金色

 
年末の買い物で混みあったスーパーを出て、公園へ歩いて行くと

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 妙に空がきれいだ。

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 雲がいい感じに逆巻いたりしている。

 金色に輝きながら、木立の間に太陽が沈んでいく。

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 どうも一年間ありがとう。来年もきれいな空を照らしてくださいね。

  


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私的雑記 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2007/12/31 19:55

今年のことを振り返ってみようと思うのだが、あまり頭が働かない。

 細木のカズちゃんの占いでは僕は、孤独でエロい水星人で大殺界の最初の年ということなのだが、確かに安定はしておらずあちこち右往左往していた感がある。
 そしてもしこのサイクルになんらかの妥当性があるのなら、前回の大殺界はどうであったか?と考えると、その時僕は18だったが、大学に入学したものの、授業に出る以外はほとんど部屋に閉じこもっていた時期だった。

 個人的にはハッキリ言って、カズちゃんのやり方は好きではない。(別に大文字にする必要もないか)僕は墓石撲滅派であるw。死んだら、燃やして海へ流してくれっ!

 六占星術というのはゼロ学占星術ってのをを焼きなおしたものというのはもう周知の事実。
 あまりみんなが信仰すると殺界の威力が強くなりそうなので、早く忘れ去られて欲しいと本気で願っている。

 でもバイオリズムの周期性は間違いなくあるかと思う。

 が、結局、物事が現象的にうまくいってないように見える時期というのは、それまでの生き方の限界に直面したり、新しいものを育てている時期であったりすることが多いと思う。
 
 だから悪い年って、いい年かも??あー何が言いたいのかわからなくなってきた。

 現象的に右往左往していたけど、神様からたくさん幸せをもらった年でもあった。

 I先生のリトリートに参加できたこと。

 リトでは周りに「溶け込めない」とダダをこねる僕を、I先生の意志と神様と他の参加者の人たちが助けてくれた。が、その後修道会に参加する度に先生から「どう、溶け込んでる?」と聴かれることにw。 

 リトリートの準備かどうかは知らないけど、その前から仕事中でも神様にこころを向けるととても幸福感を感じることが多くなってきた。
 部屋にシバ神とかサラスバティーのインドの神様ポスターを貼ってみたりもした。

 胸がいっぱいになったり、酔っ払ったりした。
 ダイジも「神中毒に終わりはない」と言ってるけど、本当にそうかもしれないと思った。
 しかも、その中毒は僕らをそれ自体へと導いていく。
 
 夏になると、以前から自然の中に溶け込むような体験がしたいと思っていたので、そうだー
ダイビングでもしてみるかと、ネットで見つけたダイビングショップに出かけ、ボンベをかついでプールに潜ってみたりしたが、露骨に高い機材を売りつけてくるインストラクターに嫌気が差して結局海へは行かず。

 七月のある日、目が覚めると「アマテラス」という言葉が残っていたので、寝起きの頭で何回か繰り返していると、あ、そうだ伊勢神宮に行こう・・・と思う。 
 道中、鳥羽の菅島に一泊した。
 菅島は小さな島で、鳥羽でもらった簡単な地図を見ながら一周できるかなと、安易な気持ちで山道に踏み込むとなかなか街に帰ることが出来ず、しかも、炎天下飲み物も持ってなかったので、あやうく遭難するかと思った。

 みなさん、菅島の山道は要注意です!!w
 すぐ横が崖みたいな道が多く、気を抜くと死にます。

 山頂には特攻隊の慰霊碑がいくつかあった。
 今、ここでこれを見ているのはどういう意味があるんだろうと思ったりした。
 山をようやく降りると、海でたっぷり泳ごうと、人目を気にしながら浮き輪をふくらませて、海に入った。するとその直後足の裏に激しい痛みが走った。くらげかなんか知らないけど、人を刺す生き物を踏んでしまったらしい。痛さで泳ぐどころではなく、すぐ浜へ。いったいなんでこんな目に遭うのだと、ブルー極まる。

 いやいやきっとアマテラス様が「泳いでないで、早く来なさい」と呼んでいるに違いないと、気を取り直し、一路伊勢へ。

 暑さのため頭が朦朧となりつつも、無事参拝を終えた。

ピルグリム(聖地巡礼) | コメント(8) | トラックバック(0) | 2007/12/27 23:33

高崎で山田かまちと再会するの巻き

 出張で、前橋のホテルに一週間ほどいました。

 たまに環境が変わると、いつもの意識と絶縁されていい感じだ。

 今年はいやにいろんなところへ行ったり、やったことのなかったことを始めてみたりしたけど、何かを変えざるを得ないような力がこころのなかで動いている。

 今までのやり方で生きようと思ってもうまくいかない。
 今までの仕事を続けようとしても、続けられない。
 もう今までやっていたような、電話によるカスタマーサービスのような仕事はやれない。
 からだが拒否している。

