2012. 07. 26  

 自分自身を変えようとする思考パターン、
 それこそが僕を自分自身から遠ざけていた
 ということはあり得るだろうか?
 だって
 太陽も樹も、僕に変われなんて一言も言わなかった。

 おそらく悲しみや怒り、虚しさ、寂しさ、孤独感、退屈、不安、体の
 痛みやダルさ 感情や肉体の不快なパターン に出会った時、それらを「問題として見て」
 なんとかしたいと思った時、

 それを「問題としてとらえ」それを解決すると主張する、意識空間の渦の中で
 あーでもない、こーでもないと悩んでいた。
 あるいは閉ざされた思考世界の中で、自分を孤高な探求者とみなし世間全般を見下すことで
 その幻の優越性を生きる糧にしていたりもした。

 あるいは僕には多くの乗り越えて成長すべきいくつもの課題があるのかもしれない。
 その数は?何十?何百?

 でもあまりにも自分が不完全な未熟者だという想いが強いと、自分を他者にさらすことも
 今僕らが世界に贈れるギフトまで先延ばしにしてしまう。

 窓の外で
 子供たちが叫んでいる 真夏の太陽の下プールのバッグを振り回して

 「うるせえあほ!! お前らの方がアホだ!! 黙れシッコゴリラ!!」って・・・

 なんだか楽しそう、全然悪意も感じられない、悪口の応酬。
 そんなことよくやってた気がする。
 それは子供の僕らにはとっても素敵なギフトだった。
 時々本気で痛いパンチにキックだって、そうだった。
 でもいつから、こんなことができなくなったのかな。
 悪口を悪意を持たずに言えなくなるって、成長なのか、退化なのか。
 相手や自分のエゴを傷つけたり、傷つけられたりばかりに過敏になって。
 
 いろんなことをそれから経験して、いろんなことを知るほどに自信をなくしていく
 どうしてなんだろう?
 まだまだ愛を表現したり、自分の好きなこともできないほどに僕らは未熟なんだろうか。
 本当に?
 もし自分が何か別の自分に変わりたくて何かを求めるのなら、その理想の自分になった時に 
 やろうとしてることや、感じたい幸せを、今このままの僕らで感じたり、やってみたりしては
 いけないのだろうか。

 ただこのままの自分で、変わるのでもなく、癒されるのでもなく、強くなるのでもなく
 既に存在しているものの中へ、身を委ねる喜びを感じてはいけないのだろうか?

 子供たちに夏休みが必要なように、変わりたい思い、変えたい思いにも休みが必要だ
 
 それらを休んだ時に、立ち上る積乱雲に乗って、そこから世界を見てみよう。

 いつも
 僕らが見ている世界
 僕らの見ている僕ら
 それらはすべて、きっとおかしいほどにイリュージョンだから。
 
 今日は暑くなりそうだ!
 

 ザ・ハイロウズ 「夏の地図」


 






2012. 07. 26  

自然のエネルギーにすっぽりと包まれて時間が過ぎていくと、細かいことや、先のことがどうでもよくなっていく。

 鳥や、虫の声、草木の匂いなどが通常の脳の働きと、違う場所を機能させ始めるかのようだ。
 そしてそこに存在する命の数、一本のおおきな樹の内部、草むらの中、土の中にも、存在する圧倒的な生命の個体数が、自然のパワーそのものでもあるのかもしれない。

 木の根元にしゃがみこんで、幹を這うアリの動きなどを目で追っていると、『その時間の流れ』に一体化してしまい一瞬自分がどこにいるのかも忘れてしまうようだ。そして思うことは、これらの命の活動の方が、僕ら人間の行なっている様々な価値活動、経済活動よりも本質的な、マクロな世界ではないかということだ。

 つまり彼らは自然の中にいると感じるある超越的な知性に基づいて活動しており、それは人間の硬直的かつ近視眼的な知性活動と異なった原理に基づいている、

 蟻や蛾が活動しているのは、銀河や惑星の世界なのだ。

 そして僕らが通常生きているのは、「文化」や「常識」という人間的知性の囲いの内部である。

 思うに、これらの世界と人の意識とは、かつては連続的につながっており、僕らは多くの生命宇宙とコミュニケーションすることができたのではないだろうか。しかし、これらの世界との連結を妨げる人間特有の意識活動が始まったことにより、僕らはそれを忘れてしまったのではないだろうか。

 足元を見ると、蛾のような虫が歩いている。
 まだ羽が短く、蚕に小さな羽が生えたような、まるでやじるし → のような姿をしている。
 その動きもとても不器用だ。
 至るところで、つまづき、ひっくり返り、じたばたして、木の根っこにたまった雨水に溺れそうになったりしながらも一心にどこかに向かって歩いていく。
 やがて一本の木の根元にたどり着くと、その幹を登ってゆき、ある箇所でじっと動かなくなった。
 彼はそこで変容の瞬間を待ちわびているようだった。
  
 20分ほど経って、その場所に戻ってみると、もうすっかり羽が長く生え揃った一匹の蛾が樹の幹にとまっているのを見た。

 「すごいね、おめでとう」と僕は言った。

 一匹の完成した生命がそこに息づいていた。
 背後でカラスがぎゃーぎゃー鳴いている。
 もしかしたら、この超越的な智慧に導かれて、ある生命を完成させたこの生き物も、一瞬のあとには捕食者に食べられてしまうのかもしれない。

 しかし、それにも関わらず、無限の生命が、誕生と完成をその不可思議な知恵と情熱、衝動に導かれて、成し遂げている。この世界、この宇宙。

 
 『世界の進歩などより、一匹の蟻の行進にわしは意味深いものを見た

 というインディオの言葉。その意味が少しわかるような気がする。






2012. 07. 20  
「あわの歌」はかつて国が乱れ、言葉が乱れた時に歌われ、その状態を整えたと言われているらしい。

 「言葉が乱れた時」というのは、まさしく現代もそうだと思うけど、これは「正しく美しい日本語が使われていない」とか以前に、「言葉」の聖性が剥奪されている状態を意味しているのではないかと思った。

 言葉の聖性というのは、言葉を光と捉えるような見方であり、宇宙の根源的なプログラムであると捉える見方だ。現代の言葉は、ただの記号、コミュニケーションの手段としてのみの側面がクローズアップされている。これは、言葉の「物質化」とでも呼べるような状態だ。
 言葉が垂直次元とのつながりを喪失し、平面的な意味しか持たなくなっている。

 それが「言葉の乱れ」の根本にあるのではないかと思う。
 言葉などというものは、いつも新しく「若者言葉」が日常化して、どんどん変遷していくものだから「言葉の乱れ」などと嘆くこと自体が頭が固いというような意見もあるが、「言葉の乱れ」の根本は、その言葉への意識、言葉を聖なる光と見る観点の喪失だろう。

 もし、創造の原理としての言葉(垂直方向の存在)と、コミュニケーションの言葉(日常言語)が同じ実体の二つの側面であるという意識が浸透していれば、軽々しく人を罵倒したり、ネガティブな事を口走ったりはなかなかやりにくくなる。そのような神の言語を僕らは話しているという認識をもつことによって、初めて「言葉の乱れ」はおさまるのではないかと思う。

 意味的垂直次元の喪失は、あらゆることに及んでおり、僕は最近、ごく当たり前の事物や行動についての認識を実はとんでもなくあやまっているのではないかと思うことがよくある。
 
 これは半田広宣さんの「シリウス革命」の一部を読んで思ったこと。

 科学的思考の発展の上で、コペルニクス的転回、いわゆる天動説から地動説への展開は、理性の目覚めとして語られることが多い。それはもちろん、科学者であればそう考えるだろう。しかし人間の霊性を考える人たちも、このコペルニクス的転回を魂の目覚めとして歓迎することが多い気がする。

 閉じた天蓋が開かれ、その外側に無限の太陽と、無限の地上世界がある可能性に人は目覚めた、という訳だ。

 そこでスターウォーズや、スタートレック的想像力の端緒が開かれた。
 確かに星の海と、その永遠の歴史、そこに存在するであろう知性や不思議な現象の数々はロマンを掻き立てるものではある。
 しかし、僕はそれと引き換えに失われていった世界観があったような気が以前からしていた。

 それはこの地上の意味の喪失である。
 ここは神のつくりたもうた唯一の世界ではなく、宇宙に浮かぶ無数のつちくれの一片と化してしまったのだ。
 「天」がある上方は宇宙空間では、上でも下でもなくなり、南米にとっての天国は、日本人にとっての地獄の方角にあるに過ぎない。
 コペルニクス的転回と、宇宙空間の認識により、「上下」という概念に含まれていた超越的意味はその多くを失った。

