社会や環境を論じるときによく持続可能性(サステナビリティ)という言葉が使われる。
「持続可能性」とはあるシステムが、環境との相互作用の中で環境を破壊しすぎることなく、そのシステムも破綻することなく継続してゆけるということを意味する。
この言葉は持続可能なエネルギー政策、とか、持続可能な介護政策、とか持続可能な結婚生活(?)とか、いろいろな個別分野でも使えるけど、すべてまとめて持続可能な社会あるいは文明ということが結局は大きな論点となる。
言い換えると、先進国のシステムはほとんどすべて持続可能ではない、ということで北欧の数少ない国などが持続可能な社会のモデルとして研究されているのが現状だと思う。
しかし僕がちょっと思ったのは、すごい極論なんだけど、例えば映画マトリクスの人間がバーチャルリアリティにつながれてその人間の生体エネルギーがコンピューターに供給されている状態っていうあれだって持続可能だよなーということだ。
「マトリクス」の持続可能性の何が問題かというと、人間が意識を完全に眠らされていて、現実に「接続されていない」、そして自分自身の意志をもたずその実存をマシンに「利用されている」ということだ。
ということは、映画の話ではなく現実においても持続可能性以上に、リアリティに接続されているということ、そして主体性を与えられているということが重要なのだ。
街が巨大な災害で一瞬にして破壊されるのはハリウッドSFだが
街はつつがなく続いていた、しかし市民たちはすべて眠っていた、、、というのもかなりホラーである。
僕の考えでは、リアリティに接続されているということは天地とつながっているということであり、個々の主体性というのは実はそれを土台にしてこそ培われるのではないかと思う。
持続性とは、外面的結果であり、接続性は内面的現実、精神性(あるいはスピリチュアリティ)だ。
■ 自己疎外の文明
海や山、自然の中に入ったときに感じる「あ~気持ちいいー」というさわやかな感覚と、一体感。
ささいな心配事ならすぐに心から拭い去られてしまうような感覚。
それって、社会的存在だと思い込まされていた人間が、自然の存在、もっと大げさにいうと宇宙的存在だということを思い出す小さな瞬間なのではないかと思う。
高山に登る登山家や、深い海にもぐるダイバーが体験するようなpeak experience(至高体験)それは近所の公園や川原で味わう感覚の拡張版に過ぎないのかもしれない。
森を歩いていて気がつくことは、そこが生命に満ち満ちていること。
足元の土の中には虫や微生物がいて、頭上を巨木の枝が覆う。
一体感はこれら無数の生命意識に包まれているということとも関係あるのだろうか。
生命により包まれていると、一時的に、非接続文明の中で構成された虚構の自我は働かなくなり、宇宙的人間が顔を覗かせる。
なんの仕事をしても続かなかったりしたとき、僕はこの無言の自然や、生命にかなり慰められたと思う。
太陽は、どんな状態の僕らでも無言であたためてくれるし、お金を払わなくても夕日は空をすばらしくきれいに色づけてくれる。それはとてもありがたいことだ。
この非接続文明の中では僕らはアスファルトの上を歩き、コンクリートの建物に住んだりしている。
どうして土を塗り固めてしまったのか。
人が自らつくりあげた街の中で疎外を感じ、非接続文明内での虚構の自我と、価値と、他者の承認を絶望的に求めることになったけど、
それはただ、生命意識の欠如した世界に生きていると言う、ただそれだけが大きな要因だったのかもしれないと思う。
結局その中では、「自分自身」と接続すること、生命としての自分自身さえ忘れてしまいがちなのだ。
なぜなら生命とは広がりであり、小さな部屋に閉じこもって暮らしているのはその一部に過ぎないからだろう。
以下、 デヴィッド・スズキ著「グッドニュース 持続可能な社会はもう始まっている」 まえがきより
デヴィッドにとってのもうひとつの転機となったのは、カナダの先住民族であるインディアンとの出会いです。デヴィッドが特に好んで語るのは、ハイダ族のリーダーであり、文化伝承者であるグジャウとのエピソードです。ハイダ族の住む島々での原生林伐採を体を張って阻止しようとしていたグジャウを、テレビのキャスターとしてインタビューしたデヴィッドはこう尋ねました。「あなたはなぜ命を危険にさらしてまで伐採を止めようとするのか」。グジャウはこう答えました。
「木が刈られても私は死にはしないだろう。しかし、その時私はもう私ではなくなってしまう」
森なしに、川なしに、海なしに自分は自分ではありえないというこの先住民族の世界観は、デヴイッドの中にいまだ根を張っていた西洋近代の科学的合理主義に痛烈な一撃を与えました。
■ 世界のエコビレッジ
前回までの記事で、今後現れてくるであろう自給自足を中心としたコミュニティをニュービレッジと呼んだけど、僕がわざわざ命名するまでもなくそのような共同体は世界にたくさん存在して主に「エコビレッジ」と呼ばれているようだ。
構成員が10名程度から大きいものになると1000名以上の規模まで世界には15000を越えるエコビレッジはすでに存在するとも言う。
世界的に有名なのは ダマヌールとフィンドホーン。
ダマヌールはオベルト・アイラウディ(通称ファルコと呼ばれる。2013年6月死去)という天才肌の人物がイタリアトリノ近郊につくりあげたコミュニティだ。
新たなヒーリング技術のセミナーを各地で開催したり、エソテリックな思想に基づいた「人類の神殿」などが有名だ。人類の神殿のデザインはあまりにすばらしいので、ネットでも一見の価値がある。
フィンドホーンはアイリーン・キャディら3人の創設者が「神の導き」と彼らが呼ぶ啓示をもとにして創造したたコミュニティとして有名だ。ドロシー・マクリーンという創設者の一人は主に自然のエネルギーとつながり、そのエネルギーは彼女に、「生命の霊、人間、そして自然が力を合わせればどれだけ可能かを示すために、ぴったり七年間畑からは驚くほど大量の収穫が得られることを約束した」*という。約束どおり、畑は百花繚乱となり野菜は驚くべき大きさに育った。畑は有名になり、世界中からその噂を聞きつけた人が訪れるほどになり、その畑を核にしてのちに共同体が形成される。
*キャロライン・メイス著「七つのチャクラ」より
印象としては、ダマヌールは建築物やその秘教思想などが特徴で、フィンドホーンはよりピュアなナチュラリズムに特色があるように思える。
エコビレッジ間のネットワーク構想もある程度存在しているようで、僕が思っていたよりもこの分野はたくさんの人が活動し前進しているようにも思えた。
■ ニュービレッジと、オールドソサエティの狭間で
自給自足コミュニティなどで検索していて、伯宮幸明(たかみや さちあき)さんといういう方のサイトにたどり着きこのページの情報がとても参考になった。
エコビレッジについても、この記事のシリーズで僕が考えてみたことととても考え方が近い部分があるようだった。
