2009. 08. 31  
  『イーグルに訊け~インディアンに学ぶ人生哲学~』2003年 飛鳥新社 より




  アメリカインディアンとつきあううちに、私はその世界観に8つの特徴があることに気づきました。
  
まず 一番目は「他力」です。
 他力と言うのはもともと仏教用語で、「すべての生きとし生けるものを救う」という阿弥陀の本願を信じ、それにゆだねなさい、と言う意味です。そして、つまらないことにくよくよ悩んだり、いたずらに未来に不安を感じたり、思い通りにならない周囲の状況にイライラするのをやめて、もっと大きな力に身をゆだねるという生き方を説く言葉です。インディアンたちの生き方には、もちろん阿弥陀仏などという概念はありませんが、本質的にはまさに他力そのものなのです。

 彼らは皆、この世のありとあらゆるものに創造主ワカンタンカがかかわっていると信じています。キリスト教の聖書には、神は七日間で世界を創造したと書かれていますが、彼らにしてみれば世界の創造はまだ終わっていません。
 ワカンタンカは今も世界を創造し続けているし、人間もその移り行く世界の一部であり、一人一人は「創造主の子供」なのです。

 ですから自分の頭で「何をしたい」「何をしなければ」と考えるのは浅はかなこということになります。すべてはワカンタンカのはからいによって生じるわけですから、エゴを手放してワカンタンカの意志にゆだねて生きることが大切なのです。

 「イーグルに訊け」というのは、そんな彼らの世界観を表現する、とても象徴的な言葉だと思います。先の見通しがつかないとき、彼らはよく、イーグルなどの行動から創造主の意思を読み取ろうとします。
 なぜイーグルかと言えば、イーグルは空高く飛んで地上を俯瞰しますから「創造主の目」を意味すると信じられているのです。

 状況を観察し、分析して、もっとも効率のよい方法を考え出すことに慣れている私たちからみれば、なんともいい加減で心細い方法に思えるのですが、彼らと過ごしていると、確かに「結局はなるようになってしまう」のです。
 
 二番目は「感謝」です
 彼らと暮らしていると、彼らがありとあらゆるものに感謝の祈りをささげることに感銘を受けます。
 創造主ワカンタンカに始まり、スピリット、祖先、太陽、月、大地、石、水、そして地球に存在するすべての生き物に感謝することが、インディアンの主な祈りです。

 彼らにはたくさんのセレモニーがあり、そこで心身や人間関係を癒したり、大地とのつながりを回復したりしているのですが、どんなセレモニーにも必ず「今日も一日、すばらしい日をいただいてありがとう」というように、徹底的に感謝の言葉を述べるのです。

 考えてみれば、今日も命をつなぎ、生きる糧を与えられていることは素晴らしいことなのに、私たちはそれをあらためて感じられずに、すぐに不満や不安でいっぱいになってしまいます。その意味で、彼らは当たり前の日々の尊さを思い出させてくれますし、幸せに生きる道を知っているのだと思います。

 三番目は「受容」です。
 これは、身の回りにあるものや自分の身に起きることをすべて創造主からのプレゼントとみなし、全部を受け入れていこうという思想で、西洋を中心とする近代文明的な発想とは正反対です。私たちは現状の問題点を鋭く追及・分析して、それを改善することにより、よりよい社会が構築できると信じています。つまり、常に外に働きかける、積極的な姿勢が求められているのです。

 しかしながら、外部を変えようと言う姿勢は、とかく自己中心的になりやすく、また思ったようにならないと、不平不満につながりやすい、という問題点があります。その結果、暴走したエゴが激しくぶつかり合う、極端な競争社会が出現してしまいました。

 それにたいして「受容」というのは、どんな状況も受け入れてしまうため、ある意味ではとても受動的で東洋的な感じがします。外側に働きかけるというよりは、自分自身の内面を深く追求する、という姿勢です。したがって不平不満を抱きにくく、こころは常に平安に満たされています。
 そのような人が増えてくると、争いが減り、おだやかな社会になる代わりに、経済の成長や産業の発展などはあまり望めなくなっていくでしょう。実は、いまから私たちが向かっていく次世代の社会はその様相が極めて強いだろうと私は考えています。

 ただし「受容」を中心とする受動的な社会は、積極的な社会から攻撃を受けるときわめてもろいことも事実です。そのため、世界各地で先住民の文化は近代文明にずたずたに蹂躙された悲しい歴史があります。

