2007. 06. 26  
 三昧っていうのは人間の意識状態ではないんだ。
 実在の構造なんだ。


 BY DJ師





2007. 06. 26  
 リトリートの時に、I先生が「神の存在を体験した人間はいるけど、神の不在を証明した人間はいない」ということを言っていた。

 最近本屋で、分子生物学者のドーキンスの「神は妄想である~宗教との決別」という本が平積みになっているのをみつけたが、ドーキンスは「絶対が絶対にある」ということを経験してはいないだろう。

 そしてそれを経験してなおかつ、神は妄想であると、言い得た人間は存在しないのではないだろうか。

 科学において、神の存在を実証できるとは思えない。
 というのはそれは『認識』の問題らしいから。

 でも、例えば、エーテルレベルやアストラルレベルに関してならその存在が証明される可能性は大きい。(というか、もうされてるかもしれない)

 それは現象としての実在性をもっているから、その活動に伴い、なんらかの物理的な痕跡が残るだろう。
 
 でも、神(実在)は非-現象であると言われており、物理的次元や霊的次元も含めた現象界は、この非-現象の現れとされている。それはすべての現象がその上で起こる母体のようなものかもしれない。

 非-現象が実在であるなら、現象は非-実在でもある。

 すべての知覚器官は現象界をとらえるアンテナであるために、知覚器官による共同認識をその基礎にしている科学的手法においては、決して『実在』を捉えることはできないだろう。

 神は見えるものでも、聞こえるものでも、触れるものでもなく、「分かるもの」と言われる。知覚として了解できるのは、シャクティの世界まで・・・みたい。

 しかしいわゆるベタな科学者に、この「分かる」ということが実在の証拠であると言っても、それは『君の脳の主観的現象』に過ぎないと、言われるのは目に見えている。

 しかし、科学で証明できれば、「神は物質」ってことになっちゃうじゃないか!
 
 人間に、「実在」を証明する能力ではなく、「実在」そのものとなる可能性が与えられていること、『意識』がすべてを産み出しているということ、ゆえに『意識』だけがそれを『意識』することができるという事実にこころを開かなければ・・・。

 本当にベタですが、大事なものは目には見えない!のです。
 目に見えないからいい!のかも? 




2007. 06. 26  
 われもなく 映し世もなく ただ一人

        神のみ前に ひれ伏し おろがむ
              
              
    出口王仁三郎


 


2007. 06. 22  
 私たちが自分の人生において神の意志の妥当性を考慮することができる前にまず、「神」という言葉で私たちが何を理解するのかについて明確にする必要があります。
 私にとって神とは、源泉、意識、最高のパワー、非現象、ユニシティです。あるいは他の呼称も使われるでしょうが、とにかく、そこから現象と宇宙が生じる一なる源泉、同じ瞬間に相互関連する正反対のものが存在する基礎です。
 源泉、神は相互関連する正反対のものを超越しています。それは二番目がないただ一つのもの、そこから現象化されたみかけの二元性が現れてくる非現象のことです。

 いくつかの哲学の中には、神を、現象化したみかけと関係している一つの存在として見なしているものもあります。つまり、現象宇宙の支配者にして、「善」の代表である神。まあそこまでは、問題はありません。しかし、混乱が起こるのは、現象の二元性の中で、彼らが相互関連する反対物である悪の代表として悪魔を受け入れ、なお、偏在、全能、全知の存在として、「神」をこの宇宙の「創造主」であると考えるときです。神は、源泉、つまり、そこから幻想としての現象の二元性が生じる二番目のない一なるものであって、同時に現象内の神(善)や悪魔(悪)といった、相互関連した正反対物のどちらか一部分になることはできないのです。ここに大きな混乱が存在することになります。

 神の意志を解釈する必要性が生じるのは、人間の思考が、それ自身が「悪」であると考えることが、神の意志によって起こることを受け入れられないからです。人間のエゴによれば、神の意志を、人間の思考が「悪」だと考えることに当てはめるべきではないということになります。なぜなら、悪は、悪い勢力の代表としての悪魔によって象徴されているからです。

             (中略)