ちょうど伯宮さんのブログにがスピリチュアルテレビというネットテレビに出演するという情報が載っていたので視聴してみた。その回のタイトルは、「旧勢力の暴走からどう私たちを守るか」というものだった。
伯宮さんという方は、震災前栃木で自然農法に基づいた自給自足生活をおくっていたけど、原発事故によって滋賀に避難して今はそこで農的な暮らしを実践されているということのようだ。
結局、次の時代に向けた地に足の着いた農的な暮らしを実践していたところをほとんど人災と呼べるようなあの事故により安心して生活できる土地を奪われたということ、それから2年たち各地の原発を再稼動する動きがあることなどがこの番組の中で伯宮さんが訴えたいことの核にある。
それはいくら個人やグループが新たな村・文明・文化を形成しようと努力しても、現段階ではそれは日本国家や自治体と言う枠組みの中でアクションするほかなく、それはそのままこれらのシステムの法や、政策によってその存続を大いに左右されるということを意味する。
わかりやすい話し、このようなエコビレッジムーブメントが拡大しても、それと平行して旧システムの枠組みでは原発が次々に再稼動し、またどこかで巨大地震が起こり原発が再び破壊されるとあたらしい村づくり、地に足の着いた生活が破壊される、新たな文明の足場がなくなる、ということになる。
もともとニュービレッジと、オールドソサエティは要所要所でバッティングすることはその性質上避けられないのかもしれない。
伯宮さんは、食料、水、エネルギーのほかに、医療、教育などの分野でもそれらを新しく「自給」していくことの大切さを話しているけど、オールドソサエティの「法」では文部省により認可された義務教育を意図的に受けさせないことは親の義務の放棄になるし、医師免許を持たずに医療行為を行うことはもちろん罪になる。
つまり完全に新たな文明を勝手に創造する、ということは犯罪行為になってしまうのだ。
今は犯罪ではないことも、新たな法律などをつくられると、自主的な動きが封じられてしまう可能性がある。
だから完全にオールドソサエティから目をそむけるのではなく、新たな希望の芽をつんでしまう様な政治の動きなどには声を上げることの必要性も動画の中で話されている。
■ 人間関係のエコ学
都会で生きるということは、貨幣によって生きるということでもあり、少しは孤立していたりしても仕事さえしてれば生きていけるという面はある。
しかし、もしかするとそれは僕らが人間関係のエネルギー学に無自覚でも生きていけてしまう、という負の側面をもっているのかもしれない。
付き合う相手に必要以上にエネルギー的負荷をかけたり、不快な思いをさせるパターンを自分が持っていたとしても都会の距離感の中ではそれが修正される機会もないまま暮らしていけてしまう部分がある。
それは持続可能ではない対人関係だ。
持続可能ではない社会では、持続可能ではない対人関係が幅を利かせるのかもしれない。
しかし、共同体の密な関係で生きるなら、それぞれの構成員が自分の対人関係のエネルギー学に精通していなければ多くのトラブルが起こるだろう。
そこでやはり「持続可能な」エネルギー的関係を築く必要性を、個々人が認識している必要がある。
「持続可能」ということは、やはり特定の人に負荷がかかってないことだと思う。
自分も相手もウィン(win)・ウィンの関係を築くことを理想とするアサーションテクニックでは、自己主張のかたを3つに分類する。
ひとつはアグレッシブ。
これは自分ウィン・相手ルーズあるいは自分‐善(正)・相手‐悪(誤)という意識に基づいたもので、一方的に怒鳴ったり、好かしたりして、自分の意志だけを主張、対話する意図を欠いた態度だ。
もうひとつは、ノンアサーティブ。
これは相手の態度や関係性に違和感を感じても、それを表現せず、抑圧する、あるいは見てみぬ振りをする。我慢する。しかしこれは自分・ルーズ、相手・ウィンという認識になりがちで抑圧された怒りなどを蓄積し、爆発するということにもつながりやすい。
アグレッシブと、ノンアサーティブは紙一重だ。
これらはどちらも、長く続くと、持続可能ではないエネルギー的関係だと言える。
日本の社会は基本的にノンアサーティブというアンバランスを基礎にして回っている。
■ 持続可能な介護て・・・(余談)
持続可能性という言葉をもてあそんでいると、やはりそれを今やってる仕事にもあてはめて、「持続可能な介護」ってどういうのだろうと考えてみたくなる。
僕の仕事は病気や事故などで障害を持つ人が対象の、在宅介護ヘルパーなので、朝に利用者の自宅に行って、9時間~13時間生活のサポートをするということがミッションなわけだけど、基本的にこのヘルパーと言う仕事はノンアサーティブになりがちで、むしろそうあるべきだというポリシーを持っている人もたくさんいるだろう。
相手は肉体的ハンディキャップを持っていて、精神的にも健常者に対するおそれを持っているという場合が非常に多い。その恐れが、ヘルパーに対して支配的な態度をとらせたり、攻撃的にさせたり、逆に極度に依存的、卑屈な姿勢になってしまうという場合もあると思う。
だからヘルパーと言う立場にあるなら、多少理不尽なことを言われたり、されたりしても「はい、はい」と寛容な気持ちでサービスを提供しているべきだというのだ。
このことに関しては、僕もある程度はそれも仕方ないのかなと思うし、いちいち「その言い方はおかしい」とか「失礼なことを言わないでください」と反抗していたら仕事自体がなりたたないというところがあるのは確かだ。というのは障害を持っている人は、健常者の常識とはかなり異なった意識で生きている人が多いからだ。(もちろんすべての人がそうではない)これは差別でもなんでもなく、人間環境が異なれば、違う常識を持つようになるということに過ぎない。むしろその『違う』ということ、何が僕と異なるのか、それをはっきりみつめる意識がどうしても必要になる。
どのようなプロセスの果てに、その人が僕らと異なる「常識」を持ち、その結果時には人を不快にするような言動をしてしまうのかということの理解がその人の気持ちや、人間性に寄り添うことになるからだ。
でもおかしいことに対しては、やはり言わないと、逆差別というか逆虐待(?)みたいなことが常態となり結果ヘルパーが燃え尽きてしまうということも起こる。
在宅介護は密室の人間関係で、肉体的に利用者は弱者なので、ヘルパーから障害者への虐待が起こると同時に、利用者側からノンアサーティブになりがちなヘルパーという役割への情緒的な虐待も起こりうる。ただそれはたいてい肉体的な被害ではないし、仕事柄仕方ないという認識からあまり公にされないだけだと思う。
そのようなトラブルは、一日10時間とかをかなりの至近距離で密着して過ごす(障害の程度にもよるけど)という普通親子とか、彼氏、彼女じゃないとないような密着度により距離感が計りづらいということとも関係してる気がする。
