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07/30のツイートまとめ

haitakadori

RT @karin_amamiya: マイ師匠・AKIRAさんの傑作小説『COTTON100% 極上のどん底をゆく旅』が幻冬舎文庫になりました! もう書店に並んでるはず。で、なんと、解説を書かせて頂きました!! もう光栄すぎる! ぜひ、読んでほしい。この一冊で、私の人生は変わり…
07-30 09:22

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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/31 00:00

ウランの安らかな眠りのために


 いまだ収束のメドもたっていない原子力シビアアクシデントの継続下において、この国は全国の原発の再稼動を着々と進めようとしている。

 日本と言う国は、1945年8月から始まって3度の核の惨事を経験してきた。

 一度目は広島への原爆リトルボーイの投下、二度目は長崎への原爆ファットマンの投下。

 そして3度目が2011年3月11日に発生した東日本大震災によって引き起こされた津波、地震によって起こった福島第一原発の3つの炉心におけるメルトダウンだ。

 スリーマイル島原発事故や、チェルノブイリ原発事故、そして冷戦下大国により繰り返された大気圏内での核実験による影響はおそらく全世界に及び全地球上の生命に影響してきた。

 でも、これほどまでに「核」による惨事を経験してきた民族は他にあまりない。 

 そしてその日本で起こった核惨事の記憶が全世界の反核運動を大きく推し進めたであろうし、福島第一原発でのアクシデントがヨーロッパ諸国の原子力政策を大きく転換させた。

 なんだか日本という国はやはり近現代に現れた神道思想が主張するように、世界全体のテーマをホログラフィックに表現するようなある種の「雛形」的な役割を持っているのではないかと思えてくる。

 でなければ、どうしてこんなに小さな極東の国が「核」との因縁が深いのだろうか。
 
 日本は、「核」の現実を、それらの出来事を通して全世界に示したのだ。

 そのメッセージを受け取り、原子力政策を放棄した国もある。

 でも、当の日本でその機運が、そこまでの盛り上がりを見せず、むしろ逆行しているというのはやはり一見とても不穏な現実にしか思えない。

 しかし、核による災害を核兵器や、原発事故に限定しなければ、日本以外にももっと核との因縁が深い民族が存在する。

 その民族のことを思い出したとき、思ったことがある。

 今考えるべきなのは、原子力発電が是か非かという問題であると同時に、それ以前に存在する人類と「核」というより普遍的な問題でもあるのではないだろうか。

 もっと言うと、核兵器や、原子力発電の原料ともなるウラン鉱石、これをそもそも人間は掘り返すべきなのだろうかという問題だ。

 日本人と同じくらい核との因縁が深い民族、それはホピ族を始めとする、ウラン鉱石が埋蔵されている土地に居留しのちにその掘り出し作業に従事させられ致命的な被爆をしたネイティブアメリカンの人たちである。


 


 ホピの居留地から掘り出されたウランによって、広島と長崎に投下された原爆が製造されたことを想うと、日本人とホピ族は、核というテーマを催す舞台の上手と下手に立ってその手首を見えない糸で結び付けられているようだ。

 ホピ族の伝統では、母なる大地の内臓を掘り返すこと(ウラン鉱石を掘り出すこと)を厳しく戒めていた。しかし、土地を取り上げられた彼らは現金収入を得るために、恐ろしく低賃金でウランの露天掘り作業に雇われたのだった。彼らは放射能の危険をまったく知らされておらずウラン採掘の残土によってつくった家屋に住んだりすることでも高線量の被爆にさらされのちに多くの人が命を落とした。

 これらのことを考えると、原子力の平和利用や、戦争抑止力としての核兵器という言説がどうも偽善的なものに思えてきてしまう。

 そもそも、それらの原料となるものを掘り出すときに大いなる矛盾と、犠牲者たちがたくさん生み出されていたのだ。生きるための土地を奪われ、からだを蝕まれた人々が・・・だとすれば、そういった犠牲の上に成り立つ原子力産業、核開発であれば、その先にも同じような生きる土台となる土地や故郷の喪失、人体の汚染がまっているのはある意味当然かもしれない。

