2012 revolution 量子的創造者の目覚め
ゼロポイントからのトリックスター
固い世界と、やわらかい世界、という考え方は折に触れてよく思い浮かぶ。
とわの宴
今から思えば、その後の方向性が現れていたような詩。
自分のあらゆる部分を受け入れること。
引越しの忘れ物
3月、10年くらい住んでた風呂なし、トイレ共同アパートを脱出(?)した。
エネルギー転換
モウナ効果
クリアボイスセッション
Kさんのクリアボイスセミナーに参加。いまでも時々お世話になってま~す
予言者は【帆船】を隠す
新たな災害や、原発崩壊の予言・予測が飛び交う中、その影で何が見えなくなってるのだろうかと考える。
「人が見えないものを見ろ
恐れとか怠惰で 人が見ようとしないものを
新しい世界が見えてくる。」映画パッチアダムスより
インドぐるぐる旅日記①
急に思い立ち数年前のインド旅行をまとめたもの。
謎のドラクル英語学院
弟と京都の超人がつくろうとしていた英語学院の動画見てたまげる。
ACとアンガーマネジメント
広島の木村さんのリーディングで怒りんぼうなところを指摘され、個人としての感情や癒されてない痛みについて考え始めた頃。
ビジョンクエスト ■海辺で見た東京■
希望がないと、本当には、生きていけない。
沖縄メモリー
9月、沖縄でダイビングライセンスとっちゃいました~~(・∀・)
How to self love
自己愛の大切さ
オーラリーディング in あざみ野
また怒りんぼうだと指摘される(゚Д゚)ノ
専制君主とKAN in my self
N先生SKYPEセッション、感覚の変容
悲しみに寄り添う記憶
12月はじめにスペースまほろばNさんのSKYPEカウンセリングを受ける。
先週実家に帰省した折り、ブレスワークも体験しました!
また記事にしたいと思います。
では今年ご訪問いただいた皆様、いつも読んでくださってる皆様、コメントいただいた皆様、どうもありがとうございました!!
今日は実家でコピーしてもらった「火星年代記」でも見ながら、晩酌します。
来年が皆様にとって、そして僕にとって(笑)とっても素敵な年になりますように☆☆☆
よいお年を♪♪ (*´・з・`*)チュッ♪ (^.^/)))
送信履歴に残っていた、大分前に携帯にメモった文章。
どういう状況で思いついたのか、いまいち覚えてないけど・・・。
書いてたのが朝の五時とかだったw
2009 2 8
この世界に在ること・・・
それらはすべて白か黒かで割り切れるもんじゃないんだ
誰の人生の中にも否定できない愛のエッセンスが染み込んでいる
そしてインチキ臭い部分、闇に染まった部分もある
白か黒かじゃないんだ
総体として 人間をどちらかに統一されたものと見ることから
狭い世界が生まれる
あなたが光だと思いたがっているもののうちにも光があるし
また闇がある
あなたが闇と思いたがっているものの中にも光がある
みんなそれを認めるのが怖いんだ
犯罪者のこころにも美しい愛の記憶が
それを感受するこころがあることを
だからすべてから距離を置き
すべてを包み込みなさい
真実はあなたの内に見つけるものだ
あなたが愛になればいい
あなたは自分が愛じゃないんじゃないかなんて
悩まなくてもいい
何がホンモノかなんて
浅ましいことは考えなくてもいい
本物か偽物かは
そんなレッテルは
ただこっちの都合だ
夜明けに鳴く鳩の声はずっと昔から
君に真実を語っていた
2009 3 6
失われた自己を求めて
僕は歩いていく
僕は出来合いの いろんなものを求めようとした
失われた僕自身の代わりに
外側から語りかけるたくさんの言葉に耳を澄ますとき
僕は僕自身の未来と 僕自身の日々と 僕自身の愛と
僕自身の青い夜明けを失った
この世界を見限った振りをしながらも
この世界に未練げな目を向ける僕は
終りを夢見た
それもまた失われた自分の代わりに
僕の手が掴み取った 偽りの希望でしかなかった
または大それた神々の戯れに目を向けるということで
失われた僕自身の代わりに
巨大な虚像をつかもつとした
・・・でも、そんなものは、もう、いいんだ
僕にとって必要なのは
出来合いの未来や 偽りの愛や 大きな虚像なんかじゃない
小さくてもかまわない
僕自身の姿
僕自身の愛や希望の形だ
2009 12 3
その状況を自分自身の一部として
受け入れ 愛したものが
その状況の救世主となる
そして逆説的だが
自分自身を救い主と思わぬことが
それを癒すコツである
なぜならそれは自分自身の一部に他ならないからであり
そのことを認めず 外的な悪のみを設定すると
ただ自分が『してあげている者』となるからだ
そうではない
僕の見ているものは僕の意識とのシンクロなしには
存在しえず
そこに見出した問題は
僕の意識の中のひっかかりが外面化したものでしかない
それゆえにそれを外側の問題として
退け続けるなら
いつまで経っても自己の意識内部のしこりに気づくことが
できない
そうすると、外的にはその状況に対して
善と思われることをなしていても
それを自分自身として受け入れていないなら
意識の中で
自分が一方的な善行者とならざるを得ない
それは自分の意識の現れとして
