2009.
07.
29
女神の働きは今まで常に、裏側へ、裏側へ回って来たと言う。
その足跡は時に男性的な一神教の侵略によって、蹂躙され、変質化された形で教義の中に取り込まれることもあった。
というのは理性的なドグマに基づいた一神教は女神の持つ、ものごとを変化させる生命力を恐れたからであった。それゆえに女神は本能的な衝動すべての暗黒面を背負わされて、「リリス」となった。
中世期の暗黒時代に、魔女狩りで狩られた魔女たちの一部は、自然発生的な大地の女神の信仰者だった。一神教は、絶対的な自らの正当性を信じることをパワーとして、それ以外のあらゆる信仰を破壊するために世界各地に広がった。
そこには変化はなかった、ただ厳密に定められた神の予定表があり、自ら信じる信仰の勝利が約束されているだけだった。それにそむくすべてのものは敵であり、悪魔に他ならなかった。
女性は愚かであり、感情に振り回される生き物であると考える男性は、『理性』と『意志』を至上の価値として様々な戦いに明け暮れた。
しかしその男性たちも母の子宮から生まれ、彼女たちの愛情によって育まれるという現実があった。
戦いに疲れた男性も、自らより下位にある女性に甘えた。
『甘える』ということはつまり、敬意を伴わない崇拝の形だった。
自らが「養う」という社会的アドバンテージを維持した上で、自分が、彼女を支配しているのだ、可愛がっているのだという「ふり」をして彼らは彼女らに「甘えた」。
しかし女性の愛に気づいた男性は、女神に敬意を伴った崇拝を行った。
生む はぐくむ 理解する 愛する
それらすべての尊さに気づいた男性は、女神の隠れていた時代にも、彼女たちの真の姿を垣間見た。
女神は激しく自己を主張することなく、理解する用意のある人間だけにその姿を垣間見せてきた。
だから必然的にそれらの一部は「秘教」となった。
一神教の暴風雨が吹き荒れる時代でも、それはひそかに生き続けた。
なぜ女神はひそやかであったのか。
それは生命とつながっているのは自分であると、知っていたからではないだろうか。
声高く、叫ばずとも、すべては生命の中にあることを知り、それを見守ってきたからではないだろうか。
理性の特徴は言葉だが
女神の特徴は沈黙のうちにすべてを包むことにある
それは静かに流す涙であり
言葉の伴わない微笑だった
その沈黙が、彼女の性質を示している。
今男性は(女性自身も)、その「彼女」への敬意をはっきりさせることを、自らのうちの「彼女」をはっきりと知ることを、求められているように思う。
今も多くの女神がそのために動いていると言う。
その足跡は時に男性的な一神教の侵略によって、蹂躙され、変質化された形で教義の中に取り込まれることもあった。
というのは理性的なドグマに基づいた一神教は女神の持つ、ものごとを変化させる生命力を恐れたからであった。それゆえに女神は本能的な衝動すべての暗黒面を背負わされて、「リリス」となった。
中世期の暗黒時代に、魔女狩りで狩られた魔女たちの一部は、自然発生的な大地の女神の信仰者だった。一神教は、絶対的な自らの正当性を信じることをパワーとして、それ以外のあらゆる信仰を破壊するために世界各地に広がった。
そこには変化はなかった、ただ厳密に定められた神の予定表があり、自ら信じる信仰の勝利が約束されているだけだった。それにそむくすべてのものは敵であり、悪魔に他ならなかった。
女性は愚かであり、感情に振り回される生き物であると考える男性は、『理性』と『意志』を至上の価値として様々な戦いに明け暮れた。
しかしその男性たちも母の子宮から生まれ、彼女たちの愛情によって育まれるという現実があった。
戦いに疲れた男性も、自らより下位にある女性に甘えた。
『甘える』ということはつまり、敬意を伴わない崇拝の形だった。
自らが「養う」という社会的アドバンテージを維持した上で、自分が、彼女を支配しているのだ、可愛がっているのだという「ふり」をして彼らは彼女らに「甘えた」。
しかし女性の愛に気づいた男性は、女神に敬意を伴った崇拝を行った。
生む はぐくむ 理解する 愛する
それらすべての尊さに気づいた男性は、女神の隠れていた時代にも、彼女たちの真の姿を垣間見た。
女神は激しく自己を主張することなく、理解する用意のある人間だけにその姿を垣間見せてきた。
だから必然的にそれらの一部は「秘教」となった。
一神教の暴風雨が吹き荒れる時代でも、それはひそかに生き続けた。
なぜ女神はひそやかであったのか。
それは生命とつながっているのは自分であると、知っていたからではないだろうか。
声高く、叫ばずとも、すべては生命の中にあることを知り、それを見守ってきたからではないだろうか。
理性の特徴は言葉だが
女神の特徴は沈黙のうちにすべてを包むことにある
それは静かに流す涙であり
言葉の伴わない微笑だった
その沈黙が、彼女の性質を示している。
今男性は(女性自身も)、その「彼女」への敬意をはっきりさせることを、自らのうちの「彼女」をはっきりと知ることを、求められているように思う。
今も多くの女神がそのために動いていると言う。
2009.
07.
27
近くに浄土真宗のお寺があるが、このお寺は月に一回くらいの割合で墨で書いた言葉を門の脇に貼り付けている。
今月は『何が起こるかわからないのが世の中 何をしでかすかわからないのが自分』というものだった(笑)。
親鸞の悪人正機の教えに見られるように、浄土真宗は完全他力というか、阿弥陀の慈悲の前にすべてを投げ出してすがるというようなところがあるようだ。(そんなしっかり勉強したわけでないのであれですが)
親鸞も弟子に、『人を何人殺して来い』と言って、弟子が出来ません、と言うと、「それはお前がそういう人を殺す業をもっていないからだ。もし持っていたら殺そうと思わなくても気がついたら何千人も殺しているものだ」と言ったという。
そういう立場であるから、『自分』というものもその本質は業(=カルマ)の中で自分にはコントロール不能の流れの中で動かされているのだから、『何をしでかすかわからない』という言葉が出てくるのだろうと思う。
自分は善人である、あるいは自分はこういう人間であって、こういうことをする人間で、こういうことをする人間ではないという信念はあるきっかけによって簡単にひっくり返り得る。
自分は人を傷つけたりしない。いつも利用され傷つけられるほうだ(=善人)と思ってると、いつの間にか傷つける側に回ってる(=悪人)などということが往々にしてある。
しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし
この「悪人」というのは自分が何をしでかすかわからないと認識している人を言う。
キリスト教的に言えば、「自分は髪の毛一本黒くも白くも出来ない」と知っている、自己の無力さを知り抜いている人を言う。
「善人」は自分が善人だと認識している、自我(自己イメージの)の枠が固い人。その善人でさえいつかは成仏するのだから、自分がなにをしでかすかわからないと悟っている「悪人」が成仏しないわけがあるだろうか。
ということでこれは逆説的な言葉なので、普通の意味の、善人、悪人とは異なっている。
自己は無力であると言うと、「いやそんなことはない、人間には世界を変える力がある」という反論も出てくる。これはどのようなレベルで語るかの問題で、人間が善きほうに、光に向かおうとする努力は必要で、飲んだくれてああ、自分はアル中だ~ダメ人間だ~悪人だ~悪人だ~といってるのがよいと言うわけではない(たまにはいいかも笑)。
アッラーを信頼せよ、しかしその前にお前のらくだをくいにつなげ
と言う言葉があるが、らくだをくいにつなげるのは人間の努力だ。でも、くいをつないでも、くいがぼきんと折れるかもしれないし、急にらくだが暴れだして逃げてしまうかもしれないし、大地震が起こるかもしれない。そのことに対して人間は無力だから、努力をした上で神を信頼し、そして起こることは受け入れなさいとこの言葉は言っている。
最近、自分はこのちゃんとらくだをつないできたかな?と思うことが多く、それは自分で光のほうに向かう努力をしてきたかなと省みることが多かった。確かに自分なりの仕方で神さまを信じようとはしてきたが、自分が幸せになるために手を抜いていたと言う部分もあるような気がしてきた。
例えば、神さまのことを考えているのになんか気がめいるな~と、言うときもしかしたら、あまりにも部屋が汚いのかもしれない。そう言うときに、掃除をするという解答をちゃんと導き出せるかどうか。これはわかりやすすぎて現実味のない例だけど、自分が(他の人に対してもそうだが)心地よくいるために自分に出来る努力を惜しまないというようなことが大事なのではないかと思う。
部屋が汚い→掃除というのは、精神面にもあてはまることで、自分の中の何かがある現象を引き寄せているという事実に基づいて、自分を内観的に振り返ることや、また結構昔は小馬鹿にしていたようなポジティブな言動を心がけるということや、笑いを忘れないというようなことも大事なんじゃないかな~と感じるようになった。
ちょっとI先生の言う「神の御心」というのを曲解していたかな?と思う。
まあ、実際に理解してない限り曲解する以外ないのかもしれないが、「みこころ」の中にはこういう人間側の努力ももちろん含まれているということだ。
だからある意味「あなたの自由意志があなたの人生を決定している」という教えも、またそれでその人がよい方向へ行くのならまったく問題はないのだろう。
もし「神の意志」というものが念頭にあれば、自分の言葉や内面を浄化しようという教えを神様からいただいたものとして感謝して受け取れるのではないだろうか。
なんだかずいぶん親鸞の話しからずれてきたが、親鸞と弟子の会話でとても味わい深いものがある。
弟子の唯円が親鸞に、
「念仏しても歓喜は湧いて来ず、死ぬのはいやで、早く浄土へ参りたいとも思わないのはどうしたことでしょうか?」と問う。それに対して親鸞は弟子の未熟さを叱責することもなく、「私もそうである」と言う。
「果てしない過去から、生まれては死に、死んでは生まれるということを繰り返している苦悩の世界に深い愛着を覚えて、その苦悩の世界こそ捨てがたい。
また生まれたことのない、悟りの世界のことはどんなにやすらぎに満ちたところであろうかと思えても、ちっとも恋しくない。これはまことに煩悩が盛んであるからである」
「だが、どれほど名残惜しく思っても、この世の縁が尽きれば、力なくして、終わりを迎える。
そのときこそ、悟りの世界へ行くことになるだろう。
いそいで悟りの世界へ行きたいとは思わないものを、特にあわれんで、救ってくださるのが阿弥陀の慈悲(宇宙の無限のはたらき)である。だから、これにつけてもいよいよ阿弥陀の慈悲をたのもしく感じていいのだ。そして悟りの世界に行けることはすでに決定していると思っていいのだ」
なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。
神さまのことを勉強しだして、少したち、『自分は別に悟りたくないんじゃないか』と思うことがよくあった。というのも悟りというものが自分が認識していない以上、その悟りたいと思う『悟り』というのは僕の頭が勝手に思い描いた何かでしかない。し、多分それは現実の『悟り』とはまったく違う。
と、すれば、その自分のまったく知らないものをどうして『欲しい』と言えるのかということだ。
瞑想していて、自分とか現実がよくわからない不可解なものに見えて、もう普通の感覚にはやく戻りたいとテレビをつけて見入ったこともあった。その不安感や恐怖感もまた「悟り」とは無関係で、ただ僕のこころのボーダーライン上にある何かなのかもしれない。でもそれはこの自分にしがみつく力の現れであるようにも思えた。
そんなときには、そんな自分が自分以外の何かであるなんて知りたくもないと思った。
この瞑想は正しいんだろうか?ただの昔の恐怖のフラッシュバックなのだろうか?気が狂いかけているのだろうか?それとも越えようとしているのだろうか?
