2014.
11.
28
どうも混沌とした雰囲気になりすぎるので、「MATRIXの恋人 もんもん日記ver2.0」はこっちのまとめブログに保存することにしました。
MATRIXの恋人
今後「黄身」にあげたものは期間限定記事として↑に以降させようかと思います。
どれくらい更新できるかは未定です。マイペースでゆきます

2014.
11.
24
haitakadori
来たるべき地球のかたち http://t.co/AmmzPwImEY 雪でドアが開かず、玄関ドアが冷蔵庫になってる・・・どんな時でも発想力とユーモアは忘れずにいたいなあ。
11-23 22:25
2014.
11.
23
haitakadori
RT @MN_hito: やっぱり家具の固定は必要だな。@kozou3751: たいへんだ‼️ RT @HygNtoLuv63: 長野市やばい。家ぐっちゃぐちゃ。震度6弱の脅威。 http://t.co/jyCt3KhRTt"
11-22 23:19
2014.
11.
20
ふと思い立ち、東京代々木上原の東京ジャーミーに見学に行ってきました。
ジャーミーとは、モスク、つまりイスラムの礼拝所です。
最寄り駅は代々木上原ですが晴れていたので、僕は下北沢で降りてぶらぶら歩いていきました。
一階は文化交流センターのようになっていて、イスラムやトルコ関係の品物が販売されています。
イスラムには一日に5度の神様への礼拝(サラート)が義務付けられています。
例えば本日、11月20日だと、サラートの時は
ファジル4:47
ズフル11:33
アスル14:16
マグリブ16:38
イシャ17:57
となるようです。分刻みで設定されていますが、どうもこれは日の出や日没時間と関係があるらしく季節によって細かく変動するみたいですね。正確にこれを毎日守るのは、日本人の普通の感覚だと、大変です。
僕が訪れたのはちょうどズフルとアスルの間くらいの時間帯で、礼拝は行われていませんでした。
人は少なかったですが、なにぶん初めての場所なので、緊張しながら二階の礼拝所へ向います。
男性用トイレには礼拝前に足や手を清めるシャワーがいくつもついていたり、そこはかとなく異文化感が漂っています。
礼拝所に入る時女性はストールやスカーフ着用が必要で、男性もハーフパンツなど肌の露出が多い格好はNGなようです。
そっと静かに礼拝所にはいり、中を見渡し、静かに座っていました。


この空間はすごいですね。
いろいろな宗教が聖なる場所をつくるわけですが、イスラムは周知の通り偶像崇拝は禁じられています。
だから神の像はありません。
その代わり、幾何学的な装飾や構造で全体が覆われていて、なんだか意識を集中する像がないことが逆に神なるものの偏在を感じさせるような構造になっているように思われました。
とにかく、余計なものがなくて、静かで、とても美しい空間です。
ムスリムではないですが、しばらくそこで、祈ったり、見とれていると一人の男性が入ってきて礼拝を始めました。
何度も地面に頭をつける動作を繰り返し行います。
すごい信仰心だなと思います。
空間の美と、信仰の強さに感動しつつ、こういう場所が日本にはないなーと思いました。
神社はあるにはありますが、あれくらいの静寂感と神への畏敬の念が守られてる空間というのはあまり存在しないように思います。ムスリムにはならないと思いますが、もしあんな場所が近所にあれば頻繁に足を運びたいような気がしました。

※写真撮影には許可が必要です。上の画像はgoogle画像検索から
帰宅してから、エハン・デラヴィさんの天使学についてのレクチャーの動画を見ました。
奇しくも、イスラム教ではムハンマドにコーランを授けたのは、大天使ガブリエルだとされているという話がありました。
他にも聖母マリアの前に、イエスの受胎を知らせるために現れたのもガブリエルだとされているようです。
僕はなんとなくガブリエルというのは男性としてイメージしていましたが、エハンさんによるとガブリエルは女性として現れる存在でダビンチの受胎告知に描かれているガブリエルも女性だということでした。

確かに、ダビンチの絵もそうだし、思い返してみたら、映画「コンスタンティン」の中に登場するガブリエルも女性でした。

まあ、こっちのガブリエルは、人類の覚醒のために悪魔を呼び込もうという、ややエキセントリックな女性ですが・・・
エハンさんの「ガブリエルに会ったかも」体験がとても興味深かったです。↓59分頃から
ペルーの奥地で、シャーマニックな儀式によるガブリエルと名乗る存在とつながったエハンさん。
圧倒的な平和(エハン氏いわく100パーセントのstability)と、その存在の美しさに「惚れてしまい」どうしたらデートしてくれるのかと質問する。
そして、ガブリエルとコンタクトするために必要な条件として教えられたのが
「Feel the peace,(平和を感じ) See the beauty(美をみなさい)」
というふたつだったそうです。
モスクに始まり、ガブリエルに終わる、なかなか濃いい一日でした。
2014.
11.
13
毎年、秋はプチウツな日々が多く、からだも低調になることが多いです。
僕の場合は10月終わり~12月中旬くらいの一月半くらいが特に落込む傾向がありました。
気分的にだけではなく、風邪もかなり引きやすくなったりしました。
これはどうも季節性情動障害(冬季うつ ウィンターブルーとも)という症状のようで、結構経験する人は多いようです。
季節性情動障害とは?
