求道と癒しの間、『自分』と『自分を越えたもの』

 最近また『読めシグナル』がずっと前から来ていた本を買った。

 チャック・スペザーノ著の『傷つくならば、それは「愛」ではない』だ。

 『読め読めシグナル』の特徴は、いったん忘れてもずっと気になるということで、僕も今年の2月とかに書店で見かけて読んですごく良さそうな本だと思ったけど買わなかった。でもそれから結構ずっと頭の片隅で「ワタシヲカッテ・・・」と言い続けるので今年が終わる前に読んでおくことにした。

 全部読んでないけどとても深い洞察によって書かれているということがわかる本で、パートナーとの関係の深め方や、危機の乗り越え方、自分のトラウマの癒し方、人との付き合い方などおよそ対人関係や、愛情にまつわることの知恵がぎっしり詰まっている感じだ。今日読んで面白かったチャプターを二つほど紹介してみる。




 23日
 許せなかった両親の行動を、今度はあなたがするようになる。

 わたしたちが両親を批判したときに、心の奥深いところでは自分を批判したのです。すると私達は、次のどちらかの反応をします。ひとつは、否定した両親のふるまいと同じように自分も行動して、両親がなぜそうしたふるまいに、もともと駆り立てられたのかを理解しようとします。
 もうひとつは、両親のふるまいをつぐなうために、まったく逆の行動をとります。両親に対する批判から、それに対抗する犠牲的な役割を生き、大人になってからは自分の子供やパートナーの犠牲になります。そして皮肉にも、結局は両親を拒絶したその部分に自分もまた、とらわれてしまうのです。

 ■あなたは両親のどこを拒絶したのでしょうか。

 あなたは何か両親と同じような行動をしていますか。それとも逆のふるまいをしているでしょうか。正しいことをしているはずなのに、何かの「役割」から行動していて、何も受け取れずにいるのではありませんか。そのままだと、いずれ燃え尽きてしまいます。両親の状況を理解し、許そうとすることで、あなたも両親も自由になります。神の愛の助けを借りて両親を許しましょう。心の底から、こう言ってみましょう。

 「お母さん、神の愛の中で私はあなたを許します。
  お父さん、神の愛の中で私はあなたを許します



 8日

 パートナーをコントロールすればするほど、つまらない人になっていく

 つきあい始めたばかりの頃、私達はパートナーをものすごく魅力的に感じて、ぞくぞくしたり、ワクワクしたりします。ところがだんだん付き合いが長くなるに連れて、かつてワクワクしたことが、かえって悩みの種になってきます。その人の魅力的な部分は、ほかの誰かとではなく、自分だけと分かち合って欲しいからです。ところがもちろん、そんなわけにはいきません。
 
 そこでパートナーをコントロールして、自分が魅力に感じたまさにその部分を、なんとか封じ込めてしまおうとします。しかし、どこかひとつ魅力を封じ込めてしまうと、やがては相手のありとあらゆるところを封じ込めてしまうことになります。

相手をコントロールするのをやめて、パートナーが魅力的であることを受け入れようとすれば、たぶんあなたの内面はかき乱され、恐れがわきあがってくることでしょう。こうしたことは、ほんのちょっとしたことでも脅威に感じてしまうものです。

 この恐れをすすんで感じて見ましょう。なぜならその部分こそ、ワクワク感を呼び戻してくれるところだからです。あまりにこわくなったら、そのことを相手に分かち合いましょう。パートナーを封じ込めようとしなければ、こうしたコミュニケーションから癒しが生まれます。

 ■今日は、パートナーに対するコントロールを少しづつやめてみましょう。

 「あなたを失うのではないか」という恐れを伝えたり、「あなたの才能にじつは恐れを抱いていた」と伝えるのに、今がちょうどいいタイミングかもしれません。あなたがどのくらいパートナーの才能や価値を認め、評価しているのかをコミュニケーションしてください。
 コントロールを捨てましょう。こんなかたちで脅迫するのは、もうやめにします。ありのままの相手を受け入れて、ただその人がいてくれることのよろこびを存分に感じてください。





 両親との関係と、パートナーとの関係。
 このふたつとも多くの人が感じるジレンマを、とても簡潔に説明しているように思う。
 親からのトラウマによって同じような行動をする(DV被害者が加害者になったり)というのは、よく聴く話しだが、そのトラウマを消化しきれず、真逆の行動をするということもその人を縛ってしまう危険性があることを鋭く指摘している。どこかの評論化が「DV被害者はむしろ子供を大切にするようになるはずだ」と書いているのを読んだことがあるが、やはり外面的にはいい親であっても本人の内面でそのトラウマのエネルギーが解消していなければどこかにゆがみを生じさせてしまうものであることをこのチャプターは教えてくれる。
 だからこそそれに対応する「許し」が必要になってくる。
 
 それぞれのチャプター(365個ある)にはかならず問題に対応するミニワークがついている。
 よく出来た本だ。似たような構成のは他にもたくさんあるかもしれないが、この本は著者の洞察力がかなり深いので非常にためになる。『奇蹟のコース』の影響も大きく取り入れているようだ。『奇蹟のコース』については詳しくしらないが、なんとなく概略を読んで『生命の贈り物』とかがフィットする人なら『奇蹟のコース』もはまるのではないかと思った。

 こういった癒しの思想、そして『ラムサ』の本もそうだけど今年に出会った多くのものはもしかしたら、「癒し」と「求道?(神様の世界)」との間に橋をかけてくれるものになるかもしれない。

 僕にとって、自分自身や相方や、家族と関わる上で「癒しの思想」というのは自分とどうもきっても切れない関係にあるように思えてきた。一時はすべて神様のことだけを思っていればいいと思い込もうとしていたが、そうではなく僕のいるべき場所というのはどうもその中間地点のような気が最近はしている。