 宇宙空間に絶対的な上下があるわけではなくなり、ただ惑星という球の中心に向かい重力のベクトルが働く方向を僕らは「下」と呼んでいるにすぎないのだ。
 この方向の相対化というものはやはり、現代のあらゆる価値の相対化と、垂直次元の喪失と関係しているように思う。

 だから僕は、学生の頃、バイブル原理主義的世界観に生きる人の意識は、現代科学的世界観に生きる人の意識に比べて本当に無知だと言い切れるのかとよく考えていた。そりゃ確かに、神が七日で世界を創造したとか、エデンの園や、ノアの洪水、黙示録の預言をそのまま信じることはできない。
 だが、神の創造した世界に人は生き、その摂理の中でものごとは動いているというはっきりとした感覚、この目に見える生命現象のすべてが絶対なる知恵や実体に基づいているという感覚、それらを彼らがバイブルという触媒をもとに持っているのなら、不安と不確実さに怯える現代人よりもある意味で、勝っているのではないかとそう思った。

 僕らは孤児ではない。
 常に、どこにいても宇宙の父母とともに生きている。
 そしてすべてはその絶対なる無限のあらわれである。言葉も、生命、動物も、植物も、人も、昆虫も、水も、風も、火も、大地も、太陽も、月も・・・そのように、あらゆる現象がその垂直的次元を取り戻す時、僕らはエデンの喜びを、この世界に生きながらも体験することができるはずなのだ。

 「シリウス革命」の中で、それは神の臨在であるパルーシアと呼ばれていた。


 僕は断言していい。
 イエスキリストの意識は、いや無意識の海に沈んでいたプレアデスからオリオンへと至る人類の創造の記憶は、もうまもなく、そのすべてが甦る。世界六十億の人間たちの覚醒として、そして、また歴史の中に息づく数え切れない死者たちの魂の復活として。

 その時、人間は、自らが火であり、大地であり、風であり、水であり、太陽であり、月であり、星であり、銀河であり、歴史であり、言葉であり、死者であり、他者であり、時間であり、空間であり、・・・永遠であることを知るだろう。そして、この覚知こそが世界の完成、神の臨在たるパルーシアなのである。その時、天上と化した地上は、光り輝く黄金の十字架で埋め尽くされる。聖なる大地、聖なる地平、そして聖なる眼差し・・・その眼差しに照明された日こそが、あの伝説の「魚の日」なのだ。



 1999年 半田広宣著 「シリウス革命」より


2012. 07. 19  
haitakadori

RT @hitoshibot: 戦後、戦後って言うけれど戦前かもよ
07-18 23:10

RT @hitoshibot: 浜田「残さず食べ!アフリカの子供等は食べたくても食べられへんねんで!」松本「アホ!その子らも腹いっぱいになったら残すわ!」
07-18 23:10

RT @seikoito: 山手線の駅アナウンスが「白線の内側にお下がり」で切れて電車出発。車内には奴隷気分が漂った。
07-18 23:08

2012. 07. 18  
haitakadori

猫はよお寝るからなあ^^
07-17 22:08

RT @hpappy: 我家のネコは311もその後の余震も寝てました、今も仰向けで寝てます!
07-17 22:08

RT @metataEX: そうそう、最近のいじめの流れで思い出したけど、さかなクンさんが魚の世界でもいじめはあるんですよ、広い世界で泳いでいるときはみんな助けあって暮らしているのに、水槽にいれるといじめが発生するんです。世界が狭いといじめが起こるんですね って記事。あれ ...
07-17 14:30

RT @LSDove: もし私がフォトグラファーだったら、大麻スモーカーのポートレートを撮影して大きくしてパブリックな場所に展示するんだ。隣の家のかわいいあの子やスーパーのレジのおばちゃんやスーツを着たサラリーマンや町のお医者さんや癌のおじいちゃんの写真だよ。
07-17 14:28

2012. 07. 16  
haitakadori

RT @swnews: 太陽風磁場は、−20nT近い強い南向きが8時間近く続いています。なかなかすごいです。 http://t.co/P9CUlXcO 磁気圏の激しい乱れも続いています。 http://t.co/yr4MYh75 #swnews
07-15 22:57

2012. 07. 15  
haitakadori

RT @keijimoriiVet: ヒマラヤ山中の聖地アマルナート洞窟への巡礼の写真集。http://t.co/8vVGaJ2eこの洞窟内の巨大な氷筍が、ヒンズー教のシバ神の象徴ともされています。
07-14 22:37

Twitterやネットでのコミュニケーションは、その人の存在ではなく、「情報」やそれに対する自分の肯定否定を根本にしているのでヘタすると殺伐としてくる。存在を喪失したコミュニケーションは単なる情報戦争となる可能性を秘めている
07-14 00:30

2012. 07. 14  
 アセンション、あるいは人間の意識進化を誘導している存在がいて、それぞれにメッセージを送ってくると考えられている。

 それは進化した宇宙人であったり、神々を名乗ったりしている。
 それらは単に個人的意識の、意識的、無意識的妄想・虚言であったり、人間の集合的意識の擬人化であったり、あるフィールドに形成された情報場の受信であったりする可能性もあるかもしれないけど

 どうもそれらはある存在性をもっているようだ。
 というのは実際にその「誰か」「何か」と物理的にコンタクトした記録があるからだ。
 それらのすべてが嘘だとは僕は思わないし、個人の無意識の実体化だとも思わない。
 
 あるこの次元を越えた「存在たち」がいる。それも無数に。
 彼らは宇宙人とか神々というよりも、「無限の住人」とでも呼ぶほうがしっくり来るように思われる。
 その彼らが、人間的な物の見方に合わせて、「宇宙人」あるいは「神々」というアイデンティティをまとっていると考えるほうがすっきりする。「無限の住人」言い換えれば「多次元存在」だ。

 彼らが送り込んでくる情報の質は、人間の意識にとってかなり異質なため、人間の意識により歪曲されることが多い。あるいは彼らの姿形も、人間の認識システムによって自動的になじみの超越的イメージに再構成されたりもするだろう。
 またそれ以外にも彼らの送る情報は、彼らが意図的に真実をすべて語らないためにとても矛盾しているようにも見える。しかし、その一見矛盾する内容と「全てを知らさない」という態度によってこそ人にふさわしい刺激を与え、変化を促進しているのかもしれない。

 彼らの情報も、あらゆる預言書や、伝説、聖者たちの言葉のように、僕らの生命には値しない。

 だから僕らは常に自分自身の存在へともどり続ける。
 
 あらゆる情報と、身の回りのできごと、災害や事件のニュースを観察しつつも、自らの存在性の内へともどり続けるのだ。
 すべてを消し去っても、すべてが嘘であったとしても残る命。
 自分の呼吸と、鼓動。
 太陽と、土、水、草花と蟻たちの存在に無限の意味を見出すまで、僕らはあらゆるエキセントリックかつ魅力的な情報の束を超えて、そこにもどり続ける。

 あちら側とこちら側の垣根が消え
 有限と無限界が結ばれ

 僕らが『無限の住人』であることを知り尽くす、その日まで。

 どうか幼子のように、この生命と共にあれますように

2012. 07. 14  
haitakadori

冥王星のオコツトがソースw
07-13 21:50

半田広宣さんの『人神』に続き『シリウス革命』を読んでるが、正直ついていけないと同時に、腑に落ちる部分や目からウロコ感の一文も多い。生ぬるいアセンション論に食傷気味の人にはオススメかもー。1999年の著作だけど、今、読むべしなかんじ
07-13 21:49

2012. 07. 10  
haitakadori

RT @Angeli_alchemy: 311後、あらゆる霊能者や預言者が、何月何日に大地震が来ると予言したけど全て外れまくり。もはやあまりにもパラレルリアリティが多重構造すぎて、アカシックコードも当てにならないカオス状態に突入したようだ。これから先、あてになるのは自分の ...
07-09 21:10

2012. 07. 07  


一昨日、弟とSkypeで話した時、超人と英語学校をするプロジェクトをやってた時に作成したという宣伝用動画を教えてもらった。

 超人氏のことは311震災予言のことでちらっと過去記事(3・11以降~目覚めの始まり~②)に書いたけど、自主トレだけででかい武術大会で上位に食い込んだり、数カ国語を操ったりなんかすごい人らしいが僕は会ったことはない。

 かなりクオリティの高い動画になっており、超人氏がドラクルに仮装し、うちの弟がピエロでベースを弾いている。プラス謎の怪物たちのイラストを描いてるようだ。歌唱力もすごいが、ヘビメタのボーカルもやってたらしい。なんかもうよくわからんレベルの多才さだ。





 ただおしむらくは英会話学校の宣伝にしては、個性的かつマニアックすぎるところかもしれないが・・・。

 弟は超人の指導のたまものかはわからないが、英検準一級に合格している。

 こっちのロングバージョンは前半弟と超人氏のコント風で、後半は超人氏の言語持論が展開されている。




 とても興味深い。
 受講してみたいくらいだが、残念ながら今は休業中みたい。
 再開希望!(笑)

