haitakadori
すべての命が本当に幸せであって欲しい、という願いは、すでに存在している意識の「場」である。誰でも、そう思ってる。
01-23 23:38ひまわりや蟻、流れる夏雲とひとつだった頃 獣たちや魚の名前を覚えることがずっと大事だった頃 あらゆるものと共鳴し生きるすべを知っていた頃 それは古の縄文人たちのあり方 すべての命が私だった頃 あの頃へ
01-23 23:32自分自身を越えたリアリティと共鳴することを意図している時には、全体性からの直観が働く。
01-23 23:26
前回の腰かくんの時はカイロに2,3回通い、今回もまたカイロかあるいは整体にしようかなとも思ったけど、本で読んだ内容を実体験してみたいということもあり、鍼灸にしてみた。
前から気になっていた、AMIという機械で経絡の状態を測定してもらえる治療院へ行くことにした。
AMIはヨガの修行者・意識の研究家として著名な本山博氏が開発したものだ。
『バイブレーショナル・メディスン』の説明によると、
日本の本山博博士は、さまざまな経絡の電気的特性を測定し、生理学的情報を手に入れるためのシステムの開発も行なっている
かれはその機器を「経絡臓器機能測定器」、略して「AMI」(Apparatus for measuring the condition of the meridians corresponding internal organs)とよんでいるが、それはほんの数分で人体内の生理学的バランスのみだれを診断する
コンピュータ装置である。AMIには合計28個の電極がついており、手の指先や足先にみられるそれぞれの経絡の終末点(井穴)にとりつける。電気的な情報をとりだすために、井穴に鍼や特別なクリップが装着されるのだ。経穴からのデータは専用のコンピュータに送られて処理、解釈される。
AMIで計測される点は、対になっている経絡の井穴である。肺経は気のエネルギーを肺に送る一対の経絡である。その経絡のうち一方はからだの右側をとおり、もうひとつは左側をとおっている。エネルギーバランスのとれている(健康な)経絡ではそこにつながる対になったふたつの経絡の電気的な値がひとしいと考えられる。すでに病気が存在する臓器、またはちかい将来に顕在化する病気が潜んでいる臓器では、そのふたつの経絡のあいだに電気的に大きな差が見られる。AMIは、経絡の井穴にあたる、その局所の皮膚電流を測定するのである。
・・・・というようなマシンなのだが全身の気の状態が、数値化して測定できるということに僕は魅力を感じていた。
まず最初簡単な問診票に記入後、足首と手首に装置をつなげ、加えて足や手の指先にアルミ?の破片のようなものをくっつけられた。
そしてすぐに測定結果がプリントアウトされる。

「まず全体的な気のエネルギーは平均より高めです。何かされてます?」
「気功のエクササイズのようなことはたまに・・・」
ドランゴボールのスカウターで計られてる気分だ。平均より高めというと、どうやら僕の戦闘能力はクリリンくらいらしい。フリーザとはタイマン張れないレベル。
「そういったことをされてる方はやはり高めに出ることが多いです。あと免疫機能も高いですが・・・膀胱系や胃系、このあたりが不安定なようですね。先ほど胃の調子が悪いというお話もありましたが」
腰かくんの他に、最近胃に空気がたまるような膨満感が苦しいことがあるので、そのことも問診票に書いておいたのだった。
この測定データによると、東洋医学で言う「実証」が肺経、脾経、心経 「虚証」が 膀胱経、胃経、胆系 となる。(「不安定」「逆転」「チャクラタイプ」とかは意味を詳しく聞かなかったので、今回はスルー)
あまり詳しくないので正確かわからないが、「実」とはエネルギーの過剰 「虚」とはエネルギーの不足 ということらしい。
治療自体はとても気持ちが良かった。
針に刺されてるという感覚自体ほとんどないし、痛さもない。
灸の方は若干熱く感じることもあったけど、気持ち良い熱さだった。
あと頭に針を刺され、気功治療?みたいなことをしてもらった時は半端なく脱力状態になった。
相当気持ちよかった。
「もともとお体は丈夫な方だと思うんですが、少し消耗されてるような感じに見えますね~」とのこと。
うーん・・・仙豆が欲しい(´;ω;`)
終了後もんのすごく眠ダル~な状態になり、ふらふらしながら帰宅して、休んだ。
腰かくんの痛みは翌日はまだ少し残ってたけど、翌々日くらいからかなり弱まり、現在一週間と少し経ってほぼなくなった。でも、鍼自体に興味が湧いてきたのでもう一回くらい行ってみるかもしれない。

↑胃経に左右経絡のアンバランスが見られた。
虚証かつ不安定だった、膀胱経、胃経、肝経、胆系などについてその機能など詳しく知りたくなり東洋医学の本を一冊買ってみた。どうしてそのエネルギーラインが不安定になってるかが知りたかったから。
参考書として買った、「タオ指圧入門」 講談社文庫 によると、