「日中に太陽光を浴びるとセロトニンという物質が作られる。セロトニンは、脳から分泌される睡眠ホルモンであるメラトニンの原料となる。太陽の光が少ない冬の期間はセロトニン減少が起きメラトニンが十分に生成されない。メラトニンには、季節のリズム、睡眠・覚醒リズム、ホルモン分泌のリズムといった 概日リズム(サーカディアンリズム)を調整する作用があるのだが、これが不足することで体調をきたすというわけだ。
イギリス国民の20%がこの病にかかるという。また、10%のフィンランド人が季節性情動障害を患っているが、フロリダ州ではたった1.4%しかいない。これは、気候環境と季節性情動障害が密接に関連していることの証明である。
1980年まで季節障害は正式な病気として扱われていなかった。「寒さが苦手な人が泣き言を言っているだけ」と言う解釈が主流だった。
季節性情動障害に一番多い年齢層は18歳から30歳までで、女性は男性よりも3倍多い。また、寝つきが悪い人に多いと言われている。特に症状がひどくなるのが12月~2月にかけてである。一般的には3月末になればほとんど良くなるのだが、人によっては5月にずれこむ場合もある。」
一般に気分の落ち込み 過眠(寝ても寝ても眠い) 過食 などの症状があり、原因は基本的には秋から冬にかけて日照時間が減ることによるセロトニンレベルの低下にあるようです。
だから、こういう時はその気分に振り回された状態で、重要な決断などはしないほうがよいですね。
毎年秋が来るとやや戦々兢々としてたのですが、去年はいつもよりもかなり好調に過ごすことができました。
多分、早起きして朝日を浴びに行く習慣があったので、不足しがちな太陽エネルギーをそれで補えていたのだと思います。
ネイティブアメリカンのシャーマン、ローリングサンダーの本で朝日は一日でもっともメディスンパワー(治癒的エネルギー)が強いというのを読んだのがきっかけでした。
冬季ウツの対処には他にも、セロトニンをつくるトリプトファンやビタミンB6を含む食事を多く取ったり、サプリで補ったり、運動や投薬などいろいろ手段があるようですが、根本的原因が光不足なわけなので、やはり光で補うというのが本質的な解決のような気もします。
サンゲイジングもよいのではないかと思いました。
サンゲイジングを長期間行った人は、睡眠時間が減ってエネルギッシュに活動できる時間が増えるという現象がおこるようですが、これは、秋ウツによる倦怠感、過眠などとは真逆の状態です。(不食や小食によっても睡眠時間が減るという話しがある)
僕は去年サンゲイジングをやってたわけではないのですが、太陽に祈ったり、手をかざしたりしてる間、目からかなりの光が入り、自然的にサンゲイジングをやってたのかもしれないと思いました。
その結果例年より好調だったのか?
あと休みの日は数時間野外で本を読んだり、音楽を聞きながら日を浴びてごろごろするのも効きます。
サンゲイジングはもちろん、無茶なやり方をすると目を悪くするリスクもあるので注意が必要ですが、日の出・日没の一時間以内の太陽光線は肉眼で見つめても問題のないものになっているとサンゲイジングの専門家で、NASAの監督下で130日間の不食をやりとげたヒラ・ラタン・マネク氏は考えているようです。
でも秋ウツの改善には必ずしも太陽を凝視する必要はありません、
お困りの方は、是非朝日を浴びにいってみてください♪
2014.
11.
10
以前ホームページ上にアップしてました、「もんもん日記」という文書がありましたがホームページが現在消滅してるのでWEB上のどこかに残しておこうと思っていました。
そこで、もう一度読み直していると、やっぱり10年も前に書いたので手直ししたいところが多々あり、読み物としてももう少し面白くしたくなったので、かなり加筆修正したものをアップすることにしました。
以前、師匠のことについて書こうと思った本の文書と部分的に合体させてあります。
全体部分がまだできてないのでどこまで出すかわからないですが、とりあえず、旧もんもん日記のラストあたりまでは、出してみようと思います。なかなか重たい部分も多々ありますが、ほぼ100パーセント事実に基づいています。
楽しんでいただければ幸いです。
はいたか鳥拝
MATRIXの恋人 もんもん日記 ver2.0
MATRIX:①母体、基盤、鋳型、子宮
②1999年公開のアメリカの映画
キアヌ・リーブス主演
< Introduction >
突然だが、こんな感覚を感じることはないだろうか?
それは仕事に向かう電車の中や、学校で退屈な午後の授業を受けている途中、あるいはくつろげる自宅でコーヒーを飲んだり、お風呂に入って温まっているとき、もしかするとなじみの芸能人がテレビの中で陽気にはしゃいでいるのを見てるときかもしれない。
急に不思議な感覚がやってくる。
『私は何をしているんだろう?』
もちろん今あなたは電車に揺られていたり、授業を受けていたり、テレビを見ていることはわかっている。
それでもあなたは問いかけずにはいられない。
『私は何をしているんだろう? ここはどこなんだろう?』
あなたは自分が日本という国の、あなたの住む街にいることを知っている。
そして日本は世界の中にあり、地球は月や、他の惑星と一緒に宇宙空間に浮遊し、太陽の周りを回っていることも知っている。
それでもあなたは問いかける。
『それはいったいどういうことなんだろう? そもそもなぜ私は地球という惑星の、この時代に生きているんだろうか。
ここで日々の生活を送りながら、やがて年をとって死んでいく。それは何のためなんだろう?
そしてそもそも、この惑星のこの小さな島国の上で、そのように束の間の人生を生きている『私』って何なんだろう?
いったい、私は、なんのために、これを体験しているんだろう・・・ 』
僕たちの顔や体、社会的な役割りやステータス、過去に行ってきたこと、趣味、特技、それに自分の考えや気持ち。
こういったものを普通僕たちは自分自身だと考えている。
朝起きたときに、鏡に映る、昨日と同じその姿・・・
歯ブラシに歯磨き粉をつけて寝ぼけ眼で、あなたはその像を見つめる。
「また<私・俺・僕>だ・・・」
それが男でも女でも、若くても年老いていても、格好よく見えても、情けなく見えても、疲れて見えても、元気いっぱいでも
幸せそうでも、不幸せそうでも・・・毎朝鏡に映るその姿、それが『私』だと。
でも本当にそうなのだろうか?