その現実に遭遇しているという意識の不在である
現象が自分自身の意識のほつれの現れであり
それは自分がそれを超えるために
招き寄せ遭遇しているとするならば
それを受け入れ 愛し 感謝することもできる
なぜならその現象のおかげで
それにひっかかる自己の意識を自覚出来るからだ
そして意識することによりそれから解放され 救われる
そのような意味において
その状況に対して愛や感謝を
つまり物事を改善するエネルギーを注げるのは
その状況により救われていることに気づいている
人間なのである
haitakadori
RT @BiggyNeptune: 出口調査「日本を出ますか?」「はい」
12-16 20:40RT @jyakucho_bot: (みなさん…聞こえますか…今…あなたの心に…直接語りかけています…ツイッターなど…眺めている場合では…ありません…選挙へ…行くのです…まだ…間に合います…すぐに…投票所へ…行きなさい…)
12-16 19:23RT @momose1000: なぜか日本のテレビとロイターとでは、選挙の情勢が違う。ロイターでは、「未来の党」が2位!平和への追い風を、あなたの一票も。http://t.co/BYHXw9oL #選挙 #衆院選
12-16 19:21RT @KOKAMIShoji: 若者達よ。とにかく投票に行ってくれ。君達の未来を決める投票なんだ。君たちが、将来、兵隊に行くことになるかもしれない選挙なんだ。君たちの子供が将来、放射能に苦しめられる可能性が生まれるかもしれない選挙なんだ。君達の将来と密接につながった選挙 ...
12-16 16:15
haitakadori
RT @furunosawako: 悲しみに寄り添う記憶 http://t.co/3IGy1HLh (卵の中のKI☆MI より。)人が死ぬと自分の中のどこかも死ぬ。今日、知ってる人が病気で30歳で死にました。別に仲良しとかじゃなかったんだけど、その人の30年の波乱の人生に ...
12-15 21:01
haitakadori
RT @LSDove: 瞑想も好きだけど、考えが暴走するままにまかせるのも好きだ。
12-13 19:08
haitakadori
RT @nl_5: ポール・マッカートニー「西洋社会には、睡眠薬とかアルコールとか、合法なのに危険なものが沢山ある。私は大麻を危険なものだとは考えてないし、日本ではマリファナが重罪になるなんて知らなかった。正直…いまでも日本は法律を見直すべきだと思ってるよ」 http:/ ...
12-12 23:13
そしてなぜか、こころにアニメ「銀河鉄道の夜」の登場人物カムパネルラやジョバンニが浮かぶ。
なぜこれが浮かぶのかわからないけど、、、この感情パターンにこの記憶が結びついているのか。
この映画は確か映画館で観たものだった。
ふと、この映画の公開年を調べてみたら・・・どうかと思いついた。
ひょっとしたらあの年かもしれない。
ネットで調べてみるとそれはやはり「1985年」だった。
この年は僕にとっては忘れられない年だった。
その年の6月に祖父が亡くなった。
僕は意識をなくして実家の庭に横たわる祖父の姿を見た。嘔吐物の匂いがした。
脳出血の発作だった。
それから一週間ほどで祖父は亡くなった。
家全体が黒白の布で覆われて、慌ただしく葬儀が行われる。普段夏休みしか合わない親戚のおじさんやおばさんが黒い服を着てたくさんうちにやってきた。
僕は祖父の死体が怖かった。
ちょうど祖父の遺体が安置されている部屋の上で眠っていると、この下に遺体がある、そう思っただけでひどく怖かった。死んでいる祖父が急に起き上がって、僕の首を絞めるというまるでホラー映画のような夢を見た。
そしてその後から夏にかけて、僕は強迫神経症のような状態になり、階段は必ず二段飛ばしであがらないといけなかったり、歯を磨くのにも、キッチンに入るのにも、とにかくある「基準」をクリアしないとどこにいけないし何もできないという状態になった。それは子供心にもとても苦しいものだった。いや、本当に苦しかったと今思い返せばわかる。それをし続けないと、なにか悪いことが起こるという恐怖が根底にあったように思う。
今思えば、その神経症状態は「祖父の死」というショッキングな出来事と無関係であろうはずはない。
だが、子供の僕にはそれらを結びつけるという心理学的な知識もなかった。
その頃の僕はよく喘息の発作も起こしていたので、脱感作というアレルゲンに対して少しづつ体を慣らしていくという治療のために週に1、2度近所の診療所に注射を受けに行っていた。その時はいつも昼は父と同じ職場で働いている母親が付き添ってくれて二人で片道20分ほどの道を歩いていくのだが、僕はその時間が楽しかった気がする。確かに注射は気持ちのいいものではないけど、行き帰りに古本屋に寄り道して漫画を買ってもらったりした。それはある意味で母親の愛情を独占できる時間だったのかもしれない。
この神経症がいつ治ったのかよくは覚えていない・・・
ただ思い出すのは、母の膝の上で母に抱きついて甘えている自分の姿だ。
