虚像と実像


 先日世界的に有名な作曲家が、実は自分では譜面を書けずゴーストライターに作曲を全面的に依頼していたことが暴露されたという事件があった。

 しかも、耳が不自由であることにより現代のベートーベンとまで称されていたのだが、実はそれも嘘で本当は聴力があるのではないかという疑惑も持ち上がった。

 そう、今回は珍しく時事ネタであの人の事件のことを書いてみようと思う。


 事件といっても、僕はルポライターではないので、結局それはその情報が僕に及ぼしたエフェクトをつづるということになる。

 その某作曲家の情報によりどういうふうに心がもやもやして、そのもやもやを検証してみるとどのようなことが見えてきたのかというレポートとなります。

 まず僕は、作曲家S氏のことをN●Kのドキュメンタリー番組で知った。うちにはテレビがないので、仕事先で「こんなすごい人がいる」と録画した番組を見せてもらったのだった。脳性麻痺で四肢が不自由な人からだった。

 そこにはS氏が薬の副作用で床を這い回りながらも、部屋にこもり作曲に専念する様子や、震災で両親をなくした少女を訪ねる姿、被災地へのレクイエム作曲のために真夜中冬の海辺に何時間もたち続ける姿が記録されていた。

 手が不自由だけどバイオリンを練習している少女の家を訪ね、不自由な手で折った千羽鶴をもらって「また光をもらっちゃったね、ありがとう」と彼は言っていた。

 このドキュメンタリーを見て、僕の感想は「こんな人がいるんだ。あんな状態で作曲ができるなんて、人間の精神力ってなんてすごいんだ。こういう人がメジャーになると言うことは、やっぱり本質が認められる時代なんだな」とかなんとかそんな感じだった。何かこう一種のスピリチュアル的な匂いを漂わせているということも気になった理由のひとつだっただろう。

 その作品、交響曲「HIROSHIMA」もデータとして人からもらい二回程聴いてみた。その感想は、正直にいうと「よくわからんが、いいような気もするなー」という感じだった」。僕は、クラシックはバッハとかモーツアルトのメジャーな曲では好きなのがたくさんあるけど、ああいう感じの長い交響曲は退屈さが先に立ってしまうところがある。(HIROSHIMAは90分くらいある大作だ)でも、曲の中に何カ所かすごいなーと感じた箇所はあった。
       
 あんな人がつくったんだからきっと自分のクラシックへの鑑賞眼がいまいちなだけで、本当は感動的なものだろうと思った。その後「HIROSHIMA」のデータはプレイヤーの中に眠ったまま、聴くこともなく数ヶ月が過ぎてS氏のこともほとんど忘れていた。

 ところがある日ネットニュースの「本当は耳が聞こえていた?」という見出しをクリックしたとき、「あーキタよキターっ!」というくらいわかりやすくマーヤになった。

 あまりのどんでん返し感に、概要がわかるまででている情報を読み続けた。
 まったく、、こういうマーヤにならないためにテレビを捨てたんだけど、来てしまったものは仕方ない。
 その後、すべて情報機器を落として、いらっしゃったマーヤ王妃をもてなすことにした。マーヤ王妃は知恵を秘めていらっしゃるので、丁寧におもてなしするといろいろなことを教えてくださる。

 まずひとつのポイントは、別にS氏に心酔してCDを買ったりおっかけをしていない僕のような立ち位置でも、一度信じたものが嘘だと判明するといろんな信頼感が揺らいでしまうことである。僕は別にS氏への怒りのようなものはほぼない。とんでもないウソをついてたなーとは思うが。

 ただ彼という虚像を一度は「すごい」と思ったことにより、自分自信への信頼感が腐食され、ほかに自分が信じてるものも偽りかもしれないという思いにより、他への信頼感も微妙に腐食されるのを感じた。それがまずわかりやすいマーヤだった。

 被災地の少女とメールし、光や闇を語り、なんかだましちゃいけない部分で彼は大勢の人をあざむいしてしまった。

 しかしマーヤ王妃の顔を見つめていると、さらにその顔の奥にもっと別の表情が見えてきた。

 僕は、本当に、S氏にダマされたのだろうか?