 四番目は「平等観」です。
 インディアンは、この世に存在するすべては創造主の子供であると考えており、その発想から徹底した平等観が生まれています。
 セレモニーでは、祈りの最後に「ミタクオヤシン」と唱えるのですが(ラコタ族、ダコタ族、ナコタ族など)、英語に訳すと「オール・レラティブズ」といった意味になります。それは、私たちが縁しているすべての存在を思い起こし、感謝の気持ちを表す言葉なのです。
 インディアンにとって、「オール・レラティブズ」すなわち「あらゆる親戚」とは、創造主から生まれたものすべてであり、この世のありとあらゆるものを意味します。ですから、もちろん人間だけではなく、動物、植物、鉱物、水、火といった存在するものすべてが、私たちの親戚であり、きょうだいなのです。
  インデァインは植物を「植物の人々」、木を「立っている人々」、石を「石の人々」、鳥を「空を飛ぶきょうだい」、魚を「水の中を泳ぐきょうだい」、動物を「四つ足のきょうだい」と呼びます。
 
 キリスト教文化が中心のヨーロッパでは、人間を万物の霊長と考えて、一段高い位置においています。それとは対照的に、インディアンたちはすべての生命が同格であり、つながっていると説いています。そして、すべての存在が創造主の前では平等だと考えているのです。
 そのような思想を美しく表現した有名な手紙があります。1853年、シアトル酋長がアメリカ大統領に宛てたものです。彼は手紙の中で、白人が面白半分にバッファローを何千頭も撃ち殺していることにふれ、「動物がいなくなって、何が人間だというのか。もし、すべての動物が地上からいなくなってしまったら、人間は魂のひどい孤独で死んでしまうだろう」と述べています。
 彼の、
 
 「人間が命の糸を編んでいるのではない。人間はその中の一本の繊維に過ぎない

 と言う言葉は、近年ますます輝きを増しており、環境問題を語るときにしばしな引用されています。


2009. 08. 28  
  新しく買った間接照明器具は想像以上によかった。

  40Wの電球が三つついた柱状のものだけど、電球ふたつだけで充分本が読めるくらいの明るさに部屋が照らされる。均一に照らされる蛍光灯と違い、明かりとの位置関係で影がたくさん出きるのもよい感じ。高さは130センチくらいと結構大きい。
 
 部屋にインドのバラナシで買った、クリシュナとラーダの絵が描かれた布を吊っているのだけど、その後ろに照明を置くと絵がライトアップされてとてもきれいだった。 

 明かりだけでここまで癒される雰囲気になるものかととても驚いた。
 これなら、もうちょっとこのボロアパートに住んでもいいかと思うくらいだった。
 木造アパート、築○十年、六畳畳の部屋が、ジャズが似合いそうな感じになった(笑)

 照明がこころに与える影響とか、もっと研究されたり、もっと一般的に優しい照明が広がってもいいんじゃないかと思った。こういう明かり、精神的に鬱っぽかったりイライラが多かったりという人とかに絶対いいと思う。

 ちなみに買ったのはこれ↓
 http://www.nakanosyoumei.com/2_4.html

 植物もそうだけど、ちょっとした工夫で空間が快適になる。
 普通の日常生活や、生きること自体もそうかもしれない。
 
 小さなことに幸せに感じているなら、そんな急激な変化が起こって、多くの人が混乱するような事態を待ち望もうと言う気にはならない。

 もしこの先大変なことがいくつか起きるとしても、結局、自分の意識はそれらを待ち望むことではなく、自分や周りにとって少しでもより善き方にということに焦点を合わせていないと、こころ穏やかに暮らせない。

 結局先のことはわからない。
 だから今を大事にしたい。
 今を愛せるように、こころ穏やかになるように自分の周囲の場を調える。
 小さなことだけど、大事なこと。

 自分の空間は、自分だけのものではない。
 自分の肉体も、自分だけのものではない。 
 自分のこころも、もちろん、自分だけのものではない。 

 それは宇宙の場のひとつに含まれている。
 
 でもその場を浄化することは、自分の意思で行われなければならない。
 だから、宇宙に対して、僕は僕の世界の責任者であり、その場を保つある種の義務を負っているといえるのかもしれない。

  
        Hamon7.jpg

           おしゃれになった僕の部屋です(嘘)
2009. 08. 26  

  まんだらけで本を売って

  「ホピ的感覚」小原田泰久著
  と
  「癒しの思想」丸橋賢著

  の二冊を買った。

  「癒しの思想」は、歯科医である著者が、現代人に蔓延している歯周病と病む口腔内は、病む社会や自然と切り離して考えることは出来ないことを訴えた本だった。

 現代成人で歯周病の兆候がある人は90パーセントを越える。多くは重度には至ってないので、歯医者に行かなくてもすんでいることも多いと思うのだが、これは普通ではない事態といえる。

 というのは古代の人骨からは歯周病の痕跡が見つかることはきわめて稀であるかららしい。
 現代の歯科学では、虫歯、歯周病は歯についた食べ残し歯垢(プラーク)に発生する細菌によって起こるとされている。しかし、なぜ、現代人の口腔の中でそれが異常に猛威を振るうようになったのかという問題提起が行われている。
 それはどうも単に、ブラッシングが出来てないというような原因だけでもなさそうだという。 

