haitakadori
RT @BiggyNeptune: 報道ステーションで、総理官邸前のデモのニュース。「労組の旗とかがない。生粋の市民のデモ。感慨深い!」と鳥越氏が感想を述べた。デモの後ろにはさらに数百倍の市民の支持があることを甘く見ない方がいいよ。政府&自民・公明の皆さん。
06-29 23:17RT @hosshyan: 自分が決断する時何でも、最終的には、"生理的に" とか、"何も確信ないけど勘で" とかやん。どんだけ情報があっても、どんだけ確信が無くても、最後の決断は"人間に僅かに残ってる自覚の無い動物の本能"。本能がありきで理論がある。それが正解。人間も動 ...
06-29 23:16RT @fuguri_tamazo: もう始まっているようです。ここでLive動画見れます。人がたくさんですね。http://t.co/TwR3dxi3
06-29 20:03
haitakadori
RT @kikko_no_blog: 【拡散】明日6月29日の官邸前抗議の様子を、広瀬隆さんがヘリをチャーターして「どれほど多くの人たちが抗議しているか」を上空から取材してくださることになりました。この行動に賛同する人はヘリのチャーター料金のカンパにご協力を!→ http ...
06-28 19:22
其の6 熱気に揺れるエローラ

マンマッド 2006年 3月17日
ガヤーから、マンマッドまで二等寝台の旅。
狭苦しい空間の中で、体を丸めて寝たり起きたりしている間に時間の感覚も希薄になり、いつのまにやらマンマッド駅に到着していた。時刻は朝の6時。モハメドさんに見送られてガヤーをたってから、24時間以上が経過している。だが、マンマッドはあくまでも乗り継ぎの駅でしかない、次の目的地は、エローラやアジャンタ遺跡観光の拠点となる街オーランガバードなのだ。オーランガバード行きの列車は、午前9時50分にくるので、それまで4時間ほどここで時間を潰す必要がある。が、観光情報やマップもなくそれほど駅から離れる訳にもいかないので、24時間の乗車で固まったからだをほぐす散歩程度にとどめておいた。
食事は、プラットホームで売っていた揚げパンのようなスナックを3個10ルピー(27円くらい)で買って食べた。でも微妙な味でお腹は減ってるけど全部食べる気がしない。物乞いの子供や、おばあさんがホームで待つ僕のところへもやってきて口に食べ物を運ぶ仕草をするので、僕はこの微妙な揚げパンを差し出すのだが受け取ろうとはしない。ルピーじゃないとダメなのか。彼らもこの揚げパンは好きではないのか・・
汽車は定刻通りにマンマッドに到着し、2時間ほどの乗車のあと僕はオーランガバードへ到着した。
それから24時間の列車の旅の間「ちきうの歩き方」を見てきめておいた「Maya hotel」という宿へ、駅前のリクシャワーラーたちを突っ切り歩いてたどり着いた。 幸い部屋もあいており、一泊300ルピー程度の自分で決めた宿に、やっと宿泊することが出来た。インドへ来て13日目・・・。今までひたすら振り回されて、成り行きまかせだったので自分の思い通りになったことが妙にうれしい。
ベッドに横になってくつろぎながら思う。
なかなか300にしてはいい部屋だ。
喉が昨日の朝、ブッダガヤー滞在中からちょっとイガイガしていた。
変な風邪じゃないといいな。せっかくよううやくブッダガヤー滞在中に胃腸の調子が普通に戻ったんだから。
いちいち経過報告は省いていたがアグラーではじまり10日近く、腹痛と下痢が続いていたのだった。
僕はベッドでくつろぎながら、またパイプを取り出すと、黒い塊に火をつけて、何回か大きく吸い込んだ。
喉によくはないと思いつつ、やってしまう。
どうもリラックスするためにこいつに頼る習慣がついてしまったようだ。
なにしろ、これを使うと、まったく見知らぬ異国でも、そういうことが問題でなくなり無条件でリラックスすることができるのだ。日本でさえ不安神経症気味の僕にとって、これはインドの旅を心地よくする非常に貴重なものだった。例えて言うなら、僕は母親に抱かれたインド人の子供になり、彼がどこへ行こうとも母の胸に抱かれていれば不安を感じないであろうように、黒い塊を吸い込めば僕もこの初めてのホテルの一室を一種の安心できる母胎と化すことができたのである。
そして僕は、少し危ないことをも考え始めた。
これ・・・・こんな小さい塊なんて、日本に持って帰っても絶対バレないだろうよ、と言う・・・。
そして・・・・
(/ω\)ん~なんか熱っぽいな・・・・
(-_-;)ヤバ これ結構ヘビーな風邪かも
(@_@;) んあー はあ はあ はあ・・・
バタッ☆⌒(>。≪)
こ・これは、風邪だ しかも結構熱ある気するし・・・
なんだ感染症? 鳥インフル? まさか・・・ ああ、だるいキツイ・・・
ベッドでひたすら寝てるしかない。
効くのか必要なのかもわからぬまま、気休めに日本から持ってきた抗生物質を僕はぱくぱく飲んだ。(細菌に対するものなので、普通の風邪やウィルス性の病気には無効)
ああ・・・明日もし悪化してたら、ホテルの人に頼んで病院を紹介してもらおう・・・。
オーランガバード Maya hotel 2006年 3月19日
抗生物質がきいたのかはわからないが、体調は回復に向かってるようだ。
一時は悪いことばかり考え、医者を呼んでもらおうかと思ったけど。ブッダガヤでもあまりゆっくりできなかったし、24時間列車に乗りっパだったりで疲れが出たのかも。変な病気だったらどうしようかと思ったが、この調子ならムンバイにたつ前にオーランガバード周辺で観光もできるだろう。ムンバイではいけたらエレファンタ島い行きたい。というか海の気に触れたいだけなのかもわからん。船に乗って・・・。
2006年 3月20日
朝、ぴくりとも動かない天井のファン。
(また停電だ)
汗をじっとりかいて目が覚める。
体に力が入らず、頭もぼーっとする。
今日も一日部屋で休んでいようかな。
3月21日朝
不思議な夢を見る
レストラン
混み合っているが、そこで相席するとそれだけで一種の家族とみなされる
僕の席は「9」という数字の席だ
そこにはもうすでに1組の夫婦が座っている
傍らには「100年の樹」というタイトルのCDが置かれている
あたたかさと こまやかな感性に満ちた世界
僕はそこが自分の席であり彼らと相席すると知っていたが、そこに行くのが恥ずかしく、気後れして、わざとウェイターに自分の席を尋ねたりした。ウェイターに案内され席に戻った時には、彼ら夫婦はもう席からたったあとだった。
今日はからだをならすために、丸一日ぶりに外出する。
「歩き方」に載ってた、オーランガバード駅近くの小さなレストランへ行く。
看板にシルディ・サイババの絵が描かれて、店の中にもサイババの絵。

汗がだらだら流れるような暑さだ。
店主とサイババの話しがしてみたかったが、英語が思い浮かばない。
チキンカレーおいしかった。
外の物売りからオレンジを3つほど買って、ホテルへ帰る。
ベッドに横たわりうとうとするも、蒸し暑さにすぐ目覚める・・・
それにしてもオーランガバードだけではないが、インドの大都市は空気が東京よりも汚い。
ここは、かなり欧米化された街だ。
道端に子供が座っていたり、牛がのうのうとしていたりインド的風情もあるがファーストフード店やファッション関係の店など、欧米的な店舗が軒を連ねる場所もある。
そのうちマックとかケンタッキーも出来始めるのだろうか。
しかしインドにはきっと100年後もいまと同じような暮らしをしている場所がありそうだ。
3月21日 21:00pm
ホテルの屋上にあがってみる
星空と飛び交うこうもりたち
神様なんて・・・人間が作った概念じゃないのか
この星空を覆い尽くす言葉はどこにもない
頭上に広がる星空に驚きつつも、体力が回復しつつある僕は、この旅全体に対していくらかネガティブな思いに囚われていた。あと4日ほどで、僕はこの旅を終えて日本に帰る。結局これはなんだったんだろう。前半は下痢と腹痛にやられ、後半は風邪にやられるような旅・・・。貯金を崩してインドくんだりまでやってきて何かを僕は得たんだろうか。いったい、これら全部にどんな意味があると言うんだろうか。
僕はインドに来る前にやったように、これらの答えを求めつつ、眠りに入る自分の意識を観察することにした。
そうするとまどろみかけた意識のそこから何か思わぬ答えが返ってくることがあるのだった。
その時見えたのは、「階段」、ステップだった。
それもまだ頂上にはたどり着いてはいない。
登りかけの階段だった。
階段。
この旅は、では、なにか別の物事へとつながるワンステップに過ぎないということなのだろうか。
インドという神秘的な国への旅。その中でなにか奇跡的な出来事や、出会い、驚くような変容を少しも期待していなかったと言えば嘘になる。だが、今回の旅、それはより驚くべき旅へのひとつの準備なのかもしれない。もし、これが次につながるものならば、どんな経験といえども決して無駄になることはありえないだろう。僕はただ、ステップにいるに過ぎない、そこには必ず「今」があるからこそ現れる次の一段がある。何も無駄になることはない。それは不思議に心を安らがせるイメージだった。
エローラ 2006年 3月22日

まだ体がだるく、完全に回復してはいないがオーランガバードも今日が最後。
昨日頼んでおいたタクシーに乗って、エローラまで行った。
エローラは熱気と、僕の内部の疲労に揺らめいていた。
何もかも非現実的だ。
一体どのような情熱とエネルギーがこれだけの神々の像を彫らせるのか、僕にはわからなかった。
恐ろしい数の洞穴とまたヒンズーの彫像が存在し、そのすべてを見る気力はまだ到底なかった。
CAVE16カイラーサ寺院の巨大さはもちろん圧倒的なものがあったが、個人的にはなぜか小さな仏教の寺院にハッとするものを多く感じた。
それと誰も人がおらず、静けさに包まれていたジャイナ教のCAVE31がよかった。
聴こえる音といえば、小鳥のさえずりや、遠くからのかすかな人声。
それらが途絶えるとすぐに悠久の沈黙に溶けいってしまう。
沈黙
蝉の声
日に焼ける岩窟と
綺麗な色の鳥たち
何かを探しているように石の回廊を走り抜けるリスたち。

これがもし観光地ではなく、例えばたったひとりジャングルの奥地へわけ入り、偶然幾重にもつたがからみついたこれらの巨大遺跡を見つけたのだとしたら・・・体中が総毛立つような興奮を感じるだろう。
もともと廃墟・遺跡とは、そこにたった一人で向かい合うものだ。
そうしておおきな時と一人で向かい合ったとき、始めて遺跡はその真の物語を語りだす。
時の重みと、過ぎ去った無数の祈りの痕跡を
どうも僕はこの旅において、ヒンズー的なものよりも、仏教がインドに残した痕跡に心惹かれてるように思えた。なぜか?ヒンズー的な神々のダンスは日本人の集合意識にはあまりに異質なのか、あるいは、僕がもし過去世インドにいたことがあるなら仏教的なものとの結び付きの方が強かったのだろうか。
そんな思考も熱気の中でゆらめく、確かめようのない妄想に過ぎない。

エローラ遺跡群の中で、日本人の女の子とひとりすれ違った。
真っ赤に日焼けした顔で、案内らしきインド人とも楽しそうに話し、元気に挨拶してくれた。
会う人皆が、なぜか僕よりもしっかりと旅を楽しんでいるように見える。
比べることに意味がないとわかっていても、なぜかそんな気分になってしまう。
明日の朝には、もうムンバイーだ。
そこは今回の旅の最終目的地である。
ムンバイー行きの列車は、オーランガバードを夜の22時頃に出て、翌朝7時にムンバイーに到着する予定だ。
夜遅くの駅で列車を待ってると、二人連れのインド人が話しかけてきた。
二人は友達同士のようだった。
日本語はしゃべれなかったけど、英語でどこの国から来たのかとか、どこへ行くのかというような話しをした。「日本遊びにきてくださいよ」と僕が言うと、彼らは苦笑いして「行きたいけどね」という感じだった。やはりごく多くの一般のインドの人にとって海外に行くということはまだまだ現実味のないことなのだろうか?
「君の名前は?」と尋ねられ
「マエダ○○」だよ、とフルネームで答えると、彼らの一人は、僕の下の名前より「マエダの方がいい」と言って、僕のことを「マエダ」と呼び出した。ファーストネームも気にいって欲しかったが仕方ない(^v^) 彼らのうち一人は物静かで、僕と友人との会話を聴いていることの方が多かった。今こうして思い返してみると、交わした言葉はあまり覚えていないのだが、確かに気持ちのやりとりをしたという感覚は残っている。拙い外国語でコミュニケーションすればするほど、こころのキャッチボールのような感覚に敏感になるようだ。
30分以上は話していたと思うが、彼らの列車の方が先に来るので、そろそろお別れになった。
よく喋る方は僕の手帳に自分の住所を書いて、「手紙送ってくれよ」と言った。
二人と握手して、さよならしたあとホームをうろうろしていると、走り始めた列車からさっきの彼が顔を出し、「グッバーイ!マエーダ!!」と手を振った。

其の7 ムンバイー ~大地・尽きるところ~
ムンバイー 2006年 3月23日
オーランガバード→ムンバイー行きの列車は定刻より40分ほど遅れたが、無事発車し翌朝の8時にはムンバイーCSTに到着した。三段式の寝台車、枕も毛布もなく咳も出て少し寝苦しかったが・・・
インドのホテル泊は今日が最後。
最後くらいは見晴らしのいい、できたら海が見えるところに泊まりたいと思った。
駅の近くで声をかけてきたタクシードライバーがいたので、海岸沿いにタージマハルホテルなどが並ぶインド門近辺まで行きたいと言ったが、
「そのあたりのホテルは全部高い。自分は300ルピー程度の安宿を知ってるのでそこにしないか?」と言った。ムンバイーのホテル事情はあまりよくなく、確かに値段の高いホテルが多いと聞いていたので、とりあえず部屋を見てみることにした。
しかし行ってみると、300RSの部屋は、部屋にベッドがふたつあるのみ窓もなく、トイレシャワーもないのでそのホテルの600Rsでトイレシャワー付きの部屋に泊まることにした。が、案内されて部屋を見ると確かに一応設備は悪くないのだが窓から外をのぞくと、下の街路はゴミ捨て場のように汚く、誰も通らない路地が見える。他に見えるのは向かいの建物の壁。なんとなく気が滅入る。
しかも、僕がいるこの場所は、いったいムンバイーのどこなんだろう?
やっぱり最初に決めた通り、インド門まで行ってホテルをさがすべきだった。
そうすれば今頃、海が見える部屋にいたかもしれないのに。
自分はまだこのゴミゴミしたインド的路地裏の風景に囚われている。
明日で旅も最後だというのに。
そう思うと、気がさらにどんどん滅入ってきた
あー海が見たい。
クラクションも、物売りの声もない、開けた風景が見たかった。
大地の匂いではなく、海の匂いに触れたかった。
このどこまでも続くかに見えるこの群衆、大地もどこかで終わることを確認したい。
あらゆる多様性が、単一性へと回帰する地点。
それは、海だ。
特に行き場所を決めずに、正午過ぎにホテルの部屋を出る。
フロントでホテルのアドレスをもらっておいた。
足はやはり、海が見える西の方角へと向かっていく。
ムンバイー
交通量、人の数、店の数、騒音 何もかもToo muchだ。
しかし声をかけてくる人は少なく、自分のペースで歩き風景を眺めることができる。
それだけここは都会であるということか。

だがここはやはりインドなのだ。
道端で、毛布にくるまって寝ている人がいて、その上からものすごい数のハエがたかっている。
それはホームレスというよりも、衰弱して、その場所で死を待っているようにしか見えなかった。
僕はひたすら西へ西へと海のある方向へ歩いて行った。
やがて大地が終わった。
目の前に青いアラビア海が開けていた。

ブッダガヤーには世界各国の仏教のお寺がある。
タイや、チベット、日本などがそれぞれの国の仏教徒を代表して、この仏教発祥の地にお寺を建てている。
それらはチベット寺とか、タイ寺などと呼ばれている。
シク教徒のドライバーは僕を、日本寺の近くで下ろしてくれた。
ブッダガヤーに到着した頃には、ずいぶん夜も更けていて、村は静まり返っていた。
しかし、この村では事前にホテルを予約していなかったので、自分で今晩の宿を見つけなければならない。
僕は本当はもっと安い宿をたくさん利用しようと思っていたのだが、結果的にはホテルを予約させられたりして1000ルピー以上の中級クラス以上のところに滞在することが多かった。ブッダガヤーでも、その夜はNikkohotelという一泊1500rsくらいするところに泊まることにした。なんか、毎日想定外のことばかり起こるので、夜寝るところくらいは安心できて、ホットシャワーも出る場所に泊まりたい。
Nikkoホテルの部屋にはお湯が出る上バスタブまでついていたので、これ以上望むべくもない。
しかもトイレットペーパーが山積みになっていたので、ありがたくいくつかもらっていくことにした。
用を足したあとインド式に手で洗うのならまあトイレットペーパーはいらないのだが、僕はどうもこれには慣れず、あちこちでトイレットペーパーを見つけた時は、パクりまくっていたのだった。
大きなベッドでゆっくり休み、翌朝は気持ちよく目が覚めた。
今日の予定・・・・とりあえず、ブッダが悟りを開いた場所にあるマハーボーディー寺院を見学する。
それから、夕方まで時間を潰し、今日のうちにガヤーに戻っておこうと考えていた。というのは、ガヤー発、マンマッド行きの列車が翌3月16日の早朝にくるからだった。ガヤーに泊まってた方が安心できる。
よ~し、そんな感じでいくかーっ( ノ゚Д゚)
と、ホテルをチェックアウトして、ホテルの出口に向かうと、門のところにホテルの従業員が立っていて今日の予定を聞いてきた。僕が今日中にガヤーに向かうと言うと、そのインド人は
「今日はホーリーだよ。ガヤ行きのバスや、リクシャはほとんどないよ」という。
ええ~~っ(゜∀。)そんな馬鹿な。「ちきうの歩き方」には、ホーリーに交通が止まるなんて書いてなかったが。
なんかさっそく雲行きがあやしい。まあ、ガヤーまで16キロ、最悪歩いて歩けない距離ではない。なんとかなるだろう。
ホテルを出て、マハーボーディー寺院目指して歩いていく。
まだ朝早いからだろうか。あまり人影がない。ブッダガヤーも結構な観光地だと思うが、なぜか旅行者らしき外国人の姿がほとんどみられないのだった。
なんか妙にしずかだね(・・;)と思っていたとき、前方から4,5人の地元の若者たちがやってきた。
そして僕に気づいて、目が合うとヘロー!とにこやかにあいさつしてきた。
その瞬間僕は凍りついた。
というのは彼らはみんな顔中を、緑や赤や、原色の絵の具?でぬりたくっていたからだ。
なにが起こるかをすぐに察した僕は肉食獣に気づいたインパラのごとくすぐに回れ右をして走って逃げようとした。
が、彼らも走って追いかけてくる、ダメだ!!追いつかれる~~
取り囲まれ、押さえつけられ、かけていたメガネをとられて、顔中に絵の具まみれの手が押し付けられる。
ぎ・ぎえ==((((;゚Д゚))))
ぬりぬりぬり!
や・やめて~~
ぬりぬりぬりっ!!
呆然自失の僕にメガネを返すと、彼らは笑いながら去っていった。
真っ白の買ったばかりのポロシャツが、赤と緑色に染められている。
ああ・・・わかった、何もかも
僕は放心状態で悟った
昨日の子供たちの色水攻撃はなんだったのか、なんでほとんど観光客が外にでていないのか
それは外に出ると、このようになる可能性大だからであろう。
ホーリーでは、祭りの余興として無差別の色水攻撃がおこなわれるようだ。
一日がまだ始まったばかりだというのに・・・
一体、僕の顔は今、どうなってしまっているのだろうか。
お釈迦様、助けてください。
ひどい格好のまま僕は、マハーボーディー寺院の門をくぐった。
一瞬こんなひどい格好で入れてもらえるかどうか心配になったが、それは大丈夫だった。
お寺の入口にひとりの男性が立っており、僕の顔を見ると、
「Good color !」と親指を立てて笑いかけてきた。
「今日はどこに泊まるんデスカ?」と彼は日本語で尋ねてきた。結構喋れるみたいな雰囲気だ。
「いや、今日のうちにガヤに戻りたいと思うんですが。明日列車が早いので」
「今日はホーリーで危険だから、もう一泊ブッダガヤーに宿泊したほうがいい。
今日はバスもリクシャーもないよ。歩いていくだって?それは危ない。
観光客だと石を投げてくるやつもいる。私は安いホテルを知っているから紹介する。明日の朝は私がリクシャーを手配してあげるよ。そうしたほうがいい。」
と彼は強く勧める。
い・石を投げられる?? そんなことは「ちきうの歩き方」には書いてなかったが・・・。
まあホーリーの日に店が閉まったり、バスが止まるってことも書いてなかったけど。
しかし、ここはよさそうな場所なのでもう一泊してもいいかもと、緑色の顔で思った。
さっきの僕を襲撃した若者たちのテンションを思いだすと、日本で考えられる祭りとはちょっと雰囲気が違うことはたしかなようだ。ブッダガヤーだけではなく、おそらく北インド全体がこのような無礼講のテンションなのだろう。無礼講と言っても、課長にタメ口きいちゃうという類の無礼講ではなく、知らない人の顔を絵の具で塗ったり石を投げてもいいという類の無礼講だ。本当に翌朝リクシャーを手配してもらえるなら、今晩はここに泊まっても問題ない。
彼は、寺院の近くで店を開いているから帰りにでも寄ってくれ、と場所を教えてくれた。
僕はわかった、と彼に言い、そのまま寺院のなかを見て回ることにした。
寺院の中は、聖域なのでヒンズーの他の寺院などと同じように入り口で靴をあずけ、裸足で入っていく。
建物の中だけでなく、お寺の敷地内はみんな裸足で歩くのだ。
この場所はとてもよいエネルギーに満ちているようで、気持ちがどんどん安らいでいくのを感じた。