そう、僕はまだ母親に抱きついても全然おかしくはない年だった。でも、いつもはそんなに抱きつくこともなく、甘えるのをある意味我慢していたのかもしれない。母に甘えることができたのは、きっと神経症のおかげで、そしてそのような安心感を感じられることで僕は徐々にその状態から抜け出せるようになったのではないかと思う。
そしてその年の夏休み、僕は母方の祖父の家に、一人で4,5日ほど泊まりがけで預けられることになった。
どうしてそうなったのか思い出せないけど、親が僕の気分を転換させるために、あるいは少し親元を離れてたくましくさせるためにそうしたのかもしれない。僕にとってはこんなに一人で実家を離れるのは初めてのことだった。祖父と祖母からは遊びに行くたびに可愛がられていたので、いつも遊びに行くのは楽しみだったけど、やはり一人でお泊りするのはかなり心細かったとは思う。
祖父がハイキングでどこかに連れて行ってくれた時に見た、真夏のゴルフ場の青々とした芝、
そしてどこかで食べさせてくれた「トンカツ」がすごく美味しかったこと、
寝室のまわり灯篭が不思議で見ていたこと(あるいはこれは別の夏の記憶か)
そんなことを覚えている。
そのいつもとは違う夏の数日間が過ぎて、祖父に送られて僕は京都に帰った。
駅に母が迎えにきてくれていた。
そしてそのあと確か映画館に向かい、『銀河鉄道の夜』を見たのだった。
子供にとっては少し難しい内容だったかもしれない。でも直観的にそのメッセージが伝わるような映画でもあった。
僕はカムパネルラを飲み込んだ 「黒い川」というチャプターの名前に魅せられた。
それはきらきらとした銀河の旅とはまったく別の、何も見通せないような現実風景だ。
愛しい人の行き先を知りたいと思う、そんな死への問いかけに対して普通の生きている人間が与えられるのは、このなんの応答もない「黒い川」だけなのである。でもジョバンニはその友の行き先を知っていた、その目に映る黒い川は、友やカムパネルラの父が見る恐ろしい水面とはまた異なる。しかしすべては、息子をなくしたばかりなのにジョバンニを気遣うカムパネルラの父や、病の母へ父の帰るのを知らせようとうちへ走るジョバンニの思いやり、友人を助けようと川へ飛び込んだカムパネルラの勇ましさなどの中に見える、愛によって結ばれているのだ。
もちろん子供の頃の僕はそんな風にややこしく考えたわけではなかった。
ただ直感的にこの映画が好きになった、それだけだった。
後日テレビで放送したときには、ビデオ録画して弟や祖母を集めて上映会をしたりしたのを覚えている。
この夏の8月12日、日航機123便の御巣鷹墜落事故が起きた。
祖父の法要の時に、テレビにそのニュースが流れていたのを覚えている。
1985年の夏は様々な死とともに僕が初めて過ごした季節だったかもしれない。
僕の不安や悲しみのルーツはこの夏にはじまり、
今も鼓動してるんだろうか。
そして、
祖父の死や 神経症や こういう事故や はじめての一人旅(?)
これらの出来事に対して、この映画はひとつの回答としての意味を持って、僕の前に現れたという気がしないでもない。だからこそ僕は今でもこの映画にこころ惹かれ続けるのだろうか。
不安や悲しみのエネルギーに寄り添ってくれて今も存在する、「銀河鉄道の夜」の記憶
印象に残る映画というのは、常にそういったかたちで現実との接点を持っている。
あるひとつの「映画を観る」ということは、現実という文脈の中に見事にはさまれるひとつの「啓示」であることが起こりうる。いつどのような状況下で、誰と見たか、ということによってその映画の持つ意味は全く異なってくる。だから客観的な批評だけではその個人にとっての映画という「啓示」の意味ははかれない。現実も映画も、究極的にはあるひとつの愛という量子場に折りたたまれた情報の、同時的開示であろうからだ。
ひとつの感情を見つめるだけで、これだけいろいろのことが展開するというのはとても面白かった。
と同時に、今まで内省的な方だと思ってたけど、こと生々しい感情に対してはそれを麻痺させたり、取り去ることばかりを考えていろいろやってた気がする。今までの分まで含めて、これからはいろいろ感じてあげたい。
土砂降りの日曜日
街へ来た一団を
おどけたピエロを
泣きながら見てた
いつも暗い夜が怖くて
ママのベッドに潜り込んだ
窓を叩く雨
サーカスの時も 同じように降ってた
過ぎ行く季節に 無邪気で無垢な笑顔も
大人びたね
もうあの頃のようにサーカスが怖くて
泣いたり しやしないさ
時には誰かを傷つけることさえも
時には自分を裏切ることも
行き交う人ごみの中で
僕の 僕の生まれた訳を
誰も教えてはくれはしないから
泣いちゃダメだよね
見つめ続けていることで
恐れは悲しみへ 悲しみは寂しさへと 姿を変える
夜に怯えていたのは 僕だった
君の声を聞いてあげなくて、ごめんね
幼い頃には戻れないけど
いつでも好きだけ泣いてもいいんだよ
そうすればぬくもりが戻ってくるから
haitakadori
RT @Rishu_jpn: ☆再掲 【テレ朝が本気出したぞ!笑】「ワシントン州の大麻合法化」を現地のブリブリ映像を交えて放送しおった!「医療用ではない大麻が合法化されました」→現地からのVTR「3.2.1…着火」の流れが最高すぎるw http://t.co/mF2Ix ...
