2013.
11.
20
命の斥候
霧に包まれた小高き丘
私は私の鷹とともに立つ
何一つ音とて聞こえぬ
この名もなき荒野の丘に
霧が晴れても希望は見えぬ
その彼方に少しづつあらわになるのは
黒き水に浸され沈んだ都市
あの都市が
私が生まれた懐かしきふるさとだったのか
あるいは足を痛めながら厳しい寒さの幾夜を
かの地を目指し歩き続けた
約束の土地であったのか
それすらもうおぼつかぬ
私にわかるのは
街はもう死に絶えているということだけだ
その沈んだ廃墟を見下ろす霧の丘に
私はただ立っている
何度も何度も鷹を街へと飛ばしたが
命ある知らせは戻らなかった
そして丘での果て無き夜営は
幾夜も続く
その焚き火の炎のみが
友の鋭い瞳に映りこんだ
力なく鳴くお前よ 友よ
お前ももう深き傷を負っているようだ
もうあの街へは飛ばなくてもよい
私のただひとりの道連れであり、希望よ
しかしもうひとたびだけ 行ってくれるか
夜明けとともにお前をもう一度 空へと放つ
鷹よ 遠く高く舞い上がり
死に絶えた廃墟の塔をも越えて
いざ
命の泡立つ海を目指せ
幾重にも続く石の回廊をくぐりぬけて
こんじきの夜明けより
かぐわしい花の一輪をくわえて戻れ
私のたどりし旅の道を眼下に俯瞰し
路傍に私が落とし忘れた
喜びと苦しみの涙をも拾い上げて
時をひるがえれ
友よ
お前のいない夜を
私はこの名もなき丘で明かそう
さあ 早く戻って来い
鷹よ 生命の斥候よ
私の生きる証を携えて
はじけるような羽音と太陽と共に
この腕に戻れ
May 2013
words by Haitaka
2013.
11.
17
尾崎豊 「誕生」
俺の時計の針がちょうど午前零時を指した
過ぎ去る時は新しい日の中に消え去ってゆく
訳もない涙が溢れ そっとこぼれ落ちる
分からないものが俺の全てを狂わせてしまった
愛を失い 仕事すらなくし 俺は街を出た
そして俺は一体今 何を待ち続けているのか
ポケットには別れた家族の写真がある
皆で笑い俺は兄貴に肩を抱かれている
その写真をながめる度 分けあった訳の中に
それぞれが選んだ生き方を 思い浮かべてみる
人生はいつも誰にも 冷たいものだから
捨ててしまうことの方がきっと多いものだから
街の風は凍ついたまま吹きつけ心隠さなければ
大切なもの何ひとつ守りきれやしないから
そっと目を閉じて ふっと心閉ざし 暮らしているけど
Hey baby 俺はクールにこの街で生きてみせる
Hey baby 俺は祈りの言葉なんか忘れちまった
俺はきっとまだ マトモにやれるはずさ
街中の飢えた叫び声に 立ち向かいながら
俺は走り続ける 叫び続ける
求め続けるさ 俺の生きる意味を
一人で生きる寂しさに疲れ やがて恋に落ちた
彼女と二人暮らし始めて半年が経った
マトモな仕事が見つからずに 荒れ果てた暮らし
投げ出したくなる そんな暮らしが続く日毎に俺は
愛の温もりも忘れて 心はすさんでゆき
自分自身から逃げ出そうと 脅えて暮らした
心の弱さの逃げ道に罪を犯した俺は
捕らえられ 牢獄の重い扉の奥で息をひそめた
そして裁判の後 俺は手首ナイフで切り付け
気がつけば病院のベッドの上 薬漬にされた
あぁ教えてくれ 俺のどこに間違いがあるのか
街の冷たい風から逃れて生きてきただけなのに
やがて俺もマトモな生活を見つめ彼女と暮らした
ある日彼女は 涙ぐむ笑顔の中でつぶやいた
二人の新しい命が宿り 生まれてくることを
Hey baby 俺はクールにこの街に生まれた
Hey baby そして何もかも捨てちまって生きてきたんだ
生きる早さに追いたてられ 愛求め 裏切られ 孤独を知り
振り返ることも出来ず 震え暮らした
そして走り続けた 叫び続けた
求め続けていた 生きる意味も分からぬまま
産声を上げ そして立ち上がり
やがて歩き始め 一人きりになる
心が悲しみに 溢れかき乱されても
脅えることはない それが生きる意味なのさ
Hey baby 忘れないで強く生きることの意味を
Hey baby 探している 答えなんかないかもしれない
何ひとつ確かなものなど 見つからなくても
心の弱さに負けないように 立ち向かうんだ
さぁ走り続けよう 叫び続けよう
求め続けよう この果てしない 生きる輝きを
「新しく生まれてくるものよ おまえは間違ってはいない
誰も一人にはなりたくないんだ それが人生だ 分かるか」
2013.
