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 来し方に未練げに郷愁の目を向け
 行く末を浅ましく案じるもの

 毎瞬ごとの選択に気が触れかけているもの

 思い出を後生大事にするくせに今現在の自分については
 何ひとつ知らないもの

 我

 自分のことばかりにこだわり続ける癖に
 自分の正体を知らないもの

 ご都合主義の未来を信じるもの
 陰気すぎる未来が好きなもの
 何も起こらないと気が狂うもの

 我

 我は 言い続ける 

 ないものを ある
 あるものを ないと

 過去とか未来とか こことかあそことか
 自分とか他人とか 男とか女とか

 ないものをあると言うから
 本当にあるものが決してわからない

 我とは

 絶対的な在るものが ないものをあると言った

 その嘘だ

 その嘘が消えるのは

 絶対的な在るものが あるものを あると言う時だろう

 我 消え行くのみ

 

















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| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/30 00:21

 我々は、昼間、頭を太陽系の中心である太陽に向けている。

 そして、夜になると、頭を外宇宙の方向へと向ける。

 バガバッド・ギータには「万物の眠りであるところの夜は、聖者にとっては真昼である」という言葉がある。

 聖者は果てしない空間に頭を向けて、何を思うのだろうか。

 

 
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/28 20:39

アメジスト・タブレット・プロローグのプロローグ

 
 奇妙なことに、
 いわゆるアトランテス文明滅亡以来、
 この約一万二千年間に
 人類は、文明という名に値する、
 文明を産み出したことは、
 一度もなかった。
 機械技術や科学が、
 どれほど発達しようと、
それだけでは、文明とは言えない。

 必然的に人類に平和と幸福を招来するであろう基本的前提が、この文明には、欠けている。
 基本的前提とは、
 生と死、自己と存在、欲望と幸福などの、
 非分析的な解明、非知性的な解答、
 非価値的な価値、
 すなわち、
 決して前提として把握することのできない完全なる基本的前提である。
 それは、真に生きることによってのみ実現されているといったものだ。
 あるいは、
 その実現が、真に生きること、真に死ぬことであるような何かだ。
 それが、見失われている文明は、
 決して文明の名に値しない。

アトランティス文明の頂点においては、
 神が生きていた。
 したがって人類も文明も、
 生きていたのである。
 その神が見失われた時、
 アトランティス文明は、
 巨大科学技術の自滅的な虚構集合物となって崩壊したのである。

 便利さ快適さは、
 決して幸福を産まない。
 能力や技術は、
 決して真実を明らかにしない。
 真実に到達するための、
 いかなる方法も修行も、
 あり得ない。
 だが、
 真実の中には、
 方法も修行も、能力や技術も、幸福も便利さ快適さも含まれている。

 純粋瞑想とは、
 真実が訪れるための
 非方法的な方法である。
 この純粋瞑想は、
 アトランティス文明の頂点において、
 一つの完成を持ち、文明化された。
 それゆえ、
 アトランティス文明であり、
 エデンの楽園であった。
 エデンの楽園と、その喪失とは、
 人間進化のプロセスとしても、
 読み取ることはできるが、
 それは、超古代史的な、
 史実でもあった。

 神を実現する方法の一つの完成体系を、
 アトランティス文明では、
 アメンティー・タントリズムと呼んでいた。
 いわゆる、エメラルド・タブレットとは、単に、アトランティス文明の黄金時代を指し示す粘土板のことではない。
 アトランティス文明の終末を予知した、
 アメンティー・タントリズムの覚者達の、後世人類へのタイム・カプセルの総称のことでもある。

 この現代の全地球上に広がっている西洋物質科学文明は、今や崩壊の危機の瀬戸際にある。
 一度も、神という実在の花を開かなかった文明らしきもの。
 まるでオルガズムのないセックスのようだ。
 科学の性質は別だが、その完成度においては、アトランテス文明の頂点と変わりない。だが、生きた神が一度も現われなかった不毛の文明らしきもの、人間が何であるかが、一度も実現されなかった文明でない現代文明。愛のないセックス。
 神なきゆえに、内的にも外的にも滅亡しようとしている現代西洋商工業都市文明。

