2007.
03.
31
最近NHKの「プラネットアース」で熱帯雨林の映像を放送してたけど、その中でキノコが成長していく姿が何倍速かの速さで撮影されたものがあった。
ありゃ一体なんていうキノコかわからないけど、キノコ型の本体が成長するにしたがってそこから傘状の菌糸?が伸びキノコを包むように広がって行く様子が映し出されていた。
その菌糸の形が多角形の網目状で、宇宙のグレートウォール構造を連想させられ、『おぉ』と言ってしまった。
グレートウォールとは銀河の集団によって構成された六角形、蜂の巣型の構造らしい。宇宙全体で見ると、星雲が凝縮している場所とそうでない場所が存在するため思いっきり、「引いて」宇宙を見るとそのような泡状の多角形構造に見えるというのだ。銀河団によって作られた泡の中には物質が希薄な「ボイド」と呼ばれる空間が存在する。
キノコは典型的なリンガの形をしており、リンガは根源的な宇宙の創造力であると考えられている。
それを中心として、伸びていく菌糸がまさに宇宙と同じ形をしているとしたら・・・。
生命には宇宙構造が如実に反映されているのだろう。そう思って見ると、見事としか言いようがない。
ヒンズーではリンガはシバリンガという形であちこちに祭られている。そして、ああいう感じの突起した形状のものはなべてリンガとして認められる可能性を持っている。
例えばカイラス山は、シバ神が座す聖地であると同時に、巨大なシバリンガでもある。アマルナートと言う場所には氷でできたリンガが本尊としてまつられている。
さてシバ神だが・・・シバ神ってギリシャ神話のポセイドンととても似ているような気がする。
時に破壊者となり、時に恩恵を施すものとなるというその二面性もそうだが、まず持っているあの三叉の矛が全く同じだ。
シバ神には水の要素も結構ある。もともとヴェーダに登場する暴風雨の神ルドラがその前身であると考えられている。
また天上の聖河ガンジスはシバ神によって受け止められることによって地上に降下してきたという神話もある。
シバ神の頭から水がぴゅーっと噴き出しているのは、そのエピソードから来ているようだ。
ありゃ一体なんていうキノコかわからないけど、キノコ型の本体が成長するにしたがってそこから傘状の菌糸?が伸びキノコを包むように広がって行く様子が映し出されていた。
その菌糸の形が多角形の網目状で、宇宙のグレートウォール構造を連想させられ、『おぉ』と言ってしまった。
グレートウォールとは銀河の集団によって構成された六角形、蜂の巣型の構造らしい。宇宙全体で見ると、星雲が凝縮している場所とそうでない場所が存在するため思いっきり、「引いて」宇宙を見るとそのような泡状の多角形構造に見えるというのだ。銀河団によって作られた泡の中には物質が希薄な「ボイド」と呼ばれる空間が存在する。
キノコは典型的なリンガの形をしており、リンガは根源的な宇宙の創造力であると考えられている。
それを中心として、伸びていく菌糸がまさに宇宙と同じ形をしているとしたら・・・。
生命には宇宙構造が如実に反映されているのだろう。そう思って見ると、見事としか言いようがない。
ヒンズーではリンガはシバリンガという形であちこちに祭られている。そして、ああいう感じの突起した形状のものはなべてリンガとして認められる可能性を持っている。
例えばカイラス山は、シバ神が座す聖地であると同時に、巨大なシバリンガでもある。アマルナートと言う場所には氷でできたリンガが本尊としてまつられている。
さてシバ神だが・・・シバ神ってギリシャ神話のポセイドンととても似ているような気がする。
時に破壊者となり、時に恩恵を施すものとなるというその二面性もそうだが、まず持っているあの三叉の矛が全く同じだ。
シバ神には水の要素も結構ある。もともとヴェーダに登場する暴風雨の神ルドラがその前身であると考えられている。
また天上の聖河ガンジスはシバ神によって受け止められることによって地上に降下してきたという神話もある。
シバ神の頭から水がぴゅーっと噴き出しているのは、そのエピソードから来ているようだ。
2007.
03.