ホーリーの日と言うことで、観光客が下手な外出を控えていて人が少ないというのもよかった。みんな顔を緑色にされるのが怖いのだ。しかし一度緑に染まってしまえば恐れるものなど何もない(`‐ェ‐´)諸行無常、祇園精舎の鐘の声である。
袈裟を着たお坊さんが、僕の顔を見て笑う。
お堂の脇でなにか作業をしていたインド人マザーは僕の顔を指差し、
「それ、自分でやったの?」と言った。
「NO、(そんなことしないですよ~~)」
「あら~誰かにやられちゃったのね」
「Yes・・・(そうなんです、わかっていただけましたか(´;ω;`)」
がやがやうるさい日本人の集団が歩いてくる。
なんか僕のことを見てるようだ。
誰かと思えばバラナシで一緒に6時間遅れの電車を待っていた大学生たちだった。
彼らは口々に、
「うわーすごいな別人になってるし」
「取れるんですか、それ?あはは」
などと面白そうに声をかけながらすれ違っていく。
うるせい(゚Д゚)ノ 取れるかどうかこっちが知りたい。お前たちに緑人間で一日すごす気持ちがわかるか~~!
とインド人に変身できたら、集団の中に混じって彼らにもホーリーの洗礼を浴びせに襲撃したい気分になった。
しかし・・・
自分の顔はいったいどのように別人になってしまったのかとふと思いデジカメを自分に向けてぱしゃりと撮ってみた。
早速それを再生する。
な・なんだこりゃΣ(゚д゚lll)
かなりキモいことになっていたので、またへこんだ。
もう少し「似合ってる」かと思ってたのである。
寺院内をひとめぐりすると、僕は境内の芝生の上に座って、しばらく目を閉じた。
この地で起こったブッダのエンライトメントが、世界中に広がったというのはやはり感慨深いものがあった。
僕は特に仏教徒でもないし、ブッダの生涯も手塚治虫の『ブッダ』でおおまかに理解しているくらいだがブッダが残したなにかがその土地に息づいているように思った。
しかし、世界中に寺院を建て、アンコールワットやアジャンタの巨大遺跡群を建造する原因となったシッダールタという人物。彼はいまどこにいるのだろうということを考えてしまう。なんだかこういう地にいると、宗教的な伝説や何かではなく、シッダールタ、あるいはブッダという存在がなんだったのか本当のところが知りたいという気持ちになってくる。
ブッダという存在はもう空相と一体となっていて、人を救うということをしてはいないという話しも聞いたことがあるけど、光明の意識でブッダが見たであろう山や河は今もそこに残っていて、その至福の残光は今もここにとどまっているのではないだろうかと、グリーンフェイスで黙想した。(-"-)
一通り、マハーボーディー寺院を回ったあと、さっき入口のところで情報を教えてくれた、彼の店に行くかどうか迷った。確かに安いホテルのことは知りたいが、どうせみやげ物をたくさん売りつけられるということは容易に想像がついたからである。寺院で平安な気分になったのにまたカリカリしたくない。しかし今までのしつこくて、金に汚いインド人とちょっと違う雰囲気を持っていた人のようにも思え、迷った末に店に向かうことにした。
教えてもらった名前が看板に書いてある店に入ると、たくさんの木彫りの仏像や、数珠などが並んでいた。とても大きくて立派な高価そうなものから、手のひらに乗るものまで。数珠も石の数珠や、木の実でつくった数珠などバリエーション豊かだ。店先に姿がなかったので、店の奥に向かって声をかけると彼が店の奥から出てきて、「あ、こちらへどうぞどうぞ」と店の奥の小部屋に通された。
テーブルの上には、ビールとグラス、ぶどうやバナナ、オレンジなどが盛られた皿が載っていた。さっきから飲んでいたようだ。
「今日はホーリーだから遠慮なくやってください」と僕にグラスを渡し、ビールをついでくれた。
一口飲むと、結構きついビール(゚Д゚)ノ⌒゚+。☆☆。+゚
「インドはビールでも、タバコでもなんでも強いよ」と彼は( ̄ー ̄)ニヤリ
この人は相当日本語がうまく、ほとんど日本語で会話をすることが出来た。
なんでも日本人と話しているうちにほとんど独学で学んだということ。
彼はムスリム(イスラム教徒)ということだった。
名前を忘れてしまったので、以下モハメドさんと書くことにする。
まだ飲み食いに躊躇している僕の様子を見てか、モハメドさんは
「あなたも私も、同じ人間なんだから気を使わないでください。
インドではホーリーの日になると、喧嘩していた相手でもその人の家にいって
一緒に飲んでくださいって言うんです」
ふ~~ん(゜д゜)
そういうのはいいですねえ。
こんな緑色のやつを人間として扱ってきただきかたじけない。
僕は注がれるままに、ストロングビールを飲み、フルーツを食べた。
フルーツを肴にして酒を飲むと言うのもなかなかいいものだった。
ちょっとほろ酔いになったところで、モハメドさんが今日泊まれる安宿まで案内してくれることになった。
店の外に出ると、彼の知人だろうか、やけにデカイインド人がいて「ふっふっふっ」と笑を浮かべながら、僕に右手を差し出してきた。握手をすると、やけにぎゅ~~っと手を握ってくる。そして「ふっふっふ」と。握られた方の手を見ると真っ赤になってた。あははは(~_~;) あの襲撃のあとではこれくらいなんてことありませんさ。
「ブッダガヤーはとてもいい村ですよ。ここはヒンズーもムスリムも仏教徒も
喧嘩しないでみんな仲良くやっています」とモハメドさん。
僕はイスラム神秘主義のスーフィズムをテーマとした「ラストバリア」を
読みながら旅をしていたので。
「I'm interesed in Sufi」と言ってみた。
するとモハメドさんの顔が少し曇ったように見えた。
彼は、私はスンニ派で、スーフィーではないと言った。
「スーフィーは言葉と行動が一致しないことがよくあるが、スンニはいつも正しいことだけを言う」
と言った。
日本にいたらまったく意識することもないが、違う宗教間のみならず、異なった宗派間の相克というのがインドでも根深いもののようだった。それはやはり比較的平穏なブッダガヤーにも存在していないことはないのだろう。
でもモハメドさんはナイス・ガイだった。
彼が紹介してくれたのは、一泊100ルピー程度のリーズナブルなホテル。
「夜にでもまた店に来て、なにかいいものがあったら買ってください。
なにもなかったら買わなくていいですから」と言った。
僕は今日はもう休みたかったし、みやげものに費やす余裕もあまりないので、
「店には行けないけど、ホテルを紹介して、いろいろ情報を教えてくれたからお礼にいくらか支払いたい」と言った。モハメドさんは「いやいや、これは親切でしたことだからそういうお金は受け取れないよ」と言う。
仕方ないので、夕方にまた店のほうに顔を出して見るという約束をした。
一人になると、とりあえず僕はバスルームに飛び込んで、顔を洗った。
洗っても洗っても緑色の水が排水溝にぐるぐると吸い込まれていく。完全にはとれないがようやく人間らしい顔に戻れたところで、そのままベッドに倒れこみ夕方まで眠ることにした。
夕方モハメドさんの店にいくと、また別の友達が店の中でしゃべっている。
結構酔ってるみたいだが、もともと陽気なたちらしい。
モハメドさんが商品を紹介してくれてる時に、『財布見せてよ、財布』とか『俺の財布と、君の財布交換しないかい』とかふざけたことを僕に言い、それにモハメドさんが「黙ってろ」と叱る。面白い掛け合いが続いた。
僕は自分のお土産にボタイジュの数珠を、他家族へのお土産も何点かここで買うことにしたのだが、生憎手持ちのルピーがなくなりかけていた。トラベラーズチェックを換金したいのだが・・・とモハメドさんに言うと、そんなことしなくてもクレジットカードを持ってるなら、近くにATMがある、と言った。
ATM??
僕が日本で作ったマスターカードで、インドのATMからルピーが引き出せるの??
と疑問が浮かぶが、モハメドさんは「すぐそこだから」と僕をバイクの後ろに載せて走り出した。
走ること十分ほどATMに到着
バタン ガチャ・・・・・
ぴっ ぴっ ぴっ ん?
うーん、やっぱうまく現金引き出せない。戻ろう・
ガチャガチャ
あ? あれ?
え??
開かない((((;゚Д゚))))
ガラス戸の向こうにモハメドさんがいて、「どうしたんだ?」と言ってる。
「い、いや・・・あかないんですけでど」
とってを何回がちゃがちゃやっても。モハメドさんも外から開けようとしているが、ひらかない。
なんで?
「人を呼んでくる」とモハメドさんは走っていった。
ふと気づくと僕は
ブッダガヤーのATMに閉じ込められるという変な状況に陥っていた。
夜も更けし時、釈迦の悟り開けし地において 汝ATMに閉じ込められる さていかがする?
禅の考案かなんかか、これ。
出してくれーっ(´;ω;`)
モハメドさんが、二人ほどの人を連れて戻ってきた。
その直後、僕はとっての下の部分にスイッチのようなものがあるのに気がついた。
それを押しながら押すと
がちゃ
「あ・・・・あきましたw」
みなよかった、よかったと言ってくれた。
ある意味、インドでのトラブルの一部は日本でもたまに痛いボケをする僕の天然気質と、インドのめちゃくちゃブリが組み合わさって生まれたもののようだ。そのあとモハメドさんにトラベラーズチェックを換金できるホテルに連れていってもらい、無事おみやげ購入用のルピーをゲットすることができた。
ブッダガヤー 2006年 3月16日
翌日ガヤーからの、マンマッド行き列車は5時にくるはずだったので、僕はほとんど眠れないまま4時前に起きてホテルの前でモハメドさんが手配してくれたはずのリクシャーを待っていた。まだあたりは一面の闇に包まれている。約束の時間は4時だが、数分過ぎても迎えは来ない。大きい道路に出てみようかとも思うのだが、極々近くから犬の吠える声、唸る声が聞こえてきて、野犬なのか飼い犬なのかわからずに動くことができなくなった。インドで犬に噛まれると、狂犬病になる可能性が高く危険、という情報を読んできたからだった。姿はまったく見えず、近いがどこにいるのかわからない。
モハメドさんは信用出来そうな人物に見えたので、すっぽかしたりはしないと思うが、心配が確実にこみ上げてくる。
四時を十分ほど過ぎた頃だろうか。
どるるる、というエンジンの音とヘッドライトが闇を切り裂き近付いてきた。
リクシャワーラーかと思いきや、モハメドさん自身がいかしたバイクにまたがっていた。
「運転手、いなかったので、私が来ました。」
あ、そ・そうなんですか。
朝方の薄青い光の中一昨夜燃やされた薪の燃えカスがあちこちに残る静まり返った街をモハメドさんの単車の後ろに乗って走りぬけ、駅にたどり着いた。 まだ時間があったので、僕とモハメドさんは駅前でチャイを飲んだ。明け方のガヤーはあたたかいチャイを飲むとホッとするくらいひんやりとしていた。あ、そうだ、この人にお金払わなくちゃ。 さすがにこの早朝に駅まで送ってもらっては申し訳ない。この人のことだから受けとらないかもしれないけど、その時はタバコかなにかおごらせてくださいって言おう。
そうごちゃごちゃ考えている僕に、単刀直入にモハメドさんは言った。
「 おかねください(^▽^) 」
はいはい、もちろん。
インドでのほかの事と同様、これもまた要らぬ取り越し苦労であった。
「暇なときに電話して」と言って、モハメドさんは電話番号を教えてくれた。
僕はお礼を言って、モハメドさんと別れた。
バナラシからの列車が遅れたり、間違ったとこで降りちゃったり、ホーリーにぶつかったり、ブッダガヤーまでの道のりはなんか大変だったけど、とてもいいところだった。会う人もいい人が多かった気がする。よく考えれば列車を間違えたからこそ、親切にしてもらったり、ホーリーの炎を見ることもできたのだ。いい流れにある時は、ミスさえもよい出来事に転換される。それはもしかしたらブッダガヤーの優しさがそうしてくれたのかもしれない。あるいは僕とブッダガヤーとの間に、見えない優しい絆があったのだろうか、とそんなことも思った。
これからは列車で25時間。
マンマッド到着は明日の早朝6時だ。
インド亜大陸を横断する鉄道の旅が始まった。
翌日、ガンガー沿いのホテルはチェックアウトして、バナラシ最後の夜はデリーで旅行代理店で予約させられた、スーリヤホテルというやや高級ホテルに泊まることになっている。
僕はまずスーリヤホテルにチェックインし、荷物を部屋に置いてから、近場の仏跡サールナートなどを観光しようと思っていた。スーリヤまでは、歩いていけないのでオートリクシャーを利用することにする。
もう読んでて、リクシャワーラーとのやり取りは飽きてきた方もいると思うが、あえて書く。
というのはそのリクシャワーラーのやり方は今までとちょっと違うパターンだったからだ。
僕は、もうオートリクシャーに乗るときの『コツはつかんだ』と思っていた。
高すぎるのには、自信を持って値引き交渉すること、そしてこちらの言い値でダメだという相手にはやめる振りをすること。
こんな強く言っていいのかな?くらいでちょうどいい場合が多いということなどだ。
僕が乗ったのは、オートではなく、自転車で引っ張るタイプのリクシャだった。

(⁰︻⁰) ☝こーいうの(画像検索から拝借しました)
リクシャワーラーの方から声をかけてきて、ホテルまで50で行くと言うので、意外とすんなり交渉がまとまった。ところがこの運転手は走り出してしばらくしてから
「遠いから、やっぱり100ルピーだ」 と言い出した。
えっΣ(゚д゚lll)今言う?
しかし、こんなことで負けてたまるか。もうインドマジックには、マホカンタだ。(すみませんドラクエ世代にしかわからんネタ)
「さっき、50って言ったぞ!」と強くいうが、シカトしやがる。
「STOP!! もう降りる、から止めて」とかなりでかい声で怒鳴ると、しぶしぶ「OKOK」と最初の言い値で了承した。いやー俺もかなりたくましくなってきていはいるな、うん( ゚ー゚)( 。_。)
と、そうこうしているうちにホテルに到着。料金を払おうとすると
「very very hardね。100ルピーにしてください」と言った。
えっΣ(゚д゚lll)まだ言う?
まあ確かに、暑い日だし、自転車に僕を載せてここまではきついだろうなとは思ったので、
「もうじゃあ、70あげるよ」というが受け取らない。
どうしても100でないと嫌なようだ。プラス20上乗せしてるのに手を振って受け取らない。なんてわがままなんだ。おもちゃ売り場の子供か。やだやだ100ルピーでないと~゚(゚´Д`゚)゚が、こっちもそんな甘いことばっかりしたくない。日本人はふんだくり安いという観念を植えつけたくない。
うーん、どうするかなとちょっと思ったが、70ルピーを彼の服の内側に強引にねじこんで、その場を離れることにした。追っかけてこなかったからひとまずOK!ここで、僕は料金を無理やり相手の懐にねじこむ、という日本ではほぼ使わないであろうテクニックを習得したのであった。
あ~~~しかし普通に乗れたことないぞ、リクシャー(-_-;)
このあと、ホテルにチェックインして、外に出た僕は、またまたハプニングに見舞われる。
道を歩いていると、前方で子供たちがすごいテンションではしゃいでいる。
ん??なんだろう?と思って見てると、みんななぜか顔や洋服が紫色の液体で、派手に汚れている。
どうも手に色水のはいった水鉄砲を持ってるようだ。
それを見たとたん、イヤーな予感に襲われた。
4、5人が「Excuse me, excuse me sir・・・・」といいながら僕に近づいてきた。
咄嗟に危機感を感じ、「ノーノー」と言いながら背中を向けてUターンする。
水鉄砲から紫色の液体が、びしゃーーっ と、シャツの背後から浴びせられた。
こらーなにすんねん!!・"(>0<)"・
しかしこっちには対抗する武器もなし、なりふりまかわず逃げ出す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
(⁰︻⁰) ☝結局、このありさまで観光を続けることになってしまった。
しかし、これも実は来たるべきハプニングの、プロローグに過ぎなかったのである!
僕は単に、この辺の子供たちはこういう遊びが好きなんだろうと思っていたが、この色水鉄砲無差別テロには実はもっと深い意味があったのだった・・・・。
其の5 ブッダガヤーのホーリーナイト