という混乱で瞑想をやめてしまったことが何回かあった。。。
何かが強烈に怖い。なにかよくわからないのだが。
そんな自分だけど、I先生のところに行き続けたのは、多分「神」というのがあったからだろうと思う。
「悟り」ではなく「神」、それを信じること、感じること。
その「神」から日々たくさんの気付きを与えられていること。
時にはエネルギーとして、根源にある愛や、知恵を予感させてくれること。
それらのことは「悟り」とはまた別だとしても、とても自分にとって大切なことだ。
そららのことがあったから神さまが生活の中に入ってきて、定着するようになったと思う。
これからもずっと、神さまを思い続けていたい。
そして親鸞の言葉を読むと、「悟りたいとも思えない」唯円と同じ僕も、神さまに少しづつ引っ張ってもらっているのかなと思うのだった。そして少し安心する。安心て・・・悟りたくないんならおかしな話だが。
悟りたいのか、悟りたくないのかさえももよくわからない、変なものだなと思う。
悟りたくないのに、悟らせて欲しいなんて。
今月は『何が起こるかわからないのが世の中 何をしでかすかわからないのが自分』というものだった(笑)。
親鸞の悪人正機の教えに見られるように、浄土真宗は完全他力というか、阿弥陀の慈悲の前にすべてを投げ出してすがるというようなところがあるようだ。(そんなしっかり勉強したわけでないのであれですが)
親鸞も弟子に、『人を何人殺して来い』と言って、弟子が出来ません、と言うと、「それはお前がそういう人を殺す業をもっていないからだ。もし持っていたら殺そうと思わなくても気がついたら何千人も殺しているものだ」と言ったという。
そういう立場であるから、『自分』というものもその本質は業(=カルマ)の中で自分にはコントロール不能の流れの中で動かされているのだから、『何をしでかすかわからない』という言葉が出てくるのだろうと思う。
自分は善人である、あるいは自分はこういう人間であって、こういうことをする人間で、こういうことをする人間ではないという信念はあるきっかけによって簡単にひっくり返り得る。
自分は人を傷つけたりしない。いつも利用され傷つけられるほうだ(=善人)と思ってると、いつの間にか傷つける側に回ってる(=悪人)などということが往々にしてある。
しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし
この「悪人」というのは自分が何をしでかすかわからないと認識している人を言う。
キリスト教的に言えば、「自分は髪の毛一本黒くも白くも出来ない」と知っている、自己の無力さを知り抜いている人を言う。
「善人」は自分が善人だと認識している、自我(自己イメージの)の枠が固い人。その善人でさえいつかは成仏するのだから、自分がなにをしでかすかわからないと悟っている「悪人」が成仏しないわけがあるだろうか。
ということでこれは逆説的な言葉なので、普通の意味の、善人、悪人とは異なっている。
自己は無力であると言うと、「いやそんなことはない、人間には世界を変える力がある」という反論も出てくる。これはどのようなレベルで語るかの問題で、人間が善きほうに、光に向かおうとする努力は必要で、飲んだくれてああ、自分はアル中だ~ダメ人間だ~悪人だ~悪人だ~といってるのがよいと言うわけではない(たまにはいいかも笑)。
アッラーを信頼せよ、しかしその前にお前のらくだをくいにつなげ
と言う言葉があるが、らくだをくいにつなげるのは人間の努力だ。でも、くいをつないでも、くいがぼきんと折れるかもしれないし、急にらくだが暴れだして逃げてしまうかもしれないし、大地震が起こるかもしれない。そのことに対して人間は無力だから、努力をした上で神を信頼し、そして起こることは受け入れなさいとこの言葉は言っている。
最近、自分はこのちゃんとらくだをつないできたかな?と思うことが多く、それは自分で光のほうに向かう努力をしてきたかなと省みることが多かった。確かに自分なりの仕方で神さまを信じようとはしてきたが、自分が幸せになるために手を抜いていたと言う部分もあるような気がしてきた。
例えば、神さまのことを考えているのになんか気がめいるな~と、言うときもしかしたら、あまりにも部屋が汚いのかもしれない。そう言うときに、掃除をするという解答をちゃんと導き出せるかどうか。これはわかりやすすぎて現実味のない例だけど、自分が(他の人に対してもそうだが)心地よくいるために自分に出来る努力を惜しまないというようなことが大事なのではないかと思う。
部屋が汚い→掃除というのは、精神面にもあてはまることで、自分の中の何かがある現象を引き寄せているという事実に基づいて、自分を内観的に振り返ることや、また結構昔は小馬鹿にしていたようなポジティブな言動を心がけるということや、笑いを忘れないというようなことも大事なんじゃないかな~と感じるようになった。
ちょっとI先生の言う「神の御心」というのを曲解していたかな?と思う。
まあ、実際に理解してない限り曲解する以外ないのかもしれないが、「みこころ」の中にはこういう人間側の努力ももちろん含まれているということだ。
だからある意味「あなたの自由意志があなたの人生を決定している」という教えも、またそれでその人がよい方向へ行くのならまったく問題はないのだろう。
もし「神の意志」というものが念頭にあれば、自分の言葉や内面を浄化しようという教えを神様からいただいたものとして感謝して受け取れるのではないだろうか。
なんだかずいぶん親鸞の話しからずれてきたが、親鸞と弟子の会話でとても味わい深いものがある。
弟子の唯円が親鸞に、
「念仏しても歓喜は湧いて来ず、死ぬのはいやで、早く浄土へ参りたいとも思わないのはどうしたことでしょうか?」と問う。それに対して親鸞は弟子の未熟さを叱責することもなく、「私もそうである」と言う。
「果てしない過去から、生まれては死に、死んでは生まれるということを繰り返している苦悩の世界に深い愛着を覚えて、その苦悩の世界こそ捨てがたい。
また生まれたことのない、悟りの世界のことはどんなにやすらぎに満ちたところであろうかと思えても、ちっとも恋しくない。これはまことに煩悩が盛んであるからである」
「だが、どれほど名残惜しく思っても、この世の縁が尽きれば、力なくして、終わりを迎える。
そのときこそ、悟りの世界へ行くことになるだろう。
いそいで悟りの世界へ行きたいとは思わないものを、特にあわれんで、救ってくださるのが阿弥陀の慈悲(宇宙の無限のはたらき)である。だから、これにつけてもいよいよ阿弥陀の慈悲をたのもしく感じていいのだ。そして悟りの世界に行けることはすでに決定していると思っていいのだ」
なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。
神さまのことを勉強しだして、少したち、『自分は別に悟りたくないんじゃないか』と思うことがよくあった。というのも悟りというものが自分が認識していない以上、その悟りたいと思う『悟り』というのは僕の頭が勝手に思い描いた何かでしかない。し、多分それは現実の『悟り』とはまったく違う。
と、すれば、その自分のまったく知らないものをどうして『欲しい』と言えるのかということだ。
瞑想していて、自分とか現実がよくわからない不可解なものに見えて、もう普通の感覚にはやく戻りたいとテレビをつけて見入ったこともあった。その不安感や恐怖感もまた「悟り」とは無関係で、ただ僕のこころのボーダーライン上にある何かなのかもしれない。でもそれはこの自分にしがみつく力の現れであるようにも思えた。
そんなときには、そんな自分が自分以外の何かであるなんて知りたくもないと思った。
この瞑想は正しいんだろうか?ただの昔の恐怖のフラッシュバックなのだろうか?気が狂いかけているのだろうか?それとも越えようとしているのだろうか?
