時のリアリティ
先日参加した浅川氏の講演会では、沖縄のノロ以外の話題にも触れられたが、その中で「時間の流れが速くなっている」というものもあった。
「最近年をとったから時間の流れが速くなってきたなと思う方がいらしゃるかもしれませんが、お年のせいじゃありません。アセンションに向かって実際に時間の流れが早くなっているんです。」
というようなことを話されていた。実際に体感として時間の経過が早く感じられると同時に、物事が現象化する速度がこれまでの何倍にもなっているそうだ。
時間の加速化のことを言っているのは浅川氏だけではなく、田村珠芳さんも言っていたし、エハン・デラヴィ氏というアセンション論者も言っている。
『時間の加速化』は誰が言い出したのか不明だが(あるいはみな漠然と感じている共通認識なのか)、おそらくマヤ暦で2012年12月22日が「時間が終わる日」とされていることなどと関係があるだろう。
時間が加速する、というのはどういうことなのだろうか。
人が時間を遅く感じたり、早く感じたりということのメカニズムはどうなっているのだろう?
一般的に速く流れる時間というのは、心地よい時と結びついているようである。
その逆に遅く流れる時間は、退屈な時、苦痛な時と結びつけ語られることが多い。
しかし、いつもそうとは限らない。
速く流れ去る時間、というのがある種の不毛な感覚と結びついている場合もある。
例えば『毎日同じルーチンをこなす仕事に従事していて、気がつけば一週間、一月、一年と
あっという間に過ぎ去っています』というような場合がそうだ。
この場合は暗に、自分の手のひらを「時間」がこぼれ落ちていくような虚無感がほのめかされている。
そして、そう語っていた人が長期の海外旅行に出た時、『時間』はまったく新たな色合いと密度を持ってその人の前に現われるだろう。見知らぬ風景や、予期しない出来事の連続が、その人の注意力を呼び覚ます。
例えば日本からインドにでも行って、最初の二三日は勝手もわからず様々な出来事に圧倒されホテルにたどり着いてひと心地つくと、とても2、3日前に日本を経ったとは思えないのではないだろうか。その場合、今までの日常よりも注意力が拡大されている為に、経過した時間は相対的に長く感じられるのだ。
さらに、突然の事故や、臨死体験時に体験される時間の拡大がある。
よく車に撥ね飛ばされた人が、すべてがスローモーションのように動き出した・・・というようなことを言うが、これも注意力の異常な覚醒と関係があるのだろう。
通常一秒間に僕らが拾う情報量が10か20だとすると、そのような非常時には覚醒した注意力が100も200も情報を拾う。と、するならば時間は遅く感じざるを得なくなる。
この種の『時間の拡大』は、一流のスポーツ選手が最高に集中して競技しているときにも起こりうる。
さて、このように見ていくと時間の主観的な感じ方には幾通りかのパターンがあることがわかる。
速い時間 (事を楽しんでいたり、集中していて気がつけば時間が過ぎていたと言う場合。
注意力が眠り込む事によって、新しい情報を拾うことが出来ず、結果として時間が速く感じる。これは「子供の一日」と「大人の一日」の時間の長さの違いでもある。現実社会は電車のダイヤからオフィスの休憩時間まで、すべてシステマティックに動いているが、システマティックなものは注意力を眠らせる傾向がある。これに対し「こどもの時間」はどちらかと言うとカオスの中にある。
遅い時間(事が苦痛な場合。嫌でたまらないことをしている場合、時間は進まない。これは、注意力が時計を見ているからである。物事を拒絶して時間の経過のみに意識を集中すると、逆に時計は進まなくなる。注意力が「進まない時」をつくりあげる。時間を速く進めるには、時間を忘れる必要がある。
注意力の覚醒により、瞬間が引き伸ばされる場合。この場合現象のあらゆる繊細な側面が知覚されるため、それに応じて時間も引き伸ばされて感じられる。
時のない、時^媼韻凌燭粒仞辰了には、時間は存在しないと感得されると言われる。そのポイントは「永遠の今」、あるいは「時間が空間になる」と表現される。真に存在するのはこの「永遠の今」のみであり、過去・現在・未来という観念を含む時の流れは、意識が作り出す幻影である。
このように見ていくと、時間の流れの感覚とは、人の意識と無関係ではあり得ない。
もし、時間が「速くなって」いるとするならば、それは私たちの意識が変質しているということではないだろうか??
