2012. 04. 29  
haitakadori

RT @GaryBonnellBot: ノンジャッジメント、判断をしない態度が、ジャッジされたときの葛藤を、手放すのを助けることができるのです。
04-28 21:02

2012. 04. 23  
haitakadori

RT @nl_5: 「もっとも重要なのは、自分の心と直感を信じる勇気だ。あなたは本当になりたいものを、すでによく知っているのである。常識にとらわれないように。時間は限られているのだから、無駄に過ごしてはいけない。他人の意見が雑音のように、あなたの内面の声をかき消したりする ...
04-22 15:54

2012. 04. 21  
 数日前の朝、また太陽気功をしてる時、『今日一日言葉を使うのやめよう』と思いついた。

 ネットをしすぎたり、テレビを見すぎたり、なにか生活のことにとらわれていたり、他者がマーヤとしてあると二元性の意識が強くなる。かわって自然の中でまわりと一体化していると、それらが弱くなるということは気づいていた。なぜ街中でそれが容易ではないかというと、どうしても『個』がたくさん自分と相対しているという意識になってしまうからだ。この相対しているという感覚がどうしても意識を分裂させる。ただ、人によってはそうならないということももちろん可能だと思う。

 しかし普通、ごちゃごちゃした場所だとその空気にある程度飲まれるのが当然なので、より静寂、かつ自由、かつ無制限、ジャッジのない存在・環境に身を置いたり意識を向けることが大事になる。僕の感覚に過ぎないが、木々や太陽に意識を向けてるとそのようなノージャッジの存在意識を強く感じることがある。

 そして太陽光が脳になんらかの影響を及ぼすのか、あるいは太陽の意識の流れみたいなものがあってそれを受信しているのかわからないが、太陽と交流していると気づきのヒントとなることを思いつくことが多い。

 言葉を使うのをやめることで、なにか二元的意識を超えるヒントが見えそうな気がした。

 ヨガなどでモウナという修行法がある。
 沈黙のプラクティスだ。ある一定の期間喋らずに沈黙を守ることを言う。
 だが、正式なやり方とかはまったく知らないので、とりあえず口に出して独り言をいうのはやめること、そして本を読んだり、ネットを見たり、文章を書いたりしないこと、考える時もなるべく言語化しない(自然に浮かぶのはしょうがないのでOK)というルールで夜の仕事前までやってみることにした。やっていいのは絵を描くことと、音楽を聴くことと、踊ること。
 
 一人暮らしは長いので、結構独り言をいう癖はある。
 一人ツッコミだとか、一人で面白いことを言って笑うというのは日常茶飯事だ。
 まあ一人ごとといっても大体ぼそっとつぶやく程度だが、興奮したりテンションがあがってくるとセリフが多くなってくることには以前から気がついていた。

 モウナを一日やってみて気がついたのだが、一人ごとというのは完全に自分が思考と同一化している時により出やすいということに気がついた。だから嫌なことや、うれしいことがあって興奮していると自然に言葉を口走ったりしやすいのだろう。その時は観察者であることを完全に忘れ去っていることが多いと思う。
 頭の言語脳のあっちやこっちのニューロンが次々に発火し、それに完全に同化しているとそうなる。

 また言語を使わないでいるときのメリットは、自他に対する『審判(ジャッジ)』がちょっとムズかしくなるということだと思った。独り言禁止、かつ言語思考を抑制していても確かに「価値判断」というものは感覚として存在する。しかしそれをいちいち「いい」とか「悪い」とか「ダメだ」とか「許せない」とか言語化をしないことによって、ジャッジがある一定のレベルを越えて意識を分断することを防止してくれるように感じるのだ。
つまり、言語を使用しないと、それは「ソフトジャッジ」にとどまる。
 道を歩いていて、あそこになにか気持ちの悪い人がいるなーという「感覚」を越えて、さらに「キモい( ´;゚;ё;゚;)」と言語化するとそれは「ハードジャッジ」になるのだ。

 モウナをしていると、言語的アイデンティティと自分との同化がゆるくなる。
 言葉をしゃべっているのが自分、喋ってる言葉が自分という感覚がゆるくなる。
 さらにそれと反比例して、沈黙の中で観察している観察者との同化が起こっていくように思える。

 さらに言葉の奥の、実際に感じている部分、感覚がよくわかるようになった。
 例えば花を見ても、ひまわりはひまわりの、桜は桜の独特の印象がある。
 それをひとくくりに「きれい」と表現することで、失われている「何か」により敏感になるという感じだろうか。沈黙の中でその「何か」をただ感じてみる。それは内的な感情でも同じだ「怒り」あるいは「悲しみ」あるいは「うれしい」と表現する以前のその本質に意識が向くようになるのだ。

 どうも僕らは言語脳が無駄に空回りしている気がする。
 これは現代に生きる人の特性だと思う。
 というか僕はこういう文章を書くことが多いので、なんか言葉を使いすぎて、言葉に縛られている気がすることがままあるのだ。 

 その昔非言語的コミュニケーションが存在した、あるいはバベルの塔が崩れる前は人類はひとつの言葉を話していたという伝説。これは明らかに、テレパシーのことだ。
 人と人は言葉以前の感覚や、「絵(イメージ)」で交流することができたのだ。
 だからそこには「嘘」はありえなかった。
 テレパシーが消滅した(?)ことによって、相対する人が何を考えているかわからないという状態が生じ、その恐怖精神的分離感を埋めるために「とにかくなんでもいいから話してつながらなくては」という強迫観念が生まれたのに違いない。
 言葉という不完全な架け橋が個と個をつなぐ唯一のものになってしまったのだ。
 しかし、おそらく今でもテレパシーは消滅してはいない。
 それは親しい人同士の間で同じような想念が飛び交ったり、空間的に離れた人間同士の間でも、なにかのエネルギーが、情報が行き来するという現象が確かにあるからだ。
 そして「音学」や「絵」などの右脳的表現も言葉以前のリアリティを共有して、ひとを結びつける作用を確かに持っている。