 I先生の個人セッションを受けに行った時に、丁度その前の枠に入っていた方が出版系の仕事をされている人で、その方の会社を紹介してもらった。

 最初の仕事は、前橋への出張。 

 帰りに、高崎で降りて、市内を少し観光した。

 駅から歩いて30分ほどのところに、「山田かまち水彩美術館」がある。

 山田かまちは、1977年の8月10日に17歳で死んだ。
 上半身裸でエレキギターの練習をしている時に、事故で感電死したという。
 死後には多くの絵や、散文、詩などが遺された。   

 大学生の頃、山田かまちの詩や散文を収めた文庫をよく読んでいた。 
 たしか大学の生協で偶然見つけて、買ったものだった。

 山田かまちの何が、自分をそれほど引き付けたのか今となってはよくわからない。
 多分その命を、自分の人生を全力で肯定しようとする姿勢に、絵や文章からほとばしるそのエネルギーに魅せられたのかもしれない。

 彼の絵や文章には、思春期の自意識や混沌とした感情も塗りこめられている、人一倍のエネルギーを持っていただけにその混沌も人一倍のものがあるだろう。
 でもそれを越えて、輝いて見える彼の魂がある。

 美術館の中は平日で誰もおらず、親切な館長さんが写真の撮影も許してくれた。

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 海辺のライオン 13~14才 パステル

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 ナイフを持つ男

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 死の前日に描いたかまち最後の作品。その晩かまちは親友と線香花火に興じ、「人間の一生なんて線香花火のようにはかないものだ」と話していた。斜めに走る赤色は花火の残影なのだろうか。

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山田かまち

 ある文章をかかげた額の前に来て、少し読むと涙が出そうになった。
 僕が好きで、なんども読んだであろう文章だった。

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 かまち、おまえは人に好かれるか好かれないかということで
 生きているのではなかったはずだ
 お前は
 生きる
 ただ自分の生き方を貫く それひとつだけのために

 お前は裸 たったそれだけ
 おまえの心しかこの世にはない
 おまえは生き方をつらぬく 消えるまで 生命が消えるまで

 おまえの生き方をつらぬけ
 それは意地ではない 美しさだ
 今までは人のいうことを聞きすぎた
 みじめな気持ちになり
 ろくでもないやつを
 仲間だと思い込む
 そこからおまえがくずれてゆく

 かまち
 おまえはもっと自分を大切にしろ
 激しく美しく生きろ
 みせかけや、その時のいくじなしさみじめさは
 軽く安いものだ
 激しい美しさ 真の叫びこそが美しい
 くだらん連中に妥協するな
 おまえにはおまえがある

 人のことは考えず
 自分の生き方をつらぬけ
 輝く激しさだけを信じろ
 今を信じろ
 自分を信じろ
 ただその燃える一本の生命を信じろ
 おまえは美しい
 それは誰がなんと言おうと
 変わることのない偉大な真実だ
 人の悲しまされるな 物事に悲しまされるな

 おまえは生きることを生きろ
 おまえは再びおまえをつかめ
 おまえは眠っていた
 それを揺り起こして
 さあ、再びおまえを生きるんだ!
 再びおまえを!
 妥協は敵だ
 おまえはおまえしかないんだ
 おまえがおまえでなくてどうする?!!?
 おまえは生きることを生きろ
 昔を思い出せ!


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 小学生から亡くなる日まで使っていた机。

 一通り展示を見終わったあと、館長さんが「この先にかまちが通った高校がありますから行ってみて下さい。このあたりはほとんど昔と変わってないですよ」と教えてくれた。

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 高崎高校

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 高崎市街を見下ろす白衣大観音像。街からも山の上の観音像が見える。この観音像は昭和初期に造られたようで、主に安産のご利益があると言われている。像のなかは胎内となっており入ることが出来る。亡くなった山田かまちがこの観音像に抱かれていくイメージがどうしても沸き起こってくる。

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私的雑記 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2007/12/19 22:42


 こころを開き

 すべてを受け入れ

 すべてに委ねる。

 例えば、こう言い聞かせる

 すべては光
 すべては愛
 すべては「私」

 上もなく下もない
 自分は特別ではないことを知ること
 その事実を受け入れることは
 結局は自分自身の為

 上も下もある世界を心の中につくらなくても
 幸福であることが出来ることを
 想い出す為である

 幸福は奪い合わなくても、なくならない
 握り締める力を緩めればきっと満ち渡る
 
 秘密は降伏!