もしそうだとすれば、鏡に映ったその姿を見ている「あなた」はいったい誰だろうか?
その「鏡に映った像を見ている『あなた』」の姿は、あなたには見えない。
その「あなた」はいったい何者なのだろう。
そう、とりとめもなくそんなことを考えている夜、あなたの見ていたテレビの画像は突如乱れて画面にひとつの文章が浮き上がるかもしれない。
そこにはこう書かれている。
・・・・・・MATRIX watches you・・・・・・・・・・
( マトリクスが ・ 君を ・ 見ている)
それは今まで現実だと思っていたものが幻想となり、新たな現実が出現する瞬間だ。
あなたは、鏡の中のあなたを超えたあなたに目覚めようとしているのだ。
1999年に公開された映画「マトリクス」は、世界中で大ヒットを記録した。
続いて、続編の「マトリクスリローデッド」「マトリクスレボリューションズ」も公開され、今なお熱狂的なファンが多い名作だ。
この映画の主人公はアンダーソン。ハイテク企業に勤務するサラリーマンだが、それは彼の表の顔。
実はその正体は、コンピュータを駆使して、違法にデータを盗み出す天才ハッカーの「ネオ」なのだ。
ある夜、彼のPCのモニターに突然先ほどのメッセージが現れる。
・・・・・・・・・・・・・・・MATRIX wathes you・・・・・・・・・・・・・
その夜からネオの言語を絶する冒険が始まる。
ネオの命を狙う黒衣の男、エージェント・スミス、謎の美女トリニティー、黒人の大男モーフィアス。
彼らの出現によりネオのそれまでの現実は、かげろうのように揺らぎ始める。
やがてある建物の一室でネオはモーフィアスにふたつの錠剤を手渡される。
「赤い錠剤を飲めば、君は目覚める。青い錠剤を飲めば、すべてを忘れもとの生活に戻る。さあ、どちらを選ぶ?」
ネオが赤いカプセルを選び、飲み込むと、彼は培養槽の中で目を覚ます。
そこはマシンに支配された荒涼とした本当の現実世界で、彼は、生まれてこの方、脳に接続された回線を通じて、20世紀末のアメリカに生きているという夢を見させられていたことに気づくのだった。
無数の人間が培養槽の中で、回線につながれて一生夢を見ている。その夢の世界を支配するデジタルシステムが、マトリクスであった。
実はこれは単に映画の話しではない。
この映画は非常に真実に近い物語だと今は、多くの人が考えている。
ネオとは、僕らすべての内側で目覚めを待っている、まったく新しい意識をヒーロー化した存在だと思う。
僕らの新しい意識がネオだとすれば、僕らに夢を見せているマトリクスも、そしてマトリクスにログインして、ネオを目覚めさせるモーフィアスもやはり実在する。
どうしてそう言えるかって?
実は僕はモーフィアスに会ったことがあるからだ。
彼は今、21世紀の日本に肉体を持ってログインしている。
もっとも僕の前に現れたモーフィアスは、映画のように深刻な感じじゃなかった。
それどころかいつも、夏休み前の子供みたいに常軌を逸してハッピーだ。
ごつい黒人でもない。正真正銘の僕らと同じモンゴロイド。
いつもパイプをふかして、その一日のほとんどを<源>に意識を向けている。
小さなことでも大きな声でよく笑い、時にはこっちが・・・となるような親父ギャグを飛ばして平然としている。僕らが笑わなくてもまったく平気で、何度でも、何度でも・・・僕らが笑わざるを得なくなるまで。
映画のモーフィアスと、僕がであったモーフィアスの共通点はこの世界がバーチャルリアリティであることを知っていることだろう。
モーフィアスは、古来より聖者が悟りや、目覚め、真我の実現と呼ばれる体験に至り、マトリクスから目覚めた。
香の匂いの立ち込める部屋で、彼に急須でお茶を入れてもらいながら、あるいは大きな力が降りてくる夜の集いでそのエネルギーに圧倒されながら僕は彼から本当に多くのことを学んだ。
僕らが囚われている思い込みや、束縛について、そしてそれらから解放しマトリクスから目覚めさせるエネルギーについて・・・。
何よりも言葉を超えたエネルギーとして彼がいつも放っている愛や、喜び、ユーモアによってとりわけ大切なことを学んだ。
僕が出会ったモーフィアスは、マトリクスを否定してはいない。
それは僕らがマトリクスの中で眠っていること、そしてそこから目覚めること、どちらにも等しく働いている宇宙的摂理を深く信頼しているからだ。
ここが映画と少し違うところだけど、現実のマトリクスは僕らを電池にしてエネルギーを奪うために存在しているのではない。
マトリクスの中枢部である<源>ソースは「愛」によって機能している。それは僕らを生かす力そのものでもある。
モーフィアスはどうやらマトリクスの見せる夢から目覚めることで、その愛とひとつになってしまったようなのだ。
だからこの僕の知ってる方のモーフィアスは、マトリクス自体を、心から愛し、それを生んだ<ソース>に100パーセント身をゆだねている。
彼はマトリクスと相思相愛の、最愛の恋人と言ってもいいだろう。
映画とはずいぶん違う設定だけど、でも、その愛が、僕らの内なるネオを目覚めさせる助けとなるのだ。
この文書は僕が彼と出会った経緯を描いたものでもあるけれど、その主人公は実は僕でも彼でもない。
「マトリクス」と同じく、主人公はネオ、そう僕やあなたのうちに存在する「救世主」だ。
自分がマトリクスにいることや、救世主であることを気づくにはたくさんの道がある、この物語はそんな無数の物語のひとつに過ぎない。