 それが聖職者であれ、信者であれ、個人の考える心にとっての本当の問題は、ある瞬間にその行き渡っている状況の中で、権威ある個人が「よい」と考えることが起こることに関してだけに、神が関わっているという誤った観念です。言いかえれば、人間の考える心は、どんな瞬間にも起きている「すべての」こと、すなわち現在の瞬間の「あるがまま」が、神の意志であることを受け入れることができないのです。それは「神」という言葉が「源泉」、二番目のない一なるもの、そこから現象全体が生じるものとして、受け入れられていないからです。

 それゆえ聖職者と信者の考える心、エゴは、神の意志は、どんな瞬間にも、存在しているすべてのことに関係するということを受け入れることができないのです。神の意志は、人間が考える「よいこと」と「悪いこと」に依存していません。たとえば、第二次世界大戦のときに、自分の息子がベルリン襲撃で死んだある女性は、それが神の意志で起こったことを受け入れる理解力がありました。しかし、聖職者は、どうしてそれが神の意志でありうるのか?と問うわけです。彼にとっては、それはどちらかといえば、そのときイギリスが戦っていた悪の勢力、敵、ヒットラーの意志のように思えたのでしょう。

            (中略)

 私は、神の意志があらゆる瞬間に行き渡っていると思います。たとえば、殺人が起こったとしましょう。私のその出来事の解釈は、その出来事は神の意志、またはその当の肉体精神機構の運命ということになります。神の意志によれば、その人の運命が殺人によって死ぬということであり、その片方は殺人をするという運命なのです。そして、その殺人者がつかまって、死刑になるのか、またはつかまらず、それゆえ罰せられず自由の身でいるかもまた、その人の運命なのです。無実の人が罰せられるのもまた、神の意志であり、その人の運命でもあります。
 事実は、人間、つまり、現象全体の中の一つの対象物にしかすぎないものが、神の意志が機能するその基礎を知ったり、理解したりはできないということです。ドイツの神秘家、マイスター・エックハルトが表現しているように、人間にできることはただ、神の創造と機能の荘厳さと、多様性に驚嘆することだけなのです・・・私たちはそれを理解し始めることさえできません。





人生を心から楽しむ~罪悪感からの解放~

ラメッシ・S・バルセカール

(ニサルガッタ・マハラジのお弟子さんです)





2007. 06. 20  
 自然が人を癒すのは、ありのままだから

 そしてありのままの人も、人を癒す

 ありのままの人の心には

 ありのままの神様と宇宙が映っているから

 ありのままの人は

 ありのままの自分を気付かせてくれる





2007. 06. 18  
 あじさいがきれいです。

 最近、顔をくっつけてこれでもかと鑑賞します。

 あぁ・・う・うちゅうがあるぅ(笑)

 細かいところまでよく出来ております。

 こんなによく出来てるのに黙って咲いて

 黙って散っていきます。

 もったいない話しです。

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2007. 06. 16  
 僕は17の頃にこんな詩を書いた。

 小さな石ころは、いつかダイヤモンドになりたいと思ってる
 星屑はいつか、巨大な太陽になりたいと思ってる

 
 そして、小さな僕は大ききな輝いた未来にあこがれた。

 でもそうではなかった。

 星屑も、石ころも何にもなりたがってなんかいない。

 実際のところ、星屑よりも太陽のほうがよいという人間の考えがあるだけで、星屑が星屑であり、石ころが石ころであることによって、太陽が太陽であり、ダイヤがダイヤとなっている。

 そしていつか星屑は太陽となり、石ころはダイヤとなるだろう。
 ダイヤは石ころとなり、太陽は星屑となる。

 あらゆる価値観に僕はがんじがらめになっている。
 そのときに誰かが、つぶやく。

 「君は、そこにころがっている石ころと同じくらいの価値がある」と。そのときに広がる宇宙はとても優しい。 


 愛の鳥は石ころの微笑だ。いつまでもあなたの死を待っている。 

2007. 06. 15  
 神様への愛は本当は消えることはない

 曇り空の日も 雲の上には太陽があるし

 雲の下にも 光がある

 そのように

 あらゆる現象を越えてそれはきっとあり続ける

 死の闇も越えて

 なぜなら
 
 その愛ゆえに僕は生きてるであろうから

 それは僕の心、もしくは魂の本質的な性質だから

 
 暗闇の中に 

 ろうそくが燃えている

 こちら側から見ると闇があるが

 あちらから見るとすべて明るい

 炎の中心に闇はない


2007. 06. 13  
 ダイジの講話録にグルマハラジのデバインライトという教団?名がやけに登場するので検索してみたがあんまり出ない。数少なくヒットしたブログに掲載されていた絵。デバインライトで修行していた方のようだ。

