インナーチャイルドとの旅

 http://www2.ocn.ne.jp/~hypno/index.htm
 「宇宙の大地」

 ↑ここでヒプノセラピーを受ける。

 テーマは「被害妄想的思考、人になんか変に思われてるという感覚」について。この夏はなぜかインナーチャイルドが呼んでいた。インナーチャイルドが傷ついている人に相談を受けることがあった。が、それはもしかすると僕自身のインナーチャイルドに注意を向けるためでもあったのかもしれない。

 大きなリクライニングチェアーに座って、誘導を受けた。
 そして、過去に遡り、なにか人から白い目で見られているような感覚の原因となるところに行った。
 僕は頭では、トラウマ=幼児期という思い込みのためになんとなく4、5歳にかえらなければならないという風に決め込んでいたが、浮かんできたシーンはもっと成長した時のものだった。
 そこは修学旅行で行った、岡山のある公園だった。
 雨が降っている中に、僕は傘を差さずに立っていた。
 クラスメートの一人が傘をさしかけてくれた。

 なぜ雨の中で傘もささず立っていたかというと、その少し前にあるクラスメートの一人が僕の陰口を言っているのを聞いてしまったからだった。
 僕は彼と仲がよいというわけではないし、特に好きでもなかったが、表向きは普通に遊んでいた。
 しかしその言葉を聴いた瞬間、なにかが裂けた。
 もしかするとそれは、人間に表と、裏があるという事実を知り、世界が表と裏に裂けた瞬間だったのかもしれない。
 12歳くらいの自分にとって、誰も聞いていないところで悪口を言うということが本当に醜悪なことに思えた。しかも言われていたのは、僕だった。
 
 そして、放心状態になって、雨の中に突っ立っていたのだった。
 すると一人のクラスメートが僕に傘をさしかけてくれた。
 彼はどちらかというと変わり者で、クラスでもそんなに人気のある方ではなかった。だから僕はどこかで救われたような気持ちを感じながらも、「なぜ僕のそばにいるのはこいつなんだろう」という気持ちも抱いていたような気がする。僕にも裏表はすでにあった・・・。

 「では昔のあなたと話してみて、その子が何を考えているのか聴いてあげてください」という誘導。

 「成長していくことが怖い、環境が変わっていくことが怖いみたいです。」

 「では大人になったあなたが、その子にしてあげたいと思う事をしてあげましょう。」

 この子に何が必要か考えると、もっと広い世界を見せてあげることが必要のように思えた。家や、学校以外に、もっと広い世界があることを教えてあげたかった。裸足で大地を歩く事、異国の街並み、遺跡、そして色んな人が色んな生き方で生きている世界を一緒に旅してあげたかった。
 雨に濡れた修学旅行ではなく、本当に楽しい旅だ。
 彼は異国の風景に息をのみ、はしゃいだ。
 遺跡が描く光と影に畏怖の念を覚えた。
 南国の島で、優しい瞳がいくつも彼を見つめていた。
 旅をすると、その子供は少し生き生きとして、たくましくなったように思えた。

 「今、その子供はどうしていますか?

 「前より生き生きとして・・・旅で得た思い出をノートに書き付けています。」

 「彼がお礼にあなたにプレゼントしたいものがあるようです。それを受け取ってあげてください・・・」

 僕がもらったのは、旅の思い出を書き付けたノートだった。




 まだぼわーっとしている僕にヒプノセラピストの鈴木さんは言った。

 「今日からやっていただきたいことがあります。もし今後、また人に変に思われてると感じた時は、インナーチャイルドからのメッセージだと思ってください。そして目をつぶってあの子を呼び出し、大丈夫だよって抱きしめてあげてください。3週間は、それを続けてみてください。」

 僕としてはあの記憶が出てきた事がなにか意外だったが、見ない振りをして感情を封印している記憶だからこそ、潜在意識がサーチをかける時にひっかかるのだろう。そして、その時に、こころの一部の時が止まる。成長しない子供が生まれる。それをインナーチャイルドと呼ぶようである。
 なので、何才になろうともインナーチャイルドは誰の中にも存在するのである。

 僕は以前はよく色んなヒーリングを受けていたが、最近はある程度楽になったということもあり、そういうのからは遠ざかり、修道・・・というか自己を越えるということのみに意識を集中させるべきであると考えていた。
 それ以外のすべてはマーヤになると・・・どこかでそう思っていた。

 これは以前からのジレンマなのであるが、
 自己を越えようとすることと、自己を癒そうとする事、このふたつをどう両立させるか、そもそも両立するものであるのかということをまた考えた。
 まーそう固いことを言わなくても、いいんだろうか。

 鈴木さんは前世はチベットとかネパールにいたらしく、チベット密教に詳しいらしい。I先生にも一度だけ会ったことがあるということだった。








スポンサーサイト
セラピー&ヒーリング | コメント(1) | トラックバック(0) | 2006/08/30 21:33

小さすぎて困る猫

 部屋の中で猫の鳴き声がするので、よーく畳の上を見てみると、豆粒よりちょっと大きい位の猫がにゃーにゃー鳴いていた。
 僕はびっくりして、なんとかそれを踏みつぶしてしまわないように、そっと保護した。そしてどこに入れて置けば安全だろうと頭を悩ませた。
 それは余りにも小さく、そして壊れやすすぎるのである。
 しかしそうしている間にも・・・

