2009. 09. 24  

  パソ君がまた仮死状態になったので、1、2週間~一月くらい更新お休みさせていただきます。

  PCの方のメールチェックできないので、お返事など遅れるかもしれません。
  すみませんがよろしくお願いします。

  
  
2009. 09. 23  
  ホピ族の世界創世神話

  太字部分はフランク・ウォーターズ著「ホピ 宇宙からの聖書」より
  通常書体ははいたかの、見解、もしくは解説などです。
  ホピの神話はよくアセンションを説く人にも引用されますが、かなり簡単に紹介されているときらいが思います。詳細に読んでみると非常に味わい深いものでした。

 


  第一の世界(トクペラ)

  最初の世界はトクペラ(無限宇宙)と言った。
  だが、ホピによれば、初めは創造主タイオワしかいなかった。それ以外は、すべて無限宇宙だった。始まりもなく、終わりもなく、時も空間も、形も生命もなかった。始まりと終わり、時、形、生命をタイオワの心の中にもつ、推し量ることの出来ない無の世界のみがあった。

 次に無限者は有限をはらんだ。初めに、彼はソツクナングを創造して現しめ、こう告げた。
 「わしは、無限宇宙の中に生命をつくる計画を遂げるために、お前を人として第一の力と器に作った。わしは、おまえの伯父じゃ。お前はわしの甥じゃ。さて行ってわしの計画通り互いに調和して働くよう、宇宙を秩序正しく整えるがよい」


 有限者であるソツナングは、無限者タイオワの世界創造の命を受けて創造された。
 直に創造行為を行うのは、このソツナングとなる。
 無限者と創造世界の間にはワンクッションあり、そのワンクッションとなるのが有限宇宙の統括者である。
 ホピの神話ではソツナングは男性神のようだが、位格的にはラーマクリシュナがマーと呼んだ、宇宙母神、ブラフマーの妻となるサラスバティーと同じ位置にあると思われる。
 カバラ宇宙では、この有限者が創造されたことにより、ケテル、ビナー、コクマーの至高の三角形が完成する。三角形は原初の「かたち」だ。

ソツナングは命じられた通りに行った。無限宇宙から、固体として現れるものを集め、それをかたどり、九つの宇宙に整えた。一つはタイオワのため、ひとつは自分のため、そして七つの宇宙はのちの生命のためである。終えてのち、ソツナングはタイオワのもとに行き、「これはあなたの計画に沿っていますか?」とたずねた。
 「上出来じゃ」タイオワは答えた。
 「さて、水についても同じようにしてほしいものじゃ。これら宇宙の表面に水を置き、それぞれが等しくわかれるように」

 そこでソツナングは水として現れるものを無限空間から集め、それらを宇宙ひとつひとつの上において、それぞれが半分固体、半分液体となるよう配慮した。彼は、次にタイオワに向かって言った。
 「わたしのした仕事をごらんください。あなたの意にかなったものかどうか。」
 「上出来じゃ。次に、万物の上に風の力を穏やかに動かしてほしい」
 ソツナングはこれを行動に移した。無限宇宙の中から彼は風となるものを集め、それを大いなる力に造り、宇宙一つ一つのまわりを穏やかに動くように配置した。
 タイオワはこれを喜んだ。

 「甥よ、わしの計画に従ってよくぞ仕事をはたしてくれた。お前は宇宙を創造し、それらを固体と水と風の中に現しめ、正しく配置した。だが、まだ仕事が完成したわけではない。生命とその動きを作り出し、わしの宇宙計画の四つの部分ツワカキを完成させて欲しい」


 次にタイオワのしもべであるクリエイター、ソツナングは第一の世界トクペラとなる宇宙に行って、女を創造する。彼女の名はコクヤングティ(クモ女)と言う。クモ女は第一の宇宙に生命を創造するために造られた。創造主ソツナングによりつくられた、より下の位階の創造主である。
 このような創造主の入れ子構造は、グノーシスの神話にも見られ、しばしば、より下位の創造主は魔的な存在(デミウルゴス、アルコーン)とみなされることもある。
 しかしこの段階ではクモ女は悪の属性は付与されていない。
 悪の属性は、宇宙をクリエイトする存在が、より上位の秩序を忘却するか、あるいはそれに反逆するときに与えられる。絶対者を忘れたときに、自らが宇宙の創造者だと錯覚することが出来るからだ。

 ソツナングはクモ女に命じる。

 「まわりを見よ。われわれの創造した地球がここにある。そこには形と物質、方向と時、始まりと終わりはあるが、生命だけがまだない。喜ばしい動きがない。喜ばしい音がないのだ。音と動きなくして、生命があるだろうか?そこで、生命をわれわれが創造する手助けする力が、あなたには与えられている。また、あなたの創造するすべてのものを祝福する愛と知恵、知識も与えられている。あなたがここにいいる理由は、それである」

 ソツナングの指示に従って、クモ女は土と唾液を混ぜ合わせ、それをかたどり双子を創造する。
 双子の名前をポカングホヤと、パロンガウホヤと言った。

 クモ女は、右のものに言った。
 「あなたはポカングホヤ。あなたは、生命が芽生えるときに、この世界に秩序を保たせるのです。全世界に出ていって、地球が完全に固まるよう、あなたの手を差し伸べなさい。それがあなたの義務です」

 クモ女は、次に左のものに向かっていった。
 「あなたはパロンガウホヤ。あなたも生命が芽生えるときに、この世界に秩序を保たせるのです。全世界に出てゆき、どこからでもきこえるよう音を送り出しなさい。これがあなたの役目です。これが聴かれるときあなたは「こだま」として知られるようになるでしょう。すべてのものは創造主のこだまなのですから」

 ポカングホヤは地球を隈なく旅して、高い場所を山々に固めた。また低い場所も固めたが、のちにそこに置かれるものたちが使えるよう、柔らかくしておいた。
 パロンガオウホヤは、地球を隈なく旅して、命じられたままに声を響き渡らせた。両極を貫く地軸に沿った波動センターのすべてが、彼の呼び声に反響した。全地は震え、宇宙は共鳴して揺れた。こうして、彼は全世界を音の道具にして、音を情報を伝えるための、そして万物の創造主への賛歌を響かせるための道具にした。
 「伯父よ、これがあなたの声です。万物があなたの音に反響しています」とソツナングはタイオワにいった。「上出来じゃ」とタイオワは答えた。


 両極を貫く地軸に沿った波動センターというのは、チャクラを連想させる。
 パロンガウホヤの発する声によって、この地球のチャクラが共鳴する。
 この仕事ののち、ポカングホヤは北極に、パロンガウホヤは南極に送られて、世界を秩序正しく回らせる役目を担う。

