上質なホラーを時々観たくなる。
でも、レンタルDVDの棚を見渡しても上質のホラーは少ない。
なにが上質かは主観になるので、もちろん僕の好みということになるけど、僕が時々観たくなるものは光と闇が均衡していてやや光が勝ってるようなものだ。
ホラーと言ってもぐちゃどろのものとかスプラッターものは好きくない。
意外と和製ホラーは海外に負けず劣らずぐちゃどろ+日本特有のじめじめした祟り、因縁、呪詛の雰囲気が混入し棚に近寄るのも嫌な場合がある。僕好みの上質のホラーは海外ものしかあまり知らない。(あるのかもしれないけど)
基本的にいやーな雰囲気で終わるものは、闇の要素が作品の中で勝っている。
ホラーってそういうものだろと言われれば、そうですねと言うしかないけど、基本的に後味の悪いものはあまり観たくない。化け物との戦いに敗れ全員死んじゃうとか、たくさんの犠牲を出し倒したと思ってても、墓の下から手がぐにゅーっと伸びてきてやっぱり生きてましたーという感じで終わるとか、結局すべて無駄でした的な結末は闇側にリアリティの軍配があがる。
でも相当残酷なイベントがたくさん起こっても、闇的要素と光的要素がバランスし、それぞれの役割が生きてくるようなもの、ホラー的なものを描いていてもある一定の深みが見え隠れするものが、僕にとってのハイクオリティなホラーの定義だ。
そういう視点で見ると、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」とか、ナイトシャマランの「ビレッジ」、サムライミの「ギフト」、「コンスタンティン」、スティーブンキング原作の「IT」などが自分的にはポイント高い。同じくキング原作の「ミスト」は、ずっとキモい映像が続くし、最後は最後でいやんなっちゃう結末だが、割と絶望の恐ろしさとかそういうものが間接的に描かれていてちょっと「おおっ」と思った作品だ。
あとなんとなく手にとって借り始めた海外ドラマシリーズ「ウォーキングデッド」も、ゾンビ映画でぐちゃどろなシーンもあるけど、これは人間ドラマ的に目が離せない展開が多くて結構ハマッた。なぜこれを借りたかというと前から「ゾンビ」という概念自体に結構魅了される部分があるからだ。いつかゾンビから必死で逃げてショッピングセンターに立てこもるのが夢(笑)なんつって。ハイクオリティのゾンビ映画ってのもなかなかないので、ゾンビ映画をここまで見るに耐えるものにしたというその点で「ウォーキングデッド」の功績は大きいような気がする。

「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」は時を越えて生きる吸血鬼ものだが、基本的に吸血鬼もののルーツはブラム・ストーカーの「ドラキュラ」なわけで、ドラキュラは一応貴族だからかどうか知らないけど、吸血鬼ものは品格?があって割りと深いものになってることが多いように思う。というのは多分、人の生き血を吸ってれば永久に生きられるとか、太陽に当たると灰になるとかバラを枯れさせるとか、もともと吸血鬼という概念自体に相当人の想像力を深い世界に向かって開く何かがあるからだと思う。その存在自体が一種の哀れさとか人の不死へのあこがれとか恐れを同時に掻き立てるのだ。
そういう意味で吸血鬼が僕らの目の前に立つと、いろんなことを感じさせてくれる。
ジェイソンや貞子じゃ、こうはいかない。(「リング」は原作はなかなかすばらしいですが)
「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」にもそういった吸血鬼の二面性が十分に描かれている。
これは一般庶民が貴族的な存在に対して抱く、嫌悪や憧れ、などのアンビヴァレントな感情とも通ずるものがあるかもしれない。この映画の最後は、トムクルーズ演ずる吸血鬼レスタトの復活で終わるが、この場合は映画が終わる頃こちらも相当吸血鬼に肩入れしたい気分になってるのである種痛快でさえある。

吸血鬼もので僕が幼い頃衝撃を受けたのは、藤子不二夫の漫画『流血鬼』だった。
この話は、吸血鬼になるウィルスが少しづつ世界に蔓延して、日常を侵食していく話だが、ラストにおいて根本的なひっくり返しが起こる。是非多くの人に読んでもらいたい名作短編だが、このひっくり返しがものすごいのは
「なぜ、吸血鬼になってはいけないのか。吸血鬼は本当に悪なのか、それはすべて古い人類の思い込みなのだ、実は、吸血鬼になることは・・・」

