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2009リト後記

 今回は時系列に沿わないで、印象的なことを断片的に書いてみます。

 ショールとシヴァ、リンガ、Vittel
 
 今回のリトリートに行く前、セッションの時にまとう新しいショールを買った。

 そしたらおまけでシヴァ神の小さなポスターが付いてきた。
 これがきれいだったので、前に置いて、ジャパをしたりしていた。

         090529_1034~01

 この神様の象徴であるリンガに見られるように、シバ神は垂直系の男性的エネルギーをあらわす。カバラではコクマー。山、ピラミッド、上昇、天へ続く階段。
 以前鞍馬で、ハイになってた時、頭の中に、大きな魚に乗って三またのほこを持った丸裸の神様のイメージが出てきた。そして天へ伸びる巨大な光るリンガが現れて気が変になりそうになったことがある。
 巨大な山は、上昇するエネルギー、火の力をはらんでいる巨大なリンガでもある。
  このシバ神の絵は枠自体がリンガの形になっているが、その内部にはマグマのような赤が充満している。

 リトリートでは、近くに活火山の磐梯山があった。
 ちなみに夜のセッションの時、I先生が叩いていたミネラルウォータのペットボトルはこれだった。
 上昇する気満々のデザインをしている(笑)

    090530_1147~01

 ギラギラとキラキラ、キース・ジャレットとクリムゾンコレクション
   
 リトリートの最終日、結構いい感じになったので、なにも質問は思い浮かばなかった。
 なので、『なんで先生は殺し屋に追っかけられたことがあるんですか?』と尋ねた。
 昔I先生がタイで暮らしていた頃、殺し屋に付けねらわれて街から街へ逃走したという経験があると前に聞いたことがあったからだった。
 その頃タイでは2500バーツ(だいたい一万円くらいw)でヒットマンを雇うことが出来たが、農村から仕事を求めて都会にやってきた男がやることが多かったので、ほとんど「ヒットしないマン」だけどね・・・とはI先生の言。家主から「昼間クーラーをつけるな」と言われていたのに、I先生がクーラーをつけたことがバレて殺し屋を派遣されたらしい(すごい話だw)。 その後街を点々としてなんとか無事日本に帰ってきたということだが、そのときI先生のお父さんは、異様にギラギラしてるので『怖くて息子の目が見れなかった』らしい。野性全開のような状態だったのだろうか。

 I先生の今の目はギラギラというか、どっちかというとキラキラしてる感じだと思うけど、その『ギラギラ』と言うのも見てみたいと思ったりした。 

 『あー結構普通な感じだよね。殺し屋の話くらいしか出なかったし』ということで最後のセッションが終わったので僕は若干申し訳ない気分になった。なんで最後に殺し屋のことなんか聞くんだ、俺!と(笑)しかし、自分の状態自体は結構頭痛がヘビーでいい感じだった。

 二日目の昼間、キース・ジャレットのCDを聞かせてもらってる時の話し。
 隣にわかっちゃったYさんという人も座ってて一緒に聴いていた。
 Yさん、I先生に

 「これって・・・・神様が降りてるとかそっち系ではないような気がするんですが・・・」

 「うん、でも、すごい意識を覚醒させるんだよ」とI先生。

 しばらく聴いて「どうですか?」とYさんに尋ねると「・・・廃人」と(笑)。

 「M君には、赤いランプでもつけてその下でキース・ジャレット聞いてほしいね」とI先生が僕に言った。

 どうも、キース・ジャレットの音楽は『疑似覚醒的』な作用をするのではないかと僕は想像した。それは言ってみればギラギラ系で、セッションの時に流れるクリムゾンコレクションなどはキラキラ系ではないかと。殺し屋に追われるとかそういうことで目がギラギラするのは、生存のために通常の思考を越えた感覚が研ぎ澄まされるからではないだろうか。

 キースジャレットの音楽は「日常的な目標志向や、固定概念をバラバラにする」という考えが浮かんだ。もう少しギラギラしたくなったので赤いランプはないが、ケルンコンサートのCDを買ってまた聴いてみることにした。でも僕の目がギラギラしてもあまり似合わないかもしれない(笑)



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修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2009/05/30 12:48

新しい朝

  昨日の記憶にも

  今日の予定にもこころが煩わされない

  新しい朝がある

  いつもどおりで いつもどおりでない

  神様の世界に包まれたような朝がある

  気づかずに通り過ぎてきたいくつもの朝もすべて 
  こんな光でいっぱいだったのかもしれない

  夜の間に見た夢の気配を 昨日からあった力が押し流して
  目を今に注がせる  

  壁に貼ったシバ神のポスター

  その周りの白い壁に映える光が美しい
  それしかないということが 幸せ
  
  オムナム シバヤー
神様 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2009/05/27 09:11