 そして著者の思考は、幼い頃に川魚をとった故郷の川が、みかけは今も美しいが、農薬などの影響で「清らかな死の川」に変貌した事実、そして敗戦ののち異文化のライフスタイルが急激に取り入れられたことにより日本人の生活文化に破壊的な影響が生じたこと、それまでの価値の解体が進行したことなどを駆け巡り、それらすべてが日常的に自分が診察している病んだ口腔と無関係ではないことを認識する。

 ひとつとても面白いと思ったのは、戦後日本に輸入されたのは、アメリカ文化と呼ぶのは正しくはなく、「ニューヨークの文化」であると言う点だった。それは著者がアメリカを広く旅している時に気づいたことだと言う。

 「日本の伝統的な風景に比べ、新しく出来上がった東京の風景を見るとき、私は愚かにもこれは欧米の影響を受けて成立したものと漠然と理解していた。しかし、衣食住すべてに伝統を重んじるヨーロッパの文化と、現在の東京の文化はあまりにも違いすぎる。私はすぐに自分が誤解していたことに気づいた。東京の風景はアメリカの影響下に形成された文化の象徴であると。アメリカの占領下に成長を遂げてきた日本にとってこれは当然の結果である。

 しかし、私の理解はここでもまた大きく誤っていた。アメリカを、南はフロリダから、北上し経済の中心ニューヨークを経て、北部のボストン、フィラデルフィア等ニューイングランド地方へと旅をするうちに、この誤りに気づいたのである。戦後日本が受け入れたのは正統のアメリカ文化ではなく、伝統の浅いアメリカの中でも新興勢力であるニューヨークの文化であった。

 このニューヨークの文化とは、アメリカ西部と南部の文化と質を同じくし、ニューイングランド地方の文化とは質を異にしている。(中略)

 同じアメリカでも、ニューヨークに比べ、ニューイングランド地方と呼ばれる北部の、ボストン、フィラデルフィア等の街はまったく別世界である。人々は自由独立の革命を戦ってきた誇りを今も大切にし、街も美しく、道路も清掃が行き届き、身なりも清潔である。家はレンガ造りで、コンクリートがむきだしのビルは建築許可にならない。犯罪も少なく、安心して街を歩くことが出来るし、人々の表情に危険な雰囲気がない。そして、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、など有名な大学の集中する学問と教育の都市であり、ボストン美術館、ボストンフィルハーモニーで有名な芸術の都でもある。人々はアンティークを好み、レストランの食器も美しく、料理もおいしい。市民はニューヨークの文化をむしろ蔑視している。


 この本の初版は1984年、著者の気に入ったニューイングランド地方の文化も様変わりしているかもしれないし、ニューヨークはニューヨークで多くの人種が因習を越えてからみあうような自由な雰囲気があることもまた事実だろう。(行ったことがないので、情報による想像になってしまうが)

 だが、ニューヨークを代表とする、なにがしかの生活スタイルが日本を含め全世界に拡散していることは確かであり、それはニューヨーク文化というよりも、むしろ「非-文化」であるように思う。

 というのは文化と言うのはあくまでも一種の土着性のようなものから生まれるものであり、それゆえにもともと排他性や閉鎖性という「陰性」の性質も持っている。それはその土地に生きることによってはぐくまれるものであるので、外側から進入してそのバランスを壊そうとする力にはおのずから対抗して、異分子を排除する。しかし一方、その土地で生きるために必要な知恵を内包しているものだ。
 「陰性の性質」はこの知恵を守ろうとする働きの一側面と言える。
 
 これに対して資本主義をベースにして全世界に拡散する「ニューヨーク文化」には土着性が希薄だ。
 その土地固有の文化やルール、タブーの代わりに人々を結びつけ、動かせるのは、欲望に基づいた貨幣原理であると言える。
 そこでは大資本が、「文化」のベースとなる衣食住を牛耳るので、例えばニューヨークにはマクドナルドが数100メートルおきに立ち並び(という噂)、また大量生産される「ユニクロ」の衣服をみんなが着る。
 それらのものは安いし、簡単に手に入る。
 だが根本的に、「虚」の存在である。
 「非-文化」には人の生命力を活性化させるような、大地とつながれた力がない。

 僕ならばそれらは、ミヒャエル・エンデの童話「モモ」に登場する「灰色の男たち」の作った文化と呼びたい。灰色の男たちは、人々から時間を盗み、貯蓄させる「時間泥棒」である。 
 
 この「非-文化」にもある利点はあった。
 それは猛烈な勢いで富と物質を貪るその力が、全世界をグローバルに結びつけたということだろう。
 資本主義経済は歴史を加速化させるブースターの役割をした。
 しかし、世界を結びつける情報網や、交通経路と引き換えに、膨大な自然が破壊され犠牲になったことも事実だ。