というような形で善‐悪の概念がまったく転換してしまうからである。
少年漫画でこれだけ見事にそういう価値の転換を表現したのがすごいと思った。

キアヌ・リーブスがひねくれたエクソシストを演じる「コンスタンティン」に関しては、あれだけぐちゃどろなシーンがあるにも関わらず、ラストは爽やかを通り越して崇高な気分にさえさせてくれる。やはりキアヌはハワイ語で「神の名に絶えず集中するもの」なんて意味の名前を持つだけのことはある。
この映画の中では秘密の地下クラブのマスター「ミッドナイト」が均衡がすべてだ!と言う様に、「光」と「闇」はそれぞれの場所を与えられている。と、同時に光と思われる存在(ガブリエル)にも悪が宿り、闇と思われる存在(ルシファー)も、神によって動かされているという世界観が見事に描かれている。
よくあるジャンクB級ホラーの雰囲気と、こういう深い哲学がいったいとなって描かれてるのが「コンスタンティン」の魅力だ。

スティーブン・キングはホラー作家だと認識されることも多いだけあって、「IT」では恐怖を存分に描ききっている。一応映画化もされてるけど、いかんせんあの短さと内容だと原作のすばらしさの10分の一程度しか感じることはできない。まあ原作は分厚い単行本4,5冊くらいあったので気軽に読める代物じゃないかもしれないけど、一度はまれば最後までそれほど苦痛なく読める。僕は二、三回通読した。
キングは「ショーシャンクの空」の原作「刑務所のリタ・ヘイワース」や、「スタンドバイミー」の原作を描いているところから観てもホラー作家という枠ではくくれない。オールジャンルの物語作家で、日本で言うと栗本薫とかに近いのかもしれないと思う。
ここまで書いてきてやや自分でもわかってきたが、「闇」をどう位置づけるかによって、後味がいいホラー映画かどうかが決まるようだ。「闇」だけが描かれ、希望や、明るさ、愛、人間の強さが描かれないものはもちろん後味は良くない。これはホラーだけに限らず幅広いジャンルで言える。
僕が見たいのはどうやら超自然的な「闇(悪)」が登場しつつ、それが「光」とバランスしたり、克服したりされるような映画らしい。うーん、これはすでにホラーとは言えないのだろうか・・・。「じゅおん」みたいなのがホラー作品の代表とするならば。
「IT」において、ペニーワイズという化け物ピエロと対決する子供たちはみなどこかに問題を抱えている。ある種こころに闇を抱えているのだ。ペニーワイズは、そのそれぞれにとってもっとも恐ろしい姿となり、彼らの恐怖を増幅させて、闇の中に飲み込もうとする。