詳しい詳細は書けないけど、僕が最近聴いたケースではちょっとしたことが原因で利用者がヘルパーを頭ごなしに叱り、それに対してヘルパーが反抗したことにより何年も続いた関係が壊れてしまい、そのヘルパーさんはその職場を去るということがあった。とても頑張って仕事をしているヘルパーさんだと知っていたので、それを聴いてとても悲しい気持ちになった。
こういうことはどちらに問題があると簡単に言える事じゃないけど、ただ思うのはそれは持続可能な介護じゃなかったんだろうなということである。
どこかに歪みの蓄積があり、ノンアサーティブの歪があり、禍根があり、激しいストレスがあり、それがふとしたことで自分でも制御できないうちに破裂したのではないかと想像する。
もしそうなる前に、誰かに相談できたら、そうはならなかったかもしれない。
このことをきっかけにヘルパー同士の意見の交換のミーティングのようなことが、前より頻繁になったみたいだけど、そういう場で感情や困ってることをシェアするというのはすごくやはり大事なんだと思う。
たとえば、いつも不機嫌そうな顔をしてる利用者さんだったとしても、それが自分に対してだけではないということがわかるだけで気持ち的にはかなり楽になるからだ。
介護というのは1対1では、かなりのプレッシャーで押しつぶされる可能性があるものだと思う。
自分の背後にサポートしてくれる集団がいると知ってると知らないとでは、感じられる心強さがかなり違ってくる。
そのようなミーティングと同時に、もしもその利用者が平均的な知性と、自己意思をもっている状態ならヘルパーに対する研修と同時に、利用者に対しても簡単な研修を行うほうがよいのではないかと僕は思う。
そのような研修を双方が行うことで、お互いが陥りやすいアンバランスな関係や、トラブルを事前に予防できるのではないかと思う。
それは利用者に対する負担ともなるかもしれないけど、ある意味人間と言うそれぞれ個性を持った複雑なものを派遣して、「さあ、好きなように使ってください」と言うほうが不親切で、簡単な「取り説」くらいは事前に渡したほうがよいと思うのだ。
かなり余談になったけど、人が生きていて、病気になったりする限り、エコビレッジでも介護と言う課題はあるだろうし、その介護も多分今までとは異なった新たな枠組みを創造しないと成り立たないと思う。介護も人間理解に基づいた研修を利用者‐ヘルパー双方に事前に行えば、ずいぶんクオリティが向上するはずだと思う。
haitakadori
RT @tekomoku33: 本当に変だったRT神奈川どうなってるの?江ノ島などの空の色がおかしいと話題に・・・。 - NAVER まとめ http://t.co/WEmj9Em9tY
09-25 23:59
haitakadori
RT @Michael_Ende_jp: シュタイナーの芸術思想は、どうしても私は受け入れることができないし、今でも間違いだと思っています。なぜかというと、一言でいうならば、「暗黒が欠けている」と、言えるからです。 『ものがたりの余白』
09-21 19:43オランダにおける電力自由化とグリーン電力について - 市民メディア[レアリゼ] http://t.co/n6Ol5MZFbm @IM_Realiserさんから
09-21 17:44
haitakadori
RT @Santiago_Hotel: 2013年9月20日02:25福島県いわき市で震度5強 少し被害が出てる模様 http://t.co/4C8m03Nlpm
09-20 22:00
確かに数十年以上前から、自給自足のコミュニティをつくったり、その中で持続可能な文明のモデルを模索してる人はたくさんいたと思うけど、今事態は少し切迫の度合いを増しているように僕には思われる。
東京から200キロほど離れた場所では原発から汚染水が地下水に流れ続け、4号機倒壊の可能性もいまだ消えず、首都直下型地震や南海トラフ地震の可能性、気象庁が運用を始めた「特別警報」に該当するような自然災害の可能性が一段と高まってきているというような状況がそう思わせるのかもしれない。
TPPというただでさえ弱い日本の農業、食料自給率を根こそぎにする協定に国が参加を始めているということもあるかもしれない。
このような状況の中で、ニュービレッジはおおよそふたつの役割を持つ可能性がある。
ひとつは「サバイバル村」。
自然災害や、経済的破綻、それらに伴う食糧危機時などにおいて食料・水を始めとするライフラインのバックアップとして自然の資源や、ローカルなネットワークを活用するコミュニティとなること。
もうひとつは「新たな文明の雛型」。
農を基本としつつも、新たなエネルギー技術、心身総合医療、スピリチュアルな知恵、通信手段、メディアなど多くの分野の知恵を結集したコミュニティ、持続可能な文明の雛型を個人や小規模なグループのレベルで創造して、その価値観を世に問うていくことだ。
占星術家マドモアゼル愛さんの著作に『森と平野に文化定住する時代』という本があるけど、ニュービレッジは、この本の中で<森に住む人たち>に該当する。

<森に住む人々>は<平野に住む人々>、大企業に関連する人々、金融に関連する人々、国や自治体などの公的機関とも共同できることが理想的だ。
スピリチュアルな思想でよくある「二極化」という言葉で、平野的な生き方、都市生活やテクノロジーを断罪して切り捨てるべきではないだろう。
大きな災害が起これば自衛隊のような訓練された組織や、重機などが必ず必要になってくる。
よく心身総合医療などで言われることだけど、メンタルな部分をケアしたりすることが重要であると同時に緊急的な外科的措置というのは絶対に必要であるし、それを軽視するべきではない。
この場合自衛隊のような組織は、緊急時の外科的措置に該当する。
外科的措置や、薬の投与、MRIやCTなどの技術を、エーテル的レベル(鍼灸、気功、整体)感情体レベルの治療(イメージ療法など)と統合・調和することが求められているのと同じく、山の生き方と平野の生き方を統合することによってこそ新たな可能性が生まれると思う。
ただ今はあまりにも「山の生き方」の実践度が低いので、自給自足や農に意識を向けることがマクロレベルで求められているのだ。
今後仮に、このまま自然災害の脅威や、経済の破綻、食糧危機などが未知のレベルにまで進行した場合、その対策を担うのは主に国や自治体レベルとなってしまう。もしそうなった場合、そのレベルの組織のありようが人の生殺与奪を担うことになる。そして、外科処置的な、対症療法的な措置(瓦礫の撤去だとか、災害の予測技術、食糧の配給など)のみが重要視され、新たな世界へのキーワードとなる「山の生き方」、大地とのリコネクションが忘れられてしまう可能性がある。
それは、マズイと思う。
■情報のグローバリゼーションと、ローカリゼーション
20世紀は情報のグローバリゼーションの時代だった。
