするというのはこの自分から出ているフックを引っ込めて行くって言う事なの。」

 「修行か、あんまりしたくないですねぇ」と参加者が言う。

 「修行って言うのはふたつあってね。現実の日常生活で起きてくる様々なトラブルに対処する事、これがひとつ。もうひとつは瞑想などをして自分でおこなう修行。きついのは、現実の修行の方だ。でも、自分から進んで(瞑想などの)修行をしていれば不思議と日常の方は平穏になるよ。」

 オウム幹部のセッション

 以前、オウム真理教設立当初から信者だった元幹部がI先生の個人セッションを受けに来たことがあったらしい。
 しかし、話しを聞いて、「難しすぎる」と言ったようだ。
 僕も麻原の本は図書館で借りて読んだ事があるが、オウムの教えは方法論がメインとなっており、ステップバイステップで悟りへの階梯が描かれている。ある意味、非常にわかりやすい。そういう世界になじんだ人が、I先生の話しを聞くと多分つかみ所のないように聞こえるかもしれないと思った。
 
 オリオン座からの使者

 僕は今の精神世界にある、宇宙系の流れについて話題をだした。
 
 「プレアデスから来たとか、シリウスからコンタクトを受けてどうこうとか、ああいうのはどうなんでしょうね?」
 
 これもいつかはしたかった質問なのであるが、この質問は今日のために用意され、少しづつ疑問が蓄積されていったものであった。
 僕自身が瞑想をしている時に、自分の背後にばーっと星空が開けるような感じを体験し、自分のルーツは地球外にあると思ったりだとか、ある聖者は地球の魂ではないと思ったりだとかそういうことが・・・・あった。
 なに馬鹿な事言ってんの~♪と思われるかたも多いでしょうが、僕の妄想体験はさておいて、こういう「宇宙の存在」を伝統的な教えのなかにどう組み入れるかというテーマは結構奥が深いのである。
 精神世界に「宇宙の存在」が入ってきたのは、おそらくアダムスキーなどの俗にUFOコンタクティーと呼ばれる人がなんとか星人に直接あって、メッセージをもらったとか、UFOに乗って宇宙旅行に連れて行ってもらったとか言い出してからだろう。
 そう、この頃から、伝統的な宗教に変るものとして、神々や仏ではなく、どこか遠くのこの地球よりも精神的にずっと進歩した星から、宇宙人がメッセージを送ってくれているという思想が誕生し始めたのだ。
 時を遡れば、例えば地動説の祖といわれる、ブルーノなんかもこの惑星のほかにも惑星があり、そこに人間と同じような知的生命体が住んでいるという可能性を考えていた。しかし、それはおそらく、宗教的な匂いのする「高次の存在」とやらではなかっただろう。
 「宇宙の知的生命」が、宗教性を帯び始めたのは、やはり第二次世界大戦以後のことであるように思われる。
 通信や交通の発達で、国と国の距離が縮まる一方で、核兵器や環境問題など世界規模の危機に脅かされることになった人類にとって、救世主がそういった問題を既に克服した別の惑星文明からやってくるというドラマはいかにも自然だったのかもしれない。
 それと同時に、やはり人間が月へ行って戻ってくるという時代になれば、宇宙空間という無限のフロンティアを、人間の精神宇宙に取り込むというプロセスがひとりでに起こってくるのではないだろうか。
 この無限に開けた虚空を無視して、今までどおりの宗教性のみでやっていくのは人間にとって不自然なことなのではなかろうか。
 
 と言っているが、僕自身は宇宙人がUFOで地球に来ているとか、コンタクティーを通してメッセージを送っているとか、アメリカのエリア51には地下基地があってグレイと共謀したアメリカ政府はうんたらかんたら・・・・というような情報は必ずしも信じてはいない。(でもあるかもしれない)
 というのは、惑星の観測衛星などにより太陽系に人が住めないとわかった途端に別のプレアデス、シリウス、アンドロメダ、オリオンとかそういう観測不能の遠方の地からメッセージが送られるようになったのは余りにもご都合主義に思われるからである。
 みんな根性がねえぞ!水星は暑すぎて、土星はガスばっかりだけど、肉体が無いから大丈夫なんです、くらいのことなんで言えないんだ!・・・と思う。
 
