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自我という現実、自我にとっての現実

 僕にとっての自我≒現実とは、

 僕にとって許容できるまで自我≒現実を変質化させたものである

 自我とは、自我による、自我自体に対する無理解である

 非現実とは現実自体の無理解であるように

 僕自身の自分勝手さを悟る度合いに応じて

 自我は自我を理解し始める

 ありのままを受け入れるのは、実は一番おそろしい

 自我という構造体が存在しているのは

 どうやら僕が自我すら見ていないかららしい

 (光のあるところ闇は存在できない)

 まさにこのことが自我の何たるかをあらわしている

 真理から目を背けるエネルギーが、この世を動かしているから

 仕方ないか

 自我は部分だ 部分は非実在だ

 自我は夢の中の夢だ 

 自我という現実は

 なぞめいた過程を経て

 『自我にとっての現実』に絶えずすりかえられている



















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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/29 22:43

 久しぶりにHPの方の記事を更新。

http://homepage3.nifty.com/egghouse/segan.htm
「カール・セーガンのマリファナ体験記」

 映画「コンタクト」などの原作者としても有名な元NASAの研究者だったカール・セーガン氏がハッパ好きを告白している。なかなか濃くて面白いので
、載せてみた。

 
 






未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/28 20:32

教室の天使

 「今日は一日自習にします」

 そう言って、神様は教室から出て行った

 僕は永遠の広がりを持った午後の教室に

 たったひとりで取り残された

 ひとりっきりの勉強はとても退屈だ

 神様が置いていったカリキュラムは多すぎて

 とてもこなせそうにない

 ふと気がつくと風に揺れるカーテンの後ろに

 神様が隠れていた

 誰も座っていない机の上に落ちた陽だまりに

 神様がにこにこと、笑っていた

 『机に向かって何を考え込んでいるんだい?

 さあ、ここにきて光となり、ともにまたたこう

 さあ、ここにきて風となり、ともに揺れよう

 さあ、一緒に遊ぼうよ 』

 僕は神様と一緒に共に遊んだ

 あまりの楽しさに気がつけば300年は経っていた

 その時がらがらとドアが開いて神様が入ってきた

 「自習をしろと言ったはずだ!なにを遊んでいる!!

  試験に落ちてもいいのか!?このオチこぼれの天使め!」

 僕は大慌てで、教科書にかじりついた

 そしてまたひとりぼっちになると・・・・

 やっぱりそこで神様が笑っている

 カーテンの後ろで

 机の上のひだまりで

 大きな地球儀の上で

 ちびた白墨の上で

 勉強なんてやめて、遊ぼうぜと

 時を越えた無垢さで微笑んでいる


20060627202435.jpg

| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/27 20:15

ダンテス・ダイジ、1978年早稲田大学での講話より

 『ジャンプ台は尾てい骨にある。
 君たちが自分の尾てい骨を完全に知覚することができたら、崩れる。
 世界のゲシュタルト、形態っていうのが必ず崩壊する。
 発狂する人って言うのは尾てい骨の接続点が、バチン!とはずれるんだ。
 尾てい骨のなかで、クンダリニーとムラダーラチャクラが接続しているから、俺は俺、君は君とかここに紅茶があるっていう世界にいるつもりになっている。君たちに見えるのは相も変らずひとつの喫茶店だ。
 しかしこれがはずれると全部、認識形式が変る。つまり世界そのものが変ってしまう。だから、ジャンプ台そのものは尾てい骨のクンダリニーにある。

 そしてクンダリニーが活性化する方法はふたつしかない。
 平静に知覚するっていう方向、平静に努力を重ねていく方向。
 そして、もうひとつは、ショックだ。

 ショックと言うのはどういうものかというと、例えば突然、明日死ぬ事を宣告されるだとか・・・。
 君がどっか調子が悪くて病院へ行った。するとあなたはガンであと一日しか寿命がありませんって言われた。
 どうなると思う?
 何もかもが崩れてしまう。もう、テーブルもテーブルじゃない。紅茶も味がわからない。これはね、はずれたわけ。
 ショックとは何かと言うと、現実認識なんだ。おわかりかな?
 瞑想のふたつの方向って言うのね、現実直視の方向と、平静さや愛の方向、そのふたつなんだ。
 女の人には愛がとても向いている。それはある一人の男の人への愛でもかまわない。それがとても成熟させてくれる。でも簡単にはみつからないよ。本当に自分に会う相手なんて、一生に一回か二回あったらいいほうだ。
 さて、そして問題は現実認識のほうなんだが・・・はっきりと認識するとこの世とは苦楽、喜怒哀楽なんだ。それに完全に直面できるってことなんだ。
 直面したら(クンダリニーは)はずれる。でも逃げればいつまででも逃げられる。』




















ダンテス・ダイジ | コメント(1) | トラックバック(0) | 2006/06/25 11:15

自己受容と許し

 ダイジのテープのなかに初めて聞く言葉が出てきていた。

 「垂直の悟り」と「水平の悟り」だ。
 どうやらこれは「アメジストタブレットプロローグ」で解説されている、クンダリニーヨーガ的な悟りと、禅的な悟りのことらしい。
 垂直に上昇し、霊界の中心太陽に還るのが「クンダリニー」、この世に生きつつすべてを受容するのが「禅」と、すごく簡単に言えばそういう感じになる。
 「もし人類が滅びなければ、禅が最後の宗教になり、人類が滅びるとすれば、その直前にクンダリニーが栄えるだろう」という言葉も入っていた。