 言語は、人と人をつなぐと同時に、言語脳の暴走は人と人をエネルギー的に切り離しているような気がしないでもない。例えば僕は仕事では常に誰かが近くにいることが多いのだが、自分自身の言語的思考活動に没頭している時は、なんか他と自分を分断している感じがするのだ。それは「神様、神様」という言葉でも同じだ。それによって前にいる人と自分との間に何かの分離が生まれている。まあ別に常につながっていなくてはならないこともないだろうが、この微妙な分離感が気になることがある。 
 
 もしかすると人と人が何もしなくてもつながっている場所、というのが静寂な観察者のいるところだからかもしれない。ただ同じ空間に 「在る」 ということ。そのポイントが本来のつながりの場所であり、言葉と言葉で僕らはつながるわけではないのだ、、、おそらく。言語と同化しすぎるとそのポイントからはずれてしまう。だから朝まで生テレビみたいにあんなみんな自分の言葉を押してしゃべりまくったら、怒鳴り合いになるのは当たり前だ。あれ、最後には田原総一郎と全員ハグしあってキスして終わった方がいいと思うぞ(-^〇^-)うーん・・気持ち悪いか(笑)
 あと言葉で考えなくても、「絵」で考えられるということがわかると、こっちのほうが実は早いかもしれないな。時々モウナを継続し、そこらへんも探ってみたい。

 下のなんか海外ドラマ『LOST』のサイードみたいな人は、メヘル・ババという覚醒者で覚醒後何十年も、沈黙を続けたという。何十年も喋らないってどんな心境だったのかな。


  250px-Ancient_One.jpg



 メヘル・バーバー (Meher Baba مهر بابا महर बाबा 、1894年2月25日 - 1969年1月31日)は、インドのパールシーの出身で、悟りを得ているとされる。1930年代にヨーロッパを訪れ、悟りを得ることを人々に勧めた。インドのマハラシュトラ州プネー市(旧称プーナ)で生まれ、マハーラーシュトラ州のアフマドナガル(Ahmednagar)で肉体を離れた。

「私は知識を伝えるために来たのではない。あなたたちの目を覚ますために来た」

 19歳の時にプネーの市場で、肉体を離れる直前のイスラム教の聖人ハズラト・バーバージャーン(Hazrat Babajan)から額にキスを受け、強烈な体験から気を失ったことからいろいろな事が始まった。教えはスーフィー(イスラム教神秘主義)やヴェーダの宗教の影響を受けている。イスラム教出身の聖者であり悟りを得ていたとされるシルディ・サイ・ババの元にいたこともある。

 悟りを得た後に声を出して話すことはなく、会話はアルファベットのボードと指さすことで行われた。

 アフマドナガルにサマーディ(墓標)があり遺灰が安置されている。肉体を離れたあと50年間はサマーディを訪れることで私に会うことが出来ると言い残している。

 乾期と雨期を過ごしたほこらが、マハラシュトラ州の避暑地パーンチガーニーにある。

 メヘル・バーバーのエネルギーはハート・チャクラのエネルギーの回復を助けてくれ、覚醒や情熱のエネルギーを助けてくれるとも言われる。



  こっちはイラク兵士のサイードw

sayid.jpg



2012. 04. 21  
haitakadori

チャリのハンドルに傘をかけて走っていると、思い切り前輪に巻き込んで、フレームやライトが見事に大破した。前につんのめりそうになり一瞬オー怪我するかと。この走り方は危ないからみんなやめようぜ!(笑)自転車屋のおっちゃんが「よくあるのよ」だって。
04-20 20:50

RT @Sala1618: 気持ちが軽くなれば、私達が光になり、放射線の光とひとつになります。自分達の細胞の波動の振動数を放射線の波動の振動数と同じ所まで上げて、放射能の有害な影響を打ち消す事ができるという。
04-20 20:41

RT @hpappy: @tokaiama 当地でも9:30-11:30にかけてGMカウンタの値が高くなっています。宇宙線か正体不明の電磁波の影響を受けているかも知れません。
04-20 19:17

2012. 04. 19  
haitakadori

気分が重いので、『パッチ・アダムス』のDVDを見た。リアルパッチの顔も拝めてよかった。なんだろ?太陽フレアかな。エネルギー系ぽい。今日はマーヤ度78点!!
04-18 22:50

RT @moomin_valley: ぼくたちは、ひとつのことだけにかまけている。幼いころ、きみは、なんにでも関心をもって、なんでも知りたがったろう?いま、きみは、なにかになりたがってるだけだ - フレデリクソン
04-18 16:52

2012. 04. 18  
haitakadori

このツイートを見てるだれかさんと、gatonegloさんがお話してみたいそうです。お話してみたいですか? http://t.co/FXOgLxFl #gohantabeyo
04-17 00:04

2012. 04. 17  

 寝てる時やってきた想い

 それがどんな人生であろうと
 生きていることだけで
 大いなる祝福を受け取るに十二分に価する
 他にはどんな資格もない

 なぜなら・・・なぜならなんだっけ?


 生きているということは
 神がこの世界を体験している
 その姿であるから

 だったかな・・・

 BLESSは全方向に広がり満ちわたるエネルギーである
 



2012. 04. 17  
haitakadori

これらの仕事がおわすべて終わった時、この大いなる戦いを生き延びたものたちを乗せた船が「西」へと去っていったことに。200年以内にまた会おう。必ず会える。3万五千年ではなく200年だ。あなた方はそれまで生きているだろう。」1996年 Ramtha 「ガンダルフの戦い」より
04-16 23:08

「私はあなた方に冒険に出てもらいたいのだ。というのもあなたがた自身も地球の変化という冒険を体験しようとしているからだ。それにくらべたら「黒の騎士」などかわいい子供のようなものだ。これは素晴らしい事だ。そしてあなたは気づくだろう。
04-16 23:01