 にゃー

 にゃー

 にゃ

 という鳴き声が部屋のどこかから聞こえてくるのだ。
 どうやら部屋の中には、もう数匹小さすぎる猫がいそうだった。 

 あー困ったなぁ。どうすんだよぉ・・・。


 ・・・という夢を見た。アル中の幻覚ではありません。
 猫はもしやインナーチャイルドかな。

 
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/29 20:19

 ここのところ、瞑想を終えたあとに結局雑念の堂々巡りをしていたのではないのかという感覚を持つことが多い。
 僕は瞑想法についてちゃんと指導されたりしたことはなきに等しいので、ほとんど我流になっている。そのやり方が正しいのかどうかはわからない。
 30分なら30分、一時間なら、一時間とにかく座る、動かない。
 それが外面的な方法。 
 内的コントロールには、主に光のイメージと、「神様」というマントラを使う。言語と、イメージの双方向からの働きかけ。
 あまりにも雑念が粗大になってくると、これを使って、ある程度静かになるとまた特に何もしないで座る・・・ということをくり返す。
 30分を過ぎたあたりから、状態が深まっていくことが多い。
 まあ、本当は何をもって深まっていくと言うのか知らないですが・・・。
 なので、これまた我流の基準で深まっていくのである(笑)。
 だからもしかすると僕は、瞑想してないのかもしれない(獏)。
 
 しかし、まあ話を「雑念の堂々巡りをしている感覚」に戻す。
 多分、これはあるレベルの静かさに慣れてきたので、雑念に敏感になっているということのような気がする。微妙過ぎて知覚できないような思考・・・「何考えていたの?」ときかれて「何も。」と応えるときでも思考は常に流れている。本当に何も考えていなかったと考える人は、その瞬間に無意識であったために自分が何を考えていたのか思い出せないというだけのことだ。
 なので、思考が停止するということは厳密な意味では、普通起こらない。
 しかし、リラックスや、本質的個性の発見という目的のために瞑想をすると言う場合、「思考停止」など普通は必要としないのではないかと思う。

 まあ、とにかく、死ぬまでやるくらいの気持ちで継続することが重要だろう。

 


 天体について。
 太陽、月、およびその他の惑星と地球との関係について意識的に考えはじめたのは明らかに前回の修道会以後のことだ。
 しかし、それ以前から「太陽」という表象に関しては無意識の中で活性化しはじめていたような感じがする。
 先々週、ブッククラブ回に立ち寄った時に、スターピープル誌のバックナンバーの中に「太陽と新文明」という特集を組んでいるものがあった。
 僕が考えていたことととても近いことが特集されていたので購入した。
 太陽に意識の焦点をあてることは、もっとも身近な命の与え手を確認することであると同時に、エネルギー問題や、エコロジーの問題を考えることでもある。
 「新文明」として述べられているのは、今までの化石燃料を使用した文明の代わりとなる、「循環型文明」である。
 現在の「西洋商工業都市文明」の動力源となっている石油は、過去に蓄積された生命の死骸、言い換えれば過去の太陽光である。何億年もかかって蓄積された資源を掘り起こして、動力源とし、自然環境を破壊し、その上に物質的価値観を主軸としたライフスタイルを営んできたのがここ百数十年の歴史だった。南米のラスタファリズムはこの文明を聖書に登場する邪悪な都市にちなんで、バビロンと呼んでいる。
 しかし、こんな風に、過去のエネルギーに頼るのではなく、現在惜しげもなく降り注がれている宇宙のエネルギーを循環させながら生活していけるのではないかというのが「循環型文明」の発想だ。
 例えば代替資源として注目されているものに、大麻がある。
 大麻は生長も早く、資源としても有用なので20世紀以前にはエネルギー源として注目されていたのだが、石油エネルギーを中心的に運用するという世界的方針の中で法的に封印されていった。
 日本神道では、大麻は太陽のシンボルと考えられており、神社の鈴縄や注連縄にも大麻繊維が用いられているというのはとても興味深い事実だ。
 それは太陽のエネルギーをもっとも直接的に我々に媒介してくれる植物かもしれない。。。
 
 しかし、このような実質的なエネルギー運用の転換以前に、それ以前の心理的段階として、多くの人が太陽という「巨大な生き物」を新たな視点で捉え直すという現象が起こってるのだと考えたい。
 毎日毎日、空を巡る太陽。しかし、その真の姿を僕らは理解していない。 
 いつか僕らは、「初めて太陽を見る」という意識を経験するのではないだろうか。








アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/28 12:30

 ラーム
 ラー
 ラ・ムー



        太陽 ○ 

 宇宙のこの場所における愛の発現

 奇蹟とは、すべてを照らすこの光だ
 こんな曇り空の日でさえ
 お互いの顔が分かるほど
 こんなに光に満ちている
 
 奇蹟とは太陽の光が
 虚空を越えて届いてくるということだ
 真空の闇を越えて
 あの宇宙空間で燃え盛る命のかけらが
 僕と共にある

 奇蹟とは今ここで
 共にある命である

 光こそ命の与え手であれば
 命の与え手に僕はいつも包まれている
 光であった僕は生命となり
 進化の鎖をくぐり抜け
 鳥のようにいつか光へと帰っていこう
 七色の虹をくぐって

