2011.
01.
28
ALIVE(生存者はプライドを持って立ち尽くすことを君に要求する)
鳥がけたたましい夜だ
真夜中のプールサイドは
実に、果実と惑星でいっぱいだ
俺は生き残ったぞ
お前が聴いた事もないような
異常な犯罪から
南のほうで火山が火を噴いたぞ
北のほうで放射能が人に血を吐かせたぞ
太陽と海はまだ
過去を飲み干し続けているぞ
真夜中のプールサイドだ
酒だ
樹だ
あらゆる色のドレスが舞う
残酷な生者の祭典
光だ
用件はいい知らせだ
もしお前が胸にはめ込まれた
コバルトの球体を持っているなら
お前は不死だ
お前はお前がはめ込まれた
時空の中で永遠に生きる
さあ、それがわかればお前は今日も
億年と光年の観客に見つめられた
誇り高き俳優のように
交差点の中央で真っ直ぐに立ち
夜空を見上げられるはずだ
やがて星たちが踊りだすまで
お前には聴こえるか?
俺の聴く栄光の音楽が
プラチナのオブジェがきしる音と
光る水しぶきの悲鳴が
1998

2011.
01.
28
君に似た惑星
君が瞬きするたびに
君に似た惑星が生まれる
君に似た海と
君に似た大地
君に似た風と
君に似た
いのちを宿した惑星が
真っ青な空と
そこに浮かぶひとひらの雲までもが
君の面影を宿す
君に似た惑星はいつまでも
脅かされない星系のなかで
たゆたいながら
君のような歴史をつむぎ続けるだろう
争っているにしても
愛し合ってるにしても
だから
瞳を鏡に映して
そこに宿る輝きの意味を考えてみるといい
宇宙飛行士よ
君が創造せし
宇宙を
果てなく巡り旅するものよ
1997
2011.
01.
25
Silent dawn
足音が届かない夜明け
僕はあやまろう
優しい椅子と 机の影に
捕まえたドードー鳥は逃がしてやって
空のカゴを見つめよう
足音が届かない夜明け
僕は記憶を愛撫しよう
(雨の中を去っていく後姿 無人の街 無人の車)
足音が届かない夜明け
僕は巻貝のらせんの迷路に入り
波の音を探しにゆこう
僕の部屋のドアが開く
ゆっくりと
そこには誰もいない
ただ夜明けの青が部屋をいっぱいにする
(ポストの中に濡れた手紙)
1997
足音が届かない夜明け
僕はあやまろう
優しい椅子と 机の影に
捕まえたドードー鳥は逃がしてやって
空のカゴを見つめよう
足音が届かない夜明け
僕は記憶を愛撫しよう
(雨の中を去っていく後姿 無人の街 無人の車)
足音が届かない夜明け
僕は巻貝のらせんの迷路に入り
波の音を探しにゆこう
僕の部屋のドアが開く
ゆっくりと
そこには誰もいない
ただ夜明けの青が部屋をいっぱいにする
(ポストの中に濡れた手紙)
1997
2011.
01.
25
A song of another world
『大きな岩 ひとりでに10メートルも歩く』
そんな見出しが躍る古い外国の新聞を
僕は図書館で読んだ
岩がひとりでに歩いたと言う
アリゾナか サハラか ゴビか
きっとそんなどこか
ここからは遠い世界の砂漠で
仲間に止められただろう
岩は歩いたりするもんじゃないと
岩の長老は彼を叱ったかもしれない
でも彼は歩いた
特に歩きたかった訳じゃない
歩くのはとても苦しかった
岩は歩いたりするもんじゃないから
でも
歩かずにはいられなかった
何かが彼を駆り立てていた
歩け
歩け
力の限りこの砂漠を進めと
ただ湧いてくる力だけが
今まで感じたことのない
痛みと喜びが
ひとつの歌のように彼を導いた
それは聴いたこともないほど美しく
どこか悲しげなメロディーだった
あいつは呪われている
ある岩ががそう言った
違うあいつは祝福されているんだ
別の岩が言った
気がクルットルナ
とサボテンが見下ろしていた
ただただ必死に
歩かずにはいられなかった彼には
そんな声はどうでもいいことだった
彼はただただあの歌声に耳を傾け従っていた
しかし砂漠はあまりにも広かった
ある日珍しく大雨が降った
彼は雨の中歩みを止めてじっとしていた
そしてもう二度と
歩き出すことはなかった
きっと雨の激しさと冷たさに我を忘れ
なにもかも忘れてしまったのかもしれない
彼にはもう思い出せなかった
歩き方も
歩いた事も
彼を駆り立てた力も
あのもうひとつの歌の事も
彼の歩いた後には短い溝が残り
それもやがては風に消された
『大きな岩 ひとりでに10メートルも歩く』
そんな見出しが躍る古い外国の新聞を
僕は図書館で読んだ
そして悲しくもまた不思議な気持ちになった
世界は大事なことを隠している
1997
2011.