30
人は愛情を乞い願うことで、呪物となってしまう。
この呪物は様々な念力で他者をコントロールしようとする。
美しさ、優しさ、楽しさ、賢さ、たくましさ・・・
人間の良き特質は、呪物の武器として使われることによってその本質的価値を失う。
人は愛情を乞い願うことで、モノとなってしまう。
武器を全部手放したい。
誰かから愛をもぎとろうとすると、
あるがままで愛されていることが見えなくなるから。
僕のすべての武器は、すべてへの捧げものへと変わりますように。
この呪物は様々な念力で他者をコントロールしようとする。
美しさ、優しさ、楽しさ、賢さ、たくましさ・・・
人間の良き特質は、呪物の武器として使われることによってその本質的価値を失う。
人は愛情を乞い願うことで、モノとなってしまう。
武器を全部手放したい。
誰かから愛をもぎとろうとすると、
あるがままで愛されていることが見えなくなるから。
僕のすべての武器は、すべてへの捧げものへと変わりますように。
2007.
03.
26
美輪明弘と江原氏がゲストのカウンセリングをする『オーラの泉』が4月からゴールデンに移行する。
僕は結構かかさず毎週見ているし、江原氏も美輪様も好きだ。
ただ時々、あれ?と思う時がある。
それはこの番組がやらせではないかとかそういうことではない。
ちょっと前にどこかの週刊誌が江原氏の批判をやってるのを見たが、どこからどう見ても江原氏はまっとうなホンモノの霊能者だろう。人間的にも好感が持てる。
美輪明弘は今みたいによくテレビに出る前から好きだったし、『紫の履歴書』も買った。
『オーラの泉』を見ていると、自分とよく似た悩みや問題を出演者が話し、それに対して江原氏や美輪さんが的確なアドバイスをしているのを聞くと自分も癒されるように思う。
では、その「あれ?」は一体どこから来るのか。
というと、おそらく、両氏の語る話しには「真我」の次元がすっぽりと欠落しているからであると考える。
「真我」の次元とは、「あなたがわたし」であり、「わたしはすべて」であり、「すべてはすべて」であるという世界だ。
そこでは僕と、誰かの違いも意味をなくしているし、死後の世界とか、オーラの色とか、天職とか、前世とか、来世とかそういうものも意味を失っている。霊的な世界が全般に渡って、真我の次元では意味を失っているのだ。
真我の次元の話しは体験した人でない限り、リアリティーを持って話すことはできない。(だから僕も出来ていない)しかし、そこには最終的な答えがあり、人が本当に求めてる目的があると考える。
いつかこの次元のスポークスマンがメディアに登場するようになれば、面白いだろうけど果たしてそんな日が来るのか。(まあでも和尚とかクリシュナムルティはインドとかアメリカではテレビにも出てたのかな・・・)
だから、『オーラの泉』で語られていることは、部分的な真理であることは間違いない。
「真我の次元」の話しをしない限り、世界とは美輪さんが語るように無限回の転生を繰り返しつつ徐々に学びを深めていくようなそのようなものであるだろう。というかそのようにしか語れはしないのだろう。
あくまでも、時間性や空間性、個別の自我という概念に呪縛され続けるのである。
一方、同じように多くの人に知られているもので、「真我の次元」を美しくあらわしているものもある。
それは「千の風になって」だ(あくまで個人的見解)。
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの大きな空を
吹きわたっています
あの歌の中で、故人が自分は眠ってもいなし、死んでもいない、自分は「千の風」=すべてとなって、今まで以上に覚醒し、生き生きと存在しているのだと語りかけている。
「霊」となって見守っているのではなく、「すべて」となっているのだ。
そして実際に僕らは生きたままで、「すべて」なのである。(と聖賢たちは語る)
ジョンレノンの「イマジン」は最初、
Imazine there no heaven,
(想像してごらん天国なんかないって)
Its easy if you try.
(簡単に出来るよ)
No hell below us
(僕らの下に地獄なんかなく)
Avove us only sky......