 「現代の神話 現代の神話 丙土升一瞑想を原点とした絵画、詩、雑感」

 http://shoichihito.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_27a1.html



        燃える王様

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2007. 06. 13  
 夜はもともと、暗いものである。

 しかし、人はそこを明るくしようとする。
 都会なら一晩中ネオンや外灯の光は灯っているし、家の中は蛍光灯が明々と照らし出している。オフィスでは遅くまで仕事をする人がいる。

 ところが、元来そこは夢と眠りの世界であって、左脳を激しく酷使するような労働や学習の世界ではないのではないか。
 
 夜はもっともっと暗くてもよいような気がする。
 まあ街の明かりを消すと治安上の問題もあるのだろうけど、自分の家や部屋ならある程度コントロールできる。

 夕暮れの薄暗さは美しいと思う。
 徐々に濃くなっていく闇のグラデーションを味わうことなく、すぐに蛍光灯をつけて平坦な明かりで空間を満たしてしまうのは何かもったいない。
 それだと段々夜になるのではなく、蛍光灯をつけた瞬間に夜になってしまう訳だから(?)。

 明かりはキャンドルくらいにして、読んだり書いたりしたいならそのときだけ部分的な照明をつければいいのではないだろうか。
 それは省エネになるからとかそういうんではなく、それの方が精神健康上よいように思えるのだ。

 あの暗闇がないと分泌されないというメラトニンという脳内ホルモンのこともあるだろうし、寝る直前まで蛍光灯をつけっぱなしでは自律神経が休まりにくいのではないか。

 現在の文化に不足しているのは、言わば意識の中有(バルド)であると思う。中有というのは、死者が死後に再生するまでにとどまる状態を言うのだが、そのような生でも死でもないちゅうぶらりんの状態・・・一日の活動は終わったが、でもまだ眠ってはない・・・という状態を得たほうが完全な休息、眠りへと移行しやすいと思う。

 この薄明かりあるいは夜の闇があまり存在しないというのは、何もしていない状態、内観的状態、ぼーっとする状態の重要性があまり認知されていないということと同時に、現代人の心に抑圧された巨大な闇・・・死の恐怖を主とする・・・ともリンクしているだろう。
 
 
2007. 06. 12  
 誘導瞑想のCDを聞きながら瞑想していて、「一番リラックスできる場所に行きましょう」というのを聞くと、子供に戻ってしまった

 そして自分の力で生きて行く、行かねばならない、という思いから来る圧力を感じているのを自覚した。
 当たり前のことっちゃそうなのだが、結構気づかないものだ。

 ふっと「幼子のようにならねば天の王国に入ることは出来ない」という言葉を思い出す。

 幸福な子供は、両親に守られ、また愛されている。
 普通の大人は、自分で自分を守りながら生きている。

 成長することにより、愛され守られているという世界を出ると、人は自分で安心を求めるようになる。
 しかし、どこに安心を求めるかが問題だ。

 多くの場合、それは失くした原初の安心が決して再び手に入らないという絶望から二次的なものを求めていく過程であるから。

 未来への不安により、より多くの物質を蓄えておかなければならないと思う。
 愛されないことへの不安により、できるだけ美しい姿やこころを維持したいと思う。
 自己の価値への不安により、何か少しでも人より秀でたものを見つけようとする。

 僕が囚われている多くの価値や、考え、それらは「不安」により形作られてきたものかもしれない。
 
 幼子に帰る、ということは僕らを愛し、守っている存在、生かしている存在を現実とすることなのではないだろうか。
 そしてその愛の関係性の中で、「不安」によって発生した価値や、考えや、表層的な自己は自ずから解消され真っ白になっていくのではないか。