 それらは最初から、起こっていたのだ。
 それが掘り出された、その土地で。


 原子力を放棄したら電力が足らない?
 そういうことではなく、そもそも日本人と、あるいは人類と「核」(放射性物質)との付き合い方はどうあるべきだったかという問いが必要なような気がする。

 そしてその答えとしては、そもそも「掘り出すな」というホピの戒めをもその選択に含めることが必要だと想う。例えば国際的に条約で、「核兵器製造、原子力発電に利用するためのウラン、放射性物質の採掘はこれをいっさい禁止する」と定めるのである。

 戦争の放棄、と同じように、核の永久放棄、これを条文化できたらすごい国だと思うんだけど。だいたい「核兵器を持たない、作らない、持ち込ませない」の非核三原則は、原子力産業を廃止しなければ完璧なものにはならないんではないだろうか。そこに発電所があるってこと自体、ある意味核兵器の脅威と等しい。

 ウラン発掘は20世紀に行われたまさにパンドラの箱の開放だったのだ。

 永い眠りから目覚めさせれらたウランは禍津神となり世界を駆け巡った。

 それが起こるべきではなかった、と言っても始まらない。

 良かれ悪しかれそれはもう起こってしまい、それによって多くの悲劇と、学びが、物語が、それによって生まれている。多分、核エネルギーの発見というのは、人がある文明のステージに達したとき遭遇せざるを得ないものとして設定されていたんだろう。

 強大な破壊力、エネルギーを生み出すが、生命に対してはその細胞を破壊し、DNAレベルでの損傷を負わせる物質。強大なエネルギーと、強大な毒性。

 それらとどのように付き合うのか。

 先住民はそれを掘り返すこと自体を禁忌にしていた。
 欧米の文明は兵器として、あまり安全を顧ない発電技術に利用するという選択を行ってきた。

 こういうものを目にしたとき、産業的な発展だけを目的とする文明形態の人々はそれを封印したままにはしておかない。危険を承知で、それを手中に収め、そしてコントロールできると考える。それを眠らせたままにしておけるのは、自給自足を基盤とした質素な生活をしている人々、物質的発展や軍事力よりも大事なものがあるということを認識している民族だけだ。テクノロジーや貨幣ではなく、「土地」によって生きている人たち。

 生命の基盤を脅かすものにはNoと強く言える人たちだ。

 日本が多少なりとも「雛形」としての役割を持っているとすれば、おそらく、僕らはそのような価値観とともに生きるように今後導かれていくのではないかと思う。

 
 



テレビが写さない真実~金融マトリクスからの覚醒 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/07/28 20:25

幸運(ラッキー) アンジー


 鴻上尚司「天使は瞳を閉じて」 ロンドン公演のラストに流れていた

 とっても思い出深い 大好きな曲

 いつのまにかカラオケから消えたのがちょっとさびしい ><

 このイントロ聴くだけでわくわくする~


 









いっぱい空から天使が落ちてきた朝は
絶対なんでもかんでもうまくやれるさ

そこで震えてるよりも前に
堅く閉じた窓を開いて
さあ飛んでみようじゃないか

飛ぼうと思えば僕らきっと飛べるんだ

君の部屋の窓の外
転がってるさ ラッキー
君の部屋の窓の外
転がってるさ ラッキー

でっかい海から人魚が躍り出た夜は
絶対どんなに遠くの町でも行けるさ

泣きながら家を出るのは
追いこまれたときじゃなくて
恵まれた今しかないんだ

そっと静かに窓から這い出しておいで

君の目指している場所に
転がっているさ ラッキー
君の目指している場所に
転がっているさ ラッキー

きっと君は何もかも
うまくやれるさ ラッキー
きっと君は何もかも
うまくやれるさ ラッキー

やっぱり僕ら迷ってちゃダメさ
ラッキー





好きな歌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/27 00:15

07/26のツイートまとめ

haitakadori

歴史というのは、 ぼくがなんとか目を覚ましたいと思ってる悪夢なんです。 BYジェイムス・ジョイス『ユリシーズ』
07-26 23:31

昭和のニュースを記録したDVDを見て、そんなことを想う。大事件、例えば、敗戦や原爆の投下も知らず山の中にこもってた人だっていただろうな。。。と。その人にとってはその経験だけが真実だ。事件の重要性を決定する基準は多くの人に影響を及ぼしたかどうかということに過ぎない。
07-26 23:24