01.
23
空間は沈黙を守っている
頑固に
それが唯一の教えでもあるかのように
僕のこころは病んだ呼吸器に縛り付けられ
現在位置を忘れそうになる
現在位置=宇宙
宇宙的観点を思い出せ
真空を飛び交う情報は想像を絶することを伝えている
宇宙は海だ
宇宙は考えている
僕に似た誰かも考えている
馬の頭の星雲で
さえぎるものは何もない空間がどこまでも
愛は宇宙の基本公式
死は宇宙の基本問題
青白い生命体の泳いだ痕跡が 天井にも 空間にも
僕は毎日宇宙を泳ぐ
そして陸地はどこにもない
1996

頑固に
それが唯一の教えでもあるかのように
僕のこころは病んだ呼吸器に縛り付けられ
現在位置を忘れそうになる
現在位置=宇宙
宇宙的観点を思い出せ
真空を飛び交う情報は想像を絶することを伝えている
宇宙は海だ
宇宙は考えている
僕に似た誰かも考えている
馬の頭の星雲で
さえぎるものは何もない空間がどこまでも
愛は宇宙の基本公式
死は宇宙の基本問題
青白い生命体の泳いだ痕跡が 天井にも 空間にも
僕は毎日宇宙を泳ぐ
そして陸地はどこにもない
1996

2011.
01.
21
夏が去り 鳥が啼き 影が瞬いた
僕は落ち葉を踏んでいる
時は10月
祭りの後の広場に 再び帰る人はなく
雨が降った
きらめく8月の終わり
魚の形の雲がすごい速さで流れていく
空の下
まだ誰もいない学校のグラウンドに立ち
砂埃の中 目をこすりながら
点滅する影を見ていた
雲間から太陽が現れ
濃くなった夏の影たちを
地面にくっきり焼き付けると
うれしくなった
大きな魚が太陽を腹に呑み
影が消えたときも
なんだかドキドキした
遠くの大木がざわざわ揺れて
雨の匂いがする
南の海から
嵐がやってくるのかもしれない
まぶしい7月のさなか
深海の気配のする水族館の中で
僕は待っていた
蛍光灯の下のカブトガニたちが
古代の海に帰り
巨大なジンベイザメが
幻の海底トンネルをくぐりぬけ
目が痛くなるほどの光の中へ
溶けていくことを
夏が去り 鳥がはばたき 影が消えた
時は10月
僕は湿った落ち葉を踏んでいる
多くの魚たちや
嵐の夜の冒険を想いながら
みんなどこへいったんだろう?
雨に煙る祭りの広場には
腐った材木や 錆びた鉄骨が眠り
僕の問いかけに答えるものは
何もない
1996
2011.
01.