12-08 17:35
haitakadori
RT @ALGON_: NHKの言い方半端ねえな 「東日本大震災を思い出してください!」とか言われたら確かに逃げるわ
12-07 18:19RT @ui_nyan: ”「津波です。震災を思い出して」NHKが新災害報道方針 「東日本大震災を思い出してください!」――。今後、大津波警報が出た際、NHKのアナウンサーはこう呼びかけて避難を促すことになった。” http://t.co/dKKDNL6R
12-07 18:18津波ていうかどっちかというと原発が心配です。
12-07 17:51RT @kikko_no_blog: radikoつけたら文化放送で「福島第一原発はどこかが壊れたかもしれないが東京電力は『基本的に災害はない』と言っている」って報じてるんだけど、マジですか?
12-07 17:49外走ってたから全然わからんかったけど、うちについたら同じマンションの人が外に飛び出してた。
12-07 17:42
スペースまほろば のN先生のスカイプセッションを体験する。
スペースまほろばは、ブログresonanz360 のhiroさんのツイートで初めて知りホームページを一読とても興味をひかれた。hiroさん、情報どうもありがとうございます<(_ _)>
Nさんは自身の覚醒体験と、セラピー理論を統合されていらっしゃるようでとても貴重なポジションの方のように思えた。どっちかを切り捨ててしまう場合が結構多いからだ。現在新大阪と、鳥取の境港でセッションをされてるということらしいから実家に帰るときにブレスワークでも受けてみたいと思い、その前に軽くお話しさせていただくことにした。
その一部の記録をシェアさせてください♪
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Nさん:もともと目覚めとか悟りに興味を持ったのは今お話されたようなことと関係してるんでしょうか?
はいたか:学生の頃、半分引き籠って本ばかり読んでたころ精神世界に何か希望があるように思え、そう言った情報をたくさん入れてたんですがその過程でやはり悟りや覚醒についての知識にもふれることになりました。
Nさん:やっぱり真剣に何かを求めていると、そこに行き着くしかないようなところがあるんじゃないかと思うんですね。
ただその悟りというのが、今ある苦しみ全部にふたをしてそれを見ないようにして
何かこう素晴らしい世界を見つけるということとはちょっと違う気がするのでね。自分の中にあるあらゆる要素をそのまま、ありのまま存在してていいんだっていうことに気づく感覚でもありますから。するとね、きちんと瞑想とかをやっているとどっかの時点で自分の中の今まで見ないようにしていた感情とかいろんな面が意識に浮上して来る時がどうしてもやってくるんですよね。そこで、そういうのをなるべく見ないようにするために瞑想してしまうっていうことがよく起こったりするので、、、でも今Mさんはそうじゃなくて心理学的な、セラピー的なことをやっていく必要があるんじゃないかと思っておられるのはすごく大事なことだと思います。その方向で間違っていないと思います。
はいたか:はい、ただどうやってそれをしていくかという方法のこととかでちょっといろいろ考えたりしてますね
Nさん:私のところでやっているブレスワークとかはね、自分の中でなにかこう見ないようにして、本当は自分の一部なのにこれは自分じゃないよ、とこっちだけが自分だよと、自分の中で境界を作ってしまうことで本来自分というのは自分が思っているよりものすごく大きな存在なのに、自分でいいとか悪いとか思考によって自分を分断してしまってるわけですよね。そこに気づく。見ないようにしてきたものに意識的に触れてそれを本来の自分の一部なんだと、いいとか悪いとかじゃなくて怒りも不安も、ひとつのエネルギーの動きにしか過ぎないんだと、いうことを実感していくことをお手伝いする、それのためにブレスワークとか、ヒプノセラピーとか、こうやって普通にお話をすることとかをやっていってるんですよね。
ブレスワークは人間は不安を感じると息を詰めますから、意識的に深い呼吸をすることで自分の中の見えなくなってるところに触れていくと。
以前ブレスワーク行ったことあるということでしたが、どうでしたやってみたとき?