それに対して彼らが武器とできるのは、一言で言うと愛や喜び、友達やガールフレンドへの愛や、そして彼ら自身が夢中になっているもの、好きなもの、新しい自転車で坂を走り降りるときの興奮、そういったものなのだ。
ということはそれはすでに物理次元の戦いであると同時に、精神次元での葛藤、愛と恐れとの相互作用なのだ。
「IT」のストーリーを思い出すと、なんかSEのトラウマの渦とリソースの渦の相互作用みたいだなと思った。
現実的な脅威に、そういったものは短期的には役に立たないかもしれないけど、精神次元での恐れに対しては、「愛」は必ずそれを中和する。キングはそれを「It」で感動的に描いているように思う。
ということで、どうも僕は自分の中の「闇」がうまくバランスされるような映画を、癒しを求めて無意識に探してたのかもしれない。
これから暑くじめじめしてきますが、怖いものが観たくなった時は、ぜひ上質なホラーを!
癒されるホラーがあれば教えてください(笑)
現象世界はみな回転し、変化し、構造体を形成し、二極対立することにより、生成化育・進化発展し、創造され破壊される。
すべてはらせん状に上昇しつつ、永劫に回帰する。
すべての構造体は、また回転体であり、振動体である。
原子・分子・細胞・微生物・鉱物・植物・動物・人類・惑星・恒星・銀河はすべて回転体だ。
現象世界のものはすべてある一定のサイクルに応じて、発生し、消滅し、繰り返される。繰り返される回転運動はすべてらせん状であるため、そのたびに新しい側面を持つ。
人の心身という構造体においては、すべての体験、その個人にとってのよろこびと悲しみ、愛と恐れのパターンは周期的に繰り返され、かつらせん状に進化・変容する。
それらすべての回転体、構造体は台風のようなものである。
その回転は不動の軸により支えられている。動かない中心だけが、この回転を支え、発生させることができる。
動に対しての静が無ければすべてはありえない。
すべての変化の支点はそれ自体は変化しない。
そしてすべての回転体・構造体はこの不動の支点を中心に、かりに現象化されている。
回転体の内部にいるときはその中心にのみ静寂があるように思えるが、回転体の外部においては静寂しか存在しない。
そこは父なるものの住処だ。
この不動の中心と一体化し、無為を生き、衣もまとわず生きるもの、座すものは賢者・聖者と呼ばれた。
一方、回転体の渦に自ら飛び込み、父と我を忘れ、あらゆる衣をまとい、歌を歌い、愛を交わし、創造と破壊、生成化育の遊戯に関わるものは愚者と呼ばれた。
またこの回転体の中で自ら変化と遊戯、進化を生きつつ、あらゆる衣を身にまとい、歌を歌い、子を産みながらも不動の中心と共にいる「踊るものたち」はバクタ、あるいはタントリストと呼ばれた。
彼らは愚者たちと同じように自らがただ回っていることは知っていたが、どこを中心に回っているかも知っていた。
彼らは自らの踊り相手が誰であるかを知っていた。
動かぬものがあるからこそ、われらが回り、変化し、踊っていることを知っていた。
それがゆえに、彼らの回転する生は、祝福と喜びに満ちたものとなった。