(青い空があるだけ・・・)
という歌詞で始まっているが、物質的な感じがせず、非常にスピリチュアルなのはこれも「真我の次元」、霊界さえ消えうせるほどの「今・ここ」の至福を歌っているからだと思えるのである。
が、僕は霊的世界の教えを、真理でないとして退けているのではない、ただ全体的な意識の変化が強く求められている現在、「霊的次元」のメッセンジャーと「真我の次元」のメッセンジャーは連携していく必要があると思うのである。
僕は結構かかさず毎週見ているし、江原氏も美輪様も好きだ。
ただ時々、あれ?と思う時がある。
それはこの番組がやらせではないかとかそういうことではない。
ちょっと前にどこかの週刊誌が江原氏の批判をやってるのを見たが、どこからどう見ても江原氏はまっとうなホンモノの霊能者だろう。人間的にも好感が持てる。
美輪明弘は今みたいによくテレビに出る前から好きだったし、『紫の履歴書』も買った。
『オーラの泉』を見ていると、自分とよく似た悩みや問題を出演者が話し、それに対して江原氏や美輪さんが的確なアドバイスをしているのを聞くと自分も癒されるように思う。
では、その「あれ?」は一体どこから来るのか。
というと、おそらく、両氏の語る話しには「真我」の次元がすっぽりと欠落しているからであると考える。
「真我」の次元とは、「あなたがわたし」であり、「わたしはすべて」であり、「すべてはすべて」であるという世界だ。
そこでは僕と、誰かの違いも意味をなくしているし、死後の世界とか、オーラの色とか、天職とか、前世とか、来世とかそういうものも意味を失っている。霊的な世界が全般に渡って、真我の次元では意味を失っているのだ。
真我の次元の話しは体験した人でない限り、リアリティーを持って話すことはできない。(だから僕も出来ていない)しかし、そこには最終的な答えがあり、人が本当に求めてる目的があると考える。
いつかこの次元のスポークスマンがメディアに登場するようになれば、面白いだろうけど果たしてそんな日が来るのか。(まあでも和尚とかクリシュナムルティはインドとかアメリカではテレビにも出てたのかな・・・)
だから、『オーラの泉』で語られていることは、部分的な真理であることは間違いない。
「真我の次元」の話しをしない限り、世界とは美輪さんが語るように無限回の転生を繰り返しつつ徐々に学びを深めていくようなそのようなものであるだろう。というかそのようにしか語れはしないのだろう。
あくまでも、時間性や空間性、個別の自我という概念に呪縛され続けるのである。
一方、同じように多くの人に知られているもので、「真我の次元」を美しくあらわしているものもある。
それは「千の風になって」だ(あくまで個人的見解)。
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの大きな空を
吹きわたっています
あの歌の中で、故人が自分は眠ってもいなし、死んでもいない、自分は「千の風」=すべてとなって、今まで以上に覚醒し、生き生きと存在しているのだと語りかけている。
「霊」となって見守っているのではなく、「すべて」となっているのだ。
そして実際に僕らは生きたままで、「すべて」なのである。(と聖賢たちは語る)
ジョンレノンの「イマジン」は最初、
Imazine there no heaven,
(想像してごらん天国なんかないって)
Its easy if you try.
(簡単に出来るよ)
No hell below us
(僕らの下に地獄なんかなく)
Avove us only sky......
(青い空があるだけ・・・)
という歌詞で始まっているが、物質的な感じがせず、非常にスピリチュアルなのはこれも「真我の次元」、霊界さえ消えうせるほどの「今・ここ」の至福を歌っているからだと思えるのである。
が、僕は霊的世界の教えを、真理でないとして退けているのではない、ただ全体的な意識の変化が強く求められている現在、「霊的次元」のメッセンジャーと「真我の次元」のメッセンジャーは連携していく必要があると思うのである。
2007.
03.
23
見た目相当ひどい宇宙人が地球に親善大使としてやってきた。
文化研究のため『ビューティーコロシアム』を見ていた宇宙人が言った。
「こいつは美くしくなったらしいが、どこがどう変わったのかさっぱりわからん。。」
A子さんは、不潔で、要領が悪い同僚B雄君が大嫌いで軽蔑していた。
それを見ていた宇宙人が言った。
「君が彼を嫌いだって?なんで?君らふたりほとんど見た目変わらんやないの」
こんな調子なので地球人と宇宙人は、どっちが醜いかで宇宙戦争を始めた。
それを見ていた「火の鳥」はため息をついた。
「いつになったら、彼らは互いの(違い)ではなく、(同じこと)に気づくのでしょう」
文化研究のため『ビューティーコロシアム』を見ていた宇宙人が言った。
「こいつは美くしくなったらしいが、どこがどう変わったのかさっぱりわからん。。」
A子さんは、不潔で、要領が悪い同僚B雄君が大嫌いで軽蔑していた。
それを見ていた宇宙人が言った。
「君が彼を嫌いだって?なんで?君らふたりほとんど見た目変わらんやないの」
こんな調子なので地球人と宇宙人は、どっちが醜いかで宇宙戦争を始めた。
それを見ていた「火の鳥」はため息をついた。
「いつになったら、彼らは互いの(違い)ではなく、(同じこと)に気づくのでしょう」
2007.