はいたか:そうですね・・・どっちかというと恐怖感がすごく出てきて・・・
Nさん:あ~はい、はい、はい。
はいたか:終わったあとに絵を描いてみんなでシェアするような形なんですが、その時に出てきたのがサメとか肉食獣とかのイメージで、、まあ以前見た夢のイメージが出てきまして、サメがすごく大きい口を開けていて、すべてがその中に吸い込まれて行っちゃって、自分もその流れの中にいるという感じで、、そういった恐ろし世界の中に自分は生まれてきたくなかったという言葉が出てきたんですよね。セッション中はうわーって叫んでて、やっぱり怖いっていう感じの
Nさん:恐れが出てきたわけですね。どうしても最初は恐れとか不安が出てくるんですよね。特にね、子供の頃に十分愛情とか、自分を十分尊重してもらったという実感を持ってない人ほど自分の内側にしっかり触れていこうということを始めると最初恐れや、不安が大きく出てくるということがあります。これは私もね、むかしすごく実感してあったのでわかるんですが、でも大事なことはおそれも不安も、何か大いなるエネルギーの一部であってね、そのままありのまま味わい認めていくと、やがて消えていくんですよね。それがずっと続くわけはありえないんですよ。ですから大事なことは、ブレスワークにしても、恐れや不安が出てきてもできる範囲でいいからそれをそのまま感じること。恐れや不安がそこにあるということをありのまま認め、許していくということ。それはこれまで周囲との関係の中で感じられなかった自分を愛するということを、自分で意識的にやっていくということなんですね。そういうことを意識的にやっていくことでおそれも不安も段々ちいさくなっていきます。
そしてこの自分というものが肉体と心の内側にいるという感覚から、広がって行く感覚がやってくるんですね。
はいたか:最近は夜に不安な感覚がやってきたら、それをなるべく感じようとか、それを愛そうとしてますね。
Nさん:それは大事なことです。で、その時のポイントはね、体の感覚をしっかり感じること。頭で考えるんではなくて、不安だったらこう体の中にあるもやもやっとした感じとか、胸のあたりにある得も言われぬ気持ち悪さ、をそのまま感じるんですね。からだの感覚として。不快な感覚を感じるには最初は難しいかもしれないけど、感覚がわかってくるとね、本当に感じられたら、それが勝手に変化していくんですよね。変化して言ってやがて消えていくということがだんだん分かってくるんですよ。起こっていることについてなるべく頭で考えないようにして、身体的な感覚にしっかり意識を集中させるということ、それを是非不安になった時にやってみてください。
はいたか:だいぶ前なんですけど、東京に来たばかりで、今より精神状態があまりよくなくて、知り合いとかも誰もいなかった頃に、あの~合法的なドラッグというかそういうのにはまっちゃってたことがあって、その時に強い量を一気に摂取し過ぎて死の恐怖の世界に一晩中飲み込まれたっていうか、死の恐怖プラス自分の思考が世界を作っててその外側には何もない・・・っていうか、そういう恐ろしい世界に入ってしまったことがあって、そのフラッシュバック的な感じで今でもそれが残ってる感じがする時がありますね。
Nさん:自分の思考が世界を作ってて、そのほかには何もないっていう感じ?
はいたか:うーんそうですね、その外側には何もない・・・
Nさん:はいはい・・・・それってでもある意味ではそうなんですよね(笑)
はいたか:うーん・・・
Nさん:それを理解しようとしてみんな冥想したり、修行したりしてるんじゃないかと思うんですよ。
はいたか:あ~・・でもそれってすごく恐ろしいいことじゃないですかね
Nさん:多分ね。そう、思考の視点というかエゴの視点からみると、それは恐ろしいことですよね、
はいたか:思考自体も常に移り変ていくので、どこにも確かなものはない、すがりつけるものがないという感じですね。
Nさん:そう、だからいきなり真実を見せられたら人はおかしくなってしまう、狂ってしまうという言い方もあるわけですよね。そういうものは意識を思考を外した次元に強制的に持って行ってしまうから、準備が出来てないのにそういうところに行かされると恐れとか不安がものすごく大きくなると思うんですよね。その準備というのがやはり心理的なレベルで未解決になっているいろいろなものをちゃんと見てクリアにしていくことで、思考を超えた意識状態を受け入れやすくなるていう言い方はおかしいかな・・・まあ思考でつくられた世界というのはある意味では幻のようなもので、その・・・大いなる存在というかね、たったひとつのエネルギーしか存在していないんだというところに落ち着いていられるようになるんだと思うんですね。そして、その物質的な世界も大いなるエネルギーの一部なんだから、スピリチュアルな世界と物質的な世界が、あまり別々のものだという意識がなくなってくるんですよね。物質的な世界にもうまく対応できるようになってくるし、でも深い部分では、みんなそれが夢のようなものだとわかっている、わかっているから自由に、世界の中を生きていけるというそんな感覚がしてくるんですよ。
