夏は銀河鉄道に乗って


 夏になるとなぜか宮沢賢治を思い出す。

 なんでかよくわからないが、子供の頃アニメ版『銀河鉄道の夜』を夏休みに観に連れて行ってもらったからかもしれない。


 


 宮沢賢治の童話は、『銀河鉄道』と、あと「風の又三郎」とか、「注文の多い料理店」とかその他メジャーなのを何遍か読んだだけ。あと詩集も『春と修羅』やその他の詩集からいくつかずつ抜粋した文庫の詩集を読んだのみで、ものすごく賢治大好き!とか言えるほどのものではない。

 でも、青森挽歌とか、永訣の朝とかその辺はかなり頭に入っている。

 最近では府中ののプラネタリウムで銀河鉄道の夜のCG上映を観て、その映像のきれいさとテーマソングがかなり気にいった。

 たまに声を出して「銀河鉄道の夜」を朗読してみる。

 なぜかわからないが、賢治の物語には、多くのスピリチュアルな本を読むよりも、心が洗われ、純粋さから隔たっていたことを思い出させてくれるような作用がある。

 僕がすごく宮沢賢治のスピリット、宗教性を感じて共鳴する部分は何箇所かあるけど、こよなく素晴らしいと思うのは次のような部分だ。

 ひとつは「鳥をとる男」にジョバンニが哀れみを感じるところ

 ジョバンニはなんだかわけもわからずに、にわかに鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。さぎをつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことをいちいち考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸せになるなら、自分があの光る天の川の河原に立って、百年続けて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体なんですか、ときこうとして、それではあんまり出しぬけだから、どうしようかと考えて振り返ってみましたら、そこにはもうあの鳥捕りがいませんでした。網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。(中略)

 「あの人どこへ行ったろう。」
 カムパネルラもぼんやりそういっていました。

 「どこへ行ったろう。一体どこでまたあうのだろう。ぼくはどうしても少しあの人に物をいわなかったろう。」

 「ああ、ぼくもそう思っているよ」

 「ぼくはあの人がじゃまなような気がしたんだ。だからぼくはたいへんつらい」

 ジョバンニはこんなへんてこな気持ちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今までいったこともないと思いました



 この中に表現されているような風景は物語の中に、何度か形を変えて登場する。
 そのようなシーンでは日常の中のちょっとした気持ちのすれ違いや、それに対する悲しみ、あるいは優しさの表現がとても巨大な、罪と許しとか、「隣人」への愛だとかいうテーマを表しているように感じられる。
 そう、本当に小さなやりとりが、この『銀河鉄道』の旅の中では神話的な許しや愛のテーマへと変貌するのである。
 
 この銀河鉄道は、「幻想第四次空間」を走っているようで乗客は忽然と現れ、また忽然と姿を消す。
 その一期一会、出会いと別れのはかなさはこの「三次空間」(現実)でも同じだ。別れはいつやってくるかわからないから、人にはなるべく優しくしたい。でも往々にして、誰でもジョバンニのようにその相手が去ってからもっと愛を表現すればよかったと気づくことになることがある。

 
 この物語の中で繰り返し、現れるのはやはり「利他」というテーマだ。

 人、というか生命を想う心

 病床にいながら、兄を気遣い「あめじゅとてちてけんじゃ」(お茶碗に雪をとってきて)、と頼んだとしのように。

 この話を聴くと誰もが美しいというか、切ない気分になると思うけど、「永訣の朝」というような状況下で研ぎ澄まされてはいるもののとしのような隣人を気遣う心というのはいつも僕らの中で働いている力でもあると思う。その力、その想いがじつは一番大切で尊いものではないかと思えてくる。

 宮沢賢治の物語を朗読すると、本当にそういう気持ちになれるのだ。

 最近は自分を愛するとか、自分が癒されるとか、自分が変容するとかが強調されるし、自分を肯定することの大切さは僕も感じるところではある。

 でも精神世界コーナーの多くを占める、自分をどうこうしようという欲望が刺激されるものを読むと、僕らは視野が狭くなり、自分のことで頭がいっぱいになることもある。

 だが、銀河鉄道に乗ったジョバンニのように周りの人を命の旅の道連れとして、他者を「隣人」としてみられるような視点は既に僕らの中に存在している。自分が癒されていなくても、貧しくても、悟っていなくても、この他を、命を想う力は自分の中に働いているそのことをあらためて思い出すことも、「自己探し」「自己変革」に疲れ気味の時には大事かもしれないと思う。

 「銀河鉄道の夜」については単発的に何回か触れたかもしれないけど、今回はじっくり目に
 次回以降、もうちょっと好きなシーンについて書いてみましょう・・・・


 これはプラネタリウムバージョン↓まだやってるのかな
 かなりオススメ!