 「これが今後のあなた方の役目です」とクモ女は言った。

 次にクモ女は、さまざまな植物と、鳥や獣を創造し、世界は生命に満ち溢れた。
 そしていよいよ人間の創造が始まる。

 クモ女は、今度は赤・黄・白・黒という四つの色の土を集め、口の中のツチュバラ(唾液)をsれぞれに混ぜて形を作り、創造の知恵そのものである白いケープでこれを覆った。前と同じように創造の歌をこれに向かって歌い、そして覆いを取ると、ソツナングそっくりの人間たちがそこにいた。次に、彼女は自分の姿に似せてさらに四人の人間を作った。これが最初の4人の男のパートナーとなる女たち、ウティである。

 クモ女がケープを外すと、形は生命となった。これは濃い紫色の光コヤングヌプトの時代。人間の創造の神秘を初めて明らかにする創造の第一段階であった。
 彼らはすぐに目を覚まし動き始めたが、まだ額の上は湿っていて頭頂には柔らかな点があった。これは、黄色い光の時代シカングヌカ、生命の息吹が人間の中に入る創造の第二段階である。
 短い時間のうちに太陽が地平線の上に現れ、彼らの額の湿気を乾かし、頭頂部の柔らかな点を固めた。これは創造の第三段階タラウバ、赤い光の時代であり、このときに人間は完全に形をとって固まり、創造主を仰ぎ見るようになった。


 しかしクモ女が創造した人類は言葉を持たず、彼女の呼びかけに答えることができなかった。
 そこで彼女はソツナングを呼び、訴える。 

 「ご命令のとおり、最初の人間を創造しました。彼らの姿形は完全で、肌の色も正しく、生き、動いていますが、話すことができません。それがかけています。そこで、話す力を与えていただきたいのです。また知恵と生殖力をも。彼らが生きることを愉しみ、創造主に感謝できるよう」

 そこでソツナングは互いの違いがわかるよう、肌の色に従って違った言語を与えた。また、知恵と生殖し増えるための力を与えた。次にこのように告げた。

 「わたしは、あなた方が生き幸せになるためにこの世界を与えた。ただ一つ、あなた方に求めることがある。いついかなるときにも創造主を尊ぶこと。知恵と調和、そしてあなた方の創造主の愛を尊ぶことである。それが成長し、あなた方が生きている限り忘れられることのないように」

 こうして、最初の人類はその赴くところに行き、増え始めた。




2009. 09. 18  
  16日(水)、吉祥寺「からだはうす」のチャクラブリージングミニワークショップに参加する。

  実は、ここ7年前の2002年にも行ってホロトロピックブレスワークを初体験したところで、その時に体験談をHPに掲載してもらったことがあった。

 ので、もしかしたら顔を憶えてもらってるかな~と思ったが、
 「いや、実は7年前にも参加しまして・・・」と言うと主催者のTさん、

 「え~そうなの!」と過去の参加者の名簿をぱらぱらめくるが、

 「ごめん、憶えてない!」と力強い返事が返ってくる^^;
 でも他の参加者の人が、「はいたか君?彼とドラッグの話とかしてたじゃない。なんで憶えていないの?」と。僕が前回ペア組んだ女性だった。

 「え、そう!?俺滅多にドラッグの話はしないんだけどな。そのうち思い出すかも」
 と言いつつ、Tさんの記憶は戻らず(笑)
 しかし前回もこの、Tさんの裏表なさげなキャラに好感を感じたことを思い出す。

 今回、相方と二人で参加したので、まずは前回と同じく初心者用のレクチャーを彼女と一緒に聴く。
 チャクラブリージングは、それぞれ身体の中でエネルギーのブロックが出来やすい、胸やのど、下腹部などをそれぞれ対応した音を発して振動させていくというもの。
 例えばムーラダーラには「ウ」をぶつけ、丹田には「オ」を、アナハタには「ア」を、ビシュナダには「エ」を、アジナーには「イ」を、サハスララには「ン」で振動させる。
 ブロックが大きい箇所はそれに対応する音がうまく出ないのだそうだ。

 「現代人はみんなのどが絞まってるんですよ。みんなスーツ着てる人を見て安心するのは、あれはネクタイで首を絞めてるからだね。だから自分を抑圧してますよって言うサインなんだ。僕みたいなこんな格好でそとふらふらしてたら、何されるかわからないって思うでしょ?(笑)でもスーツにネクタイだと自分で首を絞め

<以下、記事消滅>

2009. 09. 12  
  8月、調子がおかしかったとき、I先生のの個人セッションに行って

  「神さまはM君に、バクタになれって言ってるんだよ^^」

  という言葉をもらった。

  僕はバクタという言葉の響きが好きで、メルアドの一部にも使っている。
  神への愛と献身を、バクティというけど、バクタはバクティを行う人のことだ。
  しかし今では、まったくバクタには程遠い自分がこんなメルアドにしたことをやや恥ずかしく思っていたりする^^;
  神様への愛を感じていたいと思うけど、ちょっと困るとすぐにじたばたと暴れて、天に疑惑の目を向けかねない僕である・・・。
  
 しかし、自分の中の恐怖や不安を克服できるのは、やはりさまざまなレベルでの愛の存在なのだろう。今年最初の修道会で、愛についての話を長い間聴いていた。他の部分はちょっとコア過ぎて出せなくなったけど、ここの部分なら大丈夫かと、お蔵入りになった修道会日記から出してみる。





2月28日の修道会では秘教的な話しが多く、それをブログで書くことが出来なかったのだけど、そんなコアな話しのあとで後半40分くらい部屋のエネルギーの質が変ったような気がした。

 それはI先生が、昔墓石屋さんで働いていた時に、交通事故で亡くなった女性のお骨を別のお墓に移すにあたって、炎天下でその作業をしていた時の話しが始まった頃からだった。I先生はターラ菩薩のマントラを唱えてその女性が『母』の元へ導かれるように供養をしたということだった。すると夜にその女性が現われて、お礼を言って上がっていったという。

 僕は何かその話しを聞いているときに、普通以上に感情が動いて、なまなましくその場を見ているように感じた。
 その後いろんな霊能者との出会いなどがあって、徐々にI先生が、セラピストを経て、覚醒を体験し人を教える道へと入っていったということだが、その出来事がひとつの転機になったという。

 そのあとどういう経緯を辿ったか忘れたが、愛についての話しになった。
 
 
 やっぱり大事なのは神との愛なんだよね。それがあった上で覚醒してこそ初めて、覚醒だと思う。それがないのに覚醒するってサタンのものじゃない、まあ言ったらね。だから例えばマハラジ(ニーム・カロリ・ババ)の『愛という奇蹟』っていう本あるでしょ。あれなんか読んでると厳しい人だけど、すっごいマハラジの愛を感じるじゃない。

 灰:ああ・・・いいですねえ、あれは。

 あの境地だと思うんだよ、やっぱり。ラーマクリシュナもそうだし、ラマナもそうなんだけどそこにある絶対の愛って言うかね、それがまず大前提としてある。絶対的な愛がまず大前提としてある、その上の覚醒だからこそ正しいものになるんであって、それがないところに覚醒したら逆の道往きだよ。