1906年に初のラジオ放送(それは外洋を航行する船舶へ向けたクリスマスの挨拶だったそうだけど)をして以来、100年と経たない内に映像受像機(テレビ)の一般普及から、80年代、90年代からパソコンによる個人レベルでの情報の受送信が可能になった。
今では一人一人が携帯型のコンピュータ(スマホやタブレット)で、WEBと常時連結しているということが普通になりつつある。
これら一世紀に満たない間に起こった、幾度にもわたる情報・メディア革命により僕らは世界の裏側で発生した事件を、ほぼリアルタイムで知ることが出来るようになった。世界の裏側どころではなく、アポロの月着陸の際には、遥かはなれた宇宙空間で行われたパフォーマンスを世界中が見つめた。
しかし、これは大きなストレスにもなることだった。僕らは同時に世界のいたるところから送られてくる、
ネガティビティにもさらされることになったからだ。最初の衛星放送で日本人が目撃することになった、ケネディ大統領の暗殺、発展途上の国でやせ細り目を見開いた子供たちの映像、あの2001年9月11日に崩れ落ちたWTCの映像などその数は枚挙に暇がない。
これほどメディアが発達する以前は、僕らはきわめてローカルな情報しか知らなかったはずである。
本当に自分の村の周りで起こる限られたことを、見聞する。メディアと言えば、「瓦版」みたいなものが出回って、遥か遠い「江戸」で起こってることを伝える。そんな時代だって確かにあった。
人がただ江戸時代に小さな村で生きるだけであれば、地球の裏側で起こったことなどまったく知る必要はない。
しかしWTCのテロ映像を見て、みなが衝撃を受けるのは、様々なグローバリゼーションの結果として地球が小さくなったからだ。
それはよくも悪くも、まったく他人事ではなくなってしまった。
恐怖も善意も一瞬で世界を駆け巡る、いつのまにかそのような時代になったのだ。
このような時代にあって、あえて今一度の情報のローカリゼーションが必要なのではないかと僕は思う。
それはあえて情報回路を一番原始的レベルにまで退行させること、つまり自分の目と耳、そして感覚、直観で得られる情報のみにフォーカスすること、一切のメディアを一時的に放棄することだ。
そうするとどうなるかというと、僕らは目の前にある現実、目の前にある人々との関わりにエネルギーを多く傾けるようになる。
そして、無数に発生している世界の悲劇や醜聞にエネルギーや注意力を注がなくなる。
大地と結びつき、自分の目と耳で見聞した情報を広げていく、ローカルに得た食物、情報、をグローバルに流していくということが大事なのではないだろうか。
でないと、ローカリゼーションのない情報グローバリゼーションというのは単なる個人の意志や大地の生命を喪失した、冷たい情報ファシズムに意識を明け渡しているに過ぎないのではないかと思う。
2001年に9・11が起こりその直後、欧米、日本の主要メディアはイスラム原理主義のテログループの犯行だと報道し、それに続くアフガニスタン、イラク侵攻への道を整えた。
それから数年たってネットメディアでは、実は9・11は周到に巨大な勢力によって演出された陰謀で、その目的はもともと軍事的な侵略にあり、そのためにおこなった自作自演だったという説が広がった。
これらの情報はまったく内容は異なるが、そのどちらに飲み込まれても、僕らは自分自身や自分の肉体感覚との結びつきというローカリゼーションを失ってしまう。「隠された真実」のグローバリゼーションにも大きな罠がある。その『真実』が、自分自身の知恵や命、大地と僕らを切り離してしまう限りにおいて・・・。
そうならないように、どのようなプロパガンダにも乗せられすぎないように。グローバルな情報網に載る情報を、ローカルな大地・肉体・感覚・直観に基づいたものにしていくことで真の生命ある情報ネットワークが構築される気がする。
ニュービレッジ間で構築されるメディアはそのようなものであって欲しい。
■潮流
最後に、1970年代から自給自足の暮らしを実践しているパーマカルチャー安曇野の臼井健二さんのお話し
。
からだの使い方や、ヴェーダンタ思想のレクチャーもあったりして面白い。
『農』と、豊かなカルチャーやスピリチュアルな考え方が結合したら、絶対にすごいものが生まれるはず。
「365日働かなくて、365日遊んでても生きていけるんだって」
いいなーそれ^^
寝起きに、ある気づきというか「考え」のようなものが心の中を漂っていることがたまにあるけど8月の半ばくらいに「天地の巡りの中生きている」という言葉とそれにまつわるいくつもの「考え」がずっと回転している朝があった。
それによると今を生きる僕らの、本質的な悩みの大本は、その天地の恵みによって生きているという実感がまるでないことからきているようなのだった。今回はその寝ボケた頭に回っていた「考え」を整理して書いてみたいと思います。
■「何によって生きていると思っているのか?」
では、天地の恵みによって生きていると言う実感がまるでないとすれば、都市文明に生きる僕らは何によって生きていると実感しているのか?
それは多分、食料品を手にいいれる店舗(スーパー、コンビニ、小売商店etc)であり、水道(水道施設)であり、電気(電力会社)であり、ガス会社であり、情報を提供するメディア(TV、ネット含む)だ。
そしてつまるところは、それらからサービスを得たり、物を得るための対価として支払う貨幣だ。
その貨幣を得るために働ける労働環境(工場、企業、公的機関、自分が経営する店舗)によって生きているという認識が大半の人に共通のものとなっている。
僕ら都市型文明人は、天地の巡りによって生きているとはほぼ実感していない。
貨幣と、仕事によって生きていると実感しているのだ。
■人は、生かされてるものに従順になる
人は自らを生かすものに従順になり、無意識的に忠誠を誓うように出来ており、都市型文明人の場合、それは「天地」ではなくこれら現代日本のシステムと、「貨幣」(実質的には絵と数字が印刷された紙や金属)である。
大地や、海、自然の恵みによって生かされているという認識は自らの手で魚や海藻を獲ったり、大地に種をまき農作物を収穫したり、井戸水を掘ったり、水源地から水を汲んできたりという経験からしか生まれようがない。
無農薬や自然栽培の野菜さえお金を出せば、遠い場所からいくらでも宅配されるという環境の今、それらは汚染されていない豊かな土地と水なしには成立しないということさえ、僕らは忘れずにいられるだろうか?
■なぜ天地の巡りの中で生きていると考える必要があるのか?
しかしどうしていけないのか?
種をまいたり、水を汲んだり、薪を割ったり、火を起こしたりせずとも、このシステムの中では生きていける。
極端な話し、お金さえあれば、家の中でじっとして一日に十数メートルしか歩かなくても、生きてゆけるのだ。
足元の大地を命を支えるものとして敬い、空から落ちてくる雨を讃えなくても、確かに僕らは生きていける。
それのどこがいけないというのか?