03.
20
俺は流浪の民、ア・ホーである
俺は街から街を渡り歩き
様々な人との出会いと別れを繰り返す
波にもまれながら流されていくさすらいの民
その名は、ア・ホー
俺は実は流浪を好む
そんな自分を好む
ちょっとアホだからだ
そんな自分が好きで
何を探してるのか忘れてしまった
愛すべき流浪の民、ア・ホー
それは長い旅路の果てに楽園があると思ってる
ちょっとアホなやつだ
でも
そんなに悪いやつではない
俺は街から街を渡り歩き
様々な人との出会いと別れを繰り返す
波にもまれながら流されていくさすらいの民
その名は、ア・ホー
俺は実は流浪を好む
そんな自分を好む
ちょっとアホだからだ
そんな自分が好きで
何を探してるのか忘れてしまった
愛すべき流浪の民、ア・ホー
それは長い旅路の果てに楽園があると思ってる
ちょっとアホなやつだ
でも
そんなに悪いやつではない
2007.
03.
20
それが嫌いだと声を荒げて言うことは
つまりまだそれが少し好きってことだろう
好きな部分と嫌いな部分が戦っているから
声が荒ぐ
NO、NO、NO!
yes,yes,yes・・・
いいじゃないか別に 人間純白じゃ
楽しくない
あなたの隠し持つ秘密兵器を見せてください
それが好きだと声を荒げて言うってことは
つまりそれが少し、嫌いってことだろう
いいじゃないか、好きなら黙っていれば
YES、YES、YES
no,no,no・・・・
時期が来れば「嫌い」は→「興味がなくなる」
時期が来れば「好き」は→「愛」に変わる
そして黙り込む
だから
春の午後のこの黙った青空は
神様の愛かもしれない
つまりまだそれが少し好きってことだろう
好きな部分と嫌いな部分が戦っているから
声が荒ぐ
NO、NO、NO!
yes,yes,yes・・・
いいじゃないか別に 人間純白じゃ
楽しくない
あなたの隠し持つ秘密兵器を見せてください
それが好きだと声を荒げて言うってことは
つまりそれが少し、嫌いってことだろう
いいじゃないか、好きなら黙っていれば
YES、YES、YES
no,no,no・・・・
時期が来れば「嫌い」は→「興味がなくなる」
時期が来れば「好き」は→「愛」に変わる
そして黙り込む
だから
春の午後のこの黙った青空は
神様の愛かもしれない
2007.
03.
17
祝福がある時、
星占いの結果も、僕の適職、天職も
割とどうでもよくなる。
なぜなら、ここに既に答えがあって・・・
その気配を感じることを許されているから。
僕は探し始めるともなく探し始め
求め始めるともなく求め始めたが
僕に神様を求めさせていたのはきっと神様で
そのはじまりというものはなかった
星占いの結果も、僕の適職、天職も
割とどうでもよくなる。
なぜなら、ここに既に答えがあって・・・
その気配を感じることを許されているから。
僕は探し始めるともなく探し始め
求め始めるともなく求め始めたが
僕に神様を求めさせていたのはきっと神様で
そのはじまりというものはなかった
2007.
03.