 「水平の悟り」については、臨済録講義において語られている。
 禅というものについては、僕はもちろん参禅なんてしたことはないし、頭の知識も乏しいのだが、自己受容ということに関しては自分の問題としても考える事が多かった。
 ダイジのテープが来る前、自己受容ということに関して考え直させられることがあったのだが、この臨済録講義を聴いて、理解がひとつにまとまった。

 以下の文章は主にふたつの書籍(エックハルト・トール「悟りを開けば人生はシンプルで楽になる」、タデウス・ゴラス「なまけもののさとり方」)と、実体験、それにダイジのテープに触発された考えです。




 愛するということ、受け入れると言うこと、許すと言うこと、そして理解するということ、これらはすべてつながっている。

 愛さなければ、理解する事なんて出来ない。
 愛のない、理解のみによる理解などない。
 愛がなければ理解もない。真の理解には常に愛がある。

 人は自分が憎む相手を理解することは出来ない。
 なぜなら、憎しみがその人物をありのままに見る事を妨げるからだ。
 憎む相手について僕が知る事は、僕自身の憎しみだけだ。
 それ以外の相手の素晴らしさは見えなくなってしまう。
 もちろん、「憎しみにとっては」相手が素晴らしいと困る訳だが。
 特定の人物への憎しみに囚われるということは、相手の嫌なところしか映さない眼鏡をかけるようなものである。

 そしてこれは自分の内面についても言える。
 多くの人は自己自身の中に許せない部分を持っている。
 それは外面的な特徴の場合もあるし、内的な何かである場合もある。
 どちらにしろ、何かが気に入らない、不全感と共にある人が多い。
 これは言い換えれば、どうしても全体として自分を愛することができない、という状態だ。
 
 自分を許すことが出来ない時、人は自己欺瞞に陥りやすい。
 嫌いなものを好きだと思い込もうとしたり、自分が本来のあるがままの自分より立派だと思い込んだりするのは、自分自身が嫌いだからだ。
 その嫌いな自分から目をそむけると、その自分は(愛の不在により)見えなくなる。しかし、何かから目をそむけているから不安は残る。
 そして目を背けているという事実すら忘れてしまった時に、自己欺瞞は完全なものとなる。

 そもそもなぜ、自分で自分が嫌いになるかというと、多くの場合それは他者の視点を内面化しているからだ。
 僕らが外側の承認によって、自我の安定を得ようとする限り、この不安に終りはない。

 でもよくよく考えてみれば、そのままのありのままの姿で、存在として受け入れられている事、世界の一部としてあることを思えば、自分で自分をごまかす必要などない。
 逆に言えば、自分を十分なだけ許せていない限り、自分で自分をごまかし、自分はあるがまま「以上」のものであると思い込み続けるしかないのだ。
 自分のあるがままを受け入れているとき、エネルギーと安らぎがあるだろう。しかし、あるがまま以外のものになっていると、不安がある。

 皮肉な事に、あるがままを認める不安からあるがまま「以上」のものになったと思い込んでいるというのに、そこにはやはり不安があるのだ。不安を解消するには、自己の何もかもをいとおしみ、抱きしめる以外にない。

 このことが経験的に事実だと思うのは、僕が以前、性的な問題で自分が完全にど変態ではないかと異様に思い悩んでいた時期があったからだ。
 まず自分の内部にある衝動が生まれるとする。
 その衝動が大きくなると、僕の意識がそれを感知する。
 その状態であれば、良いも悪いもいかなる分裂も、不安もない。
 しかし、外側から刷り込まれた価値観によって、その衝動を「許されているもの」か「許されていないもの」かに振り分ける時に問題が生じる。
 仮にそれが僕の意識にとって、「許されていないもの」であったとする。
 するとどうするか?
 そもそもその衝動を最初からなかったことにするか、それともそれは許されたものであるように偽装するか、自分は許されない衝動を持ったと認識するかどれかしかない。
 このどれを選んだとしても、こころに負担がかかってくる。
 ひとつめとふたつめなら、自己欺瞞による不安。
 みっつめなら自己嫌悪である。

 結局こういうことの積み重ねが、「なんだかよくわからないけど、自分嫌い」という状態を招くのではないか。
 自我が破綻をきたさない為には、そもそもの最初にある善悪二元の価値によって、自己を裁かないことが必要となる。
  
 ド変態でもいいのである。
 少々パラノイアでもいいのである。
 
 一体誰がいけないと言うのか?
 いけないと言う人はいるだろう。否定する人はいるだろう。気持ち悪いという人はいるだろう。否定的な人には事欠かないのがこの世界だ。
 
 しかし、世界中の誰にも、僕のことは否定できない。
 僕を否定するのは、僕自身でしかあり得ない。
 そして、許すということも。 
 

 


