歴史、あるいは個々の人生史とは気づかれなかったこと、重要だとみなされず記録されなかったことの膨大な堆積の上に建てられた虚構、あるいは時の上澄みのようなものかもしれない。僕の忘れている多くの物ごとが僕を支えている。
07-26 23:18

個人の歴史も、世界の歴史もすべて誰かの意識がフォーカスした現象の集合に過ぎない。だから重要だとみなされない事は気づかれていても歴史や人生史というレベルには記録されないし、気づかれないことはそもそも記録されようもない。
07-26 23:16

RT @Michael_Ende_jp: 私たちは内的な時間を尺度にすべきであって、外的な時間を尺度にすべきじゃないということだけは、再び学び直さなければなりません。私は『モモ』の中でそれを試みたわけですが、時計で測れる外的な時間というのは人間を死なせる。内的な時間は人間を生き…
07-26 20:13

RT @keijimoriiVet: 古代エジプトではレタスがセクシー? http://t.co/66zXPco0nt こうすると白菜もセクシーに見えます http://t.co/S9kkhQIQWG
07-26 20:08

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/27 00:00

20th July Shibuya






テレビが写さない真実~金融マトリクスからの覚醒 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/22 18:57

07/21のツイートまとめ

haitakadori

山本太郎が行動を始めたキッカケについてブログに書く!殺人的数値年20ミリ シーベルトにブチ切れた! http://t.co/DKYw9SwXp4 『下心なんてないよ。強いて「下心」を言うなら、「生き延びたい、皆で生き延びたい。」』 
07-21 22:53

【驚愕】福島県双葉町の元町長が暴露!井戸川氏「政府は3月3日時点で地震と津波が来る事を知っていました」 http://t.co/xD78Q2jtaJ  ??
07-21 22:27

RT @yamamototaro0: 参院選 密着映像 ツイキャス開始! http://t.co/4Ykf6mJBK9
07-21 20:34

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/22 00:00

時間を忘れた世界

  続いて、今回もちょっと時間に関する記事。

 今まで、テレビなしとか、ネットなしとか、夜間の照明なしとかいろんなものからのリトリートを試みてきたけど、ひとつ見逃していたことに気づいた。

 それは『時間』。
 正確に言うと時計時間だ。
 ので、さっそく時計なし生活を一日くらい送ってみたらこれがなかなかいい感じだった。

 用意は簡単で、時計の電池を抜くか目に付かないところにしまう。
 PCは時刻表示されてるあたりで右クリして、時間を非表示にする。
 携帯はオフにする。
 以上!!

 これであなたも時計時間から解放された一日を手にしました!!(笑)
 
 もちろんこれは休みの日で、一人でやるか、変なことやってるあなたを理解してくれる人と一緒にやることが前提です。

 時計時間は、社会性とあまりにも密接に結びついていて、社会性=時計時間を守ること、とさえ言えるので仕事のある日に時計なし生活は難しい。「5分出勤が遅れた奴はみんなで白い目で見ようぜ、ヘイ!」というのが暗黙の了解なので仕方ない。 

 しかしここまで時間に厳格な社会が出現したのは、比較的最近だと思う。

 明治時代の人は時計が読めない人も多かった。

 ということは多分村の寄り合いがあったとしても、午後7時集合時間厳守!とかではなくて、

 『日が落ちて、、めし食ったあとに、吾作のうちで集まっぺ』とかいう曖昧な約束しか出来なかったはずだ。
 
 巳の刻とか丑の刻とか、時間の概念はあったと思うが、5分単位での待ち合わせ約束とかは成立しなかったに違いない。

 それが成立するためには、全員が異常に明確になった時間表示装置(つまり時計)を当たり前にようにもっていなくてはならない。

 明治以前の時刻
(前後約1時間)
暁9つ 子の刻 0時ごろ
暁8つ 丑の刻 2時ごろ
暁7つ 寅の刻 4時ごろ
明6つ 卯の刻 6時ごろ
朝5つ 辰の刻 8時ごろ
朝4つ 巳の刻 10時ごろ
昼9つ 午の刻 12時ごろ
昼8つ 未の刻 14時ごろ
昼7つ 申の刻 16時ごろ
暮6つ 酉の刻 18時ごろ
夜5つ 戌の刻 20時ごろ
夜4つ 亥の刻 22時ごろ