 真理とは何か?なんてホントは二次的なことで、自分にとっての「真実は何か」が大事なのだ。どう生きるか?
 本当に『君がどうかい?』なのだ。 
 それだけが重要。

 I先生の放っているものが強烈なので、I先生の世界にどっぷりつかっていればいいのかとも思ったことがあるが、どうも間接的に『自分で考えろ』と言われてる気がする。勝手な思い込みかもしれないが、流れ的にそういうところがあったので最近はあんまし個人的な相談とかはしていない。でもやはりエネルギーはたくさんもらっている。I先生の『存在』に敬意を払い、自分のことは自分でなるべくやりたいという気持ち。

 僕は純粋に探求者としての自分でい続けるには、あまりにも「病」とのかかわりが深い。周りの人に、また自分の心身を良い方向に持っていくためにも「癒しの思想」というのがなんらかの形でどうしても必要になってくる。もともとこういう世界に興味を持ったのも、ヒーリングからであったし、自分自身のペースを発見したいという思いがあった。その揺り戻しがきたのが今年だった気がする。

 『ラムサ』はヒーリングの基本、自分を受け入れ愛すると言うことを再確認させてくれたし、『生命の贈り物』は許しの大切さを教えてくれた。またアイソレーションタンク体験は体感的な世界との一体感を感じさせてくれた。あとお馬さんに乗ったり、イルカさんと泳いだりもしたが、これは来年ももっと濃いレベルでやれたらうれしい。

 これらすべてに自我のレベルで完結しないという特徴があった。
 言って見れば、ある意味すべてトランスパーソナルな領域での癒しのメソッドだった。
 『ラムサ』には自分を越えたものにサレンダーするという考え方があまりないように思えたのが少し気になったが、アイソレーションタンクでお世話になったECCOのMさんも『ゆだねる』ことの重要性を語っていたのでここらへんははずせないポイントだろう。

 ある意味自分の現実の多くの部分は自分の観念が作っていると言えると思うが、すべて自分でコントロールすること自体が多くのストレスをもたらすのでやはりどこかのレベルで、サレンダー、ゆだねる、「より高い力にお任せする」という姿勢は大事になってくると思う。 
 と言う意味では『自分』にふり戻されたものの、『自分を越えたもの』なくしては成り立たないと言う点では、以前と同じスタンスを保てると思う。「癒し」と「求道?」どちらかを捨てるというのではなくふたつを融合させたい。

 自分も大好き!人も大好き!神様も大好き!となれたら最高かな。

 それらが全部同じものだ!とまではわかんなくてもね





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セラピー&ヒーリング | コメント(2) | トラックバック(0) | 2010/11/21 20:03

ラムサ:無限の思考 その④

 ラムサが語る社会意識や、自己否定を超えて、こころを開く方法、続き。




 ③在るがままである

 これまで作り出されたすべての言葉の中で、この教えに一番ぴったりするものがある。それは「在る」という言葉だ。どういう意味なのだろうか。それは、なんであろうと自分にあるがままでいるのを許すこと、そして、そういう自分を完全に愛するということだ。何でもいま感じているものを感じ、その感情を生きることなのだ。「在る」とは、完全にその瞬間に生きることだ。いまという瞬間しか存在しないことを知っているからである。それは自分のしたいことをするということであり、それを追い求めていくよう魂が自分に強く望む冒険を生きていくことなのである。

 そういう生き方をすると、自分や他の人間、あるいは自分に生まれてくる思考に対して価値判断を下すことはなくなる。すると善悪、可能不可能、完全不完全、ポジティブネガティブといったものもなくなる。この瞬間の美を感じ、味わうことを許さない時間という幻影がもはやなくなってしまう。ただ在る状態でいるとき、そこには生の「在るということ」、それにいまという瞬間の途切れなき継続性だけがあるのだ。

 ただ在る状態では、思考は過去や未来をもてあそぶことはやめ、罪悪感や悔恨の情、あるいは「しなければ」や「するべき」などにとらわれなくなる。在るという状態では、特定の真実を固守することなく、あらゆる真実を吟味するようになる。すべての真実を在るがままの存在として見て、自分の在るという状態の中でうまく働くものかどうかを決めるため、それぞれについて詳しく探求することを認めるのである。そういうふうに生きると、自分のもとにやってくるすべての思考は熟慮され、脳を通じて身体の中でフィーリングとして理解される。これがさらに多くの想念、知識、そして在るがままのものを招き入れるのだ。

 ただ在るとき、そして自分がすべての想念を受け入れることを許しているとき、あなたは神の声を聞くことが出来る。そうすれば、知りたいと思ってきたことはすべて、瞬く間に知ることができるのだ。自分の思考に価値判断を下さず、それが自分の魂のうちに感情として表出することを許す時、あなたはひとりの無限の神として生きている。単に「在るということ」、在るものすべてに対して心を開くことによってこれが可能になるのだ。あなたは自分自身の神なる自己の純粋な媒体となることが出来て、神の精神の純粋な単純さに近づくのである。

 ③肉体を受け入れ、愛する

 自分の身体を愛することだ。身体にやさしくし、栄養を与え、世話をすること。身体はこの地上界での生を体験させてくれる純粋な表現手段なのである。思考過程では無限にあること。だが同時にそれをさせてくれる化身を大切にすることだ。

 あなたが女性ならば、女性であれ。男性ならば男性であることだ。自分のそのままを愛するのだ。身体をけっして虐待してはいけない。わざわざ醜く傷をつけたり汚すことはしてはならない。もともとそのためにつくられていないことなど、させてはいけない。

 自分と言う存在の壮麗さを見てみるが良い。自分が神なるものとして行動するのだ。皮膚に触れるものとして最高のものを身につけるとよい。精油を塗り、香水で飾るのだ。身体が欲するものだけを食すること。身体に耳を傾ければ、栄養に必要なものはなにか教えてくれる。