 アトランテス文明は、少数の生き残った覚者達の手によって、
 神を実現する方法、
 アメンティー・タントリズムを、
 エメラルド・タブレットとして遺産とした。

 だが、この現代文明には、
 遺産とすべき果実がない。
 神を実現した人々は、
 余りに少数であり
 それは、
 今だ一度も、文明化されなかった。

 私達は、
 熱核戦争の下で、
 少数の後世の人類のために、
 アメジスト・タブレットを、
 残さねばならなくなるのだろうか。

 ちなみに
 アメジストとは、
 西暦二千年前後から本格的に影響を発揮し始める、アクエーリアスの時代精神のシンボルである。

 いずれにせよ、
 この書は、プロローグである。
 あなたが、神に目覚めるための、
 ほんのちっぽけな道標である。

 この文明らしきものの終末後、
 神に目覚めた、
 水晶の魂を持って、
 あなたは、
 まったく新しい文明を、
 産み出し得るだろうか?

 


 ダンテス・ダイジ著 「アメジスト・タブレット・プロローグ」より

amanogawa1.jpg




















 
















ダンテス・ダイジ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2006/09/27 21:52

虚無の微笑

 無明庵の新刊、「虚無の微笑」。
 面白い。
 同じ悟りを開いた人の中で、なぜ論争が起こるのか、なぜ語り口が異なるのかということについての大きな示唆になっている。
 この論理で行けば、
 小悟の境地で至福と共にある人、絶対の実在が真理だと認識した人は、絶対無や、死や、闇を語る人物を無知の中にいると考えても不思議ではない。
 もしや小悟にいる人は、大悟にいる人を正しく理解できない場合もあるのではないだろうか。

 最近ネットで読んだこの文章が思い出される。

  
 「菊池霊鷲師との対面」


 http://www.hept.net/jp/ryoju/19891129.htm

 『この時OSHOは霊鷲師に「あなたの光明を認め祝福する・・・、しかし光明を超え、無にいたるあと一歩があります。」といった内容のメッセージまで送っているのですが、OSHOはわざわざ自分のアシュラムに立ち寄ってくれた覚者に対して純粋にただ彼女を祝福さえすればいいのに、まだあと一歩(One more Step)があるといったようなちょっとした嫌味ともとれるようなコメントまで差し挟んだりしていて、今思うと、当時OSHOには彼女の尊さがよく理解できていなかったのではないかと思われるふしがあります。または彼女の尊さを理解していたがためにそういった嫌味ともとれるコメントが差し挟められてしまった可能性もありますが。

 元々OSHOは光明とは意識の量子的飛躍であり、段階をつけられるような出来事ではないと述べているので、その彼自身が比較や段階を超えた領域であるはずの光明のさらに次の地点(Step)についてコメントしているのは、そのコメント自体に無理があります。OSHOは彼の最晩年の講話の中でも“光明を超える”ということについて述べていますが、そこではあくまでも光明そのものを超えてしまうといったような不自然な発言などせず、ただ光明があまりにも自然な現象になっていて自分が光明を得ているということを忘れている状態のことであるとしか語っていないのです。

霊鷲師自身は後に「OSHOが本当に光明を得たのは彼の死の数ヶ月前のことだった」と述べています。・・・・
 また、光明を超えて無にいたるあと一歩についても「光明の先にあるのは無なんかじゃない、あるのは無限の実在だけだ」とはっきりと言い返しています。
これについては無明の真っ只中をさ迷っている私などがコメントをはさむ余地などないような気もしますが、別の筋からの情報「今存在しているものには始まりも終わりもなく、形は変えても永遠に存在し続けます。そしてそれは非存在になることはありません。というのは、非存在は決して存在しないであろうものですでにいっぱいだからです。・・・それが存在の無限的意味です。」というどこかの高次元の存在からのコメント、そのコメントと霊鷲師のコメントには共通性があるように思えます。しかしながら、光明の先に非存在にいたるということについては別の日本の覚者として知られるEOという方も彼の著書の中で図解まで入れて述べられているので、そのことが気になって霊鷲師に彼の本を見せてコメントしてもらったことがあります。そしてその時彼女からかえってきた言葉は次のようなものでした。
「人間、“わかった”と思った瞬間から、勘違いがはじまる。』