 おしげもなく降り注ぐ命
 おしげもなく降り注ぐ祝福の花びら









アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/27 11:42

新月

 8月のカオスが臨界点に達する。
 しかし
 カオスの闇の中で、新しい種がまかれた。
 新しいサイクルがまた動き始める。
 マーヤに惑わされませんように。
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/24 21:20

右脳

 よく、右脳の働きを驚異的に高めるトレーニング!!なんていう広告が雑誌とかに掲載されている。
 しかし、右脳の働きをトレーニングで驚異的に高める!という発想は著しく左脳的である。なので結果的におそらく、左脳的な人に訴える殺し文句であるだろうと思う。
 右脳は天性の遊び人であり、アーティストであり、子供である。
 それは誰の中にもいる、砂浜で波と遊びながらきゃっきゃと笑う・・・もう一人の永遠の子供だ。永遠の子供にとって、頭の働きを高めるトレーニングなんかやっていられないほど世界は美しい。
 
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/24 19:24

 何が正しいかを決めようとする時
 僕のなかでいくつもの観念が合い争う
 そこには平和はない
 心の中で戦争があると
 外の世界にも戦争を見つける

 何が楽しいかを
 自問自答するとき
 そこには争いは起こるだろうか?

 ある人が、これは正しいと言う
 するともう一人が、こっちが正しいと言う
 二人とも、正しいものを正しいと言った自分は
 正しいんだと思う
 正しいものはふたつあってはいけないから
 争いが起こる

 ある人がこれは楽しいと言う
 するともう一人は、私はこっちが楽しいと言う
 楽しいものはいくつあってもいいから
 めいめいが、楽しむ

 ???





未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/20 09:59

白亜紀の海

 白亜紀のとっても温かい海の中で
 僕は泳いでいたんだ
 とても自由で 心地よくて
 うみゆりの間をすり抜けて
 珊瑚の歌を聴きながら 
 海流に乗って流れているだけでよかった
 光 ゆれる みなも
 大きな魚が僕を飲み干す
 僕は知っていた
 僕はこれからもっと大きな命に
 なるということを
 僕は知っていた
 これはどこまでも正しい事だと
 僕はこの日を待っていた
 僕はあれからずっと食べられ続けたんだ
 そして、どんどん大きな命になって行ったよ
 自分を全部、あげるたびに僕は大きな
 命として生まれ変わっていく 
 だから僕はどんどんこう言える様になっていった
 さあ、私を、食べたまえって
 どうやらよろこんでご馳走にされることが 
 宇宙では進化というらしいね
 
 そして
 一番大きな命に食べられちゃった僕は
 一番大きな命になって
 今
 君を包んでいるよ
 白亜紀の海も
 うみゆりのささやきも
 ここにある 

 君のためにみんな歌っているよ
 君のためにみんな泣いているよ
 君の存在のために
 かつて存在したすべては
 みんな身を捧げたんだ

 あの白亜紀の海よりもずっと広い命の海を
 僕はみつけた







| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/18 21:02

終りのない呼吸

 森よ、ありがとう
 ここに来ると、急に胸が楽になった 
 ここはこの辺で一番空気がきれいだ
 君たちが大気を浄化している
 一瞬、一瞬尽きることのない無限の大気が
 流れ込む
 一瞬、一瞬ひっきりなしに貪欲に空気を欲しがる
 私の肺
 私の胸は穏やかに収縮し、膨張する
 この息はきっと
 決してとまることはないだろう
 この私の死のあともずっと
 すべての人類の死のあともずっと
 すべての生命の死のあともずっと
 未来永劫
 宇宙にはきっと
 呼吸の音がするだろう
 すべての星空も燃え尽きた
 崩壊する暗黒の宇宙の
 向こうからも
 
 誰かが、なにかが、はっきりと息づいている
| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/18 20:21

既にあるものが・・・

 太陽は、神の似姿だ。
 あらゆる生物・植物・鉱物の相互依存によって活動する地球と言う生命体も、太陽の活動なしにはあり得ない。
 太陽の存在は、可視的な物質次元だけを見れば・・・そして太陽系という枠組みの中だけで考えれば、あらゆる生命の中心であり、創造の光の発出源だと言える。太陽が発する光こそが、熱エネルギーこそが命の源だ。
 僕らがなんとなく生きているこの日常生活はすべて、この創造の光があるからこそ成り立っている。この事を考えると、存在の神秘に打たれてしまう。
 もし太陽が突然消滅すれば、永遠に夜明けの来ない闇が訪れ、地表は凍てつき、すべては死に絶えてしまうだろう。
 地球はその公転の中心となる重力場を失い、どこか宇宙の果てへはじき飛ばされてしまう。
 太陽があるからこそ、光が絶え間なく地上に降り注がれているからこそ、すべてが存在し、地球という惑星が安定した場を確保することができるのだ。
 太陽はミクロコスモスである人体では心臓に該当する。全身に血液を絶え間なく供給する心臓のように、太陽は鼓動し、光を、熱を休みなく放射している。
 太陽や、水、そして大気。
 植物、動物。
 これら既にあるものに対して、その意味と感謝と畏怖の念を取り戻す必要性が迫ってきている。
 それをエコロジーの原点としておかなければならない。

 神を悟るということも、既に存在するものが確かに存在すると知ることであるという。
 僕らが修行して、霊格をあげるかなんかして偉い存在になるのではない。問題となるのは神であり、僕らではない。
 禅の逸話にこんな話しがある。
 座って修行している弟子に師匠が尋ねる。

