2010.
10.
31
10月の最初、『ラムサ・真聖なる預言』という本を読んでみた。
ラムサについては名前だけは知っていたけど今まで読んだことはなかった。今年の始めにちょっと立ち読みをしてから気になりだし、↓の動画をみたのがきっかけで何気なくUSEDを購入した。
これは1993年のワークのもので、今よく言われている地球の磁場の変化や、隠れた政府の存在、集合的な意識進化のことがすでに語られている。これらのことについては間違いなく多くの事実が含まれていると思うけど、すべてがそうであるかどうかはもちろん僕にはわからない。
特に、一部の人だけがサバイブするというような内容は軽くスルーしたいところだが。
ラムサはJ・Zナイトという女性によってチャネリングされる、太古の時代にアセンションしたマスターを自称する存在であり、「私はヒンドゥー教で人々が「ラム」と呼ぶ存在と同じだ」と言っているのでそれはおそらく「ラーマ」ビシュヌ神の化身の一人である古代の伝説の王であり、アバターであったとされる人物のことだろう。
もちろん、これらも事実かどうかはわからない。そもそもチャネリングというどこの誰かもわからないソースから(本人の潜在意識も含め)の情報を伝えるという手段に僕は大いに疑惑を持っている。一読してみた感想は微妙なものだった。なんだか違和感も感じるし、とてもインスピレーションをかきたてられるような文章も多く存在する。上の動画のような危機を警告するような内容はほぼなく、本を読んだあとだと少し違和感を感じもする。本当におなじソースなのかな。
本の中で興味を引かれた部分は、神のうちには「無限の思考」が存在するがそれらを人間の脳がフィルタリングするのでその一部しか入ってこないと言っているところだった。天才とはその無限の思考に向かって開かれ得る脳を持った人間のことでもっとも波動の高い想念はただ「在る」というものだという。
皆の生きている次元がその存在の基盤としている思考は、社会意識という、波動の低い、限られた思考だ。そこにある想念は制限が多く、何にでも審判を下すきわめて厳しいものだが、それは皆の人生が生存と死への恐怖に関係する価値観によって支配されているからだ。それが化身(肉体)の死、自我の死
のどちらであってもである。したがって皆の意識は、食物、住居、労働、それに黄金についての想念で占められている。正しいこと、そうでないこと、いいこと悪いことに関する価値判断、ファッションや美、他に受けいれられることや他との比較、年齢、病気、それに死などの想念で占められている。こういった波動の低い想念は、まわりの人間の思考の大部分を占めているので、あなたのオーラの場もわけなく通過してくる。だからあなたはきわめて制限されよどんでいる意識からの想念を常に与えられているのである。こういった想念が自分を養っていくのを許してしまう過程で、あなたはこの想念がつくりだすフィーリングをうちから外へと表現し、それが人間の限られた思考を再生、永存していくのである。
もっとも波動の高い超意識の想念とは「在るということ」、ただ在ること、生、調和、途切れなき継続性などのものだ。それは愛の想念なのである。そしてよろこびの想念なのだ。天才の想念だ。それは本当は私が今語っている言葉を通して表現することさえ不可能な無限の思考なのである。無限の思考からのフィーリングと言うものは言葉による記述を超えているからだ。
波動の高い思考は、人間のよどんだ思考から離れた自然の意識の中にいたほうが体験しやすい。そこでは、生と言うものは単純明快であり、時を超越して途切れなく継続し、自己と完璧に調和がとれているからだ。そこでは人間の価値判断から離れ、自分自身の「知っている状態」の鼓動を耳にすることができるのである。
僕はこの本を10月の最初に読んだのだが、今年の8月にFOCUSというヘミシンク系のCDを長時間カフェで聴いているときにノートに考えを書きとめるのがとまらなくなった時に書いたものと少し似ている。それは概ね次のようなものだった。
★
宇宙は無限の情報システムであり、あらゆる可能性に満ちている
僕らはそのごくごく一部を認識しているに過ぎない
それは人間をも含む、あらゆる意識形態の存在と
彼らの認識する世界より成り立っている
通常人の意識はあまりにも制限されている為に
彼らの世界はもちろん、自分自身の宇宙的現実も理解してはいない
自らの秘められた可能性とも奇妙なまでに断絶している
★
自他のあらゆる可能性を認め、また信じることは愛の一側面である
すべての男女は星であり マスターである
★
が実際の現実として 私たちはお互いを無意識に制限し合い
限定された世界に それぞれの意識を制限し合っている
★
限定された世界から意識を解放する方法のひとつは
既存の情報をシャットダウンし、原初の存在へと、自然へと溶け入ることにある
それゆえに古来から人は深山幽谷にこもった
自然は人を制限する情報を発しない、無限への扉であるからだ
その環境は人の意識を解放するきっかけになり得る
★
無限へと開かれることをブロックしているのは
人の概念だ 意識を制約するそれらを取り払うことが重要となる
テレビ 書籍 インターネットの情報
究極的には他者がかつて構築した情報形態のすべてとなる
しかし それらの中には無限へと開かれるきっかけとなる
インスピレーションも含まれ得る
★
身近な自然との触れ合いもよいが
よりベターなのは 人の構築物や
意識活動の痕跡があまりない 広大な自然環境における
長期のリトリートである
単独か少人数でおこなうことが望ましい
人数が多いと 過去の情報に基づいた活発な意識活動や
パワーゲームがそこで生じる可能性があり
それがまた新たなマトリクスとなり
無限とのつながりを妨げる
★
アイソレーションタンクは
無限の大洋、原初の子宮の擬似モデルとなり得る
しかし作成者の意識的干渉は除去されねばならない
うまく機能すれば 設定された制限を解除し
より広いリアリティへ意識を解放する
僕ラムサからチャネリングされてます、と言いたいわけではなく、僕の思考の方向性がこの本との間で共鳴しあっているという感じで、今考える必要のあるテーマかもしれないと思ったりする。なんで本の内容と似てるのかわからないが、ラムサ的に言えば僕の思考がこの情報を引っ張ったのかもしれない??
僕がここで『無限』としているのは、共通の集合意識や、固定観念によって除外しているリアリティや、可能性、そしてそれらすべてのソースでもある。U・F・Oというのは、それ自体究極のものではないが、人の制限が解除された時に見る可能性があるという意味においてはひとつの『扉』と考える。
また現代の人間は、地球やその歴史ということについてもきわめて制限された思考しかしていない。
海底や、巨大な山脈がかつて隆起や沈降を繰り返し、果てしないサイクルの中で無数の文明を飲み込んできたという事実を認めることはない。僕は地球と言う惑星と、生命の歴史は、通常考えられている以上に遥かにダイナミックで神秘的なものであると思っている。それもひとつの『無限』
そしてほんの小さな生命現象も、それがそこに存在しているという事実、そして人間はその正体も、目的も本当には理解していないという事実、これもひとつの『無限』である。
しかしその生命を切り売りして、値段を付け、消費して、味や性質しかみないということ、これらが「制限」であり言い換えれば集合的な現実(ラムサの言う社会意識)だ。
確かにラムサの語るとおり、現代人の思考はある意味閉塞している。
昔よりも情報ネットワークが発達しているのに閉塞しているというのは奇妙に思えるが、その情報ネットワークが主に意識の解放よりも、拘束とコントロールに使用されているからだろうか?