 ④恐れを越える

 自分をけっして隷属させたり、怯えさせたりしてはならない。必ず道はあり、それよりさらにいい道もある。このことを知るのだ。そして、よろこびへと通ずるあなたの道を照らしてくれる想念がやってくるのを許すのだ。

 自分の限界を直視すること、それを自分の心に抱き、受け入れるのだ。それを制するのだ!あなたが神の全体を知ることを妨げるものは、すべてなくす。罪悪感や価値判断を捨て去り、「知っている状態」、答え、そしてよろこびが自分のもとにやってこられるようにするのだ。

 自分の恐れに直面し、自分にその幻影をはぎとらせてあげるのだ。自分は永遠の存在であり、たとえ未知のものでも、あなたを幸福と喜びから引き離すことができるものなどなにひとつないことを知るのだ。この地上界で体験しているよりずっとすばらしいものを知ることを躊躇させてしまう恐怖は、なくしてしまうのだ。とにかくあなたは、遠い彼方からやってくる存在たちさえ恐ろしいと思っているくらいなのだから。巨大な宇宙船に乗ってくる兄弟たちは信じられないほどの美を持っている。恐れをなくし、別の時間、別の空間、そして別の次元からやってきた別の存在と友人となれる力を持てるようにするのだ。

 より偉大なものになることを求める時、もしそのお手本となるような偉大さをこの地上界に探そうとするなら、あなたがなれるものは、どんなに頑張ってもこの次元にあるものでしかない。人間の限られた思考を超えるというのは、膨大なる叡智を持つ、目に見えない何かがあるのではないかと思い巡らすことなのである。


 ⑤真実はどこにでもある

 それが誰の口から出たかに関係なく、真実にはつねに心を開いておくことだ。そして、自分のフィーリングをガイド役とするのである。賢者は、たとえ盲目であったとしても、何が正しいか自分の魂のうちで知っている。真実とはあなたが踏みつける一本の草にもあるのだ。それは子供の笑い声の中にある。乞食の眼の中にある。それはあらゆる場所に、あらゆるものに、すべての人々に、すべての瞬間にあるものなのだ。これを知らぬものは神をも知らない。なぜなら、神は在るものすべてそのものであり、たとえ一本の草であっても、ほんのわずかな瞬間のつぶやきであっても、在るものすべての源から自分を引き離すことはできないからだ。賢くなることを学ぶのだ。それがどんな形でやってこようとも、真実に耳を傾け、自分はそれを受け取るに値することを知るのだ。

(抜粋終わり)




 ⑤の真実はどこにでもある。については自分の思考や、現象、人と交わした言葉を注意深く観察する癖をつけるとそれがよくわかるようになる。ある特定の霊能者とか、カウンセラーとかなんかいろいろ知ってそうな人だけが真実を語るのではない。そうではなく僕らはお互いに神の精神をチャネリングしているのである。だからどんな人の口から必要なメッセージが出てくるかわからない。もちろん自分の心がそれをささやく時もあるし、映画やアニメのワンシーンが、続けて起こった一連の現象がある方向性を指し示しているという場合もある。

 神の声を聴くとは、霊的な声が聞こえるということではなく(聞こえてもいいけど)自分が大宇宙無料情報検索システムの内部にいるということを「知っている」ということなのだ。

 占い師や霊能者的な人物に相談ばかりしてると、この真実を聞く耳が養われないし、一生人にずっと聞き続けて
しまうという問題点がある。だいたい答えなんて結構占い師の家に行く途中の電柱に落書きしてあったりするものなのじゃないかと思う。深刻さと、依存性がそれを読めなくしてしまう。だが運がよければ、『人に頼るな』という情報が体験として、メッセージとしてやってくる。逆に『人に聴いちゃいけない』というのも固定観念で依怙地になってるだけかもしれないなので、まあバランス感覚と、その時の流れを読む眼が大事でしょうか。僕も結構いろんな人にリーディングしてもらったしなあ。。。

 ④のところに急に宇宙人のことが出てくるが、僕がノートに走り書きした「無限」についての文章はそもそもどうしたら宇宙人がいるということが当たり前の意識になるのか、どうしてそんなのいないだろう?という感覚が当たり前になっているのか、どうしたら「いる・・かも?」の方向に意識が動くだろうかということを考えていた時に書いたものだった。宇宙人というのは「無限」の可能性の象徴のひとつなのだが、日常の普通な感じに固まっている意識を解放したら、無限を感じられるのでわ・・と思ったわけです。「ラムサ 真・聖なる預言」のある章にはこんな文章もあった。

 皆の世界の中でも、大都市の意識はとくに限られている。そこに生きる者のほとんどは、きわめて競争的で、時間志向的、ファッション志向が強く、互いを恐れていて、他を受容する態度がない。したがって、大都市はすべて密度の濃い意識で覆われている。他の宇宙からここにやってきた者たちが都市を見下ろした時に見るのは、複数の色の光でできた網目のようなものだ。きわめて限定された意識が持つ、波動の低い想念が光の場として現れているのである

 きっと何百年も前なら東京でも、日本でもすごい星空がみられたはずで、そういう星空の下に生きていた人の意識はあまりややこしい知識は知らなくても無限の感覚を持ってたんじゃないかと思う。ピラミッドがオリオン座と対応関係に建造されたという説は有名になったが、この年代の人たち、アトランティスムーの遺産を受けついだばかりの頃の人間は星空とつながり、無限の意識に近い状態を知っていたのかもしれない。


知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/14 16:52

ラムサ:無限の思考 その③

 こころを開く
 
 では、どのようにすれば自分自身に課した制限を解除して、神の無限の思考へと開かれることが出来るのだろうか?簡単に言うと答えは『愛』なのだが、それについてのラムサの説明がやはりすばらしい。




