ネイティブアメリカンの知恵⑦


 2009年にブログにアップしていた、ネイティブアメリカンの知恵シリーズの続きを書いてみようと思います。

 いろいろな書籍などからネイティブアメリカンの言葉などを集めたこのシリーズをはじめたきっかけは、当時陥っていたピンチ状態にありました。

 7月に部分日食があり、8月に箱根に旅行に行った頃から精神状態が不安定になり、鎮静剤のお世話にならないと厳しい日が連日続いた。夜になると得体の知れない不安感が湧き上がってきて、ひどい時はほとんど食欲もなくどうすればいいのかわからなかった。

 師匠のI先生に相談に行くと、蛍光灯をやめたり、怪しいソースの本を処分することなどの環境の改善を勧められたのだけど、その中に部屋に生命あるもの、観葉植物や、浄化力の強いバラの花を生けるというアドバイスもあった。

 「我々が力をもらってるのは、この世界の精霊(スピリット)からだからね」と先生は言った。

 その後の更なる展開で、不必要な情報を生活からカットすることや、行き詰った時は引きこもって神様と向かい合い答えを導きだすというスタイルも取り入れられ、それがその後のテレビなし生活や時折行う一人リトリートの始まりとなった。

 この型を実践することにより、いつのまにか状態はよくなり、加えて、2009年末から2010年にかけて生活全体のある種の転換が起こった。それはI先生のアドバイスにすべて従ったからというよりは、自分で方向性を決定したからだったけど、ある意味I先生はそのための方法を、僕が自分の頭と心で答えを導き出す術を教えてくれたのだと思っている。 

 この頃ネイティブアメリカンの知恵シリーズを始めたのは、生命力や、生きとしいけるものとのつながりが、そのピンチ状態を癒してくれるのを感じたからだった。ネイティブアメリカンの知恵は、根本的にすべての生命体への尊敬と、愛と理解に基づいている。

 その後、僕の興味はアイソレーションタンクを使ったヒーリングや、ドルフィンスイム、自分の生活を物質的に豊かにする方法などにも移り3・11のあとしばらくは新たな地殻変動や原発事故の情報、言葉を失うほどに破壊された被災地の映像に心を占領された。

 でも今年の夏ごろから、ネイティブアメリカンの知恵はさらなる情報密度と、確かさをましてまた僕の中に戻ってきた。
 
 今まで僕はそれほど現代日本の社会の価値観に溶け込めるほうでもなかったし、その中の一部は溶け込めないと言うよりはもっと激しい拒絶感を伴って、受け入れられないという質のものだった。だからスピリチュアルな現実にフォーカスする過程でいくつかのものを自分の生活からカットしていくということはそれほど苦痛も伴わずむしろせいせいするという感覚もあったんだけど、近頃になってようやくそれらをカットすることは自然へ回帰したいと言う衝動と表裏一体だったことがやっと自分の中でつながったのだ。  

 それは不必要なものを切り捨てて、空相のような現実に至りたいというよりもむしろそれは、箱の中の世界の外側で確実に鼓動している母なる自然のリズムに戻りたいという衝動に感じられた。現代の社会が与えてくれるものをすべて消去しても、母なる大地や空、その生命は残るのである。その気づきががネイティブアメリカンの知恵に対する理解をより深いものにしてくれているような気がする。

 人生で自分にとって本当に大事なことは、何度もらせん状にループしながら、必ず自分のもとに戻ってくる。そして戻ってくるたびにそのテーマに対する興味や理解は深みを増してゆくのだ。
 どうもこの始まりをたどると、2001年にある人に前世療法を僕が行ったときに、ネイティブアメリカンの過去世が出てきたというそのあたりから始まっているような気がする。

 ネイティブアメリカンの過去世が出てくるということは、前世療法でたまにあると思うけど、往々にしてそこでは平和な生活が侵略によって破壊されるという物語が語られる。僕がおこなった人の場合も、外部からの侵略者によって村が破壊され親族とはぐれてしまうというストーリーだった。
 
 ネイティブアメリカンの歴史は、まさに侵略と搾取にさらされる歴史だったと言ってもいい。
 1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見した当時は全米が彼らの居留地だった。ところが2、300年のちには白人はリザベーションというネイティブアメリカンの限定居留地を設け彼らをそこへ押し込んだ。居留地は1820年にはアメリカ大陸の西半分に制限された。
 それから100年と少したった1977年になると僅かな面積のリザベーションが全米に点在するだけとなり、彼らの居留地は広大なアメリカ大陸のその僅かな部分だけになったのである。
 あとからやってきた者たちが文明の力を武器に彼らの生活を破壊し、大地から切り離し、土地を収奪するというこの構図は世界のあちらこちらでみられる。
 明治維新から、第二次大戦敗戦後にかけて日本でもそれは行われたし、最近でも欧米や中国の資本による日本の国土の買占めは存在する。
 「彼ら」は土地を奪い、伝統的な習慣やスピリチュアリティを破壊し、人々と大地との接続を切り離し、貨幣経済というルールの中に世界各地のネイティブたちを組み込んでいくがその貨幣経済はもとより「彼ら」の思考パターンより生じたもので、彼らが総元締めだった。そのためネイティブ的ライフスタイルから貨幣経済に移行させられることは全面的に、彼らの軍門にくだることでもあった。