  春のリトリート終了~

  今回の会場は福島県猪苗代湖近くの貸別荘だった。
  部屋は相部屋5人、食事は出てこないので参加者で作るという形式(と言っても僕はお皿しか洗ってません。ごめんなさいw&ごちそうさまでした)

  食事中には、I先生がメロンやパイナップルのジューシーさをどのように全身全霊で味わうかと言うことを実演してくれてとてもためになった。こんなに間近でパイナップルをフォークで突き刺して、口に運び、目をきらきらさせている人を見る機会はおそらくほかにないであろう。(写真を撮らせてもらえばよかった)

 『人生を楽しむコツはつまんないことでも大げさに喜んでみることだよ』とI先生。

 一日目。
 近くの磐梯山の気配のするような、強烈な男性的神様エネルギーが。
 ちょっと気持ちが悪いほど、飛んでしまう。
 I先生はミネラルウォーターを明かりにかざしたりしながら、「本当によくできてるね。こんなに堪能してもらったら、このミネラルウォータも本望だろう」と言ったり、容器の底を手のひらでたたいて、「すごくいい音がするよね、やってごらん」とすすめて、「違う、そういう叩き方じゃないよ」と指導をされたりしていた(笑)

 「なにか質問がある人は・・・!いや、愚問だったかなw」

 このエネルギーの中で誰も質問しようと言う気にはならない。
 言葉を超えた現実。
 でも神様は、人に考えさせることも怠らない模様。

 二日目の夜は、マーヤ度が高く、マーヤ解きが始まる。
 今日起こった出来事、交わされた会話、などを振り返り、なにが理由でマーヤエネルギーがつよくなっているかを解いていく。

 『お母さんは厳しいからね、人に考えさせたり、努力したりさせるんだ』 

 そしてあることが原因ではないかという結論に至る。
 それを見つけるヒントは、いたるところに散りばめられていた。

 今回きちんとしたセッションは、夜に三時間あるだけで、あとは自由な時間が多かった。
 I先生はリビングのテーブルの前に座り、時々パイプに火をつけて煙を吐いていた。
 その周りに人が座ると、お話しが始まったりした。
 
 キース・ジャレットのケルンコンサートのCDを聴かせてもらい、キースジャレットの影響か、その場のエネルギーの影響かなんだかよくわからないディープな世界に入りそうになったりした。 
 「Lなんかやってキースジャレット聴いたら間違いなくバッドになるよ」

 

 他に部屋によくながれていたのは、リチャード・ストルツマンというクラリネット奏者のCD。
 「神様の方に超越する感じじゃないけど、すごく愛とか、全部が調和していくのを感じられる」とI先生。
 セッション中は、修道会でも流れるクリムゾンコレクションのマントラソングといつもいい音楽があふれていた。


 磐梯山のことをウィキで調べてみた。
 ●猪苗代湖の北にそびえる活火山(成層火山)で標高1,819m。元は『いわはしやま』と読み、『天に掛かる岩の梯子』を意味する。
 ●数万年前から山体崩壊を起こし、猪苗代湖を作ったことが分かっている。
 ●1888年(明治21年)7月15日の噴火時に小磐梯が山体崩壊をおこし、発生した岩屑なだれにより北麓の集落が埋没するなどの被害を及ぼし477人の死者を出す。また長瀬川とその支流がせき止められ、桧原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼をはじめ、大小さまざまな湖沼が形成された。
 ●磐梯山の南西麓にあった慧日寺(現在の恵日寺)は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきた。そもそも慧日寺の開基は大同元年(806年)に磐梯山が噴火した翌年のことであり、噴火と慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もある。

  今年は火のエネルギーが強く動き出している年のようで、太平洋で海底火山活動が続いたり、昨年末にはアメリカのイエローストーンが不穏な動きをしていたりということがあったが、リトに来てまた山=△=火の要素がシンクロしていることを感じたりもした。

 2月の記事  「火」の型?、伊勢と富士 

 後日また、詳細をアップするかもしれません。今日はぼけーっとします。



修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2009/05/25 12:15

豚第2ステージ(?)、岩戸、A・Hさんの話

 昨日書いた記事で、どうしょーかなーと思いましたが、一応アップします。
 若干、脳内世紀末系だったので、一晩寝かせました。
 



  メディア報道などによると、神戸、大阪などで海外渡航歴のない高校生などの間で新型インフル感染が拡大126人の感染が確定したという。さらに奈良では1000人近い生徒がインフルエンザ様の症状で学校を休んでいるという情報も伝えられた。