①自分を愛する

 それは単に望むことを通じてなのだ。キリストになるということは、父なるものを知りたいと望み、神のようになるのを望むことだ。すべての想念が、自己の現実となるのを許すことを願うことだ。あらゆる瞬間、自分がなってきたものすべてをいとおしみたいという望みなのである。自分そのままの「在るということ」になりたいという望みなのだ。


 自分の在るがままをすべて愛することが、なぜ大事なのだろうか。そうすると、あなたは直ちに社会意識を超越するからだ。するとあなたは、自分が受容されるかどうかというレベルを越える。審判を越え、時間と言う幻影を超えるのである。あなたは自分の命を満たすためだけに生きるようになる。そしてよろこびの道だけを辿る。その道にこそ、すべて在るものについて「知っている状態」が待っているのだ。

 自分を本当に愛し、自分は神そのまますべて受け入れるに値するのだと感じられるとき、そして自分が父と一つであることを知りたいと望むとき、あなたは一輪のすばらしい花として咲き始める。それが脳の能力を解放し、神の心に在るすべての思考の価値観を受け取る道なのだ。知りたいと願うこと、その「知っている状態」で感じるすべての感情を感じたいと望むことによってである。

 レベルの高い波動の想念が入ってくると、それは脳の目覚めている部分を通るように導かれる。後頭部にある松果体が、この高い波動を受け取り、肥大し始める。このため、頭痛を起したり、少しめまいがしたり、なんとなく頭が軽くなったような感じを与えることがある。この波動は次に強力な電流へと変換され、中枢神経を通って、あなたのからだのひとつひとつの細胞へと送られる。これが体中が痺れるような感じや、ぴりぴりしたり、持ち上げられるような感じを起す。その波動は細胞ひとつひとつを刺激し、その振動する速度を高める。限界のない想念を受け取れば受け取るほど、体はさらに大きく振動し、あなたはだんだん光を発するようになってくる。それは、あなたが身体を固体の密度から光へと逆行させ始めたからだ。

imagesCARJ9PZM.jpg(妖怪ぬらりひょんはマスターでしょうw)

 
 限りなくあることを望めば望むほど、そしてそこからやってくる想念を抱き、感じれば感じるほど、脳下垂体はさらに多くのホルモンを分泌し、その口状部は広がっていく。自分をそのまま愛したい、そして「知っている状態」で生きたいと望むほどに、あなたの存在を包む神によって脳がどんどん開かれていくのである。さらに大きく、さらに大きく開いていくのだ。するとあなたは、自分の身体以上の存在となる。自分をひとつにしているもの、そのものとなるのである。
 
 自分の創造性と人生を限定してしまういちばんの方法は「わからない」と口にすることだ。あるいは自分にひらめく「知っている状態」を疑うことである。最悪の忌まわしい言葉が「わからない」だ。忘れないで欲しい。あなたは法をつくるものであり、自分が考えること、語ることそのものが法なのだ。「わからない」と言えば、わかることはない。「できない」と言えば、けっしてできない。「自分は父なるものの愛に値しない」と言えば、それを受け取ることはけっしてない。そういうふうに語るのは、そういうふうに思っているということだ。そう思っているならば、その思考のフィーリングはあなたの魂に記録され、魂はその思考過程を実現した現実を表出させるのである。

 あなたはちょうどコンピュータのようなものだ。毎日あなたは自分の知識の中に「疑い」を入力している。「不足」を入力しているのだ。そして知識の中に「知らない」ということを入力していることになる。それでは自分の世界を自分で盗んでいるようなものだ。疑いと限界しか知らないあなたは、自分の考え方や言葉によって、生の力そのものを自分自身から奪いとっているからである。 

 もし、皆の言葉のすべてを取りさり、ほんの一握りを残すとしたら、それはこうなる。「私はもう知っている、私は絶対だ、私は完全だ、私は神なのだ、私は在る」このほかに何も言葉がなかったとしたら、あなたはもはやこの地上界に限定された存在ではなくなることだろう。

 知ること、ただ知ることだ!「これが起きることを私は知っている」「自分が神であるのを私は知っている」「自分が幸せなことを私は知っている」「自分が在ることを私は知っている」・・・知ること、知ること、知ることだ!必要なのはそれだけである。いつも知っていることだ。知らない、あるいは、知ることはできないと言えば、絶対にそれを知ることはない。もう知っているということ、そうすればすべてを知ることができるのだ!

 あなたとわたしの違いがわかるだろうか?私は自分が限りなき神であるのを知っているが、あなたは知らない。違いはそれだけのことなのだ。私は自分が在ることを知っているが、あなたはまだこれからそれを実感しなければならない。社会はそうではないと言っている。だが、彼らに何がわかるというのか。自分たちを毎日埋葬しているだけではないか。


 ②価値判断を越える

 自分の知るという行為をあなたはなぜ邪魔してきたのか。それは思考が物質という形をとったものを理解しようとする中で、あなたの思考過程が物質界の現実にすっかりとらわれてしまったために、あなたは生についての見方を根本的に変えてしまったからなのである。

 物質とは、思考を最も大きく変容させることによって作り出される思考のレベルなのだ。それはまず、想念を光へと下げ、次に電磁場へ、そして今度はそれをプラスとマイナスを持つものへと分割することによってつくられる。したがって、物質と言う形の神とつながろうとするならば、あなたはそのたびに、思考の本来の姿である純粋さと分割できない「在るということ」ではなく、対極を持ち、分割されている想念を知覚し、理解しているのだ。物質に集中し、生存の方向を向いていればいるほど、生を対立する極という側面から見るようになる。上下、遠近、明暗、大小、善悪、プラスマイナス、速い遅い、熱い冷たいといった具合だ。