 I先生は、「母なる神を体験したことによって、自分の内側の子供は完全に癒された」ということを話していた。
 
 神により、癒された、子供。
 全体生命からすれば、個生命はすべて子供。
 インナーチャイルドが真の元型的輝きを取り戻すのはその時だろう。


2007. 06. 11  
 ネイティブアメリカンの一部族であるホピ族を描いた「ホピの予言」2004年度版の上映会に行って来た。
 
 1986年製作の映画。
 「ホピ」とは平和な人々を意味する。彼らは世界の創造主であるグレートスピリッツ(マーサウ)から母なる大地の世話をするように命じられたと信じている。
 ホピの聖地では、現代の西洋文明の根幹となるエネルギー資源・・・石炭やウラニウム・・・の採掘が行われており、放射能汚染や強制移住にによってホピ族は甚大な被害を被っている。

 自らを大地の守護者を持って任じる彼らにとって、鉱物資源は母なる大地の「内臓」であり、それを際限なく略奪するのは母の肉体を蹂躙する行為だった。

 1945年、長崎と広島に投下された原子爆弾の原料となったウラニウムがホピの土地から採取されたものであることを知った彼らは、祖先から伝わる予言の中にそのことが警告されたいたことに気づく。原爆は予言の中で「灰のびっしりつまったひょうたんが落ちてくる」という言葉で記されていた。

 彼らは部族の中から3人のメッセンジャーを選び、その予言を世界に公表し、調和を取り戻すべく活動を始めた・・・。
 
 ホピの聖地から採掘された資源が、この現在の文明形態を維持する力になり、核兵器の原料にもなっていることを知ったことによって、彼らがグレートスピリッツから与えられた「大地の番人」という役割の意味が明確になったのではないかと感じられる。悲壮な形ではあるけど・・。
 
使いようによっては人類を何回も絶滅させる力を持つ、放射性物質。 
そのような資源が眠る場所に居住しているかれらであるからこそ、「精霊」はメッセージとして「平和」の重要性を伝えたに違いない。

 母なる大地から略取した「内臓」のエネルギーを使用し、便利で快適な生活を送っているはずの西洋文明に数々の病理が蔓延し、自然のエネルギーだけでシンプルな自給自足を営んでいるホピの人たちが、とても穏やかな表情をしているのを見ると、あまりにも自然の摂理から逸脱してしまったこの世界に恐怖すら感じる。 
 ホピの人々を被爆させて獲得した膨大なエネルギーを使用して自らをも(長期的には)不幸にさせるという、なんともとんでもないことをしているのである。

 20年前に作られた映画だが、そのメッセージはより緊迫性を帯びてきていると考えて間違いない。
 ホピの指導者は、ニューヨークでの9・11のテロや、米のイラク侵攻も起こった今、時は既に「浄化の時代」に入っていると考えているようだ。
 現在の世界の前に、すでに二つの世界があった。この世界は3つめの世界で「浄化の時代」を経て「第4の世界」を迎えるとホピの石版には記されている。
 
            
 映画「ホピの予言」詳細

 http://www.h6.dion.ne.jp/~hopiland/


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ホピのシールドマーク
全ての人種(黄、赤、白、黒)をひとつにして大地といのちを守り、この地球のバランスをしっかりと保つ、という意味が込められている
2007. 06. 09  
 例えばさ、愛、安心、感謝、それから喜び・・・これらっていうのは修道院のなかで本当に清らかな生活っていうのを送って、キリスト様でもなんでもこうやって祈ってただひたすらに信じるっていうことを続けて行けば、必ずわかってくる。

 ところがこういう人が巷に現れたとするよ・・するとそこでさ・・なんでもいいや、男同士が抱き合ってる姿を見るとかさ、マリファナかなんかぷかぷかふかしながらロックビートかなんかにのって、こんななってるところ見るとかさ、酒をがぶがぶ飲んでる姿を見るとかって言うときにさ、彼女、あるいは彼修道士としてものすごく清らかな人はさ、入っていけないわけ、その世界に。

