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傾向

 この未知なる時代の初めにおいて

 傾向としては、僕は愛に流れていく

 決して想像していなかったような

 光の中へ あなたはもう一度生まれる

 心が開かれていって もう閉じる事は出来なくなる

 裸の心で 万物とのつながりを取り戻すために

 心の扉は神様に向かい 開け放たれる

 この時代においては、それぞれのハートにとって

 きっと愛だけが確かな道しるべになる

 信じようと 信じまいと

 そうなるはずである






 














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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/31 21:04

人のからくり

 ダンテス・ダイジ「老子狂言詩集」より

 人のからくり

 肉体→エーテル体
 エクトプラズムは、エーテル体の流出のことであり、
 肉体とエーテル体は、死とともに崩壊する。
 エーテル体は、漢方医学の無数の経らくに相当する
 
 アストラル体

 7つ、あるいは10個の光りかがやくチャクラからなりたつ
 死後にも一定期間存続する 本人と相似している光明体である。

 霊体(メンタル体)
 
 人間の最初にして最後の個性であり、永遠不滅の
 実相身である。
 各人各様の形象をとっていて、一定の型を持っていない。
 原型イデアである。
 キリスト・ブッダ・クリシュナなどの霊体は、絶対無・絶対光・変幻自在である。善人においては、そのイデア相応の最高の美的形象をとった人間的な形を持っている。悪人においても、その裏返しとしての最高の形を持っている。
 サタン・ルシファー・悪魔などの霊体は絶対無・それ自身で完結している絶対の暗黒・そして変幻自在の形象をとり得る。
 そのイデアは、鉱物に近いといってよいだろう。

 神の化身としてのアヴァタラと、悪魔の化身としてのサタンの実相身は、
そのイデアの面から見れば、他のあらゆる人々の霊体と同様に絶対的な原型であることに違いはないが、 
 神の化身は、悪魔をも包むことができるが、悪魔の化身は、神以外のすべてに変容することができても、神・絶対全体にだけは成ることができない。
 もっとも、神も凡人も悪魔も、たいした差のありようはずもない。

 神・すべてのすべて
 そういうわけで、
 神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである。




ダンテス・ダイジ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/28 11:43

 とりあえず、あがったりさがったりすることは

 当然なので先のことは考え過ぎないで進んでいく

 あがったときに考えたことは下がった時には仇となり

 下がった時に考えたことはあがった時には笑いもの

 ただ今やるべきことを結果を考えずにやり続ける

 神様にちょっとお任せしてみる

 結果を考えずにやるなら

 本当に好きなことしかしないかな?









未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/28 00:06

PTSD

 少々、神様にPTSD気味かもしれない。

 ケミカルドラッグでぶっとんだ時に、非常に恐ろしい世界を見た。

 恐怖はそこからきているのかもしれない。

 その中で、僕という現象は絶対なるものである何者かの自己確認だった。

 その恐ろしいところは、何でもかんでもが全く等質に、その何か、非人間的な、宇宙的な、言語を絶したものの自己確認であることだった。
 
 人間的な基準でのいい・悪いは関係ない。

 すべて一度きりの現象を、同じだけ興味深く楽しんでいる何者か。

 神に触れることは、理性が耐え切れることではない、という個人的信念。
 (あるいはそれは全く間違っているかもしれないが)

 耐え切れない光、存在の不可解さ、意識の不条理さ 死の予感

 とでも言えそうなものが精神を壊してしまいそうで、恐ろしい。

 その非日常性は、本来、人が求めるものではないような・・・予感。

 これがバクティを妨げるPTSDなら、なぜそのような恐ろしいものがあの時に見えたのかが知りたい。

 クンダリニーに秘められた、無限の地獄。

 深いトランスの中では以下のようなものが現われる可能性がある。 

 絶対の孤独 唯我論の狂気 すべてがニセモノの世界


未分類 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2006/10/26 21:21

セイナルモノという夢

 雨宮第慈 「老子狂言詩集」より

 セイナルモノという夢
 
 本ものもニセものもない。
 あなたがたは
 聖なるものという夢を見ている。
 絶対に信じられないほどの
 聖なる体験はある。
 だが、
 聖なるものなぞどこにもない!