 自分自身の人生を「在るということ」の眼から見るのを学ぶのだ。花を手にする時、それが醜いとか美しいとか言わない。それは価値判断であり、その花の想念を変質させてしまうのである。純粋なのは「花」という想念だ。花を見てそれを「花、光、生、ただ在るもの」として見るならば、それはあなたの体中に波動の高い電質を送る。そうするとあなたはキリストと同じように考えている。すべてのものを等質のもの、ただ在るものとして見ているからである。自分の体験を限定したり、価値判断を下したりしなければ、そのたびにあなたは、日常の存在を超えた限りない想念を受け取る脳の活動を認めているのである。

 ほかの存在がそれぞれの生で自己を表現しているのを見るとき、ただ在るもの、と言う以外の見方を決してしてはならない。その表現をいいとか悪いとか、プラスやマイナスとして見ると、自分のうちに変質した見方を作り出すことになる。そして自分が知覚したものは、自分がそうなるものでもあるからだ。その想念は、自分の存在のうちにフィーリングとして刻まれるのである。つまりあなたは自分を犠牲にすることになるのだ。なぜなら、あなたの価値判断の影響を体験するのは相手ではなく、あなた自身だからである。

 人を見るとき、彼らをただ在る存在として、また「公平」と言う見方で見ることだ。もしある人間が他に対して残虐であったり、憎しみを持っているなら、その人が残虐であり、憎しみを持っているということは真実だ。なぜなら彼らはまさにそういう形で自己を表現しているからである。その表現方法が悪い、間違っている、邪悪であるというと、それはひとつの価値判断となる。そしてそれは、100パーセントあなたの体験となり、うちに変質をもたらすのだ。


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 誰も価値判断を下すに値する人はいない。肌の色、行為、どんなことであろうと、そのために自分を神なる状態、ただ在るという状態から変質させる価値はないのである。それが誰であっても、どんな形で自己を表現していても、そういう表現を許している神が内にいる彼らを愛するのだ。ただ存在しているという、そのことだけで、人は愛されるべきなのである。存在しているというその事実だけでも、これから先その人がするどんな行為よりも偉大なことなのだ。彼らのその存在を愛するのだ。彼らが存在する限り、あなたもまた存在していく。どんな人間であろうと関係なくその人を愛するならば、そしてその愛を在るがままで存在させるならば、あなたはいつも純粋な存在でいられるだろう。

 さて、自分の思考過程から価値判断を取り除くいちばん手っ取り早い方法はなんだろうか。それは、もともとそういうものを生み出した自分のフィーリングや想念をまず意識することによってである。このきづきを通して、あなたは思考をより純粋にすることを自分に教えられる。

 幸せでないとか、悲しい、あるいは怒りや恐れ、焦り、あるいはとにかく自分が好まない感情を感じた時には、自分の思考を調べて見ることだ。やがてあなたは、自分や他人に判断を下したり、生と言うものを分断された側面や部分で見るような「変性思考」と、自分の不快な感情との関係が見えてくるだろう。そして、もうこういうフィーリングにうんざりしてくると、あなたは自分と生との間を分断している価値判断を取り除き、思考を浄化し始めるのである。それにともなって、また自分の存在が限りない思考をさらに体験していくにしたがって、あなたには自分の限りない思考と、平和、よろこび、調和、そして身体の動きの軽さなどとの間にある関係も見え始める。

 それともうひとつ、自分が価値判断を下してしまうことについても価値判断をくだしてはならない。自分に慈しみの心を持ち、ただ自分の思考やフィーリングへのきづきが自分に教えるままにしておくことだ。それは必ず教えてくれる。

(抜粋おわり)




 「誰も価値判断を下すに値する人はいない」と言ってるところにとても魅力を感じる。
 ジャッジするのはいけませんよ~ではなく、「損だよ」という自分の意識に与える影響を詳しく語っているのが良い。

 だから超ジャッジな人を見て、ダメだな~あれじゃと思ってしまう(ジャッジな人をジャッジする)ということもあるけど、イエスの言葉ではないが「彼らはすでに報いを受けています」ということで、それがジャッジな人が世界を体験している方法なのだからこっちの意識を変性させてまで口を出さなくてもいいということになる。

 これは聖書の山上の垂訓『裁かないように、あなたが裁かれない為です』の現代版みたいなものだろうか。
 きっと山上の垂訓もホントは「人を裁くと神様怒って君も裁くよ」という意味じゃなく。ジャッジすることによって、自分の意識が変性してしまうことを注意してるのだと思う。


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 ところでアセンション論者の人がアセンションを語ると同時に、意識レベルがアップしない人は別の惑星に行くというディセンション現象を語るという現象があるがこれがものすごく典型的に

 『物質に集中し、生存の方向を向いていればいるほど、生を対立する極という側面から見るようになる。上下、遠近、明暗、大小、善悪、プラスマイナス、速い遅い、熱い冷たいといった具合だ。』という見方の一パターンに思える。高次元や低次元、進化や退化という概念だけに振り回されると神なる実在(在ること)を忘れてしまうことになるんだろうか。


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 進化でググって拾った画像。

 (みんな同じ!いや。。。そう言う意味じゃないか。)
 
知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/12 21:46

ラムサ:無限の思考 その②

 知っているということ

 『ラムサ』本物かなんなのかわからないが、情報としてのクオリティが高いので何度読み返しても面白い。もう数回ラムサのことについて書いてみる。

 まず最初にラムサの語る思考の考え方は概ね以下のようなものだ。

 この宇宙全体は神が自らを思い巡らせるために創造したもので、それは思考により成っている。
 この思考が振動数を落としていくと、やがて→光→電磁波となり最後にもっとも密度の濃い物質となる。
 神の思考は無限の意識の流れとして宇宙全体に満ちている。
 そしてこれらの想念を受け取ることによって、人の体は維持されているというのだ。
 普通肉体は食物によって維持されていると思われているが、ラムサ的には想念が人体を維持しているらしい。
 言い換えれば「情報」ということになるが、これはグルジェフが人間は「印象」によって生きていると言ってたことを思い出させる。「印象」がまったく入らないと即座に死んでしまうというのだ。そしてこの入ってくる「印象」のクオリティを高め、意識を変化させるテクニックのひとつが自己想起、ダブル・アテンションだった。