 それは彼、あるいは彼女が、その世界はいい!としたものなんだ。彼または彼女はその修道生活に生きてる限りはその喜びを味わって生き続けることができるんだ。だけどそれは、神の半面に過ぎないわけ。そこには恐ろしさがないわけ。その世界の中では死でさえ恐ろしいものではなくてさ、帰っていくものに過ぎないわけ。だから死体は一番清らかに安置されればすむものなんだ。そこでは死体が腐ってくるということが決して起こらないわけ。死体は腐って、実際は腐敗した匂いを漂わせることがある。それから腐って骸骨になって、得体の知れぬ塊になってしまう。そういうものっていうのは見る必要はない、愛の世界では。

 それは「高さ」なんだ。人間の「高さ」なんだ。「高さ」に必要なものはね、ただものすごい「純真さ」だけなの。
 ところが「深さ」っていうものがある。「深さ」の一番の根源は「自由」なんだ。「自由」っていうのはまさに出入自在なんだ。何が来てもさ、こなせるものなんだ。どんな悪人を見てもさ、平気で奴をさ、乗せることができるんだ。

 例えばこういうことがあった。僕が仏教学をやってたときに多少出来た教師がいたんだけどさ、その学校に通ってる生徒の父親が大酒のみでさ、ひどいんだ。で、彼は仏教僧だったわけ。仏教僧でものすごく清らかな人でさ、本当に澄み渡ってるていう感じの人だった。でその人が一度彼を説得しようと思って尋ねていった。そして彼はそこへ尋ねて行ってさ、お互いに感謝っていうものを持って、お互いに拝みあって暮らせばこんなことも起こらなくてすむんですよっていう意味のことを言ったわけ。で、それはまさに彼の真実から出てるんだけど、その大酒のみはかんかんに怒ってたたき出しちゃったわけ、その僧侶を。

 で、俺はもう一人知ってる人がいたわけ。奴は授業をやりながら禅を教えてたんだけど、その人にさあの仏教の教師が追い出されちゃったから、あなた行けば絶対いいって言ったら、彼言ったの。
 そしたらそのあと非常に円満になっちゃってさ。奴のやり口っていうのはどういうのかっていうと、まず一升瓶ぶらさげて行くわけ(笑)。そして二人で酒盛り始めてね、延々と飲み続けてさ、そのうち奴の持っているどうしょうもない汚い世界・・・裏切りがありさ、嫉妬がありさ、そして空虚でありさ、虚しい、醜悪な現実の人生を彼と共有することによってさ、この世の一切の醜悪なものを、醜悪なものとして話せたときさ、それを越えてるものがあるってことを確認させることが出来たわけ。それも確認させるなんていう意識を全く持たないで。

 だから、あとから行った奴のほうには自由があるわけ。そう、もしかしたら愛とか、感謝とか清らかさにおいてはとても前に行った仏教僧にはかなわないかもしれない。だけど彼には泥沼をも入っていくような自由って言うか力があったわけ。

 で、宗教団体でもね、純粋な霊的な修行の場所でもね、愛のほうから迫っていくのとね、自由のほうから迫っていくのとタイプがあるわけ。そしてデバインライトなんかだと非常に愛のほうから迫っていく。だから出られなくなっちゃうんだシェルターから。外へ出ると、怖くてしょうがなくなってしまう。中に入ってると清らかでいられるから、ほのぼのとしていられるから。でも一歩外に出ると予期せぬことが無数に起こってくる。

 そしてまた禅宗なんかの場合だと、「自由」一本やりで行くからね。もう最初からぶっとばすは、なんかっていうひどいことがあるわけ(笑)でもそういう人はね自由に飛びすぎて、えらくしみじみとしたものを忘れがちなところがある。

 でも断っておくけど、「愛」が本当に行くところまで行けば、それは「自由」だよ。それは、つながってきてしまう。ただ人間はどうしても部分的にしか受け入れることが出来ないからね、だからそういう風にふたつにわけて説明したんだ。



