2010.
02.
20
ジョン・リリー博士のコズミックビジョン
最近、ある理由からジョン・リリーの『サイエンティスト』を読み返していたら、冒頭に少々SFチックな宇宙誕生の描写が書かれていた。そこでもある局面で『愛』が発生する様相が述べられているので、引用してみたい。
星の創造者(スターメイカー)が無の中での休息から目覚め、身じろぎをした。
<対象を持たぬ意識>が活動を始め、自らの活動を見た。
<対象を持たぬ意識>は自らのフィードバックにより、<零の境界>すなわち存在と無とが交互に節目をなす無限の自己展開(<存在1>、無、<存在2>、無、<存在3>、無・・・)を生み出した。無からハイパースペース(超空間)、つまり創造を喚起する星の創造者の最初の兆しがあらわれた。
最大のゆらぎの中で、星の創造者は瞬間的にハイパースペース(対象を持たぬ意識)、すなわち星の創造者の<第一の境界>を生み出した。ハイパースペースは星の創造者によって創造の力を与えられた。
ハイパースペースは同時にふたつの方向に働き、おのれの内に膨張する渦巻きと収縮する渦巻き、ふたつの渦巻きを生み出した。星の創造者が<第二の境界>すなわち身を寄せ合って互いにダンスを踊る二つのハイパースペースの渦巻きを創造したのである。他にはまだ何も存在していなかった。
星の創造者、ハイパースペース、ふたつの渦巻き、そして無、以上が宇宙の内容のすべてであった。
ふたつの渦巻きは集合と離散のダンスを無限に踊り続けた。それらが互いに合体する時、恍惚的なエネルギーが発生し、そのエネルギーの高まりとともに、肯定的な愛のエネルギーが出現した。これが<第三の境界>、すなわち愛である。
ふたつの渦巻きは、その接近の極みで、オルガスムのうちに融合した。オルガスムを伴う邂逅から二つの新しい渦巻きが紡ぎ出され、ハイパースペースの中の渦巻きを四個にした。その新たな二つの渦巻きは最初の二つの渦巻きと場所を交換しながらダンスを踊り、新たなペアを形成し、こうして二を単位とする創造がハイパースペースの中で続いていった。
なんで本箱の中でほこりをかぶっていた、リリー博士の本を取り出したかというとある夢が原因なのだけど、これは今進行中の出来事なので、また結果がある程度出たら書きたい。(と、もったいぶってみますw)
イクサス、ヴェシカ・パイシス、DNA、謎の魚たち
「キリスト」とは、リリー博士の創世神話でいうなら「第三の境界、愛」そして、相対する二つの原理の融合による「独り子」であるのではないかと書いた。
ところで古代キリスト教徒は、キリストのシンボルとして「イクサス」というシンボルを使っていた。
以下は「生命の贈り物」中のイラスト。

「イエスキリスト・神の子、救世主」をギリシャ語で書いたものの頭文字をとると、魚を意味する「イクサス」になるらしいのだが・・・この図形はそのようなアナグラム的な意味だけなのだろうか。
この図形を見ていると、いろいろ連想するものがあり、ひとつはこれ、

DNA二重螺旋を途中でちょん切ったような形に見える。
そしてもうひとつは、これ。

これはヴェシカ・パイシスと呼ばれ、幾何学的に説明した神の世界創造プロセスの中で相対するふたつのものが始めてお互いに接しあった状態を言う。
ジョン・リリー博士の創世神話では、膨張する渦巻きと収縮する渦巻きが融合し、「第三の境界・愛」が出現した状態と同じ。 渦は横から見ると▽だけど 上から見ると ○ になる。
またドランヴァロ・メルキゼデクはヴェシカ・パイシスは光であり、それは人が光を感受する「目」の幾何学とも対応すると言っている。
ヴェシカ・パイシスが光であるとするなら、前回引用した聖書の部分なども思い出される。
ところで、イクサスととても似通った謎の魚のしるしというのがあり、これはキリスト意識ととつながっているのかあるいは直接には関係ないのかわからないが・・・これである。

これもまたまたいつまでも多くのインスピレーションをもたらしてくれる『フラワーオブライフ』の中の写真だが、メルキゼデク氏がペルーのクスコで泊まったホテルでベッドカバーに見つけた絵。
この描かれた魚(氏はイルカかクジラ類ではないかと言う)が何を意味するのか、ホテルの従業員たちは知らなかった。そこで車でチチカカ湖周辺までゆくと、そこの近隣のインディアンがこの魚の意味するものを知っていた。
「これについて何か知っていますか?」
すると彼らは「ああ、知っているとも」と言って、それからなんとドゴンの物語にたいそうよく似た物語を教えてくれたのです!彼らの創造神話は次のようなものでした。空から宇宙船がやってきて、チチカカ湖に浮かぶ「太陽の島」に降り立ったといいます。それらのイルカに似た生き物たちは、水にじゃぶんと飛び込み、人々の側へやってきて、みんなに自分たちがどこから来たのか教え、インカ以前にそこにいた住民ととても親密な交流を持ち始めたというのです。
このホテルに入る時、メルキゼデク氏は部屋番号が23であったことに非常に驚いた。
その理由は、ドゴン族、そしてシリウスと関係がある。
アフリカのドゴン族はシリウスと関係がある伝承を非常に多く持っていることで有名だ。
彼らはイルカに似た生物がある日、天空からやってきて自分たちに多くの知恵を授けてくれたと考えている。
多くの天文知識、特にシリウスAとBの公転周期などについても空から来た存在によって教えられたという。
さてそのシリウスだが、この星はドゴン族の住むアフリカではシリウスが地平線の下に隠れたあと数ヶ月視界から見えなくなる。それが再び姿を現すのは7月23日の朝・・・太陽が昇る一分前、ルビーレッドに輝きながら太陽と同じ方角からシリウスが昇るこの現象は「ヘリアカルライジング」と呼ばれている。
23という数字は、つまりシリウス伝承の地アフリカのドゴン族の居住地で観測できる、このヘリアカルライジングの日付を意味している。
この23という数字がシリウスの研究家などのところに、しつこくシンクロニシティックに現れることがあり、ロバート・アントン・ウィルソンの「コズミックトリガー」ではこの23の暗号について考察されている。
メルキゼデク氏もちょうど、ドゴンの研究中に23に遭遇したので驚いたということだ。
しかも、その部屋の中で魚のしるしをみつけてしまった・・・!
お~今日はそして2月23日じゃないか(笑)ワチョ――ヽ(・∀・)ノ――イ♪
さてこのイルカ(クジラ?)型シリウス星人の絵と、イクサスは関係あるのだろうか?
腰をくねくねする若者と、グロフのBPMⅠ、「子」の本来の状態に帰る
話はまた一見あまり関係ない方向へ飛ぶが、昨日日本でアイソレーションタンクを使ったセッションを行っている方が、初めてセッションを受ける人へタンクのことを説明している音声ファイルを聴いた。
その中で面白い話しがあった。
最近20代の若者で、セッション中に同じような動きをする人がたくさんいたということだった。
アイソレーションタンクというのは、その内部が体を浮かべる液体で満たされたタンクで、体験者はその中に生まれたままの姿ではいる。無重力状態で感覚が遮断されるので、次第に意識が肉体中心ではなくインナーなものになっていく。もともとはリリー博士が、脳は外側からの感覚入力がなくても機能するか? ということを確認するために開発したものだが、リラクゼーションやセラピーにも活用できる。
体験者は東欧の精神医学者スタニスラフ・グロフがBPM1と名づけた子宮内部での安心感のようなものを思い出すことがあるが、最近別々の若者数名がドルフィンキックのような腰をくねらせる動きをすることがあったと言う。
からだが魚になったように、自然とそのような動きをするらしい。
これに対するセッション主催者の人の意見。タンクに数回入ると、意識が一番心地よかった時の記憶とアクセスするようになるらしいが、もし胎児期の頃が、母親のストレスだとか何かの要因で安心し切れなかった場合、意識はもっと
母の胎内で、進化の系統発生を辿るように、「魚」に近い状態の頃まで遡行しようとするのではないかという「仮説」を話されていた。
その正否について、僕はもちろんわからないが、話としてとても面白い。
と同時に思った事は、「子」の状態とは本来BPM1のような安心しきった、委ねきった、信頼しきった状態ではないかということだ。
子宮という楽園を出て、大人になっても、僕らは宇宙の「子」である。
この世界に対して同じように、安心しきった状態で生きることが出来ることが「子」の理想だ。
不必要な緊張や 肉体のこわばり、ブロック 感情的バリアーというようなものから、なるべく自由に身軽になることが幸福と深く関係している。
つまり二本の足で地上を歩きながら、安心しきった「幼子のように」生きるということだ。
「子」、生命の樹のティファレトは「美」である。
美とは均整が取れた状態。人の、その本来の状態。
僕らの肉体は羊水中の浮力の中で、無重力の中で形成されていった。
「子」の本来の状態とは、重力から自由な状態。
「美」の根源は無重力の世界にあるのか?
魚のしるしとは、宇宙の子として愛されし、僕ら自身、でもあるかも。
最近、ある理由からジョン・リリーの『サイエンティスト』を読み返していたら、冒頭に少々SFチックな宇宙誕生の描写が書かれていた。そこでもある局面で『愛』が発生する様相が述べられているので、引用してみたい。
星の創造者(スターメイカー)が無の中での休息から目覚め、身じろぎをした。
<対象を持たぬ意識>が活動を始め、自らの活動を見た。
<対象を持たぬ意識>は自らのフィードバックにより、<零の境界>すなわち存在と無とが交互に節目をなす無限の自己展開(<存在1>、無、<存在2>、無、<存在3>、無・・・)を生み出した。無からハイパースペース(超空間)、つまり創造を喚起する星の創造者の最初の兆しがあらわれた。
最大のゆらぎの中で、星の創造者は瞬間的にハイパースペース(対象を持たぬ意識)、すなわち星の創造者の<第一の境界>を生み出した。ハイパースペースは星の創造者によって創造の力を与えられた。
ハイパースペースは同時にふたつの方向に働き、おのれの内に膨張する渦巻きと収縮する渦巻き、ふたつの渦巻きを生み出した。星の創造者が<第二の境界>すなわち身を寄せ合って互いにダンスを踊る二つのハイパースペースの渦巻きを創造したのである。他にはまだ何も存在していなかった。
星の創造者、ハイパースペース、ふたつの渦巻き、そして無、以上が宇宙の内容のすべてであった。
ふたつの渦巻きは集合と離散のダンスを無限に踊り続けた。それらが互いに合体する時、恍惚的なエネルギーが発生し、そのエネルギーの高まりとともに、肯定的な愛のエネルギーが出現した。これが<第三の境界>、すなわち愛である。
ふたつの渦巻きは、その接近の極みで、オルガスムのうちに融合した。オルガスムを伴う邂逅から二つの新しい渦巻きが紡ぎ出され、ハイパースペースの中の渦巻きを四個にした。その新たな二つの渦巻きは最初の二つの渦巻きと場所を交換しながらダンスを踊り、新たなペアを形成し、こうして二を単位とする創造がハイパースペースの中で続いていった。
なんで本箱の中でほこりをかぶっていた、リリー博士の本を取り出したかというとある夢が原因なのだけど、これは今進行中の出来事なので、また結果がある程度出たら書きたい。(と、もったいぶってみますw)
イクサス、ヴェシカ・パイシス、DNA、謎の魚たち
「キリスト」とは、リリー博士の創世神話でいうなら「第三の境界、愛」そして、相対する二つの原理の融合による「独り子」であるのではないかと書いた。
ところで古代キリスト教徒は、キリストのシンボルとして「イクサス」というシンボルを使っていた。
以下は「生命の贈り物」中のイラスト。