11.
16
haitakadori
RT @SNOOPYbot: 怒りを内向させとくのはよくないわ、チャーリー・ブラウン…あなたにしてほしいことは、怒り狂うことよ!叫ぶのよ!がまんしちゃだめ!言いたいことを言うの!さあ! ルーシー
11-15 21:26
2013.
11.
12
「たぶん君自身になるってことは 泣き叫ぶ嵐の中に、君ひとりいるってことだ、そのとき君が求めるすべては人の焚き火に手をかざすことだけ・・・」
ブエブロインディアンの言葉「今日は死ぬのに持ってこいの日」より
もうわかってきただろう
自分の人生について文句を言える相手なんて
どこにも存在しないんだ
そしてそれは、とてもいいことだって言うことを
自分の生死についてクレームをつけるカスタマーサポートなんてない
親に 教師に 社会に
責任を押し付けどれくらい罵声を浴びせても
僕は 僕の生を生き 死を
死ぬ
この時空間に生きているということ
そのはかない絶対性こそが
唯一確かな「今」だ
この時空間について嘆くのも 期待するのも
ちょっとマッタ
自分が楽園に生まれたハチドリなのか
家畜小屋に生まれた豚さんなのか
それすら僕はわからない
なぜなら僕が受けた教育 教え込まれた常識 すべてがこの時空間の産物であり
未来の歴史学者に笑いものにされるくらいのものかもしれない
うすうすそうとは思いつつ
それでも僕らはけなげに この時空の「知」を崇めながら生きる
私は知っているという傲慢さも この今のはやりだから
全部ウソだって思うこともあるけど
僕が多分本当だと思うことは
この今が楽園であろうと 地獄であろうと 審判を控えた煉獄であろうと
あらゆる時を住処として あらゆる時空に水のように染み入る
大いなる意識の意志として 僕はここにいること
僕らはその水滴の 一粒 一粒
このとき この今が 僕らの思ってるものであろうとなかろうと
僕らの未来が 僕らの望むものであろうとなかろうと
大いなる僕らはこのときを住処とすることを選んだ
雨粒が 畑の土にも 屋根瓦の上にも アスファルトの上にも
場所を選ばず降り注ぎ 流れ落ちて 地上の埃を洗い流すように
僕はこの時空に浸潤する
かつてたくさんのしずくたちが
ユダヤ人狩りの黒い霧がたなびく欧州の街や
灼熱のヒロシマをも住処として染み込んでいったように
恐れを知らぬ無限の愛と情熱を持って
その愛を身内に感じながら
僕らはこの時空間における 自分自身の生死と向き合う
私は知っているというものに 騙されるな
彼らはあなたの生死になんの責任もとりはしない
誰だって、そんなことはできないんだ
自分自身になるってことは、
君自身になるってことは 泣き叫ぶ嵐の中に、君ひとりいるってことだ
真っ暗な嵐がゴウゴウ吹いている場所に立つってこと
そこで初めて 小さな光が 自分自身の小さな命の光が見えてくる
なにもわからなくたっていい
その光が
無限の愛と情熱を持って
僕が
この時空に生きて 死ぬことを選んだのだから
2013 Oct
2013.
11.
10
haitakadori
http://t.co/IRZXwczjIC サバイブの極意は「何もいらない」!? 火起師(ひおこし)・大西琢也さんにきく
11-09 22:28RT @Michael_Ende_jp: 木はただの化学システムではなく生きた存在です。そして古代では、それをドリアードと呼びました。木々と少し集中して共に生きるならば、この生きた存在の背後に何か霊的なもの、現実に霊的なものが隠れていることに気づきます。 『Zeit-Zaube…
11-09 21:10
2013.
11.
09
好きな歌シリーズ、今回は~
奴らの足音のバラード
なんにもない なんにもない
まったく なんにもない
生まれた 生まれた 何が生まれた
星がひとつ 暗い宇宙に 生まれた
星には夜があり そして朝が訪れた
なんにもない 大地に ただ風が吹いてた
やがて大地に 草が生え 樹が生え
海には アンモナイトが 生まれた
雲が流れ 時が流れ 流れた
ブロントザウルスが 滅び
イグアノドンが 栄えた
なんにもない 大空に ただ雲が流れた
山が火を噴き 大地を 氷河が覆った
マンモスのからだを 長い毛が覆った
なんにもない 草原に かすかに
やつらの足音が聞こえた
地平線のかなたより マンモスの匂いとともに
やつらが やって来た
やって来た
やって来た
奴らの足音のバラード
なんにもない なんにもない
まったく なんにもない
生まれた 生まれた 何が生まれた
星がひとつ 暗い宇宙に 生まれた
星には夜があり そして朝が訪れた
なんにもない 大地に ただ風が吹いてた
やがて大地に 草が生え 樹が生え
海には アンモナイトが 生まれた
雲が流れ 時が流れ 流れた
ブロントザウルスが 滅び
イグアノドンが 栄えた
なんにもない 大空に ただ雲が流れた
山が火を噴き 大地を 氷河が覆った
マンモスのからだを 長い毛が覆った
なんにもない 草原に かすかに
やつらの足音が聞こえた
地平線のかなたより マンモスの匂いとともに
やつらが やって来た
やって来た
やって来た
2013.