バナラシの次の目的地は、ブッダガヤーだった。
あのブッダが悟りを開いた地として有名な場所だ。
ブッダガヤーは比較的こじんまりとした村なので、鉄道は通っていない。
最寄りのガヤーという街まで列車で行き、そこからはタクシーやオートリクシャーなどで向かうということになる。
ガヤーへ向かう列車は、バナラシを朝の午前5時20分に出発する。
列車には絶対乗り遅れられないので、かなり余裕を持って午前3時に起きた。
オートリクシャーが駅に着いた時には、朝もやの中駅はまだ静まり返っており、あちこち、地べたに直接寝ている人がいっぱいいた。なんとなくそれは幻想的な光景に見えた。
バナラシSt 2006年 3月14日
いったいどういうことなんだろうか?
もう発車時刻になってるはずだが、列車は来る気配がない。
おかしい。もしかして他のホームに着てたらどうしよう・・・と周りの乗客や駅員を捕まえて、チケットを見せて尋ねてみるが、曖昧な返事しか返ってこない。うろうろしてるとそのうち5、6人のニホン人学生グループに出くわした。どうやら彼らも、同じ列車に乗る予定だが、列車が来ずに状況がわからず若干テンパっているようだった。ヒンズー語と英語のアナウンスはひっきりなしに聞こえるが、どうも何言ってるかわからない。
「おかしいすよね。遅れてるんですか?」
「うーん、僕もいろいろ訊いてみたけどちょっとわからないんです。」
僕は心細い状況なのでそのまま思わず、彼らのうしろに金魚の糞のようにくっついて行きそうになったが、情けないのでそれは思いとどまった。まあこの状況は遅延としか考えられない。もう発車時刻は30分も過ぎてるが、乗り過ごしたということはないだろう。
僕は落ち着いてベンチに座って待つことにした。
ホームの鉄骨の柱には野生のサルがいっぱい走りまわっている。
しかしここからが勝負だった。
列車がどれくらい遅れてるか、いつまで待てばいいのかという情報が全く入ってこないのだ。
午前9時を回った頃、僕は眠気でもうろうとしてきた。すでに駅に来てからゆうに4時間は経過している。
昨日は、もっともっと旅を続けてやる!という気持ちになったと思ったら、今日はまた負けそうになっている。インドの底抜けの非常識さに。
9時・・9時半・・・・・10時・・・・・・・10時半
時計は段々ゆっくり~~としか進まなくなってきた。
もうまだまだ来ないのなら一回駅を出て食事にでも行きたいのだが、情報がわからないからそれもできない。
仕方ないので駅のホームで売ってるバナナを大量に食べて、お腹を満たす。
11時半になろうとしたころだろうか。
轟音とと主に、目の前のホームに列車が入ってきた。
えーと、た・た・多分こいつだと思うんだけど・・・と確信がない。
予約席なのでチケットには座席番号が書かれている。それをみながら、僕の車両を探すのだが、日本の新幹線みたいな1号車、2号車、とかああいうわかりやすい表示はない。いや相当テンパっていて僕が気づかなかったのかもしれないが。そうこうしながら、到着した列車の周りをうろうろしていると、ガタン!!と音がしてもう列車が走り出そうとした。ドアもしまってないのに、唐突すぎる!
おいおいおいっー!!゚(゚´Д`゚)゚
なんで6時間待たせて、そんなにすぐ走り出す!!時間を挽回しようとしてるのはわかるがなにもわからない日本人観光客のこともちーとは考えてくれーと心の中で叫びつつ列車に飛び乗った。すると僕のあとからさらにたくさんの人がなだれ込み、背中を押され、むっとする熱気がこもった車両の連結部に追いやられた。日本のあんなスマートな連結部じゃない。なんつーかホントに連・結・部!!て感じの、足元は金属で、不安定に揺れ続け、薄暗く、熱がこもりむっとする暑さ。そこに多数の人間が詰め込まれているのだ。その空間の中に、今度は前の車両から足の不自由な人が、腕だけで跳ねるようにぴょんぴょん移動しながら、物乞いをしに入ってきた。なんだここは現実の世界なのか・・・・あまりにも強烈な環境と暑さと疲労に頭がくらくらとした。
ここにガヤーまで4時間もいるのか??
もうダメだーっ!頼む日本に帰らせてクレーっ と僕は何回目かの心の絶叫をした。
しかし、天の助けはいつも思わぬタイミングでやってくるようだ。
僕が心の絶叫をした直後、車掌がやってきた、そして僕にチケットを見せるように言うと、「ついて来い」と言い、人ごみをかき分けて、指定の席まで案内してくれたのだった。あの時ほど駅員が頼もしく見えたことはない。僕はお礼を言って、親子連れのインド人の隣りの座席に腰をおろした。
はぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~これでガヤーまでは安心できるなぁ~(;´Д`)
と気を緩めすぎたのがいけなかったのか。
うとうとしながら、それとなく時刻は気にしていたのだが、乗車後約4時間が経ち予定の時間を過ぎても、ガヤーにつかない。おかしいなあ。と思い、近くの人に聞いてみると
「ああ、ガヤーはさっき通り越したよ(^ω^)」
ぬはっっ(;゚Д゚)!
さっき停った駅・・・もしかして、と思ったのだが、アナウンスが聞こえなくて降りなかったのだ。
さっきのがガヤーだったのか!
ど・ど・ど・ど・どうしよー
とにかくこれ以上乗ってても目的地から離れるだけだ。
降りなければ。
次に停った駅で、僕は反射的に飛び降りた。
降りた・・・降りたけど
どこここ?
小さな、小さな田舎の駅 駅に書かれた名前は
KODERMA
あっ、KODERMAか(;・∀・)
って、どこやねん、それ(゚Д゚)ノ
読み方もわからん・・!
ガイドブックをぱらぱらめくるがどこにも載っていない街。
プラットホームの向こうにはもう真っ赤な太陽が沈みかけている。
お・おちつけ~とにかく明後日の16日にガヤに居れば、次の目的地オーランガバード行きの列車に乗れる。
最悪今夜ここで泊まることになっても、明日の朝一番の列車でガヤーにつけば大丈夫。時間は十分ある。
と、自分自身をなだめてみるのだが、決めてきたルートをドロップアウトしてしまい、西の空に沈みゆく太陽を見ながら、まったく地図にもない街にいるという事実は嫌が応にも不安をかきたてる。
とにかく戻りの列車のチケットを買うために、駅を出ようとしたところ、駅員さんに呼び止められた。
「どうしたんですか?」
「電車を乗り過ごしてしまいました、ガヤーに戻りたいんですが、どうすれば(カタコト英語で)」
「ああ、それなら向かいのホームにガヤー行きの電車がくるからそれに乗ってください」と駅員さん。
えっっ・・・・。
ああ、そうか、そんな簡単なことか。
幸い逆方向の列車がまだあるようで。
日本で乗り過ごした場合と同じわけだな。
ちょっとパニックになりすぎたかと、やや恥ずかしい。
ホームから線路に降りて、線路を横断して向かいのホームに渡る。
線路を横断するとか日本ではあり得ないが、インド人は普通に向かい側のホームに渡るときは
ホームから線路に降りて、歩いていく。一番手っ取り早い行き方だw
プラットホームから線路に立ちションしてる姿もよくみかける。
どうやらインドではプラットホームは、トイレも兼ねているらしい。
向かい側に渡って、次のガヤー方面列車はいつごろ来るのかと思案しながらしばし立っていると、一人の30代くらいのインド人男性が、どうかしたのか?という風に話しかけてきた。駅員さんではなく一般の人のようだ。
僕は I miss the train・・・と乗り越してしまったことをなんとか伝えると、
彼は、ふむふむ、そうかそうか、とうなづきながら聞いてくれて、最後に、右手を差し出してきたので、握手しすると、彼は去っていった。
ん?(n‘∀‘)η
それから数十分後、、、彼はまた戻ってきた。そして、ご飯をかきこむような動作をした。どうやら飯を食ってなかったら、一緒に行かないかと言っているようだった。付いていって大丈夫だろうか、また何かぼられたりするんじゃないかという警戒心も特になくOKと言って僕は彼のあとに付いていった。
もう駅の外はすっかり夜。
その駅前の広場に、屋台がいくつも店を出していた。
僕らはその中の一軒に入り、僕はまたターリーを注文した。
ホテルでは大抵スプーンやフォークが付いているのだが、ここではそういうものがない。
やはり庶民にとっては手で食べるのが標準スタイルなのか。
ということでインドに渡って初めて、右手を使って素手で食事をした。
何分慣れてないので、ちょっと食べにくい特に熱いものをつかむのが結構大変だ。
彼は、僕の食べる様子をただ見てるので、「食べないんですか?」と尋ねるが自分はいいと言って何も食べず、僕が食べるのを、じっと見ている。
ああ、気まずいのお。のど通らんのお・・・
この人は純朴ないい人ぽいというのはなんとなくわかってきたが、会話がうまく噛み合わなかった。何回かこちらから話しを振ってみるのだが、それに対して返ってくるのが超ウルトラインドなまりの英語だった。注意深く聞くと確かに英単語が混ざっているので、英語をしゃべっていることは確かだが何を言っているのかがわからない。今思えば、デリーで市街を案内してくれたおっぱいマンバブーは、なんと流暢だったことだろう。あれはきっと上手すぎるのだ。欧米女性のおっぱいと友達になるために死に物狂いで勉強したに違いない。
食事を終えて、さっき居たホームに戻ると、彼も僕の隣りに腰をおろした。
どうやら彼は僕が列車に乗るまで一緒にいてくれるつもりらしかった。
相変わらず、会話は続かなかったが、それでも彼はじっと僕の隣りに座っていてくれた。
彼が財布から一枚の写真を取り出して、僕に見せた。
「she is my wife」という言葉が聞き取れた。
古い、いくらか色落ちした写真の中には彼と、一人のインド女性が並んで写っている。
結婚式だろうか。二人とも正装しているようだ。
「she is beautiful」と僕が言うと、朴訥な印象の彼が照れたように少しわらった。
もうこうなったら、この流れでいくしかないので、僕も財布から彼女と、撮ったプリクラを渡して、「僕のガールフレンドだよ」と言った。彼は、それをみて「very very beautiful!!」と何度も言ってくれた。
が、話しはまたそこで終わってしまう(;・∀・)
僕は悲しいかな今までの経験から最後まで、彼が金品目当てではないかという疑惑をどこかに持っていたが、最後にはそうではなかったとわかった。ようやく待ちわびたガヤー行きの列車がくると、わざわざ一緒に入って座れそうな席までとってくれて、向かいの席の乗客に「この日本人はガヤまで行くみたいだから、着いたら教えてやってくれ」というようなことを言ってくれているようだった。
僕は窓から、彼に向かって手を振った。
そのときやっと、純粋に親切な人だったということがわかった。
列車を乗り過ごした知らぬ外国人のために、彼は、食事の心配までしてくれて、僕を屋台につれていき、列車がくるまでずっと僕のそばに居てくれたのだ。生真面目で無骨な感じの彼の言葉を超えたやさしさと気遣いがはっきり感じられた。もっと早くそれが感じられ、信じられればよかった。
列車は漆黒の闇の中を走っていた。
窓の外は原野なのか、民家の明かりも、電柱の明かりも、人工の明かりらしきものはほとんど見えない。
ただその闇の中から、濃密な、緑と土の匂いが風に運ばれてくる。
その列車は今まで乗った中ではもっとも庶民的な、各駅停車のローカル線という感じだった。
向かい合わせになった四人がけの座席に、僕はインド人と向かい合って座っていた。
と、突然車両の前のほうで、缶のようなものを叩き、リズムを取る激しい音とそれに合わせた大きな歌声が響き始めた。やがて同調するように歌声はいくつもいくつも重なり、乗客たちはそちらを振り返る。手拍子を取る者、一緒に歌うもの。車内は即興のライブ会場に早代わり。まるでそれに合わせるかのように車両の電気が、ちかちかとついたり消えたりした。このプリミティブなリズムと、歌声と、外の濃密な闇から流れ込んでくる夜の空気に僕は酔ったようになる。車内に響く音楽とリズムは、まったくの異邦人の僕をも自動的に、ある種の一体感の中に引き込んでいく。
窓の外の闇にまた目を向けると、巨大な闇のかなたにひとつの大きな炎が燃えており、その周りを小さな火があやしく飛び交っているのが見えた。「狐火」という言葉が、頭の中に浮かんだ。
漆黒の闇の中、遠くのほうで、ちらちらと踊るいくつもの炎。あれは一体何だろう?
街灯も、店の明かりもないこんな暗闇の中に揺れる炎は、どこかこの世のものではないような妖しさと美しさを持っている。
列車がガヤー駅に到着したのは、21時過ぎ。
今日もいろいろなハプニングがあり、朝の4時頃ホテルを出てバナラシの駅で電車待ち始めてから16時間くらいが経過。
でもまだだ。ブッダガヤーまで今夜中に行っておこう、と僕は思った。ブッダガヤーまでは16キロ。だいたいオートリクシャーで2、30分の距離のはずだ。駅前にはまだこの時間でも運転手たちがたくさんたむろしており、僕はあっという間に囲まれたが、僕が100ルピーで行ってくれというと、みな一様に首を振り、
それは(ヾノ・∀・`)ムリムリ(ヾノ・∀・`)ムリムリみたいな雰囲気だ。
こいつら~口裏合わせてまたふっかけようってつもりか(。>皿<。)、しかし多勢に無勢だ。
そんな僕を囲むリクシャワーラーの輪に、ターバンを巻いた男性がずいっと入ってきた。なかなか貫禄がある。頭のターバンから見るとシーク教徒なのだろうか。
「いくらだ?」と言うので
「100ルピー」と言うと
「100ルピー、ok!カモーン」と僕を輪の中から連れ出してくれた。
ひゃ~助かった、ターバン、カッコイイ最高!
なかなか毅然とした感じの、信用できそうな運転手だった。
というか、インドに来て初めて、「信用できそうな」という言葉を使ってもいいようなリクシャワーラーに出会ったと言ってもよい。
こっち来る前にある人から「シク教徒は割合、信用できる人が多いよ。金にも汚くない。」という話しを聞いていたが、ホントにそういう傾向あるんだろうか。
リクシャワーラーは「どっから来た?」「名前は何だ?」「仕事は?」「家族は?」「結婚してるのか?」「次はどの街に行くんだ?」などとひっきりなしに話しかけてくる者も多いが、彼は比較的無口で車に揺られながら夜の郊外の風を気持ちよく楽しむことができた。
そんな彼が、「今はホーリーだ。君は良い時に来た!」と言った。
街のいたるところでは、積み上げられた薪が燃え上がり、巨大な炎が夜空をなめている。
炎の高さは数メートルにもなるだろうか。
まるでゴッホの描く糸杉のように燃え上がり、至るところで夜空を焦がしている。
ホーリー(Holi)は3月に、春の到来を祝って北インド全般で行われる祭りだ。
そのお祭りのことは「ちきうの歩き方」にも書いてあったので知っていた。
が、自分がそんなバッタリとこの祭りに出くわすとは想像していなかった。
しかも奇しくもそのホーリー前夜に、僕はブッダガヤーに到着することになったらしい。
オートリクシャーのずっと前方に、さっき列車の中で見た「狐火」がいくつも現れた。
あ・・・また・・・一体なんだろうと目をこらしていると
今度はリクシャーの進行方向の道路上に舞い踊る炎の群れ。
あっと思う間もなく車は炎に突入し、その間を走り抜ける。
ほんのつかの間の瞬間だったが、狐火の正体がわかった。わらかなにか燃えやすいものに火を点けて、それをひもで振り回している。
小さな子供たちが何人もはじける炎を振り回しながら、楽しそうに走っていたのだ。
これもお祭りの余興だろうか。
もしかするとさっきの列車の中の即興ライブもお祭りの前夜だったからかもしれないなと思う。
続く
haitakadori
私とごはんたべたい人が登録してくれて、マッチするとDMが届きます http://t.co/hzp4yBjk #gohantabeyo
06-19 01:02
haitakadori
湘南にアザラシ出現。本州での目撃初めてhttp://t.co/ul9PVxxE このポーズは自分の可愛さを熟知して狙ってるとしか思えん。
06-18 19:41
2006年 3月10日
カジュラホに入るとき村の入口で僕を待っていてくれた、Mホテルの兄ちゃん。
多分ホテルのオーナーではないと思うのだが、いつもフロントに立っており、いろんな仕事を
ひとりでこなしているようだった。
一見20代後半くらいの好青年だが、彼もなかなか日本人旅行者にはしたたかのようで1000ルピーを両替しようとすると
100ルピーを5枚だけ僕にわたして財布を片付けようとした。
「5枚しかないよ!」というと
「あれ?」といかにも気づかなかたように、残りをわたした。
あのねー10枚が9枚とかならまだミスかもって思うが、半分パクるのは大胆すぎるやろ(~_~;)
逆に成功したことあるのか聞きたい・・・。
しかし、僕がカジュラホを発ち、バナラシへ向かう日の朝、彼はバイクでバススタンドまで送ってくれた。
カジュラホからバスで、サトナという街まで行きそこからバナラシ行きの列車に乗る予定だった。
彼はバスが到着すると、僕の荷物を網棚につめこんでくれた。
そして僕にホテルのパンフレットを10枚以上渡して、「お友達に紹介してくださいね」と言った。
とても仕事熱心だということは認めざるを得ない。
まあ、こんなパンフ配れるほど友達いないので、それが逆に申し訳ない。
バスは走り出すとすぐにインドの民謡みたいな音楽を車内に流し始めた。
ふとこの前聞いたバナラシでのテロの話しを思い出した。
寺院で爆発があり、何人か死んでいるという。
犠牲になったのもこのバスに乗り合わせているような、素朴な人たちに違いない。
そのことが何かとても悲しく、許し難く思えた。
宗教や思想どうしの対立で犠牲になるのはいつも、そんなものとはあまり深い関わりのない一般人なのだ。
しかもこの民謡を聞きながらバスに揺られる人たちは、日本人や欧米人とは違い、大地の夢の中で
半ば眠っているように見える。そのような人たちを爆薬でふっとばすということが、ものすごく残忍なことに思えた。
カジュラホからヴァラナスィーにアクセスする場合は、まずバスか車でサトナまで行って、そこから鉄道の旅になる。
日本からインドの旅行代理店に問い合わせていた時には、カジュラホ→サトナ間は約3時間で移動可能で午前7時半のバスで
カジュラホをでれば、11時までにはサトナに着き、11時40分のヴァラナスィー行きの列車には充分間に合うはずであった。
しかし、代理店の情報が不正確だったのか、バスは11時を過ぎてもサトナに到着しなかった。
僕は、インド人の中でたったひとり焦燥感にかられながら、こんな無理のあるタイムスケジュールを組んだ、
Gトラベルの担当への怒りがふつふつと湧き上がるのを感じていた。
どうしてくれるんだ!時間に遅れたら鉄道のチケットはふいになるし、ここから先の日程が狂ってしまうじゃないか~・・・・。
ようやく、サトナの街に入った頃には、腕時計の針は11時半を回っていた。
しかし、駅へ行くには一体どこで降りればいいんだ???
何箇所か停留所があるが、アナウンスも何にもない。
あるバス停で、多めに人が降りる。
あ、ここか?もしかして??
僕は席を立って、運転席まで行き、サトナ駅はここで降りるのかと聞いた。
するとすぐ後ろの席のインド人が、「ここで降りなきゃダメだ!」と言った(多分)。
僕は大慌てで、網棚のリュックを引っ張り出そうとしたが、ホテルの兄ちゃんが馬鹿力で押し込んだものだから
ちょっとやそっとのことでは抜けない。
ふぬお~~~っ(≧皿≦メ) ずぼっ
やっとのことで引きずり出したリュックをもって、バスを降りる。
「そのリクシャに乗って行け!」とバスの中のインド人が言った(おそらく)。
僕は、もう料金交渉なんかをしている余裕もなく、バス停で降りる客を待っていたリクシャ(自転車のほう)に飛び乗った。
もう、列車の発車時刻まで10分もない。
あーオートリクシャーにすればよかったかなぁ・・・と思うもあとの祭り。
リクシャ遅いぞ!もっと急いでくれぃ!!
時計の針が無情にもそろそろ発車時刻を指そうとしている・・・・ちょうどその頃にサトナ駅に着いた。
あわてて駅の中に駆け込む・・・・もう11時40分はとっくに過ぎている。
しかし、おかしなことに、プラットホームの電子掲示板にはまだ僕が乗る予定の電車のトレインナンバーが表示されているではないか。
しかも発車時刻は12時15分???
どうやら、幸運にも電車がどこかで遅れているようだ。
インドの不便さに救われたような格好だった。
まだ半ば呆然と立ち尽くしていると、インド人がひとりなにか話しかけてきたが、よく聞き取れない。
僕は列車のチケットを彼に見せて、ちょうどプラットホームに入ってきた電車は自分のか?と尋ねてみた。
するとちょっと首を振るような仕草がかえってきた。
彼は「あそこに座ろうじゃないか」とベンチを指差した。
そこで彼と隣同士に座り休んでいると、小さな子供が僕の前に来て、口に手を運んでなにかを食べる仕草をした。食べ物が欲しいのか、お金が欲しいのかわからないまま、僕は首を振り、目をそらした。裸足の足にはハエが止まっている。僕の隣のインド人にも冷たくあしらわれ、子供は離れていった。
やがてまた轟音とともに列車がホームに入ってきたとき、『この列車だ』と彼が教えてくれた。
礼を言って彼と別れる。初めての二等寝台の旅。
天井に近い場所に、やっとねるだけのスペースがある。ここで10時間過ごすことになる。
下の席も向かいの天井席も、結構混み合っている。
二段寝台の上段に横になっていると、またお腹が痛くなってきた。下痢は夜中にしかないのだが、刺すようなきりきり系の痛みが慢性的に続いている。もう、5日目になるのだけど。あぁ・・・インドの旅がこれほどハードだとは思ってなかった。
何もかも予想外。
こんなにインド人が観光客にうるさいとも知らなかったし、こんなにアクシデントが多いとも知らなかった。
なぜかブルーハーツの古い歌が口をついて出る。
ここは天国じゃないんだ
かといって地獄でもない
いいやつばかりじゃないけど
悪いやつばかりでもない
さっきサトナ駅で列車を教えてくれた人
僕をオルチャに連れて行こうとした強引なタクシードライバー
友達が愛知で働いてると言っていた、リクシャワーラー
いくつかのこの国の人との触れ合いが思い出され
自然と涙が滲んだ
土砂降りの痛みの中を
傘もささず走っていく
やらしさも汚らしさもむきだしにして、走ってく
聖者になんてなれないよ
だけど生きてる方がいい
だから僕は歌うんだよ
精一杯でかい声で
悪いやつばかりじゃないから、僕は旅を続けられる。
やらしさも汚らしさも、むきだしの美しい世界の中を。
自分のやらしさも、きたならしさも大いにむき出しにされながら。
13時にサトナを出発した列車は遅れに遅れて、午後11時を回ったころようやくバナラシに到着した。
ホームでは僕の名前を書いた紙を持ったタクシードライバーが僕を待っていた。
バナラシで今夜宿泊するホテルは、デリーの旅行代理店で予約させられたものだ。
このドライバーはそのホテルの送迎サービスなのだった。
生まれも育ちもヴァラナスィーだというドライバーのタクシーに乗って、ホテルにたどり着いた時には日付が変ろうとしていた。
今日も朝にカロリーメイトをひとかけら食ってからというもの何も口にしていない。
朝7時にホテルをチェックアウト、カジュラホを出て、バスでサトナ、そこから列車でバナラシ。
移動に丸一日を費やした。
心も身体もくたくたである。
チェックインをすませて、部屋に入るとベルボーイが小さなかごに持ったブドウやバナナを持ってきてくれた。
無料のサービスらしい。とても助かる。どうせ重いものを食べても腹をくだしてしまうので、今晩はこれだけにしておくか。ブドウの甘さが、体にしみ込むようだった。
其の4 バナラシの迷路

2006年 3月11日
『ハーイ、コニチハ、私はアジャっていいます。よろしく。日本の名前はヒロシね。ニホン人みんなやさしくてベリーグーね」
そのインド人は、フレンドリーそうな笑みを満面にたたえて、握手の手を差し出してきた。
な・なんだ、こいつは(-_-;)
ヒロシと言われて、僕の頭には当時、テレビのお笑い番組で「ラモネカ、産婦人科させ~ろ~」という歌をバックに自虐ネタをするあの人が思い浮かんだ。