だからそれはね瞑想していて、「うわっ」とか「おおーっ」ていう体験が起こることはあるわけじゃないですか。これは目覚めたーみたいな?そういう体験をずっと維持しておくというようなこととは根本的に違うんですよね。もちろんそういう体験ていうのは、普段の思考で作られた世界以上の何かがあるということを知るためには重要なことだけれど、それがイコール目覚めとか悟りではないっていうことなんですね。おお!っていう経験が目覚めなんじゃなくて・・・すべてが、すべてが「それ」なんだっていう理解というのかな
日常のあらゆることがスピリチュアルなものの顕れなんだっていうことが、だから怒りも不安もね、実は大いなるたったひとつのエネルギーが怒りや不安となって現れている、だからそれもまたOKっというか・・・素晴らしいものというか、そうであってもいいというか。
はいたか:そういう考え方をしたほうが受け入れやすいですよね。
Nさん:はい、怒りや不安がいけないものではないということですね。
はいたか:カウンセリングとか、自分でも心理的なサポートができるような状態になりたいなと思うんですけど、自分がどれくらいの状態であれば余裕も持って人をサポートできるかっていう目安はありますかね。やっぱり自分の感情を相手に投影しちゃうような状態だとやっぱりまずいような気がしてて、どのへんまでなったらいいのかなというのがあるんですけど
Nさん:うーん、どのへんまで・・・なったらいいか、、それは表現しにくいですねえ。
はいたか:特にはっきりとした基準というのはまあないんですよね、ここまでじゃないといけないということでもないとは思うんですけど。やっぱりどんな人でも誰かに気づきを与えることはできると思うので・・・
Nさん:そうそう、その通りなんですよ。
はいたか:ただやっぱり自分がイライラしてる時にクライアントさんを見て、『こいつ怒ってるな』と思ったらまずいと思うんで~(笑)
Nさん:そうですね。あるとすれば、自分の中で起こる感情を全部自分で引き受けられるっていうくらいはやっぱり必要かもしれないですね。それは全部自分の問題なんだということをちゃんとわかっていること。でもそういう話しを頭で理解していたとしてもね、無意識の働きってすごいですから、その場でね無意識の力に引き込まれてしまうと頭で理解していたことが全部吹っ飛んじゃうわけ。「こいつ、何言ってんだよ」みたいなことになるんですよね。仕事してこういうことをやっていきたいて思われてるんでしたらね、かなり自分の内面を見つめていく作業をやっていく必要があるだろうなと思います・・・一方でね、でもね、そんなことあんまり思わずにどうしてもしたいと思う人は始めるワケですよ。それは別にいけないわけでもなくて、今度は実際にやっている中で、自分に気づいていくという作業をやっていくことになるわけです。
はいたか:来る人から学んだりとか、そういうこと・・・?
Nさん:そうそう。反対に言えばね、否応なしに自分の問題を見せつけてくれる、クライアントさんが来ます(笑)
はいたか:笑 あ~なるほど
Nさん:その時にね、なんでこんなややこしい人ばっかりくるんだよ~って思ってたらそこから先にいけないわけですよ。これ全部自分の問題なんだっていう視点で来てくださる方の問題も、全部自分の問題を見せてくれてるっていうふうに見ていけばもっともっと自分のことがわかてくるし、自分が癒されてくるし、相手の人も癒されるっていうことが起こります。
はいたか:やっぱり日常で合う人もそういう視線で見る・・・
Nさん:そう、実はそうなんですよ。みんなそうなんです。うん、深く関わっていく人ほどそうなんですね。
はいたか:根本的な問題というか、深いところにあるものを見せてくれているという・・
Nさん:そう、親密になる人ほど、見せてくれるために必要だから自分の世界にやってきてくれているんだと思ってください。
はいたか:ホームページに掲載されている目覚めの体験で、全部がこう珍しいことだと気づいたという体験について書かれている箇所がすごく良かったんですけど、やっぱり一旦マインドで構築されていたものがすべてリセットされたことにより全てが新鮮だと感じられたということなんでしょうか。
Nさん:今思えばそうだったんだと思います。でもその時はそういう理解はなかったんです。なんか、えーすげーみたいな感覚しかなかったんですよね。
はいたか:生まれ変わったというような感じですか?
Nさん:生まれ変わったというよりも、生まれた・・
はいたか:初めて世界を見たというような
Nさん:うん、そんな感じだったですね。
でもまあそれが起こったからすっかり楽になったわけじゃないんですよね。そこから人間として未解決だったいろんな痛みを向き合うプロセスが、そこから始まったんですよ。それが多分20年くらいあったんですね、そのあと(笑)
子供のころに辛い体験をした人ほど、目覚めのプロセスの中であの~そういう未解決のものが浮上してきやすくなるわけですね。そこをちゃんと意識的にそういう経験と向き合っていく必要があると思いますね。その『空』というか、大いなる存在というか、そういうものに触れそうになるとね、それがものすごく恐ろしいものに感じてしまうみたいなんですよ。
はいたか:(覚えがあり)やっぱり誰でもそうなんでしょうかね?