11.
01
ちょっと外に出て、動物や鳥や木や雲に感謝し、本気で風を感じて、本気で雨に触れ、この地球上で人間として生きるとはどういうことなのかを本気で思い出したら、ここが私たちのもてる唯一の惑星だということに気づくかもしれない。
ジョン・ヤング 「グッドニュース」デヴィッドスズキ著 より

『箱』の中の脳
一応、このシリーズのまとめとして今回の記事を書いておこうと思うんだけど、このシリーズを書いてるうちに考えていたことのひとつは持続可能な社会とは、あるひとつの文化形態であると同時に、その背後にある形態の意識が、もっと即物的にいうとあるパターンの脳活動が存在していなければならず、それはどのようなものかということだった。
思い至ったのは、持続可能な社会とは、意識が本当に自然とコネクトした「接続型文明」でなければならないということだったけど、このことを別の側面から補完しさらなるインスピレーションを与えてくれるような文章に読んでいた本の中で出会ったので紹介してみたい。
その一連の文章はデヴィッド・スズキ著「グッドニュース」の最終章にあった。
そこでは、アメリカニュージャージー州で原生自然理解学校という、子供たちに自然の中のサインを見つけたりその中で生きる方法を教える学校を運営しているジョン・ヤングという人物の言葉が紹介されていた。以下その場所の引用。
ヤングは、四十代前半の男性で、小柄で痩せ型だが、エネルギッシュで活気に満ちている。彼はこう話してくれた。
「子供たちがコンピュータに向かっているときの脳波を調べてみると、脳の中のごく一部が局在的に使われるだけだということがわかります。一方で子供が庭に出て、ボールで遊んだり、カエルを捕まえたり、木に登ったりしているときは、脳全体に電気信号が送られています」
今や、人々が人工的で制限された対象ばかりを重視することなどから、私たちの文化は、地球が物理的にどのように機能しているかと言う現実と、危険なほど調和を欠くようになった。そして、このような乖離をおしすすめた理論に基づいて、学校の目的も設定されているのだ。
「私たちは、脳全体を等しく使うのではなく、脳の特定の一部だけをとても激しく使っているのです。どうりで私たちの文化では、バランスも崩れているし、実際の三次元からなる現実に気づいていないし、さらには、自分たち自身の食べ物や空気を汚染することが、いかにとてつもなく馬鹿げているかが理解されないわけです」
これを大人にもあてはめると、先進国で生活する多くの人は、宇宙から切り離された『箱』の内部のような社会で生きることを続けるうちに知らぬ間に脳のごく一部だけを極度に興奮させたような意識常態で生活しているということになる。
それはまるで無限世界から自らを切り離した『箱』型文明にいるという状態が脳の働きにそのまま対応しているかのようだ。
ジョン・ヤングの師匠はトム・ブラウンといって、アパッチ族のストーキング・ウルフという名を持つ長老から自然のことを学んだ人物だ。ストーキングウルフと言う名は彼が、狼に気づかれることなく忍び寄りその背に触れることが出来たという逸話から来ている。
このトム・ブラウンという名前はどこかで聞いたことがあると思っていたけど、何年か前に彼の著作である「ヴィジョン」という本を読んだことを思い出した。
徳間5次元文庫から出ているのだが、あまり5次元文庫らしくなく空想的なアセンションストーリーではなく、ものすごく地に足の着いた、そしてある意味とても厳しいスピリチュアリティが語られていてとても勉強になる印象深い本だったことを覚えている。

トム・ブラウンはジョン・ヤングにストーキング・ウルフから教わったことをすべて伝授したということらしいので、ジョン・ヤングはネイティブアメリカンのスピリッツを継承しているようなそういう人なのだろう。
トム・ブラウンは17歳で、師匠と別れてからその後10年をひとり原野で放浪生活をしたというから気合の入り方が、普通のスピリチュアリストとは一味違う。
現在、アメリカでトラッカースクールを運営して自然の中でのサバイバルやそれに伴う必要のある哲学を教えているという。
トムブラウンジュニア 伝説のトラッカー(トムブラウンや、トラッカースクールについて)
漫画家のさくらももこさんがストーキングウルフの教えを絵本にした、この本も有名だ。(さくらももこさんはトラッカースクールを以前受講している)

現代文明は、とても高度に発達してあらゆる情報が昼も夜も電波や光回線を通じてかけめぐってい情報化社会だけど実は、脳を局部的にしか使用していない「偏脳文明」とも呼べるものかもしれない。子供を全脳的に育てる方法などは一般化されていないために、義務教育ですでに偏脳化は始まる。
そして、成長してからも、偏脳的な労働環境で一日を送り、偏脳的な娯楽で一日を終えるということがこの偏脳型社会において広く行われている。
