スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

愛のコトバ

 誘惑の言葉ではなく
 脅迫の言葉でもなく
 
 愛の言葉を語りたい

 誇示の言葉でもなく
 媚の言葉でもなく
 
 愛の言葉を語りたい

 誰かに会うときはいつでも
 愛の言葉で語り合いたい

 支配の言葉でもなく
 隷属の言葉でもない

 愛の言葉をあなたと語りたい
 僕たちが死ぬまでに
 それほどの時間はないから
 
 愛の言葉のない人生は
 淋しすぎるから

 ハジメニ コトバ アリキ

 愛のコトバより創造されし僕らは
 愛の言葉を喋りたいようにできている

 宇宙を創造した
 主のコトバは僕らの身体に宿りて
 愛の言葉として
 僕らより再誕する日を
 待ちわびている






スポンサーサイト
| コメント(2) | トラックバック(0) | 2006/07/30 13:37

個人的メッセ

 おまえ自身のやり方で、神について語れ

 おまえ自身の聖なるものあるだろう?

 それを使って語るんだ

 誰の心にも存在する、犯し得ない聖域

 お前のこころの聖域にはなにがある?

 太陽よりも 夜の街のあかりが神聖なら
 それでもいい

 思い出の中のポピュラーソングが
 聖歌よりも神聖なら それでいい

 お前にとっては
 それが仏像や寺院よりも
 聖なる神の現われなんだ

 おまえ自身のやり方で
 無限なるものについて語れ
 
 おまえ自身の神話を語れ



未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/28 22:21

 スティーブン・ハッサン著「マインド・コントロールの恐怖」読書中。

 マインド・コントロール、カルト研究の古典のような本だ。
 著者は統一教会に勧誘され、3年程優秀な幹部として活動していた経歴がある。あ~よりにもよって統一教会か・・・。しかし、多分統一教会というのは、マインドコントロールの手法を自覚的に使用して組織を拡大しているもっともでかい団体ではないだろうか。
 もう周知の事実だとは思うが、駅前で手相を見せてくださいとか言ってくる人たちはみんな文鮮明の忠実な信者様である。彼らはたいてい二人組みで獲物を囲み、手相を見ながらお得意の「賛美のシャワー」(ほめ殺し)をしかけてくる。僕は「リーダーシップがあって、ロックバンドのボーカルみたい」とか言う意味の分からんほめ方をされて、なにかはずかしめを受けたかのようにむかついたのを覚えている。あーむかむか。

 この本を読んで思ったことのひとつは、なにか境界線を飛び越えようとした時にカルトの出現する余地が出来るということだ。
 例えば日常から→超越へと至ろうとする間隙に宗教的カルトがある。
 日常から→富へと至ろうとする時にネズミ講、ネットワークビジネスなどの商業的カルトがある。
 麻薬中毒から→回復へと至ろうとするときにシナノン財団などの治療カルトがある。特に治療カルトや、宗教カルトの場合神経言語プログラミング(NPL)などの手法を使い変成意識に介入する場合がある。その過程において個人の利益ではなく、カルト集団の利益を優先させるような操作をされてしまうわけだ。だからカルトの危険性にさらされているのは、何も宗教にハマっている人だけではない。あからさまには怪しくないヒーリングカルトのようなものが今後は問題になる可能性が高いのではないか。多くの人が、癒しに飢えているだけに罠も多くなるだろう。

 しかし、読み進めるうちに感じてきたのは、やはりあきらかにニセモノの教師が故意に人をコントロールし縛り付けるような集団に問題があることは自明であるが、仮にそのグループの教師が真正の存在であったとしても、弟子の精神が勝手にカルト化して自己自身あるいは他者の精神を縛るというのは十分にありうる話しではないかということだった。いや、実際それに近い例を見た事がある。
 その場合は、もちろん教師はホンモノであるわけなので目立って問題行動を起したりだとか、自他に悪影響を及ぼすということはない。
 だがそこには恐怖や罪責感による執着、かすかな選民意識、そして「自己の抑圧」というカルト的要素が薄められた形で存在しているかもしれない。
 問題は、人間性そのものの中にある以上、ある人にとってはホンモノの教師は最大のマーヤとなるだろう。