haitakadori
RT @TsutsuiYasutaka: まるぼうず【丸坊主】蠅の滑り台。
05-27 20:04RT @TsutsuiYasutaka: ふつう【普通】偉くなれないと自覚した者は殊更に「普通でありたい」と言う。
05-27 20:04RT @TsutsuiYasutaka: こむそう【虚無僧】恥ずかしがり屋のストリート・ミュージシャン。
05-27 20:03RT @d_shimo: I'm at 宇宙軸より無限の記憶 http://t.co/nwt0hVEOVE
05-27 19:49
SEセッション二回目以降の記録
現在、三回体験。
興味深いことがあればアップして行こうと思いますが、効果を確認しつつ、心を整理しつつなのでかなり時間差レポートになると思います。
*比較的に内面さらしてるので期間限定記事となるかも・・・・
■SEその後
一回目のSEセッション(4月初旬)のあとエネルギーの高まりを感じた。
次の日は5時半ごろ目が覚めてしまったけど、よくある目覚めの重苦しさはなく、胸が躍るような感覚があった。
「木々の形はそのままで喜びの表現なんだ」というような言葉が浮かび、また二度寝することもないかという気になり、早朝の公園を散策にいった。
その日は自分にしては活動的にいろんなことをした。活動しすぎてラインを超えてしまったのか、夕方ごろにはなんか熱っぽくなっていた。
夜寝ると「ハッ」と驚いたような驚愕反応で一度目を覚ましたけど、すぐに寝付く。翌日仕事なので安定剤を半錠飲んで・・だけど。
SEの影響かどうか微妙な部分もあるけど、重要なものを見つけたという感覚はとても強かったので、翌日二回目のセッション予約メールを出した。
仕事もいつもよりも心の余裕があって、コミュニケーションもやや力がぬけてるように思えた。
夜も更けて仕事が暇になってくると、SEのセッションや、そのトラウマ理論のことで頭がいっぱいになってきた。
明らかに自分の生きづらさの根本はこの持続する内的過覚醒にもとづく慢性的緊張、苦痛にあった。
精神状態でも、経済的にも、人間関係でも、僕の人生はいつも外的にはギリギリ感が強かったけど、これは明らかに、内的ギリギリ感(つまり常時警戒態勢の)の反映に過ぎず、苦しみの原因ではなく、むしろ結果だったのだ。
頭ではすべては起こるべきタイミングに、完璧に起こってるとわかってるが、強烈な感情が次々に湧いてくる。
でも、恒常的になってるこのある種の緊張状態が良くなるという可能性を考えても、どこか、そんなうまい話あるか、なんてささやく部分がある。
心身の安定へのささやかな希望さえも、どうせ無理かも・・・何も変わらない、とか、そのまま受け入れ苦しむ必要があるとか、そんなことはやめて神だけを追求せよとか、そのうち癒しなんて言ってられない時代が来るとかって思う、実人生への期待値が下がった自分にある種驚いた。
というかこの思考パターンの重さに気付いた。
怒りの感情はSE的には、大歓迎ということになるらしい。
興奮レベルは高い位置にあるけど、少なくともそれを越えてエネルギーが凍り付いてるというわけではないからだ。
怒り大歓迎といわれるとちょっと安心するけど、問題は人といてそれが出るときかな。怒りが強くなりすぎると、僕はそのエネルギーで凍り付いてしまい、自分自身でそれを解除することがなかなかできない。誰かがお湯かけてくれるの「待ち」のめんどくさい状態になる。この解凍がセルフでできるようになったらいいんだけどな。そのための一歩はまず、どれくらい不条理な怒りでも自分でしっかり「感じる」ってことなんだろう。
ということで「怒り」をしっかり感じてやろうと決意。
■二回目のSEセッション
2回目のSEセッション(4月中旬)もとても興味深かった。
今回はストレートに、僕の恐怖の中核をテーマにしてセッションが進んだ。
「怖くなりすぎたら目を開けてください」と事前に言われた。
誘導に従い徐々にイメージを感じ、深めていくと、すぐ苦手な雰囲気、黒い悪の気配に飲み込まれ
「あーちょっと気持ち悪くなってきました、目あけていいですか」と
即効でギブ(T_T)/~~~ (笑)
激しい呼吸法はしてないのに両手がじんじん痺れてるし、頭の後ろも痺れ感が
これは神経系のエネルギーが放出しているってことらしい。なにか見てはいけないものの直前まで行き、その気配におののきすぐにUターンしてきたみたいな感じ。
ホラースポットの廃病院に見物に行ったはいいが、近づくにつれその禍々しさに圧倒され門柱くぐる前に引き返しました・・みたいな。
きびすを返すその寸前、暗い窓のあたりに見てはいけないものの姿がちらっと見えてしまいました。。。みたいな。
なんだこりゃ・・この感じは・・・こんなものいつか直面できるのかって思ったけど。
でもHさんによると、パンパンになった風船から少しづつ空気を抜いていくのがセッションの目的なので、一見中断したみたいだけど今のでも、エネルギーが抜けてるということ。「1ミリづつふたを開けていきましょう」と言われた。
少しづつ少しづつ、このプレッシャーを弱めていけば深く感じるところまで入れるし、入れるようになってそこを懐中電灯で照らしたらただの粗大ごみ置き場でしたとかそういう感じのものらしい。その段階では、トラウマは分解され力を失ってるから。でも一度にふたをあけようすると、そのトラウマエネルギーに圧倒されるから注意が必要とのこと。
SEでは、トラウマの領域と、リソース(資源)の領域(自分にとって心地よい体感覚)の間を交互に往復しエネルギーを解放していく。
