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捧げる

 『自分』の中には何ももためこむことは出来ないし

 まして『自分』を守ることは決して出来ない

 でも愛を捧げることは出来る
 
 だから愛を捧げたいと思う

 様々な命の現れへ

 僕と あなたは 全く同じだけ命であることを

 忘れないように



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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/28 20:05

<源>ABRAXAS

 誰かに傷つけられたと感じた時、

 相手を責めるのでも、自分を責めるのでもなく

 結局何も起こっていないと知ることがベスト。。。

 この世にはとてもハッピーな出来事あり、うまいものあり、きれいな風景、人のやさしさに触れることあり。
 と、同時に目を背けたくなるような出来事、退屈、怒り、嫉妬、電磁波、ダイオキシン、避け難い地球温暖化などもある。

 天使のエネルギー、サタンのエネルギー、もとを辿れば唯一なる神に帰一する。
 「カラマーゾフの兄弟」の一人はそれを知って、この世に虐待され死んでいく子供がいるなら、天国への入場券をつき返したいと言ったらしい。 
  
 しかし、人が神を求める想いがあるのは、それが善なるものであるからというよりは、それがすべての<SOURCE>であるから。
 心に映るすべての光と闇を産み出している何かに、かえって行きたいと思うから。

     右手で光を 左手で闇を 生み出すもの

                     


          A B R A X A S

            
           すべての<源>






未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/24 19:53

無限シアター

 僕が見ている世界はすべて、『彼』が創造したもの

 この世界は『彼』が見た夢の中の夢

 そして僕らはここで『彼』が自己自身を認識するために

 演じ続ける役者

 非常にちっぽけなちっぽけな役者だが

 必然的に登場した役者

 そいつが演じる
 
 そのシナリオを『愛』という

 ホラー映画も、サスペンスも、SFも

 『愛』というシナリオに含まれる

 すべての人の中で

 『愛』が演じている



未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/21 11:21

年老いた女

 ナンシー・ウッド「今日は死ぬにもってこいの日」より





 年老いた女よ、
 それはあなただ。
 わたしの魂の目でしか 
 あなたを見なかったときでさえ
 それはあなただった。
 年老いた女よ、
 あなたとともにいて、わたしは見た、
 枯れた丸太が命を与え
 真冬の小川が、春のためにさざ波を立て
 はるか彼方の山並みが
 ものの始まりについてわたしたちに語ってくれるのを。
 年老いた女よ、
 あなたとともにいて、わたしは知った、
 高いところでの平安を
 強風に吹かれて身を丸め、太陽に向かって傾く
 花の持つ意味を。
 年老いた女よ、
 いつも小さなものの中に、あなたはいた、
 まるで自然全体が、あなたの考えを持っているみたいに。
 だからわたしは、いろんなものから教わったのだ、
 岩や虹、高い木立や蝶々から。
 年老いた女よ、
 あなたはいた、
 自由に飛び回る、孤独な鷲の中に
 そしていつか荒涼の地で見た、鹿の目の中に。
 年老いた女よ、
 すべて良いものの中にはあなたがいる。
 それらはわたしを目覚まし、そして言う、
 わたしはより豊かで、より充実した人生を送った
 なぜなら、あなたがわたしとともに
 生きていてくれたからだと



未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/17 23:55

命は、ひとつ

 命はひとつ

 宇宙はひとつの命である

 命は宇宙にひとつしかない
 
 命はひとつしかないから、命である

 だから、すべてが命である

 僕の「命」というものは本当はないのではないか

 命は「僕」の所有物などではないから

 逆にただひとつの命がすべてを所有している

 たったひとつの命に奉仕できますように 


 







未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/16 22:25

 傷つくことを恐れる必要はなかった
 プライドはもともと余計なものだったかも
 しれないから

 それはもともとは存在しない偽モノの
 僕だった。。。

 でも、なぜか、
 それがないと不安だったのだ。。。。

 偽モノの僕が悲鳴を上げるたびに

 僕は本当の自分に近づいている
 本当の僕が
 僕をたぐりよせている

 いくら舞い上がったとて
 僕らはあるがまま以上にはなれないし

 いくら落ち込んだとて
 あるがまま以下には落ちれない

 そしてそのあるがままで
 僕らは既に愛されているらしいのだ

 