 それは今話題の覚醒剤のようなものである。
 覚醒剤も一種のブースターだ。
 覚醒剤によって、人によってはクリエイティブな創作や、インスピレーションがひらめいたり、また寝ないで働けると言うのは事実である。しかし、そのあとには幻覚や妄想など重い後遺症が心身を蝕む。
 現代の「非-文化」による生活は、多くの人がつけをはらわないですむと思っている覚醒剤のようなものだ。
 この構造自体が個人の覚醒剤使用などよりもっと大きな問題をはらんでいると思う。
 だから逆に言えばシャブ的文明の中では、ある種の個人は、シャブでも使わないとやってられないとも言える。
 シャブ的世界を過剰適応することによって乗り切りたいと思う人は、覚醒剤や、また欝や神経症で処方されるSSRIに頼るかもしれないし、またそんな世界を拒否して精神を眠り込ませたいと欲する人はヘロインやアルコールを摂取する。
 そしてこの世界の亀裂やトリック、種明かしを開示するような、LSD、マジックマッシュルームなどは厳重に取り締まられている。
 
 僕は2006年の冬から、春くらいにかけて、原因不明の歯や歯茎の痛みに悩まされた。
 食べ物を噛むとそのあと、ひどいときは10分くらい涙が出るような痛みを感じるのだった。
 それが一月も二月も続くので、精神的にもかなりきつかった。
 歯医者に行ってもなかなか治してもらえないし、その時に玄米食に切り替えようかと考えた。どうもこの異様な痛みはなにかそういったサインであるとしか考えられなかった。
 結局レーザー治療のようなもので、その痛みは治まったんだけど、根本的な理由がわからず、また根本的な治療を受けていないような違和感が今も少し残っている。

 だから歯科医の人が書いたホリスティックな「癒しの思想」ということで、とてもひきつけられたということがある。
 基本的に癒しの本質というのは、ホリスティック(全体的な)ものだろう。
 というのは多くの病というのはホリスティックの反対である、分離から生じると言えるからだ。
 しかし現在の医療は、その分離から生じた、現象としての病という断片のみに視点を集中し、それを除去しようとするために病の本質を癒すことが出来ない。
 抗がん剤という猛毒で、通常の細胞も殺しつつ、がん細胞も殺そうとする発想はその最たるものかもしれない。

 最近では少しづつ心理的なケアと言うことも重要視されるようになりつつある。
 こころのポジティブな保ち方が、病を癒す力になるという考え方もある。
 またここは良質の精神世界と、現行の医療が融合しうるポイントでもある。
 しかし、「癒し」ということを本質的に考えるなら、特にその人が質の高い医療者であろうとするなら、どうしてもこの筆者のように、肉体-社会-自然 というように、それぞれの病がそれぞれの病の原因となっていると言うような視点にまで意識を高める必要が出てくる。
 
 それは「個」の病というのはあり得ず、個の病は即全体の病であると言う視点だ。 
 「個」の病は個を越えた全体とつながるとき、癒されうる可能性を持つ。
 そういう意味で、個の病を個の病としてのみ捉える視点が、すでに「病」を内包してると言えるのだ。
 「私」の病は「あなた」の病であり、「あなた」の病は「私たち」の病である。
 そのような認識に至っときに初めていろいろな糸口が見つかる気がする。
 



2009. 08. 24  

小原田泰久 『ホピ的感覚 預言された浄化の日のメッセージ』1995年 より




 ●帯津良一先生からのメッセージ

 「神戸での地震のことをテレビで見て、最初に浮かんだのは、(ホピの長老)マーティンさんの言葉でした。『日本は沈んじゃうよ』という言葉でしたが、そのときにはあまり実感は湧かなかったですけども、あの悲惨な光景を見せ付けられると、本当に日本が沈んでしまうんじゃないかという思いにかられました。

 地球だって、たまには怒ることもあるといっている友人もいますが、本当にそうかもしれません。
 私は「場」ということで、いろいろな現象を見ていますが、今回の神戸地方の地震は、場の劣化がもたらしたことだと思います。といっても、神戸の場だけが悪いと言う意味ではなくて、地球全体の場が悪くなっていて、その影響が、今回は神戸に出たということだと思います。ですから、いつどこで同じことが起こっても不思議ではない状態にあると思うんです。

 では、どうしたらいいかということになります。マーティンさんは「今、やっていることをみんなやめてしまえ」と言っていましたが、全部やめるというのは無理にしても、それに近いことはやっていかなければいけないでしょう。

 神戸も、ただもとどおりの街に復興させるだけでなくて、みんななぜこんなことになってしまったかをしっかりと考え、特に精神的なこと、私たちの生き方に関するところまで突っ込んで、この教訓を今後に生かしていかなければならないでしょう。

 個人個人の「場」というものは、その人だけの持ち物ではなくて、より大きな場につながっています。家族であり、仕事のグループであり、地域であり、国家であり、地球全体であり、太陽系であり・・・といった具合です。