 ↑二時間刻みでかなりアバウト




 自分で言うのもなんだけど、僕はものすごく時間に几帳面なタイプだ。

 僕の中には遅刻という経験がほぼない。
 これは自慢ではなく、本当に学校でも、職場でもミスって遅刻したということがほとんどない。
 寝過ごしたという経験もあまりない。
 といっても皆勤賞タイプではない。
 なぜなら行きたくない時は、よくずる休みしたり、会社自体を辞めるからだ(^0^

 でも「ついうっかり」と時間に遅れるということはなぜか僕にはやろうと思っても出来ないのだ。
 たいてい待ち合わせは早く行き過ぎて、逆に待ってる間にイライラしてくることもある。
 相手が少しでも遅れてきたら「大丈夫ですよ」とか言いながら内心結構キレてると言う場合も、ままある。

 つまり僕自身がある意味「5分遅れてきたら白い目で見る派」である。

 逆に言えば、「すごく時計時間に支配されてる人」なんだと思う。
 なんか時計を見る回数自体が休みの日でも多くて、いつもちらっちら見てるような気がする。

 その影響か、朝アラームがなる前に目が覚めてアラーム設定を解除しようとするとちょうど1分前だというようなことがすごくよくある。60秒×60分のリズムが体に刻まれてしまっているのかな。まあ、それが刻まれてないと、無意識に、朝6時半に目覚めるようにお願いするなんていうテクニックは使えないわけだけど。

 基本的に休みの日だと、人と会う予定がなければ、好きな時に起きて、好きな時に食べて、好きな時に外出して好きなときに寝ればいいと思うんだけど、無意識にいつも時計を基準にしてそういった行動をしてることに気づいた。

 社会性にとらわれすぎないと言うことが、自分の課題のひとつみたいに思うけど、社会性は時計時間の死守(?)に基づいて成立してるので、あまり社会参加してなくても時計時間にとらわれていると結局同じリズムで同調してることになる。 

 僕が社会性マーヤになることと、時計時間にシビアなことは実は表裏一体で、時間をはずすことにより共通の約束事から逸脱するのを実はすごく恐れているんじゃないかという気がしてきた。(非常識だと思われるのが怖い)


 こういう僕が前述の時計なしリトリートをやってみると、これがすごく解放感あり気持ちよかった。
 多分いつも時間の観念にかなり縛られていたからだろうと思う。

 もちろんこれはテレビなしリトとかとセットでないと成立しづらい。
 テレビは時計時間によって一秒刻みで動いているからだ。 
 つまりテレビをずっと見てると、ずっと時計時間ともつながっている状態になる。

 だからこれを書いてる今も、ずいぶん前に自治体の午後5時半を告げるBGMが流れて、もうそろそろ時計時間では七時前かなとは思うんだけどよくわからない。いつもなら、そろそろ七時だから切り上げて先にご飯食べようとか思うんだけど、時間がわからないので、書きたいだけ書いて、おなか減ったら食事しようと思う。そんで、そのあとも眠くなったら寝て、明朝もアラームとかはかけないで目がさめたときに起きようと思う。

 うーん、これっていいかも♪

 時計を見ないと、一日が細切れにならない。
 いつも絶対的な継続があって、今があって、今しかなくて、主体は自分にある感じだ。
 今から、夜寝るまで何時間?
 そんな無意識的な計算も成立しなくなる。
 今、今、今の連続で、時間の流れではなく、「時の移ろい」がある。

 「時の移ろい」
 それは日が落ちて暗くなることや、さっきまでしとしとしていた雨がやんでること、鳥が囀ったり、近所の犬が鳴いたりする、その流れの継続的変化だ。それは数値化して測れない。
 そして均質でもない。常に移り変わっていく生のクオリティ、その変化のリズム。

 それは、僕の中にも流れている。
 おなかが減ったり、テンションが高くなったり、落ち着いたり、眠くなったり、動きたくなったり、それらが
 僕の中を流れる時の移ろい、変化のリズムなのだ。

 時計時間に支配されすぎると、その「内的リズム」「内的時間」がよくわからなくなってしまう。
 おなかへってないけど食事の時間なので食べる。そうすると当然空腹感覚が鈍くなる。
 時計時間から自分を解放すると、「内的リズム」が思い出しやすくなる。
 