そのことが、この文明形態が大自然や、宇宙と直結していない「非‐接続型文明」である原因のひとつでもある。
今後僕らは、エコビレッジや小規模なローカルコミュニティが中心となった「接続型文明」を目標にすべきだが、それは言い換えると「全脳型文明」を志向するということでもある。
よく言われる「半農半X」の生活のように、それぞれが自分の得意分野となる仕事をすると同時に、農業や食料調達、必要なものづくりなどに携わるようになればより全脳的なライフスタイルが生まれる可能性がある。
縄文型と弥生型
さて、僕は人が貨幣や非接続型文明の社会システムに依存しすぎずに生きていくには、自然界から生きる糧を直接得られることが重要で、そのためには農業をする、その農を中心とした小規模コミュニティが必ず必要だと思っていたが、トム・ブラウンの「ヴィジョン」を読み返してみて必ずしもそうとは言えないな、と思い直した。
農業をして生きる糧を得る生き方が「弥生スタイル」だとすれば、狩猟や採集をして生きる「縄文スタイル」の生き方も存在する。「ヴィジョン」で描かれているのはこの「縄文スタイル」の生き方だ。
「ヴィジョン」には、トム・ブラウンや師匠のストーキングウルフが、原野で放浪生活をする様子が描かれているけど彼らは地面を耕して作物を育てて生きてるわけじゃない。大自然のスピリットを敬い、自然とひとつになりつつ原始的な狩猟や採集の技術で命をつないでいるのだ。彼らは原野で生き延びるその技術を「サバイバル」と呼んでいる。
サバイバルの技術を完璧に学んでこそ、人間社会と距離を置くことが出来る。サバイバルへの挑戦こそが、もっとも基本である体で体験する創造の世界との「ワンネス」について教えてくれるのだ。
・・・サバイバルの重要性は、ライフラインが断たれたときに原野で生き残るための方法を知っているという単純なものではない。「保険証券」で片付くものではないのだ。
サバイバルの技術を学ぶと、人は大地に安らぎを感じ、その鼓動を知り、すべてのものとバランスをはかり調和することができるようになる。サバイバルとはひとつの生きる道であり、無味乾燥な社会から脱出し、地球とその日暮らしを楽しむということなのである。
そうすれば本当に必要なのは、見えないへその緒と呼ぶことも出来る大地とのつながりだけだということに気づくはずだ。大地とは母そのものであり、彼女の存在なしには生きていくことなどできないという、古代の人々が理解していた当たり前のことを私たちも知る。・・・・
トム・ブラウン著 「ヴィジョン」より
もっとも究極的には、本来「村」もいらない。
そして人との絆以前に、ただ大地との絆があれば生きていけるという事実をこの本は教えている。
もし「村」があるとするなら、それは大地との絆をしっかり結んだ個人の集合体でなければならない。
なぜなら大地との絆があってこそ、人は不合理な集団の圧力から逃れ、正しいと思う生き方を守ることができるからだ。
ただこのような生き方はかなりの技術と、忍耐、そしてなによりも豊富な自然資源や生物多様性がある場所でのみ可能だ。日本で言うと北海道とか、中央アルプスの奥地とかなんかそういうとこでないと成立しないと思う。
まあ、実際多分都会で放浪生活と採集をして生きる、つまり現代の基準で言うと「ホームレス」の方が簡単だろう。山の中でひとり生きるより暖もとりやすいし、食べ物だって手に入りやすい。でも、「ホームレス」っていうのは確かに縛られるものはないかもしれないが、自然からの糧ではなくこの非接続型文明社会のおこぼれで生活しているということになるのでなかなか誇り高くは生きにくい。自然と直結してないからだ。
直結してないことで言えば、非接続型文明の構成員も、ホームレスも同じなんですけどね。
「ホームレス」や「引きこもり」が社会以下という意識に陥りやすいのは、このことによる。非接続型文明の内側で「引きこもって」しまうから問題なのであって、そのシステムを越えた意識に生きれば葛藤は少なくなる。
広大な原野がほとんど残されておらず、食料になる大型の草食動物も少ない日本ではやはり「村」、農業をメインにした「弥生スタイル」の方が現実的ではあるのだろう。
ただ僕はなんとなく「縄文スタイル」の方が、自然界の意識、宇宙とはシンクロしやすいのではないかと思う。農業をすることにより原初の自然破壊が始まり、将来への備蓄、持たざると持たざるもの、地主と小作人などがうまれたことを思うと農業・弥生スタイルというのは接続型文明と非接続型文明との分水嶺であっただろうからだ。縄文スタイル、原初的サバイバルでは「地球とのその日暮らし」を楽しめるが、弥生スタイルが進行するほど人は局所的時間と空間に縛られはじめる。
UFO(多次元生命体)は縄文人との方が相性がよさそうだ(笑)
まとめ