 もちろん、僕もこの筆者と同様無明のなかをふらふらしていに過ぎないので、なんとも言えないが、少なくとも小悟の経験がないがゆえに「なんとも言えない」と言えるような気もまたする。
 
 小悟の経験が圧倒的で、近くに信頼する大悟した師匠がいなければ、それは最終的な真理として語られるかもしれない。
 
 どちらにしても、僕らは、小悟にしろ大悟にしろ、「悟」に向かうしかない。

 が、「神は夢である」という大悟者の言葉を聴きながら、神に祈ろうとするのも妙な気分がする。




未分類 | コメント(13) | トラックバック(0) | 2006/09/22 20:28

礼拝

 私は 存在しているだけで 良い
 海や 空や 果てしない沈黙の中で
 誰が 私を 裁くだろうか
 私は このままで 存在していてもかまわない
 誰がいけないと 言えるだろうか?

 火の神 水の神 空の神 大地の神
 あなたたちの名前を呼ぶと
 私の内側から返事が聞こえる

 我々はお前の中で生きている
 お前の中で踊りながら
 お前を生かす

 まず生命としてあれ
 それ以外のものをお前自身とするな
 まず生命としてあれ
 
 生命とは我々すべての神々だ
 生命とは我々が生かすお前だ
 我々が生かすお前が
 本当のお前だ

 まず生命としてあれ
 我々が生かすお前として

 おまえ自身を裁かぬ事が
 我々への礼拝となる
 我々への帰依となる




 





 
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/18 22:09

9月の修道会(3)

 激しくストーン

 話しが途切れて静かになった瞬間、I先生が「来たね・・・」

 と言った。

 その直前、僕も自然に目を閉じていた。

 「すやすや系のエネルギーだね。」とI先生

 「これ、すやすやなんですか?なんか重いんですけど・・・。」と女性参加者の一人が言う。

 「意識がはっきりすると、肉体は重く感じるんだよ。」

 僕はそれほど重いという風に感じはしなかったけど、目を閉じてずっと固まっていたい気分だった。空間と自己に関する感覚がちょっと変だ。至福感とかそういうのではないが、悪い気分ではない。

 「Sさん、珍しい目をしてるね」とI先生が一人の女性に声をかけた。

 「瞳孔が開いて・・・まわりはっきり見えるんじゃない?瞑想にはふたつ方向性があってね、自分の内側でトランスしてる場合と、周りに対して目覚めている場合がある。」

 「でもまた、先生の姿がぼやけてきました・・・。」

 「うん、そうやってくり返すから。収縮と膨張。神を感じるとね、ここらへん(の空中で)でぼわーんぼわーんって脈打っているものとして感じることもある。」

 Sさんという女性はいつも始まると、感覚を持っていかれ、自失したような状態の時が多いらしい。これをトランス系とするなら、そのときはいつもと違う方向に目覚めていたということなのだろうか。




いつも修道会直後はそうなのだが、昨日の夜の瞑想は、とても深かった。

が、途中でまた恐怖感がやってきて、目を開けた。体が冷たくなって死にそうな感じがした。多分、なにかの記憶と結びついている恐怖感だろう。
トランスが深くなりすぎると、それにびびって、焦りはじめることが最近たまにある。 

次回は10月の始めにある、二泊のリトリートに参加する予定。





修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/18 11:44

9月の修道会(2)