 時計時間を守ることは大事だけど、内に流れる時間に忠実であることも大切だ。


 「規則正しく生活する」というのは本来、時計時間に支配されるというよりも、大自然のリズムや、自分の中の時の流れとシンクロして生きると言うことではないかと思う。

 それは常に変わっていく。毎朝6時半に起きるという人は、もしかすると、真夏には五時半に起きたほうが調子がいいかもしれないのだ。
 だから太陽を時の基準にしていた昔の人は、「日の出とともに起きる」ということにより常にそのリズムとシンクロしていたんだろうと思う。

 基本的には文明化されてる先進国ほど、時計やカレンダーに支配されている。

 文明以前。
 無人島に漂着したみたいに、時という概念がかぶせられていない大自然・大宇宙って素敵かもしれない。

 年齢ってのも本来数えなくていいんじゃなかろうか。どうせ、ちょっとづつ見た目は年取っていくんだから。
 実際途上国では家族も、自分でも何歳かよくわからないお年寄りたちがいっぱいいることだろう。

 僕らはなんであれ、数に関してシビアになりすぎた。
 そして数値化できない生のクオリティに関して無感覚になりすぎた。 

 文明以後。
 アスファルトから雑草が芽吹き、高層ビルが密林に帰っていく世界。
 その上に、満点の星空が広がる世界。
 ハンク・ウェスルマンの「スピリチュアルウォーカー」の世界。
 ただ日は昇り、沈む世界。 
 何にも限られない大自然と大宇宙があらわになった世界。
 アメリカも中国も北朝鮮も、
 西暦も、時計も、昭和も平成も、クリスマスも正月も意味をなくした世界。
 人間が世界に押し付けた時空の概念はすべて虚構だった。
 
 そんな世界の美しさと怖さに、時々思い巡らせるのが僕は好きだ。
 時間を忘れた地球を見てみたい。。

 実際、ホントは現在でもそれがこの世界のありのままの姿だと思う。
 
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知覚、リアリティetc | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/07/15 19:26

サマータイムイリュージョン

 
 昨日昭和30年代のニュース映像を集めたDVDをレンタルで観た。

 その時代時代の風俗とか、人々の様子を見るのも面白いけど、ニュースのナレーターの言葉使いや感覚が今の放送コードでぐるぐるまきのしゃべり方と違って、素朴でのんびりしてるけど、時々今ならシャレにならないような発言を平気でしてるのを聴いて結構ウケてしまう。

 ↓こういうの。昭和44年の現代っ子。これなんかも鍵っ子が首から鍵ぶら下げてるってわかりやすすぎて危なくねーか、とか現代目線いろいろ突っ込める。せめてポケットとかに入れたほうが・・・

 





 僕の観たDVDでは2012年にあった金環食が昭和33年にもあり、東京でも80数パーセントまで太陽が欠けた日があった。
 銀座の大通りで大勢の人が空を見上げて観測してる姿がモノクロの映像に収められている。
 金環食は今世紀で最後というナレーションのあと、お年寄りが望遠鏡を覗いてる姿が映され、

 「おじいさんやおばあさんにはこれが多分見納めでしょう」と、サラッと言ってる。

 あ・あははは

 い・いや、そりゃそうかもしれませんが、あえて言うかね^^: 

 安藤アナがこういうこと言ってるの想像してみてください。

 あと、東京の大学から医師団が無医村に出向いて出張診察を行うというニュースでは、ナレーターが医師になった視点でナレーション
 してるんだけど、

 「連日、蒸し暑く頭がおかしいと訴えるばあさんには私の頭の方が痛かった」とかこれまたサラッと言ってて、爆笑する。

 なんか今なら苦情電話殺到して、番組中止になりそう。

 でもこういうのは今より昔はモラルがなかったとか、どっちが正しいかという問題ではないような気がする。

 今世紀最後の金環食だったら、おじいさんおばあさんたちは見納めなのはおそらく間違いのないことだろうし、それをあえて言うのは今なら
 きわめてデリカシーないことだけど、この頃はその感覚というのは当たり前のことだったんじゃないかと。
 昔のほうが人の生と死を直視してるとも言える。なんかある意味粋な感じがするのだ。
 今ならもしかすると、「長生きしてもう一回見ましょうよー」とか無粋に言っちゃうんですよね。

