スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

06/27のツイートまとめ

haitakadori

RT @miracleuribo: 初の陶芸体験でつくったマグカップと小鉢。感慨深いよ~(*^O^*) http://t.co/tqdKACTwek
06-27 13:38

スポンサーサイト
未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/06/28 00:00

06/23のツイートまとめ

haitakadori

RT @Michael_Ende_jp: 望みというのは、好き勝手に呼び起こしたり抑えつけたりできるものではない。そのための意図がよかろうと悪かろうと、望みはあらゆる意図よりはるかに深い深みからおこってくる。しかもそれは、ひそかに、気づかないうちにおこってくる。 『はてしない物…
06-23 16:12

RT @Michael_Ende_jp: 「とうとう最後の望みを見つけたのね。」おばさまはいった。「愛すること、それがあなたの真の意志なのよ。」「でも、どうしてそれが僕には出来ないんだろう、アイゥオーラおばさま?」「生命の水を飲んだら、できるようになるのよ。」 『はてしない物語』
06-23 16:11

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/06/24 00:00

時のゆらぎの中へ (ツオルキンの不思議)

 
 今年から、『丸一年カレンダー』っていうのを買って壁に貼っている。

 これは月の満ち欠けや、春分、夏至などが一目でわかるすぐれものだ。

 旧暦もちゃんと記されている。 

 
 130618_1457~01



 例えば、旧暦だと本日は皐月(さつき・五月)の10日。
 旧暦は月の満ち欠けと完全に一致しているので、新月が1日(朔)になる。
 今日は新月から数えて10日目ということだ。
 日付にも、月を基準とした意味が宿る。

 旧暦を意識してみて気づくことは、現在広く使われているグレゴリオ暦の『月』や『日』というのはほとんど天体の運行=宇宙のリズムとシンクロしていないということだ。

 一年の日数365日は、太陽の周りを一周する間に地球が自転する回数なので、これは宇宙のリズムによってはじき出された数字だ。だが、これを12分割して、28日~31日が1ブロックの月にわけるというのは天体の運行に基づいたものではない。
 
 旧暦の場合、5月と6月の間には、だいたい29日周期の月の満ち欠けが新たなサイクルに入ったという天体とのシンクロがある。
 でも太陽暦の5月と、6月の間をわける天体現象というのは存在しないのだ。

 現在使われている暦、時間、曜日というのは自然には存在しない、架空の区切りによって成り立っているようだ。本来「時間の名前」というのは何か宇宙現象とシンクロして名づけられるものだと思うが、例えば
 
 月曜~日曜のサイクルと言うのはだいたい先進国では 月~金=労働 土・日=休み くらいの意味しか持っていない。

 意味合いを持たせようとするならば

 月曜=あ~また一週間仕事か 木曜・金曜=ようやく終わりが見えてきた! 水曜=中だるみ (笑)

 みたいな労働と、休暇を基準とした意味づけくらいしかできないのが現状だ。
 
 ちょっとフラットで夢が無い。
 で、もちろんこれも人間が作成したサイクルなので、宇宙のリズムとシンクロするものとは言えない。
 でも社会的合意によって時間の目安になっている。

 一年=365日は、宇宙とシンクロする妥当な基準だし

 一日(地球が一回転する長さ)というのも妥当な区切りだと思うが、

 1日=24時間になってくると、これも話が変わってくる。

 よく「一日は24時間です」というけど、正確には「一日を24時間という単位にわけちゃいました」というのが正しいのではないだろうか。

 24時間という単位に妥当性を持たせるためには、宇宙現象とのシンクロが必要になってくる。

 時間と言う単位を構成する最小の要素「秒」という長さに、客観的な根拠があるかどうかということだ。
 もし、「秒」が宇宙的根拠を持つなら、一日は24時間ですと言えると思うけど、それがないなら一日を24時間に、さらに24×60の、1440分に、さらにそれを86400秒に人為的に分割したというほうが近い。

 1秒という単位は、何かの自然現象とシンクロしているわけではなく、ただ1日というマクロの時間を、60で切り刻んで成立しているリズムなのだろうか。

 かち・・かち・・・かち という秒針のリズムはよく時の象徴として扱われるけど、実際はある種の「フィクション」とも言えるような気がする。

 この辺はよくわからないが、確かなことはグレゴリア暦を使うことで、僕らは本来区切りなど無いところに区切りをつくり、大事な区切りのあるポイントに無自覚になっているということだ。