  我々は遅かれ早かれ愛を知ることになるんだけど・・・そのやっぱり・・・愛にさあ・・・生きられるようになるって事が重要なことだと思うから。
 だから今のM君の、わかんなくても、神様があって、その神様を日々感じてることが出来て、マーヤが来たらそれがわかんなくなるから、そのマーヤを取ってそれで神を感じて、愛があってそこで、それで満たされてるってなんて素晴らしいんだろう、これ最高じゃないかって思えることの積み重ねって言うのがM君の人生を完璧なものにしていくと思うし、それがM君にとってちょうどいいところでね、早過ぎずも遅すぎずもしないちょうどいいところで、パンって覚醒すると思う。


・・・・「これ」がもしなかったら自分の人生は恐ろしかっただろうと、もう十分もらってる気がします


 「これ」が愛なんだよ、言ったら。愛だし、M君の中でプチ覚醒っていうのが起こってるわけ、言ったら。それは自分の「感覚」が神を認識できてるってことなんだよ。ただM君は自分のマーヤがまだちょっと強すぎて、完全にそっちに鞍替えすることが出来てないだけのことで。M君のなかで自分のマーヤが完全に取り除かれれば、もうそっちに行っちゃえるわけだよ。その自分を捨てられるようになるか、ならないかってことがやっぱり覚醒のポイントだと思うから。その自分を捨てるって言うか。我を捨てるって言うか・・それは仏教で言うようなそういうことじゃなくて・・・言ったら神のために自分を捨てられるって言うか、愛のために自分を賭けられるって言うか、そういう意識に自分がなった時にね、神に全てをお預けして、お委ねして、どうぞ御身のままにってなった時に、自分のこもごもとしたものを越えて神の力が完全にM君の中に入ってきてその力と一体化すると思うわけ。それが自然な道だと思う。

 俺は思い込みみたいなものはことごとく払拭させていきたいと思うから、俺が教えたいのは、神があること、愛があること、愛が一杯になってること、それでマーヤがあると知ること、でそれを解く事。それを繰り返しやってて、修道会なんかでこうやって神と共に座っていれば自分の中に神の力は流れ込んでくる。その証拠にクンダリニーも動く(笑)その証拠にバキバキにもなる。その証拠に酔いもする。それは今M君の中で天につながるトンネルを突貫工事で掘ってるところだから、言ったら。

 あとM君の中の今のその気持ち、それがあれば遠からずやってくるよ。なんつーとね、また期待が広がっちゃうからね(笑)そういうことでもないんだよな。



 微妙な世界ですね・・・(笑

  ・・・ああ・・・わかる(悟る)ということは、すごいことだけど、やっぱり大事なのは愛だからさ・・・うん。神に対しての、自分に対しての、そして人に対しての、生きとし生ける者にたいしての・・愛のエネルギーって言うのはものすごいエネルギーだから、そのエネルギーは完全に自分を変えてしまう力を持ってるから。
 

 灰:愛って言うのがわかってなかったんだなってことが、ちょっと分かってきたような気がするときがあります。本当はちょっとバケモノ的なところがある言葉ですよね

 うん、愛の真の姿・・・言葉じゃなくて、言葉を越えたその言葉が指し示すもの・・・

 灰:それが少しづつ自分を変えてきたのがわかります。

 そうだよ・・・愛によって人は生かされて、そしてその愛に気付くことによって人は変わっていく・・・ね?今この部屋にみなぎっているこの圧迫感。これは愛そのものだよ。

 灰:リアルなものなんですね。

 こんなにリアルだ(笑)これが神なんだよ、だから。これがすべてを支配してるから、本当は問題なんてなにひとつないんだよ。

                                    2009/2/28




 この日に感じたエネルギーのようなものはとても強く、ふらふらしながら帰宅した。  
そして覚醒のタイプについてや、その他のコアな話しを聴いてるのは大変面白かったが、直接にハートを溶かされるようなこの愛のエネルギーの強烈さをひしひしと感じた。
 なにか口を開いて喋ると、そのまま泣き出しそうな感覚に襲われた。

 2007年の最初のリトリートに参加したときもそれをリアルに感じた。

 いつも通り様々なドラマや、波乱があった二泊三日の最後のセッションでI先生は『みんな、美しいよ、美しい』と言った。その時に胸の中からこみあげてきた泣きたいようなあの感覚はなんだったのか。実際に、床に伏せって泣いてる人もいた。セッションの途中部屋に入ってきたスタッフの方は、すぐその場のエネルギーに気づいて、胸に手をやって「・・・すごいね」と言っていた。

 その頃から、次第に『愛』とか『智慧』と呼ばれるものは抽象的なものではなく、実体をもったバイブレーションなんだと、実在するリアルなものなんだとはっきり思うようになった。その振動で揺れている空間、その振動を発している人、それは確実に存在している。

 だからこそ、例えば集団を巻き込んでそのような熱狂を繰り広げた「和尚」はあちこちの国で入国を禁止されたし、「イエス」も時の為政者から迫害されたのだと思う。だから永遠の哲学(=神や悟りの教え)は半ば秘教的に教え継がれてきた。
 でもおそらく現代という時代は、多くの覚者が世に出たり、また準備が出来ている人には肉体を持った師に会わなくても自然と目覚めが起こるような時代に入っているのではないだろうか。

 それがよく言われている「アセンション」と同じことなのかは僕にはわからない。
 ただ現代は、多くの人にとって修行の最終ステージなのではないかと、漠然とそんな感じがする。
 だからこそ多くの秘教的だったことが明らかになり、そしてそれらが統合へと進んでいるような気がするのだ。

 そこで、自分にとって道を歩むためにいつも大事なキーワードとして出てくるのが、どうやら「愛」であるとか「信頼」であるとからしい。
 しかし、愛の中で自分を捨てるとか、越えるとかというところには果たして行き着けるのかと思うし、今そのことを考えると恐怖すら感じる。

 それは「死」の問題とも関わってくる。

 だが今は直接対決はしないことにしている。
 なるべく生命であるとか、つながり、に意識を向けていたい。

 最近よくサークルと言う言葉が浮かぶ。
 趣味のサークルとかそういう意味ではなく、サークル(円環)をつくるということがいろんな意味で重要なのではないかと思う。
 安定したエネルギーの流れは、サークル型になっている。
 円卓は昔会議などでよく使われたし、虹は本来円形をしているという。

 エネルギーはただ自分が一方的に受けるのではなく、受けたものは形を変えて、また相手を変えて次に回していく。そうすることで自分が導管になる。するとそれは巡り巡って自分のところに帰ってくる。それを繰り返すことによって全体のエネルギーが向上していく。
 つまり全体が導管になってさまざまなものを回していけば、いやが上でも全体の幸福度は高まらずにはいられない。そんなイメージがよく浮かぶ。
 エネルギーの流れがサークル型になっていない、ピラミッド状だと、上に行くほどエネルギーが集まり、小数の幸福が多数の犠牲によって成り立つと言う構図になってしまう。