2012. 04. 16  
haitakadori

RT @kamitonotaiwa_: あなたがほんとうにしたいことを、どんどんしなさい!ほかのことをしてはいけない。もう、あまり時間はない。生活のためにしたくないことをして、人生の時間をむだにししようなどと、どうして考えるのか?そんな人生が何だというのか?そんなのは ...
04-15 20:10

2012. 04. 15  
haitakadori

完全な観察者なったとき、行為者としての自己が存在できるのかどうかがわからない。
04-14 20:02

2012. 04. 12  
 2008年度のアカデミー賞ドキュメンタリー部門受賞作「マン・オン・ワイヤー」を見た。

 これは、フランス人の綱渡り師フィリップ・プティが1974年に成し遂げた尋常ではないパフォーマンスを描いたものだ。そのパフォーマンスとは、、、、

 これ




 ワールドトレードセンターのツインタワー間を、命綱なしで綱渡りしてのけたのだった。

 なんだかこれを見ると本当に、WTCは彼のパフォーマンスのために立っていたのではないかとさえ思えてくる。
 何重もの意味でこれは不可能に近い綱渡りだ。
 まず綱渡りのプラン自体をWTCが許すわけがないので、それは当然無許可で忍び込んでの決行、つまり『犯罪』となる。実際、この映画の中で彼のプランを手伝った人々は「共犯者」として紹介されている。

 誰にも気づかれることなく多数の機材をWTCの屋上に持ち込み、ワイヤーを張りわたらせる。それだけでも普通の人間なら十二分に神経を消耗させへとへとにさせる行為である。その作業のあとで、彼はほとんど不可能と思えるようなパフォーマンスを成功させたのだ。なんというか精神的・肉体的に二重、三重の綱渡りだ。

 僕が、もっとも感銘を受けるのは、それがある意味ではまったく100%クレイジーで、普通の価値の外にある行動だからだ。それは確かに成功すれば、有名になって、お金も入り、なにかといいこともあったかもしれない。実際に34年後に映画ができたのだから。しかし、これはただのWTCに侵入した変人として逮捕された可能性や、WTCから墜落死した馬鹿として終わっていた可能性が高い行動だ。(まあ成功しても逮捕は一応されたみたいだが)

 それに彼の動機は多分、単に名声を求めるとかそれ以上の、彼自身にもわからない理不尽な衝動に基づいていたような気がする。その衝動と、成功への確信を導いたもの、その部分に彼のダイモーンが関わっているに違いない。

 WHy?(どうしてこんなことしたの)と記者に尋ねられ、彼は

 There is no why!(理由なんてないよ!)と答えている。


 夢を描くにしても、規格化された夢ではなく、まったく誰も思いつかないような奇想天外な夢を思いつき、それを実現させる力。そういった力が存在することを彼はこのようなトリッキーかつ大胆な方法で教えてくれてる気がする。
 そして、それが新しければ新しいほど、人は不安を克服しリスクをおかしながらそれを実現せねばならない。

 その葛藤とプレッシャーの中で研ぎ澄まされた精神は、かなりの域にまで高まったというか深まったに違いない。
 
 「エッジを歩くから人生は意味があるんだ」とフィリップ・プティは語る。

 多分日本にはこういう人は非常に出にくい。
 ここまで個に徹し、ありえないビジョンを実現させるというのは人の目とか世間体に拘泥されやすいDNAを持った日本人には難しい気がする。日本人にも勇敢で、才能ある人はたくさんいると思うがその才能や勇敢さはある価値観の枠内で発揮されるのだ。だからこういうインパクトとか波風が生まれにくい。
 だからこそ、すごいな~とやはり感動してしまうものがある。

 あ、そう言えば、まったく関係ないジャンルだがムツゴロウさん、はちょっとそういうとこあるかも。トラに抱きついたり、っていうムツゴロウスタイルは、誰もやろうとしなかったはずだし(笑
 この人のギラギラした感じが僕は好きなんだけど、ものすごく自分のビジョンがはっきりしててかつ生命力にみなぎっているということでは日本人離れしてるなあ。







 蛇に首絞められるのを楽しめる人ってあまりいないよね。
 一見温和に見えるが、相当ギラギラきてます。いつみても元気になります
 エッジ歩いてまっせ~~


 僕も、自分なりのエッジを歩いていきたいなーと思う。
 すごいことをやるんじゃなくて、身近なレベルで自分のエッジを超えていくって感覚が大事かも。
 



 
2012. 04. 10  
 肉体を光の体に変えて、昇天するいわゆるアセンションをした存在としてはイエス・キリストやインドのババジが有名だ。これは言い換えると、肉体を死なない体に変容させたということになる。

 これはある意味究極の超能力だと思うけど、こっち系の世界に深入りしてる人以外では、ほとんどまともには考えられていない現象だと思う。その理由のひとつには、イエスやババジは大昔に生きていた伝説上の人物に過ぎずその伝説内のエピソードをとても現実とは思えないということもあるだろう。

 しかし、比較的近代、19世紀半ばにもアセンションしたと思われる聖者が存在する。

 その名はラーマリンガと言い、1823年10月5日に南インドの村で生まれた。
 幼いころから神童ぶりを発揮し、父母に踊るシヴァ神ナタラージャを祀る寺院にお清めに連れて行かれたとき、ナタラージャ像の前で突然大声で笑い出し、あたりには神のエネルギーがみなぎった。

 寺院の僧は駆け寄ってラーマリンガを抱きしめると、その子が神の子であることを宣言した。
 ラーマリンガは5歳の時に次のような詩を書いたという。

 「おお神よ、なんという不思議か。あなたはすべての知恵を私にさずけ、あなたへの熱烈な愛を教えてくれた。あなたはまた、この世のすべてが蜃気楼に過ぎないことを確信させてくれた。おお慈悲深い方よ、あなたは私の内にあり、その恩寵を惜しみなく与えてくれる。あなたは自らを降下させて私の霊的な師となり、この取るに足らない私を祝福し、物乞いをする道に追いやることなく、必要以上のものを与えてくれた
                                       恩寵の聖歌より