 西洋文明化というのは、脱ネイティブ化を前提としている。
 先住民族の生き方を壊し、否定したその上に築かれたのがこの文明なのである。
 僕らもまた土地とルーツを見失った、さまよえるネイティブジャパニーズであるかもしれない。

 僕はこれらの、人を自然から切り離し、大地や海を汚染していくこの力が本質的にどういうものか、どこから来ているのか知りたいと思った。

 よく言われるように、それは人間の欲望の力だというのも正しいかもしれない。
 しかし、アメリカ大陸にアングロサクソン系の人種がやってこなければおそらくネイティブの人たちは今でも同じような伝統的生活をしていた可能性が高い。だから人間の欲望という原因で一元化するよりも、ここには二種類以上の諸力の葛藤が存在するように思うのだ。ふたつのDNA的因子といってもいい。
 ひとつの力は、大地や生命と人を結びつける力で、もうひとつは生命を荒廃させ人を大地から切り離す力だ。
 
 大地を汚し、生命の尊厳を破壊する、これらの力を魔的なものと考えるのは簡単かもしれないが、それが正しいかどうかはわからない。
 性質の異なるふたつの力、あるいは思考パターンと言ったほうがいいかもしれない。

 この力を考えていたとき、僕の頭には次々と村を焼き払い、領土を拡大していく騎馬民族のようなイメージが浮かぶ。
 彼らは自らの土地を持たず破壊と略奪の中で生きているのだ。 
 
 アイルランド詩人のW・B・イェイツの墓には次のような詩が刻まれているという。

 Cast a cold eye
on life,on death
Horseman pass by!


<冷ややかなる目をむけよ 生に 死に 騎馬の男たちは通り過ぎる・・・>

 この詩では世界の荒々しい力の象徴として「騎馬の男」たちが登場しているように思えるけれど、自らの土地を持たず、他民族の土地の侵略と略奪で生きてきたような騎馬民族的DNAというのは、ある種ネイティブ根絶の力の正体と親和性があるように思う。
 アイルランド人もまた度重なる大英帝国からの搾取と抑圧を受けてきた。

 もうひとつは生命が少ない環境で誕生した、砂漠の宗教や、砂漠のロジックだ。 
 人間の思考パターンを環境派生的なものと考えるとき、中東のような環境で発生した宗教や学問は現象的なものを飛び越えて唯一の絶対者、宇宙の絶対真理を追求しやすいという話を聴いたことがある。

 ユダヤ人には優秀な科学者が多いというけど、アインシュタインの物理公式が、ヒロシマの悲劇を産んだように砂漠のロジックにより生み出される純粋思考の世界は、人類の文明を飛躍的に推し進めると同時にこの現象世界の生命をあっという間に灰塵に帰すような破壊力をも持っているのだ。

 これらを仮に「砂漠の勢力」とでも呼んでおこう。  

 「砂漠の勢力」は、貨幣と言う抽象を用いて、生命を搾取、コントロールすることができた。
 それが彼らの生存戦略だったのだ。
 彼らは特定の土地を持たず、大地への愛着が少ない。
 しかし「砂漠の勢力」も、肥沃な大地や海の恵みなしには生きられない。そのため、他民族の住む土地で資源を得ることが必要だった。
 彼らが支配権を握るためには、食べ物や大自然などのリアルなものより貨幣と言う抽象が価値的に上である必要があった。
 そうであればこそ、貨幣で土地や食料を買い占めるということが可能になったのだ。
 このような理由で

 砂漠の勢力 ←← →→ ネイティブカルチャー

 はもともと相反する。

 彼らはおそらく肥沃な土地のない人たち、土地を奪われた人たち、
 そして、大自然なしにどのようにすれば生きていけるかを極限まで思考した人たちなのかもしれない。
 しかし究極的には「砂漠の勢力」が悪というわけではない。彼らは、そうした役回りだった。
 今、求められているのは、おそらく『砂漠の勢力』と、『ネイティブカルチャー』の融合なのだ。
 それはテクノロジーと、自然との調和でもあるし、男性性と女性性の調和、貨幣と言う抽象と、生命と言うリアルとの調和でもあるのだろう。