 
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/15 20:02

自然

 木々が太陽に向かって伸びていくように
 花々が空に向かって花開くように

 両の手が天に向けて差し伸ばされる

 魚が河を遡るように
 鳥が南へと渡っていくように

 両の手が天に向けて差し伸ばされる

 私を見つけてくれてありがとうございます
 あなたをずっと探していました
 早く私をあなたのものにしてください
 
 そんな想いと共に
 太陽のように燃え盛る愛を浴びて

 両の手が天に向けて差し伸ばされる
 それはとても自然なことだ
 
 樹が伸びるように
 鳥が渡るように
 花が開くように

 神の愛が降り注ぐ時には
 胸が開き 腕が伸びる

 僕の心に映るとても自然な世界で

 すべての人が天に両の手を差し伸べている
 神の庭に咲いた花のように
 


未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/12 23:04

リンク

 恩寵により真なるものを理解されたYさんのブログをリンクに追加させていただきました。

 「三昧ビーム」

 http://samadhi.exblog.jp/

 
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/11 22:31

謙虚さ

 限りなく傲慢であれば、あらゆるところで摩擦が起こる。

 限りなく謙虚であれば、すべすべした小石のように水の中を流れてゆける。

 一度出来上がった「プライド」はそれ自身を守るために、脅かされると悲鳴をあげる。「プライド」を手放すと楽になる。。。

 それが謙虚?

 そして常に神を想い出していると、すべてが祝福になる。 

 「我は神なり」という尊大に見えて、実は最高に謙虚な言葉。

 神様にプライドはないみたい。

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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/08 20:51

 修道会には、母なる神の力が降りてきている。

 これはスワミ・スリ・ユクテスワが『聖なる科学』の中で「聖霊」と呼ばれているものと同じではないかと僕は思う。

 それは宇宙偏在のであり、であり、創造主である。

 それはやみ(マーヤ)の上を照らして、そのあらゆる部分を神の方へ引きつけようとする。

 この力に触れることによって、愛が徐々に目覚めてゆく。

 スーフィーの教えをつづった『ラストバリア』では「聖霊」の力、宇宙のお母さんのエネルギーについて、ハミッドが次のように述べている。

 「・・・聖霊によって活力を与えられるまでは、魂は羽のない鳥のようなものだ。
 神へ到達する道は数限りなくある。しかしマリアの道は甘美で、しかももっともおだやかな道なのだ。
 もし君がマリアと一体になることができれば、すなわち、すべての源、生命の基、聖なる母と一つになることができれば、君はキリストに生まれ変わり、キリストが君の中に生まれる。
 そして神の慈悲の息を浴びて、君は生まれ、神を知る。
 なぜなら生命を授けるのは神の慈悲の息だからだ・
・・」

 「聖霊」はマトリクスからネオを救出する、トリニティやモーフィアスでもある。 
 この古きものの終末の時代、聖霊の働きは活発になっているらしい。 
 


20070206202112.jpg

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/06 20:13

 誰もかも、我々の仲間として
 やっておいで。
 さすらい人も
 師を求める人も、
 世捨て人でさえも、かまわないから。
 我々の仲間は絶望しない者の集いだ。
 今まで千回もちかいを破った人も、
 やってくるがよい。
 さあ、何度でも、もどっておいで 

 
 メブラーナ・ジャラールッディーン・ルーミー


 神を現実とせよ。さすれば、神は君を真実となす


未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/05 19:51

節分の修道会

 昨日は節分。
 節分と言うのは旧暦では新年だが、実は去年でも今年でもないどっちつかずの日らしい。 
 個人的には、2月に入ってから若干流れが変わっているように感じる。旧暦の方が影響力は強い(宇宙のリズムと近い)のかも。
 そんな日に2007年初めての修道会に参加。

 会場に着くと、分かってしまわれたYさんご夫妻が、頭にアルミホイルで作ったキューティーな帽子をかぶって並んで立っている光景に出くわす。Yさんが、「これかぶってないと宇宙人に考えを読まれちゃうんです」と言った。(**)どうリアクションすればいいのか全く分からない僕に、I先生が「『サイン』見た?あれに出てくるでしょ?」と笑いながら言った。
 あ・・・そう言えばそんなシーンもあったような・・・。
 どうやら『ネタ』でわざわざ自作の帽子持参で来られたようだった。
 あーびっくりした。。。(一瞬本気かと思った僕)

 修道会の雰囲気が僕の固定観念をほぐす時がよくある。 
 この陽気さ、明るさもそのひとつ。
 瞑想の会ということで知らぬ間に少し深刻な感じになっている時、そんな必要はないと色々な手段で気づかせてくれる。
 I先生はよく、『真剣でいることと、深刻になることは違う』と言う。
 
 ジャッジしなくてもよい

 最近また新しい仕事を始めたけど、研修中暇なので心の中でジャパを続け神様のことを考えている。
 とても幸せな気分が頻繁に湧き上がってくる。少し気分が落ち気味な時もジャパをすると神様モードへの切り替えがうまくいく。
 それを繰り返していると、退屈なときや苦痛なときにジャパを多くしているような気がして、なんか結局はそれを逃避のために利用しているような気がすることもままあるので、そのへんを聞いて見た。