それらを解放するときに、一体どれくらいのことが可能なのだろうか。
僕も基本的にはすべては可能であると考えてきた。
ある条件下においては、人は空を飛べるし、ある条件下においてはものを食べなくても生きていける、ある条件下においては時空間を越えて移動することも、からだの形を変えることも、同時に二箇所に存在することも出来るアセンション待望論者が言うように、いつか僕らのDNAは変成し光のからだとなるかもかもしれない。
僕がこのようにすべての奇蹟を少なくとも理性の上で肯定するのは、宇宙はひとつの絶対性だからである。 宇宙と比べうる存在はどこにもない。
ならばどうして宇宙の中で何が起き、何が起きないか、人間が決定することが出来るのか?
宇宙に法則があっても、それは宇宙の意思で変わるかもしれない。
なぜなら宇宙はひとつの絶対性だからである。
宇宙が存在することが最大の奇蹟で、その奇蹟を越えるものはない。
0から1への無限の跳躍。
その奇蹟の前では何が起こっても不思議はない。
もしこの宇宙が100億年の歴史とともに1秒前に突然出現し、また1秒後に突然消えても誰もそれを知ることは出来ないのだ。
しかし、僕自身の現実においては、僕はおそらく人並み以上に自分を否定してきたし、また嫌っても来た。そして自分自身の可能性については恐ろしく悲観的だったように思う。それはある意味自分を「殺す」ということであり、制限された現実を創造するということでもある。ラムサが「自己を愛する」ことの重要性を語る理由はそこにある。自己を愛すると言うことは、自分自身の可能性を決して自分で殺さないということなのだ。
子供たちがスプーンを簡単に曲げてしまったりするのは、明らかに彼らのこころにまだ限界が設定されていないからだ。「穢れない心」の「穢れ」の意味のひとつは「自らに課した制限」なのである。子供たちに不思議な力が「ある」のではなく、彼らのこころには制限が「ない」というのが正しいのではないだろうか。
しかし成長するに従い、失敗の記憶や罪悪感、自信のなさなどがこころを制限していく。そしてなによりもこの時代の社会意識はスプーンを曲げるのは「超能力」だと言っている。なにか特殊な能力。おそらくそれがより一層大人の手の中のスプーンを曲がらなくさせているに違いない。
実際のところスプーン、云々はどうでもいい。
大部分の人が現代の教育システムや、社会的合意によってその内部の可能性を著しく制限しているという事実の例えだ。この制限を解除していく方法は僕が思いつく限りでは以下のようなものだと思う。
これらをしたからと言って、いきなりスーパーマンになったりはしないと思うけど、ある種の現実の拡張を人それぞれのプロセスで体験することになるのではないかと思う。
<↑解放↑>
●自他への愛情、感謝、許し
●制限する社会意識と距離をとる
●無限へと開かれた思考
●自然と触れ合う
●右脳と左脳の調和(ヘミシンクなど)
●アイソレーションタンク、ブレスワーク、ボディワーク、ドルフィンスイムなどの技法
●向精神性植物・物質アヤワスカ、ペヨーテ、マッシュルームなど(※リスクあり※)
一方以下のようなものが制限を設定する
<↓制限↓>
●自他への怒り、嫌悪、後悔、罪悪感
●自己も世界も信頼しない
●自己の周囲の時空間への不安と恐怖
●社会意識に合わせて自分の意識を矯正する
●外側からの情報に依存する
●時空間的に管理された行動様式(パターン化したマニュアル、タイムスケジュール通りの行動の反復)
●直線的時間の流れ
●建造物、交通機関、概念、娯楽など人工物としか触れ合わない
●左脳優位
ただ「解放現象」がおきるときに気をつける必要があることは、自我がインフレーションして欲望や傲慢さを肥大化させるという可能性かもしれない。
僕にはこの我の膨張や、欲望の肥大化というのがまた自信のなさや、罪悪感とは別次元にあるひとつの『制限』ではないかと思う。よく引き寄せの法則的な本や、成功哲学の実践DVDなどにはハワイかどっかに家を建ててプールサイドでカクテルを飲んでるようなイメージが添付されている。
・・・いや~まーそれは確かにそうなったら全然悪くないですが、それって別に万人にとっての幸福ってわけでもないだろう。
特殊な能力があって、人よりも特別と思い込むとすればその『特別感』がひとつの制限を自分の意識に課すことになるので、解放の結果、自我が膨張すればそれは新たな枠の内部にハマッテしまったことになる。 だから自分を越えたものを知ることなく、いろいろ出来てしまうことも考えものなのだろう。とどまるべき状態はインフレーションした自我ではなく、それを越えた状態、あるいは現象に振り回されない淡々として明晰な意識であると思う。
迅速な解放が起こらないことは人を苛立たせるかもしれないけど、それがゆっくりであるということは自我をインフレーションさせたり精神のバランスを崩さないために必要なことかもしれない。
ともあれ、ちょっと前に貼り付けたクリスタルチルドレンジェシカの動画の中でも彼女は『なにが起こりうるかということの信念をどんどん拡張していくことになるでしょう』と言っている。自分のこころをより大きなもの、宇宙の可能性に向けて開いていくことが重要な気がする。
ということで無限を感じさせる動画を探して見た。
PCのyoutubeで見ることによって心を開くのは限度があるかもしれないが、『人は自分が考えたものとなる』。自分の可能な範囲で、そうなりたいものを見、聴き、思考し、表現していくことが大事かもしれないと思う。このレベルで言うなら選択と言うものは確実に存在するし、与えられたチャンスをフルに生かさねばならない。
目に見える宇宙だけでもすごいものだ。
マクロもすごいけどミクロも無限である。クリシュナは素粒子の中でも踊る。
オーム(*pωq*)
http://www.youtube.com/watch?v=Lw6opcs_rwA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=3tE7o-bTsfA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=20m0uljDo8M&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=cZGE0CEV9hA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=SDxniIH_4B0&feature=related
ラムサについては名前だけは知っていたけど今まで読んだことはなかった。今年の始めにちょっと立ち読みをしてから気になりだし、↓の動画をみたのがきっかけで何気なくUSEDを購入した。
これは1993年のワークのもので、今よく言われている地球の磁場の変化や、隠れた政府の存在、集合的な意識進化のことがすでに語られている。これらのことについては間違いなく多くの事実が含まれていると思うけど、すべてがそうであるかどうかはもちろん僕にはわからない。