日本人の旅行者が面白がってアジャにヒロシという名前をつけたらしいが、あきらかに狙ってる感じだ。
しかし、キャラは産婦人科医ヒロシと真逆だ。
僕はどうもインドに来てから、親切にしてもらったのは無口で、一見無表情でとっつきにくそうに見えるが真面目な感じの人たちだったので、こういう日本人名を名乗っているお調子者は最初からちょっと警戒心が湧いてしまった。
昨日バナラシに到着して翌朝のこと、昨日のタクシードライバーが市内を数百ルピーくらいで案内してやると言っていたのだが、ホテルに迎えにやってきた彼はなぜかオートリクシャーで、僕をバックシートに乗せるとガンガー(ガンジス河)の方へ走り出した。
オートリクシャーのフロントシートにはもう一人インド人がいて、僕に握手の手を差し出してきた。それがヒロシだった。
「今日は私のブラザーが君を案内する。終わったらあなたの好きなだけルピーを払ってやってくれ」とタクシードライバーが言った。
「好きなだけ料金を払う」という言葉に少し不気味なものを感じながらも、僕はこの 流れにそのまま乗っていくことにした。
というかいつも展開が早いので、よく考えている時間がない!
だって、デリーの旅行代理店のフレンドのタクシードライバーがタクシーで観光するって言ってたのに、オートリクシャーで来て、そこにそのタクシードライバーのブラザーが乗ってて、名前がヒロシで、彼が案内するって
もうわけわかんね~~~!!((o(>皿<)o)) !!
抵抗しようにもどこをツッコミ、どんな英語で伝えればいいかわからないし、
僕が考えてる間にも事態はどんどん進行している。仕方なくその流れにそのまま乗っていく。
オートリクシャーを降りた僕は、ヒロシに導かれるまま、バナラシの細い路地裏へと入っていった。
ヒロシは、ひっきりなしに英語と日本語のちゃんぽんで喋りつつ、歩いていく。
路地を抜け、階段をあがり、人家の庭のような空間を歩き、もう気がつくとどこにいるのか全然わからない。
まるで迷路のような空間、遠藤彰子の絵の中に迷い込んだみたいだ。
路地には牛のフンがたくさん落ちていて、何度も足元ににゅるっとする感触を感じたが、次第に踏んじゃうことが多くて気にならなくなってきた。
やがて込み入った路地を抜けて、ガンジス河が見下ろせる川岸に出た。
「ここから火葬場です、写真撮影は絶対ダメね」とヒロシは言った。
ヒロシは近くの河原を指差した。
火葬場と言っても、何か特に遺体を燃やす特別な施設があるわけではない。
普通の河原である。
ただその河原の二箇所から煙があがっていた。
布でくるまれたような細長いものを、木の棒で転がしながら燃やしている。
それが遺体のようだ。
よく話に聞いていた光景、でも、思ったほど衝撃もない。
ヴァラナスィーの街には火葬場が二箇所ある。
マニカルニカー・ガートと、ハリシュチャンドラ・ガート。
マニカルニカーの方が規模が大きく、ひっきりなしに火葬が行われている。一日に燃やされる遺体の数は200体を越える。 ハリシュチャンドラの方はそれに比べるとやや小規模だが、それでも150体ほどが荼毘に付されるという。
僕が案内されたのはハリシュチャンドラ・ガートの方だった。
既に河原の二箇所ほどで火の手があがっていた。
ハリシュチャンドラガートでは一日150体もの遺体が燃やされるそうだ。
それを専門の仕事にしている火葬職人が燃やしていくのだ。
やはり聖なるシヴァ神の街バナラシで荼毘にふされると、ニルヴァーナ、輪廻からの解脱が得られるという根強い信仰があるらしくインド中から遺族によって死者がこの街に運ばれてくるという。
僕は列車に乗せられてインド中からバナラシに集まってくる死体の流れを想った。
ここはガンジスのほとりの、死の街でもあるようだ。
その光景を見下ろしていると、新しい遺体が木で組んだ担架のようなものに乗せられて運ばれてきた。体自体は見えないように白い布でしっかりとくるまれている。その上にオレンジ色の布がかけられている。遺体が下におろされると、遺族がガンガーの水を遺体の周りにまきながらその周りをまわった。
やがて火がつけられ、少しづつ布に包まれた肉体は燃え始めた。
子供たちがそれを身じろぎもせず見守っている。
その煙が大きく立ち上り、僕とヒロシの方にも流れてきて、その中に包まれた。
しかし、なんの匂いもしなかった。
僕らが来る前から焼かれていたものはもう遠目にも真っ黒に炭化しており、それをまだ火葬職人が大きな棒を使いひっくり返したりしている。
本当に、こんなものを観光気分で見ていてもいいんだろうかと僕は思った。
しかしこのように何もかもが人目にさらされているのは日本人の感覚とはかなりかけ離れている。
おそらくこんな光景はもう完全に日常となってるであろうヒロシが
「あの焼いた灰はね、あそこに持ってこられるんす」
と言った。
「え、あれがそうなんですか?」僕は驚いた。
先ほどまでは気にも止めなかったが、河原の片隅にこんもりとした土の小山があった。
高さ数メートルはあるだろうか。
どうやらそれはすべてここで燃やされた遺体の灰のようであった。
一体、何万、何十万人分の灰なのか見当もつかない。
子供や、サドウー、蛇に噛まれて死んだ人、牛などは燃やされず水葬にされるという。
それらは神聖な存在とみなされており、燃やしてはいけないのだそうだ。
蛇に噛まれた人も、その範疇に入るのはどうやら蛇がシヴァ神の使いだとみなされているからのようだ。
火葬場を離れた河原で休憩しているとき、ヒロシが、「この街はシヴァ神の街ですから、SOMKINGがとっても有名ね」と言った。僕はヒロシの言わんとしていることにすぐピンと来て
「Im very interested」と言った。
「あとである場所に連れていってあげるね。それから、女の人もいるよ。イスラエル人のとっても
きれいな女の人いるところ紹介できる」
ほ~(^▽^)ヒロシはそんなこともやってるのか。
しかし、さすがにインドまで来てそんなことはしたくない。
欲しいのは (-。-)y-゜゜゜ だ。
ヒロシは、わかったとうなづき、立ち上がった。
再び路地裏の迷路を通り抜けると、小さなお堂のような建物の前に出た。
「さ、入ってよ」
とヒロシに促されその中に入ると、彼は床に持ってきた包みをひろげた。
「これガンジャクッキー、葉っぱ、アヘンもあるよ。 一服吸ってみるか?」
というので紙巻きのジョイントを作ってもらった。
火のついたそれを何回か深く吸い込み、息を止める。
ヒロシにも手渡して、二人で吸った。
何回かそれを繰り返したが、なれない環境にいるためかあまり意識が変化した感じはしない。
「今日はこれをやって、明日はLSDをしようか?すごいよLSDはぐわーーーっとなるよ。LSDはジキジキにもすごくいい。持って帰って彼女と一緒に使ったら喜ばれるよ」とヒロシはニヤッとする。
ジキジキの意味はもう完全にわかった(笑)
確かにLSDは興味がある。でも、この混沌としたバナラシの街で、ヒロシとあるいは一人でそれを試すのはどうも気が進まない。葉っぱの意識の変容が3~5位だとするとLSDは量にもよるが多分、5~10位だ。そしてそのように単純に比較できないほど質的にまったく違う。そんな遊び気分で使うのは違う気がした。しかもLSDと言われても、それが純粋なLSDかどうかは誰もわからないのだ。変な混ぜものがあるのは気持ち悪い。
「このクッキーはいくらなんですか?」と尋ねた。
「50米ドルだよ。葉っぱは、1g15ドルだ」
うーん、相場なんて知らないけど、なんかかなりボラれてるような気がする。
彼から買うのはやめておいたほうがいいような・・・。
しかもなんでルピーじゃなくて、ドルなんだろうか。
「今日は、どれもやめておくよ」と僕は言った。
するとテンションが高かったヒロシが急に顔を曇らせた。
「わかった、でも、今吸った分は彼に金を払わないといけない」
ヒロシが持参した商品は、彼の知人の売人から借りてきたものだったようだ。
「えっ・・・!?いくらだよ。」
「それは彼に聴かないとわからないね」とヒロシが言う。
嫌な沈黙が流れた。
僕はこのあたりからさっき吸ったジョイントの効き目が悪い方に現れて、不安や猜疑心が増幅し、軽いバッドトリップ状態になってきた。ヒロシに完全にハメられてる気がした。そしてこいつがつながってるその売人がとても薄気味悪く思えてきた。この流れだと何かまずいことが・・・鼓動が突然早くなってくる。しかし、僕はそのまま不安を怒りに変えて彼にぶつけた。というか何か感情の抑えが効かない状態になってきた。
「でも、それは君が事前に説明しておいてくれるべきじゃないか?それに君も吸っただろう一緒に!」
僕のテンションがおかしいことを察したヒロシは
「落ち着いて、ちょっと効きすぎてるぞ。わかった、その分は自分が払う、もう行こう」と言った。
ブツをすべてビニール袋に入れて、ほこらの一角に隠した。
よく考えたらここは礼拝の場所じゃないのか?
こんなところで、こんなことをしていていいのか?
僕の足元で何かが、パリンと割る音がした。
見ると礼拝所の飾り付けの一部が床に落ちていて、それを踏み潰してしまったらしい。
意識がぶっ飛び始めている僕には、それが何か不吉な兆しのようにおもわれた。
ヒロシと元きた道を戻っていると、地元の人が素焼きのツボを僕の足元のすぐ近くに叩きつけ、粉々にした。
割れる、壊れる、、、
なにか間違った「流れ」の中に巻き込まれている・・・そんな感覚が襲ってくる。

ヒロシがふと後ろを振り返り、顔をあげて、近くの建物の上の方にいる誰かと無言でうなづき、なにか合図を交わしている。こいつはなにかを企んでいるんだ。
「そこでチャイでも飲もう」と、ヒロシが僕を小さな店に連れて行った。
「さっきは、俺が金を払うっていったけど、じゃあ、いったい1gいくらなら君は買えるんだ」と聞く。
少し考えて、僕は「10ドル」と答えた。
「OK、その値段でいいか電話して聞いてくるから、ここで待っててくれ」とヒロシ。
少しチャイを飲み気分が落ち着いてきていた僕は「OK」と言った。
やがて戻ってきた彼は「11ドルだ」と言った。
「わかった、いいよ、それで」と僕が言うと
「よかった! 日本人やっぱり、ベリーGOODね」とヒロシは最初の満面の笑みを浮かべていった。
僕はもう早くヒロシから解放されたくなっていた。
明日も彼は案内するというが、この流れだと、またいろんなショップに連れて行かれるのは目に見えているし、彼の性根がどうも信頼できない。
「もういい、早くホテルに帰って休みたいんだよ」
最後に、as you like の観光案内料を払う必要があるのだが、僕は彼に200RS渡すことにした。
まあ、一応いろんな場所も見せてくれたし、、、
もっとよこせというかと思ったが、おとなしく受け取った。
僕はヒロシから受取った「黒い塊」を持って、リクシャーに乗り、今晩の宿へ向かった。
シートに背中をあずけて、街並みをぼんやり眺めている
なんか、そうしていると・・・
突然とてもリラックスした、愉快な気分になってきた。
なんか気持ちイイ~~っ(・∀・)
なんだ、これ、まだ効いてる。やっぱかなり強かったのかな。
思考の速度も弱まり、まったく見知らぬ街に一人でいるのに、まるで自宅でくつろいでいるように珍しい風景を楽しむような余裕が出てきた。と、同時にこの意識の変化によって今までとても気を張って旅をしていたこともわかった。ヒロシもいいやつに思えてくる。
ガンガーを見渡せるホテルにチェックインした僕は、部屋に入ると持参したパイプを取り出し、黒い塊をくだいて入れるとライターで火を点け、煙を思い切り吸い込んだ。そうすると、落ち着いた環境だからか、さっきよりもかなりハイになってきた。ホテルの壁に持たれていると、自分がその壁や空間となにか古い絆で結ばれているような気がしてきて、自分はずっと昔、バナラシの行者かなにかで、この壁のある空間で、大きな大木にでも体をもたせかけて瞑想していたのではないかというイメージが起こってきた。
やがて僕は旅の手帳に詩を書き付け始めた。
Very strange India!
バナラシ
みんなあるがままにいかがわしさ全開だ
leave me alone
君たちにはもう 関わりたくない
河とボクと二人きりにしてくれ
絵巻物を紐解くように
次から次へと違うインド人があらわれて
せわしく僕に喋りかける
まるで一度回すともう止まらない カルマの輪のように
フレンドの フレンドの フレンド
ブラザーの ブラザーの ブラザー
フレンドの ブラザーの フレンド
あなたたちはもしかしてみんなグルなんじゃないか
もう僕を君らが回す観覧車から下ろしてくれないか
君たちが僕を持ち上げて運ぶので
母なる大地に降りられないよ
段々吸いすぎて訳がわからなくなってきているが、それでも書き続ける
続きましては、
人間のテーマソング
タンタッラン タン タッラン
俺は生き物の王様さ~
タンタララン タンタラン
みんなよりちょっとだけすごいのさ~
King of animal! King of animal!
でもみんなよりちょっとだけ悪いのさ~
海を汚して 川とか埋めて
ひどいことにしちまうのさ
悪い王様だから
クーデター企まれ
時々地震が起こるのさ~
King of animal!
バカな王様
動物たちのバカ王様
もう段々ぐだぐだな感じに思考が溶解しはじめてるが、それでも言葉を書き連ねるのが面白く、詩を手帳に書き付けたりしながら、ひとりでクスクス笑い、ずっとパイプで煙をふかし続けて、夜までハイに過ごした。
2006年 3月12日 バナラシ
今朝も、目が覚めるとすぐに昨日ヒロシから買った黒い塊をパイプに詰めると、ぷかーっと一服。
いや、二服、三服、グニャッとなるまで吸い続けて、二度寝する。目が覚めると正午前。
ホテルのレストランに行って、トマトスープと野菜チャーハンを注文した。
レストランの窓からは、輝くガンガーの流れが見えた。
僕は持参した『ラストバリア』を読みながら、食事を終え、その後ホテルを出て今日は一人で河辺を歩いて見ることにした。
ホテルから階段を下りて、川原に出ると、川の中ではたくさんの水牛たちが首までガンガーの流れの中にひたり、その水牛の上に裸のこどもたちが何人もまたがって、一緒に水浴びをしている。とっても気持ち良さそうだ。
遠くに視線を移すと、孤を描いて流れるガンガーに沿って、バナラシの街並みが見え、午後の太陽を浴びて光っている。
なんだか、そこは日本とはまったく別の時間が流れているみたいに見えた。


河原をそのまま歩いていると、お尻を出して、河原に座り込んでいる人がたくさんいることに気づいた。
どうやらう●こをしているようだ。な・な・んだ、ここってトイレ??
河の近くにも、用を足して、河の水で洗い流している人がたくさんいる。
そのまま、川原を通りすぎ、ガート(沐浴場)にあがった。
ガンガーの岸辺にはいくつものガートが連なっている。
沐浴だけが行われるのではなく、生活の一部という感じで、子供たちが大勢遊んでたりする。
山羊や、猿など動物たちも多い。
あちこちにただ座ってぼーっとしている大人たちの姿も多い。
ひとりのわんぱくな子供が、子山羊の四足をつかむと、自分も回転しながらぐるぐると振り回し、最後に地面にぼーんと投げつけていた。ぼてっと地面に転がされた山羊は起き上がってあたふたと逃げていく。あまりの乱暴な遊び方(いじめ方?)に思わず僕は笑ってしまう。

壁に和尚ラジニーシアシュラムの、メディテーションキャンプのポスターが何枚も貼られていた。
それをなんとなく写真に撮っていると、ひとりのサリー姿の女性とすれ違った。
彼女の、腕や、顔が紫色のできものでびっしりと覆われているようだったので僕ははっとした。
いったい何の病気なのだろう。
何か日本では、存在しないか、隠されている人間の生の一側面がここではすべて、むきだしにされているように思えた。昨日、ヒロシに連れて行ってもらった火葬場の光景もそうだったけど、、、、
作家の遠藤周作が小説の中で『深い河(ディープリバー)』と呼んだ、それが僕の目の前を流れていた。
今でもたくさんの生者と死者がインド中から集う聖地、それは日本の聖地とはずいぶん違う。
一切の汚れを払い落とした(払い落とそうとした)場所が、日本の聖地(伊勢神宮など)とするならば、
インドのこれはどうだろう。まるでこれは汚れを落とすという発想など最初からないかのような、あるいは汚れもすべて飲み込んだようなそんな場所にある。人々は、ガンガーの流れで沐浴し、ガンガーに灰となって流され、ガンガーで用を足し、ガンガーでとれた魚を食べ、子供たちはその中で水牛に乗って遊ぶ。もうそこでは、生と死や、清と濁の区別など忘れ去られているかのようだ。
ガートを歩いていると、子供たちが、材木で道に踏み切りをつくり、通せんぼをしている。
どうやらこの先に進むには、通行料をよこせと言っているようだ。
もう少し歩こうと思っていたけど、もうそろそろホテルに帰ってもいい時間だったので、この辺でUターンすることにした。


haitakadori
DNAに含まれる情報を書き換えるんだ。また、音と色彩の活力を通じて、細胞を再プログラムすることもできる。DNAに含まれている情報は言葉を通じても伝達可能だ。なぜなら言語とは全宇宙のコード化された記憶を内包しているからだよ。」超次元の扉・クラリオン星人にさらわれた私 より
06-16 15:37特定の周波数を、色や言葉、音楽を通じて照射すると、遺伝子コードの鍵となる主要部を変化させることができる。だから、プログラムし直して、【新しい動力学的周波数】に反応するよう変更を加えることも可能となる。つまり特定コードの規範ホログラムを捉え、それを別のものに再転送することにより
06-16 15:32「語句や正句といった言語を構成するものと音楽は、遺伝子に刺激を与えられるようにコード化された周波数なんだ。君たちのDNAには、プログラム化され、後にプログラム調整も可能なシンタックス(統語・語法)が含まれている。このシンタックスが統制された刺激に反応するんだよ。
06-16 15:28グラハム・ハンコックの本に、ジャンクDNAは言語としての構造を持ってるという説が紹介されていた。意味はわからないけど、言葉としての性質が強いらしい。あと、よくアセンションの秘密が、音とか言霊にあると言われることとかを総合すると次の宇宙人の言葉は興味深い。
06-16 15:24ぼーっとしてると「たかひまつり」という言葉が浮かび、ググると「タカヒマラ」というワードに辿りつき、気がついたら半田広宣さんの講演動画を見てた。知的に興奮させられる。http://t.co/nSqx9oVP この人がチャネラーとは思えないシャープな知性だなあ
06-16 15:19
haitakadori
RT @h_ototake: マスコミの方々へ。高橋容疑者の逮捕は、たしかに視聴率が取れるのでしょう。部数が伸びるのでしょう。でも、それがいま本当に伝えるべきトップニュースでしょうか。いまなされようとしている政治的決断は、我々の生活に大きな影響を与えようとしています。報道 ...
06-15 22:26
其の3 カジュラホへ

