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湘南シナジー 2015 Feb


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                                            鎌倉 宇賀福神社鳥居

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                                             近代美術館

 
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                                朝井閑右衛門 《祭Ⅰ―お狐》 1977年

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                                              鶴岡八幡宮 2015 2 22



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                                                    夕景

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                                         朝  コンビニベンチからの相模湾

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                                          江ノ島の岩礁

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                              高橋由一 江ノ島図 1876-77頃

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                                       江ノ島 2015 2 23

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私的雑記 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/24 10:40

愛とストイック



前回の記事をやや補足する内容です。

  マインドや体に取り入れるものを純化する、限りなくゼロにするという方向性は生命力を賦活する方法のひとつだと思うけど、それは宗教的なストイシズム(禁欲主義的な考え方)にもダブってくる。

  宗教的なストイシズムは戒律に基づいている。

  ~してはならない ~食べてはいけない ~のことは考えてはいけない 
  ~しなさい     ~を食べなさい    ~と考えなさい

  このような、すべからずとすべきことの一覧で、ヨーガではヤマ・ニヤマなどと呼ばれている。
  バイブル、コーランにもこのような形のメッセージが多くある。

  ヨーガだけではなく古今東西世界中の宗教的・精神的体系の中でそれは見出される。
  伝統的宗教ではなく、カルト的なグループにおいても「~すべからず」というのはたくさんあり、それらの規則がメンバーを恐れに基づき連帯させる機能を持っている。

 これらは、特に伝統的な宗教においては、迷信というよりは、ここをはずさなければそう間違った道にはいかないはずだという道しるべ的なものであり、ストッパーであったのではないかと思う。

 だが20世紀からの飽食的・享楽的ムードは、これらをばかばかしいもの、古臭いもののように見せる作用を持っていた。
 確かに20世紀に生まれた先進国の多くの人は、自ら戒律なんてものに縛られたいとは思わない。
 それよりも、なるべく自由に楽しく、自分らしく、そしてある程度は飽食的・享楽的に生きたいと思う。
 数十年はそれでいけたが、気候変動や大気海洋汚染、人の心の荒廃などが問題視されるようになった。
 その反動として、エコロジーやマクロビオティックが世界中に流行ったり、最近では不食が話題になったりストイックな方向へのゆり戻し現象というのも確かに起こっている。

 これは振り子の両極なんだけど、この平面的な二元にメンタルな価値、「愛」という価値を考えると、この二元を越えた立体的ビジョンを得ることが出来る。立体というのは、ひとつ空間的に越えた点を設定することで、平面上の価値観を俯瞰して見、それらを超えることのできる意識の象徴だ。

 例えば、享楽主義と禁欲主義を平面上の二点に置き、それより高い位置に「愛」というポイントを置く。
 別に下でもかまわない。
 要は、それは別次元にあるということなのだ。

 享楽主義を南 禁欲主義を北
 科学を西 宗教を東 とすると
 「愛」というポイントは宇宙空間にあたるでしょう


 愛って何?って聴かれると困るけど

 くつろぐ感じ
 帰ってきた感じ
 ゆるむ感じ
 目の前が明るくなる感じ
 うん、うん、Ok、いいんだよという感じ
 広い感じ
 開けた感じ
 胸が熱くなる 切なくなる感じ
 大きくて泣きそうな感じ
 いつもは草の間を舞うわからないくらい小さな妖精に見えて 
 実はこの世界をすべて覆うような存在 女神 
 午後3時のお菓子に見えて 実はそれがないと生きていけない
 メインディッシュ

 そのような感じ

 を個人的には持っています。(僕がリアリティとして感じる限りの表現です。)

 この愛というメンタルなものが実はもっとも生命力を賦活するもののようです。
 言い換えれば、すべての問題は愛の欠如によるとも言える。

 愛のこもった行為があり 愛のない行為がある。
 心をこめてする行為と 自動的・習慣的 恐れに基づいた行為がある。
 だいたいが特に大人になると、習慣的に動いてしまうことが多くなる。
 習慣的にタバコを吸い、酒を飲む。
 それを好きなの?と言われると 多分多くの人はこう答える