 私たちはできる範囲で、場を整えていくことが必要だろうと思います。まず自分自身の場を整えます。それができれば、家族、仕事場といったところまで場を整え、さらに余裕のある人は、地域や国家の場のことも考えて行動してもらえばいいんじゃないでしょうか。
 そういった個人の力が、地球全体、さらには宇宙の場をも整えていくと思います。私たちは、まず、できるところから場の整備にとりかかっていく必要があるでしょう。

 その出発点として、私は「死」について考えることが必要になってくると思います。これまで「生」のことは一生懸命語られてきましたが、どんな領域の人も「死」にはあまり触れてこなかったと思います。
 私は、医療を専門としていますが、つねに「死」と向かい合っている医療者でさえ、あまり目を向けて来ませんでした。

 場の医療は「死」を前提にした医療です。死んだあともよく生きるということを考えなければいけないでしょう。その考え方を医療と言う範囲にとどめておくのではなくて、すべての人が「死」を原点にしてものを考え、行動することによって、場と言う概念が理解され、さらには場を整えることの重要性に気づけると思います。

  最後に、帯津先生が「死」をテーマにして書かれた文章で、『柏木』の1995年2月号に掲載されたものを紹介しておきたい。これは対談を通してカメラマンの藤原新也さんと知り合い、彼の著書『メメント・モリ』を読んで非常に感銘を受けたというお話しである。場とか死を考える上において、非常にとっつきやすく、参考になる文章である。(筆者)

 死の瞬間が、生命の標準時

 (前略)メメント・モリとは「死を想え」という意味だそうです。読んですぐに圧倒されました。これこそ養生の核心に通ずる本だと想います。死を想うことから養生は出発します。このことを私は長い間の医師としての体験から年を追ってつよく感じてきました。

 がんの臨床現場では数多くの死と付き合います。そのなかで、医療と言うものは生還のみを目的とするものではないことが少しづつわかってきました。死は誰にとっても、必ずいつかはやってくるものなのです。これを避けることはできません。というよりも私たち人間にとって、死はライフステージのひとつなのです。生・老・病・死と昔から言うではありませんか。生・老・病の三つについてはあれこれ考えすぎるほど考えるが、死は出来るだけ考えないようにするのは理にかなっていません。どれも平等に、私たちの人生の一部であることには変わりありません。

 それでもまだまだ、日本全体の医療の中では死はのけ者にされています。死を取り込まない限り、どんなに新しい医療が起こっても常に不満が残ると思います。私たちはもっともっと死と言うライフステージのことをよく知らなくてはなりません。まずは、メメント・モリなのです。

 というようなことを日頃、つよく感じ始めたときに、実にタイミングよく藤原新也さんに遭遇し、「メメント・モリ」を知ったのです。
 いきなり、暗い空に、きらきらと光る海の写真です。そして、その右端に、

 死の瞬間が、生命の標準時。

 とあります。
 世界の時間の標準時がグリニッジ時であるように、死の瞬間が、生命の標準時、つまり基準だと言います。

 一口に養生といっても、その捉え方は人によってはさまざまだと思います。しかし、一般的には、養生の目的はつつがなく天寿をまっとうすることだと考えられているようです。天寿をまっとうすることは確かに幸せなことです。しかし、天寿をまっとうしても、決して幸せとは言えない場合も数多く見てきました。九十歳まで、なにごともなく来た人が、最後の六ヶ月くらいは強度の死の不安にさいなまれるということもありますし、身体の動きは多少不自由でも、耳も目もしっかりしていて、周囲とのコミュニケーションもよく、多くの家族の暖かい介護の中で、こんな幸せな老後はないと羨まれていた人が、突然、性格の変化をきたし、周囲の人々に悪態をつき出し、周囲の人々も次第にもてあまし気味になっていくのを見るのはやはり悲しいものです。

 だから本当の幸せはただなんとなく長く生きることではなく、多少長短はあっても、生・老・病・死の各ステージをしっかりと生き抜くことではないでしょうか。そのためには、死の瞬間を生命の標準時にすることがどうしても必要な気がするのです。

 この世に生を受けた時点を基準点にして、先を見ていくのはどうしても多少の不安がつきまといます。生・老・病・死と言う順に進むとして、生のステージで、これから来る老・病・死を見ようとしても、今流行の言葉で言えば、先は不透明ということになるでしょう。
 ところが死の瞬間を基準にして、いわば遡って、手前のほうに見てくれば、これは反対に、だんだん近づいてくるのですから、嫌が応でも、よく見えてきます。

 こういう人がいました。乳がんが肺に転移したために入院してきました。六十五才の女性です。いろいろ治療をしましたが、病状は少しづつ進行し、全身の骨の何箇所かにも転移が認められるようになりました。腰椎の転移が原因でついに下半身が麻痺してしまいました。