師匠「お前は何をしているのか?」
弟子「修行をして仏になろうとしているのです。」

すると師匠は落ちていた近くのかわらを拾って磨き始めた。

弟子「何をしているのですか?」
師匠「瓦を磨いて、鏡にしようとしている」
弟子「瓦を磨いても、鏡になるわけはないではないですか」
師匠「ならば聞く。座禅をして、仏になることができるのか」
弟子「それは同じ事なのですか??」

師匠「牛が引いている車が動かなくなったとき、お前は牛を打つのか、車を打つのか!?」


 この師匠は、弟子が見当はずれの行為をしていることを指摘している。
 自我は、決して神にはならないということだ。
 弟子の「修行をして仏になる」という発想は、牛車が動かなくなった時に車を鞭打つような見当違いのものであるということを師匠は教えたかったのだろう。
 I先生は瞑想を続けていくと、瞑想がマーヤになっていくということを言っていた。この禅の逸話も、瞑想するという行為が深いマーヤになった事例とも解釈できる。
 そうではなく・・・既に最高のものは存在している、と知ることが重要なのではないか。
 その最高のものは僕がどんな状態にあろうと、常に最高のものとしてあり続けたし、これからもあり続けるだろう。
 その最高のものを本当に愛しながら生きるとき、その最高のものへの愛が開ける時、もはや僕らは自分の状態にはこだわらないだろう。僕は常にその最高のものから生まれ続けている。
 辛い時にもその最高のもののことを思えば、僕はその最高のものから流れ出るものであるということが感じられる。
 その個人的イメージは、胸の中の虚空で輝く太陽だ。
 
















アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/16 22:41

 僕は神を唱えていた
 ある時
 僕が神を唱えている事が
 神が存在することの証となった

 ある時
 僕が神を唱えている事が
 彼方が存在することの証となった

 その証は
 神を唱えているのは
 僕ではないという感覚と共に来る
 始原からのあらゆる連鎖が
 僕に神を唱えさせている
 大いなる謎が僕に神を唱えさせる
 その謎をなぜ神と呼んではいけないのか?

 神の存在が僕に神を
 唱えさせる
 神を知った人の歓喜が
 僕に神を唱えさせる
 至福の存在が
 僕に神を唱えさせている
 僕の無知が
 僕に神を唱えさせる 
 神の英知が
 僕に神を唱えさせる
 カ、ミという形に初めて唇を動かした
 人間の目に映った空が
 僕に神を唱えさせている 
 神なんていないという人の
 吐いた二酸化炭素が
 僕に神を唱えさせている

 至福が神を唱えている
 
 すべてが神を唱えている







 




未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/15 15:35

 「臨死体験 未来の記憶」フィリス・アトウォーター著

 アトウォーターさんは臨死体験や意識の研究家だ。
 「光の彼方へ」という本も邦訳されているが、その中で彼女はずっと遠い過去世に別の惑星で爬虫類(トカゲ?)型の知的生命をやっていた記憶があるというようなことをおっしゃっていたと思う。
 この発言からもわかる通り、彼女はかなり異色な感性と知性を備えた人であると僕には思える。
 アトウォーターさん自身の臨死体験も、よくあるタイプの霊界物語や、光との遭遇という域を超えているように見える。
 三度目の臨死体験において、彼女はそれぞれ逆方向に回転するふたつのサイクロンが砂時計型につながったものを目撃する。

 「サイクロンの強烈な回転力はまた、それぞれの渦の外周部で反対の回転を生み出しており、その過程で別のエネルギーの高まりが現われてきた。この新たなエネルギーの高まりが、各サイクロンの左右に空間を作り、その副産物として、暗闇と光を作り出しているように見えた・・・

 「これを見た私は、回転するサイクロンの副産物である暗闇と光が、同一の力学から生じる、正反対の<サイン>であることを悟った。・・・暗闇と光は、絶え間なく自らを再創造し、変容し続ける創造の営みから生まれた必然的な産物なのだ。私にはまさしくそう感じられたし、宇宙の創造に立ち会っているかのような感覚があった

 「私は、今まで<いのち>と呼んでいたものに何の興味も持てなくなり、放射される力の光線にただただ魅了されていた・・・その空間、その場所は、私にとって神へと至る入り口であるかのように思えたので、私はその中心点に向かっていこうと決心した。私はかつて、そこからやってきた。だからそこへ、神の世界へ戻るのだ。それが私の願いだった・・・

 ちょうどそのときに、倒れている母親を見つけた息子さんが声をかけ、その声ががふたつのサイクロンの連結部へ向かいつつあった彼女を引き止めた。
 もしこれをクンダリニー・ヨーガとして解釈するならば、相当上のほうまでジャンプしているように思える。彼女が見たのは、宇宙の根本構造である、元型的な世界だったのだろうか・・・。

 臨死体験を経験した人にはブレイン・シフトと呼ばれる、脳機能の変質が見られるという。このブレイン・シフトに伴う能力として、しばしば、突然未来を生きるという体験が訪れるらしい。それはいわゆる予知能力のように、一瞬ビジョンとして閃くというようなものではなく、きわめて感覚的に、生々しく、未来を生きるのである。走馬灯の未来バージョン、と言ってもよいかもしれない。アトウォーターさんの場合は何年か分の未来がごく瞬間的に展開したようだ。