おそらくそれは、人が自然のエネルギー循環とあまりにも切り離された場合、このシステム内部において価値があり、見栄えがいい虚構の自我を探さずにはいられないからだ。
自然のエネルギー循環の中で生かされているという認識がはっきりしたものであるならば、「天地の巡りの中、生かされている自己」というものだけで本来人の自我は安心するものではないかと思う。
しかし、それが出来ない場合、人はこのシステム内部で機能する、価値のある自分を模索する。
それは自ら、自分の頭や足を切り離した人間が、何か出来合いのガラクタの中からその代用となるものを探して無理やりかけがえのない自分の頭や足のあった箇所にすげ替え、くっつけようとしているかのようなグロテスクさと滑稽さがあるように思える。
僕らは、このゲームの最初から迷い続けるように定められていた。
ある意味、この時に生れ落ちたときから、そうなのだろう。
天地の中の自己を見出さない限り答えはない。
本来その中では、生はシンプルで、自明のことだったのではないだろうか。
■天地‐人
天地と言う概念について考えてみる。
天は、見えない「大いなる意識」、摂理、知性、あらゆる英知を含んだサムシング・グレート、今、僕らの心臓を動かせているその「意志」生命力の本体、可視的宇宙の『種』である。
地は、惑星と恒星、大自然、海、大地、山河、動植物、そこから得られる海の幸、山の幸、農作物などで天の意志が人を介さずより直接的に顕現したものだ。
天が『種』とすれば、地は『樹』である。天は父であり、地は母だ。
その間に『人』がいる。
それが僕らの本性だと思う。
都市文明に生きる僕らはなぜか、自らが「人」により生かされているという認識も希薄になりつつあったようだ。
都市文明は本質的に、消費者としての個(虚構の自我)を尊重し、他者よりも自分を一ランク上に置こうとする衝動によって購買意欲を促進するという側面をも持っているからかもしれない。
あるいは10代から始まる、競争原理に基づいた選別のプロセスにも原因があるかもしれない。
あるいは、他人の醜聞や、人を小ばかにすることがエンターテイメント化していたり、大企業による人を道具化した使い捨て、自己責任社会という名の国家的責任放棄社会にも原因があるのかもしれない。
2011年の、3・11をきっかけとして『絆』や『ひとつになろう日本』という言葉がメディアに広がった。
それらは巨大な災害に直面した結果として出るべくして出てきたキーワードだと思うが、どういうわけか日本人の場合助け合いの精神は容易に、「一緒に見てみぬ振りをする絆」や、「ひとつになって口をつぐむ日本」にも転化するような危険性を持っているように僕は感じてきた。
それが極端になったのがみんな一緒に放射能が含まれた農作物を食べて、被災地を応援しましょう!という「食べて応援」運動だった。
この項の始め、天地人ではなく、天地と人をハイフンで結んだのはこのようなことと関係がある。
確かに人は、他の人や、社会自体に生かされているのであるが人の集団同調性というのはあっというまに全体をおかしな方向へと押し流していく。
天と地に間違いは存在し得ないが、人は誤る。
とすれば人との「絆」(それも集団同調的な類)を至上のものとするのは、明らかに誤りだ。
ネイティブアメリカンのある部族では、成人になるイニシエーションとして大自然の中にただひとりで赴きそこで一人サバイブし、ビジョンを得たりすることで一人前とみなされる。
ここで面白いのは、このイニシエーションは、「社会へのイニシエーションではない」と言う点だ。
社会(人)以前にある、天と地へのイニシエーションであり、自然の中でエネルギーを得て一人生きられる、ということが大人になるということだったわけだ。
そして社会(部族)とは、個々天地のイニシエーションを通過したものたちが構成する、二次的なものだったのだろう。
ところが日本社会の場合伝統的に元服、成人になるということは社会的な責任を負う、ということと等しくみなされている。
働く、であるとか、礼儀であるとか、モラルであるとか雑多なものがたくさん「大人」という概念を構成しており、そのために一人前になるとはどういうことかよくわからなくなっている。
しかしそこにはやはり、自分で生きるだけのエネルギーを調達できる、周りに頼らずともこのシステムの内部でエネルギー(貨幣)を自分で調達して生存していける、ということが「大人」という概念には通底している。
都市文明型の先進国の場合、天地の中で生きられずとも、社会の中で生きられれば「大人」になれるということだろう。
■近くて遠い、命の水
伝統的なネイティブアメリカンの基準で言えば、現代の日本はそのほとんどがイニシエーションを通過していない未熟な子供によって構成された部族ということになるかもしれない。
生きていくうえで一番大切となる飲み水さえも、水道や、市販のミネラルウォーターを買うと言う手段をとらなければ、どこで手に入るのかほとんどわからないという事実に少し愕然としたことがある。
基本的に水を得るには、
①雨水を集める
②井戸を掘る
③湧き水、川、湖などの水源地を知っている
の3つくらいしかないと思うけど、僕の住んでる場所ではこのどれも簡単に出来そうもないのだ。
現状では僕もやはり天地の中で生きるというイニシエーションに合格するとは思えない。
福島第一原発から放出された放射性物質は、雨となって東北から関東にいたる広大な土地をチェルノブイリの放射線管理区域レベルにまで汚染した。事故直後には東京でも飲料に不適当なほどの放射性物質が検出され、今でも微量が各地で検出されている。
このことが教えるのはシンプルな事実だ。
天地の巡りを汚染すると、人為的なシステム内部にも必ず影響が及ぶ。
あまりにも当たり前のことだけど、僕らはこの事実を見てみぬふりをしてきた。
案外このような負の影響によってこそ、もしかすると天地の巡りの中で生きているという実感をようやく僕らは学びつつあるのかもしれない。
通過儀礼を未経験の日本部族というある意味こどもの集団にとっては、それこそが天地のイニシエーションなのだろうか。


高尾山蛇滝口付近にある、水汲み場。
都市部にもこういう地下水などの供給場所が必要だ。なぜ井戸を埋めてしまったのだろうか。。。
■実感を得るためには
整理してみると、天地の巡りの中で生きているという認識を持つことによる利点はふたつある。
ひとつは、そうすることで初めて真の意味で、環境保護や自然と調和したエコロジカルな生活というものに本気になれる可能性があるということ。
ふたつめは、そうすることで初めて、システム内部でのみ価値をもつ虚構の自我認識から、天地の狭間で生きると言う本来の自己意識にシフトできるということ。
ひとつめは外面的な利点、ふたつめは内的な利点だ。