15
色々なサイケデリクスを体験している時に、普通では気にも留めないが実は潜在意識に深く影響を及ぼしているのではないかと思う『ある要素』に気づくときがある。
それは街で暮らしていれば、誰でも目にする「均質な人工物の並列構造」である。
例えば、一定の間隔で立っているポールや、電柱。
例えば、全く同じデザインの建売住宅。
例えば、パソコンがずらっと並ぶオフィス。
例えば、同じ商品がいくつも並んでいるコンビニ。
例えば、同じドアがいくつも並ぶマンションの廊下。
これらはすべて、本質的には人をある種のトランスに導きいれる傾向を持っているのではないかと思う。
そのトランスというのは、無意識状態、眠りの方向へのベクトルを持っている。
現在のこの経済システムにおいては、多くの人の需要を満たすために、できる限り等質のものを、大量に生産せねばならない。
衣類であれば、同じ色で、同じサイズ。食料であれば、同じ成分で、同じ味、電解製品であれば全く同じ機能と耐久力が求められる。
当たり前と言えば当たり前だが、そこに品質の優劣、または見た目の差異があることは許されないのである。
そして生身の人間までが、偶像化されることによって書籍で、ブラウン管の中でその分身たちが何万と生まれる。
当たり前と言えば、当たり前のことのように聞こえるかもしれないが、実はこれは自然においては異常事態なのではないか?
自然界には、まったく同じものは存在しない。
同じ花、同じ樹に見えても、よく言われるゆらぎの法則のようなもののようによって少しづつ違っている。そしてこの違いこそが人を安らがせると同時に、目覚めさせるのではないかと思う。
自然の形態というのは、もともと宇宙の法則を具現化しているところがあり、それは意識にも調和をもたらすのである。
そう言えば、ハイウェイ・ヒプノーシスという言葉があった。
これは何の変化もない単調な道路を長時間運転することによって一種の催眠状態に入ってしまい事故を起こしやすくなったりすることを言う。が、これはもしかすると運転中だけではないかもしれない。
都市部に生きる人たちは慢性的なこのハイウェイヒプノーシスに陥っているいっても良いのではないかと思う。
同じ人工物でも例えば、曼荼羅などは同じ模様が繰り返されている場合もあるのだが、どこが違うかというと、曼荼羅にはある構造が存在するということだろう。
そこには中心があり、外縁がある。
部分があり、全体があり、それらが調和している。
どのような形態が人の意識を目覚めさせるのか、あるいは眠らせるのかという科学はエジプト文明には存在していたようである。
この科学の重要性は再び再認識されるようになっていくだろう。
アンディー・ウォーホールは大量生産される缶詰の絵などをよく描いたが、もしかするとウォーホールが表現しようとしたものも、「均質なものが大量にあるということ」の呪術性ではないだろうかと感じる。
それはひとりでに生まれた、現代のブラックマジックのひとつだろう。

それは街で暮らしていれば、誰でも目にする「均質な人工物の並列構造」である。
例えば、一定の間隔で立っているポールや、電柱。
例えば、全く同じデザインの建売住宅。
例えば、パソコンがずらっと並ぶオフィス。
例えば、同じ商品がいくつも並んでいるコンビニ。
例えば、同じドアがいくつも並ぶマンションの廊下。
これらはすべて、本質的には人をある種のトランスに導きいれる傾向を持っているのではないかと思う。
そのトランスというのは、無意識状態、眠りの方向へのベクトルを持っている。
現在のこの経済システムにおいては、多くの人の需要を満たすために、できる限り等質のものを、大量に生産せねばならない。
衣類であれば、同じ色で、同じサイズ。食料であれば、同じ成分で、同じ味、電解製品であれば全く同じ機能と耐久力が求められる。
当たり前と言えば当たり前だが、そこに品質の優劣、または見た目の差異があることは許されないのである。
そして生身の人間までが、偶像化されることによって書籍で、ブラウン管の中でその分身たちが何万と生まれる。
当たり前と言えば、当たり前のことのように聞こえるかもしれないが、実はこれは自然においては異常事態なのではないか?
自然界には、まったく同じものは存在しない。
同じ花、同じ樹に見えても、よく言われるゆらぎの法則のようなもののようによって少しづつ違っている。そしてこの違いこそが人を安らがせると同時に、目覚めさせるのではないかと思う。
自然の形態というのは、もともと宇宙の法則を具現化しているところがあり、それは意識にも調和をもたらすのである。
そう言えば、ハイウェイ・ヒプノーシスという言葉があった。
これは何の変化もない単調な道路を長時間運転することによって一種の催眠状態に入ってしまい事故を起こしやすくなったりすることを言う。が、これはもしかすると運転中だけではないかもしれない。
都市部に生きる人たちは慢性的なこのハイウェイヒプノーシスに陥っているいっても良いのではないかと思う。
同じ人工物でも例えば、曼荼羅などは同じ模様が繰り返されている場合もあるのだが、どこが違うかというと、曼荼羅にはある構造が存在するということだろう。
そこには中心があり、外縁がある。
部分があり、全体があり、それらが調和している。
どのような形態が人の意識を目覚めさせるのか、あるいは眠らせるのかという科学はエジプト文明には存在していたようである。
この科学の重要性は再び再認識されるようになっていくだろう。
アンディー・ウォーホールは大量生産される缶詰の絵などをよく描いたが、もしかするとウォーホールが表現しようとしたものも、「均質なものが大量にあるということ」の呪術性ではないだろうかと感じる。
それはひとりでに生まれた、現代のブラックマジックのひとつだろう。

2007.