 まあ言うは簡単で多くの人がそんなことはわかっていると思うけど、それを実行するのがいろんな制約で難しかったりする。でもなるべくそういう意識で生活したいなーと思う。

 それに関しては、ネイティブアメリカンの伝統が語っているように、すべてを兄弟姉妹(人間だけではなく生きてるものすべて)ととらえるというのはとてもいいのではないだろうか。
 神という視点から見れば、植物も、動物も、また自分がちょっと苦手な人も、好きな人も、ひとつの絶対なるものを母体として生まれてきている。すべてはつながっていて、相互依存して存在している。

 日本はまだどこか競争社会なので、人より優れているか劣っているかというところで判断してしまいがち。しかし本来兄弟姉妹であるなら、ベースは平等であり、またサークル型の世界がつくれても不思議はない。 勝ち組や、負け組と言う言葉があるけど、それはサークル型の世界では出てこない。

 だってそもそも兄弟相手に勝った負けたもないもんだし、
 物質的に多くのエネルギーを得ると言うのが勝ちなら、困った人を応援する責任を負うことになるよ。 

 実際に社会が変わるには時間がかかる。
 でも、自分の頭の中だけでも、生きている仲間との平等なサークルが出来れば、その為に祈りたい気持ちになれれば、少なくともそのことが小さな救いとなるように思う。

 よく文章を引用していた「イーグルに訊け」には、こんな祈りの言葉が載っていた。
 時々眠る前にローソクを灯し、これを唱える儀式をしているw


ありがとうございます。ありがとうございます。ピラミア。すべての愛に、人生のあらゆる瞬間に与えてくださった無条件の愛に、ピラミア。あなたの理解の深さに感謝します。生きる道を理解すること。あなたの目を通して人生を見ること。愛、あなたからいただいた無条件の愛を感じること。また、そのように愛することを学ばせていただいたことに感謝します。 偉大な師であられますことに感謝します。

 わたしの祈りを聞いてください。おじいちゃん、おばあちゃん、トゥンカシュラ、イーナ。人生の真ん中に立つと、あなたがわたしの上にも、下にも、そして、わたしの回りにいつもいらっしゃるのがわかります。おじいちゃん、おばあちゃん、私が星の国や、私より先に歩んできた親戚の皆に、そして、私のあとについてくる7世代のすべての人に取り囲まれているのを知っています。私を守り、見守っていてくださることに感謝します。あなたの解き放つ光で、すべての生き物を包み、抱いてくださることを感謝します。

 私の祈りを聞いてください。あなたの目を通してものを見、あなたのこころを通して感じ、私たちがすべての生き物とつながっていることを決して忘れぬように、力を貸してください。そして私たちがどんなに特別な存在であるかを決して忘れませんように。私たち一人一人がかけがえのない存在であり、私に代わるものはなく、あなたが命を与えてくださった子供の一人であることを決して忘れぬように力を貸してください。この世に私は一人しかおらず、この世を去ったあとも、私にかわるものはいないでしょう。ですから、私に力を貸してください。あなたのすべての子供たちが、自分たちの命を精一杯使って生きられますように力を貸してください。そうすれば、喜びと健康と笑いがあふれ、尊敬と分かち合いが満ち溢れます。そして、それをすべての兄弟姉妹とわかちあうことができます。どうか私の祈りをきいてください。

 今日の日に感謝します。私が生きてきたすべての日々に感謝します。私が受け取り、経験させていただいたすべての贈り物に感謝します。

 私の祈りをきいてください。あなたに感謝するために祈ります。ピラミア。ありとあらゆる生き物のために祈ります。すべての生き物があなたの声に耳を傾けますように。すべての生き物にあなたの歌が届きますように。すべての生き物に、今よりもっと素晴らしい世界、新しい世界が待っているという希望、大きな希望があることが伝わりますように。これが、私の祈りです

 Ho Mitakue Oyasin Ho Mitakue Oyasin Ho Mitakue Oyasin
  (わたしたちは すべてのものに つながっています)



 一部を抜粋
 ピラミア:ありがとう
 トゥンカシュラ:神、おじいさん 


 誕生日前、もらったドリーン・バーチュのカードを一枚引く

 
090911_2249~01



 Trust(信頼)

 ●あなたは正しい道を歩んでいます。

 そうだといいなあ(T T

 ピラミア☆


2009. 09. 08  
 ナンシー・ウッド著 「今日は死ぬのにもってこいの日」(原題:MANY WINTERS)より





 ね、ほら、わかるよね
 いろんな人がここへやってくる。そして俺たちの生き方の秘密を知りたがる。
 やたら質問するのだけれど、答えは聞くまでもなく、連中の頭の中でもうできてるんだ。
 俺たちの子供は素晴らしいというけれど、本当のことを言うと、可哀想だと思ってる。
 さかんにあたりを見まわしても、やつらに見えるものと言えば、それは埃だけさ。
 俺たちのダンスを見に来るのはいいが、写真を撮ろうと、いつもキョロキョロしている。
 連中は俺たちのことを知ろうと思って、俺たちの家へ入ってくるけれど、時間は五分しかないと言う。
 土と藁でできている俺たちの家は、彼らから見ると妙チキリンなんだよね。
 だからここに住んでいなくてよかった、と本当は思っているわけ。
 そのくせ、俺たちが究極の理解への鍵を握っているんじゃないかと疑ってる。
 俺たちの人生の秘密を見つけ出そうとすれば、永遠の時があっても、連中には足りないな。たとえみつけたとしても、やつらはそれを信じないだろうよ
 



 たくさんの冬を
 わたしは生きてきた
 終わりのない夏と戯れ、疲れきった大地を
 最初の雪が降ってきて覆いつくした
 時のそもそもの始まりから
 たくさんの冬
 わたしは山々の頂に水を捕らえて放さなかった、
 月と太陽がみごとな円環を創り出した大地の始まり以来
 まだ冷めやらぬ山々の頂に
  
 たくさんの冬
 わたしは星たちを至るところに吹き飛ばした
 それぞれの星が落ち行く先を
 冬の陽の路に沿って
 海へと川が流れゆくように
 たくさんの冬
 木々はわたしたちとともに寝た
 獣たちはわたしの胸の上を歩き回り
 鳥たちも夜寒の辛さを和らげようと
 わたしの火のそばに近づいてきた

 たくさんの冬
 わたしは孤独な月を友として生きてきた
 その月があとを追う灼熱の太陽は
 大地を冬から解き放つ前
 わたしたちの感謝の歌に聴き入った
 たくさんの冬を
 わたしは生きてきた
 解けてゆく雪の中から、ひ弱な花が現れて
 わたしは春の精です、と言った
 時のそもそもの始まりから