セラピー&ヒーリング | コメント(4) | トラックバック(0) | 2006/06/24 21:57

全部好きだよ

 あなたのすべてが、好きです
 あなたのすべてが
 だっていいところも悪いところも
 全部ひっくるめての、あなただから

 愛は、そのままでいいよ、と受け入れられる事
 君のすべてが好きだよ、と言われる事
 そのままで素敵だよ、と言われる事

 なぜなら、世界のそのままが、愛だから
 愛は、そのままだから

 愛すればいい そのままの自分を
 愛される安心をすぐに与えてやればいい

 そのままを愛されることが自分自身に
 エネルギーを与え
 そのエネルギーが僕の世界を変えていく

 愛はいつも自分からしか始まらない
 自分から始めなければならない
 なぜなら自分を愛する事は 世界を愛することだから

 もう許そう、すべての自分を・・・

 ずるい自分を
 いやらしい自分を
 汚らしい自分を
 気の狂った自分を
 夜叉のような自分を
 犬畜生の自分を
 餓鬼の自分を
 血の池であがく亡者としての自分を
 悪鬼さながらの自分を・・・

 人が恐れ、嫌うものは、
 すべて自己嫌悪と結びついている

 僕は
 人に笑われたり、変な風に見られるのが
 怖いのではない
 笑われたり 変な風に見られた自分を
 嫌いになるのが怖いんだ
 僕が人からどう見られようと
 深く自分を愛せるのなら
 もう人の目など決して恐れはしないだろう

 もしも
 誰かに嫌われたとしたら
 そんな自分も愛すればいい
 誰かに嫌われたからと言って
 なぜ自分まで自分を嫌いになる必要があるのか?

 年寄りが嫌いな人は
 年寄りへの嫌悪で自己嫌悪になっている
 子供が嫌いな人は子供嫌いの自分が嫌い
 どん臭い人が嫌いな人は
 自分のどん臭さがすごく嫌いで
 どん臭くならないようにいつも頑張っているから
 平気でどん臭くいられる人が許せない
 そして私たちがあれ程殺人犯を憎むのも
 自分自身の殺意が一番許せないからだ

 神は私を愛してくれている
 だから私もそのように自分を愛そう
 神はすべてを知っていながら
 すべてを愛してくださっている

 深く愛さないと見えないんだ
 みつめないといけない危険な自分も
 
 あまりにも嫌う自分は見えなくなり
 深い淵へと沈んでいく・・・
 さあ、切り離された自分を求めて
 潜水艇に乗り込もう

 心という深海に潜るときには
 愛というサーチライトが必要だ
 そこには凶暴なうつぼがいる
 でもライトで照らすと
 智恵のあるイルカになり
 旅を守ってくれる

 そんな風にして心の海流を辿り
 そして・・・

 すべての自分を愛せば
 人はわがままになるだろうか?
 悪魔のような自分すら愛せば
 人は悪魔になるだろうか?
 いや
 本当に愛すれば悪魔は悪魔じゃいられない
 悪魔が悪魔なのは愛されていないから
 影を否定したら
 あなたは影になってしまう
 悪魔を嫌い、否定したら
 あなたが悪魔になってしまう

 悪魔の着てるスーツの裏側には
 I want to love
 という刺繍がある

 すべての自分を愛せば
 人はわがままになるだろうか

 僕は知らない
 でも確かに言える事は

 やさしさは
 やさしくない自分が許せない人の
 ものであってはいけないということ

 全部、好きだよ
 全部、好きだよ
 全部、好きだよ・・・
 


















未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/22 14:56

★ダイジのテープが来る☆

 ダイジの肉声テープを聴く事ができた。

 想像のイメージと、実際の声のギャップに幻滅するかとも思ったが、そんなことは全くなかった。
 講話録を文字で読んだら、なにげなく読み飛ばしてしまうような内容も音声で伝わるとよりこころに染み渡る。
 それと同時に音声で言われると、そのことの恐ろしさがじわーっと伝わってくる部分もある。ダイジは言った。

 『一度きりの君たちだ。そして君たちが死んだら、永遠に、永遠に、永遠に、今ある君たちがくり返されることはない。たとえ無限の時間が経ったとしても・・・。』
 
 講和録4の「素直に生きる」のなかで、「すべてが同じに見える」という状態について語っている箇所がある。その部分もテープに入っていたのだが、肉声で聴くとかなり鬼気迫るものがあった。この人は発狂すれすれのような状態を通ってきたんだと感じた。

 『とにかくそれが起こったとき、みんな同じに見える。もう、女も男もない。だって女がいたり、男がいたりしたって少しも意味がないんだもん。もう、優秀も劣等もない。優秀っていうのが意味ないんだもん。そしてそう感じている自分さえ、意味ないんだもん。でも、それは灰色だ。まだ入り口に過ぎない。何故?見てる自分があるから。

 もし、本当にニヒリズムっていうのがあるとしたらね、大抵のニヒリズムはロマンチシズムの一種だ。だけどもし本当にニヒルっていうのがあるとしたら、その灰色の世界、つまりみんな同じに見えちゃうんだよ。