 ネイティブカルチャーは、何もネイティブアメリカンだけに特有のものではない。
 おそらく生命への尊敬と愛を基礎にした伝統は、超古代文明の大量破壊を免れて地球全土に拡散し、大地と共にいき始めた人には等しく共有されていた意識だったのではないだろうか。例えば日本の縄文や、アイルランドのケルト文化、アフリカや南米などにもそうした自然と密接に結びついた霊性があったと思われる。ネイティブアメリカンの教えはそうした潮流のひとつなのだ。

 だから、僕らにとって重要なのは特定の文化や教えに回帰・同化するのではなく、それらのエッセンスが指し示す共通の価値を体得した「ネイティブガイア人」とでも呼べるような意識になるということではなないかと思う。

 僕らは今、岐路に立たされている。
 それは抽象を選ぶか、生命を選ぶか。
 ○○という名前を持って、しかるべき学歴や職歴をもった一市民というアイデンティティを選ぶか、グレイトスピリットやガイアと結びついた「大地の子」「神の子」となるかという選択だ。
 それは箱の中(文明・社会)の中だけで生きるか、箱の外(大自然・宇宙)とつながるかの選択でもある。

 真の自然とは天の王国である、絶対者そのものだと思う。
 だから本当は街の中にいても田舎で畑を耕していても、それを感じることはできる。
 ではなぜ、自然を意識し、それと調和して生きる必要があるかというと、おそらく自然と人とは本来一体であり、分割できない生命の織物という統一体だからだろう。

 だからガイアが病めば、人も病み 
 人が病めば、ガイアも病む 

 人はこのガイアという母なしには生きられない。

 だからこそ、癒しとは人と大地との調和なくしてはあり得ないし、人が文明のリズムだけに耳を澄ますことによることで「狂い」が生じる。人が健やかであるためにはどうしても、箱の外との接触が必要なのである。

 あるミュージシャンの言葉だが、「人間など自然が癒されれば、おのずから何もせずとも癒されてゆく」ものかもしれない。

 生命か 抽象か 箱の中だけで生きるか、箱の外とつながるか、

 その選択が、如実に現象化される日は、ホピ族の予言で「浄化の日」と呼ばれている。
 病にかかった地球がその自浄作用を最大限にするとき、この惑星は何十万年も前の原初の美を取り戻すのかもしれない。
 そのとき僕らは、どのような経験をするだろう。
 僕らの選択、それが
 その自浄作用(もう現象化している)がどれほどの規模となるか、その「浄化の日」に僕らがどうなるかという未来に反映されるのだ。

 最後にネイティブアメリカンのメディスンマンだったローリングサンダーの言葉をいくつか紹介したいと思います。

 1970年代初頭に語られたもののようですが、非常に先見の明と、知恵にあふれた言葉です。 
 
 
たいようが のぼってくる ひがしへ
 さむさの やってくる きたへ
 ひかりの やってくる みなみへ
 たいようが しずんでいく にしへ
 ちちなる たいようの ために 
 ははなる ちきゅうの ために

                     
                               ローリング・サンダー



 「どこかひとつの場所が汚染されれば、それは全部に拡がる。リュウマチや癌が体の中に拡がって行くように、それは拡がる。

 この地球は今病んでいる。

 なぜなら、地球は誤った扱われ方をしてきたからだ。

 これにともなっていくつかの問題が起こるだろう。

 近い将来にひどい自然の災害が起こるかもしれない。

 しかし、こうしたことは自らの病気を治すための地球の自然な回復作用なのだ。

 今この大地の上には、もともとここにはなかったものがたくさんある。

 よその国から来たもので、例えて言えば、ヴィールス、細菌のようなものだ

 。今のところはいつそれが本当に起こるかがわからないだけのことなのかもしれないが、これからは実にいろいろなことが将来にかけて起こるだろう。

 こうしたことは、地球がその病を吹き飛ばそうとするそれなりの試みなのだ。人間が病気になると、熱を出したり吐き気をもよおしたりする。西洋医学が身体的調整と呼ぶもの、それが起ころうとしているのだ。」

「この地球はひとつの生きているオーガニズム、有機生命体であり、より高次な個に与えられた肉体で、それは意志を持ち、健やかでありたいと自ら願っており、精神的にも肉体的にも、ある時は好調であり、時には不調だったりもする。