という混乱で瞑想をやめてしまったことが何回かあった。。。
何かが強烈に怖い。なにかよくわからないのだが。
そんな自分だけど、I先生のところに行き続けたのは、多分「神」というのがあったからだろうと思う。
「悟り」ではなく「神」、それを信じること、感じること。
その「神」から日々たくさんの気付きを与えられていること。
時にはエネルギーとして、根源にある愛や、知恵を予感させてくれること。
それらのことは「悟り」とはまた別だとしても、とても自分にとって大切なことだ。
そららのことがあったから神さまが生活の中に入ってきて、定着するようになったと思う。
これからもずっと、神さまを思い続けていたい。
そして親鸞の言葉を読むと、「悟りたいとも思えない」唯円と同じ僕も、神さまに少しづつ引っ張ってもらっているのかなと思うのだった。そして少し安心する。安心て・・・悟りたくないんならおかしな話だが。
悟りたいのか、悟りたくないのかさえももよくわからない、変なものだなと思う。
悟りたくないのに、悟らせて欲しいなんて。
2009.
07.
26
7/25 なぜ今夜はいつもより多幸感が強いのだろうかと・・・。
クリアさと多幸感。ママ系のエネルギーがあったのか。でも、なんで?
昼間に久しぶりに、『みこころのままに』という祈りをしたからなのか、お世話になった歯医者さんにお土産にケーキを買っていったからか・・・と原因探し。
ラーマクリシュナの真似をして「あなたへの愛をもっとお与えください」と祈ると、さらに強く。
いつもこういう感じなら何もしなくても充実していると思うのだが。
朝の4時半頃に目が覚めて、そのまま眠れないので、思い切って起きて、公園へ。
まだ日が昇って一日が動き出す前の時間は、意識も通常の回転を始めていない感じで、風景が新鮮。この夜明け前の時間帯、3グナの発想ではサットヴァ(昼間はラジャス、夜間はタマス)にあたると言うけど、 天地の運行と自分がしっかりリンクしてると感じられる時間。
夜明け前の時間は、人の社会的運動や、日常の活動が始まる前の、『それ以前』をはっきり捉えるために昔の人たちは早起きして沐浴したりしたのではないかとふと思う。
ダンテス・ダイジは『天地の始まる前に愛がある』と歌ったけど、人の日常の意識が始まる前には、静かな天地がある。それを感じられる時間がある。
このようなワンクッション的な時間を感じずに、目が覚めるとすぐにテレビのニュースを見ると言う感じだと、夢の中から直で人間の社会意識に接続され、安らげる時がない。
この時間を味わえることが早起きの効用、三文の得かも。
日が昇り始めた野原で、母親に教えてもらった仙道の奥義(?)を試してみた。
太陽のプラーナを吸収する。うろ覚えだったので、とりあえず丹田に落としてみた。
目が覚めて、充実感。
家に帰ってもまだ6時になっていなかったが、そのまま朝食の用意をしつつ、タバコを一本。
いやーしかし、この長い午前中を何に使えばいいのか。
ネットを立ち上げて、一通り巡回し、昨日買って半分読んでた本を最後まで読むが、時計を見ると
えーとまだ七時半だ(笑)ぼけ~っ
そうこうしてる内に、さすがにうとうとしてきて、夜から仕事だし少し眠る。
目が覚めると、10時。
いつものサイクルぐじゃぐじゃ。でも一回生活パターンを壊してみると、いろいろ気づくことがあって面白い。
クリアさと多幸感。ママ系のエネルギーがあったのか。でも、なんで?
昼間に久しぶりに、『みこころのままに』という祈りをしたからなのか、お世話になった歯医者さんにお土産にケーキを買っていったからか・・・と原因探し。
ラーマクリシュナの真似をして「あなたへの愛をもっとお与えください」と祈ると、さらに強く。
いつもこういう感じなら何もしなくても充実していると思うのだが。
朝の4時半頃に目が覚めて、そのまま眠れないので、思い切って起きて、公園へ。
まだ日が昇って一日が動き出す前の時間は、意識も通常の回転を始めていない感じで、風景が新鮮。この夜明け前の時間帯、3グナの発想ではサットヴァ(昼間はラジャス、夜間はタマス)にあたると言うけど、 天地の運行と自分がしっかりリンクしてると感じられる時間。
夜明け前の時間は、人の社会的運動や、日常の活動が始まる前の、『それ以前』をはっきり捉えるために昔の人たちは早起きして沐浴したりしたのではないかとふと思う。
ダンテス・ダイジは『天地の始まる前に愛がある』と歌ったけど、人の日常の意識が始まる前には、静かな天地がある。それを感じられる時間がある。
このようなワンクッション的な時間を感じずに、目が覚めるとすぐにテレビのニュースを見ると言う感じだと、夢の中から直で人間の社会意識に接続され、安らげる時がない。
この時間を味わえることが早起きの効用、三文の得かも。
日が昇り始めた野原で、母親に教えてもらった仙道の奥義(?)を試してみた。
太陽のプラーナを吸収する。うろ覚えだったので、とりあえず丹田に落としてみた。
目が覚めて、充実感。
家に帰ってもまだ6時になっていなかったが、そのまま朝食の用意をしつつ、タバコを一本。
いやーしかし、この長い午前中を何に使えばいいのか。
ネットを立ち上げて、一通り巡回し、昨日買って半分読んでた本を最後まで読むが、時計を見ると
えーとまだ七時半だ(笑)ぼけ~っ

そうこうしてる内に、さすがにうとうとしてきて、夜から仕事だし少し眠る。
目が覚めると、10時。
いつものサイクルぐじゃぐじゃ。でも一回生活パターンを壊してみると、いろいろ気づくことがあって面白い。
2009.
07.
21
何十年に一度の稀な現象であると同時に、占星術上の一大イベントでもある皆既日食が明日に迫った。
以下マドモアゼル愛さんのぶらりブログより
占星術の歴史から考えると、占星術師の仕事で最も大切なことが、この日食を予知し、その影響から王権を守り抜くことにあったと言ってもよい。
今季はしかも皆既日食。何も起こらないと思うほうが間違っているぐらいの重要な星の配置である。ただし、その日に何かが、、、というものではないというのは、先にも述べた通り。
月、すなわち民衆や民意が、太陽、すなわち、現在の権威、権力を覆い隠す、、が正しい基本解釈となる。これを具体的にあてはめると。日本では、権威の中枢に君臨していた自民党の下野。都議選、さらに8月30日の衆議院選挙の予想される結果を思うと、その通りであり、まさに、本当にそうなっているではないか。
占星術はこのように非常に優れた面があるのだ。
海外では、皆既日食は見られないものの、その意味あいから逃げられるものではない。
今回の日食は、アメリカの衰退、解体、を暗示していると言ってもいいと思う。
世界に君臨したアメリカを太陽とするなら、民意がそれを覆い隠す。すなわちアメリカではアメリカ国民、さらに広く解釈するなら、アメリカにしいたげられていた月、すなわち弱い立場だった海外の国々、人々による転覆の成功。
アメリカでは今後、半年から数年にわたって国内暴動や海外からの叱責があることがうかがえる。
この日蝕は日本や、中国で観測されるのでその影響もこれらの国々で大きいと言う。
明日は天気予報雨だから見れないかな~・・・夜にテレビでトカラ列島の映像が見れるみたいだけど。
日蝕とは関係ないかもだけど、19日に日曜日、夕方部屋で瞑想していると外が明るい光で満ちている。外に出てみると、西の空はまたすごい夕暮れ!若干気持ちが悪いくらいの色と雲の形だった。


東を振り返ると、虹が・・・!それもよく見かける部分的な虹ではなく半円状のレインボーブリッジが東のそらを覆うようにかかっていて思わず「うわっ」と声を出してしまった。 こんな虹を見たのははじめてかも。携帯では残念ながら全部撮れなかった。雨あがりってわけじゃないんだけど。

全部消えてしまうまで突っ立って見ていた。
こういう感じで見えたのだが、(上のほうは少しかけてたけど)

http://nisseien.exblog.jp/より
以下マドモアゼル愛さんのぶらりブログより
占星術の歴史から考えると、占星術師の仕事で最も大切なことが、この日食を予知し、その影響から王権を守り抜くことにあったと言ってもよい。
今季はしかも皆既日食。何も起こらないと思うほうが間違っているぐらいの重要な星の配置である。ただし、その日に何かが、、、というものではないというのは、先にも述べた通り。
月、すなわち民衆や民意が、太陽、すなわち、現在の権威、権力を覆い隠す、、が正しい基本解釈となる。これを具体的にあてはめると。日本では、権威の中枢に君臨していた自民党の下野。都議選、さらに8月30日の衆議院選挙の予想される結果を思うと、その通りであり、まさに、本当にそうなっているではないか。
占星術はこのように非常に優れた面があるのだ。
海外では、皆既日食は見られないものの、その意味あいから逃げられるものではない。
今回の日食は、アメリカの衰退、解体、を暗示していると言ってもいいと思う。
世界に君臨したアメリカを太陽とするなら、民意がそれを覆い隠す。すなわちアメリカではアメリカ国民、さらに広く解釈するなら、アメリカにしいたげられていた月、すなわち弱い立場だった海外の国々、人々による転覆の成功。
アメリカでは今後、半年から数年にわたって国内暴動や海外からの叱責があることがうかがえる。
この日蝕は日本や、中国で観測されるのでその影響もこれらの国々で大きいと言う。
明日は天気予報雨だから見れないかな~・・・夜にテレビでトカラ列島の映像が見れるみたいだけど。
日蝕とは関係ないかもだけど、19日に日曜日、夕方部屋で瞑想していると外が明るい光で満ちている。外に出てみると、西の空はまたすごい夕暮れ!若干気持ちが悪いくらいの色と雲の形だった。


東を振り返ると、虹が・・・!それもよく見かける部分的な虹ではなく半円状のレインボーブリッジが東のそらを覆うようにかかっていて思わず「うわっ」と声を出してしまった。 こんな虹を見たのははじめてかも。携帯では残念ながら全部撮れなかった。雨あがりってわけじゃないんだけど。

全部消えてしまうまで突っ立って見ていた。
こういう感じで見えたのだが、(上のほうは少しかけてたけど)


2009.