 無理しない

 「深刻にではなく、真剣に神に向かうことが大事だよ。
 例えば、一日3時間も4時間も瞑想して頑張っていても、もしかするとそれは深刻なだけかもしれない。」

 「俺が何年か前に肺がんの検診を受けた時にね、タバコ何本吸っているかって聴かれたから毎日20本吸ってるって答えた。
 
 そしたら、それは多すぎるから減らしなさい!って。

 そのあとあ~そうか、止めなくちゃいけないのかなって落ち込んでいたら、はっ!と何を俺はこんなことでマーヤになってるんだと。
 そのあとは今まで以上に吸うようになったね。
 
 シガレットをやめてパイプにして、ほとんど一日中煙吐いてるから(笑)」

 「だからね、なにかを無理にやめたりする必要はない。
 本当に必要な時は、神がその趣向をとりあげる。するともう欲しくなくなるんだ。
 だから、自由にしてればいい。食べたいものを食べて、飲みたいものを飲んで、吸いたいものを吸って・・・。
 本筋だけは、はずさずにね。
 それぞれの与えられた役割の中で神を求めて行けばいい。」

 「インドのとある地域(マナーリー)に、大量のガンジャが生い茂ってるところがあった。ヒッピー達がたくさん集まってきたので、政府をそこを焼き払うことにした。そしたら翌年、その場所には倍の量が生えてきた。それ以後そこのガンジャはパールバティ(シヴァ神の神妃)って呼ばれるようになった。ガンジャはサドゥーたちに神聖なものとされている。インド人は神様に関することは強引に進めちゃいけないってわかってるんだ。俺はそこのガンジャをM君みたいな日本人の旅行者に売ってたんだよ。これはいいやつだよ、日本人が日本人を騙すわけないじゃん!ってインド人みたいなこと言ってさ(爆)」

 ほっぺ
 
 修道会参加二回目のOさんが尋ねた。

 「瞑想してる時とか、ほっぺになにかつっかえているような感じがするんですが」
 
 「ほっぺに来る?それは神の力が流れてるっていうことだよ。うちでは常識だから」とI先生。

 僕は全くそんなことは聞いたこともなかったので面食らった。

 「ほっぺと、あとは吐き気、胃のむかつきね!
 色んな本読んでも、ほっぺに来るなんて書いてないでしょ?頭の上に来るとか、眉間とか・・・」

 「はい、『頬、気』とかのキーワードで検索したりしてましたが」とOさん。
 
 「他のところに言って、ほっぺに来るんですが・・・って言っても誰もわからないよ(笑)それは、ほっぺが呼んだんだな」

 この話しの前だか、後ろだかは忘れたのだが、僕の中で意味的に連結している話しがある。
 「例えば、チャクラとか、クンダリニーとか自分にとってリアルでない情報は常にマーヤだからね、これは覚えておくように」
 そういう情報を詰め込んでいると、こういう風にならないと駄目なんだという感じで自分を縛ることになりやすい。
 しかし、神は変幻自在なのでどんな現われ方もする。
 ほっぺがいくらつっかえていても、普通はこれは神の力が・・・とは思わないだろう。
 僕は逆にこのことを聴いて、「そうか、ほっぺにこなけりゃ駄目のなのか」マーヤになりかけた(笑)。











修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/17 19:24

9月の修道会

 悟りと苦

 「悟りに至る前には、必ず長い苦しみの時期を通過しなければならないということがある種の本には書かれていますが、これは誰にとっても当てはまることなのでしょうか?」

 「それはわからない。それは神が決めることだから。

でもどうだろう?ラマナは苦しんだかな?ラーマ・クリシュナは歌ったり踊ったりしているうちに自然とああなっちゃったんだろ。

 でもねどっちかっていうと仏教系の完全自力の修行者の方が、ヒンズーやキリスト教の人たちよりも苦しい道を歩んでいると思う。
 どこが違うと思う?」

 「仏教系のほうにはバクティがない・・・っていうことでしょうか?」

 「そう!頼りすがるものがないんだ。神がそこにいるのなら、それを思うだけで幸福になれるんだから。」

 仏教にバクティがないというのは、正確には正しくないかもしれない。
 念仏系の宗教には、「神」という概念ではないが、向こう側に委ねきるという姿勢は存在する。
 どうも、他力系と自力系では自我を越えるにしてもルートが違う。課題となっている問題の性質が違うように思える。