 あまりに動画のクオリティが高く埋もれるのがもったいないので、紹介してみました。





2012. 07. 06  
haitakadori

太陽活動活性化中、数ヶ月ぶりとか、半年ぶりとかのレベル。今年では最大かも。本日だけでMクラスフレア11回。みんな、とりあえず落ち着こうw波乗り感あるなー
07-05 16:29

RT @swnews: 昨日のお昼から数えて11個目のMクラスです。M2.3、M5.3、M2.3、M1.3、M1.8、M4.6、M1.2、M2.4、M2.2、M4.7、M1.1 どこまで行くでしょうか。 #swnews
07-05 16:25

RT @LSDove: 「マッシュルームは私にこう言いました。目的を持って生きなさい。さもなければ、他の誰かの目的の一部になるまでですよ」テレンス・マッケナ
07-05 13:55

2012. 07. 05  
  ムンバイー 2006年 3月23日
 
 ホテルに帰ると、パイプと、「かたまり」をまた取り出した。

 きっとインドでのソーマセッションはこれが最後となるだろう。こころゆくまで楽しもう。

 汚い路地しか見えない部屋とあって、セッティングは微妙かもしれないけど、ライターでかたまりを燃やし、思いっきり肺に吸い込んで、ぶわっと煙を吐き出す。紙巻きのジョイントもよかったけど、この独特の匂いの煙が強烈にのどをキックしながら通過するこの感覚が好きだ。二度、三度それを繰り返す。

 いくらも時が経たないうちに、穏やかな幸福感がお腹のそこからこみ上げてくる。
 そこはすでに汚い路地を見下ろす、気が滅入るホテルではなかった。
 というか、そんなことはでもうでもよくなっていた。
 もちろん、そんなことはどうでもいいのだ。
 どこにいようが関係ない。
 僕がいるところ、今、この場所、海の見えるホテルに泊まる必要なんてなかった。

 ここは一体どこなのだろうか?
 遠くで女の人が、インドの歌を歌っている。あの汚いゴミためのような路地の向こう側から響いてくるのかもしれない。得も言われぬ美しい声と、メロディだ。

 ここは本当は見知らぬ国ではなく、僕が知り尽くしている、この今・ここという場所に違いない。
 日本だろうと、インドだろうと、海辺のリゾートホテルだろうと、薄汚い安宿だろうと
 ここが天国なのだ・・・
 ここにすべてがあるのだ・・・

 そのことにみんなが目覚めれば その喜びで本当に世界中が天国にならないんだろうか
 
 僕はさっき買っておいたバナナをむいて、一口食べた。

 なんだこりゃ(;゚Д゚)! う・うまいっ!!

 僕はそのバナナに心から感謝した。

 感謝や、神様や、愛という言葉がこの状態ではいつもよりも数倍リアルに感じられた。
 
 その時、部屋の扉がどんどんどん!と激しくノックされた

 Σ(゚д゚lll)

 な・なんだ、私はやましいことなど何一つ・・・

 ドアを開けると、他の泊まり客だろうか 「ああ、部屋を間違えたよ、ごめん」とにこやかに言って去っていった。

 飛んでる僕の頭の中では、この人は神様からの使者のようなものであった。
 そのあと気づいたことを旅の手帳に書き付けていた。


 みながここが天国であることを発見する
 そうしたらその悦びは一瞬で世界を明るくし
 ここが天国となる
 ここが天国 それに目覚めよ

 愛ゆえに神は私を人間にしてくださった
 愛ゆえにあなたは私に苦しみを与えられた
 だからあなたは私の苦しみを理解している
 
 全て神からいただいたもの 大切に

 神への愛が人を進化へと導く
 神への愛は私たちを知らぬまに
 進化に導く

 愛が世界を動かしている

 愛 それは最高の狂気
 愛が私を生かしている
 尽きせぬ永遠の愛 永遠のよろこび

 神の実験 世界に唯一の 私・あなた

 神様のやり方は 残酷で 美しい 醜悪で高貴 滑稽で 劇的
 あなたは全ての全てだから 神よ あなたのやり方は 全てのすべて

 それへの愛がお前を生かしているのだ
 それへの愛ゆえにお前は生まれてきたのだ
 そのものへの愛ゆえに

 お母さんのお腹にいる時
 君はどんな気持ちで呼吸してたかな
 そんな気持ちで呼吸してごらん
 宇宙の大きな胸にだかれて

 あの人たちは みんな お母さんから生まれてきた
 みんなお母さんが大好きなんだよ

 それはなぜだと思う?

 マリアよ あなたは 全てを抱く

 すべての母
 


 ムンバイー チャトラプティ国際空港ロビー 3月24日 

 ようやく・・無事空港にたどり着いた~~!
 あのほこりぽいバナラシの駅で6時間電車を待った経験もあり、ここで一夜を過ごすことも全く気にならない。
 あえて言えば、ここの売店コーヒー一杯と小さいスナックで90ルピーもとるのはどうかと思うが、もういいです。帰るもーん。インドよ僕を強くしてくれてありがとう(当分来ないけど)一生忘れられないインパクトをありがとう。


 その日の朝は7時前にすっきりと目を覚ました。

 その時僕の頭に浮かんだ事、それは、「あー明日の飛行機で帰れるー」ということだった。
 そう思うと若干元気が出てきて、今日一日、目一杯観光してやるぜぃという気分になってくる。
 我ながらへたれた感じだが、カタツムリにしてはよくやった、)と自分に言ってあげたい。
 カジュラホで出会った、三ヶ月の旅をしていると言っていたバックパッカーのように、僕にもそんな長期間に及ぶ旅をすることがいつかできるだろうか。常に、寝るところを変えるサドゥーのような生活は僕にとって結構きつい。心がずっと張り詰めている。それも長期間続けば慣れてしまえるものなんだろか。
 
 ホテルは朝の9時過ぎにチェックアウト。
 今日はエレファンタ島にわたってみることにする。
 重いリュックを預けたいので、とりあえずタクシーでインド門まで行き、サルベーションアーミーに100ルピーほど支払い荷物を預かってもらった。

 インド門の周りは客引きのインド人でいっぱいだ。
 豪華なタージマハルホテルと、ラーマクリシュナの弟子、ヴィベーカーナンダのおおきな銅像が立っている。
 エレファンタ島のチケット、100ルピーで買わないか、と声をかけられ購入。
 あとをついていくと、緑色の汚い入江があって、ボートが何そうか浮かんでいた。

 うーん客全然おらんなー(-_-;)

 「いつ船は出るの?」と尋ねると、どうやら出航時間が決まっているわけではなく十分客が集まってから出航するらしい。しかし、インド門の正面からは、立派な二階建て客船が波をわけてどんどん出発している。
 変なチケット買っちゃったかな
 あーまたマーヤーになってきた(笑)

 船の前で待ってると、そこの船員が話しかけてきた。

 「どこから来た?
 「ガールフレンドはいるのか?
 「結婚はしてるのか!?

 とかよくあるある質問を立て続けにぶつけてきたあと、「船に乗れよ!」と言った。

 船に乗り込んで片隅に腰をおろすと、なんかくしゃくしゃの紙幣をとりだして、僕に見せた。
 聞きにくい英語を総合したところによると、このカンボジアの紙幣を、ルピーで買ってくれとかなんか意味のわからんことを言ってるようだ。

 No、No、と無愛想に答え続ける

 すると「ランチを食べたいから、100ルピーほどくれないか?」とせがんでくる。

 「ダメ」と言うと、

 「なんでダメなんだ?」

 (#゚Д゚) あ、早くもイラっとしてきた。

 「ご飯は、自分のお金で食べなきゃダメでしょ。」と英語で言ってみるが、伝わてるかわからない。
 
 その後もしつこく メシを食う金をくれ、金をくれ、としつこくせがんでくる。
 なんだ、この人はホント船員なのか。
 相変わらず、僕以外の客はまったく乗ってこない。
 しくじったか・・・・ 

 「お金くれよ・・・」と十何回目に言われたとき、

 「なに言うてんね!わけわからんわ!!」と日本語のしかも関西弁で怒鳴り返すと、席を立って、船を降り、さっき買ったチケットを丸めて、船の中にいる彼に思い切り投げつけてやった。

 そしてインド門の方へ歩いていく。
 インド人に切れたの、3回目。だが関西弁でキレたのは初だ。
 しかしもう罪悪感とかそういうのは、ほぼない。比較的頭がすぐに切り替わる。
 あらためてチケットを買い、すぐ船に乗った。
 これでいいんだ。一枚分の料金は無駄になったが、あんなどんよりした入江でしつこく金の無心をされるよりもずっといい。