リソースの渦と、トラウマの渦の相互作用によってふたつの力が統合される。というのがSEの主要なセオリーのひとつだ。
リソースの体感が、トラウマの解放・統合をサポートしてくれるという。
僕は昔からリラクゼーションなどで心地いい体感を感じるのが苦手だ。きれいなイメージを思い浮かべても、ビジュアルとして見えるだけで現実感が感じられないというか、そこにいる喜び、楽しさがなかなか感じられない。マインドの働きがリラックスを邪魔する、拒絶する。今回のセッションでも自覚していたその傾向を指摘された。
不安になるのは得意なのだが・・・
この、すぐバッドトリップできる能力、何かに生かせないものか・・・
木漏れ日の森をイメージするけど、やはりなかなかその世界の現実感と接触できない。
さっきの恐ろしい世界と、この世界を対比すると、ここはとても美しく思える。そのことを伝えると
「どちらに行きたいですか?」
そりゃきれいな世界に行きたい。
でも現実感があるのはまださっきの恐怖世界だ。
「それが体の感じてる現実なんですね」とHさん。
そのままリソースを探っていくと、胸の中にある生き物がいるイメージが出てきた。その生き物がいとおしくてなぜか少し泣きそうになった。
心地いい感覚がゆっくりとひろがってきた。この生き物のことを考えると、さっきの恐怖世界の感覚が遠のいていった。
うれしさ、よろこびがあらわれる。
とても不思議だった。これがリソースの感覚?
もともと僕の中にあったのか。
最後のほう誘導されることに疲れてきたのか体感的には左胸の辺りにイライラ感が脈動し始めた。
言っていいのかどうか少し迷うが、「あの・・・ちょっとイライラしてきました」と伝えた。
「大丈夫ですよ。その感情はとてもウェルカムなので。やっと出てきてくれましたかっていう感じですから。その感覚が次回以降のテーマになるかもしれません」と。
表層的には、疲れたとかでイライラしてると思っても、誘導によってフェルトセンス(常に移り変わっていく感情・体感覚・イメージなどを総合した概念)を見ていくと、別の内的なエネルギーとつながってることがわかってきたので、なるほどと思う。
以上セッションのごく一部。
前回はすっきり感と共にセッションが終わったけど、今回は地下世界をのぞき見た動揺がまだ残っていて、頭痛もした。
すごくいろんな世界を旅して疲れた。
でも駅まで歩き、ホームで電車を待つころになると、気持ちがいい覚醒感覚が意識に浸透してきた。
夜は不安を感じることが多いけど、線路に降る雨の線がなんかきれに見えた。
またインドにでも行って、どっかの駅でこんな風に雨を見ながら電車を待ってみたいなと思った。
SEちょっと癖になりそうだ。
自分の感じる感覚を、それがなんであれ尊重してもらえることが心地よい。
あんまこれに依存してもなと思うが、当初の予定通りとりあえず3回は受けて見ようと思う。
セッション翌日、動画サイトでやりすぎ都市伝説をぼーっと見てる。
怖い話し系が多くて、こういうの見てるの久しぶりだなと考えてると、もしかして昨日のセッションと関係あるのかなと思った。
フェルトセンスで体験したトラウマ世界はどっちかというとこういう超自然の恐怖系だったからだ。うん、そうこの不気味ーな体感が似てるような・・・
ただリヴァイン博士によると、トラウマがイメージに置き換わるときに、そういう形になることもあるようなので、必ずしも現実に体験したイメージかどうかはわからないみたいだ。
■ 二回目のセッション後 <4月中旬以降~>
相変わらず激しい感情の表出は続いてるけど、なんか知覚の範囲が広くなったような印象がある。
気のせいかな?
今まで、ここにこんなのあったっけ?という感じとか、ああ、この幼稚園の先生は毎朝門の前に立って一人一人にハイタッチしたりして「おはよう」って声かけてるんだなーとか。
大変だなー、でもそれくらい子供が好きなんだろうなとか。
いつもの道を散歩しててもいろんな刺激が新鮮に見える。
非常時に生体がする反応のひとつとして「狭窄」というサバイバルのために知覚を狭めるというのがあるけど、そういう知覚の限定が少し緩んだのかとも思う。
激しい怒りが出てきたときに、解放する方法のひとつを教えてもらった。
タオルを横にし適当な分厚さに折りたたんでその上部を握る。そして、ぎゅーっと力を込めて、ゆっくりゆるめる。また力を込めて、ゆるめる・・・・これを何度か繰り返す。
これは神経系に負荷をかけないで怒りを表出させるためによいらしい。
まあ普通に生きてたら誰でも一度や二度は家具や壁をぼこって凹ましたりしたことあると思うけど(え・・・ないかな?)、こういうことをするとそのあとスッキリするかもしれないけど、なんか暴力的になったことによって余計気持ちが昂ぶったり、ある種の恥の感覚が強くなったりする。自分が怪我をすることもあるだろうし、なにかその激しさが自分自身のどこかをきづつけてるような気もする。
このタオルを使ったやり方だと、穏やかに表出させるということを脳に学習させる意味でもよいらしい。
これを何度かやってると悲しさと一緒に涙も出てくる。
怒りと悲しみがセットになってることはフェルトセンスで見ていけば、わかることだけど、このやり方も穏やかだから悲しみも感じられるのかも。
怒りに任せて枕ぼこぼこにするとかだと怒りオンリーになっちゃう可能性がある。
■リソースの渦とトラウマの渦
二回目のセッションから一週間ほど経って(4月下旬)、感情の出方がさらに激烈になってきた。
こんなに一日中怒ってるのはあまり経験したことがなかったので、ある意味興味深いけど、あまり続くとちょっと衰弱する。怒り疲れ(~_~;)
頭がおかしくなるような感覚があるくらい底なしに湧きあがってくる。