 人は自らの肉体を尊敬をもって扱わなくてはならないように、この地球であろうとそれは同じなのだ。

 地球を傷つけることが私たちを傷つけることであるということを、知らない人たちがあまりにも多すぎる」

「そういったことを理解するのはそう簡単なことではないかもしれない。なぜなら理解とは書物や教師が話しているような種類のことを知るのとはわけが違うからだ。

 いいかな、理解というのは、愛と尊敬にはじまるものだ。偉大なる精霊への尊敬の中に理解ははじまる。

 偉大なる精霊グレイトスピリットは、すべての生命の中に、ありとあらゆる生き物、植物、そして岩や鉱物のなかにまでも、それは宿る。

 すべてのものというのは、本当にすべてのもののことを言っているのだが、すべてのものは、自分の意志を持ち、自分のやり方を持ち、自分の目的というものを持っている。尊敬を払わなくてはならないのは、まさにこの点にあるのだ」

 
「われわれインディアンの子供たちは、十二歳から十三歳くらいになると高い山に登り、その山の麓で付き添いの長老が待つ間、ある神聖な場所で祈りをあげる。

 そこで彼らは三日間ほど祈るのだが、毛布一枚持たされるだけで、この間子供たちは裸でいなければならず、水も食料もとることは許されない。もし眠りに落ちそうになってもまた起きて祈らなくてはならないのだ。

 するとある時、彼らにビジョンがもたらされる。

 これからの生涯でなにをしなければならないのかということが、そこには映し出される。

 しかしほとんどの場合、子供たちにはその意味がわからない。

 だからありうることとすれば、子供たちは山をおりて、麓のところで、長老に自分の見たものの話をする。

 それから2人は一緒にメディスンマンのところへ行き、そこでももう一度ビジョンのことを語るのだ。

 メディスンマンはそこで、そのヴィジョンを覗き込む。そうしたら次に名前を与える儀式が執り行われることになる。夢の意味が確定され、それがわかりやすい言葉で子供たちに伝えられるのだ。子供たちはそのとき、自分が大人になったことを感じ、新しい名前をもらい、人生における自分の目的を知ることになる」

「政府や、法律、君たちがシステムと呼んでいるもの全体に、自発性というものへの配慮が決定的に欠けている。

 この世界においては、人間は誰でも自らのアイデンティティを持ち、自らの目的を持っているのだ。

 そして、すべての人が、その人のアイデンティティをみつけ、その目的を遂行する道を持っている。

 何人であれその道を妨げてはならないのだ」

「他人の住んでいるところに行って、そこで暮らしていた人々をことごとく大地から切り離して、蹴散らし、行く当てのないままそこから追放したばかりか、その過程において多くのものを殺戮までしておいて、はい、それでは残った皆さんは私どものクラブに入ってもらいますからね、などとよくもまあ言えたものではないか。

 しかしそれは間違っている。

 われわれは彼らのクラブを好まないし、そんなものに入りたいとも思わない。

 本当にそれが良いクラブであるとすれば決して入会を強制したりはしないものだし、われわれのクラブのことだってそのままに放っておいてくれるはずだ。

 いわんや他の国に住んでいる人たちのやり方にいちいち口や手を挟んだりはしないだろう。

 誰にでも自分のクラブというものがある。そしてそれがかりに悪いクラブだとしても、やりたい奴にはとりあえずやらせておくしかない。

 人間はそうやって自分の生きる道を学ぶものだからだ。しかし、言っておくが、良いシステムが自らを拡大しようと試みることなどありえない。なるほど人々の力になることは、悪いことではないが、システムを拡げようとすることは間違っている。」


「現代人は利用することしか話さない。自然を征服し、自然を自分たちの奴隷のようにこき使うことばかり考えている。

このことからまずわかるのは、現代人が自然のことを、その実際の姿を含めて、その「いろは」すらまったく知らないということだ。

 今日の環境それ自体が、その事実をよく証明している。今では誰もが恐れているではないか。

 大気の汚染を恐れ、放射能を恐れ、毒の入った水を恐れている。

 大地は汚染され、資源は消えていくか、再利用が不可能なものに姿を変えていく。

 そして人々は今さらながら、まだ間に合うのだろうかと頭を抱えている。

 ところが、いかなる法律やシステムをたちあげたところで、それによって自然をコントロールすることもできないし、人間の内的な自然であるところの、その人の意識や、おのずとみについている自然な振る舞い、そしてその人の考え方や感じ方までもを、コントロールすることはできないのだ

 もともとそうしたものはコントロールできるようなものでもない。

 当然いかなる個人であれグループであれ、そうしたものが、ある個人の性格やその目的とするものにおいて、その人物がいくら自分と性が合わないからといって、その人の生きる道までをも強引に阻んだり、むりやり変えさせたりすることがあってはならない。