 S氏のニュースを知ったその日、●HKの集金人がいらっしゃりその人をおもてなししたときのマーヤについても考えていたのだった。NH●の集金人さんは、うちにテレビがないことを告げても定期的にやってこられるので結構応対に疲れている。なんか人の時間にいきなり干渉してくる割に謝罪の言葉もなく態度もよくないし、こちらもイライラしてくる。

 そのことと、S氏に関するマーヤ王妃の顔がダブっていた。何かがつながる感覚。



 ああ、そっか、俺、別にS氏にダマされてないわ。

 N●Kにダマされたんだよ。




 ということに気づいた。


 NH●の番組構成力とその「権威」。


 いやいやもちろん、番組を作った局が意図的に視聴者を欺いたとは思っていない。きっと制作した人たちも、ダマされたと思っているのだ。

 しかし僕はS氏に会ったことはない。対面して話したこともない。僕が信じたのは彼ではなく、メディアによって作られた疑似的な情報体、つまり「虚像」だったのだ。

 その情報体は、ドキュメンタリーという番組の性質上、客観性を重んじるように制作されながらも、その中に彼という存在を神格化し、祭り上げるような意図を暗に含んでいたのである。

 カメラがある特定の位置に据えられているということがそもそも、客観性からはずれている、と以下の動画の中でコメンテーターが語る部分がある。

 



 それは確かにその通りで、ドキュメンタリーと言えどもそこにはなにかの意図がある、善悪や正邪の価値が混入している。逆に言えば、それらがなければドキュメンタリーと言えども番組としてまとまらない。

 その「意図」によって作られた情報体、音楽や、断片的な映像やCGによって構成された虚像に僕はダマされたのだろう。
 今偽者だったと報道されたあとならおかしく思えることはいくらかある。映像内の彼の様子や受け答え、被災地の少女とのやり取りがあまりにも自己陶酔的に感じること。母親を震災で失った女の子に「お母さんを愛していたの?」なんて聴く必要がどうしてあるのか。でもそれは、彼が偽者だったと報道されたことによって、僕の中で現実へのフォーカスポイントが変わったからに過ぎない。

 それにプラスして、●HKがそんなおかしな人間をスペシャルにとりあげるわけがないという権威への盲信だが、その権威性は受信料を払わないことに対してもおかしな不安感を感じさせる要素だ。大手のもっとも信頼できるニュースソースがこういう料金の取り立てをしてるという矛盾。

 なんで携帯にワンセグがついてたらあんたの会社に月1000円払わなきゃならんのか・・・

 (念のためにいうと僕はNHKの(あっ言っちゃった)昔のNスペのストイックなノリはすごく好きで、webで昔の番組見放題のオンデマンドを契約しすでに月1000円ほど払っているのです。これ以上変な取立てで印象を悪くして欲しくないものです)

 生のS氏にあったら、その「実像」からは画面とはまた違う情報が伝わってくるかもしれない。話すともっとそうだろうし、たとえば週に1度定期的に会っていれば、もっとそうだろう。

 だからS氏の情報体にダマされたからといって、自分の生(ナマ)の感覚を疑う必要はなかったのである。もちろん自分の感覚も人を欺く。でも、それは情報体によって生じるリアリティよりももっとビビッドだ。

 ある実験がある。
 赤ん坊にテレビ画面に映る人を見せても、まったく反応しないという。
 幼い子供にとって、そこに「実在する」人と、虚像はまったく次元の違うリアリティで、虚像は彼にとっては実在しないのである。
 だから赤ん坊には崇拝するカリスマはない。
 実在するお母さんとおっぱいだけが愛着の対象だ。
 カリスマを持たない赤ん坊は、彼自身の無垢なカリスマ性で人を魅了する。