僕はこのシリーズの中で便宜的に、僕らが生きている文明形態を「非接続型文明」、あるいは「箱の中」と呼んできたけど正確に言うと僕らは非接続型文明という箱の中にいるのではない。
個々人がある意識の信念体系や、周波数帯を生きているのであり、空間的には都市内部の「箱の中」にいても僕らの意識は別の領域にシンクロできる。
だからこの「箱の中」にもこの非接続型文明をどっぷり生きている人もいるし、自分は金星人だというリアリティを生きている人もいるし、時空を越えた絶対者の意識とともに生きることだって不可能ではないのだろう。ただ空間的に「箱の中」に生きて、その生活の糧を非接続型文明から得ていると、その意識に染まりきってしまいやすいということに過ぎない。
でもよく考えてみると、この「箱」の狭苦しさと狂気に文句を言う前に、「箱の外」大自然や宇宙、絶対者の領域とシンクロするという選択や努力を行うことだってできる。
簡単な話し、毎晩夜更かしして酒を飲みながら深夜テレビやゲームをしたりしてる人の生きる現実と、毎朝日の出とともに起きて太陽に手を合わせているような人の意識というのは同じ「箱の中」にいても異なっている。
前者は箱の中しか見てないし、後者は箱の外にひろがる無限の生命世界を見つめ、そことシンクロしようとしているのだ。
「箱」から自由になるには自分の意識と生活スタイルを自覚的に変化させていく必要がある。
「箱」の内部にあるものを整理してみよう。
●脳のごく小部分を偏って使用している状態
●善・悪、正・邪、優・劣、真・偽などの二元性
●マスメディアを始めとする人為的ソースから流れる膨大な情報
●時計時間
●数値化された現実
●ステータス、社会的合意によって得られる虚構の自我
●意図的な流行
●貨幣をもとにした労働システム
●自然界から逸脱した音とリズム
●言語化、定義化された現実
「箱の外」には無限の生命世界、波動世界、大宇宙が存在する。
そこと共鳴する土台はやはり、弥生型あるいは縄文型のサバイバルであるのが望ましいと思うけど、「箱の中」にいても出来る方法がある。
■太陽のサイクルを意識すること
昔から魔術の修練などでは日の出、南中、日の入り時などに太陽を意識し祈りを捧げたりすることが推奨されてきた。それは箱の外側にある大宇宙の巡りに自分の意識を合わせるためだと思う。
■東西南北(磁力線の流れ)を意識する
東西南北というのは人間がネーミングしたものなので「箱の中」の概念とも言えるが、その概念は南北の磁力線の流れに基づいている。稀にこの磁力線に対する感覚だけで、どちらが北であるかを地図や太陽の位置を見ずにわかる人も存在する。動物たちはみなこの磁力線への感受性をもとに長距離を移動したりしているのだ。通常神社は、社殿が南を向いており、参拝者が北を向いて参れるように設計されている。またメディテーションは北を向いてするのがよいという説もある。
太陽が真南に位置する時は、もっとも高度が高い。
太陽の南中時、地上の影は真北を指す。太陽のサイクルに、方位の概念をプラスするとそのようなことがはっきりしてくる。これらがおそらく原始的な日時計などのルーツになっているのだろう。
■自然観察
自然のすばらしいところは、ミクロにも、マクロにひいても同じような構造や形が相似形であらわれることだ。またすべてに無駄がなく、要らない部分もなく調和しきっているということは森の中の地面などを観察していてもよくわかる。それはまったく曼陀羅よりも完璧な曼陀羅だ。
人工的な「箱の中」の情報のように、あるひとつの点だけにフォーカスしているのではなく、土にフォーカスすれば土の宇宙が、落ち葉にフォーカスすれば落ち葉の宇宙が開示されるような多面的な情報システムとなっている。そして、それらがすべて調和しているのだ。このような観察を行うときに別の時間に移動するような感覚はあながち錯覚ではないかもしれない。

■肉体の声
人のマインドがどれほど「箱の中」のパターンに染められていても、僕らの肉体は常に生命宇宙に属している。それはある意味ではもっとも身近な大自然だ。だから常に、肉体を感じたり、動かすことは僕らが生命であることを思い起こさせてくれる可能性を持っている。
■意識の修練
瞑想などを通じて、「無」や「ゼロ」を擬似的に体感することは「箱の中意識」から一時的に僕らを解放してくれる。また瞑想中やヘミシンク音を聴いたときの脳は、より全脳的になるということも知られている。「意識」という要素は実はこの世界の根源であり、世界の事象すべてとひとつである。このことが「箱の中」にいても、自由でありうることの根本的理由だ。
他にもたくさんあると思うけど、これらのことを自分の暮らしの中で実行することにより、僕らは「箱の中」にいても無限の生命世界とつながった形で生きていける可能性がある。
すべての物事は最初は人間の心のうちで生まれると言う。