07.
17
昨日、山田孝男さんという瞑想家の『マジカルチャイルドの記憶』という自伝的な著作を読み直した。これは絶版中の本だが昨年、中野の古書大予言で入手することが出来た。山田孝男さんの文章は読んでいて、なにか気持ちがよいというか、本当に自分の体験に基づいて書いているな~というのがすごく伝わってきて好きだ。
『マジカルチャイルドの記憶』には、21才の年に自然発生的な神秘体験をしたこと、ズブドという行方との出会いや、インドでのLSD体験、リシケシのヨーガ・ニケタン道場での滞在のことなどが書かれている。
2003年に亡くなられたのだが、2004年のスターピープル誌に山田孝男さんがアセンションについて語っている記事があったので、ご紹介。1998年の講演ということだが、今になっても大変参考になる言葉ではないだろうか。
スターピープル誌VOL12 瞑想家山田孝男の遺産 アセンションと悟り より抜粋
深刻な悩みから一瞬で解放された体験
僕が会社を一年でやめて、大学を目指して浪人生活を送っていた21歳のことです。札幌の郊外で予備校に通っていたのですが、自分の方向も見失って悩みの中に落ち込んでいったことがありました。「自分はなんてダメなんだろう」「なんて不幸なんだろう」という堂々巡りにはまって、建設的な思いも起きなくなっていた。幽霊のような惰性の生活の数ヶ月のうち、何日間か最低に落ち込んだときがありましたが、あまりにも元気がなくて自殺するエネルギーもないんです。
でもそのうちに「何とかこれを立て直そう」という気持ちが湧いてきて、夜、一人で部屋に座って瞑想しました。その時、悩んでいる自分にしがみつくエネルギーがなくなってしまったので、自分を全部捨ててしまったんです。
すると不思議なことに、エネルギーの脈動が足のほうから昇ってきて、急に生気を取り戻して周りの物音や景色が意識の中に飛び込んできたんです。それまでは自分のことだけに集中して、まわりのことは全然意識していなかったのが、その時部屋の存在感が変わってきた。周りのものすべてに親しみが湧いてきて、部屋の外にある大地や、草の存在までもが感じられてきたんです。
そのようにして、どん底の状態から一瞬にして、悩みも何も自分の作っていた妄想が跡形もなく消えていった体験があります。
また会社にいた20歳の頃ですが、あまりにも忙しくて仕事する意味も生きがいも感じられなくなって、疲れても辞めるに辞められない状態が一ヶ月くらい続いたことがありました。なんとか仕事の予定を片付けて帰る途中、田んぼの稲穂がキラキラと輝いていたんです。ふっと「もう秋だな」と感じられたその思いが引き金となって、急に体が軽くなったんですね。田んぼ全体が黄金色に輝いて見え、小鳥のさえずりが楽しく聞こえて、その声が喜びを表現していることがわかってきた。
その体験によって、意識の中から会社の問題もすべて消えてしまった。すると次の日、仕事上の強力な助っ人が現れて、大変な仕事も二週間くらいで解決しました。
問題と言うのはすべて意識の中にあるのです。意識の中から問題がなくなると、現実も動いていくのです。
世界に対する本当の貢献とは
このように悩んで動けなくなった人には、いろいろな教え方がありますが、要するに真実の意識、本来の自分に気づけばそれでいいんです。世の中は、集合意識のカルマ、人類全体のカルマ、世界のカルマにしたがって物事が進んでいきますから、何も心配することはないんです。目の前に与えられたこと、今できることをしていればいいのです。今することを精一杯していない人が悩むんですね。
「本当にいますることは悩むことしかない」と思った人は、精一杯悩めばいいんです。そうすると悩みは消えていきます。まず自分の頭のハエを追い払っていけばいい。それができないのに、隣のテーブルのハエを気にしても仕方がないのです。自分のことをしっかりやって、余裕があったら世界のこともやりなさい。
もちろん現実的に活動するのも平和に貢献することになりますが、もし本当に自分の中に平和の意識がなかったらそれはみせかけの行動です。一番の貢献は、自分自身の平和な意識、真実の自分に気がつくこと。皆さんが幸せになることが、世界が幸せになること。それにつきます。これは僕だけの言葉ではなく、聖者やあらゆる聖典にも記されていることです。なぜならそれが真実だからです。
悟りが身近になる時代
クンダリニーのエネルギーはそれぞれの段階に応じた音として体験できますから、最終的に雷が轟くような音の中に同化した時、沈黙の世界にいたります。その時、サハスララにクンダリニーがあがり、自己が消滅し、言葉で表現できない至福の状態に入る。それをニルヴィカルパサマーディ、無分別三昧といいます。
ラーマクリシュナの言葉によると、空のそのものの次元から再び個の意識に降りてくるのは容易ではない。そこまでいってこの現実の地上に意識をつなげることの出来る人が、大聖者、大師、神の使いと呼ばれるわけですが、今、そういう体験をできる可能性を持った人は一人や、二人ではないのです。二千年前から世界の各地でチラホラ出ていた聖者のような人たちが大量に出現する時代になってきました。これがアセンションの特徴のひとつです。
この日本でも、そうした体験をする人が何人か現れるでしょう。そういう体験には証明がいりません。自分が体験して知るほど確実なことはないですから、誰かに認めてもらわないと自分の体験を信用できないといったことはありません。賢者、悟った人となって戻ってきます。
聖者の持つ自我
そのような体験をしたあとは、生き方は自由です。前と同じ暮らしに戻ってもいいのですが、大金持ちになるというようなつまらない生き方は選ばないですね。
「なるべく意識を乱されないように味わいながら生きていこう」という道を取る人が多いと思います。人を近づけないで仙人の道に入る人もいます。
しかしこの地上で生きるためには自我意識というものが必要ですから、悟りを体験した賢者、聖者であっても自我は残します。自我とは仮のものであるということを知っていて、いつでも捨てられるような自我を残しておくのです。それはあくまでこの世と付き合うための建前ですから、自我に支配されることはない。地球と言う舞台の芝居上の役であることをわかった上で演じるわけです。
ある人は知識のエゴを残して、哲学者のように宇宙の理論や哲学を組み立てて、悟りのあとの余生を送るかもしれない。ある人は多くの人に愛を分け与えるというエゴを残す。奇人変人として変わったエゴを残していく人もいるかもしれない・・・それはもういろんな人がいます。
中には、悟りを得ると同時にこの地上で生きることに意味を見出せなくなり、「生きる目標を達成してしまったからさっさとおさらばしよう」、そういう意識を持つ場合もあります。それも自由ですから。生きる意志を捨てたことによって、私たちの細胞をつくりあげている微細なエネルギーパターン、四大元素のエネルギーと呼ばれる細胞を結び付けている力が分解しますから、悟った人の中には早死にする人もいるわけです。
しかし悟った人の多くは、弟子や縁ある人たちを目覚めさせるために、生きる意志を残しておくんですね。そして寿命まで生きて仕事を果たす決意をして、人生を全うするわけです。
アセンションのメッセージ
アセンションについては様々な本や雑誌でも語られていますが、私はこのような見解を持っています。
役の行者の仏像が、あるご縁で私の研究所にあります。それをひとつのウィットネス(波動サンプル)として瞑想した時期がありまして、様々なメッセージを受け取りました。
そのなかで中心になっているのは、アセンションといわれる地球の変化についてのいくつかのヒントです。
変化というのは常に予想外のことが起こる。これからの時代は予想できないことが起こるんだ、ということです。今皆さんが経験している様々な政治、経済、自然環境の変化、これらを10年前に予測できた人が何人いたでしょうか?