 この「恩寵の聖歌」にはラーマリンガが神と合一し、金色に輝く「愛の体」を得た時の恍惚も記されている。

 「風、土、空、火、水、太陽、月、死、病、殺人兵器、惑星、邪な行為による害悪、あるいは他のあらゆる事柄の影響をも永遠に受けない光り輝く体を私は望んだ。神は私の祈りを聞き入れてくれ、私はその体を得た。これを普通の授かりものと考えてはならない。ああ人々よ、生身の肉体さえ不滅のからだに変える、至福の輝きの主にして我が父なる神に庇護を求めよ

 このライトボディは普通の肉体の周波数と異なる速度で振動しているようで、彼を写真に撮ろうとすると8回試みても彼の衣服が映るだけで、体のどの部分も映らなかったという。また彼には影ができず、その光り輝く頭部と体を白布で覆っていた。

 彼のアセンションは1874年1月に起こった。
 50才のラーマリンガは帰依者に声明を発表した。

 「親愛なるみなさん、私はしばしの間みなさんの前から姿を消さねばならない。案じることはない。ランプの光を永遠に灯し続けてください。神がそこにおられることを思い描いて光を崇めなさい。あなた方は十分に報われるであろう。私は今この肉体の中にあるが、ほどなくして神のすべての被造物の中に入るであろう。私の部屋の扉を閉めて外から鍵をかけなさい。指示されて扉を開けた時には、室内は空であろう

 その夜帰依者たちがラーマリンガの部屋の前で「至高の恩寵の光よ 至高の恩寵の光よ 我らの上に降りたまえ 至高の恩寵の光よ」と唱え続けていると、突然紫色の閃光が部屋から輝いた。扉が開けられると室内は彼の予言通り空で、そのままラーマリンガは忽然と姿を消した。

 数日後インド植民省の英国役人たちが、警察からの報告を受けて調査にやって来た。
 村人たちはみな悲嘆にくれていた。役人たちはラーマリンガの小屋を詳細に調査したのち、「ラーマリンガは実際に偉大な人物で、空中に姿をけしたのだ」という結論をくだした。

 1878年に発行された南アルコット地区の便覧の中で、徴税官のJ・H・ガースティンはラーマリンガの蒸発について次のように述べている。「1874年、ラーマリンガ・スワミはメットゥクッパムの自室に入り、外から鍵をかけるように彼の帰依者に指示した。以後、彼はまったく外出しなかった。弟子たちは彼が神と融合したと信じている」

 ラーマリンガはどうすれば肉体がこのような変容を遂げるのかについて、次のような指針を残している。

 この原則にはふたつの重要な側面がある。それは「すべての生命を敬うこと」と「献身的な黙想をすること」である。このうちラーマリンガは前者を重視し、もしこれを修得すれば神の恩寵はたやすく得られるだろうとしている。神はあらゆる生き物のうちにあり、あらゆる生き物は神のうちにある。人は万物への慈悲心を培うことで普遍的な霊と交感して、その愛を得ることができる。恩寵とは神の慈悲である。そして思いやりの心とは、人の魂の慈悲のあらわれである。

 ラーマリンガは光の原則のもうひとつの側面である、「献身的な黙想」すなわち、神への熱き献身が深まることの必要性を説いている。この場合、神を絶えず想い続けたり、神の恩寵を求めて熱心に祈ることが鍵となる。


 何か特殊な瞑想法とかではないのだ。一見よくある指針に思えるが、この「よくある感じ」とアセンションというありえない現象のギャップはあとからまた考察したい。

 僕はラーマリンガに以前から関心がある。彼の生命を敬うという教えと、そしてすべての被造物の中に行く、という言葉にとても深い存在への愛を感じるからだ。
 そしてアセンション、肉体の変容は伝説ではなく、実際にある!・・・かも?と思い始めたのは、このラーマリンガの記録を読んでからだった。
 
 そしてこれを読んで「ひふみ神示」の「半霊半物質の世となる」「水爆にも負けんからだにならんといかん」といった肉体の変容を暗示している文がリアリティを持ってきたのだ。今までに、ラーマリンガのような例が記録に残ってないだけである程度の件数あるのかもしれない。ラーマリンガはたまたまグル的立場であったが、人知れず山奥で生きていたり、見た目まったく普通に振舞っていたら、アセンションしてしまっても誰もわからないということはあり得る。

 さてここでアセンションという現象に関して、もうひとつパズルのピースを持ってくる。
 昨日まで再読していたラムサの「I AM Ramusa(邦題 ラムサ 真・聖なる預言)」だ。 
 JZナイトという女性によってチャネリングされたラムサは自分を、遠い昔に肉体を光の体に変えて、昇華(アセンション)した存在と語る。

 ラムサは、アセンションが脳が100%機能した時に起こる現象だと語る
彼によるとそれは次のような仕組みで起こる。
 ラムサによるとすべては思考による。だが、この思考というのはよく悪もの扱いされる「マインド」だけではなく、言語化が難しい微細で高波動の「印象」も含んでいるように思う。
 これを読むと、なぜ多くのマスターが神を想うことを推奨するのか、そしてなぜその延長上に肉体の変容といったことまで起こりうるのかとういうことへの一応の説明はつく。それは脳内に、あるいは身体全体に高い振動を供給するためなのだ。


 自分を本当に愛し、自分は神をそのまま受け入れるに値するのだと感じられるとき、そして自分が父とひとつであることを知りたいと望む時、あなたは一輪の素晴らし花として咲き始める。それが、脳の能力を解放し、神の心にあるすべての思考の価値観を受け取る道なのだ。知りたいと願うこと、その「知っている状態」で感じるすべての感情を感じたいと望むことによってである。