 それにそんなことができるわけもない。なるほどしばらくの間はうまくいくかもしれん。しかし最後には必ずうまくいかなくなる。それは、ひいては、すべての人々を危険に導き、恐怖へと誘うだけのものなのだ」


「だから、ヒーリングのときも、われわれはまずそのことを考慮に入れる。

 本物のヒーラーなら、なにはともあれ患者のカルマと運命のことを考えるものだ。彼は、そのとき自らの道に従う。

 その人独自の内的な進歩やその表れにあたるものを、彼は自分なりのやり方で覗き込み、理解する。

 どこまでもこの道に従うことで、物事ははるかに現実的なものとなり、誰もがトラブルから解放される。

 自然が至上者であり、それだけがわれわれの上に君臨する。

 だからこそわれわれは、われわれの中の自然、つまり人間らしさにも従う。自然は尊敬されなくてはならない。

 一切の生命は、それがどんなものであれ、ただ生きているということだけでも、尊敬されなくてはならない。

 それが、ただひとつの答えなのだ」

<ローリング・サンダーの目にはこう見えていた。次々と作り出されつつある複雑かつ抑圧的な無数の法律には、人間から人間らしさを奪う働きがあって、そのために自己決断と自己制御とが妨げれれてしまい、その結果多くの人たちが心と自然の法則にまったく関心を払わなくなってしまっていると。この悪循環によって、人間の作る法律が自然の法律をわからなくさせているばかりか、それがさらなる無知を作り出し、その結果さらなる混沌が生み出されてくる。そしてしまいにはその混沌を制御するために、さらなる圧制が必要となるのだ。> 「ローリングサンダー」の著者 ダグ・ボイド


(ヒーリングを望む若者に)「なぜ君は今の状態から解放されたいと望むのかね?

               いったいそれでなにをしようというのだ。」

 「なににだって正しいときと場所というものがある。わしらはそう言う。

 われわれはそれを、つまり、なににであれ正しい時が存在するという真実を理解して、それと調和をとって生きる。

 そしてそうやって生きているからこそ、いつごろ、どこに行けば自分の薬草が摘めるのかもわかるのだ。

 本当に必要とするなら、それは手に入れることができるというのは、そういうことだ」

「本当にそれが必要なら、つまり、もし冬の間でも、ある種の薬草が本当に必要になってそれを自分が持っていないときには、やはり同じようにわしは探しにいき、それを見つけてくることだろう。

 わしならこのあたりでさえ、歩き回ることで、冬の真っ盛りに雪の中から夏の花を摘むこともできる。

 つまり、もし自分が真から必要とするのなら、それはそこにあるのだ。すべてわれわれのすることにはきちんとした理由がある。」

 「雑草などと言うものは存在しない」


あの雷の音を聴いてごらん、あれこそが雷の轟き、ローリングサンダーというものだ。雷が空を転げまわっているじゃないか
 「!」



  
  thunder.jpg
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アセンション考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/28 15:00

12/10のツイートまとめ

haitakadori

ブログ更新しました。「Seed~スマホと薪ストーブ~」 http://t.co/VYKS0fmM01
12-10 11:25

未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/11 00:00

Seed~スマホと薪ストーブ~

 先週末、埼玉某所でのI先生の夜の集いに参加した。

 始まる前にちょっと雑談をしたけど、最近先生は埼玉での待機場所で使う薪ストーブの薪を材木やさんなどでもらいうけたりしてるらしい。その材木をチェーンソーや斧で薪にしていく過程を面白おかしくいつものノリで話してくれたけど、薪ストーブは普通の石油ストーブなどより全然あたたかいらしい。

 薪ストーブの前でパイプをふかす先生の姿があまりにもはまりすぎなイメージで浮かぶ。
 一度僕も暖炉で燃えてる炎を見てみたいものだ。

 「かなりワイルドな生活をされてるんですね~」

 「そう、そうなんだよw」

 前回も確か、畑を始めて蕎麦を栽培しているという話しを聴いた。
 今年に入ってからI先生もライフスタイルがずいぶん変わったみたいだ。

 開始時間が近づくにつれ、修道会歴○年の方々が次々に窓から入ってくる。
 会場は少し古びた一般の民家で、窓の外のテラスからも階段が下に伸びているという面白いつくりになっているからだ。6畳ほどの和室。趣きがあってなんだか落ち着ける空間だ。今年は個人セッション一度と、夏の修道会で一度、このおうちにお邪魔した。今回であわせて3度目だ。