一寸先は何が起こるかわからないような変動期に入っています。「夜明け前が一番暗い」といいますが、今がちょうどその時期で、これが西暦2000年から数年間続くわけです。
例えば、天災、地震などですが、逆にみなさんが予想したことが起きずに、予想しなかったことがドカンと起きます。皆さんはこれまで過去の価値観で設計し、予定してきたかもしれませんが、それが通用しなくなるということをひとつ、覚えておいたほうがいいでしょう。
そのための一番の備えは、どんなことがあってもぐらつかない、自分自身の確かな意識を築くこと、真実の自分を発見することです。その意識さえあれば、状況次第で何をしたらいいかが直感的にわかり、必要なことは与えられます。
内なる意識を確信するための方法はいろいろありますが、伝統的な瞑想もそのひとつです。新しい方法では音楽やテクノロジーを使ったもの。それは瞑想の補助になりますから有効です。
内なる意識を築いたとき、そこに絶対的な安心感が芽生えてきます。何の心配も悩みもなく、存在するだけでいい。目の前に与えられたことをやるだけでいい。その中に静かな尽きることのない喜びが沸いてきます。
本物の喜びと、コピーされた喜び
感情的な喜びには必ず不満がセットになってついてきます。感情興奮の喜びは執着を伴いますから、必ずエスカレートしていくのです。
お酒に溺れる心理状態を観察すると、最初はお酒を飲んで愉快な気持ちになる体験が多いですが、マイナスの気持ちのときにその愉しみの感覚を求めて入り込んで行くんですね。
また感覚は、絶えず次の興奮を求めて行きますから、最初は5で得られた快感を、次には6でやっと感じられて、最後には7でも味わえなくなってくる、エスカレートしたあげくに麻痺してくるんです。喜びが薄れてマンネリ化した惰性の状態です。
ところが瞑想で得られる内なる存在の喜びと言うのは、それとは違います。これは本質が幸せそのものであり、気づきさえすればいつでも自分の中にある、新鮮な喜びであって、喜びのコピーではないのです。
私たちの心の中には優秀なコピー機があって、内なる神聖な体験をコピーして模造品を創り、最初の神秘体験に似た、偽物の神秘体験を与えてくれることがあるのですが、そういう体験は新鮮ではありませんから満足感が得られなくなって惰性に陥ってしまうのです。そして、自分の体験について調べたり考えたりして、その道の専門家になったり教祖になる人もいます。知識を勉強したと言う努力は認めますが、それはコピーなんです。
「われわれの本質はいつも新鮮だ」ということを覚えておいてください。そこにはマンネリというのはありません。本当に自分自身の内なる本質を体験した時は、いつも満足します。昔から変わらずそこには満足があるんです。
それを象徴しているのが白い満月です。私たちの心は欠けていない純粋な白い満月で、それがハイアーセルフの意識なんです。これはいつでもここに、気持ちの奥にあります。安心してください。これは決して消えません。
(1998年7月18日の講演より)
『マジカルチャイルドの記憶』には、21才の年に自然発生的な神秘体験をしたこと、ズブドという行方との出会いや、インドでのLSD体験、リシケシのヨーガ・ニケタン道場での滞在のことなどが書かれている。
2003年に亡くなられたのだが、2004年のスターピープル誌に山田孝男さんがアセンションについて語っている記事があったので、ご紹介。1998年の講演ということだが、今になっても大変参考になる言葉ではないだろうか。
スターピープル誌VOL12 瞑想家山田孝男の遺産 アセンションと悟り より抜粋
深刻な悩みから一瞬で解放された体験
僕が会社を一年でやめて、大学を目指して浪人生活を送っていた21歳のことです。札幌の郊外で予備校に通っていたのですが、自分の方向も見失って悩みの中に落ち込んでいったことがありました。「自分はなんてダメなんだろう」「なんて不幸なんだろう」という堂々巡りにはまって、建設的な思いも起きなくなっていた。幽霊のような惰性の生活の数ヶ月のうち、何日間か最低に落ち込んだときがありましたが、あまりにも元気がなくて自殺するエネルギーもないんです。
でもそのうちに「何とかこれを立て直そう」という気持ちが湧いてきて、夜、一人で部屋に座って瞑想しました。その時、悩んでいる自分にしがみつくエネルギーがなくなってしまったので、自分を全部捨ててしまったんです。
すると不思議なことに、エネルギーの脈動が足のほうから昇ってきて、急に生気を取り戻して周りの物音や景色が意識の中に飛び込んできたんです。それまでは自分のことだけに集中して、まわりのことは全然意識していなかったのが、その時部屋の存在感が変わってきた。周りのものすべてに親しみが湧いてきて、部屋の外にある大地や、草の存在までもが感じられてきたんです。
そのようにして、どん底の状態から一瞬にして、悩みも何も自分の作っていた妄想が跡形もなく消えていった体験があります。
また会社にいた20歳の頃ですが、あまりにも忙しくて仕事する意味も生きがいも感じられなくなって、疲れても辞めるに辞められない状態が一ヶ月くらい続いたことがありました。なんとか仕事の予定を片付けて帰る途中、田んぼの稲穂がキラキラと輝いていたんです。ふっと「もう秋だな」と感じられたその思いが引き金となって、急に体が軽くなったんですね。田んぼ全体が黄金色に輝いて見え、小鳥のさえずりが楽しく聞こえて、その声が喜びを表現していることがわかってきた。
その体験によって、意識の中から会社の問題もすべて消えてしまった。すると次の日、仕事上の強力な助っ人が現れて、大変な仕事も二週間くらいで解決しました。
問題と言うのはすべて意識の中にあるのです。意識の中から問題がなくなると、現実も動いていくのです。
世界に対する本当の貢献とは
このように悩んで動けなくなった人には、いろいろな教え方がありますが、要するに真実の意識、本来の自分に気づけばそれでいいんです。世の中は、集合意識のカルマ、人類全体のカルマ、世界のカルマにしたがって物事が進んでいきますから、何も心配することはないんです。目の前に与えられたこと、今できることをしていればいいのです。今することを精一杯していない人が悩むんですね。
「本当にいますることは悩むことしかない」と思った人は、精一杯悩めばいいんです。そうすると悩みは消えていきます。まず自分の頭のハエを追い払っていけばいい。それができないのに、隣のテーブルのハエを気にしても仕方がないのです。自分のことをしっかりやって、余裕があったら世界のこともやりなさい。
もちろん現実的に活動するのも平和に貢献することになりますが、もし本当に自分の中に平和の意識がなかったらそれはみせかけの行動です。一番の貢献は、自分自身の平和な意識、真実の自分に気がつくこと。皆さんが幸せになることが、世界が幸せになること。それにつきます。これは僕だけの言葉ではなく、聖者やあらゆる聖典にも記されていることです。なぜならそれが真実だからです。
悟りが身近になる時代
クンダリニーのエネルギーはそれぞれの段階に応じた音として体験できますから、最終的に雷が轟くような音の中に同化した時、沈黙の世界にいたります。その時、サハスララにクンダリニーがあがり、自己が消滅し、言葉で表現できない至福の状態に入る。それをニルヴィカルパサマーディ、無分別三昧といいます。
ラーマクリシュナの言葉によると、空のそのものの次元から再び個の意識に降りてくるのは容易ではない。そこまでいってこの現実の地上に意識をつなげることの出来る人が、大聖者、大師、神の使いと呼ばれるわけですが、今、そういう体験をできる可能性を持った人は一人や、二人ではないのです。二千年前から世界の各地でチラホラ出ていた聖者のような人たちが大量に出現する時代になってきました。これがアセンションの特徴のひとつです。
この日本でも、そうした体験をする人が何人か現れるでしょう。そういう体験には証明がいりません。自分が体験して知るほど確実なことはないですから、誰かに認めてもらわないと自分の体験を信用できないといったことはありません。賢者、悟った人となって戻ってきます。
聖者の持つ自我
そのような体験をしたあとは、生き方は自由です。前と同じ暮らしに戻ってもいいのですが、大金持ちになるというようなつまらない生き方は選ばないですね。
「なるべく意識を乱されないように味わいながら生きていこう」という道を取る人が多いと思います。人を近づけないで仙人の道に入る人もいます。
しかしこの地上で生きるためには自我意識というものが必要ですから、悟りを体験した賢者、聖者であっても自我は残します。自我とは仮のものであるということを知っていて、いつでも捨てられるような自我を残しておくのです。それはあくまでこの世と付き合うための建前ですから、自我に支配されることはない。地球と言う舞台の芝居上の役であることをわかった上で演じるわけです。
ある人は知識のエゴを残して、哲学者のように宇宙の理論や哲学を組み立てて、悟りのあとの余生を送るかもしれない。ある人は多くの人に愛を分け与えるというエゴを残す。奇人変人として変わったエゴを残していく人もいるかもしれない・・・それはもういろんな人がいます。
中には、悟りを得ると同時にこの地上で生きることに意味を見出せなくなり、「生きる目標を達成してしまったからさっさとおさらばしよう」、そういう意識を持つ場合もあります。それも自由ですから。生きる意志を捨てたことによって、私たちの細胞をつくりあげている微細なエネルギーパターン、四大元素のエネルギーと呼ばれる細胞を結び付けている力が分解しますから、悟った人の中には早死にする人もいるわけです。
しかし悟った人の多くは、弟子や縁ある人たちを目覚めさせるために、生きる意志を残しておくんですね。そして寿命まで生きて仕事を果たす決意をして、人生を全うするわけです。
アセンションのメッセージ
アセンションについては様々な本や雑誌でも語られていますが、私はこのような見解を持っています。
役の行者の仏像が、あるご縁で私の研究所にあります。それをひとつのウィットネス(波動サンプル)として瞑想した時期がありまして、様々なメッセージを受け取りました。
そのなかで中心になっているのは、アセンションといわれる地球の変化についてのいくつかのヒントです。
変化というのは常に予想外のことが起こる。これからの時代は予想できないことが起こるんだ、ということです。今皆さんが経験している様々な政治、経済、自然環境の変化、これらを10年前に予測できた人が何人いたでしょうか?
一寸先は何が起こるかわからないような変動期に入っています。「夜明け前が一番暗い」といいますが、今がちょうどその時期で、これが西暦2000年から数年間続くわけです。
例えば、天災、地震などですが、逆にみなさんが予想したことが起きずに、予想しなかったことがドカンと起きます。皆さんはこれまで過去の価値観で設計し、予定してきたかもしれませんが、それが通用しなくなるということをひとつ、覚えておいたほうがいいでしょう。
そのための一番の備えは、どんなことがあってもぐらつかない、自分自身の確かな意識を築くこと、真実の自分を発見することです。その意識さえあれば、状況次第で何をしたらいいかが直感的にわかり、必要なことは与えられます。
内なる意識を確信するための方法はいろいろありますが、伝統的な瞑想もそのひとつです。新しい方法では音楽やテクノロジーを使ったもの。それは瞑想の補助になりますから有効です。
内なる意識を築いたとき、そこに絶対的な安心感が芽生えてきます。何の心配も悩みもなく、存在するだけでいい。目の前に与えられたことをやるだけでいい。その中に静かな尽きることのない喜びが沸いてきます。
本物の喜びと、コピーされた喜び
感情的な喜びには必ず不満がセットになってついてきます。感情興奮の喜びは執着を伴いますから、必ずエスカレートしていくのです。
お酒に溺れる心理状態を観察すると、最初はお酒を飲んで愉快な気持ちになる体験が多いですが、マイナスの気持ちのときにその愉しみの感覚を求めて入り込んで行くんですね。
また感覚は、絶えず次の興奮を求めて行きますから、最初は5で得られた快感を、次には6でやっと感じられて、最後には7でも味わえなくなってくる、エスカレートしたあげくに麻痺してくるんです。喜びが薄れてマンネリ化した惰性の状態です。
ところが瞑想で得られる内なる存在の喜びと言うのは、それとは違います。これは本質が幸せそのものであり、気づきさえすればいつでも自分の中にある、新鮮な喜びであって、喜びのコピーではないのです。
私たちの心の中には優秀なコピー機があって、内なる神聖な体験をコピーして模造品を創り、最初の神秘体験に似た、偽物の神秘体験を与えてくれることがあるのですが、そういう体験は新鮮ではありませんから満足感が得られなくなって惰性に陥ってしまうのです。そして、自分の体験について調べたり考えたりして、その道の専門家になったり教祖になる人もいます。知識を勉強したと言う努力は認めますが、それはコピーなんです。
「われわれの本質はいつも新鮮だ」ということを覚えておいてください。そこにはマンネリというのはありません。本当に自分自身の内なる本質を体験した時は、いつも満足します。昔から変わらずそこには満足があるんです。
それを象徴しているのが白い満月です。私たちの心は欠けていない純粋な白い満月で、それがハイアーセルフの意識なんです。これはいつでもここに、気持ちの奥にあります。安心してください。これは決して消えません。
(1998年7月18日の講演より)
2009.