 「結局すべてを決めているのは神な訳。
 俺は、スワミジ(サッチャナンダ・サラスヴァティ師)に、お前は星の配列がそうなっているからその時期がくれば自動的に覚醒するって言われた。でも俺はなにか修行しなきゃいけないって思ってた。

 次の師匠にも、「何もしなくていいからその辺をぶらぶら歩いてろ」って(笑)
 
 6年前に覚醒したとき、確かにクンダリニーは動いていたよ。
 でも上では神様がにこにこ笑っていた。」

 その言葉を聴いて、少しはっとした。
 クンダリニーの上昇→覚醒というのは、現象面で何が起こっているかということの説明に過ぎない。
 それが起こった結果、知るのは、「すべて神がやっている」という世界。
 これと同じ事は、苦と悟りについても言える。
 迷いと悟りとの間に、なんらかの因果関係を持たせて、こうすれば→こうなる。これを通過せねば→これには至らない。という絶対原則を設定するのは、少し違うのではないかと最近思い始めた。

 悟りの過程を、システマティックに記述することは出来ない。

 他にも面白かった話しはたくさんあり、エネルギーにかなりストーンしたが、なぜか書くのが面倒くさい。今日はこれまで。

 



修道会日誌 | コメント(3) | トラックバック(0) | 2006/09/17 10:28

玉葱

 みじん切りにした玉葱に、醤油をかけてちりめんじゃこと一緒に食うと、大変うまい。

 うまいからむしゃむしゃ食っていると

 食いすぎて胸やけがしてきた。

 カップ麺やポテチを体が次第に受け付けなくなってきたので

 なにか良い間食を模索中。
未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2006/09/15 21:01

 アワヤスカシャーマン・パブロ・アマリンゴの絵

 http://www.alteredim.com/pabroamaringo/index.html

 超綺麗だ・・・。キレイというか、これはあるレベルでは実在する世界なのだろう。やはり一度、アヤワスカを・・・・しかし、怖い。いいシャーマンはどこかにおらんかの。
サイケデリクス&ソーマ・ヨガ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/14 20:46

戦争はなかった

 200年後の僕は
 2006年の世界がどれ程戦いに明け暮れていたか
 古い新聞をめくるみたいに振り返るだろう
 見えない戦争がいつも起こっているこの世界を
 それはたった一人の世界との戦争だった
 数十億の民がそれぞれ数十億の断絶した戦場で
 たった一人で世界と勝ち目のない戦いをしていた
 周りはすべて敵だった
 僕は捕虜を虐待する軍人のように
 薬殺される捕虜のように孤独だった
 親を殺された幼い子供のように
 誰も信用した試しはなかった
 
 見えない戦争の最中で
 僕はいつも祈っていた
 戦争は終わる
 それはまもなく終わるはずだ
 これほどまでに野蛮な世界は
 いつか必ず終わるはずだと

 そして機関銃を投げ出して
 青空に向かって寝転んだ
 殺すなら 殺せ
 殺すなら 殺せ

 そうすると神様が遠くで白旗を振って
 実は
 戦争を起していたのは
 僕だったことに気づいたんだ
 そのようにして
 戦争は終わり
 そして僕は故郷に帰ってきた
 
 そしてこの平和の中にいると
 時々よくわからなくなる
 はたして戦争はあったんだろうか?
 戦争はなかったんだろうか?