特に、一部の人だけがサバイブするというような内容は軽くスルーしたいところだが。
ラムサはJ・Zナイトという女性によってチャネリングされる、太古の時代にアセンションしたマスターを自称する存在であり、「私はヒンドゥー教で人々が「ラム」と呼ぶ存在と同じだ」と言っているのでそれはおそらく「ラーマ」ビシュヌ神の化身の一人である古代の伝説の王であり、アバターであったとされる人物のことだろう。
もちろん、これらも事実かどうかはわからない。そもそもチャネリングというどこの誰かもわからないソースから(本人の潜在意識も含め)の情報を伝えるという手段に僕は大いに疑惑を持っている。一読してみた感想は微妙なものだった。なんだか違和感も感じるし、とてもインスピレーションをかきたてられるような文章も多く存在する。上の動画のような危機を警告するような内容はほぼなく、本を読んだあとだと少し違和感を感じもする。本当におなじソースなのかな。
本の中で興味を引かれた部分は、神のうちには「無限の思考」が存在するがそれらを人間の脳がフィルタリングするのでその一部しか入ってこないと言っているところだった。天才とはその無限の思考に向かって開かれ得る脳を持った人間のことでもっとも波動の高い想念はただ「在る」というものだという。
皆の生きている次元がその存在の基盤としている思考は、社会意識という、波動の低い、限られた思考だ。そこにある想念は制限が多く、何にでも審判を下すきわめて厳しいものだが、それは皆の人生が生存と死への恐怖に関係する価値観によって支配されているからだ。それが化身(肉体)の死、自我の死
のどちらであってもである。したがって皆の意識は、食物、住居、労働、それに黄金についての想念で占められている。正しいこと、そうでないこと、いいこと悪いことに関する価値判断、ファッションや美、他に受けいれられることや他との比較、年齢、病気、それに死などの想念で占められている。こういった波動の低い想念は、まわりの人間の思考の大部分を占めているので、あなたのオーラの場もわけなく通過してくる。だからあなたはきわめて制限されよどんでいる意識からの想念を常に与えられているのである。こういった想念が自分を養っていくのを許してしまう過程で、あなたはこの想念がつくりだすフィーリングをうちから外へと表現し、それが人間の限られた思考を再生、永存していくのである。
もっとも波動の高い超意識の想念とは「在るということ」、ただ在ること、生、調和、途切れなき継続性などのものだ。それは愛の想念なのである。そしてよろこびの想念なのだ。天才の想念だ。それは本当は私が今語っている言葉を通して表現することさえ不可能な無限の思考なのである。無限の思考からのフィーリングと言うものは言葉による記述を超えているからだ。
波動の高い思考は、人間のよどんだ思考から離れた自然の意識の中にいたほうが体験しやすい。そこでは、生と言うものは単純明快であり、時を超越して途切れなく継続し、自己と完璧に調和がとれているからだ。そこでは人間の価値判断から離れ、自分自身の「知っている状態」の鼓動を耳にすることができるのである。
僕はこの本を10月の最初に読んだのだが、今年の8月にFOCUSというヘミシンク系のCDを長時間カフェで聴いているときにノートに考えを書きとめるのがとまらなくなった時に書いたものと少し似ている。それは概ね次のようなものだった。
★
宇宙は無限の情報システムであり、あらゆる可能性に満ちている
僕らはそのごくごく一部を認識しているに過ぎない
それは人間をも含む、あらゆる意識形態の存在と
彼らの認識する世界より成り立っている
通常人の意識はあまりにも制限されている為に
彼らの世界はもちろん、自分自身の宇宙的現実も理解してはいない
自らの秘められた可能性とも奇妙なまでに断絶している
★
自他のあらゆる可能性を認め、また信じることは愛の一側面である
すべての男女は星であり マスターである
★
が実際の現実として 私たちはお互いを無意識に制限し合い
限定された世界に それぞれの意識を制限し合っている
★
限定された世界から意識を解放する方法のひとつは
既存の情報をシャットダウンし、原初の存在へと、自然へと溶け入ることにある
それゆえに古来から人は深山幽谷にこもった
自然は人を制限する情報を発しない、無限への扉であるからだ
その環境は人の意識を解放するきっかけになり得る
★
無限へと開かれることをブロックしているのは
人の概念だ 意識を制約するそれらを取り払うことが重要となる
テレビ 書籍 インターネットの情報
究極的には他者がかつて構築した情報形態のすべてとなる
しかし それらの中には無限へと開かれるきっかけとなる
インスピレーションも含まれ得る
★
身近な自然との触れ合いもよいが
よりベターなのは 人の構築物や
意識活動の痕跡があまりない 広大な自然環境における
長期のリトリートである
単独か少人数でおこなうことが望ましい
人数が多いと 過去の情報に基づいた活発な意識活動や
パワーゲームがそこで生じる可能性があり
それがまた新たなマトリクスとなり
無限とのつながりを妨げる
★
アイソレーションタンクは
無限の大洋、原初の子宮の擬似モデルとなり得る
しかし作成者の意識的干渉は除去されねばならない
うまく機能すれば 設定された制限を解除し
より広いリアリティへ意識を解放する
僕ラムサからチャネリングされてます、と言いたいわけではなく、僕の思考の方向性がこの本との間で共鳴しあっているという感じで、今考える必要のあるテーマかもしれないと思ったりする。なんで本の内容と似てるのかわからないが、ラムサ的に言えば僕の思考がこの情報を引っ張ったのかもしれない??
僕がここで『無限』としているのは、共通の集合意識や、固定観念によって除外しているリアリティや、可能性、そしてそれらすべてのソースでもある。U・F・Oというのは、それ自体究極のものではないが、人の制限が解除された時に見る可能性があるという意味においてはひとつの『扉』と考える。
また現代の人間は、地球やその歴史ということについてもきわめて制限された思考しかしていない。
海底や、巨大な山脈がかつて隆起や沈降を繰り返し、果てしないサイクルの中で無数の文明を飲み込んできたという事実を認めることはない。僕は地球と言う惑星と、生命の歴史は、通常考えられている以上に遥かにダイナミックで神秘的なものであると思っている。それもひとつの『無限』
そしてほんの小さな生命現象も、それがそこに存在しているという事実、そして人間はその正体も、目的も本当には理解していないという事実、これもひとつの『無限』である。
しかしその生命を切り売りして、値段を付け、消費して、味や性質しかみないということ、これらが「制限」であり言い換えれば集合的な現実(ラムサの言う社会意識)だ。
確かにラムサの語るとおり、現代人の思考はある意味閉塞している。
昔よりも情報ネットワークが発達しているのに閉塞しているというのは奇妙に思えるが、その情報ネットワークが主に意識の解放よりも、拘束とコントロールに使用されているからだろうか?