 専門家によると、他地域への拡大は時間の問題ではないかという。
 東京ではまだマスク姿の人はちらほらいるくらいだが、今後の展開しだいではいつ首都圏が神戸の街のようになっても不思議はないだろう。
 ただ、前の記事にも書いたが、今回のものについてはむしろ感染して抗体を持っておいたほうがましなのではないかと僕は思うので、いまさらマスクを買う気にはなれない。

 マスクを買う気にはなれないが、僕は今ヘルパー系の仕事をしているので、事業所のほうから大量にマスクを送ってきている。そして早くも(でもないか)手洗いや、うがい、顔を洗うことなどの徹底を求められた。

 今回のことについてはまったく心配してないし、恐怖感もない。

 問題は、今回のものが秋以降に強毒化してやってきた場合、あるいは鳥インフルと合体して強力になるという可能性もあるようなので、そのような時になにが起きるか(絶対にくるといえるものではないが)ということがだいたい今回の騒ぎを見ていればシミュレーション出来るということだ。

 まず間違いないのは、病院が使いものにならなくなるということ。
 すでに感染者全体を入院させることが困難なため、自宅療養を進めている。これが強毒性だったらいったいどう対応したのだろうか?

  さらに多少の水や食料の確保は、やはり秋口までにしておいたほうがいいのではないかと思ってしまう。一定の期間ひきこもり生活を出来るくらいには・・・。

 今後万一、強毒性のインフルエンザが世界のどこかで発症すれば、あらゆる航空便の停止が行われてもおかしくない。というのは、今回のことでいかに水際対策をしても確実に検疫をすり抜けて入ってくるということが周知の事実になった。その状況でさらにどこかで強力なウィルスが出現すれば、日本国内の被害は想定できない規模となる。それを防ぐためには大量の人間の行き来自体を規制するよりほかなくなるのではないだろうか。
 
 さらにこの騒ぎは政治的に利用される可能性がある・・・ということは、マドモアゼル愛さんがブログで書いていた。


   マドモアゼル愛のぶらりブログ

 新インフルはかかっても通常のインフルエンザよりも症状は軽いかせいざい同程度のものですので、通常のインフルエンザと同じ程度の対応で本質的にはよいのですが、これを政治的に、また経済的に、利用されやすい点に注意がいります。

とくに心配なのは、食糧です。
国際的な食糧不足が今年から顕著になるというのが私の考え。

 それは政策の失敗と関連するためインフルとすり替えが起こせる点、怖いものがあります。これから日本はいつ突然に食糧が不足してくるかわからない時代に入るでしょう。新インフルエンザのまん延を理由にすることも可能性だと知っておくことが大切。

 以前にも言ったように、備えあれば憂いなしで、ある程度の食糧は備蓄しておいた方がいい時代になりました。新インフルの脅威というよりも、新インフルをつかった食糧難隠し、金融崩壊隠し、大不況隠しが行われる可能性を忘れてはならず、そのための対策が必要ということです。私は個人的にはプーチン来日以降、こうしたことが急速に発展したことにおかしなものを感じていますが、まあ、錯覚だとしても、新インフルが政治的に利用される面はあるかもしれません。

 今回の金融崩壊は本物ですが、誰も責任を取りたくはありませんから、どうしても上位者は混乱を利用します。ですので、経済活動をなさる方はその点からも注意がいります。新たな投資や思惑は大体は失敗すると思うので、本当は何もしないでいるのがいいと個人的には思っています。

 新たな投資、とくに起死回生の投資などは危険な時代です。もう少し様子を見ましょう。注意深く守りに徹する時代です。
 とくに新インフルが低毒性で死者も出ていないうちから、関西ではイベントの中止が相次いでいます。これでは日本経済は確実にやられますね。今は儲けを考えるときではありません。それよりも英気を養いましょう。
(引用終わり)

 5月16日(土)に国内の感染者が発見されたが、これが急拡大したのが17日(日)。
 この17日というのは神戸の人にとってはおそらく忘れがたい日付け、95年1月17日の阪神淡路大震災と同じ日付でもある。
 