 冬の木は
 まるで親父の顔の皺みたいだ
 それとも
 わたしがまだ若くて
 悟りへの明快な一本道を
 探しあぐねていた頃に通ろうとした
 たくさんの小道みたいかな?
 一本一本の枝には
 さらに小さな枝があり
 辿っていくと
 いろんな結末、いろんな悲しみが待っていた
 枝は、わたしの体重を支えるには
 どれもこれもひ弱すぎて折れてしまい
 まごついてわたしは下に落っこちた
 冬、
 たくさんの小道のように
 絡まりあった裸の枝を
 空に向かって高々と伸ばしている木を見た
 だが道は
 それぞれが目的をもっていて
 その木の根っこに帰ろうとしていた




 若いとき、わたしは何も知らなかった
 背はすごく高かったが、中身は育っていなかった
 そこである日わたしは山へ行った
 すこしだけ死んでみようと思ったのだ
 これは部族の者が、浄めのためにやるやり方だった
 わたしの口は開き
 わたしの叫びは風の上に落ちて、すぐに吹き払われてしまった
 目は何ものも見なかった
 すると、太陽はわたしの無知に目隠しをした
 わたしの耳は沈黙を聞くばかり
 すると、川はわたしを歌の中に溺れさせた
 わたしの手は空気を押しとどめた
 すると、火はわたしを燃やしつくした
 とうとうわたしは無になってしまった
 ある日目を覚ました
 真実を言いなさい、と風が言った
 そこでわたしは言った、怖くてたまりませんと
 そのわけが知りたければこれを見なさい、と太陽が言った
 そしてわたしは、村が変貌してゆく様を見た
 音楽を聞きなさい、と川が言った
 そしてわたしは、わたしの部族の者が笑っているのを聞いた
 暖かみを感じなさい、と火が言った
 そこでわたしは子供たちを抱えた
 自分が真に誰だかを知りなさい、と精霊が言った
 そこでわたしは、わたしは人間です、と言った



 わたしが憶えている手は
 殺してごめんなと謝りながら
 木を切っていた
 親父の手
 わたしが憶えている手は
 花というものの目的を教えてくれた
 お袋の手
 わたしが憶えている手は
 いつか鹿を殺す日の稽古に
 野うさぎを殺していた
 兄貴の手
 わたしが憶えている手は
 新しく生え出る木を見つけようと
 土をほじくっていた
 姉貴の手
 わたしが憶えている手は
 わたしの人生のいただきに行く道を教えてくれた 
 爺さまの手





 たぶん、君自身になるってことは
 泣き叫ぶ嵐の中に、君独りいるってことだ
 そのとき君が求めるすべては
 人の焚き火に手をかざすことだけ 


 わたしたちは重要じゃない
 わたしたちの人生とは、それでもって
 永続する思考を引っ張りまわしている、たんなる糸
 思考はそのようにして、時を貫き旅をする


 

 人生について
 わたしはおまえに何を語ってやれるだろう?
 それは得がたく、そして美しいものだ
 仮装して、だまくらかしながら、それは現れる
 大笑いしながら、現れることもある
 人生について
 わたしはおまえに何を語ってやれるだろう?
 なんにも
 わたしの答えは、わたしだけのもの
 おまえには通用しないだろう
 樹木と同じで、わたしたちは共通の根を持っている
 ところがその育ち方の違うこと!



 おまえは後戻りはできない
 わたしたちの道が
 「昨日」に架ける橋だと信じているなら
 おまえはここで生きることはできない
 「今」は過去のやり方とは違うのだ
 「今」は美しい
 なぜなら、この世で大事なもののすべては
 わたしたちに至る道を見つけてしまったからだ




  わたしたちにはいつも何らかの宗教があった。常に神を信じて、わたしたちのやり方で、神を崇めた。神様というのはどこか天上の雲の上にいる人間だよ、と教えられたのは、スペイン人がやってきた1598年以降だった。そしてこういう話しも聞かされた。なんでもこの神には息子がいて、実際にこの地上で生きようとやってきた。そしてわたしたちを救うために、酷い殺され方をしたのだと。だからわたしたちは、彼を崇めなければならないというのだ。

 その当時こういった考えは、奇妙だった。わたしたちにとっては、神は岩の中、木の中、空の中、至るところに偏在した。太陽は私の父だったし、大地は私たちの母、月や星はわたしたちの兄弟姉妹だった。だからスペイン人が来るまでは、神を人間としてみたことはなかったのだ。それから、長い茶色の衣を着た神父が、十字架形の杖、祈祷書、水やなにかをもってそこいらをうろつき、やたらその水をわたしたちの頭に注ぎかけるのだった。そして言うことには、もうわたしたちは彼らの宗教の信徒だ、なぜなら今まさに洗礼を済ませたところだからだと。わたしの仲間には、神父たちを神さまだと思い込んでいる者もあった。逆に、彼らの宗教に最後まで抵抗する者もいた。わたしたちはその宗教が怖かったからだ。ある者は鞭打たれ、ある者は殺された。

 結局わたしたちが決めたのは、こういうことだった。すなわち、外見にはどんな教会へ行こうと大差はない。わたしたちの教会は、常にわたしたち自身の内にあった。大事なのはこっちの教会だ。外の教会がみな崩れ落ちても、こっちはずっと長い間残るだろうからだ。



 今日は死ぬのにもってこいの日だ
 生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている
 すべての声が、わたしの中で合唱している
 すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやってきた
 あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった
 今日は死ぬのにもってこいの日だ
 わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている
 わたしの畑は、もう耕されることはない 
 わたしの家は、笑い声に満ちている
 子供たちは、うちに帰ってきた
 そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ






2009. 09. 03  
引き続き『イーグルに訊け~インディアンに学ぶ人生哲学~』天外伺朗 衛藤信之著 2003年 飛鳥新社 より




  奇蹟は自分の中にある

  インディアンには、「今生きていることは奇蹟なのだ」と言う考えがしっかり残っています。だからこそ、彼らは自然に宿る神をとても強く意識して、いつも感謝の祈りを捧げているのです。彼らの笑顔がとびきり美しいのは、まさにいつも死を意識し、生きていることへの感謝が表情に表れているからなのだと思います。

 ある長老は「奇蹟は特別なところにあるのではない」と言って、自分の胸を指して静かに笑いました。そして、「感謝して子供と出会いなさい」と教えてくれたのです。彼らは今日と言う日に出会えたことは、まさにプレゼントであることを知っており、そのことに深い感謝を捧げることが出来るのです。

 彼らは朝起きると、まず生きていることの奇蹟をグレートスピリットに感謝して、一日を始めます。私たち現代人から見ればとても質素な暮らしの中で、朝から晩まで感謝の祈りを捧げます。
 「今日も太陽が昇ったことに感謝します」「今朝も目覚めたことに感謝します」に始まり、丸太を割ったりとうもろこしの粉をひいたりしながら、「今日一日働けることに感謝します」。そして、子供たちが起きたら「今日も子供たちに出会えて感謝します」と、祈るわけです。