でもこれがあなたの内なる救世主が目覚めるきっかけになれば、とてもうれしく思う。
僕はとても数奇なきっかけでモーフィアスと出会った。
だからそれを書いてみたら面白いんじゃないかといつも思ってた。
僕はずいぶん長い間、自分のことが大嫌いで、人も世界も信じられなかった。
モーフィアスとの出会いは、そんな僕の自己嫌悪の延長線上にある。
ずいぶん後になってから、僕の人生のすべては愛の中でとても完璧にプログラムされていたことに気づいたけど、もしかしたら、それは今日あなたにこの物語を話すためだったのかもしれない。
この文書が、あなたの目覚めを助ける赤いカプセルとなりますように。
あなたの中で赤々と燃える内なる愛と、覚醒の炎に敬意を表して。
2014 NOV
MATRIX PHASE 1 ホーム・スィート・ホーム BPM1
作家の三島由紀夫は確か、小説「仮面の告白」の冒頭で「私には生まれた時の記憶がある」って書いている。
このめくるめく(?)傑作スピリチュアルアドベンチャーの冒頭で僕も彼のように、生まれたときにみた光景や、天国にいた頃の思い出なんて披露できれば、まったくつかみはバッチリってことかもしれない。でもあいにく僕には生まれたときの記憶がまったくない。
でもそのかわりにいろんなことを覚えている。
一番最初の記憶は、両親が働いていた大学病院に連れて行ってもらったことだ。休みの日なので廊下の電気が落ちて、非常灯だけがミステリアスにあたりを変な色にぼーっと照らしている。つんと来る消毒薬剤の匂いはいつも、母親が家に帰ってきたときにする匂いとおんなじ。僕はどこかの検査室の中で、顕微鏡を覗かせてもらった。そこには驚くべきミクロの世界が広がっていたんだと思うけど、あいにくなにが見えたかは覚えていない。でも記憶なんてそんなもんだ。
遠い記憶はいたるところ虫食いだらけで、ぼやけていて、僕らは目をこらしてその向こうに自分のルーツをさぐるしかない。
モーフィアスは、なんでも生まれたばかり生後三ヶ月で臨死体験をするというずいぶん早熟な新生児だったようだ。
つまり生まれてすぐに、死にかけた。
そして意識が肉体を離れ光だけの世界に行き、神様と話しをしたような記憶が残っていて、今でも数ヶ月に一度はその光だけの世界の夢を見るという。
「それからですね僕がおかしくなったのは」とインドと日本を往復し修行をしていた10代のころあるインタビューで笑いながら語っている。
じゃあそれまでは普通だったかというと、そもそも生まれてきたときに両手で蓮華の形をつくり、目をぱっちり開き笑いながら出てきて医者をたまげさせたということだから生まれたときから、いや、生まれる前から相当変わっていたのだろう。
僕にはそんなぶっとんだ記憶はない。
でも他にもたくさん覚えている。
幼稚園の入園式、僕は甘えん坊だったから母親から離れたくないって大泣きして、業を煮やした母にほっぺをビンタされた。
夏休みにはよく母のおじいちゃんちに泊りがけで遊びに連れて行ってもらった。遊びに行くといつも夕食はすき焼きだった。たまにしか会わない親戚のおじさん、おばさんにかわいがられ、いとこの女の子とはしゃぎまわった。正直言うと、ちょっぴりその子が好きだった。
帰り道、父の運転する車で高速に乗り家路をたどる間、僕はどこまでも続くテールランプをじっと見ていた。窓からは星が見えて車がどれだけ走っても星が僕についてくるのがなんだかとても不思議だった。
それから、大雪が降った夜に父と一緒に雪だるまをつくったこと、石油ストーブの上にのせたみかんが焼ける匂い、いつも焦げあとがいっぱいついた汚いなべで雑炊ばかり食べていた父方のおじいちゃんの笑い顔。いつも戸棚の上におやつをたくさん買い置きしてくれていたおばあちゃん。それから放課後にクラスメートと鬼ごっこやドッジボールをしたこと、同じクラスのショートカットの女の子に初恋をしたこと。
そんなことを思い出す。
どれもとりたてて珍しくはなくても、僕にとってそのすべてが大切な記憶、想い出だ。
そうそう、とりたててぶっ飛んだエピソードはないけど、僕は子供の頃から時々不思議な瞬間を感じることがあった。
あれは多分、子供むけの図鑑を見ていたときだと思う。
古代生物の図鑑で、そこにはジュラ紀や白亜紀の地球上をのし歩いていた恐竜たちや、もっともっと昔の海辺を這い回っていた三葉虫のイラストなんかがのっている。
そういうのを見ていて僕は思う。
本当に大昔にはこういう変わった姿の生き物たちがいたんだろうか?何億年も前・・・何億年も前って想像もつかない。
本当にそんな昔から地球はあったんだろうか。宇宙はあったんだろうか、本当にこの図鑑の通りに?
そんなことを考えていたときに、ふと思う。
巨大なときの流れとか、こういう生き物が生きていたとか、それって本当は全部僕が考えたことじゃないかって。
今こうして本を読んでることも、本当は全部、僕の見ている夢だったらどうだろう・・・・
そう考えるとなにか真空に吸い込まれていくような怖さを感じるけど、その浮遊感が快感でやめられない。
目を閉じて僕は思う
この宇宙すべてが僕の夢じゃないっていうことを証明する方法はなにひとつないんだって。
僕らは自分の心や、脳、感覚器官の外側に出ることはできないから。
アホな事いうなって、誰かが僕の頭をハリセンで殴ったとしても、それだって僕の意識がそう想像しただけかもしれない。
・・・でしょ?