 「別にそんなに好きじゃないよ。ただねーなんかないともの足りないっていうか、気持ち悪いっていうか、落ち着かないんだよねーストレスもあるし」

 そこにはあまり愛はない。愛のない行為。タバコやアルコール、砂糖などが体に悪い、もちろんそれもあるだろうけど、そのように何かにせかされてする行為自体が体に悪いとも言える。

 師匠にいつか言われたことだけど、タバコにもスピリットが宿っている。そもそもタバコはネイティブアメリカンの聖なる草だ。煙を吸いながらパイプを回してメンタルな契りを結ぶ。儀式のときに吸う。もともとは喫煙室の灰皿にたくさんねじ込まれたものとは似て非なるものだ。そこに宿るスピリットを無視した使い方が人を傷つけるという。
 おそらく化学物質だらけのコンビニで売ってるタバコでも、そこに宿る何かに感謝して吸う一本は特別な一服になるだろう。お酒にも、それの材料となる農作物の、酵母の意識が関係する。古来から人類を酔わせてきたアルコールというスピリットに感謝して飲む一杯は特別な一杯となるだろう。
 そういう一服や、一杯は きっと「むさぼる」ということはできないからだ。

 だから「愛」というポイントを設定すると、タバコを吸う・吸わないではなく、愛のある愛煙家もいるし、愛のない嫌煙家もいるということがわかる。それはタバコだけに限らず、肉類や、お酒や、テレビや、インターネットや、セックスや、ほぼあらゆることについて言えるのだ。

 自分が不純だと思うものをすべて切り捨てる、ストイシズム。
 それが間違ってるわけではないけど、そこに愛がないと自身が枯渇していく。
 あるいは、どういう意識でそれを行っているのか、片意地を張りすぎてないか、頑張りすぎてないかという自問が重要になる気がする。

 ひとつの基準は無理して、あるいは片意地を張りながらこの種のことをすると、かならず自分がやってないことを楽しんでしてる人に対してジャッジしたり、「おばかさんだなー」と上から目線になりやすいことだ。
 愛のある禁欲者なら他人の習慣に対して、ジャッジはしないだろう。
 おそらくラーマクリシュナが弟子に「そろそろタバコ吸ってきたら?」と言ったというような、そういう感じになる。
 あるいは「お前、タバコなんか吸ってんのか。やめろバカ、それ、も・う・ど・く、だぞ」となる可能性もある。

 ただどちらになったとしてもそれは彼らは自分の主義主張に基づいて、人に喋っているわけではないのだ。
 愛である自己に、喋らされてる、ってことなんだろう。
 基本的に、彼らにとっては習慣はどちらでもいいことだ。

 テレビも肉もスイーツもインターネットもセックスもゲームもタバコもアルコールも、それらすべてが大好きでも、あるいはそれらすべてを切り捨てていても、「愛」にとってはおそらくイコールなのだ。
 僕らの頭だけが、「差」を生もうとする。

 それよりも彼らは、本人が自分らしく無理をしていないこと(無理は大概恐れに基づいてますからね)、愛に生きているかを観る。そして彼らの主義主張ではなく、聞き手の「必要性」に応じてアドバイスする。

 僕にとっては5年ほど前にテレビを捨てたりしたのは、ある種自然な流れのように感じられ、あまり観たいという欲求もないけどもしかするとこの先CSが見たくて買う可能性もゼロではない。同じように夏が来たら、おいしいラーメン屋を食べ歩いたり自作ビールで飲んだくれてるかも(笑)情報から距離を置くという数年前の師匠のアドバイスは主義主張ではなく、僕の必要性に応じて与えられた気がする。それはひとりでに進化発展し、オリジナルの情報やメディアとの付き合い方が形成されつつある。

 「テレビを見てはならん」とか「肉を食ってはならん」というのは「愛」を知るものにとっては教義とするに価しない。
 むしろそれらへのこだわりが、不純物への恐れが、純化への渇愛が、愛を見えなくさせていることを知っている。
 
 愛に生きる存在は、不純物の中でも、彼らの認識によりある意味守られているのである。
 そして、それは
 不純物の中であっても、全く変わらずピュアであるというのは僕らの真の姿でもあるのだ。




 
知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/17 11:18

冬は断食の季節?