 インディアンには感謝の儀式がたくさんありますが、そもそも彼らの生活そのものが感謝を捧げる儀式なのです。
 ちなみに、アメリカの感謝祭は、もともとはインディアンの風習から生まれたと言われていますが、とにかく彼らは、ありとあらゆることに喜びを見出しているのです。

 言われてみれば確かに、私たちは、まさに奇蹟のただなかに生きていると言えます。今日も太陽が地平線から昇る奇跡。季節が繰り返される奇跡。家族と出会えた奇跡。仲間がいる奇跡。仕事がある奇跡。明日も生きていることが出来る奇跡。今日も生き抜いた奇跡・・・。

 けれど私たちにとっては、水は蛇口をひねれば出てくるのがあたりまえで、交通機関は時間に正確に到着してあたりまえで、約束は守られてあたりまえで、欲しいものもお金を出したら手に入るのが当たり前です。
 そしてあたりまえだと思っていることがうまくいかないと、そのマイナスにばかり焦点を当てて、「なぜうまくいかないんだ」と腹をたててしまいます。頭で考えた計画が思い通りに進まないと本当にイライラしてしまうのです。
 すべてが当たり前だと思っている私たちと、「ない」というところから出発し、今生きていることはかけがえなのないプレゼントだと考えている彼らとでは、人生の味わいの深さがまるで違うと思います。

 幸せになる能力とは

 自分の身に起きる出来事をどう受け止めるかということは、心理学にも通じる大切な指摘だと思います。
 私の尊敬している心理学者アブラハム・マズローによれば、「自己実現」というのは、リッチなレストランで豪遊するというステイタスではなく、奥さんが作った質素なお弁当を心から味わえるようになることを意味しています。
 一方、日本では自己実現セミナーと銘打って、「どうしたらお金を稼げるか」「成功するか」「社長になれるか」「大きな家に住めるか」と言うテーマばかりが多くて、私は強い違和感を覚えました。自分をとりまく状況が変わらないと幸せになれないという強迫観念があまりにも強いのです。
 
 今私たちに本当に足りないのは、自信なんだと思います。自信がないからこそ役職や名誉や大きな家といった外側の条件にこだわり、いつも社長として扱われたいとか、えらい先生として接してほしいなどと思い、そうでないと不機嫌になってしまう。
 そして自信がないからこそ、他人と自分を比較してしまうのです。ある奥さんがノイローゼになったのは、隣の人が宝くじに当たったからでした。

 隣の席の同僚が昇進した、友人が家を買った、車を買い換えた、隣の子供が有名校に合格した・・・そして友人のブランドのバックひとつにすら嫉妬してしまい、心の青空に分厚い暗雲が垂れ込めてしまいます。経済的に成功を収め、競争に勝ち、他人に一目置かれないと、幸せにはなれないと思ってしのまうのです。
 けれど本当は、どんな扱いを受けても、どんな環境にあっても、その中でそこそこ楽しめるというのが幸せになる能力だと思います。成功者や自己実現者というのは、ふつう考えられているのとは反対で、足りない中で足りていると気づくことなのです。

 必要なものはそれを必要とする人のところにあればいい

 言葉を変えるなら、現代社会に生きている私たちのほとんどが、自分の中に閉じこもってしまっているのです。だから、いつも人と比較して、あの人より物が少ないとか多いとか、そういうところで自分を確認していくしかない。カウンセリングに来られる方たちの多くは、そういう人たちであるように感じられます。
 けれど、インディアンは個人と言う枠を越えている部分がかなりあって、そのひとつが「ギブアウェイ(人にあげる)」という風習です。
 人生の節目や儀式のときに、彼らは持ち物をみんなに与えつくします。インディアンの長老は、困っている人がいるとすぐに自分のものをあげてしまいますから、村では一番貧乏です。しかし、彼らにとって、物質的な豊かさはそれほど重要ではありません。
 ある長老は私にこう言いました。

 「必要なものは、それを必要とするところにあればいい。母なる大地から恵みをいただいて、わしらは生きている。それなのに、すべてのひとが必要もないのに人と同じものを持ちたがるから、母なる大地は傷ついていく。やがて訪れる大浄化の前に、人々はそのことに気づかなければならない

 自分の持ち物を積極的に手放していくという発想はおもしろいなあと感じます。
 実際、彼らは物自体に価値を見出しているというより、物にまつわるストーリーを大切にしているように思います。
 例えば、シャーマンに助けられた男の子が、お礼としてきれいな小石をプレゼントしたとします。すると、その男の子とのかかわりというストーリーがあるために、小石がただの小石ではなくなって、大切にしなければならない何かになるのです。
 私がインディアンの村から帰るときにも、彼らは必ず贈り物をくれました。ビーズでつくった飾りなど、ささやかなものですが、思い出がいっぱい詰まったプレゼントです。そこで、私も彼らに自分にとって大切な小物を渡しました。

 インデイアンの発想では、物は使ってもらって初めて生きた物になります。彼らは与えることで、自分の中でストックしていた何かが新たな歴史を刻み始めることを知っているからです。だから、インディアンはは大切なものほど、それが持っている歴史やストーリーと一緒に手放すのです。
 あるインディアンは、「白人は、自分では使わないものをたくさんため込んでいる。彼らのガレージのなかは死んだものでいっぱいだ。だから、やつらの目は死んでいるのさ」と言っていました。

 私の友人が親しくしていたインディアンの長老は、奥さんを亡くしたとき、形見の品をすべて村人に配ってしまいました。友人が「ひとつくらいお手元に置いておいたらいかがですか」と聞いたところ、長老は静かな微笑を浮かべて「残して箱の中にしまっておいても年に数回しか眺めないだろう。それより、誰かが身につけてくれたら、その人に会うたびに『今日はあいつに五回も会ったぞ』と思えるじゃないか」と言ったそうです。
 確かに、奥さんのジュエリーを身につけた女の人が、「長老、これいかが」なんて食べ物を持ってきてくれます。その食事を作ったフライパンも、奥さんがむかし料理の腕をふるったものだったりします。村人たちが奥さんの形見を生かしてくれることで、長老は奥さんの優しさに再び出会えるわけです。

 日本人は、蓄えることこそが財産と考えがちです。でも彼らにとってみれば、使うことこそが物を生かすことなのです。そして、自分が誰かに与えたものを村中の人が使ってくれれば、それこそが財産なわけです。物は人に与えると手元からなくなりますが、その代わり、自分の心は満たされる。インディアンたちは、それをちゃんと知っているのです。

 そういう発想で生きるなら、実は物はそんなにたくさんはいらないのだ、ということに気づきます。インディアンならみんなで順番に仲良く使っているものを、私たちは当面必要なくても、とりあえず全員がひとつづつ所有しておく。だから、そういう文化では地球から搾取する量がとても多くなってしまうのです。