 バグワン・シュリ・ラジニーシ
 
 奴はシッチャカメッチカだ。
 本ものだ。
 終末が産んだ本もののコメディアンだ。
 奴は最もタチの悪いテクニックで
 バグワン中毒を伝染させている。
 奴も、そう長くはない。
 だが、正真正銘の本ものだ。

 伊福部隆彦先生

 老子の再来である。
 酒で悟りを持続していた。
 悲しいほどに本ものだ。
 余りにも悲しすぎるほどに本ものだった。

 ババ・ラム・ダース

 間違いなくニセものである。
 この人物は
 自分が本もののコメディアンであることを
 知っていない。
 だから自分を神のコメディアンだと思い込んで
 いる。

 高橋新吉

 ロマンチストだが、
 どうにか一人前になりたての禅僧だ。
 ロマンチストゆえに遊びがたりない。

 大森曹玄老師

 この人とは話し合うのもごめんだ!

 木村虎山老師

 釈迦より偉大の上に偉大だ!
 無限子、何の眼力もない。
 ただ淡い定力と、
 仏法そのものなるプライドと
 法に対する素朴な親切心があるばかりだ。

 チョギャム・ツルンパ・リンポチェ

 血わき肉おどる理想主義者。
 本ものだ。
 だが、新宿のトルコ嬢には
 とてもかなうまい。

 呪術師桐山靖雄
 ニセモノ。
 立派な野心家。
 とても出口王仁三郎や空海ほどにはいけまい。
 ニセモノの度合いがゆるすぎる。

 グル・マハラジという青二才

 ニセモノ、イカサマシ。
 ただの人!

 君は君なんだ
 それ以外にない
 犬は犬なんだ
 それ以外にない








 







 
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/25 19:44

 神を信頼する

 信頼なきところには 破壊性がある

 生きてるだけでいいんだ

 僕にしか 僕を裁けはしない

 僕が 僕の命を裁く事は

 その愚かさにおいては

 金正日が核兵器で地球を破壊するのと

 そう変わりはない

 命の意味を知らないものだけが

 命を裁く

 神を信頼する
 
 そこには自己憎悪はない



未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/24 10:16

勝ち負け

 僕たちは 競争ではなく 協力によって生きている

 この世界は、勝ち負けではない

 誰も、誰にも勝てないし
 誰も、誰にも負けない

 勝ち負けにこだわる自分になると

 本当の自分が見えなくなってしまう

 本当の自分でいられなかった悲しみは

 鉄のよろいや、戦車を作りだす
 そして、悲しみ同士がつぶし合う

 力によって、美によって、所有物によって、
 あるいは知恵によって、愛情によって・・・

 誰かに勝ったと思えば
 本当の自分を忘れてしまう

 そして負ける悲しみと
 勝つ喜びに縛られた
 限られた自分になってしまう

 みんな同じでいいんだ
 それでも僕には僕の存在理由がある
 黙っていても
 眠っていても
 幸福でも不幸でも
 何をしていても、どこにいても
 みんな同じで大丈夫なんだ
 もう誰も、誰をも裁かない

 負ける悲しみでも
 勝つ喜びでもない
 生きる理由と喜びが、そこにある

 与え合えば
 
 戦い取らずともよい

 与え合えれば

 この世に敵はいなくなる

 残りの人生、そんな世界を生きられる
















未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/20 20:20

時の遡行に関するイメージ

 永遠の囚われの存在である僕は
 神様の神経組織が青く光るこんな夜に
 東京ドーム程の大きな亀に乗って
 時をどこまでも遡る

 過去へ過去へと向かう方角は
 僕自身の内へ内へと向いている
 そして現われるらせん形の血管は
 僕のものか宇宙のものか
 もうわかりはしない
 僕が誰かもわかりはしない
 時々亀の息が恐ろしく生臭い