割とどうでもいい話だけど、僕は、あまり体につける化学製品を使わない。

  洗顔剤→使わない。(10年以上使ってない)

  ヘアワックス→使わない。(7,8年前に一度使ったキリ べたべたするのが気持ち悪い)

  ボディソープ→使わない。

  特に意識してそうなったわけではないけど、気がつけば、何年も化学製品で体を洗っていなかった。
  えーと10年くらい使ってません、泡のでるやつ。

  一応シャワーは毎日浴びる。
  でもお湯で体を流す、それ以上の必要性を感じず、自然と使わないようになった。

  もともと体臭がやや希薄というのもあるかもしれないけど。

  なーんつって実は僕が近づくとみんな鼻呼吸から口呼吸になってたら笑えますけどね~。
  
  あーハンドソープは使うかな。

  仕事上、手はよく洗います。

  トイレに行ったあとも手を洗うよ!(清潔さアピールが必死になってきたw)

  あとそんな僕でもさすがにシャンプーは使っている。(歯磨きも)
  このキューティクル至上主義のご時世。
  そしてハゲるくらいなら腹を切れというくらいの勢いの毛髪全体主義のこの時代。
  シャンプーを使わないこと、=死に等しい(言い過ぎか)

  しかしよく考えたら、頭以外の部分に洗剤的なものを使っていないのに、頭だけ念入りにあわ立てて必死に洗ってるって、そんなに俺の頭って体の中で一番汚いのか??という素朴な疑問が湧いてくる昨今。

これに関してマドモアゼル愛さんのブログが面白かった→×× シャンプー 歯磨き クリーム 化粧水

 これはシャンプーなしでどこまでいけるか実験にもいずれ着手せねばならないようだ。きらーん(メガネの光る音)

 まあよく思うことではあるけど、化粧品とか、ヘアケア製品のメーカー、あるいは製薬会社のメッセージというのは

 表向きは「さあ、私達の商品で、美しく、清潔に、そして健康になりたまえ!」だけどその裏側には

 「だって君たちは、私達の商品ナシでは、汚くて 臭くて 不健康なのだからね」というものがあるように思える場合がある。現にそういう汚さ、臭さをまずアピールするCMは多い。

 つまり肉体や生命はもともとは汚い。それをケアするには、化学製品が必要だ、という大前提があるような気がする。

 「肉体 生命 自然」 だけでは十分だけではなく、それ+科学の知恵が必要だという思想だ。

 断食や 情報断食 自然の中で暮らすことなどが いくら健康に貢献するとしても、それはビジネスのモデルにはなりにくい。なぜなら、それはあるものを取り込むことではなく、取り込むものをゼロにするという方向性のものだから。

 ゼロにするということで、生命自体の生命力を賦活しようとするものだからだ。

 ゼロのパワーが、マネーと、そして資本主義経済と結びつくのは至難の業かも。

 もっと多くを買い、もっと多くを食べるというそのビジネスモデルの前提では、何かを断つ事によって生命や心を純粋化する、何かを加えるまでもなくすでに完全なものとしてある生命力をリスペクトするというモデルは生まれにくい。

 だから逆に言うと、商業社会に生きるということは、商品なしでは不完全な存在だということを刷り込まれ生きることでもある。

 「買わぬものは 醜く 不健康だ」という暗黙のメッセージが心に刻まれざるを得ない。 

 でも一番すばらしいのは、間違いなくなにを加えるまでもない、人間そのもの、生命力そのものだ。

 赤ん坊には何もいらない。なにもなくても美しい。
 でもすぐにこのおむつがとか、ミルクがとかいろいろなものが寄ってくる。

 ボロキレだけをまとい、なおかつ神を悟り、超常的能力を発揮するヨーギもいる。

 例えばそのような人間は、とっても臭いかもしれないが、人間生命の潜在的能力を完全に開花させたその極の存在だ。

 その一方には あらゆる商品に囲まれ 清潔で キューティクルぴかぴかで 自らの可能性を忘れた現代人がいる。

 人間、肉体、生命力 もしも医療や体につける薬品を販売にすることに携わるひとなら、どうかそれらへの可能性と神聖さを信じ、無条件のリスペクトを忘れないでほしいと願わずにはいられない。