速くなっている時間⇒集合的に、意識の覚醒度が上昇しているため、瞬間の密度が高くなっている。そのためあらゆる現象のスピードが高速化し、ある意味過激になっている。激しいカルマの噴出と、癒し・覚醒が同時に進行する。心理学で言うフローの状態になりやすい。過ぎ去る感覚は速いが、振り返ると一年の密度の濃さに驚く。
激しい変化の時。
しかし、「時間が終わる時」私達がたどり着くのは、「変化などなかった」という認識かもしれない。
「我々は普通、感覚が生じるのは我々の外部で起こった何らかの変化に気づく瞬間である、という。しかしその「変化」とは何か?ひょっとしたら実際には変化など起こっていないのかもしれない。もしかしたら、我々には運動や変化に見えるものは、実際には我々の外部に存在する何らかの物の静止した側面や角度であって、それについて我々は何も知らないのかもしれない。」p130 ターシャムオルガヌム
もしこのような時間のパラドックスを身を持って体験できるとすれば、本当にすごい時代だと言える。
「最近年をとったから時間の流れが速くなってきたなと思う方がいらしゃるかもしれませんが、お年のせいじゃありません。アセンションに向かって実際に時間の流れが早くなっているんです。」
というようなことを話されていた。実際に体感として時間の経過が早く感じられると同時に、物事が現象化する速度がこれまでの何倍にもなっているそうだ。
時間の加速化のことを言っているのは浅川氏だけではなく、田村珠芳さんも言っていたし、エハン・デラヴィ氏というアセンション論者も言っている。
『時間の加速化』は誰が言い出したのか不明だが(あるいはみな漠然と感じている共通認識なのか)、おそらくマヤ暦で2012年12月22日が「時間が終わる日」とされていることなどと関係があるだろう。
時間が加速する、というのはどういうことなのだろうか。
人が時間を遅く感じたり、早く感じたりということのメカニズムはどうなっているのだろう?
一般的に速く流れる時間というのは、心地よい時と結びついているようである。
その逆に遅く流れる時間は、退屈な時、苦痛な時と結びつけ語られることが多い。
しかし、いつもそうとは限らない。
速く流れ去る時間、というのがある種の不毛な感覚と結びついている場合もある。
例えば『毎日同じルーチンをこなす仕事に従事していて、気がつけば一週間、一月、一年と
あっという間に過ぎ去っています』というような場合がそうだ。
この場合は暗に、自分の手のひらを「時間」がこぼれ落ちていくような虚無感がほのめかされている。
そして、そう語っていた人が長期の海外旅行に出た時、『時間』はまったく新たな色合いと密度を持ってその人の前に現われるだろう。見知らぬ風景や、予期しない出来事の連続が、その人の注意力を呼び覚ます。
例えば日本からインドにでも行って、最初の二三日は勝手もわからず様々な出来事に圧倒されホテルにたどり着いてひと心地つくと、とても2、3日前に日本を経ったとは思えないのではないだろうか。その場合、今までの日常よりも注意力が拡大されている為に、経過した時間は相対的に長く感じられるのだ。
さらに、突然の事故や、臨死体験時に体験される時間の拡大がある。
よく車に撥ね飛ばされた人が、すべてがスローモーションのように動き出した・・・というようなことを言うが、これも注意力の異常な覚醒と関係があるのだろう。