 船はすぐに出航した。
 僕は前の方に座って、水平線をみつめた。
 潮の匂いが心地よい。果てしなく開けている風景に開放感。
 一時間ほどでエレファンタ島に到着した。
 静かで、いい感じの島だ。
 Canon hillという小高い丘を登ると、頂上には2基の大砲が湾のほうをむいてひっそりと日を浴びている。
 眺めは最高によかった。
 ここにこれらの大砲が据えられたころからずっとあったのではないかと思える巨木。
 その木が見てきたであろう世界の変化に想いを馳せる。 

 エレファンタ島からインド門に戻ると、空港へ行くタクシーを拾った。
 ムンバイーからデリーに戻る飛行機は、翌朝早朝。
 そして、デリーからTOKYO成田までの便が明日の夜である。 



                  デリー再び


 デリー 2006年 3月24日


india-whole.gif



  ムンバイーから早朝に離陸した飛行機は、お昼ごろにはデリー、インディラ・ガンジー空港に到着した。

 ああ・・・戻ってきた。デリー。

 3週間前の真夜中、不安がいっぱいの気持ちで日本から降り立ったこの場所。 
 なにかずっと、ずっと昔みたいな気がする。 
 明日にはもう、東京の自分のアパートに帰ってるのだろうか。
 嘘みたいだ。
 行く前は、インドに明日いることが信じられなかったけど、今は、明日東京にいることがなんだか信じられない。わずか3週間の間に、日本の生活と旅の日々の間にある種の距離感が形成されていた。
  
 半年ほど派遣社員として働いていたこと、家賃3万円のぼろアパートに住んでること、帰ったら、仕事を探し始めなければならないこと、東京では、道端でハエに群がられて死にかけてる人もいないこと、牛や猿もないないこと。。。すべてとの間に距離感があった。

 夕方の、デリー発、成田行きの便までここで無難にじっとしててもいい。
 からだを休め、うとうとして・・・夕方まで時間をただ潰してもいい。
 
 でも・・・


P3110101.jpg


 なにかもったいない。
 もう一度出ていきたい。
 あの不愉快で、活気に満ちた雑踏の中へ。
 ここでただ時間を過ごしているよりも、インドの空気を余すところなく受け取ってから帰りたい。
 

 行こう、デリーの街へ!
 特に目的もないけど、あそこをもう一度あるいてみよう。

 時間はもう午後の2時を過ぎている。
 この時間帯は外で旅行者を待ち構えているインド人も少ない。あっさりと外に出て、バスに乗ることができた。空港からデリーの中心部、コンノートプレイスまで約一時間。
 昨夜、ムンバイーの空港ではほとんど眠っていなかったので、知らないうちにウトウトして、頭を座席後ろの鉄パイプに何度もぶつけて、ごん!という音と鈍痛で目覚めるということを5回以上繰り返した。
 
 コンノートプレイスにたどり着くと、とりあえず空港行き帰りのバスが発車するバス停を確認し、50ルピーで1800発のバスのチケットを購入しておく。午後6時まで、あと2時間ほど。

 チベッタンマーケット近辺をうろうろして、異国情緒あふれる数々の品物を鑑賞する。
 サングラスを売りつけてくる物売りを、もはや自動的に振り切る。
 地下道の入口に、物乞いのおばあさんがいた。
 なぜかその人が気になったので、引き返して、残ってるお金の一部を渡す。
 まったく僕の感傷かもしれない。その人の眼がとても澄んでいて、美しく、視線を合わせた時に何かが通いあったように思えた。もう17時も過ぎたので、バス停に戻り、ベンチに腰を下ろした。
 その後ろは広い公園になっていた。
 僕はなんとなくそこを散策してみることにした。

 するとまた2人組のインド人がやってきた。
 
 「ヤ~~コニチハ、私、お耳の掃除する人です。ちょっとやってみませんか」

 あ・・・これが噂の耳かき職人だろうか。少し興味がわいたので、僕は耳掃除をやってもらうことにした。いくら?と聴くと、100ルピーと言う。

 彼は、細くて長い耳かきを異様に手馴れた様子で僕の耳に差し入れると、あっという間に中のものを取り出した。

 「こんな一杯あった。アナタ、ベリー汚いね。」

 僕ベリー汚いの?(;´Д`)
 いや、いやあの~自分の名誉の為に言っておくと、毎日普通に耳掃除してるのだが。
 どうやら彼は普通のテクニックでは取れないような場所の耳垢をきれいにするテクニックを習得しているようだ。

 「薬使って、掃除したらもっともっとキレイになるよ」と言うが、謎の薬を耳に入れられるのはちょっと不気味なので遠慮する。

 「それじゃ、そこのベンチに横になってクダサイ」

 僕が言われた通りにすると、さらに念入りに耳の掃除が始まった。
 その間に、彼の友人が、僕の靴をチェックし始めた。
 彼は靴の修理専門の職人で、今耳かきの間にきれいに補強してやるという。

 「あ、ちょっと、いいって・・それは・・・」と耳かきされながら言うが、靴修理人はもうどんどん修復作業を進めている。トントン、カンカン、トンカントンカン

 「ほら、これできれいになった。君のガールフレンドもきっと喜ぶだろう。」

 と彼は得意げな顔・・・・って(-_-;)
 
 聴くのが怖いが、聞かねばならぬ。「あの~これいくらなの?」

 靴職人「250ルピーだ!こいつの耳掃除と合わせて、二人で500ルピーだ。」

 な・な・な・・・

 僕は慌てて耳かき職人に向かって、「さっき君は100ルピーって言ったよね」と言うが、

 「いや、そんなことは言ってない。500、二人で500ルピーね。うししし」

 靴職人と耳かき屋が、二人で500ルピー払えと詰め寄ってくる。

 もう!払えばいいんっだろ! ほら、500やるよっ!!

 僕がガンジーの絵の描かれた500ルピー札を差し出すやいなや、耳かき屋がそれをばっとつかむと、二人揃ってあっという間にいなくなった。なんという逃げ足の速さとコンビネーションのよさ・・・つむじ風みたいだ。あとには僕たった一人が呆然と取り残された。

 やられた・・・
 もうこういうのにはひっかからないと思ってたのに・・・

 意気消沈したまま、空港行きのバスに乗った。
 赤くておおきな夕日がデリー市街に沈もうとしているのが窓から見える。
 きれいだ。
 でもなんだ、この後味の悪さは。

 僕にはインドの声が聴こえてくるようだった。

 「おいおぬし、ばあさんに施しなぞをして旅を気持ちよくしめようとしとっただろう。

 お前が、そんなことをして徳を積んだような気分になったり、ちょっといい気持ちになろうが、なるまいがわしの腹の中の貧困と病とはかわらんさ。わしはそれを使って教えるのさ

 だから最後に、こいつらを使ってお前に教えてやろう。

 わしのマーヤには 限りがない、ということをな。

 これは最後のレッスンだ、そこから何を学ぶかはおぬし次第よ、ホーッホッホッホ



 空港に帰ってきて、乗車時間までの間、また日本人の旅行者と話す機会があった。
 彼は20代前半くらいに見えたが、体中虫の刺されあとでいっぱいだった。安宿にばかり泊まっていたので、ベッドに虫が出たりして大変だったという。だが、彼はとてもインドを楽しんだように見えた。彼もドラッグに興味があったようで、アシッドやガンジャは一通り体験してきたという。
 
 「エルやって、ホテルの庭で遊んでたんですけど、なんかそこが迷路みたいに見えてきてチョー楽しかったすよー

 他にも、トルコでパーティーがあるだとか、Lはイスラエルでは比較的手に入りやすいというようなことをどこ情報か知らないがよく知っていた。僕には彼が「ちきうの歩き方」の情報世界を越えて、違う情報網にうまくつながっているように見えた。

 「最近Lは、紙じゃなくって、液体の形で出てるんですよね」と彼は言うと、ポケットから目薬の容器のようなものを取り出して見せてくれた。僕の目の前で、一見なんの変哲もない液体が揺れている。

 「これが・・・そうなの」

 これが、ホフマン博士が開発し、スタニスラフ・グロフをトランスパーソナル的に限りなく啓発し、ヒロシがジキジキに最高と言っていた、L●Dなのか・・・60年代、70年代、真夏のウッドストック音楽祭でヒッピーたちがトリップしながら愛の夢を見ていた頃は、切手に染み込ませた形で流通してたと聞くけど。