19
水音
幾千の僕
幾億の君
暗闇の中を水が流れ落ちる
そんな場所にいた
謎めいた書物を紐解く前に
今こうして共にある時間を
確かめよう
岩肌に足をすべらせないように
注意して
漆黒の闇の中を流れる
光のかけらを散りばめた
水流
すくいとってみたら
その冷たさと清らかさに
驚くね
幾千年も
幾億年も流れ続けてきた
暗闇の中の水晶
ぽっかりと口をあけた洞穴から
重低音の冷気が押し寄せる
遥かな闇の中から見えない
誘いがいつも二人の肩を叩く
冷たく
しかし
悪意なく
水がすべてを示している
水が命を運んでいる
このほの暗い水流が
輝かしいすべての地上の命へと連なる
水は高度のプログラムを秘めていた
それは
父であり岩石であり死だった
母でありうねりであり悦びだった
幾億の僕たちは知っていた
あらゆる恐怖ののちに
僕らは悦びを見出すことを
ほら
源流が僕らを呼ぶ声が
いつまでもこだましている
幾千の僕
幾億の君
きらめく暗い水が流れ落ちる岩肌
そこにいた
1996

幾千の僕
幾億の君
暗闇の中を水が流れ落ちる
そんな場所にいた
謎めいた書物を紐解く前に
今こうして共にある時間を
確かめよう
岩肌に足をすべらせないように
注意して
漆黒の闇の中を流れる
光のかけらを散りばめた
水流
すくいとってみたら
その冷たさと清らかさに
驚くね
幾千年も
幾億年も流れ続けてきた
暗闇の中の水晶
ぽっかりと口をあけた洞穴から
重低音の冷気が押し寄せる
遥かな闇の中から見えない
誘いがいつも二人の肩を叩く
冷たく
しかし
悪意なく
水がすべてを示している
水が命を運んでいる
このほの暗い水流が
輝かしいすべての地上の命へと連なる
水は高度のプログラムを秘めていた
それは
父であり岩石であり死だった
母でありうねりであり悦びだった
幾億の僕たちは知っていた
あらゆる恐怖ののちに
僕らは悦びを見出すことを
ほら
源流が僕らを呼ぶ声が
いつまでもこだましている
幾千の僕
幾億の君
きらめく暗い水が流れ落ちる岩肌
そこにいた
1996

2011.
01.
18
今、長めの文章を書いており、ブログの更新は去年よりかなり減ると思います。
その間12、3年前から書き溜めた詩を散発的にUPして行こうと思います。
一昨年くらいに小冊子にしてみようかという計画があり、その時に詩集1「Birth」と詩集2「火水の子供たち」(どちらも仮)をつくりました。詩集1は1997~2001くらい、詩集2は2004~現在位です(神様のことを勉強しだしてから以降)。
自分にとっては、とても意味のあるイメージのひとつひとつです。
なんとなく読んでいただければ幸いです。
本日は、詩集1より10代の頃書いたもの
スニーカーイリュージョン
海中は青かった
イルカたちは独自の歌の中にいた
そのメロディを聴きつつ
僕はゆっくり歩いていく
毎日風が 気持ちよかった
ファインダーから出現した砂漠は
100年前の雨で滲んでいく
交差点ですれ違う
白夜の都市の雑踏よ
僕はゆっくりと歩いていく
どこまで行っても終わりはなく
いつも彼方に地平線
ただ今だけを懐かしく歩くことで
路上が僕の故郷となる
ひそやかな夜更けに僕は見た
流星の雨が脱ぎ捨てた 僕のスニーカーに
音もなく降り注ぐのを
僕の見てきた旅路の風景は
すべてはこの磨り減った靴の夢見た幻影
ニュースキャスターが何か喋っているのは
もう聴こえない とても静かな夜
さあ、砂嵐の向こうに帰っていこう
僕はゆっくり歩いていく
毎日風が 心地よかった
1996

同じく、詩集1より
連詩 Once upon a time
< 序>
あらゆる私たちが目にしてきた光景
砂漠に近い港の風の匂い
夕陽に照らし出されるクレーンと工場群
潮風のコンビナート
貧しい屋根の下での祈りの火
私たちは歩く
冷たい風の中を 春を想いながら
私たちは歩く
かぐわしい春風の中を 生の短さを嘆きながら
汗
涙
空腹
飲み込まれる唾液
歩く私たち
歩き続けた私たち
話せ
あらゆる時代の私たちに
瞬間の私のことを
手をつなげ
あらゆる時代の私たちと
その苦痛と希望のゆえに
夕陽が沈みかけている
グラウンドの向こうに
僕は帰る