 ただ、見える立場がそこにある。だから灰色なんだ。その時何する?
 やることがないんだ。そん時座るんだ。じゃあ言おう。その時座るって俺は今、ここで言った。だけど、言わなくても座るんだよ。そういう風に出来てるんだよ。俺はどういうわけか知らない。でもそういう風になるんだ。
 万事休す。その時、見ている自分が消える。』

 「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」のなかの公案禅の章で描かれている、ある人の死によって引き起こされたというダイジの精神状態は多分、そのようなものではなかったのだろうか。

 ダイジも、愛と智の人だ。
 リアルな、リアルな人だ。
 僕は何人かの人にそれに似たリアルさを感じてきた。
 一人はHIVに罹った人だった。
 その人は、異様に「生もの」だった。
 そして、I先生もやはり「生もの」に感じられる。
 ダイジの話し声もすごく「生もの」的だ。
 異様に、生きている。
 なにひとつ目を背けていない時、初めて人間としてリアルになれるんだろうか。

 このテープを聴きたい方は、mixiというコミュニティサイトに登録し、ダンテス・ダイジのコミュに入れば、希望することができます。
 講和録とかぶっている内容も多いのですが、初めて聴く内容も多いので、そこらへんはテープ起しして文書化しようかとも思っています。






ダイジのお弟子さんとの対話 | コメント(21) | トラックバック(0) | 2006/06/22 10:12

 自分はひとりぼっち

 だけどみんなは孤独じゃないと思うのが

 無知

 自分はひとりぼっち そして

 誰もがひとりぼっちだと知るのが

 やさしさ

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/21 21:13

不可解の閾

 「自覚ある精神分裂病とは、病気ではない。
  その鋭敏な感受性が、エゴの未知性を知覚し、エゴによって仮構された世界が崩壊している強烈な緊張状態なのことであり、真実在への回帰の始まりであり、クンダリニー・ヨーガの出発点である。」

       アメジスト・タブレット・プロローグ ダンテス・ダイジ    

 大学生の頃、高校のクラスメートのタイヘー君が電話である「体験」を話してくれた。
 彼は高校の頃は多方面に優秀なタイプだった。成績も良かったし、陸上部に入っていて運動神経もいい。工芸の時間に作った、木工のジグソーパズルは市の展示会か何かに出品された。リーダーシップをとるタイプではなかったが、言う事も面白いので、誰からも好かれていた。
 僕はどちらかというと、劣等感も強かったし、人見知りも激しいので学校では息をひそめて、日陰でおとなしくしていた。 彼は自閉症ではないのか?と冗談交じりに噂されるくらいだった。
 でも、僕はタイヘー君のことが好きであったし、彼もよく声をかけてくれた。どこか通ずるものがあったんだろう。
 高校を卒業して2、3年くらいは一年に一回か二回くらい電話で話すことがあった。彼がその体験を話してくれたのは、ある夏の夜だった。

 それが起こったのはごく普通の、夕暮れのことだったという。

 見慣れたいつもの道を歩いていると、突然それは起こった。

 その時突然、彼にとって自分が知覚しているという事実、自分の意識というものが異様なものへと変貌した。
 自分がここに存在して、世界を知覚しているということの奇妙さが彼を圧倒したと言う。見慣れた自己は消えてしまった。
 彼は危機感を感じて、「自分の名前は○○○」「親父は○○で、母親は○○」とくり返して、必死に自分を取り戻そうとしたという。
それが功を奏したのか、その感覚はだんだんなくなっていき、普通の状態に戻った。でもそれがあってから、彼は世界を今までと同じようには見る事ができなくなったそうである。

 その話しを聞いた時、僕も意識や宗教的なことに興味を持ち始めており、彼とそのような話しが出来ることがうれしかった。
 彼と同じような体験はなかったが、なんとなく感覚的には、彼の言っていることが理解できるように思えた。
 その話しは何か重要なことを語っているのだと直観した。
 
 存在しているということは至福であると聖者達は言うが、それは同時に気味が悪いほど不条理なことにも違いないのだ。正確に言うと、通常の習慣的な知覚がなんらかの原因によって部分的に崩壊した時、その「気味の悪さ」が顔をのぞかせる。
 それはあのサルトルの「嘔吐」という小説で、主人公のロカンタンがマロニエの根っこを見たときに、あらゆる人間的意味をはぎとられたときに現われる事物のありのままの姿に嘔吐を感じたという・・・あれと似ていると思う。
 
 僕は見当識と共に生きている。
 見当識は自分は誰で、ここはどこで、今はいつで、おおよそ身の回りではどのような出来事が起こっているのかという認識だ。
 そのような認識、あるいは思い込みの絶え間ない連続が、僕自身の仮想現実的宇宙=自我を構築している。
 しかし、本当はそれはすべてフィクションに過ぎない。
 名前も、性別も、自己イメージも、過去も、未来も、意識が現在の意識としてのみある時には、存在しない。というか、リアリティーが極度に薄れてしまう。ぼやけてしまう。
 それらは自分の意識が作り上げていた、防護壁だということに気付いてしまう。
 なんのための防護壁か?
 おそらくは、この「気味の悪さ」から逃れるためのものだろうけど・・。
 それらの防護壁が消えた時に現われる、自己、意識、世界知覚は不条理極まりない場合がある。