 それまで自由に動いていた両下肢がまったく動かなくなってしまうのですから、本人の苦しみは想像を越えたものであったと思います。傍目にもそれがよくわかりました。しかし驚いたことに、その苦悩の期間はきわめて短かったのです。すぐに持ち前の明るさを取り戻しました。にこにこしながらテレビを見たり、編み物をしたりしています。そのうちに肺や骨の転移巣の進行が止まってしまいました。

 下半身が動かなくなったのは残念だが、その分、上半身の調子がよくなったというのです。咳は出なくなったし、食欲はあるし、頭もはっきりしていて、何も言うことはない。毎日世話をしてくれる家族にも心から感謝していると言います。

 この人は自分の時計の針を生命の標準時に合わせたなと思いました。その結果、自分の置かれている「場」がととのってきたのでしょう。こうなればしめたものです。この人にとっては、どちらさまも天国です。

 どちらさまも天国、これぞ養生の極意です。

2009. 08. 21  
 
  相変わらず、夜は蛍光灯をつけない暮らしをしているw

 大分落ち着いたので、別につけてもいいんだけど、夜は暗いほうが気持ちがいい。

  といってもこれだと本も読めないし、ネットを見るか音楽を聴くかくらいしか出来ないので、間接照明器具を買うことにした。

 いっそのこと石油ランプかなんかにしようかとも思ったが、とりあえず、電気で。

 http://www.nakanosyoumei.com/

 安いのだと5000円くらいからあるし、いろんな形があって結構見てると面白い。

 テレビも普通に見れるようになったけど、ニュースは見なくなった。

 昨年のリーマンショック以後、報道をチェックするのが癖になってついつい見ていたけど・・・・
 ニュース見てもしょうがない気がする。
 特に今は、のりピーシャブシャブフェスティバルしかやっていない。

 今年からずっと介護ヘルパーの仕事なので、仕事中は利用者の人と二人だけだし、割とひっそりとした環境で働いてきたけど、 最近電話世論調査の仕事をした。場所は苦手~な新宿。 だが電話の仕事は昔とったきねづか(ところできねづかってなに?)
 不安定な時に騒がしいことをしたくなかったけど、箱根へ行く前に決まっていたことなので仕方なし。
 
 つるつるしたアウトソーシング的オフィス空間で、パソコンのモニターに表示される、スクリプトどおりに喋りながら、見しらぬ番号に発信を続ける。


 終わって家に帰ると、まずサボテンとトウガラシとポトスたちにただいまを言う。

 暑さにぐんなりしてしおれかけてるやつがいると、

 こりゃ大変だとあわてて鉢を持って水道に走り、

 自分の疲れも少し忘れる。

 考えてみれば、昨年から、アセンション本はいっぱい読んだし、金融危機、新型ウィルス、気候破壊、太陽の異変、マヤ歴と日月神示と、オリオンとシリウスと、プレアデスが、あーでこーで、クラリオン星人がなんとかで、という話しはたくさん仕込んだけど、
 
 逆になんというか生命力から遠ざかっていたような感じがする。

 部屋にいのちがあってそれにエネルギーをもらったりするのは、シンプルなことだ。
 でも、大事なのはそれに「自分」が触れることだなと。
 頭の中の情報よりも目の前で生きているものが、多くのことを語っているし、また力をくれる。

 ペヨーテの精霊は、ひとつぶのコーンも未知の生命力のかたまりであることを教えてくれた。

 ウィリアム・ブレイクの素晴らしい詩の言うとおり!

 一粒の砂の中に世界を
 一輪の野の花に天国を見るために
 君の手のひらに無限を
 ひとときに永遠をとらえよ


 なにも多くを知る必要はないし
 知識と幸せは直接には関係ない。
 身近にあるものが生命の秘密を教えてくれる。


 鉢をいくつか枕元に置いて寝ると、気持ちがよいです。



2009. 08. 15  
  むみょうあんの廃墟シリーズを中野のまんだらけで売ると、4冊で1600円にもなったので、ポトスの鉢ふたつと、なぜか『トウガラシ』を二鉢買った。食べると辛いのでなにかアッパー系なのではないかと勝手に想像wしかしまんだらけ本売るのにいいな。ブックオフより全然高く買い取ってくれる。

 香辛料系は意外と魔よけになったりするのだろうか。
 吸血鬼はにんにくキライだし。
 いやーでも、吸血鬼がバラを持つと枯れたり、にんにくをいやがったりってもしかするとすごく植物の性質こついて学ばせてくれる伝承かもしれないな。

 バラは枯れてしまったのでサバイバーは、サボテンとにちにち草、それにポトス2、トウガラシ2。

 バラをたくさん買ったときに気づいたのだけど、花って集まるとこんなにエネルギーが強いのかとあらためて驚いた。なんかむせ返るというか軽く酔いそうになる。その『陽気』みたいなものに自分のなかの何かが抵抗している感じも。ポジティブすぎる元気な人がいっぱい集まっているような場所で、なんか一人になりたい~とかそう思うような感じと似ているような。