 そしてマイミクの方が5月17日、岩戸開くという記事を前に書いていたことを思い出した。
 岩戸は神(アマテラス)が閉じ込もった、岩屋の戸。
 神戸は、神の戸の街である。
 1+7=8 開く 「8のつく日に気つけるよう言っておくぞ」

 これらのことを総合して、僕は今回のことは浅間の噴火の時と同じように、「型」ではないかと考える。この出来事にパニックになったり、またまったく無視するのではなくサインとして「学ぶ」べきではないかと感じる。 
 
 6月の最初にA・Hさんという人の奈良太陽信仰めぐりツアーに行く予定になっていたが、それまでに関西圏でどれくらい広がっちゃうのか。あるいは、インフルウィルスは湿気と高温に弱いといわれているので梅雨に入ると同時に今回は終息していくのだろうか。

 A・Hさんのセミナーがあったのは4月19日だった。
 その日になぜか、感染症なども自分の光の力で防ぐことが出来ますなんていう話しが出ていて、その約一週間後にメキシコであれが始まったので、これも僕の中では微妙につながっている。

 あとわけがわからないのが流しに置いていた「イソジン」ではないが、ヨードのうがい薬が豚流行以後、消えたこと。せまい部屋なのにどこ探してもないの・・・。む・・・これは何かのサインに違いないと言うと、相方にはそれは「部屋をもっときれいにしろ」って言うサインだと言われてしまったが

 でも、ホントどこにもないんだもんな~~。




 しかし、こういう時こそ騒ぎを気にせず『瞑想』ですね
 もうちょと今後いろいろあると思うので、これしきのことはなるべく気にしないようにはしています。
 自分が遊園地のメリーゴーランドに乗っていると思っていて、いきなり宙返りし出したら、ビビりますが、最初からジェットコースターに乗ってるとわかっていたら、当たり前のことです。

  やれることはやって、あとは天にお任せで・・・。

 
アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2009/05/19 19:00

カスタネダ『沈黙の力』、詩と死

 カルロス・カスタネダのドン・ファンシリーズ『沈黙の力』を買ってみた。
  これは人類学者のカスタネダがヤキインディアンの呪術師ドン・ファンに教えられた体験をまとめたものだ。真贋論争なんかもあったりするようだが、多くの人がバイブルにしている古典だ。

  以前第一作『呪術師になる』を買ってはみたものの、文体のためか、なんなのか最後まで読めず放置しているが、大分前の修道会でカスタネダの本は良いという話がでて、また改めて読んでみたいと思ってからかなり時間がたってしまった。

 というのもいくら良いという話を聴いても、個人的には以前買ったカスタネダの本を読むという気分では全然なかったので、Amazonで注文する気にもならなかったのだが昨日たまたま大きな書店による用があってそのとき探してた本の近くにカスタネダのシリーズが並んでいた。

 何気なく手にとって読んでみると、思わず時間を忘れ引き込まれそうな濃いセンテンスがたくさんある。ドンファンは自分を呪術師と言っているが、その呪術師というのは、呪いをかけたり雨を降らしたりというレベルの一般的な呪術師のイメージとはまったく意味が違い、彼が語っているのは「絶対の世界」「神の次元」であることが明白だ。彼は神のことを『抽象』と言ったり『意志』と言ったり、ナワールと言ったりしている。

 そして人と『意志』を結びつける輪が存在しているのだが、その輪は日常的な心配事などによって曇っている。これを清めて『抽象』と結びつこうとうすることが「戦士の道」であるという。

 ドンファンは第一作では確か、様々な意識を変成させる植物の力を借りて、カスタネダのリアリティに衝撃を与えていく。その中にはペヨーテも含まれており、ペヨーテに宿る精霊はメスカリートと呼ばれる。実際、ペヨーテに含まれる向精神物質はメスカリンだ。僕は「メスカリート」に大変親近感と敬意を抱いている。

 以下、たまたま手に取った時、お~と思った箇所。




 「だから死の概念というのは、呪術師の生涯の中でも、とてつもなく重要なものなんだ。わしがお前に、死にまつわる数え切れないほど様々なものを見せてきたのも、わしらの目前に迫った避けることのできない最後を知ることが、じつは真の平静さをもたらすことだとお前に納得させるためだった。わしらがふつうの人間として犯すもっとも高くつくまちがいは、不死の感覚に埋没することだ。それは、もしも死について考えなければ、死から自分を守ることができると信じているようなものだ」