「胃虚になると、胃の不調を感じることが多い。しかし胃の不調として感じるすべての症状が、胃虚によって起こるわけではない・・
胆虚や三焦虚によっても、胃の不調を感じる。たとえば、胆虚の場合、胆汁の分泌低下による消化不良を胃の不調として感じるのである。
胆虚は白砂糖や化学調味料など、解毒を必要とする食品を取りすぎて起きることが多い。
胃経は「外側から入ってきたもの(気)を、自己のものとして取り入れる」という働きをなす。だから精神的には自己の環境を受け入れるのが胃経である。胃虚によって起こる拒食症などは、食べ物そのものを拒否しているというよりも自己の置かれている環境や自分自身(これも環境である)が、精神的に受け入れがたいことを表している。」
自分自身を受け入れるということの未熟さが胃経に出るというのは、自我の個性レベルの開花がマニプラチャクラと関連しているということと少し似てるような気もする。あと、僕はかなり前(ダメもとで)気功の仕事の面接を受けたとき、「気の取り入れが弱い」って言われたけどそれとも関係あるのかな。
続いて、膀胱
「「膀胱虚」は「膀胱実」とともによく見られる証である。膀胱虚になると、出ることが多い症状は頻尿や不眠症である。」
頻尿はないけど、ここ数年は眠り浅く不眠気味なのでこれはビンゴ・・・!か
「不眠傾向は膀胱実によっても出ることがある。この場合は交感神経の緊張がぬけなくなったことを示す。膀胱実の不眠はさほど深刻なものではない。しかし、膀胱虚によって起きた不眠は大変である。たとえば神経が過敏になってちょっとしたもの音にも反応して眠れないなどは膀胱虚である。」
(゜´Д`゜)
次、胆・肝
「肝・胆の虚はアルコールや化学調味料、食品添加物、白砂糖などの摂取によって生じる」
お酒控えたほうがよいんでしょうか(;_;)
あと僕はかなりコーヒー中毒のけがあるが、コーヒーてのも相当ホルモンバランスを乱す原因となるということが書かれていて少し考え込んだ。コーヒーのない読書や、書き物は味気ないの~~><
実は最近、年末からプラーナ増強プロジェクトをやっており、食事をちょっと変えたりとかしていた。
僕は秋~初冬にかけてが苦手ということもあり毎年この時期には無意識的に、プラーナ保持の体勢となる。
11月とか、12月、この季節は日がどんどん短くなっている。
ということは、太陽光を通して吸収されるエネルギーは減少していることになる。
同じように寒くても1月、2月と、11月、12月が異なるのは、日照時間が減少していくサイクルにあるか増大していくサイクルにあるかの違いだと思う。1月、2月は厳冬の寒さを、増えていく太陽エネルギーが補っている感じがする。
でも晩秋~初冬の時期は、募っていく寒さに加えて、日もまだ短くなっていくので、僕はちょっと苦手。
冬が苦手なのではなく、この時期が苦手。
一番好きな季節は、どんどんエネルギーが高まって、木々も青くなっていく4月から6月の夏至くらいまでかな~。
ということで、今までこの時期になると無意識的に生命力を増大させるようなことを何かしら行なっている。
感情的な問題を抱えている時でも、『生命力』を大切にしているとその問題に直面して乗り越えるだけのエネルギーが得られる。だから、生命力の源である、
●太陽
●自然
●運動
●深い呼吸
●質の良い食べ物
●エネルギーを意識的に取り入れるエクササイズ
などとつながっていくことが大事なんじゃないかと思う。
そしてなるべく、生命力を減退させてしまう行為や、嫌な気分になるニュース情報などは避ける。これは、特に病の状態にまでなった時はすごく大事になってくる。
あと寒くて肉体に力がない時は性エネルギーを放出し過ぎない、これ、男性は結構大事ですね、多分。
11月の始め、テレーズのHさんにリーディングしてもらったとき、実は『食生活にたいして、上の人がちょっと心配してるみたい・・・』というメッセージももらったけど、僕はメンタルな指摘とか過去世の情報の方にばかり注目しそこはあまりちゃんと受け取ってなかった。おかんか~い!?みたいな(笑)
『お酒はために結構飲むかもしれません。朝はコーヒーだけで、だいたい二食です』というと
『あーそれちょっと負担になってるかもしれないですね。新鮮な野菜とか果物、朝おみかんをちょっとむいて食べるだけでもいいので』
『野菜ジュースでもいいんでしょうか』と尋ねると
『ジュースもいいですけど、加工のプロセスが入ってますから、やっぱりそのままの素材のものを食べるのがいいです』ということだった。
でも朝食抜きが長く、慣れてたのでなんとなくそのままだったけど、ある本で生命力を増加させるには生の野菜や果物、発芽穀物がよいと書かれていて急にスイッチが入りやってみたくなった。
スーパーに野菜買いに行くと、気になったのはカイワレとか、ブロッコリーの若芽、豆苗とかのスプラウト系。これらをたくさん買い、ポン酢や、オリーブオイルかけてむしゃむしゃ食べると、うまくてうまくて、体のスッキリ感が尋常ではなかったので、スプラウトにしばしハマった(*゚▽゚*)