通常一秒間に僕らが拾う情報量が10か20だとすると、そのような非常時には覚醒した注意力が100も200も情報を拾う。と、するならば時間は遅く感じざるを得なくなる。
この種の『時間の拡大』は、一流のスポーツ選手が最高に集中して競技しているときにも起こりうる。
さて、このように見ていくと時間の主観的な感じ方には幾通りかのパターンがあることがわかる。
速い時間 (事を楽しんでいたり、集中していて気がつけば時間が過ぎていたと言う場合。
注意力が眠り込む事によって、新しい情報を拾うことが出来ず、結果として時間が速く感じる。これは「子供の一日」と「大人の一日」の時間の長さの違いでもある。現実社会は電車のダイヤからオフィスの休憩時間まで、すべてシステマティックに動いているが、システマティックなものは注意力を眠らせる傾向がある。これに対し「こどもの時間」はどちらかと言うとカオスの中にある。
遅い時間(事が苦痛な場合。嫌でたまらないことをしている場合、時間は進まない。これは、注意力が時計を見ているからである。物事を拒絶して時間の経過のみに意識を集中すると、逆に時計は進まなくなる。注意力が「進まない時」をつくりあげる。時間を速く進めるには、時間を忘れる必要がある。
注意力の覚醒により、瞬間が引き伸ばされる場合。この場合現象のあらゆる繊細な側面が知覚されるため、それに応じて時間も引き伸ばされて感じられる。
時のない、時^媼韻凌燭粒仞辰了には、時間は存在しないと感得されると言われる。そのポイントは「永遠の今」、あるいは「時間が空間になる」と表現される。真に存在するのはこの「永遠の今」のみであり、過去・現在・未来という観念を含む時の流れは、意識が作り出す幻影である。
このように見ていくと、時間の流れの感覚とは、人の意識と無関係ではあり得ない。
もし、時間が「速くなって」いるとするならば、それは私たちの意識が変質しているということではないだろうか??
速くなっている時間⇒集合的に、意識の覚醒度が上昇しているため、瞬間の密度が高くなっている。そのためあらゆる現象のスピードが高速化し、ある意味過激になっている。激しいカルマの噴出と、癒し・覚醒が同時に進行する。心理学で言うフローの状態になりやすい。過ぎ去る感覚は速いが、振り返ると一年の密度の濃さに驚く。
激しい変化の時。
しかし、「時間が終わる時」私達がたどり着くのは、「変化などなかった」という認識かもしれない。
「我々は普通、感覚が生じるのは我々の外部で起こった何らかの変化に気づく瞬間である、という。しかしその「変化」とは何か?ひょっとしたら実際には変化など起こっていないのかもしれない。もしかしたら、我々には運動や変化に見えるものは、実際には我々の外部に存在する何らかの物の静止した側面や角度であって、それについて我々は何も知らないのかもしれない。」p130 ターシャムオルガヌム
もしこのような時間のパラドックスを身を持って体験できるとすれば、本当にすごい時代だと言える。
2月9日の修道会
約4ヶ月ぶりのI先生の修道会。
なぜそんなに間があいたのか。
それは単純にお金がなかったからだ!
でも今月は参加できる位の余裕をいただきました♪
冥想を始めると、いつものように顔が少し上を向く。
加えて額のあたりがぴくぴくする感じ。
終了後参加者の方の一人が「今日はお母さん系のエネルギーじゃないですか?」と言うと
I先生「よくわかったね、そうだよ」とのこと。
え、そうだったんすか?