実はどんな状況下においても、人が天の意志において生きているという事実は変わらない。
今、僕らがこの自分の日常と言う人生の一コマをまるで当たり前のように眺めていられるのは、大本の『種』の生命力と「生きよ」という意志があるからこそだ。
今、僕らがここにいるのは大いなる意識、父の意志があるからだと僕は信じている。
<種>とのつながりがあるからこそ、僕らはこのように生きて、この世界・<樹>をこの目に映している。
それがどんな世界であったとしても、だ。
より微細なエネルギーほど、人の管理を超えていたるところに遍満している。
第一に<種>の意志、そして、太陽光や、呼吸に必要な酸素もそうだ。
それらを意識することで、都市に生きていてもわずかながらは天地の恵みで生きているという感覚を得られるだろう。
天はいつでもある。
問題は、地との絆だ。
僕らは文字通り、大地により生かされてるという認識がないがために、「地に足がついていない」。
さまよえるユダヤ人のような心持ちで漂泊の日々を生きている。
もっとも実質的な答えは、大地を耕したり、井戸を掘ったり、採集をしたりして自給自足的な生活を送ることだと思うけど、誰にとってもすぐに実行できる答えではない。
僕にとっては、今いる場所でできることといえば前にも書いたけど、いろいろな分野での自家発電レベルをあげていくということだ。
情報・思想の分野ではなるべく定期的にTVやネットから離れる時間を設け、直観的に感じることや、ひとりでに心に入ってくる情報への感度を研ぎ澄ませること。誰の語ることでも、一歩引いてその情報を吟味すること。
肉体やエーテル体のレベルで、自分の体を活性化できるようなエクササイズをみつけて、行うこと。
あとは手造りのレベルをシフトさせていくことだ。
いつも毎食外食や、スーパーのお惣菜を買っているのなら、一食くらいは自炊してみる。
何回かお酒を造ってみたことで、酵母の働きなどが少しわかってとても勉強になった。
僕らの生活を成り立たせている各要素の根源に向かって意識を遡行させていくと、とても多くのことが学べるのだなと思った。
それは机上の知識ではなく、実生活の基盤を成り立たせる生きた知識だ。
そういう領域に少しづつでも触れていくということが今後、必要なのではないだろうか。
手造りのレベルを少しづつ、根源に遡行させていくことによって少しづつでも大地に近づけるように思うのだ。
しかし究極的には、マクロのレベルで大地と結びつく機運が盛り上がらない限り、この国は相当ヤバイことになってしまう気がしてならない。
TPPに参加したり、衆議院選で現与党が圧勝したりしている様子を見ても、この件に関しては政治にはほとんど期待が出来ない。個人的には政治や、オリンピックのようなイベントに期待する時代はもう終わったと思っている。
そうすると自然的に有志のグループ、あるいは個人が大地と結びついた暮らしを実践するしかないわけで、結局話しは村づくり、コミュニティつくりが必要だということになっていく。
村と言うと前時代的な感じがするけど、それはかつての生活形態に退行するのではなく、大地との絆が重要だと気づいた人が前向きに今あるテクノロジーも取り入れつつつくりあげるようなものになる。
古く見えて、実は新しい村、ニューヴィレッジ、その出現が必要とされている。

haitakadori
RT @maee2011: 室井佑月 東京五輪決定も「世の中の雰囲気についていけない」 http://t.co/3UIDPDoMYd 国の方針に間違いはなく、絶対に信じられるものだという情報をなにか握っているなら、あたしたちにもわかりやすく教えて欲しい。時間が経てば経つ…
09-11 23:35
haitakadori
エココミュニティ「シャンティ・クティ」のビジョン 仕事とは人の役に立つこと http://t.co/kUHYZHPrUy
09-10 18:31RT @kennkou1: 記者「安倍首相は嘘を言っているのではないですか。港湾外に漏れた可能性があると東電も発表しましたよね。」東電「私達はコメントできないです。」http://t.co/TKyxRx6C1j
09-10 14:42【報道と事実は違います】 いわき市からの避難者mikoさんのお話 【日本中のお母さんへ】 http://t.co/ebQ2LAf0zm @oldblue2012さんから
09-10 14:40
歌詞とけだるい雰囲気が最高にイイ。
沢木耕太郎「深夜特急」のドラマで知ったんだったっけな~・
積荷のない船 井上陽水
積み荷もなく行くあの船は
海に沈む途中
港に住む人々に
深い夜を想わせて
間に合えば 夏の夜の最後に
遅れたら 昨日までの想い出に
魚の目で見る星空は
窓に丸い形
旅行き交う人々が
時を楽に過ごすため
サヨナラは 雨の歌になるから
気をつけて 夢と夢が重なるまで
過ぎ行く日々 そのそれぞれを
なにか手紙にして
積み荷もなく行くあの船に
託す時は急がせて
帰るまで 好きな歌をきかせて
会えるまで 胸と胸が重なるまで
haitakadori
RT @Denik824: NHK「東京に決定!」 日テレ「東京に決定!」 TBS「東京に決定!」 TOKYO MX「東京に決定!」 フジテレビ「東京に決定!」 テレ朝「東京に決定!」 テレ東「このネックレス、キラキラしてますねぇ~」 http://t.co/8gg…
09-08 18:09RT @tjimbo: ^_^ RT @Denik824: NHK「東京に決定!」 日テレ「東京に決定!」 TBS「東京に決定!」 フジテレビ「東京に決定!」 テレ朝「東京に決定!」 テレ東「このネックレス、キラキラしてますねぇ~」 http://t.co/iqwO…
09-08 18:085金スペシャル霊魂と肉体: あの世とこの世を分かつもの - マル激トーク・オン・ディマンド - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局 http://t.co/N4Ar6grTCh
09-08 14:26RT @Happy11311: 安倍首相が汚染水問題に対し「問題ない、事実を現実を見て」と言うならば、東京オリンピックに決定した際は是非とも1Fの現場に国内、海外問わず報道機関の常駐取材を認めて国内外に対し毎日公表して欲しい。そうすれば、オイラ来週から1Fの事をつぶやく必要なく…
09-08 13:51RT @tjimbo: 本気でそう思ってそうなところが、ちょっと怖いかも。|首相「汚染水は完全にブロック」 IOC総会で http://t.co/v9DjTDNN2p”
09-08 13:41
また職場で素敵なアニソンを知ってしまった・・
津波など案ずることなく・・・?