 僕も、タイヘー君の話しを聞いてから数年後似たような体験をした。

 現実が理解不能になりそうになった。
 というか、理解不能になることへの不安があった。
 気が狂いそうになった。
 正確には、気が狂うことへの不安があった。

 コンビニへ食べ物を買いに行った。
 お菓子のコーナーでうろうろしていると、視点が一点に固定したまま(ポテトチップスの上だ)動かなくなった。
 そして、色んなものが消えた。
 時間も、場所も。
 コンビニで買物をしているという事実も。
 自分が知覚しているという事実だけが残る。
 しかし、自己イメージも、外部イメージもすべて希薄になった状態では、いったい誰が、何を知覚していると言うのか??

 僕は誰なのか?
 いや、これは何か??
 これ(知覚主体)はどこにあるのか??

 ハッと我に返り、一点を凝視していることの怪しさにようやく思い至る。
 他者の存在によって、見当識が強まった。
 店員の方をちらっと見た。
 でも実際はそれほど長い時間固まっていたのではないのかもしれない。

 それは不快な感覚だった。
 にも関わらず、それはリアルに感じられた。
 なぜなら、論理的にどう考えても、僕自身に対する僕の認識というのはすべて虚構であるとしか思えないからだ。
 すべては、社会的に機能するために生み出された錯覚に過ぎない。
 例えば僕が山田太郎という名前だとすると、僕は本当に24時間、365日山田太郎だと言えるだろうか。
 誰かに名前を聞かれると、仕方なく「はい、わたしは山田太郎です」と答えるだろう。しかし、僕が深く眠り込んでいる時にも、僕は山田太郎なのだろうか?そして、僕が山田太郎でないとき、僕は何なんだろう?
 
 そして、僕が何かであるということは、どういうことだろう?
 なぜ僕は何かであらねばならないのか?

 高校生の時にそういう体験をしたと言っていたタイヘー君が、今どうしているかとても気になる。大丈夫かな(笑)


 
 





知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/18 11:17

 サラスヴァティー
 輝く大洋
 深淵
 命の源 母
 光る海よ

 水を飲んでいる時、後ろで
 弁財天が笑っている
 からだのなかで
 幾億の女神が光りながら
 微笑んでいる
 微笑みながら生かしている
 
 食器を洗う時にも
 トイレを使う時にも
 弁財天は手伝ってくれる

 噴水として輝き
 汚水として地下を流れ
 ファミレスのテーブルの上でぬるくなっていく
 
 命を保つために
 浄化のために
 彼女は巡る
 なくてはならないものだけど
 娯楽のために供され
 時には限りなく粗末に扱われる

 無限の愛
 もし地球上の水が一瞬にして消えたら
 僕たちはそれまでの彼女の愛に気がつくだろう

 おん そらそばていえい そわか
 月の尊霊
 水よ
 汝は神なり
 
 









| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/13 21:01

夕暮れのサイクリング、何の意味もない永遠

 僕が世界の中を自転車、走らせる
 世界が僕の中で、自転車走らせている

 僕は世界だ
 世界は僕だ

 あらゆる喜びと悲しみが6月の夕暮れの風に乗って
 僕に吹き付けてくる

 そして

 なんにもない なんにもない
 やっぱりどこにもなにもない

 何の意味もない、なんと素晴らしい夕暮れ
 なんとおそろしい永遠の平和

 何の意味もない
 あなたにも わたしにも
 なんと素晴らしい なんとおそろしい

 何の意味もないあなたの姿は
 そのままで 永遠の模造となる

 何の意味もないことは
 無意味と言う事ではなく
 無意味と言う意味すらないんだ
 何の意味もないということは
 世界中の意味を集めたよりも
 もっともっと素晴らしい事で
 その中に永遠が顔を見せる

 すごいね 存在するって
 なんの意味もないんだから

 えーみなさん!

 まことにワイセツなことに
 永遠の悦びには
 なんの意味もないことが判明しました!

 さあ、
 アスファルトに横になり
 腹を抱えて気が狂ったように
 泣き笑いましょう!






| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/10 18:56

聖霊

 「父なる神の全知の愛の現われが、クタスタ・チャイタニヤプルショッタマ)で、宇宙偏在のであり、であり、創造主である。これはまた、聖霊(神の霊、み霊)と呼ばれ、やみ(マーヤ)の上を照らして、そのあらゆる部分を神の方へ引き付けようとする。
 しかし、マーヤもアヴィディヤも、もともと反力であるため、その光を受け入れることができず・・・したがって、真理を理解することができず・・・反射する。」 

 「聖霊は、父なる神の性質である全知の愛が直接現われたもので、本質的には、神ご自身と全く同じである。そこでこの聖霊の光の反映を、神の子アパーサ・チャイタニヤ、プルシャ)と呼ぶ。」  スリ・ユクテスワ 聖なる科学