インドにはツーリストを引き込もうとするいくつもの流れが存在する。
そこには巻き込まれると危険な流れもあるし、比較的安全なものもある。商業的なものもあるし、純粋な行為によるものもある。
そして、ひとたびその流れに乗ると、それは別のもう一つの流れとつながっており、その流れは彼を引き継いで乗せどこかへ連れて行く。
ふと気付くと、自分がなぜここにいるのか、ちょっと立ち止まって考えないとよくわからなくなってしまう。
わかることは、自分はいくつもの底流がうずまく、インドと言う測り知れない海原を流されている、木の葉に過ぎないと言うことだけ。
そして出来るのは自分を運ぶこの流れが好意的なものであると、信じ身を委ねる事だけだ。
そのような波に乗るのを一切拒否して、孤高に旅を続けるのもひとつの方法かもしれないが、初心者にそれは難しい。
僕がこの旅行を通じて、徐々に理解していったのは、これは無数の人との触れ合いの旅なのだということ。
名も知れない無数の人々に助けれらての旅なのだということだった。無数の人々がひとつの流れとなり、僕を乗せて運んでいた。
この見知らぬ土地においては、「自力」よりも「他力」が信頼できるものとなった。
そして、偶然と言うのはなにひとつないということ、目に見えない「流れ」を観察しそれを信頼するということが大切だということが
リアルな真実として浮かび上がってきた。
もっともそれは、あらためて自分の不信、そしてそれによって生じる怒りや、不満や、不安と直面するということでもあったのだが・・・。
ふと気がつくと、僕は見知らぬ車の後部座席に座っていて、前のシートで二人のインド人が激しく言い争っているのを聞いていた。
あ・あれ?なんでこうなったのだろうか・・・・。
時間を遡ってみると、こういうことになる。
アーグラーから午前8時に出発した列車は、予定時間を少し遅れて、午前11時前にジャンスィー駅に到着した。
目的地のカジュラホまでは、ここからバスで4時間ほどかかる。
ジャンスィーのことは「ちきうの歩き方」には殆ど掲載されていなかったので、バススタンドなどがどこにあるかは全くわからない。
駅のエンクワイアリーででも尋ねようか・・・・。
と考えながら、プラットホームをうろうろとしていると、リクシャワーラーが声をかけてきた。
僕はそのリクシャワーラーの顔を見て、なんとなく良さそうだったので、ついていった。
この頃から、僕はリクシャーに乗るときは、自然と顔(雰囲気と目)で決める感じになっていた。
とり合えずカジュラホまで行きたいので、バススタンドまで乗せてくれと伝えて、走り出した。
しかし、なんとこの運転手もインドマジックの使い手であったのだ。
どこから来たのか?とかいつまでいるのか?という質問のあと、突然魔法をかけはじめた。
彼は大声でまくしたてる
「君はカジュラホに行きたい。でもこの近くにはオルチャというとてもいい場所がある。ベリーベリービューティフル!
今日はオルチャへ言って明日カジュラホに行こう。今日はオルチャで明日、カジュラホだ。それでOKだね?」
え?
僕は一瞬頭がくらっときたが、もうこの種のインドマジックには抵抗力がついている。すぐさま我に返り、
「No、No,カジュラホに行きたいんだよ!」と突っぱねた。
あとでガイドブックを読むと、ジャンスィーから約20キロほどのところにオルチャ遺跡と言う観光スポットがあるようだった。
しかし、そんなところに行っていたら、日程が狂うし、今日予約してあるカジュラホのホテルに泊まれなくなってしまう。
僕が必死で拒否すると運転手は、「OK,OK、カジュラホに行きたいんだね」と楽しそうに笑って、第二弾の魔法を放ってきた。
「しかし、バスだととても時間がかかる。TAXIだと3時間ほどで行ける。とても快適だ。
バスで行くのはやめて、タクシーで行くといい。それでいいね?」
「いや・・・だ~か~ら~、I want go by bus!!」
と僕が大声で言うと、運転手はまた楽しそうに笑い、
「Ok,OK,Noproblem、君はバスで行くんだね。バスだと4時間ほどかかるけどね。タクシーだとたった3時間だ」と言う。
あ~まだ言ってるよ・・・。ホントにバススタンドに向かってるのかな?
「バススタンドに行きたいんだよ。わかってるの?」
「Ok,OK,バススタンドに行こう。NOタクシーだね。わっはっは。」
と一旦は話しが着いたように見えたのだが、この運転手は油断していると、他の話しの間に混ぜて、
さりげなく「タクシーで行こうか、それでいいね?」とか、「オルチャに行こう」とか言ってくるのであった。
ただでさえ分かりにくいインド人の英語に加えて、僕の中学生レベルの英語能力。
ついつい、「Yes」と言ってしまいそうになり、あわてて、「だ・か・ら!、カジュラホに、バスで行きたいんだってば!」と怒鳴る。
「OK、OK、NOオルチャ、NOタクシー。君はバスでカジュラホに行く。Noproblem!」
と彼は言う。
全く油断も隙もあったもんではないが、妙に明るくて憎めない感じであった。
僕も気がつくと、笑顔で怒鳴り返していた。
彼は向かい側から走ってくる自転車に気付くと、わざとそっちの方に少しハンドルを切って、すぐもとに戻した。
意味の無い無茶な運転に、思わず笑ってしまう。
すると
「楽しんでるかい!?」
と彼もにやっと笑う。
うーむ、楽しんでるかはわからないが、怒鳴りすぎて血行はよくなってきたようだ。
結局、バススタンドには無事到着したが、そこでまたタクシーの値段説明が始まった。
ここまで来ておいて、情けなく聞こえるかもしれないのだが、僕は、
あータクシーで行こうかな~ふにゃー(;´ρ`)
という気分になっていた。そのひとつの理由は、バスだとトイレにすぐ行く事が出来ないだろうということだった。
インドのトイレ事情は悪い。公衆トイレとかはあまりないし、あってもかなりひどい状態であることが多い。
しかも、トイレの前にはそのトイレの管理者のような人が座っていて、使い終わったらチップを渡さねばならない。
小銭がないとトイレにもいけないということになる。
ついでに言うと中級~高級のホテル以外のトイレはトイレットペーパーは置いていない。
というのは向こうの人はトイレットペーパーは使わず、水を使って手できれいにするからだ。
胃腸は現在のところ小康状態を保っていたが、バスで走ってるときに突然エマージェンシーになったらすごく困る。
タクシーで行くとしたら、1100ルピー(約3000円)かかるらしい。
この値段が高いのか安いのかわからないが、カジュラホまでは200キロ近くある。
払ってもいいように思えた。
その時、道路の向かい側に止まっているオートリクシャの中で、
日本人の旅行者が運転手と話しているのが目に入った。こちらに気付くと、彼らは笑った。
どうやら、彼らもタクシーで行かないかと勧誘されているようで、しかも、僕が乗っていたリクシャの運転手と
彼らの運転手は知り合いのようだった。
彼らは車を降りて、道路を渡ってきた。
大学生ぽい男性二人連れだった。
「こんにちはー」と二人が声をかけてきた。
「あ、こんにちは。」 僕も答える。久しぶりの日本人との遭遇だ。
「タクシーでカジュラホへ行くんすか?」と一人が言った。
「うん・・・最初はバスで行こうかと思ってたけど、なんか面倒くさくなっちゃって・・・」
と僕は言う。
すかさず
「三人だったら、一人、600ルピーでOKだよ!」
と運転手が言った。
600か、安いな・・・僕としては彼らと割り勘した方が助かるんだが。
しかし、どうも彼らはすでにデリーかどこかでタクシーに大金をはたいているらしく、用心深かった。
「運転手がね、バスは400ルピーくらいするしあんまり変らないって言うんですよ。ホントですかね?
ちょっと僕たちバス停まで行って確かめてこようと思うんですけど。」
「いやーどうだろ・・・。バス停まで行っても値段は書いてないと思うけど。」
だいたい時刻表すらないのである。
それでも彼らのうちの一人は、しつこく勧誘するドライバーに英語で、
「一度バス停まで行ってみてから、それから考えるよ!」ときっぱり言っていた。
僕はもう一人の方と、少し世間話?をした。
そこに僕のドライバーが割って入ってくる。
「カジュラホはとてもいとこだよ。とってもエロティックな彫刻がいっぱいある」
と言うと、大学生は
「まーた、こいつらはジキジキばっかりなんだから」
と元気に言い返した。ドライバーも彼の応答を聞いて肩を叩いて、わっははと笑う。
又、ジキジキ・・・。ううむ、インド人の発する謎の言葉ジキジキの意味するものとはやはり・・・まあ、あれしかないか。
彼らは結局、バス停まで行く事に決めたようであった。
「ここでさよならです!」
と律儀にもあいさつしてくれた。というか、今あったばっかりなんやけど(笑)
しかし、彼ら二人はなかなか明るくインド人とコミュニケーションしており、それを見ているとこちらも元気になってきた。
まあ、二人いるということで異国のプレッシャーも半減するのだろうが、
彼らのように僕もあまりかりかりせずにもう少し楽しんでみようかと思った。
そして、学生の時に仲間とインドを旅できる彼らが僕には少し、うらやましかった。
彼らと別れた後、僕は、リクシャワーラーの知り合いのタクシーに案内された。
リクシャワーラーは助手席に乗り込み、どこかに向かって走り出す。
僕は後ろに乗って、ひさしぶりに日本人と交わした会話を反芻しながら、彼らのヒンズー語の会話を聞くともなく聞いていた。
すると、次第に二人の口調が言い争っているみたいに激しくなってくるではないか。
どうやら二人は僕が支払う料金のことで言い争っているようである。
一応、調子のいいドライバーの方とは1100ルピーと言うことで合意しているのだが、
それにタクシードライバーが納得しないみたいだ。
しばらく激しく言い合ったのち、調子のいい方のドライバーが後ろを振り返り、
「1300ルピーでもいいか?」と訊いてきた。
あ~もういいよ~(;´Д`)1300でいいよぉ~
もう早くカジュラホに出発したい。
ガソリンスタンドでタクシーから降りた、調子のいいドライバーは
窓から顔を突っ込み、「私は行くよI'm going・・・」と言った。
「君は、NOオルチャ、NOタクシーと言ってたね。でも今はNOバスだ。君はタクシーでカジュラホに行く。」と笑った。
その喋り方はリズミカルで、音楽的だった。なにか深遠な真理を語っているような気さえした。
彼が手を差し出してきたので、僕たちは握手した。
「グッバーイ」と僕は言って、手を振った。
したたかで調子のいい感じだが、やはりどこか憎めないところのあるリクシャワーラーだった。
僕はタクシーの運転手に、「あなたの友達はとても面白い人ですね」と言おうと思ったが、
言い回しを考えているうちに機を逸してしまった。
その友人は、彼とは少し違う寡黙なタイプだった。
タクシーはジャンスィーの街を抜けて、一路カジュラホへと向かった。
道中もあまり話すことはなく、僕は窓の外の風景を見たり、うとうとしたりしていた。
カジュラホは、男女が交合している姿を彫った無数のミトゥナ像で有名な村である。
小さな村だが欧米や日本からの観光客は多い。ホテルはたくさんあり、日本語を話す村人がいっぱいいる。タクシーがカジュラホに入った途端、村の人がやたら流暢な日本語で話しかけてきた。
どこに泊まるのだ?というので、Mホテル、と言うと
「ガイドつきで観光するように勧められるかもしれないけど、お金払わないほうがいい。チャリでも借りて自分で回れるからね。」
とのこと。インド人が、チャリとか普通に言ってるくらいだからこの村の日本語レベルは高いと見た。しかし、逆になんかうさんくさい感じもするが・・・。
場所がわからずタクシーで、予約したMホテルの近辺をうろうろしていると、バイクに乗ったインド人がタクシーの窓越しに話しかけてきた。「ホテルやってます。よかったらどうぞ」とまたきれいな日本語である。
名刺を手渡されるが、見てみるとそこにMホテルの文字が。
あわてて、「あ、僕予約してます!」と言う。
どうやら、僕が今日来ると言うので村の入り口までバイクで迎えに来てくれていたということであった。
ホテルの前まで誘導してもらう。
リュックをかついで、タクシーを降りるとホテルの前にネパールの帽子みたいなのをかぶっているおじさんがぼけっと座っていた。
日本人のようである。
「この人、ずっとインドにいるんですよ。ボケてるからお金払わなくて」とホテルの人が言う。
僕は「こんにちは」と頭を下げた。
「タクシーに忘れ物ないですか?」とホテルの人に確認されて、
「あぁ、大丈夫です。」と答えると、そのネパール帽のおっちゃんがこっちを見て
「・・・足跡、忘れてきたんじゃないか?」とぼそっと言った。
僕はその禅問答のようなシュールなギャグにぎこちなく愛想笑いした。
長距離の移動で疲れたので、ホテルの部屋で少し眠った。
目覚めるともう夕方。少し腹は減ってきているのだが、初めての場所で夜に出歩く気がしない。確かホテルにレ
ストランがあった。
部屋を出てそこに入ってみると、出迎えてくれたホテルの兄ちゃんと、僕が足跡を忘れてないかきにしてくれた日本人のおじさんが座っていた。まだ調子があまりよくないので、僕はお粥のような料理とラッシーを注文することにした。
食事をしながら、その日本人の年の頃5,60くらいのミッキーさんというおじさんと話しをした。
ミッキーさんは去年からずっとインドにいるらしい。
なんでもこっちでA型肝炎になり、手術をするために二月ほど日本に帰っていたが、うまくいったのでまたこっちに戻ってきたらしい。
なんか相当インドをあちこち転々としており、こっちに骨を埋めるつもりのような印象を受けた。
「ほら、これ手術のあと」と言って服をめくり、お腹の傷跡をみせてくれた。
「こっちだと日本からの年金で、十分暮らせるからねえ」とミッキーさんは言う。
いったいどういう人生を送ってこられたのかわからないが、不思議な雰囲気の人だった。
ホテルの兄ちゃんは、そんなミッキーさんの話しをなんども聞いているのだろう。いくらか退屈そうに隣であいづちを打っている。
窓の外からは雷鳴が聞こえ、遠くに見える観覧車が稲光に照らされているのが見えた。
また頭が痛い。ガンガンする。日本でも慣れない環境とかで頭痛がひどくなる時はあるけど。
お腹の様子も怪しい。
アグラーで下痢が始まってから二日くらいはたっているのに、よくなる気配がない。
差し込むような痛みと、水のようにくだす状態がずっと続いている。
早く部屋に引き上げて休むことにした。
早く寝て、腹痛にはっと目を覚ますと、トランクスを汚していた。あぁ・・orz
2006年 3月8日
翌朝、目が覚めると頭痛はすっかり治り少し元気になっていた。
ふわ~~っ゚+。(o´ェ`o)。+゚
目が覚めるとインドにいることも段々違和感なくなってきたなー。
さて今日はどうしようか?
ホテルの兄ちゃんはまた有料のガイドを紹介してやると言ってるんだけど、今日は一人で
ぶらぶらと歩いて東の寺院群にでも行ってみようかな。
Mホテルを離れ、寺院郡の方に近づくと、なんだか辺りにいる人がデリーやアグラーで出会ったようなインド人とは
ちょっと違う感じのタイプになってきたようだった。
自転車ですれ違いざま「ハロー」と声をかけてくれる老人。
その声は深く、表情が驚くほど穏やかで優しく見えて、僕ははっとした。
子供を抱いたサリー姿の女性も、挨拶をしてくれて僕をじっと見つめる子供に「ほら、こんにちはって言いなさい」と言っている。
裸に近い格好で走り回っている子供たち。
半裸に近い姿で、布を両手に振り回しながら野原を舞うように駆けている。
なんだかそれがとても自然なダンスのように見えて、美しく思えた。
この子達は学校に行っているのだろうか?
とても貧しそうだけど、カースト的にはどの辺にいる子供たちなのだろう、というようなことを考えてしまう。
でもここでなぜか人間が美しい、というようなことを感じている自分がいた。
古い寺院の周りにはたくさんの牛たちが放牧されていた。
たしかに寺院郡も印象的だったが、動物と、自然と、そして人々と、それらが溶け合ってそこを流れるゆったりとしたリズムに
こころを奪われた。
カジュラホは一応観光地だけど、そういう騒々しさとは離れて静かな暮らしをしている人たちの姿を見ることができた。

食事は「シバジャンタ」という「ちきうの歩き方」に載っていた日本食を出すというレストランに行ってみた。
さっそく親子丼を注文する(#^.^#)
わが胃腸よ、せっかくの日本食だ、どうかしっかり吸収したまえ・・・。
店には日本人の若い男性がいた。日本人を見つけると、必ず会話が始まるというのはやはりインドの特徴だろう。
彼はバックパッカーだった。
タイ・インド・ネパールなどを三ヶ月かけて回るという壮大な旅の途中だった。
お互いにたどってきたルートを話し合ったりした。
日本で日本料理の修行をしてきたというオーナーもなかなかナイスガイで、なんと!料理をディスカウントをしてくれた。
今まで散々インド人に金を吸い取られているように思えた僕は、これにとても癒されたのだった。
しかしバックパッカーの彼が教えてくれたのは、ちょっと心配な情報だった。
「バナラシで、爆弾テロがあったらしいんですよ。イスラム過激派の犯行みたいです」
「そうなんですか・・・!僕はこれからバナラシにいく予定なんですけど」と僕が言うと、
「僕もですよ」と彼は言った。
バナラシに行って大丈夫なのかということも気がかりだったが、日本にいる家族や彼女がこのニュースで心配してないかと
いうことも気になった。日程までしっかり説明してないから、僕がどの街にいるかは知らないはずだった。
明日にでもどこかネットカフェに入って、一応第一回目の近況報告でもしといた方がいいかなと思った。
この事件だった→聖地バラナシで爆発2回、12人死亡 爆破テロか/毎日新聞
雨がぱらぱら降り始めたので、僕は早足でホテルへの帰路をたどった。
夜になるとまた雷雨が始まった。
突然部屋の電気が消えて、真っ暗になる。
あーこれがインドの停電ってやつですね。\(◎o◎)/!
僕はベッドの上に座って、真っ暗闇の中で雨と雷の音を聞いていた。
一時間ほどして突如電気はついた。しかし一分と経たずに、また落ちる。
そして再び、いつ終わるともしれない雨と暗闇、雷光である。
もし真夜中であろうとあかあかと光を放つ都市を目指して、西洋型文明が闇との戦いを続けてきたのであれば、
インドのこの田舎町は闇との戦いにまだ完全に勝利していないことになる。
それはテロリストのように突然生活の中に侵入し、生活を中断させる。
しかし、その原初の闇にはどこかこころを惹きつけられるものもある。
暗闇の中でライターをつけて、タバコに火をつける。
そのかすかな火種を見つめていると、なつかしいやすらぎを感じるようだった。
闇と、あの大地、古来より人間はそれらの中に飲み込まれる恐怖を感じてきたのではないか。
そしてカオスを否定し、絶対的な明るい世界を求めた。
しかしそれは人間の欲望と恐怖に基づいた、閉じた小宇宙だった。
閉じた小宇宙は一種のがん細胞となり、地球を破壊する。
闇と大地は、きっとそれを黙って見てははいまい。
インドが汚なかったり不便なのではなく、僕らが滅菌された世界に、生きすぎてるだけではないだろうか。
ここでは文明の小宇宙はまだ不安定だ。でもこれくらいでちょうどよくはないのか。
僕はいろんなものに依存しすぎている自分に気づく。
それに気づけば少しは野生に帰れるだろうか。
大地の豊かさと、美しさ、底知れなさを思い出せるだろうか。
タバコも燃え尽き、暗闇のなか、そんなことに考えるのに飽きてきても、電気はなかなかつかなかった。
2006年 3月9日
昨日は、朝にカロリーメイト少々、それにシバジャンタで親子丼を食べただけだったので、今朝はからだに力が
入らないような気がした。毎朝のことだが、いまだにホテルの部屋から外に出るのが億劫だ。
向こうから声をかけられ、流れに巻き込まれ、大金を使ってしまうということが嫌になってきた。
これはもう自分の行くところだけをしっかり決めておいて、誘いは一切はねつけ頑固にひとり進んだほうがいいのだろうか。
ブッダの言葉で有名なものが 「ちきうの歩き方」の冒頭にも載っている。
寒さと暑さと飢えと渇えと
風と太陽の熱と虻と蛇と
これらすべてのものに打ち勝って
サイの角のようにただ独り歩め
というやつだ。
これを現代風、かつ今の僕の状況風に直すならさしづめ次のようにでもなるだろうか。
リクシャワーラーに
物売りに
悪徳旅行代理店に
お腹ぴーぴーに
つり銭のごまかしに
MY FRIENDに
MY BROTHER
これらすべてのものに打ち勝って
さいの角のようにただ独り歩め
と
11時頃、ホテルを出てインターネットがあるレッドバンガローという店に行き、ラッシーとターリーを注文した。ターリーとは、こういうお皿にいろいろ載ってる料理です↓