「イエスキリスト・神の子、救世主」をギリシャ語で書いたものの頭文字をとると、魚を意味する「イクサス」になるらしいのだが・・・この図形はそのようなアナグラム的な意味だけなのだろうか。
この図形を見ていると、いろいろ連想するものがあり、ひとつはこれ、

DNA二重螺旋を途中でちょん切ったような形に見える。
そしてもうひとつは、これ。

これはヴェシカ・パイシスと呼ばれ、幾何学的に説明した神の世界創造プロセスの中で相対するふたつのものが始めてお互いに接しあった状態を言う。
ジョン・リリー博士の創世神話では、膨張する渦巻きと収縮する渦巻きが融合し、「第三の境界・愛」が出現した状態と同じ。 渦は横から見ると▽だけど 上から見ると ○ になる。
またドランヴァロ・メルキゼデクはヴェシカ・パイシスは光であり、それは人が光を感受する「目」の幾何学とも対応すると言っている。
ヴェシカ・パイシスが光であるとするなら、前回引用した聖書の部分なども思い出される。
ところで、イクサスととても似通った謎の魚のしるしというのがあり、これはキリスト意識ととつながっているのかあるいは直接には関係ないのかわからないが・・・これである。

これもまたまたいつまでも多くのインスピレーションをもたらしてくれる『フラワーオブライフ』の中の写真だが、メルキゼデク氏がペルーのクスコで泊まったホテルでベッドカバーに見つけた絵。
この描かれた魚(氏はイルカかクジラ類ではないかと言う)が何を意味するのか、ホテルの従業員たちは知らなかった。そこで車でチチカカ湖周辺までゆくと、そこの近隣のインディアンがこの魚の意味するものを知っていた。
「これについて何か知っていますか?」
すると彼らは「ああ、知っているとも」と言って、それからなんとドゴンの物語にたいそうよく似た物語を教えてくれたのです!彼らの創造神話は次のようなものでした。空から宇宙船がやってきて、チチカカ湖に浮かぶ「太陽の島」に降り立ったといいます。それらのイルカに似た生き物たちは、水にじゃぶんと飛び込み、人々の側へやってきて、みんなに自分たちがどこから来たのか教え、インカ以前にそこにいた住民ととても親密な交流を持ち始めたというのです。
このホテルに入る時、メルキゼデク氏は部屋番号が23であったことに非常に驚いた。
その理由は、ドゴン族、そしてシリウスと関係がある。
アフリカのドゴン族はシリウスと関係がある伝承を非常に多く持っていることで有名だ。
彼らはイルカに似た生物がある日、天空からやってきて自分たちに多くの知恵を授けてくれたと考えている。
多くの天文知識、特にシリウスAとBの公転周期などについても空から来た存在によって教えられたという。
さてそのシリウスだが、この星はドゴン族の住むアフリカではシリウスが地平線の下に隠れたあと数ヶ月視界から見えなくなる。それが再び姿を現すのは7月23日の朝・・・太陽が昇る一分前、ルビーレッドに輝きながら太陽と同じ方角からシリウスが昇るこの現象は「ヘリアカルライジング」と呼ばれている。
23という数字は、つまりシリウス伝承の地アフリカのドゴン族の居住地で観測できる、このヘリアカルライジングの日付を意味している。
この23という数字がシリウスの研究家などのところに、しつこくシンクロニシティックに現れることがあり、ロバート・アントン・ウィルソンの「コズミックトリガー」ではこの23の暗号について考察されている。
メルキゼデク氏もちょうど、ドゴンの研究中に23に遭遇したので驚いたということだ。
しかも、その部屋の中で魚のしるしをみつけてしまった・・・!
お~今日はそして2月23日じゃないか(笑)ワチョ――ヽ(・∀・)ノ――イ♪
さてこのイルカ(クジラ?)型シリウス星人の絵と、イクサスは関係あるのだろうか?
腰をくねくねする若者と、グロフのBPMⅠ、「子」の本来の状態に帰る
話はまた一見あまり関係ない方向へ飛ぶが、昨日日本でアイソレーションタンクを使ったセッションを行っている方が、初めてセッションを受ける人へタンクのことを説明している音声ファイルを聴いた。
その中で面白い話しがあった。
最近20代の若者で、セッション中に同じような動きをする人がたくさんいたということだった。
アイソレーションタンクというのは、その内部が体を浮かべる液体で満たされたタンクで、体験者はその中に生まれたままの姿ではいる。無重力状態で感覚が遮断されるので、次第に意識が肉体中心ではなくインナーなものになっていく。もともとはリリー博士が、脳は外側からの感覚入力がなくても機能するか? ということを確認するために開発したものだが、リラクゼーションやセラピーにも活用できる。
体験者は東欧の精神医学者スタニスラフ・グロフがBPM1と名づけた子宮内部での安心感のようなものを思い出すことがあるが、最近別々の若者数名がドルフィンキックのような腰をくねらせる動きをすることがあったと言う。
からだが魚になったように、自然とそのような動きをするらしい。
これに対するセッション主催者の人の意見。タンクに数回入ると、意識が一番心地よかった時の記憶とアクセスするようになるらしいが、もし胎児期の頃が、母親のストレスだとか何かの要因で安心し切れなかった場合、意識はもっと
母の胎内で、進化の系統発生を辿るように、「魚」に近い状態の頃まで遡行しようとするのではないかという「仮説」を話されていた。
その正否について、僕はもちろんわからないが、話としてとても面白い。
と同時に思った事は、「子」の状態とは本来BPM1のような安心しきった、委ねきった、信頼しきった状態ではないかということだ。
子宮という楽園を出て、大人になっても、僕らは宇宙の「子」である。
この世界に対して同じように、安心しきった状態で生きることが出来ることが「子」の理想だ。
不必要な緊張や 肉体のこわばり、ブロック 感情的バリアーというようなものから、なるべく自由に身軽になることが幸福と深く関係している。
つまり二本の足で地上を歩きながら、安心しきった「幼子のように」生きるということだ。
「子」、生命の樹のティファレトは「美」である。
美とは均整が取れた状態。人の、その本来の状態。
僕らの肉体は羊水中の浮力の中で、無重力の中で形成されていった。
「子」の本来の状態とは、重力から自由な状態。
「美」の根源は無重力の世界にあるのか?
魚のしるしとは、宇宙の子として愛されし、僕ら自身、でもあるかも。
2010.
02.
18
haitakadori
イルカさんと泳ぐ夢を見た。イルカさんは全方向的にコミュニケーションしているので、前後や上下という軸を基準に生きている哺乳類脳を持つ人間とは異なった、無重力リアリティの中生きている。耳元で聴こえるイルカのクリクリ音は感激であった。うーん浮きたい、浮くことで何か変わる、そんな幻想w
02-17 22:36
2010.
02.
16
幾何学図形としてのイエス
これら許しの祈りの出現と平行して、なぜかイエスの存在がシンクロネットワークを通して、何か語りかけてくるようだった。(イエスと話したとか言ってませんよ)
イエスの存在は僕の中でふたつの意味を持っている。
ひとつは、彼が人間に立法と戒律の代わりに「愛」と許しを定着させるためのマスターだったということ。
ふたつめは、いわゆる至福の千年王国、新しい宇宙サイクルの到来を告げる使者であったこと。
そして、その「わたしと同じわざを、それよりも偉大なるわざをあなた方は行うだろう」という言葉より新しい意識と人間の、前触れとして訪れた存在だったのではないかと思うこともある。
イエスとは一体なにものであったのかを考えた時、こんな答えが浮かんだ。
イエスとは、幾何学図形である。
その意味を、書いてみたい。
イエス・キリストとはひとつの人格ではない。
そうではなく、この現象世界よりも先行して存在する、イデアの世界(神々の世界)を構成する「ある原理」が人間としての肉体を持って誕生したものではないだろうか。
イエスは、神の「独り子」と言われる。
この意味も気になるところだった。
どうして、二人ではなく、一人っ子なんだろうか?
この「独り子」という言葉にもイエスキリストとして受肉した宇宙原理がどんなものであったかを知るヒントが隠されているように思う。わかりやすいので、また生命の樹を持ってくる。