あとはりんごとかバナナ、大根、人参、じゃがいもなんかも一緒に食べると、お腹が結構ふくれて満足する。
若干、小動物になった感は否めないが、いや~野菜最高!(笑)
やはり男は草食でないといけません!なんつって。
やはり肉食べて元気になるという発想は、どっか刷り込まれてる感じがする。
僕もベジタリアンではなく豚肉、チキン、魚は好き(なぜか牛だけパス)だけど、このスッキリ感はない。
多分、よく言われるようにエネルギーは肉類にもあるんだろうけど、肉の消化作業自体に使われるエネルギーが大きくなって、「重たい」感覚になるんだろう。
肉魚類はお亡くなりになってから結構な時間がたってるご遺体をいただく感じだけど、スプラウトは、完全に育ってる途中のものなので(つまり生きたまま丸呑み)多分プラーナを直接食べてる感じになってるんじゃないかと思う。実際にやってみて、やっと『新鮮な野菜とか果物、そのままの素材で』というシンプルなメッセージが腑に落ちてきた。
あと、「何か形あるものを食べて、元気になる」というのはとても人間的な思考パターンなのでわかりやすいけど、実は太陽を浴びて気持ちよくなるとか、大地とか自然のエネルギーで爽やかになるということも、すべてが実は「生命力」を取り入れるということとつながっている。
現代の科学ではこの「生命力」という実態を現す言葉ってないだろう。
だから自然の中で心地よくなることはマイナスイオンとか、別の言語に置き換えるわけだけど、東洋の体系や、また神智学とかでは「気」とか、「プラーナ」とか、「エーテル」とか、運動や食事や気功やそのすべてによって心地よくなる作用の原因となるものを一元化して表現する便利な言葉がある。
それらの本質は遍満している『生命力』だ。
だからすべてを生かすエネルギーは、食べ物だとか、あるビタミン剤とかに限定して存在しているわけではない。
こういう『生命力』を実在として仮定することは大きなメリットがある。
というのは、エネルギーをいつでもどこにいても補給されて生きているという認識にこころを開くことができるからだ。
前の、前の総理大臣のご夫人が、手を伸ばして太陽の光をぱくぱく食べるというあのイメージですね。。。
感情や思考体の癒しや変化のためには、それを下支えるプラーナ体のある程度の強靭さが必要になるのかもしれない。最近は、考え過ぎたりすると、なるべくプラーナ体や肉体を動かす方に頭を切り替えるようにしている。
しばらくはこのレベルの生命力も感謝し意識しつつ、毎日を過ごしたいと思います。
今回は長くなりましたー読んでいただいて感謝♪ヾ(@⌒ー⌒@)ノ

今まで、フラワーエッセンスとかにはあまり興味がなかったんだけど、最近『バイブレーショナル・メディスン』という分厚い本を読んでることが原因で試しに何本か買ってみた。
米国の医師が代替医療と現代医学を統合すべく、執筆したもので結構医学的専門用語に溢れ読みにくい部分もあるのだが、言わんとすることはおおまかに把握できた。鍼治療や、ホメオパシー、フラワーエッセンス、サイキックヒーリングなど肉体以上のレベルに働きかける治療法の理論的根拠やその妥当性を論じ、現代医学の断片化に警鐘を鳴らしつつ来たるべきホリスティック医療のビジョンを提示している。これを読むと、フラワーエッセンスはおまじない的な気休めではなく、効果があって当然だと思えてくる。
相方のうりぼー

は、今まで森の魔女から買ったものを何本か飲んでいて、「夢見がすごく激しくなったぼー」とか、「急に創作意欲が湧いてきたのしよ~」とかいうことを時々聞いていたけど、否定はしないものの、ふーんそういうものもあるんかねーと若干距離を置いて傍観していた感じだった。
うりぼー曰くなんでも伝統的なバッチフラワーレメディよりも、オーストラリアなんとかというエッセンスの方が効果がわかりやすく感じられたそうだ。
『バイブレーショナル・メディスン』を読んで、最近インチキだとかなんだとか話題になっていたホメオパシーのメカニズムとか簡単な理論的背景が初めてよく理解できた。
今までの僕の理解で言うと、ホメオパシーというのは微量の毒物を摂取することで、からだの調子がよくなるもの?とざっくり不正確に認識していた。
しかしかなり違ってもともとは例えば、ホメオパシーでマラリアを治療するとき、健康な人に投与するとマラリアのような症状を発症する『物質』をマラリア患者にものすごく微量に与えることで、症状が軽快するという現象をもとにしているらしい。
面白いのはここからで、その物質はものすごく希釈に希釈を繰り返したものを使用するわけだけど、なんと薄めれば薄めるほどその効果は強力になり、最終的にもとの物質の分子が溶液中に一個も残っていないほど薄めても効果を発揮するということだ。もとの物質の分子が一つも残っていないというのなら、いったい肉体に作用しているのは何なのか?