夢の島思念公園
歌/作曲/作詞/編曲:平沢 進
ラーイーヤー ラ ライヨラ 空に見事なキノコの雲
ラーイーヤー ラ ライヨラ 小道で餌をはむ小鳥の午後は
木漏れ日の芝に手を触れて キミと語ろう
ほらランチのベンチの上で 夢は花咲く
波の音を その胸に 憂鬱は沈めて
橋を明日に伸ばし 津波など案ずることなく
ラーイーヤ ラ ライヨラ あんなに見事な飛行機雲
ラーイーヤ ラ ライヨラ 人気の通りに人行く午後は
微笑みでしばし手を取れば キミと歩こう
ほら「万事に休す」の声も 風がかき消す
明日の日はかまわずに 行く先は任せて
胸に鍵を掛けて 雪崩など信じることなく
ラーイーヤ ラ ライヨラ 夢に見慣れた炎の雨
ラーイーヤ ラ ライヨラ オフィスの窓辺で目覚めた午後は
木漏れ日の芝に誘われて キミと出かけよう
ほらランチのベンチの上で 夢は花咲く
草に吹く風を聞き 憂鬱は投げ捨て
明日も晴れと信じ 夢見など案ずることなく
ラーイーヤ ラ ライヨラ 空に見事なキノコの雲
ラーイーヤ ラ ライヨラ 小道で餌をはむ小鳥の午後
ラーイーヤ ラ ライヨラ ランチのベンチで育てた夢
ラーイーヤ ラ ライヨラ 木漏れ日の日に生まれた午後よ
このOPは、みんな意味不明に大笑いしてていっちゃてるけど何度も見てしまう、中毒性があるなあ。
↓ ↓
その頃かなり情報シャットアウトモードだったけど、その状態からどこへ向かえばいいのか模索していたときのこと。
I先生:「M君にはこれが向いてるんじゃないかと思うけど、神を見るのも私の意識、現実を見るのも私の意識、結局私の意識を通してしか見てないんだよね、物事っていうのは。で、神を見れば神になるし、現実を見れば現実になるんだよ。それが我々の意識なんだよね。
じゃあ我々の意識は現実的なものなのか、神様的なものなのかって言ったら、それは神様に向かうって言ったら神様に反応してることだし現実に向かうってのは現実にむかって反応してるだけなんだ。
問題は、「私の意識」なんだよ。
私の意識が磨かれてれば、どうなるかっていうと「これ」がすべてなの。
「これ」がすべてになるとどうなるかって言うと、世界はどうでも良くなる。
灰:うーむ
I先生:「これ」が私だから。
世界はどうでもよくなる。極端な話しで言うと神もどうでもいいんだよ、「これ(意識)」が完璧だったら。
でも「これ」がちょっとよわっちいから、やっぱ神に少し頼った方が「これ」もキープしやすくなるって言うことなんだ。
現実見ればマーヤになるから、これは却下していいわけだ。でも神を見ていれば、その神とのつながりの中でちょっと安心できる。起こることもみこころだとか、そういうおまけがついてくるからね。そうするとちょっと安心していられるってところもある。
でも本質的には純度100パーセントの覚醒状態にあるときは、自分の意識しか存在しないんだよ。
言ったらさ、キノコとか食ったことあるじゃない?
灰:はい
I先生:キノコ食ってるときって、これが世界だ、になるじゃない?ここだけが世界だって。
灰:うんうん、そうですね。
I先生:もうさ、外の世界で起こってることとか、日々の人間関係とか思い出したら、笑っちゃう・・・みたいな。起こってねえよなあ、みたいな、感じってあるでしょ。で、あれってウソじゃないんだよ、ホントの話しなんだよ(笑)
もし我々がメキシコとかの、山奥の掘っ立て小屋に一人で住んでたら、で、そこで毎日キノコ食って生活してて人々と関わらなければどうなのかっていうと、それって全然ありな話しじゃん。間違ってないじゃん。
それで自分が生きられるだけ生きて、そこで死んでいくって言うさ・・。
てことは、それが都会に移っただけの話で、なんでお前らと協調しなければいけないんだ、っていう、そんなルール誰が決めたんだよっていう話しなんだよ、言ったら。
キノコ食ってると、ああこれが世界なんだよな・・・てなるわけだよ。
それは何を見てるかって言うと、今の自分の意識しか見てない、今の意識の状態だけ見てるってことなの。
普段、なんでM君がマーヤになっちゃうかって言うと、他人のこと考えるからなんだよ。
外のこと考えるからなんだよ。
それ考えないで、自分の意識の中にいたら・・・・(くすっ)・・・ハッピーなはずだよ。
ね? 言ったら、M君にとって、今回りにおこってる現実が、現実なんだよ。
ね?健康保険払ってないくせに、現実なの。
灰:あははははは(汗)
I先生:俺は健康保険も払ってるし、いろんな税金とかも払ってるけど、でも現実じゃないのこれが。でも確定申告の時期とかがくると3月はマーヤぽくなったりするわけ(笑)
M君は、自分に正直なんだけど、その社会の流れに沿えてないところっていうのに、多少後ろめたさを感じてるんだよね。
灰:うん、多少ありますね。
I先生:ね?そこがマーヤになってる。その社会って言うのがM君にとって現実だからなんだよ。これをもっと起こってないことにしなきゃいけないの。
灰:もっと却下する?
I先生:うん、もっと却下する。だから、「それは起こってない。自分にとって在るのは、この俺の意識だけだ・・」
灰:っていう方向性が僕には向いてると。それは神様に向かうのともまた違うんですかね。
I先生:で、それを神様に向けたときに、それがマーヤにならなければOK!でもそれはね、正直にいうとその日のコンディションなんだよ。
なんでかっていうと、意識状態って言うのは純度が高くなればなるほどマーヤはなくなるから、もうこの意識だけでOKっていう状態になるんだけど、マーヤがちょっとでも入ってくると純度が落ちてくるから、そうするとちょっと純度が落ちると神様がでてくるわけ。もうちょっと純度が落ちると、マザーがでてくるわけ。みこころがでてくるわけ。もうちょっと純度が落ちると神々がでてくるわけ。もうちょっと純度が落ちると、段々・・先祖とかが出てきて、、、
灰:笑
I先生:それでついに純度が完全に失われると、現実が現実になっちゃう・・・っていう。
なんでちょっとでも純度が落ちると神かって言うと、神があるってことは私と神との間がわかれてるんだよね。分離してる状態だから、それはホントに純度にちょっと混じりっけが、1パーセントくらい混じりけがあると神が出てくるの。で、10パーセントくらい混じりけがあるとマザーとかが出てくるわけだ。
それはその日のコンディションによるから、「あ、今日神様だな」と思えば、神様って行けばいいし、「今日マザーだな」って思えば、マザーに行けばいいし、「今日は、なんか俺だな」って思ったら俺でいいと思うんだよ。
でもいえてるのはM君にとって問題なのは、やっぱり現実だと思うから、いかに現実を却下していくかということだね。
灰:じゃあ、今のいろいろなものを見ないっていうのはそういう感じでいいんでしょうか。
I先生:そうそう、でそれをやっていてM君の「個」ていうものを確立させていくということ、で、いいんじゃないかと思うよ、俺は。
あのね、二種類の社会制度があって、いや3種類あってひとつはイスラムの社会制度ね。今日はこれはのけておくとして、あとふたつは日本とか先進国の社会制度、もうひとつはインドの社会制度。