 「もしかしてもって帰る気?」

 「うーん、成田って麻薬犬がいるらしいんですよねえ。大丈夫かなー

 「大丈夫って、何も持ってなきゃ平気でしょ。それに毎日いるものなのかな犬なんて」

 「いやーでも匂いが残ってて、僕の前でワン!とか鳴かれたらどうしようかと思って。いつまでも出てこなかったら先に行ってください」と彼は冗談めかしていう。

 麻薬犬、知らなかった。
 そんな恐ろしい犬が常駐しているのか。
 やめるか、持って帰るのは 
 僕はポケットの中の「かたまり」のことを思った。
 こんな1gにもみたないかたまりバレるわけがないとは思うけど
 実際、ムンバイーからデリーまでの飛行機ではまったく感知されなかった。
 でも日本の税関はとにかく薬物には世界一厳しいとも聞く。
 こんな植物の樹脂くらいでお縄になったりしたくない。
 しかしここでやめるのも、チキンだ。

 僕は頭の中で、葛藤でぐるぐるとなりだした。
 
 やがて搭乗時間となり、成田ゆきの飛行機に乗り込んだ。
 大丈夫に決まってるとも思うが、どうも不吉な予感がとまらない。
 
 そして翌日成田まで迎えに来てくれてるはずの彼女のことを思い出した。
 バレるバレない以前に・・・
 せっかく迎えに来てくれてるのに、こんなブツが発見されるかどうかおびえているような精神状態で日本に向いたくない。

 僕は機内のトイレに向かった。
 そしてヒロシから買った「黒い塊」を取り出すと、便器に投げ捨てて、勢い良く水を流した。
 飛行機の窓の外はもう明るくなり始めていた。
 もうすぐ、日本だ。


         
      JAPAN TOKYO~見知らぬ世界~ 
 

 Narita airport Japan 2006年 3月25日 
 

 強い衝撃と共に飛行機は、地上に着陸した。
 戻ってきた。
 日本。僕が生まれた国、住んでた国。 
 なんかすべてがつるつるぴかぴかしてて、とても清潔だ。
 なんて綺麗なんだろうか。
 搭乗口から、税関へと向かう中言葉を交わす
 空港の職員も、みな穏やかで、優しく、気配りがある。
 あ~安心感あるー(´;ω;`)
 日本は、こういう国だったのか。

 検疫と入国審査を終えて、税関へと向かう。
 と、真っ黒な犬を連れた職員があたりをウロウロしている。
 あ、あれが麻薬犬なのだろうか・・・
 そして犬が僕の方に近づいてきて、リュックサックの後ろに鼻をフンフン寄せるとまた離れていった。
 「ご協力ありがとうございます」と係員が言う。

 ん?今のが検査かな
 
 X線検査のある、荷物を通すコンベヤーにリュックをおいたとこと
 係りの人が言った。

 「何か、人から預かったものってありませんか?誰かから渡されたとか?」

 ん?

 「いえ、特にないですが・・・」

 次におおきな冊子を広げると、

 「えーと大麻樹脂ですとか、こういったキノコ類ですとか、日本の法律で禁じられているものがあります。こういったものをお持ちではありませんか?」

 詰問口調ではなく、あくまでも業務的かつ丁寧な喋り方である

 「いえ、持ってないです」

 「そうですか。実は麻薬犬がお客様のお荷物に興味をしめしまして。ちょっと別室でお話をうかがってもかまいませんか。」

 「はい、いいですよ」

 僕は平然としていたが、昨夜飛行機の中でトイレに流したことを、神に力いっぱい感謝した。
 犬が何をかごうが、現物は持っていない。だから別室に連れて行かれても不安はなかった。

 税関の職員の対応は丁寧だった。
 しかし、僕が椅子に座らされて聞き取りをされている間、もうひとりの職員がもちろん僕の許可をとった上でだが、リュックの中やショルダーバック、財布の中身までも入念に調べている。さらに

 「靴の中もよろしいですか?」と靴を脱がされ、靴底や、靴下までチェックされた。
 しかしもちろんどこにもやましいものはない。
 麻薬犬が何に反応したのかは知らないが、、、そうか、可能性があるとすれば、あれだ・・・

 「何かインドでそういった薬物などを使用したことはありませんか?インドでやるぶんに関しては私たちも何も申しません」

 ここは、どの程度正直になるのが望ましいのか。

 「あーえっとそう言えばー向こうの人に勧められて、タバコみたいなのを吸ったことはありましたけどー」

 「タバコ・・・それはどんな形のものですか」

 「いやー長くって、黒くって(省略)」

 「ふむ、で、それを吸うとどうなったんですか?」

 ええと、自分の過去世がバナラシの修行僧のような気になりました
 すべてのものへの感謝を感じ、バナナにありがとうと言いました。
 ここが天国なんじゃないかって、そう思えました。

 ・・・とは言わず、「いやーなんか頭がちょっとぼーっとしたかなー」と答える。

 「その使ったパイプを見せてください」と言われた。

 僕は複雑な模様の彫り込まれたお気に入りの長い木製パイプを取り出した。

 「これです」 

 もうなんかこんなもん持ってること自体、力いっぱいあやしいが、そこは突っ込まないで居てくれた。

 「中にはねえ、飲み込んだりとか、お尻の穴に入れて持って帰る人もいるんですよ。そういう可能性も考慮してあとでレントゲン検査などをさせていただいても大丈夫ですか?」
 
 「はい、いいですよ」
 厄介なことになってきたが、何も飲みこんでいないので問題はない。

 その後もってきたパイプに残っている燃えカスを、こそげ落とすと、それを目の前で検査薬に入れた。

 「これをふって赤くなったら、大●だということです」
 僕と係員にガン見され、まるでそんなに見つめないでと紅潮しているように検査薬はじわーっと赤くなった。
 
 「・・・●麻だったみたいですね。」
 しかし、現物を持ってないので、それ以上、追及もお説教めいたことも言われなかった。
 あくまでも、税関の仕事はドラッグ撲滅ではなく、国内への持ち込み禁止なのだ。
 次はレントゲン検査かと思いきや、 

 「今日はもうお帰りいただいて結構です」と職員さんが言った。
 どうやらさっきのレントゲン検査の話しは一種のかまでもあったようだ。
 僕の様子から、撮影しても何も出てこないことがわかったのだろう。 

 「・・・ちなみに、飲み込んでませんよねえ、はっはっはっ」と職員さんがいった。

 僕も「飲んでないですよ、はははは」と笑ってみた。 

 なかなか到着ゲートから出てこない僕を待っていてくれた彼女に僕が最初に言ったのは、

 「麻薬犬、コワスギ」という言葉だった。

 考えてみれば、デリーで麻薬犬の話をする旅行者にあったことも明らかに、警告サインであったのだろう。
 彼は、大丈夫だっただろうか。
 
 そして僕は声を大にして言いたい。

 意識を変える神聖な植物・物質を愛している、みんな!日本の税関と、そこで働いている犬たちはすこぶる優秀なんだ。そして最新鋭の検査機器も常備されている。無謀な危険はおかさずに、楽しむのは『向こう側』でだけにしておこう。『向こう側』で楽しんだら、それは向こう側で処分して、すっきりした気分で『こっち側』に帰ってこようぜ! (んなことわかってるって?)
 
 そのあと、インドのエピソードを話したりしながら、空港のレストランで帰国後最初の食事をとった。残念ながら何を食べたかは忘れてしまったが、ひとつだけ確かなことは、それはカレーではなかった、ということだ。カレー以外の料理の選択肢が多いというのが日本の食事のうれしいところだ。

 成田から、電車に乗り、いつも使い慣れた中央線に乗り換えて、地元の駅まで帰った。
 それはいつもどおりの風景だった。でも何かが違っていた。
 中野、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪・・・
 駅の並び方もいつもどおりだ
 JRの改札、自動改札機、駅前のロータリーと、見慣れた店、店
 松屋、ドトール、吉牛
 いったい何が違うんだろう。
 街はとても静かで、そして平和に見えた。
 牛もいない。サルも、リスも。路上で転がってる死にそうな人もいない。
 出発した、3月初旬よりも確実に暖かくなり、春先の穏やかな風が吹いている。
 僕はその静けさが、この地球では極めて特殊な無風地帯のように思えた。
 何かが違って見える理由は明らかだった。
 僕の中の、何かが違っているのだ。 
 インドという参照点ができたことによって、この国の、このありふれた風景を、相対化して眺めるということができる。
 そこには未知の日本があった。未知の、日常があった。
 この不思議な国に、僕はずっと生きてきたのだ。

 3週間ぶりに帰り付いた部屋、そこも僕が出発した場所ではなかった。
 3月のはじめまでここで生活していたのは、僕以外の誰かのようにさえ思える。
 その誰かは3月のはじめに、ふと思いつき、旅に出て、そのまま返ってくることなく
 インドの喧騒の中へ消えていった
 そして代わりに僕が、彼の生活を引き継ぐために戻ってきた。あたかもそんな風に感じられた。 