 どんな望みでもそれをかなえる一番の方法はなんだろうか。あなたの存在の主=神からそれを語ることだ。あなたの存在の主とは魂のことだが、それは感情体系を用いて体を司っている。ホルモンの流れを分泌するよう脳下垂体に指示が出るのは魂からなのだ。あなたの存在のうちの神とは、あなたであるすべてを内包し、すべての想念が存在のうちに入ることを許す光だ。あなたの存在とは、物質の現実を身体という形を通して体験している自我のことだ。それが価値判断をもたらし、想念の純粋性、あるいは「在るということ」を変容させる。「変性自我」という言葉は、ここから来ている。したがって、自分の存在の主=神から何かを語るとき、あなたは自分の総体のバランスをもたらしているのであり、これこそが、自分の好きなものを具現化し、創造していく偉大なる力をあなたに与えるのである。

 限りない思考を受け取りたいと、自分の存在の主=神のレベルから望むとき、その望みが満たされるという想念は、魂のうちで感じられ、身体に投影されて表出し、脳下垂体を刺激するため、それが開き始める。脳下垂体が開くと、松果体を通るホルモンの流れが増え、眠っている心を目覚めさせるのだ。脳の別の部分を開放し、レベルの高い、より高度な思考の波動を全身で体験することを可能にするのである。

 レベルの高い波動の想念が入ってくると、それは脳の目覚めている部分を通るように導かれる。後頭部にある松果体が、この高い波動を受け取り、肥大し始める。このため、頭痛を起こしたり、少しめまいがしたり、なんとなく頭が軽くなったような感じを与えることがある。この波動は、次に強力な電流へと変換され、中枢神経を通って、あなたの身体の一つ一つの細胞へと送られる。これが体中しびれるような感じや、ぴりぴりしたり、持ち上げられるような感じを起こす。その波動は細胞ひとつひとつを刺激し、その振動する速度を高める。限界のない想念を受け取るほど、身体はさらに大きく振動し、あなたはだんだん光を発するようになってくる。それはあなたが身体を個体の密度から光へと逆行させ始めたからなのだ。

 限界のない思考がもたらす感じをあなたはどう説明するだろうか。それは無理なことだ。ある限りない想念を知っている状態をうまく現す言葉はない。それは新しい思考の体験であり、新しい感情、そして深遠ながらも静かな形で自分を動かす、計り知れないほどのフィーリングを体験することなのである。知っている状態というものは、ある純粋なフィーリング、なんの前触れもなく、それとわからぬような形で、名前さえない感情としてあなたのもとにやってくる。

 覚醒を目指す人のほとんどはそれが言葉という形でやってくると思っている。だが、もしもいま感じていることを言葉で表現できるなら、それはもうすでに過去に感じたことがあるものだ。それができないなら、ただ感じているだけなら、それこそが神髄であり、輝きであり、限りない思考だ。これまであなたが理解したいと思ってきたことは、どれも言葉を持たない。感情とヴィジョンがあるのみだ。そして知識が自分のもとにやってくる時、あなたは感情溢れて言葉を失ってしまうことだろう。

 思考を限定する技は、それに言葉をつけてやることにある。本当の師は何も説明しない。ただ知っているだけだ。説明するということは、自分を限定しなければならないことを意味している。大事な点にくればあなたはただ単に知っているのであり、知っている状態を正当化したり、説明したりする必要はないのだ。そうすれば、あなたはまさに自分の世界の主となる。絶対的な「知っている状態」にあるのだ。

 脳下垂体が開花し始めるにつれて、これまではとても可能だとは思えなかったような形で、人生が変わってくる。考えることはすべて、深い感情とともに感じられるようになる。自分の内面にある「知っている状態」が創造的な形態へと変容するにつれて、想念がどんどん早く具象化するのを目にするようになってくる。愛、理解、そして慈しみの心が強くなる。そして、ある人々は自分の人生から消えていく。それはあなたが違うレベルの叡智に到達したからだ。だが、そのかわりに似かよった考え方の人たちが自分のもとに引き寄せられるようになる。

 限りなくあることを望めば望むほど、そしてそこからやってくる想念を抱き、感じれば感じるほど、脳下垂体はさらに多くのホルモンを分泌し、その口状部は広がっていく。自分をそのまま愛したい、そして「知っている状態」で生きたいと望むほどに、あなたの存在を包む神によって脳がどんどん開かれていくのである。さらに大きく開いていくのだ。するとあなたは自分の身体以上の存在となる。自分をひとつにしているもの、そのものになるのである。

 脳がすべて活動すると、現実の中に占めるあなたの位置が定かでなくなってくる。そのため、この場所にいても、同時に第七のレベルにいることもできるようになる。第七のレベルにいながら、プレアデス星にいることもできる。プレアデス星にいながらも、友の側にいることもできるのだ。

 脳下垂体が満開となると、あなたはもはや死ぬことはない。老いることもない。身体はあなたが命じるとおりのことをするようになる。身体に振動の速度を上げるように命じれば、それは別の次元に上がっていく。ことほどさように、あなたの脳は強力なのだ。身体を死んだ状態からよみがえらせることさえできる。そこまでの力を持ったとき、あなたは神の神聖なる王冠を身につけているのと同じだ。純粋な神となる時、それは純粋な生命ということだが、あなたは永遠の存在となる。これこそもっとも壮大な天国である。

 偉大なる第七のチャクラは王冠をいただき、あなたの精神のすべては目覚め、完璧な「知っている状態」が、あなたのすばらしいレシーバーを通し、大挙して内面にはいってこれるようになる。多くを知るほどに、そして身体がその波動を体験するほどに、身体は速く振動し、どんどん軽くなっていく。そしてある日、あなたが愛し、心に抱いてきた全ての生、それに自分の魂が、ここでの体験を終える時、その「知っている状態」、その振動が、波動をさらに100万倍も加速し、身体は見えない状態へとはいって、この次元から離れていく。あなたは生から生へという繰り返しの輪を抜け出したのだ。



 さて、かなり長い引用になってしまったけど、要点はシンプルだ。
 より限りない思考・印象・感情を抱くほど、それが脳のいわゆる「ナイトヘッド」、眠っている部分を覚醒させ、身体の細胞にも高いエネルギーを送り、振動を高速化していくということである。