 そこでダンテス・ダイジのあの言葉が浮かぶ

 『親切は不親切であり 不親切は親切なのだ』
  
 絶体絶命のものだけしか相手にしないという禅の不親切さは、まったくカルト的にはなりようがない。絶体絶命のもの意外をも包含するグループは親切そうに見えるが、自己カルト化の機会を与えているという意味では不親切だともいえるかもしれない。
 
 そこで思う。
 どんな教義であれ、方法論であれ、自分が納得しないものは受け入れる必要はないということ。
 自分のなかで起こる違和感や、ホンモノ感は大事にする必要があるということ。
 そして、教師への全面的帰依があるとしたら、それはニセモノの自分ではなくホンモノの自分にしか出来ないということ。それでまでは、ホンモノの自分を掘り下げるしかないということ。(つまり自己を抑圧しないこと)全面的に神に帰依できるまでは・・・。







未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/26 17:00

 先週の土曜日、I先生の7月の修道会に参加。

 天体系マーヤ

 最初の瞑想が終るとすぐに、「どう調子は?」と聞かれる。
 
 「そうですね~この一週間はマーヤっぽい感じでした。」
と答える。
 どこがどうとはうまく言えないが、体調も今ひとつだった。

 I先生によると、先週の土曜日は月が地球に再接近していたことに加えて、太陽風も異常だったそうだ。(宇宙天気予報のサイトを見ているらしい)
 うーん、そういえば先週の土曜日はちょっと変だった。
 バイトの説明会でビルの中にいるときに、突然すごい雷がなりだして、帰りには「落雷の影響と、トラックが路線に衝突した為」電車が一駅づつ停まっていた。雷が落ちた上に、トラックが衝突するなんてめちゃくちゃだ。

 「具体的にマーヤの原因が思いつかないのに、なんかマーヤだっていう場合は天体系マーヤの場合がある。」と先生は言った。

 G・I・グルジェフは、人間は天体の強制力によって動いているに過ぎないと言ったが、最も身近な天体である太陽と月が持つ「強制力」は最も自覚しやすいものだろう。

 宇宙の細胞

 それから人間は、宇宙の細胞だという話しになった。
 この宇宙というのは神の体である。
 もともと神は純粋意識体(プルシャ)なので、何にも依存はしていないのだがその意識体が「宇宙」という身体をもつ局面に至ると、その身体を構成する個々の細胞が必要となってくる。この細胞が、銀河であり、太陽であり、地球であり、植物であり、動物だ。それぞれのかけがえのない部分によって、神の体が構成されている。
 人間は宇宙の免疫機構のようなものだ、と先生は言った。
 これはちょっと意味がわからなかった。

 神とマーヤ

 沈黙が訪れる。
 力が、その場に降りる。
 力が降りると、泣き出す人もいる。
 至福感に包まれる人もいる。
 
 「マーヤがあると、神はない。神がある時には、マーヤはない。
俺の仕事は、神とつながってこの力をこの場に降ろすことだ。
でもマーヤがあると神は降りてきてはくれない。マーヤって言うのは、色のついた水みたいなものなんだ。M君が例えば真っ赤な水を持ってきたとすると、一面がその色に染まってしまう。
 俺がその色になっちゃうんだ。すると神は降りてこない。
 さっき調子どう?って聞いたのは、今日はなんか持ってきてるのがわかったからなんだ。あとで(マーヤを)解いてあげようと思ってたけど、瞑想中に抜けていったみたいだから。」