もし映画マトリクスのミスターアンダーソン君が、そんな疑問に悩まされていたらどうだろう。
モーフィアスはこう答えるかもしれない。
「そう、ある意味で君は正しい。すべてはイリュージョンだ。君はマトリクスによって夢を見せられているのだ。私とともに目覚める勇気はあるか?」って。
こんなこともあった。
僕の布団の枕に、蚊みたいな小さい虫がとまっている。
じっとして身動きもしないから死んでいるのかもしれない。
うつぶせに寝転がって、その小さな虫をみてると気づいた。
こんなちっぽけな、きれいでもない虫。人は無視して簡単に叩き潰す。
でも、この虫を生き返らせることや、この小さな虫をゼロから作り上げることは誰にも、少なくとも人間にはできないんだっていうことだ。
そう考えると、この小さな虫の死体がとても謎めいた奇蹟に見えて、僕は長い間それを見つめていた。
もしかしたらこういう不思議な瞬間はみんな経験してるけど、多くの人は忘れていたり、自分の心の中にだけしまいこんでいるのかもしれない。
とにかく子供の頃のことを思い出すと、ありふれた思い出でもほんわかした幸せな気分になる。
お金の心配もなく、年を重ねていくことへの不安もなく、病気の心配もなく、夏休みは永遠みたいに長くて、大好きな家族や友達、おもちゃや本に囲まれている。
日本の未来や年金制度、原発問題について思い悩んだり、怒ったりすることもないし、自分がいけてるかいけてないか、勝ってるか負けてるかなんて考えない。鏡もあんまり見ないから、口の上に鼻くそがついていても、頭が大爆発したみたいな寝癖がついていても気にしないで走り回る。
うーん、これってちょっとした悟りの境地じゃないだろうか。赤ん坊も子供も自分が悟ってるなんて思わずに、気に入らないことがあると大声で泣き喚いて、でもすぐに機嫌を直し今度は転げまわって馬鹿笑いしてたりする。とても僕にはかなわないほどハイな生命体だ。
僕らは周りの世界にすぐに違和感や疑いを抱くけど、子供たちはパパやママを無条件で信頼し周りの世界と溶け合って一体になっている。
案外そういうことが幸せの秘訣なのかもしれない。
僕だってそうだった。
父も母も大好きで、母には学校であったこと何でも話したし、父は物知りで世界の事、宇宙のことを何でも教えてくれるみたいだった。
宇宙が膨張していること、ブラックホールっていうなんでも吸い込んでしまう穴があること。
父が実家の屋根の上に建てた巨大なアマチュア無線のアンテナは、ゆっくり回転しながら僕の知らない遠い世界からの情報を受信してるように見えた。
2人の弟たちとはよくアホのようにはしゃぎまわっていた。
幼い頃ノストラダムスの予言を知ったときにとても怖かったのは、この楽しい世界がなくなってしまうなんてとても嫌だったからだ。
多分未来って言うのはドラえもんの世界みたいになるんだろうな~なんて能天気に思っていられた。
というか、僕の机にだってドラえもんがいつかやってくるに違いないとさえ、思っていたかも。
トランスパーソナル心理学の草分け、スタニスラフ・グロフ博士は、出産前後に体験する段階を4つに分けてそれぞれを研究した。
それぞれBPM1~BPM4っていう名前がついている。
BPM1は、胎児が子宮の中で安全に守られて、自分と他者の区別のない恍惚とした無意識状態にいるときを言う。
僕も子供の時はBPM1にいたのかもしれない。
何も心配せず、周りと溶け合い、無邪気でいられた時代。
それがそのときに僕を支配していたMATRIXの形態だった。
胎内にいるとき僕の全宇宙は母だったのだ。流れる川は母の血液で、体を温める焚き火は母の体の熱で、そよぐ風は母の想いだった。
そしてその母もまた、祖母の胎内で至福の時を過ごした記憶を持っている。その祖母もまた・・・
まるでそうして胎児の視点で考えると、たったひとつの子宮が全人類をはぐくんでるように思えてくる。
熱く脈打ちながら、時を越えて命をはぐくむひとつの子宮。
それは銀河の星の海で赤く輝く永遠のアーキタイプ。
生命は永遠に母系性だ。
その子宮の記憶の連鎖のうちに人類の歴史は成り立っている。
歴代のアメリカ大統領だって、ノーベル賞受賞の学者だって、アドルフ・ヒトラーだって、独房の中にいる死刑囚だって同じように一度はこの全人類共通の時を越えた至福のマトリクスにいたんだ。
でも出産のプロセスがBPM1からBPM2に移行していくように、MATRIXの形態も変わっていく。
BPM2ではそれまで安全な夢の家だった子宮が収縮して、胎児を締め付け始めるのだ。
僕を包むMATRIXにも出産に伴う様々な変化が生じようとしていた。
ある日いつも汚いなべで雑炊を食べていたおじいちゃんが庭で倒れて、1週間後に亡くなった。
それ以後僕は自分自身も近いうちに死んでしまうんじゃないかという死の不安に付きまとわれはじめる。
小学校のクラスメートたちは大好きだったけど、
僕は転校のため、仲の良い友達たちと離れなければならないことを知った。
みんながしてくれた寄せ書きを新しい家の庭で読んで、僕はこっそり涙を流した。
すぐに新しい街、新しい学校での生活が始まった。その学校の子供たちはなんだかまえの学校よりも都会的で大人びてるように見えて、完全に心を開けなかった。
家族の中でも変化が生じていた。
僕は父親にちょっとした反感を感じることが多くなり、いろんな出来事をきっかけに、親に対して、、少しづつ心を閉じるようになっていった。
MATRIXの変化は外的な環境だけじゃなく、僕らの心身の中でも起こる。
僕は思春期と呼ばれるエゴと肉体が急成長する時期にさしかかり、セックスへの興味や、自意識の増加などが自分と世界との分離に拍車をかけていった。
自分がとても薄汚い存在に思えたり、逆にいや本当はなんでもできるスーパーな存在なんだといい聞かせたりするようになった。
誰でも経験する痛みと甘美さを伴う、自我の目覚め。
ちょうどそのころ長い、長い、BPM2が始まったんだ。
赤ん坊に意識があったらきっと思うかもしれない。
「なに?お母さん、なんか変だよ!苦しいよ、僕はどうなるの?僕はここにずっといたいんだよ!追い出しちゃイヤダ!僕はずっとここにいたいんだよ!僕のことが嫌いになったの?どうしてなの?イヤダ!イヤダ!僕を追い出しちゃ嫌だ~~~っ!」って。
でも出産のプロセスは母親にだって止められるもんじゃない。幸せだった状態が突然奪われるのはつらいし、苦しいし、悲しいし、腹が立つけど、MATRIXの変化に応じて僕らは前進しなければならない。
母体の中で前進するって言うのは身を委ねるっていうことだ。お母さんの体で起こっているそのプロセスに。
そしてたどり着くのは、BPM4.