 「でもドン・ファン、死について何も考えなければ、たしかにそのことで思い煩ったりしなくてすむじゃないか。あんただって、それを認めないわけにはいかないだろう」

 「ああ、たしかにその目的には役立つ。だがな、そんな目的は普通の人間にとっても無価値だし、呪術師にとっては滑稽でしかない。死を澄み切った目で見つめることがなくては、秩序も平静も美もあり得ないんだ。呪術師はこの貴重な洞察を得るために奮闘し、それによってあたうかぎり深いレベルで、誰の人生であろうとそれが今を超えてずっとつづいていくという保証はないことを知る。この認識が呪術師に、忍耐強くしかも行動的であるための勇気、愚かであることなしに従順であるための勇気をもたらすんだ

 ドンファンは私の顔をじっと見つめた。そして微笑むと、首を振った。

 「そうとも。死の概念こそ、呪術師に勇気を与える唯一のものなのだ。おかしいだろう?それが呪術師に、うぬぼれぬきで狡猾であるための勇気を、そして何より傲慢にならずに非情であるための勇気を与えるなんて」

 彼はまたにっこりして、私を肘でつついた。私は彼に、自分の死のことを考えるとどうしょうもなく恐ろしくなってしまう、と打ち明けた。実際いつも死について考えてはいるが、だからと言ってけっして勇気が出たり、行動を起こす気にさせられたりしなかった。ただ冷笑的になり、どうしょうもなく憂鬱な気分に落ち込むだけだったのだ。

 「お前の問題は、ごく単純なものだ」彼は言った。

 「お前は妄想にとりつかれやすいんだ。ずっと言ってきただろう、呪術師が自らに忍び寄るのは、妄想の力を打ち破るためだと。自分に忍び寄る方法はたくさんある。死の概念を使いたくないのなら、おまえ自身に忍び寄るために詩を使えばいい、それをわしに読んできかせてな」

 「なんだって?」

 「前にも言ったように、わしはいろんな理由から詩が好きなんだ。わしの場合、詩を使って自分に忍び寄る。つまり自分自身に揺さぶりをかけるために、詩を使うのさ。お前が読み、わしが聞く、そうしてわしは自分の内部での対話をやめ、内なる沈黙にはずみを与えるんだ。すると、詩と沈黙とがたがいに結びつき、それが揺さぶりをもたらすのさ」

 彼の説明によれば、詩人は無意識のうちに、呪術師の世界に憧れを抱いているのだという。詩人は戦士の道を歩んではいないが、それだけよけい、彼らの手にしているものに憧れるのだ。

 「わしの話していることを実際にお前が感じ取れるかどうか、見てみよう」彼はホセ・ゴロスティサの手になる、一冊の詩集を手渡した。私がしおりのはさんであるところを開くと、彼は自分の好きな詩を指で示した。

 ・・・この飽くことを知らぬ、執拗な死が
 この生きながらの死が
 神よ、あなたを滅ぼしてゆく
 あなたの精妙きわまりない細工の中で
 バラの中で 石の中で
 不朽の星々のなかで
 そして歌に、夢に
 目を射る色彩に照らされる
 火のように
 燃え尽きたうつしみのなかで 

 ・・・そして神よ、あなたはその場所で
 無窮の時を、死につづけてきたのだろう
 われらが何も知らぬうちに
 あなたの灰、かけら、澱
 でもあなたはまだそこにいる
 自らの光に欺かれる星のように
 星なき光はわれらに達し
 限りなき破滅を
 われらから隠し続ける


 「こうした言葉を聞くと、わしはこの詩人が物事の本質を見ていると感じる。そうして彼とともに見ることができるんだ」私が読み終わるとドンファンは言った。
 「この詩が何についての詩であっても、それはどうでもいい。わしが唯一気にするのは、詩人の憧れがわしにもたらす感覚だ。わしは詩人の憧れを借用し、それとともに美をも盗み取る。しかも驚くべきことに、詩人はほんとう戦士と同じく、受け取るものには惜しみなくその美を与えるんだ、自分のためには憧れをとっておくだけでな。こうした揺さぶり、美のもたらす衝撃が、つまり忍び寄りなのさ」






 「死は敵ではない、たとえそう見えるとしてもな。死は人間が考えているような破壊者でないんだ。」

 「じゃ、いったいなんだい?」

 「呪術師に言わせれば、死は唯一、わしらが相手にする価値のあるものだ」彼は答えた。

 「死はわしらに挑みかかるのさ。普通の人間にしろ呪術にしろ、わしらはその挑戦を受けるように生まれついている。ただ呪術師はそのことを知っているが、ふつうの人間は知らないんだ」