これだけのものがあったことに戸惑いつつ、自分で驚く。
基本的に感情は感じつくすのがいいとは言うけど、SEの本にも圧倒されたら注意を別のことに向けることを勧めているので、この状態はさすがに感じすぎだと思い、タオルに怒りをぶつけるのもやめて走ったり、ストレッチをして体を動かすことに意識を移した。
うーんそれにしてもタオルを握りながら「このバ~カ~ヤロウ」って呟くくらいいいと思うんだけど、それくらいでも結構罪の意識を感じたり、こんなことしてて次に相手と会ったときにぎくしゃくしないか、スピリチュアル的にこれはいいもんだろうかと気にする部分があり・・・どんだけ良い子ちゃんやってるのかと思った。
ずっと基本的には感情を押さえつけ、コントロールすることで対処していた。だからそれを出すのは本当に不本意ながら切れてしまった時が多かったから、切れるだいぶ前からこうやって怒りを表現するというのは新鮮だ。
それにそのほうが人に迷惑がかかりにくい。
結局相手は、エネルギーを投影した仮の標的になってるだけだから本当の意味では憎んでいないことが多いんだと思う。ただそれをわかるためには、その怒りをトータルに感じたり、ひそかに放出させるということが必要だ。念が飛んでいかないことを祈りながら。
ただあまりに頭がマッドな状態で、プラクティショナーの方にも「その怒りをひとりで感じつくすことはお勧めしません」と言われ、かわりに「心地よさ」を意識的に感じることを勧められた。ありのままに感情・感覚を感じるのと平行して、ここちよい体感覚を意識するようにする。
ここちよい体感覚はおそらくSEの考え方で<リソース>と呼ばれるもので、生命エネルギーを巻き込んだトラウマの渦の解放と統合には、リソースの渦が重要な役割を果たすと考えられている。それは自然の中を散歩してさわやかに、広がったような「感覚」とか、夕日や朝日を見てその美しさに感動した「感覚」とかお風呂に入って気持ちよかった「感覚」とかとにかくここちよい「感覚」であることが大事みたいだ。体感覚の希薄な難しい理論や理屈は、きっと脳の新しい部分に属するので原始的な脳の部位が喋る言葉とは異なる。
リソースをふくらませることが、セッションにもいい効果をもたらすらしい。
頭が感覚や感情と切り離されて空転している状態が多いので、このここちよい感覚を感じつくすというのも新鮮だ。
普通現代人は理性が優勢だから、ある程度は頭が感覚や感情と切り離されている。
よくあるたとえでいくと、動物は体感覚で生きているので調子が悪くなるとエサを控えたりするけど、体感覚ではなくマインドのパターンにとらわれている人間は、体が食事を嫌がっていても食べ続け、飲み続け、タバコを吸い続ける。体がそれを欲していなくても、心がそれを望んでいなくても、自動的に回転するマインドパターンの輪の中に閉じ込められてしまうのだ。この閉鎖系が人の生命力と可能性を大幅に限定しているもののひとつじゃないかと思う。
リソースを感じていると、本当に体や心が喜んでいるものと、そうでないものの見分けもつくようになるかもしれない。
トラウマエネルギーは神経系の収縮で、リソースは拡大だ。
リソースの拡大力が、トラウマの収縮力を中和する。
以下トラウマの渦とリソースの渦にヒントを得た考えで、ちょっとSEの理論外の話になるけど、<収縮する渦>と、<拡大する渦>というのは癒しや人生の出来事を考えるときとてもいいモデルになるような気がする。
人生の総合的バランス度は、このふたつの渦の勢いの均衡によるとも言えるのではないだろうか。
収縮する渦の方が勢力が強いと、人生はやはりつらいもの、耐え忍ぶもの、ひとつ間違えば地獄のようなものになる。
拡大する渦のほうが強ければ、人生はつらいことはあるが生きるに値するもの、喜びに満ちたものにもなりうる。
収縮する渦は、本来、拡大発散する生命エネルギーを巻き込み、脳神経系や細胞レベルに「帯電」する。
それは危険時においてサバイバルのために起動し、生命エネルギーを凝縮するためのものだ。
収縮する渦のとらせる姿勢は筋肉を硬直させ、首や肩に力を入れさせる。
恐れや怒り、悲しみというエネルギーがリアルなのはおそらく肉体に「帯電」しているからだ。
もしかするとそれは電子機器に異常さえ起こすかもしれない。
それに対して拡大の渦は、拡散し、よろこびを放射する。
拡大の渦のとらせる姿勢を象徴化すると、両手を広げ胸を開いたような姿勢と、全身のリラックスだ。
その渦は、エネルギーを帯電させるのではなく、放電している。
収縮の渦は人生を耐えがたいものにもするが、収縮の渦の巨大さに対応した拡大の渦が、それとバランシングするために潜在的に形成される。
それがきっと、どんな状況でも人に希望を与えるもの=Spirituarityだ。
きっとそれが顕在化することもあれば、そうならないこともあるだろう。
でも潜在的には、収縮の大きさと比例した拡大の渦が同時的に作られるのではないだろうか。
つまり巨大な恐怖を抱えているということはチャンスであり、預金残高のようなものなのだ
記憶喪失で換金の仕方を忘れてしまった外貨貯蓄と言ったほうが近いだろうか。
収入は30万くらいあるけどその大半が自動的に外貨に投資されて、手元に残る日本円は10万くらいで、しかもどうしたら日本円にできるかわからなくなってしまい貧乏を余儀なくさせられてるような。
あるいは買い込んだゴールドを常にリュックでしょって歩いているので、なにをするにも疲れて働くこともできなくなった状態。
そんな風に巨大な収縮は、巨大なよろこびをはらんでいるし、巨大な闇は、おそらく光の卵なのだと思う。