200px-Zuni-girl-with-jar2.png



2009. 09. 02  
 引き続き『イーグルに訊け~インディアンに学ぶ人生哲学~』天外伺朗 衛藤信之著 2003年 飛鳥新社 より




  スウエットロッジ

  母なる大地というイメージは、インディアンの世界観の根底に脈々と流れています。やはり重要な儀式のひとつであるスウエットロッジにも、そのイメージは強く投影されています。
 そもそも、スウエットロッジを指すラコタ語の「イニィプー」という言葉自体、子宮を意味していますし、ロッジの形もおわんを伏せたようなドーム型で、子宮を象徴しています。母なる大地の子宮に戻り、生まれると言う疑似体験をする点で、スウエットロッジは浄化と再生の儀式なのです。

 スウエットロッジは、火、木、水、石の四要素が結合した儀式で、肉体と魂の浄化のために行われます。まず、竹や柳の枝でドーム型の骨格を作り、周りをビニールや毛布で覆います。そして、かたわらのたき火で焼いた岩をテントの中にどんどん運び入れて、熱気をこもらせるのです。
 よく焼けた石は透明な赤に輝いていて、まるで地球の始まりを連想させます。石の上に聖なるタバコをまいたり、薬草で編んだひもでふれると、テントの中には芳しい香りが漂います。
 さらにメディスンマンが石に水をかけると、すさまじい蒸気がテントに満ちて、ちょうどサウナのようになります。そんな中、人々は創造主、あらゆる生き物、祖先、地球に感謝の祈りを捧げるのです。

 私が初めて参加したスウエットロッジは、長野の穂高養生園でマリリン・ヤングバードの主導で行われたものでした。
 その時は、30人くらいの参加者の多くがインディアンフリークの人たちで、腰布をまいたり羽飾りをつけたりといったインディアンの衣装を着ていました。私は子供時代にインディアンの真似をしていたことを思い出して、「みんないい年して、なぜあんな格好をしているのだろう」などと思っていました。

 セレモニーはマリリンの祈りから始まりました。
 「太陽のおじいちゃん、月のおばあちゃん、いつも見守っていてくれて、ありがとう・・・」
 とても単純な祈りの言葉で、私は正直なところ、「まるで幼稚園だな」と思っていたのです。
 ところが聴いているうちに、突然私の目に、なぜか涙が溢れ出しました。よくわからないけれど、とても強い宗教的な力をメディスンウーマンが発揮しているようでした。
 そのときは寝そべると三人でいっぱいになるくらいのテントに二十人近く入り、すし詰め状態でした。少し暑い程度におさえるマイルドなスウエットロッジもありますが、そのときの暑さはサウナの比ではなく、息を吸うと肺が焼けただれるかと思うほどでした。苦しさのあまり絶叫する人や、胸や腹にやけどを負う人までいたのです。
 そんな中、マリリンの祈りが響きました。

 「さあ、あなたは、母なる大地の子宮に戻ってきました。温かい子宮、あなたを優しく包んでくれる子宮。もう何の心配もいりませんよ。ほら、耳を澄ませば、お母さんの心臓の鼓動が聴こえるでしょう。あなたはかけがえのない命。あなたはお母さんの喜び。とても大切な子・・・

 すると驚いたことに、半数くらいの男たちが、子供のように声を上げておいおい泣き出したのです。

 母なる大地の子宮に包まれる

  私はあまりの暑さをしのぐため、呼吸法やさまざまなテクニックを実践することに気をとられていたので冷静でしたが、その後何年かして瞑想の実習が進むうちに、参加者が導かれる意識状態がわかったような気がしました。
 深い瞑想状態に入り、宇宙との一体感を感じられるようになると、涙が出てきて、母親の胎内にいたときのような感覚を思い起こさせる不思議な体験をすることがあります。

 私が思い出すのは、チベット密教のトレーニングを受けたときのことです。オレンジ色の僧服を着た、いかめしいお坊さんが、瞑想を指導しながらしきりに母親のことを話したのです。

 「あなたが生まれたとき、お母さんはどうしましたか」「お腹がすいたときにおっぱいをくれたじゃありませんか」「おむつが濡れて泣いてしまったら、すぐ取り替えてくれたでしょう」「二十四時間あなたの世話をしてくれたでしょう」とか、ひとつひとつ、本当に事細かにあげていくのです。
 私はそのとき、「どうしてそんなわかりきったことをいつまでも話し続けるのだろう」と不思議に思っていたのですが、その後ふと気づきました。私たちは母親を通して生まれてくるから、母親の愛を思い出すことによって仏の慈悲を実感できるようになるのではないかと

 要するに、私たちの苦しみの根源には、宇宙から切り離されたという感覚があるのです。もともと母親の胎内にいたときは、母親を通して宇宙とつながっている感覚があるのに、生まれた瞬間、へその緒を切られて、母親から離されると同時に、宇宙からも切り離されたように感じてしまいます。私はそれを「セパレーション感覚」と呼んでいます。
 そしてさまざまな体験を積みながら、大いなる存在、宇宙、神、仏といった、自分を越えたものに愛されていることに気づくことが、癒しであり、意識の成長であると思うのです。

 私たちはみんな、母親の子宮から出て、人生の苦しみを体験します。そして、「土に還る」という表現のように、最後に母なる大地の子宮に戻っていくのです。ですから、私は大いな存在につながるということを、再び母親とへその緒で結ばれると言うイメージに見立てて、「宇宙の根っこにつながる」と表現しています。
 母なる大地の子宮であるスウエットロッジは、熱気の力を借りて心の鎧を一気に脱がせ、そういう人間の生きるプロセスを短時間で思い出させてくれるのです。スウエットロッジで子供のように泣き出す大人たちは、みんな無意識のうちにそのことがわかったのだと思います。

 【世界とのつながりを取り戻す】  衛藤

 世界内存在クライシス

 確かに、インディアンが儀式の中で母なる地球とのつながりを強調するのは、人間の心理にとって母親は大いなる存在の象徴であり、根源だからでしょう。
 私たちは母親を通してこの世に生まれてきたのですし、誰もみんなかつては幼い子供だったことがあり、その頃は自分を世話してくれる母親が世界のすべてです。
 だから、子供の頃泣いても騒いでもお母さんが抱き上げてくれなかったり、しょっちゅう「うるさい」と怒鳴られていたりすると、自分は価値ある存在だとか、生まれてきてよかったと思えなくなってしまう。そしてそれが心理的なトラウマになってしまうのです。

 私のもとには、母親の愛情を充分受け取れなかったことで心に傷を負い、大人になってからカウンセリングにいらっしゃる方がたくさんいます。しかし、根本的には、母親に愛されたいと言う願望は、現実の母親との関係と言うより、自分を越えた大いなる何かとつながっていたいということの表れなのです。
 ですから、逆に言えば、自分の母親とのラインは絶たれてしまっていても、自分が大いなる存在に守られていること、つまり母なる自然に生かされていることに気づければ、心の安定が得られるのです。
 もちろん、母親とは私たちを生かしている大いなる自然のひとつの現れです。しかし、現実の母親をすべてと感じてしまっていると、特に親子関係にトラブルがある場合、生きるのが苦しくなってしまうのです。