 まーそれはひとまず置いとくとして・・・

 なぜか去年くらいから冬になると小食とか、断食とかが気になるけどなんでだろうと思っていた。

 でも、自然界においては冬場は断食(ファスティング)の時期であるに違いない。 

 木の実もなく、草も枯れ、それをえさにする小動物、昆虫も減る。命の絶対数が減るということは、食料が減るということだ。

 野性の生命は冬季には低カロリーで生きるか、あるいは仮死状態・冬眠できるるように体が設計されている。

 そのような半分死んだ状態とか、省エネモードで春を待つのだ。

 だとすれば人間にも冬季には食を制限するようなプログラムが組み込まれていても不思議じゃない。

 きっと人間にとっても冬季にこれだけの、食料が手に入るというのはここ100年とか200年のことに違いない。それまでは冬場は野菜や肉類、魚などを塩漬けしたりして作った保存食で人は冬をしのいできた。 

 一年中野菜や肉が手に入ることにより、季節による食物の増減という感覚が完全に人間からは失われた。
 しかし、生命としての人間の中にはいまだその感覚が残っているような気がする。

 その原始的プログラムが僕にも、冬季にリトリートや節食をさせるのかなと思ったりする。

 確かに寒くていつもより動かないことにより食欲もそれほどじゃないというのもあるけど、それだけでもない。生命の記憶、太陽のめぐりや寒暖により刺激され起動するプログラム。。。そういうものかもしれない。

 まーあまり寒いからって動かなくても不調になるから、体動かしたりもするんだけど、原始的な生活においては冬季は人体も半冬眠だったのでは?と想像する。

 季節感覚はONとOFF、活動と休息のリズムとつながっている。
 冬でも寒さに負けず元気に動き回るのがいいという価値観は、冬でも食料が十分あるから言える事だ。 

 冬場動かず余計なことをせず、あまり食べないことにより自動的に浄化が行われていたという側面もありそうだ。

 普通生き物が眠る冬や真夜中にどれくらい活動するべきなのか、わからない、

 ゲーマーは夜通し起きていて、朝眠りにつく

 聖者は一晩中起きていて眠らない

 やはり人間は自然のリズムに沿うだけではすまない。それを超えることも、それからずれることもできる。

 しかし春を祝う喜びや、祭り、収穫の喜びは、このONとOFFのリズム感から生まれる。飢える事のない人間には生きる喜びも希薄だ。
 
 春を迎える喜びは、きっと原始においては冬を「生き延びられた」その喜びだったのだろう。

 人は自然に無意識になり、文明という不夜城だけに生きるようになった。

 そして不夜城はガイアを蝕んでいく。
 
 冬場には飢えと寒さを感じてみる。
 何も食べない 冷たい水を浴びる 日の出前に起きる あるいはシャンプーや歯磨き粉をしばらく使わない(笑)
 もしかするとそんな単純なことが生命力とつながるきっかけになる可能性もなくはないと思う。

 


 

 ↑抗がん剤を注射されたマウスのふたつのグループのうち、48時間絶食したマウスはすべて生き残り、普通の食事のマウスはすべて死亡した。絶食は化学療法からからだを守れるかの検証 35分30秒~

 これ本当ならかなりすごーい。

 ↓糖質を制限すると、うつや不眠が改善されやすいというデータ↓ 

  急激に血糖値をあげる食べ物は、その後急激に血糖値をさげる→不眠などの不調
  当たり前といえばそうだけど、夜のカップめんとか、炭水化物、あんまりよくないんですね。

 午後のあの眠気は血糖値が原因だった 心を蝕む低血糖症の怖さ


私的雑記 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/02/13 00:02

集中力の低下とスマホ・PCとの関係


 




 これは結構ガチですね~。

 YOUTUBEで動画再生中に次は何を見ようかと無意識に探してたり。

 意識が外側にだけ向かって内省的思考がなくなる。

 情報断食するとよくわかるような気がします。

 人としての尊厳を守るため、たまには情報機器すべてOFF!

 新たなタイプの情報端末もどんどん登場する

こういうのもあるんかー

 オキュラスリフトという3Dバーチャル体験装置でのMATRIX

 



 面白そうだけど、マジでマトリクスの世界が来そうでやや怖し

 つけてる人をよこで見るのも楽しそうだ。これ、マスターの立ち位置?(笑



知覚、リアリティetc | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/02/08 20:47
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