 神への奉仕

 神への奉仕のひとつは、「神について自分が知っていることを人に話す事」だと言う。これは「ラストバリア」のなかでハミッドが弟子のルシャッドに言っていることでもある。しかし、これはひとつ間違えば、子供を連れてパンフレットを持ち、一軒づつ家を訪問するあの世界になってしまうのではないだろうか。僕がこのブログで、修道会のことなどを書いているのも、こういう「場」があることをそれが必要な人に紹介したいというのは確かにあるのだが・・・。

 何をすればいいかはわかっているが・・・

 「マトリクスの二作目の始めでネオが言うでしょ?何をすればいいかはわかっている、でもどうすればいいのかがわからないんだって
 まったくその通りなんだ。みんなも何が真理であるかはわかっている。でもそれに対してどうすればいいのかがわからない。
 俺もみんなに神の覚醒っていうものを体験して欲しいと思う。でもどうしたらいいかがわからない。だから俺にできる事といえば、こうやってみんなを集めて神様の話しをするくらいだ。
 でもね、それでいいと思っている。なぜならそれがみこころだから」

 クンダリニーで困ってた人の話、委ねる事

 ある女性が、もう10年もクンダリニーが動いたことによって苦しんでいた。普通に仕事をすることも難しい状態だった。

 クリヤ・ヨガではクンダリニーを覚醒させ、サハスララに上昇させることを目的とするが、偶発的にクンダリニーが目覚めたり、正しい師匠の存在なしでそのような状態になった場合は非常に危険な場合があるようだ。
 精神に異常をきたしたり、最悪の場合は死亡するかもしれない。それぐらいのエネルギーが人体内部には休眠状態で存在している。
 実際にクンダリニーの熱エネルギーによる、やけどや発熱が症状としてでる場合もあると聞く。

 その女性は、サイババにも度々会いに行き、7,8回もインタビュールームに招かれた。頭をぽんぽんしてもらったりすると、一時的にはよくなるのだがまたすぐに苦しい状態に戻ってしまう。
 I先生がその女性に相談を受けた時、先生は

 「クンダリニーなんて偶然にあがるもんじゃない。それはあなたに対するみこころなんだから、それに身を委ねるしかない」というように答えた。
 それと同時に、ヨガの本山博氏の教室に行ってみることも勧めたらしい。

 その後またその女性に会ったときに先生が
 「本山先生のところへ行ってみた?」と尋ねると

 「いえ、行ってないんです。先生に言われたように神様に身を委ねようとすると楽になりました。」という答えが返ってきたという。

 神に身を委ねる事は、瞑想中の魔境においても有効な対処法であると、本山博の本にも書かれていた。もはや、これは対処法なんてもんではないだろうけど・・・。あるいは究極の対処法。自分で対処しようとするのをやめること
 その真価がわかるのは、かなりの極限状態においてだろう。
 
 




修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/24 12:09

 Are you happy?

 自分自身に問いかける。

 幸福感、明晰さ、あたたかさ、すこやかさ。

 それが、あるかどうか。

 神は、至福、アーナンダー。

 マーヤがなければ神があり
 神がなければマーヤがある

 神様、いらっしゃいますか?
 そう子供のように問いかけ、返事を待つ。

 返事は自分自身の、微笑み

 返事がなければ、そこにはマーヤがある。

 どんなマーヤだろう?
 正体を見てみよう。
 何を教えてくれるだろうか。。。










未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/23 22:58

いらないものは、全智全能

 欲しくはないものは、全智全能
 欲しいものは、もう少しの自由

 好きなだけの金を得る力を持ったら
 僕はその重みに耐えられるだろうか
 すべての病気を治す力を持ったら
 僕はその重みに耐えられるだろうか
 宇宙全体を消す力を持ったら・・・