私、あまり、わかりませぬ(;;
久しぶりで「おぉすごいな〜」とは思ったけど。
ただ、前日数珠を繰ってジャパしている時に、顔が壁に貼ってあるサラスヴァティーのポスターの方を向きたがるので、しばらく『お母さん』のことを考えていたのを思い出した。
エネルギーが頭頂部から抜けると、いわゆる「バキバキ」になるらしい。
額から抜けるパターンもあるそうだけど、う〜ん抜けてる気しません。
頭全体になんか力が入って締め付けられるみたい。
ヨガ教室ではないので、どうやったらエネルギーが頭頂から抜けるかとかそういうことは教えてもらえない。というか、自分ではどうにもならない。抜ける時には抜けるということ。
「あえて言えば、自分がコントロールされた思考をしているかどうか。なにかひとつのことについて瞑想的に考えているか、それとも何も考えていないかだね。」
わかる気がしない
「いやー最近どうしても自分がわかる(目覚める)気がしなくて、もう、チベット死者の書みたいに、自分が死ぬ時にしか弾けるチャンスはないのかと思います」と僕。
悟ったりしなくても、神様とともに穏やかに生きていけるというのはわかるのだが、じゃあ、全部委ねておまかせモードにもなりきれない自分である。
「それはちょっと、俺をみくびりすぎだぁー」とI先生。
ここに来ているんだから、必ずわかる、というのがいつもの先生の言葉だ。
悟りとか、覚醒ということに取り付かれすぎると、それはマーヤになって逆に悟れなくなるそうだが、それを欲望にするのではなく「目標」にする姿勢が大事だということ。
I先生も「わかる」までは超うたぐり深く、不信心だったなんてことを先生は言った。
「チャクラが開いて、それから覚醒するということはあるんじゃないかと思ってたよ。でもそれはおれの中で神と結びついてはいなかった。わかってから初めてそれは全部神がおこなっているということがわかったわけ」
「小学生の頃から死にたいな〜と思っていて、自殺する勇気はないから眠ってる間に死んでたらいいのにと思っていた」というのは今のI先生からは想像できない言葉だった。
修行中にも、何度もあきらめそうになったが、その度に霊能者のような不思議な人との出会いがあって、先生の使命を告げたそうだ。
インドにいる時に、あるサドゥーが「モンゴルの王よ!」と呼びかけた。
え?俺の事?みたいにI先生があたりをきょろきょろしてる間にそのサドゥーは消えてしまった。その後アシュラムで師に過去世の秘密を教えられた時に、チベットの僧で、のちにモンゴルの王様になった人物が先生の前世だと知ったという。(あの辺の歴史に詳しければすぐ誰のことかわかる人物)
その話しを聴いて、
そんなことがあっても、わかるまでは疑いがあったというから、やっぱり最後に疑いを解くのは神様なんだなと思った。
「だからね、M君がいつかわかるということを、俺はM君自身よりも信じている。
Tっちゃんがわかるということを、俺はTっちゃん自身よりも信じている。
Yさんがわかるということを、俺はYさん自身よりも信じている。
Mケルがわかるということを、俺はMケル自身よりも信じているよ。」
僕はこういうエピソードを聞くたびに、うわ〜この人はとんでもないな〜と思うのだが、4年近く話しを聴いてても、まだ底なしでこういう話しが眠っている気配がするのがすごい。半田広宣さんの話し・・・からだから金粉が・・・・インドではベッドから体が浮くとか・・・・
こういうエピソードを聴くたびにこんなにすごい人なんだから、信じてついて行けばいいに違いないと(良い?)マーヤにかけられる自分である。
お母さん系だったからか知らないが、
その後インナーチャイルドが激しく暴れ回って注意を引いた。
あー・・・これもなんとかしないと・・・・。
昔書いてたブログ。
昔書いてたブログで、すぐに放棄したやつを再発見した。
「Auroraを待ちながら 闇の足跡と、光のしっぽ」
サブタイトルまでつけたってのにすぐご愁傷様になってしまった。
こういう系で書いてたのか〜と思った。
なんか、最近昔の文章を読むと、昔の方が頭が働いてた気がする。
マニアックな人におすすめはこれ↓
宇宙的闇のアーキタイプ
村上春樹と、デイ・アフター・トゥモローを使って父なる神様について書こうとして、消化不良気味なもの↓
父なるもの
暇なら読んでください。
「Auroraを待ちながら 闇の足跡と、光のしっぽ」
サブタイトルまでつけたってのにすぐご愁傷様になってしまった。
こういう系で書いてたのか〜と思った。
なんか、最近昔の文章を読むと、昔の方が頭が働いてた気がする。
マニアックな人におすすめはこれ↓
宇宙的闇のアーキタイプ
村上春樹と、デイ・アフター・トゥモローを使って父なる神様について書こうとして、消化不良気味なもの↓
父なるもの
暇なら読んでください。