 




未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/13 21:32

 神は僕に自由意志を与えたかもしれないが

 神は僕が何をするかあらかじめ知っている

 ゆえに神から見れば自由などない

 自由意志などないと知ることは

 私の正体は神であると気づくことと等しいのかもしれない

 それが完全なる自由

 神が神を神している、時のない時

 もしも、僕らのひとつひとつの選択で未来が決まるとすれば

 神を信頼する暇など決してありはしないのではないか

 そうではなく

 神が創った未来を、僕らはひとつひとつ選択する

 だから自分の選択を信頼しよう

 自分も選択もないのだから

 神様、ありがとうございます




未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/12 19:57

 今週の「奇蹟体験あんびりばぼー」でドウモイ酸という物質のことがとりあげられていた。

 これは動物や、人間の体内に入ると中枢神経を混乱させ、生命維持機能を冒し死亡させる。「アンビリバボー」では記憶の中枢である海馬をおかしくさせると言っていた。

 90年代、カリフォルニアで大量の鳥が人間を襲うという事件が発生したらしいが、この鳥の胃の中に入っていたいわしからドウモイ酸が検出されたということだ。

 1987年にはカナダでムール貝を食べた人々100名のうち、4名が死亡12名が記憶障害に陥った事件が発生。原因はムール貝の餌であるケイ藻によるドウモイ酸だった。

http://www.ntv.co.jp/FERC/research/20001112/f1664.html

 このドウモイさんは、赤潮によって大量発生したケイ藻と呼ばれる植物性プランクトンから生み出されるようである。
 おかしくなっているのは鳥だけではない。
 よくイルカや、鯨がいっぱい浜辺に打ち上げられたというニュースをやっているがどうもああいう事件にもドウモイさんが絡んでいる可能性が高い。

 「ケイ藻はこの地球上の生物の調整役であり、地球を破壊し続ける人間に対して、原始生物であるケイ藻が抵抗を続けているのではないか」と出演していた学者が話していた。

 赤潮は、人間が海に生活排水や工業排水をながすことによって、プランクトンが異常繁殖しやすい状態にすることによって起こる。
 そこで大量発生したケイソウをいわしなどが食べ、さらにそのいわしを捕食する水鳥や、大型の魚などにもドウモイさんが蓄積されていく。

 ガイア理論によれば、微生物は地球環境の調節を担っている。
 と、するならば環境のホメオスタシスを維持するために、あるレベルまで環境が激変した場合には、その原因となる「異物」を駆逐するようなプログラムがあってもおかしくはない。

 『日本の水産庁が行った調査では、採取されたムール貝とホタテ貝から微量のドウモイ酸が検出された。但し、食品としては全く問題のない程度だったため、対策の必要なしと判断された。』とか言っているが、微量にとは言え、人体に少しづつ蓄積されていったりしたらやばいような気がするが。






未分類 | トラックバック(0) | 2006/09/09 12:15

水素

 太陽において、水素原子が融合して、ヘリウムに転換する核融合反応が地球を暖める熱と光を生み出している。

 フィリス・アトウォーターが「臨死体験・未来の記憶」で書いている。
 彼女は核分裂反応が起こっている、原子炉を覗き込んだ時に、圧倒的な大文字の『LOVE』を感じた。それは地上で感じたどんなものよりも強烈な愛であったと語っている。

 核融合と、核分裂。
 分裂と、合一。
 どちらの場合にも、莫大なエネルギーと、そして愛が発生・放射されるのかもしれない。と言っても、この「愛」は近付きすぎると、生命体を破壊する類の愛である。この「愛」で生命が生きるには、何段階ものエネルギー転換を得て、我々が吸収できるレベルにまで変換される必要がある。

 グルジェフはより高次の生命は、我々の死であるところの、白熱した大気や、熱を食べて生きていると言う。
 そして宇宙に存在する物質をすべて、『水素』と言う言葉で置き換えた。
 もっとも純粋な水素1から始まり、純粋性が薄まるにつれてH6、H12、H24と数が増えて行く。
 これは、実際の水素と言うよりも、宇宙に存在するエネルギーのレベルを一元的に表現するための方便だろう。
 