 低い波動というのは限界ある想念、二元性にとらわれた意識であり、足りないという想念、愛や豊かさや能力がないという想念、わかたれているという想念、人や自分を裁く審判の意識などがある。これらの振動は逆に、肉体の振動数を低下させるという。

 極端に言えば一方の極みには 覚醒と 愛と知恵 よろこび と不死が

 そしてもう一方の極みには 眠りと無知 恐怖と、衰弱と死がある
   
 ここで神を想うということの謎がひとつ解ける。

 それは完全、限りない、という想念なのである。
 神というのはただの言葉だが それをさらに詳しく見ると
 
 無限 不滅 ただ在るもの 絶対の愛 知恵 すべて 生命 存在するすべての存在

 といったようなとにかくスケールの大きい、限界のないものとなる。
 その完全さをこころに抱き、受け入れることが、自分自身が神なるものへと近づくことになるからだ。

 もしも神を拒否し、二元的な意識にだけ捕らわれれば、そこに進化はないのは明らかだ。
 これは神を受け入れねば裁かれるとかそういったことではない、『無限』を、『最高のよろこび』という想念を拒否すれば、そこにはなかなか至れないという当たり前の事実に過ぎない。

 二元性に基づいた有限と分断の思考も 無限の思考もそのどちらも神の内面にあり、経験のためにある。
 古来聖者が教えていることとは、幸せになりたいなら、よろこびに向かったほうがいいですよ、無限を受け入れたほうが得ですよということに過ぎ無いのではないかと思う。神へと至る脳は誰にでも平等に、その暗闇の中に眠っているだろうからだ。

 それはシバという言葉を使う必要もないし、観音様や、アマテラスや、アッラーや、イエスや、その他いろいろのマスターの名前を呼ぶ必要も本来はないのではないかと僕は思う。要はぼくらのいだく想念がどれくらい限りなく、どれくらい自由で、どれくらい愛なのかというそのことだけではないだろか。
 マスターや神の名は、僕らの『無限』を触発するために助けになることがあるが、エッセンスではない。
 エッセンスとは「限りなさ」、「永遠」、「なんでもあり」、「全部OK」、「ただある事」なのではないかと思う。いつか今ある宗教は消えていく。そして宗教的な形態というのも消滅していく。
 そしてそのエッセンスだけが残るはずだ。

 ラーマリンガは19世紀にアセンションした存在だった。
 しかし記録に残っていないだけで、この100年の間にもいくらかいたのかもしれない。
 それがキリスト圏なら聖人、仏教圏なら生き仏様、ヒンドゥー圏ならシバやヴィシュヌの化身となってしまうが、もしかするとそれらの宗教圏に属さないどこかの片田舎や都市の一室で、十字架も仏壇も神棚もない部屋で淡々とアセンションした存在がいなかったとも言い切れない。
 彼がまったく無宗教だった可能性もあるだろう。しかし、その意識は非常に抽象的で「無限」であるとか「光」であるとかいった巨大な想念を受けいれていた可能性は高い。
 彼にインタビューすると

 「うーん、そうですね。すべての存在の源である無限の光に意識を向けると、いろいろな想念が入ってきますから、そのなかから一番素晴らしいものをもらってると、なんかこうなってしまったんですよねー 結局有限の認識形態から無限の認識形態にシフトしてとどまればいい話なんです

 とかしか言わないかもしれない。

 もしかするとそれが宗教を持たないけどアセンションする「現代人」に今後あり得ることなんじゃないかと思う。



2012. 04. 09  
haitakadori

RT @keijimoriiVet: タミル人の聖者ラーマリンガは人が至高の存在へと変容していく様子を5818の歌、6万節の詩として綴り、後世に残しています。第一段階での変容(悟り)への秘訣は、「すべての生物に敬意を払うこと」と「献身的な祈りと瞑想」。
04-08 17:57

2012. 04. 08  

 新しい部屋の窓が東向きで、毎朝太陽が差し込んでくる。

 窓を開けると小さな庭になっていて、それほど手入れがされてる感じでもないけど、野草の花が何種類か咲いてる。名前はわからないけど。

 朝起きると、そこに出て仙道の気功法のようなものをすることが習慣になってきた。

 太陽に手をかざすようなポーズをするんだけど、毎日やってるとエネルギーが入ってくる?気の流れが変わる?なんかそういう感覚がはっきりわかるようになってきた。気持ち良いその状態になると同時に意識も変わっていく。

 一体感と言うんだろうか。座って瞑想しているだけでは僕の場合なかなか感じられない、周りとの融和感覚をよく感じる。その瞬間、個人的な想念を今は越えてるという感覚がすごくする。左脳から右脳中心の意識状態に一時的になってるだけかもしれないけど、なんかものすごく通常の思考がガラクタ的に思える。太陽の光を感じ、周りの世界と溶けていると、いつも考えてることが本当にどうでもよいと思える。

 ある日、なんかその状態にならないなー今日はこんなもんかなと思ってると、足の角度が違うことに気づいた。角度を修正して手をかざすと、いつものようにじわーっとはいってきた。角度によってこんな違うとは思わなかった。


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 今日は天気が良かったので、気功法のあとパイプ椅子を庭に出して、コーヒーを飲みながら読書した。

 前読んだ「ラムサ」の本を、もう一回読み返してる。

 「木は死や老いを知らない。だからあなたよりも智慧にあふれている」そんなセリフがどこかにあった。

 「その通りだ。お前達だけがそれを知っているが故に、死ぬのもお前たちだけなのだ。この木はそれを知らない。この木が知っているのは生きること、光に向かって伸びることだけだ。この木はその理解において破壊という思考を持たない。だからこの木はとても知的なのだ

 「夜と霧」の中でアウシュビッツのユダヤ人に一本の木が語りかけた。

  「私はここにいる 私はここにいる 私は永遠の命だ


 僕は老いも死もあるいは、家賃の支払いも、未来の心配も、時間も知っている。

 例えば今日は、4月8日。日曜日。2012年。
 今週は○回仕事にいかないとならない。

 木はそんなことも何も知らない。

 感情らしきものがあると何かの実験で証明されたとか聞くけど、それは人の感情とは大きく違うだろう。
 彼らが知らないということ、それが彼らの歓びの理由であり、人が自然に癒される原因でもあるのかもしれない。「知らない」ためにより純粋なよろこびを知ってる、子供たちを見る時のように。