それはおそらく水に記録されたその物質の波動、バイブレーションなのではないかと著者は推測する。物質的な科学を信奉する人にとってはそんなわけのわからない、観測できない「バイブレーション」が医療として効果を発揮するということは認めがたい。ホメオパシーが怪しがられるのは、そんなところからなのだろう。
フラワーエッセンスも、このような水に花のバイブレーションを転写するという発想をもとにしたもので20世紀にバッチ博士が考案したものだ。バッチはある種の花が、ある精神的な症状や、アンバランスに対してそれらを治療する効果があることを発見し、それらの花を浸した水から38種類のエッセンスを開発した。これも花の成分を摂取するという発想ではなく、その花の波動を転写するために水に浸す。水はもともと、いろんなエネルギーパターンを吸収・保持しやすい性質を持つからだ。水辺に霊現象が多いというのも、水のそういう性質からきているのだろう。おまけに水はそのまま体に取り込むことができる。「メディスン」と水は切り離せない。
これが現代のフラワーエッセンスのルーツだけど、こういう発想をもとにした治療法は古代エジプトを始めとして世界の各地で時代を越えて受け継がれ、発生と消滅をくりかえしているようだ。
今では、エッセンスも多様化して、植物はもちろんのこと、イルカや鯨のような動物、鉱物、そして五次元のなんとかとかアマテラスエッセンスとか、シリウスエッセンスとかなんかそんなものまで販売されてるようだ。コルテPHIブランドの「イルカ」を今飲んでるうりぼ~によると、最初津波や水による浄化による夢を見て、以後毎日のように変わった印象に残る夢や、激しい夢を見るという。
これだけ多様なラインナップを見ると、なんでもありか!!と少し引きたくなる部分もあるけど、すべてはバイブレーションなのでそれを液体に転写するということは原理的には可能な気はする。まあ、液体でなくても、本当は土でも、絵に描いても、たこ焼きに入れてもなんでもいいんだろうけど。
だから実は、バイブレーショナルメディスンはホメオパシーやフラワーエッセンスにとどまらない。
音を発したり、音を聴いたり、「空気の波動」で治療する音楽療法的なものも、バイブレーショナルメディスンだし、「ありがとう」や「ごめんなさい」「愛しています」など「言葉という波動」で浄化するオポノポノもバイブレーショナルメディスンだ。そして光のあるスペクトル帯域を用いて癒しを行うカラーセラピーもそうだと思う。
僕のイメージで言うと世界はいくつもの同心円状の波動が折り重なった、干渉波パターンで成り立っている。僕らは常にあらゆる波動から干渉され、そして万物に干渉している。神秘主義的な思考で語ると、そのおおもとは原初の対局する二つの波の相互干渉から生まれており、その相互干渉から生まれるホログラムは万物に宿る。これが「キリスト」、「神の子」だ。その波動世界は「無限」というゼロの意識上に発生している。それが神とか、創造主と呼ばれてきたリアリティだと言われる。AUMのMであり、父音の「ん」だ。
「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口より出てるひとつひとつの言葉によって生きるのだ」というイエスの言葉は、僕らを生かす根源的バイブレーションについて語っている。『言葉』とは、その根源では命であり、エネルギーであり、ロゴス(無限の叡智)であり、波動なのだ。
日頃、僕らはこの周波数帯域の中で、可視的には物質体しか認識できない。
しかしエーテル領域に関しては、気功をしたりすることで比較的容易に、「見る」ことはできなくても感じることはできる。最近鍼治療も受けたんだけど、これも基本的にはエーテル領域に働きかけるものだろう。エーテル領域に働きかける治療は、その周波数がより肉体に近いので感覚として感じやすい。
フラワーエッセンスは「バイブレーショナルメディスン」の著者によるとアストラル体→コーザル体にまで働きかけると言っている。アストラル体(感情体)とメンタル体(思考体)に影響する(つまり感情パターンや思考パターンが変わる、浄化・変容・活性化)というのはなんとなくわかるけど、コーザル体というのは魂本体のようなかなり存在のエッセンスに近いところなので、そこまでどのように効くと言えるのかは僕にはちょっとわからない。コーザル体の中心に、アートマ体(神なる自己)があるとされている。
他者のアストラル体をオーラのような形で『見る』には特別な能力が必要となるけど、自分自身のアストラル体は日々内なる目で感じられる。アストラル体に敏感になるためには自分の感情をしっかりと感じるという力が必要となる。それは『気づき』とも言い換えられる。フラワーエッセンスでも服用したとの自分の感情の変化をしっかりとモニターすることが勧められているようだ。
根本的に、バイブレーショナル・メディスンなどを用いたホリスティックな医療にはかならず治療を受ける人の能動的な姿勢が必要になってくる。患者自身が、自分のヒーラーにもなければホリスティックな癒しは成り立たない。
Medicine(外的手段) × Consiousness(内的意識 気づき・意図・信頼など)=癒しの度合い
というような公式が成り立つかもしれない。
内的意識を持つという責任が果たされなければ、ホリスティックな癒しは働きにくい。
ホリスティックな医療が成り立つためには、人の集合意識が外部志向から内部志向に転換することがハードルとして課せられているような気がする。
エッセンスは、ヒマラヤエンハンサーとアラスカンのブランドを何本か買ってみた。
明らかにわかりやすい効果があればまたレポートしてみたい。
どんなに大人になっても 僕らはアトムの子供さ
どんなに大きくなっても 心は夢見る子供さ
fe fe feel it fe fe feel it
いつでも100万馬力で みるみる力がみなぎる
だからね さみしくないんだ
僕らはアトムの子供さ
fe fe feel it fe fe feel it
Oh boy どんな時でも 君のことだけを
oh boy 考えていたっけ・・
意地悪する子がいたって
最後は仲良くなれたよ
あの子はどうしているだろ
今でも大事な友達
みんなで力を合わせて 素敵な未来にしようよ
どんなに大人になっても
僕らはアトムの子供さ
fe fe feel it fe fe feel it!
そして願いに答えてくれるんでしょう?
空の上?
どうしてどこにいても僕らの声は届くんでしょう?
それは天使たちの家は 愛だから なんです
愛というレンガででき
よろこびという屋根をいだいた
光る家だからなんです
愛 それは 人間の抱くただの感情じゃなくて
時空を越えた 彼らの家
僕らの故郷
原子のなかの不滅の国さ
だから僕らがどこにいても 彼らは僕らをつかまえる
天使たちは お空の上じゃなく
愛という「場所」から世界を見守っている
天使から隠れることなんて出来ないよ
だって僕らは愛から生まれたんだから
彼らは つまり 僕ら自身なんだから
だから君が何かに少しでも愛を感じるとき
君は天使の家にいるんだよ
ただいまの言葉は
ありがとう そして 愛しています
Dear angels, I'm home now!