オーナーは比較的無口で実直そうな感じであったが、他のテーブルがらがらなのに、僕と同じテーブルに座り、
なにかしゃべるでもなくそこで新聞を読んだりしている。
インドの小さなレストランって客が来ると、オーナーとかが同じテーブルに普通に座ることが多いのに気づいた。
なんだろう。もてなしているつもりかもしれないが、正直落ち着かない。一人にしてくれないんだよなあ・・・。
そこにオーナーの子供もやってきて、紙にボールペンでアルファベットを書き、僕に
「ねえ、うまい?うまい?」と見せてくる。可愛いので少し話していると
その背中に「大和魂」とかかれた幾分うさんくさいTシャツを来た青年がやってきた。
どこから来たのか?とか、結婚してるのか?とか(これインドでよくされる質問ベスト5に入る)お決まりの会話が続き、
僕はバックプリントの「大和魂」が気になったので
「それってJapanese soulっていう意味だよ」と言うと、少し怪訝そうな顔をしていた。
あとでその話しを日本の知人にすると、「それ訳するならJapanese spiritじゃないかな。japanese soulじゃ
日本人の霊魂みたいな意味になるんじゃない」と言われた。そうか、確かに。「アナタ セナカニ ニホンジンノレイコンテ
カイテアリマース」って言われたら変な気になるわな。
このレイコン君が、店の外に止めてあるバイクを指差して「あそこにある黒いバイク、俺のだから、近くの滝まで連れて行って
あげるよ」と言った。
「business?」と聴くと、「No freiendship」だと言う。
ただオイル代として100ルピー出してくれと言った。
滝まで38キロほど。オートリクシャーの相場より高いくらいの料金なので、あきらかにビジネスでは。
首を振ると、
「じゃあ、半分、50持ってくれ」
まあそれくらいならいいかなと思い、「OK」と返事しバイクの後ろに乗った。
走ること30分ほど、自然公園のような場所に着くが、「さあ入場料払って」と、僕は二人分のお金を出した。
レイコンは「あとは彼にガイドしてもらってよ」と向こうの方にいるインド人を指差した。
ガイドが「滝」の場所まで連れて行くが、明らかに水が全く流れておらず滝は完全にシーズンオフである。
その枯れた滝の前で、ひとしきり聞き取れない英語で解説をしたあとガイドは100ルピーを要求した。
僕はこのあたりからなにやらどす黒い怒りのような感情がこみあげてくるのを感じていた。
茶店のような場所に座って休むと、またたくさんの物売りがわらわら寄ってきていろいろ売りつけてくる。
シーズンオフで収入がないのかもしれないが、それにしても・・・
「帰る!!」と僕は英語で強く言った。
「ちかくにワニ園があるから、それを見たくないですか?」とレイコン。
何がワニだ。どうせそこにも別のガイドと物売りが待ってるんだろう。
ワニがいるかどうかもあやしい。
「NO!」
「楽しくないですか」と言われ
「There is no water fall!」と一言きつく返す。
もうこいつの後ろになんか乗りたくないが、しかたない。
行きと同じようにレイコンにしがみつき帰路をたどっていると、レイコンは信じられないことに
「タバコ買ってくれませんか?」と言い出した。
僕はなんというか言葉を失い、黙っていた。もう一度、同じことを言うので
力なく「no・・・」というのが精一杯だった。
レイコンにどこかネットが使える場所で降ろしてくれるように頼み、彼と別れ店にはいった。
店の中では小さな子供が、はしゃぎながら「Im okamura ナインティーンナイーン!」と笑いかけてきた。
僕はなんか疲れてきたので、彼の相手もそこそこに、
YAHOOメールにログインして、彼女へのメールをつくりはじめた。
だがどうも日本語が使えないようなので、メールはこんな感じになってしまった。
Dear R
gennkidesuka boku wa gennkidesuyo.
ima kajyuraho te iu machiniimasu
Banarashi de tero ga attakedo buzidakara shinnpaishinaidene
mata me-rudekitarashimasu
Namasute!
なかなかさっきのレイコンとの一件が頭から離れず、キレてしまったことに自己嫌悪を感じていた。
もしかしたら、日本人と価値観が違うだけで、少しはフレンドシップでやってくれたのかもしれないのに。
とかいう考えがなかなか頭から離れない。
部屋で夕方まで休み、食事に出るとき、ホテルの前のいすにMホテルの兄ちゃんと、他数人彼の知人と
思われる人たちが談笑していた。
「どこへいくんだ?」と声をかけてきた。何回か言葉を交わしたことのある人だった。
「あ、食事に・・・」
「あそこの角を曲がって、少し行くと安くてうまい屋台があるよ。」と一人が教えてくれた。
「サンキュー」と僕は言う。
彼の知り合いは面白そうな顔をして、
「この人、いつもは女の人にしか教えないけど、あなたいい人だから教えたんだよ」と言った。
僕は笑ってもう一度お礼を言って、教えてもらった屋台にむかった。
なんかその言葉が妙に疲れ気味のこころにやさしく染み込んだ。
其の2 アグラーへ

2006年 3月6日
午前6時にデリーを出発したシャブダイエクスプレスは、朝もやに包まれた平原の中を走っていた。
駅を発つ頃にはまだ薄暗かった空も徐々に白み始めている。
その朝は5時に起き、フロントで雑魚寝しているホテルの人を起こし寝ぼけ眼でチェックアウトの手続きをしてもらった。
平原全体は乳白色のもやで覆われていて、遠く地平線に近い木立はまるで霧の海の中に浮かんでいるように見える。その霧の海を、円く、赤く輝く昇ってきたばかりの太陽が照らし始めた。上空を鳥たちが編隊を組んで飛んでいく。
すべてが完璧に美しく見えた。
僕はモーニングサービスで出された、熱いコーヒーを飲みながら、じわっとする幸福感に包まれた。
いやー贅沢だよね、これ。
僕は一月ほど前に派遣のテレオペの仕事を辞めたばかりだったが、ややこしい案件や、クレームを受けたりして頭を下げていたのもこれを体験するためだったら報われるよな~うんうん、と思ったりした。
僕はすばらしい一日の始まりを予感した。 ・・・列車が、駅に着くまでは・・。
アグラー駅に到着したのは、午前8時前だった。
アグラーは、おそらくインドと言えば誰でもが思い浮かべるであろう、タージ・マハルのある街である。
デリーから近いということもあり、ここに立ち寄る人は多いだろう。
雰囲気的には、デリーのような騒々しさはなく、場所によっては田舎町的な風情もある。
僕はアーグラーでは、駅からリクシャーを拾うのではなく、とにかくタージ・マハル近辺まで歩いてやろうと思っていた。
早くも、リクシャーワーラーには出来る限り関わりたくなくなっていた。
しかし、列車が駅に到着するやいなや、戦いの火ぶたは切っておとされた。
プラットホームに降りるとすぐさま、タクシーかリクシャーの客引きが続けさまに声をかけてくる。
インドでは、切符がなくてもプラットホームまで普通に入っていくことが出来るのだ。
ホテルは予約しているのか?とか安いプリペイドタクシーがあるとか、まくしたてる男に一切返事をせずに歩いていく。
しかし、男はしつこい。ずっと僕の隣に並んでついてい来る。しかも口調がどんどん、きつくなっていくようで気味が悪い。
ひたすら、NO,NO,NO!といい続け、駅前を通り抜ける。
あれ?しかし、ここはどこだ?
どっちに向かって歩けば、いいのだろうか。
そのとき又、リクシャーワーラーが声をかけてきた。
どうやら、言われたとおりのところに行く、どこにも連れて行かないと言ってるようだ。
その言葉をそのまま信じた訳でもないが、僕は、本当に言われた通りのところに行くんだなと念を押し、彼のリクシャーに乗り込んだ。
タージ・マハルに行くのは後にして、先にホテルにチェックインすることにした。
僕がデリーで予約したホテルのパンフを見せて、ここに言ってくれというと、このホテルは高いよ、
それにタージ・マハルからも遠い。もっと安くていい場所のホテルを私は知っている、と言い出した。
てっめ~この野郎、話しが違うじゃねえか (゚Д゚)ノ
僕は、「いや、もうここに予約を入れてるし、料金も既に払っているのだ」というが
僕の英語がわかりにくいのか、わかってるのにわからないふりをしているのか、男は、「ここは高い!タージからも遠い」をくり返す。
こりゃ理屈を説明しても労力を費やすばかりだ。
僕も、とにかくこのホテルへ行きたいんだをくり返す。
押し問答のような対話の末、彼はようやく了承したらしく、ホテルへ向かって車を走らせた。
しかし、ホテルの入り口に到着すると、男は
「さあ、俺はここで待ってるから、部屋に荷物を置いて来い。」
と言った。
え?(?_?)
一瞬、意味がわからないが、どうやら、僕を乗せて市内を観光するつもりのようである。
b いつのまにそういう話しになったのかはよくわからないだが。
またしてもインドマジック、ラリホー!
はいたかAはねむってしまった! (-_-)゜zzz…はいたかBはねむってしまった!(-_-)゜zzz…はいたかCはねむってしまった!(-_-)゜zzz…
僕はふたたび、自分の意思が麻痺するのを感じた。
こうしつこくされると、もう、どうでもいいや好きにして~ほえほえ~という気分になるのだ。
NOと言い続けるのは、結構な精神力を必要とする。
チェックインして部屋に通されてみると、デリーの旅行代理店のオヤジが言っていた通り、そこはなかなかいいホテルだった。
部屋の中にはエアコンもテレビもあり、バスルームには浴槽がついていた。
インドでは中級以上(多分一泊1000ルピー程)のホテルでないと、浴槽はついていない。
荷物をおろして、さあ出て行こうかとしていると、ドアが激しくノックされホテルの従業員が入ってきた。
こわおもてのインド人だった。
彼は、ソファに座り、僕にもその前に座るように言った。
「オートリクシャーがホテルの前で待っているけど、あいつは帰した方がいい。
アーグラーのリクシャーワーラーはみんな君を騙すだろう。観光するならリクシャーは使わない方がいい。
私が帰してやるから、ここまでの料金を渡しなさい」というようなことを言った。
「観光するなら、車を手配してあげよう。そうすれば、1000ルピー程で全ての観光地を回れるよ。」
また1000ルピー・・・。(-_-;)
さすがに僕は、行く先々でインド人の言う事を全て聞いていたら、日本に帰る金もなくなってしまうということに気付き
危機感を持ち始めていた。大体僕が持参した旅の予算でインドを回るとすれば、一日の出費は800~900ルピー以内で
やりくりしなければいけないのだ。
なのに僕はデリーでたった一日の内に、一万ルピー近く使ってしまった。
非常時に備えて、トラベラーズチェックを多めに持ってきているが、ここらへんでちょっと気を引き締めないとヤバい
というのがわかってきた。
僕はとりあえず、今は疲れて眠りたいから・・・と車の話しはうやむやにし、リクシャーの料金だけを渡した。
みんなが自分から金を吸い取ろうとしているような気がした。
一体、誰を信じて、誰を疑えばいいものやら。
少し経って、部屋の電話が鳴ったが、僕は出なかった。
少し時間を置いて、また鳴る。放置する。
入浴中にもまたドアが激しくノックされた気がするが、知ったこっちゃない。
こっちは客だ
やつらにはもう関わりたくない。
少し眠って目を覚ました後、僕は考えた。
はっきり言って、外には出たくない。
だが、せっかく飛行機に10時間も乗って辿りついた国。ホテルの部屋にこもっているのも、馬鹿みたいだ。
決めた!オートリクシャーには今日は絶対乗らんぞ!
必ず、歩いてタージマハルまで行ってやる。
さっきのオヤジはタージマハルまで10キロ以上あると言っていたがホントかどうかわかったもんじゃない。
地図上ではせいぜい、二三キロのはずなんだから。
ホテルの人間にどこに行くかと尋ねられたら、ただ散歩するだけだと言おう。
そうすれば、余計なおせっかいはできないはずだ。
意を決して部屋を出て、外に出ようとすると、さっきのこわおもてのオヤジはいなかったが、フロントの女性に呼び止められた。
「Excuse me sir・・・ Where are you going?」
「Just walking around」と僕は答える。
すると、彼女は「もしタージマハルまで歩いて行くんだったら、4時間くらいかかりますよ」と言った。
よ・四時間??
なにそれ??往復8時間だとあなたは言うのですか(-_-;)
嘘でもホントでもその発言にちょっとびびったが、態度には出さずに、
「OK、サンキュー」とだけ言ってホテルを出た。
絶対にリクシャーには乗らないと、こちらが決めていても、向こうは必ず声をかけてくる。
なんだか、この街ではデリー以上に日本人である自分が目立っているように感じられた。
しかし、もうデリーにいたときの俺ではない。
いくら安くても、リクシャーには乗らない。
なぜか?
歩きたいからだ!「I want to walk!」あんたたちに用はない!
交渉の余地の無い言葉の防護壁を見つけた僕は、しつこくされるたびに
I want to walk!
と言って、彼らをはねつけた。
しかし、そういってみると、あるリクシャワーラーは「それじゃしょうがない」と言うように笑って
「タージマハルならそこの角を曲がるんだよ。」と教えてくれた。
彼は去り際、どこから来たのかと言う質問に、日本だと答えると
「私の友達が、アイチのトヨタで働いてるんだ。」
と言って手を振った。僕も手を振り返した。
彼と話してふっと肩の力が抜けるのを感じた。
そして、ここにも普通の人間同士の触れ合いがあることを思い出す。
からかうように口笛を吹かれたり、バイクで通りすがりに手を振ってきたり、「ナマステー」と声をかけられる。
物珍しそうな目、親しげな目、異質な外人を見る目、いくらか反感がこもった目・・・いや、それは僕がそう思いこんでいるだけなのだろうか。
物売りなら無視する事も出来るけど、好奇心で声をかけてくれる人にはこちらも挨拶を返さないといけないように思う。
そのそれぞれに対応するのが疲れる。もちろん、全部にリアクションをとり切れず、たまにははからずもシカトしてしまう。
ようやくタージマハルの近くに来た。
ホテルを出てから40分くらいしか経っていない。
4時間かかるってどういう計算だよ、おい。
小高い丘陵状の公園があり、そこへの道を登っていくと、10才前後の子供達数人が
しょぼいタージマハルのキーホルダーを売りつけようとしてきた。
一人が僕に、「50ルピー、50ルピー」と売りつけようとしているのをもう一人の少年が
「買わない方がいい、no good! no good!」
と僕の腕を取って言う。
商品をけなされた方は、からかう奴を殴るような真似をする。
その掛け合い漫才のようなやりとりが微笑ましく、
「いくら?50?No、No」
と笑いながらあしらっていると、じゃあ二個で50だというので、買ってあげることにした。
金を払うと、やったぜーと言う感じで駆けていく。
No good Nogoodと言ってた方も売れたことを喜んで一緒に走っていく。
ボロいもうけなんだろうか。
生き生きとした彼らの表情や動きが、印象に残る。
公園のなかは静かで、木々の間をリスが走り抜け、日本では見られないようなカラフルな小鳥をあちこちにみかけた。リスはデリーの街中の街路樹にも普通に生息しており、最初は、おおーかわいいなーと思ったが、
見慣れてくるとネズミの一種みたいに見えてくる から不思議である。
しばらくそこで、緑を堪能してから、ホテルに帰った。
なんかめんどくさくなってきて、至近距離までは来たがタージマハルに入るのはやめといた(爆)

(⁰︻⁰) ☝ここ、行ってませんw

タージの近くで客待ちのラクダさん
ホテルに帰って、トランクスとTシャツというリラックスモードで一息ついていると、ドアが激しくノックされ、
こっちが返事するのを待たずがちゃっ!とドアが開きさっきのこわおもてのインド人が入ってきた。
「どうしてドアがロックされてないんだ?」とぶすっとした顔のまま詰問する口調で言う。
「あぁ・・I forget・・・」
「危険だから、ドアは毎回ロックしなければいけない。」
「OK、わかりました。(もー勝手に入ってくんなよな~)あ、そうだ、ルームサービスを利用したいんですが。」
「OK,ボールペンと紙を持っているか?」
ボールペン?あーショルダーバッグの中に入ってたかなー・・・。
バッグを開けてみると、あったはずの場所になかった。あれ?おかしいなぁ。ここに入れておいたはずなんだけど。
そうやってごそごそしていると、彼が僕のバッグをとりあげて逆さにすると、ぶんぶん振ってその中身をベッドにぶちまけ始めた。
あ~れ~・・・ちょ、ちょっと・・・いやーん゚(゚´Д`゚)゚
ガイドブッグや、航空券や、パスポートなど大切なものがベッドの上に転がり出る。
それと一緒に奥のほうに入っていたボールペンも出てきた。
「ほら、あったぞ」・・・・って。
あのね~、出てくりゃいいってもんじゃないぞ。
僕はメニューを手にとって、野菜カレーとラッシーを注文したいのだが・・・と言った。
すると、彼はベッドをぽん、とたたいて、Sit!と言った。
僕がベッドの上にお座りさせられると、ボールペンを渡してやぶいたメモ帳に注文を書けと言った。
僕は正座したまま、紙に野菜カレーとラッシーと書いた。
それを渡すと、彼は電話の方に移動し、受話器を持ったあとまた近くのベッドのシーツを叩いてここに座れと言う。
どうやら常に僕を近くに、はべらせておきたいらしい。
そして電話をフロントかどこかに掛けて、注文を伝え、出ていった。。
ベッドの上に正座で取り残された僕は、困惑する。
あのーそれだけだったら、最初から電話してくれや(^^;わん
あーわからんインド人は、謎や。
夜になると、また不安とさびしさの波が押し寄せてきた。
まだ、インド三日目なのだが日本を出たのが遠い昔のように思えて仕方ない。
それどころか、あのデリーのメインバザールのホテルをチェックアウトしたのが今日だと言うのが信じられない。 毎日環境が変るとこれ程までに時間の流れが変るものなのだろうか。
いつも当たり前のように使っているものがない。
携帯もない、インターネットもない。
日本にいれば相方とは毎日メールしているが、もちろんそれも出来ない。
さびしさに耐えかねて、テレビをつけた。
ヒンズー語の放送が多いが、英語のものもある。まあどちらにしろ、わからない。
わからないが、人の声を聞いているとやはり寂しさはやわらぐ。
日本とくらべて、バラエティー的な番組は少なく比較的真面目な感じだ。動物とか自然現象の番組を放送していた。
同じCMが何度も流れた。
PC関係のものだと思うが、アニメーションで蟻の行列が歩いている。
アリたちはすれ違うたびに、触覚を触れ合わせて「Hello」と言っている。
無数のアリ達が、あちこちで、すれ違うたびに挨拶を交わしている。
Hello!・・・・・ Hello・・・ Hello・・・・・ Hello!・・・・・・・
どことなくインドの旅を思わせる映像だ。
そうこうしていると
お腹の調子がおかしくなってきた。
どうもさっきのカレーを食べてから兆候はあったんだが・・・。
きりきりと腹部全体が痛む。
トイレに何回か駆け込むが、すっきりしない。
とりあえず日本から持ってきたビオフェルミンを飲んでおく。
翌朝、僕は午前5時に起きた。
眠い。
朝早いというのもあるが、夜中にまた腹痛が起こり、二三回トイレに走ったのだ。
早くもアーグラーは今日でさよならして、カジュラホに向かう予定である。
まあ、アーグラーにもこのホテルにも未練はない。
カジュラホには鉄道の駅は駅は無いので、まずジャンスィーという街まで列車に乗り、そこからバスに乗ると言うことになる。
非常に腹の調子が心配だったが、仕方ない。
フロントでチェックアウトするときに、両替をした。
オートリクシャーに乗るときは、10ルピーを大量に用意しておいたほうがいい。
大きい札を出しても釣りを持っていないことが結構あるからだ。
その時も100ルピー札を10ルピーに両替したのだが、フロントの男は10ルピーを7枚ほど渡しただけで、OK?という。
僕はNo,Noと首を横に振りながら残りよこせとジェスチャーで伝える。
彼はにやっとして、残りを渡す。
あのな~・・・・(-_-;)
日本でセブンイレブンの店員が客にこんなことやってたら、ぶん殴られるぞ。
しかし・・・
どこかでなんか、もうこういうやりとりにも少し慣れてきたのを感じる。
アーグラー・カント駅までは、十代の少年が運転するオートリクシャーで行った。
駅までいくらか?と聞くと70ルピーと言うので、それは高いだろ、もう少し負けろと又やっていると、
どこからやってきたのかリクシャワーラーのじいさんがいきなりやってきて隣に付け、いや、70だ。70!と息巻いた。
えっあんた誰??この子とどういう関係? (;´Д`)
「40だ!40じゃなきゃ、降りるよ」
とリュックを持って車から降りる振りをすると、やっと少年は「OK、OK」と了承した。
彼は約束通り、40で駅まで行ってくれた。
初めてこっちの要求が通ったので、僕は少し自信が出てきた。
僕に、大いなる源より天啓がひらめいた
ぴか~~ん(☆∀☆)
そうか!降りるふりをすればいいんだ。 (;・∀・)
2006年、3週間ほどインドを旅しました。
その時に書いた旅行記をアップしてみます。
一応書き上げたものの、なんとなくださないまま6年も経ってましたが、もしかしたら今年の終わりくらいにまたインドを訪れるかもしれず、その前に前回の旅についてのアウトプットをちゃんとしておこうかと、そんな風に思いました。
と言っても、なぞのサドゥーに会って神秘体験をしたりとか、LSDによりめくるめく宇宙的融合を体験したとか、旅先で過去世を思い出したとかそういうすごくおもしろそうな話は出てきません。
ただ初のインド旅行でインド的な、こぶりのトラブルに行く先々で遭遇しつつ、旅を続ける20代後半の男の記録です。
2006年に書いたものに、記録が抜けてるところは、今回加筆し、よく覚えてないところは少し想像でつけたしましたがほぼリアルな記録です。眠れなくて、やることがない夜とかにお読みください(笑)
ルートは下のような感じで飛行機はデリーIN、デリーOUTでした。
デリ→アグラ→カジュラホ→バナラシ→ブッダガヤ→アウランガバード(エローラ)→ムンバイと列車やバス、タクシーで移動し、ムンバイからデリーまでは空路から戻りました。3月4日から、3月25日までのやく3週間の旅です。