 
 では、宇宙のリズムとシンクロした暦はあるのかと考えたとき、最近よく言われているのはホゼ・アグエイアス博士が古代マヤ暦をもとに考案した「13月の暦(マヤンカレンダー)」だ。

 最近詳しく知りたくなり、関連書を買ってみた。

 この暦では、13日×20=260日がひとつの大きなサイクルを形成していると考え、これを「ツォルキン」と呼ぶ。

im_tzlkn.jpg


よくマヤ占いなどで自分の太陽の紋章は・・・というのがあるけど、これは自分の誕生日がどのツオルキンに当たるかで決められる。

 ちなみに僕は、KIN222 で、白い磁気の風になる。

 キーワード

「インスピレーション」「繊細な感性」「スピリット(霊)」「達者、感動を伝える」
 
(右から2列目の、上から二番目のKIN)

 性質としては、こういうんらしい。(KIN解説のサイトより)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


●つながりが大事
人との共感やつながりをとても大事にします。
同じような気持ちの人とはすぐ仲良くなれます。

●メッセンジャー
伝達本能が高くいいと思ったら伝えようとするメッセンジャー能力が高い人です。
自分がいいと思ってるのだから、相手にもいい情報だと思ってしまい、強引に話を進めてしまうところも。

●繊細な人
繊細な感性の持ち主さんなので、なかなか相手に伝わらず、傷つき、
それを隠そうとやせ我慢したりします。
意地っ張りで、あまのじゃくで、毒舌をはくことも。笑。

●コミュニケーション力
感じることが繊細なため、人に伝わりにくい場合も。
言葉で表現しにくいときには、芸術や音楽で表現してみてください。

●霊的なパワーの持ち主
人の心の動きに敏感です。他の人が感じないようなことまで感じる人です。
人に限らず、芸術(絵・音楽)からも感じることができます。

興味のないことには一切聞きません。

感性が鋭い人が多いので、感性をより高める環境を作るとエネルギーが更に増加します
疲れたら音楽を聞きリラックスしてください。
霊感が強い人も多いので、マイナス思考に引っ張られずポジティブ思考をココロがけてください。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 このKINの著名人は・・・と辿ると『美輪明宏さん』が出てきたのでちょっとビビる。

 KINは260個あるので、同じKINになる確率はだいたい0.3パーセントくらいだ。
 
 他に「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(映画化→ブレードランナー)のなどの著者で、小説家のF・K・ディックもKIN222だということが判明。
 ディックは昔から気になる作家だったので単純にうれしい。美輪さんももちろん好きだし、以前から気になるお2人と同KINっていうのはやはりアガるものがある。他、ウェイン・ダイアー氏などもKIN222のようだった。 

 ツオルキン表を見ると灰色に塗りつぶされてる日がたくさんあり、これはGAP KINと呼ばれる。

 KIN222もGAP KINだ。

 カレンダー作成者のアグエイアスによると、これらの日は「銀河の活性化の門」であるらしい。
 ある解説者はこれを黒キンと呼び、この日に生まれた人は大変な人生を歩んだり、まわりを振り回すことがあるという。
 でもそうではなくただ単に、現象が加速するポイントであるという意見もあるようだ。

 僕個人で言えば、まあちょっと癖のある人生であることは間違いない・・・と思うけど。

 調べてみると
 太平洋戦争終戦の日(KIN64)や、長崎原爆(KIN58)3・11(KIN77)はGAP KINだけど、広島原爆(KIN55)、9・11(KIN 251)や阪神淡路震災(KIN164)は通常KINだった。データが少ないので災害や、巨大な出来事と関係するのかどうかよくわからない。
 
 GAP KIN生まれ同士は仲がいいことが多いと言う。

 
 マヤンカレンダー的には、この宇宙は13・20というリズムで動いていると考える。

 12・60という時の周波数は人工的なもので、自然界には存在していないという。

 12・60というリズムはもしかすると、宇宙と人間とを断絶させる一種のバリアのようなものだったのかもしれない。

 昔から西洋では13という数字は、不吉な数、タブーの数とされてきた。
 しかしよくかんがえるとそれは、12という既成の周期や単位を、ひとつこえでた位置にある数だ。


 僕はよく今までシュタイナーの言う7年周期や、12年周期で自分の人生を見直し、区切りとなる年にそのような出来事があったか確認してきた。でも、マヤンカレンダーのビンゴ感は、これらの周期より、自分のサイクルにより正確でぴったりしているように思える。