この樹の真ん中近くにある、Tiphareth(ティファレト)という球は「キリスト中枢」と呼ばれている。
この中枢は10個の球のうち9個と直接小道によってつながれている。
ティファレトとは「美」を意味するが、美とは力の均衡、バランスによって出現するものだ。
力の過剰、または不足による不均衡は、「クリフォート」と呼ばれる樹の暗黒領域で見られる。
ティファレトはミクロコスモスでは、ハートと対応し、高次の自己が存在する魂の座でもある。
ティファレトはあらゆる諸力からの寵愛を受ける、恵まれた球であり、絶対者「ケテル」とも直接につながっている。
このティファレトのイメージと、その配置が意味するものは、「神の独り子」が意味するものと極めて近いように思える。
さらにイエスの存在の性質について、語っている聖書の部分を引用してみる。
まず、ヨハネの福音書、その冒頭を見てみよう。
そこにはイエスについて次のように書かれている。
ヨハネ1:1~5
初めに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神だった。
この方は初めに神とともにいた。
すべてのものは彼を通して存在するようになり、
彼を離れて存在するようになったものはひとつもない。
彼によって存在するようになったものは命であり
命は人の光であった。
そして、光は闇の中で輝いているが、闇はこれに打ち勝ってはいない。
ヨハネ1:9~11
どんな人にも光を与える真の光が世に入ろうとしていた。
彼は世にいたのであり、世は彼を通して存在するようになったのに、世は彼を知らなかった。
彼は自分のところに来たのに、その民は彼を迎え入れなかった。
これを読んで浮かぶのは、イエスは命の「門」であるというイメージだ。
生命自体が、この世に生まれるためにそこを通過するゲート。
その門はひとつしかないがゆえに、すべての生命はそこを通って生まれる。
イエスというのは、ひとりの偉大なマスターの名前と言うよりも、この生命の「門」が使命を果たすために人間としての肉体をまとった時につけられた名前ではなかっただろうか。
ティファレトがあらわす力の均衡とは、陰と陽の、男性性と女性性の、太陽と月の、あらゆる二元性が融合しているということでもある。
生命は、宇宙は、その宇宙的二元性の相互作用によって生まれたと昔から言われている。
キリスト、つまり「命の門」は二元性の融合点であり、生命の発するポイントであると同時に、わかたれたものが一つに還っていく時に必ず通過するポイントなのかもしれない。
それが「独り子」の意味だろうか?
そう思った時、△と、▼が融合した六ぼう星の意味が・・・・・
これって・・・・キリストのことじゃないんすか?

そんで、だからこの六ぼう星をはらむ、六角形(Mother turtle)は・・・マリア、宇宙的聖母(Cosmic Mother)?

待てよ、キリストが六ぼう星と、母なる亀の中にいる絵をどっかで見た。
あ~これだ!ビンゴΣ(; ゚Д゚)

これら許しの祈りの出現と平行して、なぜかイエスの存在がシンクロネットワークを通して、何か語りかけてくるようだった。(イエスと話したとか言ってませんよ)
イエスの存在は僕の中でふたつの意味を持っている。
ひとつは、彼が人間に立法と戒律の代わりに「愛」と許しを定着させるためのマスターだったということ。
ふたつめは、いわゆる至福の千年王国、新しい宇宙サイクルの到来を告げる使者であったこと。
そして、その「わたしと同じわざを、それよりも偉大なるわざをあなた方は行うだろう」という言葉より新しい意識と人間の、前触れとして訪れた存在だったのではないかと思うこともある。
イエスとは一体なにものであったのかを考えた時、こんな答えが浮かんだ。
イエスとは、幾何学図形である。
その意味を、書いてみたい。
イエス・キリストとはひとつの人格ではない。
そうではなく、この現象世界よりも先行して存在する、イデアの世界(神々の世界)を構成する「ある原理」が人間としての肉体を持って誕生したものではないだろうか。
イエスは、神の「独り子」と言われる。
この意味も気になるところだった。
どうして、二人ではなく、一人っ子なんだろうか?
この「独り子」という言葉にもイエスキリストとして受肉した宇宙原理がどんなものであったかを知るヒントが隠されているように思う。わかりやすいので、また生命の樹を持ってくる。

この樹の真ん中近くにある、Tiphareth(ティファレト)という球は「キリスト中枢」と呼ばれている。
この中枢は10個の球のうち9個と直接小道によってつながれている。
ティファレトとは「美」を意味するが、美とは力の均衡、バランスによって出現するものだ。
力の過剰、または不足による不均衡は、「クリフォート」と呼ばれる樹の暗黒領域で見られる。
ティファレトはミクロコスモスでは、ハートと対応し、高次の自己が存在する魂の座でもある。
ティファレトはあらゆる諸力からの寵愛を受ける、恵まれた球であり、絶対者「ケテル」とも直接につながっている。
このティファレトのイメージと、その配置が意味するものは、「神の独り子」が意味するものと極めて近いように思える。
さらにイエスの存在の性質について、語っている聖書の部分を引用してみる。
まず、ヨハネの福音書、その冒頭を見てみよう。
そこにはイエスについて次のように書かれている。
ヨハネ1:1~5
初めに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神だった。
この方は初めに神とともにいた。
すべてのものは彼を通して存在するようになり、
彼を離れて存在するようになったものはひとつもない。
彼によって存在するようになったものは命であり
命は人の光であった。
そして、光は闇の中で輝いているが、闇はこれに打ち勝ってはいない。
ヨハネ1:9~11
どんな人にも光を与える真の光が世に入ろうとしていた。
彼は世にいたのであり、世は彼を通して存在するようになったのに、世は彼を知らなかった。
彼は自分のところに来たのに、その民は彼を迎え入れなかった。
これを読んで浮かぶのは、イエスは命の「門」であるというイメージだ。
生命自体が、この世に生まれるためにそこを通過するゲート。
その門はひとつしかないがゆえに、すべての生命はそこを通って生まれる。
イエスというのは、ひとりの偉大なマスターの名前と言うよりも、この生命の「門」が使命を果たすために人間としての肉体をまとった時につけられた名前ではなかっただろうか。
ティファレトがあらわす力の均衡とは、陰と陽の、男性性と女性性の、太陽と月の、あらゆる二元性が融合しているということでもある。
生命は、宇宙は、その宇宙的二元性の相互作用によって生まれたと昔から言われている。
キリスト、つまり「命の門」は二元性の融合点であり、生命の発するポイントであると同時に、わかたれたものが一つに還っていく時に必ず通過するポイントなのかもしれない。
それが「独り子」の意味だろうか?
そう思った時、△と、▼が融合した六ぼう星の意味が・・・・・
これって・・・・キリストのことじゃないんすか?

そんで、だからこの六ぼう星をはらむ、六角形(Mother turtle)は・・・マリア、宇宙的聖母(Cosmic Mother)?

待てよ、キリストが六ぼう星と、母なる亀の中にいる絵をどっかで見た。
あ~これだ!ビンゴΣ(; ゚Д゚)