 「そんなこと気にする必要はないよ。これはね、人間は苦しくなると神に向かうようにプログラムされているの。そのうち幸福なときも神に感謝できるようになる。
 今の体験もすべて神が与えたもの。だからそれに感謝していればいい。人間は頭でいろんなことをジャッジしすぎる。これは偽モノだとか本モノだとか。でも全部神がやっていることなんだよ。」

 神には光の面と、闇の面がある。
 天使がいて、悪魔がいる、善と悪があるのがこの相対界の姿。
 『サタン』はマトリクスのエージェント・スミスのような役割を果たす。このマーヤワールドがマトリクスだとすれば、それが崩壊してしまわないようにするのが『サタン』の役割。
 ある意味必要なプログラムらしい。
 なのでスミスは、一種のエネルギーとして働き、それぞれの人のマーヤを刺激する。だが、そのエネルギーの源をたどっていくと結局は神に行き着いてしまう。
 『サタン』は苦痛をもたらす為に人を神に向かわせる役割も果たしている。
 『神は悪魔とファックしている』というダンテス・ダイジの言葉も浮かんでくる。
 
 許し

 「本心から自分の行いを悔いた人の放つエネルギーというのはすごいよ。なぜかというと善ゆえに、愛ゆえに悔いるから。
 自分自身を許したいと思う。
 ハートが開きかけたときに。でも頭がダメだダメだと言っている。
 その時、神から「許す」というのが来る。「許す」と。
 すると抑えていた重石がとれて、こころが広がっていく。」

 死後の生

 「昔から死の恐怖が強いんですが、それを解消するにはどうすればいいですか?」

 「死の恐怖は、すべての恐怖の根源だ。じゃ何が怖いのか?よく考えてごらん。それは自分がなくなる恐怖なんだ。いじめられっ子でも実際にちょっかいを出されている時よりも、完全に無視されている時のほうが辛い。それと似ている。
 でも、死ぬときと言うのは、マーヤがなくなるときなんだ。
 マーヤがなくなって真なるものとひとつになることが、死ぬということなの。もちろん実際に神がわかるまでは、このことは実感できない。でもそう考えておくと良いよ」
 
 なるほど・・・。
 しかしいきなり話しが究極までいってしまったが、いわゆる霊界の存在はどうなんだろうか?

 「えーと・・・霊能力がある人たちは、肉体が死んだあとも霊的な世界での生活が同じように続いていくって言ってますけど・・・あれはどうなんでしょうか?」

 「そりゃ、マーヤだ!霊能者はみんなばらばらのことを言う。前にテレビでさー、20個くらいの石を霊能者に見せてこれは因縁のある場所で拾われた石ですって言って鑑定させたら、みんなこれはこういう怨念がやどっていてって好きなこという。ところが!織田無道だけは『こんなものはみんなただの石だ!!』って言ってたよ。あれが俺が織田無道を認めた瞬間だったね。(爆)

 臨死体験・・・あれも脳が作っている。側頭葉が・・・。死に瀕した時にそこが刺激されて今まで蓄えられた記憶がばーっと出てくるんだ。
 俺は0歳のときに臨死体験をしたよ。一度心臓が止まった。そのときのイメージは今でも覚えている。ただ光しかなかった。多分まだこの世で生きてなかったから再現するものがなかったんだろうと思う。

 仏教徒が死んだら釈迦のイメージを見るし、キリスト教徒だったらイエスを見る。イマヌエル・スエデンボルグとかが語る天国もその元締めはキリストな訳だ・・・」

 「でも、ですね・・・・それらすべてが存在しているという可能性はないんですか?脳が作っているといってもあるレベルを超えるとそれは、霊的なからだが体験している世界なんじゃないですか?」


 「あるよ、でもそれはマーヤだけど。
 今、例えば親を殺して自分も自殺したような奴は間違いなく地獄に行く。それは自分の精神状態に応じた世界に行ってしまうからだ。

 俺は修行の過程で死後の世界を見たこともあるけど、それはそれほど意味があるものとは思えなかったよ。俺を救えなかった。神々も救ってくれなかった。唯一なる存在だけが、俺を救ってくれた・・・。

 俺たちは何を求めているのか?
 終わらない幸福を、終わらない多幸感を求めている。
 でも永遠の喜びは、永遠のものからしか決してやってこない。

 だから死んでからじゃなくて今、幸せになることが大事なんだ。
 たとえ悟っていなくても・・・死ぬときに、ああ神様って思えていればそりゃ天国に行けるよ。」


修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/02/04 21:34
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