 開始直後、「M君は調子はどう?」とたずねられ

 「はい、冬にしては調子がいいです」と答える。

 例年秋冬は風邪をひきまくったり、体調を崩してることが多いけど、今年は少し安定感がある。
 
 自分でも腰布一枚で朝日を礼拝したり、耐寒訓練をしたり、塩水で鼻をうがいしたり(?)ワイルドになろうと努力している部分もある。

 「いいでしょ?それはねきっと全体の意識が変わってきてるからだと思うよ。今年は本当変だからね~、多分去年の12月にアセンションしちゃったんだな。」とI先生

 ええ~~もうしちゃったんですか。
 おそらく先生特有の適当発言かと思われたが、まるきり冗談でもないようだ。
 
 先生いわくスマホの普及などで世界全体の意識がひとつに共鳴しやすくなっているのではないかという。

 「すごいよ!だって、最近じゃタイのお坊さんだって、袈裟を着てすっすっ(スマホを指で操作する動き)てやってるんだからねー」

 I先生自身もスマホとタブレットを使っているらしく、いまだに4年前に機種変したガラパゴス携帯を使ってる僕よりIT化している。

 先生によるとティモシー・リアリーなんかもITによる人間の意識進化にかなり期待していたところがあったらしい。

 「まあ、すぐに5次元になったりとかするわけじゃないけど、アクエリアスの時代になると、国家も消滅していくと俺は思ってるんだよね。それで、自給自足をしてる共同体が世界中にできて、インターネットでつながるようなね、そういう時代。100年か200年後には、そうなってるんじゃないかと思うんだけどね」

 少し前のブログ記事で書いたようなことを先生も言っていた。

 100年か・・・かなり長いきせねばだけど、その始まりくらいは見届けたい。

 うお座の時代は父性原理が支配する弱肉強食の時代で、善人はしいたげられて辛酸をなめるようなことが多かったけど、アクエリアスエイジは母性の時代なので愛が基本となって、つながりあった意識で生きるような時代になるという。

 ダンテスダイジは確か講話集のなかで、アクエリアスの時代で人類史上初めて、愛と自由が調和した時代が来るといっている。それぞれが自立して自由でありながらも、ワンネスに結びついている時代だ。

 「ワンネスということのもともとの意味は唯一性で、ブラフマンだけが唯一で、そのほかはマーヤということだから、それだと現象世界に対してはネガティブな意味になる。」

 しかし、そのワンネスとはまた別に、個々の人間の意識がひとつに融合するような、よくいわれるような意味合いでのワンネスもまた存在するようで、I先生がまったく知らない人たちの意識と意識が共鳴しあうという体験をした話も聞かせてもらった。

 20世紀にすでにそのような現象が起こっていたなら、あと何年後か、何十年後か、何百年後か知らないけど人類全体の意識がひとつの巨大なWEBのようなものになっていてもおかしくはない。実はもうその兆しはあって、ITテクノロジーはその雛形である可能性もある。

 なんだかこういうものも開発されつつあるみたいですね~
映画「クラウドアトラス」にこういうんあったような。
 非現実的なまでにSFチックな3Dホログラムディスプレイ 




 今後自給自足コミュニティが増えていくなら、自然と接続することは必須で、だからこそ今後のキーワードは、Spiritual & Wildかなとひそかに思っていたが、ワイルド(アナログ)&テクノロジーっていうのも間違ってはいないのかもしれない。
 ちょうど、畑仕事や、薪割りなどワイルドかつアナログな作業をしつつ、その合間にタブレットやスマホ、PCなどのデジタルメディアを操作するというような日常。
 テクノロジーと自然、片方を軽視したり否定せず、両方の極に足をかけるようなライフスタイルがいいのかも。

 もちろん、spirit(神・意識・魂)をはずすということは出来ないんだけど。


  僕の感覚としては、今年は日本の政治や世情もなんだかこんな感じだし、アセンション祭りも遠きになりけりな印象で、アセンションや天変地異に頭を奪われるより個人の人生の意味にもっとフォーカスしたほうがいいような感じを受けていたけど、I先生によると全体の意識はかなり変化しているのではないかという。

 もし仮に全体が変わるのが100年~200年も先だった場合、今生きてる僕らに見えるのはそのほんのプロローグのようなもので、例えば2050年、今から37年後、僕がじいさんになる頃にも韓国と中国がどうしたこうしたとか、街角の景況感が回復傾向にあるとか、中国で二度目の五輪開催が決まったとか、今年度の流行語は「脳内アプリです」とか、そんなニュースが流れてる可能性もあるのだろうか。

 でも例えそうでも、僕は自分の生を生きるだけだ。

 そして、僕らの生は、種なのである。

 20世紀後半に欧米を中心に起こった、ヒッピーカルチャーや、ニューエイジムーブメント、ナチュラリズム、ドラッグカルチャーなどは一世を風靡して新たな時代の到来を予感させたけど時が経つにつれて下火になりまったく商業的なものに変質しその様をあらわすために「スピリチュアルマテリアリズム」や「プラスティックメディスンマン」なんていう言葉も登場した。