 まさにひとつの13年周期が終わる狭間で、僕は住む土地を大きく変えたり、重要な出会いをしたりしていた。

 13年周期といっても、単純に誰もが13歳、26歳、39歳で人生が動くというわけではない。
 ちょっとややこしいけど、その周期はその人が持って生まれた銀河の音によって変わる。
 その人の生まれたツオルキンには1~13までどれかの数字が与えられている。
 毎年この数字はひとつづつ増えていく。
 もって生まれた音が13になる年に、ひとつのサイクルが完結するのだ。
 僕の場合は音1をもって生まれたのでわかりやすく、13歳、26歳、が区切りなんだけど、例えば音5をもって生まれると、1歳~2歳で 音6に支配され、2歳~3歳で 音7に・・・となりそれが音13になる、8歳、21歳、34歳が区切りの年になる。
 このように、マヤンカレンダー的には、何歳で区切りがあるというのは人によって違うので一概には言えない。

 
 自分のツオルキン太陽の紋章と銀河の音は、こちらのサイトとかで調べられます→http://mayareki.biz/


 マヤンカレンダーによると、2013年7月26日から、新しいサイクルが始まる。
 それは銀河の同期というサイクルで、直接この惑星が銀河と同調し始めるらしい。 


 それが本当なのか、どういう意味を持つのかは僕にはわからないけど、今年から旧暦併記の暦を使い始めたり
 いまさらマヤンカレンダーを調べたりしてるのは、なんか新しい時間のリズムに馴染もうとしているからだと考えられなくもない。

 このごろよく「時のゆらぎの中で」という言葉を思い出す。
 それは2年ほど前地元のホールであった小さな写真展のタイトルだった。
 偶然前をとおり、無料なので入ってみると、中は花や自然の写真が展示されていて、生きてる花々もたくさん飾られていた。
  
 あの時も確かコルマンインデックスが2011年11月で終了することが話題になっていた。
 その写真展のタイトルは、そんなマニアックな世界からひっぱってはいないだろうけど、偶然見つけて入った写真展の中で、切り取られた「瞬間」のアートを見ていると、確かに、「時の揺らぎの中」に自分は生きているのかもしれないなーという思いが湧いてきたのを覚えている。

 
 あの時も、今も、もしかすると僕らは知らぬ間に光と影が明滅する時の揺らぎを通り抜け、新たな時空へ生まれでようとしているのかもしれないと思ったりする。12の時空から、13の時空へと。



 <アグエイアス博士の現代版マヤンカレンダーについて読んだ参考書>

 「2013年から始まる銀河のマヤ」 秋山広宣 はせくらみゆき著

 「時空のサーファー」 ホゼ・アグエイアス著







知覚、リアリティetc | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/06/18 18:00

愛というコイン (変わり者にとって神の愛がいかに重要かの考察)


 どんな個性を持っていても、性癖を持っていても、ハンディキャップやどんな過去を持っていても
 自分を無条件に受け入れ愛することがより幸せに生きていくための秘密だ。


 でも、自分を愛することが時に困難なのは、集合的社会意識の中でマイノリティに属する人たちである。


 人は良かれ悪しかれ社会的動物なので、自己の自己への感情は、他者の自己への感情に依存している。
 自分が自分を見る視線は、他者が自分を見る視線にある程度規定されている。
 

 だから同質である事、一緒であることの中には安心感があり、異質であることには常に不安がある。
 拒絶される不安、後ろ指を指される不安、愛されない、軽蔑される、嫌われると言う不安だ。
 それは特に日本のような文化では顕著であると言われる。
 基本的に同じようなDNAの集合体で、移民もそれほどいない。
 ということは同質性が当たり前なことで、異質性があること自体が、異質な事態である。
 そのような文化は異質性とコミュニケートして、双方が共存共栄していくという試練にさらされていない分だけ、
 異質性には不寛容なところがあるのかもしれない。
 
 察するということ、「あ~わかります」という暗黙の共感は同じような同質性の基盤に立っているからこそ可能なことで、異質なもの同士が理解しあうためにはそこには必ず、葛藤や、ぶつかり合いが生じてくるような気がする。擬似的な同質性の上でわかったふりをし合っていればなんの衝突も生まれないかもしれないが、そこにはまた理解も生まれない。