 








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私的雑記 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/30 15:50

ACとアンガーマネジメント

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 アダルトチルドレン(AC)は、機能不全家族と呼ばれるバランスを崩した家庭で育ち、父母や兄弟による、精神的、肉体的ダメージを受け、極度の自己否定や無力感、また他者が信じられないなどのパターンをかかえた成人のことを言う。例えば次のチェックリストが多く該当するようなパーソナリティのことを言う。

 ■ 自分に対して過酷な批判をする

 ■ 自分は生きている価値がないと思う

 ■ 人生を楽しむことが下手である

 ■ 白黒をはっきりさせすぎ、ほどほどにバランスをとることができない

 ■ 必要以上に相手に忠実である

 ■ 自分は他人と違っていて居場所がなく、孤独に感じる

 ■ 他人から認められたいという気持ちが強い

 ■ アルコール、薬物の依存症になっている

 ■ 他人の目が気になる 被害妄想になりやすい

 ■ なにごとも完璧でないと気がすまない

 ■ 怒りが爆発したり いつもイライラしている

 ■ 権威のある人の前に出ると過剰に萎縮する

 ■ 記憶力が鈍ったり、または反対に嫌な記憶に悩まされて胸がドキドキしたり、悪夢を見たりする。

 ■ ※共依存的な行動に出やすい


  ※ 共依存的な行動とは、以下のようなパターン


 ■ 自らを犠牲にして相手を助けたり、世話をしたりする

 ■ 相手の行動、感情、考え方、状態、結果を変えようとコントロールする

 ■ 問題や危機が起こっているような人間関係に巻き込まれていることが多い

 ■ 依存心が強く、一人でやっていけるという自信がなく、見捨てられるかもしれないと不安にかられる

 ■ ある特定の相手のことで頭がいっぱいで視野が狭い

 ■ 相手とのバウンダリー(境界線)がはっきりせず、相手が落ち込んでいると、自分も気分が落ち込んでしまったりする。また他人の問題にのめり込んだり、相手からの精神的、性的、身体的侵入を許してしまったりする。

 ■ 罪の意識におそわれやすく、相手の問題は自分のせいだと思い込んでしまいやすい

 ■ 相手から離れられないでしがみついていることを愛情と取り違えている

 ■ 「こうあるべきだ」という社会の通念、または「こうなるはずだ」というファンタジーにとらわれやすい


 これをやってみると、ある程度は僕も、AC的で、共依存的なパターンを持っているのがわかる。

 上の共依存リストをみればわかるように、これらの性質は、例えばヒーラーであるとか、ヘルパーであるとかボランティアにのめり込んでいる人であるとかがこういうパターンを持っていることは割と多い。「優しい自分」であるとか、「助ける自分」でいることで存在価値を保とうとする。 

 また言わずもがなであるが、共依存タイプ、ACは古いタイプの新興宗教的集団や新しいタイプのヒーリングカルト、霊能者カルト、占いカルトなどにも引き込まれやすい素地がある。そういう場では教祖、あるいはグループの中心人物もAC、共依存者であるということは多いだろう。
 彼らは、自分のトラウマを消化しきれないまま、人の心に介入することをしているためそこにはセラピスト側からクライアントへの偏見や、投影、コントロールが生じるので人をさらに傷つけてしまう可能性が非常に高い。

 ヒーリングや求道や精神的グループの中で共依存が発生しないためには、少なくともグループの中心人物がそういった家族ドラマを越えた意識にあることが必要になる。(<共‐依存>ではなく<依存>はどんな対象に対しても生じるので、これ自体を防ぐことはできない