それらを解放するときに、一体どれくらいのことが可能なのだろうか。
僕も基本的にはすべては可能であると考えてきた。
ある条件下においては、人は空を飛べるし、ある条件下においてはものを食べなくても生きていける、ある条件下においては時空間を越えて移動することも、からだの形を変えることも、同時に二箇所に存在することも出来るアセンション待望論者が言うように、いつか僕らのDNAは変成し光のからだとなるかもかもしれない。
僕がこのようにすべての奇蹟を少なくとも理性の上で肯定するのは、宇宙はひとつの絶対性だからである。 宇宙と比べうる存在はどこにもない。
ならばどうして宇宙の中で何が起き、何が起きないか、人間が決定することが出来るのか?
宇宙に法則があっても、それは宇宙の意思で変わるかもしれない。
なぜなら宇宙はひとつの絶対性だからである。
宇宙が存在することが最大の奇蹟で、その奇蹟を越えるものはない。
0から1への無限の跳躍。
その奇蹟の前では何が起こっても不思議はない。
もしこの宇宙が100億年の歴史とともに1秒前に突然出現し、また1秒後に突然消えても誰もそれを知ることは出来ないのだ。
しかし、僕自身の現実においては、僕はおそらく人並み以上に自分を否定してきたし、また嫌っても来た。そして自分自身の可能性については恐ろしく悲観的だったように思う。それはある意味自分を「殺す」ということであり、制限された現実を創造するということでもある。ラムサが「自己を愛する」ことの重要性を語る理由はそこにある。自己を愛すると言うことは、自分自身の可能性を決して自分で殺さないということなのだ。
子供たちがスプーンを簡単に曲げてしまったりするのは、明らかに彼らのこころにまだ限界が設定されていないからだ。「穢れない心」の「穢れ」の意味のひとつは「自らに課した制限」なのである。子供たちに不思議な力が「ある」のではなく、彼らのこころには制限が「ない」というのが正しいのではないだろうか。
しかし成長するに従い、失敗の記憶や罪悪感、自信のなさなどがこころを制限していく。そしてなによりもこの時代の社会意識はスプーンを曲げるのは「超能力」だと言っている。なにか特殊な能力。おそらくそれがより一層大人の手の中のスプーンを曲がらなくさせているに違いない。
実際のところスプーン、云々はどうでもいい。
大部分の人が現代の教育システムや、社会的合意によってその内部の可能性を著しく制限しているという事実の例えだ。この制限を解除していく方法は僕が思いつく限りでは以下のようなものだと思う。
これらをしたからと言って、いきなりスーパーマンになったりはしないと思うけど、ある種の現実の拡張を人それぞれのプロセスで体験することになるのではないかと思う。
<↑解放↑>
●自他への愛情、感謝、許し
●制限する社会意識と距離をとる
●無限へと開かれた思考
●自然と触れ合う
●右脳と左脳の調和(ヘミシンクなど)
●アイソレーションタンク、ブレスワーク、ボディワーク、ドルフィンスイムなどの技法
●向精神性植物・物質アヤワスカ、ペヨーテ、マッシュルームなど(※リスクあり※)
一方以下のようなものが制限を設定する
<↓制限↓>
●自他への怒り、嫌悪、後悔、罪悪感
●自己も世界も信頼しない
●自己の周囲の時空間への不安と恐怖
●社会意識に合わせて自分の意識を矯正する
●外側からの情報に依存する
●時空間的に管理された行動様式(パターン化したマニュアル、タイムスケジュール通りの行動の反復)
●直線的時間の流れ
●建造物、交通機関、概念、娯楽など人工物としか触れ合わない
●左脳優位
ただ「解放現象」がおきるときに気をつける必要があることは、自我がインフレーションして欲望や傲慢さを肥大化させるという可能性かもしれない。
僕にはこの我の膨張や、欲望の肥大化というのがまた自信のなさや、罪悪感とは別次元にあるひとつの『制限』ではないかと思う。よく引き寄せの法則的な本や、成功哲学の実践DVDなどにはハワイかどっかに家を建ててプールサイドでカクテルを飲んでるようなイメージが添付されている。
・・・いや~まーそれは確かにそうなったら全然悪くないですが、それって別に万人にとっての幸福ってわけでもないだろう。
特殊な能力があって、人よりも特別と思い込むとすればその『特別感』がひとつの制限を自分の意識に課すことになるので、解放の結果、自我が膨張すればそれは新たな枠の内部にハマッテしまったことになる。 だから自分を越えたものを知ることなく、いろいろ出来てしまうことも考えものなのだろう。とどまるべき状態はインフレーションした自我ではなく、それを越えた状態、あるいは現象に振り回されない淡々として明晰な意識であると思う。
迅速な解放が起こらないことは人を苛立たせるかもしれないけど、それがゆっくりであるということは自我をインフレーションさせたり精神のバランスを崩さないために必要なことかもしれない。
ともあれ、ちょっと前に貼り付けたクリスタルチルドレンジェシカの動画の中でも彼女は『なにが起こりうるかということの信念をどんどん拡張していくことになるでしょう』と言っている。自分のこころをより大きなもの、宇宙の可能性に向けて開いていくことが重要な気がする。
ということで無限を感じさせる動画を探して見た。
PCのyoutubeで見ることによって心を開くのは限度があるかもしれないが、『人は自分が考えたものとなる』。自分の可能な範囲で、そうなりたいものを見、聴き、思考し、表現していくことが大事かもしれないと思う。このレベルで言うなら選択と言うものは確実に存在するし、与えられたチャンスをフルに生かさねばならない。
目に見える宇宙だけでもすごいものだ。
マクロもすごいけどミクロも無限である。クリシュナは素粒子の中でも踊る。
オーム(*pωq*)
http://www.youtube.com/watch?v=Lw6opcs_rwA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=3tE7o-bTsfA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=20m0uljDo8M&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=cZGE0CEV9hA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=SDxniIH_4B0&feature=related
2010.
10.