出産の最終段階、この世界への誕生。
それは胎児の勝利なんだけど、胎児という形態の死でもある。
勝利と死が等しいなんて面白い。
そして、美しい。
古い格言にこんなのがある。
「お前が生まれるとき、世界は笑い、お前は泣く
お前が死ぬとき 世界は泣き お前は笑う 」
もしかしたらその誕生のとき赤ちゃんは、胎児としての死を嘆いているのかもしれない。
にっこり笑いながら母体から出てくる、モーフィアスのような特殊な赤ん坊はまあ・・・例外として。
生きてからもBPMは続いていく。
この世界に生れ落ちて、一人きりになったと感じても実は僕らを包む母体がまだ存在して、その形態の変化が僕らを前進させる。
僕らを包む母体、それはすべての現象の統合体であり、根源である究極の幻影マハー・マーヤ。
それは宇宙であり、自然であり、人間社会であり。肉体であり、心であり、人生そのもの
それがM・A・T・R・I・X
胎児の僕らにとって全宇宙は母だったように、大人になった僕らにとっても実はこのすべては<マザー>であるとモーフィアスは言う。
母体の変化に驚いたり、安心したり、混乱したり、時には身も心も溶けるような至福を感じたり・・・
じゃあ、もしそうだとしたら、すでに生まれている僕らはいったいどこにむかって誕生しようとしてるんだろう?
僕らはMATRIXの中で勝利するために、そして死ぬためにこそ生きる。
そのときに僕らが経験する勝利と死ってなんだろうか?
「僕」が死ぬとき、僕は笑えるのだろうか。
2014.
11.
09
カテゴリー好きな歌変形企画、好きな長ゼリ編(笑)
え~割と、昔から一人で朗読したり、芝居の長台詞を暗唱して、ストレス解消(?)するのが好きなのですが、その中でもよく使う好きな長ゼリというのがいくつかあります。
下の長ゼリは何度言ってもカタルシスを感じられるのでよく使います。
もし、同じような趣味のある方は、試してみてください。
もちろん、お芝居の内容を知っていたほうが感情移入できるとは思いますが、 このセリフはすごく完成度が高いと個人的に思っており、前後の内容なんか知らないほうがいいくらいかもしれません。
が、簡単に書きますと、これは鴻上尚司作「スナフキンの手紙」のラスト近くの長セリフです。
お芝居の舞台はパラレルワールドの日本。
そこではいくつもの思想的集団がテロリズムによって日本政府や思想を異にする集団と戦っています。
一見普通の社会人が、みな他人には理解できないような思想的グループにひそかに加入して、パソコン通信によりつながり、同盟を組んでいるのです。いわば、万人の万人に対する戦いが水面下で現実化してしまっているような状態です。
そしてパソコン通信ではアブナイビジネスが横行していたりして、かなりWEBが完全に日常の一部となった21世紀を先取りしてる部分があり驚きます。(90年代の戯曲)
そんな見えない戦争が激しく行われているパラレルな日本社会では、みな「語られなかった言葉」をかかえています。そこは自由に本音をぶつけられない世界、それゆえにテロリズムとその抑圧が日常になった世界なのです。
「語られなかった言葉」を語るというのが、このお芝居のキーワードです。
そんな世界の中で、あるひとつの文章が噂になります。
それはパソコン通信の中で「スナフキンの手紙」と呼ばれる文書です。
それを読むとみな、なくしてしまったものを思い出すようで、胸がせつなくなるのです。
なぜかというと「スナフキンの手紙」はバックパッカーたちの「語られなかった言葉」の集合体による文書だからです。
この長セリフは、その謎の文書「スナフキンの手紙」の謎が解けるシーンのものです。
「スナフキンの手紙」をパソコン通信で流した日本軍兵士の独白です。
という簡単な、状況設定をふまえて、以下のセリフを朗読が好きな方は読んでみてください。
『長い旅を続けるうちに疲れ果て ひとつの場所にい続けることを沈没という
私は、シルクロードの果て、小さな町で沈没しかかっていた。
すべてがどうでもいいように思えた。
私を縛るものは何もない。ガイドブックを開き、自分で自分に課す旅の目的も、嘘くさく思えた。
食事をとる以外は、一日中すえたベットに体を横たえていた。体になんの力も湧かなかった。
このまま、死んでしまうのも、幸福に思えた。そうして、二週間ほどが過ぎた。
ある日私は視線に気づいて目を開けた。一人の男が私を見下ろしていた。
男は微笑んで、こう言った。「このノートを差し上げましょう」
ぼろぼろになったノートには、日本では決して語られなかった言葉がつづられていた。
無数の旅人が、無数の筆跡で、日本では決して語られなかった本当の言葉をつづっていた。
怒ったように跳ねている文字があった。
涙ににじんだ文字もあった。
本当は何故旅に出ようと思ったのか、本当はなぜ沈没してもいいと思ったのか、本当は…・・・。
私は読んでいるうちに、涙が止まらなくなった。
他の国の旅行者が不審がるのも気にせず、私は一晩中、声を上げて泣いた。
そして、次の朝、シルクロードの果てへと旅立った。そのノートをくれたのがあいつだった。
沈没することを恥ではない。パッケージ・ツアーの旅人には、沈没することはあり得ない。
沈没は、自分の足で歩こうとした旅人にだけ起こる。