 僕らは完全な自由よりきて
 自分好みの不自由さのなかに生きて
 いつも、もう少しの自由を欲しがっている
 完全な自由は別にいらない
 欲しくないのは、全智全能

 僕の不自由さが辛うじて
 僕の正気を保たせている
 にも関わらず
 たまに現われた奇蹟に僕らは狂喜する
 それは僕らの精神が耐えられない
 自由の小さな先触れだというのに
 
 ニーム・カロリ・ババの浮かべたオレンジを見て
 腰を抜かし、泣き出すラム・ダス 

 海を割ったモーゼの力に
 女たちは気を失う

 怪しく光るサイババ・デパートの腕時計

 完全な自由に僕の心は耐えられない
 それは制限のなかで初めて機能する
 引力があってこそ、地上の生活があるように

 




未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/21 23:11

 それを信じることは、本当に依存だろうか?

 この世界には、アルコール依存も、メール依存も、SEX依存も、海外旅行依存も、セラピー依存も、存在する。

 でも、誰も、ほとんど、至高の存在を信じてなどいない。

 それを信じるのは、新しいおもちゃを買ったり、ライターでタバコに火をつけるほど簡単なことじゃない。

 どうしてそれが依存に出来る?

 それは挑戦だ。

 それは最高の狂気だ。



 
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/19 12:01

岩城和平 癒しの言葉

http://blog.so-net.ne.jp/taranath/archive/20060627-0-10

『道の始めに於いて
あなたはたくさんの
人達に会う事ができる。

しかし、道を知ってしまうと
あなたは誰にも
会えなくなってしまう。

それほどまでに
意識とは繊細であり
微妙なものなのである。

いかにも。
人間は身体ではなく
意識でコミュニケートしているのである。

人間とは意識体なのである。』


『あなたが
虫ケラのようになれたなら
あなたは
宇宙の支配者になる。

しかしあなたが
尊大になるならば
あなたの行き先は ただひとつ。

苦悩の世界。』

『祈りとは
願いを叶えてもらう為に
あるのではない。

祈りとは
あなた自身が
高く舞い上がる為に
あるのである。

祈りとは
翼を得る事であり

あなた自身が
いと高きものとつながる為に
あるのである。

祈りとはあなたの翼である。』


『人は窮地に追いやられると
神に救いを求める。

もしあなたが今までの人生で
祈った事がないのならば
それは窮地の極限を経験したことが
ないからなのかもしれない。

もしあなたが
ライオンにでも追いかけられれば
わかる事であろう。

世界中のどの民族でも
ことばや宗教が違っても
この状況では
みんなそれぞれのことばで
神に救いを求める。

なぜならばそれしか
何も出来る事がないからである。

万事休す。
何も打つ手が無くなれば
人は神に祈るものなのである。

そのように神は
人間を創ったのである。

何にも頼るものが無くなったときは
私を呼びなさいと・・・』




未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/18 11:42

 地球における生命の進化
 という概念が今夜
 二度僕に話しかけてきた
 あらゆる星々の影響として

 しゃけ弁当の上にのっかるサケは
 古代魚の末裔であることを
 僕に主張した

 恐るべき生命の金色の系統樹の伸びる様が
 僕に畏怖を伴った嗚咽をもたらす

 命ってなんて野蛮で残酷で
 美しくて優しいんだろう

 神様の描いた夢の奇妙さ
 
 過去に滅び去った生命を
 訳知り顔に研究する
 僕らの姿を

 新たなる地上の支配者となる
 生命の怜悧な瞳が見つめている

 人間など通過点に過ぎぬ
 人間など道具に過ぎぬかもしれない

 僕らはただ
 神のみ顔に向かって花開く
 光の花の
 花びらのひとつ

 生命の花の
 葉のひとつ

 音楽を奏でながら開いていく
 永遠の為の金剛曼荼羅

 そこにはただ純粋な悦び
 以外に理由はない

 お互いに食い合っている?