 どうやら僕は帰ってきたのではなく、いまだ終わらぬ旅の途上にいるようだ。

 JAPAN という見知らぬ国の、かりそめの宿に。



                 
                  あとがき


 インドに行って、僕はなにか変わっただろうか?
 再開した相方は行く前よりかっこよくなったと言ってくれた。
 インド人になるべくなめられないように、ヒゲを伸ばしっぱにしてたし、かなり日焼けもしたので行く前と印象は少し変わっていた。

before-after.jpg


 相方がつくった僕の インド Before → After

 しかし・・・僕はこういう日焼けとかがあっという間にもとに戻る体質でもある。
 付け焼刃のワイルドさは、旅をした3週間という期間も持たずに、僕はすぐ生白いもとの僕に戻った。

 Before →After→ Before

 つまり外的な変化はすぐにプラマイゼロだ。

 では内面的にはどうだろうか?
 インドでたくさんの人の生きる姿を目撃したことで、とにかく生きていればいいんだというような考え方が強くなったのはある。
 だから僕はその帰国直後、仕事をまったく選ばず、チラシのポスティングを毎日のようにして生活費を稼いでいた。仮に一生チラシのポスティングをしたとしても、おそらく日本でなら多くのインドの人よりも豊かな暮らしになるだろう。

 大事なのは生きることだ。生き方、はある意味二の次なのだ。

 最近就職活動がうまくいかなかった学生の自殺率が急増しているというけど、ある意味随分贅沢な話しだと思う。本当に狭いレンジの中でしか生きるということを意味あるものと思えないという価値観は、両親や時代に刷りまれたものかもしれないけど、狭い世界しか知らないで、もらった人生を捨ててしまうなんて哀しい話だ。

 もし自殺をしようと思うなら、例えば貯金を全部使って死ぬ前にインドでも、ヨーロッパでも、南米でもどこでもいいので日本とまったく異なる価値世界を旅してから死んでもいい。何ヶ月も違う肌の色の人たちと接し、違うものを食べて、違う風の匂いを感じてせめてそれから死んでもいい、と僕は思う。
 でも、おそらくだけれど、帰ってきた時にはきっと死のうという気持ちなんてなくなってるはずである。
 
 あんなに日本に早く帰りたいと思っていたのに、帰ってきた僕は「インドどうだった?」と聞かれるたびに
 「良かったよ。また行きたいな」と答える。
 別に騙そうとしている訳でもないし、格好つけて見栄をはってる訳でもない。
 それは自然に胸の奥から湧き出てくる気持ちだ。きっとまた、インドに嫌になって、はやく帰りたいよ、なんでこんなとこ来たんだろう?と思うかもしれない。
 それでも僕は、もう一度あの風の匂いを感じてみたいと思う

 あの混沌とした、聖なる俗なる
 母なる世界へ、
 いつかまた
 
     
end.jpg

                

               
                  ☆ミ<おしまい>(*^▽^*)



2012. 07. 04  
haitakadori

RT @tomatsuo: この一週間の父島、硫黄島M5クラスが相模トラフを刺激したようです。東京湾内の一番深い地層が動いたことにより、三浦半島、東京湾北縁断層、房総沖等の活断層のリスクが一段高まったと思います。 http://t.co/mqbMfLXt
07-03 13:16

2012. 07. 03  

 以下、トム・ケニオンというサウンドヒーラーによる「ハトホル」のチャネリングメッセージ。
 4月に書いた、『エネルギー転換』という記事で考えたことと似ており気になった。

 
 メッセージは2011年、4月のもの

 http://tomkenyon.com/japanese-6 

 意識の変転状態トム・ケニオンを通したハトホルのプラネタリー・メッセージ

 定義

 混沌の中心点(カオティック・ノード)とは、混沌とした出来事の集まりです。ハトホルたちによると、地球は混沌の中心点に入っており、その結果として、混乱状態のレベルがこれからも高まることが予測されます。そのなかには地震、火山活動、異常気象、生態系の危機、そして経済的、社会的、政治的混乱などが含まれますが、これらに限られたことではありません。

 ハトホルたちの言う「意識の変転状態」とは、多大な喪失が起きたときに、私たちが過ぎ去った古い現実と、まだ完全に形になっていない新しい現実との狭間で、一時的に陥る中間地点のことです。

「知覚の指標」とは、私たちが五感を使って世界を理解し、自分の人生を歩んでいくということを表現するために、ハトホルたちが使っている言葉です。

 メッセージ

 混沌の中心点はその本来の性質上、意識の変転状態を生み出す傾向があります。意識の変転状態は、知覚の指標が消えた時に現れます。そしてこれが起こる時、あなたがたはこれまでの現実がもはや存在しないか根本的に変わってしまったのに対して、新しい現実がまだ誕生していないという、無価値地帯に入ります。

 あなたがたが混沌の中心点のさらに強烈な段階へと入ったために、私たちは変転状態について私たちの見解をお伝えしたいと思います。あなたがたが、この知識をご自分の利益のために活用されることを願っています。

 転状態は主に1.個人的変転状態、2.集合的変転状態、3.肉体的な死、の3種類に分けることができます。

 個人的変転状態

 はじめに、個人的変転状態に注目していきましょう。あなたがたが認識する現実は、あなたがたの個人的な知覚を中心軸として展開しているからです。

 あなたがたの現実の認識というのは、全く個人的な創造物です。文化、時間、場所、そして状況などの共通認識による影響は受けますが、根本的に何が現実で何が現実でないかというあなたがたの認識は、あなたがた自身の創作です。

 あなたがたの現実の認識は、ほとんどの人の場合、知覚の習慣によって決まります。あなたがたは人生のなかで決まった現実を経験するのに慣れていて、それらがたとえばあなたが今どこにいるのかを教えてくれます。朝目覚めて時計を見ると、時間の共通認識が即座にあなたの目の前に現れます。このような幻想に携わるか否かは、あなたがた個人の選択の問題です。実際には、霊的に熟達していることのひとつのしるしとして、文化的幻想の性質を明確に理解しつつ、そのなかを首尾よく進むという能力があります。

 あなたがたの個人的な生活が劇的に変化するとき、知覚の指標が消え失せるか、あるいは再編成される傾向があります。

 ここで、ひとつの起こりうる筋書を紹介しましょう。あなたがたが長年同じ仕事についていて、この立場で必要とされることに基づいて人生を築いてきたとしましょう。昼食は決まった時間に食べます。家に帰るのも決まった時間です。仕事で要求されることに合わせた特定の方法で、他者と交流します。

 もしもその仕事が不意に、突然になくなったとしたら、これまでの知覚の指標が消えてしまいます。決まった時間に起きることも、決まった時間に昼食をとることも、決まった時間に家に帰る必要もなくなり、起きている時間の大半をともに過ごしていた人々とも会えなくなります。

 このような状況では、ほとんどの人が本質的に困惑します。ここでも知覚の指標が消えてしまったのです。

 あなたがたの個人的生活に劇的な変化が起こるとき、この筋書と似たようなことが起こります。もしあなたがたにとって重要な人間関係が突然終わりを迎えたとしたら、その人間関係の知覚の指標が失われ、あなたがたは意識の変転状態に入ります。

 もし、あなたがたが健康状態の危機に直面し、生活に根本的な影響が及んだ場合、知覚の指標は消え去り、非常に困惑するでしょう。あなたがたは意識の変転状態に入ったのです。

 混沌の中心点が強烈さを増すにつれて、これまでの現実が目の前で粉々に崩壊する衝撃を、より多くの人々が経験することになるでしょう。それまでの人生のなかで確かだったものが、不確かになります。しっかりと堅い地面だったものが、そうではなくなります。これは、比喩的な意味と文字通りの意味の両方で言っています。

 この混沌の中心点から発生している変転状態には、もうひとつ別の波があります。それはすでに多くの人々に影響を及ぼしていますが、その影響は、まるで津波のように意識のなかに広がっていくでしょう。

 この特定の変転状態は、あなたがたの文化の集合的偽りの崩壊に関係しています。より多くの人々が、影絵芝居の背後にあるものを見るでしょう。あなたがたは陰で操る者の存在を感じとり、その正体はとらえにくいとしても、あなたがたの文化がさまざまな面において操作され、限定されたものであり、多くの場合真っ赤な嘘であるということを、より現実的に理解するでしょう。

 ここで私たちが言っている偽りとは、経済の偽りでも、戦争の偽りでも、自由を制約する宗教の偽りのことでもありません。これはあなたがたの自己認識に関する偽り、あなたがたを拘束し続ける偽りのことです。この偽りとは、あなたがたが肉体をもった人間という存在であるのに過ぎず、地球上での経験以外には、どのような領域にも存在しないとする信念と文化的主張のことです。

 この偽りを認識することが個人の自由の先駆となりますが、初期の段階ではかなり混乱することになるでしょう。なぜなら多次元的な経験というのは、地球上でのあなたがたの日常的経験とはあまりにも違っているからです。もしあなたがたが地球的な生活と多次元的な生活との間で孤立しているとしたら、それはあなたがたが意識の変転状態に入ったことを意味します。