2010.
02.
10
haitakadori
http://swc.nict.go.jp/contents/こういうので今の太陽の状態がわかるのですから、すごいですねー
02-09 11:53@matchryuありがとう^^使い方わからず、返信もらったのわかりませんでしたゆえ。親父離れして、よかったのかもですね。
02-09 11:40今日は仕事がないので、朝からPCをあけている。今気になることのひとつは太陽活動だ。一月の初めちょうどハイチ地震の頃からほとんど絶え間なく黒点が現れている。この黒点と、人の意識や、起こる事件、自然現象は微妙に相関関係がある。人によってはいらいらしやすいかも?Take it eazy
02-09 11:33
2010.
02.
09
オポノポノ、カフナの伝統と、『生命の贈り物』の共通点
最近ブームになっていた、オ・ポノポノはカフナの癒しの儀式を簡略化したもので、セルフアイデンティティーオ・ポノポノとも呼ばれている。
セルフアイデンティティーオ・ポノポノは「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」という4ワードを主に自分のロウセルフ(ウニヒピリ)に対して語りかけるものでオ・ポノポノのセミナーなどを行っているヒューレン氏によるとロウセルフがこれらの言葉を受け入れることによってクリーニングが行われ、インスピレーションが降りてくる状態になると言う。
セルフアイデンティティーオ・ポノポノがカフナの思想と異なるところのひとつは、それを自分自身に向かって唱え続けることで状態が好転するとしているところだろう。
カフナの思想では、誰かを傷つけたら「自分が傷つけたその人物から直接に許しを請う」のが基本とされている。
『生命の贈り物』の著者ハワード・ウィルズも、症状の進行したがん患者のヒーリングを引き受けた際、彼に対して以下のようなアドバイスをしている。
自分を傷つけた人たちに電話をして仲直りをすること。傷つけたことがある人たちに電話をして許してくれるようにと頼み、それから、人を傷つけた自分自身を許すこと。それから、家族の一人一人に謝罪すること、そして、家族の一人一人が彼に謝罪すること、そしてお互いの目を見て、愛していると口に出していい、ハギングをするようにと言ったのです。
これらが病の改善に効果があるだろうことは想像に難くない。
誰だって自分の非は認めたくはないものだし、お互いに謝罪しあうということはほぼ日常的にはないシチュエーションだろう。その非日常的な儀式の後にハグし合うというのは、強力な癒しのパワーを発動させると思う。
これを書いていて、インドに行った時、ブッダガヤーで案内をしてくれたみやげ物屋の親父さんのことを思い出した。ちょうどその時はホーリーという大きなお祭りの日だった。
僕も店の奥で、フルーツとやたらアルコール度の高いビールをご馳走になった。
「ホーリーになると、喧嘩した相手の家にでも遊びに行って、一緒に飲んでくださいと言うんですよ」と彼は言っていた。それを聴いて、そういう日があると言うのはとても素敵なことだなと思った。
文化的にお互いを許しあえるような、そういう日が設定されているということは、とても健全な社会なのではないかと思う。
そのような習慣がない社会では、生きている間に積もり積もったもやもやした思いが病の原因になるというのは大いにあり得ることだろう。
基本的には『生命の贈り物』は自分で唱えるものだが、多分、ウィルズ氏が直接担当したケースでは、緊急的な改善が必要だった為に、お互いに許しあい、愛を確認しあうという儀式を行ったものと思われる。
やはり、他者の口から、自分への、許しと愛の言葉を聴くというパワーは大きいものだ。
このようにして見ると、やり方に多少の相違はあるが、オポノポノも、カフナも、『生命の贈り物』の祈りも、そのポイントは「愛と許し」にあることがわかる。
なぜ効くのか?そのメカニズムの推測
『生命の贈り物』に限って言えば、それは許しの祈りと、癒しの祈りがセットになっている。
まず自分を傷つけた人を、「主のご助力により」、完全に許せますようにというもの
自分が傷つけた人が、「主のご助力のより」、私を完全に許してくれますようにというもの
(その相手への謝罪の言葉も入る)
そして自分自身が、「主のご助力により」、私自身を完全に許せますようにというもの
(自分自身への謝罪の言葉も入る)
おおまかに言えばこれが「許しの祈り」だ。そして「癒しの祈り」は
神、生命エネルギー、なんと呼んでもいいが自分を生かす、エネルギーと自分をつなげる祈りとなっている。
主よ、私が、安らぎと生命と光と愛と完全さの中で
あなたの地球と一緒になりますように
あなたの天国と一緒になりますように
あなたと一緒になりますように
創造物のすべてと一緒になりますように
私自身と一緒になりますように
こころが感情と一緒になりますように
感情がからだと一緒になりますように
どうぞお願いします
そして最後にすべての創造物を愛し、祝福するという祈りでしめられる。
私は、自由と生命と癒しの贈り物を祝いながら、すべての物、すべての時、すべての宇宙、すべての次元を、私の愛で満たします。
今、この時に、そして永遠に
天にまします主よ、感謝します
主よ、感謝します、感謝します
カフナの教えでは、人の中のウニヒピリ・ロウセルフ(インナーチャイルドとも言える)が罪の意識を持っていれば、彼は高次の力の前に出るのを嫌がるので、アウマクア・ハイセルフとうまくつながることが出来ない。
例えば、ウニヒピリの信念を顕在意識の私、ウハネがよく理解していないというやっかいなケースの場合は、部屋にヌードのポスターを貼っただけでウニヒピリが『これは罪である』と認識し、アウマクアとの道をふさいだり、ウハネを罰するような現象を呼び込む。
このようなケースの場合は、ウニヒピリにそれは罪でないと納得させるか、あるいはそういうHなポスターは部屋に貼らないかどちらかの選択をする必要がある。
だからまずは、高次の存在とつながろうとする儀式には、浄化の儀式が常にセットになっている。
火や水による浄化の儀式も、見えない層でのエネルギーをきれいにするというだけではなく、ウニヒピリ・ロウセルフを納得させ、ウハネと統合させ、神へ向かうのを邪魔させないようにするという意味もあるのではないだろうか。
というのはロウセルフは基本的に非常に唯物的というか、物質的な刺激があって初めて納得するようなところがある。それは顕在意識の私・ウハネとは違う論理で生きている存在らしい。
水がかかって、あーつべたい、つべたいっ!(。>皿<。)
火の粉がかかって、あちちちっ!(≧皿≦メ) となって初めて
お~罪が清められている(-人-) 南無南無・・と思うようなところがあるのかもしれない。
※ただし、そのような激しいものではなく、そっとからだに手を触れるなどの行為だけでも物理的な刺激があるとウニヒピリは暗示を受け入れやすくなるようだ。
カフナ的に言えば、この浄化の儀式のために「許しの祈り」がある。
「許せない」と言う思いがいろいろなものとのつながりを阻害しているからだ。
そしてそういった思いが解放されたあと、すべてとのつながりを取り戻すような「癒しの祈り」が唱えられる。
これら『許し』と、神へ向かうことがセットになっているために、より治癒的なエネルギーを受け取りやすくなるということだろう。
「そうだね。」と言う
ところで、ロウセルフ・ウニヒピリは、ハイセルフと顕在意識のつなぎ目であると同時に、記憶と感情の貯蔵庫でもあるので時と場合に応じて様々な感情を発生させて来る。それがあんまりヘビーなものであるとその対処に困る。
結局、精神世界や、ヒーリングと呼ばれるものの主眼目は「ネガティブ(と思われること)にいかに対処するか」ということについての莫大なHow toという側面を持っている。僕もいろいろやってきたけど、最近一番よいと思われる言葉は
「そうだね」 という言葉だ。
例えば、「嫌だ」「腹が立つ」「もう限界」「お先真っ暗だ」「何も信じられない」「生きててもしょうがない」などの感情が眠れない夜などにぐるぐると回りだしたりしたら、その感情の源に対して「そうだね、、、」と言ってあげることだ。
ポジティブになろうとしたり、意識を別のことに向けようとしない。
ただ、「そうだよね~、わかるわかる( ´∀` )」とその声を聴く。
これは、その感情がすべて正しいと認めるということではなく、
「君が今、そう感じることは、まったく自然なことで何も間違ってはいないよ」という風に一旦受け入れてあげることだろうか。
そしてその怯える存在に対して、「愛してるから、大丈夫だよ」と声をかけてあげる。
そうすると不思議なことに僕が感じていたと思っていた感情とは、「彼・ウニヒピリ」のものであったことがわかる。 そして感情の苦を占める大きな要素とは、その感情を「拒絶する」ことから来ていることが実感として体得できる。しかしそれを拒絶することは、「私」と「彼」の間にさらに大きな溝をつくることになるのだ。
これをしてみると、彼はおとなしくなり、僕自身も自分がひとつにまとまったような幸福感を感じることが何度かあった。「彼」が泣き喚くのは親に話を聞いて欲しいのだ。必ずしも自分の思い通りにしたいからではない。だから耳を傾けて、自分が彼を否定してはいないことを理解させてあげることが大事なのではないかと思う。
それはもしかすると、今までエゴや、サタンなどいろいろな名で呼ばれてきたかもしれないが、本質は「私」の「子」である。それを受け入れないことで恐ろしげなものに変えてきたのは「私」なのではないだろうか。合理化の為自分の内側にネガティブな存在を想定することはしばしば新たな問題を発生させる。。それは最終的には、さらなる分離をもたらすからだ。
ネガティブな感情の多くは、自分がその状態を嫌い、どうにかしようと暴れ、その感情状態の自分をさらに嫌うことから来ている。
その原因はある種の「愛の欠如」であるから、それをさらに叱ったり、拒絶しても負の連鎖が続く。
愛情不足の子供とひとつの家に住んで、彼がしょっちゅう悪さをするとしたら、必要なのは彼に理解と共感を示すことだ。
僕らの肉体-精神もそのような家と同じで、そこに複数の自己が住んでいる。
その「家」の雰囲気を殺伐としたものとするか、心安らぐものとするかは、自分の「子」にいかに愛情深く接するかにかかっているのである。その「子」を受け入れることに責任をもつことは、他者に優しくするとかいうこと以前に必要なことだと思う。
そして結局自分の外側の現実は、自分とその「子」の関係に応じたものとしてしか展開し得ない。
ウニヒピリは受け入れている限り、危険な存在ではない。
傷ついたウニヒピリはまだ同じ家に住んでいるが、あまりにも無視され続けると、彼はグレてヤンキーになる。
そしてウハネが彼を拒絶したのと同じくらいの力で、家をのっとろうとする。
そしてウハネのコントロールを越えて、突発的にあふれ出す。
これが衝動的な自傷行為や破壊的行動の原因のひとつだと思う。
僕らはひとりの人間ではない。
その内側に賢者も、また小さな子供も一緒にかかえて生きている。
賢者(ハイセルフ)は僕の父で、そして僕の子(ロウセルフ)は彼にとって孫にあたる。
子より孫がかわいいとはよく言うが、僕が子を虐待していたら、父もいい顔をしないだろう。
自分の子供に責任を持つことで、僕らは父祖の知恵にあずかれるのかもしれない。
最近ブームになっていた、オ・ポノポノはカフナの癒しの儀式を簡略化したもので、セルフアイデンティティーオ・ポノポノとも呼ばれている。
セルフアイデンティティーオ・ポノポノは「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」という4ワードを主に自分のロウセルフ(ウニヒピリ)に対して語りかけるものでオ・ポノポノのセミナーなどを行っているヒューレン氏によるとロウセルフがこれらの言葉を受け入れることによってクリーニングが行われ、インスピレーションが降りてくる状態になると言う。