03.
13
花が咲いている
あなたが花となって、花を経験している
子供がいる
あなたが子供となって、サッカーを経験している
鳩が電線に止まっている
それは鳩に変身したと思っている天使に化けたあなただった
花となり 草となり 樹となり
あなたはすべてを感じている
老人となり男となり女となり
あなたはすべてを語っている
誰かが誰かより特別なはずはないじゃないか。
だって僕らを経験しているのはどちらも同じ神なんだから。
僕の目に映るすべては
すべてとなってあなたが自分を経験している姿
すべての中に宿るは、あなただった
あなたはどこにでもいる
だってすべてがあなただから
すべてがあなたの経験だから
僕はすべてのあなたへ敬意を捧げたい
もしも敬意を払えなかったら
あなたはあなたに敬意を払えない経験をしたかったって
思ってもいいですか?
僕はあなたが望むなら草を避けて歩きます
だってその草はあなたが身をやつした姿だから
僕はあなたが望むなら草を踏んで歩きます
だってそんなこと気にしてられないから
あなたが花となって、花を経験している
子供がいる
あなたが子供となって、サッカーを経験している
鳩が電線に止まっている
それは鳩に変身したと思っている天使に化けたあなただった
花となり 草となり 樹となり
あなたはすべてを感じている
老人となり男となり女となり
あなたはすべてを語っている
誰かが誰かより特別なはずはないじゃないか。
だって僕らを経験しているのはどちらも同じ神なんだから。
僕の目に映るすべては
すべてとなってあなたが自分を経験している姿
すべての中に宿るは、あなただった
あなたはどこにでもいる
だってすべてがあなただから
すべてがあなたの経験だから
僕はすべてのあなたへ敬意を捧げたい
もしも敬意を払えなかったら
あなたはあなたに敬意を払えない経験をしたかったって
思ってもいいですか?
僕はあなたが望むなら草を避けて歩きます
だってその草はあなたが身をやつした姿だから
僕はあなたが望むなら草を踏んで歩きます
だってそんなこと気にしてられないから
2007.
03.
12
AAAAAAAAAAAAA UUUUUUUU MMMMMMMMM
母音は音の母である
それを制限することで
子音が生まれるが
子音を時間的に継続させると
すぐに吸収、同化され 母音に帰っていく
MAMA!
MAAAA MAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!
母なる音だけがいつも 鳴り響いている
AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA
UUUUUUUUUUUUUUUUU
MMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMM!
母音は音の母である
それを制限することで
子音が生まれるが
子音を時間的に継続させると
すぐに吸収、同化され 母音に帰っていく
MAMA!
MAAAA MAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!
母なる音だけがいつも 鳴り響いている
AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA
UUUUUUUUUUUUUUUUU
MMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMM!
2007.
03.
07
多分、じっきさんがMIXIを退会されたからだと思います。
MIXIはマイミクが一人もいなくなると、自動的に自分も退会してしまうシステムなので・・・。
hxaxixtxaxkxa@yahoo.co.jp までメールいただければ、また招待状お送りしますよ!
じっきさん
いろいろありがとうございました!
感謝。
MIXIはマイミクが一人もいなくなると、自動的に自分も退会してしまうシステムなので・・・。
hxaxixtxaxkxa@yahoo.co.jp までメールいただければ、また招待状お送りしますよ!
じっきさん
いろいろありがとうございました!
感謝。
2007.
03.