 そう考えると、もしかすると草も、石も、蝶も、破壊を知らない命そのもののエクスタシーの中にあり、人だけが限界を知りすぎた故に、わかたれているという夢の中に生きているのかもしれない。

 人は多くの出来事や、喜怒哀楽、学校や、恋愛や、家庭と仕事

 人との出会いと別れの中で織り成されよろこびと迷いのドラマの連続を人生と呼ぶ。



 その背後で、それらすべてを無言で支え、人を生かしている存在がある。

 それは自然、生命の力であり、ラムサが「ただ在るもの、在り続けるもの」と述べた存在に近い。
 そして二元的な思考以前に生きる「知らない」ものたち、それゆえに死を知らない知的なものたちだ。

 太陽の光
 あたたかさ
 ただ在り続ける木や草
 風に吹かれる蝶のしなやかさ

 それは毎朝昇る太陽としてあり
 毎晩食卓に供される白いご飯や魚たちとしてあり
 毎瞬僕らが呼吸する大気としてあった。

 僕らの背後にはそれら巨大な命のふるさとが広がっている
 目先のことに翻弄されて、人生と呼ばれるドラマを生きているが
 振り返るとそこにはただあり続ける命がある。
 僕らを生かし続ける無知と知とよろこびがある。

 僕らをだいている命のふるさとに比べれば、摩天楼も、株式市場も、僕らが自分で覗いている丸めた紙の筒の向こうに見える狭い狭いトンネルビジョンに過ぎない。

 その丸めた紙の筒の向こうに見えるせわしい世界だけが生だと思い込んだ、僕ら人間たち

 でもその瞬間にも、小利口なことを何も知らない喜びによって生かされていた。

 その巨大な愛を ただあり続ける命の無知と知を、はっきりと思い出す時かも。 



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遠藤彰子さん画 空掠める翼






2012. 04. 08  
haitakadori

RT @furunosawako: 「人生の前半は親に、後半は子供によって台無しにされる」ということですが、私が中学生のころ(20数年前)原発事故が起こったときに北半球にいたらだめだと判断しNZに移住しようとした両親の行動を嫌がった私。なのでその話はなしになったけどあれは ...
04-07 19:49

2012. 04. 07  

 今までの意図と思考を越えてゆけ。

 意図=日常の意識のフォーカスポイント、こだわり

 フォーカスポイントをずらす、変容させる、崩壊させる

 日常の環境、住環境、職環境、が変わること、旅行、いつもと違う生活パターンをせざるを得なくなること、人間関係の変化

 などが起こると、それまでのフォーカスを維持できなくなり、古いパターンが崩壊することがある

 長期の隔離、断食、死と再生のイニシエーションなどは、より根本的にパターンを崩壊させ、一人の人間であった自己の概念パターンを破壊するほどに追い詰めることでシャーマンを誕生させるためにある。

 「意識」は、ある創造の力を使用して、僕らの目の前に展開する日常の風景を創造し続けている。
 一見、いつもの当たり前の風景に見えても、そこには膨大な量の創造の力が使われている。
 それを投影しているのが、意識の底に存在する「ドリームメイカー」である。
 「ドリームメーカー」は起きている時の夢と、眠っている時の夢を編み続け、その「創造の力」を空性と一体となることで補給し、また再起動する。 

 ゼロの中のドリームメーカー、それは本来の『私』でもある。

 自我意識は、いつも自分の現実を創造している力が神聖な源より来ていることを理解しない。
 りんごがりんごに見え、コーヒーカップがコーヒーカップと認識されるという奇跡が、理解されない。
 その概念的・言語的認識にも膨大な量の心的エネルギーが使われており、それ自体がひとつの束縛であると同時に創造行為なのだ。

 この創造行為に使われていたエネルギーがみな解けると、そこには神しか認識されないという。

 よく酒、タバコ、甘いものなどを断って願掛けするという風習があるが、これは飲酒や喫煙をするというパターンの創造に使われていた創造エネルギーを回収することで、それを新たな現実の創造に使おうとするものかもしれない。実際、あるパターンを崩壊させると、そのパターン形成に使われていたエネルギーは自分に戻り、また新たなパターンを形成することに使えるようになる。

 つまり「断つ」「捨てる」ということは意識的にパターンを崩壊させるということだ。

 古いフォーカスを崩壊させる用意ができてないと、新たな現実は生まれない。
 
 すべてのフォーカスを、神への意識へと転換させるということが、神に捧げるということだ。

 ものを神に捧げるのは それ自体が神だということを思い出すために過ぎない

 すべてのこだわり、すべての不安、すべての執着も、すべて神という創造エネルギーの大元がなければ存在しない。すべての現実認識は、それがどんな不幸なものも、どんな幸福なものも神という原初の創造エネルギーの変質形なのだ。だから、それを神へと返し続ける、還元し続ける努力が意味を持つ。

 すべての行為を すべての想いを すべての願いを すべての恐怖さえも 
 すべてを神として見ることが、創造エネルギーの還元だ。

 マーヤとは、創造力だ
 神がなければ、マーヤもない
 マーヤが生まれると神は見えなくなるというが
 その結果そこにはマーヤという創造物があり それは神の変装であり存在証明なのだ。
 マーヤとは神の別名であり、神自体でもある

 




2012. 04. 06  
haitakadori

どれだけのネガとポジを受けいれられる用意があるか?それも僕の頭の中で価値付けしたネガとポジに過ぎない。大ネガと見えることもよく見ればただのきっかけに過ぎないこともあるねー
04-05 00:33

2012. 04. 05  
haitakadori

今日は、あんぱんの日かつ、オカマの日らしい。ひな祭りと、子供の日の中間にあるかららしい。1992年には性の多様性を認めるトランスジェンダーの日とされたとか。「男と女」だけではとらえきれない性の多様性について、広く社会的な理解を深める日。http://t.co/gZXqLhj2
04-04 23:24