家族が待つ夕餉の匂いへ
夕陽が沈みかけている
雪を戴く山脈の向こうに
私は帰る
仲間たちが待つひなびた僧院へ
夕陽が沈みかけている
私に帰る場所はない
私はあの夕陽を追って峠を越える
日が沈めば今日は終わり
それは私たちから永遠の所有となる
そして私たちは朝が来るまで話し続けるだろう
草原の中で焚き火を囲んで
パイプを回し
一晩中数珠をたぐり
暖炉の前で芸術論を闘わせ
うらぶれた酒場で熱い息を吐き
あるいは一人で夢の谷間を歩いていようとも
忘れるな
私たちはほこりぽい昼間をともに歩いた私たちすべてと
夜を分かち合い
語り合っていることを
すべての時代の私たちと・・・
2000
その間12、3年前から書き溜めた詩を散発的にUPして行こうと思います。
一昨年くらいに小冊子にしてみようかという計画があり、その時に詩集1「Birth」と詩集2「火水の子供たち」(どちらも仮)をつくりました。詩集1は1997~2001くらい、詩集2は2004~現在位です(神様のことを勉強しだしてから以降)。
自分にとっては、とても意味のあるイメージのひとつひとつです。
なんとなく読んでいただければ幸いです。
本日は、詩集1より10代の頃書いたもの
スニーカーイリュージョン
海中は青かった
イルカたちは独自の歌の中にいた
そのメロディを聴きつつ
僕はゆっくり歩いていく
毎日風が 気持ちよかった
ファインダーから出現した砂漠は
100年前の雨で滲んでいく
交差点ですれ違う
白夜の都市の雑踏よ
僕はゆっくりと歩いていく
どこまで行っても終わりはなく
いつも彼方に地平線
ただ今だけを懐かしく歩くことで
路上が僕の故郷となる
ひそやかな夜更けに僕は見た
流星の雨が脱ぎ捨てた 僕のスニーカーに
音もなく降り注ぐのを
僕の見てきた旅路の風景は
すべてはこの磨り減った靴の夢見た幻影
ニュースキャスターが何か喋っているのは
もう聴こえない とても静かな夜
さあ、砂嵐の向こうに帰っていこう
僕はゆっくり歩いていく
毎日風が 心地よかった
1996

同じく、詩集1より
連詩 Once upon a time
< 序>
あらゆる私たちが目にしてきた光景
砂漠に近い港の風の匂い
夕陽に照らし出されるクレーンと工場群
潮風のコンビナート
貧しい屋根の下での祈りの火
私たちは歩く
冷たい風の中を 春を想いながら
私たちは歩く
かぐわしい春風の中を 生の短さを嘆きながら
汗
涙
空腹
飲み込まれる唾液
歩く私たち
歩き続けた私たち
話せ
あらゆる時代の私たちに
瞬間の私のことを
手をつなげ
あらゆる時代の私たちと
その苦痛と希望のゆえに
夕陽が沈みかけている
グラウンドの向こうに
僕は帰る
家族が待つ夕餉の匂いへ
夕陽が沈みかけている
雪を戴く山脈の向こうに
私は帰る
仲間たちが待つひなびた僧院へ
夕陽が沈みかけている
私に帰る場所はない
私はあの夕陽を追って峠を越える
日が沈めば今日は終わり
それは私たちから永遠の所有となる
そして私たちは朝が来るまで話し続けるだろう
草原の中で焚き火を囲んで
パイプを回し
一晩中数珠をたぐり
暖炉の前で芸術論を闘わせ
うらぶれた酒場で熱い息を吐き
あるいは一人で夢の谷間を歩いていようとも
忘れるな
私たちはほこりぽい昼間をともに歩いた私たちすべてと
夜を分かち合い
語り合っていることを
すべての時代の私たちと・・・
2000
2011.
01.
10
haitakadori
映画『アメリカン・ビューティー』を見てその結末の落とし前の付け方に度肝を抜かれて放心中。
01-09 21:18
2011.
01.
07
職場で北斗の拳つぅぅ~(2)がエンドレスで流れていたので、エンディングテーマが耳に焼き付いて離れなくなってしまった。
子供の頃、聴いて好きだった気はするが、なぜか改めて聴くと身体に鳥肌が立つ。何でだ意味わからん(笑)
北斗の拳は別にそんな特別好きではない。
テーマソングだけ好きなアニメってのも珍しいのだが、
こっちは前から大好き。
Welcome to this crazy time! このイカレた時代へようこそ!
まともな奴ほどFeel so bad 正気でいられるなんて運がいいぜYo!