 東京タワーが水没し
 ホワイトハウスが風化した
 いくつもの巨大なスフィンクスが
 渓谷からの朝日を浴びて金色のたてがみを
 光らせる
 オーロラの鍵盤を奏でるのは
 シリウスからの極の風

 僕は100万の僕をひろいあげつつ
 100万の僕としての記憶を取り戻し
 かつてすでに過ぎ去ったものであると同時に  
 いまだに永遠に生きている
 100万の僕であったことを知る
 それぞれの時代でそれぞれの僕が
 正気に返る

 100万のあなたよ
 私の声は聞こえますか?
 あなたも永遠に生きています
 あなたも知らないあなたと共に

 それぞれの個別の生きる理由と共に

 そして最後には
 宇宙の貴族達に
 「悲しみを産み出すダンス」
 と呼ばれている

 時空鏡の恐ろしい回転が
 幾つもの銀河を映し出して
 現われる
 
 その鏡は回転によりて
 変化を生み出し
 変化によりて悲しみを産む
 新たな悲しみは鏡を回し続ける

 その鏡は戯れによりて生み出され
 悲しみによりて回り続ける
 回転に魅せられたいくつもの魂たちが
 その美しさに殉じて
 幾億も、鏡の中に身を投じた

 その鏡の迷路では
 人は幸せを求め続け
 手のひらから水はこぼれ落ち続けた
 しかしそれは本当は 
 鏡に映った像にすぎないのだが

 鏡の回転に巻き込まれた光の粒たちが
 幻惑された夢に過ぎなかったのだが・・・

 


未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/17 20:52

観想法について①

 「超宗派的冥想」にも書かれていた観想法について書いてみたい。

 ここでダイジ氏が書いている、観想法による運命の転換というのがある。

 これは潜在意識に定着したイメージが、次々に現象化して人生をつくっていくということを前提としている。

 さらに深い冥想に入り、潜在意識が開かれている状態で、自発的に観想したことは新たに現象化していく原因となるという。

 こういう風に書くと、なんでもかんでも思ったことが現実化していくように思うが、大抵、そうはならないだろう。この宇宙に自分たったひとりしかいないのならそれもうまくいくかもしれないが、この世界は無数の意識の綴れ折りとして成立している。
 個人的霊界としての潜在意識は、万人の霊界である集合無意識の中に包含されている。

 起こるべきことは起こり、起こらないことは起こらない。

 しかし、こういう観想法が無駄だとは思わない。

 だが、まず、自分の意識にどのような潜在イメージが刻印されているかということを自覚することが、観想に劣らず重要なように思える。

 ちょうどさっき「アンビリバボー」で「前世」の特集をやっていたけど、前世療法などで用いられる手法も潜在イメージを自覚する際にとても有益だと感じる。
 「前世療法」の仕組みをこの観想法の文脈で解釈するなら、こういうことになるのではないか。

 まず、前世療法で出てくるのはは悲しげな人生がほとんどだろう。なぜなら、それは「療法」であるから、自分の症状の原因となるようなイメージが自動的に浮かび上がってくる。
 それを再体験することにより、潜在イメージを自覚し、最後には光などで浄化する(書き換え)。
 これによって自分の霊界を、自覚・変化させる。

 セラピストが手伝ってくれるので、イメージ世界の旅は一人でするよりも容易になる傾向がある。

 僕らは思っているよりもずっと、正直な自分を生きてはいない。

 自分の心から湧いてくると感じるそれは、実は家族の想いであったり、過去世の自分の想いであったりする。

 観想法(ヒプノも)のゴールは、本当に正直な、素直な自己の想いを知ることにあるように思える。
 そしてそのプロセスとして、偽りの自己(他者の想い)を目撃していく。
未分類 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2006/10/12 21:44