 あらためてACのことを考えてみて思ったのは、やはり自我のレベルのシステムがこういった問題でうまく機能せず生きづらさを抱えているとき、僕に似たタイプの人は一足飛びにその向こうの悟りだとか、解脱だとか、超常体験に憧れる世界に行きやすいということだった。
 自我のレベルがうまく行っていないので、それをもう捨ててしまいたい(肉体的にそれをすると自殺になる)という時に先人が残した「我の超越」という文化遺産が自分を呼んでる気がしてくる。

 そしてAC独自の不全感、無力感、虚無感などがケン・ウィルバー的なカテゴリーエラーを経て、悟りの前に人がながく先の見えない時間を過ごすという「魂の闇夜」に翻訳されるということは十分あり得る。
 こうした悩みの「カテゴリーエラー」は、スピリチュアルだけではなく哲学や、政治運動でもありえ、心理的な断絶感を形而上的悩みに自分は苦しんでいるのだと思わせたり、親への恨みが社会システムへの批判運動に姿を変えることはあると思う。

 AC的な、パーソナリティで生きるには、「アンガーマネジメント」(自分の怒りとどう向き合うか)が重要になってくる。というのは、幼い頃からのトラウマ体験などによって怒りが鬱積しやすく、またそれを解消するスキルも未熟であることが多いからだ。今回、たまたまACについての本を読んだのだけど、その前に実は前フリがあって、先月の終わりにK村さんという広島で鍼灸院をされてるかたのカウンセリングセッションを受けたとき、

 「ご自分の中の、怒りという質を解消させることが「少々」苦手なようです。」という言葉をもらった。

 それは僕の怒りの質が複雑なようで

 ●自尊心 ●正義感 ●道徳心 ●自己表現の方法での戸惑い ●過去癒されていない親との信頼関係、

 などがからみあっているという。

 最初に、「人間としてとても良い方向に向かわれています」ということだったけど、「自分自身を保つことが困難なことが多い」というテーマがあったという。

 ただこのセッション中は、その怒りのことを言われて「どう思われますか?」と尋ねられたけど、僕はまったく他の質問に興味があったのですらーっと流して別の話にもっていってしまった(^_^;)でも、この日が終わって、何日かたってきてようやくこの「怒りの扱い」のことが今の自分にとってピンポイントで重要なことがはっきりわかってきた。

 ※K村さんのことは古野SAWAKOさんのブログで知り、コンタクトしてみました。情報、ありがとうございます♪

 





 でまあ、自分自身の今までの怒りの表現の仕方とかを振り返ってノートに書いたりしてたけど、その後たまたま読んだ上記の本に怒りの根本的な性質とか、自分の怒りへの理解と、その解消のヒントなどがたくさん書かれていてとても勉強になった。

 まず怒りとは何か?というと基本的には、

 『自分の心身のテリトリーが侵害された時(されたと思った時)に発動する感情』と定義できると思う。

 例えば 身 の方で怒りのきっかけになりそうなのは

 ●殴られる、蹴られる、など体を傷つけられる、あるいは苦痛を与えられる
 ●性的接触の強要など
 ●ニグレクト、放置による消極的虐待

 などでそんなに種類は多くない。心 になると怒りが複雑になってくる。

 ●馬鹿にされる
 ●罵られる
 ●支配される
 ●存在を否定される
 ●嫉妬     
 ●電車の中うしろで携帯ででかい声で喋ってる
 ●チャリのかごに空き缶を入れられた
 ●無視される (精神的ニグレクト)

 ●所有物を奪われる (これは本質的には 心 だけど、より身体的な怒りに近い)


 これらを総合して見ると、怒りは自分の身体、精神を侵害されたと感じた時に起こる防衛的な感情と言える。

 怒りにかられると人は呼吸が浅くなり、「戦うか、逃げるか」Fight or Flightの状態になりやすい。
 意識の視野は極めて狭くなる。 

 そして怒りが極めて破壊的になりうる理由は、心身の侵害に対する怒りを覚えて、それを誰かに表現すると、その怒り自体がその相手の心身への侵害となり新たな怒りを引き起こすからだ。するとここで悪循環が始まる。

 例えば電車とかで、誰かに足を踏まれ、それが非常にムカついて

 「ってーな、何すんだ、この馬鹿」とか言う喧嘩早い人だと、相手が下手にでて「すみませんでした」と謝ってくれればいいが、相手が

 「誰がバカだ、こんなに混んでるから少しくらいしょうがないだろ」とか言い返すとおさまりがつかなくなり

 「お前が悪いのに、なんだその態度は、こら、ちょっと次の駅で降りろこいつ

 ・・・みたいな事態に簡単に発展しうるし、そういう光景はラッシュの中央線とかでたまに見かける。

  (描写するだけでなんかイライラ、ドキドキしてきますねw)