 意識はちょうど河のようであり、身体の細胞一つ一つを含め、あなたの自己はすべてそこから途切れなく栄養を与えられている。思考はあなたの生を維持し、それに実体を与えてくれるものだからだ。意識の流れからの思考によって、あなたは生かされているのである。個々の細胞に食物の栄養物質を運ぶ血液の流れによって身体が生きているのとまったく同じように、あなたの自己全体は、意識の流れから発する思考の物質を通して維持されているのである。

 カーペットを見てみよう。植物を、光を、あるいは靴の皮を、自分の手や、ほかの人を見てみよう。そこに共通しているものはなんだろうか。それらはすべて存在している。そして、存在していることによって、個々のものはその存在からそれぞれ独自の思考を発しているだけではなく、そのまわりにあるものすべてを意識する「気づき」を発しているのだ。これは「集合知覚」と呼ばれるものである。カーペットがそのデザインにある色や、その上に誰が座っているかを知り、植物が部屋のことに「気づいて」いる中で、この気づきはその存在の光を通して大きな意識の流れへとそそぎこんでいる。そして、一瞬一瞬その気づきは変化している。あらゆるものが存在する思考の河である神は、常に拡張し、動いているからだ。

 すべての星座から塵の一粒まで、見えると見えないに関わらず、この宇宙、またすべての宇宙のあらゆる存在は想念を発しており、それを神の精神へと送っている。あらゆる存在はもともとそこからやってきているからだ。すべては思考へと戻っていく。そしてこれが何かが「知られる」ということなのだ。


 
 人はすでに無限の情報の海に浸されていて、脳は本来それらをすべて受信する機能を持っている。しかしその一部、社会意識と言われる共同現実(共同幻想)しか受け取っていない。社会意識というのは次のようなものだった。

 皆の生きている次元がその存在の基盤としている思考は、社会意識という、波動の低い、限られた思考だ。そこにある想念は制限が多く、何にでも審判を下すきわめて厳しいものだが、それは皆の人生が生存と死への恐怖に関係する価値観によって支配されているからだ。それが化身(肉体)の死、自我の死のどちらであってもである。したがって皆の意識は、食物、住居、労働、それに黄金についての想念で占められている。正しいこと、そうでないこと、いいこと悪いことに関する価値判断、ファッションや美、他に受けいれられることや他との比較、年齢、病気、それに死などの想念で占められている。

 なぜかというと左脳の機能の一部としてある「変性自我」が社会意識からはみだす情報をフィルタリングするからだという。

 (変性自我は)神なる人間が、ただ生き残る生物として社会意識の影響下で生きているときの価値観の総体だと言える。そしてその世界観は、身の安全という概念の中におさまらない、つまりその存在の生存を確実なものとするために役立たないような波動の思考は、受け入れるのを拒んでしまうのである。変性自我とは、化身のうちでさらに大きなきづきを持つためにすべての想念を受け入れ、それを心に抱くことを拒否する姿勢のことなのだ。

 そして変性自我を通り抜けて入ってきた想念を、人は知ることになる。
 これが『知っている状態』とラムサが言っているものだ。
 『知っている状態』は単に知識として知っているのではなく、深いフィーリングと全身でそのことを知るということらしい。そしてこの『知っている状態』が人生をつくっていく。

 社会意識は、怒りや嫉妬、悲しみ、欠乏、老化と病のことはよく『知っている状態』になる。
 だからそれにより展開する世界はこのようになる。
 もし社会意識のネガティブな面に染まりきり自分が、つまらなく、意味のない存在だと『知って』しまっていたら、物事は閉塞した状態でしか動かない。このような状態を閉ざされた心と呼ぶ。

 閉ざされた心でいるというのは、身体の五感で体験できる世界観のほかに何かが存在しているという可能性に対して自分を閉ざしてしまうことだ。だが、神という領域では、何も不可能なことはない。どんなものであろうともその概念を持ったり考えたりすることができれば、それは存在する。夢見るもの、想像するものは、すでに存在の領域内にあるからだ。それがすべての創造物が存在するようになった道なのである。誰かに対し何かが「ただの想像に過ぎない」と告げるときあなたはその相手を、愚鈍と、限られた創造性へとプログラミングしているのだ。そしてまさにそれこそが、この地上界のすべての子供たちに起きていることなのである。つまり、あなたたち皆のことだ!

 だからつまり、簡単に言うと自分の人生をよくしたければ怒りの変わりに許しや愛を、悲しみのかわりに喜びをも「知っている状態」にすればいいということになる。そしてそれらを大きくしていけばいい。
 悲しみや不足によって生を展開させられたのなら、喜びと豊かさによっても展開できるはずである。なぜならどちらもそれを「知っている」から起こっているに過ぎないのだから。・・・・とラムサ理論によれば少なくともそのような結論になる。基本的にこれらはスプーン曲げと一緒で、誰もが自分の知ってる方向性に従って自分の人生を曲げている・・・だけなのだろうか?ただ純粋なよろこびの方向に曲げるのは社会意識を越える必要があるので、少し難しいだろうけど。

 ところで先日の瞑想会でもたまたまスプーン曲げの話しが出て、I先生曰く

 「スプーンを曲げられる人は、スプーンが曲げられるって知ってるから曲げられるの。サイババが猿出したりするでしょ?あれもサイババは自分が猿出せるって知っているから出せるんだ。でも猿でろ~猿でろ~(-"-)ってこんな風に頑張ってたら絶対猿はでないよ(笑)」