80sでも90sでもなく今のことやな。
Love songはLyricがとても素敵で、アニメと一緒に見ると妙に感動してしまう。
EDテーマでは流れない2番の詩もよい。
去年の年末は、テレビも見ずに淡々と越したからか、いつもより年越し感がない。
11時過ぎるとやることがなくなったので、こたつでぼけーっと寝転んでると近くのお寺からごーんごーんと除夜の鐘が聞こえてきた。そのまま0時過ぎるまでごろごろして、日付が変わると祝詞を唱えてみたりしてから、割と早く寝た。
年末は『クラリオン星人』についてよく考えていた、クラリオン星人によると人間は狭い周波数帯域で幻想の中に生きているために多次元的マルチユニバースを、無数に存在する「私」を理解できないそうだ。
「ひふみ神示」は「平面」ではなく「立体」に生きられねばならんぞと言う。
年明けてから買ったのは苫米地英人著『幻想と覚醒』という本だった。
ある意味マーヤ解きとかぶるところがあって面白いが、多分苫米地さんが僕を見たら洗脳されてるって言うだろうな(笑)
しかしやっぱ今ホットなテーマと言うのは、『幻想』からの『覚醒』なんだなと感じる。
ただ人によって『幻想』や『覚醒』の意味するテーマがまったく違うために例えば政治的意味で使う人と、宗教的意味で使う人と、クラリオン星人的意味で使う人はお互いに分かり合えなかったり幻想の中で非難しあったりしてしまうかもしれないが、より深い部分では同じようなアーキタイプ的ドラマを共有しているのかもしれない。
だから現代が『幻想』からの『覚醒』の時代、なにか古いリアリティーから自由になり解放される時代と言うメッセージを、「マトリクス」、「アバター」、「インセプション」などの物語は暗喩的に僕らのこころに届けてくるのかも。
『幻想と覚醒』の中に車が通ってないのに、赤信号を守るあなたは洗脳されてますという文章があった。
これは前から僕も思ってることで、僕も赤信号でも、車が通ってなければわたる派だ。正直、みんな止まってるから目立って恥ずかしいが多数派に流されるのがいやだと言うわけのわからない理由で、勇気を出して一人でわたることもある。これはひそかにおこなっている覚醒のためのトレーニングと言ってもよい(笑)
とにかくなにか人が多く集まった時の「群れ的」な動きに、少し拒絶反応があるためでもある。
おまわりさんがいたら、注意されたらめんどくさいので控える。だが、苫米地氏はそれでも渡り、なぜ車の通らない時に信号を守る必要がないかをおまわりさんに論理的に説明するそうだ(笑)
原則として車にひかれないようにするのは信号を守ることではなく、野生の勘を研ぎ澄ませていることが重要なのだ。信号なんかに頼っていると退化してしまう(言い過ぎかw)
赤信号をわたるのはリスクがあるが、信号さえ守っていれば危険はないのになんでそんなことを考える必要があるのか?というと結局「条件付け」されてることに自覚的になることが重要だから、、と言えるかも知れない。
それは潜在的にリスキーなことだ。
交通事故と同じくらいに。
まあ、信号に限定して書いたけど、似たような局面で同じような条件付けが作用している。
日本人は特に、異常に群れの動きやルールに敏感だ。
KY(空気読めない)という言葉にもそれを感じる。
インドなんか行ったら交通ルールの無視ぶりに驚かされるけど、ある種の活気としてもそれは感じられる。
和を重んじる、と言う言葉がもし周り(雰囲気)に合わせると表層的に解釈され、本能的に実行されているなら、全体の質がよろしくなければ、それに同調した個も含めより全体的に劣化するという結果になるね??
『和』って言うのは、特異性を認め合い、それが調和していると言うことであって、みんなが個性や自己の衝動を押し殺し一律に行動していることではないと思う。
子供の頃、聴いて好きだった気はするが、なぜか改めて聴くと身体に鳥肌が立つ。何でだ意味わからん(笑)
北斗の拳は別にそんな特別好きではない。
テーマソングだけ好きなアニメってのも珍しいのだが、
こっちは前から大好き。
Welcome to this crazy time! このイカレた時代へようこそ!
まともな奴ほどFeel so bad 正気でいられるなんて運がいいぜYo!