たった一つの限りなき命

 もしも何かとても恐ろしげなものが見えたら

 その恐ろしげなものも

 それを見ている自分も

 永遠に存在する

 唯一の命の中へ帰滅するのだと思う

 どんなに美しいものも 恐ろしいものも

 形あるものはすべて消え

 唯一の永遠だけが存在する

 窓の外の草むらで鳴いている秋の虫と

 この部屋の中にいる僕とは

 唯一の命を分有し

 やがてその中へ還っていくという点で

 全く等しい

 生命に充実した一匹の虫のように

 小さく、小さく、ありますように

 たったひとつの限りなき命の戯れとして

 














未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/08 00:12

 現在、心身ともにマーヤな嵐の中にいる。

 まあ、嵐というまでは行かなくても運動場で発生する小型の竜巻くらいはある。

 こころとからだに同時に来られると、負けそうになる。

 一寸先は闇。

 ナイトシャマラン監督の「ヴィレッジ」という映画を見た。

 目の見えない女性が、たっと一人で化け物が棲むと噂される森を抜けていく。正体が見えないと、恐怖はいくらでもふくれあがる。なぜなら、すべて恐怖は自分の中にあるからだ。

 そのような時にはふたつの方法があるように思う。

 ひとつは、決して光(希望)を忘れない、ということ。
 もうひとつは、運命(神)に身を委ねる、ということ。

 それは最終的には同じことだろう。
 神という希望を忘れていない時、運命に身を委ねることが出来るのだろうから。

 僕は恐れる。

 神よ、私は、あなたのものです、と言う事を。

 みんなそうなんだろうか?

 主体性が奪われ、任意の運命が消滅することが怖いのだ。

 つまり神(世界)を信頼してはいないということになる。

 しかし、僕らは宇宙の中にいる。

 僕の部屋の中にあるものが、僕のものであるなら

 宇宙の中に在る僕は、宇宙のものに違いない

 僕らは神のいとし子である

 あまりにも見慣れたこの肉体と日常は 
 不可解な恵みであると同時に
 すべて仮のもの
 かりものに過ぎない

 神よ、私は、あなたのものです

 そう祈る事によって
 僕は僕のものであると言う幻想と
 僕が僕のものであるがゆえに起こる
 恐怖とを手放す

 そして神の意志に
 意識的に従う準備をする

 神よ、私は、あなたのものです

 私は、私の、役割を演じます

 これが、私であるところのあなたによって定められた

 愛のシナリオであるがゆえに

 わたしは、あなたのものとなり

 わたしは本来のわたしとなる



未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/06 10:18

『超宗派的瞑想』②

 ◎象徴的観法

 密教における観法や谷口雅春師の神想観などは、この象徴的観法としての側面を持っている。
 前述の潜在意識のコントロールとしての観法は、あくまでも、個人の部分的日常的運命の改善ということにとどまっている。それはあくまでも部分的自己実現としての観想法であって、人間自我の超越による自在性という面は少ない。
 これに対して絶対者を象徴的にイメージ体験するこの象徴的観想法は、その人の全生活的な改新を自然的にしかも全体的に実現していく。その人の人格霊格のレヴェル自体が深まり高まるのである。

 さて象徴的観法には、個的神霊を観想するものと絶対神の属性を象徴的に観想するものとに、今仮に別けることにする。
 個的神霊を観想するというのは、釈尊でもキリストでもクリシュナでも日蓮でも達磨でも、その他、特にその人にとって強く心底から感じられる守護神霊を念想し、観想するのである。極端に言えば、尊敬する現存の人物でも恋人でもよいとも言える。
 例えば、釈尊を、観想念想することにより、始めは、空想程度にすぎないものが、やがては、はっきりと目前に実在するかのように感じられるまでになる。さらには、自分が釈尊そのものであるという状態にまで到る。
 この時、冥想者は冥想が深まれば深まる程、その全日常生活と全人格の中に釈尊的徳性と光明とを全般的に具現化していくこととなる。
 あなたは、キリストでも釈尊でもを、観じていきつつある時、ついに、キリストのあるいは釈尊の臨在を直下に感じるまでになるであろう。その時、あなたは随喜の涙を止めることあたわずという心境になる。あなたの高次元意識が開かれたのである。