 欧米の文化がディベートに裏打ちされているのは、異質性同士を言葉によって橋渡ししなければならないという、必然性があったためだろう。あるいはそれが言葉による異質性への攻撃に傾き勝ちではあったとしても、異質性自体に無自覚であるという社会風土で育たなかった異質な「他」への洗練された理解も生まれているように思う。
 
 社会的な集合意識の中で異質な存在となりやすい人。

 ホームレス
 僧
 障害者(心身のハンディキャップを持つ人)
 性的マイノリティ(ホモセクシャル、レズビアン、トランスジェンダー・・・その他)
 ニート
 引きこもり
 不登校
 犯罪者
 アーティスト 
 物書き  
 外国人
 (そういう制度がある国では)被差別階級の人

 その人が自分の中にある何に異質性を感じているかはある意味、重要ではなく、問題はその「何か」によって自分を無条件に受け入れることが難しくなっていることだ。

 なぜ難しいかと言うと、自分の「何か」に対して他者が、社会意識が「NO」といってると思えるからだ。
 (実際はそれも幻想なんだけど)

 「私は私を愛している」と言うとき、「でもあの人が」とか「でも社会が」「世間が」「親が」とか外の存在がブレーキをかけるように感じるから。特に集合意識の中でマイノリティである場合は、そのプレッシャーを非常に重く感じるかもしれない。

 だからマイノリティはマイノリティ同士で集まったり、話し合ったりすることで自分たちが決して一人ではないことを確かめ、そのような同質性の場にいることを自己肯定のよすがにすることもできる。


 そういうピアカウンセリング的な場は、すごく癒しになるとは確かだと思うし大事だけど、そこに依存しすぎると結局はそういう形の『社会意識』による束縛となる。マイノリティの集団という社会構造の中で、自己の価値がどのようなものかという差異化と比較がまた始まるからだ。『社会意識』とは結局、他者の目に依存することにより成立しているものだ。

 宗教的な団体、スピリチュアルな集いでも普通はそういう『社会意識』が存在している。


 僕の場合、自分を愛することが癒しや、ハッピーに生きていくということに関して重要だということはずいぶん前から気づいていたし、自分のテーマだと思ってるけど、やっぱり社会意識のプレッシャーというものをとても感じるところでもあった。

 自分の異質性にもとても悩んでた。

 ピアカウンセリングに参加したことはないけど、いろんな人と会うことで、この人とこういうところは異質だけど、こういうところは同質だなと共感したりすることで、自分を受け入れやすくなった部分はやはりある。


 でもやはり、自己愛の基盤と言うのは神的な意識、神の愛なのだ。


 神の愛を受け入れるときに、社会意識による制限を越えて、どんな自分も、ありのままを愛せるのではないかと思う。  



 神の愛は、今の、僕らを、そのありのままのすべての性質とともに、完全に愛している。



 神の愛というか、神への愛と言うか・・・・それがなかったら僕はもっと自己否定の中でつぶれていたかもしれない。


 神の愛があるからこそ、どのような異質さを抱える人でも、社会意識を超えて、自分を愛することができる。
 マイノリティの意識が強い人ほど、神の愛のありがたさがわかるような部分がある。
 なぜなら社会意識が自己肯定の頼みにならないことが身にしみているからだ。
 


 僕らにとってまず一番最初に重要なのは、自己と他者の関係や、自己と社会の関係ではなく、

 僕らがどれくらい自分を愛するか、そして僕らがどれくらい神を愛するかという

 僕らと「愛」との関係なのだと思う。 
 

                無条件の自己愛=神の愛(神との愛)


 自分を愛しにくいと感じる人は、神を愛したり、神の愛を感じることをお勧めするし、神を愛せないと思う人は自分を愛することをお勧めしたいと思う。それもできないと思う人は、何でも愛せるものを愛せばいいし、自分がどう思おうと愛してるものによって僕らはすでに生きているのだから、僕らを今生かしているそのものを愛すればいいような気がする。


 だから僕のテーマのひとつはありのままの「自己愛」だと思うけど、それは裏を返すと神の愛なしには成り立たないものなのだ。
 今となって思うとそれは僕が人と違う部分や、孤独に苦しんだから気づけたことだった。



 愛というコインの裏表はそんな構造になっている。




セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/06/13 14:35

06/10のツイートまとめ

haitakadori

RT @Michael_Ende_jp: 本当の芸術は、耐えられないほどの悪や罪を描きます。悲劇の名作なんか、本当に耐え難いものです。でも、それが舞台という魔術的な次元に移しかえられることによって、ホメオパシー的方法で観客の中に逆方向の力を呼び覚まします。観客をかえって健康にし…
06-10 14:56