セルフアイデンティティーオ・ポノポノがカフナの思想と異なるところのひとつは、それを自分自身に向かって唱え続けることで状態が好転するとしているところだろう。
カフナの思想では、誰かを傷つけたら「自分が傷つけたその人物から直接に許しを請う」のが基本とされている。
『生命の贈り物』の著者ハワード・ウィルズも、症状の進行したがん患者のヒーリングを引き受けた際、彼に対して以下のようなアドバイスをしている。
自分を傷つけた人たちに電話をして仲直りをすること。傷つけたことがある人たちに電話をして許してくれるようにと頼み、それから、人を傷つけた自分自身を許すこと。それから、家族の一人一人に謝罪すること、そして、家族の一人一人が彼に謝罪すること、そしてお互いの目を見て、愛していると口に出していい、ハギングをするようにと言ったのです。
これらが病の改善に効果があるだろうことは想像に難くない。
誰だって自分の非は認めたくはないものだし、お互いに謝罪しあうということはほぼ日常的にはないシチュエーションだろう。その非日常的な儀式の後にハグし合うというのは、強力な癒しのパワーを発動させると思う。
これを書いていて、インドに行った時、ブッダガヤーで案内をしてくれたみやげ物屋の親父さんのことを思い出した。ちょうどその時はホーリーという大きなお祭りの日だった。
僕も店の奥で、フルーツとやたらアルコール度の高いビールをご馳走になった。
「ホーリーになると、喧嘩した相手の家にでも遊びに行って、一緒に飲んでくださいと言うんですよ」と彼は言っていた。それを聴いて、そういう日があると言うのはとても素敵なことだなと思った。
文化的にお互いを許しあえるような、そういう日が設定されているということは、とても健全な社会なのではないかと思う。
そのような習慣がない社会では、生きている間に積もり積もったもやもやした思いが病の原因になるというのは大いにあり得ることだろう。
基本的には『生命の贈り物』は自分で唱えるものだが、多分、ウィルズ氏が直接担当したケースでは、緊急的な改善が必要だった為に、お互いに許しあい、愛を確認しあうという儀式を行ったものと思われる。
やはり、他者の口から、自分への、許しと愛の言葉を聴くというパワーは大きいものだ。
このようにして見ると、やり方に多少の相違はあるが、オポノポノも、カフナも、『生命の贈り物』の祈りも、そのポイントは「愛と許し」にあることがわかる。
なぜ効くのか?そのメカニズムの推測
『生命の贈り物』に限って言えば、それは許しの祈りと、癒しの祈りがセットになっている。
まず自分を傷つけた人を、「主のご助力により」、完全に許せますようにというもの
自分が傷つけた人が、「主のご助力のより」、私を完全に許してくれますようにというもの
(その相手への謝罪の言葉も入る)
そして自分自身が、「主のご助力により」、私自身を完全に許せますようにというもの
(自分自身への謝罪の言葉も入る)
おおまかに言えばこれが「許しの祈り」だ。そして「癒しの祈り」は
神、生命エネルギー、なんと呼んでもいいが自分を生かす、エネルギーと自分をつなげる祈りとなっている。
主よ、私が、安らぎと生命と光と愛と完全さの中で
あなたの地球と一緒になりますように
あなたの天国と一緒になりますように
あなたと一緒になりますように
創造物のすべてと一緒になりますように
私自身と一緒になりますように
こころが感情と一緒になりますように
感情がからだと一緒になりますように
どうぞお願いします
そして最後にすべての創造物を愛し、祝福するという祈りでしめられる。
私は、自由と生命と癒しの贈り物を祝いながら、すべての物、すべての時、すべての宇宙、すべての次元を、私の愛で満たします。
今、この時に、そして永遠に
天にまします主よ、感謝します
主よ、感謝します、感謝します
カフナの教えでは、人の中のウニヒピリ・ロウセルフ(インナーチャイルドとも言える)が罪の意識を持っていれば、彼は高次の力の前に出るのを嫌がるので、アウマクア・ハイセルフとうまくつながることが出来ない。
例えば、ウニヒピリの信念を顕在意識の私、ウハネがよく理解していないというやっかいなケースの場合は、部屋にヌードのポスターを貼っただけでウニヒピリが『これは罪である』と認識し、アウマクアとの道をふさいだり、ウハネを罰するような現象を呼び込む。
このようなケースの場合は、ウニヒピリにそれは罪でないと納得させるか、あるいはそういうHなポスターは部屋に貼らないかどちらかの選択をする必要がある。
だからまずは、高次の存在とつながろうとする儀式には、浄化の儀式が常にセットになっている。
火や水による浄化の儀式も、見えない層でのエネルギーをきれいにするというだけではなく、ウニヒピリ・ロウセルフを納得させ、ウハネと統合させ、神へ向かうのを邪魔させないようにするという意味もあるのではないだろうか。
というのはロウセルフは基本的に非常に唯物的というか、物質的な刺激があって初めて納得するようなところがある。それは顕在意識の私・ウハネとは違う論理で生きている存在らしい。
水がかかって、あーつべたい、つべたいっ!(。>皿<。)
火の粉がかかって、あちちちっ!(≧皿≦メ) となって初めて
お~罪が清められている(-人-) 南無南無・・と思うようなところがあるのかもしれない。
※ただし、そのような激しいものではなく、そっとからだに手を触れるなどの行為だけでも物理的な刺激があるとウニヒピリは暗示を受け入れやすくなるようだ。
カフナ的に言えば、この浄化の儀式のために「許しの祈り」がある。
「許せない」と言う思いがいろいろなものとのつながりを阻害しているからだ。
そしてそういった思いが解放されたあと、すべてとのつながりを取り戻すような「癒しの祈り」が唱えられる。
これら『許し』と、神へ向かうことがセットになっているために、より治癒的なエネルギーを受け取りやすくなるということだろう。
「そうだね。」と言う
ところで、ロウセルフ・ウニヒピリは、ハイセルフと顕在意識のつなぎ目であると同時に、記憶と感情の貯蔵庫でもあるので時と場合に応じて様々な感情を発生させて来る。それがあんまりヘビーなものであるとその対処に困る。
結局、精神世界や、ヒーリングと呼ばれるものの主眼目は「ネガティブ(と思われること)にいかに対処するか」ということについての莫大なHow toという側面を持っている。僕もいろいろやってきたけど、最近一番よいと思われる言葉は
「そうだね」 という言葉だ。
例えば、「嫌だ」「腹が立つ」「もう限界」「お先真っ暗だ」「何も信じられない」「生きててもしょうがない」などの感情が眠れない夜などにぐるぐると回りだしたりしたら、その感情の源に対して「そうだね、、、」と言ってあげることだ。
ポジティブになろうとしたり、意識を別のことに向けようとしない。
ただ、「そうだよね~、わかるわかる( ´∀` )」とその声を聴く。
これは、その感情がすべて正しいと認めるということではなく、
「君が今、そう感じることは、まったく自然なことで何も間違ってはいないよ」という風に一旦受け入れてあげることだろうか。
そしてその怯える存在に対して、「愛してるから、大丈夫だよ」と声をかけてあげる。
そうすると不思議なことに僕が感じていたと思っていた感情とは、「彼・ウニヒピリ」のものであったことがわかる。 そして感情の苦を占める大きな要素とは、その感情を「拒絶する」ことから来ていることが実感として体得できる。しかしそれを拒絶することは、「私」と「彼」の間にさらに大きな溝をつくることになるのだ。
これをしてみると、彼はおとなしくなり、僕自身も自分がひとつにまとまったような幸福感を感じることが何度かあった。「彼」が泣き喚くのは親に話を聞いて欲しいのだ。必ずしも自分の思い通りにしたいからではない。だから耳を傾けて、自分が彼を否定してはいないことを理解させてあげることが大事なのではないかと思う。
それはもしかすると、今までエゴや、サタンなどいろいろな名で呼ばれてきたかもしれないが、本質は「私」の「子」である。それを受け入れないことで恐ろしげなものに変えてきたのは「私」なのではないだろうか。合理化の為自分の内側にネガティブな存在を想定することはしばしば新たな問題を発生させる。。それは最終的には、さらなる分離をもたらすからだ。
ネガティブな感情の多くは、自分がその状態を嫌い、どうにかしようと暴れ、その感情状態の自分をさらに嫌うことから来ている。
その原因はある種の「愛の欠如」であるから、それをさらに叱ったり、拒絶しても負の連鎖が続く。
愛情不足の子供とひとつの家に住んで、彼がしょっちゅう悪さをするとしたら、必要なのは彼に理解と共感を示すことだ。
僕らの肉体-精神もそのような家と同じで、そこに複数の自己が住んでいる。
その「家」の雰囲気を殺伐としたものとするか、心安らぐものとするかは、自分の「子」にいかに愛情深く接するかにかかっているのである。その「子」を受け入れることに責任をもつことは、他者に優しくするとかいうこと以前に必要なことだと思う。
そして結局自分の外側の現実は、自分とその「子」の関係に応じたものとしてしか展開し得ない。
ウニヒピリは受け入れている限り、危険な存在ではない。
傷ついたウニヒピリはまだ同じ家に住んでいるが、あまりにも無視され続けると、彼はグレてヤンキーになる。
そしてウハネが彼を拒絶したのと同じくらいの力で、家をのっとろうとする。
そしてウハネのコントロールを越えて、突発的にあふれ出す。
これが衝動的な自傷行為や破壊的行動の原因のひとつだと思う。
僕らはひとりの人間ではない。
その内側に賢者も、また小さな子供も一緒にかかえて生きている。
賢者(ハイセルフ)は僕の父で、そして僕の子(ロウセルフ)は彼にとって孫にあたる。
子より孫がかわいいとはよく言うが、僕が子を虐待していたら、父もいい顔をしないだろう。
自分の子供に責任を持つことで、僕らは父祖の知恵にあずかれるのかもしれない。
2010.
02.
09
最近、一日一回は『生命の贈り物』を読み上げる日々が続いているけど、この流れいつから始まったのかというと、去年の11月終わりくらいからだと思う。マウイ島行ってる夢を見た。
それをもう少し遡ると去年の夏の恐怖体験や、6月に参加した奈良太陽の道ツアーなども変化のポイントとして大きいかもしれないけど、あんまり遡りすぎても結局全部つながってきてしまうので(;^ω^)
マウイの夢見た、次の日くらいかな・・・リチャードバック:ダンテスダイジの「救世主入門」の一節が夢の中に出てきた。この箇所。
ありありと想像せよ
宇宙は美しく完璧であると
救世主は
君たちよりうまく
それを想像するだけだ
そしてなんかよくわからないがアメリカ西海岸とか、オーストラリアの海岸沿いの街とかなんかそんなイメージの場所が現れ、ラジオのDJがその街の名物料理について喋っている場面が出てきた。ホタテのバター炒めとかなんかそういうの。あれ、ホタテって北の海だけでとれるんだっけ?
まあ、ホタテがどこで取れるかはおいといて、とにかくその海岸沿いの街のイメージと、上の『救世主入門』の言葉が妙にシンクロしていたのだ。その海岸沿いの街の印象は、陽気さと自由さで、僕がよくフォーカスしている現実とはまったく別の世界が存在している、あーいろいろな世界があって、そのそれぞれにいろいろな人が生きているんだなというような感慨を抱かせるイメージだった。
あーこういう世界もまあ、あるよねという感じ。
ニュースばかり見てそれが、世界だと思い込めばこんな暗い気持ちになることはないが、宇宙にはいろいろな世界がある。
例え大不況で、またいろいろ嫌な事件が起こったりしていても、熱帯の海では魚たちが泳いで、そして砂漠の夜には大きな月がかかり、カナダの針葉樹林では鹿が駆けているだろうし、北欧のフィヨルドはゆっくりと移動している。