2012 12 31

haitakadori
RT @LSDove: ネットには世界一周旅行の日本人によるアヤワスカ体験記が雨後のタケノコのようにあふれていますが、いままで読んだなかでこれがいちばん強烈でした http://t.co/px613otP
01-06 15:46
haitakadori
「身体をはった徹底的なパシフィズム(平和主義、反戦主義)が僕の理想です。九条死守・安保廃棄・基地撤廃というパシフィズムではいけないのか。丸腰ではダメなのか国を守るためではなく、パシフィズムを守るためならわたしも命を賭ける価値があると思います。」辺見庸氏 「明日なき今日」
01-04 22:24RT @moomin_valley: いつも優しく愛想良く、なんて、やってられないよ。理由はかんたん、時間がないんだ - スナフキン
01-04 22:10
どういう世界に入ってしまうのか少し心配だ。
頭近くのスピーカーから結構大きいBGMが流れてくる。
Nさんが近くに座り「ハーっ ハーっ」というその呼吸の速度に合わせて、僕も目を閉じてブレスを開始する。
「ハーっ・・・ハーっ・・・ハーっ・・・ハーっ」
閉じた目の裏でめまいがした時に見えるような光の模様がぐるぐると回る。
5分もしないうちからすぐに、手が指先から肩くらいに至るまで強く痺れ始めた。
やがてそれは頬のあたりや顎にも広がっていく。と、同時にエネルギーが入ってきた時に起こる、泣き出す前のようなしゃくり上げが時々出始めた。
「ウェっ ウエっ ウエっ(;_;)」
「はい、それをそのまま感じていってくださ~い」とNさん。
もう少し経つと、まったく寒くないんだけど胸から肩のあたりにかけて震えがつよくなってきた。
感じとしてはドキドキした時の武者震いの、強いの。でもそれが強すぎて、なんだか歯までガチガチ鳴り始めた。上半分痺れと、震えと硬直でなんだか深呼吸どころではなくなってきたので、声をかける。
「あ・あの~なんか震えて歯がガチガチして、呼吸するのが辛いんですけど」
「わかりました。じゃあ今からちょっとそのエネルギーを流すワークをしますね。私が今からまったく意味のない言葉を しゃべりますから。あとから続いておなじようにやってみてください。」と言うと・・・・
「アウオウイイエオロイエアウーウケリュオオアオアチュカカイエウー」と、原始人の言葉のようなものが聞こえてきた。
僕も若干、恥ずかしさが残りながら「オウオウオウオアアアエエイウレムアカカアエエエ」みたいな感じで続ける。
「そう、もう頭がおかしくなったみたいな感じで、少し続けてください。」
いわゆるひとつのジベリッシュというやつ??
(↑↑一人でやってもいいし、グループでやってもいい。目を閉じ、意味のない音声"ジベリッシュ"を話し始めなさい。15分~30分ジベリッシュのなかに全面的にはいり込みなさい。あなたの内部の表出されなくてはならないものをすべて表出することを、自分自身に許しなさい。何もかも投げ出すのだ↑↑ oshoのメソッドのひとつ)
「次にね、手をバタバタさせながら、こう言ってみてください。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ~~っ」
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だー嫌だ、嫌だ!! 嫌だっ!!!」
続けてるうちに言葉に感情がこもり、声も大きくなってくる。
そのうち突然に、どこかでスイッチが入り、泣き崩れてしまった。
でもこれで手や、顎のあたりのブロックが解除されたのか、呼吸はしやすくなってきた。
しばらくして、音楽が変わった。
そのイントロを聞いた瞬間、僕はまた泣き出すしかなかった。
それはクリムゾンコレクションのメロディだった。
I先生の修道会やリトリートでいつも流れていたBGMだ。
なんだかわからないけど、すべてつながっている、そしてすべて何か大きなものに面倒をみてもらっている、そんな想いが感極まって溢れ出した。
その感情の流れをすべて言語化するのは難しいけど、瞑想会の会場から急にふらっと立ち去ったままだということ、どうしてそうなってしまったのかという葛藤、M会や、I先生へのいろいろな想いが一度に溢れたような感じだった。
そのあとエネルギーの感じがよくなった。
上半身はまだ全体的に強く痺れているけど、それは苦にならずむしろ気持ちいい。
今度は急に楽しく、なにかはしゃぎたいような気持ちが訪れ
「あは、アハ、ハハハッ、ハハハハっo(^▽^)o」と笑い出した。
笑い声がおさまっても、気持ちはとてもいいままだった。
顔がずっと笑ってるのが自分でもわかる。
アイソレーションタンクに入った時も、気持ちよくてこういう感じだったけど、少し違うのはただくつろいでいるだけではなくエネルギーの流れに貫かれ、浸され、一体となってる感じが強いことだ。
このエネルギー感が自分の感情なのかなんなのか、どこから来ているのかも曖昧になっている。
生(なま)の感情
少しきゃぴきゃぴしたような、はしゃぎたいような気持ち。
よろこびがあふれてハグしたい気持ち
みんな可愛く思える
理性や、いつものペルソナの奥にある感情の深い立体性に触れ、それが解き放たれたような感覚。
自分がいつも自分だと思ってる自分が、なにか無味乾燥な人格のように感じられる。
Nさんがハートチャクラのあたりを円を描くように撫でた。
「あなたはあなたのままでいて大丈夫です。あなたの感じることを、そのまま感じて大丈夫ですよ」と言う。