  僕が20世紀初頭→90年代くらいまでの日本の風俗とか、流行語とか、街の風景の変遷を見ることが出来る本とか映像が割と好きなのは、今とはかなりずれた価値観とか雰囲気を見ることでリアリティがすごく「ゆらぐ」気分を味わえるからだ。

 90年代くらいでも、まゆが太くて、いわゆる「ワンレンボディコン」(これは昔の言葉・からだにぴったりのぴちぴちのワンピース着たロングヘアーの女の人)の人がジュリアナで踊り自分がイケてる(これは今の言葉)と思ってるのを観ると、ホント美意識とか、ファッションて100パーセントその時代にしか通用しないものが結構あるのがわかる。

 広末良子主演の「バブルへGO」は、そういう近い過去へのタイムスリップだけど、価値観が違うのを表現していて面白かった。

 


 この昭和ニュース映像のDVD借りて観てて、気づいたんだけど、

 あれ?僕って、いっつも7月とか8月、こういうのにちょっとハマッてることが多いなあ・・・なんで?

 と。

 もしかすると、真夏には過去へと回帰するような意識の流れが存在するのだろうか。

 もちろん春にも、秋にも、冬にも、人は過去を回想すると思うんだけど、なんか夏のそれというのはもっと集合的な現象だと感じられる。

 春は新しい生活が始まることが多い。みなそれに飲まれてあまり内面的にはならない。
 夏になると、夏休みや海や山のレジャー、旅行があったりして、みんな薄着で過ごし、ある意味外面性が極まるんだけど、なんだかその反動のように開ける内面性があるように思われるのだ。
 そしてもっともわかりやすい内面性とは「記憶」なのである。

 日本に限って言えば、夏にはお盆があって先祖供養をしたり、8月には終戦記念日や原爆投下の日もある。
 そのように集団的・部族的な記憶が開かれるきっかけが多い。

 なぜ夏に怪談が合うのか?っていうのが僕はずっと不思議だった。
 
 涼しくなるため、とかは完全に後付の理由だと思う。
 どうして幽霊が、夏に似合うのか? ということを考えると、もしかすると結局幽霊と言うのも広い意味では「過去の記憶・幻像」だからなのかもしれない。

 どうしてかわからないけど、夏には「過去の幻像」が似合うのである。 

 焼け付くような太陽に照らされた路上に、ゆらゆらとゆらめく蜃気楼が現れるように、夏の生の強烈さというのがもしかすると過去の幻像や死者の記憶を召還するのかもしれない。

 真夏は過去へ回帰する。

 よく児童文学的な話しで、夏休みに、沈んだ海賊船の宝を探しにいくなんていう物語があるけど、こういうのにしても、過去の伝説、過去の事故・悲劇、それにまつわる幽霊、といったものが現在の冒険によって紐解かれ、語り始める。

 ドラえもんの映画シリーズでは、「のびたの海底奇岩城」ってのが、現在の冒険が、過去のアトランティス文明の遺産を清算するっていう構造を持ってます。ドラえもんたちの敵は、かつてムー大陸と戦うために作られた人工知能だっていう話しなので、これも完全に過去の幻像が現在に力を行使しようとする話しなんですよね。
 
 どうやら夏には、秘められた過去や、忘れてはならない歴史、そして「死者」という記憶が現在に影響力を行使する、フィードバックループが存在するみたいだ。

 





知覚、リアリティetc | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/07/13 16:30

07/09のツイートまとめ

haitakadori

RT @keijimoriiVet: 米国国家安全保障局の内部告発者スノーデンさんがUFO文書を公に。 http://t.co/tuZIgernbT
07-09 20:30

RT @keijimoriiVet: 世界中の美しい写真を撮るジムさん。 http://t.co/9nBZAiKbub ジムさんはナショジオの写真を25年も撮影。
07-09 20:30

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/10 00:00

07/01のツイートまとめ

haitakadori

RT @SNOOPYbot: バイオレット「あなた大きくなったら何になりたいチャーリー・ブラウン?」チャーリー・ブラウン「完全無欠になりたい」
07-01 23:20

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/07/02 00:00
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