この世界はとても豊かだ。

自分の意識がフォーカスしてる部分をずらして、そういった次元の現実を見つめれば、宇宙は美しく完璧であるとも言える。
そして、どこかよくわからない海岸沿いの街で陽気な人たちが、話しているレストランを想像すると言うのも良い。
宇宙(世界)は美しく完璧であると想像することは、どこの現実に主に焦点を合わせるかと言うことと関係していることをその夢は教えてくれたような気がした。
ところでホタテのバター焼きの話をするDJの声が流れる街は、
うーん・・・まあ、こういう感じかなあ・・・


こーいうのとかねえ~。
要点は、宇宙を完璧だと思いたければ、自分の好ましい宇宙に意識を合わせればいいということかなあ・・・。
これは自分ひとりで妄想の中で遊んでるのではなく、きわめて現実的に意味があることだと思う。
というのは「好ましい世界のイメージ」を持ってるかそうでないかで、まったく人は別の現実に生きているとも言えるからだ。
自分の外側に広がる世界が、しめつけ、暴力をふるい、圧迫し、抑圧し、搾取し、最終的に殺してくるものと思うか
自分の外側に広がる世界が、包み込み、やさしく愛撫し、育み、魂を解放してくれると思うかでは体験する現実がまったく変わってくる。
僕らは闇の胎内にいるのか、あるいは光の胸に抱かれているのか?
念のため言うと、格別西海岸が好きとかではないんす(;^ω^)
夢の中では魅力的だったけど。
で、その夢をみた日の朝、時々コメントくれる方がマウイ島やカフナに詳しいというコメントをブログにくれて
まあ、そういうシンクロの流れで、カフナの伝統や、オポノポノのことを調べたりして、最終的には『生命の贈り物』の祈りに出会った。
もし世界を好ましきものとして祝福すれば、世界も僕らを祝福してくれる。
これはシンプルな仕組みであると思う。
それをもう少し遡ると去年の夏の恐怖体験や、6月に参加した奈良太陽の道ツアーなども変化のポイントとして大きいかもしれないけど、あんまり遡りすぎても結局全部つながってきてしまうので(;^ω^)
マウイの夢見た、次の日くらいかな・・・リチャードバック:ダンテスダイジの「救世主入門」の一節が夢の中に出てきた。この箇所。
ありありと想像せよ
宇宙は美しく完璧であると
救世主は
君たちよりうまく
それを想像するだけだ
そしてなんかよくわからないがアメリカ西海岸とか、オーストラリアの海岸沿いの街とかなんかそんなイメージの場所が現れ、ラジオのDJがその街の名物料理について喋っている場面が出てきた。ホタテのバター炒めとかなんかそういうの。あれ、ホタテって北の海だけでとれるんだっけ?
まあ、ホタテがどこで取れるかはおいといて、とにかくその海岸沿いの街のイメージと、上の『救世主入門』の言葉が妙にシンクロしていたのだ。その海岸沿いの街の印象は、陽気さと自由さで、僕がよくフォーカスしている現実とはまったく別の世界が存在している、あーいろいろな世界があって、そのそれぞれにいろいろな人が生きているんだなというような感慨を抱かせるイメージだった。
あーこういう世界もまあ、あるよねという感じ。
ニュースばかり見てそれが、世界だと思い込めばこんな暗い気持ちになることはないが、宇宙にはいろいろな世界がある。
例え大不況で、またいろいろ嫌な事件が起こったりしていても、熱帯の海では魚たちが泳いで、そして砂漠の夜には大きな月がかかり、カナダの針葉樹林では鹿が駆けているだろうし、北欧のフィヨルドはゆっくりと移動している。

この世界はとても豊かだ。

自分の意識がフォーカスしてる部分をずらして、そういった次元の現実を見つめれば、宇宙は美しく完璧であるとも言える。
そして、どこかよくわからない海岸沿いの街で陽気な人たちが、話しているレストランを想像すると言うのも良い。
宇宙(世界)は美しく完璧であると想像することは、どこの現実に主に焦点を合わせるかと言うことと関係していることをその夢は教えてくれたような気がした。
ところでホタテのバター焼きの話をするDJの声が流れる街は、
うーん・・・まあ、こういう感じかなあ・・・


こーいうのとかねえ~。
要点は、宇宙を完璧だと思いたければ、自分の好ましい宇宙に意識を合わせればいいということかなあ・・・。
これは自分ひとりで妄想の中で遊んでるのではなく、きわめて現実的に意味があることだと思う。
というのは「好ましい世界のイメージ」を持ってるかそうでないかで、まったく人は別の現実に生きているとも言えるからだ。
自分の外側に広がる世界が、しめつけ、暴力をふるい、圧迫し、抑圧し、搾取し、最終的に殺してくるものと思うか
自分の外側に広がる世界が、包み込み、やさしく愛撫し、育み、魂を解放してくれると思うかでは体験する現実がまったく変わってくる。
僕らは闇の胎内にいるのか、あるいは光の胸に抱かれているのか?
念のため言うと、格別西海岸が好きとかではないんす(;^ω^)
夢の中では魅力的だったけど。
で、その夢をみた日の朝、時々コメントくれる方がマウイ島やカフナに詳しいというコメントをブログにくれて
まあ、そういうシンクロの流れで、カフナの伝統や、オポノポノのことを調べたりして、最終的には『生命の贈り物』の祈りに出会った。
もし世界を好ましきものとして祝福すれば、世界も僕らを祝福してくれる。
これはシンプルな仕組みであると思う。
2010.
02.
08
haitakadori
登録したばかりで、使い方がよくわからないが、まあそのうちわかってくるか、使わないようになるだろうと。達観している。大毅がチャンピオンになって泣いてるのを見て泣きそうになった。亀田兄弟はなんだかんだ言って熱くて、善人だと思う。ヘンリー・オーツさんのブログを見て登録してみた。
02-07 22:29
2010.
02.
07
割とどうでもいいこと書きます。
瞑想中、もしくはねぼけ状態の時、なんかよくわからない言葉が浮かぶことがある。
大抵なんの意味もない言葉だけど、時々知らないはずのマントラの一部だったり、なんかヒントを含んでることが稀にある。
数日前、Insight CDを聴きながらぼけていると、なんだかひとつの言葉が 繰り返しエコーしているのを気づく。
それはこう言っていた
こう言っていたというのは ここまでぼけてると それが自分自身がやってると言うよりも
潜在意識という別の生き物がが言ってるのを観察してる感じになるからだった。
それはこう言っていた
かおる・・・・かおる・・・・那智 かおる
顕在意識の自分が え? 誰それ?? と反応し 那智かおる、ね 覚えておこうと記憶する。
CD終わったあと、「那智かおる」でググると なにやら実在の人物ぽいではないか。
え?京都に住んでた 討幕派の武士??
もしやそれは、私の過去世かっ!!
と勢いつけてクリックすると。