※この当時1ルピー2,7円でしたが、現在は円高進行で1,5円くらいになってるみたいです。
でははじまり~(o・・o)/
まえおき
積極的に、インドに行きたくて行きたくて仕方がなかったという訳ではない。
ただ、十代の頃からインドは気になる存在ではあった。
ガンジス河の岸辺では、公衆の前で遺体が荼毘に付されるというのを何かで読んで知った時に、
僕はその光景をこの目で見てみたいと思った。そのような光景を実際に見る事が出来たら、
自分はもっともっとリアルに生きられるのではないかと思った。
スティーブン・キングの「スタンド・バイミー」で、
少年達を夏休みに死体を捜しに行かせたようなそんな衝動に近いのかもしれない。
それは一種の通過儀礼(イニシエーション)への欲望でもある。
ドラッグにも興味はあった。
大学生の頃「ドラッグ・内面への旅」という本を読んだ。
その本は、著者が世界各国を旅しながら、様々なドラッグを体験していくという話しだった。
インドは、ガンジャ(大麻)はもちろん、そのほかのLSDや、MDMA(エクスタシー)などのブツも比較的簡単に手に入るらしい。
ゴアという街はその昔、1960~70年代からヒッピーの聖地と呼ばれ、欧米や日本からも既存の価値観から
ドロップアウトせんとする人々が多数集まり、そこで暮らし、また夜には盛大なパーティーが行われていたということである。
インドの宗教にも興味があった。
世界各地に聖者と呼ばれる人は多いけれど、インドほどに聖者が大量生産されている地は皆無である。
サイババがいる、和尚がいる、クリシュナムルティーがいる。
近代で言えば、ラーマクリシュナに、ヴィヴェーカーナンダ、ヨガナンダに、ユクテスワに、ラマナ・マハリシ。
さらに、古代に目を向ければ、ウパニシャッドや、ヴェダンター哲学など、
宇宙や人間の魂についての精緻に組み立てられた体系が存在する。
少し考えただけでも、この豊穣さと、複雑さは「異常」であることが分かる。
インドは世界における、精神文化の特異点なのだ。
そんな訳で、インドは僕にとって、様々な興味の焦点が交わる場所だった。
だから、ぼんやりといつか行ってみたいものだと考え、そのために貯金をしたことも何回かあるが、いずれも実現しなかった。
ところが、去年(2005年)の年末から今年にかけて、次第に機が熟しているのを感じるようになった。なんとなくインドへの道がもうできているような気がし始めたのである。経済的には、格安航空券を購入して一ヶ月旅を続けられる位の貯えは出来た。精神的には、知らず知らずのうちに集中的にインド哲学や宗教に関する本を読んでいた。そして、ちょうど半年ほど働いていた派遣社員の仕事の契約期間が終了した。暇も出来たのだ。
しかし、極度に出不精かつ、面倒くさがりで、好きな本にかこまれて家でごろごろしているのが無上の楽しみである僕にとって、意を決してインドまで出かけるのは、かたつむりが自分で殻をぬいで、なめくじのまま炎天下のアスファルトを歩き回る程の覚悟を必要とした。
仕事を辞めて、だらだらとした生活を数週間続けているうちに、旅に出かけること自体が面倒くさく、また非現実的なプランであるように思えてきたりもした。虎の子の貯金を崩してまで、行くほどのものなんだろうか?
しかし、今、他になにかやりたいことがあるんだろうか?
別に、何もない。
そして、ハタと気づいた。
今まで、僕は、なんとか4~50万円程の貯金を作ろうと働いていたのだが、それは旅に出かけるためであったのだった。それは、ずっと以前からの目標で、半ば無意識に埋もれてしまったいたが、それ以外に特に金の使い道など僕の中では今のところ存在しない事に気づいた。そして、その旅の目的地とはこれもまた、ずっと以前から考え続けて半ば無意識に埋もれてしまっているインド以外にはやはり、あり得ない。
これで旅に出なきゃ、本末転倒もいいところである。
お前はなんの為に働いてきたのか?という話しだ。
そう気付くと、すぐにインドいったるで~~!という波が押し寄せてきた。
僕はその波の勢いに乗って、すぐさま航空券を購入した。
ある意味、自分を行かざるを得ない状況に追い込んでいく事にしたのである。
知り合いや、家族にもインドに行くことを報告する。
これは、逃げ道をひとつづつ自分で塞いでいく手段でもあった。
かくして、かたつむりは、焼け付く路上に出て行くより他なくなったのである。
出発の日までの僕は、不安でいっぱいだった。
あまりにも不安であったために、インドのガイドブックを開くのも嫌になり、なるべくインドのことは考えないようにしていた程だ。
僕は海外に行った経験が殆どない。
一度だけ香港のしょぼいツアーに参加したことがあるが、あれは全く海外旅行についての経験値をアップさせてはいない。英語もほとんど喋る事はできない。しかもインド人の英語はものすごく聞き取りにくいという。
こんな奴がいきなりインドに行って、ホテルを探したり、飯をくったり、鉄道で移動したり出来るんかいな・・。
寝苦しい夜。
僕は、自分の無意識、あるいは「見えないガイド」に自分の不安をぶつけてみた。
すると、「安心してインドに行って、大丈夫」という言葉が返ってきた。
僕はそれを信じる事にした。
其の一 成田~デリーへ
2006年 3月4日 成田空港
成田発、デリー行きのエア・インディアXXX便は機内に入った瞬間にぷ~んとスパイシーな匂いがした。
まさか、カレーの匂いではないだろうが、あまり飛行機の中ではしない匂いだ。
サリーを着た彫りが深く浅黒い顔のフライトアテンダントが、入り口で合掌した格好で乗客を迎える。
ナマステーのポーズ。 航空券を見せると、座席の場所を教えてくれた。
日本からインドまでは直行便で、だいたい8時間ほどだけど僕が乗った便はバンコクを経由して行くので12時間ほどかかる。出発が、日本時間の正午、デリー到着が向こうの時間で夜の9時前だ。インドと日本では約3時間半の時差がある。
出発してすぐに、フライトアテンダントが乗客に飲み物を配り始めた。
ま・まずい!こっちへ近づいてくる(何がだ?)
何が飲みたいか英語で言わねばならぬようだ。
「ノミモノイカカデスガ?(て英語で)」
僕はなるべく冷静を装って、言った。
「う・うぉーたー、プリーズ・・・」
するとちゃんと水を手渡された(当たり前だ)。
やった!英語が通じた!!
小学校一年生の子供でも出来る受け答えだけど、こんな会話でもコミュニケーションできると少しは自信がつく。
さて、次に英語を使わなきゃいけないのは入国審査の時だ。えーととりあえず、sight seeing three weeksだな・・・
あ、もう一度「ちきうの歩き方」を読んでおこう。
僕はこんな風にして頭の中で勝手にいくつかの英語を使わなきゃいけない関門を設定していた。
最初は飛行機の中、入国審査、そしてホテル、というように。
しかし周りがすべて外国人とあれば、こっちの思うときだけ英語を使えるなんてことはない。
離陸して数時間経った頃だろうか
左隣のアジア系の男性が、僕にむかってなにか
ぺらぺらぺらぺらぺーらぺら
としゃべりかけて来た。
「え、ええ??」
僕は思わず彼のほうに身を傾け、聴きなおした。
しかし、返ってきたのは
ぺらぺらぺらぺら、ぺーらぺらぺら
が~~ん、なんもわかりまへんがな(゚д゚ll)
返事しない僕に怪訝な顔をした彼は、僕を通り越して、僕の右隣の女性に声を掛けた。
僕の身体越しにはずんでいく両隣の英会話を聴きながら、さらにさらに不安は募っていくのだった。
小さな窓から見える雲海はまるで、天国の庭のように見える。
東から西に向かって、太陽を追いかけて飛んでいる為か、なかなか夜にならない。
タイのバンコクでトランジットする頃には、日本時間に合わせたままの腕時計はとっくに夜になっていたが
機内の窓から見える、バンコクの空港はまだ白々とした真昼の光の下にあった。
僕の両隣の二人は飛行機を降りていった。どうやら成田から乗った人の大半はインドまで行くのではなくバンコクが目的地のようであった。
僕は機内に入ってくる、かわいいタイ人のフライトアテンダントの女性をちらちらみながら、なかなか終わらない3月4日の昼間の光の中で離陸を待った。
結局飛行機が、デリーのインディラ・ガンジー空港の滑走路に無事車輪を下ろしたのは、インド時間の9:30pm頃。
予定より若干遅れての到着だったので、僕は焦っていた。
というのは初日の宿は日本から予約し、空港までの送迎を頼んでおいたからだった。
空港にはツーリストをターゲットにしたリクシャワーラーや、タクシードライバーが無数に待ち構えており
彼らの言うがままに車に乗ったりすると、予約したところと別のホテルに連れて行かれたり、大金をボラれたり
というトラブルに巻き込まれる可能性が非常に高いと聴いていたからだ。
いや、聴いていたっていうか『ちきうの歩き方』にそう書いてあったのを読んだのだった。
迎えの人は、空港の出口で僕の名前を書いたプレートを持って待っているということだった。
だから早く行かなきゃと思ったのだが、搭乗前に預けた荷物がなかなか出てこない!!
荷物はぐるぐる回るベルトコンベアーみたいのに載って、回ってくるのだが、自分のが来ない。
なにぶんこういうのも初めてなので、焦る。ようやく出てきたマイバックをひっさげて、
次は両替へ走る!!ドルをルピーに変えなきゃ何もできない。
ようやく待ち合わせ場所の空港のロビー入り口に辿り着いたときは
待ち合わせ時間を大幅に過ぎていた。
自分の名前を書いた紙を持ったインド人が突っ立っているのだから、そんなもんすぐわかるに決まっているという僕の浅はかな予想はいとも簡単に覆された。
空港の出口には、名前を書いた紙を持った無数のインド人が通路を隔て左右両側に並んでいたのだ。
ずらーーっと並ぶ浅黒く濃い顔の男たち。
おそらくその数数十人、あるいは百人近いかも・・・。
紙を持った人の背後にもおそらくホテルやタクシーの客引きと思われる人間が無数にひしめき合っていた。
まったく読めないすっげーきたねえ字で書いたのを持ってる者もいる。(あれだったらどうしよ(-_-;)
この中からどうやって自分の名前を探すのか・・・って一個づつ見てくしかないよな、やっぱ。
意を決して、通路の両側からインド人に見つめられながら、なんとも居心地の悪い空間を歩いたが、
その列の最後まで行っても僕の名前は見つからなかった。
お、おかしいなぁ。。。(焦りまくり)
もう一度じっくりと一人づつ確認しながら、出口の方へ引き返していく。
余程情けない顔をしていたのだろうか。
ひしめき合うインド人がからかうように声をかけてくる。
「Hello!」
「How are you?」
「Are you alright?」
「HAHAHAHA!」
僕は、不安をにやにや笑いでごまかしながらその前を通り過ぎる。そしてまた税関の出口付近に戻ってきてしまったとき、
ようやく自分の名前が書かれたプレートを発見!
迎えの人は一番出口の近くで待っていてくれたのだが、僕が動揺していたのでさっきは発見できなかったようである。
彼が空港で拾う予定だったのは、僕以外にも、日本人の学生の男女がいた。
男の方は、まだ20才そこそこに見えたが、日本人に会えてほっとしている様子だった。
それは僕も同じだった。・・・・ってまだ飛行機降りたばっかりなんやけど(笑)
なんだ?この安堵感は。
彼らと話しながら、迎えの人のあとをついて、駐車場へと歩いていく。
通路にはさっそく物乞いの人が座り込んでいて、僕たちに向かって施しを乞うような動きをしている。
なんだか僕にはそれが、よく博物館とかで同じ動きをくり返している、縄文時代の洞穴人間とかのオブジェのように見えた。
なんだが現実感が湧いてこず、僕たちはどっかの大インド展(?)にでも来ていて、
『デリーの夜』というアトラクションに入ってるようなそんな感じがした。
そこにはもちろん、インドと言えば有名な、「物乞いの人」も展示されているのである。
車に乗って走り出すと、すぐにあたりに漂っている独特の匂いに気付いた。
土の匂い?
動物の糞の匂い?
フルーツの匂い?
香辛料の匂い?
それら全てが混ぜ合わさったような、香ばしくてどこか甘ったるいようなそんな匂いが夜の空気の中に充満していた。僕にとっては嫌な匂いではない。なにか有機的な空気にすっぽりからだを包まれているようだ。
湿度は高く、日本の初夏の夜という感じである。
車で走っていると、先ほどの不安も消し飛び、旅のわくわく感が戻ってきた。
迎えの人の運転はあらっぽい。
ひっきりなしにクラクションを鳴らしながら、次々と車を抜いていく。
というかどの車もそのような運転をしているようだ。
抜きつ抜かれつ、カーレースゲームの世界である。
バイクはノーヘル、三人乗りは当たり前。
車も限界まで人を詰め込み、後ろのトランクがあいて、半分人がそこからはみだしているが平気でそのままぶっ飛ばしている。
めちゃくちゃだ。
よく事故らないもんだ。
僕ら同行の三人はそのむちゃな体勢をみて、おもわず笑った。
めちゃくちゃなものを見ると、なぜか元気が出てくる。
僕は「大インド展」にいるのではない。
本当にインドのデリーの夜を走っているのだ。
風の匂いと、響き渡るクラクションがそれを教えてくれた。
ようやくのことホテルにチェックインし、部屋に入れたのは夜の12時近かった。
げっそりと疲れ、慣れないことをしたので頭ががんがんした。
早いところベッドに倒れこんで眠ってしまいたかったが、身体の疲れとは裏腹に目は妙に冴え渡っている。
ホテルのフロントから、ボーイに案内されて、部屋に入ると彼も一緒に中に入り
頼んでもいないのに、ここがトイレで、ここがシャワー、ひねるとお湯が出ると説明し始めた。
いやいや、それくらいわかりまんがな(`‐ェ‐´)
一通り説明が終わると、彼はチップを請求してきた。
えーインドでは余程の高級ホテルでないとチップは必要ないって「ちきうの歩き方」に書いてあったような・・。
だいたい払いたくても両替したときに100ルピー札しかもらっていない。
チップに100ルピーは明らかに高すぎる。
僕はお金がない、と言った。
すると案内人は「NO、Chip??」と言って顔を険しくさせた。
とても怖かったので、僕は思わず「Sorry」と謝った。
金がないことを了解したらしい彼は、「Ok、Noproblem」といかにも問題ありげに吐き捨てて部屋を出て行った。
ばたん、がちゃっ。
僕はすぐに部屋をロックし、やっと一息ついた。
は~~っ 疲れた。
シャワーを浴びた後、あまり眠いとは感じないが、ベッドに横になることにした。
眠りはすぐにやってきたが、午前四時ごろに目が覚めた。
あ・・・・ここはどこだ?
そうか・・・インドに本当に来ちゃったんだ。
昨日の記憶がどっと押し寄せると共に不安の波がやってきた。
胸がどきどきする。
昨日の飛行機の中、気圧の変化で痛くなった左耳がまだ痛い。
もう窓の外は明るく、コーランの詠唱?のような声がどこか遠くから聴こえてくる。
近くにモスクでもあっただろうか。
それにしても、日本で考えた旅のスケジュールをすべてこなしていくのががあまりにもハードで先が長く感じる。
しかも今夜からは宿も予約していない。一人きり。
旅を自分でアレンジして行かねばならない。
とても眠れそうもないので、持ってきた安定剤を一錠噛み砕き、腹式呼吸を始める。
いくらもしないうちに、意識のスクリーンを埋めていた鋭角的な不安はとりとめもなくぼやけた想いとイメージの断片に変化しふたたび意識の全体が闇の中に溶けていった。
2006年 3月5日 デリー
翌日、目覚めると、昨日の疲れはほとんどとれていた。
しかし、今日からは本当に一人で旅をアレンジしていかないといけない。
デリーでもう一泊して、翌日の早朝に列車でアグラーに向かう予定である。
取あえず今日は、市内を観光ということになるのだが・・・。
あぁ、億劫じゃ。わしは外に出とうないぞ!
チェックアウトタイムぎりぎりまで部屋に粘った僕は、ホテルを出るとリクシャーに乗るのは避けて、
デリーの中心部であるコンノートプレイス目指して歩いてみる事にした。
イスラム教の礼拝所である、ジャマー・マスジッドに行ってみたかった。
コンノートプレイス方向に歩いて、途中でオートリクシャーでも拾おうかと思った。
街を歩き出してすぐにその雰囲気に圧倒された。
牛がいる、ヤギがいる。むっとする臭気が漂っている。
この空間の中で、デジカメ片手にリュックを背負い、ショルダーババッグをぶら下げた自分はなんと異質なことだろう。
数人の子供達が、ハーイと言って走り寄ってくる。
手を差し出して、握手を求めてくる。
てっきり、何かものをねだられているのだと思い、完全にシカトした。
子供達は、ヒンズー語でなにかぶーぶー言い、僕のリュックを後ろからぱしんと叩いた。
最初の頃は、純粋に外国人と握手したがる子供がいっぱいいると言う事を知らなかったのだ。
猜疑心でいっぱいだった。
目的地までの手がかりは、「歩き方」のマップと、コンパス。
自分がどこにいるのか全くわからない。
まあ、昨日泊まったホテル自体どこにあるのかよくわかっていなかったので当然だ。
一台のオートリクシャーが僕の近くに止まった。
歩き回るのにも少し疲れていたので、これに乗ってジャマー・マスジッドに行こうと思った。
料金を尋ねると、100ルピーだと言う。
これは「歩き方」で仕入れたリクシャーの相場の二倍以上だったのですぐにふっかけられているのがわかった。
「高すぎる。50ルピー、OK?」
と言ってみると、以外にあっさりと了承した。 (※多分50でも高いです)
勝った!インドに勝ったぞぉ!!
と勝利感に酔った僕は愚かであった。
デリーでオートリクシャーに乗ったら、目的地に着いて、独りきりになるまでは決して勝利感などに酔ってはいけない。
あとで自己嫌悪に陥るだろう。
しばらく走ると、リクシャワーラー(運転手)がエンストしたと言って車を路肩に止めた。
そして、ちょうど前を走っているリクシャーが自分の「ブラザーの」ものなのでそっちに乗り換えてくれと言われた。
明らかにどこか怪しい展開である。
さっきのワーラーよりかなり若い男の運転する車に乗り換えて走り出すと、彼は、ジャマー・マスジッドに入るにはチケットがいる。
まず最初にデリーの観光局に君を連れて行く。そこでは必要なものは全て手に入るだろうと言った。
その時点で断るなり、車から降りるなりするべきだったかもしれないが、僕はこの展開に頭が全く追いついていなかった。
無抵抗のまま、あれよあれよというまに、小さなオフィスに連れて行かれた。
もちろん、観光局などではない。得体の知れない旅行代理店であろう。
小さな小部屋に案内されると、日本語を話すインド人が現れた。
彼は旅行の日程や、ルートを根掘り葉掘り質問しだした。
僕はただ、この展開に流されるまま、自白剤を打たれたかのようにぱくぱくと正直に質問に答えていた。
そもそも、ジャマー・マスジッドのチケットを買うと言う目的で連れてこられたのに、なんでこんなこと喋らなきゃいかんのだ?
という根本疑問は頭には浮かばない。彼はインドマジックを使い、僕の頭を真っ白にし、抵抗力を奪い去った。
僕は出発前日本からネットで「ちきうの歩き方」に乗っていたインドの旅行代理店に頼み、鉄道のチケットを予約してもらっていた。
まず移動手段である、鉄道だけは確保し、それに合わせて移動して行こうと考えていた。
インド人は、その列車のチケットを見せてみろ、と言った。
そして、ルートが悪い、これは二等の席じゃないか危険だ、などと一通りケチをつけたあと、
本当にうまく予約できているか電話で確認してやるからと言い、チケットを持って小部屋を出て行こうとした。
その瞬間、なにか、こいつはヤベ━━━<(;゚;Д;゚;)>━━━!!というシグナルが背筋を走り、僕をとらえていたインドマジックの効き目が切れて、はっと我に返った。
NO!NO!,いいですよ!
彼の手から、チケットを奪い返す。
するとインド人は黒いけど、白けたような顔になった。
ふうーとため息をついて
「アナタ~、日本でもこんなに疑い深いですか?わたし今、あなたの列車が何時に目的地に着くか確認してあげようとしました。
でも、信用されないと気分悪いです。そういう人とわたしビジネスできません。」
強引に連れてきてなに言うか。
僕もこんなところで変なツアーとかに申し込みたくはないので、お互い様だ。
しかし、そう言いながら帰してくれる気配がない。
ホテルを予約していないのは危険だ。トラブルに巻き込まれる可能性がある、私がプール付きの高級ホテルを
安い値段で予約してやるからと説得される。もしや「トラブル」とはこのような状況では・・・
僕はまた段々思考停止状態に陥り、結局、デリーのホテル一泊、アグラー一泊、カジュラホ三泊、バラナシ一泊、
計6日分のホテルを予約した。
値段は手数料を含め合計7000ルピー(※当時で19.000円ほど)であった。
旅を始めたばかりの僕は金銭感覚がまだ、曖昧でそれが高いんだか安いんだか瞬時に判断がつかなかった。
見知らぬ街で、毎回ホテルを探すより今ここで宿を確保しておいた方が楽でよいのではないかという思いもあって契約してしまった。
さらにあと、1000ルピー出せば、今日一日、ガイド付きでデリーを案内してやると言われ、それも了承してしまった。
「あの~ジャマー・マスジッドに行きたいんですけど」
と言うと、
「今日は、イスラムの集会があるから危ない。行くなら明日にしなさい(*´∀`*)」
と。
な・な・な・・・だったら、最初からそう言わんか~い!!(゚Д゚)ノ
しかし、まあ契約してしまったものは仕方ない。
気持ちを切り替えて、案内付きの観光を楽しむことにする。
案内人はバブーという、28才のなかなか男前の兄ちゃん。
赤ちゃんみたいな名前の癖になんかエロそうだ(笑)
日本語は喋れないが英語の発音がとてもきれいで、聞き取りやすく僕の英会話レベルでも結構コミュニケーションが取れる。
おー初めて、英語が通じるぞ、通じるぞ~~。゚(゚^∀^゚)゚。
英語を話す自分に酔い、快楽物質が脳内にどばどば出てる感じ。
いやーたいした会話してないけど、気持ちいいな。
さっきの飛行機の中でのトラウマも挽回だ~。
案内料金1000ルピーも、英会話受講料が含まれていると思えばいいよねーとポジティブシンキング。
彼が運転する車で、博物館や、インド門、インディラ・ガンジー記念館などをまわった。
インド門の前では、猿回しのおっちゃんが「Hello」と言って近づいてきた。
「サルの写真を撮ってもいいよ」というので一枚撮らせてもらった。
カシャ
次にサルと一緒に写真をとってあげようと言い、サルを押し付け、僕のデジカメをとってシャッターを切る。
薄々勘付いてはいたが、一枚撮ったあとで、
「これはビジネスだ。ギブミー・マネー」
ときた。50ルピー差し出すと、それじゃダメだ100よこせと言う。
僕は言われるままに100支払う。
OK,それが君の仕事だと言うのはわかったよ。
でも、頼むからサルか僕かせめてどちらかに焦点を合わせてくれないか。。