 僕はこの能力に関しては特に興味はない。
 しかし『意識』というものが本来、直線的な時間、空間に限定されたものではないという証拠であるとは思う。 
 アトウォーターさんの言うようなブレイン・シフトは広範囲で起こりつつある。それは臨死体験だけではなく、何かの衝撃や、瞑想などでも起こる可能性がある。
 そして、新しいパラダイムを作るためには、ブレイン・シフトをした人たちの物の見方、ビジョンがとても貴重なのだ。
 そのビジョンは、多くの人に受け入れられるためには、新しい言葉で語られなければならない。科学と霊性が結びついたような、新しい神話がどうしても必要になってくる。彼女はこの本の中でそのようなビジョンを提示しようとしているように思える。
 











未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/14 17:20

 セミが鳴いている
 あの鳴き声は何を語っているのだろう
 鳴いているセミは苦しいのだろうか
 鳴いているセミは
 楽しいのだろうか
 それとも何も感じずに
 鳴いているとも思わずに
 鳴いているのだろうか
 それならば
 そのようにセミを鳴かせる力は
 どこから来るのだろう

 一生懸命に
 自然から与えられた声帯を
 震わせながら
 セミが鳴いている

 夏の太陽の下で
 100年前と同じように
 そしておそらくは
 100年後も同じように
 セミが鳴いている

 全く同じ太陽の下で
 全く違ったセミたちが
 同じように叫び続ける

 それを聴く人の内側で
 それに応えて
 激しく泣く何かがいる

 激しい雷雨が街を洗う時
 セミは幹に止まって
 死んだようにじっとしている




| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/12 20:30

亡霊

 ダンテス・ダイジが南無阿弥陀仏を唱えていると

 竹富島の便所で首を吊った友人の亡霊があらわれた。

 非業の死をとげた友人の亡霊に

 一緒に死んでくれとすがりつかれた彼は

 「君と一緒に首を吊って死んでもいい」と応えた。

 彼は決して念仏で友人の亡霊を成仏させようとはしなかった

 私が君と一緒に死んでもどうなるものでもないと

 諭したりはしなかった。

 彼には彼の孤独が痛いほど、理解できたから

 友人と首を吊って死ぬ事は

 それは間違った選択かもしれないが、一番素直で優しげな

 人間が犯す間違いなのかもしれない。

 それは、融通無碍なあまりにも自由な優しさに見える。

 ダンテス・ダイジは確かに一度、竹富島の真夜中の便所で

 友人と首を吊って、死んだのだ。

 それくらいに彼は自由な、当たり前の人間だったのだ。





ダンテス・ダイジ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/12 13:28

真心とともに

 真心とともに
 神とともに生きる事の悦びを
 忘れてはならない
 それだけが生きる事をリアルにするから
 真なる心なしには
 あまりに生は虚しい

 あの時 あの場所
 夢の中で・・・
 神を愛する熱い集いが
 あった
 皆が神のいとし子であることの
 意味を知っていた

 真心とともに
 生きたいと思った
 ただただ、真心とともに
 ありたいだけだった
 そのために僕は、生まれてきたから

 いろいろなオモチャやガラクタ
 を捨ててしまえたらいい
 真心を失ってまで
 手に入れるものなんてなにもない
 
 新しい一日に

 神よ、在れ
 こころよ、在れ
 愛よ、在れ




 夢の中で、ダイジを囲む集まりの中にいた。

 僕はあまり感じないような高揚感を感じていた。

 それは、本当に最高のものがそこにある時に、自ずから沸き起こる感情のように思えた。

 いつも神といい、魂といい、そういう言葉で語っても抜け落ちている「聖なるもの」への想いがその時にはあった。

 夢の中のダイジはこんなことを言った。

 「君達は、俺の心の中にいる。

 君たちはみんなで『父の意識』を構成している。」と。



ダンテス・ダイジ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/12 06:34

低次元とは何か?

 西洋オカルティズムやその他多くの体系では、存在の序列というものが存在する。たいていの場合絶対者をトップとして

 絶対→天使的存在→人間→動物→植物→鉱物

 というような並びになっている。

 スリ・ユクテスワの「聖なる科学」を参照すると、進化とは生命を幾重にも覆っているコーシャ(殻)が一枚筒はがれていくことである。
 鉱物的存在から物質性が剥ぎ取られると、エーテル的存在である植物が誕生し、次にアストラル的存在である動物が生まれ、理性的存在である人間が生まれる。
 これは進化とは内に含まれるものの展開、外化であり、退化とは高次の資質を内に内化することであるというヒンズー的な思想が伺える。

 物質的な科学でいうならば、人間、動物、植物のこの3つを区別するのはDNA塩基配列の組数ということになる。人間に近づくほど塩基配列は多く、原子的な生命ほどそれは少ない。体内に現象化しているプログラムの情報量が人間に近付くほど多くなる。次いで多いのはチンパンジーやゴリラの類でDNAだけをみればほとんど微小な差異しかない。
 物質化学の立場では、鉱物は生命とはみなされないだろうし、天使的存在は架空のものとみなされる。
 
 人間は次元が高いとか、低いとかいうことを言う。
 しかし正確に言えば、高いとはどういうことで、低いとはどういうことなのだろうか。そして、もうひとつの倫理基準、「善悪」というものがあるが、これは高い=善、低い=悪と重なるものなのだろうか。