 「ぼくにいわせると、死ではなく、生のほうが挑戦だと思うけどな」

 「生とは、死がわしらに挑みかかる際にその手段にするプロセスだよ。死は積極的な力だ。生命はいわばアリーナさ。そのアリーナの中にいる選手はいつでも、その当人と、死の二人だけなんだ

 「じゃあドン・ファン、ぼくは人間というものも挑戦者だと思うんだけど」

 「全然違うな」彼は答えた。
 「わしらは受動的なんだ。いいか、わしらがもし動いたとしても、それは死の圧迫を感じているからでしかない。死はわしらの行動や感情を調整し、わしらを打ち破り、勝負をものにするまで容赦なく押しまくるんだ。さもなくば、わしがあらゆる可能性を超えて上昇し、死を打ち負かすか、ふたつにひとつさ。呪術師が死を打ち負かすと、死は二度と再び挑みかかられることがないよう呪術師を解放して負けを認めるんだ。」

 「呪術師が不死になるということかい?」

 「いや、そうじゃない。死が彼らに挑みかかるのをやめる、ただそれだけだ

 「でも、それは、どういうことなんだい?」

 「思考が、想像を絶するものへとんぼ返りを打った、ということさ

 「何だい、その、想像を絶するものへの思考のとんぼ返りっていうのは?」

 「想像を絶するものへの思考のとんぼ返りというのは、精霊の来訪のことさ」彼は半ばあきらめたような口調で説明した。
 「つまり、わしらの知覚の障壁が破られることだ。その瞬間、人間の知覚は限界に達する。呪術師は斥候を送るという術を駆使して、そうした知覚の限界を探る。わしが詩を好きな理由はそこにある。詩を斥候として使うのさ。だが、以前にもいったように、詩人はこの斥候役が何をなしとげられるか、呪術師ほど正確に知ってはいないんだ」

(引用終わり)




 死(death)と、詩(poetry)についての話しだが、日本語ではどちらも同じ「シ」という音で発音される。
 ドンファンは、自分にショック(揺さぶり)を与えるために死(シ)の概念がダメなら、詩(シ)を使えと言ってることになりとても面白い。カスタネダの師(シ)であるドンファンが言ってるわけだシ(笑)

 死も、師も、詩も、意識にショックを与えうる存在だ。

 すこしこじつけぽくなってくるが、ドレミファソラシドの「シ」もオクターブの最後の音であり、ひとつの周期の終わりの音だと言える。

 この死というのは肉体の死に限らず、もっと深いレベルでの「死」であり、僕は死とはつまるところ「変化」であると理解している。そういう風に解釈して初めて、ドンファンの言っている意味が見えてくる。人間が恐れているのは死というよりも「変化」であると、僕は実感する。

 死(シ)はオクターブの最後にあるのではなく、レの音はドの死によって生まれ、ミの音はレの音の死によって生まれる、死とは、生の原動力である。

 そしてそれに対するのが「ものごとがなんとなくこのまま続いていくという妄想」ではないか。
 だから死=変化というのは、様々なレベルで存在し、『一期一会』という言葉も、たとえお互いの肉体は死ななくても、今のこの出会いは一度きりのかけがえのないものであるという直感的認識をベースにした四文字熟語だ。つまり深いレベルでの「死」を見据えた言葉であると思う。

 「変化」というのはある意味非情に気持ちが悪いものである。
 僕も人一倍馴染み深いものに執着する(=不死の感覚に埋没する)方ではないかと思う。
 が、たとえば、数年前ひとりきりでインドに行く前の日の夜自分の部屋で、そしてたったひとりでデリーの安いホテルのベッドに横たわって街の騒音を聞いていたようなときに感じたそこ深い孤独感と、「気持ち悪さ」
 
 インドで、ガイドブックにも乗っていない駅で降りてしまい、線路の向こうに夕日が沈もうとしてるのをみたときに感じた「気持ち悪さ」

 あるいは、意識に作用するドラッグを摂取して、なじみの現実感覚が遠のいて、まったく異質な現実が現れてきるときに感じたような「気持ち悪さ」。あれはなかなか言葉にしにくい。
 
 そしてこれらすべて小さな「死」との遭遇と言えるものだ。
 実際「変化」は僕らが認識していないだけで、いつも起こっている。しかし自分のエゴの中の何かが脅威にさらされるような時しか人は「死」と「変化」を感じはしない。