 
 「聖霊」という言葉がよく目にとまるので、復習してみた。 

 神の子は、カバラで言うところのティファレトに該当する。
 それはマルクト(物質領域)に対しての太陽であるが、ケテル(創造の始点)に対しては月となる。
 肉体を持ったグルは、全知の愛(チット)の現われである聖霊の光を反射させ、実在(サット)へと引き付けようとする。

 人を目覚めさせるのは『母』であるという。
 なぜなら、マーヤを創造したのは『母』だからだ。マーヤ(幻影)という言葉の本来の意味も『母』である。
 チット(全知の愛)・引力と、アーナンダ(全能の創造力)・反力は『母なる神マハー・マーヤ』という概念の中に総合される。
 「聖なる科学」において父なる神の属性として説明されるチットとアーナンダは『母』の領域だ。
 それはユングが「死者との七つの語らい」で畏怖をこめて語っている、グノーシスの神、アプラクサスでもある。









未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2006/06/09 09:01

鞍馬山とシヴァ・リンガ幻想

 京都の実家に帰省した折に、鞍馬山に行ってきた。
 
 鞍馬山と言えば、以前から少し気になっていたことがあった。
 それは、「サナート・クマラ」伝承についてだ。
 なんでも、「サナート・クマラ」という存在が人類救済のために金星から650万年前に天下り、鞍馬山から霊波を送り続けているというものである。
 日本の歴史ある山なのに、なぜ近代オカルティズムの匂いがするお話しになっているのだろう?なんで、「サナート・クマラ」て片仮名なんや?

 ネットで軽く調べてみると、神智学の母ブラバッキー夫人がそういう情報をチャネルしたという説があった。確かに、神智学的な伝承ではある。
 鞍馬山のパンフレットではサナート・クマラは「魔王尊」として紹介されている。

 『鞍馬山の信仰の歴史は魔王尊の降臨からはじまる。650万年前の昔、宇宙の大元霊である尊天の指令によって金星から派遣された大魔王尊が、人類救済の使命を帯び地球の霊王として鞍馬山上に降臨した。
  魔王尊の姿は分からない。降臨した時のまま16歳の若さをもって霊王として活動し、さまざまなお姿を現すという。永遠に16歳の若さを保ち、人類が遠い未来において水星に移住する時、人類を誘導してくれるという。魔王尊の姿を描きたいと思った「狩野法眼元信」は、奥の院で大祈願のすえ霊示があり、杉の大樹から垂れ下がった蜘蛛の引く糸をたどって描きあげたお姿がある。60年に1度、丙寅年に限り開扉される。』

 鞍馬寺の本尊は「尊天」というが、これは森羅万象をあらしめる根源的な力そのものだ。宇宙生命、大活動体。尊天の化身とされているのが、毘沙門天、千手観音、そして魔王尊であり、それぞれ太陽、月、大地の力をあらわしている。
 しかし、なぜ、「魔王」なんだろうか?これもわからん。

 『金星から、鞍馬寺奥の院に天下った魔王尊は、地下空洞の支配者であり、その規模は北欧・ヒマラヤ・南米と日本の鞍馬、四ヶ所のみに出入り口をもつ大都会であるという。』地下空洞?シャ・シャンバラっすか(笑)

 魔王様については謎が多いが、今回は鞍馬山でソーマ・ヨーガを行う、という目的で入山した。
 実家の最寄り駅から叡山電鉄にのって、約30分ほど、終点の鞍馬で下車。
 由岐神社、本殿を過ぎて、護法魔王尊が祀られる奥の院へと続く山道で、適当な場所を見つけ、ソーマを使った。
 その直後、少し前から雲行きは怪しかったが、とうとう雨が降り出した。
 少々の雨なら生い茂っている木が防いでくれるけど、雨脚は強くなるばかりなので一時上り口の小さな山門まで撤退した。
 山門には雨宿りをしている人が数人いたが、雨が止む気配が一向にないのでみな頃合を見計らって雨の中へ出て行き、一人残された。
 僕は山門に腰を降ろして、そこで瞑想してみることにした。

 次のようなイメージが展開した。

 三叉のほこを持った、裸の男神。大きな魚にまたがって、輝く海洋で戯れている。屹立し、反り返った、巨大な男根。背後には宮殿のようなたてもの。

 なにか見てはいけないものを見てしまったような感じがするが、それは神聖な趣きを持っていた。その存在が何も隠し立てをしていなかったからだ。すべてをさらけ出しながらも、高貴だった。
  
 その後イメージは天高くそびえたつ、白熱した男根へと変化した。白く輝くペニス・・・。

 そのイメージのインパクトは強烈で、一種の元型的世界をのぞいてしまったような感覚があった。その元型的世界では人間が作り上げた太古の男根崇拝的エッセンスがもっとも原始的な畏怖すべきイメージとして保管されている。
 そのような精神状態においては、「ペニス」は、猥雑なもの、こっけいなものであることをやめ、神々の世界を象徴的に表現するもの、コクマー的な力の権化と化す。
 
 その世界はヘビーに過ぎた。
 タブーを垣間見てしまった、という観念が拡大し、罰せられる、もしくは死と引き換えに真実を知るという世界にひっぱられがちになってしまった。
 山のエネルギーにあてられたのかもしれない。
 その得体の知れない力を、ブラバッキー夫人の回路はサナート・クマラの神話として表出したんだろうか・・・。