 グルジェフなどを中心とする西洋近代オカルティズムでは、存在の位階は振動数と物質密度によって決定されると考えた。
 高次の存在ほど振動数は高く、物質密度は低くなる。
 低次の存在ほど振動数は低く、物質密度は高くなるというのだ。
 振動、バイブレーションのレベルが高くなるほどに物質性は希薄になり、あまりにも高くなると肉体としては存続できなくなる。悟りを開いた人でも究極のサマーディーには21日間しかとどまれないというのも、あまりにも振動数の早い意識が、肉体と同調することができず、器を壊してしまうからなのかもしれない。

 この振動数と言う言葉は、現代オカルティズムであるニューエイジでは「波動」と呼ばれている。








未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/11 10:31

壊れゆく人格

 「人格」とは
 生命のない仮面に過ぎないのではないか
 死んだ部品に過ぎないから
 本当はいくらでも別人格は作れる
 そんなものは 
 僕ではない

 そんなものが僕だと思い込んだら
 神様は僕の人格をメチャクチャに
 壊すだろう 遅かれ 早かれ・・・

 その時僕は 完全にまとまりなき
 カオスのようになる

 僕は無秩序なメロディ
 僕は色狂いの女
 僕はトリップマニア
 僕は3才の子供 
 僕はアトランティスの神官 
 僕は処刑された魔法使い
 僕は修道僧
 僕は単なる、バカ
 スペシャルな、バカ

 これは結構恐ろしい!
 真実に近いものほど、恐ろしい!
 これほどすべての混沌を愛すのは・・・
 こんなに豊穣な、狂気
 くだらないのは硬直した、正気

 神様、僕の人格を返してください
 神様、僕の自己愛を返してください
 神様、僕の家を返してください











未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/08 21:40

道の師

 真実の瞑想が経済も芸術も政治も内に含む
 というように

 道の師は道徳も学問も世俗も
 内に含んでいる
 それゆえに
 何にもまして尊い

 道の師への愛と信頼を持ち
 彼と会うならば
 彼は人の本質に語りかけ
 人の本質を変えていく
 自己の本質を知らない僕には
 その声は
 きこえないかもしれない
 それでも
 それは教育の原点であり
 極点である

 道の師に巡り会うことは 
 奇蹟のような幸運である
 道の師に出会うことは
 セラピストと出会うこととは違う
 カタログ片手に食べ歩いて
 5つ☆でレビューするものじゃない

 これは単なる意識の変容ごっこ
 トリップごっこじゃない
 本質が変ってしまうのは
 そんな軽いもんじゃない
 意識の根幹が
 ゆるぐのだ 

 道の師は単なるセラピスト以上のものだ
 俳優をしている一人の男は
 彼が演じる配役より
 遥かにそれ以上の存在であるように

 しかし
 まだ時機が来ていない人にとって
 彼はちょいとばかり陽気な
 おっちゃんに過ぎない
 ある人は彼に親しみを感じ
 ある人は彼を馬鹿にする
 そして
 そのどちらの評価も的外れだ
 それは僕らの盲目性を
 白状にしているに過ぎない

 ちょいとばかり陽気なおっちゃん
 
 でも、
 それは、
 本当は、ちょっとばかりなんてもんじゃない
 異常に 
 気が狂ったくらいに
 夏休みの子供以上に
 あなた、アブナイ薬でもやってるんじゃないですか?
 と聞きたくなる位に
 笑いながら殺されるくらいに
 陽気なんだ!
 
 僕にはまだ
 師が気が狂って見えるくらい
 正気なんじゃなく
 単に狂っているだけなんじゃないかとさえ
 思えてしまう   

 いや、いや
 本当は師は誰よりも正気で
 この僕は正気に見えるくらい
 狂ってるだけなんだ

 僕の不信心をお許しください
 彼を信じきれたものは
 時に早々と彼の元を離れて行き
 しばしば
 まだ学び足りず
 信じきれない
 ものだけが彼を囲み座り続ける・・・
 
 それは
 時にはまるで
 物見高いゴルゴダの群集のように・・・
 










未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/07 19:24

心から・・・

 あなたは、心から感謝できる過去があるだろうか?
 心から今に感謝していなければ
 心から過去を感謝することもできない

 というのも僕らは
 心から感謝できる未来が来るかどうか
 不安だからだ
 過去をうらむスペース
 過去うらみ部屋を残している
 そこで僕は
 過去に向かって
 お前のせいだ、と言っている
 だから心から今に感謝できない
 近くにありすぎる幸福に気づけない

 大丈夫
 あの大嘘つきたちの嘘を
 信じてください 

 心から今に感謝するであろう未来
 心から過去に感謝するであろう未来
 そこは必ず存在する
 過去恨み部屋は溶けて消えちゃった
 そこでは僕は過去に向かって
 本当にありがとう と言っている
 そこが必ず存在することが信じられれば
 心から今に感謝できる
 だって、絶対の至福への道を歩いているんだから
 必ずそこにたどり着くんだから