19
テレビあった場所にサボテンを置いた。
シリウス星系からの電波を受信して、睡眠中に脳内に転送してくれる(冗談だけどそうだと良いなあ)

あの機械があるのとないのとでずいぶん部屋の雰囲気が変わる。
まったくテレビ見ないと夜の時間が長くなってよい。
■あまりに人為的な価値観や、刺激(音と映像)ばかりなので本当に見ているとすぐ疲れてくる。
見なくなってそれがよりはっきりした。
子供の頃長時間テレビを見た次の朝、目やにで目がふさがれて開かなくなったことがあったのを思い出したりした。
■一応肉体には過剰な化学物質は入れないほうがよく、カフェインもアルコールもニコチンもほどほどにしたほうがいいのは確かだと思うが、思考(情報)も物質である以上ナチュラルな摂取量というものが存在し、それを越えると過剰摂取となるはずだ。
思考(情報)もその 質(クオリティ) と 量 のバランスを見極めて入れていくべきものだと思う。
■情報断食というのもたまには必要。
断食で肉体の調子が良くなるなら、情報断食ではマインドの調子が良くなるはず。
とにかくテレビ番組は大半がジャンクフードだ。
あればかりだと本当の料理の味を忘れてしまう。
■僕は結構、というかかなりコーヒー好きだ。いや好きていうか朝起きて、なかったらすぐに新しいのをドリップで入れるのでもはや強力な習慣のひとつ。特にこういう風になんか書いてるときはタバコとコーヒーがないと気分が乗らない。タバコは記憶の想起能力を高めると言う効果もあると聴くので、それがものを書くことと結びつきやすいのだろうか。しかし、ニコチンとカフェインで頭を高速回転させていると、ドキドキしてきて眠れなくなったりする。
■化学物質に脳が影響されていない状態が、「素」の自分に近い。うーんナチュラルハイを追求してみたい。情報、食物、ナチュラルハイって基本、「~しない」ということから始まるので商売にならない。ならないから、注目されない。しなくていいことをやめるだけでずいぶん健康になる。
■自然はその瞬間で完結しているから、人を癒す。そこにはナチュラルハイを追求するという志向性もない。一方街では常に「次のどこか」へ向かって人が急ぎ足で動いている。コレじゃうつ病になっても不思議じゃない。自然は「無限」のあらわれで、また「無限」への扉でもある。木にもたれて一体化するだけでずいぶん気持ちが良くなる。自然の中にいると人の意識も完結した円環の時間へシフトする。足に土の感触を感じる場所で寝起きしてみたい。
■これからはサボテンアンテナからの情報を優先して暮らします(o・∀・o)
2010.
10.
13
先週テレビを処分した。
最近あまり長時間見ることもなく、夕食の時とかになんとなく惰性でスイッチを入れて、食事中と食後一時間ほどぼーっと見ている程度でたまに面白い番組もあるけど、基本どうでもいい感じで見てるだけというのが多いことに気づき、もういいかと。
しかし最近家電の処分結構お金がかかるので、どうしようかと思っていると大家さんが新聞の読者サービスで家電を無料で引き取ってくれるから出したいものがあったら一緒にだしてもいいよと言う。グッドタイミングなのでこれに乗っからせてもらうことにする。
このテレビ君は大学に入学して一人暮らしを始めた時、買ってもらったものでもう10年以上近くにある。
もちろんブラウン管で結構ごつい。
今年の3月にフローティングシェルに入りに行った時、ECCOのMさんに『とりあえずテレビは捨てちゃったほうがいいよー』と言われたが、テレビカットの流れはそれ以前からあり、遡れば去年の秋の不調まで遡れる。
I先生の個人セッション。「自分を支配してくるような影響はできるだけカットして、何もしないでいる時間を作った方がいい」と言われた。まあテレビ捨てろとまでは言われてないけれど。
誰かに言われたからと言うよりも、自分の感覚と人に言われることがシンクロするからか?
もういまさら別にマスコミは嘘ばっかだとか、くだらなすぎる番組が多いとか言ってもしょうがないけど、いくつか捨てようと思ったポイントを整理すると・・・
①受動的に座ってテレビを見るという行動に関して、特に長く見るほど何か生理的にひどく自然に反しているような気がするときがたまにある。
②他者が作ったバーチャル情報を一方的に視聴し続ける違和感。
③恐怖心を使ったネガティブな刷り込みが多すぎる
④思考能力を減退させるテクニックが使用されているらしい。ということ。
④については、苫米地氏の本に書いてあったことで、僕は脳機能学者でないので確かめようがないが、まあ嘘を書く理由もないと思うので多分ホントじゃないかと思う。
そのテクニックとは、バラエティ番組などでよく使われるが画面の下に言葉や、擬音などをひっきりなしに表示するという方法らしい。これをやると自主的に思考できない状態に脳は置かれるというのだ。
この方法が使われ始めたのは90年代後半か、20世紀になった直後くらいではないかと記憶しているが、初めて目にした時になんかうっとおしいこと始めたな、と感じたのは覚えている。自主的に思考できないというのは、多分その時に刷り込まれた情報に対して価値判断できないということでもあるだろう。
③わかりやすい例で言えば、口くさい人にはなったら嫌われるよというメッセージを繰り返し流してるようなCM。他にも禿げたらヤバイよとか、太ったらもてないよ、とかまあ無数にあるw口が臭くて、はげて、太っていても堂々と生きてる人が僕は好きだ(笑)
映画見る時は、DVD借りてPCで見ればいいし、ニュースも天気予報もネットで見れるし、どうしてもテレビをたまに見たくなったらkey hole TVをインストールしたら見れるし(ただしかなりカクカク)と考えていくとテレビを置いておく理由がますますなくなっていった。
しかし、なんだか世間と断絶するような感覚になるのではないかという一抹の不安もある。それにさびしい時にずいぶん気分転換の役に立ってくれたことも事実である。
ためしにテレビの普及率を調べて見た。猛暑に苦しんでいた頃調べたエアコンの普及率はほぼ90パーセントであったが、カラーテレビの普及率は2人以上の世帯でなんと、99.4パーセントということである。これは想像していたよりも多い数字であった。
ということは実質上、みんな持ってるということでは、ほとんど『トイレ』並みの普及率である。『トイレ』は絶対に必要だが、絶対に必要ではないのに、これだけ普及しているというのがなんだかすごい。しかしホントにいるのか?テレビ。要ると思い込まされてるだけじゃあるめえか(誰や?)