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/06/11 00:00

06/07のツイートまとめ

haitakadori

@furunosawako  そうですね。「何か」は必ず見てくれていますよね♪ 僕もまた今年も潜りに出かけたいです。出来れば離島に~☆
06-07 22:59

@furunosawako こんばんは♪ そうなんですか!面白いですね。回転せずのパターンは僕には見えませんでした。これだけ人によって見てる世界が違うなら、多少人と分かり合えないことがあっても普通かも・・・なんておもっちゃったりしました^^;
06-07 21:33

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/06/08 00:00

未来の量子波を聴け



 時々自分が半ば世捨て人のように生きているような気がする時がある。 
 でも神の意志が、なぜ僕に今のような生活をさせているかを考えたときに、もしかすると僕はここで新しいライフスタイルを生きる準備をしているのかもしれないと思う。
 あるいは新しい「文明」と言ってもいいかもしれない。
 それがいつ、どこで形になるかはわからないが、今の僕が意図するように、マスコミやネットからの情報に自由で、天と地と密につながり、大自然からエネルギーを取り入れ、常に神とともに生きるようなものになるだろう。

 ある種の過激な意見のように早晩、このシステムが崩壊したときに、否応無くそれが現実化するのか、あるいはこの文明形態に嫌気がさした一部の人たちによってそれが局地的に成し遂げられるのかはわからない。

 あるいはこれは僕の妄想で、今後もここで、今の仕事を続けつつ都市の片隅で僕は生きていくのかもしれない。

 しかし、確からしいこと、

 それは、僕の「今」には、神の意図があるということである。

 それは僕の「今」には未来からの意図が働いているというに等しい。

 量子力学的な解釈では、今起こっている事象は、未来から来た波と、現在発生する波が、現在において干渉しあったものだと言う。
 そこから生じるエネルギーと物質が、僕らの眼前に世界として展開しているというのだ。

 と、するならば現在は、「未来によって」創造されていることになる。

 その未来から押し寄せる波を聴き、その意図を信頼したとき、今・ここで与えられた豊かさを十分に味わうことができ、行うべきことにエネルギーを注げるのである。行うべきこと、それは未来からの量子波が示唆するものだ。

 そう考えたとき、僕は単に世を捨てているというのではなく、新しい世を創る準備をしているのだという可能性が生まれてくる。
 そうすると終わりと見えたものの中に、始まりが見えてくる。
 愛してるものがある限り、世を捨てることなんてできない。
 僕のしていることは、捨てるものをはっきりさせて、新しい世を創っているに過ぎないのかもしれない。
 
 僕らの「今」は過去の結果であるだけではなく、「未来の結果」である可能性がある。

 その中には未来からの情報がホログラム的に織り込まれているのだ。
 それが古来、「予兆」と呼ばれるもので、熟練の呪術師は空の雲の形からでもそこに存在する「未来」を読み解く。誰にでもできることではない。

 でも僕らにもわかる予兆がある。

 自分は何をしているか?

 どのような人生行路をたどってきたか・。

 何が好きで、何が嫌いか?

 今までどのような出会いがあったのか。

 それらはすべて実は過去の振りをした未来からの声だ。

 どう読み解くかは、「今」に生きる僕らに委ねられている。 





知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/06/07 21:57

夏至前は暗闇タイム




 5月は久々のX1、X2クラスの大規模フレアが発生したりして、太陽活動が激しかった。
 もともと夏至に向かう4月、5月、6月は光のエネルギーがとても強い。
 それで気づいたんだけど、僕はこの時期になると暗闇タイムを過ごしたくなるみたいだ。
 去年も確か5月とかにブログに書いたと思う。
 照明類は全部落として、小さなキャンドルを一個か二個つけて、ボーっと過ごす。
 これを始めたきっかけは普通以上に疲れてるときは、間接照明の柔らかい光でも目に突き刺さってくるように感じて、まったく照明のない暗がりのほうが神経を安らがせてくれることに気づいた時だった。
 まったくの暗闇と言っても、雨戸でも閉めなければ、外の電柱の光とか、家の明かりとかが差し込んでくるので絶対にぼんやりと薄明るくなる。空全体が、薄く発光している。都市部では自分の家の照明を落としただけでは本当の暗闇はなかなか手に入らない。
 この時期に暗闇タイムがやりたくなるのは、きっと光のエネルギーが急激に増えていくことに対してバランスを取ろうとしているのではないかと思う。間違っても12月の日が短いときには、夜まで明かりを消して過ごそうとは思わないからだ。
 なぜ疲れているとき照明をつけたくなくなるのかというと、光が、神経系統をかき乱す干渉的なエネルギーとして感じられるからだろう。ある特定の波長というか、エネルギー、リズム、照明は間断なくそういったものを放射している。それがうるさく感じられる。一方、暗闇の中ではそういう干渉力が弱くなるので気持ちが安らぐ。