 しかし、いくつかの洞察・・・というか直観を得た。
 シヴァ・リンガというのがある。
 インド各地の寺院に祀られている円柱状の石で、シヴァ神のシンボルなのだが、これは男根である。(インド人はリンガは「シンボル」ではなく、シヴァ神そのものだと言うらしいけど)
 極度に象徴的な形態として礼拝されているが、当初ヨギがそれを幻視した時にはもっと生々しく生命力に脈打っているようなものではなかったかと感じた。
 シヴァ神自体が全裸の神として覚知されたという可能性もある。
 
 なぜ男性器と、神聖な存在がリンクするのか?
 例えば、ユングが幼少期に見た夢の中においてはリンガは「地下の神」として不気味な様相でそびえていた。

 「・・・確かではないのだが、多分赤いクッションが座の上にあった。すばらしい玉座でおとぎばなしの本当の王様の玉座だった。
 何かがその上に立っていて、はじめ、私は4~5メートルの高さで、約50~60センチメートルの太さの木の幹かと思った。とてつもなく大きくて、天井に届かんばかりだった。けれども奇妙な構造をしていた。それは、皮と裸の肉でできていて、てっぺんには顔も髪もないまんまるの頭に似たなにかがあり、頭のてっぺんには目がひとつあって、じっと動かずにまっすぐ上を見つめていた。・・・・・・

 ・・その時、外から私の上に母の声がきこえた。母は「そう、よく見てごらん、あれが人喰いですよ」と叫んだ。それが私の怖れをさらにいちだんと強めた。・・・

 ・・・ずっと後になってやっと、私があの時みたのはファルロスだったことがわかった。そしてあれが儀式のファルロスだったとわかるまでに十年を要した。私は母が言ったのが「あれこそ、人喰いなのだ」ということなのか、「人喰いはあれなのだ」ということなのかはっきり区別できなかった。第一の場合なら、主イエスやジェスイットは子供達を食べるものではなく、ファルロスこそが人喰いであることを意味していたのだろうし、第二の場合なら、人喰い一般がファルロスで象徴され、従って、暗い主イエスもジェスイットもファルロスも同一物であるということになる。・・・・

・・・いずれにしても、この夢のファルロスは名付けられるべきでない地下の神のように思われ、若い間じゅう存在し、誰かが主イエスについてあまり強調して話す時にはいつでも繰り返しあらわれたのである。主イエスは私には決して全く現実的なものとはなりきらず、すっかり受け入れることも、愛しつくすこともできなかった。幾度となく私は彼の地下の片割れのこと、もとめずして与えられた、ぎょっとするような突拍子もない啓示のことを考えてみるのだった・・・・」 ユング自伝1 29p~30

 自伝を読んでみると、ユングには形骸化したキリスト教をもっと無意識の生生しい力で補填しようという衝動があったようで、その途上において「聖なるもの」と「俗なるもの」が同一であること、「聖なるもの」はもっとも俗であると考えられているものによって象徴化されるということを無意識(魂)から教えられていたように思える。
 しかし、聖なるものとしてリンガを見るのは恐ろしい経験ではないか?
 神々がそのように赤裸々であること、本当にホリスティックであることが畏怖をかきたてるのだ。
 そういえばユングは、神の大量の排泄物が天から落ちてきて、大聖堂をばらばらにするというビジョンも見ていた。
 これは冒涜ではなく、自己自身の、そして神の全体性への尊い受容であると僕には思える。

 とにかく、「聖と性」「神々のエロス」というテーマについてはこれからも考えていきたい。

 (後から気付いた事

 ソーマのビジョンでは、三叉のほこを持って海で戯れているので、ギリシャのポセイドンみたいな神に思えたが、シヴァも三叉のほこを持っていたことに気付いた。
 加えて奥の院一帯の地層はもともと海底にあったもので、ウミユリやサンゴの化石を含んでいるということ。だから海で戯れていたのだろうか?
 もしかすると、鞍馬山は海神のリンガなのかもしれない。。。と夢想した。
 
 天高くのびて、山となる、海底の意志。







 


 






サイケデリクス&ソーマ・ヨガ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/06 11:54

リアル

 修道会の翌朝に、コンビニに朝食を買いに行った。

 まだ前日の少しパキパキとした感じは残っていた。

 初夏の、気持ちの良い朝だった。

 しかし、その夏の気配よりももっとリアルな至福の源泉が内側にあった。

 本当のしあわせは、現象になんら依存しないものかもしれない。


 夏の匂い、緑、空の色はきれい。

 でも、五感によって知覚するそれらを追い求める必要はなかった。 

 これが『母(マーヤ)』の幸福感だとすれば、これも現象には違いない。

 それが証拠に、その幸福感は消えていくのだから。

 消えないものは何?

 それはどこにあるのかな?
 
 ないのかな?