年代で普及率を見ると、1966年に0.3パーセントだったものが70年には20パーセントとなりそれから約2年でなんと61パーセント!!79年には98パーセントくらいになるという恐ろしい爆発性を示している。
どんな家電製品も同じで最初は、『神器』として庶民には手の届かないものとして現れ、やがて価格が下がって庶民のものになり、最終的に「ないと恥ずかしい」ものとなる。
高度成長の時期とまさしくかぶっているので、テレビによって形成された集合的価値意識のネットワークがさらに消費を促進し・・・という構造もあっただろう。
こんなデータを見ると、一方でホントに『テレビもってないと変な人になるのではないか?』という妙な不安感が湧いてくるから面白い。普及率だけ見れば、トイレを手放すようなものではないか。最近使わないからとトイレを手放したら確実に変な人だといえる。
だが年齢別の普及率を見て、少しほっとした。というのは29歳以下で言えば、なんと90パーセント台に大幅にダウンしているのである。単純計算すれば、10人に一人はテレビは持ってないし、見てないということになる。おそらくその人たちは、PCや携帯によるネットなどをメディアとして使用しているのだろう。ということは、カラーテレビがないというのは、90パーセントのトレンドからははずれるが、その10パーセントのトレンドとはシンクロすると言うことでもある。そしてその10パーセントがさらに20パーセント、30パーセントと今後拡大していく可能性も大きい。
テレビの普及率は、もう下降トレンドに入ってるのでは・・。それはおそらく人為的に構築された社会的価値意識に亀裂が入り、徐々に機能しくなってきていることの一側面かもしれない。この先どうなるかっていうと、多分テレビって機械自体は残るのだろうけど、そこに情報が入ってくる方法自体がかなり変わってくる。ケーブルみたいにチャンネルが無数にあるとか。オンデマンド方式が増えるとか。大資本とかかわりを持たない独立系のメディアが増える。そしてそこに流入する価値観も多様化していく。選択の幅が増えていくと思う。
よっしゃ若者よテレビを捨てよ!(〃*`Д´)そしてどっかへ出ようテヶテヶ(((ヾ(●´Д`)ノ
て言って、今年の年末、液晶買って紅白見ながらビール飲んでたらごめんなさい(*・ω・)*_ _))ペコリン
僕、そういうとこあるんで・・・。
しかしあれですねやっぱ、紅白の視聴率とか昔は50パーくらいはあったらしいけど、てことは多くの日本人の頭の中に年越しは『紅白』ってインプットされてたわけだ。今はそうじゃなくても年越しはテレビって人はいまだにかなりいるような気がする。年末のカウントダウンとか、あれ見ないとなんとなく年越した気がしないとか。
テレビ捨ててから数日後、僕の頭の中の時間感覚とテレビ番組表のイメージがダブっているのを発見し少し驚いた。もちろん、全部覚えてるわけはないが、だいたいこの時間はバラエティで、こっからはニュースでということだ。テレビを捨てたのでそっちのバーチャルワールドはもう意味をなさないのに、まだ時間とリンクした記憶が残っている。
あ~でももう、どんな番組やってても関係ないや~。
関係ないのに無意識に脳内で検索してる面白~い
やがてこの習慣の記憶も分解して、7時はただの7時になるのかな。
今ちょっと楽しみにしてるのは、誰かが流行のギャグとか、人気のアイドルの名前を口にするのを聴き「えっ何それ?(o・∀・o)」という時のことだ。そういうズレ感を早く感じてみたい。
情報インルートが、PCに一元化されたので部屋がすっきりした。
やはりあっちにもこっちにも、情報受信装置があると言うのは落ち着かない。
ちなみにこの『テレビが映さない真実』というカテゴリー、この先僕にはテレビが何を映して、映してないかよくわからなくなってくるはずなので、ラストエントリーとなるでしょう。これはテレビを批判攻撃するという感じのものだったが、見なけりゃ批判も攻撃もしなくていいのでラクだ。
最近あまり長時間見ることもなく、夕食の時とかになんとなく惰性でスイッチを入れて、食事中と食後一時間ほどぼーっと見ている程度でたまに面白い番組もあるけど、基本どうでもいい感じで見てるだけというのが多いことに気づき、もういいかと。
しかし最近家電の処分結構お金がかかるので、どうしようかと思っていると大家さんが新聞の読者サービスで家電を無料で引き取ってくれるから出したいものがあったら一緒にだしてもいいよと言う。グッドタイミングなのでこれに乗っからせてもらうことにする。
このテレビ君は大学に入学して一人暮らしを始めた時、買ってもらったものでもう10年以上近くにある。
もちろんブラウン管で結構ごつい。
今年の3月にフローティングシェルに入りに行った時、ECCOのMさんに『とりあえずテレビは捨てちゃったほうがいいよー』と言われたが、テレビカットの流れはそれ以前からあり、遡れば去年の秋の不調まで遡れる。
I先生の個人セッション。「自分を支配してくるような影響はできるだけカットして、何もしないでいる時間を作った方がいい」と言われた。まあテレビ捨てろとまでは言われてないけれど。
誰かに言われたからと言うよりも、自分の感覚と人に言われることがシンクロするからか?
もういまさら別にマスコミは嘘ばっかだとか、くだらなすぎる番組が多いとか言ってもしょうがないけど、いくつか捨てようと思ったポイントを整理すると・・・
①受動的に座ってテレビを見るという行動に関して、特に長く見るほど何か生理的にひどく自然に反しているような気がするときがたまにある。
②他者が作ったバーチャル情報を一方的に視聴し続ける違和感。
③恐怖心を使ったネガティブな刷り込みが多すぎる
④思考能力を減退させるテクニックが使用されているらしい。ということ。
④については、苫米地氏の本に書いてあったことで、僕は脳機能学者でないので確かめようがないが、まあ嘘を書く理由もないと思うので多分ホントじゃないかと思う。
そのテクニックとは、バラエティ番組などでよく使われるが画面の下に言葉や、擬音などをひっきりなしに表示するという方法らしい。これをやると自主的に思考できない状態に脳は置かれるというのだ。
この方法が使われ始めたのは90年代後半か、20世紀になった直後くらいではないかと記憶しているが、初めて目にした時になんかうっとおしいこと始めたな、と感じたのは覚えている。自主的に思考できないというのは、多分その時に刷り込まれた情報に対して価値判断できないということでもあるだろう。
③わかりやすい例で言えば、口くさい人にはなったら嫌われるよというメッセージを繰り返し流してるようなCM。他にも禿げたらヤバイよとか、太ったらもてないよ、とかまあ無数にあるw口が臭くて、はげて、太っていても堂々と生きてる人が僕は好きだ(笑)
映画見る時は、DVD借りてPCで見ればいいし、ニュースも天気予報もネットで見れるし、どうしてもテレビをたまに見たくなったらkey hole TVをインストールしたら見れるし(ただしかなりカクカク)と考えていくとテレビを置いておく理由がますますなくなっていった。
しかし、なんだか世間と断絶するような感覚になるのではないかという一抹の不安もある。それにさびしい時にずいぶん気分転換の役に立ってくれたことも事実である。
ためしにテレビの普及率を調べて見た。猛暑に苦しんでいた頃調べたエアコンの普及率はほぼ90パーセントであったが、カラーテレビの普及率は2人以上の世帯でなんと、99.4パーセントということである。これは想像していたよりも多い数字であった。
ということは実質上、みんな持ってるということでは、ほとんど『トイレ』並みの普及率である。『トイレ』は絶対に必要だが、絶対に必要ではないのに、これだけ普及しているというのがなんだかすごい。しかしホントにいるのか?テレビ。要ると思い込まされてるだけじゃあるめえか(誰や?)