先進国の社会制度は、働ける人が働いて、とにかく国にお金を納めて年取ったら国に面倒を見てもらうっていう考え方。で、もうひとつの社会制度は、ある一定の年になったら、世捨て人になりなさいっていうインド的な社会制度だ(笑)
で、これ実はすごくいいわけ。
世捨て人になった人って言うのは、ダラムサラとかに泊まれるし、お寺言ったらフリーフードにありつけるし、医療も受けられるし、サドゥーになったってちゃんとご飯食べられて、寝るところもあって、病気になったら診てもらえるんだよ。サドゥー、って言ってもね。聖地に行けばそういう施設って整ってるわけ。
だから俺は、それすごいと思うんだよね。年取ったらホントにすべてから自由になりなさいっていうことが社会制度のひとつの形になってるてことはね。だからインド人ってあんなに気楽にいられるんだと思うよ。
灰:どうせ世捨て人になるから・・?(笑)
I先生:笑 そうどうせ世捨て人になるんだからってこと。言ったらこの社会ってものをはなから重要視してないんだよね。それに頼って生きていこうって人がいないんだよ、だから。
日本人とか先進国の人間の失敗って言うのは、なんとかしてこの国に頼らないと生きていけないって思うから、国の奴隷になっちゃうんだよ。それが、マーヤ。
だからそういうものの捉え方って言うのを、M君の場合は「起こってない」っていう感覚をもっと徹底させたほうがいいのかもしれない。
なんか、こう一人前にならなきゃとかさ、なんかそういうことじゃなくて・・・ね。
だから、最初の会話があれなんじゃん。
「天職はなんですか? 無職です!」っていうね。
最初の俺たちの会話が、今に伝わる名言集に残ってるわけだ。
それがねホント、M君をあらわしてると思うんだよ。
灰:え・ええ~~~っ(;;)
I先生:だから社会的な地位を得ようとかって考えるよりも、逆にどうそれを却下できる意識を作れるかってことだと思うんだよ。これから先社会からお金をもらって生きていくにしてもね。
2013年 4月某日
「天職は何ですか? 無職です」と言うのは
もう9年くらいは前になると思うけど、東京に着たばかりの頃、僕はやはり保険も年金もちゃんと自分で払える週5日間の仕事につかなきゃという思いも強く残業がバリバリある出版社で働き、三鷹から御茶ノ水まで毎朝早く中央線に乗って通っていた。でも次第に死にたい気持ちが強くなり、耐え切れず辞めた。
その直後にいったI先生の瞑想会で「いったい天職はなんなのでしょうか」と質問した。
僕としてはどういう仕事なら向いてるか、続けられるかを知りたく、「静かな環境で働ける仕事がいいね」とか、「クリエイティブな仕事が向いてるよ」とか、「君は人を癒す使命がある!ヒーラーになりたまえ」とかなんとかいう答えを期待していた僕は、先生に
「今は何してるの?なに、無職か。それなら今の天職は無職だ!」
というのを聴いてかなり腰砕け状態になったのだった。
これが向いてるというようなことは一切教えてもらえなかった。
でもそうためらいなく言い放たれると、ある種爽快感と、ちょっとした安心感があったのも事実だ。
それからいろいろな仕事をしてみたし、ほぼ働いていない期間もずいぶんあった。
今の仕事は3年以上続いてて、一応自活できている。
でもなかなか社会保障とかのほうまでちゃんと払えなくて、なんとなく半人前のような意識とか、先行きが不透明で不安だと言う気持ちもあり、長い間会ってなくてもi先生はその辺がマーヤになってることはすぐにわかるようだった。
あと、人のことを必要以上に考えるとマーヤになるというのもここ数ヶ月でずいぶん理解が深まった気がする。
結局あの人にああ思われてるんじゃないかとか、あの言葉が気に障ったんじゃないかとかずっと思ってると、自分の内面性というか意識性に深く入ることが出来なくなる。
外側のことを考えすぎると、そこからエネルギーが流出して、意識の覚醒感がまったくなくなってしまうのだった。
その疲弊感を紛らわすためにアルコールに頼ったりしていたことが、介護の仕事を始めてから増えた。それがマーヤであるということが、i先生に久しぶりに会ってはっきりした部分もあった。
基本的には外面性に捉われるほどにやっぱり、先生の言う意識の純度は低下していくように感じる。
外面性というのは、人間関係とか、社会の常識・非常識とか、不安を感じるようなニュース、とか。
内面性は、夢やイメージ、平安や喜びのフィーリング、愛、などがその浅い層に存在しており、その本質はやっぱり神(意識)なのだろう。
ラーマクリシュナとかが、「常に神のことを考えていると言うことが意識のエネルギーを保持することだ」というようなことを言ってるのは、真の内面性にフォーカスし続けることが、外面性というこの世界の幻にエネルギーを垂れ流さないことにつながるからだと思う。
人間関係の外面性という側面において、多少ぎくしゃくいしていても、実はその内面性においてはすでにつながっている。意識というもっとも内奥の場においてすべては一体だというからだ。
それは一本の大木のようだ。
枝先のほうで葉っぱ同士が風になぶられて互いにぶつかり合い、罵り合っているように見えたとしても、視線をズームアウトするとそこには実は葉も、枝も、幹も、根も一体となった一本の樹しかない。
僕らの意識は常に小さな一枚の葉としての自分に同化しているので、その認識からすると場合によっては樹全体が敵に見えるし、自分にぶつかってくる他の葉っぱはわずらわしい。
樹としての全体に、自分の意識をシフトさせることが、神を想う事、神を知ることなのだろう。
一枚の葉っぱの外面性は取るに足らないものかもしれない。
他の葉がぶつかり、虫たちにたかり食い荒らされ、風雨にさらされる。
あの葉が散ったとか、あの葉がむかつくとか、あの葉は才能があるとかそんなゴシップ話で樹はもちきりだ。
でもその内面性は常に変わらぬ不死の巨木であり、すべての葉っぱたちであり、すべてを生かす命そのものだ。
それを知るには、葉っぱたちは外側に映る物質世界の幻(マーヤ)をやさしく退けて、内面性に向かわねばならない。
haitakadori
それも7月26日、マヤ暦による「銀河の同期」以後いろいろな動きが出てるように見える。
09-01 23:41やっぱり水による浄化のとき、ウォータークロックが始まってるのかな。
09-01 23:38そういう方向には無意識レベルでみんな結構いやになってると思うので、エネルギーが集まらないのではと思います。
09-01 22:24人為的な行為の後片付けと、自然への対応だけが必要なことで、あらたな虚構的イベントはもう起こしてる場合ではない。個人的にはオリンピックももういいでしょと思うんだけどな。
09-01 22:22それよりもこの列島を日常的に襲う大雨や、その他の自然の脅威、変わっている地球に日常レベルでどう対処していくかということが大きな問題で、戦争とか人為的なイベントをしてる場合じゃない気がする。それと、あとは、人為的に始めちゃった原発産業の後片付けどう対処するかということ。
09-01 22:19シリア攻撃に反対するアメリカ国民や英の議会を見ても、なんとなく戦争に共鳴する意志というものが10年ほど前と比べてかなり減退しているようにも思える。だから個人的には中東戦争や第三次世界対戦という言葉にあまりリアリティを感じない。
09-01 22:16