 ということでやはり「知っている」という言葉が出ていた。
 
 あとよく『神が意識にない人にとっては、本当にその人にとって神はないんだよ』と言うのを聴く。
 その人の認識している(知っている)現実が良かれ悪しかれその人の全宇宙ということになるだろうか。

 またラムサ本の中で面白いと思った例え話がある。
 この考えで行くと、自分の病気は自分で治せると『知って』いたら、自分の治癒力が病気を治すことになる。
 しかし自分の治癒力は知っていなくても「どこかに偉大な治療師が存在し、彼が病気を治してくれると」と絶対的に『知って』いたらやがてそのような出会いを経由して彼の病気は癒されるだろうと言うのだ。
 これと同じく、自分が神であると『知って』いなくてもどこかに偉大なマスターが存在すると『知って』いたらその人はいつかそのようなマスターと出会うのだろうか。

 このような出会いを人はカルマのため、ということもあるがもしかするとカルマというのも一種の情報の束でありカルマの現実化というのは無意識、あるいは魂が知っていることの実現なのかもしれない。こころは重層的な構造なのでその深部にいくほどどんなプログラムがあるのか(それが何を知っているか)は見極めにくい。そこには自己破壊的なプログラム(ネガティブな知)と、生命的なプログラム(ポジティブな知)が混在しているはずだ。情報を保持している主体が一つではないというところが、人間のわかりにくさなのかもしれない。自分が何を知っているのか(どんな知によってマインドが構成されているのか)見極めるのも、なかなか透徹した観察力がいりそうだ。
 
 一般に物事の成就は才能、向き不向きと、自信、モチベーションにかかっていると思う。

 同じ歌のレッスンを受けていても、才能が同じとするなら

 「自分が歌が上手くなると知っている人」と「自分はたいしてうまくならないと知っている人」では確実に結果に差が出てくるだろう。一般にこれは「自信」と呼ばれる、知のふたつの形態だ。

 これに加え

 「歌が上手くなるとすばらしい可能性が開けると知っている人」と、「上手くなってもたいしていいことはないと知っている人」でも結果は異なってくる。これはモチベーションのある・なしというふたつの知の形態だ。このようにみればなにを「知っている状態であるか」ということがその人の現実に大きく影響するのは間違いないことではあるだろう。

 
 何によって生きているか?

 ラムサ的に言うなら、ひとりひとりの人間は無限の神の思考のチャネラーで、そのなかのどの部分を受け取っているかということだけが違うことになる。
 無限の思考、それはまさにF・K・ディックが小説『VARIS』のなかでVast Active Intelligence System(巨大にして能動的な生ける情報システム)と呼んだものを連想させる壮大な概念だ。

 すべての記録を貯蔵するという意味では「アカシックレコード」の概念と似ているかもしれないが、神の無限の思考は常に人間やあらゆる存在との相互作用の中で常に変化していると言う意味では、もっと生きてる感がある。

 すべては、この情報システムから来ていることであり、どのような人間が喋っていても結局その源はここに帰することになる。だから、クリスタルチルドレンジェシカは「どのような存在が私に喋っているか特定することは、なにか邪魔な気がする」といったのではないだろうか。ということで僕もこの情報はラムサからではなくVARISからだと考えようかな。

 自分の思考や気づきや感情がそのような巨大な情報システムにプールされ、その中で相互作用を起しているという考えは、僕にはごく自然なこととして受け入れられる。その中ではすべては「一者の思考」なのだから、そのシステムの端末である僕らは孤独ではないことになる。

 無限の神の思考の中には、社会意識も含まれるし、自然の意識や、純粋に「在る」ということの至福の意識が存在しているという。これによって生きるということが、いわゆる聖者と呼ばれる人たちの状態であるという。そこには「在る」ということ以後に現れる善悪の二極性や、社会的なジャッジはない。「在る」ことの純粋性と、永続性の意識であると言う。

 つまりあらゆる人は、どのような想念を食料として生きるかによって違う現実を生きていることになる。
 これを書いてるとどうしてもまたグルジェフの食物論、、、水素3とか水素12とか水素48とか宇宙にはいっぱいあって目覚めた人間のセンターは数字の少ない水素で機能しているというようなことを思い出す。

 意識の河から『在る』ことに基くよろこびや、平和を常に受け取っているということはその内部が「一」にトータルになっているということかもしれない。二極対立をもとにした怒りや、妬みなどの想念で生きていると人の内部はいくつもの考えが葛藤している状態「多・他」に置かれるだろう。
 純粋なよろこびによって生かされる人は内的葛藤のないトータルな自己となり、その内面でいろいろな想念や人々と戦うことは終わっているはずだ。


知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/09 20:11

生命という視点、自分自身との結婚

 病院に行って検査を受けると、余命数年と宣告された。

 僕は麻痺したような感覚を感じ、今まで自分が本気ではなくても死にたいと思ったり、生きることを投げ出していたことを悔いた。・・・という夢を見て朝早く目が覚めた。

 自分のすべての絶望、あきらめ、自己嫌悪、世の中に対するもの、自分に対する想い、それらがこの病気となって現れた。
 生きることに集中しよう。食事を変えて、免疫を弱めるようなことはなにひとつしないし、考えない。
 時間はまだある。きっとなんとかなるはず・・・・

 リアルな感触とともに眼が覚め、そのまま布団の中で考えた。

 人の中には否定的なプログラムが存在していることがある。
 それは自己を破壊することが正しいと信じている、分割された自己の一部だ。
 これらのネガティブプログラムは普通に生活している時には大抵スリープモードにあるが、なにかショックを受けると目覚めメイン人格であるプログラムにハッキングし、一時的にそれを乗っ取るということがある。

 最近再読したアイソレーションタンクの発明者J・リリーの「意識の中心」にそのようなエピソードがあった。
 深いLSDトリップをした後日、リリー博士はあやまって洗浄剤の泡を自分に注射してしまい昏睡状態に陥る。
 のちに意識を取り戻した時、それはLSDによって無意識が解放されたあと十分な分析をおこなう時間がなかったため破壊的なプログラムが作動したのではないかと結論する。