そのあと、
違う曲にすでに変わってるBGMに合わせて、「あああああああああーーーーー」とか「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」とか声を出してみた。音の宇宙に浸って、自分てなんだったのかよくわからなくなってくる。なんか変。
ちょっといっちゃってる。身体はむちゃくちゃ痺れてるし・・・・
来るかな・・・あれ来るかな・・・・恐怖・・・冷たい感覚・・・・いつ来るかな・・・・
そんな思考がループ始める。
「・・・ちょっと、不安モードになってきました」と声をかける。
「その不安を体で感じられますか?」
「なんか痺れすぎていて、それを感じるのはちょっと・・・でも、これ実際に不安というよりも、不安だって思ってるだけなのかも。不安が来るという思考だけかもしれないです・・・あはははっ」とまた笑う。
「そろそろ時間になったので、呼吸は普通に戻していってください。そして静かに横になって内側で起こることを感じていましょう」
と言い残し、Nさんは部屋を出て行った。
終了後、椅子に座りまた熱いハーブティーをご馳走になる。
「かなりエネルギーが動いていたと思います。泣いていらっしゃった時はどんな感じだったんですか?」
「あのかかってたクリムゾンコレクションの音楽、前お世話になっていたところの瞑想会とかでよく使われてたもので、、、それを聴いたとき神様とか宇宙とか、そういうものに全部面倒を見てもらっていて、全部つながってるんだというのが突き上げてきて感極まってしまったような感じでした」
「そうですか、、、Mさん自身がね、その宇宙であり、神様でもあるわけですから全部つながっているのはある意味で当たり前のことなんですね」
「あといろんなものをハグしたいような気持ち・・・」
「はい、あらゆるものをハグしてください^^」
「痺れなんですが、上半身全体が痺れていたんですけど、足はそれほどでもありませんでした。」
痺れが感じられたのはお尻のあたりまでだったので、足はそれほどブロックがないのかと思った。
「先ほど私が足に触ったとき、左足が硬いようだったので、おそらくそこまで(呼吸が及ばず?)エネルギーが回っていなかったのかもしれません」
「このブレスワークってやっぱり一人でやるのはちょっと危ないんですか?」
「それはよく質問されることなんですが、、どうしてダメと言われるかというと一人で長くやってた時に予想がつかない突発的なことが起こるとパニックになってしまうからだと思うんです。でも、私としては例えば、5分、10分、深く早い呼吸を続けてそのあとゆっくり横になって何が起こってるかを見つめるというくらいならば安全だと思います。ただ、ここでやってるようのは私の意識と共鳴してのセッションなのでそこは少し違ったものになると思います。」
「東京に帰っても継続してブレスワークをしたいと思うんですが、Nさんのお知り合いであっちでされてる方はいらっしゃらないんですか?」
「知らないんですね~これが(^_^;)、でも近々あちらに出張してのセッションは行うかもしれません」
「そうですか、、、では機会があればまたよろしくお願いいたします<(_ _)>」
という感じであっという間に2時間が終わった。
はっきりしたビジョンが見えたりとかそういう体験はなかったが、感情の動きがダイナミックで泣いたあとに、すぐ笑い出すということがまったく何も不自然ではない、一連のつながった流れのように思えた。
これだけ豊かな運動が自分の中に感じられるのは、うれしいし、普段はやはり知性というか、頭の中でこちゃこちゃ考えてる部分を自分だと思って、感情のよろこびをかなり封印していることが理解できた。そして、そのよろこびというものは、「悲しみ」や「怒り」や「恐れ」を感じないようにしているとそれと同じようにしなびてしまうものなのだと思う。それら負の感情のビッグ3を全力で受け止めると、その度合いに応じてよろこびも生き返ってくるものなのではないかと思った。
笑ってるときや、叫んでるときや、ジベリッシュも僕の表現のトーンに合わせてNさんもエコーしてくれるのでやりやすかった。
あと、うちに帰ってからジベリッシュが気になり調べてみた。、
マインドはいつでも言葉で思考する。ジベリッシュは、この絶えざる言語化のパターンを粉砕するのに役立つ。あなたは思考を抑圧せずに、ジベリッシュによって投げ出せる。あなたのからだにも同じく豊に表現させなさい。そうしたら、同じく15分~30分うつぶせになって横たわり、母なる大地と溶け合っているかのように感じなさい。息を吐き出すごとに、自分がからだの下の大地のなかに溶け込んでゆくのを感じなさい。
これは浄化作用の高いテクニックで、表現に富んだからだの動きを促します。ラティハンをするデヴァヴァ二瞑想とは区別されるものです。
「ジベリッシュ」という言葉は、スーフィーの神秘家、ジャバールからきている。ジャ バールはどんな言葉も話さなかった。彼はただナンセンスを言っていただけだ。それ でも彼には何千という弟子がいた。なぜなら、彼の言っていることは、
「あなたのマ インドはジベリッシュ以外の何物でもない。それを脇に置くことだ、そうすればあな たは自身の存在を味わうだろう」
ということだからだ。
ジベリッシュを使いなさい。意味のある言葉を話さないこと、あなたの知っている 言語を話してはいけない。もし中国語を知らないなら、中国語を話しなさい。日本語 を知らないなら、日本語を話しなさい。ドイツ語を知っているなら、ドイツ語を話し てはいけない。