 物理学においても、ビッグバン直後の宇宙で、最初に生成された原子は水素原子であることがわかっている。
 地球の固い地殻や、生命の存続に必要な元素は比較的後に生まれた。

 太陽系には二種類の惑星のタイプがある。
 ひとつは水星・金星・地球・火星・そして最近惑星から脱落した冥王星タイプの星。これらの惑星は重元素でできた固い地殻や、表面を持っている。
 もうひとつの木星・土星・天王星・海王星タイプは、水素やヘリウムからできており、固体の表面は持っていない。ガスのかたまりのようなものである。

 木星はもう少し大きければ、太陽のような恒星になったのではないかと言われている。そう言えば「2001年宇宙の旅」の続編の「2010年」という映画では、木星が太陽となり、木星の衛星であるエウロパに生命が生まれるという結末だった。

 神智学の人が考えていたように、僕も惑星には霊界があるのではないかと思う。人体と同じように微細身を持ち、それぞれアストラルレベルや、メンタルレベルというものがあるのではないか。

 そして、太陽の周辺に存在する、固い惑星よりも、水素・ヘリウム質のガス惑星の方が神の世界に近い(ヒエラルキー的な見方をするならば)のではなかいと思った。







未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/09 11:22

今度は本物のチャイルド

 仕事で小学校に行ってきた。

 母校ではないのに、学校は懐かしい雰囲気だった。

 子供(小4)のPC研修をサポートした。

 小学生への研修なのに、どの先生もまず最初に個人情報保護の話しをするのがなんか面白かった。まるで派遣社員向けのEラーニングみたいだ(笑)。

 僕ら外からの講師に対しては物腰の柔らかな先生も、授業中には動物の調教師のように怖くなる。まるで手に見えないムチでも持っているみたいだ。

 確かにこれは動物園のようだ。子供達は好き勝手をする。これを統御することが現在の学校教育のひとつの目標である。その是非は別として・・・。

 しかし先生達の負担はとても大きそうだ。僕が見た授業は3コマあり、全員女性の先生だったが、最初の二人は目に見えて疲れがたまっているようだった。正直、目が怖かった。でも無理もないと思う。
 現在のシステムが、必要以上に教師に負担をかけるように出来ているのだ。
 小学校でももっと教科ごとに分業してもよいのではないだろうか。
 
 最後の50代位のベテラン先生だけはちょっと違った。
 怒っている時にも、そこに余裕がある。
 個人的な怒りの感情がほとんど入っていないのである。
 そしてその怒る事を、次の瞬間にはユーモアに転換させるような技術がある。あそこまでいけばほとんど職人技であろう。
 若い先生はどっかマジギレしている。無理もないけど。
 でも子供にはそれがわかる。
 
 教師という仕事は、一種「聖職」と考えられていた。先生と言えども人間なので、そういうのは時代遅れの考えであるとも言えるが、やはりすごい修行であるなと思うのである。
 つまり先生という仕事をしてるからと言って、聖人君主であるとは限らないのだが、もしもその仕事をやりとげ教師として完成したならば、その姿にはやはり「聖」としかいいようのないムードが漂うのである。

 ま、なんでもそうだけど(笑)

 ちょうど小学校4年生くらいというのは、僕の中では自意識の葛藤がなかった最後の年代かもしれない。
 その頃、僕は学校へ行くのが楽しかった。放課後、校庭でドッジボールやキックベースや、鬼ごっこをして遊んだ。
 でも5年生になり転校し、新しい学校に通いはじめた頃から少しづつ周りとのギャップを感じはじめた気がする。