そのような意味では、僕らは今ここで天地と調和した新たな文明を、ニューヴィレッジを築くことができるのだ。

ジョン・ヤング 「グッドニュース」デヴィッドスズキ著 より

『箱』の中の脳
一応、このシリーズのまとめとして今回の記事を書いておこうと思うんだけど、このシリーズを書いてるうちに考えていたことのひとつは持続可能な社会とは、あるひとつの文化形態であると同時に、その背後にある形態の意識が、もっと即物的にいうとあるパターンの脳活動が存在していなければならず、それはどのようなものかということだった。
思い至ったのは、持続可能な社会とは、意識が本当に自然とコネクトした「接続型文明」でなければならないということだったけど、このことを別の側面から補完しさらなるインスピレーションを与えてくれるような文章に読んでいた本の中で出会ったので紹介してみたい。
その一連の文章はデヴィッド・スズキ著「グッドニュース」の最終章にあった。
そこでは、アメリカニュージャージー州で原生自然理解学校という、子供たちに自然の中のサインを見つけたりその中で生きる方法を教える学校を運営しているジョン・ヤングという人物の言葉が紹介されていた。以下その場所の引用。
ヤングは、四十代前半の男性で、小柄で痩せ型だが、エネルギッシュで活気に満ちている。彼はこう話してくれた。
「子供たちがコンピュータに向かっているときの脳波を調べてみると、脳の中のごく一部が局在的に使われるだけだということがわかります。一方で子供が庭に出て、ボールで遊んだり、カエルを捕まえたり、木に登ったりしているときは、脳全体に電気信号が送られています」
今や、人々が人工的で制限された対象ばかりを重視することなどから、私たちの文化は、地球が物理的にどのように機能しているかと言う現実と、危険なほど調和を欠くようになった。そして、このような乖離をおしすすめた理論に基づいて、学校の目的も設定されているのだ。
「私たちは、脳全体を等しく使うのではなく、脳の特定の一部だけをとても激しく使っているのです。どうりで私たちの文化では、バランスも崩れているし、実際の三次元からなる現実に気づいていないし、さらには、自分たち自身の食べ物や空気を汚染することが、いかにとてつもなく馬鹿げているかが理解されないわけです」
これを大人にもあてはめると、先進国で生活する多くの人は、宇宙から切り離された『箱』の内部のような社会で生きることを続けるうちに知らぬ間に脳のごく一部だけを極度に興奮させたような意識常態で生活しているということになる。
それはまるで無限世界から自らを切り離した『箱』型文明にいるという状態が脳の働きにそのまま対応しているかのようだ。
ジョン・ヤングの師匠はトム・ブラウンといって、アパッチ族のストーキング・ウルフという名を持つ長老から自然のことを学んだ人物だ。ストーキングウルフと言う名は彼が、狼に気づかれることなく忍び寄りその背に触れることが出来たという逸話から来ている。
このトム・ブラウンという名前はどこかで聞いたことがあると思っていたけど、何年か前に彼の著作である「ヴィジョン」という本を読んだことを思い出した。
徳間5次元文庫から出ているのだが、あまり5次元文庫らしくなく空想的なアセンションストーリーではなく、ものすごく地に足の着いた、そしてある意味とても厳しいスピリチュアリティが語られていてとても勉強になる印象深い本だったことを覚えている。

トム・ブラウンはジョン・ヤングにストーキング・ウルフから教わったことをすべて伝授したということらしいので、ジョン・ヤングはネイティブアメリカンのスピリッツを継承しているようなそういう人なのだろう。
トム・ブラウンは17歳で、師匠と別れてからその後10年をひとり原野で放浪生活をしたというから気合の入り方が、普通のスピリチュアリストとは一味違う。
現在、アメリカでトラッカースクールを運営して自然の中でのサバイバルやそれに伴う必要のある哲学を教えているという。
トムブラウンジュニア 伝説のトラッカー(トムブラウンや、トラッカースクールについて)
漫画家のさくらももこさんがストーキングウルフの教えを絵本にした、この本も有名だ。(さくらももこさんはトラッカースクールを以前受講している)

現代文明は、とても高度に発達してあらゆる情報が昼も夜も電波や光回線を通じてかけめぐってい情報化社会だけど実は、脳を局部的にしか使用していない「偏脳文明」とも呼べるものかもしれない。子供を全脳的に育てる方法などは一般化されていないために、義務教育ですでに偏脳化は始まる。
そして、成長してからも、偏脳的な労働環境で一日を送り、偏脳的な娯楽で一日を終えるということがこの偏脳型社会において広く行われている。
そのことが、この文明形態が大自然や、宇宙と直結していない「非‐接続型文明」である原因のひとつでもある。