 それが自殺的行為であることを私の中の何かが知っていた。この出来事で最も恐ろしいのは、私の一部が、残りの私を殺すために、私の中に蓄えられた情報を使うことが出来た、という事実である。

 有機体には、自覚的な自己に加えて、それ自体の破壊に導く、思考、感情、行為をプログラムしうるもうひとつの隠された制御系が存在するのかもしれない。LSDはこうしたプログラムを解き放ち、強化し、自殺や自己破壊的な危険が生じるようなところまで、生きようとする自覚的な自己を弱体化させる可能性をもっている。・・・


 これらにつかまらない為には、まず『意識化』するしかない。
 意識化して光を当てることによって、それらは無意識に人を動かすことが難しくなる。意識していないものに、人は動かされるからだ。
 しかしこのような自己破壊的プログラムは一部の人の内部にしかないのだろうか?

 僕の自身の体験では、やはりトリップ中に自分の中に『死のうとしてる部分』があるということに気づき、必死に『生きていいんだ、生きていいんだ、生きていいんだ、幸せになっていいんだ』と自分に言い聞かせ逆のプログラムをおこなおうとしたことがある。そのトリップ自体が『死のうとしてる部分』がおこなったことであるように思った。が、僕はそれによってそのプログラムに気づいたのかもしれない。

 自己嫌悪や、自分の人生を嫌うだったりだとかいうことは比較的ありふれているが、それも実際に命を奪うまでには至らなくてもひとつの『自己破壊プログラム』であり生命力を奪っている。理想的には全心身が生きると言うことに対して一致団結せねばならない、とノートに書いた。破壊的プログラムが一切作動せず、悦びのみですべてが機能している状態だ。トータルな自己。それには自分を完全に愛し、存在していることにこころから感謝できる心境でいることが必要だ。理想はそうだけど、なかなか難しい。

 僕はその夢を見た後、生命の観点でものを見るということを少し思い出した。
 川端康成はものを見るときに「末期の眼」で見ることが重要だと言ったらしいが・・・
 死を前にしたとき、すべてのものが同じに見える。
 先に書いたトリップの一幕で、僕はそのような感覚を体験した。
 ただ生きているという事実によって、すべての人はイコールだ。
 それ以外のすべての見方は不必要な枠を、マトリョーシカのように、何重にも何重にもはめ、しなくてもいい他者へのジャッジによって自分のこころ自体を縛っている見方だ。 
 それはある意味脳と思考の自然な働きで、ショックを与えられない限りマインドはそれを永遠にし続ける。

 だから死を宣告された僕は、夢の中で、どうしてあんなに馬鹿だったんだろうと自分を省みた。
 必要な助けはいつも回りにあったのに、自分はそれを十分受け入れなかった。
 愛すべき人はそばにいたのに、自分は愛し切れなかった。
 いつも何かほかのものへほかのものへと、逃げていこうとしていた。
 
 なによりも自分で自分の存在を少しづつ殺していた。 
 その結果がこうなることはわかっていたのに気づかない振りをしていた・・・

 いつもこんな気づき方しかできないのか?
 どうしていつもこのことがギリギリまでわからないのか
 と思っていた。

 夢から覚めた僕はこう思った。
 結局僕はまたぎりぎりまでわからないかもしれない。
 でもすべてに感謝する努力はし続けよう。自分を破壊しない努力はし続けよう。この生を完全に愛する努力はし続けよう。破壊的プログラムが、自己を受け入れ、自分の存在がよろこびによってひとつになるために。

 できるかどうかわからないけど、その努力は、しなければならないと。

 そういえば朝、こんなニュースと出会った

 台湾人の女性、自分自身と結婚

 30才のChen Wei-yiさんは30人の親族や友人たちに見守られ自分自身との結婚式をおこなった。 

私たちは誰かを愛せるようになる前に、自分自身を愛さなければならないの。私は特別な誰かと結ばれる前に、自分自身と結婚しないといけないのよ」と彼女は語った。



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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/08 21:54

神は平衡

 昨日、I先生の瞑想会に出た時こんな言葉を聴いた。

 『これは、あくまでただ俺の考え方だけど、こころに闇のある人は神様を信じたほうがいいよ

 前後の文脈は寝不足で若干もうろうとしてたので忘れてしまったが、多分いろいろな真理の求め方があって、それは人によってまったく違ったものでかまわない。でも・・・ということだったと思う。 

 それは一瞬、闇を光で帳消しにするというようなことかと思ったが、

 『ていうのは、神と言うのは平衡だからなんだ。神は闇でもないし、光でさえないの

 という言葉が続いた。

 『死にたくなったり、自分を傷つけたくなったり、そういう傾向のある人が神を思うことでバランスがとられそこから抜け出すことができる

 僕のイメージとしては、左右どちらかに傾きすぎた天秤がこころの闇に飲まれている状態とするならば、神様を想うということで棒を支える「支点」に意識が移動し自動的にバランスがとられた全体に意識が戻るというような感じがする。 

 神様が「善」と言われれば僕はなかなか近寄りがたかったと思う。
 僕の中にはI先生と会う前から善でも悪でもない、「アプラクサス」という神がいた。
 それは自分の心の闇を裁く神でも、光で浄化する神でもなく、そのこころの闇自体から語りかけるような、あるいはそれらすべてを抱いて存在しているような場だった。
 
 こころの闇にとらわれてどこにも逃げ場がない時、神を思うと闇はそのままで、僕らは静止した支軸となれるかもしれない。話しを聴きながら僕は自分のこころの闇から、神様によってどれくらい救われてきたのだろうと思った。





 







修道会日誌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/06 23:19
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