Nさん:それは子供の頃に苦しい環境で生きてきた人ほどそうみたいなんです。
はいたか:すぱっといけちゃう人はいけちゃうっていうことですね
Nさん;人によってはそういう人もいるみたいですね。なんかわーっと目覚めの経験が起こったらもうそれでOKいたな感じになる人も中にはいるみたいです。
はいたか:溜め込んでいる古いエネルギーがあると、それが出てくる、恐怖になって・・
Nさん:そういうことなんです。浄化が自然に起こるんです。だからその浄化のプロセスは場合によっては数年とかね、それくらい続くことがあるってことなんですね。そこを理解している人と、そのプロセスをやっていくことがすごく大事なような気がします。
はいたか:・・・そうか・・自分としては悟りとか一切考えずにセラピー的な部分だけを浄化したり、あとは自分が楽しく豊かに生きていければいいかと思っていたんですけど、、もしかすると神とか、大いなるものを知る上でのプロセス上での浄化っていうことかもしれないですね。
Nさん:うん、そうだし、ホントはねどんな時でもその両方が関係してるんですよ。心理的なことだけしか意識しなくてやっててもねそれを深めていけば必ずそういう意識の世界というか、大いなる存在とか、目覚めの方に向かって言ってるわけですね。で、そういう何か大いなる存在とか目覚めとかを意識しながらやったほうが、通常の意味での心理的な癒しもうまくいきやすいんです。でまた反対に通常の意味での心理的な癒しを意識してやらないと、目覚めや悟りもなかなか深まらないってことなんですね。両方がとても大事だと思います。
はいたか:うーん、面白いですね。なんかそう考えると
Nさん:うん、面白いですよ、これ。そう、私の自分の目覚めのプロセスに知らないうちに引きずり込まれた感じがあるけど、苦しい感覚もありながらなんか面白いんですよね。こんなのもあるのか、と。今まで自分とはこうとか、世界ってこうだと思ってたものが、どんどん崩れていって、こんなのもあるのか、こんなのもあるのかっていうのがやっぱり面白かったんで(笑)それを追求してるうちにいつのまにか仕事になっていたというところがありますからね。面白いっていう気持ちがあってもいいし、それはとても重要なことだと思います。
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終わったあと、それほど疲れてるわけでもないんだけど、あり得ないほどの眠気に襲われた。
ごそっと何かが抜けるような脱力感というか
会話中は感じなかったけど、やっぱりエネルギー的な相互作用が少し起こったみたいで
翌日は少しいつもと違う意識状態で一日を過ごした。
具体的に言うと、現れてくる一瞬の一瞬の現実がとても愛しく感じられるという瞬間が頻繁にあった
こっち系の変容感覚は久しぶりだった。
目に映るものすべて、すべてが目に映ること、それらがとても貴重な瞬間瞬間であるように想えた。
Nさんが言われている、感情を体感覚としてしっかり感じるとそれ自体が変化してくるということについては、最近読んだゲイ・ヘンドリクスの「コンシャス・リビング」という書籍にも書かれていた。
西海岸に住むある男性がパニックに陥って、夜明け前に私に電話してきたときのことを思い出します。
その前日、私は電話で彼にカウンセリングを行っていました。彼は慈善家のビジネスマンで私とは長年にわたって社交行事の場で顔を合わせてきた間柄でした。その彼が「最後のフロンティア」と自ら名づけた問題について私とワークをするために予約を入れました。彼の問題は愛情関係についてでした。彼は財産を築き、影響力のある社交界のネットワークを作り上げましたが、これまで一度も親密な愛情関係を経験したことがありませんでした。50代も半ばを過ぎ、そろそろ誰かを愛し、愛されるという感覚がどんなものか知りたいと考えたのです。私は、彼の人生に愛にあふれた女性を引き寄せるために、アファメーションとヴィジュアライゼーションの両方を組み合わせたセッションを行いました。それと並行して、これから姿を現すと予想されるもの、・・・これまでの人生の中で親密な関係を結ぶことを妨げ続けてきた、親密さにたいするあらゆる恐怖・・・に取り組むことができるように彼に入念な準備をさせました。ところがお粗末にも、私はその恐怖の力を侮っていたのです。
その結果、翌朝まだ暗い時刻に、過換気状態に陥り、支離滅裂にまくしたてる彼からの電話を受け取ったのです。私は数分間、彼に意識的な呼吸法を教え込み、いったん落ち着かせてから何が起こったのかを訊ねました。前日のセッションが終わってから真夜中になるまで彼は爽快な気分で過ごしました。ところが、いざ眠りにつこうとしたとき、これまでの人生でおさえつけられてきた、彼の中にひそむありとあらゆる恐怖が目を覚ましたのです。彼は私に電話するのが怖くて、一晩中、なんと5時間も自宅前の浜辺をうろうろと歩き回っていました。私に電話したときには状況はもはや限界に達し、感情が爆発しそうに感じていました。
その一日を救ったのは、愛でした。
私は彼に「その場に立ち止まって、恐怖におののいている自分を愛してあげてください」と言いました。