今後僕らは、エコビレッジや小規模なローカルコミュニティが中心となった「接続型文明」を目標にすべきだが、それは言い換えると「全脳型文明」を志向するということでもある。
よく言われる「半農半X」の生活のように、それぞれが自分の得意分野となる仕事をすると同時に、農業や食料調達、必要なものづくりなどに携わるようになればより全脳的なライフスタイルが生まれる可能性がある。
縄文型と弥生型
さて、僕は人が貨幣や非接続型文明の社会システムに依存しすぎずに生きていくには、自然界から生きる糧を直接得られることが重要で、そのためには農業をする、その農を中心とした小規模コミュニティが必ず必要だと思っていたが、トム・ブラウンの「ヴィジョン」を読み返してみて必ずしもそうとは言えないな、と思い直した。
農業をして生きる糧を得る生き方が「弥生スタイル」だとすれば、狩猟や採集をして生きる「縄文スタイル」の生き方も存在する。「ヴィジョン」で描かれているのはこの「縄文スタイル」の生き方だ。
「ヴィジョン」には、トム・ブラウンや師匠のストーキングウルフが、原野で放浪生活をする様子が描かれているけど彼らは地面を耕して作物を育てて生きてるわけじゃない。大自然のスピリットを敬い、自然とひとつになりつつ原始的な狩猟や採集の技術で命をつないでいるのだ。彼らは原野で生き延びるその技術を「サバイバル」と呼んでいる。
サバイバルの技術を完璧に学んでこそ、人間社会と距離を置くことが出来る。サバイバルへの挑戦こそが、もっとも基本である体で体験する創造の世界との「ワンネス」について教えてくれるのだ。
・・・サバイバルの重要性は、ライフラインが断たれたときに原野で生き残るための方法を知っているという単純なものではない。「保険証券」で片付くものではないのだ。
サバイバルの技術を学ぶと、人は大地に安らぎを感じ、その鼓動を知り、すべてのものとバランスをはかり調和することができるようになる。サバイバルとはひとつの生きる道であり、無味乾燥な社会から脱出し、地球とその日暮らしを楽しむということなのである。
そうすれば本当に必要なのは、見えないへその緒と呼ぶことも出来る大地とのつながりだけだということに気づくはずだ。大地とは母そのものであり、彼女の存在なしには生きていくことなどできないという、古代の人々が理解していた当たり前のことを私たちも知る。・・・・
トム・ブラウン著 「ヴィジョン」より
もっとも究極的には、本来「村」もいらない。
そして人との絆以前に、ただ大地との絆があれば生きていけるという事実をこの本は教えている。
もし「村」があるとするなら、それは大地との絆をしっかり結んだ個人の集合体でなければならない。
なぜなら大地との絆があってこそ、人は不合理な集団の圧力から逃れ、正しいと思う生き方を守ることができるからだ。
ただこのような生き方はかなりの技術と、忍耐、そしてなによりも豊富な自然資源や生物多様性がある場所でのみ可能だ。日本で言うと北海道とか、中央アルプスの奥地とかなんかそういうとこでないと成立しないと思う。
まあ、実際多分都会で放浪生活と採集をして生きる、つまり現代の基準で言うと「ホームレス」の方が簡単だろう。山の中でひとり生きるより暖もとりやすいし、食べ物だって手に入りやすい。でも、「ホームレス」っていうのは確かに縛られるものはないかもしれないが、自然からの糧ではなくこの非接続型文明社会のおこぼれで生活しているということになるのでなかなか誇り高くは生きにくい。自然と直結してないからだ。
直結してないことで言えば、非接続型文明の構成員も、ホームレスも同じなんですけどね。
「ホームレス」や「引きこもり」が社会以下という意識に陥りやすいのは、このことによる。非接続型文明の内側で「引きこもって」しまうから問題なのであって、そのシステムを越えた意識に生きれば葛藤は少なくなる。
広大な原野がほとんど残されておらず、食料になる大型の草食動物も少ない日本ではやはり「村」、農業をメインにした「弥生スタイル」の方が現実的ではあるのだろう。
ただ僕はなんとなく「縄文スタイル」の方が、自然界の意識、宇宙とはシンクロしやすいのではないかと思う。農業をすることにより原初の自然破壊が始まり、将来への備蓄、持たざると持たざるもの、地主と小作人などがうまれたことを思うと農業・弥生スタイルというのは接続型文明と非接続型文明との分水嶺であっただろうからだ。縄文スタイル、原初的サバイバルでは「地球とのその日暮らし」を楽しめるが、弥生スタイルが進行するほど人は局所的時間と空間に縛られはじめる。
UFO(多次元生命体)は縄文人との方が相性がよさそうだ(笑)
まとめ
僕はこのシリーズの中で便宜的に、僕らが生きている文明形態を「非接続型文明」、あるいは「箱の中」と呼んできたけど正確に言うと僕らは非接続型文明という箱の中にいるのではない。