 ところが成長してシンボル化したリアリティに慣れていくと、人は次第に虚像と実像の区別を失っていくのだろう。

 虚像を実像と勘違いしてしまう。
 情報体を、リアルだと思ってしまう。

 それは自分の肉体性や自然からの分離とも軌を一にしている。ニュースだろうがなんだろうが、ある視点から映像化されたものはすべて「虚構」であり実像ではないのだ。今ニュースはオリンピック一色だがおそらく世界の70~80パーセントくらいの人にとってオリンピックはまったく関係ないか、知らないか、どうでもいいトピックだ。
 「全世界が湧いた」なんて言葉はいつだってウソだ。 

 現実にはテレビ画面を縁取る「枠」なんてない。昔映画が登場した直後は、画面はしにくると人物や風景がぶつ切りに消失してしまうことにたくさんの人が不気味さを感じたそうだ。
 現実ではどうだろう。
 あなたの友人があなたの背後に回りこんで視界から消えても、はっきりした気配を必ず感じます。それも見えないだけに、きっと余計に密に。
 これが映像と現実のささやかに見えるけど巨大なギャップだ。感覚が360度ではなく前方にしかないことも、局所化した視野によりカリスマの虚像を生み出しやすい要因だろう。

 今画面のはしで現実がぶつ切りになることをなんとも思わないのは、映像という現実の象徴化の手法に僕らの集合的意識や脳が慣れてきたからだろうけど、その分「映像」という虚像を実像とみなす呪縛も強くなってきているのだろう。

 基本的に僕らが「虚像」にとらわれるのは、僕らの内面が虚だからだろう。
 何かスーパーな存在の「虚像」に夢中になり、そのフォロワーになることで人は内面の虚を忘れられる。

 それは自己存在や自己の現実の否定と裏表だ。「<なんでもない私>だけど、あの人のことを考えたら自分にも意味がある気がする」・・という。
 
 「映像」は僕らに自己を教えることはない。それは常に「他」を教える。

 なぜなら自己とは、テレビ画面やスクリーンではなく、この目に映っている、この世界と五感だからだ。それはもう僕らの目には映っているため、「映像」にはうつらない。だから「映像」がうつせるのは常にそれ以外のものだ。

 僕ら自身の存在とこの体感世界・・・これこそが至上のものであるということに目覚めない限り、いつもどこかで、心の中でやっぱり「虚像」は生まれ続けるんだろうなあと思う。

 僕ら自身の命、空気、目に映る太陽、大地、身近な人の存在の方が、どんなスーパースターの「映像」よりもくらべものにならないくらいきっとスゴい。



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知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/02/25 00:27

大雪と玄米クリーム

 2月14日からのバレンタイン大雪で、山梨とかでは集落が孤立してしまい大変らしいですが、うちのあたりでもかなりの積雪がありました。
 戦後最高とか、近年にない積もり方らしいですが、確かに東京来て10年以上こんな光景は初めてで驚き。

 アパートの庭。

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だいたい20~25センチくらいのスコップがずっぽし埋まる。

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 近所では総出で雪かき。

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 実家の京都の方では東京よりもたまに雪は積もることがあったけど、ここまでのはあんまり記憶にないような気がする。

 旧正月あけたとたんに、いろいろと、、そんなこんなで今年も自然の変化は大きそうだ。


 プチ断食と、玄米クリーム☆


 プライベートでは最近、食べないことにややハマってます☆
 大雪の週末、一人リトリート+断食してました。

 ローフードやマクロビ、菜食にはある程度興味があったのですが、よいものを食べるということを飛び越えて「食べない」というのはとてもいろいろなことに気づかせてくれるし、また気持ちがいい。

 僕がよく思うのは、すべてにおいて「なにも取り込まない」白紙のゼロポイント状態を経験してみるというのがとても大事だということで、それは人間関係とか情報だけでなくやっぱり食べものにも当てはまるんですね。

 ゼロの状態を経験する意味は、そこにとどまり頭や感情、そして肉体に一種の「飢え」の状態を経験させるとその「飢え」がなにが必要で、必要ではないかということを教えてくれることです。