……あいつがくれたノートを、私は旅の間中、書き写した。
日本で語りたくても語られなかった言葉を必死で書き写した。
どの言葉も内戦や流血を語ってはいなかった。ただ本当のつぶやきが続いているだけだった。
そして私は日本に帰り、その言葉をパソコン通信で流した。
そのノートは、今もシルクロードを旅している。』
この戯曲の世界よりも、今の日本は「本当の呟き」を語りやすい場所だろうか・・・とよく考えます。
こちらのサイトでいろんな方のこの長セリフの朗読が聴けて、大変興味深かったです。(声の投稿システム)
そのうち投稿してみようかな。
好きな小説や漫画のセリフを大きな声で朗読するのは、テンション低いときオススメです^^

(やたら戦線がはりめぐらされた'90年代の日本。完全自殺志願者に死体を売り歩くセールスマンがいる。そして人気アイドル「キャンディちゃん」をめぐる政府軍との攻防。パソコン通信上で密やかに流される「スナフキンの手紙」。そこには、いったい何が語られているというのか?) 「スナフキンの手紙」amazon 説明文より
2014.
11.
08
よく歌う。
ハンマーが振り下ろされる
僕達の頭の上に
ハンマーが振り下ろされる
世界中いたるところで
安っぽいメッキなら
すぐにはがれてしまう
空っぽの言葉なら
もう僕は聴き飽きた
悲しみが多すぎて
泣いてばかりいたって
何にも見えなくなっちゃうよ
48億の個人的な憂鬱
地球がその重みに耐えかねてきしんでる
でたらめばかりだって
耳をふさいでいたら
何にも聴こえなくなっちゃうよ
外は春の雨が降って
僕は部屋で独りぼっち
夏を告げる雨が降って
僕は部屋で独りぼっち
ハンマーが振り下ろされる
僕達の頭の上に
ハンマーが振り下ろされる
世界中いたるところで
これもよく歌った。
2014.
11.
04
タロットカードの中で内なる直観を表すのは、2番の「女教皇」だとされています。

根源から、あるいは内なる自己からの宣託を告げる彼女は、すべての人の中に存在しています。
僕が思うに、自分は霊感もないし、まるっきりそういう能力はないという思い込みの強い人も、虫の知らせ的なシグナルによって行動を左右されているのです。
もともと人間の心臓には未来をある程度事前に察する能力があるようです。
これは科学的な環境で設定された実験ですが、ランダムにいろいろな画像が現れるモニターの前に被験者を座らせて心臓の活動を観察すると、爬虫類の攻撃や災害の画像などが表示される数秒前に心臓の波形に乱れが起こるのです。
以下の動画に実験の撮影があります。(英語です)56分頃~
次に何の画像が現れるかは被験者はもちろん、実験の監督者も知らないので、この場合、被験者の心臓のみがもっとも未来に通じていたということになるのではないでしょうか。
「女教皇」はもしかすると、僕らのハートのあたりにいるのかもしれませんね。
そこには頭脳とは別の、知性と情報のセンターがあるのです。
だから、これらは人が思うほど特殊な能力ではありません。
ただ内なる指針とでも呼べるような感覚です。
僕の場合は、直観的に、この本を読むべきだということがわかったり、本の装丁や著者の名前によってそのエネルギーが感じられるということはよくあります。なぜかわからないですが、好きな本は著者の名前の響き自体がとても魅力的にひきつけてくるのです。そして本自体が生き物のように、愛らしさを放っています。間違って踏んでしまうと、生き物をふんずけたように「あ、ごめん」と謝りそうになります。
これとは逆に、手に取るのもちょっと躊躇する、部屋に置いておきたくないという本もやはりたくさんあります。
それは腐った食べ物や枯れた植物を部屋において置きたくないという感じと似ています。
こんな風に直観は、おそらく誰もが知らないうちに使っている明確に定義されていない、五感以外の感覚ではないかと思うのです。そして、人によって直観の働きやすい分野、そうでない分野があるんじゃないでしょうか。
そして自分の人生の生き方に関わる局面でもやはり直観は僕らにささやきかけてきます。
ある意味でいうと、本当に自分らしく生きるには直観的に生きるしかないわけです。
というのは、自分が何を仕事とするか、趣味とするか、喜びとするか、どういうライフスタイルを送るか、何を食べるか、などということに関して、内なる指針に従わねば、外なる指針に流されるしかないからです。
外なる指針ののわかりやすい例が、メディアによって意図的に起こされる流行や、ブーム、カリスマ占い師のアドバイス、生まれ育った家族の価値意識、あるいはその時代全体を支配する集合的な価値意識などです。
多勢を支配する外なる指針と、自分のスピリットの出す指針の食い違いが少なければいいのかもしれませんが、内なる指針と外なる指針のギャップが大きいほど人はその葛藤を封じ込めるか、「少し浮いた人」として生きる勇気を持つかという選択に迫られる場合もあると思います。
でも実際は自分に正直であればあるほど、周りにも貢献できるのです。
自分に不正直であればそれだけ、自分のギフトを内側に封印してしまい、その抑圧されたギフトの創造的エネルギーが逆に心身を攻撃します。
自分の直観に正直であることは、一人でいれば、割と簡単に思えますが、誰か別の人がからむと少し複雑になってきます。