 きっと地球に夜と昼があるのは、人体にとって光と闇が必要だからで、闇の中で過ごすことによって初めて機能する脳の働きだとか、放出される脳内物質というものがあるのだ。
 もしそうならば、先進国で生きる多くの人が「光の過剰」による慢性症候群に苦しんでいる可能性は大いにある。

 20世紀にエジソンが電球を発明して以来、人は昼間の活動をそのまま夜に持ち込むことができる様になった。ビジネスや、娯楽、歓楽、その他多くの領域で昼のままの活動を、夜間も継続できるようになった。
 昼間の活動をそのまま夜間も続けられるということは、一見すると自由の拡大だが、本当にそうだろうか。
 暗闇と言う別次元への扉を駆逐することによって、人は逆に「光の中に」、「昼間の意識」の中に閉じ込められたのではないかとも考えられる。
 人工照明の登場は、便利さをもたらすと同時に別次元の喪失と、「昼間の意識」の活動過剰を生んだのだ。

 暗闇はものの輪郭をおぼろげにさせ、暗闇の中へ溶かし込む。
 昼間明らかだったものが定かではなくなることと、シンクロして、僕らの中の固定観念もやわらかくなり、過去と未来の境が、「あなた」と「わたし」の境が、「現実」と「幻想」の境が、「ここ」と「あそこ」の境があいまいになる。時間と空間の垣根がゆるくなる。昨日と、10年前の距離感が等しくなるのだ。
 それが本来の「夜の意識」であり、「昼の意識」と相補的に互いを必要としているものだったのではないかと思う。①ものごとがはっきりしていること、あるものはあり、ないものはないこと。②すべてがあいまいでよく見えないこと、ないものがあり、あったものがなくなること。このふたつの世界が人間の意識にとっては必要なのだ。

 「夜の意識」とともに夜を生きる限りは、部屋の隅々まで照らし出すような照明は必要ではなかったのだ。
 「夜の意識」にとって必要なのは、部分的な、手元や足元だけを照らすような小さな明かりがあれば十分だった。それ以上の光は夜を壊してしまうものだった。照明の発明とともに、あるいは人は夜を失ったのかもしれない。

 それにしても、ここまでの人工照明の普及と言うのはなにか人類の集合意識が暗闇に復讐しているようなそんな印象すら与える。
 中世を生きる人にとって暗闇が、危険や死、あるいは狂気などと同一であったことは容易に想像できる。ある意味左脳文明による自然の征服と、暗闇の征服は軌を一にしていたのだ。自然は=暗闇であり、暗闇は=自然だった。それを文明の力によって、開拓し、隅々まで「昼間の意識」により照明することを願わねばならないほど、人にとって闇は、そして狂気と死は恐ろしいものだったのだろうか。
 だが、永遠の「光」が、そして「昼間の意識」がずっと続くこともそれ以上に恐ろしく、狂気に等しい。魔物も、恐ろしい森の獣もいないが、白々と均一に照明された安全な世界がどこまでも続くのだ。「異常な正常さ」という新たな狂気が20世紀に出現した。

 照明の登場とともに、夜の喪失にあがらい、キャンドルやランプの生活を続けた人もたくさんいただろう。どんな時にも時代の潮流に疑問を抱き、自分の感覚を尊ぶ人が必ずいる。そういう人たちのことを考えると、いとしさが湧いてくる。

 以前インドに行ったとき、あまりにも頻繁に停電が起こり、ホテルのベッドの上に座って暗闇の中で外に降る雨の音をじっと聴いてるしかないことが何度もあった。「ああ、この場所ではまだ暗闇は征服されていないんだな」と思った。それは確かに、医療だとか文化的な生活にとってはNGな状態かもしれないけど、やっぱり闇が征服されていない場所はどこかに残っていて欲しいと思わずにはいられなかった。



   bathlife08_001.jpg





知覚、リアリティetc | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/06/02 08:51
 | HOME | 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。