「収縮」を換金した時の、映画「ショーシャンクの空」 アンディ・デュフレーン
「希望はいいものだよ 多分最高のものだ いいものは決して滅びない」
I hope I can make it across the border.
I hope to see my friend, and shake his hand. I hope the Pacific is as blue as it has been in my dreams.
I hope.
どうか無事国境を越えられますように。どうか友と再会しやつと握手ができますように。どうか太平洋が夢の中で見たのと同じように濃いブルーでありますように。それが私の望み(希望)だ。
ショーシャンクの原作 S・キングの「刑務所のリタヘイワース」より
すごくハイクオリティな世界観。
最初にcold play 聞いた時はこれが好きだった↓
母と歩いた道
雨に濡れたアーケード街
どこかでピエロが踊っている
コーヒーの匂いがする
オレンジの灯りがいくつも滲みながら
揺れていた道
真夏の駅の中
むっとする人ごみと
見知らぬ街の名を連呼する
熱く焼けたホームのスピーカー
の声を聞きながら
僕は母のあとを追う
水族館の中
古代魚たちがゆっくりと泳ぐ
暗い水槽の上にかかる道
出口から明るい日差しが差し込んでいる
遠い夏の浜辺へと続く
白い道
僕は
手を引かれながら
母と一緒にたくさんの道を歩いた
いつの間に僕は母と歩かなくなったのだろう
いつの間に僕はひとりで歩きたいと思うようになったのだろう
母と歩いた道
その道はどこへ向うわけでもなかった
ただ太陽と蝶はいつも僕の周りを回って
その時間は終わることなく無限だった
それがそんなに特別な道だって
幼い僕は知らなかった
ただ光る雨粒と ピエロのシルエット
コーヒーの匂い
そして当然のような安心感を抱きながら
その道で拾った白い貝殻を
僕の右手は今も握り締めている
Dec 2013
words by Haikata For Mother's day
haitakadori
RT @hosshyan: ビビってるんか何なんか、表現した者を叩くみたいな世の中、みんな心地いいのかな?美味しんぼのコトもそうやけど、表現者って、リスク抱えて自信持って表現するねん。世間にわかりやすいからって、安易に表現者を叩く自治体って、めんどくさい"本丸"っていうか"大元…
05-09 22:09RT @hosshyan: 例えば仮に、俺が「◯◯産の野菜食べへん!」とか、「◯◯には行きたくない!」ってのは、"風評"でも何でもない。"好み" や。自分の物差しの。ミス何とかの日本代表を万人が推せへんやろ?それと一緒、好みや。誰が「みんな止めとけ!」って言うた?"風評"って言…
05-09 22:09RT @Michael_Ende_jp: だいたいグルたちの写真を一見するだけで、嫌ですよね。高慢で自己陶酔的なあの顔。彼らはそれなりに自己調和を得ているのかも知れないけれど、私はあのやり方を否定します。 『三つの鏡』
05-09 22:02
haitakadori
RT @LSDove: 「この世に限られた時間しか無く、そしていつ人生が終わるのかを知る方法は無い、ということを本当に知り理解したとき、初めて私たちは毎日を一期一会のごとく最高に豊かな生活を送りはじめようとするのです。」 エリザベス・キューブラー・ロス via サイケデリック格…
05-05 13:23