 





未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/06 10:41

6月の修道会

 瞑想

 今回の修道会は、エネルギーがすごく強かった。
 自分の感性が前より少し開いたから、それがわかるのか、あるいはI先生がいうようにその夜がいつもより強烈だったのか・・・。
 修道会前は、行きたくなくなるということが割りに多い。
 でもいつも終わった時には、とてもいい感じで電車に乗る。
 最初の瞑想中は雑念が多くて、少しいらいらしていた。
 狭い空間にあまり親しくない人といるというシチュエーションは苦手である。そういうことが気になって集中できない。
 しかし、そのうちあたたかい空気の流れに自分が包み込まれているような感覚がした。この部屋全体を抱いているエネルギー。
 「みんな、仲間なんだ」、と思った。

 静まっていく。いらいらが消えて、思考が静まり、体の感覚、自我の感覚が薄れていく。もちろん、時々は何食わぬ顔で、思考が戻ってくる。
 しかし、それが自分自身であるとはもう思われない。
 それは時々水面にたつ波のようなものに過ぎない。風が吹けば波が立つのは当然のこと。それは自分自身ではない。

 ナフス

 スーフィズム(イスラム神秘主義)では、神へと達するのを妨げるような自分の心の傾向を「ナフス」と呼んでいる。
 I先生によれば、それは自分の心の中に住んでいるサタンの同盟軍のようなものだという。それが心にいる限り、親分のサタンさんがなにもしなくても、ストッパーがかかり人はマーヤのなかで暮らしていく。
 
 「これはすごくいい考え方だと思うんだよね。自己嫌悪に陥ったりするのは、それを自分が考えていると思うからでしょ?でもこれはナフスだと思えば、本来の自分を見失わないで済むわけだ。」

 スーフィーの言い伝えによれば、ナフスは修行がある段階に進んだ時、その人物から逃げ出していくのだが、その姿はしばしば狐や蛇の姿をしていると言われている。
 
 タイプの違い

 一年半くらい前から修道会に参加している、Oさんという男性がいた。
 その人が虚栄心でマーヤにやられると言ったのをきっかけに、僕とOさんのタイプの違いをネタにして話しが進んだ。

 Oさんは確か音楽をやっている感性派で、本当の自分よりいつも高いところを見て生きているらしい。ところがなにかのきっかけで、理想と本当の自分とのギャップを知った時に激しく落ちてしまうということだ。

 「人のタイプによって落ち方も違うんだよね。M君はもともと虚栄心で生きていない。自己否定タイプだ。自分の実力よりもずっと低いところに自分がいると思っている。基本的にずっと低いところで生きているから、そこから落ち込むとなると、「死にたい」とかそういうとこに落ちるしかないわけ。
 
 M君は修道僧タイプで、いつも自分の存在に意識が向いてるんだ。そうでしょ?このタイプはうちではK君と彼ぐらいだね。
 彼は最初に疑問があるんだ。苦からはじまっている。ここに来る前にも、ひとりで探求してたでしょ?その過程は苦しかったと思う。」

 タイプ別の話しも面白かったが、自分の本質が理解されたような気がして妙にうれしかった。

 「そういうタイプは内面の会話がすごく多いんだよ。内面の言葉数が多いほど人は落ちやすい」

 あるがまま

 「ニューエイジ系の人はよく「あるがまま」を語る。古今東西の宗教でも「あるがまま」は大事な事とされているけど、それには大前提があるんだ。仏とか神とか、そういう偉大なもの、絶対なるものを信じ、それに自己を明け渡すということがまず最初にある。ニューエイジは自己に焦点があっていることが多い。
 彼らはそのかわりにポジティブ・シンキングを語る。自分の人生は自分がクリエイトしているから、思考を変えれば現実も変るという。
 でもそういう人が例えば膵臓ガンかなにかになったらどうする?
 医者には君、膵臓やられてるからマジ死ぬよって言われる。 
 そしたらどうする?この病気は自分がつくりだしているのだから、自分が治せるはずだ!・・・ってやるよ。でもそれでも治らない。すると七転八倒の苦しみじゃないか。こんなはずじゃなかったと。」

 これは僕も考えていたことだが、ぎりぎりの現場にならないと何が正しいのかということはなかなか見えて来づらい。
 自己に焦点があるというのは、商業をベースに発展してきたニューエイジ系の宿命的なゆがみかもしれない。
 とは言え、今の時代、多くの人にとって商業からしか入りようがないことも事実だが。

 悟り側から見たら、万人が神であり、それぞれの個人が後生大事にしている人格はマーヤでしかない。

 涙のわけ

 Oさんが、時々瞑想中に二日酔いみたいに頭が気持ち悪くなると言った。すると・・・・。

 I先生「俺時々涙を流してることがあるけど、あれは神の愛を感じたりして泣いてるわけじゃないよ。あまりの気持ち悪さに涙が流れてくるんだ。
 悟る瞬間には、頭がばかーっと割れるんだけど、その気持ち悪さたるや半端じゃない。げろーって感じ。
 瞑想する時も最初は、すごく下からあがってきたエネルギーが脳に影響を与えるんだ。その気持ち悪さに耐えると、そのあとすごくいい感じになるけどね。だから我慢するしかないよ。
 キノコとかサボテンとか食べても最初に吐き気がくるでしょ?あれと同じだよ。」











修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/06/04 11:19
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