 しかし僕が思うに、それらの潮流のエッセンスは枯れ果てたのではなく、単に潜在化して地中に潜っただけなのだ。人類の集合意識に痕跡されたその波動は、時期がくればかならずその時代にあった形で芽吹いて花咲くものなのではないだろうか。新しい生き方や考え方は、古来から何度も何度も、このようなこの世界への顕在化と集合意識への潜在化を繰り返しているものだと思う。

 例えばニコラステラが発明しようとした、送電線の存在しないエネルギー伝達システムのようなものもあるいはすでに別の時空間では実現されていたものだったかもしれない。テスラはそれをこの時空間でも顕在化しようとしたが、時がいまだ至らずにそれはかなわなかったのだ。しかしテスラの想いと生はそこでまた新たな種となって、この時空の集合意識に蒔かれた。

 それと同じように、僕らは望めば新たなアクエリアスエイジの種となることはできる。

 その文明の型となるような生活を実践することにより、その世界の父祖となることはできるのではないだろうか。例えその世界的到来を見ることが出来なくても、その種の世界、原因の世界を生きることが出来るのだ。それがある種の「希望」なのではないかと想う。
 そしてその希望はあいまいなファンタジーではなく、時空を越えて僕らが父祖たちから受け継いできた「種」なのだ。
 
 「例え明日世界が終わるとしても、私はリンゴの樹を植える」べきなのは、それはいつか別時空での「種」となる行為だからだと想う。


・・・とかなり、修道会での会話から自分の思索を展開してしまったけど、修道会ではこういう話をずっとしていたわけではなかった。それは最初のごく一部で、世間話から、「時間」の話し、すごくゆるい笑い話しなど、いろいろな話題を軽快に飛び回りながら、いつのまにか3時間が過ぎていた。

 ある意味単なるギャグでも、アクエリアスエイジの話でも、それを常にユーモアを交えて話すI先生にとってはほぼイコールのトピックなんだろうなと、いつも想っていたことを改めて感じた。ある主張を押し付けようと言うような意図はこれっぱかしもない。

 I先生は言う。

 「だからいつも言ってるでしょ、俺のいうことを信じるなってw そりゃ、俺だって信じて欲しくてしゃべってるよ。でも、言われたことを信じないってことが洗脳にかからないようにするための方法なんだ。」

 「だから盲信されるのを避けるために、すごい面をだしたりがっかりな面をだしたり交互にやってるわけ。それでバランスが取れるの。タイミング悪くがっかりな回だけに参加しちゃった人はそれで来なくなっちゃうんだけどね。それは俺が意図してやってるわけじゃないからしょうがないよw」


 僕もがっかりの回だった時は、「なんだそれ・・・もう行くのやめよ」と想ったことが何度あったかわからない。でもそれでもいまだにこうして足を運んでるのはとっても不思議だ。それは先生の表面的な言葉とは別の次元で供給される膨大なエネルギーと情報があったからだと思っている。


 僕の意識は日常の出来事から切り離されて、その場の意識状態にかなりシンクロしていた。修道会に行く前に歯科医にいったんだけど、そこでの会話などがまったく別次元での出来事か、はるか以前の出来事のように感じられた。目を閉じて飛び始めた状態で、先生の声や、他の参加者のかたの笑い声を聴いてるのはとても心地よかった。




修道会日誌 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/12/10 11:21

Children of the light 光の天使 

 


 映画はちょっとなんというか鸚鵡ぽい雰囲気といいますか、過去世が超能力戦士だったことに覚醒しちゃう10代女子が次々と出現していたご時世の雰囲気を反映してるかもしれないけどこの曲はなかなか素敵だ。

 正統派的に未来を熱く夢見させてくれる曲。

 愛がリアルで真実だと信じるのは勇気がいる

 でも少しづつ、強いもの勝ちの世界は必ず移り変わっていく。

 来るべき世界に!