 私たちがこの情報を提供する目的は、意識の変転状態にある間の実用的な手順をあなたがたに提案することです。

 強烈な変転状態に入るとき、ほとんどの人は圧倒された状態に陥り続けるかもしれません。それまで本物だと思っていた現実とともに、知覚の指標が消えてしまったことに気づいたときの衝撃は、多くの人々をひどく不安にします。

 時間が加速しているために(これはより多くの出来事が短い時間で起こるという意味です)、ショック状態あるいは圧倒された状態にとどまり続けるという精神的な猶予は、あなたがたにはありません。ここで私たちが伝えたい極めて重要な点は、変転状態の性質に関係なく(その変転状態があなたがたの個人的生活の変化に伴う個人的性質のものであっても、文化的なごまかしに気づくなどのような集合的なものであっても)、あなたがた一人ひとりが、あなたがた自身の現実の創造者であるということです。

 なぜ突然自分の人生が奪われてしまったのかについて、あなたがたにはそれぞれの物語があるかもしれませんが、それらは単なる物語に過ぎません。自分の抱える問題について、あなたがたは他の人々、状況、あるいは社会制度を非難するかもしれませんが、これは責任転嫁です。あなたがたの物語は真実かもしれませんし、責めを負うべき人、状況、社会制度が存在するのかもしれません。しかし、意識の変転状態に入ったとき、あなたがたは強力な創造過程の渦の中心にいます。「覆水盆に返らず」という言葉があるように、取り返しのつかないことを嘆く理由も必要もないのです。失われたものは失われたのです。過ぎ去ったものは過ぎ去りました。

 そこで重要になるのは、「あなたはこれからどうしますか?」という問題です。

 あなたがたはショックを受け圧倒されたままで、怒りと悲しみの茫然自失状態にとどまり続けますか? それとも自分自身を人生の創造者として自己認識し始めますか?

 低い意識状態にとどまり続けることを選択するみなさんへ、私たちはこれ以上あなたがたにお話しすることはありません。

 私たちの意見は、勇気と大胆さをもって自分自身を創造者として自己認識しようとする人たちのためのものです。もしあなたがたがそのひとりであるなら、私たちは次のように提案します。

 すべてが消え失せるとき、つまりかつての現実の知覚の指標を失ったとき、あなたがたは虚空点(ボイド・ポイント)に入ったことを理解してください。

 虚空点とは、古い現実と新しい現実との間の極めて重要な変転期です。かつてあったものが終わりを迎えました。失ったものを惜しむ代わりに、あなたがたは何もないことを受け入れます。これは多くの人々にとって、引き受けるのが難しいことです。なぜなら虚空点においては、できることが何ひとつないからです。あなたがたはただその状況の目撃者となり、あなた自身の目撃者にならなければなりません。この中間領域には、知覚の指標が存在しないからです。

 新たにどのような指標を取り入れるかに注意してください。それらの考えや信念は、あなたがたの心のなかの新しい空に輝く星となり、自分自身の意識の天空に配置したそれらの星々(考えや信念)を使って、あなたがたはこれからの新しい時代のなかで自分の道を進んでいくようになるのですから。私たちとともに神秘を航海する仲間たちよ、新しい星を生み出そうとするときに、賢明であってください。

 意識の集合的変転状態

 私たちの見方からすると、人類という集合体は現在、まるで脱皮をしている非常に大きな宇宙のヘビのようで、身をよじったりひねったりしながら、古くなった邪魔ものをこすり落とそうとしています。そのなかには経済的混乱の形をとるものもあります。政治的な性質のものもあります。文化的な制度の崩壊や改革もあります。そして、身をよじったりひねったりしていることには、地震や火山活動、異常気象などが関係している場合もあります。

 天災や人災が増えるにしたがって、より多くの人々が意識の変転状態に入ります。地震、火山の噴火、破壊的な気象状況を直接経験した人たちが、意識の変転状態に最も入りやすいというのは当然のことですが、人に共感できる性質をもっている人たちは、天災や人災を、まるで実際にそこにいたかのように経験することがあります。

 実際には、人類の互いの意識を隔てるベールが薄れて行くにしたがって、より多くの人々が世界中で起こる変化を、心の底からのレベルで経験するようになるでしょう。

 ではここから、地震、火山の噴火、破壊的な気象状況などのような天災や人災の余波に巻き込まれた場合の、新たな創造の問題について述べたいと思います。

 もし破壊的な力が十分強い場合には、あなたがたのそれまでの現実を知覚する指標はもはや存在しなくなります。あなたがたの家、あるいは仕事場がなくなっているかもしれません。水や食料不足に直面するかもしれませんし、ショックを受けて圧倒された状態をつくりだす数多くの変化が同時に起こるかもしれません。

 これから言うことを、私たちは非常に明確にしたいと思います。災害に直面して衝撃を受け、圧倒されるというのは、ほ乳類にとって当然の反応です。もしあなたがたがその瞬間を超越し、変えようとするならば、あなたがたは高次元に存在する自分自身、あなたがた自身の本質、時間と空間を超えた意識の領域とつながらなければなりません。

 自分自身の存在の超越した側面を、自分が生き延びるための方程式の一部に組み入れることができれば、あなたがたはショックや困惑を和らげることができるでしょう。

 混乱状態のただ中にあるとき、それがどのような混乱状態であったとしても、確認する必要がある重要な点が「好機のポータル(入り口)」です。

 生き延びるため、あるいは新しい人生のための好機は、あなたがたが予想もしなかった方法で現れるでしょう。これはあなたがたの知覚の指標が消えてしまい、好機が訪れたときにあなたがたの意識がそれに気づかないためです。

 人間には、新しい現実を古い現実と一致させようとする根深い習慣、あるいは傾向があります。このような状況下において、これは不利な習慣です。

 混沌とした状況下での選択にかかわる、次元を超越した現実について、私たちにはお話ししたいことがたくさんあるものの、本題にはいって最も実用的なことをお伝えしたいと思います。おそらくまた別の機会に、あなたがたの無限の本質や、あなたがたの内側に備わっている無限の可能性ついて、私たちの達観した思いをお伝えすることができるでしょう。しかしながら今は少し単純化して、目の前に新たな人生や新たな運命が現れたときに、あなたがたがその好機に気づき、創造するための処方をお伝えしましょう。

 あなたがたが意識の変転状態に入ったと仮定して、虚空点を味方に付けて、自分の置かれたひどく不確かな状況にほぼ寛げるようになったとしたら、次のようにしてください。

 好奇心を強くもって、奇跡を予期してください。

 好奇心の強い状態に入ることで、あなたがたは期待によって縛られない心の一面を使います。まるで子供のような心となって、その無邪気さで(幼稚さとは違います)あなたがたは大きな利益を得られる意識の振動状態に入ることができます。

 奇跡を予期することによって、あなたがたは自分自身の内なる創造の力を解き放ちます。これを成し遂げている限り、あなたがたはセレンディピティー(幸運な発見)や、思いがけない利益や富との偶然の出会いなどの出来事が、物質的、精神的、感情的などの性質を問わず、どんどん増えることに気づくでしょう。

 次に何が起こるだろうという好奇心をもつことと、奇跡を予期することの組み合わせが、周囲で何が起きていようとも、あなたがたを虚空点から新たな人生、新たな創造へとすばやく移動させるでしょう。

 意識の集合的変転状態の間には、それぞれの人がその人自身の現実の創造者であるということ、そして混乱状態のただ中で人々はそれぞれの選択をし、それぞれに異なる個人的現実を歩むのだということを覚えておいてください。

 低い振動領域に入る人々によって揺さぶられないでください。それは彼ら自身の選択であって、あなたがたが彼らを救うことはできません。好奇心を強くもち、奇跡を予期して、上を向いてより高い方へ向かって生きてください。そうすればどんなに深刻な状況にあっても、あなたがたに奇跡は起こり得ますし、起こるでしょう。

 肉体的な死

 肉体をもつ存在にとって最も困難なことのひとつが、あなたがたが死と呼ぶ意識の変転状態です。五感を含むすべての知覚の指標が消えてしまうからです。もしある人が自分を物質的な存在としてのみ認識している場合、この変転状態は最も苦しいものになるでしょう。なぜならその人が認識していたものが、何も存在しなくなるからです。

 物質界は存在し続けていますが、五感を通して意識に入力されるものが何もなくなります。それはまるで、肉体とともに世界が消滅したかのようです。意識の変転状態で中心的役割を担う大いなる自己(I Am)は、もはや肉体からも五感からも外界からも情報を受け取ることがありません。これによって、自分自身という存在の別の領域を直接経験したことがない人々は、ひどく不安になり、混乱するでしょう。