 と、こう書くと怒りは危険で、抑えておくべきだということになりそうだが、「見ないふり」とか「我慢する」とかもいろいろな問題を引き起こす。鬱積した怒りは自分に向くし、臨界点を越えてコントロールが効かないままメルトダウンしてしまうこともあるからだ。ストレスを別の方法で発散するとかは限界がある。
 見ないふりをするのではなく、それをまず正面から見据えて理解することが必要なのだろう。

 チャゲアスの「Yah Yah Yah 」で 「傷つけられたら牙をむけ~♪」って歌詞がある。
 傷つけられて、怒りを表現できる、ということからスタート出来る場合もある。
 まあ、「これから一緒に殴りに」いっちゃまずいんだろうけど。
 よくかんがえたら、すごいぶっ飛んだ歌詞の歌だな。なんとなく思い出したら今更面白くなってウケてしまった。最近のPOPSてなんか歌詞がやわい。

 10代とか20代の人の感性がより繊細なものになってきてるのかなとも思う反面、なんか、怒りとか、どろっとした感情を最初から切り捨ててるような気もする。エンターテイメントとかバラエティとか、全般的雰囲気から思うことだが。暴力を昇華できたならいいんだけど、押し込めたり無視してるのなら、それはより凶暴な形で噴出することがある。

 やっぱ手を出すよりは、思い切り口でやりあった方がいいし、
 ナイフで刺すよりは、ぶん殴る方がいいわけですよね
 ただ暴力や怒りを否定するだけだと、そのへんの優先順位?がおかしくなる気がします。
 


 


 こんなドラマもあったなー
 超はまってた
 これもお互いにぶつかりあった上での友情みたいのがかっこよかった
 脱線(-_-;)


 上記の本では、怒りには健全な怒りと、誤解に基づいた不健全な怒りがあるという。
 健全な怒りは、誰かが「意図的に」自分の心身に害を加える時に湧き上がる怒り。
 不健全な怒りは、相手にその意図はないが、自分が悪く解釈してしまったという場合。
 このふたつの区別をするだけでも、随分と怒りの角が取れて丸くなてくるように思う。

 ●怒りのもとを探る

 もし、相手が自分に対してわざと害を与えようとしているという考えが習慣になっている場合は、怒りが静まってから、何が原因でどのように怒りが出てきたのか書き出してください。

 もし不合理であった場合は、自分の考え方を変えることにチャレンジしましょう。はじめのうちは相手が悪気なくやった行動、言動だと理解することはとても難しいものです。しかし、練習していくうちに相手は自分の能力の範囲でベストをつくしたもので意図的に害を与えようとしたのではないと解釈したほうが心の平安が得られるようになることがわかります。 
 
 怒りが出たとき、すぐに相手のせいにしていると、自分の反応を変えるチャンスがなくなります。「どうして怒らせるようなことをするんだ」とか「お前、俺を怒らせたな」などと相手を攻めるのはやめて、自分の行動に責任をとりましょう。

 自分の怒りは自分に属するものです。怒り続けているとからだの免疫力が下がったり、心臓に負担がかかったりと精神的にも肉体的にも悪いことがおおいのです。


                                    (前掲書より)


 あと、アンガーマネジメントには、メンタルな問題だけでなく極めて即物的な問題も関係している。
 怒りを爆発させる条件として HATS という言葉が紹介されている。

 Hは hungry(空腹時)
 Aは Anger (何かでイライラしてる)
 Tは Tired (疲れている)
 Sは Stress (ストレスを感じている)

 らしいが、これ結構かぶってる感じがするので、僕ならSに SEXを加える。
 男性の場合は特に性的なテンションの高まりが攻撃性へ転化されることは多いと思うからだ。 
 
 お腹がすいて、仕事でイライラしてる・・・だから、夕方の電車で喧嘩とか多いのかなとも思います。
 すごく即物的だけどこういった要素が自律神経に影響し、興奮しやすい状態にする。
 