 心から今に感謝できたら
 すべてが輝きに満ちているかのように見える
 そしたらもう
 心から今に感謝できる未来も
 いらない
 優しい嘘よ さようなら
 
 どんな未来もいらない!
 過去も未来もない・・・
 
 今・・・ 今・・・・ 今・・・ 
 ゴール・・・ゴール・・・ゴール









| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/07 17:14

惑星間関係

 太陽:陽の極み、ティファレト、キリスト意識、アナハタ(ハート)・チャクラ、アマテラスオオミカミ、スーリヤ、アポロン、火

 月:太陰、イェソド、無意識の世界、イマジネーション、第二チャクラ?、エーテルの支配者、ダイアナ、『白き女神』、豊穣の神、水 

 太陽と月は最も身近な天体であるので、その影響も感じることはたやすいが、そのほかの惑星も地球、人間に対して測り知れない影響を及ぼしていると思う。というのも太陽系というひとつのシステムは、9つの惑星と太陽すべてが存在する事で成り立っているからだ。
 僕は占星術の知識はほとんどないので太陽と月以外の天体がお互いにどのような関係性を持っているのか知らないが、カバラを見てみるとこのような感じになっている。対になっているのは以下の組み合わせである。

        銀河(ケテル・王冠) 

        太陽(ティファレト・美)

        月(イェソド・基盤)  

土星(ビナー・理解)←→黄道十二宮(コクマー・知恵)

火星(ゲブラー・峻厳)←→木星(ケセド・慈悲)

水星(ホド・栄光・反響)←→金星(ネツァク・勝利)

 そのほかの情報もこれに加えると、金星は明けの明星、ルシファーであり、サナート・クマラ(魔王尊)の故郷の惑星でもある。さらにアダムスキーの
コンタクトした存在は自称金星人を名乗る美しいヒューマノイドタイプであった。
 火星はその赤さからか古来より争いをもたらす不吉な星と考えられており、逆に木星ジュピターは慈悲深い神と考えられている。
 これらの対になっている惑星同士の間には、なんらかの緊張関係がもしかすると存在するのかもしれない。
 地球という惑星がガイアという一大生命体であることを認めるのならば、そのほかの惑星もやはり同じように生きており、惑星相互間に見えないエネルギーの交流があると考えるのが妥当だろうと思う。

suisei.jpg

アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/07 12:35

進化力

 生命とこころは
 月によってリズムを支配される
 『意識』は
 太陽のように燦然と輝いている

 生命は、水によって生きる、火

 僕らは
 太陽によって命を与えられ
 月によって操られる

 月の引力にひっぱられつつ
 太陽に向かって上昇する

 太陽、惑星、銀河、みんな生きている
 
 笑っている

 歌っている

 ぱくぱく食っている

 密かなる野望を内に秘め

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/05 11:18

マニュアル。

 昨日、美容室で髪を切った。
 シャンプーをしてもらうときに少しブルーになったのだが、、
 シャンプーにさえ、トークスクリプトがあるんだな。

 頭の位置はこれでいいですか?
 
 「あ、はい・・・」

 苦しくないですか?

 「あ、はい・・・」

 お湯加減はよろしいですか?
 
 「あ、はい・・・」 

 僕は、「あ、はい」しか言えない。
 シャンプーを泡立てて、髪をゆすいでいる時に今度は

 「ゆすぎ足りないところはないですか?」
と聞かれた。
 ゆすぎ足りないところって・・・俺に聞くなっっ!そんなもん、こっちからわかるかいな。 
 と思ったが、

 「あ、はい、・・・・多分」と僕は言った。
 なんか全体的にゆすぎ足りていないような気がしてきた。

 しゃべりのマニュアル(トークスクリプト)というのは、大きいコールセンターとかでサービスや伝える情報を均一化させるためには必要なものかもしれない。しかし、美容室のシャンプーにまでそれを導入する必要が果たしてあるのだろうか。
 
 機械に質問されているようで、あまり心地の良いものではない。
 
 あまり電話対応の経験がない人にマニュアルをすごく勉強させてから、実際に電話に出させると、すごく融通がきかない感じになったり、想像力がうまく働かなくなってしまうことが、ままある。
 もともと、マニュアルは定石を学ぶためにあるものだと思うのだが、マニュアルの方に意識を奪われすぎると、現実をマニュアルに合わせようとしてしまうようになる。そうするとあくまでマニュアル通りに対応を強引に終了させようとして客をキレさせ、クレーマーを作ってしまったりとかする。

 これは問題を発生させないようにするための装置が、逆に問題を生んでしまうという皮肉な話しだが、こういうマニュアル的な風潮は拡大しているように思えてならない。
 マニュアルに囚われた状態は、管理化され、機械化された状態である。

 『人類の現況には、進化が進みつつあることを示すものは何ひとつない。
 それどころか、人類を個人と比較してみるなら、本質を犠牲にして人格が、つまり人工的で真実でないものが生長していること、また、自然で真実なその人本来のものを犠牲にして外部からきたものが生長していることをきわめてはっきりと見ることができる


 『現代文化は自動機械を必要としている。そして人々は獲得した自立の習慣を疑いの余地なく失い、自動人形に、機械の一部になりつつあるのだ。
 これらすべてがどこまでいったら終わるのか、また出口はどこにあるのか、いやそれどころか終りや出口があるかどうかさえ言うことはできない。一つだけ確かなことがある。人間の隷属状態は拡大し続けているということだ。人間は喜んで奴隷になっているのだ
。』