 人は普通、季節の変化に脅威を感じはしない。
 それは同じように巡り来て、来年もまたやってくる。毎年同じように春には花見のニュースが夏には海水浴の映像が、秋には紅葉がテレビで映し出される。時は巡りゆき、また帰ってくる。
 しかし、すべては同じものではない。
 なにか自分のエゴの成分が死のうとしている人は、季節の変化にも敏感に反応する。
 失恋やあるいは親しい人の死といったことでもかまわないが、その時に彼・彼女の目に映る季節の循環というのはまったく違った意味を持つ。
 紅葉が終わり、落ちようとしている葉は、まさに彼ら自身の生命となる。それはもう二度と戻らない何かの死なのだ。

  おそらく放浪の修行者(サドゥー)のような存在が存在したのも、常に「死」を、つまり「変化」を友として旅することが彼らの意識を常に目覚めさせておくために必要だったからだろう。
 旅が人を成長させると言われるのも、それが絶え間ない「一期一会」の連続であるからかもしれない。一期一会だからこそ人はそこに、美や秩序やを認識させる。人間お互いに思いやりをいだけないのもその大半は、相手や自分が死ぬことを忘れているという理由にあるのではないだろうか。「このままずっと・・・」が惰性による倦怠感や、不満を生むのである。
 繰り返すがこれは肉体の死だけではなく、『いつ相手がいなくいなるかもしれない』ということで、だからこそ『いまてくれてありがとう』という思いが生まれ得る。ずっと相手がいるに違いないというのは信頼でもあるが、惰性による傲慢でもあるかもしれない。

  つまりこれが『悪しき不死の感覚』であると僕は思う。

 グルジェフは、人が高次の印象を吸収するにはショックを与えなければならないと言っている。
 このショックに該当するものが「死の認識・知識」である。
 
 これは肉体死だけのものではなく、
 今住んでいる場所、今付き合っている人、今している仕事、今愛着を抱いてる考え・・・
 もっと大きく考えれば、この時代の価値観や システムや 国や ライフスタイル

 などすべてに当てはまることで、それらが「一度きり」のものであると知ること、それらが変化していくということを知ることが、死を知ることだ。ところがこの死をリアルに観想することは、人間がもっとも苦手なことのひとつではないかと思う。なかでも難しいのは「自分」というそのすべてを認識している存在が死ぬことを知ることだろう。

 しかし、人が優しくなれるのは、死を知っている時だけかもしれない。

 死によって 詩によって 師によって・・・

 シによって、人は シる。 




知覚、リアリティetc | コメント(4) | トラックバック(0) | 2009/05/14 21:30

アクエリアス・エイジのグル

 ダンテス・ダイジ 13番目の冥想 より

 『ああそれから、グルというものが、わりと今はやっているけど、グルの時代というのはもう終りなんだ。それは霊的に終りでね、グルの原型というのは、古代のタントラ教のね、つまりラマ教とかあるでしょ、あの中に起こったんだ。

 ところが、導師、グルっていうのはこういうことなんだ。例えばさ、俺を信じろ、俺に絶対的に帰依しろ。そうすればお前を救ってやる。お前が何十年かけたり、何百年かけたりしてさ、修行するものを、俺に全部帰依すれば、即座に教えると、こう言うわけだ、グルというのは。

 ところが、今の人間の霊的個性というのは、もうそういう次元にないんだ。つまり、全面的に帰依することによって救われるという個性をもってないんだ。誰も。

 それじゃあ、今の時代にはどういうのがあるかというとね。それは、例えば、魚座の時代ね、イエスキリストのいた時代、その時代にはね、まだグルというのが存在する時代だったわけ。実質的な意味でのグルね。そのグルって言うのに、全面的に従う事によって人は救われたんだ。ところが今の時代はそうじゃない。魚座の時代にはね、グルはさ、師として、父親のような厳しさとして、時には母親のような優しさとして、保護者としてあらわれたんだ。
 だけど、この水瓶座の時代にはね、グルというか、そういうものは、友として現われる。友達というのは何が出来るかというとね、絶対に強要しない。俺に従え、俺に全面的に帰依しろとか。時には迷わすようなことを平気で言う(笑)その代わり、彼自身が納得して一歩一歩進む事を願っている
。」

 渡辺「一人一人自覚して?」

 ダン「うん、そう、つまり魚座の時代ではさ、相手が納得しようがしまいが、とにかく救ってやろうとして、無理やりひきずりこむようなものなんだ。ちょうど、泉があるとするでしょ。そうすると、その泉に人を連れてゆくことができるわけさ。俺は泉の水を飲んだことがある。じゃあ皆を連れてゆく。連れる時点からさ、わざわざ手をとって、僕はまだ行きたくないんだというのを、無理やり連れて行ってさ、おまけに、その泉までついたらさ、無理やり僕飲みたくないというのを、ばか、飲め!こういう感じ(笑)これが魚座の時代のグルの姿なの。