 絶対神の象徴的観想というのは、例えば、光明とか無限力とか知慧とか大安心とか歓喜とかをこの宇宙いっぱいに限りなく広がっているかのように心眼で、冥視するのである。
 その絶対神のイメージの観想を続けて行くことによって、あなたは、ついに自分の個的自我や肉体が、例えば神の無限の愛の中に溶けていくように感じられるようになる。
 このような神の象徴的属性とのゆう溶合体験は、あなたの全人格に強烈な刻印を押すことになり、冥想からでた後も、あなたの心と行為とを、常により高い方へと自然的に誘導することとなるのである。
 そして、ついには、あなたが、最初に絶対神の単なる象徴的観念的属性にすぎないと考えていた、愛・安心・智慧・力・自由といったものが、超概念的な実存であることを覚知するであろう。
 しかも、絶対神の象徴的属性として観想していた、例えば無限愛という想念が、結局は宇宙意識そのものであり、そして、無限愛の中に自己忘越した冥想者は、そのまま本来の自己自身が、無限愛そのもの、すなわち宇宙意識自体の自己観照であることを悟ることになるのである。
 この絶対神=宇宙意識の自己観照の冥想は、そのまま無想三昧、ニルヴァーナの極地へと帰入していく。
 潜在意識的冥想体験=トランスは、それが深まれば、結局、宇宙意識的冥想=大三昧の発得となるのである。
 密教における大日如来への観法も、その窮極は、絶対無の独存である。


 (5)無想法

 無想冥想法は、万物万象の全面的絶対否定から始まる。
 道元の只管打座・・・すなわち非思量底の坐禅がこの無想法である。
 無想法に入るには、まず日常生活は捨離されねばならない。日常生活即仏法というのは、絶対無から帰還した後の言葉であって断じて、大死一番をせぬ前に主張されてはならない。

 「生きながら死人となり果てて
  思いのままにするわざそよき」至道無難

 生きながら死を直下に体験するのが無想法の要点である。

 時間、空間、物質、現象、宇宙・・・これらは、すべて人間の観念が仮作した仮象にすぎず、マーヤー(根本無明)である。

 「本来もなきいにしえの我なれば
  死にゆく方も何もかもなし」一休

 何も存在していないという観念ではなく、何もかもないそのもの自体が、そのもの自体を自己覚知するのが、無想法の要領である。

 この世は生死の世界であり、その生死の相対性こそが、あらゆる苦悩の根本原因であるゆえに、冥想者は、自己もこの世も、ともに捨ててしまうのである。生きたり死んだりするものは実在ではない。

 「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」三法印

 何もかもないそのものの絶対的充足が涅槃そのものであり、そこから、時間、空間、あらゆる現象が、仮に生滅滅起している。

 「色即是空・空即是色、色是色、空是空」

 ◎無の観想法

 これは、冥想者に生ずる、あらゆる意識現象とあらゆる現象存在とを、全面的に無化してゆく。ヨーガでは、「ネイティ・ネイティ(これでもない)」という無についての観想である。あらゆる現象を、「何もかも無し」と切り捨ててゆくのである。
 三法印あるいは、色即是空についての冥想をしてもよい。
 いずれにせよ時節熟せば、自己の思念自体が、絶対無の中に解消しているのを悟るであろう。それは、超時空的絶対充実である。


 ◎一念無想法

 臨済の公案における「無」三昧への冥想、あるいはヨーガの「ブラフマン」マントラの読呪三昧などが、この一念無想法である。一念集中とは、思索活動の停止であり、全心全霊をもって「無」なり「ブラフマン」なりになり切るのである。
 「無」についての念想ではない、ただ「ムーッ」と無そのものを念ずるのみである。
 これは、「ナムミョウホウレンゲキョウ」であろうと「ナムアミダ」であろうと「オーム」であろうと同じことである。