 映画では美輪明宏さんが宇宙意識体の声を好演。





 
 
好きな歌 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/08 22:00

Spirits never die


 祖母が亡くなったのはもうずいぶん前のことになるけど、いまだに夜中に不安な夢を見て目が覚めることがある。祖母が痴呆状態になり、体も少しづつ衰弱していくとき僕は近くでその様子を見ていた。

 今にして思えば、祖母の見守りや食事の用意をするということを毎日していた数ヶ月の短い期間が、いまの仕事の内容とかなりかぶっているのは不思議な感じがする。

 でも決して僕は愛情たっぷりに介護の手伝いをしていたわけではなかった。どちらかというとそれは面倒くさいルーチンだったと言ったほうが正確だろう。いつ、激しい痙攣様の発作を起こすかわからない祖母の状態が怖かったし、次第に家族のこともわからなくなり、話しが出来なくなっていくにつれて祖母の人格自体が消滅していくような感覚だった。

 祖母がまだ生命を保ってそこにいるということは十分わかっていたけど、コミュニケーションが出来ないということが、そこに寝ているのはもう祖母ではない、という感覚に陥らせた。もう少し状態が悪くなってからは、早く肉体から解放されて楽になって欲しいと思うことも珍しくなかった。

 結局祖母は、寝たきりになってから半年と少しほどで亡くなった。

 そんな日々の記憶がいまだに夢になってよみがえってくる。

 不安と重苦しいフィーリングで胸のあたりが苦しくなる。

 死別は確かに悲しいものだし、傷を残すことが多いけど、家族の死がトラウマとなるかどうかはその死をみながどのように受け止めて認識しているのかということと関係があるように思う。

 そこに闇と混沌の力、破壊されていく脳や、肉体、人格だけを見るのか、

 あるいは肉体や人格がどうなろうともそれでもなお輝いているはずのスピリットの存在を現実としてみることができるのかによってそれは変わってくる。

 不安と暗闇のこの苦しいフィーリングは、僕の認識がいまだに、死をただの混沌や破壊としてのみ考えているその箇所から生じていて、でもそれは実は幻想なのかもしれないと思った。

 というのはその不安や暗闇を、まるごと反転させるような経験を僕はその祖母の旅立ちのあとにしたはずだったからだ。

 その経験のなかで、僕は祖母のスピリットはあの痴呆状態や寝たきりの状態の中でも、愛と知性を厳然と保って状況に働きかけていたということを知ったはずだった。

 そのスピリットの愛と知性が、いつ肉体を離れるのかということもつかさどり、そのタイミングには僕らへの気遣いがあったように思う。

 このスピリットと、日常の意識、マインド、自我とは通常わかたれている。
 だから僕らは自分自身のスピリットの愛と知性を無意識のうちに実行するということが多い。
 自我は、このスピリットのレベルの愛と知によって浸透され、動かされている。

 死とは、おそらく、僕らのこの日常の自我とスピリットが融合してひとつになるということでもあるのかもしれない。

 スピリットは死なない。

 例え、肉体的障害などで会話がうまくできなくても、昏睡状態でも、そこには彼のスピリットが厳然と存在している。そう認識することのみが、病や死や、狂気があふれる世界の中でもスピリットの光を認められる術なのだ。

 僕が、周りも大変だし、本人もつらいだろうから早く楽になって欲しいと考えたのは多分間違っていた。

 それは、どんな状態であれひとりの人がそこに生きて存在している、そしてそのことによって発生するパワーと学び、それを与えようとしてくれているスピリットの愛を、「いらない」と思うことだったのだ。  

 おそろしく性格にかたよりのある人であっても、その人のスピリットは別の次元ですべてを知っていて「すまない」と思っているということもあるのだろう。

 自分自身の生をマインドの基準で推し量って「いらない」とか「つまらない」と思うときも人は、自分のスピリットが見えなくなっている。

 僕らがその存在に気づくとき、スピリットもそれに気づく。
 僕らが動物や、人や、自分自身や、あらゆる生命のスピリットを見つめると、彼らも僕らを見つめ返す。

 認識とは相互作用的に発生する、現実の場だ。

 その認識に心を開くとき、スピリットの光はこの世界に下ろされ、癒しと許しの可能性が顕れる。

 すべての死と病に関する傷が、不滅のスピリットの輝きにより癒されますように。

 そう祈りながら目を閉じると、眠りに落ちる前に朝日のような大きな光が近づいてくるのが見えた。


     
                                  2013 11 21







セラピー&ヒーリング | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/05 10:36

太陽の道

 朝太陽が昇るとき
 森には光の道ができる

 クモたちがはりめぐらせた糸や
 草の上の朝露が虹色にきらめく

 いのちの道に従う
 あらゆる生命の師たちが
 僕の胸の中にいる

 彼らも僕と同じ弱さを持っていたのかもしれない
 その彼らもまた胸の中の生命の師たちに導かれ
 そのようになった

 そうならば僕の顔も少しづつ
 彼らと似てくることを
 予感してもいいだろうか

 あらゆる形象を越えて
 命だけが輝いている

 彼らのように
 一万年前の森の民のように
 静かなるおそれとともに
 僕はその太陽の道に足を踏み入れる



                               2013 11 19

131119_0640~01

                               


words & photo by haitaka




詩集2(火水の子供たち) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/02 20:23
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