初めて自由を手にしなさい。あらゆる鳥たちが持っているのと同じ自由を。論理性 や理由づけ、意味や重要性などは気にせずに、ちょうど、鳥たちがそうしているよう に、ただあなたのマインドにやってくるものを許しなさい。
「Live Zen」より抜粋
初めて一人で長時間やってみたらとても面白かった。
なんか、普通の言語をしゃべり続けていくことで蓄積されるストレスを解放する効果があるような気がした。
これやると、意味のあることはまったく喋ってないんだけど、エネルギーは放出されているので、この感じは動物とか子供とか、外人さんとコミュニケーションする練習になるんじゃないかと思った。普通異文化を学ぶ場合は異なる言葉を「正しく」学ぼうとするんだけど、言語以前の場に出るこのようなテクニックもなにかしらの役に立つんじゃないかと思う。実は、意味のあることを常に喋ってるストレスって相当かもな~と。子供の時はよくやるんですけどね、こういうむちゃくちゃな発話とか、歌とか。
これをやるといつもの言葉の使い方や、抑揚が、ある無限のスペクトルの中のある限られた部分だけしか使用していないということがよくわかる。ジベリッシュをやった翌日仕事中、たまたま外人さんとボディランゲージでコミュニケーションする機会があったけど、なんかあんま緊張しなかった気がする。
ということで、ブレスワークは激しいけど、それだけ気づきも多そうなので、今年は機会があったら継続的に体験したいと思います(*^^)v
haitakadori
RT @azmax777: 嫉妬さん、今まで嫌っていてごめんね…(?)こんなせりふが大事なんです。【ココヘル137】私はなぜ激しく嫉妬してしまうのか?(感情のコントロール) http://t.co/GrmfZOp9
01-02 22:36RT @kohsen: 2013:シリウス元年。精神が喪に服した時代も終わりを告げ、永遠の十字架が開き始めますね。ほんとにおめでたい。シリウスとはOCOT情報では「重次元に反映された力の反転作用」を意味しますが、さてさて何が始まることやら。全開で行きます。
01-02 22:34
haitakadori
RT @BiggyNeptune: http://t.co/KVHlJOwZ 斉藤和義さんのストラップ、イイネ!「Nuke is Over」紅白にて。
01-01 19:15
あけましておめでとうございます*。:.゚ヽ(´∀`)ノ゚.:。+゚
2013新春第一弾目はブレスワークセッションの記録にしました。
二回に分けます。
今回録音機材を忘れてきたので、記憶をもとにしたおおまかな再現となります。
あらかじめご了承ください♪
Nさん発言=オレンジ文字
28 Dec 2012
僕は中程度の方向音痴なので初めての場所では迷ってしまうことが結構ある。
あの日もセッション開始時間ぎりぎりに到着したんだけど、それは道に迷ったからではなかった。
京都、大阪のあたりを走っている京阪電車の乗り換えを間違えてしまったからだ。しかも二度も・・・
間違った電車に乗り明後日の方向へ向かってることにすぐ気づき、次の駅で引き返したんだけど、
また同じ明後日行きの電車に乗ってしまい、また引き返し、ようやく目的地へ向かうものに乗れたのだった。
ちょっと早目について、どこかのカフェで時間をつぶそうと思ってたけど、そんな余裕はなくなり早足で歩いて
なんとか5分前くらいに到着した。
ピンポーン
部屋に通され、入れていただいたハーブティーを、ずずず~と飲み、ほっと一息。
「この前のカウンセリングから調子はいかがですか?」とNさん。
「はい、やっぱり湧き上がってくる感情を自分のものとして感じることを許していくと、それほど以前のように感情によって動かされなくなったような気がします。自分の中で何かがまとまってきたような感じで」
「そう、どんな感情もエネルギーの動きに過ぎないと・・・いうことなんですね。今朝私も久しぶりに自分の感情と向き合う機会があったのですが。ファーストフードのお店で頼んだホットケーキが冷たかったんです。それで、店員さんに言ったんだけど、その自分の口調がどうしても怒った感じになってるわけです(笑)」
「冷たいホットケーキって嫌ですね(笑)Nさんでもそういうことで怒りを感じられることはあるんですか?」
「そりゃあ、あります。人間ですから。でもそういったものもただの宇宙のエネルギーの動きに過ぎないことも確かなんですね~」
「非個人的なものということでしょうか」
「そう、非個人的なものなんです。だって「私」という感覚自体が実は非個人的なものですから」
「僕は今は、自分を越えるというよりも、自分を愛したり、一個人としてまとまった形で充実して生きたいという思いの方が強いのですが、自分を愛するということと、自分を超えるということの関係はどうなってるんでしょう?」
「はい、それは私も探求していたテーマでして。。。ある人はこう言いますね。自分を十分愛してからその先に、自分を越えるという段階が開かれると。でも、自分を愛しきってなくても、自分を越えるということが体験として訪れる場合があります。これはだからね、どっちも同時にやるしかないと思うんです。越えるということも知ってしまってる場合は」
「なるほど」
そうなのだ、確かに自分を越えるという体験は、その時自分自身を愛していなくても突然自分を飲み込んでいくことがある。そういった時には、自我は実は存在してないということが直感されるし、自分が物事の主体ではないという現実に入っていく。僕もそれを擬似的に体験した時は、自分をそれほど愛してなかったけど、絶対的な愛とか調和がすでに存在しているということは気づいた。