観光名所を4ヶ所ほど回ったあと、バブーが僕を土産物屋へ案内すると言い出した。
「君はクルターパジャマを買ったほうがよい」というのだ。これは白い生地のゆったりした上下の民族服なのだがこれを着てると、今後バラナシなどの観光地を回っても、みんなインドの人間だと思ってうるさくつきまとったりしないから便利だと言うのだ。

なんとなくあやしい理屈だが、それも最もで、顔が日本人だったらこんなもん着ててもうるさくつきまとわれるに決まってる。
ということに「後になって」気づいた。
「値段も600ルピーほどでそんな高いものではないよ」とバブー。
これももっとずっと安く買えることが後になって判明する。
恐るべしバブー。
実際に店に行ってみて、気に入らなければ買わなくてもいいと言うので、とりあえず物見遊山で店に入ってみた。
店内は置物や、民族服、カーペットなどが所狭しと積み上げられ、天井からぶら下がっている。
すぐに店員がクルターパジャマを出してきて、試着してみろ、と言う。
着てみると、涼しげで、結構気に入ったのだが
「いくらですか?」と言うと
「1000ルピー」とのこと。1000!デリー観光もう一日分!!
さっきバブバブは600って言ってたのに~~。と恨みがましく思うが、数人のインド人店員に囲まれて
ディスカウントや、買うのをやめるということが出来ない雰囲気に思われ、
「OK、それ買います」
と言ってしまった僕のほうがよっぽどバブバブであった。
インドで物売りに萎縮してたら、あっという間に財布が空になること間違いない。
服を包んでいるとき店員がにやにやしながら、
「Do you have a girlfriend?」と僕に聞いてきた。
「yeah・・・」と短く答えると
彼は「ほにゃらほにゃらら、ジキジキ~?」と言う。
最後のジキジキという単語だけが聞き取れたので
「え?ジキジキ!?」と聞き返すと
ワハーッハッハッハッ
ヒーッヒッヒッヒ
グヘヘヘヘ
と周りにいたインド人が全員一斉にどっと笑い出した。
よっしゃーっ!インドで初ウケ(σ゚д゚)σゲッツ!・・・っていやいや、その前にいったいジキジキとはなんぞや。
ただ文脈上、なにかエロ系の言葉には違いあるまいと思った。
その後バブー兄貴の車に戻り、今晩宿泊予定のホテルに向かった。
彼は日本語は出来ないが、「おっぱい」とか「ち●ぽ」とか下半身関係の日本語は詳しかった。
「I Love you ってのは日本語でなんていうんだい?」と彼が言うので
「アイシテルだよ」と教えるとバブーは
「おっぱい、アイシテルぅうう~~!」と連呼しながら運転しだした。
車がサリーをまとったインド人の若い女性の横を通り過ぎるとき、彼は車から身を乗り出すようにして彼女に
「おっぱーい、アイシテルぅううう!」と叫んだ。
おいセクハラや~(´゚д゚`;)
しかし向こうはもちろん日本語がわかんないので、ノーリアクション。
彼はこっちを向いて「she doesn't understand」とうれしそうに( ̄ー ̄)ニヤリ。
な・なんだこの低レベルの悪ふざけは(゚∀゚ ;)タラー
しかし、僕も気がついたら彼と一緒に
「おっぱーいアイシテルぅうう」と言っていた。
さあ、さあ、みなさんご一緒に おっぱい アイシテルぅうううう
半ばヤケになりながら、日本から遠く離れたインドの地で卑猥な言葉を口にしつつ、下ネタは万国共通であり
おっぱいとは人種や言語の壁をを越えて、男たちを連帯させるすごいものであるということを認識した。
そんな風にしてバブー兄貴とのデリー観光が終わった。
正直、連れていってもらった国立博物館や、インディラカンジー記念館などは歴史的には意義のあるスポット
ではあると思うが僕としては、インド人と英語で話して、くだらない下ネタで盛り上がるという事のほうがビビッドな体験であった。
デリーの市内は、空気が汚そうだったけど、街路の樹の枝にリスが走っていたのが印象的だった。
デリー、二日目の夜。
僕はメインバザールの安ホテルの一室で、電気を消したまま街の物音に耳を傾けていた。
考えてみれば、インドに来たのはまだ昨日であった。
しかし、いろいろな出来事が起こるので時間の感覚が引き伸ばされているようだった。
空港から一緒にホテルに来た、あの二人の日本人の大学生はどんな一日をすごしたんだろう・・・・とふと思う。
僕と同じように、ツーリストを上客にしているインド人に捕まったんだろうか・・・。
でも、二人ともまだ若いのに独りでインドに来るなんてすごいなと思う。20歳の頃、僕はそんな度胸はなかった。
ただ、イメージの中でアジアの大地に憧れていただけだった。
メインバザール周辺には、一泊200ルピーとか300ルピーで泊まれる安宿がたくさんある。
そして、バザール・・・。
衣類、履物、果物、家電製品、アクセサリー。
あらゆる種類の店が、ひしめくように軒を連ねている。
路上は、ゴミだらけ。牛がゆっくりと、道を横断する。
どこで手に入れたのか、少年が大きなネズミのような動物を手にぶらさげて、足早に歩いていく。
ホテルにチェックインしたあと、夕食をとるために外に出ようとすると、
ホテルの人がすぐ眼の前にやすくてうまい食堂があると教えてくれた。
教えられた場所に行き、本当にここでいいのか看板を確かめたりしていると、食堂の店員が
「ここだよ、さあ入って、入って。ちきうの歩き方にも載ってるよ」
と言った。
僕はその瞬間げっそりし、「ちきうの歩き方」を持っているのが嫌になった。
ツーリスト相手に商売しているインド人は、日本人旅行者がみんなこの本片手に旅行している事も知っているのだ。
こっちに勝ち目は無い。そして、それ以上に、自分がすごく無個性な旅をしているように思えてきた。
しかし、捨ててしまう訳にも行かない。
まあなににしろそこで食べたチキンカレーは結構うまかった。
明かりを消した部屋で、クルターパジャマーを着て、数珠を持ち、瞑想した。
インドとは、シャクティそのものではないだろうか。
ヒンズーの思想では、宇宙の破壊を司るシヴァという神様がいる。
シヴァにはパールヴァティーや、カーリなどの妃がいるが、
この女神達はしばしば宇宙の創造原理である「シャクティ」と同一視される。
彼女達は、「静」の男性性に対して、「動」の女性性であり、生々流転するもの全ての母である。
静止した永遠の存在であるシヴァに対して、生と死、光と闇、男と女、
など二極性の原理をもとに展開し常に動き続けるこの世界の根源的な創造力を供給しているのがシャクティ=女神たちだという。
シヴァを「天」とするなら、シャクティは「地」である。
その夜、僕にとっての「シャクティ」はこのメインバザールの喧騒だった。
やかましい物売りの声と、リクシャーのクラクション、生々しくそこで生きている人々の姿だった。
少年につかまれて、ぶらぶらと揺れるネズミの死骸だった。
明日は、早朝の列車でアグラーに向かう予定だ。
インドの「シャクティ」に身ぐるみはがれてしまうわぬよう祈っておこう。

haitakadori
:SFの巨匠レイ・ブラッドベリ氏死去、代表作「火星年代記」 http://t.co/CtesXRTf @cnn_co_jpさんから、晩年の私が鏡を見ると、幸せそうな人物がそこにいる.その理由は私が自分のために働き、執筆と創作からくる喜びのために働いてきたからだ
06-07 22:11レイ・ブラッドベリ!大好きでした。どうもありがとう
06-07 00:24RT @subaru2012: レイ・ブラッドベリ氏死去=「火星年代記」のSF作家(時事通信) - Y!ニュース http://t.co/oQOj6B4M 残念ですが、幸せだったんではないでしょうか、アメリカが誇るSFの詩人。
06-07 00:23
haitakadori
RT @BiggyNeptune: 【衝撃】俳優・田村正和さんが電車内の乗客に悪質ないたづらをしている証拠写真!on Twitpic http://t.co/MxqivozQ これはヒドい!
06-06 22:41
haitakadori
RT @tomo_arugamama: その人の心の中に、そうさせる何かがあるのですね。@LSDove: 心に作用するドラッグは、ドラッグそのものの中に服を脱いだり凶暴になったりする成分が含まれているわけではないということをなかなか理解してもらえない。
06-02 19:53
haitakadori
暇だから被災民が地震に対する備え方答える1 http://t.co/ppwKGdU3 雰囲気がリアルで参考になる。水は多少あるけど携帯ガスコンロくらい買おうかー
06-01 21:49RT @umareru: 「うんでくれてありがとう」、「うまれてくれてありがとう」という言葉ほど、相手を全肯定する表現はない。- 映画『うまれる』豪田トモ
06-01 14:15RT @tadanoriyokoo: 地上でも空中でもないその中間で、日常でも非日常でもないその中間で、半覚醒状態のまま停止した時間の中を疾走する肉体。新幹線なう。
06-01 14:14
それは、僕が・・・というよりもメジャーになり多くの人が知るところとなった予言ほど基本的には成就しないという法則がある。
でも、人知れず、一部の人だけが知っていた予言が、現実となる・・・これはあると思う。
しかし僕には知り合いに予言者はおらず、知るものの多くはネットだとかメディアで大規模に流布されたものに限られる。だからそれらは全くと言っていいほど当たらない。
きっと多くの人は確実にこのことに気づいていると思うが、○○○を予知した○○が、こんな予言を!という見出しについつい乗せられて信じてしまうのだ。○○○を予知したのはホントかもしれないが、それによってメジャーになってしまった○○の予言はなぜか当たらなくなるのである。このあたりは本当にトリッキーで面白い法則だ。
だが、僕は一部の人だけになされれた予言が成就した・・・という現象があったことを間接的に聴いたということは何度かある。それはもちろん、メディアなどには流れなかった『未来情報』だ。
ではそれらが事前に大規模流布されていたなら、その現象は起こらなかったのか・・・?
それはなんとも言えない。
ただ、どうも必ず起こる本当に大きな災害や事件の情報が事前に大規模流布されることはない、というシステムがどうも存在しているように思えてならない。しかし、信頼できる身近な誰かが「あなただけに」したような類の予言はもしかしたら当たるのかもしれません。
僕が信じない予言、それはまず第一に、私の透視能力によると●月●日に 東海地震が起こる、と言ったものだ。日付がはっきりしている、固定化しているものほど絶対と言っていいほど当たることはない。大規模流布しているものはもう確実にそうだ。僕のジンクスによると、僕がそれらが成就するのを目撃することはない。
第二に、福島原発四号機の倒壊、富士山の噴火が必ず今年中に起こる、というような類のもの。
危機というのは人の予想を必ずといっていいほど裏切ってくる。
だから予想されている危機は本当の危機ではない。
いくらかでもそれに対する心の準備が出来ているからだ。
しかし本当の危機はいつもブラックスワンとして隠れていて、予想もしない場所から躍り出る。
予想外の震源から発震した3・11がそうだった。
今予想されている危機の多くは、その3・11という衝撃による想像の延長線上にある。
3・11→地震と、原子力
だから、それらの予想はどうもこのブラックスワンの時代には適当でない気がするのだ。
それらはもう、群れに混じり白い白鳥になってるからだ。
でもこれらは起こらないとも言えない。
リスクがあることは確かだからだ。
この潜んでいるブラックスワンは、悪い事象とは限らない。
なにか今までの概念では解読できない多くの現象が起きる、あるいは起きている、そのようにブラックスワンとともに生きる姿勢がこの時には必要な気がするのだ。予想外を、予想するということが。
多くの人の知覚のフォーカスポイントとなっているそことは別の場所に、黒い白鳥は潜んでいるのではないかと思う。
意識がいつもどおりのフォーカスポイントに固着していると、周りで何か大事なことが起きていても、それに気づかないことがある。日常的な思考・行動パターンや、いつもどおりの『悩み』の感覚にフォーカスしていて、目の前に現れているのに気づかない何かがないのか、自分に問いかけるというのも大事かもしれない。
そういえば僕の好きな映画『パッチアダムス』にこんなシーンがあった。
精神病院に入院中、自分の4本の指を見せ、「なん本見える!?」とパッチに謎をかけてくる老人がいた。
「4本」と答えると、お前は大馬鹿だと罵倒される。
のちにパッチはなぞかけの答えを教えてもらうために、その老人の部屋を訪ねるのだった。

何本見える?

4本

違う、私を見ろ
問題ばかり見ていると 答えが目に入らない
問題を見ず 私を見ろ
何本見える?


!

8本

8本、正解だよ

人が見えないものを見ろ
恐れとか怠惰で 人が見ようとしないものを
新しい世界が見えてくる。
君は見所がある。
気難しいイカレじじい以外の人間が見えたから、君はここに来たんだ。
このパッチのように、フォーカスポイントをずらすことにより、僕らは現実の別の側面へ移動する。
そこでは物事がまったく別の意味合いを帯びたり、想像できなかったような答えがあったり、問題自体がなくなる。
以下、書籍『マトリックス・エナジェティクス』より
どんな人も自分の信念体系を通してものを見るなら、その知覚フィルターが通すものしか見ることができない。
『わたしたちは一体全体何を知ってるというの?』という映画の中に、コロンブスが新大陸に到着したとき
そちらへ目を向けていても、先住民には入江に錨をおろしている大きな船が見えなかったというエピソードが出てくる。
彼らの経験にはかつてこのような物体や出来事は存在しなかったため、従来の現実観に当てはまらないその視覚情報を意識が削除してしまったのだ。しかし、部族のシャーマンは水面の乱れに気づき、そして従来の見方では見えない対象を探し当てて、別の見方ができる状態に意識を移行させた。それでようやく船をみることができ、ほかの人たちにも見る方法を教えられたという。
興味深いことに、ライターのアレクサンドラ・ブルースは『ビヨンドザブリーフ』という著書の中で、この話しが映画に出てきたこと自体が驚きだと述べている。これを「陳腐で証拠のない都市伝説」と断定し、その出典を突き止めたものは誰一人としていないという。たぶんその通りなのだろう。それでもわたしはこの話しが好きだ。これも「役に立つ作り話」の例だと思う。これが事実でない可能性があるからといって、見たくても見えないものがあるのではないかと考えさせてくれるという点で、たとえ話としてその価値は少しも損なわれない。もしこれによって「船」が見えるようになるのなら、その船が空想の海にしか浮かんでいなくとも一向にかまわないと思う。
毎朝、目を覚ますと、わたしは一般的合意からはずれた現実観に入らなければ見えない船を探す。毎日、「認識することでわたしのものの見方が変わり、ひいては人々の利益になるようなことを、考えていなかったり、気づかずにいたりしていないだろうか?」と自問する。
(中略)
考えられること、認識できることが、達成できることの限界を決定する。したがって、ある特定のテクニックについての一連の規則とか信念や、そこで採用されている考え方を学ぶということは、そのテクニックなり体系なりの色メガネをかけるということだ。期待するものに合わせるよう学習された規則なのだ。疑問をもったり、別の視点からものごとを見たりするようになると、現実に関する大切な前提がひっくりかえる危険がある。これは物理学者が今も手こずっているのと同じ現象だ。
観察されている電子は粒子のように振舞うのに、別の期待をもって観測したり、まったく注意を払わないと波動のパターンを見せるのはなぜか。これこそ観察者効果というものだ。
さて、あなたが人生に満足していて、重要と思うことを実現させる能力があるのなら、ぜひともその調子で進んでいただきたい。
しかし、ものごとの成り行きに満足していないのであれば、あなたには現実を違った風に観察し、認識する強力な能力があることに気づいてもらいたい。
それは可聴音域にあるものだけではなく、その存在自体が発しているような音だ。
宇宙は『振動』からできており、個体として存在して見えるものは、すべて『虚空』がかき鳴らされたために生まれた『振動』であるという見方もある。この見方からすれば、存在するということは、振動しているということと等しい。
存在とは、振動なのだ。
そのような万物の存在性そのものから聴こえてくるような音を、昔人間は聞き、それを翻訳して歌うことが出来たのかもしれない。そして、その歌が、また万物に振動を加えて、あらたな旋律を生んだ。日本語が、風や木とも話せる言葉だったというのはそのような意味合いにおいてだろうか。
万物の音としてよく知られているのは、AUM あーうーむ(ん)だ。
それがどのような音なのかわからないが、メロディと呼ぶにはあまりにもプリミティブかつシンプルな、リズムと音、心臓の鼓動や赤ん坊の喃語に近いものかもしれない。だが、それは朝も夜も決して途切れることのない生命の旋律だった。永続する生命を表現するような常に存在するものだった。ポップスでも、クラシックでも、ジャズでもないもっと根源的な音であり声だったように思う。
音、波動が現実の深部を構成しているパターンであることにより、人は音を聴く、あるいは声を発することにより異なった振動世界へと意識を移動させることができる。人は、自然の基底通音と同調することにより、命の一部としての永続する自己を認識することができた。
だが今、音の多くは騒音となり、これがまたひとつのマトリクスとして基底通音との接触を妨げているようにも思える。メロディにあまりに人間的な、思想や悲しみ、欲望が乗ることによって部分的な振動しか感知できなくなっているのだ。そのような音楽や、人工的な雑音が溢れている。
音が、騒音となっているのだ。
ああ、いい音~♪よりも、うるせい!(゚Д゚)ノと叫びたい状況が多いのだろう。
どんな音楽も、それ自体悪であることはないと思う。
ハードロックも、ヒップホップもAKB48も全部それらが好きで、元気づけられる人がいる限り意味を持つとは言える。僕も好きなバンドの歌をカラオケで歌う。AKBは職場でよく見るのであまり覚えてくないのにメンバーの名前をたくさん覚えてしまった。
しかし、ふと思ったのだけど、いろいろ思い浮かべてみても、大自然の中で演奏されて違和感なく調和して聞けるような音楽ってものすごく少ないような気はする。だいたいヒット曲のPVを見てもCG的な空間だったり、都市だったりするのはやっぱりそういうイメージの方がフィットするからだろう。
根源的なものとつながった音世界というものが、あまり存在しないのだ。
根源的なものというのは、ただ在るということ、生きていることの喜びであるとか、神秘であるとか、ありがたさだと思う。
「はじめに言葉ありき」
と言われる。
言葉とは、音であり、振動だった。
A アレフ ア
は最初の響きだとされる。
それには意味以前の意味がある。
歌以前の歌がある。
そのように思えてならない。
あ の次は い だ。
あ い
愛
最初に愛が現れるのは偶然なのだろうか。
この愛も、通常の男女間の愛などより深部にあるコズミックラブだと思う。
言葉の中には、宇宙構造がコード化されているのだろうか。
先日、公園でいつも声をだしてるところに行くと、日本の横笛を吹いてる人がいた。
その音は鳥の声のようで、楽曲は名前は知らないけど、シンプルできれいなものだった。
あーこの音は森の中でも違和感ないなーと思った。
逆に自分の声が粗雑で申し訳なくなってきた^^;
こういう笛の音とか、雅楽の演奏ってなんか、自然とすごく相性がいいんだろうなと思った。
それ自体が空間の中で、自分を主張しすぎることもなく他の音と風の音や鳥の声と一体になってるように聴こえる。
haitakadori
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05-31 15:13