モバゲーのキャラだった( ̄´д` ̄)ハハ
「前世でも恋人」という、なんつーか、女子がプレイするときメモ系のゲームみたい。
その中で、主人公が恋に落ちる可能性のあるキャラのひとりの名前が 那智かおる
俺の潜在意識よ、もっとクオリティーの高い情報をプリーズ。。。。・゚・(ノД`)・゚・。
しかし、そんな女性用のモバゲーのキャラなんてどっから意識に入ってきたのだろうか。
もちろん、そんなゲームの存在はまったく知らない。
あるいはたまたまでたらめに組み合わされた名前が、たまたまゲームに使われていただけなのか。
先日もこんなことがあった
葛城・・・葛城・・・・葛城・・・美里 葛城美里!!
誰だそれは!!よしググろう。
ハッ!!Σ(ll゚Д゚ノ)ノ
ググる前に気づいてしまった(-"-)
この人じゃん・・・・(o゚ω゚)チーン
まあ・・・・エヴァンゲリオンは・・・・・嫌いじゃないけど さあ
ミサトさんより、どっちかっつーとアスカが好きです僕。
このラストのシーン、自己啓発セミナーみたいやけど、昔何回もみたなあ。
完全に碇シンジ君とシンクロ率99%で自己同一化してましたからな~。
しかしモバゲーと言い、エヴァと言い
なんか潜在意識がアキバ系になっとらんかのo┤*´Д`*├o
仕事で、利用者の人と一緒にアニメ見ること多いからかな~。
仕事中に教えてもらうものだから、家かえってつい続きを見たりしてしまう。
昔見た「未来少年コナン」って、なんか今見ると無垢すぎて泣けてくる。
未来少年が、銛もって走り回ってることで、宮崎駿が言いたかったことがわかった気がした。
太陽の塔が沈むのは、アトランティスの沈没みたいだなあ。
Watch Future Boy Conan [Hayao Miyazaki] - 01 - ver2.avi in �� | View More Free Videos Online at Veoh.com
このサイト無料で全話見れまっせ~
他にも無料アニメが一杯
さあ、Let's AKIBA!(笑)
いやーこんだけアニメ動画埋め込むと、ホントオタクぽい雰囲気になりますね。
記事全体からまんだらけ臭が(o-∀-o)。
瞑想中、もしくはねぼけ状態の時、なんかよくわからない言葉が浮かぶことがある。
大抵なんの意味もない言葉だけど、時々知らないはずのマントラの一部だったり、なんかヒントを含んでることが稀にある。
数日前、Insight CDを聴きながらぼけていると、なんだかひとつの言葉が 繰り返しエコーしているのを気づく。
それはこう言っていた
こう言っていたというのは ここまでぼけてると それが自分自身がやってると言うよりも
潜在意識という別の生き物がが言ってるのを観察してる感じになるからだった。
それはこう言っていた
かおる・・・・かおる・・・・那智 かおる
顕在意識の自分が え? 誰それ?? と反応し 那智かおる、ね 覚えておこうと記憶する。
CD終わったあと、「那智かおる」でググると なにやら実在の人物ぽいではないか。
え?京都に住んでた 討幕派の武士??
もしやそれは、私の過去世かっ!!
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モバゲーのキャラだった( ̄´д` ̄)ハハ
「前世でも恋人」という、なんつーか、女子がプレイするときメモ系のゲームみたい。
その中で、主人公が恋に落ちる可能性のあるキャラのひとりの名前が 那智かおる
俺の潜在意識よ、もっとクオリティーの高い情報をプリーズ。。。。・゚・(ノД`)・゚・。
しかし、そんな女性用のモバゲーのキャラなんてどっから意識に入ってきたのだろうか。
もちろん、そんなゲームの存在はまったく知らない。
あるいはたまたまでたらめに組み合わされた名前が、たまたまゲームに使われていただけなのか。
先日もこんなことがあった
葛城・・・葛城・・・・葛城・・・美里 葛城美里!!
誰だそれは!!よしググろう。
ハッ!!Σ(ll゚Д゚ノ)ノ
ググる前に気づいてしまった(-"-)
この人じゃん・・・・(o゚ω゚)チーン
まあ・・・・エヴァンゲリオンは・・・・・嫌いじゃないけど さあ
ミサトさんより、どっちかっつーとアスカが好きです僕。
このラストのシーン、自己啓発セミナーみたいやけど、昔何回もみたなあ。
完全に碇シンジ君とシンクロ率99%で自己同一化してましたからな~。
しかしモバゲーと言い、エヴァと言い
なんか潜在意識がアキバ系になっとらんかのo┤*´Д`*├o
仕事で、利用者の人と一緒にアニメ見ること多いからかな~。
仕事中に教えてもらうものだから、家かえってつい続きを見たりしてしまう。
昔見た「未来少年コナン」って、なんか今見ると無垢すぎて泣けてくる。
未来少年が、銛もって走り回ってることで、宮崎駿が言いたかったことがわかった気がした。
太陽の塔が沈むのは、アトランティスの沈没みたいだなあ。
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さあ、Let's AKIBA!(笑)
いやーこんだけアニメ動画埋め込むと、ホントオタクぽい雰囲気になりますね。
記事全体からまんだらけ臭が(o-∀-o)。
2010.
02.
02
外を見ると、いつからか降り始めた雪がもう積もり始めている。

テンションがあがり、ワインを買いに。
ほろ酔いで眠ると、UFOがたくさん飛んでる夢を見て
目が覚めると 次の朝
白い世界に来ていた。


新雪に足跡をつけるのは、いつも楽しい

新しい未知の世界に、一番最初に到着した。
広場で犬が雪の上を走り周り、僕に向かって駆けてくる。
ふと上を見ると、樹に花が咲いている

ユキノハナ

宮沢賢治がとりにいった天上のアイスクリーム

白い世界はすべてをおおい、新しくする
二年前に書いた詩をひとつ・・・
神様の笛
雪が降っている
地上の汚れは白いヴェールで覆われて
街は束の間
新しくきれいになった
雪が降っている
街は童話の世界になり
それは僕が生まれた街と
似てきてしまった
それは昔僕が笑っていた夜と
似てきてしまった
それは昔僕が泣いていた夜と
似てきてしまった
最近、こころから笑ったことあったかな?
最近、こころから泣いたことあったかな?
雪が降っている
懐かしい白が
いとしい過去を引き連れて
新しい白を積もらせることを
祈る
雪が降っている
雪が降っている
どこか遠い場所で
神様がひっそりと腰掛けて
静かに笛を吹いている 2008 Jan
(*-∀-)ゞ
(*-∀-)ゞアハハ
(*-∀-)ゞ恥

こころに平和と よろこびがありますように

こいつは!?やはり森に住むあいつか!

テンションがあがり、ワインを買いに。
ほろ酔いで眠ると、UFOがたくさん飛んでる夢を見て
目が覚めると 次の朝
白い世界に来ていた。


新雪に足跡をつけるのは、いつも楽しい

新しい未知の世界に、一番最初に到着した。
広場で犬が雪の上を走り周り、僕に向かって駆けてくる。
ふと上を見ると、樹に花が咲いている

ユキノハナ

宮沢賢治がとりにいった天上のアイスクリーム

白い世界はすべてをおおい、新しくする
二年前に書いた詩をひとつ・・・
神様の笛
雪が降っている
地上の汚れは白いヴェールで覆われて
街は束の間
新しくきれいになった
雪が降っている
街は童話の世界になり
それは僕が生まれた街と
似てきてしまった
それは昔僕が笑っていた夜と
似てきてしまった
それは昔僕が泣いていた夜と
似てきてしまった
最近、こころから笑ったことあったかな?
最近、こころから泣いたことあったかな?
雪が降っている
懐かしい白が
いとしい過去を引き連れて
新しい白を積もらせることを
祈る
雪が降っている
雪が降っている
どこか遠い場所で
神様がひっそりと腰掛けて
静かに笛を吹いている 2008 Jan
(*-∀-)ゞ
(*-∀-)ゞアハハ
(*-∀-)ゞ恥