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2007/12/13 21:07

みこころの美

 ニーム・カロリ・ババの逸話の中に、神の意志の働きの精妙さを語ってると僕には思える話しがある。以下、「愛という奇蹟 ニーム・カロリ・ババ物語」より。


 ジャーンキとドロパディがマハラジの目の前に座っていました。マハラジはジャーンキのほうを向いて、

 「お前とドロパディと、わしはどっちが好きだと思う?」

 と言いました。

 「どうしてですか、マハラジ。あなたは私たちを同じように愛してくれています」

 ジャーンキは穏やかに答えました。

 するとマハラジはこう言ったのです。

 「ナヒン(ちがう)!わしはドロパディのほうが好きだ!」

 当然のことながら、彼女はこの答えにとてもうろたえました。立ち上がって外に出ると、ヴリンダーバンの市場へ逃げ出したのです。いったい、どんなグルが選り好みなどするだろうか?しかし、市場をさまよっているあいだに、結局逃げ出すことなどできないと思いました。
 彼女は誰かのために何かいいことをしたくなり、真鍮でできた小さなハヌマーンの聖像を買い、寺院に戻って自分の部屋に置きました。

 するとすぐにマハラジにつかまりました。

 「どこへ行っていた?何をしていたんだね?何を買ったのだ?」

 彼女が小さな聖像のことを話すと、マハラジがもってくるように言います。聖像を渡すと、マハラジはしばらく手で触りながら見回し、それを、この私に渡すように言ったのです。

 最初からジャーンキがその聖像を私にくれるつもりだったのか、それともマハラジが手ほどきしたのかはわかりません。でも、その日、私が心の中で小さなハヌマーンの聖像が欲しいと思った直後に、その聖像はやってきたのでした。



 この中には、神の意志と、それに奉仕する人の姿があるように思う。

 神の意志、それは「私」に聖像が渡されるということ。
 ジャーンキは知らず知らずのうちに、それに奉仕した。
 マハラジの言動は、神の意志を成就させるためのものだった。 

 こんなことは人間には出来ない。
 神様はジャーンキが街で聖像を買うのを知っていたのだろう。


 人はみな知らず知らずのうちに、神様に奉仕している。

 知らないうちに誰かを助け、助けられている。 

 意図しないで、誰かを救ってしまえるところに、僕らの美しさの真髄がある。

 神をたたえないではいられない理由がある。



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未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | 2007/12/12 16:21

枯れ葉

 落ち葉の上を歩く感触は気持ちがよい。

 枯れ葉って、死んだ葉だから、言ってみれば死骸が累々と折り重なり横たわっているようなものだがそうは思えない。

 紅葉するのは色素が落ちていっている為なので、人間年をとると白髪になっていくのと同じようなメカニズムなのだろう。
 
 自然はいつも全力で生きている。
 このひとつひとつの葉を構成する、ひとつひとつの細胞も春や夏には光合成を行い、二酸化炭素を酸素へと変換してきたのだ。
 この一枚一枚の葉が全力で、全体生命の維持に貢献してきた。

 そして落ち葉となったものは、分解されて大地へと還ってゆき、落ち葉に宿っていた生気もそれがやってきたもともとの生気の海へ帰っていくのだろう。

 落ち葉は神へ帰って行こうとしている。
 
 もし生命を生かす生気の海のようなものがあるとするならば、冬場は帰ってきた生気で、海はにぎやかなのではないだろうか。

 冬場は生命が死ぬ季節であるが、それは生命が別の世界で誕生する季節なのかもしれない。

 年老いた人の白髪頭を、ただ単に老化と、色素の衰退と見ることもできるが、その「白さ」は天の光の色と見てとることも出来る。そのような見方は真理に近いと思う。

 それと同じように紅葉の装いも天に旅立つ前の身支度であり、別世界での誕生を祝う「冬の祭り」なのかもしれない。



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私的雑記 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2007/12/05 21:09

光/愛


 例えば、心霊学者等は言うわけよ。そもそも何とか霊界から出て来てね、そして死んだ後には、またそこに戻るというようなことをね。

 でもそれはね、本当の部分じゃないんだよ。人間の表面的な性格を形作っているある部分が、霊界へ行ったり現象界へ来たりするだけなんだ。
 いい?

 本当の俺達っていうのは光なんだ。だからどこから来てどこへ行くっていうことの答えは、光っていうことなんだ。
 それは来もしなければ、行くこともないんだ。
 いつでもいっぱなしなんだ。

 いい?

 そしてそれはさ、光と言う言葉より、もっと正確な形で言えば、光っていうのはシンボリックな言い方だからね。
 それはそのものずばりで言えば「愛」なんだ。

 人間は愛の中から来て、また愛の中へまた帰ってゆくんだ。
 しかも、愛の中から出て来ながら、その、一緒に愛といるんだ。

 愛が愛の中から出て来る。
 いい?
 君という愛の中から愛という子供が生まれるんだ。



 雨宮第慈 十三番目の瞑想



ダンテス・ダイジ | コメント(3) | トラックバック(0) | 2007/12/02 23:05
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