 通常は、このゼロが多くのもので色づけされて、感覚がブレまくっています。「飢え」を感じる前に、読み、テレビを見、ネットを見、何かお菓子とかをつまみ続けるっていう感じだと、心身のセンサーが混乱する。

 そこをいったんシャットアウトすると、センサーの本来の機能が回復するんですね。イスラム教のラマダーンやその他の宗教にも断食の習慣があったり、また多くの伝統で山奥や自然の中で一定期間こもる(ネイティブのビジョンクエストなど)というのも、マインドや感情体や肉体が食料として「取り込むもの」を減らすことで、センサーの機能をリセットするためだと思います。

 パソコンが重くなってきたら、不要なファイルやプログラムを捨てて、それでもダメなら初期化するというあれとたぶん一緒。でも僕らは往々にして、重さを減らす為に、さらに別のプログラムをダウンロードしてしまう。

 すると最終的に重くてメモ帳すらひらけなくなります。^^
 っていうのは基本的には、新たなプログラム(健康食品や新情報)はビジネスになるけど、「断つ」ということからはなんの利潤も発生しないからでしょう。だから「断つ」ってことはいくら心身魂によくてもなかなかメジャーにはならない。

 でも最近弟とスカイプで話したとき聞いた話によると、欧米のセレブの間では情報機器などを「OFFにする贅沢」ということが流行っているという(笑)ことなので、断つこともこれから流行るのかもしれません。

 確かに本当のセレブなら、「情報奴隷」でいることはよしとしないはずです。
 
 断食っていっても一日なら水分のみで過ごして大丈夫かと思いますが、それ以上となるとなにか流動食のようなものを食べることが多いです。 

 僕は2、3日の断食をやるためにマクロビの本に乗ってた玄米クリームというのをつくってみました。

 圧力鍋がいるけど、つくりかたはとっても簡単!

 まず玄米1カップをこんがりきつね色になるまで15分間なべで炒ります。

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 このときとてもいい匂いがしてくるので驚きました。15分くらい炒るとぽりぽり食べられる状態に。

 そこに水を8カップと自然塩おおさじ二分の一を投入。あとはふたをつけて火にかけ重りが回りだしてから弱火に落として、30分間炊きます。火を止めて15分間放置。

 するとこういう、水分たっぷりのおかゆ状の玄米ができあがります。
 
 このまま梅干でも乗せて食べても、やわらかくて十分おいしいですが・・・
 
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 これをジューサーにかけて完成。

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 断食の時は、これを一日2食と他に水、野菜ジュース、具なし味噌汁などをとっていれば一日、二日は余裕で大丈夫だと思います。このレシピでだいたい8食分ほど出来ます。2、3日以上の本格的断食になると専門家の指導を仰いだほうがいいかもしれません。

 断食を一日二日でもすると、感覚がクリアになって楽しいですね。
 副交感神経優位状態になり、マインドが静かになります。
 からだはややふらふらしますが、気分は結構ハイ。

 さらに断食+情報断食など組み合わせれば、あなたも憧れの僧院ライフ!(笑)

 ジューサーにかける前のおかゆがあまりにおいしいので、クリームと混ぜて食べたりもしてみました(ごま塩少々)。
 玄米は深いですね~~

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 ボディを浄化し、プラーナを取り入れ、大寒波でも負けない体へ!

 あとやってみる時は常識ですが複食にはご注意ください。僕のように、断食明け翌日から天屋のテイクアウトでビール飲んだりすると相当豪快におなか壊します。(←アホな見本)

 構造体と超構造体



 この宇宙は構造体だけど、その宇宙を越えた超構造体が存在する。
 
 それは永遠かつ無限で、至福と愛でありこの宇宙の法則により制限されてはいないと言われる。

 かつてそれを求める人はこの世界の諸々のことや自分自身の人生への関心を捨て、それに意識をとどめることを目指した。

 その指向性は、この肉体や感覚へのフォーカスを捨てるということでもあった。世捨て人、隠者、サドゥー、

 しかし一方で、この世界や、肉体、環境、生命形態へのアウェアネスを高め、それらを愛し、ケアし、改善してゆくという方向性も存在していた。

 ネイティブアメリカン、ヒッピー、肉体や食事、自然環境へのアウェアネスを高める人たち。

 これらは最終的にはガイアという集合的な生命場を、守る、あるいは調和発展させていくという意志に集約される。なぜなら肉体とガイアはどちらも母なる宇宙のあらわれであり、連動しあっているからだ。それらは別のものではない。