 いいや、お互いに助け合っているだけだ
 
 奪い合っているだって?
 与え合っているだけだろ

 神の血液として
 巡ってるだけだろ 

 飢えた虎に聖者が身体を与えた時には
 神が神と握手していただけだった
 
 地球における
 生命の進化という概念が 
 今夜僕に二度注意を促した

 あらゆる夢からの
 挨拶として















未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/17 20:31

思い切り、壊れてみたい

 さあ、思い切り壊れてみよう

 あほぅになってみよう

 あほぅになるということは

 自分を壊すということなんや

 あほぅになるということは、自由になるということなんや

 あほぅになれへんかったら、自由にはなられへん

 ホンマに、誰かが見たらめちゃくちゃひくくらい

 あほぅになったら 面白い

 両親でも愛せへんくらいアホな顔しながら

 ホンマのアホみたいにアホなことをしてみるのもいい

 そうしたら いくら自分が壊れても

 俺らは相変わらず生きてることに気づく
 
 自分が壊れへんかったら 壊れへんもんがあることが

 わからへん

 壊れるもんばっかりに囲まれて

 いっつも怖いだけ

 だからみんな

 思い切り、壊れてみたいと思っている





未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/13 22:11

ゴーギャンの魔法

 『われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処にいくのか』

 ゴーギャンの魔法はいつになったら解けるのだろう?

 その問いよりもリアルな現実に気づいたとき、だろうか。

 ただ、ここで、こうして息をしていることだけが、かけがえない真実で

 あることに気付く日に・・・。

 僕が頭の中で考えるどんなことも、僕が呼吸させられているという

 測り知れない神秘にはかなわない

 この生命という神秘の体現となる時に

 そこにはもうきっと僕はいらなくなる

 命と言う答えが、まず最初にあった

 『あなたは何処から来たのか、あなたは何者か、あなたは何処にいくのか』

 命から離れた僕たちは、お互いにそう問いかけ合う

 その答えを用意していないと、いけないような気分になる

 それはとても、しんどいことだ

 でも命のなかでは、ゴーギャンの魔法は溶けてしまう

 僕らは今とひとつになる

 僕らは、僕らとひとつになる 

 僕はここにいる

 もう、答えを用意しなくてもいいんだ


gauguinl.jpg

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/10 20:01

燃えているのは太陽

 僕は薄暗い部屋にいる

 カーテンを通してかすかな光が

 差し込んでくる

 これはカーテンが光を放っている訳ではない

 無限の虚空に太陽が爆発しながら

 燃えさかっているのだ

 マーヤのベールは真実を隠すが

 真実はそれさえも透過して僕に愛を届ける

 すると僕は最大限の愚かさでベールが光を放っているのだと

 思いこむ

 カーテンが光っているのだと思い

 うっとりとそれを撫でるのだ

 そこにある淡い光をすべてだと思い

 すべての人は僕に真理を語りかける教師だ

 そして彼らはベールだ

 無数の顔と言葉は幻にすぎず

 唯一の太陽のみが輝き

 真理のみが語っている



未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/08 21:13

何を怖がるのか

 恐怖と、「さからうこと」は等しい。

 さからっていないものに恐怖はないし、恐怖しないものにはさからわない。

 そしてよく考えてみると、何かを恐れるという現象は、常に恐怖への恐怖ではないだろうか。
 例えば、人に嫌われることを過度に怖れるという場合。
 それは、人に嫌われること自体を怖れているというよりも、人に嫌われるという状況下に感じる恐怖を、恐怖している。

 常に恐怖には実体がない。
 それはここにはない、何か別のものへの不安をかきたてる。
 しかし、それに実体があると錯覚しているから、恐怖を恐怖しているだけであることが僕にはわからない。

 不安とは、不安への不安以外にない。
 抵抗とは、抵抗への抵抗以外にない。

 一体僕は、何を恐れているのか?