個々人がある意識の信念体系や、周波数帯を生きているのであり、空間的には都市内部の「箱の中」にいても僕らの意識は別の領域にシンクロできる。
だからこの「箱の中」にもこの非接続型文明をどっぷり生きている人もいるし、自分は金星人だというリアリティを生きている人もいるし、時空を越えた絶対者の意識とともに生きることだって不可能ではないのだろう。ただ空間的に「箱の中」に生きて、その生活の糧を非接続型文明から得ていると、その意識に染まりきってしまいやすいということに過ぎない。
でもよく考えてみると、この「箱」の狭苦しさと狂気に文句を言う前に、「箱の外」大自然や宇宙、絶対者の領域とシンクロするという選択や努力を行うことだってできる。
簡単な話し、毎晩夜更かしして酒を飲みながら深夜テレビやゲームをしたりしてる人の生きる現実と、毎朝日の出とともに起きて太陽に手を合わせているような人の意識というのは同じ「箱の中」にいても異なっている。
前者は箱の中しか見てないし、後者は箱の外にひろがる無限の生命世界を見つめ、そことシンクロしようとしているのだ。
「箱」から自由になるには自分の意識と生活スタイルを自覚的に変化させていく必要がある。
「箱」の内部にあるものを整理してみよう。
●脳のごく小部分を偏って使用している状態
●善・悪、正・邪、優・劣、真・偽などの二元性
●マスメディアを始めとする人為的ソースから流れる膨大な情報
●時計時間
●数値化された現実
●ステータス、社会的合意によって得られる虚構の自我
●意図的な流行
●貨幣をもとにした労働システム
●自然界から逸脱した音とリズム
●言語化、定義化された現実
「箱の外」には無限の生命世界、波動世界、大宇宙が存在する。
そこと共鳴する土台はやはり、弥生型あるいは縄文型のサバイバルであるのが望ましいと思うけど、「箱の中」にいても出来る方法がある。
■太陽のサイクルを意識すること
昔から魔術の修練などでは日の出、南中、日の入り時などに太陽を意識し祈りを捧げたりすることが推奨されてきた。それは箱の外側にある大宇宙の巡りに自分の意識を合わせるためだと思う。
■東西南北(磁力線の流れ)を意識する
東西南北というのは人間がネーミングしたものなので「箱の中」の概念とも言えるが、その概念は南北の磁力線の流れに基づいている。稀にこの磁力線に対する感覚だけで、どちらが北であるかを地図や太陽の位置を見ずにわかる人も存在する。動物たちはみなこの磁力線への感受性をもとに長距離を移動したりしているのだ。通常神社は、社殿が南を向いており、参拝者が北を向いて参れるように設計されている。またメディテーションは北を向いてするのがよいという説もある。
太陽が真南に位置する時は、もっとも高度が高い。
太陽の南中時、地上の影は真北を指す。太陽のサイクルに、方位の概念をプラスするとそのようなことがはっきりしてくる。これらがおそらく原始的な日時計などのルーツになっているのだろう。
■自然観察
自然のすばらしいところは、ミクロにも、マクロにひいても同じような構造や形が相似形であらわれることだ。またすべてに無駄がなく、要らない部分もなく調和しきっているということは森の中の地面などを観察していてもよくわかる。それはまったく曼陀羅よりも完璧な曼陀羅だ。
人工的な「箱の中」の情報のように、あるひとつの点だけにフォーカスしているのではなく、土にフォーカスすれば土の宇宙が、落ち葉にフォーカスすれば落ち葉の宇宙が開示されるような多面的な情報システムとなっている。そして、それらがすべて調和しているのだ。このような観察を行うときに別の時間に移動するような感覚はあながち錯覚ではないかもしれない。

■肉体の声
人のマインドがどれほど「箱の中」のパターンに染められていても、僕らの肉体は常に生命宇宙に属している。それはある意味ではもっとも身近な大自然だ。だから常に、肉体を感じたり、動かすことは僕らが生命であることを思い起こさせてくれる可能性を持っている。
■意識の修練
瞑想などを通じて、「無」や「ゼロ」を擬似的に体感することは「箱の中意識」から一時的に僕らを解放してくれる。また瞑想中やヘミシンク音を聴いたときの脳は、より全脳的になるということも知られている。「意識」という要素は実はこの世界の根源であり、世界の事象すべてとひとつである。このことが「箱の中」にいても、自由でありうることの根本的理由だ。
他にもたくさんあると思うけど、これらのことを自分の暮らしの中で実行することにより、僕らは「箱の中」にいても無限の生命世界とつながった形で生きていける可能性がある。
すべての物事は最初は人間の心のうちで生まれると言う。
そのような意味では、僕らは今ここで天地と調和した新たな文明を、ニューヴィレッジを築くことができるのだ。