年代で普及率を見ると、1966年に0.3パーセントだったものが70年には20パーセントとなりそれから約2年でなんと61パーセント!!79年には98パーセントくらいになるという恐ろしい爆発性を示している。
どんな家電製品も同じで最初は、『神器』として庶民には手の届かないものとして現れ、やがて価格が下がって庶民のものになり、最終的に「ないと恥ずかしい」ものとなる。
高度成長の時期とまさしくかぶっているので、テレビによって形成された集合的価値意識のネットワークがさらに消費を促進し・・・という構造もあっただろう。
こんなデータを見ると、一方でホントに『テレビもってないと変な人になるのではないか?』という妙な不安感が湧いてくるから面白い。普及率だけ見れば、トイレを手放すようなものではないか。最近使わないからとトイレを手放したら確実に変な人だといえる。
だが年齢別の普及率を見て、少しほっとした。というのは29歳以下で言えば、なんと90パーセント台に大幅にダウンしているのである。単純計算すれば、10人に一人はテレビは持ってないし、見てないということになる。おそらくその人たちは、PCや携帯によるネットなどをメディアとして使用しているのだろう。ということは、カラーテレビがないというのは、90パーセントのトレンドからははずれるが、その10パーセントのトレンドとはシンクロすると言うことでもある。そしてその10パーセントがさらに20パーセント、30パーセントと今後拡大していく可能性も大きい。
テレビの普及率は、もう下降トレンドに入ってるのでは・・。それはおそらく人為的に構築された社会的価値意識に亀裂が入り、徐々に機能しくなってきていることの一側面かもしれない。この先どうなるかっていうと、多分テレビって機械自体は残るのだろうけど、そこに情報が入ってくる方法自体がかなり変わってくる。ケーブルみたいにチャンネルが無数にあるとか。オンデマンド方式が増えるとか。大資本とかかわりを持たない独立系のメディアが増える。そしてそこに流入する価値観も多様化していく。選択の幅が増えていくと思う。
よっしゃ若者よテレビを捨てよ!(〃*`Д´)そしてどっかへ出ようテヶテヶ(((ヾ(●´Д`)ノ
て言って、今年の年末、液晶買って紅白見ながらビール飲んでたらごめんなさい(*・ω・)*_ _))ペコリン
僕、そういうとこあるんで・・・。
しかしあれですねやっぱ、紅白の視聴率とか昔は50パーくらいはあったらしいけど、てことは多くの日本人の頭の中に年越しは『紅白』ってインプットされてたわけだ。今はそうじゃなくても年越しはテレビって人はいまだにかなりいるような気がする。年末のカウントダウンとか、あれ見ないとなんとなく年越した気がしないとか。
テレビ捨ててから数日後、僕の頭の中の時間感覚とテレビ番組表のイメージがダブっているのを発見し少し驚いた。もちろん、全部覚えてるわけはないが、だいたいこの時間はバラエティで、こっからはニュースでということだ。テレビを捨てたのでそっちのバーチャルワールドはもう意味をなさないのに、まだ時間とリンクした記憶が残っている。
あ~でももう、どんな番組やってても関係ないや~。
関係ないのに無意識に脳内で検索してる面白~い
やがてこの習慣の記憶も分解して、7時はただの7時になるのかな。
今ちょっと楽しみにしてるのは、誰かが流行のギャグとか、人気のアイドルの名前を口にするのを聴き「えっ何それ?(o・∀・o)」という時のことだ。そういうズレ感を早く感じてみたい。
情報インルートが、PCに一元化されたので部屋がすっきりした。
やはりあっちにもこっちにも、情報受信装置があると言うのは落ち着かない。
ちなみにこの『テレビが映さない真実』というカテゴリー、この先僕にはテレビが何を映して、映してないかよくわからなくなってくるはずなので、ラストエントリーとなるでしょう。これはテレビを批判攻撃するという感じのものだったが、見なけりゃ批判も攻撃もしなくていいのでラクだ。
2010.
10.
11
系統
ラマナ・マハリシ→パパジ→ガンガジ
http://www.youtube.com/watch?v=_kZ7tYwy9jE&feature=related
以下ガンガジ著書「ポケットの中のダイヤモンド」抜粋
とうとう私は、助けが必要であることを認めました。私は師を必要としていたのです。真実の師、本物の、決定的な師が現れるように祈りました。本物の師、本物の教えとはどういうものか、その結果がどういうものになるのか、私にはまったくわかりませんでした。ただ、もがき苦しむことから解放されたい、ということだけはわかっていました。私は私の真実の存在を実感したかったけれど、どうしたらそれができるのかわかりませんでした。私は、自分の知る限りの手を尽くしたことを認め、そしてついに降参したのです。
真実の師が見つかることを祈ってからわずか六ヶ月のうちに、奇跡的な状況が重なり、私はインドでH・W・プーンジャ(パパジ)と向かい合っていました。パパジは私を普通以上の歓迎のしかたで迎えてくれました。目をキラキラさせながら私を迎え入れ、彼が私に与えられるものは何であれ持っていきなさい、と言ったのです。私の資格をチェックすることも、私のカルマをチェックすることも、長所を数え上げることもパパジはしませんでした。私が彼に会えて興奮していることを彼は私の目に見て取り、そしてこう言ったのです。「何が欲しいのか言ってごらん」
私は答えました。「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください。」
パパジはまず「正しい場所に来たね」と言い、それから「何もしないでいなさい。あなたの問題のすべては、あなたが行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。信じることも、探し求めることも、言い訳することも。すでに、そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい」と言いました。
私はそのときじっと座っていたので、いったいパパジが何を行っているのかわかりませんでした。それから、彼は肉体的行為のことを言っているのではない、ということに気づきました。そうではなくて、パパジは私に、すべての精神的な行為を止めるように指示していたのです。
頭の中で疑問や恐れが聞こえました。もし考えるのを止めたら、肉体を気遣うこともなく、朝ベッドから起きることも、車を運転することも、仕事に行くこともできない――私は恐怖でいっぱいになりました。探し求めるのを止めたら、ここまでの探求の中で手に入れたと思っていた地盤を失ってしまうような気がしました。自分が手にいれたように感じていたものの一部をなくしてしまうかもしれない、と。
けれどもパパジの存在感は偉大で、その、彼の目を見つめた瞬間、私はそこに、力、明晰さ、そして広大さを認め、それが私の足を止めたのです。師が与えられることを求めたのは私でした。そしてその瞬間、幸運にも私には、自分が求めた師の言うことに注意を払うだけの分別があったのです。その瞬間私は、何ごともいとわずに、恐怖の底にある思考を追うことも信じることも止め、初めはどうしようもない絶望の深淵のように思われたところに落ちていきました。すると、私が追い求めていた充足感と平和はここにあること、それはこれまでもずっとここにあったということ、そしてそれがなくなる可能性はない、ということが明らかになったのです。
何より驚いたことに、そのことを私はずっと知っていた、ということに私は気づいたのです!その瞬間私は、これまで私が欲しがってきたもののすべては、すでにここに、純粋で永遠なる存在の地盤として存在しているということに気づきました。私が「私」「私のもの」と呼んでいた苦しみのすべては、この輝く純粋な存在の中で起こっていたことでした! そして、何よりも重要なこと、つまり、私の本当の姿とはすなわちこの存在である、ということがわかたったのです。そしてこの存在は、あらゆるところに、見えるもの、見えないものすべての中に在るのです。
このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう! それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありまあしたが、これはまったくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚状態であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない! ということに気づいたのです。
ラマナ・マハリシ→パパジ→ガンガジ
http://www.youtube.com/watch?v=_kZ7tYwy9jE&feature=related
以下ガンガジ著書「ポケットの中のダイヤモンド」抜粋
とうとう私は、助けが必要であることを認めました。私は師を必要としていたのです。真実の師、本物の、決定的な師が現れるように祈りました。本物の師、本物の教えとはどういうものか、その結果がどういうものになるのか、私にはまったくわかりませんでした。ただ、もがき苦しむことから解放されたい、ということだけはわかっていました。私は私の真実の存在を実感したかったけれど、どうしたらそれができるのかわかりませんでした。私は、自分の知る限りの手を尽くしたことを認め、そしてついに降参したのです。