 しかし、そう感じるくらい自分と植物の間にはっきりと気の交流みたいなのものが存在するのがなんとなく感じられて面白い。
 生きてるものが部屋の中にあると、こんなに感じが変わるのかと改めて思った。
 今までたまに気まぐれで花の鉢を買ったりしたことはあったけど、こんなに大量に植物を部屋に置くことはなかった。その存在感や、生命力みたいなものを改めて感じると生きてるものってすごいな~と思う。

 相変わらず、夜は蛍光灯は消して玄関の明かりだけにしているけど、昨日は岩塩キャンドル立てにろうそくを入れて火をつけてみた。
 火が揺らめいて、まばたきしている。
 火がある。
 火が生きている。

 少なくとも蛍光灯などの普通の照明よりは、そこにある『火』は生きた存在として感じられる。
 『火』にもなんらかの命が宿っているのかもしれない。
 それがそこに燃えていることで、なにかリアルな力の存在がある。
 火をともすことで、ひとつのリアルな力が出現している。
 昔はランプを使っていたのだろうか。
 それは常にまたたいてはゆれて、家具や人の影を揺らめかせ、空間を呼吸させていたに違いない。
 それは安定感のある照明ではなかったかもしれないが、あたたかかったのではないだろうか。

 現代に生きる人は、魂のない空間に囲まれすぎているのかもしれない。
 オフィスで働いているときになんでこんなに全部がつるつるしてるんだろうと急に違和感を感じたことがある。この机にしても木の机にするだけで、ずいぶん職場に潤いが出るのになとか思った。

 昨日、眠りに落ちる前、I先生が僕に一枚の写真を突き出しているイメージが見えた。

 どこかの森の中で大きな木があって、幹の間から太陽が輝いていた。

 屋久島か、北海道か、信州か
 どこの森かはかわからないけど、いつかそんな森で暮らすような時間を持ちたい。

 090815_1716~01

 不動明王ならぬ、トウガラシミ明王様
 
2009. 08. 13  

  8月4日箱根へ旅行。

  むこうで調子が変になり、東京へ帰ってきてからずっと不安定でこの一週間ほどきつかったがようやく落ち着いてきた。

  まだ神経が若干過敏な気もするけど、普通の日常感覚が戻ってきた。   
 

  結構厳しかったが、学ぶことの多い経験だった。
  この体験に凝縮されていたものを整理中。

  助けていただいた皆様ありがとうございます 

  とりあえず、大丈夫っす。

   090804_1715~02

  芦ノ湖湖畔 からの富士山

2009. 08. 13  
  
  なんかエネルギーあがっちゃってます。
  日蝕以降の不安定さは恩寵とセットだったのだろうか。

  食欲なし、なんも使ってないのにヤクの切れかけのようなパキパキ感継続中。
  難しい文章が読めない(笑)
  騒音耐え難い。

  はっと気がつくとたまに底なしの不安。

  いつまで続くんだろう・・・。ちょっと疲れる

  アルコールと安定剤で神経休める。

  でも神さまにゆだねることでちょっと落ち着いてきた。

  花もサボテンも力になってくれたかな。

  枯れちゃったし。

  問題は自分がどういう状態にあるかということよりも、それに逆らったり、不安恐怖を感じることからくる。

  でもどうしても逆らえない流れもある。

  そういうときには力を抜いて流されていったほうがよい。

  もがくと石や流木にぶつかってぼこぼこにされる。すっかりゆだねる。難しいけど。

  ゆだねるしかないことは、ゆだねざるを得ない状況で初めて理解される。

  例えば『死』や、『狂気』の前で。

  疑いに基づく不安や恐怖が人を苦しめる。

  すべては愛ゆえに起こっていることが回答になり、神にゆだねる理由となる。
 
  

2009. 08. 09  
  8/8 I先生の個人セッションに。

  7月22日の日蝕以降、なんか不安定気味の精神状態について相談したのだけど、途中で、

  『M君の部屋ねなんかありそうだね・・・・ネガティブソースのものが。』と言われる。

  『相当強力なエネルギーを放ってるもので、ソースがサタンぽいのが・・・心当たりない?本とか

  一番先に思いついたのはむみょーあんのシリーズもので、読んでないけど特殊な本なので捨てがたく押入れにしまいこんである。あとはなんだろ・・・アレイスター・クローリーの本とか、カバラ魔術系の本、あとドラッグ系か。アセンション系のも怪しいっちゃ、怪しいけど。まあ、サタンソースかどうかは僕にははっきりわからんので違和感のあるものや読んでないものはなるべく捨てようかと思った。

   怪しそうなものを捨てるか、古本屋に売って、かわりに生命力を感じさせるような観葉植物や花を買ってくることを勧められた。なかでもバラの花は陰の気を吸い取る浄化力が大変強いという。吸血鬼がバラを持つと枯れてしまうのはそういうところから来ているのだろうか。