ダンテス・ダイジ Meditation in KOREMASAより


2007. 06. 08  
 いつも決まって自分をマーヤにさせるエネルギーがある。
 それは暗闇のイメージを伴っている。
 表層部分では、よくある自己否定や自己どうどう巡り感への嫌悪、対人的なストレスなんかにすぎないけど、もっと潜ると、強烈な孤独感や死の恐怖や、正気を失うことへの恐怖、存在することの恐怖とつながっている。そっちの方が主体なのだ。
 そしてこの暗闇とのバランスによって、日常生活が営まれているというのは心理的な事実であるように感じる。
 あえて二極化するとすれば、一方に安心や感謝、神様への愛情があり、もう一方にはこれがある。
 この暗闇は僕個人のものであると同時に、もっと集合的なものではないかと思う。
 家系的なものであったり、もう少し元型的なものかもしれない。

 そう思って寝ると、夢を見た。

 僕は5年前に亡くなった祖母と一緒に、黒い虎の檻の前にいた。 
 金網は外れかけていて、僕はそれを足で必死に押さえつけているがいつ虎が飛び出してきてもおかしくない。
 しかし、恐ろしい肉食獣と間近に向かい合っているというのに、祖母は全く怯えていない様子である。
 とうとう檻から出てきた虎は、家の中をうろつきまわっている。僕はそれから逃げ回る。しかし、虎は特に積極的に僕を襲う風ではなくただうろうろしてるだけのようだ。
 祖母が言う。
 
 「こんな虎でもおとなしくさせてしまうような、すごい愛がある。」 
 そう言って虎に毛布をかけて、寝かしつけてしまう。

 ・・・という夢だった。
 この虎の夢は何年もの間見続けている夢で、昔は祖母が虎を力で必死に押さえつけていて(ってそれも普通ありえないが笑)僕に、「早く(実家に)帰ってきてくれ」と言ったりしてたのだけど、それと比べると随分感じが変わってるなとは思う。
 力でねじ伏せるのではなく、愛で従わせている?みたいなのがすごい。
 比較的家の状態が安定してるからそれが夢に反映してるのかもしれないけど。でも祖母の魂が守ってくれているというのは、やはりあるとしか思えない。僕の現実の中では・・・。

 暗闇というのはマーヤなので、本質的に存在しないもの・・・なのではあると思うが、光に向かおうとすればするほど、暗闇もまたくっきりとしてくるような印象はある。

 
2007. 06. 05  
 お母さん

 宇宙のおっかさんはあらゆる形の中に存在するという

 それは聖母マリア であり カーリであり 

 カバラでいうところの、ビナー

 お母さんは、僕らとお父さんの間を取り次いでくれる

 父が智恵であるとすれば、お母さんは、愛

 愛はその別名を、理解という

 完全な愛は 完全な理解を伴う

 お母さんは 僕が本当に必要なものを

 知っている・・・


 女性なるものが、存在する

 大地 海 地球 子宮 宇宙 

 包むもの 育むもの 愛すもの

 僕らがその中で何度も死に

 そこから何度も生まれるもの

 宇宙の女性的なものすべてを存在させる

 真に女性なるものが存在する

 その母の胸から流れる乳を飲み

 僕らは生き続けている 
  

2007. 06. 03  
 俺たちが絶対そのものになったら、絶対って言葉はもう必要なくなっちまう。だけど実在のひとつ手前がね「菩薩」って言って一番大切な場所なの。なぜならそれは人間と神とをつなぐものだから。神の子たちの世界だから。

 そして・・・いいよ、実在そのものになったやつなんて、全部向こうに任しとけよ。あんな奴ら、なんの役にも立たないから。オレもなりかねないけど・・・とにかくなんの役にも立たない。とにかく充足して宇宙の一切と、同時に存在しているだけだ。

 で、一番素敵なのはね、生きていて、生きるって言う意味とさ、生きるものを越えてるっていう意味を同時に持ってるのは、その中間に位置している存在なの。
 
 その人にとって「絶対」があるわけ。絶対の愛の喜びっていうのがある。絶対の自由の触れ合いっていうのがある。で、それを有想三昧っていうんだ。無想三昧と有想三昧と分けると。

 ラーマクリシュナがまさに嫌ったところっていうのはさ、実在そのものになってしまうことなの。弟子のヴィヴェーカーナンダに言ってるでしょ?「お前、絶対ニルヴァーナは経験するな・・・」って。ニルヴァーナ、無想三昧なんかに入ったってなんの役にも立たない。

 だって、それは死ぬことなんだよ。すべてが終わってしまうことなんだ。完全な死って言ってもいいね。肉体の死でさえない、完全な死だ。

 例えばシャカがね、無想三昧っていうのを知ったとき、説くのを止めてもう死のうと思ったっていう伝説が残ってるでしょ?