 呼吸法とかがすごく大事だと僕が思うのは、こういう即物的いらいら状態でも、深い息をすることで神経系の働きを切り替えられる可能性があるからだ。

  

  





セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/26 15:37

08/23のツイートまとめ

haitakadori

RT @tadanoriyokoo: ピカソの画集を見ない日はない。ピカソの無防備と無謀さと無頓着さは大いに学ぶべきだ。ピカソの絵を見ていると、自由を謳歌し、人生を遊びの場にするために生まれてきたとしか思えない。絵はそのことのための手段だ。
08-23 15:42

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/24 00:00

08/20のツイートまとめ

haitakadori

RT @tadanoriyokoo: 就寝時と起床時には必ず死の不安に襲われる。それは眠りが疑似死だからだろうか。死の入口に立つ眠りと、死の出口に立つ目覚めは生と死の中間地帯(バルド状態)にあるからだろう。
08-20 21:59

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/21 00:00

08/18のツイートまとめ

haitakadori

生きることと、将棋やチェスなどのゲームはどれくらい似ているんだろう。頭の中で無意識にいくつものパターンを指してるような。詰みは「死」でも勝利しても終わってしまう。人生は予測できない。突然まったく意味不明の駒が現れたり、ルールが変わったり。王将を中心に動かなくなったりする。
08-18 00:02

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/19 00:00

楽しいことあった?



 昔から、「楽しい事あった?」と尋ねられるのが少し苦手だ。

 なぜか考えてみた。

 おそらく「事」という言葉があるからだろうと思う。

 楽しい「事」という何か特別なことが起こってなくても、気分はいい場合はある。

 でも「楽しい事?えーと特にないなあ」と答えると、自分でその「事」に依らない楽しさを否定しているようで、なんかブルーな人のような気分になるからだろう。

 「楽しい、ある?」と訊かれると答えやすい。

 今、楽しいか、楽しくないか、これはわかりやすく答えやすい。
 ただぼーっと座ってるだけでも、すごく楽しい時はあるし、つまらない時、イライラするときもある。

 楽しいは、必ずしも「事」に依らないと思う。

 逆に、何か特別なことが起こったら、それがストレスになりまったりした楽しさが失われることもある。
 
 だから「今日は何もないけど、なんか楽しいなー」という気分は大切な気がする。

 雨の音聴いてるの楽し~っ とか
 深呼吸してるの気もちよくて、楽し~とか

 一見地味だけど、そういう楽しみは「事」に依らず、日常的に手に入るので実はとてもしなやかで強い。

 言わば放っておくと、アスファルトの隙間からも顔を出すような雑草みたいな楽しみ。

 バラや百合が咲いてる庭ではなくても、雑草が適度に生い茂っていれば、たくさんの蝶やミツバチがやってきて賑やかになるかもしれない。

 そのようにささやかな楽しさは、さらに毎日を豊かにしていく基盤のようなものかもしれない。 

 最近はオポノポノなんかもメジャーになってきたし、ポジティブなアファーメーションを口にすることの大切さを書いた本も多い。

 昔からある、神様の名前を唱え続ける「ジャパ」というのもある。

 でも僕は、こういうオポノポノ的なことや、ジャパを必死でやってて、

 ある時、えーと、俺って今ホントにこんな必死にやんなきゃいけないいけないほど、追い詰められてんの?

 と思った。

 もしかしたら、こうやって何かにすがりつこうとしているその姿勢、その態度自体が、大きな勘違いをもとにしてるのでは・・・と。別に、そんな大層な状況じゃないかもしれないのに。

 あー神様、神様・・・虚しいですー疲れましたーもうダメですーとやってたような気もする。

 アファメーションには大きなパラドクスがつきまとっているように思え、

 例えば「全ては完璧」とか唱え続けているとすると、「全ては完璧なのに、なんであなたは、そんな必死で完璧、完璧って唱えているんですか?それは本当は完璧って世界にいないからですよね」という疑問が生まれてくる。

 結局すべての行動は、その行動自体を動かしているエネルギーの質が重要で、不安、イライラ、欠乏などが動機になるとその「不足の自分」が元になる。ひふみ神示でいうところの「キ」となる。