80sでも90sでもなく今のことやな。
Love songはLyricがとても素敵で、アニメと一緒に見ると妙に感動してしまう。
EDテーマでは流れない2番の詩もよい。
去年の年末は、テレビも見ずに淡々と越したからか、いつもより年越し感がない。
11時過ぎるとやることがなくなったので、こたつでぼけーっと寝転んでると近くのお寺からごーんごーんと除夜の鐘が聞こえてきた。そのまま0時過ぎるまでごろごろして、日付が変わると祝詞を唱えてみたりしてから、割と早く寝た。
年末は『クラリオン星人』についてよく考えていた、クラリオン星人によると人間は狭い周波数帯域で幻想の中に生きているために多次元的マルチユニバースを、無数に存在する「私」を理解できないそうだ。
「ひふみ神示」は「平面」ではなく「立体」に生きられねばならんぞと言う。
年明けてから買ったのは苫米地英人著『幻想と覚醒』という本だった。
ある意味マーヤ解きとかぶるところがあって面白いが、多分苫米地さんが僕を見たら洗脳されてるって言うだろうな(笑)
しかしやっぱ今ホットなテーマと言うのは、『幻想』からの『覚醒』なんだなと感じる。
ただ人によって『幻想』や『覚醒』の意味するテーマがまったく違うために例えば政治的意味で使う人と、宗教的意味で使う人と、クラリオン星人的意味で使う人はお互いに分かり合えなかったり幻想の中で非難しあったりしてしまうかもしれないが、より深い部分では同じようなアーキタイプ的ドラマを共有しているのかもしれない。
だから現代が『幻想』からの『覚醒』の時代、なにか古いリアリティーから自由になり解放される時代と言うメッセージを、「マトリクス」、「アバター」、「インセプション」などの物語は暗喩的に僕らのこころに届けてくるのかも。
『幻想と覚醒』の中に車が通ってないのに、赤信号を守るあなたは洗脳されてますという文章があった。
これは前から僕も思ってることで、僕も赤信号でも、車が通ってなければわたる派だ。正直、みんな止まってるから目立って恥ずかしいが多数派に流されるのがいやだと言うわけのわからない理由で、勇気を出して一人でわたることもある。これはひそかにおこなっている覚醒のためのトレーニングと言ってもよい(笑)
とにかくなにか人が多く集まった時の「群れ的」な動きに、少し拒絶反応があるためでもある。
おまわりさんがいたら、注意されたらめんどくさいので控える。だが、苫米地氏はそれでも渡り、なぜ車の通らない時に信号を守る必要がないかをおまわりさんに論理的に説明するそうだ(笑)
原則として車にひかれないようにするのは信号を守ることではなく、野生の勘を研ぎ澄ませていることが重要なのだ。信号なんかに頼っていると退化してしまう(言い過ぎかw)
赤信号をわたるのはリスクがあるが、信号さえ守っていれば危険はないのになんでそんなことを考える必要があるのか?というと結局「条件付け」されてることに自覚的になることが重要だから、、と言えるかも知れない。
それは潜在的にリスキーなことだ。
交通事故と同じくらいに。
まあ、信号に限定して書いたけど、似たような局面で同じような条件付けが作用している。
日本人は特に、異常に群れの動きやルールに敏感だ。
KY(空気読めない)という言葉にもそれを感じる。
インドなんか行ったら交通ルールの無視ぶりに驚かされるけど、ある種の活気としてもそれは感じられる。
和を重んじる、と言う言葉がもし周り(雰囲気)に合わせると表層的に解釈され、本能的に実行されているなら、全体の質がよろしくなければ、それに同調した個も含めより全体的に劣化するという結果になるね??
『和』って言うのは、特異性を認め合い、それが調和していると言うことであって、みんなが個性や自己の衝動を押し殺し一律に行動していることではないと思う。
2011.
01.
05
haitakadori
それらを手放していくに連れて、恐れや怒りによってうずもれていた愛の形が見えてくる。ピュアリファイ、浄化とは、ネガティブな想いの堆積からはっきりと形を現し始めた人の導きとなる像、魂の願いの顕現した状態だ。そこから生きる時、行動は純粋な意図を持つものとなる。
01-04 20:29怒りを手放すには許しを 絶望を手放すには 希望と信頼を 恐れを手放すには愛と知恵を 僕らは愛から行動することも出来るし 不安から行動することも出来る。僕らの中には防衛本能としてそれらを手放したくはないという想いがある。しかし恐れや絶望からの行動は破壊的な結果となることが多い。
01-04 20:23