「境界線」をひくことと、「直観」の関係もそのひとつです。
よくセラピーの分野では健全な境界線を引くことの大切さが語られます。
境界線は、僕と、あなたの間にある、個としての分水嶺です。
境界線を引くとは簡単にいうならば、それぞれが独自の価値観を持っているということを認め、必要以上にそこに干渉しないということ、また人のプライベートな空間やエネルギーを尊重し、そこに入り込み過ぎないこと、そして自分自身についても人から侵犯されることを黙認しないこと、などです。
境界線がぐちゃぐちゃになるということは、家族やカップルの間でよく起こります。
当然といえば当然ですが、密な関係ほどどこまでが自分でどこからが他人なのかわからなくなります。
それは「一体感」、よいことのようにも思われがちですが、健全な境界線のない関係は決してよいものではありません。
それは「愛」ではありません。
極端な例がユニティの名の下に、みな同じ服を着て、同じような笑い方をする宗教集団のような形態です。
ないことにされた境界線は、しばしば、組織の外部を敵対的なものとして設定することにより外在化されますが、これが良く起こるカルト内での社会へのパラノイアなのです。
また国が混沌とするときに起こる、ナショナリズムなのです。
これが家庭内で起こると、いつも何かのトラブルに全体が振り回されていたり、どこまでが自分の感情でどこまでが人の感情かはっきりしないような纏綿型家族ができあがります。
この中で人は暗黙に問題意識や信念体系を共有しますが、それが自分のものだと思い込んでいます。
このような家庭内では常に人の境界線を越えてしまうのが常習となっている人がおり、またテリトリーに踏み込まれ心に干渉されることが常習となっている人がいます。同属としての意識と慣れが<個>の存在のユニークさを、無視してしまうのです。
直観と、境界線の関係はいくつかの簡単な例で説明できます。
まず直観は自分のスピリットから、あるいは<根源>から来るものなので、境界線が脆弱であまりにも外側の信念やエネルギー、情報に振り回されていると、それに気付くことができません。
直観を受け取るには、女教皇が座っているような静寂の空間が必要なのです。
また直観を感じていても、それを人に表現できるだけの強さがなければ、関係性の中でそれは埋もれてしまいます。
例えば、僕は一人の時間がある程度ないとかなり疲弊するタイプなので、疲れているときにパートナーとも話すことが難しいことがあります。
でもそれを押して会話を続けることがよくあったのですが、そうするとそれがストレスになり、イライラし始め、相手にもそれが伝わり、雰囲気がピリピリするということを何回か経験しました。
今は、ひとりでいたい時は画用紙で作った「一人にしてね」プレートをドアにかけたり、いろいろ工夫してややスムーズになりました。そして僕も、相手が疲れているときは一人の空間をなるべく尊重するようにしています。
これは境界線は維持したいけど、嫌われたくないというようなジレンマが起こるポイントでもありますが、基本的には「無理をしない」ということが長い目で見るといい結果を生むようです。
また例えば、友人からどこへ遊びに行こうと誘いがあった場合も、気乗りがしなければ、失礼がないように断ったほうがいいんだと思います。
いやいや、付き合うよりも例えば、僕がそこで断ることにより、彼にはまた別の可能性が生まれるからです。
友達を大事にするとは、ある意味では「友達とは、今日は遊ばない」ということにもなりうるわけですね。(また別の日に会う約束をしてもいい)
ところが相手の反応が気になる人は、ここで自分の感覚にふたをして、出かけていって、楽しくない思いをしがちです。
自分の感覚よりも、表面的な承認を得ることを優先してしまうんですね。
相手の話にあわせすぎて、いつも聞き役になってしまうという人は、会話の中で自分の感覚を表現する練習をするといいかもしれません。これは僕もよく意識することです。
介護の仕事などで、最初は自分の感覚を殺すということを意識し、相手の話を聴くこと、あわせることだけをしていましたが、「自分を殺す」というのはどんなときでもそれほどよろしくないことだと気付きました。
なぜなら自分を殺すことは、遠回りに「相手を殺す」ということでもあるからです。
自分の境界線を侵された違和感や怒りを押し殺し続けることは、相手にも付けとなって回ってくる場合があります。
人のフィールドに干渉するという傾向を当然のものとして受け入れることで、それを常習化させてしまうからです。
それを回避するには多くの場合、「ちょっと疲れてきた」「休ませてください」「少し一人にして」などというだけで十分です。
どんな時でも「自分を生かす」ほうがいいのです。
それはどんな時も自己主張をしまくることとはちょっと違います。
相手のエネルギーに巻き込まれすぎないこと。
どんな時も、自分のリズムとともにいること、呼吸とともにあること、自分の愛と共にあることで、それが人とのかかわりの中にあるときでも僕らが直観を受け取れるスペースを確保してくれるように思います。
社会や他者から孤立することなく、女教皇の座るような静寂のスペースとともいられることが理想ですね。