 ここで重要なのは、実は単純な自律神経のスイッチングではないかとも思う。

 呼吸法などによって、雑草のような快、「楽しみ」が増大すれば、今に対して受容的になり、『アファメーションをする自分』の質が変わる。行為主体が「歓びの自分」に少しシフトするのだ。  

 それによってアファメーションが実現するかどうかとかそーいうことは僕は一切わからないが、なんかこれは呼吸と組み合わせることで有効になるのではという予感はある。

 ただ言葉や、イメージのみではこのスイッチングは難しく、同じような心身の活動領域をループするような気がする。

 発声練習を一定時間続けていると、口先だけから、体全体で歌ったり叫んだりしている感覚に徐々に切り替わっていくのがわかる(相方に「すごい・・マイク使うよりうるさいよ」と言われたことがあるw)けど、呼吸法も続けていると心身の活動領域が頭のごく一部から体全体に拡張していくような感覚が感じられる。


 脳、意識、身体の活動領域を移すこと、拡張すること そのことにより

 このwhollyな状態にシフトすることが、楽しさや、歓びの根本にあり、それは~を叶えるためというよりもそれ自体が楽しく、気持ちいいものだ。




セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/17 22:02

08/13のツイートまとめ

haitakadori

RT @hosshyan: 今、BSでムツゴロウ先生の動物観てたら、ムツゴロウ先生が逃げるカンガルーに向かって「逃げないで。大丈夫だよ。わたしだよ。」って(笑)………そうだ!ムツゴロウ先生を知らない動物はモグリだ!(笑)
08-13 15:36

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/14 00:00

自然とバーチャルゴッド

 
 今のうちに引っ越してから、たくさんの小動物や昆虫を見る機会が増えた。
 朝網戸にてんとう虫がとまってたり、庭をトカゲが行き来する。
 雀や、カラスが庭の樹に飛んできたり、近所の猫も入ってくる。
 目の前に土があって、草木が成長しているのを毎日見ていられるのはうれしい。
 ただ春、夏は雑草がすごい勢いで生い茂るので、100円ショップで鎌を買ってきてかなり伐採しなければならなかった。
 根っこから雑草を抜いたり、鎌で茎を切ったりしていると、たまに植物の大量殺戮を行なっているようで申し訳ない気分になることもある。
 好きなだけ生命を謳歌してもらいたいが、その結果庭が草ぼうぼうになっても困る。
 草を引き抜くと、そこからたくさんのダンゴムシも一緒に現れて、慌てて右往左往する。
 どうも草刈りは彼らの平穏も乱してしまうようだ。

 あえて人間の自然破壊の歴史を紐解くまでもなく、日常のこういった場面からも
 人と自然の相克関係というのは垣間見える。

 ある時には僕らは自然の美しさや、雄大さ、恵みを讃えるがある時には
 その残酷さ、厳しさ、底知れなさ、醜さやグロテスクさを嫌う。 
  
 自然の姿というのは、僕らが夕日に見とれて、「今日一日ありがとうございました」というムードに浸っている時に、身体は何箇所も蚊に刺されているような、そういうものだと思う。
 
 とても人を感動させると同時に、うんざりさせたり、恐れさせたり、嫌悪させるのが
 ありのままの生命、自然の姿であると思う。
 自然を愛する姿勢というのはもちろん大切だと思うのだが、一方で人が根本的に受け入れていない
 自然の側面や、どうしても相克が起こってしまう部分(草刈りや捕食行動のような)をはっきり意識化しているということも必要な気がする。 
 「自然を守ろう」と言っている人の内部には受け入れていない自然の側面が確実に存在するで
 あろうからだ。
 では、自分に好ましい自然だけを残して、気に食わない部分は抹消してしまうのが自然を守ることなのだろうか。
 
 本質的に西洋文明は、自然を破壊、征服したり、コントロールしたいという欲求により発展してきたということは否めない。
 一方で各地の先住民族の一部はそういった文明を一切拒否して、物質的にはとても貧しい生活を続けながら、自然を最小限しか傷つけない生き方を選んでいる。

 単純化すれば、先住民族の生き方は地水火風などの自然霊、神々を敬い、畏れそれに降参するという生き方。もっとも大事なものは作物を育てる大地や、それを潤す水などであるという価値観だ。直接命を養ってくれているもの、それが神々となる。