彼はこの考えに猛烈に食ってかかりました。彼は第二次大戦中は戦闘機乗りで、それ以来ずっとパイロットを続けていました。
「もし恐れていることを認めてしまえば、これから先やっていけるだろうか。怖がらなかったからこそいまの地位が築けたのだ。」
彼は実際にそのとおりのことを言いました。それに対して私は、「あなたの考えには大きな誤りがありますよ」と彼に告げた。
「あなたの心が恐怖を否定しようとするずっと前から、あなたの身体はもう恐怖に慄いていたんですよ」
たぶん彼の身体はいつも恐怖を感じていたのでしょう。恐れていない振りをすることは、困難を乗り切るためのひとつの対処法にしかすぎなかったのです。しかも、それは決して最善の方法ではありませんでした。恐怖を否認するのは危機を乗り切るためで、人を健康にするためではありません。私は彼にこう忠告しました。
「もし身体から恐怖を追い出したいのなら自分が怖がっていることを認め、怖がっている自分を愛してあげてください」
彼は震えながら深く息をつき、私の忠告を実行に移しました。
それから10秒も経たないうちに状況は一変しました。彼は再び口を開くと、こう言いました。
「恐怖をありのままに愛したら、恐怖は純粋な感覚だけになり、それから爽快感へと変わりました」
私は何度もこのような場面を見てきたので、格別な驚きはありませんでしたが、彼にとってこのシフトは思いがけな啓示になりました。愛のパワーを感じることのできた初めての機会になったのです。
「あなたはいま、愛が本当に存在するということに気づきました。これからの人生の中で愛を感じ続けてもいいと思いますか?」私はそう訊ねました。 すると彼はこの素晴らしく無防備になった瞬間に「そう思います」と答えたのです。
感覚認識の実習
感覚を見つめる練習のためかどうかわからないけど、昨日も今朝も、未明に目が覚めた。
今朝の感覚は昨日と少し違うようだ。
名前を付けるとすればやっぱり不安。
場所としては、胸のあたりで、ドキドキするような締め付けられるような、かたまり感
その感覚に寄り添い、存在を許しながら見つめ続ける
何かを教えてくれようとしている友達に耳を澄ますように。
時々、思考が強く回転していろいろなことを考え始めるけど、その度に注意を純粋に体感覚のみに戻す。
こういう時の思考作用は、体感覚やリアルな感情から逃げるために生じているようにも思える。
考えよりも、感覚、感情をリアルなものとしてフォーカスし続ける。
すると・・・いつのまにかその不安感が、「楽しさ」、「よろこび」のような感覚に変化してそこにあった。
本当だ、意識を向けると、感覚は確かに変化して行くのだ。
それもまったく真逆のものに。もともとは同じエネルギーってことなんだろうか
それをもなお見つめ続けていると、眠くなってきて寝入った。
うとうとしたとき、地震で揺れて目を覚ます。(千葉震源震度3)
瞬間、、あーホントやばいことが起こっても、こういうエクササイズは意味があるのだろうかと思うが・・・
すぐにまた眠りにつく(。-_-。)
少し睡眠は少なくいと思うけど、寝不足のどんより感はあまりなく、なんとなくすっきりしてるのは不安がよろこびへと形を変えるプロセスを観察・体験できたからだろうか?と思った。
PS:夕方、三陸沖震源7,2が起こったとき、ちょうど自転車で帰宅中で揺れはまったく気づかなかった。でも家の前まで来ると同じアパートの隣の人が外に出ていた。隣人が『今揺れましたよ』と言うけどちょうどうちに荷物を届けに来た宅配のおじさんは運転中で気づかなかったみたい。「3・11んときは運転中でもはっきりわかったなー」という。なんだかひどそうなのですぐに携帯ワンセグチェック。津波はもちろんだけど、常に原発が心配。これが前震で、もっと大きなのが起こって、4号機が倒壊したりしたらどう対処したらいいんだろうか・・・とまた考えがそちらにいく。停電に備えて、ガスコンロくらい買っておこうかとか。やっぱりこういうモードになってしまうと、いろんな意味で感覚より、「祈り」に気持ちが向いていくのを感じる。それともこういう時もその不安をはっきり受け止めたほうがいいのかな。
こんな時代だからこそ、大いなる存在=神を意識しながら・・・おこなっていくのがいいのかも。
父と母が交わっている夢を見た
そのようにして創られたこの朝がある
今朝は窓の外の畑一面に霜が降りて
昇ってきた朝日がそれを輝かせている
幼い時、父母が仕事に出かける時のガレージの
排気ガスの匂い
当たり前の目の前の世界に
心を開き 愛していた頃があった
今、目の前にあるものを深く愛すること
今、聴こえてくるもの、感じるもの
僕がいるここを深く愛すこと
それは本当に近く、僕のまつげ越しに見える白い天井
その距離を
そこが神のいる場所
いつも僕らはそこから旅に出て 何兆マイルも離れてしまう
マインドの果て無き探索行為
でも本当はどこにも行っていない
今に抱かれて悩むのか
今に抱かれて安らぐのか その違いだけ
Moment to moment
今日もまた、今までにない全く新しい一日であるという『恐ろしさ』を前に
今、目に映るものを愛すること
すべてが目に映ることを愛すること
今日、与えられた一日を愛すること
生命の扉はそこにある
2012・12・5