 「唱うれば吾れも仏もなかりけり
 ナムアミダブツ ナムアミダブツ」一遍

 すべてが一念になり、やがて、一念は一念それ自体のみとなり、やがて一念もないそれ自体の無限光明となる。


 ◎非想

 道元の言う非思量底の坐禅である。すべてを、ほっぽり出してただ冥想に居るのである。
 あらゆる意識作用、現象作用が、生滅しているが、それらを相手にすることなくただ冥想しているのである。
 じきに、その放下のまねをしていた坐禅が放下そのものの坐禅となる。
 意識は流れるにまかせる。現象は起こるがままにまかせる。そのまま、そこに冥想しているのである。




「超宗派的冥想」
P14~16


ダンテス・ダイジ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/04 20:06

『超宗派的瞑想』①

   (2)無想法と観想法

 人間の志向性を仮に二つに別けてみよう。一つはこの世の一切に対する決定的絶望の実感によって起こる、自己と欲望からの解脱への願いであり、今一つは、この世の中にある様々なものに対する愛情、すなわち、それぞれの人の最深の欲望の実現への志向である。
 この世の一切のものに対する失望は、死や無常、不条理に対する徹底的な直視から生ずる。そして、この世のすべてに対する徹底的絶望は、人間を絶対無そのものの中へ、ただちに回帰させるのである。これが、無想法と名付けることのできる瞑想であって、そこにはいかなる人間性も、差別相とか無差別相とかいう差別も、もう存在していない。無想はニルヴァーナであり、鳥飛んで鳥の如しの世界である。

 これに対して、観想法と名付けることの出来る瞑想には、欲望、願望が存在し、希望の実現や理想が存在する。観想は、人間が、人間として、この世の中をいかに充実して生きるかということにもっぱら、その焦点があるのである。それは、意識のコントロールや、宿命の転換ということに係ってくる。観想という瞑想の一つの方法は、運命を改善するとか、願望を実現するとかいう、深層心理的な法則の統御なのである。
 仏教唯識説で言えば、観想法は、アーラヤ識を統御する極めて具体的な方法である。アーラヤ識は、この現象世界のあらゆる出来事を規定している。私達は、瞑想によって意識をアーラヤ識のレヴェルまで深めることによって、現象世界に現実化する様々な事柄を前もって操作し得るのである。そして、それぞれの人々が、自己の願望の形を実現化したいと思う、その原型的な願望こそが、それぞれの人に与えられた個別的使命とか、あるいは根源的業因縁とかいうものだと言える。
 人は、そのもっとも本質的な欲望を生き切ることによっても、ニルヴァーナすなわち、無想そのものなる純粋瞑想に回帰するのである。カルマヨーガやバクティヨーガは、このような、各人の本質的性向に結びついて成立している。



 (4)観想法

 身体を柔軟にし、深呼吸をして心を落ち着け、最も安楽な姿勢を取って瞑想に入っていく。慣れてくると結跏、又は半跏の坐禅的姿勢が、最も安楽に感じられてくるが、個人差も大きい。
 瞑想の姿勢をとったら、決して力んではならない。
 禅宗などのように、身体を堅く固定するような形で坐禅瞑想をする方法もあるが、それは、禅宗的修道法全体の中で有意義なのであって一般的ではない。
 今、ここでは、あくまでも安楽で、リラックスした、しかも決してだらけていない姿勢を取ることを瞑想姿勢としておく。
 また、瞑想中に、身体が自然に動揺することがあるが、それは気にする必要はない。姿勢は、不動でなければならないとする必要はない。そんな不動の姿勢は、旧日本軍にまかしておけばよく、私達は、とにかく自然さを大切にしなければならない。
 
 観想法とは、人間運命のコントロールと、人間の潜在能力の開発の面に重点が置かれた瞑想法である。これは、個人的潜在意識と集合的潜在意識との自由自在なコントロールをその要点としている。