 たとえて言うと、あなたがたは巨大な木、生命の木のようなものであり、数多くの枝を持ち、数多くの葉や花をつけています。そしてあなたがたの現在の肉体的存在は、それらの葉っぱ一枚、花の一輪にすぎません。

 あなたがたが死と呼ぶ意識の変転状態を通過するとき、そこにはいくつかの選択肢があります。もしあなたがたが何らかの霊的伝統の道にあって、その中心人物がグル、神の化身(アバター)、または救済者である場合、あなたがたはこの人物の道に従って、この人物の意識の振動領域に入ることができます。いくつかの宗教において、これは天国として知られています。

 もしもグル、神の化身、または救済者の道に従うのだとしたら、あなたがたはその人物の天国、その人物の達した振動領域に入ることになり、必然的にその人物の意識の限界の中にも入ることになるのだということを理解してください。

 私たちの視点からすると、宇宙とは本質的に無限です。このように言うとき、私たちは外的宇宙空間のことを言っているのではなく、あなたがたの銀河宇宙の次元間の現実のことを言っているのであり、私たちの経験からすると、そこにあるすべてを理解し、すべてを悟っている人物は、誰ひとり存在しません。

 しかしながら、もしあなたがたが死の領域で自分のグル、神の化身、救済者と合流したいと願うならば、私たちはそのためにいくつか提案をしておきましょう。まず、心の中でその人物の名前を呼んでください。これは名前を意味するレン(Ren)というエジプトの言葉に代表される古代の知恵です。あなたがたが霊的存在の名前を呼ぶとき、その存在の一面はあなたがたのもとへやって来ざるを得ないのです。

 グル、神の化身、救済者に出会った瞬間、もしその人物があなたがたをふさわしいと見なした場合、あなたがたはその人物によって、その人物の天国の領域に連れて行かれるでしょう。

 東洋の霊的伝統には、特定の神々につながるマントラがあります。死ぬとき、あるいは死の領域に入ったときに、これらのマントラを唱えることにも、同じ効果があります。

 グル、神の化身、救済者に従う霊的伝統の道を歩んでいない人たちにとって、死と呼ばれる意識の変転状態には別の可能性があります。

 他の2つの意識の変転状態と同様、死の領域にも虚空点があり、その主な特徴は静寂(静けさ)と暗闇です。すべての可能性は虚空のなかに存在しますが、現存するものは何もありません。それはオークの木のドングリのようなものです。巨大なオークの木そのものは、ドングリのなかに潜在的にありますが、まだ存在してはいません。

 ですから、もし自分が虚空のなかにいることに気づいたら(完全な静寂と暗闇のなかにひとりきりでいることでそれとわかります)、あなたがたは自分の創造の力が結合する中心部にいるのだということを理解してください。

 次に何を創造するかによってあなたがたの運命の進路が決まり、あなたがたの住む世界、存在する領域が決まります。これはきわめて重大な時点です。

 暗闇を恐れる多くの人々が、早まって光のほうへ移動します。このような人々が理解してないのは、切望することによって彼ら自身が光をつくり出しているということです。目の前にトンネルのような入り口が開かれ、彼らはこの光のトンネルの中に入り、以前から知っている人々に出会い、それによって結果を十分に理解することなしに、肉体をもった状態、あるいは存在の別の振動領域に戻って行きます。これは、確実にあなたがたに開

かれた選択肢のうちのひとつであり、頻繁に選ばれるものです。

 しかしながらもうひとつの選択肢は、虚空点にとどまり、虚空そのものの中に存在して、あなたがたのセルフ(Self)をあらゆる事象を超越する純粋意識として認識するというものです。

 何かを創造しようとすることなく、この認識の状態に十分長く存在すれば、あなたがたは自分自身が大いなる自己であるとわかるでしょう。そしてこれを認識した時点で、あなたがたはどのような状況に具現化するかを選ぶことができます。あなたがたは自分が住む世界、または存在する意識の領域を選ぶことができるのです。

 この後者の方法は、あなたがたにそれは素晴らしい好機を与えますが、ほとんどの人々にとって最も困難な方法です。これが困難である理由は、人類の大半が肉体をもたないことを不快に思うためです。肉体と物質界での経験を切望することによって、多くの場合、人々は虚空から出るのが早まります。

 総括すると、混沌の中心点が激しさを増している段階のために、あなたがたの多くが意識の変転状態に入るでしょう。どのようなレベルに携わっているか、それが個人的生活に関するものか集合的経験か、あるいは死と呼ばれる変転状態であるかに関係なく、あなたがたはあなたがた自身の現実の創造者であることを理解してください。

2011年4月20日

ハトホルたち



 エネルギー転換 2012年 4月7日


 今までの意図と思考を越えてゆけ。

 意図=日常の意識のフォーカスポイント、こだわり

 フォーカスポイントをずらす、変容させる、崩壊させる

 日常の環境、住環境、職環境、が変わること、旅行、いつもと違う生活パターンをせざるを得なくなること、人間関係の変化

 などが起こると、それまでのフォーカスを維持できなくなり、古いパターンが崩壊することがある

 長期の隔離、断食、死と再生のイニシエーションなどは、より根本的にパターンを崩壊させ、一人の人間であった自己の概念パターンを破壊するほどに追い詰めることでシャーマンを誕生させるためにある。

 「意識」は、ある創造の力を使用して、僕らの目の前に展開する日常の風景を創造し続けている。
 一見、いつもの当たり前の風景に見えても、そこには膨大な量の創造の力が使われている。
 それを投影しているのが、意識の底に存在する「ドリームメイカー」である。
 「ドリームメーカー」は起きている時の夢と、眠っている時の夢を編み続け、その「創造の力」を空性と一体となることで補給し、また再起動する。 

 ゼロの中のドリームメーカー、それは本来の『私』でもある。

 自我意識は、いつも自分の現実を創造している力が神聖な源より来ていることを理解しない。
 りんごがりんごに見え、コーヒーカップがコーヒーカップと認識されるという奇跡が、理解されない。
 その概念的・言語的認識にも膨大な量の心的エネルギーが使われており、それ自体がひとつの束縛であると同時に創造行為なのだ。

 この創造行為に使われていたエネルギーがみな解けると、そこには神しか認識されないという。

 よく酒、タバコ、甘いものなどを断って願掛けするという風習があるが、これは飲酒や喫煙をするというパターンの創造に使われていた創造エネルギーを回収することで、それを新たな現実の創造に使おうとするものかもしれない。実際、あるパターンを崩壊させると、そのパターン形成に使われていたエネルギーは自分に戻り、また新たなパターンを形成することに使えるようになる。

 つまり「断つ」「捨てる」ということは意識的にパターンを崩壊させるということだ。

 古いフォーカスを崩壊させる用意ができてないと、新たな現実は生まれない。
 
 すべてのフォーカスを、神への意識へと転換させるということが、神に捧げるということだ。

 ものを神に捧げるのは それ自体が神だということを思い出すために過ぎない

 すべてのこだわり、すべての不安、すべての執着も、すべて神という創造エネルギーの大元がなければ存在しない。すべての現実認識は、それがどんな不幸なものも、どんな幸福なものも神という原初の創造エネルギーの変質形なのだ。だから、それを神へと返し続ける、還元し続ける努力が意味を持つ。

 すべての行為を すべての想いを すべての願いを すべての恐怖さえも 
 すべてを神として見ることが、創造エネルギーの還元だ。

 マーヤとは、創造力だ
 神がなければ、マーヤもない
 マーヤが生まれると神は見えなくなるというが
 その結果そこにはマーヤという創造物があり それは神の変装であり存在証明なのだ。
 マーヤとは神の別名であり、神自体でもある




2012. 07. 02  
haitakadori

【意識の変転状態】トム・ケニオンを通してのハトホルのチャネリングメッセージ http://t.co/u5RKJbwr 
07-01 20:45

RT @keijimoriiVet: 4号機続報http://t.co/HBJYN83h使用済燃料プール水の温度が保安規定上の管理温度の上限65℃に達するまであと2日。原因調査中。
07-01 11:46

2012. 07. 01  
haitakadori

[6.29デモ、各社の報道状況について] http://t.co/LqyGzQaj
06-30 13:10

RT @LSDove: そうだねw RT @ryotama2000: たしかにそういう事を言い出す人いそうだw でもそれが事実だったらそれはそれで素晴らしいことだとも思うけど。 RT @LSDove: @ryotama2000 反原発の人たちの間に大麻が蔓延しているとか言 ...
06-30 13:01

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     only in dark the light,
     only in dying life :
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     ことばは沈黙に
    光は闇に
    生は死の中にこそあるものなれ
    飛翔せるタカの
    虚空にこそ輝けるごとくに

    ゲド戦記 エアの創造より


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