グルジェフ「奇蹟を求めて」p478




未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2006/08/03 12:11

 困ったことに
 僕らは意識だった
 
 プラクリティのなかじゃ
 腰が落ち着かない
 霊と物質が結婚し
 シバとパールパティ
 が交わるから
 神秘というものが生まれてしまった
 
 神のみならそれを包み隠すものなどなく
 物のみならその内に秘する何ものも
 なかった

 プルシャとプラクリティが結合し
 見知らぬ世界が現われた
 
 僕らが意識ではなければ
 すべてはなく
 苦しみも喜びもなかった
 
 もしも意識がなければ・・・
 
 しかし困ったことに・・・
 僕は意識だった
 困ったことに
 宇宙とは意識だった
 
 それは困ったことに、本当に神秘だった



| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/02 23:36

自由なる自然

 この時代において、『自然』は再発見しなければならないひとつの神であるだろう。先進諸国に住む多くの人はあまりにも自然のリズムから切り離されてしまった。
 全体から切り離された存在は、必ず元のユニティに回帰したいという衝動を内に秘めている。
 癒しへの願望というのは様々な種類があるだろう。肉体の不調から解放されたいという願望、過去のトラウマから解放されたいという願望、ストレス漬けの生活から脱け出したいという願望。
 しかし、その根幹には『自然』へと帰りたいという願望がある。
 本来あるべき状態に、僕らはいないような気がする。
 そして、あるべきだった状態に帰りたいと願っている。
 その願望が不自然なまでに高まっているのが、この時代であると思う。
 それは僕らが不自然に生きているからだ。

 自然のリズムから切り離されてしまっている・・・
 では、自然のリズムとは一体なんだろうか?
 リズムとは、一定の間隔で繰り返される音である。
 それは悠久の時の流れを貫いて存在する法則だ。
 人為的に操作する事は出来ない見えない掟だ。
 古代中国人はそれをタオと呼んだ。
 そしてタオに従って生きる事が幸福であると考えた。

 すべての行動には、それをするにふさわしい時節がある。
 目覚めるにふさわしい時間、瞑想するにふさわしい時間、働くにふさわしい時間、眠るのにふさわしい時間・・・。
 
 すべての行動において、それをするにふさわしいスピードがある。
 歩くのにふさわしいスピード、呼吸するにふさわしいスピード、食事するのにふさわしいスピードがある。
 
 すべての行動においてそれをするにふさわしい量がある。
 一日のうちで吸収するにふさわしい情報量がある。話すにふさわしい言葉の数がある。食事の量が、労働時間が、ストレスの量がある。
 タオが、人間が幸福であるために満たすことを求める基準が存在する。
 早い話、これらすべてが狂っているのがこの西洋商工業都市文明ではないかと思う。
 
 この文明は、母なる自然の内側に一時的に出現したバーチャルワールドだ。
 父なる神は、ハーモニーの中に不協和音を入れたかったらしい。
 しかし、自然のなかに出現した不自然は、今やガン細胞のように成長しふくれあがり、惑星の各地に転移し生命自体を破壊しようとしている。
 そしてこの不自然なるバーチャルワールドの中で生きる僕らは、その不自然なライフスタイルゆえにガン細胞に侵されて死んでいく。
 僕ら自身が、自然の調和を乱すマザーアースのガン細胞であることをやめれば、僕ら自身も健やかになっていくのは間違いない。
 
 この文明の中で生きる僕は、他の国に生きる人たちよりも自由であると考えている。だがそれほど自由であると感じてはいない。
 僕らは本当に、自由なのだろうか?
 自由のなかにいると、自由であることがわからなくなるのだろうか?
 そもそも、自由とはなんなのだろうか?

 まず間違いなく、自由とは何でも好きなことが好きな時に出来るということではないだろう。
 それはある条件に過ぎず、それが満たされている人が自由であるとは限らない。牢獄の中でも人は自由でいられるし、プールつきの豪邸の中でも人は不幸でいられる。

 「俺は自由だから、毎晩4時過ぎまで起きていて、昼過ぎまで寝ている」という人が単にリズムが狂っているに過ぎないように。
 「私は金銭的に自由だから、ブランド物のバッグを月に何十個も買いあさる」という人が、単に何かの心理的穴埋めとしての行動にとりつかれているに過ぎないように。
 狂っているから、いらないものまで、欲しくなってるのかもしれない。
 狂っているから、しなくてもいいことまで、してしまうのかもしれない。
 欲しいものが手に入ること、したいことができる事、それはもしかすると、単に狂気に対するストッパーが欠如しているに過ぎないのかもしれない。
 それは幻想の自由だ。
 
 自由は、きっと自然に生きることのなかにある。
 なぜなら自然に生きるということのなかにおいて、僕らは本当の自己を発見できるからだ。自分は何を愛しているのか、何をしたくて、したくないのかということが見えてくるのは自然のリズムにおいてである。
 そして、自然のリズムにおいて発見した、自然なる自己=本当の自己を生きているときに感じるのが「自由」ではないだろうか。

 この自然なる自己に近づくためには、必ずしも大自然のなかに出かけたり、山奥で暮らす必要はない。
 夜には、テレビも蛍光灯も消して、ろうそくをつけて、その前でゆったりと過ごすだけでも正常なリズムは取り戻せる。瞑想すらする必要はないと思う。ただ、炎を見つめて何もしない時を過ごしていれば、自然とそれは瞑想的にもなっていく。
 自然とは、木々や、山や、海のことだけではない。
 テレビが消えた後の沈黙、電気を消した後の暗闇も、偉大な自然なのだから。本当に身近なことから、自然を取り戻すことは出来るのだ。 
 そのときに自然と湧き上がってくる穏やかさ、喜びを感じる時、きっと僕はつかの間タオに帰ってきているのだろう。






未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/08/01 15:34
 | HOME |