07.
13
全国の上映プラネタリウム
かんぱねるらーっ!と叫びたくなりますね。
こちらで発見
主題歌
One night 井上ヒロコ
I am waiting for you
探してる月夜の記憶
香る花は打ち寄せる
波のほとり
and nothing but you
残された風をまとい
so I can see the sky
I wanna show you
叫んでる海ぬらす雨
飾られた夢はいつしか砂の中
and don't cry for you
色づいた瞬間をまとい
so I can see the sky
Melody奏でる刹那を
届けたいだけ小さな手を
包み込むように
あなたさえいれば
風は吹くの?いつか
stand alone…時に迷った夜
Let me tell you
おどけてる水面の光
染められた心は
見えない星の輝き
and I think of you
止められた過去をまとい
so I can see the sky
I am waiting for you and
looking for truth, but not
a sound is heard.
Whenever you need any help
and my voice, please let
me know.
Can I sing for you or cry
for dream ? Let the wind blow.
So I can see the sky.
2009.
07.
11
I先生の音声サンプル集、<き>『既成概念』と、<く>『苦』が視聴できるようになりました。
各20秒ほどですが、よかったらお聞きくださいませ~。
こちらから
岩城和平 通信講座サンプル集
え~今更ですがこちら
はまったく当ブログとは関係ございません
各20秒ほどですが、よかったらお聞きくださいませ~。
こちらから

岩城和平 通信講座サンプル集
え~今更ですがこちら


2009.
07.
09
2、3日前に静かな状態から唐突に出現した黒点1024はまだはっきりした形を保っており、太陽の活動がサイクル24に移行した兆候ではないかと言われている。
太陽はその活動が穏やかな時期と、活発な時期を交互に繰り返すが、サイクル24は活動期だ。昨年の8月頃太陽は100年ぶりくらいの長期にわたる無黒点期間が続いていた。人によってはこのまま小氷期に向かうのではというくらいだった。だが、ここに来てようやくサイクル24の活動期の兆候が見えてきたということになるのだろうか。
サイクル24の活動がもっとも激しくなるのは2011年~2012年ごろと予測されている。が・・・21世紀になってからの太陽の動きはどうも予測不能な部分があるようで、例えば2005年には極小期であるにも関わらず大規模なフレアをいくつも発生させた。だが、もし予測の通りとなると2011~12年ごろには現在よりも数十パーセント強烈な太陽エネルギーが降り注ぐことになるようだ。
太陽活動が、自然現象や人間の精神、その現れである社会現象に大きな影響を及ぼしているのは確実だと思う。
神話的なレベルにおいては、時代の特異点では太陽の異常が発生する。
マヤの神官などは、新たな時代の始まりの前に現在の太陽は一時『消える』、闇のあとにまた新たな太陽が現れるという。聖書でも、また日月神示でも終わりの日に「日は暗くなる」と、そして「新しい太陽があらわれるのであるぞ」と書かれている。これらはなかなか言葉どおりに信じられることではないが、象徴的に解釈することも可能だろう。
例えば、太陽のシステムに根源的な変化が生じ、その結果まったく新しい質のエネルギーが降り注ぐ・・・というような。
昨日の夕陽はとてもきれいだった。
夕方に木の根っこに座っていると、ぱらぱら雨が降り出した。
野原には犬を散歩させてる人がたくさんいたけど、雨が落ち始めるとだんだん少なくなってきた。木の下はあまり濡れないのでそのまま座っているととても静かな気分になってきた。半分木と一体化したような感じだった。背骨をまっすぐに伸ばすと、さらに不動感が増し、自然によろこびが湧いてきた。 若干変な人みたいだが、あまり人の目が気にならなくなった。木だからほっといてくれw
やがて西の空の雲の間から太陽が顔を出した。
夕陽だがとても強い光を放っていた。
立ち上がって野原に歩いていって、そこで突っ立ったまま太陽を見つめた。
全部がその光の中に飲み込まれ、包み込まれているように見えた。
「創造」に自然と頭を垂れたいような気持ちになった。
「今日の夕陽はすごくきれいですね」と、話しながら後ろを通り過ぎる人がいた。
携帯で撮ってみたけど、うーん・・・デジカメを持って来ればよかった。



2009.
07.
06
6月の太陽風はずっと低速だったけど24日あたりから早くなり、最高500キロ代後半まであがった。ちょっとこの辺から調子がおかしく、気分的に

な感じだった。現在は、速度は300キロ台まで落ちているが、黒点が増えておりまた昨日Cクラスのフレアが発生した。Cクラスのフレアは、2008年12月以来と7ヶ月ぶりらしい。
これに関連したことで、いつも読んでいるヤスの備忘録のブログを見ると、先月21日から27日にかけてイギリス南西部に現れたと言うクロップサークルの謎解きが掲載されていた。

それを読むとこのサークルはグリニッジ時間の7月6日か7日、日本時間7日か8日に巨大なフレアが発生することへの注意喚起ではないかという解釈が紹介されていた。今朝、宇宙天気情報センターのサイトで昨日のフレア発生を読んだあと、この記事を目にしたので少し驚いた。このクラスのフレアはそう滅多に起こるものでもないので。
今日はまだ6日だが、時間がずれたのか、それとも明日か明後日にさらに大きな爆発が起こるのだろうか?
巨大フレアが発生すると、地球の磁場がかく乱されたり、また精密機器や、発電施設、通信網にも
影響を与えることがある。加えて、地震や巨大ハリケーン発生とも関連している可能性がある。多分人の心身への影響も大きいのではないだろうか。先週末そして今日、いろいろごちゃごちゃ起こっている。
7月22日には奄美、トカラ列島などで皆既日食が観測できる。
欠け具合は南に行くほど大きく、福岡で0.90、大阪で0.83、関東でも7割方太陽が隠れるらしいので、結構薄暗くなるのではないだろうか。
欠け始めが9時53分、食が最大になるのが11時8分で、12時半ごろには終了するようだ。
子供の頃に見て以来なので楽しみにしているが、今回の日食は占星術的には大きな意味を持っているようで、この日食のあとまた急激な変化がいろんなところで起こるのではないだろうか。
ラディカルチェンジの第二波。
次は確実に時代が変わっていることを誰もが認識するレベルまで移行する。
『地獄の夏』とは言いたくないが、『激変の夏』にはなるかも。
7月3日、吉祥寺でI先生の瞑想会。
リトリート以来。
自由意志とみこころ(神の意志)について
I先生は、みこころによって総てが起こっていると考えるが、人間が自由意志を持っていると考える人たちもそれは神のみこころの中に含まれているので、その考えを無理に変えようとしたりする必要はないという話しが出た。
『俺の話を聴いてる人は、ああ全部みこころ、みこころって言うようになるけど、俺だって神さまにたぶらかされてるだけかもしれないんだからねwはい、おまえはみこころ派・・・ってね』
この話しを聴いてて少し耳が痛かったのは、6月の奈良ツアーに行ったときに主催者のA・Hさんの話がみこころ派でなくどっちかというと、自由意志派に思え、その話の内容から勝手にマーヤになって相方と険悪なムードになったからだった。でも、あとから振り返ってあのツアーはやはりそれなりに理由があって行ってるような感じで・・・
だからなんというのだろうか・・・(頭の中に勝手に形成される)イデオロギー的思考を捨てることとか、見かけの相違にあまりこだわらず全部神さまの現われと捉えることなどが大事なんじゃないかと最近考えていた。神さまは教条主義者ではないので、こっちも柔軟になることが重要だと思う。
虚無
最近I先生が半日くらいある原因で「虚無」を体験した話し。
ある原因というのは太宰治の生涯を描いたテレビドラマをみたことらしい。そのことによって太宰治が感じていたような虚無感が入ってきて・・・。
『アーティストは虚無感が強い人が多いんだよ。虚無感が強いから、なにかを産み出して虚無をなくそうとする。』