変化を拒否するマインド。いつもどおりの一日を望む心。変化を受け入れる力。
04-04 23:14

今までの意図(フォーカス)と思考を越えてゆけ。
04-04 23:10

RT @furunosawako: イタリアのコミュニティ「ダマヌール」のバーチャルツアーhttp://t.co/6Gm783q2ここではタイムマシンや物質をテレポートさせる研究もされててすでに実用化されてるそうです。シンクロニック・ラインというエネルギーラインが4本交錯 ...
04-04 22:50

2012. 04. 04  
haitakadori

春の嵐なんて可愛いもんじゃない。普通に台風よりすごい。台風は事前に騒がれるけど、低気圧でいきなりこんななるて誰も思うてないやろ・・・気候がカオス化している。停電なったらベッドに潜って寝るしかないなあ
04-03 18:51

現在一万件超停電やてhttp://t.co/quKpKLCk
04-03 18:46

2012. 04. 03  
haitakadori

仕事先の人が、外出中みたことのないとても珍しい犬を見つけたので思わず飼い主に犬種を尋ねた。すると「プードルの毛が抜けたやつです。病気で・・」という答えが返ってきて、今後むやみに犬種を尋ねるのはやめようと思ったらしい。
04-02 20:25

「なんか面白いことない?」と聞かれると、妙にイラっとする。
04-02 20:14

にんじんと、キャベツと、玉ねぎを刻み、フライパンに卵を落としスクランブル風にかき混ぜながら野菜と炒め、塩コショウした。出来上がったものに塩ごまドレッシングをかけて食べると、不味くはないがうまくもなかった。( `・ω・) ウーム…改良の余地
04-02 20:08

2012. 04. 02  
haitakadori

タナトスの過剰は人類を滅ぼすけど、エロスの過剰では少なくともそれはないなとか思った次第。ベッドから平和を訴えたジョンとヨーコのパフォーマンスも昔になりけりな2012年。
04-01 23:42

仕事で川崎のかなまら祭りに行ってきた。おちんちんの神輿が練り歩く異空間の祭りだ。来てるの半分以上外人じゃないかと思うほど、外国人が多い。みんな珍子型の飴を舐めながら楽しそうに歩いていた。「みんなあれ(珍子神輿)を必死でで撮ろうとしてるのがおかしい」と若い娘らが笑ってた。
04-01 23:34

2012. 04. 01  
やりたいことも、興味のあることも特にない
 あるいはそれがわからないという状態も受け入れ祝福しよう。

 神であるという認識とともに

 特に何も特別なことはない
 普通な平凡な人間であるという認識も受け入れよう

 人より知的でなくても、感性や、オリジナリティ、創造性豊かでなくともよい

 何も知らなくてもいい

 優しくなくてもいい

 何も持たざるものであるという
 そのありのままを受け入れ いつくしみたい

 ただのダラッとしたやつでもいい
 もしも
 嘘つきで
 エロくて
 臆病で
 なまけものでも まあいいやない

 生命であることの喜びとともにあるには

 そのあらわれかたにとらわれないことがキーなんだ

 持たざるもの
 
 それはお金や地位や車だとか いわゆる物質的と言われるものだけじゃない。
 そういうものよりももう僕らのエゴは精神性にとらわれる段階に来ている。

 情報や知性や感性品性癒し性モラルや正直ささえも

 それが「ない」ことをいつくしみ 受け入れ 祝福できるということ
 それが「ない」自分を恐れないこと それが「ない」時も僕らにはあった
 でもその時も僕らは生命として 生きていた
 その過去の自分を未来の僕が否定しない 

 「心貧しきものは幸いである 天国はあなたのものである」

 心貧しきことも愛せること

 それが、豊かさ なのだ。


 なんくるないさあ~~

 すべて僕の言うこと考えることは デタラメなんだ

 そのデタラメを守るために 僕は真剣に怒る
 そのデタラメを守るために人と争う 

 本当におもしろい
 僕はそんな自分をもっと好きになりたい

 今日僕が笑ったのは茹でたまごの殻をうまくむこうとクソ真面目になってる僕自身だった
 なんでも真剣になれるし、なににでもイライラできる♪
 すごい

僕はイライラするのがとっても得意だ
 僕は悲観的になるのがとっても得意だ
 僕は暗い気持ちになることがとっても得意だ
 僕はきずつくことがとっても得意だ


 豊かさとは、どれだけの豊かさと、そしてどれだけの貧しさを愛せるかというその幅だ
 緑の園だけではなく 砂漠も 荒野も 存在するひとつの惑星のような
 そしてこれだけの豊かさと これだけの貧しさしか愛せない自分を愛せる

 その深さだ 
 
 それもまたかけがえのない「無限界」から現れた「限界」だ

 そして

 本当の自分は 特定の思考・情報パターンに固執するほど見えなくなる
 
 つまり、なんでもありなわけだ
 つまり、どうでもいいわけだ

 太陽が神だろうが核融合だろうが、運命があろうがなかろうが、それが変えられようが変えられまいが、9・11は陰謀だろがテロだろうが、世界に黒幕はいようがいまいが、明日大地が揺れようが揺れまいが

 僕はこの何もない空間で笑うことができるんだから。






2012. 04. 01  
haitakadori

このツイートを見てるだれかさんと、kotori_358さんがごはんたべたいそうです。ごはんたべたい同士になりませんか? http://t.co/3VZJpYZ6 #gohantabeyo
03-31 08:38

プロフィール

はいたか鳥

  • Author:はいたか鳥
  •  Only in silence the word,
     only in dark the light,
     only in dying life :
     bright the hawk's flight on the empty sky


     ことばは沈黙に
    光は闇に
    生は死の中にこそあるものなれ
    飛翔せるタカの
    虚空にこそ輝けるごとくに

    ゲド戦記 エアの創造より


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