 ◎運命のコントロール

 「心の最深部に定着した想念は、すべて現象世界の中に実現する。」
 これが運命を創造改善してゆくための瞑想の基本原則である。
 私達が瞑想の訓練を続けていると、意識の独特な深まった感じを経験する。これが、トランスさらには三昧の意識状態であり、それを感情的に表現すると、静けさ、安らかさ、明るさ、透明感、澄み渡った感じ、自己没入感などと言い得るであろう。
 このトランスあるいは、さらに深い三昧状態の中で、潜在意識は開かれた状態になり、この開かれた潜在意識状態の中で、明確に、観じられた想念イメージは、潜在意識の内容を変革し、新たに定着された想念イメージは、必ず現実の運命となって具体化する。
 このイメージを潜在意識=霊界の中に定着させる秘訣はそのイメージを具体的に全心身の感覚感動を持って観じ体験することであり、そのイメージの確実性を決して疑わないことである。
 観想にあなたが習熟すれば、あなたは、時空の隔たりを越えて、思いのままの世界を賞味し、そしてそれを現象的運命の中へ実現して行く。

 あなたが今、海辺に居る想念を観じたとすれば、あなたは、明瞭に、波打つ海を見、潮風の香りをかぎ、輝く陽光を肌に感じるまでになる。そして、その海辺の想念の潜在意識への定着は、あなたに現実的に、そのような素晴らしい海へ遊ぶ機会を与えるか、あるいは、あなたの態度と雰囲気の中に、海辺の潮風のようなさわやかさを常にもたらすことになる。
 その現象的実現化は具体的形式も、やはり、あなたの想念の中に込められている志向性によって決定されていくのである。
 あなたの本当に欲するものを、すべての束縛的条件を帳消しにして観想せよ、そして、それがすでに実現している姿を楽しめ。
 この現象世界は、どのようにも変えることのできる世界なのである。現象は永遠に無常であり続ける、その無常の世界の中に、様々な自己実現を創り出すのは、潜在意識をコントロールした瞑想者としてのあなたなのである。




ダンティス・ダイジ著 「超宗派的瞑想」
P7~8 P13~14



ダンテス・ダイジ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/04 15:55

また新たにダイジの資料が・・・

 MIXIのダイジコミュのバトンで、また新しい資料が届いた。

 今回は、「メディテーション・トラベルガイド」
     「超宗派的瞑想」
     「老子狂言詩集」の3つだ。

 いずれも書店などではおそらく入手不可のもの。

 「老子狂言詩集」はダイジ氏の肉筆原稿のコピー。
 正直言って、字はきれいとは言いがたい。
 しかし、得体の知れないエネルギーに満ちている。
 というか、多分、何も聞かずに読んだら、壊れてしまった人の殴り書きと思い兼ねないくらいのところが酔い。まあ、最高にすがすがしく、ハッピーにぶっ壊れてることに間違いはない。

 
 「超宗派的瞑想」は「アメジストタブレット」などとかぶっているところもあるが、「観想法による運命転換」とかあまりダイジが語りそうにない内容が興味深かった。時期的には、沖縄の万松院で木村虎山師のもと、見性したあとというのはわかるのだが(出版も沖縄の印刷所になっている)、インドで「最終解脱」する前かもしれない。

 そして、メディテーション・トラベルガイド!
 
 この中の、「ダンティスの悪影響」という章を少し抜粋してご紹介させていただきます。ダンティスというのはアトランティス時代のダイジの名前だそうですが、ここではダンティスの霊的系統に属する者達が与えた「悪影響」について書かれています。




 『ダンティスの悪影響』


 中国の臨済禅宗の開祖・臨済将軍は、ダンティスの霊系に属する分身の一人だったが、こうしたダンティス・ケンタウロスの系流が、その逆説的な表現ゆえに、多くの誇大妄想狂や、デカダンスやニヒリズムや野狐禅者を産み出してしまう結果になったのは、各時代に現われたダンティスの分霊分身たちの言動の悪影響としての社会的事実である。

 これは、ダンティスの教示が、ステップや方便を越えて単刀直入に「現実」に言動せしめることからくる誤解であるが、ダンティスの系流はもちろん誤解や悪影響など知ったことではない。