こころに平和と よろこびがありますように

こいつは!?やはり森に住むあいつか!
2010.
02.
01
『私はアセンションした惑星から来た』という本に載っていた、ヒーリングについての考え方。
(前略)・・・相手の顔を雪の玉の中に視覚化します。そしてその雪玉を愛と慈悲の大海原へ投げ入れるのです。その海は進化した魂たちとアセンデッドマスターたちの青白いエネルギーの流れであり、神の中心からあらゆる階層世界や宇宙を通じて流れ込んできています。そして雪玉が流れの中に吸収されて、その一部となる様子を描きながらこう言います。
「神聖なる創造主の名において、この病が取り除かれるべきものであるかどうかをお尋ねします。私たちはあなたの聖なる決定がいかなるものであろうと受け入れます。あるがままのすべてに感謝します。バラカ バシャド(恵みがありますように)」
常にこころにとめておかなければならないことは、エネルギーは私たちの一部ではあっても、私たち自身がヒーリングをするのではないということです。わたしたちはエネルギーを方向付けるのです。これを自分の功績にしようとするエゴが入り込んでくると、それは神聖なるエネルギー源を操作するという危険な行いとなります。私たちは常に偉大なる本源のエネルギーを使わせていただいていることに感謝の気持ちをもたなければなりません。
この、本は金星から来たというオムネク・オネクという女性が1970年代に完成させた原稿をもとにして編集されている。彼女のいうところによれば、金星のアストラル領域には美しい街が存在して、人間が暮らしているという。彼女は物理世界でしか解消できないカルマの返済のために、地球に来た。
正直この本は前から気になっていたが、ちょっとトンデモ度が高いので、敬遠していた。
でもこの訳者の益子さんという人の文章がなんとなく好感が持てるように思えたので、訳者に対する信頼感により購入。オムネクさんは生まれつき血圧が280あるが、金星ではそれが普通らしい(笑)
益子さんのエッセイ エメラルドの森
この本を読んでわかるのは少なくともオムネクは「嘘」は語っていないだろうということで、それは彼女の世界では事実であるだろうということ。
初めて肉体を持った時に、「なにこれ!首を回さないと後ろが見えないじゃない!」と叫んでしまった話しなど面白い(・∀・)
まず、金星からチベットに来て地球の波動になじんだということだが、昔いたジョージ・アダムスキーという金星人とのコンタクティーも幼い頃をチベットで過ごしている。
まあ、金星の話しは正直、確かめようがないというか知っても実生活につなげようがないことが多いので、面白いお話として読んだけど、このヒーリングに関するところが『生命の贈り物』とつながる部分があったので気になった。
『生命の贈り物』の著者ハワード・ウィルズの前書きにはこう書かれている。
「信念体系は、わたしたちに様々な制限をもたらし、霊的な成長や自覚を妨げることがあります。神は私たちに毎日祝福を送ってくださいますが、あざけりや、裁きや、プライド、そのほかわたしたちの自己破壊的なあり方によってブロックされてしまうことが多いのです」
結局、この祈りはそういうブロックを解放し、生命エネルギー、高次の存在に対してオープンになるためにデザインされている。しつこいほどに自他への「許し」の祈りが登場するのは、他者へのもやもやしたものや自己嫌悪、自己否定などが生命エネルギーを日常的にブロックしている最たるものだからだと思う。
『生命の贈り物』は自己の意識を、生命エネルギーが流れ通るように「方向付け」することにある。
「病を癒すのは、自分(自己治癒力)」とよく言うが、僕らに出来るのは「方向付け」だけであり、そこに流れ込んでくる癒しそのものはオムネクさんも指摘の通り、あくまで「恩寵」であると言うのが正しいと思う。
しかし、自分の望みをはっきりと宣言する、形にする、という方向付けもとても大事だと最近思うようになった。
僕はもともと願望成就系の「あなたの現実はすべてあなたが作り出している」的な考えには拒否反応があったのだが、あんまり拒否反応が強いものはそこから学ぶ必要がある場合も往々にある。
週末にバイトで電話のアンケート調査のようなことをした。
僕は丁寧なトークが好きなので、「ご協力いただけますでしょうか?」というように相手の意思を確認するような問いかけをする場合が多いのだが、今回SVに「きかなくていいから、お願いしますと言い切って」と言われて、そのようなトークに切り替えた。
するとやはりそうした方が、回答率が高くなったようで、丁寧すぎるのも場合によりけりだなと思った。
やっぱり「協力してくれますか?(;´・ω・)」というのと「お願いいたします!(`・ω・´)シャキーン」というのとでは、相手が受け取るエネルギーがかわってくる。
ああ・・・「押し」てこういうことなんすね(笑)
まあ~正直夜遅くに何度も電話したり、迷惑だよな~これとも思うが(´-∀-`;)
一応あまり躊躇なく迷惑になりきることにした。
お願いします!「結構です!!ガチャン」。゚(゚´ω`゚)゚。ピー
お願いします!!「うるさいわ、ガチャン」。゚(゚´ω`゚)゚。ピー
お願いします!!!「もうやめてくれます?」ゴメンナサ──・゚・(。>д<。)・゚・──イ
お願いします!!「・・・いいですよ」エ・・・・゚+。ヤッタァ★(o゚∀`从'∀゚o)★ヤッタァ。+゚
別に強制しているわけではなく、なるべく元気に「お願い」してるだけなので、やっぱり生きるにあたってこういう姿勢も必要かと思った。
これもやはり「方向付け」の一種だと思う。
(前略)・・・相手の顔を雪の玉の中に視覚化します。そしてその雪玉を愛と慈悲の大海原へ投げ入れるのです。その海は進化した魂たちとアセンデッドマスターたちの青白いエネルギーの流れであり、神の中心からあらゆる階層世界や宇宙を通じて流れ込んできています。そして雪玉が流れの中に吸収されて、その一部となる様子を描きながらこう言います。
「神聖なる創造主の名において、この病が取り除かれるべきものであるかどうかをお尋ねします。私たちはあなたの聖なる決定がいかなるものであろうと受け入れます。あるがままのすべてに感謝します。バラカ バシャド(恵みがありますように)」
常にこころにとめておかなければならないことは、エネルギーは私たちの一部ではあっても、私たち自身がヒーリングをするのではないということです。わたしたちはエネルギーを方向付けるのです。これを自分の功績にしようとするエゴが入り込んでくると、それは神聖なるエネルギー源を操作するという危険な行いとなります。私たちは常に偉大なる本源のエネルギーを使わせていただいていることに感謝の気持ちをもたなければなりません。
この、本は金星から来たというオムネク・オネクという女性が1970年代に完成させた原稿をもとにして編集されている。彼女のいうところによれば、金星のアストラル領域には美しい街が存在して、人間が暮らしているという。彼女は物理世界でしか解消できないカルマの返済のために、地球に来た。
正直この本は前から気になっていたが、ちょっとトンデモ度が高いので、敬遠していた。
でもこの訳者の益子さんという人の文章がなんとなく好感が持てるように思えたので、訳者に対する信頼感により購入。オムネクさんは生まれつき血圧が280あるが、金星ではそれが普通らしい(笑)
益子さんのエッセイ エメラルドの森
この本を読んでわかるのは少なくともオムネクは「嘘」は語っていないだろうということで、それは彼女の世界では事実であるだろうということ。
初めて肉体を持った時に、「なにこれ!首を回さないと後ろが見えないじゃない!」と叫んでしまった話しなど面白い(・∀・)
まず、金星からチベットに来て地球の波動になじんだということだが、昔いたジョージ・アダムスキーという金星人とのコンタクティーも幼い頃をチベットで過ごしている。
まあ、金星の話しは正直、確かめようがないというか知っても実生活につなげようがないことが多いので、面白いお話として読んだけど、このヒーリングに関するところが『生命の贈り物』とつながる部分があったので気になった。
『生命の贈り物』の著者ハワード・ウィルズの前書きにはこう書かれている。
「信念体系は、わたしたちに様々な制限をもたらし、霊的な成長や自覚を妨げることがあります。神は私たちに毎日祝福を送ってくださいますが、あざけりや、裁きや、プライド、そのほかわたしたちの自己破壊的なあり方によってブロックされてしまうことが多いのです」
結局、この祈りはそういうブロックを解放し、生命エネルギー、高次の存在に対してオープンになるためにデザインされている。しつこいほどに自他への「許し」の祈りが登場するのは、他者へのもやもやしたものや自己嫌悪、自己否定などが生命エネルギーを日常的にブロックしている最たるものだからだと思う。
『生命の贈り物』は自己の意識を、生命エネルギーが流れ通るように「方向付け」することにある。
「病を癒すのは、自分(自己治癒力)」とよく言うが、僕らに出来るのは「方向付け」だけであり、そこに流れ込んでくる癒しそのものはオムネクさんも指摘の通り、あくまで「恩寵」であると言うのが正しいと思う。
しかし、自分の望みをはっきりと宣言する、形にする、という方向付けもとても大事だと最近思うようになった。
僕はもともと願望成就系の「あなたの現実はすべてあなたが作り出している」的な考えには拒否反応があったのだが、あんまり拒否反応が強いものはそこから学ぶ必要がある場合も往々にある。
週末にバイトで電話のアンケート調査のようなことをした。
僕は丁寧なトークが好きなので、「ご協力いただけますでしょうか?」というように相手の意思を確認するような問いかけをする場合が多いのだが、今回SVに「きかなくていいから、お願いしますと言い切って」と言われて、そのようなトークに切り替えた。
するとやはりそうした方が、回答率が高くなったようで、丁寧すぎるのも場合によりけりだなと思った。
やっぱり「協力してくれますか?(;´・ω・)」というのと「お願いいたします!(`・ω・´)シャキーン」というのとでは、相手が受け取るエネルギーがかわってくる。
ああ・・・「押し」てこういうことなんすね(笑)
まあ~正直夜遅くに何度も電話したり、迷惑だよな~これとも思うが(´-∀-`;)
一応あまり躊躇なく迷惑になりきることにした。
お願いします!「結構です!!ガチャン」。゚(゚´ω`゚)゚。ピー
お願いします!!「うるさいわ、ガチャン」。゚(゚´ω`゚)゚。ピー
お願いします!!!「もうやめてくれます?」ゴメンナサ──・゚・(。>д<。)・゚・──イ
お願いします!!「・・・いいですよ」エ・・・・゚+。ヤッタァ★(o゚∀`从'∀゚o)★ヤッタァ。+゚
別に強制しているわけではなく、なるべく元気に「お願い」してるだけなので、やっぱり生きるにあたってこういう姿勢も必要かと思った。
これもやはり「方向付け」の一種だと思う。