『サタンにやられたとかって言ってる間はまだいいんだよね。それは神さまとかサタンとかがある世界にその人が住んでるからでしょ?虚無じゃないからね。でも虚無って言ったらなんにもないわけだから。神も悪魔も。虚無はサタンでさえ怖がるっていうからねwだからサタンにやられたら、虚無の方に逃げて行けばいいんだよ。その代わり自分も虚無になっちゃうけどねw』
うーん、それは困る^^;
ポア(意識を移す)
この日は相方と一緒に参加していて、彼女の質問。
「自分がこの肉体にしか思えないんですけど・・・」
それに対して先生お得意の、ペットボトルを使った説明。
『これをじっと見てみて。すると、ここに(あなたの)意識が移るんだよ。チベットでは意識を転移させる方法はポアって呼ばれててね。オ●ムのあれとは違うよ(笑)こういう風に自分の意識がいろんなところに移動してるって言うのがわかったら自分が意識体だっていうことがわかってくるよ。
俺は毎晩いろんな人のところに徘徊してるからねw最近はないけど、夜中目が覚めたらベッドの横に先生がすわってたみたいなことちょくちょくあったね。』
面白いのは、ある人が寝ていて金縛りになって困って、I先生の名前を呼ぶと空中からデカい足が出てきてなんかを蹴っ飛ばしたと言う話し。それで解けたらしい(笑)
I先生は畳にペットボトルを置いて、それを彼女にじっと見てるように言う。
彼女が見ていると、その向こうからI先生が手をもわもわ回しながら近づいて来る。
それに注意がかく乱される相方。
「ちゃんと見てないとダメでしょwこの、俺がペットボトルを越えたあたりから感じ方が変わらなかった?」とI先生。なんでも視点を定めた位置には横にもびゅーっと意識の境界線が出来るので、それを何かが越えると感覚としてわかるという。赤外線センサーみたいだ。
昔、自分のオーラを伸ばせると言う人がI先生の瞑想会にいったあと、自分が伸ばすとI先生がそっちのほうを見ていた、だからあの人はオーラが見えるに違いない・・・と言う話しを聴いたことがあるけど、それももしかしたら意識の移動をI先生が感知したからなのかな?と思った。
6月の終わり、の高マーヤ期間そう言えば最近「マー」のことを思い出してないなと思った。「マー」のことを思い出すと同じマーヤでも感じが違ってくる。旅行で曼荼羅を買ったので、「マー」の絵のあったところに曼荼羅を貼っていたのだが、どうもしっくりしないので最近やはり「マー」に戻した。
やはりタントラか・・・なんて。
「マー」のことを思うと包み込まれるような感覚を感じるのが不思議だ。
ラーマクリシュナが読みたくなった。



これに関連したことで、いつも読んでいるヤスの備忘録のブログを見ると、先月21日から27日にかけてイギリス南西部に現れたと言うクロップサークルの謎解きが掲載されていた。

それを読むとこのサークルはグリニッジ時間の7月6日か7日、日本時間7日か8日に巨大なフレアが発生することへの注意喚起ではないかという解釈が紹介されていた。今朝、宇宙天気情報センターのサイトで昨日のフレア発生を読んだあと、この記事を目にしたので少し驚いた。このクラスのフレアはそう滅多に起こるものでもないので。
今日はまだ6日だが、時間がずれたのか、それとも明日か明後日にさらに大きな爆発が起こるのだろうか?
巨大フレアが発生すると、地球の磁場がかく乱されたり、また精密機器や、発電施設、通信網にも
影響を与えることがある。加えて、地震や巨大ハリケーン発生とも関連している可能性がある。多分人の心身への影響も大きいのではないだろうか。先週末そして今日、いろいろごちゃごちゃ起こっている。
7月22日には奄美、トカラ列島などで皆既日食が観測できる。
欠け具合は南に行くほど大きく、福岡で0.90、大阪で0.83、関東でも7割方太陽が隠れるらしいので、結構薄暗くなるのではないだろうか。
欠け始めが9時53分、食が最大になるのが11時8分で、12時半ごろには終了するようだ。
子供の頃に見て以来なので楽しみにしているが、今回の日食は占星術的には大きな意味を持っているようで、この日食のあとまた急激な変化がいろんなところで起こるのではないだろうか。
ラディカルチェンジの第二波。
次は確実に時代が変わっていることを誰もが認識するレベルまで移行する。
『地獄の夏』とは言いたくないが、『激変の夏』にはなるかも。
7月3日、吉祥寺でI先生の瞑想会。
リトリート以来。
自由意志とみこころ(神の意志)について
I先生は、みこころによって総てが起こっていると考えるが、人間が自由意志を持っていると考える人たちもそれは神のみこころの中に含まれているので、その考えを無理に変えようとしたりする必要はないという話しが出た。
『俺の話を聴いてる人は、ああ全部みこころ、みこころって言うようになるけど、俺だって神さまにたぶらかされてるだけかもしれないんだからねwはい、おまえはみこころ派・・・ってね』
この話しを聴いてて少し耳が痛かったのは、6月の奈良ツアーに行ったときに主催者のA・Hさんの話がみこころ派でなくどっちかというと、自由意志派に思え、その話の内容から勝手にマーヤになって相方と険悪なムードになったからだった。でも、あとから振り返ってあのツアーはやはりそれなりに理由があって行ってるような感じで・・・
だからなんというのだろうか・・・(頭の中に勝手に形成される)イデオロギー的思考を捨てることとか、見かけの相違にあまりこだわらず全部神さまの現われと捉えることなどが大事なんじゃないかと最近考えていた。神さまは教条主義者ではないので、こっちも柔軟になることが重要だと思う。
虚無
最近I先生が半日くらいある原因で「虚無」を体験した話し。
ある原因というのは太宰治の生涯を描いたテレビドラマをみたことらしい。そのことによって太宰治が感じていたような虚無感が入ってきて・・・。
『アーティストは虚無感が強い人が多いんだよ。虚無感が強いから、なにかを産み出して虚無をなくそうとする。』
『サタンにやられたとかって言ってる間はまだいいんだよね。それは神さまとかサタンとかがある世界にその人が住んでるからでしょ?虚無じゃないからね。でも虚無って言ったらなんにもないわけだから。神も悪魔も。虚無はサタンでさえ怖がるっていうからねwだからサタンにやられたら、虚無の方に逃げて行けばいいんだよ。その代わり自分も虚無になっちゃうけどねw』
うーん、それは困る^^;
ポア(意識を移す)
この日は相方と一緒に参加していて、彼女の質問。
「自分がこの肉体にしか思えないんですけど・・・」
それに対して先生お得意の、ペットボトルを使った説明。
『これをじっと見てみて。すると、ここに(あなたの)意識が移るんだよ。チベットでは意識を転移させる方法はポアって呼ばれててね。オ●ムのあれとは違うよ(笑)こういう風に自分の意識がいろんなところに移動してるって言うのがわかったら自分が意識体だっていうことがわかってくるよ。
俺は毎晩いろんな人のところに徘徊してるからねw最近はないけど、夜中目が覚めたらベッドの横に先生がすわってたみたいなことちょくちょくあったね。』
面白いのは、ある人が寝ていて金縛りになって困って、I先生の名前を呼ぶと空中からデカい足が出てきてなんかを蹴っ飛ばしたと言う話し。それで解けたらしい(笑)
I先生は畳にペットボトルを置いて、それを彼女にじっと見てるように言う。
彼女が見ていると、その向こうからI先生が手をもわもわ回しながら近づいて来る。
それに注意がかく乱される相方。
「ちゃんと見てないとダメでしょwこの、俺がペットボトルを越えたあたりから感じ方が変わらなかった?」とI先生。なんでも視点を定めた位置には横にもびゅーっと意識の境界線が出来るので、それを何かが越えると感覚としてわかるという。赤外線センサーみたいだ。
昔、自分のオーラを伸ばせると言う人がI先生の瞑想会にいったあと、自分が伸ばすとI先生がそっちのほうを見ていた、だからあの人はオーラが見えるに違いない・・・と言う話しを聴いたことがあるけど、それももしかしたら意識の移動をI先生が感知したからなのかな?と思った。
6月の終わり、の高マーヤ期間そう言えば最近「マー」のことを思い出してないなと思った。「マー」のことを思い出すと同じマーヤでも感じが違ってくる。旅行で曼荼羅を買ったので、「マー」の絵のあったところに曼荼羅を貼っていたのだが、どうもしっくりしないので最近やはり「マー」に戻した。
やはりタントラか・・・なんて。
「マー」のことを思うと包み込まれるような感覚を感じるのが不思議だ。
ラーマクリシュナが読みたくなった。
2009.
07.