自分を愛することと、超えることを同時にやることは、つまりセラピー志向(パーソナルなレベル)と目覚め志向(トランスパーソナルなレベル)の統合でもあり得るのだろうか。
続いて、前日の晩、また父親と意識は脳の産物に過ぎないかどうかということを話していた時のことを話した。なぜか実家に帰るたびにこのような話しをすることが多いが、僕はこの種の議論をしすぎると嫌な気分になってくることが多かった。でもその日の夜は、あることに気づいた。
「なんか、こういう議論のようなやりとりをする時、今まで無意識に父親の考えを変えようとしていたことに気づいたんです。でも昨日思いました。別に死んだらそれで終わりだという考えがあってもいいし、それは別に悪いというわけではない。そう思ったら、死後の意識があるかないか、という思考の対立も包み込んだ空間を感じることができたような気がしたんです。」
「はい、それはとてもいいことですね。死んだら全てが終わる、死んでも意識が続いていく、それらはどちらも思考に過ぎないんです。」
「ある種のスピリチュアリティの人たちは言いますよね。死んだら霊界に行って、また生まれ変わり、転生を繰り返して学んでいく。魂がないと考える人は、無知におかされてるとか」
「それはそこに分離した自己というものがあるからこそ、自分と比べてあの人は無知だとか、劣ってるとかいう発想になるんですね」
「確かに・・・」
ゲイ・ヘンドリクス著『コンシャス・リビング』に次のような一節がある。
思考や意見や立派な視点も、ひとたび自分と一体化してしまうと罠へと変わりました。何かについての自分の視点が正しい、あるいは間違っていると判断したとたん、私は視点をその場所に固定し自らの自由を奪ったのです。自分の意見を主張し、私は自分の視点を擁護することに人生のあまりにも多くの時間を費やしてきました。そしていまようやく、それらはみな同じものだったことに気づきました。意見も視点も自分の足を釘づけにし、踊る能力を制限する糊のついた床だったのです・・・・・・
真の安全とは、あらゆる意見を包み込んでくれる空間の中にしか見いだせません。この空間のなかで、私は自分のあらゆる意見と他のすべての人々の意見とがまったく同じものであることに気づきました。どの意見も世界をあるひとつのポジションから眺めたものでした。私たちはみな背を丸めて前かがみになり、自分のポジションに固執し、股の間から後ろを眺め、自分はありのままの世界を見ているのだと思っているのです。こんな姿勢をとることによって、私たちは自分の認識能力を狭めるだけでなく、まるで蹴ってくれといわんばかりの格好の的にもなっていたのです。そして、間違いなく人生は私たちに蹴りを入れます。私たちがもっと拡大し、物事をありのままに見られるようになるまで、人生は私たちに蹴りをいれ続けるに違いありません。
Nさんとの会話では時々、話しが途切れて沈黙が流れることが多かったけど、そういうことはあまり気にされてないようだった。この沈黙のスペースを感じていると、馴染みのあったパキパキした意識状態に次第に引っ張って行かれるようだった。
しかしこれが僕は少し怖くもあった。
Nさんはこのエネルギー感が人に与える影響もよくご存知のようだった。
「今こうやっていてどういう感じですか?」
「うーんちょっとトリップしてきました」
「トリップしてきた?」
「はい。こういう感じになると不安になってきて漫画読みたくなったり、テレビ見たくなったりすることがよくありました」
「はいはい、わかります。その時もね、その不安をしっかり見つめる、体の感覚として感じるということを是非やってみてください。
では時間なので、そろそろブレスの説明をしましょうか。」
「はい」
「無理のないレベルで深くて早い呼吸を続けながら、その時に沸き起こってくる感情を感じてください。
よく手足が痺れたりしますけど、これは今まで滞っていた部分にエネルギーが流れ始めた時に起こるので大丈夫です。ただ感じていてください。動かしたいと思ったら体を自由に動かしても大丈夫です。何か声を出したくなったら、出してください。ぎゃーって叫びたくなった時は、枕を口に押し当てて叫んでください(笑)」
「以前受けたブレスワークでは、みんな結構わーぎゃー騒いでいたんですが・・・」
「はい、私もそういうブレスワークは体験してますが、どうも中毒性があるみたいなんですね。騒ぐことによって、自分で感情をそのまましっかり感じるということができなくなる場合があるんですよ。だからここでは自分が感じることを大事にしています。」
前にやったところでは、シッター(見守る人)とブリーザー(呼吸する人)のペアを何組かつくり、時々主催者の人がやってきて胸のあたりをぐいぐい押されたり、「何か出かかってるぞ!叫べ」と誘導されたりしたけど、Nさんのやり方はなるべくその人の主体性とか感じ方を重視するやり方のようだ。同じブレスワークでもいろんなやり方があるんだなと思った。
さて、いよいよ、ブレス開始!!(`・ω・´)
つづく
haitakadori
深夜疲れ気味でで空港に到着したあと、電車を待っていると近くに親子連れ。8歳くらいの子供がお母さんに「松岡修造ってプロレスラー?」と尋ねその母が「・・ちげーよ!」と言ってるのを聴き一人ニヤニヤがしばらくとまらなくなった。しょうもないイメージが浮かんで浮かんで・・
12-31 22:26