 私はそれを「世界内存在クライシス」と呼んでいるのですが、実は私たちがあたりまえのように食べているご飯も、本当は誰かが作り、誰かが運び、誰かが売ってくれたおかげで、私たちはそれを口にすることができます。服でも靴でも、誰かがいてくれたから、身に着けることができるのに、その関係性がみえなくなっているのです。

 自然は語りかけてくれます。
 「お前はここに存在していいんだよ。私たちのなかから生まれた子供なのだから、安心してここにいなさい」と。そう、自然は「あなたがいい子にしているから」「あなたに学歴があるから」「あなたが立派だから」rと差別はしません。
 自然の一部として生まれた私たちは、それだけで存在価値があり、自然はそのことを教えてくれます。

 「あらゆるものがつながっている。私たちがこの命の織物を織ったのではない。私たちはその中の一本に過ぎないのだ」(シアトル酋長)

 自然から離れ、自分の存在価値を認めてくれるものがなくなると人は孤独を感じるのかもしれません。
 だからそういうことに本当に気づければ、私たちは本来、決して一人ではないことがわかる。自分は愛されていない、自分は価値がない、意味がない、自分なんか生まれてこなければよかったって思う人たちは、そういう世界とのつながりを見失っているのだと思います。




2009. 09. 01  
 引き続き『イーグルに訊け~インディアンに学ぶ人生哲学~』2003年 飛鳥新社 より




 五番目は「尊重」です。

 これは「平等」と言う特徴とも関係するのですが、インディアンは他人の話を尊重しますし、他人の立場を尊重するということを非常に大切に考えていますね。
 彼らは年齢や性別や身分で差別することが一切なく、すべての人を尊重します。話し合いのときには、それこそしゃべることができるかどうかという子供にまで、一人前の発言権があるのです。
 みんなで輪になって話し合うときは、発言する人はイーグルの羽を持つことになっているのですが、羽を持っている間は他の人は絶対にその言葉をさえぎったり邪魔してはいけないのです。
 ラコタ族の長老ノーブル・レッド・マンは

 「白人が民主主義を発明したのではない。神が民主主義を発明したんだ

 と述べていますが、インディアンと付き合っていると、彼らの民主制は近代国家の民主主義よりはるかに平等観が強く、本質的だと感じます。
 あとで詳しく述べますが、アメリカと言う国家が出来るとき、このインディアンの社会制度が大幅に取り入れられました。人々は民主主義のルーツはギリシャだと考えていますが、それよりはるかに進んだシステムがインディアン社会の中にあったのです。そしてそれはさらにフランス革命に影響を与え、近代文明の成立に少なからぬ影響を与えたと考えられています。

 六番目は「ギブアウェイ精神」です

 これは他人が必要とする時に、自分の持ち物を人々に分かち与える風習です。
 インディアンの村では、とても貧しい人でも、何かあるたびに他人に惜しみなく贈り物をするのです。昔の日本の田舎では、帰省すると山のようにおみやげを持たせてくれたものですが、その雰囲気に似ているところがあります。

 「分かち合えば分かち合うほど、神はわしらに分かち合うためのものを与えてくれる。わしらは他人と分かち合うとき、本当は神とも分かち合っているんだ

 と述べています。
 しばらくインディアンと一緒に生活していると、たちまち身の回りにこまごまとしたものが集まってしまうのは、この最たるものです。また、我々がレストランで食事をしていると、何人ものインディアンが食事をたかりにやってきたりします。ギブアウェイの精神からくるものなのですが、最初は少しびっくりします。
 所有の概念が強く、個人の意識が高い私らにとっては、正直なところ少し戸惑うところもあるのですが、慣れてくれば結構ここちよい風習だと思います。

 七番目は「平和」です。

 彼らは心の平安ということを、非常に大切に考えています。ラコタ族のブラック・エルクは、1948年にこんなことを言っています。

 「いちばん重要な、最初の平和は、人の魂の中に生まれる。人間が宇宙やそのすべての力との間に、つながりや一体感を見出せたとき、その平和が生まれるのだ。

 宇宙の中心にはワカンタンカ(創造主)が住まい、しかもこの中心はいたるところにあって、それはわしらひとりひとりの内部にもある、と理解したときにな。これこそが真実の平和なのだ。ほかの平和はすべて、この真実の平和の似姿にすぎん。

 二番目の平和というのは、二人の人間の間に生まれる。そして三番目の平和が、ふたつの部族間にあらわれる。

 しかしわしがしばしば言うように、人の魂の中に生まれるものこそが真実の平和なのだから、その平和をまず知っておかない限り、部族間の平和などとうてい実現せぬということを、なによりも理解しなくてはならん


 ブラック・エルクは、次のようなことを伝えたいのです。宇宙の中心は、宇宙のいたるところに同時に存在しているということ、つまり、私たちの一人一人の身体の中にも宇宙の中心があって、ワカンタンカが住まっているということ。そして、それぞれの人が自分の中のワカンタンカとつながることが、真の平和であるということ。

 ブラック・エルクが述べていることは、般若心経の教えや、あらゆる主教や哲学の原点となる世界観(永遠の哲学)と、まったく同じです。その意味で、彼らの宇宙観はすばらしく奥深く、しかも非常に近代的なのです。

 八番目は「循環」です。

 自然とは本来、すべてが形を変えて移り変わり、全体のバランスの中で息づいているものです。
 動物の排泄物や死体は土壌で分解され、それをもとに植物が生長し、その植物を草食動物が食べ、それを肉食動物が食べ、そして再び動物が土に還ります。それが自然の仕組みであり、インディアンはそういった全体の循環のようなものを、強く意識しているのです。

 とはいえ、彼らには自然本位とかエコロジーとかいう発想はありません。というのも、彼らは生き方そのものがまさに自然と一体になっているからです。だから、水の中にすむ魚に水という概念がないのと同じで、あえて人間と自然とを切り離して考えることがないわけです。
 自分と切り離された自然、あるいは客体としての自然と言う発想がないというのは、私たちから見ると、むしろ意表をつかれる視点です。


プロフィール

はいたか鳥

  • Author:はいたか鳥
  •  Only in silence the word,
     only in dark the light,
     only in dying life :
     bright the hawk's flight on the empty sky


     ことばは沈黙に
    光は闇に
    生は死の中にこそあるものなれ
    飛翔せるタカの
    虚空にこそ輝けるごとくに

    ゲド戦記 エアの創造より


      ↓ご意見・お問い合わせなど なにかありましたら こちらのメルアドにご連絡お願いします。↓

      haitakarainbow@ のあとに gmail.com をつけてお送りください。

      よろしくお願いいたしま~す☆

     時々メールチェックをよく忘れて、ご迷惑おかけしてしまいます。2,3日中に返信がない場合は、メールしましたよ~~とコメント欄に一言書き込みいただけると助かります(*'ω'*)ゴメンサイ
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム
ブログ内検索