05
以前に誕生日プレゼントにもらった『ブラザーサン、シスタームーン』をまた見た。
この映画はアッシジのフランチェスコをモデルにしたもので、ペルージャーの戦いに参戦し、瀕死の重傷を負ったフランチェスコがその経験が元で神への愛に目覚めるという物語だ。
言わば死と再生の体験を経て生まれ変わったフランチェスコは、日々の労苦に囚われて生きる生活の虚しさに気づき、神に身を委ね、貧しさと奉仕の中で、鳥のように自由に生きたいと願うようになる。
それはキリストの教えを忠実にその身をもって生きようとすることでもあった。
しかし、世俗化されたキリスト教社会においては、フランチェスコの行動は「気の狂ったもの」、「異端者」であるとみなされ既存の教会との間に軋轢さえ生じてしまう。
フランチェスコは自分の行いが間違っているのではないかという疑惑に駆られ、キリスト教会のトップである法皇に会うためローマへと向かう。
向かい合う、フランチェスコと法皇
ローマ法皇は神に地上の教会を統治するよう命じられている(とされる)キリスト教会の最高権威である。彼は重々しく着飾り、大勢の臣下に囲まれている。
一方、フランチェスコたちは薄汚い服を着て、靴さえ履いていない。
しかし、法皇はフランチェスコの中で語っているのが「キリスト」であることを認める。(正確には、ひとりでに天に差し伸べられた彼の手が・・)
世俗的には、キリスト教会の長であり、神の代弁人であるはずの法皇はその服装が象徴しているように幾重にもわたる「殻」によって包まれている。
一方、フランチェスコはその貧しい姿が示す通り、「殻」をかぶっていない。
もちろん、この話しは寓話的につくられているので、現実においては、実際に貧しいみなりをしているからといって心が解放されているとは限らないし、いい服を着てるからと言って、心が束縛されているとも限らない。
しかし、ここには重要な何かがある。
創世記の神話では楽園喪失以前のアダムとイブは素っ裸で楽しく暮らしていた。
知恵の木の実を食べたことによって、「自分の裸を恥ずかしい」と感じるようになりイチジクの葉をまとった。これは「自意識の目覚め」だ。それはどんどん発展して、無数のものに恥ずかしさを感じてしまう「今」に至る。
しかし突然、服を脱いで裸になる人たちもいる。
それは、聖者もしくは気の狂った人。
そういう人たちは、知恵の木の実を食べる前の状態に戻ってしまったのかもしれない。あるいは、空の上にあるエデンから突然降ってきた「生命の木の実」を食べたのか・・・。
どちらにしろ、そういう人たちも「殻」がやぶれた人たちだ。その姿は彼らの精神状態を象徴的に表現している。
「貧しきものは幸いである」という言葉、それはおそらく心に殻をかぶっていないことへの祝福なのである。
フランチェスコは富や権力に執着し、それを追い求めて生きることが心に厚い「殻」を作ることであると知っていた。
「殻」は何も人の心だけを覆うものではない。
土を覆いつくすアスファルトや、冷暖房が完備されたマンションの一室、高速道路に連なる走る鋼鉄の「殻」。現代の文明自体が「殻」に覆われている。この現代西洋型文明そのものが、地球を覆いつくす一種の殻の様相を呈していることは疑えない。
その中に生きると言うことは、この殻の中の生活がすべてだと思うこと、そして、この殻が決して壊れないように「殻」に奉仕するということでもある。
しかし殻を堅固にすればするほど内圧はどんどん高まっていき、やがてそれは崩壊せざるを得ないだろう。
その時、その殻の中に息づいていた無数の生命も破壊されてしまうだろう。
「殻」は本来人間を厳しい外界から守る為のものだった。
しかし、一番危険なのは「守りすぎること」なのかもしれない。
Brother Sun and Sister Moon,
I seldom see you, seldom hear your tune
Preoccupied with selfish misery.
Brother Wind and Sister Air,
Open my eyes to visions pure and fair.
That I may see the glory around me.