真実の師が見つかることを祈ってからわずか六ヶ月のうちに、奇跡的な状況が重なり、私はインドでH・W・プーンジャ(パパジ)と向かい合っていました。パパジは私を普通以上の歓迎のしかたで迎えてくれました。目をキラキラさせながら私を迎え入れ、彼が私に与えられるものは何であれ持っていきなさい、と言ったのです。私の資格をチェックすることも、私のカルマをチェックすることも、長所を数え上げることもパパジはしませんでした。私が彼に会えて興奮していることを彼は私の目に見て取り、そしてこう言ったのです。「何が欲しいのか言ってごらん」
私は答えました。「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください。」
パパジはまず「正しい場所に来たね」と言い、それから「何もしないでいなさい。あなたの問題のすべては、あなたが行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。信じることも、探し求めることも、言い訳することも。すでに、そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい」と言いました。
私はそのときじっと座っていたので、いったいパパジが何を行っているのかわかりませんでした。それから、彼は肉体的行為のことを言っているのではない、ということに気づきました。そうではなくて、パパジは私に、すべての精神的な行為を止めるように指示していたのです。
頭の中で疑問や恐れが聞こえました。もし考えるのを止めたら、肉体を気遣うこともなく、朝ベッドから起きることも、車を運転することも、仕事に行くこともできない――私は恐怖でいっぱいになりました。探し求めるのを止めたら、ここまでの探求の中で手に入れたと思っていた地盤を失ってしまうような気がしました。自分が手にいれたように感じていたものの一部をなくしてしまうかもしれない、と。
けれどもパパジの存在感は偉大で、その、彼の目を見つめた瞬間、私はそこに、力、明晰さ、そして広大さを認め、それが私の足を止めたのです。師が与えられることを求めたのは私でした。そしてその瞬間、幸運にも私には、自分が求めた師の言うことに注意を払うだけの分別があったのです。その瞬間私は、何ごともいとわずに、恐怖の底にある思考を追うことも信じることも止め、初めはどうしようもない絶望の深淵のように思われたところに落ちていきました。すると、私が追い求めていた充足感と平和はここにあること、それはこれまでもずっとここにあったということ、そしてそれがなくなる可能性はない、ということが明らかになったのです。
何より驚いたことに、そのことを私はずっと知っていた、ということに私は気づいたのです!その瞬間私は、これまで私が欲しがってきたもののすべては、すでにここに、純粋で永遠なる存在の地盤として存在しているということに気づきました。私が「私」「私のもの」と呼んでいた苦しみのすべては、この輝く純粋な存在の中で起こっていたことでした! そして、何よりも重要なこと、つまり、私の本当の姿とはすなわちこの存在である、ということがわかたったのです。そしてこの存在は、あらゆるところに、見えるもの、見えないものすべての中に在るのです。
このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう! それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありまあしたが、これはまったくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚状態であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない! ということに気づいたのです。
2010.
10.
02
Bette Midler-The Rose
http://www.youtube.com/watch?v=u6_s0QIbI94&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=oR6okRuOLc8&feature=related
Some say love, it is a river that drowns the tender reed
Some say love, it is a razor that leads your soul to bleed
Some say love, it is a hunger an endless aching need
I say love, it is a flower and you its only seed
It’s the heart, afraid of breaking that never learns to dance
It’s the dream, afraid of waking that never takes a chance
It’s the one who won’t be taken who cannot seem to give
And the soul, afraid of d y in’ that never learns to live
When the night has been too lonely and the road has been too long
And you think that love is only for the lucky and the strong
Just remember in the winter far beneath the bitter snows
Lies the seed,that with the sun’s love in the spring becomes the rose
ある人は言う
愛は河
それはひ弱な葦を溺れさせる
ある人は言う
愛はかみそりの刃
あなたの魂に血を流させる
またある人は言う
愛は飢え
終わりなく求める痛み
私は言う
愛とは花であり あなたはその唯一の種だと
壊れることを恐れる心は
決して生のダンスを学ぶことはない
目覚めることを恐れる夢は
決してチャンスを掴み取ることはない
奪い取られることを恐れる者は
与えることが出来ない
そして死ぬことを恐れる魂は
決して生を学ぶことは出来ないの
夜がさびし過ぎるとき
道が歩き続けるには長すぎるとき
そしてあなたが愛とは幸運で強い人間だけのものだと考えてしまう時
ただ思い出して
冬のさなか冷たい雪の下に
横たわる種は
太陽の愛によって
春にはバラとなることを
http://www.youtube.com/watch?v=u6_s0QIbI94&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=oR6okRuOLc8&feature=related
Some say love, it is a river that drowns the tender reed
Some say love, it is a razor that leads your soul to bleed
Some say love, it is a hunger an endless aching need
I say love, it is a flower and you its only seed
It’s the heart, afraid of breaking that never learns to dance
It’s the dream, afraid of waking that never takes a chance
It’s the one who won’t be taken who cannot seem to give
And the soul, afraid of d y in’ that never learns to live
When the night has been too lonely and the road has been too long
And you think that love is only for the lucky and the strong
Just remember in the winter far beneath the bitter snows
Lies the seed,that with the sun’s love in the spring becomes the rose
ある人は言う
愛は河
それはひ弱な葦を溺れさせる
ある人は言う
愛はかみそりの刃
あなたの魂に血を流させる
またある人は言う
愛は飢え
終わりなく求める痛み
私は言う
愛とは花であり あなたはその唯一の種だと
壊れることを恐れる心は
決して生のダンスを学ぶことはない
目覚めることを恐れる夢は
決してチャンスを掴み取ることはない
奪い取られることを恐れる者は
与えることが出来ない
そして死ぬことを恐れる魂は
決して生を学ぶことは出来ないの
夜がさびし過ぎるとき
道が歩き続けるには長すぎるとき
そしてあなたが愛とは幸運で強い人間だけのものだと考えてしまう時
ただ思い出して
冬のさなか冷たい雪の下に
横たわる種は
太陽の愛によって
春にはバラとなることを