 おそらくそれは、死への恐怖だろう。

 これはルートチャクラの生存衝動、あるいはクンダリニーにルーツを持つ。
 クンダリニーは無明の根っこである。

 この衝動を元に、第1、第2、第3チャクラで構成された自我が存在している。
 自我であるところの僕は、恐怖自体をベースにして動き回っている。
 恐怖は我々の本質だ。
 ただし、ハートチャクラよりも上の自己を発見した場合は、この状況を克服することができる。
 自我にはすべてを愛する事も、許す事も出来ないという。
 これは、愛したりだとか、許したりだとかを含む、「自分が何かをなしている」と思い込んでいる自我自体が、恐怖からの逃走であるからだろう。
 
 騒音自体に対して、静かにしろ、というようなものなのだ。
 音に対して、静かにしろというのは、音の性質を否定することだが、自我に対してすべてを愛せというのも、やはり同じように自我の性質を否定することなのだろう。

 ただし、愛につながろうとする努力は、僕がしなければならない。
 

















 
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/06 20:55

ムーラダーラ・プラクリティ、ウロボロス、クンダバッファー

 サンキャ理論の大まかな概観を勉強する機会があった。

 不二一元論であるヴェーダンタ理論とは異なり、サンキャ理論においては、宇宙はプルシャ(真我、父なる神)とプラクリティ(根本原理、母なる神)によって成立していると説く。
 サンキャの理論より発展したヨーガは、もともと馬と馬をつなぐ「くびき」という意味合いらしいが、これはプルシャとプラクリティを人間において合一させるという目的からきている。
 プラクリティとは言ってみれば、「この世」を動かしている根本的な原理と言えるかもしれないが、このプラクリティは人体という小宇宙においては、尾てい骨周辺にあるムーラダーラチャクラの内部に、クンダリニーという形で眠っている。そして、このクンダリニーを目覚めさせてスシュムナー管を上昇させ、シバ神の座であるサハスララに至らせることにより、プルシャとプラクリティを合一させられる(神人合一)と考える。

 プラクリティというのは、やはり「お母さん」であるようだ。
 そして、そのプラクリティの凝縮したもの、いや、人間における「宇宙のお母さん」自体の現われがクンダリニーであると言えるのではないだろうか。
 そしてこのクンダリニーは、普通とぐろを巻いた蛇として象徴化される。
 蛇、といえばもうひとつ有名なシンボルがある。
 自分自身の尾を噛んだ蛇の図・・・・。ウロボロス・サークルだ。
 これって、もしかして、プラクリティそのものを現しているんじゃないだろうかとふと思った。
 
 さてここからは、クンダリニーについて勝手に考えた事。
 ダンテス・ダイジによればクンダリニーが、尾てい骨に眠るエネルギーであるというのは方便に過ぎず、正確に言うならば絶対者なる無限の中心太陽から発出した光のエネルギー・コードのことであり、またニルヴァーナがマーヤーを仮現せしめるための一直線の光り輝くエネルギーであるという。
 ということはつまり、クンダリニーは、人間の世界認識自体と分かちがたく結びついているということになる。
 
 ここでグルジェフの言葉が思い出される。
 グルジェフは人間にはクンダバッファーという器官が取り付けられており、そのために現実を現実として認識できないのだということを言っていた。
 現実を現実として認識できないというのはつまり、ありふれた例で言うなら、死が直前に迫るまで、自分の死をリアルに直観する事が出来ないということである。このことがわからないばかりに、人はくだらないことに意識のエネルギーを消耗させ続けている。
 グルジェフは人間に必要なのは、自分があと何年で死ぬということを絶えず思い出させてくれるような装置であるとも言っていた。
 クンダバッファーというのはグルジェフによれば、緩衝器であるという。何と何の緩衝器か?意識と、現実だろうか??
 このクンダバッファーが、クンダリニーと同じもののことを言っているのかは知らないが、どちらも認識、知覚というものと深い関係がある。

 






未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/07/04 21:34
 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。