 ・・・・と長々と書きすぎましたが・・・。

 I先生は、「あー俺はオリオン座のユー様だからなー」とニヤニヤしながら言い始めた。一体、何を言い始めるのかと思ったが、こういうことらしい。
 なんと先生が18くらいの頃、あの半田○宣氏と直接会って、付き合っていたことがあるらしい。
 その頃H氏は吉祥寺にいたらしく、先生が友人の紹介でH氏の部屋に入っていくと怪しげな様子で中空を見ている人物がいた。
 その人物は先生に気がつくと、「オリオン座のユー様!」と叫び、先生の前に土下座したという。H氏によるとI先生はオリオン座から地球の人々を救うためにやってきた高貴な存在らしい。
 I先生は興味をそそられ、その後3ヶ月程H氏と付き合っていたらしい。I先生が知る限り、H氏は一睡もせず、何も口にすることもなかったという。
 その後H氏に「福田さん」という霊が入り込み戻らなくなってしまった(爆)。冥王星人と交信する氏も、地球の霊はあくが強くてダメなんだろうか??ちょっとおかしくなったH氏は井の頭公園の池に飛び込んだりして大変だったと言う。

 といろいろ会ったらしいが、H氏のチャネリングや研究の内容は科学的にも検証され実証されつつある部分もあるということで、先生は一目置いているようだった。


 I先生が異様な磁場を持っている人物だということは、話しをいろいろ聞くにつれ徐々に実感されてきたので、僕としてはH氏は直感的にその磁場をキャッチし、それの衝撃が氏の特殊な意識構造の中で「オリオン座のユー様」と翻訳されたのではないかと僕は考えたい。
 
 I先生は伝統的な体系の中で修行してきた人なので「宇宙人」なんかについて質問すると「そんなことは考えるな!」と言われるかと思っていたが、驚きのエピソードで返してきたので大変意表をつかれた。
 
 「俺はどういう世界にでも波長を合わせられるからね。江原さんとかのあいうスピリチュアルな話しもついていけるし、宇宙人系でも大丈夫だよ。宇宙系の話しをして、神に波長を戻すのは比較的楽なんだよ。それは人間を超えた世界だから。でも霊障とかのああいうどろどろした世界は難しいね。あれはだって人間以下じゃん。」

 先生が「宇宙人」を否定しないのは、現実に、あまりにも地球人離れした人を自分の目で見ているからであるように思えた。
 

 (多分続く)




修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/09 22:25

今の歌

 インドにいる時から、帰ったら身体とつながるような事を毎日やりたいと思っていたので、それを実行している。

 動系のことか(ジョギング、筋トレ系)
 静系のことか(ストレッチ、ヨガ、簡単な気功)

 どちらかをその日の気分に応じてやっている。
 まだある程度激しい運動を時々したほうが体調がよろしい年齢だと思う。
 昔は毎日10キロくらい走ってたけど、そこまでやんなくてもいい。
 15分も走れば気分は良くなる。
 体のメンテナンスが出来て、その結果精神が安定すればOK。
 今のところ必要以上に心肺機能、筋肉を鍛えてもしようがないし。

 エネルギーはいつも、よりリアルなものから流れてくる。
 リアルでないものに関わっていると、その流れは疎外される。
 エネルギーに満たされていないのは、リアルな世界と触れ合っていないから。 
 からだは最も身近の自然=リアルだ。
 リアルとは真なること。
 真なることとは、本当に実在するもの。
 
 鉢植えで育てている植物を相手に、気の交流をしてみた。
 エネルギー的につながる瞬間、というのがわかるような感じがした。
 自然に笑いが湧いて出る。

 瞑想中に喜びが高まると、それは何かの表現として外に出たがる。
 これが声として外に出ると、それが「歌」になるのではないかと思う。
 洗練されたメロディも、歌詞も無い、もっとも原始的な悦びの表現だ。
 宇宙は振動から構成されている。
 それはヒンズーの神秘思想で言うならば、聖音「AUMオーム」である。
 AUMは「全能の創造力=シャクティ」の最初の表われであり、その原始の振動の中に時間や空間、粒子が仮の現象として現れると考えられた。
 そしてこのシャクティは、アーナンダー、永遠の至福とも呼ばれている。
 至福の表現として、「音」が生まれるのだ。 
 それはミクロコスモスである、人間にも対応しているのかもしれない。
 幸福を感じると「音」を出したくなるように。

 雨が降る前の湿った匂い、土の匂い、春の甘い匂い
 のなかに立っていると、声が出てくる、この今にふさわしい声を喜びの表現として、発声してみる。
 自分の、今の歌を歌う。樹と風と緑と春、雨。 
 メロディなんて殆ど無い。
 歌詞も無い。人に聞かせるものではない。
 しかし、それは自分自身の今の喜びの歌である。 

 ア~~~ア~~~ア ア~~

 雨粒がぱらぱらと顔に降りかかってくる。
 それは、世界が僕の呼びかけに答えてくれたように感じられる。








未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/04/02 17:11
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