 僕らが日常的に地水火風や生命や、肉体への意識を高めると言うことはその集合的ムーブメントへの参加なのだろう。

 これはこの宇宙を、ガイアを愛し、よい方向に育んでいこうとする意志、母性的な聖母の意志でもある。

 現代は、この構造体を意識し愛し、調和発展させていく母なる意志と、そして宇宙という構造体さえも越えた永遠の実在に帰依するという方向性が融合していくという希な時代なのかもしれない。

 構造体を守り、癒し、そして育んで進化させていく力。
 その先にはおそらく新たなガイアの姿が、そして人類、社会、肉体の姿が、生まれ変わり新たにされた僕らの姿があるに違いない。

 肉体という宇宙=構造体への愛は、この惑星への愛に等しいのだ。
 それはおおまかにくくると生命自体へのアウェアネスの集合的高まりを示している。

 僕らは担当分野はそれぞれ異なろうとも、この生命復権へのムーブメントに参加している。

 いま自然災害は猛威をふるい、国家も社会も不安定で人はこれまでとは異なった確かなものを求めようとしている。

 一見、これは危機に見えるが、僕らはこれを乗り越えていくだろうと思う。

 なぜなら僕らは大宇宙という構造体に育まれる、肉体という構造体だが、その内側に超構造体を宿しているからだ。

 僕らはそれぞれに神を宿した卵、

 神という超構造体を宿した構造体を、「生命」あるいは「人」という。


アセンション考 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/02/17 21:38

光る花、透明な樹と魚たち

 その一部始終をどうするすべも持たず
 僕は見つめていた

 草むらを這う
 小さな芋虫は
 天に向かって祈るように
 からだを伸ばしたあと
 餌を求めていた蟻に食いつかれ
 もがきながら引きずられていった
 僕の庭は恐ろしい戦場なのだ 

 冬が訪れて枯れ果てる
 たくさんの草木たち
 そのすぐ傍らでは
 冬でも青々とした葉を
 しげらせる大樹が
 陽を浴び葉むらを虹色に
 光らせている

 滅びの季節にあっても
 変わらず生命を輝かせる
 命がある

 さらにその背後には
 誰もが名前を忘れてしまった
 透明な巨木が
 天をついてそびえている
 木は決して枯れることなく
 すべてを見つめている

 難病の少女が初夏の午後に
 ふとカーテンを開けたとき
 灰色の摩天楼と
 湾岸ブリッジの彼方に
 その巨木はそびえていた

 故郷に帰れなかった兵士たちが 
 塹壕の中で息絶えるとき
 彼らのかんばせに涼しい影を落としたのは
 透明な巨木の梢だった

 そして木を垣間見たものたちが
 すべて過ぎ去っても
 巨木はすべての背後にそびえ
 葉むらを輝かせている・・・

 多くの命たちの
 喰い合いという共生の中で
 肥えた土壌からは
 小さな芽が出て
 茎が伸び 葉が広がる
 その先端には
 白い花が開いていた

 白い花
 そこはくいあう命たちの
 悲鳴と痛みが響きあう
 土壌の終結点だった

 花は聖なる響きとともに
 かすかにやわらかく
 光っていた
 花の先にはもうなにもない
 虚空を蜜蜂たちが
 うなりながら舞っている

 大地という命の戦場の
 果てには
 至福が虚空の中で
 光を放っていた

 透明な樹はすべての花々をいだき
 それらを静かに見つめていた

 透明な樹の沈黙と
 光る花の響きゆえに

 僕は命を祝福しよう

                               

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詩集2(火水の子供たち) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/02/04 10:57
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