05
日月神示 春の巻
第十帖
一切のものはウズであるぞ。同じことくりかへしているように、人民には世界が見えるであろうなれど、一段づつ進んでいるのであるぞ。木でも草でも同様ぞ。前の春と今年の春とは、同じであって違っておろうがな。行き詰まりがありがたいのぢゃ。進んでいるからこそ、行きあたり行き詰まるのぢゃ。省みるとき与えられるのぢゃ。さとりの時与えられるのぢゃ。ものは、はなすからこそつかめるのぢゃ。固く握って戸閉めていてはならんのう。扉開けておけと申してあろうが。着物脱いで裸体となることつらいであろうなれど、ぬがねば新しい着物きられんぞ。裸になってブツカレよ。神様も裸になってそなたを抱いてくださるぞよ。重い石のせたタクアンはうまいのであるぞ。
第十三帖
自分はよいが、世の中が悪いのぢゃと申しているが、その自分省みよ。自分が神の理(ミチ)にあり、真実であるならば、世の中は悪くないぞ。輝いているぞ。自分に降りかかってくる一切のものは最善のものと思へ。如何なる悪いこともそれは最善のものであるぞ。この道理よくわきまへて下されよ。真の神を理解すれば、一切の幸福得られるのぢゃ。世を呪うことは自分を呪うこと。世間や他人を恨むことは自分を恨むこと。このこと悟れば一切はそこからひらけくるぞ。十のもの受けるには十の努力。
第十六帖
あなたまかせ。よい妻と申してあろうが。神まかせがよい人民であるぞ。この神とみとめたら理解して、任せきれよ。太元の神さまにホレ参らせよ。真の信仰の第一歩ぞ。雨降らせば雨を、風ふけば風を、一先ず甘受せよ。甘受したあと、処理していかなならん。受け入れずにハネ返すのは大怪我のもと。何回でも何回でも同じこと繰り返さねばならんことになるぞ。何か迫りくるのは、何か迫りくるものが自分の中にあるからぞ。内にあるから外から迫るのぢゃ。自分で呼び寄せているのぢゃ。苦しみの神。因果の神呼んでおいて、不足申しているもの多いのお。自分で呼び寄せながら嫌がってハネ返すテあるまいにのう。
第二十一帖
オーヒツキ大神としてのこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神さまの名ぢゃ。無限であるぞ。このほう一柱であるが無限柱ぞ。すべてが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。汎神ぢゃ。総てが神ぢゃ。喜びぢゃ。始めから全体をつかもうとしても、それは無理と申すもの。手でも足でもよい、どこでもよいからつかめるところからつかんで御座れよ。だんだん判ってくるぞ。全体をつかむには全体と同じにならねばならん。その人民人民のつかめるところからつかんで参れよ。このほう抱き参らせてやるぞ。マツリから出直せよ。天地見よ。大きマツリいたしておろうがな。霊と肉のまつり第一。頭とハラのまつり結構。二二のマツリ、出船の港ぢゃ。奥から来るものは喜びぢゃ。念ぢゃ。力のもとぢゃ。生きの生命ぢゃ。神さまにはハラを向けなさい。
第二十二帖
宇宙の総てはこの神の現れであり、一面であるから、そのどこつかんで拝んでもよいのである。そのどこつかんで、すがってもよいのであるぞ。水の流れも宗教ぞともうしてあろう。総てに神の息、通うているぞ。一本の箸拝んでもよいのぢゃが、ちゃんとめあて、よいめあて、きめねばならん。内の自分に火つけよ。心くらくては何も判らん。世の中は暗う見えるであろう。真っ暗に見えたら自分の心に光ないのぢゃ。心せよ。自分光れば世の中明るいぞ。より上のものから流れてくるものにまつりて行くこと大切ぢゃ。それがまつりの元。それが宗教ぢゃ。宗教は生活ぢゃ。生活は宗教ぢゃ。裏と表ぢゃ。
第三十帖
宇宙のすべてがつながりであるぞ。石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。手と頭のようなもんぢゃ。拝み合へよ。親しみあへよ。和せよ。和すと自分となるのぢゃぞ。自分、大きく、明るくなるのぢゃ。豊かにうれしうれしぢゃ。赤いものの中にいると赤くなって行く。理に向かっていると、いつの間にか神の気いただくぞ。神の光いただけるのぢゃ。二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいでは理判らん。神はわからん。体験せねばならん。一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう。
第三十六帖
何事に向かってもまづ感謝せよ。ありがたいと思へ。始はマネごとでもよいぞ。結構と思へ。幸と思へ。そこに神の力加わるぞ。道は感謝からぞ。不足申せば不足うつるぞ。心のままとくどう申してあろうが。病気でないと思へ。弥栄と思へ。病治るモト生まれるぞ。キがもとぞ。何事くるとも何クソと思へ。神の力加わるぞ。おそれはおそれ生むぞと申してあろうが。一聞いて十さとらねばならんぞ。今の人民には何事も平面的に説かねば判らんし、平面的では立体のこと、次元の違うことは判らんし、ハラでさとりて下されよともうしてあろう。
第五十二帖
まことの光の道に行き、進めよ。ここぞと見極めたら、理解に向かってひたすらに進まねばならん。理窟いらん。宇宙はこの方の中にあるのぢゃ。このほうぢゃ。世がだんだん迫って悪くなるように申しているが、それは局部的のこと。大局から見れば、よきに向かって弥栄えているぞ。夏が暑いと申してブツブツ申すでないぞ。秋になるぞ。冬もあるぞ。冬ばかりと考えるでないぞ。やがては春が訪れるのぢゃ。いづれも嬉し嬉しとなる仕組み。
第十帖
一切のものはウズであるぞ。同じことくりかへしているように、人民には世界が見えるであろうなれど、一段づつ進んでいるのであるぞ。木でも草でも同様ぞ。前の春と今年の春とは、同じであって違っておろうがな。行き詰まりがありがたいのぢゃ。進んでいるからこそ、行きあたり行き詰まるのぢゃ。省みるとき与えられるのぢゃ。さとりの時与えられるのぢゃ。ものは、はなすからこそつかめるのぢゃ。固く握って戸閉めていてはならんのう。扉開けておけと申してあろうが。着物脱いで裸体となることつらいであろうなれど、ぬがねば新しい着物きられんぞ。裸になってブツカレよ。神様も裸になってそなたを抱いてくださるぞよ。重い石のせたタクアンはうまいのであるぞ。
第十三帖
自分はよいが、世の中が悪いのぢゃと申しているが、その自分省みよ。自分が神の理(ミチ)にあり、真実であるならば、世の中は悪くないぞ。輝いているぞ。自分に降りかかってくる一切のものは最善のものと思へ。如何なる悪いこともそれは最善のものであるぞ。この道理よくわきまへて下されよ。真の神を理解すれば、一切の幸福得られるのぢゃ。世を呪うことは自分を呪うこと。世間や他人を恨むことは自分を恨むこと。このこと悟れば一切はそこからひらけくるぞ。十のもの受けるには十の努力。
第十六帖
あなたまかせ。よい妻と申してあろうが。神まかせがよい人民であるぞ。この神とみとめたら理解して、任せきれよ。太元の神さまにホレ参らせよ。真の信仰の第一歩ぞ。雨降らせば雨を、風ふけば風を、一先ず甘受せよ。甘受したあと、処理していかなならん。受け入れずにハネ返すのは大怪我のもと。何回でも何回でも同じこと繰り返さねばならんことになるぞ。何か迫りくるのは、何か迫りくるものが自分の中にあるからぞ。内にあるから外から迫るのぢゃ。自分で呼び寄せているのぢゃ。苦しみの神。因果の神呼んでおいて、不足申しているもの多いのお。自分で呼び寄せながら嫌がってハネ返すテあるまいにのう。
第二十一帖
オーヒツキ大神としてのこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神さまの名ぢゃ。無限であるぞ。このほう一柱であるが無限柱ぞ。すべてが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。汎神ぢゃ。総てが神ぢゃ。喜びぢゃ。始めから全体をつかもうとしても、それは無理と申すもの。手でも足でもよい、どこでもよいからつかめるところからつかんで御座れよ。だんだん判ってくるぞ。全体をつかむには全体と同じにならねばならん。その人民人民のつかめるところからつかんで参れよ。このほう抱き参らせてやるぞ。マツリから出直せよ。天地見よ。大きマツリいたしておろうがな。霊と肉のまつり第一。頭とハラのまつり結構。二二のマツリ、出船の港ぢゃ。奥から来るものは喜びぢゃ。念ぢゃ。力のもとぢゃ。生きの生命ぢゃ。神さまにはハラを向けなさい。
第二十二帖
宇宙の総てはこの神の現れであり、一面であるから、そのどこつかんで拝んでもよいのである。そのどこつかんで、すがってもよいのであるぞ。水の流れも宗教ぞともうしてあろう。総てに神の息、通うているぞ。一本の箸拝んでもよいのぢゃが、ちゃんとめあて、よいめあて、きめねばならん。内の自分に火つけよ。心くらくては何も判らん。世の中は暗う見えるであろう。真っ暗に見えたら自分の心に光ないのぢゃ。心せよ。自分光れば世の中明るいぞ。より上のものから流れてくるものにまつりて行くこと大切ぢゃ。それがまつりの元。それが宗教ぢゃ。宗教は生活ぢゃ。生活は宗教ぢゃ。裏と表ぢゃ。
第三十帖
宇宙のすべてがつながりであるぞ。石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。手と頭のようなもんぢゃ。拝み合へよ。親しみあへよ。和せよ。和すと自分となるのぢゃぞ。自分、大きく、明るくなるのぢゃ。豊かにうれしうれしぢゃ。赤いものの中にいると赤くなって行く。理に向かっていると、いつの間にか神の気いただくぞ。神の光いただけるのぢゃ。二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいでは理判らん。神はわからん。体験せねばならん。一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう。
第三十六帖
何事に向かってもまづ感謝せよ。ありがたいと思へ。始はマネごとでもよいぞ。結構と思へ。幸と思へ。そこに神の力加わるぞ。道は感謝からぞ。不足申せば不足うつるぞ。心のままとくどう申してあろうが。病気でないと思へ。弥栄と思へ。病治るモト生まれるぞ。キがもとぞ。何事くるとも何クソと思へ。神の力加わるぞ。おそれはおそれ生むぞと申してあろうが。一聞いて十さとらねばならんぞ。今の人民には何事も平面的に説かねば判らんし、平面的では立体のこと、次元の違うことは判らんし、ハラでさとりて下されよともうしてあろう。
第五十二帖
まことの光の道に行き、進めよ。ここぞと見極めたら、理解に向かってひたすらに進まねばならん。理窟いらん。宇宙はこの方の中にあるのぢゃ。このほうぢゃ。世がだんだん迫って悪くなるように申しているが、それは局部的のこと。大局から見れば、よきに向かって弥栄えているぞ。夏が暑いと申してブツブツ申すでないぞ。秋になるぞ。冬もあるぞ。冬ばかりと考えるでないぞ。やがては春が訪れるのぢゃ。いづれも嬉し嬉しとなる仕組み。
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