 『われわれが力をもらってるのは虚無や、無ではないから、この世界の精霊の力だからね。だから植物とか花とかこの世界に引き戻すようなインパクトを持つものを部屋に置いておくといいよ。陽の気を放つものを』

 一度徹底的に掃除をして、いらないものや違和感を感じるものは捨てたほうがよいというサインは感じていたけど、伸ばし伸ばしになっていたので、今度こそやろ・・・・。
 
 生命力・・・・ということで思いつくのは、僕はよく狭いシャワー室のようなせまくて真っ白な空間で、蛍光灯の光だけがついてるような空間で不安に襲われることが多いと言うことだった。
 蛍光灯とテレビの組み合わせも最近気持ちが悪いことがある。

 対極的には、最近緑の多い公園で簡単な気功や、太陽からエネルギーを取り入れる行法をしてるととても落ち着いて充実感を感じたことを思い出した。

 最近部屋にいると落ち着かず、来年になったら引越ししようかと思っていたが、今いる場所でもうちょっとやれることをやったほうがいいのかもしれない。

 ちなみにI先生も蛍光灯はあまりダメということで、セッションの部屋は暖色系の薄明るい照明になっていた。

 不要なものを捨てて、気持ちのよくなるものを取り入れるというシンプルなことだけど、これがなかなか重要性が気づかなかったことが不思議だ。環境に働きかける力と言うか。どっちかというと『片付けられない男』(ものが捨てられない)に近いが、がんばってなるべくいい空間に変えてみたい。

 あと『M君、サボテン育ててみたら、サボテン!』とやけに勧められた。
 なんでもペヨーテやサンペドロなど幻覚成分を含んでる植物は精霊のパワーも強力らしい。(ぺよーて(和名ウバタマ)は多分普通の花屋では売ってないけど)

 昨晩もどうも落ち着かず、夜に散歩をしていると、ぐらぐらっと震度4の地震。
 空も曇ってるし、すっきり晴れてて・・・湿度の低い高原にでも行きたいと思った。
 大気の状態や地殻の状態、人の心、結構今不安定期では・・・。
 そういう意味では安定した自然のエネルギーは助けになる。

 とりあえず普通のサボテンと、バラと、にちにち草をさっそく買ってきて、住んでもらうことにした。
 
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まだ枯れてない。

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 バラと言えばこんなちょっと素敵な一文がアル。

 なぜ人はバラが好きなのか

 人がバラを好むのは
 バラが私たちの睡眠中に
 私たちの幼児期の最初の思い出を
 受け取ってくれるからなのです
 そのことを知らなくてもそうなのです
 

 ルドルフ・シュタイナー

 このような詩的な(フィクションと言う意味ではない)自然に対する捉え方は、個性や特性を付与するのでそのものの生命とつながる見方だと思う。


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うーん、こいつは生命力強そうだ~~。波形がよいな。
守護精霊になってもらおう




2009. 08. 08  
2002年 7月 ペヨーテ

  神の内なる自我の戯れ  愛の中に死ぬことにためらいはないと思った
  愛に動かされている ハイヤーセルフのハイヤーセルフ

  2002年 8月  F*O*X*Y

  神  銀河の中の『目』  限りない闇  亀裂 死 狂気 かなたへの恐怖 マインドの狂気 サタン 

  憧れと恐怖

  どちらも神様からの贈り物

  答えを最初に見た

  乗り越えるものをその次に見た 

  ふたつをひとつに

  陰と陽をひとつに

いつか死にゆくこの身だからこそ
  神へとかえるこの意識であるからこそ

  すべてを神に委ねられるように

  

     eclipse.jpg
   

2009. 08. 06  
  不安から逃げれば逃げるほど、不安は増幅する。

  不安と言う状態を不安がることによって、不安はエンドレスに大きくなる。

  不安という状態を解消させようとリラックスしようとする行為自体が、不安から逃げるという要素を含んでいるために時に役に立たなくなる。

 最終的には、不安に対して開き直るしかない。

 来るなら、来いと言うしかない。

 その時に、それがまったく実体のないものであることがわかる。

 不安から逃げていたことが問題だったのだ。

 逃げていたことが問題だったのだ。

 問題から逃げていたことが問題だったのだ。

 逃げることによって、問題を問題としていたのだ。

 問題を問題視するから逃げていたのだ。

 何も問題はないのなら、何からも逃げる必要はない。
プロフィール

はいたか鳥

  • Author:はいたか鳥
  •  Only in silence the word,
     only in dark the light,
     only in dying life :
     bright the hawk's flight on the empty sky


     ことばは沈黙に
    光は闇に
    生は死の中にこそあるものなれ
    飛翔せるタカの
    虚空にこそ輝けるごとくに

    ゲド戦記 エアの創造より


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