 西洋文明では、その直接命を養う存在たちにヴェールがかけられる。
 それは貨幣であり、宗教であり、道徳であり、イデオロギーであり、人間の意識が作成した人為的システムである。

 これらは言わば「バーチャルゴッド」たち。
 日本を含む西洋文明的世界で生きるには、必要な神々だ。
 その内部では確かにお金が僕を生かし、常識を守ることで暮らしていけるとも言えるからだ。
 その内部では、水も、食料も、土地も、すべて貨幣によって入手が可能な「商品」になる。
 神、あるいは、命そのものが貨幣によって大量に流通するようになる。 
 その中ではどうしても人間は、大地や生命自体をつくることはできないという認識は希薄になり「貨幣」が万能の支配者として見えてくる。

 だが実は、実在するのは生命のみであり、
 バーチャルゴッドたちははっきりした実体のない虚構なのだ。
 僕らを直接に生かしているのは、生命だ。
 生命とは調和であり、あらゆる力の均衡の結果として、僕が今生きているという現実がある。
 あらゆる自然霊、宇宙の諸力の働きの結果として、僕の生命に働く力はバランスされている。
 その上に奇跡的に生かされていることは、
 もしかしたらそれだけで十分感謝に価するかもしれない。
 
 僕らは、大地からも、空気からも、太陽からも、血液からも、絶え間なく「完全無料サービス」を受けている。
 この当たり前の事実はやはりとてもすごいことだ。
 だって一番大事なものが、「タダ」なわけですよ・・・・!
  
 自然の奥深くに入っていくと、バーチャルゴッドたちの機械的声が小さくなり、生命だけがリアルになる。
 街中で活動することは、バーチャルゴッドのルールに従うことだ。

 例えば、セブンに入り、500円玉を出して、マイルドセブンライトを買う。
 
 「セブンイレブン」というのは本来未知の絶対空間に、人間が名づけた名前。
 「マイルドセブン」の実体は、タバコの葉を巻いた紙を、20本箱に入れて、セロハンで覆ったもの。
 それを「セブンイレブン」というバーチャル空間から持ち出すには、100円玉と呼ばれる金属の塊が、4枚ほど必要になる。
 店の内部に一度足を踏み入れると、そこには客と店員という役割の振り分けが自動的になされ、その内部の床に寝そべってたり、レジの前に用もないのに1時間程突っ立ていると、「警察」というバーチャルワールドの免疫細胞を呼ばれることにもなりかねない。
 つまり「コンビニ」というバーチャル空間に存在するためには、「客」というバーチャルロールの台本を逸脱してはないらないのだ。

 しかし、より本質的な目で見るならば、「コンビニ」というのはある建物の中に、複数の、人間という宇宙生命体が活動している
 という状況に過ぎない。客も、店員も本来ないし、ただすべてが神的生命活動としてある。
 「店員」や「客」そのようなバーチャルロールは、例えば何か災害や犯罪に巻き込まれたりすることが起こり、
 みなその空間に閉じ込められ、 一致団結せねばならなくなればすぐに意味をなさなくなる。
 それはよく映画や、小説の「密室劇」で起こることだ。
 そのような時には「生存」という価値を軸に役割が、もう一度振り分けされる。

 バーチャルゴッドが支配する平常時にも、すべてを生命活動、神的活動と見ると面白い世界が見えてくる。
 
 バーチャルゴッドの治世は、ありのままの人間(自分自身)や自然を受け入れたくない僕らの嫌悪を土台としている。






知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/13 22:50

08/10のツイートまとめ

haitakadori

RT @hosshyan: チョウだけ、ってコトは絶対ありえない。全ての生命が受けて背負わされた取り返しのつかない仕打ちを許すまじ。RT @47news: 福島第1原発事故でチョウに異常 琉球大チーム調査 http://t.co/zT4xZqxu
08-10 22:43

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/11 00:00

ジャスミンが言った

 <1日目>

 草原にジャスミンの花が咲いていた
 さわやかな5月の木陰の匂いを放ち
 僕は両手をあげて精霊たちにあいさつをした
 ジャスミンがとても好きなのだ
 どうすればもっと仲良くなれるかと
 花々の周りを歩いてまわり始めた
 ジャスミンはなんて言っている?
 風に揺れる花が踊るように見えて
 こう言ってるようだ

 踊ろう 踊ろう 私たちと一緒に踊ろうよ

 え 今? 今踊るの?