 そんなことをあとから思い出した。

 僕らはみな、『大人』という着ぐるみを着た子供だろう。
 時々はそれを脱ぎたくなる。









未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/07 22:32

化石の夜

 時は流れる、時は流れる。

 今までに100億年もの時が流れたかもしれない。

 この場所において、僕は100億年でさえ流れ去ったことを知る。

 そんな風には思えないが、ここは100億年もが流れ去った場所だった。
 この真夜中の部屋は・・・

 そしてこれからも100億年もが流れ去る。

 夜中に目が覚めるとそんな風に感じた。

 そして、僕という「形」はつかの間の戯れとして、時に浸食され朽ち果てていく。100億年の後、僕の魂も化石になっている。

 昨日、500円で買ったアンモナイトの化石を見つめた。

 それは約4億年前のデボン紀の化石であると言う。

 その美しい螺旋形は、絶対者の創造法則をそのまま結晶化させたように見える。そして、それはきっと僕自身の一部なのだろう。

 もしもこれが、僕でないのならば

 僕の存在は時の中に消滅して

 誰にもかえり見られることはないだろう

 しかし、もしこの化石が僕自身であるならば

 いつかこの大きな宇宙が

 僕の化石を自分自身として、愛でてくれるだろう

 億年ののち

 あるいは、今



 



  





| コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/04 20:54

子供のこころ

インナーチャイルドが癒される文章です↓

「無有の独り言」原点

http://www1.odn.ne.jp/sharla-mu/oyatoko.htm


8. 子どもは、勝ち負けよりも、みんなと一緒にいるのが好き。みんなと一緒にいられれば、勝っても負けてもどっちでも嬉しい。

9.心配してくれるのを子どもは嬉しいけど、心配ばかりされると、子どもはどうしていいかわからなくなる。

14.「どうして?」と聞いた時、「どうしても!」ばかりじゃなくて、「どうしてかな?」も言ってほしい。

16.「みんなあなたのためだから…」と、時間に追われるお母さん。子供のためなら、ストレスを溜めないでほしい。ムリをしないでほしい。子供は、ものじゃなく、心で育つのだから。

17.何度も言われるけど、何もわからない。残っているのは、ぶつけられた重たい感情だけ。

20.行きたくなかった放課後のクラス(Juku)に行かなくてすんだこと。それって原因としてすごく大きなこと。本来の普通を大切にした、自信と責任。

24.どうして親は、成績にうるさいのだろう? 人との差や違いを喜ぶ冷たい人になってほしいのだろうか?


26.それで思い通りになるのなら、それが喜びになるのなら、僕(わたし)は構わない。でも僕はぜったいそれをしない。心ある空間で、心を温め、原因、プロセスを大切にして生きていく。

27.先のことばかり気にする話を聞かされると、大切な今が隠れてしまう。大好きな今が逃げ出してしまう

28.子の心身の病みの多くは、目に見えない原因を無視する親の心の投影。そのままありのままの平和を未来に繋げたいから、子はいつも素朴で真剣。引き受けさせられても、そのままで気づきの存在でいつづける。

29.大人は、子供が好きじゃないこと(もの)を好きにさせてしまうおかしな存在。ほんとうは好きじゃないのに、ゲームもファーストフード(orレトルト食品)も、それより楽しいこと、美味しいものを教えてくれなかったから、好きになってしまった。コノヤロー!

30.心と心の繋がりが基本の子どもにとって、心を抑え、心をつくろうことは難しい。心を偽るきれい事、身を飾る見栄や体裁がつくる寒い風景は、子どもがいちばん避けたい場所。親にも参加してほしくない場所

33.権威や優越、差別や嫉妬。他との隔たりを生むそれらの感情は、心の慢性疾患を生み出す病原菌みたいなもの。親の心から子の心へと、知らずうちに伝染する。

39.子は、生命進化のプロセスを担い、より純粋なエネルギーを次に繋げるために、この場所(両親)を選び、ここにいる。ソウルエリアの必要性が創り出した親子の現実は、生命エネルギーの自由創造と融合体験の原点。その関係性は、魂(エネルギー)の意思表現とその成長を促す、空極の原因。親と子の空間には、人間の理解をはるか超えた、計り知れない生命の活動源がある。


未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/09/02 12:40
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