 現代の、つまり水瓶座時代のグルの姿というのは、どういうのかというとね、さあ、あすこに、ここに、泉があるよ。それだけ。で、あと、彼自身がそこまで歩いて、彼自身が飲みたくなるのをただ見ているだけ。

 で、それはどうしてかというと、魚座の時代は愛の時代であり、水瓶座の時代は自由の時代だから。この愛と自由というのが、完全に調和したかたちで現われた時にね、僕たちは全く、今まで一度も人類史上経験した事のないようなすてきな時代を経験することができる


 (中略)

 渡辺「バグワン(和尚、バグワン・シュリ・ラジニーシ)と、ダイジは似てるのかな?」

 ダン「バグワンというのは、射手座の影響を受けていて、個性は似ている。ちょっと破れかぶれなところがある。周りでは、あれはきちがいか、インド的良風美俗、道徳観念を破壊するとんでもないやつだ(笑)、ていうところがあってね、向こうのバグワンのパンフレットではね、バグワンが、デッキチェアーかな、海辺にある椅子があるじゃない?あれに腰掛けて、サングラス妙ちきりんなのかけてね(笑)、アロハシャツみたいなの着て座ってるんだよ。「存在の詩」の写真はそれらしくきめてるけど(笑)」

 ジュニア「新しいの見た?」

 ダン「見ない。この人のは、はっきり言うとつまんなくて、俺には読めないんだ

 渡辺「つまんないというのは、わかりすぎるほどわかってるから?」

 ダン「うん。ただ、いい本だよ。それは自由というものを与えるから。人をね、縛るものじゃないってことなんだ

 ジュニア「面白かったのはね、シババンバというのは、善人だけど、ただのいい人で、何も導く力はないとかね、オーロヴィンドあいつは愚かだとか(笑)」

 ダン「オーロヴィンドというのは、最後にタゴールとか眼力のある人は、あれは精神がダメージを受けて廃人同様だと。だけどここで間違えないでくれよ。大切なのは、たとえ俺達が廃人になろうと、あるいはニルヴァーナの中にひたり切ろうとね、本当にじぶんらしかること。」





 ラマナ・マハリシとぼくのグルが二人とも、マハーサマディーを導いている・・・・心配ない・・・・・・ぼくは限りない至福のなかにある・・・・・そして内側からあなたを導くだろう・・・・

ラム・ダスに手紙を書いて、いい知らせを伝えてくれ ぼくはもはやサーダナをする必要がなくなったと・・・・ぼくはあそこにいる。

・・・・・愛、愛・・・・ぼくには何が起こっているか、わかっている それにグルが内側にいる・・・・ぼくは肉体を離れて、キリストと完全に一体化した・・・・キリストハボクトトモニイル カレハ ボクノココロノナカニイル・・・・グルトトモニ。


 LSDによりサマーディに至った(?)青年のラストメッセージ

 ラムダスが語るイエスと結ばれた青年の話


ダンテス・ダイジ | コメント(4) | トラックバック(0) | 2009/05/07 11:09

内なるグル

 『グル』と、自己(=真我)と、神は同じものだと言われる 

 『グル』は自己のうちにも存在している

 神に形がないように 『グル』にも形はない

 『グル』の人間である部分は 『グル』の本質ではない

 『グル』の人間的部分は 人と接するための方便でしかない

 肉体をまとった『グル』は 形なき『グル』の現われで

 肉体をまとった『グル』に会わせるのは 形なき『グル』の導きである

 『グル』の正体は あらゆる場所で 人を教え導く 実在 エネルギーだ

 つまり『グル』とは神である

 『グル』は僕の中にいる

 ホンモノのグル探しは意味がない

 それが実在となるのは、僕のうちをおいて他はない

 誰がホンモノで 誰がニセモノか 

 誰がすごくて 誰がすごくないか

 何もかもどうでもいい

 そんなことは 僕自身とは何の関係もない
 そんなことより 内なる真実を見つけたい
 
 『グル』は、今・ここにいる

 あらゆる聖者の名前を忘れている

 沈黙がそれを思い出させる


神様 | コメント(5) | トラックバック(0) | 2009/05/04 11:32
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