 つまり全く、それくらい人と関係ないんだ。多くの人と。おそらく、人間の99パーセントと無関係の話しだよ。いい?だって人間の99パーセントは何を求める?
 深いふれいあいでありさ・・・触れ合いじゃないか?何より。
 で、それは物語なんだよ、ひとつの、美しい。触れ合いの世界っていうのは。

 そしてシャカの行き着いた世界、つまりニルヴァーナの世界っていうのはね、触れ合いが全くない世界。それは触れ合わないって意味じゃないよ。触れ合うことも、触れ合わないこともない世界だ。
 始まりも終わりもない世界だ。

 でもたいていその世界を知ったとしたら、(そこへ)入る人はほとんどいないだろう。なぜならその時突然こみ上げてくるから。愛が、慈悲心が。

 だってねこの世に物語がなかったら、神はこのマーヤの世界を作る必要はないもん。いろんなものがあったり、いろんな出会いがあったりさ、合わさったり、離れたり無数の物語があって・・どうしてそんなことやってる?神は戯れるのが好きなんだ。



ダンテスダイジ Meditation in KOREMASA(1978)より

2007. 06. 03  
 僕は、どこまでものぼせあがる

 どこまでも、どこまでも、際限なく偉くなる

 僕は、どこまでも堕ちて行く

 どこまでも、どこまでも、際限なく最低になる

 そして本当のところ自分が一体なんなのかわからないから

 怖がっている


 家庭の中で、学校の中で、仲間の中で、社会の中で、精神の世界の中で、自分の価値を計ろうとし、自分の居場所を探そうとする

 そして、自分が選んだ価値により裁かれ、自分が選んだ居場所を追われる

 人の子に枕するところなし

 だから、神様の枕を求める

 僕は、絶対の一部

 僕の価値は、それだけ

 僕は、神様の一部

 僕の居場所はそこだけ

 いつも、そこからはじめたい

 いつか、そこに還りたい



2007. 06. 01  
 いつでも家の中にいるよ、今君たちは。

 だから君たちが疲れたらいくらでも安らげる。それからね、君たちが死ぬっていうことは君たちがパーフェクトな理由なの。

 おかしな言い方かもしれない。それはね、君たちの命が君たちの自分勝手な方向で出てきたんじゃないっていうこと。既に君たちは、与えられて出てきてるんだってこと。

 人間が死ぬっていうことは、人間の悩みの原因なんだよ。

 例えば死そのものが目の前に現れた時にどうするかってことさ。

 その時ね、自分っていうものの観念を持っててさ、自分て言うものを保っておこうと思っていたらね、死はあり続けるよ。

 なぜなら死って言うのはね、自分と宇宙との摩擦の間に起こる幻だから。その時宇宙そのもののパーフェクトって言うものを認めれば、死は消えるよ。もともとひとつながりの命であってね、それが君たちになっていることがわかる。

 自分勝手なものは通用しないんだってことを教えようとしたわけ、宇宙は。つまり何をそんな頑張ってんのって言うのさ。
 


DJ講話「世界はいつもパーフェクト、人は、」より








プロフィール

はいたか鳥

  • Author:はいたか鳥
  •  Only in silence the word,
     only in dark the light,
     only in dying life :
     bright the hawk's flight on the empty sky


     ことばは沈黙に
    光は闇に
    生は死の中にこそあるものなれ
    飛翔せるタカの
    虚空にこそ輝けるごとくに

    ゲド戦記 エアの創造より


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      haitakarainbow@ のあとに gmail.com をつけてお送りください。

      よろしくお願いいたしま~す☆

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