 今 踊らなくて いつ踊るの?
 なぜ今踊っちゃいけないの?

 えーと 僕は大人だし それに今日は仕事前だし
 いろいろ気になることもあるんだ

 それに こんなところで一人踊ってたら
 春になっておかしくなった人だと思われるし

 じゃあ、ずっと踊らないの?
 その気がかりはいつなくなるの?
 誰も見てる人がいないところじゃないと踊れないの?
 力いっぱい喜べないの?

 今、今、今、喜ぶのは今しかないんだよ
 
 気づかないの?みんな踊っているじゃない
 太陽も、木も あなたの体の細胞も
 楽しんでるでしょ

 ジャスミンのメッセージは単純すぎておどろくほど
 それは

 今、全てを捨てて 踊ること

 踊ろう 踊ろう 私たちと一緒に踊ろうよ
 どうして今じゃダメなの
 喜ぶのは今しかないんだよ


 <二日目>


 今朝 公園に行くとジャスミンがまた誘ってきたので
 僕はびくびくとしながらその周りでスキップをして
 腕をあげたりおろしたりして回ってみた
 
 まだまだ もっともっと よろこんで
 もっともっと楽しんで 笑って

 自由に 自由に どうしたら君たちのように
 何も気にせず 人目も気にせず 踊れるんだろう

 そしてどうして僕は誰かに見られることを
 こんなに怖がっているんだろう
 何も悪いことはしていない

 ただ太陽の下で 花々のまわりで
 よろこびをからだ全体で精一杯表現したいだけなんだ

 この世界で まったく誰に見られるかも気にせず
 思い切り歌ったり 踊ったり 叫べる場所ってどこだろう?

 いや そんな無人島みたいな場所はなくったって
 本当は僕が他者から自由であれば
 どこでも限りなく自由でいられるはずなんだ

 一人でいる時さえ こんな姿誰かに見られたらどうかとか
 無様なことを自分はしてるんじゃないかとか
 自分で自分を裁いてる
 そう、他者の目を通じて 自分を縛るのは
 僕自身の意識なんだ

 僕は自分の目から自由になりたいんだ

 完全主観
 
 至りたいのはそんな無人島だ
 ジャスミンたちも 太陽も 魚も
 そんなパラダイスでよろこびを踊っている


ジャス~2

 April 2012




詩集2(火水の子供たち) | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/08/07 15:30

クックパッドな夏


 先月から彼女と、一緒に住み始めて、週に2,3回僕が晩ごはん作っている。

 ヘルパーの仕事でよくやるから料理するのは嫌いなじゃないし、結構おもしろい♪

 と言ってもレシピはもっぱら COOKPAD 頼りである。

 この暑さなので勢い冷やしメニューが多くなってしまう。
 これは3週間くらい前に作った、ソーメン。
 青じそと、シーチキンに、胡麻油がなかなか合います。
 
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レシピ→暑~い日におすすめ!さっぱりツナしそ素麺

 でもやっぱり、自分で作ってて初めて、なにこれ(゚д゚)ウマーっ!と思ったのは、このメニュー

 冷製パスタでカリカリに炒めたベーコンとトマト、ソースがしょうゆ、砂糖、オリーブオイル、お酢など。
 デザートにスイカ

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 奥のベッドの上にあるのが半田広宣氏の「シリウス革命」(笑)

 このソースがやたらうまかったので捨てるのがもったいなく、後日ハンバーグに大根おろしと一緒にかけるととってもグーでした。
 
 レシピ→トマトとカリカリベーコンの冷製パスタ

 一瞬、霊性パスタって変換されたw


 今のところレシピ通りに作ってるだけだけど、そのうちオリジナルの調味料の配合とかで、自分のメニュー作れたら楽しいだろうな~

 でもまあ、市販の冷やしラーメンでも、麺が見えないほど野菜たっぷりで、しゃぶしゃぶした豚肉乗せればなかなか豪華。

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 この他、カレー、チャーハン、野菜の煮物、肉じゃがなんか作りつつ修行中である(^O^)

 楽しいが、めんどくさいことも多いので、これ毎日やってる自分のや、世の「お母さん」ってホントすごいと思いますね。
 




私的雑記 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/02 11:12
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