I am God’s creature, of him I am a part
I feel his love awaking in my heart
Brother Sun and Sister Moon
I now do see you, I can hear your tune
So much in love with all that I survey
この映画はアッシジのフランチェスコをモデルにしたもので、ペルージャーの戦いに参戦し、瀕死の重傷を負ったフランチェスコがその経験が元で神への愛に目覚めるという物語だ。
言わば死と再生の体験を経て生まれ変わったフランチェスコは、日々の労苦に囚われて生きる生活の虚しさに気づき、神に身を委ね、貧しさと奉仕の中で、鳥のように自由に生きたいと願うようになる。
それはキリストの教えを忠実にその身をもって生きようとすることでもあった。
しかし、世俗化されたキリスト教社会においては、フランチェスコの行動は「気の狂ったもの」、「異端者」であるとみなされ既存の教会との間に軋轢さえ生じてしまう。
フランチェスコは自分の行いが間違っているのではないかという疑惑に駆られ、キリスト教会のトップである法皇に会うためローマへと向かう。
向かい合う、フランチェスコと法皇
ローマ法皇は神に地上の教会を統治するよう命じられている(とされる)キリスト教会の最高権威である。彼は重々しく着飾り、大勢の臣下に囲まれている。
一方、フランチェスコたちは薄汚い服を着て、靴さえ履いていない。
しかし、法皇はフランチェスコの中で語っているのが「キリスト」であることを認める。(正確には、ひとりでに天に差し伸べられた彼の手が・・)
世俗的には、キリスト教会の長であり、神の代弁人であるはずの法皇はその服装が象徴しているように幾重にもわたる「殻」によって包まれている。
一方、フランチェスコはその貧しい姿が示す通り、「殻」をかぶっていない。
もちろん、この話しは寓話的につくられているので、現実においては、実際に貧しいみなりをしているからといって心が解放されているとは限らないし、いい服を着てるからと言って、心が束縛されているとも限らない。
しかし、ここには重要な何かがある。
創世記の神話では楽園喪失以前のアダムとイブは素っ裸で楽しく暮らしていた。
知恵の木の実を食べたことによって、「自分の裸を恥ずかしい」と感じるようになりイチジクの葉をまとった。これは「自意識の目覚め」だ。それはどんどん発展して、無数のものに恥ずかしさを感じてしまう「今」に至る。
しかし突然、服を脱いで裸になる人たちもいる。
それは、聖者もしくは気の狂った人。
そういう人たちは、知恵の木の実を食べる前の状態に戻ってしまったのかもしれない。あるいは、空の上にあるエデンから突然降ってきた「生命の木の実」を食べたのか・・・。
どちらにしろ、そういう人たちも「殻」がやぶれた人たちだ。その姿は彼らの精神状態を象徴的に表現している。
「貧しきものは幸いである」という言葉、それはおそらく心に殻をかぶっていないことへの祝福なのである。
フランチェスコは富や権力に執着し、それを追い求めて生きることが心に厚い「殻」を作ることであると知っていた。
「殻」は何も人の心だけを覆うものではない。
土を覆いつくすアスファルトや、冷暖房が完備されたマンションの一室、高速道路に連なる走る鋼鉄の「殻」。現代の文明自体が「殻」に覆われている。この現代西洋型文明そのものが、地球を覆いつくす一種の殻の様相を呈していることは疑えない。
その中に生きると言うことは、この殻の中の生活がすべてだと思うこと、そして、この殻が決して壊れないように「殻」に奉仕するということでもある。
しかし殻を堅固にすればするほど内圧はどんどん高まっていき、やがてそれは崩壊せざるを得ないだろう。
その時、その殻の中に息づいていた無数の生命も破壊されてしまうだろう。
「殻」は本来人間を厳しい外界から守る為のものだった。
しかし、一番危険なのは「守りすぎること」なのかもしれない。
Brother Sun and Sister Moon,
I seldom see you, seldom hear your tune
Preoccupied with selfish misery.
Brother Wind and Sister Air,
Open my eyes to visions pure and fair.
That I may see the glory around me.
I am God’s creature, of him I am a part
I feel his love awaking in my heart
Brother Sun and Sister Moon
I now do see you, I can hear your tune
So much in love with all that I survey
2007.
03.
03
神への愛と奉仕
卵の殻を内側からつっついてみること
例え返事はなくても、果てしない空の夢を見よう
すべての人が神であると言う
ボーダーレスな世界では
心身はひとりでに愛を表現する
どこにいても、なにをしていても
みんな同じ、たったひとつの空の中にいる
卵の殻を内側からつっついてみること
例え返事はなくても、果てしない空の夢を見よう
すべての人が神であると言う
ボーダーレスな世界では
心身はひとりでに愛を表現する
どこにいても、なにをしていても
みんな同じ、たったひとつの空の中にいる