 ダンティスは方便を好まない。ダンティスは聖者を好まない。ダンティスは人間的人格性と人間的努力を認めない。何故なら、こうしたものは、常に人を「あるがまま」ということの真意から遠ざけることになりやすいからである。

 それ故、無数の時代の無数のダンティス達は、常に戯れるものとして生きた。ダンティス・ケンタウロス、クリシュナ、臨済・・・。彼らは、本質的に己の真実を生きただけであって、宗教などという神聖極まりない何かすら余計なものであったと言うべきである。

 ダンティス臨済は、座禅や聖なるものや悟り解脱を見ることがない。本来、健康な人間に、病気からの回復の喜びなどというチンケなものはないのだ。

 ・・・・・・・

 こうして臨済録の中で臨済が、まるで座禅瞑想など無意味なもののように言ってしまうから、当時の中国の求道者の中から、好き勝手なことを人間的気分からするのが、究極の悟りだなどという考えが起こったり、馬鹿げた一喝を叫ぶ事が禅だなどと思い上がったり、このままこの肉体が仏だなどと叫んだりする者が出ることとなった。これが、ダンティスの悪影響の一つである。

・・・・・・・
 
 ダンティス臨済は言う。「そのお前の肉体が絶対の真実だ。」なぞと。
 ダンティス・マイケル・スミスは言う。「汝は神なり」と。
 ダンティス・クリシュナは言う。「アルジュナよ。君は決して生まれる事も死ぬ事もない」と。
 ダンティス・ケンタウロス・アメンティーは言う。「君達はもともと救世主である」なぞと。

 まったく、ダンティスの系流は、イージーすぎて、情熱豊かでない人達には、迷惑千万な話しであり、危険な事この上もない。
 事実、アトランティス文明末期に、十三番目の超人を廃業したダンティスが出版した「救世主入門」という小冊子は、多くの遊戯三昧者を覚醒させたと同時に、多くのデカダンスとニヒリズムを加速させる結果となった。

 臨済などはまだいい。彼は一つの禅堂の中で、その逆説めいた、その実、まったく逆説ではない教えを述べたからである。そこには時・所・位の中での一つながりに行道としての師弟関係があった。つまり、弟子は師の姿全体を見ることができたのである。

 しかし、アトランティスのダンティスは、時・所・位にお構いなく、あるがままの真実を、その場の人々に大安売りした。

 アトランティス密教の正統派トオスやエジプトのヘルメス、またはイエス・キリストや釈迦のやり方に比べると、ダンティスの系統が、ある意味でどんなに無責任であるかが知れようというものである。だが、ダンティスのこの「無責任さ」はどこから来ているのか。ここで、ダンティスがウルの都で出会った、アトランティスのチャールズ・マンソンみたいなラ・イグという名の青年に語った言葉を記すことにする。

 「一つの教えは、その時のその人に応じてしかありえない。

 どのような神秘不可思議な教えも、結局、愛と自由との確認につきるんだ。

 君が秘密結社のようなものを作って、支配欲という不安にかられた時は思い出してほしい。君が一番身近な愛をどんなにか忘れてしまったかを。

 君はもともと愛の救世主としてこの世に生きている。他のすべてのものも同様だ。

 そして、愛と自由は、君の思い込んでいる人間性の中にはない。

 君が救世主であるということは、君の永遠の自己訓練としてのみあり得る。

 あるがままのすべては救世主だが、あるがままである自己訓練ほど、君にとって恐ろしいものはない。それは、君のすべてを必要とするからだ。

 君は君のすべてを解放することによってのみ永遠の自己訓練つまり久遠の戯れを戯れることができる。

 死ぬことは、最も恐ろしいことだ。でも君、死になさい。


 そして、もう一度思い出そう。「救世主入門」の一番最後の章句を。
 これは君だけに語りかけている。「完全」は君以外の誰に代わってもらうこともできないのだから。

 「この本に書かれていることほど

  無責任なことはない

  この本に書かれていることを

  信じない方がいい

  書かれていることはすべて

  逆の意味かもしれないから




ダンテス・ダイジ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2006/10/02 21:22
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