二月少し前には大雪でこんなだった庭も、雑草が青々と生い茂るようになった。

これ実は雑草で荒れた庭ではなく、かなり適当な菜園になってます。
3月終わりの新月の頃、だんしゃくの種芋を十数か所庭に埋めてみた。
軽く耕して、肥料を適当に撒いただけ。正直芽が出るかどうか非常に心配だったけど・・・

立派に成長中!!
ここ数日の暖かさ(というか暑さ)で急成長。
今日見てみると長さが10センチを越えたので、勢いのある芽をふたつほど残してあとは摘み取る「芽かき」を行った。
庭の隅に植えたひまわりも大きな芽を出したのを見つけうれしかった。(文体が小学生の観察日記みたいになってきた。。。)

先日は、よく行く大きな園芸屋さんで、すごいものを発見。
どこかで見た形だけど、まさかなと思ってしげしげ眺めると
まさにそのもの

このお方はかつての師匠なので、買う、買わないと迷う暇もなくレジにお連れして、うちにご招待する。
道に「親友」とか「お母さん」、ラーマクリシュナが落ちていたら自動的に家に連れて行くのと同じ。
しかし、
師匠・・どうしてこんな場所にたくさん並んでるんですか・・・
師匠は、普通に売ってたんですか?聴いたことなかったけど。
値札がまだついてるのでわかるけど、このサイズのサボテンにしてはちょい高めかもしれないけど、超高いってほどでもない。12年ぶりの再会に運命的なものを感じ、部屋に置くとすごくうれしくなりました。
お久しぶりです!師匠!お帰りなさい^^
今日から一緒に住みましょう!><
PEYOTEは精霊メスカリートの宿るメディスンパワーの強い植物です。
しかし・・ネットとかじゃなく近所に普通に売ってたのがいまだに不思議。
やはり私に会いに戻ってきてくださったのですか・・・ししょ(もういいかw)
一昨日はあたたかいので高尾まで足を伸ばし、森林科学園へGO

メタセコイアの林。
メタセコイアって名前は聞いたことあったけど、不思議な歴史を持つ植物のようだ。
これってまず1939年に日本で化石として発見されて、「メタセコイア」と命名されたらしいけど、その後絶滅種だと思われていた。でも1945年に中国四川省で現存することが確認されたことにより、日本でも国や皇室が挿し木や種を譲り受け全国に植えられたということらしい。
中央線の武蔵小金井駅付近にも3本のメタセコイアが植えられており、僕は高尾行きの電車に乗る前に駅周辺をぶらぶらしてそれを見つけ、「あれこれ何の木だろう?なんかそそられるなー」と幹を触ったりしてたので、現地でまた名札と説明つきのセコイアに再会して、あーさっきのもセコイアだったのかと気付いたので面白かった。
森林科学園でもらったセコイアの実の標本(右側)
左側はコウヨウザン。

森の甘い香りに癒されました。